北海道編
北海道は広い
★878北海道限定発売のサッポロクラシックビールがうまい(2026/04/27掲載)
▽初めて飲んだこのビールが忘れず、今でも機会があれば購入して、飲み続けている。それがサッポロビールが製造販売する「サッポロクラシック」だ。北海道限定発売。こんなうまいビールは、他にない。そう断言できる。
▽私が北海道新聞記者時代の1985年に発売された。ふと手にした瓶ビールを買って自宅で飲んだ。そののどごしのうまさ、さわやかさ。
「うまい!」
と思わず叫んでしまった。
▽それ以来、私はこの「サッポロクラシック」に虜になった。ビールと言えば、この「サッポロクラシック」になった。キリンビールでも、アサヒビールでもなかった。
▽この「サッポロクラシック」の発売からしばらくして、アサヒビールは「スーパードライ」を販売するようになったが、ビール好きの私にとって、あんなものはビールではない。舌を刺激しただけの味に過ぎない。このことは漫画「美味しんぼ」の作者が漫画の中で指摘している。私はスーパードライはほとんど飲まない。「サッポロクラシック」の味を知ってしまえば、「スーパードライ」など飲む気にならない。「スーパードライ」が売れたのは、飲食店にキャンペーンとして安く提供していたからだ。決してうまいわけではない。
▽「サッポロクラシック」は北海道ではどのスーパーでも酒屋でも売っていたため、自由に飲めた。仕事が終わっての楽しみだった。コップに注いで、グッと飲む。うまかった。
▽しかし私が北海道新聞を辞めて、朝日新聞に転職してからは、しばらくは全く手にすることが出来ず、北海道に遊びに行った時だけ、飲むようになった。年に1回の楽しみになっていた。
▽サッポロビールのホームページにはこうある。
《北海道とともに、歩んできた歴史
北海道への感謝のビールとして、1985年に誕生したクラシック。ふるさとのためにおいしいビールをつくり続けるという想いを込め、当時の缶には、札幌にあったサッポロビールの工場がデザインされています。これからも、クラシックはここにしかないおいしさをお届けしていきます》
▽それから何年もたった時だった、新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時、たまたま寄ったスーパーに、この「サッポロクラシック」が売られていたのだ。北海道限定発売なのに、こんな場所で売っているなんて。驚いて、ケース買いをした。
▽その後も転勤先のスーパーで、時折売られていることを知り、私は見つければケース買いをするようになった。
▽朝日新聞を退職した今でも、北海道のアンテナショップ「どさんこ」では、この「サッポロクラシック」が売られており、真っ先に買ってしまう。
▽北海道に遊びに行く時はJR札幌駅の地下街か、ビール工場に行き、このビールを飲む。もちろんジンギスカンとも相性が良い。
▽ビールが好きな皆さん。一度このビールを飲んでください。他のメーカーにこんなにうまいビールはありません。
★870北海道小樽市に新幹線が通ってもしらける地元(2026/04/15掲載)
▽東北新幹線の延伸で、函館まで新幹線が通るようになり、札幌までの北海道新幹線の完成が現実味を帯びてきた。札幌駅では工事も始まっている。しかし、北海道新幹線ルートの一つである小樽市では、「今さら新幹線なんて」という声も聞かれるのだ。市民の多くはしらけている。
▽私は1981年4月から3年半、北海道新聞小樽報道部で勤務していた。既にその着任以前から、北海道新幹線誘致の期成同盟ができて、市内のどの場所に新幹線の新駅が出来るのか、ちょっとした論争になっていた。ここでなければ、あちらでもない。あっちでなければ、こっちだというように。駅の設置場所は何回も何回も変わり、そうした記事が北海道新聞小樽版に何回も何回も掲載されていた。すぐにでも北海道新幹線が開通するような紙面扱いだった。関係者の多くが、新幹線開通を相当期待していたようなのだ。
▽しかしそれからもう40年以上が経過し、当時の熱意は全くない。私が赴任したときの小樽市の人口は18万人だったが、この40年間で人口が次第に減り、人口10万に減少した。かつては北海道の経済都市としてもてはやされたが、今は斜陽化が進み、単なる地方都市になってしまったのだ。少子化で高齢者人口の割合が多くなっている。
▽こうした中で北海道新幹線の建設の着手が進められた。
▽鉄道・運輸機構のホームページにはこう説明されている。
《北海道新幹線は、函館市・小樽市付近を経由して札幌市に至る路線です。 現在は新函館北斗・札幌間の整備を行っています。
新函館北斗・札幌間の線路延長は約212kmであり、平成24年6月に工事実施計画の認可を受け、新青森・新函館北斗間の開業から概ね20年後の完成を予定して工事に着手しました。
平成27年1月の政府・与党申合せにおいて、沿線地方公共団体の最大限の取組を前提に、5年前倒しし令和12年度末(2030年度末)の完成を目指すこととされましたが、想定を上回る地質不良や巨大な岩塊の出現などにより、令和12年度末(2030年度末)の完成・開業は極めて困難であると判断した旨を令和6年5月に国土交通大臣へ報告しました。
その後、国土交通省による有識者会議で議論が行われ、
発現の蓋然性が高いリスク等を前提とした場合、現時点では、完成・開業は概ね2038年度末頃の見込み。
特に工程への影響が大きい更なるリスクが発現した場合、さらに数年単位で遅れる可能性。
現時点の開業見通しには相当程度の不確実性が残るため、トンネルの貫通に一定の目途が立った段階で、改めて全体工程を精査し、開業時期を定めることが適切。
との検討結果が令和7年3月に公表されています》
▽そして新駅はこう列記している。
《新函館北斗、新八雲(仮称)、長万部、倶知安、新小樽(仮称)、札幌》
▽しかし、仮に小樽に新幹線新駅ができたとしても、予定では、小樽市奥沢というかなり山奥の場所なのだ。JR小樽駅から車で約20分もかかり、遠い場所だ。車かバスで行くしかなく、いわゆるアクセス鉄道も予定されていない。辺鄙な場所に新幹線新駅を造っても、小樽市民はだれも利用することができないのだ。
▽仮に小樽にその新幹線新駅ができたとしても、1日に数本、新幹線が停車するしかないだけだろう。乗降客はほとんどいない。市民が札幌に行きたいなら、JR小樽駅から函館線に乗るか、高速バスを利用すればいいだけ。小樽・札幌間を新幹線を使うのは、時間の無駄、金の無駄となる。
▽北海道新幹線の札幌延伸で何が潤うのだろうか。JR北海道は、赤字経営体質に陥っており、稼ぎどころは函館線など一部の幹線鉄道だけだ。新千歳空港と札幌駅、小樽駅を結ぶ快速エアポートぐらいが、稼ぎ頭だ。
▽この北海道新幹線の開通で、飛行機客が、新幹線に移るのだろうか。
▽しかも、北海道新幹線の札幌延伸で問題になるのが、在来線の分離経営だ。つまり函館線が経営分離されて、JR経営でなくなる可能性が高い。となると、小樽市民は、小樽・札幌間を走る第三セクターのローカル線を使うことになるのだろうか。小樽市民がしらけているのは、これで分かるだろう。
▽私は毎年夏になると、小樽に遊びに行くから、市民の考えはよく分かる。市民はしらけているだけだ。新幹線が出来ても、だれも喜ばない。半世紀前とは違う。
▽北海道新幹線を推進する関係者たちは「九州にも新幹線が延伸しているのだから、北海道にも」という論理で熱い視線を送っているが、果たして北海道新幹線は北海道内にどんな効果をもたらすのか。疑問が尽きない。
★830冬の札幌でのジョギングで見た赤い日の出(2026/02/13掲載)
▽私は転勤族で、特に雪国での赴任地が多かったため、冬の間、日課としていた朝のジョギングでは服装や道具に気を使った。特に札幌市での朝は、ジョギングコースが圧雪やアイスバーン状態になってきて、滑って転倒しないための工夫も必要だった。
▽冬の札幌のジョギングは重装備だった。ウインドウブレーカー上下を着て、これにスノートレ、帽子、手袋などを着用した。
▽雪道のため、通常のランニングシューズが使えない。このため、雪山のトレーニングに使うスノートレをランニングシューズとして使っていた。それでもアイスバーンなどで滑るから、靴屋に頼んで、スノートレの底にスパイクピンを打ってもらい、滑らない工夫をした。既に利用が禁止されていたスパイクタイヤのスパイクピンのようなもので、4〜6本ほど底に打ってもらい、それを使っていた。
▽使っていたジョギングコースは、かつての国鉄の千歳線が走っていたコースで、東札幌から厚別に抜けるサイクリングロードであった。他の道路と交わる交差点が一切なく、立体交差となっており、通過交通のためランニングを止めるということもない、絶好のコースだった。このため、その分アップダウンが結構あり、疲労感も増した。
▽このサイクリングロードは、出勤を急ぐサラリーマンが結構利用しているコースだった。雪が降ると雪が踏み固められて圧雪状態になる。そこを走るのだ。圧雪状態で走ると、どうしても滑りやすくなる。かなり足や腰に負担がかかって、膝などの怪我をしたこともある。それでも走った。気温は零下5度から寒い時は零下10度にもなっていた。30分ぐらい走ると、頭にかぶっていた帽子が汗で濡れて、そしてそれがつららとなって、細いつららが帽子にできるのだ。そんな状態で走っていた。
▽にしてもあんなアップダウンの雪道を走って来たなんて、今では考えられない。まだ少し若かったためだろう。
▽毎日のように走っていたから、自転車の若い女性に後ろからの追い抜き際に声をかけられたこともある。
「随分速くなりましたね」
「私はこれからトライアスロンの試合なんです」
▽こんな言葉をかけられて、うれしかった。励みになった。すれ違うジョガーは何人もいた。
▽そして、忘れられないのが30分走ってサイクリングロードをターンする時に、見ることができた赤い日の出だった。赤くてまん丸で周囲の雪景色と好対照をなして美しかった。その日の出が忘れられない。
▽札幌のサイクリングロードで走り続けたジョギングの体験は今でも忘れられない。
★828新千歳空港とJR空港駅、そして快速エアポート(2026/02/11掲載)
▽私は北海道新聞記者として7年間勤務したほか、朝日新聞に転職してからは一度北海道報道部にも2年半勤務していたから、記者生活の4分の1は北海道で過ごしていたことになる。しかし北海道を離れても、毎年最低1回は北海道に遊びに行っている。だから、北海道の空の玄関である新千歳空港と、JR北海道の接続駅である新千歳空港駅は、もう何回利用してきたことか。100~200回は利用している計算だ。
▽現在の新千歳空港は北海道千歳市と苫小牧市にまたがって所在している、札幌圏の主要空港だ。1988年に開港し、それまでの千歳空港は、千歳飛行場(航空自衛隊 千歳基地)として現在も機能している。札幌市内にはこの新千歳空港とは別に道内の空路を結ぶ丘珠空港がある。
▽夏の季節に東京から空路、新千歳空港に降りると、北海道のすがすがしい空気が空港に漂うのを感じる。暑くても湿度が低く、夏の北海道を一気に満喫できる。冬の季節になると、「北国に来た」と肌に刺す北海道の寒さを一気に感じる。これが新千歳空港だ。
▽そして札幌に行く場合、JRの接続駅である新千歳空港駅に行く。ネットでも紹介されているように、日本国内で最北・最東の空港直結駅であるとともに、日本国内で最も東にある地下駅でもある。
▽ここから快速電車「エアポート」に乗り込む。冬の季節だと、エアポートの車体には、雪が付着し、風雪の中を走ってきたことが一目で分かる。いかにも北海道の鉄道らしい。
▽エアポートは在来線最速の時速140キロ走行(当時)で、札幌を経由して小樽駅まで結ぶ。
▽何回も何回もこの快速エアポートに乗ってきたが、実に快適な乗り物だ。速度も申し分なく速いし、新札幌駅からは高架線になっており、踏切事故の心配もない。札幌駅を過ぎて、小樽市の銭函駅を過ぎれば、右手には日本海の石狩湾が広がってくる。そして小樽港が見えてくる。かつて大ヒットした東京ロマンチカの歌謡曲「小樽のひとよ」が鼻歌に出てきそうだ。
▽この新千歳空港駅と千歳空港駅(現南千歳駅)間は、盲腸線となっていて、JR北海道が千歳空港駅 -新千歳空港間2.5キロの事業免許を運輸大臣に申請、国鉄の分割・民営化後JRグループでは初の新線建設申請となった。この支線運賃に140円の加算運賃を運輸省に申請しており、この区間だけ特別運賃となった。2019年9月までの加算運賃は設備投資額などの回収が順調なため経営再建を目的とした運賃改定に合わせ引き下げられた。長い間、高い料金を利用者は支払い続けていた形だ。
▽それでも利用者が減らないのは、平行で運行されているバスより到着時間が速く、安定性があるためだ。私自身、バスも何回か利用したが、快速エアポートの快適さは捨てがたいと感じる。特に冬になると、北海道では道路には雪が積もり、除雪、排雪が毎日間に合わないない事態も出てくる。鉄道ならではの快適さはない。
▽とここまで新千歳空港と快速エアポートの話を書いたのは、JR北海道が、この幹線ルートを今後どう位置づけていくか、先が読めないためだ。北海道新幹線の延伸で新幹線札幌駅が開業した場合、飛行機利用者が新幹線に移行するのか。移行した場合の快速エアポートはどうなるのか。
▽JR北海道のドル箱路線だけに気になるのだ。
▽ちなみに私は朝日新聞北海道報道部時代、JR北海道を1年間担当した。
★825初めての北海道の冬で経験した戸惑いと驚き(2026/02/06掲載)
▽東京で生まれ育った私が初めて北海道の冬を迎えた時、すべてのものが新鮮で、驚きの連続だった。戸惑いも多かった。暖房器具や服装、風景などに戸惑いながら初めての冬を過ごした。
▽1981年4月に私は北海道新聞に入社した。配属されたのは小樽支社報道部だ。支社は小樽駅近くにあり、私はその小樽駅からバスで15分の最上地区というところで、一軒家の2階の下宿を借りていた。
▽初めての冬はまず、ストーブを設置する必要があった。家電店で、大型灯油ストーブを買い、下宿先まで運んでもらった。しかし、取り付け方法がわからない。その話を聞いた取材先の小樽署刑事1課強行班の知り合いの刑事が、私の下宿に尋ねてきてくれて、ストーブを設置してくれた。今思えば、本当にお世話になったと思う。東京の人間にとってはかなり大きなストーブで、煙突をつけて、燃焼して発生した二酸化炭素を外部に排出する仕組みになっていた。全く私にはわからなかった。この煙突を設置することで、下宿先は密閉状態になっても、二酸化炭素中毒にはならずに済んだのだ。
▽さらにストーブには灯油タンクが必要だった。灯油タンクも100〜200リットルの大型のもので、頻繁に灯油を入れる必要はないものだった。ガソリンスタンドの業者に依頼し灯油を入れてもらった。こうして初めての冬はこの大型ストーブで寒さを乗り切った。
▽下宿先の水道管が凍るという事態も初めて経験した。北海道の冬は毎日のように氷点下の気温に下がり、水道管が凍ってしまう。このため、水道管を凍らせないために、水抜き作業をする必要があった。しかし、私はそれを知らずにいた。だれも教えてくれなかった。気づいたら、ある日の朝、水が出ないことに気づいた。水道管が凍っていた。水道管が膨張していて、室温が上がると水漏れを起こしていた。こんな事態を初めて冬に2回も経験した。水道管を交換する必要があり、業者を呼んだ。情けない話だが、周囲に北海道の生活を指導してくれる人など全くいなかったための事態だった。
▽服装にも戸惑った。現地では男女とも長靴かブーツを履いていたのだ。私はそれまでブーツなど履いたことはなく、靴屋でブーツを買って履いた。ブーツにもいろいろあって、雨や雪を内部に染みこませないブーツもあれば、染み込んでくるブーツもあった。ブーツ選びにも苦労した。当時はアポロシューズと言って、防水防雪の分厚いブーツもあった。
▽小樽市には天狗山スキー場という地元で有名なスキー場があった。私は友人に誘われてスキー道具一式を生まれて初めて買って、生まれて初めてスキー場に乗り込んだ。しかし初めて乗ったリフトで転落してしまい、その場でスキーをすることはやめた。それ以来、私はずっとスキーなどやっていない。
▽小樽は雪が多い街として知られ、雪かきも朝の日課だった。スノーダンプを買って、下宿前の道路の雪かきをした。
▽通常の取材ではタクシーを使っていたが、しばらくしてマイカーを買ったために、冬タイヤを装着するということも初体験にした。当時はスタッドレスタイヤだけではなく、スパイクタイヤも併用していたので、秋から冬にかけて、夏タイヤからスタッドレスタイヤに交換し、さらには冬になってスパイクタイヤに履き替え、春近くになると再びスタッドレスタイヤにして、雪が溶けたら夏タイヤに戻すという作業をこなしていた。一冬に4回もタイヤを交換することが続いた。これも生まれて初めてのことだった。
▽雪が降って溶けて、降って溶けてを繰り返すと道路はアイスバーン状態となる。最近はアイスバーンだけではなく、ブラックアイスバーンと呼んでいるニュースも多いが、このアイスバーン状態では歩行で滑りやすくなる。なるべくアイスバーンの部分を歩かないように避けていたが、それでもアイスバーンの上を歩く時はそろそろと歩幅を小さくして歩き、すべらない努力をした。それでも滑る人は多く、大怪我をした人間もいた。
▽道路に積もった雪を除排雪する作業も生まれて初めて見た。除雪とは雪をかけ分けること。排雪とはトラックで雪を持っていくことだ。この除雪と排雪の区別も、東京生まれの私には初めての経験だった。雪はゴミでしかないのだ。
▽週に一度の警察署の夜勤で、午前1時半に解放されるとタクシーで下宿に帰った。その時下宿前に雪が積もってしまい、あと数メートルで玄関にたどり着くのに、なかなかたどり着かない経験もした。
▽初めての北海道の冬は新鮮さと驚きでいっぱいだった。東京の人間にはわからない苦労が、現地にはあることもよくわかった。今では懐かしい思い出だ。
★818豪雪による新千歳空港の悲劇(2026/01/28掲載)
▽豪雪のため、北海道千歳市の新千歳空港の利用者ら7000人が身動きできなくなり、多くの人が空港内で一夜を過ごしたというニュースがあった(2026年1月26日)。7000人も閉じ込められるのは、異例の状態で、豪雪関連ニュースとしては1面トップに匹敵する記事だと思ったが、朝日新聞は全国版で一切報じなかった。どうしてなのだろうか。
▽新千歳空港は苫小牧市寄りにあり、札幌市からやや離れた場所にある。電車もバスも止まってしまえば、陸の孤島になる。JR北海道の場合、南千歳から盲腸線が枝分かれしていて、新千歳空港ターミナルには1本のレールが繋がっているだけだ。豪雪で快速エアポートが走ることが出来なくなれば、利用者はバスに乗るかタクシーに乗るしかない。
▽しかも、ニュースでは臨時バスが札幌・大谷地駅までしか出ておらず、そこから市営地下鉄東西線に乗っても。大通駅で乗り換えて、さらに南北線で札幌に行くしかない。かなりの時間がかかる。
▽今回の現象はまさに陸の孤島で起きた災害だった。
▽以下はネットにアップされた民放のニュースだ。
《記録的な大雪の影響で北海道の新千歳空港では、札幌市を結ぶJRやバスが運休したため、移動できなくなった乗客らおよそ7000人が現在も足止めされた。
新千歳空港では、25日の大雪の影響で、札幌に向かう快速エアポートや連絡バスが運休。空港から移動できなくなった多くの人が取り残された。
北海道エアポートによると、およそ7000人が一夜を明かしたという。
足止めされた人:
まったく足がない、全部止まってて。ほとんど寝れてない。
航空機は始発から運行しているが、空港と札幌を結ぶバスが道路状況が悪く、引き続き運休。JRも札幌圏を中心に列車405本が運休するなどしていて、除雪作業のため少なくとも午後1時ごろまでは運転できない見込みだ。
新千歳空港では、身動きがとれない多くの客で混雑している。
大寒波による大雪はピークを越えたが、各地で記録的な積雪となっている。木曜日には再び寒波の予想で、日本海側ではさらなる大雪に注意が必要だ》
(「Live News days」1月26日放送より)
▽私は計10年近く北海道に勤務していたが、豪雪で新千歳空港から飛行機が飛べなくなったり、着陸できなくなったりする事態は数年に一度あった。しかし、今年のように7000人もの乗客らが閉じ込められるのは異例のニュースだ。
▽テレビニュースによれば、寝る場所を確保することもできない乗客もいたと言い、建物の中はかなり狭かったはずだ。
▽仕方ないと諦めているだけなのだろうか。
▽新千歳空港は道内の各空港を結ぶハブ空港でもあり、全国の空港を結ぶ主要空港でもある。そして国際空港でもある。
▽こうした豪雪に対して、根本的な対策を考えてもらわないとまた同じようなことが起きる。
▽今回の豪雪で新たに浮き彫りになったのは、新千歳空港が豪雪によって陸の孤島となり、利用者は身動きも取れなくなると言うことだった。
▽国も道そして千歳市もそして航空会社も、このことを充分肝に命じて、対策を立ててもらいたいと思う。
▽そして、だ。なぜ朝日新聞がこのニュースを全国版で伝えなかったかという疑問だ。現地の支局を廃止したためか。記者がいなかったためか。総選挙公示前で紙面がなかったのだろうか。
★811JR北海道の振り子特急の光と影(2026/01/19掲載)
《今から8年前の1994年3月1日、札幌と函館を結ぶJR函館線に、JR関係者の期待を背負った列車がデビューした。鉄道高速化の時代要請を受けて、ディーゼル列車では無理だとされた「振り子」システムを導入し、在来線最速の130走行を可能にした「281系」列車。3時間で両都市を結ぶ「スーパー北斗」の衝撃的な誕生だった》
▽こんな書き出しの新聞原稿を私は朝日新聞北海道版に書いた。2002年9月のころだ。当時私は朝日新聞北海道報道部に勤務しており、JR北海道を担当していた。
▽欧州で先駆けて開発された振り子列車の原理は、カーブ走行時に列車の車体を傾けて、遠心力を打ち消し、減速することなく高速走行を可能にするシステム。大きく分けて、自然振り子方式と強制振り子式がある。カーブの多いJR北海道の路線でも、導入の検討が始まった。
▽だが大きな課題があった。非電化区間を走るディーゼルカーでは動力構造上、振り子システムは相反する構造になっており、導入に元々無理があった。
▽そんな時にJR北海道の技術陣を驚かせたのが、JR四国が世界に先駆けて、ディーゼルカーによる振り子列車の試作車を完成させた、というニュースだった。
▽本によると、助言を求められて、JR四国の幹部はこう言ったそうだ。「お前さんの所には、うちにない大雪がある。うまくいくか」。パウダースノーと呼ばれる北海道特有の付着する雪対策。そして冠雪したレールの上で、ブレーキは可能なのか。システムの開発も必要だった。JR北海道技術陣の試行錯誤が始まった。
▽新車両の開発を決定してから、試作車を作り、走行テストを繰り返した。
▽一方で、開発を指揮した幹部には、無念の思いもあった。普通列車の踏切事故だった。タンクローリーと普通列車が衝突し、数十人の乗客がけがをし、ようやく助けられた運転士は両足を切断した。運転士は病室でかすかな声を出して、「足の下の方が軽い気がする。見てくれないか」と言うのを聞いた。当時、運輸部長だった幹部は言う。「もう無念で仕方なかった」
▽この思いが、振り子列車の中でも生きた。「高運転台」の設計だった。先頭車両の通路の上にコックピットを置いて、運転士を事故から守る設計にしたのだ。
▽そしてこのプロジェクトを支えたJR北海道の技術陣が、苦悩と困難を乗り越えて開発にこぎ着けるまでを書かれた本が、当時関係者の評判を呼んでいた。フリーライターやカメラマンらが集団で出版した「北海道を駆ける特急列車」(学習研究社)。この中で記された「北海道振り子列車▽プロジェクトにかけた男たち」が話題の物語だ。
▽振り子システムや雪、ブレーキ対策など独自の振り子列車を開発した過程を、本の中ではインタビューを交えて詳細に綴られている。情熱を傾けた技術陣の顔ぶれも、写真で随所に掲載され、記録集にもなっている。
▽
▽その振り子特急に私は何回も乗っている。
▽帯広市からの出張帰りでは、こんなことを私は自分の日記に書いていた。
《新夕張駅手前の待合い線で上下特急の待ち合わせがあった。相手も「FURIKO」。振り子特急である。
▽この一年間、JR北海道を担当して誇りに思う。
▽安全問題も、直接担当したことで、堂々とものが言えるようになった。これは大きい。
▽走り出して正確に一時間半たった。新夕張駅に到着した》
《新夕張を出てから、この列車、おもしろいように振り子を駆使して振って走っていく。車窓が斜めになって、北海道の大地が変化する。走れ。走れ。そして走れ》
▽しかし成功だけではなかった。札幌と函館を結ぶスーパー北斗がエンジン故障を起こしている。2003年3月のことだ。
《JR函館線国縫・北豊津駅間でスーパー北斗がエンジントラブルと見られる故障で立ち往生した事故は、故障車両が道内の高速鉄道ネットワークを支えてきた技術開発だっただけに、同社は原因の調査と再発防止策に全力を挙げる。
▽同社の調べによると、スーパー北斗6号全7両のうちの1両が、エンジン近くのヒューズ管で故障を起こし、全車両が運行不能になった。このため2時間半にわたって立ち往生し、応援列車に牽引されて国縫駅に収容された》
《事故を起こしたスーパー北斗は、1994年3月1日、札幌と函館を結ぶJRでデビューした。ディーゼル列車では無理だとされた「振り子」システムを導入し、在来線最速の130キロ走行を可能にした「281系」車両だ。
▽この「281系」列車をベースに改良したのが、「283系」という車両で、スーパーおおぞらだ。札幌・釧路を走り出した。さらには「261系」車両を開発し、スーパー宗谷として2000年3月から走らせている。この3種類の列車開発で、道内の高速鉄道網はほぼ完成した、と同社は説明している》
▽その後、2011年5月には、北海道石勝線でスーパーおおぞらがトンネル内で脱線し車両が炎上する大規模な事故が発生し、車両が全焼し運転士の負傷、乗客の避難と、大きな被害が出た。出火原因は車輪の劣化による脱線が直接原因で、その後車両火災に繋がったとされた。
▽振り子特急の光と影である。
★794北海道新聞に入社した記者同期は16人だった(2025/12/22掲載)
▽私が新聞業界に入ったのは、1981年4月だ。たまたま試験で合格した北海道新聞社に入社した。その入社前後の話を記したい。
▽4月1日の入社式に合わせて、私は小旅行を兼ねて千葉県柏市の実家を2、3日前に出た。電車でまずは群馬県前橋市に行き、友人と会った後、ホテルに宿泊。翌日には新潟に行き、先に朝日新聞に入社していた大学時代の同僚と酒を飲み、そこでも1泊した。翌日、日本海フェリーで新潟港から北海道小樽市の小樽港に入った。そして電車で北海道新聞本社がある札幌市に入った。
▽入社式に続いて、2週間の研修があり、北海道新聞が所有している「北八寮」での生活が始まった。北大の近くにあり、周囲はまだ残雪が少し残っていた。
▽記者として入社した同期は16人だった。2週間、研修を受けた。そして、研修の最終日に、それぞれの配属が言い渡された。私は小樽支社報道部に配属された。同期には旭川支社に2人、函館社に2人、釧路支社にも2人赴任した。そのほか、苫小牧支社や帯広支社、室蘭支社にも1人ずつ配属された。また本社にも残る人間もいた。
▽私は北海道に来たのだから、一番遠いところを希望を持っていたが、それは叶わなかった。小樽は札幌から函館線で約1時間の場所。札幌から近いのだ。
▽2週間の研修を終えて、16人はそれぞれバラバラに赴任していった。16人の中には女性記者が1人だけいた。彼女は本社に残った。
▽研修が終わるまで、赴任先を知らされていなかったから、私たちは、着の身着のままの服装で赴任した。私が持ってきたのは、スーツやジーパンなどの着替えが少し、筆記道具、そして事前に用意した一眼レフのカメラぐらいだった。財布にはアルバイトで貯めた10万円ぐらいの金を持っていたと思う。現在のように、入社前に赴任先がわかっていたら、借りるべきマンションやアパートも事前に契約をしていたが、そんなことはできなかったのだ。
▽赴任した小樽支社では、1週間近く、支社3階の和室で寝泊まりした。その間、営業部の女性社員が借りるアパートや下宿など不動産を探してきて、3軒提供してくれた。この家の1軒、一軒家の2階部分を借りる下宿を選んだ。
▽着替えぐらいしか持ってこなかったため、生活道具は全くなかった。休みになると食器やガスコンロ、着替えなどを買って、少しずつ家具を揃えていった。
▽次第に仕事も忙しくなり、厳しい先輩たちの指導で、耐え抜く日々が続いた。
▽同期はどうしているんだろうと思うことがあったが、当時は携帯電話もなく電話する余裕もなかった。早くも2人が辞めていた。
▽その後私は小樽支社報道部から江別支局に転勤になり、さらに札幌の本社に転勤になった。北海道新聞は7年間勤務し、私は朝日新聞に転職した。同じころ、やはり同業他社に転職した同期もいてた。
▽その後一部の人間とは時折電話をし、年賀状も交換していたが、多くの人間とは連絡を取れなかった。私も忙しくて、かつての同期と連絡することすら忘れていた。
▽しかし私が何回かの転勤で、朝日新聞北海道報道部に転勤した時だ。私が北海道新聞に入社した1981年に夕張市の北炭夕張新鉱夕張振興ガス突出ガス爆発事故で93人が犠牲になった第3次から25年がたち、私は積極的にこの取材を進めていた。その時知ったのが、北海道新聞夕張支局に赴任していたのが、私の北海道新聞同期で唯一の女性記者だった。支局長になっていた。懐かしさがあり、現地でよく酒を飲んだ。
▽同期の多くは社会部デスクや編集委員や論説委員、編集幹部に出世していた。そうか、僕以外はみんな頑張ってるな、と思った。
▽そして最近の話。同期の1人で社長、そして会長になった人間が亡くなった。今年(2025年)5月だった。年末の12月にもまた一人亡くなった。その訃報を聞いて、入社からもう40年以上が経過したことを我ながら思った。
▽私にとって7年間の北海道新聞社時代は貴重な7年間だと今でも思っている。
★770寒冷地にあるが、首都圏では見ることが出来ないものとは(2025/11/18掲載)
▽寒冷地や雪国では見ることができるが、首都圏では見ることができないものは何か。それは長靴に建物や民家の二重窓、排気口のあるストーブ、そしてスタッドレスタイヤやスノーダンプだろうか。
▽私は新聞業界に入って40年間、多くを寒冷地や雪国の支局や報道部で働いてきた。もともと東京生まれだったら、初めての雪国の生活で驚いたこともあるし、感心したこともある。
▽その一つがストーブだった。各家庭の灯油ストーブには排気口が付いていて、灯油ストーブから出た二酸化炭素はその排気口と煙突を伝わって、屋外に排出されるのだ。各家庭には長い煙突が設置されていて、それに繋がった煙突から二酸化炭素を排出している。だから、自宅に二酸化炭素は溜まらないし、空気の入れ替えなども全くしない。初めて北海道で勤務した時、これには感心した。これに比べると、首都圏で灯油ストーブを使う場合、1〜2時間に1回、空気の入れ換えをしないとならない。北海道の民家は優れたストーブを使っている。
▽各家庭の自宅の窓もそうだ。北海道の自宅は一軒家もマンションも含め、すべての窓が二重窓なのだ。寒さをしのぐためだ。
▽これに対して首都圏を含めた関東地方では、そうした二重窓を設置した民家をほとんど見たことがない。だから関東の自宅の方が寒いと感じることがある。北海道の自宅は二重窓で、しかもストーブのために空気の入れ換えをしないため、自宅内はいつも温かかった。屋内にいる限り寒さは感じなかったのだ。
▽毎日外出で履く靴もそうだった。北海道では多くの男女がブーツを履いているが、靴の裏底は雪の滑り止めが付いていたり、雪道をグリップするなどして、工夫のある造りをしている。雪道で滑らないためだ。関東地方の靴屋で売っている物だと、そうした仕様がないから、雪道で滑りやすい。
▽新潟県上越市では湿った雪が多いために、男女はみんな長靴を履いていた。雪が溶けてしまい、男子の場合はズボンも濡れるからブーツなど履けなかった。みんな長靴を履いていた。これが首都圏だったら、見栄もあって長靴を履いているサラリーマンはいない。だから関東圏で雪が降るとズボンがよく濡れるのだ。
▽車の冬タイヤもそうだ。スタッドレスタイヤは雪国には欠かせない。しかし首都圏の人間は冬タイヤなど用意してない人が多いから、雪が降っても夏タイヤのまま運転する輩がいる。「大丈夫だろう」という根拠のない自信で、車を運転するからスリップ事故を起こしやすい。
▽私が新潟県上越市の新聞新聞上越支局で新車に買い換えた時、夏だったのに、車のディーラーは当然のごとく、スタッドレスタイヤの購入も併せて売ってきた。当然の行為だ。スタッドレスタイヤがないと冬の雪国は暮らせないからだ。首都圏はそうしたサービスも売り込みもない。
▽さらに言うと、夏になれば、こうしたスタッドレスタイヤは専用の物置に置く。マンションでも民家でもこうしたタイヤを置く保管する場所がきちんと用意されている。首都圏にはそうしたスペースもない。
▽そのほか、雪国のドライバーが必ず持っているスノーブラシやスノーダンプも、首都圏の人間は持っていない。雪が降ったら、マイカーの周囲を除雪するのにはスノーダンプが必要だし、出先で雪が降っていたら、車からスノーブラシを取り出して、車の雪を払う。当然の道具が、首都圏では準備されていない。
▽首都圏で雪が降ると交通マヒに陥るのは当然だと思ってしまう。首都圏を含む関東地方でも雪があるのに、その体制が整っていない。
★730ザンギとジンギスカン、サカナ料理がうまかった北海道時代(2025/09/23掲載)
▽北海道で料理と言えば、ジンギスカンに魚料理、そしてザンギだ。私は北海道新聞に7年間勤め、さらに朝日新聞でも北海道支社報道部に2年半勤務していたから、北海道の料理はほぼ食べ尽くしている。その中で、やはりうまいものと言えば、ジンギスカンに魚料理、そしてザンギだった。さてこのザンギとは何をさすのかご存知だろうか。
▽ザンギとは北海道で使われている言葉で、唐揚げのことを指す。通常は鶏の唐揚げのことをザンギと言う。タコのザンギと言うのは本州で言えばタコの唐揚げだ。
▽私は北海道新聞社に入社して以来、このザンギという言葉が不思議で仕方なかった。東京で生まれ、千葉県で育った私にとって鳥の唐揚げは大好物の一つで、ビールのつまみにもなったのでよく食った。それが北海道に移住すると、唐揚げという言葉がなく、ザンギという言葉が使われていた。
▽居酒屋に入り、メニューを見ても唐揚げという言葉はない。ザンギだった。
▽このザンギという言葉の由来を調べたが、結局わからなかった。常識的には唐揚げ、イコール、ザンギなのだが、言葉の由来も分からず、知らないで、ずっとザンギを注文していた。そして、いつしか、私もザンギ、ザンギ、と言うようになっていた。
▽ジンギスカンにしても不思議な食べ物だった。羊の肉をばらして再び丸めて固めて、スライスする。これがジンギスカン料理で使う、ラム肉だ。これを専門の鉄板で焼いていくのだが、付け合わせの野菜はモヤシだったり、タマネギだったり、ニンジンだったりする。この食べ方もいろいろな方法があって、いきなり肉と野菜を一緒に焼く方法や、野菜だけを先に敷いて、その上にラム肉を乗せて蒸し焼きにする方法もある。肉も野菜もごっちゃに焼く人もいて、食べ方がバラバラだ。
▽おいしい焼き方、というのはどうすればいいのか。知らず知らずの間に、肉も野菜も焦げてきて、食い気がいつの間にかしぼんでしまう。たぶん、おいしい焼き方、食べ方というのがあるのだろうが、だれ一人、納得できる説明をしてくれない。私には困った料理なのだった。
▽私的には最終的には、モヤシの上にラム肉を乗せて、蒸し焼きにするのが一番うまい食べ方だった。
▽ただし、札幌市中心街の専門店ではモヤシではなく、タマネギを敷いてその上にラム肉を乗せ、蒸して焼いて食っていた。焼いたラム肉に浸ける専用の汁は、最後に番茶で割って飲むという方法を勧められた。ジンギスカンも焼き方にはいろいろあるのだと私は思ってしまった。
▽魚にしても、北海道ならではのものがある、ハッカクという魚は、顔が八角形になっているから付けられた名前のようで、細長い身に、脂が乗っている。これを焼き魚にしてもうまいし、刺し身にしても良い。味噌汁の具にしてもうまい。その他ウニやシャコ、ホタテ、サーモン、ニシンなどもうまかった。サーモンと言えば、石狩鍋もあった。味噌仕立てだ。
▽私は新聞記者として振り出しが北海道新聞小樽報道部だったので、ここが私の第二の故郷となっており、毎年夏になると小樽に遊びに行く。そして以上のようなものを食べて飲む。飲むビールは、「サッポロクラシックビールと」と決めている。これまたうまいビールだ。
▽朝日新聞時代も含めた北海道で生活した約10年の思い出と言えば、こんな食べ物ばかりの話だった。
▽私が現役の社員だったらまた北海道を勤務したいと思っているところだ。
★727移動手段に困った北海道報道部時代
▽北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部時代に悩まされたのは、取材の移動手段だった。東京本社と同様、マイカーの取材移動は禁止されており、移動手段は鉄道や地下鉄、バス、タクシー、飛行機、船だった。しかし北海道は広い。そして鉄道網は、かつての国鉄時代から分割・民営化され、ほぼ同時にローカル線の廃止が相次ぎ、札幌近郊以外、鉄道網に頼る取材は出来なかった。だから会社には内緒でマイカーで移動したこともあるし、逆にやや遠いながらタクシーを利用したこともある。
▽私は報道部時代、遊軍担当だったので、行政の取材の傍ら、様々な連載企画を手がけた。だから道内各地を取材した。
▽北海道報道部でマイカー取材を禁止しているのは、危険なためだ。北海道は広くて、事故の危険性が高い。事故に遭った場合の補償などを考えると、禁止した方が安上がりなのだ。
▽北海道稚内市近郊で、原発関連施設の処分地候補が挙げられ、この時は会社に内緒でマイカーで取材に行った。札幌からマイカーで6時間ほどかかっただろうか。ほぼ半日がかりだった。当時の稚内通信局長の案内で現場を見て回った。周辺には鉄道もバスもなく、車だけが頼りだった。逆に鉄道で稚内まで行き、そこからタクシーをチャーターしても、取材の時間と金がかなりかかっただろう。会社に内緒だったが、マイカーが一番便利だった。
▽原発関連の取材で岩内町に行った時も、マイカーをこっそり使った。かつては国鉄岩内線というローカル線があったが、廃止されており、鉄道もバスもなかった。会社には内緒でマイカーで往復した。会社には実費請求として、途中までのバス代を請求しただけだった。事故になったら、「マイカー禁止」の厳しい通達が出るはずだった。
▽網走地方のオホーツク海の流氷を取材した時は鉄道を使った。札幌から直通の特急列車に乗り、網走まで行き、そこからバスで港に着いた。流氷船に乗った記憶がある。
▽道東の中標津町には飛行機を使った。現地の医師をインタビューするためだった。札幌近郊の札幌丘珠空港まで地下鉄とバスで乗り継ぎ、そこから飛行機に乗った。わずか1時間もかからず、中標津空港に到着。ここからバスに乗って市街地に入った。医師にインタビューした後、この医師の自宅兼病院に泊めてもらい、翌日はこの医師の運転する車で帯広まで送ってくれた。帯広駅前で名物の豚丼を食い、そこから特急列車で札幌に戻った。
▽日本海に浮かぶ奥尻島には、二つのルートがあった。上記の丘珠空港から飛行機で函館空港に行き、さらには小型のプロペラ機で奥尻島に行くコースと、陸路札幌から日本海側の瀬棚港に行き、そこからフェリーで奥尻島に渡るコースだ。天気が良ければ飛行機を乗り継いだし、天候が悪い時はフェリーを使った。この航路は2019年に休止されている。
▽奥尻での取材移動にはレンタカーを使ったほか、函館支局が支局のジープを回してくれたので、それを利用した。島は広いので、車がないと取材は出来なかった。
▽別の取材で帯広に往復した時は、特急を使った。インタビュー記事で、帯広の関係者に会うため、帯広駅からはタクシーを使って移動した。
▽北海道2番目の都市、旭川の取材は、札幌からの特急電車が便利だった。この札幌と旭川を結ぶ特急電車は頻繁に出ており、鉄道が一番便利だった。
▽夕張への取材は札幌からのバスが多かったが、時間がかかった。現地で2泊し、帰りもバスを利用した。しかし、急いでいる時はタクシーで往復したこともある。かなり金がかったが、「北炭夕張新鉱夕張炭鉱事故から20年」という節目で、大切な取材だった。
▽北海道は広いが、鉄道網は現在そんなに完備していない。札幌を中心にした鉄道網があるだけで、地方のローカル線は切り捨てられた。また札幌では地下鉄が発達しており、札幌市内の取材なら、地下鉄の移動が便利だった。
▽こうしてみると、北海道報道部での取材移動の手段は限られてくるし、移動も大変だったことを、理解してくれよう。
▽ちなみに、私が北海道報道部時代に狂牛病問題が発生し、同僚がずっと稚内地方に取材に出て1カ月以上戻ってこなかった。聞き損なったが、どんな移動手段を使ったのだろうか。気になるところだった。
★707次第に暑くなってきた北海道の夏
▽私は毎年夏になると、北海道小樽市に遊びに行く。親戚宅に泊まり、数日過ごす。そして感じるのは次第に北海道の夏が暑くなってきたということだ。昔は涼しかったのに、今では耐えきれない暑さになっている。
▽しかも、新築以外のマンションや一軒家ではエアコンを設置しない家庭が多い。親戚宅にもエアコンはなく、扇風機を3台、フル稼働して夜を過ごした。それだけ夜も暑くて寝ることが出来なかった。
▽小樽市は私が1981年に北海道新聞に入社した時の最初の赴任地だった。当時の北海道の夜はまだ涼しかった。夏の時期も暑いのは1〜2週間ぐらいで、夜になれば涼しくて、窓を閉めて寝ていた。だから私が過ごした小樽市のアパートにはエアコンもなかったし、購入した中古車にもエアコンはなかった。取材で利用するタクシーにもエアコンなど装着していなかった。日中の暑さ対策で一部のタクシー会社がエアコンを車両に装着したことを知って、その話を新聞記事に書いたこともある。それだけエアコンの普及率は低かった。
▽どの家もそうだっただろう。エアコンがある家庭などなかった。その後、転勤して、江別市や札幌市に引っ越したが、エアコンなどなかったし、購入することもなかった。必要なかったのだ。
▽私が北海道新聞を辞めて朝日新聞に転職し、何年も何年も経ってから希望して、北海道報道部に転勤になった時も、借りたマンションにはエアコンがなかった。冬用のガスストーブがあっただけだ。それでも夏の夜は涼しくて、何も感じなかった。窓を開けると寒いぐらいだった。
▽それがここ数年、小樽市の夜の暑さは異様になっていた。温暖化で、北海道も涼しさはなくなり、暑い夏が続いているのだ。それを実感する。
▽ちなみに、小樽の中心街を、特に裏道を歩くとエアコンを設置している家庭は少ないことが分かる。室外機など置いていない。新築のマンションや新築の一軒家ではエアコンを設置してる家庭があるが、多くの住宅にエアコンは設置されてないのが現状だ。
▽小樽は坂が多い街で、坂道を歩いて行くと、汗がビッショリと出てくる。暑さのせいだ。こんなに暑かったかなと、昔の記憶を辿ろうとするが、暑い夏はほとんど経験していなかった。
▽猛暑で熱中症の危険性が高まり、NHKなどテレビでは、「こまめに水分補給し、エアコンを適切に使うように」と促す報道があるが、エアコンを設置していない北海道ではその対策も出来ないのだ。
▽この北海道の暑い夏、いつまで続くのだろうか。かつては避暑地の代名詞のように言われた北海道だが、避暑地には適さない夜の暑さが続いている。
▽来年もまた北海道の夏が暑ければ、夏に行く事はためらってしまうのだ。
★706貧しかった新人記者時代、何もなかった
▽私が新聞業界に入り、新人の新聞記者として赴任したのが、北海道小樽市だった。今考えると、家財道具は一切なく、着替えを入れたボストンバッグ一つで赴任した。1週間ほど会社に泊まり、契約した一軒家の2階を借りて、新人記者生活をスタートさせた。下宿部屋だった。トイレはポッタン式の便所があったが、風呂はなかった。風呂に行くには、近くの銭湯を利用した。家財道具は一切なく、ゼロから始めた新人記者の生活だった。何もなかった。
▽持ってきたのは、スーツ1着を含めたこの着替え道具と、入社前のアルバイトで貯めた金が30万円ほどあり、これが全財産だった。親からの支援など全くなかった。
▽最初に購入したのは布団とパジャマだった。それすらなかったのだ。
▽今思い返しても、家具もなければ食事を作る道具もなかった。このため休みになれば、フライパンや鍋、食材などを少しずつ買い足していった。本当に何もなかった。
▽初任給は今で覚えてるが、12万8000円だった。まだ銀行振り込みではなく、現金が入った給与袋を、会計担当者から受け取った。最初の給与だったから、うれしかった。ただしまだ時間外手当などは入っておらず、次の給料日まで、少しずつ使って行った。大家に家賃と光熱費を渡して、残りはほとんどは食事代で消えた。
▽5月から時間外手当も付くようになり、少しずつ食事の道具や衣類などを増やしていった。仕事は朝出て、夜は時折先輩に誘われて、安い居酒屋に飲みに出た。今考えると、ビールなどは高くて、焼酎ばかり飲んでいた。夜中に帰宅するだけなので、単に寝るだけの下宿生活だった。夜討ち朝駆けも見よう見まねで始まっていた。
▽北海道の短い夏が終わり、秋になると、寒さ対策で冬用の衣類と大型ストーブを購入した。しばらくして机も購入した。
▽こうして最初の12月のボーナスはほとんど消えた。生活をするのが精一杯だった。下宿していた部屋の水道管を、寒さで凍らせてしまったこともある。寒さが緩むと、破裂した水道管からポタポタと漏水が始まり、修理業者に修理を依頼したことが2回もあった。余計な支出だった。
▽よくもあんな状態で、何もないとこから始めたものだ、と今さら思う。だから、貯金など全く出来なかった。給料は食事代などの生活費で消えていった。
▽今の若い人たちは、新人の赴任時からいろんな家具を持ってきているし、自由な生活の中で新聞記者をスタートさせているが、私のころはみんなこんな感じだった。生活道具は何もない中でのスタートだった。貧しかったこともあろうが、こんな新聞記者のスタートだった。
▽ゼロからのスタートだった。
★697呪われたイメージの北海道・小樽港
▽私が北海道新聞記者時代、小樽市の小樽港での事故をよく取材した。乗用車などが小樽港の海底に転落する事故が毎年数件続いていた。進入禁止なのに、夜釣りなどに出かけて運転を誤って転落し、そのまま死亡する事故だ。そのたびに、現場に行き、取材をした。
▽中には車中で男女がセックスの最中に転落し、死亡したケースもあった。小樽港の水深は5−7メートルあり、大型貨物船も接岸できる天然の良港としてかつてはロシアとの貿易港として栄えたこともある。乗用車が転落してしまえば助からないのだ。
▽車止めはあったが、それでも転落事故が相次いだ。クレーンでクルマを引き揚げて、車内の水死体を何回も見てきた。水ぶくれの水死体だった。港は危険な場所だと認識していない結果だ。
▽海底を捜索していて、数年前に行方不明になっていた男女4人が乗っていた乗用車を引き揚げたこともある。身元確認まで数カ月かかった。肉片も骨もほぼ溶けてしまい、残っていた骨から鑑定して、4人の身元を確認した。さびた乗用車の中からは、ウニやシャコなどの海産物が数十個生息していたから恐れ入る。
▽この事故も私はリポートとして記事にした。反響は大きかった。
▽この小樽港で発生した交通事故死亡を死亡事故として警察統計に乗せるか否かで、当の北海道警小樽署が判断に揺れたこともある。当時は交通死亡事故の急増で、北海道警は安全対策に躍起になっていた時期。交通死とするか否かで判断が1週間遅れた。
▽小樽港に侵入した乗用車が建物にぶつかって、運転者が死亡した。雪道でスリップが原因だった。
▽港内は一般道ではない。警察は通常の交通事故とは国道や県道、市道などの一般道で発生することを指す。さらには24時間以内に死亡した事故を、交通死亡事故として計上する。だから港に侵入したクルマで事故があり、死者が出ても一般的には交通死亡事故としては扱わないことが多い。
▽これに対して小樽署は、判断に悩んだ。当時、北海道内は交通死亡事故が急増し、安全対策のキャンペーンを続けている最中だった。その事故前の管内の交通死亡事故の件数は9人で、この小樽港での死者を入れてしまうと、初めて二桁の交通死亡事故の件数になる。つまり警察統計として交通死亡事故を二桁になるのを避けたい考えと、二桁になったという危機キャンペーンを続けたい考えが葛藤していたのだ。
▽いつまでも交通死亡事故と計上しない小樽署交通課に対して、私は取材を続けた。何回も現場にも行った。
▽そして、こんな趣旨の記事を書いた。
《小樽港での乗用車の運転者の死亡が、交通死亡事故とするか、単なる事故死とするか、小樽署の判断が揺れている。交通死亡事故とすれば、今年の死亡事故は10人となる、初の二桁という不名誉な記録となるためだ》
▽そして最終的に小樽署は交通死亡事故として警察統計に計上した。不名誉な交通死二桁の警察署となってしまった。そのことも私は続報として書いた。
▽小樽港は新潟港などと結ぶ大型フェリーも就航しており、北海道、否、東日本を代表する港だ。上記のように貿易港でもあった。しかし私にとっての小樽港は、華やかなイメージとは逆の、呪われた港でもあった。
★690北海道の地名を読む
▽東京で生まれ育った私が初めて北海道に赴任した時、北海道の地名を読むのに苦労した。難しい地名が多かったのだ。これを覚えるのにかなり苦労した。
▽もともと北海道に縁があったわけではなかった。就職難の時代で、たまたま受けて合格した新聞社が北海道新聞だっただけの話だ。入社して1年は、北海道の地名を読むのに苦労した記憶がある。
▽例えば、以下の地名を全部読むことができる人間がどのくらいいるだろうか。
▽音威子府、興部町、中標津、浦幌、音更、足寄、倶知安、長万部、占冠、中札内、更別、喜茂別、留寿都、真狩、後志。
▽読めたとして、どの町村が、どの場所にあるかすぐに分かる人がどれだけいるだろうか。それだけ北海道は難しい地名が多く、そして広い。
▽音威子府村はかつては国鉄の鉄道の街として知られた場所だ。国鉄の分割・民営化に伴い国労の労働者が切り捨てられ、この町はその労働者が団結して国労闘争団を造り、戦ってきた場所でもある。労働運動に関心のある人なら、すぐわかる地名だろう。
▽中標津町は広々とした街で、飛行場があることでも知られる。
▽真狩村は有名な演歌歌手が生まれ育った街だ。喜茂別町は、冬の国道の難所として知られる中山峠がある町だ。蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山を一望できる峠だ。
▽留寿都村も倶知安町も広大なスキー場があることで知られている。留寿都村には大型遊園地もあり、私も何回か遊びに行った記憶がある。近年、外国人の訪日客が多くなっている。
▽足寄町は歌手松山千春が生まれ育った場所だ。北海道の中でも最も寒い地域として有名だ。
▽長万部町は太平洋側に下位置で「かに飯」で有名だ。
▽こうした北海道の地名を覚えるに何年もかかった。時間があれば、観光で訪れて、現地の土地柄を知ろうとした。
▽もっとも、地名を正しく読むのは一般的には簡単ではない。
▽自民党の問題女性議員であった丸川珠代がテレビ朝日アナウンサー時代に、秋田県の都市の名前を間違えて読んでいたことを思い出す。東大卒でも地名が読めないんだな、と、私は妙に感心してしまった。
▽今考えれば、地名を覚えるのは、新聞記者としての第一歩だなということ。地名はキチンと覚えたい。
★685元暴走族でパソコンショップ社長との付き合い
▽私は転勤族だったから、赴任したそれぞれの土地で、友人を作ってきた。その中の1人、札幌市の朝日新聞北海道報道部時代に勤務してた時に知り合ったのがパソコン店の社長で、元暴走族上がりという人物だった。この話をしよう。
▽私は長い間マックユーザーだ。アップル社のマッキントッシュのパソコンをずっと使い続けている。北海道報道部時代も、自宅ではマックのマシンを使い続けていた。
▽そんなある日、札幌市内の小さなアップル専門店があるのを知って行ってみた。
▽それが元暴走族の社長がアップルの中古パソコンを扱っている中古販売修理業者だった。
▽アップルユーザーという人間は、不思議な人種で、アップルユーザーが集まれば、延々とアップルの話を続けている。そんな共通項がある。
▽1時間でも2時間でも喋っている。
▽その店もアップルユーザーが来て、延々と自分のパソコンや新製品の話をしている。その店長である社長は、そんな話の中心にいて、アップルの製品の話を長々と話してくれた。
▽それ以来私は毎週休みになるとこの店に通い届けた。社長と話をし、アップルの製品を雑談し、時には中古品を買ったりもした。
▽そして時折飲みに行くようになった。
▽その中で初めて知ったのが、この社長が元暴走族だったということだ。しかも離婚歴が3回もあった。そんな滅茶苦茶な人生を話してくれた。行き着いたのがこのアップル製品を扱う中古販売修理業という仕事だった。
▽彼は言う。
「パソコンは性能がすべて」
「新しい商品の方が性能が良い。だから新商品が出たら、一番性能が低いマシンに買い換えて、1年おきに新製品に買い換えて使っていく方が安上がりだ」
▽こう話すのだった。
▽確かにアップルが出す新商品は数種類あり、うち一番安い性能のパソコンを買って1年で売却し、さらにまた新しいのを買っていくということを繰り返した方が、パソコン利用者にとってはコスパがいいのかと思った。なるほどなと思った。
▽この社長はこんな思い出も振り返った。暴走族として札幌でススキノで仲間とオートバイを乗り回していた時、別の暴走族集団と喧嘩になった。その集団の中に、今では歌手として有名な玉置浩二がいた。
▽社長は振り返る。
「玉置浩二がケンカが強くてすごかった」
▽おどけるように、そして懐かしさを振り返るように若いころの話をしていた。
▽そうか、と私は変に頷いてしまった。一方は日本でも有名なミュージシャンとなり、一方ではマックユーザーのために店を開いてるんだ。
▽その後も私の店通いは続き、飲み会もずっと続いた。支笏湖に釣りに出たこともある。
▽さらには社長が仲間と作っているホームページに、週1回の連載記事をずっと書くようになっていた。2年間続いた。
▽私はその後転勤してしまい、次第に社長の付き合いはなくなった。それでも時折、電話をして、時にはマックのパソコンを修理してもらうため、社長の店に送ったこともある。
▽マックユーザーはマックの話をすると止まらない。私もそうだ。だから札幌に勤務していた3年間はこの社長のおかげで楽しい日々を過ごすことができたのだ。その社長に感謝をしたい。
▽今はどうしてるのだろうか。
▽私が地方に転勤するたびに、私の同僚は、
「また飛ばされた」
と揶揄するが、地方への転勤は友人を作る大切な出会いでもあった。これを飛ばされたと言うのだろうか。
★674北海道新聞と私
▽私が新聞記者になったのは、1981年4月のことだ。北海道新聞記者として記者生活をスタートした。今回はなぜ北海道新聞を新聞記者のスタートとして最初に選んだのか、書いてみたい。
▽北海道新聞は、地元では「道新」とも呼ばれ、当時北海道では110万部の部数を誇っていた。札幌に本社があり、旭川、釧路、函館の各都市に新聞を発行する発行支社があり、それとは別に、北見、帯広、小樽などの中堅都市には、新聞を発行しない支社があった。このほか、道内の至るところに地方支局があり、取材を網羅していた。これとは別に東京支社もあった。
▽私が北海道新聞を選んだのは、その紙面が時には中央政治に対する反骨精神で溢れる記事で埋もれた新聞だと思ったためだ。
▽例えばかつての安保報道では、朝日新聞など東京紙が中心となった「7社共同宣言」という社説を共同で掲載し、安保反対運動を批判する紙面を作った。これに対して北海道新聞はこの7社共同宣言の掲載を拒否し見送った。
▽中国のトップ、鄧小平が来日し、ロッキード事件の被告だった田中角栄と会った時の囲み取材も、北海道新聞記者の名を世間に知らしめた。日中国交正常化の立役者でもある田中角栄は上機嫌で鄧小平を歓迎し雑談をしたが、ここで記者がこんな質問をした。
「ところで、ロッキード事件は」
▽そう、田中角栄はロッキード事件の被告であり、それでも政界を牛耳っているキングメーカーだった。
▽田中角栄は、急に怒りを見せて、
「どこの新聞社だ」
と怒鳴った。
▽記者は答えた。
「北海道新聞です」
▽こんな場で質問をする記者も記者だが、大切な質問でもある。学生時代のこの場面を見て、北海道新聞記者は格好いいと思ったものだ。
▽これが私の北海道新聞に対するイメージだった。
▽入社して、最初の赴任地が小樽支社報道部だった。配属されて、新人記者として取材を続けていくうちに、次第に疑問がわいてきた。
「北海道新聞は中央政府に着厳しいが、地元自治体、とりわけ道庁には批判すら出来ないのではないか」
▽そう、中央に厳しく、地元に甘い。それはどこの地方紙でも同じではないのか、と思うようになった。例えば、沖縄の地元紙2紙を見ても、米軍基地問題について、中央政府には厳しいが、地元自治体に対しての態度はどうか。そんな疑問がわいてきた。
▽そんな疑問を抱いたまま、私は北海道新聞に7年在籍し、そして辞めて、朝日新聞に移った。
▽ただ、北海道新聞の当時の功績もある。当時の北海道新聞は紙面で、「市民と警察」というキャンペーンを延々と続けて、道警の体質や捜査手法を批判してきた。ここまでやるのか、と思うほどだった。それが契機となり、道警は北海道新聞を嫌うようになった。
▽あれから40年、北海道新聞は道警とどんな関係になっているのだろうか。部数は80万部まで減っている。
★664自ら動かない記者とその訃報
▽もう昔の話になったから、書いてもいいだろう。もう四半世紀前のことだ。私が朝日新聞北海道報道部に勤務していた時、非常に困った中堅記者がいた。自分では取材しないで、仲間や部下に仕事を発注するだけの人間がいた。非常に迷惑だった。その彼が亡くなったことを知った。もう暴露してもいいだろう。
▽この記者は北海道庁担当キャップだった。広い北海道では北海道庁に情報と権力が集中するため、道庁キャップは知事周辺の動きをキャッチする必要がある。道庁内にはアンテナを張り、広い人脈を造る必要がある。それだけ責任が重い職務だった。ちなみに私は朝日新聞の前には7年間、地元の北海道新聞記者を務めているから、北海道新聞の道庁キャップの地位の高さは十分に知っていた。要するに、出世コースのエリートなのだ。
▽そんな道庁担当キャップを任されていた我が中堅記者は、何か噂話があると、自分で知事周辺の情報を取る努力はしないで、部下に指示をして、自分は勝手に報道部に上がってしまう、ということを繰り返していた。
▽ある時、地元の町長が北海道知事選に立つという噂が流れた。噂だけで、事実ではなかった。この噂を記事にしようと、その記者は北海道庁担当キャップとして部下に指示した。部下は愚直にも、その町長に会いに行き、答えを引き出した。答えはこうだった。
「それを書くと誤報になりますよ。」
▽その話を部下は担当キャップに伝えた。完全否定された話だ。しかし、その担当キャップは無理矢理に「知事選に町長立候補の動き」と書いてしまったのだ。特ダネが欲しかったのだろう。
▽その町長は知事選には出なかった。そして衆院選に出て国会議員となった。
▽誤報を書いた責任は問われなかった。すべてがこんな調子で、自分は指示するだけだった。自分から取材に動こうとはしなかった。
▽北海道庁は、広い北海道の権力を一極に集中させている。知事周辺の動きなどは当然ながら道庁担当キャップが監視して、、動きを察知するしかないのだ。しかし、この担当キャップは、何かあると、すぐ北海道報道部の部屋に上がってしまい、あたかもデスクのような振る舞いをして、指示するだけだったのだ。困ったキャップだった。何か勘違いしていた。
▽統一地方選でも同じだった。広い北海道では、市町村長選や議員選挙が一気に訪れる。本来は道庁担当キャップが紙面計画をして、どんな記事を書くか中心となるはずなのに、この記者は全くしなかった。このため私たち遊軍が中心となって、選挙戦の取材をして、紙面化していった。選挙戦にこの記者はノータッチだった。情けないと思った。
▽そんな中、内部での担当配置替えがあり、その道庁担当キャップは特別役所担当となった。特別役所担当とは、札幌国税局など、北海道の国の出先機関を回る担当だった。私はそれまでその担当者で、次の担当はスポーツ担当となった。
▽ある時だった。東京本社からの指示で、長者番付発表の原稿を送るよう指示された。その困った記者が担当だったが、すぐに私に助けを求めてきた。「手伝ってくれ」と。
▽しかし私は忙しいので断った。こんなものは記者1人でやればいいのだ。
▽私も1年前、札幌国税局の担当として長者番付記事を書いた。その時、前任者が引き継ぎをしなかったため、札幌国税局の発表がどこであるのか分からなかった。何日も何日も探して、やっと札幌の経済記者クラブで行われることを初めて知った。そんな苦労もあるから、その困った記者に手伝う事はしなかったのだ。
▽要するに自分から動かないし、取材もしない。他人に頼む。こんな記者が本当にいることを私は知った。困った記者の1人だった。
▽その記者はその後、東京本社の内勤に異動になった。記者としては使えなかったのだ。
▽そして今年(2025年)6月、その彼の訃報を知った。64歳。定年を前に亡くなっていった。合掌。
★657帝銀事件死刑囚の平沢の未公開絵画展
▽もう過去の事件になってしまったかもしれない。帝銀事件だ。死刑囚平沢貞通は無実を訴えたまま、1987年に病死している。平沢は北海道小樽市出身で、帝銀事件の容疑者として、東京から来た警視庁刑事にその小樽から連行されている。そんな平沢の未公開絵画展が隣の札幌市であり、取材したことがある。
▽帝銀事件は、1948年1月26日に、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に現れた男が、行員らを騙して12人を殺害し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件だ。容疑者としてテンペラ画家の平沢貞通が逮捕され、死刑判決を受けた。平沢は獄中で無実を主張し続け、刑が執行されないまま、95歳で獄死した。アジア太平洋戦争後の混乱期で、GHQ占領下で発生した事件で、多くの謎が未だに残っている。
▽平沢が仙台拘置支所で存命してた時、私は北海道小樽市の北海道新聞小樽報道部に勤務していた。その時、知り合いのツテを頼って知り合ったのが平沢の実の妹だった。その妹にインタビューを繰り返し、平沢が獄死した時のために使う予定稿を書いていた。
▽さらには、平沢が東京の警視庁の刑事から出頭要請されて、強引に列車と青函連絡船を使って東京に引っ張って行ったときの様子もドキュメントとして記事に書いたこともある。平沢は無実を訴え、政府関係者は平沢の獄死を待っていたことを後に知った。
▽だから私にとって、帝銀事件の平沢は、取材対象の一人だった。
▽未公開絵画展は、2003年5月、札幌市中央区毎日新聞のマンション一室、平沢貞通人権記念館で始まった作品展「鉄格子のあるアトリエから」で展示された。独房からの光景や窓の鉄格子をイメージした作品などで、平沢死刑囚が獄死した後に、遺族に手渡されていた。
▽主催者の平沢貞通を救う会事務局長、平沢武彦さんによると、禁じられていたはずの独房やその周辺の風景を描いていたことが、1987年の病死後に手渡された遺品の中から見つかった。
「段ボール十数箱の中に入っていました。平沢の無念さや憤りなどの心象風景があった」
▽これを整理し、今回展示した。
▽獄舎の前でうずくまる本人と、その傍らで長女を抱く妻の無題の絵があった。
「えん罪を訴え続けた本人には、時空を超えて家族と一緒になっている、という平沢本人の執念があったはず」
と平沢死刑囚の養子になった武彦さんは話した。
「明光」というタイトルの絵は、拘束された東京拘置所から見えた街の風景画だ。拘置所の獄舎と、遠くには荒川の鉄橋と工場の煙突が描かれ、遠くには鯉のぼりがある。
「おそらく死刑確定前後に描かれたものでしょう」
という。
▽平沢武彦さんの父親が平沢の無罪を信じて救援活動を続けたことから、養子縁組をして、父の遺志を継いで、救援活動を続けてきた。その平沢武彦さんもその10年後に亡くなった。
★643椅子に座り、机の上に靴を履いた足を乗せた新聞社の光景
▽私の新聞記者のスタートは北海道新聞で、1981年4月に北海道新聞小樽支社報道部に配属された。その時、最初に驚いたのが、キャップもデスクもそして報道部長も椅子に座って、両足を靴のまま机の上に乗せていたことだ。まるでヤクザの世界。こんな光景が最初に飛び込んで、新人の私は驚いた。
▽机の上に靴のまま両足を乗せるという行為は、テレビや映画で見るヤクザの世界だった。そんなヤクザの世界だと思っていた光景が、私が新人記者として赴任した報道部で見たのだ。驚くほかなかった。何を持って報道部長もデスクも、キャップも両足を机の上に上げていたのだろうか。
▽そして私に取材命令や指示を出す時も、両足を机の上に上げながら、タバコを吸いながら指示していた。指示だけではない。電話で話す時もその格好だった。
▽私はちょっと恐怖感を味わったことを覚えている。これが新聞社の現実なのだ。そう思った。
▽考えてみれば、その当時は新聞がまだ部数がどんどん伸びており、戦後の成長産業の一つだった。学生が就職希望する企業ランキングでも、朝日新聞や読売新聞などが上位のを占めていた。人気企業だった。
▽私も取材を続けるうちに分かったことだが、地元の市役所や警察署、消防署、博物館など、実に多くの人が、新聞社をそれなりの高い地位の企業として見ていてくれた。そう、エリートだとみてくれた。当時の北海道といえば、北海道庁、拓銀、北海道新聞の三つが人気だった。
▽だから新聞社に入ると勘違いする記者も出てくるのだ。俺は偉いのだと。そんな意識があるから、椅子に座ってもそのままの姿勢にならず、両足を机の上に上げて振る舞うのだ。
▽新聞記者とヤクザの違いはあるのだろうか。そう思ってしまった。
▽新聞社は言論機関である。謙虚になり、権力に立ち向かうことが求められている。私はそう思っているから、どうもこの振る舞いは、謙虚さが欠けている事例だと言うしかない。これが私が新人時代に見た光景の一つだった。
▽私は朝日新聞に転職して以来、この光景は見たことがない。
★612塩ジャケと秋サケ、そして筋子とイクラ
▽石狩鍋やチャンチャン焼きなど、日本の食卓に並ぶサケ料理について、私がそれまでの見方が変わったのは社会人になってからだ。それまでは、サケは塩ジャケだとずっと思っていたし、サケが体長1メートルもある大型魚であることも知らなかった。自宅が貧しかったこともあり、ずっとサケは塩ジャケだと思っていた。全く知らなかった。
▽子供のころ、私の自宅の食卓で1、2年に1回並ぶサケは、塩ジャケだった。塩ジャケはサケを塩に漬けて保存するもので、非常にしょっぱかった。しかも切り身だったので、私は子供のころ、塩ジャケという魚があり、その魚の大きさも10〜15センチぐらいの小さな魚だと思い込んでいた。子どもの時の私の知識では、サケは塩ジャケのことで、小さい魚だとずっと思い込んでいた。
▽その後、中学生になり、高校生になっても私はそう思い込んでいた。我が家ではサケが食卓に並ぶことはほとんどなかったのだ。
▽社会人になり、私が北海道新聞に入社して、サケという魚が、体長1メートル以上もあり、大きなものであることを初めて知った。当時、「カンバックサーモン」というキャンペーンが北海道で始まっており、札幌市の中心部を流れる豊平川にサケが遡上し始めていたのだ。道民の関心も高く、放流されたサケが、海に行き、そして戻ってくるというサケの回帰を楽しみに待っていた。サケが豊平川で水面を飛ぶ写真が、北海道新聞に大きく掲載された。1980年代の話だ。
▽そして北海道で初めて食べたのが、その年の秋に獲れたサケだった。切り身をそのままフライパンで焼くステーキもうまかったし、野菜とともに具として入れるサケの切り身を入れる石狩鍋もうまかった。また野菜とともに味噌炒めで蒸すちゃんちゃん焼きもうまかった。もちろん塩は入っていないので、サケ独特の味がうまかった。鮭の頭の軟骨である「氷頭」も酒のあてとして食った。
▽こうして私はサケが切り身の塩ジャケではなく、大きな魚であることを知り、秋に獲れる秋鮭がうまいものであるということを知った。「秋味」と称した。
▽ボーナスが出れば、魚市場に行き、サケを1本丸ごと、知り合いに送った。
▽さらには筋子とイクラの違いも知った。筋子を市場で買い、イクラを作ったこともある。
▽サケの切り身とイクラを丼にのせて、親子丼ぶりとして食ったのも思い出だ。
▽そう北海道でサケは主要な食べ物の一つになっていった。
▽だから私は秋になると、無性に秋サケが食べたくなる。ステーキにして焼いてもいいし、刺身でも良い。石狩鍋やちゃんちゃん焼きにしても良い。大人になって私はサケの正体を知り、好きになった。
★592W杯のキャンプ誘致で北海道栗山町が犯した失敗と教訓
▽2002年のサッカー日韓ワールドカップ(W杯)大会で、影に隠れたままになっていたのが、北海道栗山町のキャンプ誘致の失敗だった。メキシコにラブコールを送り続けたが、結局合宿に来てくれなかった。国際ビジネスの意味を知らないための失敗例だった。
▽当時私は北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部にいて、W杯担当として取材を続けていた。
▽W杯に出場するメキシコ代表チームのキャンプ地誘致に、栗山町が失敗し、メキシコは福井県三国町に行くことが決まった。3年間の誘致活動の末に、栗山町は一時、誘致の内定を発表したが、その後、断念に追い込まれた。そのメキシコからは断りのメッセージがないという。なぜ失敗したのか。
▽その年の1月22日の地元の会見で当時の町長はこう苦渋の結果を話した。
「誠意と友情を持って誘致運動をやってきた。それなのにわずか1カ月で福井県に持っていかれた」
と悔しさを見せた。2000年夏から始めた誘致活動では、担当者が10回近く渡航し、メキシコ視察団を招待。約8000万円を投じた。
▽メキシコのサッカー連盟幹部はその前年4月、W杯では栗山町で合宿する、と伝えた。同12月の組み合わせ抽選会でも、現地入りした同町に、メキシコ側は栗山に行くと明言したという。
▽栗山町の誘致に当たってアドバイザー契約を結んだサッカーJリーグ、コンサドーレ札幌の元監督がメキシコに渡ってしまい、メキシコ側のプロチームの監督に就任。連絡がつかなくなってしまい、契約は消滅した。さらに、栗山町が招待して交渉していたメキシコのサッカー連盟幹部が、W杯予選の苦戦続きで更迭されたことが大きかった。
▽いつまでもメキシコからが連絡が出来ないため、栗山町は次第にいらだってきた。
▽関係者はこう指摘した。
▽「人的ネットワークも薄く、しかも国際的な交渉ごとに長けているとは思えない。無謀な選択ではなかったのか」
▽この関係者が所属する企画会社では、メキシコ代表の全権を有するメキシコの民間企業の正式代理人としてキャンプ地誘致に動いていた。その中では栗山町を含む20前後の自治体と接触していたという。
▽私も当初、この企画会社がどんな組織なのか分からず、かなり慎重に取材を進めた経緯がある。栗山町に言わせると、「得体の知れない組織」だと映ったらしい。しかし実際は正式な代理人会社で、そのことを栗山町側は全く知らなかった。
▽しかし栗山町は無謀にも独自にメキシコにアプローチを続けた。関係者に言わせれば、代理人の存在を無視したことやW杯は国際取引の場であることを最後まで見抜けなかったことになる。
▽関係者はこう言う。
▽「栗山町は初めから別のグラウンドの違った相手にゴールしたとかシュートしたと騒いでいた。逆転でも何でもないんです」
▽こんな経緯を込めて、私は当時の朝日新聞北海道版に「栗山町の失敗」と題する記事を書いた。
▽この記事を読んで、私の自宅に電話で抗議してきたのが、朝日新聞の地元のベテラン記者だった。
▽「どうしてこんな記事を書くのか」
▽栗山町を擁護したかったのだろうが、栗山町の考えが国際取引には通用しなかっただけの話だった。
★543今は昔のポッタントイレ
▽私の新聞記者の新人時代の話をしよう。
▽私は1981年4月、北海道新聞に入社し、小樽市にある小樽支社報道部に配属された。報道部員は部長以下約10人で、デスクが2人、キャップが1人いた。
▽私は会社から紹介された物件で、中心街から約1.5キロ離れた住宅街にある一軒家の民家の2階を間借りし、生活を始めた。
▽当時の小樽市は下水道の普及率が低く、中心市街地以外は、トイレは水洗トイレではなく、汲み取り式だった。いわゆる「ポッタントイレ」だ。大便がそのまま真っ直ぐに落下するために、こう呼んでいた。間借りした2階の部屋にもそのポッタントイレがあり、用を足す場合はそのトイレを使った。当然ながら水が流れないので、降下した大便は地下の便槽に続く配管にもこびりつき、衛生面は悪く、便器にはいつも蓋をして、匂いが漏れない用にしていた。
▽また風呂もなく、風呂に入るには、休みの日にその近所にある銭湯に行くか、仕事の日は会社近くの銭湯に行く必要があった。会社の近くの銭湯を利用する場合は、地方版の紙面が降版した後、つまり紙面製作が終わった午後8時過ぎに通った。だから石鹸やシャンプー、タオルは常に机の引き出しに入れていた。
▽先輩たちの住むアパートや民家は水洗トイレも風呂もあるから、こうして仕事を中断して銭湯を利用するのは私だけだった。風呂がない下宿生活だったので、銭湯通いは認められた形だった。
▽こうして水洗トイレも風呂もない生活を1年間過ごしていたから、都会的な生活は無縁だった。事件や事故で、取材時間が長引けば、風呂に入ることもできず、もちろんシャワーもないので、何日も風呂に入れない日々が続いたこともある。それもそんなに気にならなかった。
▽小樽は日本海に面した豪雪地帯で、10月ごろから雪が降り始めた。警察署で夜勤を終えて午前1時半過ぎにタクシーで帰宅すると、下宿の家の前には雪がかなり積もっていて、その雪の中をかき分けて、帰宅したことも毎日のようにあった。
▽その時は仕事に慣れるのが精一杯で、不便な生活という実感もわかないまま、仕事を続けた。
▽そんな生活を1年続けた後、報道部の先輩が転勤となり、その先輩の住んでいたアパートに引っ越すことができた。風呂がついていたので助かった。しかしトイレは相変わらず汲み取りのトイレで、ポッタン式だった。小樽には3年半過ごし、転勤になったが、その3年半はずっと汲み取りのポッタントイレとの生活だった。
▽そしてそれが私の人生の中で最後のポッタントイレとなった。その後転勤し、転職もして、いろいろと全国各地を回ったが、ポッタントイレと出会うことはなくなった。
▽今から40年以上も前の、古い、臭い話だった。
★535劇場公開映画「沈黙の海」で見る小樽の風景
▽今年(2024年)11月に劇場公開された映画「沈黙の海」を見た。北海道小樽市が舞台となっており、私の新聞記者としての最初の赴任地を思い出すには十分な描写だった。
▽映画は、アウトローの天才美術家の半生を軸に、贋作で揺れる巨匠とその天才画家、そして天才画家の元恋人で巨匠の妻らの愛憎を埋め込んでいくストーリーだ。
▽ネットでの宣伝ではこううたっている。
《若松節朗監督がメガホンをとり、本木雅弘、小泉今日子、中井貴一、石坂浩二、仲村トオル、清水美砂ら豪華キャストが共演した。世界的な画家・田村修三の展覧会で作品のひとつが贋作だと判明する事件が起こる。事件の報道が加熱する中、北海道・小樽で女性の死体が発見される。このふたつの事件をつなぐ存在として浮かび上がったのが、新進気鋭の天才画家と称されながら、ある事件をきっかけに人びとの前から姿を消した津山竜次だった。かつての竜次の恋人で、現在は田村の妻である安奈は小樽へ向かい、二度と会うことはないと思っていた竜次と再会を果たすが……。真の美を求め続ける竜次の思いが、安奈や、竜次に長年仕える謎めいたフィクサーのスイケン、贋作事件を追う美術鑑定の権威・清家、全身刺青の女・牡丹、竜次を慕うバーテンダーのアザミら、それぞれの人びとのドラマと交錯していく》
▽これ以上のことを書くとネタバレになるので割愛するが、ここは映画で描写された小樽の風景について記していく。
▽まずは小樽の繁華街の一角の飲み屋街にあるカウンターだけの飲食店。いかにも日本海に面した北国の居酒屋、という雰囲気がよく出ていた。ここで中井貴一が扮する怪しげな男が、女将に大金を支払おうとしている場面が出る。手切れ金だ。いかにも怪しいシーンだ。
▽次に小樽運河沿いの堺町の一角にある居酒屋。モダンなバーで、音楽の生演奏もある。そんな店にも中井貴一扮する男や、店内に飾られた絵を見て写真を撮る男が現れる。
▽そしてこの映画の主人公が、アウトローの天才画家だ。仕事場は恐らく小樽市高島地区の海辺の近くの元学校校舎。廃墟となった校舎で寝泊まりをして、天才画家は作品を描き続ける。冬の寒さを感じさせる風景をカメラは追っていく。
▽小樽は北海道の日本海沿いに位置しており、札幌市からは電車で40~50分で着く中堅都市だ。かつては北海道経済をになう貿易港として栄えていた。
▽私が新人の新聞記者として赴任したのは1981年4月。当時の小樽は、経済の斜陽化が進み、発展を続ける札幌市と好対照を成していた。かつての繁栄のシンボルだった小樽運河は港湾機能がなくなり、放置されていた。
▽そんな時に持ち上がったのが、小樽運河を埋め立てて、パイパスを建設するという活性化対策だった。
▽しかしその計画にストップをと声を挙げたのが地元の市民有志だった。
それ以来、地元小樽市は北海道庁、政府を巻き込んで、運河を埋め立てるか否かでの論争が延々と続いた。
▽最終的に運河の半分が埋め立てられて、現在に至っている。
▽そんな時代の流れを知っている私にとって、この映画で描かれた小樽の町の風景は、実に切なく、実に寂しく映った。
▽かつて人口が18万人もあった小樽市は今10万人を切ろうとしている。そんな斜陽化が進む小樽の町を、原作者である倉本聰はどのように描きたかったのだろうか。
★531衰退していた札幌市・大谷地地区
▽札幌市の朝日新聞北海道報道部に私が勤務していた時、借りて住んでいたのは、同市厚別区区大谷地という場所で、地下鉄東西線大谷地駅から出て、すぐの中層マンションだった。周囲はマンションが林立していて、いかにもマンション住宅街という土地柄だった。しかし、活況はなかった。なぜ衰退したのかは、しばらくして分かった。そう、高齢者が多くなっていたことが原因だった。
▽大谷地駅は札幌市の中心街である大通駅から地下鉄で20分の至近距離にある。そのまま過ごせば新札幌駅に直行出来るし、そこから千歳線やバスで新千歳空港にもすぐに着く地の利がいい場所だ。
▽大谷地駅の真上には、チェーン店のスーパーや専門店、スポーツクラブなどがあり、駅周辺には居酒屋やコンビニ、病院もあり、住宅街としては申し分ない場所だ。私が転勤で北海道報道部に赴任する際に、この駅周辺のマンションを借りることを決めたのも、中心街より家賃が安く、借りやすく、住宅街として住みやすいと思ったからだ。
▽だが、そんな予想していた風景も、ある日を境に一変した。
▽ある日の休みの時だ。スーパーで食材を物色してレジに並んでいると、前の客も、その前の客も、同じような食材しか買っていないことに気づいた。みんなお年寄りで、買っているのはおにぎりかパン1個、これにお茶のペットボトルだけだった。私が食材として魚や肉、野菜、総菜を買おうとしているのに、正反対の物量だった。少なすぎるのだ。
▽そう、年を取ると、食が細くなり、これで十分である、という光景だった。
▽これを店側から見るとどうなるか。
▽客1人あたりの単価が非常に安い、ということになる。1人の購買力が1日、1回、200円。ということは、どんなに客がこのスーパに訪れていても、店の売り上げはそんなに増えないということになる。
▽そこで、改めて大谷地地区の歴史を考えてしまった。この地区は地下鉄東西線の開通とともに、開かれた新しい町である。高度経済成長を経て、マンションが林立し、当時中堅サラリーマンだった人たちが、次々とマンションを購入し、大きな街になった。しかし、10年たち、20年たち、30年が経過し、当時中堅サラリーマンだった人たちは定年を迎え、老後に入り始めた。老後になれば当然、購買力は落ちていく。昔利用していた居酒屋も行かなくなるし、スーパーでもあまり購入しなくなる。
▽大谷地地区に住み始めて、次第に違和感を持っていったが、その正体はこの街全体が高齢化社会に突入し、活気がなくなっていたということだったのだ。
▽マンションが林立する街も、30年が経過すると、住民は高齢化し、活気がなくなっていく。そのことに気づいた札幌市での体験だった。
▽これは私が現在住んでいるさいたま市でも同じことが言えるだろう。
▽高層マンションが林立し、若い世代の住民が増えている。小学校はマンモス学校となり、小中一貫校の計画も実行されようとしている。
▽しかし30年後はどうなるか。住民が高齢化し、街に活況は残っているのかどうか。このことを考えての街づくりをしてもらいたいと私は願う。
★505暖房手当削除の衝撃
▽数年前のことだ。経営悪化を理由に、朝日新聞が経費節減の一環として打ち出した項目の一つに、社員に対する暖房費補助削除があった。私はここまでやるか、とショックを受けた記憶がある。
▽暖房費補助とは、北海道や東北、日本海沿岸などの寒冷地に済む従業員に対して、灯油などの暖房費を補助する制度で、多くの企業が実施している。私が最初に入社した北海道新聞でも11月から翌年3月ごろまで、給料とは別に暖房手当としてもらっていた。それは朝日新聞に転職した後も、北海道や東北に勤務していた時にはもらっていた。寒冷地に住む人間に取っては当然の権利だと思っていた。新聞社に限らず、一般企業の社員お官公庁の職員ももらってきた。暖房は金がかかるのだ。
▽それがどうだろう。私が退職する数年前に、朝日新聞は暖房費補助をやめる、と労組に通告し、一方的に打ち切ってきた。当時私は朝日新聞佐渡支局から秩父支局に転勤になった時で、どちらの支局も寒冷地だったから、暖房費補助の打ち切りは痛かった。要するに生活費が削減されたと同じなのだ。
▽こんな大切な話を、勝手に打ち切るなんて。私は怒りを持った。そして何の抵抗も出来ない労組に、愕然とした。
▽東京本社の幹部らは、北海道の寒さを知らないのだろう。知らないから、勝手に切ることも出来るのだろう。そう思った。
▽北海道で暮らしてみれば分かることだが、冬になれば、1日24時間暖房を点けている家庭が多い。一度暖房を切ってしまえば、室温が低くなり、もう一度温めるのに時間がかかるのだ。そういう土地柄だ。
▽私が北海道での初めての冬を迎えた1年目、下宿先の部屋の水道管を二度も凍結させてしまい、修理費がかかった。一人暮らしで、仕事に出ている間はストーブを点けなかったため、室温が下がったためだ。水抜きをするという作業をしたこともないことが、凍結を招いた。こんなことにもカネがかかるのだ。
▽暖房費だけではない。冬の衣類にもカネがかかる。そういう実態を考えていないのか、と思った。
▽朝日新聞は社員を守る発想がないのだろうか。
★481帯広の豚丼と栄養のバランス
▽もう何年も前の話だが、北海道に勤務していた時、たまたま寄った取材の帰りに、JR帯広駅前の豚丼専門店に入り、取材相手と一緒にその豚丼を食った。ブームになり始めたころで、その豚丼の感想は、と言うと、栄養のバランスが悪いな、と思ったことだ。
▽その専門店では丼に乗せる豚肉の枚数によって、「松」「竹」「梅」と分けており、値段が数百円ずつ違っていた。私たちは一番安い豚丼を注文した。それでも確か2000円ぐらいだったと思う。その豚丼には、丼にご飯、そしてその上に豚肉が3枚乗せてあり、その豚肉の上にグリンピースが数個付いていた。
▽たったこれだけだった。他にお吸い物やお新香もサラダもなかった。つまり、目の前にあるのはご飯の澱粉と、豚肉のタンパク質、そして脂の脂質とわずかにグリーンピースの栄養だけだった。店のメニューを見ると別メニューとして、お吸い物、と書いてある。完全な野菜不足だった。
▽これが地元グルメの実態だと実感した。
▽私は毎朝ジョギングをしているため、食事のバランスをいつも考えている。ご飯や惣菜などは澱粉やタンパク質、ビタミンや植物繊維などを考えながら食事をしている。だから、この専門店のような豚丼を積極的に食べる事はしなかった。
▽だから驚いた。
▽ここで思い出すのは、さいたま市に点在するうなぎ屋のうな重だった。やはりご飯の上にうなぎしか載っていない。わずかにお新香や、お吸い物がつくだけだ。栄養のバランスは悪い。
▽豚丼もブームになってから久しいが、栄養はバランスが悪いことに変わりはない。それ以来、私は豚丼を食べていない。
★477 二十年後に再訪した北炭夕張新鉱事故現場(459北炭夕張新鉱事故で聞いたおぞましい言葉「お命、頂戴します」の続報)
▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局から札幌市の朝日新聞北海道報道部に転勤になったのは、2001年9月だった。転勤が決まった時、私は取材をしなくてはならない課題が一つあった。それが20年前の10月に発生した北炭夕張新鉱事故の検証記事だった。「あれから20年」。言い聞かせるように、私は関係者の取材を進めた。現地の夕張市にも何回も足を運んだ。
▽そして北海道版用に以下のような原案を書いた。長いが、紹介したい。おぞましい言葉「お命をちょうだいします」が忘れられない。
《93人の犠牲者を出した夕張市の北炭夕張新鉱ガス突出事故から16日で20年が経過する。石炭から石油へと国のエネルギー政策が変革する中で、スクラップ・アンド・ビルドの担い手として登場した新鉱だったが、安全面より生産性が重視されたため、事故の危険性が最初からつきまとっていた。事故発生直後、生死が分からない炭鉱マンが数多く残る坑内に注水しようとする会社と遺族との攻防に始まって閉山するまで、夕張の街は阿鼻叫喚の図のようにすさまじく揺れ続けた。炭鉱の開発で繁栄した夕張の街は、炭鉱がなくなった今、生き残り策を模索し続けている。
▽■遺族
▽紅葉で赤く色づき始めた夕張市の山の奥に、坑口跡があった。「第一立坑坑口▽密閉完成▽昭和58年9月26日」などと書かれており、ここが悲劇の現場だったことを伝えるものはない。草が荒れ放題になっており、近づくのがやっとの場所だ。
▽その場所から数百メートル手前の一角に惨事を伝える慰霊碑がある。地底で事故があったことを示す墓標だ。93人の殉職者の名前の中に、下山敏三さんの名がある。兄の下山民夫さん(72)は振り返る。
▽「事故の一週間前まで弟はけがで入院していた。退院したので事故の2日前、2人で釣りに出た。釣り好きな弟が釣りに執着できずにそわそわしていた。その帰りの車の中で、弟がしみじみと言うんです。『何かあったら頼むなあ』と。あれが最後の会話でした」
▽敏三さんには男3人、女一人の計4人の子供がいた。弟家族のことを考えながら、民夫さんは遺族会会長の仕事を引き受けた。敏三さんの遺体が地上に引き上げられ、家族が対面したのは翌年の3月だった。遺体と対面した時、半狂乱で泣き続けた妻やその子供たちはその後夕張市を離れて、別の街に住む。「このままだと夕張の街は崩壊の一途をたどるだけです」
▽海沼栄一さん(68)は炭鉱マンの一人だった。同じ炭鉱マンだった弟の一昭さんを事故で亡くした。
▽「事故発生を知って、ハイヤーで駆けつけた。その時、弟は仕事に入る前だった。一度自宅に戻って寝ていると、電話で連絡があった」
▽義妹とともに会社に駆けつけた。弟は救護隊に加わって、事故に巻き込まれたらしい。
▽遺体は翌年引き上げられて、病院で無言の再会をした。「ばかだなあ。無理して中に入っていくこともなかったのに、と思ったもんです」
▽遺体と対面して泣き崩れた義妹を激励し続けてきた。その義妹も現在は夕張市を離れて長男と暮らす。「正直言って、もう事故のことは思い出したくないんです。元に戻るわけでもないし」
▽■かつての闘士は今
▽「デタラメそのもの。私の同僚だっているし、救護隊だってまだ坑内にいた」
▽三浦清勝さんはこう語気を強めた。
▽北炭夕張の元労組委員長。当時の注水作業に話が及ぶと、当時の怒りがよみがえってきたように思えた。今からちょうど二十年前のことだ。
▽「お命、ちょうだいします」
▽その時、残された家族を前に説明した林千秋社長(当時)の口から出た言葉は、あまりにも衝撃的な表現だった。
▽ガス突出に続いて坑内で燃え続ける火災。生死が分からないまま坑内に残っている坑夫たち。会社が取ろうとしたのは、坑夫の安否を確認しないまま、火災鎮火のための注水作業だった。生命より炭鉱施設保全が優先された。
▽事故発生から十二時間もたたないうちに提案されたのが、注水だった。家族の同意を取り付け、注水が始まった。夕張の悲劇だった。会社は一度提案を引っ込めるが、最終的に注水を行う。
▽あれから二十年。三浦さんは閉山反対闘争、退職金闘争に明け暮れた。会社の前で断食もした。
▽「死んだ仲間が心残り。夕張にずっと住み続けるつもりだった」
▽三年前には93人の慰霊碑が見える墓地に自分の墓を建てた。だが体調を崩して昨年十月、札幌の長男宅に身を寄せ、病院に通う毎日が続く。
▽■危険な炭鉱
▽Aさんは現職の日本共産党市会議員でもあった。炭鉱の歴史を学ぼうと一緒に勉強していた仲間の元坑夫Bxyは言う。
▽「あの炭鉱が危険だったことは、我々が一番知っていた。急速掘進で開発を進めたから、安全対策に金をかけなかった。排気立坑をもう一本造らないとだめなくらい空気の流れが悪いのに、それも無視していた。それを田口さんもいろいろな場で告発していた」
▽その田口さんはガス突出現場から一番遠い場所にいた。「死ぬなんてありえない場所で死んだ。一酸化炭素中毒の恐ろしさだね」
▽■
▽戦前戦後の国のエネルギー政策を支えた炭鉱がなくなり、夕張市は生き残る道を模索している。炭鉱なき後に市が掲げるのが観光振興だ。テーマパーク「石炭の歴史村」を事故翌年に完成させ、特産品「夕張メロン」の差別化を続けて、ゆうばり国際映画祭を毎年開く。「タンコウからカンコウへ」がキャッチフレーズだ。
▽人もまばらな夕張市の中心街、本町商店街。「映画の街夕張」「ゆうばりキネマ街道」などの看板があって、「誰がために鐘は鳴る」「リスボン特急」「燃えよドラゴン」などかつて有名だった映画の大きな看板が商店街に掲げられている。「脱炭鉱」の振興策の一つだ。
▽だが人口流出は止まらない。かつてピーク時に十二万人あった人口は事故当時4万人。そして9月1日現在で1万5千人台にまでなった。基幹産業がなくなり、税収は落ち込んだ。そのうえ産炭地振興臨時措置法が切れ、国の補助が受けられなくなる。中田鉄治市長は強調する。「北炭夕張新鉱が開発され、夕張はまだ生き延びることが出来ると思った矢先の災害だった。炭鉱の街は来年度から大変だ。だから『脱炭鉱』を常に訴え続けてきたんだ」
▽かつての炭住街は市営住宅になったが、空き家が多くなった。
▽「昔は炭鉱長屋の明かりがまばゆいほどだったのに、今では悲しいけど街灯の方が明るいねえ」
▽夕張に生まれ育った市職員Cさんは、暗くなった住宅街をこう話す。かつては炭鉱長屋の中の裸電球がこうこうと光り続けていた。
▽夕張では炭鉱マンの間で語り継がれてきた戯言がある。
▽「夕張
▽食うばり
▽坂ばかり
▽ドンと来れば死ぬばかり」
▽坂ばかりの夕張の街で、何かもの悲しげなこの戯言も、今ではもう聞かれない》
★466やっては行けない行為をした北海道報道部デスク
▽北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部に勤務していた時の話だ。5人の報道部デスクがいたが、そのうちの1人のデスクが、デスクとしてはしてはいけないことを行うデスクがいた。部下が書いた原稿を直す際に、部下に確認をせず、部下が取材した相手に直接電話を入れて再取材し、原稿を直してしまうのだ。ルールは無視したデスクワークだった。
▽現場の記者とデスクの関係を簡単に記すと、取材記者は取材をして原稿を書く。これをデスクが見て、必要があれば直して整理部に出稿する。つたない原稿だった場合は、取材記者に問い合わせをして、原稿を直す。原稿を全面的に直したり、直し方が異様なデスクもいれば、最低限の直ししかしないデスクもいる。それはデスクの個性とも言える。デスクは部下から出てきた原稿を直すのが仕事だ。そしてその責任も負う。
▽ただし原稿の直しにはルールがある。
▽原稿を直して良いのは、その原稿に書かれていた事実を直すだけだということ。書かれていない情報を書き加えてはならない、というルールがある。原稿が変だったら、部下に原稿を問い合わせ、書き直す。それだけだ。デスクが勝手に原稿を書き加えはいけない。デスクが勝手に新たな情報を書き加えたために、翌日の紙面では間違った記事が出てしまい、訂正やお詫びが出る、というのは、何回も見てきた。決して書き加えてはいけないのが、デスクのルールだ。
▽それを当時の朝日新聞北海道報道部のデスクが犯してしまった。
▽当時の朝日新聞北海道報道部は、記者が出した原稿に取材した相手の連絡先を書き加えるルールがあった。その記事になった紙面を、取材相手に販売店が届けるというサービスを行っていた。それを当時のその北海道報道部デスクが悪用した。
▽このデスクは、この制度は悪用し、部下に確かめせず、取材相手に直接電話をし、原稿を勝手に直していた。これは絶対にやってはいけない行為だ。こんなことをしたら、現場の記者とデスクの関係は壊れる。デスクは現場の記者を信じていないし、現場の記者は、デスクを信じない。こんなことが全くわからないデスクだった。
▽取材相手から見ると、取材した記者ではなく、その上の上司であるデスクがから直接電話が来るのだ。取材相手は直接取材した記者を信用できないと言うことになる。
▽私もこのデスクに何回も同じ事をやられた。取材相手にデスクは直接電話して原稿を勝手に直すのだ。私には何も問い合わせもなかった。デスクが出稿した記事を見て、私が驚くことになった。これでは私はデスクを信用できない。
▽こんな記者とデスクの関係を当時の報道部長は把握していたのに、部長はこのデスクに注意もしなかった。これでは報道部という組織が壊れる。このようなデスクの行為、放置していた部長の責任も大きい。
▽やってはいないデスクの行為だった。今振り返っても、非常に不愉快だった。
★461ポッタントイレと銭湯と小樽運河
▽私が北海道小樽市の北海道新聞小樽死者報道部に勤務していたときのことだ。もう40年以上前の話だ。当時借りていた下宿に風呂はなく、会社近くの銭湯に通った。仕事が一段落して、原稿もデスクの手を離れると、会社を抜け出して、銭湯に行った。風呂から出てから、夜回りなどをした記憶がある。
▽借りていた下宿先も、トイレはポッタントイレだった。そう汲み取り式だ。水洗トイレではなかった。当時の小樽市は、下水道普及率が50%位だったから、多くの民家は、汲み取り式か、または簡易水洗式のトイレだった。そんな時代だった。
▽だから銭湯の行く時間や、汲み取りのトイレのバキュームカーがいつ来るか常に気にしていた。
▽ある時、会社の先輩が転勤し、そのアパートが空いたため、そのアパートに引っ越した。風呂があったので嬉しかった。トイレはまだ汲み取り式だった。それでもなんかリッチな気分になった記憶がある。
▽こんな話をするのは、当時の小樽が都市化から遅れていたことを、話しかったためだ。当時人口は18万人だったが、斜陽化が進んでおり、小樽は都市化の波から遠ざかっていた。
▽そんな時に計画されたのが、全長1142メートル、幅40メートルの小樽運河を埋め立てて、高速バイパスを造る話だった。バイパスを造れば、一気に産業が盛り上がる、と当時の政界と経済界が考え、一気に道路建設の計画が持ち上がった。いわゆる高度経済成長時代を支えた「道路神話」である。
▽これに対して小樽の都市景観を守れと立ち上がったのが市民有志だった。
▽それ以来、運河を埋め立てるか、埋め立てないかで論争が続いてきた。行政側は強引に埋め立ての手続きを進めて、私が取材を続けていた時は、ついに埋め立て工事が始まる時期だった。
▽その後、当時の横路孝弘知事が斡旋に入り、工事は中断されたが、斡旋は不調に終わり、工事が再開され、運河は半分埋め立てられた。
▽そして現在に至っている。周辺は整備されて、観光客で賑わっている。
▽当時の運河論争を知っている私にとって、この賑わいは複雑な思いに取られる。今年夏も小樽を訪れたが、運河論争の歴史を、観光客にも知ってほしいと願うだけだ。
★459北炭夕張新鉱事故で聞いたおぞましい言葉「お命、頂戴します」
「お命、頂戴します」
▽おぞましい言葉だった。
▽私が新聞記者をスタートさせたのは1981年4月。その年の10月16日に事故は起きた。北海道夕張市の北炭夕張新鉱で、ガス突出・ガス爆発が起きて、93人が亡くなった。その時に、会社側が事故状況を関係者や家族に説明する場で使ったのが、この言葉だった。
▽坑内にまだ炭鉱マンが残されていて、生死の確認が出来ない状態の中で、会社側は炭鉱の保全を優先させるため、注水を提案したのだ。
▽もう少し詳しく書く。自著「極刑を恐れし汝の名は」から引用していく。
▽まずは事故の概要から記す。
▽北炭夕張新鉱の事故は二つから成っていた。
▽まず16日午後零時41分ごろ、同鉱北第五盤下坑道(海面下809メ―トル)の掘進作業現場付近で、約60万立方メートルのメタンガスが突出し、83人が死亡し、19人が重傷、20人が軽傷を負ったのが一次災害だ。
▽さらに同10時10分ごろガス爆発が起きて坑内火災となり救護隊10人が死亡した二次災害に分けられる。
▽炭鉱事故の特色は、災害の犠牲が炭鉱マンに限られる―という典型的な労働災害である点だが、その原因というのは、採算優先の企業論理にあったと私は思っている。そして、その裏にあるのが政府の無責任なエネルギ―政策だった。
▽夕張市は北海道の中央に位置する山間の町だ。炭鉱が開発されたことで人が集まり、集落が形成され、町並みが出来ていった。最盛期には人口12万人を誇り、炭鉱街を形成した。
▽そして翌日の17日午前零時過ぎ。つまり事故発生から、12時間以上が経過した時刻で、事故の概要が次第に明らかになったころだ。炭鉱事務所に押しかけた仲間や家族の前で、会社側がいきなりこんな提案をした。
「坑内のCO(一酸化炭素)の濃度が異常に高く、坑内残留員は全員絶望と判断せざるえません。災害の拡大を防ぐためには、坑内を水没させる以外にありません」
▽坑内に残された炭鉱マンの氏名も、事故の内容についても何に説明がないまま、会社はいきなり注水を行う旨を提案したのだった。
▽注水とは、坑内火災を鎮圧するため、事故の場合にどこの炭鉱でも行なってきた手段だ。ただ違うのは、生死が確認されていない段階で、炭鉱員の生命より、炭鉱の生産を優先させようとしたことだった。
▽後に考えてみれば、北炭夕張新鉱の開発の歴史を知っている者にとっては、当然であり、労働者の生命など全く考えていない会社の体質そのものが出ただけだった。
▽この説明に仲間や家族が、怒りの声を挙げて反対した。
「だめだ!」
「組合と相談したのか!」
▽説明に当たった社長の林千明は、平然と言ってのけた。
「組合と協議して、ただいま組合幹部が説明に」
▽三浦清勝委員長が説明する。
「注水について2時間前に提案がありました」
▽会社と組合がまさに一体となっていた。労使一体となって説得する光景があった。
▽事故からわずか12時間しか経過していない段階で、人命よりも炭鉱、つまりモノを優先する思考。これこそ北炭の体質なのであった。
▽会社の説明に炭鉱員仲間は総立ちになった。
「行方不明っていうのは、まだ坑内にいるっていうことなんだ。注水は許さんぞ」
▽号泣し感情が高まっていた。
▽この段階での注水は、結局は見送られたものの、会社幹部は再度提案し、数日かけて注水が実施される。この時、夕張市内では一斉にサイレンが鳴らされ、生死が分からないままの炭鉱員を悼んのだった。
▽その時の会社幹部は、こんな表現をしていた。
「お命、頂戴します」
▽何とおぞましい言葉ではないか。人間の生命が、こんな簡単に消えていく。
◎参考図書→「極刑を恐れし汝の名は」(原裕司著、洋泉社)
★448知らなかった北海道報道部編集委員、杉本猛さんの死
▽朝日新聞北海道報道部の編集委員だった杉本猛さんが亡くなっていた。一時期はあれだけ親しくしてもらったのに。昨年(2023年)5月、80歳だった。亡くなったことを知らなかったし、知らされなかった。自分の不義理を恥じた。私にとっては、記憶の中に残る記者だった。
▽たまたま今年7月、北海道に遊びに行き、かつての同僚と酒を飲んだ時の雑談で、杉本さんの死亡を知った。
▽私が杉本さんと一緒に仕事したのは、杉本さんが朝日新聞仙台支局のデスクをしている時で、私が隣町の塩釜通信局に赴任してからの付き合いだ。
▽私にとって杉本さんは有名な人だった。社内で有名という意味ではなく、私の記憶の中での有名人だった。
▽私は朝日新聞に入社する前に北海道新聞記者として働いていたが、当時の杉本さんは朝日新聞北海道報道部の道警担当キャップだった。
▽当時の道警担当キャップは、北海道新聞も読売新聞も毎日新聞も猛者揃いで、毎日のように朝刊と夕刊で特ダネ合戦が続いていた。読売新聞が朝刊で特ダネを打てば、夕刊では毎日新聞が別の事件で特ダネを打ってくる。と思えば翌日の朝刊では北海道新聞が別の特ダネを報じる、という日々が続いていた。
▽そんな中で朝日新聞だけは蚊帳の外だった。ほとんど特ダネが取れない日々が続いた。警察取材に弱い新聞社だった。北海道新聞に入社した私は、少なくとも道警担当で朝日新聞だけは全く情報が取れない新聞だと思っていた。
▽杉本さんはその時の道警担当キャップだ。他社に抜かれてじくじたる重いもあったのだろう。
▽しかし、だった。ある時、突然のように朝日新聞が特ダネを打ってきた。しかも汚職事件、いわゆる「2課もの」で打ってきたのだ。「2課」とは、捜査二課のことで、知能犯や汚職事件を担当する警察の部署だ。他の部署と違い、水面下で捜査が動くから、警察担当記者にとって取材が一番難しい。そんな難しい取材をして、汚職事件で「道警、きょう逮捕へ」と打ってきたのだ。しかも特ダネを2本続けた。
▽北海道新聞記者の私から見て驚いた。それが杉本さんだった。
「やるじゃん」
▽若いながら、そう思った。
▽後に杉本さんから話を聞くと、毎朝、自宅で各紙の朝刊を見て、他社に特ダネが載っていると、朝食もまずくて食べられなくなり、逆に朝食を食べてから各紙を読んだそうだ。
▽汚職事件の特ダネは取材も難しいし、なかなか表面化されない。そんな中での特ダネだった。
▽それから何年もして私が朝日新聞記者になり、杉本さんと出会った。酒を飲み、そしてその特ダネの話をよく聞いたものだ。杉本さんは日本酒が好きだった。秋田支局デスク時代は、地酒を堪能した話をしていた。
▽さらに月日が流れて、私は朝日新聞北海道報道部に赴任した。杉本さんとは久しぶりの出会いで、杉本さんは北海道在住の編集委員として活躍していた。また時折酒を飲んで、いろいろなことを話した。決して器用な記者ではなかったが、腰は据わっていた。私にとっては好きな大先輩だった。
▽そして今から20年前、杉本さんは定年で会社を辞めた。最後に飲んだのは札幌駅裏の居酒屋だった。
▽あれから20年が経つ。定年後も好きなランニングをしていたのだろうか。連絡も取れなかったことを恥じるしかない。
▽ここで改めて冥福を祈りたいと思う。合掌。
★446札幌ドームの美しさと日本ハムの撤退
▽札幌市の札幌ドームが危機になっている。北海道日本ハムファイターズが2023年から本拠地を札幌ドームから、北海道北広島市の新球場「エスコンフィールド北海道」に拠点を移転させたことで、大きな収入源を失うことになったためだ。サッカーJリーグのコンサドーレ札幌からの賃料だけでは、維持費すら難しい状況だという。
▽札幌ドームは、日本で唯一の完全屋内天然芝のサッカースタジアムであると同時に、人工芝を移動させた使う野球場としても使うことが出来る施設だ。
▽私はこの欄のコラム「W杯」でこう書いている。
《2002年サッカーワールドカップ(W杯)日韓大会で試合会場となった札幌ドームでは、計3試合が行われ、そのうちの1試合が、イングランド対アルゼンチンの試合だった。まさに怨念の対決。フォークランド戦争があり、その20周年を迎えての試合だった。一部マスコミは「両国はまるで戦争準備をしているかのようだ」と書き立てていた。
▽試合はベッカムのフリーキックで得た1点をイングランドが守り切り、勝った。観客席の私の目の前で球を蹴るベッカムがそこにはいた》
▽そして2004年にはプロ野球日本ハムが北海道に移転し、札幌ドームを本拠地として使うことになり、札幌ドームはフル稼働時代に入った。つまり札幌ドームはサッカーJリーグとプロ野球の双方を使うことが出来る未来型ドームとして愛され続けた。
▽私は当時、朝日新聞北海道報道部で、その取材をしていた。札幌ドームでの取材のほか、日本ハムが北海道に移転した際には、沖縄キャンプまで取材をしている。新庄剛志選手が加入し、派手な演出を札幌ドームで行った際にも、取材をしていた。だから札幌ドームには、人一倍の愛着があった。
▽その日本ハムが出ていくことを知って、私も危機感を持った。日本ハム側が札幌ドームに支払う賃料が高かったことが原因らしい。札幌ドームにとしてはドル箱だった日本ハムというお客さんを逃がしてしまったということだろう。
▽新球場「エスコンフィールド北海道」の評判は予想以上に大きい。その分、札幌ドームはコンサドーレの試合だけという感じが否めなくなっている。現在はJ1にとどまっているが、過去はJ1とJ2を何回も往復するエレベーター的なチームで、今後J2に降格したら、観客数も減って、ホームゲームを昔のように厚別陸上競技場でも併用する可能性もある。その場合、さらに収入は減少する。
▽元々、札幌ドームは日韓ワールドカップの開催地誘致で持ち上がった。それが過去のものとなってしまえば、そのドームの利用をどうするか、キチンと検討すべきだったのだ。ドームが今後お荷物にならないよう、祈りたい。
★416北海道の夕刊降版時間の違い
▽私が新聞記者として初めて赴任した場所は北海道小樽市だった。北海道新聞記者としての第一歩が始まった。サツ周り、市役所担当などをしていた。サツ周りでいつも不思議に感じることがあった。夕刊の降版時間ギリギリに飛び込んできた事件事故を、私はデスクに連絡をして、夕刊最終版にギリギリに突っ込んだのに、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞は悠々と紙面に入れていたのだ。この違いは何なのか、全く当時は分からなかった。
▽ある時だった。小樽市中心地のある商店街で大規模な火災が発生した。発生は午後零時ごろで、消防や警察を通じて私が火災を知ったのは午後零時半を過ぎていた。現場に向かった。当然ながら火災発生直後なので、警察の広報はない。私は一帯に広がる火災現場の周辺を歩いて、どのくらいの規模の火災か、東西と南北の長さ、建物の戸数、平屋か2階建てなのか、おおよその数字を挙げて、デスクに電話でフラッシュ原稿を吹き込んだ。当時は携帯電話もなく、公衆電話が頼りだった時代だ。わずか10行のフラッシュ記事が夕刊最終版の社会面に4段抜きで掲載された。降版時間は午後1時半だったので、まさに「ツッコミ原稿」だった。
▽ここで降版時間について説明しておく。降版時間とは、紙面のレイアウトが決まり、最終的に印刷に回す時間を指す。つまりこの時間が過ぎれば、どんな特ダネがあろうが、どんな事件事故があろうが、間に合わない。絶体絶命の時間だ。
▽新聞関係者も勘違いしているのは、締め切り時間と混同されていることだ。締め切り時間とは、その降版時間の1時間前に、紙面をレイアアウトする整理部員に最終的な原稿が届く時間を指す。新聞社によって、降版時間から逆算されて、締め切り時間は設定されている。
▽つまり今回の火災は、締め切り時間を過ぎた時間帯に、警察の発表がない段階で、強引に「ツッコミ原稿」を入れたということになる。これには出稿側の記者、デスク、原稿を受け取る本社デスク、そして本社整理部デスクや部員にも、そんな原稿が10分後に出ることをアナウンスする必要がある。それが出来たから、紙面に原稿を突っ込むことが出来たのだ。
▽こんな社内のルールや駆け引きを使って、フラッシュ原稿は出来てくる。私はずっとそう思ってきた。
▽しかし、だった。
▽その日夕方に配られた東京3紙を見て愕然とした。北海道新聞の紙面より大きく、詳しく扱っているのだ。えっ、なぜ、と思った。火災発生の報を知ったのは、私が一番早い。各紙は遅れていた。現場にも最初はいなかった。それなのに、詳しく紙面化されていたのだ。
▽この疑問に答えてくれるには、かなり時間がかかった。
▽それは私が北海道新聞記者を辞めて、朝日新聞に移り、転勤で北海道報道部に赴任してからだった。そう、北海道新聞と朝日新聞は夕刊最終版の降版時間が違っていたのだ。北海道新聞より40分も遅かったのだ。つまり夕刊段階で北海道新聞記者より40分も取材時間に余裕があったのだ。
▽何だ、こういうことだったのか。当時の小樽にいた朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の各記者の顔を思い出して、1人で笑ってしまった。
▽降版時間の死守、と言われてきたが、時間が違っていたのだ。なあんだ、と思った。
★405北海道を離れた医師の決断
▽北海道東部に中標津町という街がある。この街に東京出身の小児科医が赴任したのは今から20年以上前の話だ。北海道に魅せられて、地元とは関係ない場所で、小児科を開いた。それから年月は経過し、2023年いっぱいで、彼は北海道を離れた。あれだけ憧れた北海道を離れることになった理由は何だったのか。
▽この医師は根室支庁中標津町に2002年5月に、小児科医院「中標津こどもクリニック」をオープンさせた。根室市を除くと管内に初めての個人の小児科医院。事務の職員を五人、現地で雇った。看護婦はいらない。自分で診断も点滴も、治療もする。
▽それまで数年間、神奈川県内の病院で勤務医をしていた。北海道東部の後で開業医を行う、ということに、事情を知らない人間は驚いた。
▽だが本人には内に秘めた壮大な計画があった。
▽高校生のころから地域の子供会活動、公民館を中心にした小中学生の野外活動、文化活動、ジュニアリーダーサークルの運営などにかかわってきた。近所のちびっ子、そのお母さんたち、お兄さんお姉さん役の中学生、おじいちゃんやおばあちゃんらにかかわって、「喜んでもらう楽しさ」を知った、という。それが「人間とかかわっていく科学者」というイメージから、医者になることを決意した。
▽山梨医科大(当時)医学部に入学しても、障害児のキャンプや電車旅行などを続けた。「病院で診療するだけではなく、日常生活の中で子供の成長を見据えた空間で働きたい」と考えるようになった。「治す」だけではなく、「育む」仕事を夢見て小児科医の道を選んだ。
▽その夢を実現させる第1歩が、この病院の開設だった。単なる小児科医院ではない。親も子もいつでも気軽に立ち寄れるコミュニケーションの場を作りたい、と作りたいと考えていた。「いわば私設公民館の空間を提供して、診察する部分はその一部」という構想だ。
▽数年前にわずか1年で閉鎖した産婦人科医院だった老朽化した建物を買い取った。小児科医院にしては異様に大きい2階建て延べ1600平方メートル。2階にあった病室はすべて作り直し、第2の待合室や音楽のスタジオ、宿泊室、ふろ、コミュニケーションなどの部屋になった。
▽その年夏には、恩師の勤める横浜市立大学医学部の学生が、実習をかねて泊まりに来た。北海道で地域医療を、という夢は着々と進んでいる。
▽なぜそこまで北海道、特に中標津にこだわり続けてきたのか。
▽医師になって4年目、高校時代からあこがれていたオートバイによる北海道旅行をようやく決行した。小樽・後志地方から道央、道東を回った。以来、毎年夏になるとツーリングを楽しむようになった。
▽4回目のツーリングだった。排気量1520CC愛車が故障した。最寄りの中標津町のバイク屋で修理を依頼し、勤務先の神奈川内に戻った。数カ月後、直って戻ってきた。お礼をしたくて翌年、中標津を訪れると、家族とレース仲間総出のもてなしを受けた。既に火が起きていてバーベキューの歓迎を受けた。「中標津移住」を意識した。
▽それからは夏と冬、毎年、中標津を訪れ、オートバイ、スノーモビルの仲間になった。中標津移住は現実のものとなろうとした。
▽経営が成り立つか自分なりに調べた。中標津町内には約200床の町立病院のほか、内科2施設、産婦人科1施設、眼科1施設、脳神経外科1施設があるだけで、人口2万3千人、中学生以下の人口3千人という数字は、経営的に十分にペイすると判断した。町内だけではなく町外の患者も来院してくれることを計算すると、根室管内の1市3町まで守備範囲は広がると考えた。
▽自己資金もないため当初は「掘っ立て小屋から始まるサクセスストーリー」を考えていたが、知り合いが今の建物を紹介してくれた。幽霊屋敷のようになっていた建物を、リフォームしオープンにこぎ着けた。「町の人からはそんなに大きくなくてもいいのに、と言われるのですが、僕としては『私設公民館』構想という野望もありますしね」
▽現地で雇った5人の女性スタッフは、会計などの事務の仕事以外は、待合室で子供の相手をしている。診察前の緊張感を解いて子供をリラックスさせているのだ。「診察を終えても、ここがいいってなかなか帰らない子供が多くになりましたよ」と楽しそうな顔になった。根っからの子供好きなのだ。
▽私は当時、北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部に在籍していて、彼を取材している。
《寝室に置いている電話機が鳴った。数時間前まで知り合いと痛飲し熟睡していた。電話が遠くで鳴っていることだけはようやく分かった。受話器を取り上げると、相手の女性は、息子の名を名乗って、「咳が止まらないんです」と訴えてきた。
▽同じ地区に住む5歳男児の母親だった。話からして喘息のようだ。
▽「数分後に来なさい」
▽そう指示して、医院診察室の電灯やパソコンの電源を入れて、患者の来院を待った。午前零時半になろうとしていた。
▽診断で喘息と判断し、気管支を拡張するベネトリンという薬を入れた吸入器をあてて呼吸を楽にさせた。心配そうに見ている母親。別の薬に代えて吸入作業を再度行った。聴診器から聞こえていた「ゼーゼー」という胸の音はなくなった。安心したのか子供はいつの間にか寝てしまった。とりあえずはひと安心した。深夜の診察は終わった。
▽「以前来院した時、『喘息は夜中に起きるからいつでも電話してね』と言っていました。その話を母親は遠慮せずに従ってくれた。何か起きて困るのは、当の子供ですからね」》
▽こんな熱意をぶつけてきた医師。しかし、だった。時代の流れには勝てなかった。
▽数年前から赤字が出るようになった。現地での子どもの人数が激減していた。赴任当時から3分の1まで減っていて危機感を持った。たまたま会った町長に窮状を訴えても、理解してくれなかった。これが北海道を離れる理由となった。
▽今度は兵庫県丹波篠山市で開院するという。最後まで見守っていきたい。
★369人権侵害だと認められた札幌南高校卒業式での君が代斉唱
▽全国各地の高校卒業式で、君が代が斉唱されるようになった。こんな中、札幌市の北海道立札札幌南高校では、生徒が「人権侵害だ」と訴えて、札幌弁護士会が校長に対して勧告を出す事態になった。そんな卒業式を私は取材していた。その話を書いていく。
▽2002年2月のことだ。当時、私は札幌市の朝日新聞北海道支社報道部に勤務していた。北海道内でも有数の進学校である札幌南高校卒業式で君が代が強行されるとして、生徒の一部が人権侵害だとして救済を札幌弁護士会に申し立てた。そしてこれに対応して、弁護士会が校長に勧告を出しのだ。
▽まずは勧告の中身を紹介しよう。
《私たちは、札幌弁護士会に人権救済を申立てた北海道札幌南高等学校の生徒の代理人弁護士です。本年2月14日、札幌弁護士会は、3月1日予定の卒業式で「君が代」の実施を決めた北海道札幌南高等学校長に対し、「子どもの権利条約」によって保障されている「意見表明権」を侵害していると勧告しました。
勧告書は、3月1日に予定されている同校の卒業式において「君が代」を実施するにあたり、生徒との2回の意見交換会の打ち切り、「君が代」を実施する旨決定したこと、さらに、このような人権侵害状況を解消しないまま卒業式において「君が代」を実施することは、生徒たちに保障される学校行事に関する意見表明権及び参加権を侵害する行為であって、子どもの権利条約12条に違反する行為である、としています。そして、卒業式の運営にあたり、申立人ら生徒を、その決定過程の重要な参加メンバーとして生徒らの意見を真撃に受け止め、今後も生徒らに対し、さらに十分な説明と協議を行い、納得を得られるよう最大限の努力を続けることを勧告しています。
しかし、学校長は、生徒たちの申立てや札幌弁護士会の「勧告」を真撃に受け止めようとはせず、卒業式での「君が代」の実施を行おうとしています》
▽実はこの勧告は、地元北海道新聞に特ダネとして抜かれてしまった。私の古巣でもある。
▽しかし、当時の報道部の教育担当記者は、反応が鈍くて、この問題の意味を十分に理解していると思えなかった。このため遊軍だった私が主導権を取って、この問題に取り組むことにした。
▽知り合いの弁護士に依頼して、札幌南高校の教諭からレクチャーを受けて、弁護士からも問題点を話し合い、以下のような紙面計画を作って、デスクや報道部員にメールで配った。
■札幌南高校卒業式の取材について原案
2002/02/25 遊軍・原 裕司
▽札幌南高校の卒業式が3月1日午前10時から行われます。
▽焦点となっている君が代問題では、札幌弁護士会が「人権侵害だ」として生徒から出されていた人権侵害救済の申し立てが認められ、校長に対して勧告を出して、注目を浴びた。
▽こうしたマスコミが注視する中、学校側は本日になって報道機関に対して、午前九時までに学校に来てもらい、説明をしたい、とする文書を郵送した、としています。
▽こうしたことから、君が代強制問題についての当日の紙面と、人繰りについて、以下のような提案をします。
▽▼当日夕刊 午前八時十五分に報道部に集合。同時刻に社有車を確保ずみ。原以下3人の記者確保したい。夕刊作業用に社有車から原稿送稿。
▽社会面
▽1 自由に中に入って取材できた場合
▽■札幌南高校で卒業式 問題がなく行われた場合は50行。
▽トラブルなど予期せぬものが発生した場合などは、
▽■全道一斉に卒業式が行われた。道教委担当から 10行
▽2 取材制限があって取材時間がかかる場合
▽■札幌南高校で卒業式 出席した関係者から取材をして
▽トラブルなど予期せぬものが発生した場合などは、60行。
▽■全道一斉に卒業式が行われた。道教委担当から 10行
▽▼当日朝刊社会面
▽夕刊の続報。トラブルがあって、取材も制限された場合のみ。
▽当日道内面
▽雑観記事。どうなる君が代問題 60行
▽校長へのインタビュー
▽道教委教育長へのインタビュー
▽当事者生徒へのインタビュー
▽有識者の中行コメント
▽当日は午前8時過ぎに北海道支社報道部に到着。部員と社有車で、札幌南高校に取材に行った。今年から君が代が流される、という異常な雰囲気での取材だった。
▽夕刊にはあらかじめ予定稿を準備してあり、それを逐一、場面の描写を入れていく、という方法になった。
▽事前に式典の流れを掴んでいたので、予定稿はかなり正確な物になった。
▽歌詞をつけないメロディーだけのテープを、卒業生の着席と同時にあっという間に流して、終わるという既成事実。君が代を起立してのはたった六人の生徒だった。
▽私は当時の日記にこんなことを書いていた。
《にしても報道陣の多いこと。
▽夕刊作業の手直しがほぼ終わった段階で、校長の記者会見。
▽逃げ、に入ってしまい、深夜に日の丸を放映しているNHKの記者が怒り出すのは、やや滑稽か。
▽取材を終えて報道部に戻る車の中で、記者会見の追加原稿を携帯電話で送稿して、夕刊作業は終わる》
▽そして、朝刊作業に取りかかかり、実際の高校生の生の声を取材するため、セッティングしてくれた法律事務所に行った。
▽朝刊にこんな原稿も書いた。一部を紹介する。
《道内公立高校の卒業式で君が代を導入する高校がさらに増えた。日の丸掲揚は昨年から100%の実施率だ。「起立や斉唱は強制しない」と道教委は説明するが、初めての君が代導入を巡って内部では学校側と教職員側では長い話し合いとその平行線が続く高校もあり、学校、道教委に対する不信感が浮き彫りになった。
▽国旗・国法が施行されてから3回目の卒業式となった今年は、282校のうち280校もの高校で君が代が実施された。道教委は「昨年実施していなかった9校の校長には、指導要領に基づいて、実施をお願いしてきた」として、無理に強制はしていないと説明している。
▽今回実施に踏み切った札幌南高校では、昨年4月に道教委高校課長から着任した山本宇衛校長が君が代の導入に意欲を示し、昨年9月の職員会議で君が代実施方針を表明。生徒と意見交換会を行ったが、反対意見が多かったにもかかわらず、話し合いを打ち切った。
▽根室市の根室西高(加藤裕道校長)でもこの日、二十数年ぶりに君が代がテープで流され、日の丸も昨年に続き壇上に掲揚された。開式直後、「国歌斉唱。ご着席のままお聞き下さい」とアナウンスされた後、1番のみがテープで流された。起立したり斉唱したりする人はいなかった》
《札幌南高校の卒業式に君が代を流すことに反対して、札幌弁護士会に人権救済の申し立てを行った卒業生5人が、卒業式を終えた1日夕、実際に君が代を流されたその瞬間の気持ちを口々に語った。
▽「とても嫌な気分がしました。目をつぶってしまいました」と語るのはA君だ。
▽君が代がテープで流されると、計6人の卒業生が起立して、歌い始めた。B君は「隣の人が大きな声で、音程をはずしながらも歌っていた。すごかった」と振り返った。
▽C君は「体育館に入場すると同時に君が代が流されるとは思っていなかった。来年もこういう沈滞した卒業式が当たり前になることを危ぐしています」と警戒する。D君は「しらけてしまいました。私の立っている場所からは立った人が見えなかった」。人の担任教諭のうち起立したのは、「半々だった」と観察していた。
▽E君は君が代が流されたら、退席しようと考えていた。「しかしそんな雰囲気ではなかった。立っている人が意外と少なかった」と話した》
▽さらには知り合いのフリージャーナリストに依頼した原稿も使った。
《教育現場に持ち込まれた日の丸と君が代問題について、全国的な視野で取材を続けている元新聞記者でフリージャーナリスト池添徳明氏に寄稿してもらった。
▽国旗は日の丸、国歌は君が代。ただそれだけを定めたはずの「国旗・国歌法」が成立してから、日の丸・君が代について異論や例外を許さない雰囲気が、際限なく広が
っている。なかでも学校への強制はエスカレートする一方だ。
▽掲揚や斉唱をしていない校長に、教育委員会が「できないなら管理職を辞めろ」と迫り、起立や伴奏を拒む教職員は処分される。教職員組合が組織的な抵抗をしなくな
って、教職員間の議論そのものがなくなった。
▽学校現場での掲揚・斉唱は全国でほぼ100%になったが、生徒有志がアンケート調査や議論を積み重ね、校長らと話し合いを続けている学校もある。強制するのはおかしいとの思いからだ。
▽そもそも、どうして卒業式に日の丸・君が代が必要なのだろう。僕らは国のために卒業するのだろうか。個人が尊重されて初めて国が成り立つのでは…。生徒たちはそこに疑問を感じている。
▽これに対して、校長たちの多くは「指導要領で決まっている」「教育委員会に言われている」と繰り返すだけ。生徒自治に理解を示す校長も、なぜか日の丸・君が代は例外で、自分の頭で考えて発言しようとする子どもたちを押さえ付ける。
▽日の丸・君が代の強制は、全員を一律に従わせて思考停止させることにこそ問題の本質があると思う。戦争で利用されたのも、旗や歌に「みんなを一つの方向に束ねて向かわせる」効用があったからだろう。
▽「しるし」や「標識」に忠誠を誓わせ、疑問を認めず、異質な存在を排除することほど怖いものはない。民主主義の成熟度が問われる問題だ》
▽洪水のような原稿を次々と出稿して、ばたばたとしていた。まっ、新聞社らしい瞬間ではあった。
▽で、以下は、何人かに送った後始末メール。
《昨日1日は北海道の公立高校で卒業式がありました。
▽卒業式といえば、日の丸、君が代。北海道ばかりか全国的にも有名な進学校で昨年は甲子園出場も果たした札幌南高校でも問題が浮上しました。
▽君が代を強行しようとする校長ら学校側と、それに反対する一部教諭と生徒たちの対立が鮮明になり、生徒達が今年になって、札幌弁護士会に人権侵害救済の申し立てを行い、これに対して、同弁護士会が校長に対して、話し合いにきちんと応じないのは、人権侵害だとして勧告を行う、という事件に発展しました。
▽昨年四月、北海道教育委員会高校課長から転出したこの校長は、君が代のために送り込まれ下人物で、この勧告を無視して、初めての君が代強制に踏み切る、というのが1日朝の取材情報でした。
▽朝から同高校には報道陣が100人ぐらい殺到し、登校する生徒を捕まえては、インタビューする、という民放。地元北海道新聞はカメラマンを含めて5人の取材、弱小毎日新聞も3人。朝日新聞もカメラマンを含めて計3人の取材体制で挑みました。
▽事前に内部の話を入手していたため分かっていたのですが、学校側は姑息にも卒業生の入場・着席とともに、メロディーだけの君が代をテープで流してしまう、というやり方を選びました。
▽卒業生が入場します。私服高校とあって、女子はやや派手な感じの服装もありますが、それは自由な校風なところでしょう。計10クラスの生徒が順次入ってきました。
▽取材場所が制限されていて、生徒達の表示用は着席すると見えません。
▽教頭が、マイクで「国歌」と宣言したと同時に、君が代が流れました。多くの教員が起立し、歌し出すと、約400人の卒業生のうち起立したのは、六人。制限された取材ゾーンからは全く聞こえなかったのですが、起立した生徒は音程をはずしてまで歌いきったそうです。
▽この間、約一分。
▽沈黙が流れました。
▽そして卒業証書授与が始まり、通常の卒業式になりました。
▽取材していた僕は、北海道用の社会面夕刊に、既に出していた予定稿を手直しして、携帯電話でディテールを送ったのですが、なぜか読売新聞も「起立は六人」という点を強調していて、トーンが一緒になったのは笑えました。
▽で、式が終わって記者会見に臨んだ校長は、最後はしどろもどろになって会見を打ち切ろうとした、なぜか地元NHK記者が激怒。「これでは会見になっていないではないか」と声を荒げる場面もありました。
▽ちょっと思いました。NHKって日の丸と君が代を放送終了時に流している張本人ではなかったっけ。
▽なんて思いつつ取材をしていました。
▽そして、親しくなった教諭に頼んで、夕方は人権侵害救済の申し立てを行ったむ生徒5人にインタビューして、その時、君が代が流れたその瞬間の気持ちを聞き出して記事にしました。「嫌な気分になった。目をつぶっていた」「担任は起立した人間と起立しなかった人と半々だった」
▽今の高校生も問題意識のある奴、っているんだ、とつくづく思いました。
▽会社に戻って急いで原稿をパソコンでひたすらうち続けていました。
▽それと知り合いのフリーライターに頼んで、全国的な君が代問題の争点を原稿として寄稿してもらい、2日の紙面にしました。
▽にして不思議に思ったのは、あれだけ夕刊に大量に記事を送っていた北海道新聞が、翌日の朝刊で全く続報すら載せていないことでした。圧力でもあったのかなと、ふと思いました。毎日新聞の記事は雑だったし。
▽弁護士会の勧告は無視されて、卒業生は心に痛手を受けて旅立ちました。
▽新聞記者として、あとは何が出来るか。手腕が問われることになります。
▽北海道の約200の公立高校のうち、君が代を流さなかったのは昨年が9校。今年はわずか2校になってしまいました。
▽教育現場では思想の強制が着実に始まっているように思いました》
▽依頼原稿を書いてくれたフリージャーナリストからはこんなメールが届いた。
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原裕司さま。
道内版のファクス、受け取りました。
充実していて意欲的な紙面展開だと思いました。
いろいろとお世話になりまして、
ご配慮もいただいて、ありがとうございます。
やっぱり新聞は、出稿してからの流れが、
スピーディーでいいですね。
その日のうちにすべて片が付くのが、
リズムとしてとても気持ちがいいです。
★363小樽警察署での共同取材の失敗
▽私が北海道小樽市の北海道新聞小樽支社報道部に勤務していた時の話だから、もう40年前のことだ。地元の小樽署記者クラブを拠点に、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、北海タイムスの記者が夜勤の共通化を狙って、共同取材を取っていたことがある。しかし所詮はライバル社同士、うまくは続かなかった。
▽小樽市には海上保安庁の出先機関、第一管区海上保安本部(一管本部)があり、北海道全域の海難を受け持つ。朝日新聞など全国紙3紙は小樽に記者を2〜3人置いて事件事故、海難の警戒をしているが、隣の余市、岩内、倶知安の各町には通信部もなく、それぞれの警察署の警戒もしている。朝から深夜までの取材警戒をわずかな記者数でこなすのは大変だという理由で、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、北海タイムスの4社が協定を結んで、交替で夕方から小樽署記者クラブに詰めて、代表取材をしていた。事件事故、海難が発生した場合は、残りの3社に速やかに連絡する決まりだった。
▽一方の北海道新聞は小樽支社報道部に記者が約10人いて、交替で深夜までの警戒体制に当たっていた。
▽ある日の夜のことだ。小樽市内で死亡交通事故が発生した。当番は読売新聞だった。そのベテラン記者、何を考えたのか、各社への連絡を後回しにして、先に被害者の顔写真取りに出ていったのだ。当時は交通事故の顔写真を掲載するのは、新聞業界としては当然の行動で、顔写真競争とも言われていたほどだ。その読売新聞記者は顔写真を取ってから、各社に事故発生の連絡をした。顔写真を入手したとは、話さなかった。
▽翌日の読売新聞と北海道新聞を見て、朝日新聞、毎日新聞、北海タイムスの記者が怒った。ルール破りだと読売新聞に抗議した。
▽このルール破りを契機に、代表取材の協定はあっさりと終わってしまった。北海道新聞記者だった私からすれば、共同での代表取材などあり得なかった。
▽新聞社にとって、負担を軽減する協定を結んだとしても、それが破られれば、紙面的にはマイナスとなるケースだった。当時の状況では、顔写真が載るか否かでは、商品価値が全く違うと見られていた。読売新聞記者のルール破りも問題だが、協定自体が問題なのだ。
▽この話は40年前のことだが、今でも地方ではこうした共同取材が続いている場所があるという。各社が交替で代表取材をしても、それが特ダネの情報なら他紙には伝えないだろうし、シンパからの取材だったら、情報源を明かすことはない。
▽負担軽減の意味は分かるが、ライバル社が共同取材することの、マイナス面の方が大きいと私は思う。こうした共同作業が、いつまで続くのか、と私は疑問に思っている。
★355ショックだった北斗星とトワイライトエクスプレスの廃止
▽東北新幹線が八戸以北に延伸し、北海道新幹線となって青函トンネルを通り、函館まで工事が完成した時、私はちょっとショックを受けていた。そう上野発札幌行きの寝台特急北斗星と、大阪発札幌行きの寝台特急トワイライトエクスプレスが廃止になったことだ。長い列車の旅を堪能できる寝台特急がなくなったのだ。
▽私は北海道新聞に7年間在籍し、その間に青函トンネルの工事が完成している。朝日新聞に入ってからも計2年半、札幌市の北海道報道部で勤務していたから、北海道には友人も多く、毎年、年に数回遊びに行っていた。
▽この時使ったのが北斗星であり、トワイライトエクスプレスだった。
▽このうち北斗星は大宮駅から乗車した。乗車してしばらくは車窓から見る埼玉、栃木、福島、宮城県などを風景を、何の考えもなく眺めていた。
▽車内で買った缶ビールをゆっくりと飲んでから、食堂車に出て、やや豪華な夕食を摂った。
▽ある時、食堂車でビールを飲んでいたら、暴力団員らしき男が入ってきた。テーブルは満席の状態で、その男は空いている席がないかどうか、捜していた。他の乗客に迷惑になるのを心配した私は「どうぞ」と声をかけて、私の相席に来てもらった。
▽ビールを飲みながら、穏やかに声をかけて、少し会話をした。苫小牧の知り合いのところに行くらしい。しばらく飲みながら話を続けていた。この方が、他人への迷惑にはならないから、私なりの判断で続けた。
▽そして夕食が終わり、自分の寝台室に戻った。列車に揺られながら、寝て、青函トンネルを抜けて函館に着く。
▽翌日、朝食を摂りに食堂車に行くと、その彼が待っているではないか。列車は太平洋沿いを走っていた。彼に招かれるように相席になり、朝食を摂った。他人が我々をどう見てるか気になったが、変な行動を起こさせないためにも、私が対応を続けた。そして彼は苫小牧で下車していった。緊張した半日だった。列車は札幌に午前10時ごろ到着する。ハプニングもあったが、こんな長い旅は好きだった。
▽一方のトワイライトエクスプレスは、私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務してた時に利用した。大阪を出たトワイライトエクスプレスは夕方、北陸線を通って直江津駅に到着する。ここから乗車した。
▽乗車するとまもなく食事の注文ガイドが来る。既に缶ビールと酒のつまみを買っていたが、メニューを見せられて、心が騒ぐ。豪華弁当なのだ。2000円の弁当を注文した。
▽これをつまみにビールでゆっくり飲み、食いながら、トワイライトエクスプレスの車窓を見ていた。こちらは日本海側をずっと北上し青森を経由して青函トンネルを抜けて、函館に着く。こちらはこちらで楽しい車窓だった。
▽こんな豪華なゆっくりの旅を、ずっと続けられたらいいなと思っていたが、時は流れ、新幹線建設が次々と進み、ついに函館まで延びてしまった。東北線の一部は第3セクターとなり、もはや寝台特急を走らすことはない。
▽こんな楽しかった寝台列車の旅ももう過去になっている。
▽札幌駅では新幹線延伸を見込んで、駅周辺での整備工事が進んでいる。新幹線が札幌まで来た時、北海道の人たちはこの新幹線をどうするのだろうか。飛行機との競合はないのだろうか、となどいろいろ考えてしまう。
★349一部幹部がこっそり使っていた全日空の株主優待券問題
▽私が朝日新聞北海道報道部に在籍している時だった。会社から突然のように、北海道からの飛行機出張には、全日空の株主優待券を使え、と指示が出された。そこで初めて私は、朝日新聞社が全日空の株主になっていることを知った。それだけではない。株主優待券がありながら、社員には使わせずに、一部の幹部や一部の社員がそれまでこっそりと使っていたという事実が発覚したのだ。私は同僚と共に驚き、怒りを持ってしまった。
▽それまでは、出張時に飛行機を使う場合、新千歳空港から羽田空港までの全日空便や日航便は、往復で6万円近くかかっていた。取材の出張で往復する場合、個人で事前にチケットを予約し、個人で支払い、出張の後に実費請求をしていた。これが何年も続いていた。
▽逆に東京本社の場合でも、同じように羽田空港から新千歳空港に行く場合は、自分でチケットを申し込んで、後に実費請求していた。
▽それが、突然のように全日空の株主優待券を使え、と言うのだ。そうすれば、かなり安くなるし、会社の負担も小さくなる。
▽理屈は分かったのだが、ではじゃあなぜ今までそれを知らせなかったのだろう。
▽株主優待券はある程度まとまって朝日新聞に送られてきたはずだ。それをだれが使ったのか。
▽そんな疑問を抱いた。そして一部の幹部や社員が個人でこっそり使っていたらしいことが、後にわかってきた。
▽まさに驚きである。
▽こんなことが明るみに出ながら、会社は悪びれた様子もなく、株主優待券を使え、と言い始めた。だれも責任を取らなかった。
▽おかしいと思っていたが、労働組合も追求をしなかった。一種の不正なのに、である。
▽今でも思い出すと不愉快になる。
▽リクルート事件が発覚し、朝日新聞の人間数人がリクルート社から接待を受けて、海外旅行に無料で行った際に、実費請求していた人間がいたことを思い出した。自腹を切らないで、請求していたのだ。責任すら取らなかった記憶がある。
▽私は私用で毎年のように北海道に行くが、格安航空会社が進出し、新千歳空港と東京の往復は、羽田空港ではなく成田空港に切り替わった。往復で1万円にも満たない。株主優待券より安い格安航空を、朝日新聞記者はまだ使っていないのだろうか。
★317重労働だったスパイクタイヤとスタッドレスタイヤ、夏タイヤの交換
▽私が新聞記者をスタートさせた1981年当時、北海道は冬になるとあらゆる車がスパイクタイヤを装着して走るようになっていた。乗用車もバスとトラックも、スパイクタイヤ全盛時代だった。
▽タイヤに特殊なスパイクと呼ばれる釘状の金属を何十本も打ち込んだスパイクタイヤは、冬のアイスバーン状態の道路には欠かせない道具だった。アイスバーン状態とは、降ってきた雪が日中溶けて、寒さで氷のように固まり、ツルツルの状態を指す。通常の夏タイヤなら、ブレーキは全く効かない。それがスパイクタイヤだと、打ち付けたスパイクがアイスバーン状態の道路にかみ合って、ブレーキの制動がよくなる。真冬の北海道には欠かせないタイヤだった。アイスバーン状態の道路を運転しても、何の心配もなかったことを思い出す。
▽しかし、このスパイクタイヤが新たな公害の元となった。
▽春が近づくと、そのアイスバーン状態の道路から雪が次第に溶けて、アスファルトの道路が顔をのぞかせるようになる。そのアスファルトの道路を、スパイクタイヤの車が通過すると、そのスパイクがアスファルトの道路を削ってしまい、逆にスパイクタイヤも次第に摩耗していき、それが細かな粉塵となって、空中にまき散らすようになるのだ。道路も車もそして道路に面した建物も、その車分が付着し、非常に汚い光景を生み出すようになっていた。また人体への影響も心配されるようになった。当時は「車粉公害」「スパイク公害」だといわれるようになり、新たな対策が求められるようになった。
▽かつて札幌市が馬車道で馬糞が蒔かれた「馬糞公害」をもじっていた。
▽その新たな公害に対してやっと行政が腰を上げて、規制に乗り出した。スパイクタイヤ禁止条例制定の動きだ。平行して、スパイクタイヤのブレーキ制御に見劣りがしないスタッドレスタイヤの開発がメーカーから進められていた。スパイクタイヤを装着しなくても、雪道の制御は同じ程度になり、これを推奨する動きが広がった。
▽だからその当時、車を所有する人間は、秋から冬、そして春にかけて何回もタイヤ交換することになった。これがかなり面倒な作業だった。
▽北海道の短い秋が終わるのを前に、夏タイヤをスタッドレスタイヤに交換。そして真冬になると今度はアイスバーン対策としてスパイクタイヤにさらに交換。そして冬が終わろうとしている2−3月には再びスタッドレスタイヤに交換し、雪が完全に溶ければ、夏タイヤに戻すのだ。
▽つまり4回もタイヤ交換することになる。自動車部品専門店やガソリンスタントでタイヤ交換するなら、そのたびにその料金がかかるから、私は自分でタイヤ交換をしていた。タイヤのネジを少しずつ緩めてから、ジャッキで車体を上げて、タイヤを交換した。危険防止のため、車体と地面の間には別のタイヤを入れて車体の落下を防いだ。タイヤを4本交換して、ネジを締めて、そして試走してから、さらにネジを締めた。
▽タイヤは意外に重くて、重労働だった。
▽夏タイヤ、スタッドレスタイヤ、スパイクタイヤを交互に使うため、その保管場所も確保する必要があり、札幌市のマンションは敷地内にも個人個人の物置があった。
▽そしてついに行政は、スパイクタイヤ禁止条例を打ち出し、スパイクタイヤはなくなった。こうした頻繁なタイヤ交換は少なくなり、冬はスタッドレスタイヤ1本になった。
★265 日韓W杯組み合わせ抽選の煩雑さ
▽2002年のサッカーワールドカップ(W杯)日韓大会。当時私は札幌市にある朝日新聞北海道報道部(当時・現報道センター)に勤務していて、予定稿を何本も何本も書いた記憶がある。それも試合の記事ではない。組み合わせ抽選で、札幌ドームではどの国とどの国が対決するのか、どんな組み合わせになっても、紙面に間に合うよう、雑観記事を何本も用意していた。
▽その前年から私はW杯担当を命じられていた。札幌ドームで行われるのは1次リーグ3試合だが、12月1日に韓国である組み合わせ抽選会に間に合うよう、取材を始めていた。
▽報道部員に組み合わせ抽選会について、こんなメールも流していた。どれだけ準備に時間がかかっているか、分かってもらえるだろうか。
《来月一日に韓国・釜山で行われる02年サッカーワールドカップの組み合わせ抽選会が近づいてきました。
▽昨日、本社デスクとの打ち合わせ、さらには本日の打ち合わせで、基本的に一日は全員が出番として総動員態勢となりましたので以下にお知らせします。
▽■紙面計画
▽その日の朝刊作業は、基本的に一面にスポーツ部が本記を書き、スポーツ面と特設面で各国のチーム紹介をしていきます。
▽報道部が関与するのは、社会面を見開きする関係で、二社面と道内面です。
▽本社では地域報道部が開催県の支局からの雑観記事で埋めます。すべて予定稿で対応し、使える物だけをつかう、ということになります。
▽例えば横浜で中国の試合がある場合は、中華街との雑観を、札幌ドームでロシア戦がある場合は、北方四島と北海道、というような雑観をイメージしてください。試合の組み合わせが決まったことを前提に、「試合を歓迎します」というようなトーンで結構です。できる限り、土地柄がにじむ、社会面に耐えられる内容を探して取材してください。
▽支局などで事情は違いますが、本社の要求する予定稿は二社面に送るだけで計10本という量になります。
▽強豪チームが来る場合を備えて、そうした予定稿も必要です。
▽■組み合わせ抽選の結果は、午後8時半前後に入る予定です。つまり12版▲の降版、締め切り時間との交錯時間帯になりそうです。
▽28日までに本社地域報道部に予定稿を出稿するため、デスク作業を考えると、25日、遅くても26日までにはリリースする必要があります。
▽予定稿は、それぞれ担当者を決めて、事務局で振り分けます。
▽三十行から四十行をめどに取材を進めてもらいます。
▽■振り分け
▽中国▽北大に留学生が多いことから、留学生会館などにアタックしリサーチする。
▽ロシア▽北方四島の関係者を取材する。
▽イングランド、ドイツ、アメリカ▽テロ対策とフーリガン対策がメーンで、道警担当者にお願いします。
▽ブラジル▽強豪国で、札幌に在住の関係者に取材します。
▽アルゼンチン▽強豪国ですが道内との関係者がいないかもしれないので、もとコンサドーレの選手だった人物で、現在はスナックを開いている人に「期待する」というようなトーンの取材をします。
▽イタリア▽日伊協会の関係者から、それなりの人物を捜し出します。
▽スペイン▽ポルトガルもイタリアと同様の取材か、アルゼンチンの取材方法を採ります。
▽以上です。
▽突然のことですが、よろしくお願いします》
▽私もスペインについてはこんな予定稿を書いている。一部を紹介する。
《「スペインという国を知る絶好の機会。事前の盛り上がりをさらに期待したい」。北海道スペイン協会会長で、スペイン語講師を現在も務める男性は、スペイン戦が札幌ドームで開かれることに友好の起爆剤に、と期待を込める。
▽戦前、現在の東京外大でスペイン語を学んだ真鍋さんは、戦前と戦中を南米ボリビアで過ごし、商社マンとしてスペイン語で駆使する生活を続けてきた。終戦直後から札幌の北海道地方軍政部に通訳として働いた。その後、札幌でスペイン語の講師として過ごし、スペインと北海道友好の架け橋として働き続けた。
▽「スペインは観光立国。私も住んでみたいと思っている」と真鍋さん。例えばフラメンコ熱は高く、札幌でも2000人近くの人たちがダンス教室で学んでいる、という。「スペイン人をのぞくと日本人が一番、フラメンコを好んでいる。それだけ身近な国なんです。北海道はスペインにとって遠いかもしれないけど、身近な土地です」と試合の盛り上がりに期待する》
▽しかし実際の試合は、ドイツ対サウジアラビア、イタリア対エクアドル、イングランド対アルゼンチンの3試合で、多くの予定稿は使われずに終わった。
★253人事異動で渡す餞別、もらう餞別
▽私が新聞業界に入り、北海道で勤務していた時に、半年に1回の人事異動で、餞別を支払う習慣があることに驚いたことがある。転勤する者に対して、上司や同僚、部下が数千円から1万円、餞別として手渡すのだ。新聞業界の定期的な人事異動は、春と秋に1回ずつあり、そのたびに転勤する人間に選別を渡す習慣があった。
▽転勤する人間は、会社の上司、同僚、そして後輩から餞別を受け取る。社会だけではない。取材先かも受け取る。警察署だったら、署長、副署長、各課長からも受け取った。市役所担当だったら、市長や助役、各部長からも受け取った。これが企業担当記者ならば、市長ら幹部からも受け取っていた。私のかつての上司は、経済担当記者だったため、多くの企業から餞別を受け取り、その金額が100万円にもなったと豪語していた。
▽私も初めての転勤で、警察署長や副署長、各課長から餞別を受け取った。また市役所の幹部からも受け取った。その金額が当時の私の給料とほぼ同じだったことを思い出す。
▽餞別の金額は、若い同僚だったら3000円、先輩は5000円、上司は1万円が相場だった。
▽一方で餞別を渡す側からは見れば、半年に1回の人事異動には、餞別を用意する必要がある。警察署は転勤が多いから、課長クラスは、かなりの金額を用意する。私も転勤する上司や同僚に餞別を渡し続けた。
▽こうしてみると、転勤で受け取る金額が多くても、出す回数も多いので、収支はトントンかもしれない。
▽良くも悪くも、こんな習慣は、北海道だけのものだったのだろうか。少なくても関東や北陸、東北地方ではなかった。
▽そして北海道では今も続いているのだろうか。
★214勝てなかった道新の勝毎対策
▽北海道新聞夕刊廃止のニュースで思い出したのが、北海道新聞の勝毎対策だった。「勝毎」とは、北海道帯広市で新聞を発行している十勝毎日新聞のことで、夕刊紙だ。帯広市を中心に占有率が高く、北海道新聞は常にこの占有率を崩す戦略を打ち立てていた。私が北海道新聞に在籍していた当時から、あらゆる戦術を使って、部数拡大を狙っていた。地方版を拡大し、夕刊まで広げたが、結局勝てなかった。勝てないまま、北海道新聞自身が夕刊を廃止するのだから、歴史の皮肉だ。
▽十勝毎日新聞の概要を見よう。ホームページによると、創立は1919年で既に100年以上の歴史がある地方紙だ。朝刊は発行しておらず、夕刊だけの地方紙で、2022年10月の発行部数は、73000部だとしている。首都圏から比較すると、それほどの部数ではない。北海道東部の帯広市を中心とした取材網を構築しており、勝毎の占有率は当時からかなり高かったことを思い出す。
▽道新は、この帯広市での勝毎の牙城を崩すため、道新帯広支社を拡充し、報道部の記者も増員。地方版を2ページから4ページに増やし、夕刊にも地方版を入れて、帯広キャンペーンを始めた。あらゆる情報を紙面化し、勝毎の読者を道新の読者に鞍替えすることを狙った。足寄町出身の歌手松山千春を紙面で登場させたり、松山千春と仲が良い地元出身の政治家を取り上げたりと、かなり攻撃的な紙面展開をしていた。
▽しかし、その牙城は崩せなかった。崩せないまま、道新の部数が激減した。勝毎対策どころではないのだ。
▽道新は私が在籍していた時の部数が110万部で、私が退社後に120万分になったが、インターネットの普及で部数が減り始めており、現在は80万部になっている。つまり最盛期の3分の2間で落ち込んでいるのだ。
▽新聞の部数が激減しているのは、どの社も同じだ。インターネットの普及で、読者が紙の媒体を選択しなくなったことが大きい要因だ。活字離れではなく、印刷された活字離れなのだ。
▽これは新聞業界だけではなく、出版社も同じだ。週刊朝日の休刊で象徴されるように、週刊誌も部数は激減している。多くの週刊誌が毎月のように合併号を出してしのいでいるように、週刊誌もまた部数維持に四苦八苦しているのだ。新聞だけではないことに注意してもらいたい。
▽こんな状況だから、北海道新聞が夕刊廃止に踏み切ったのは、大きい。これが引き金になって、各紙は夕刊廃止を次々と打ち出していく可能性が高い。
▽こうなってくると、全国紙もブロック紙も生き残りに様々な策を打ってくるだろう。もしかすると、地方紙だけが生き残る可能性もある。
★164サッカーは戦争
▽「ワールドカップはサッカーという名前を借りた国家の戦争なんです。だから札幌ドームで行われるナショナルゲームとは、戦争そのもの。その心構えができているかどうか」
▽2002年のサッカーワールドカップ(W杯)日韓大会を事前取材していた私に、こんなことを話してくれたのは、サッカーJリーグ、コンサドーレ札幌の選手だった人物だ。当時私は札幌市の朝日新聞北海道報道部(当時・現報道センター)に勤務していて、札幌ドームで予定されている3試合の事前取材をしていた。
▽この彼はその時、札幌市の繁華街すすきのの一角でサポーターたちが集まるスナックのマスターを勤める傍ら、地元高校生サッカーチームの監督として指導していた。
▽16歳以下の日本代表に選ばれたこともある。海外遠征も中学時代から経験している。
「例えばサウジ。15歳以下のアンダー15の国際試合で、自国のチームが負ける。少年相手に観客席から大ブーイングが吹き荒れる。国対国の対決なんです。それだけ見ている方も闘いなんですね」
▽彼によれば、ワールドカップは「神がかりの技術をみせる場だ」といい、世界のレベルを堪能できるチャンスだともいう。
「国によってそれぞれチームの特色があるが、要は点を取って、点を与えないスポーツ。そこが面白い」
と説明する。
「サッカーという戦争を札幌ドームで楽しんでください」
と言い切った。
▽参加国の特徴も説明してもらった。アルゼンチン戦の見どころは攻撃に関してスピードが際だっている点だ。相手のゴールを割って3、4本のゴールを決めるのをセオリーだとすると、5本も6本もパスをして決める。
「優勝候補。これが札幌で見ることができるなんて」
と語る。怖くなってきたチームだという。
▽ポルトガル戦の見どころは、サッカーがうまい、という点だ。フリーキックなどリスタートで急に動いたりして、点を取ることに賢明なチームだ。
▽ブラジル戦の見どころは、何でもうまい点だ、という。彼によると、ブラジルは相手のやりたいことをさせないで、こちらのしたいことを悟られない点にある、という。どういうメンバーが来るか、それも楽しみだという。
▽イタリア戦の見どころは、選手個人のイマジネーションがすばらしいチームである点だ、という。守備の意識が高い、といわれているが、格好悪い攻撃はしたくないから、守備に力を入れるお国柄ではないか、と推測する。
▽スペイン戦の見どころは、スピードの速さにある、という。
「スペインのサッカーは大好きだ。見ていて楽しくなる」
と話した。
▽そのアルゼンチンはイングランドと対戦し、ベッカムのFKで1点を奪われ、敗退した。その日の夜の繁華街すすきのは、お祭り騒ぎが続いていた。
【再掲載】★020新庄がやってきた
▽「僕はボールをなめていました。ボールは僕をなめていました」
▽プロ野球の日本ハムに新庄選手が加入した年の沖縄・名護キャンプで報道陣に囲まれた新庄剛志選手が話した一言がこれだった。練習試合で不覚にも外野フライを取り損なってしまい、エラーになった。その場面を振り返っての名言だった。簡単な外野フライだと思って馬鹿にしていたら、ポロリとボールが逃げていった。打者走者に進塁を与える失策である。通常の選手なら、聞かれたくない話なのに、新庄はこんな場合でも逃げないで、こういう発言をしてくれる。大物だと思った。
▽プロ野球の場合、選手を取材する順番が決まっていて、最初はテレビなどの動画取材を優先させて、次にスチールやペンなど新聞記者の取材に移る。
▽新庄の場合、受けを狙って、我々記者に度々面白い発言をしてくれるから、この日も期待して待っていた。それがこの「ボールは僕をなめていました」という発言になったわけだ。
▽日本ハムが北海道に移転してきた時、たまたま私が北海道報道部(当時・現北海道報道センター)の担当記者だった。当時、北海道にプロ野球球団はなく、それゆえ、本社運動部も担当記者を置いていなかった。シーズンが始まるまでは、北海道報道部の仕事となった。遊軍だった私が担当することになった。
▽札幌ドームを拠点とすることも決まっていた。2月からの沖縄キャンプに入ろうとする直前で入ってきたニュースが、あの新庄加入だった。地元マスコミは大騒ぎになった。私も北海道版で連載記事を書いた。
▽私が日本ハムの沖縄キャンプに取材で行く時、偶然にもその本人を見た。新千歳空港からの全日空便に乗り、羽田空港で乗り換えて沖縄・那覇空港に到着した時だ。飛行場の到着ロビーに向かう長い廊下を歩いていると、先にジーンにサンダル姿で歩く大柄の男がいた。最初はヤクザかなと思ったほど、妙な雰囲気を醸し出していた。それが新庄だった。到着ロビーでは新庄を待つ地元ファンであふれていた。ロビーは騒然となっていた。新庄人気、恐るべしと思った。
▽それからしばらく日本ハムのキャンプ情報を取材して記事にしていったが、注目はやはり新庄だった。他にも小笠原道大など有名な選手もいたが、宿泊施設からキャンプ場に歩いて向かう小笠原は、マスコミの取材に全くしゃべらない。無言で歩く小笠原に同行するだけだった。その点、新庄は練習後にはよく囲みの取材に応じてくれた。このサービス精神こそ、プロ野球発展には必要だなと今でも感じている。
▽その新庄が、その後大活躍して、日本ハムは強くなった。
▽そしてだれもが予想できないまま、今度は日本ハムの監督になった。
▽「ビッグボス」である。プロ野球に楽しみが出来た。
★124小樽運河再訪
▽私は北海道小樽市の小樽運河の散策路を歩いていた。日差しが強く、観光客が多かった。散策路には多くの出店が出ていて、多くの人間がゆっくりと歩いていた。2022年夏のことだ。地元在住の友人2人が私と同行してくれた。2人は異口同音に、こう言った。
「私たちは、これまでここを歩けなかったんだよ」
▽その言葉の意味を私は十分に理解できた。小樽運河が持つ歴史を知っている人間には、目の前に広がる小樽運河は、かつての運河ではなかったのだ。
▽今から40年以上も前、小樽運河を巡って、論争が地元で続いていた。全長1142メートル、幅40メートルの小樽運河を全面埋め立てて、バイパスを造る、という行政側、経済側の動きに対抗し、「運河を埋め立てるな、保存しろ」という地元市民が中心となって、保存運動が続いていた。
▽かつての小樽は国際港湾として北海道経済の中心として発展して行った歴史がある。小樽運河は小樽港のシンボル的な存在だった。しかし街の斜陽化で経済が衰退し、人口減も続いていた。これに歯止めをかけようとしたのが、小樽運河を埋め立てて、道路を造るという行政・経済界の発想だった。時は経済成長時代にあって、道路造りこそが経済の発展に繋がるという考えが蔓延していた時代だった。
▽これに対し、地元住民たちが反対の声を上げ、小樽運河を守る会を結成し、「小樽運河埋め立て反対」と主張し、街づくり運動に発展していった。運河周辺には大正時代に建てられた石像倉庫群が並んでいた。小樽運河と製造倉庫群を一つの景観として捉えて、その景観を守れ、と主張するようになった。論争は街づくりの景観保全運動になっていった。
▽全国からも注目を集め、埋め立てか、埋め立て反対かで、論争が続いた。しかし行政は半ば強引に埋め立て工事を強行した。
▽当時誕生したばかりの革新知事、横路孝弘も政治介入に乗り出し、埋め立て工事は一時中断したが、結果として再開し、運河は半分埋め立てられ、バイパスが完成した。景観は壊されたのだ。
▽保存運動は結果として挫折したが、その歴史は街づくり運動のシンボルと評価された。その小樽運河を守る会の会長だったのが、故峰山冨美さんだった。
▽私が小樽運河を再訪した時に同行してくれた2人は、その峰山さんの下で、長く運動を続けて、峰山さんを支えてきた人間だった。
▽小樽運河保存運動は挫折したが、街づくりにこだわったからこそ、2人は今の運河を正視できないのだろう。あの時代の景観はなくなってしまったのだ。そしてその景観を知らない観光客が、何のためらいもなく、運河周辺を散策している。この違和感を感じているのだろう。
▽小樽運河埋め立てとは何だったのか、そして街づくりとは何だったのか。地元で取材してみないとわからない街づくりの物語だった。
◎参考文献→拙著『取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶』
★102トイレ
▽担当していた市役所の男性トイレに、排便用の便器がなくて、困った経験がある。今回はその下の話を書こう。
▽北海道小樽市の市役所だ。正面の庁舎の市役所は立派な建物だったが、男性用トイレに、排便用の便器がなかった。立って小便するだけのトイレだけだった。
▽当時の新聞業界は徒弟制の社会で、上司や先輩は部下や後輩に、かなり激しい指導をしてくれたものだった。怒鳴るのは当たり前で、私は毎日のように毎時間のごとく、怒鳴られた。
▽このためか、私は精神的にちょっと病んでしまい、過敏性で常に便意を催した。
▽そのたびにトイレに行くのだが、男子トイレに、排便用便器がない。排便ができないのだ。なぜ男性トイレに、排便の便器を造らなかったのだろうか。不思議な建物だった。
▽このため、隣の女子トイレに、誰もいないことが見計らって、駆け込んだ。見つかったらごめんなさいと、心の中で謝って入った。今なら、痴漢だと叫ばれてしまうだろうな。
▽ただし排便はなかった。精神的に病んで過敏性のものだったと今では思っている。こんなことがしばらく続いた。
▽今でこそ過去の話だが、私が新聞業界に入社した時の社内は、完璧に先輩、上司が絶対的だった。たとえ間違った命令でも、鵜呑みにして聞くしかなかった。だから、その我慢の末に、過敏性の便意を感じたのだろう。
▽あのころの光景を思い出す。会社では、上司が机の上に土足で両足を上げて、たばこを吸い、部下に指示を出していた。今考えれば、ヤクザのような世界。上司は絶対的な存在だった。反論すれば、逆に怒鳴り散らされた。こんな状態だったから、体調がすぐれなかった日々が続いた。確かに新聞記者はわずか1年でも違うと、仕事の量も質も違ってくる。先輩や上司は絶対的な存在だった。
▽だから当時、新人の新聞記者は3日で辞めるか、3週間で辞めるか、3カ月持つかと言われた。
▽よくこんな世界を生きてきたのだろうと我ながら思ってしまう。
▽にしても、小樽市役所のトイレ、今どうなっているか、知りたいものだ。
【再掲載】★009W杯
▽「あのアルゼンチンに勝ったんだぜ。こんなにうれしい事はない。君たちも飲んでくれ」
▽カウンター横にいた若い男はそう英語で話しかけて、私にビールを勧めるのだった。
▽その日の夜、札幌市の繁華街ススキノのビールバーに私はいた。カウンターの隣にいたのは、日本に留学しているという英国人だった。
▽2002年サッカーワールドカップ(W杯)日韓大会で試合会場となった札幌ドームでは、計3試合が行われ、そのうちの1試合が、イングランド対アルゼンチンの試合だった。まさに怨念の対決。フォークランド戦争があり、その20周年を迎えての試合だった。一部マスコミは「両国はまるで戦争準備をしているかのようだ」と書き立てていた。
▽試合はベッカムのフリーキックで得た1点をイングランドが守り切り、勝った。観客席の私の目の前で球を蹴るベッカムがそこにはいた。
▽この試合後のサポーターの暴動を心配した道警(北海道警察本部)は、フーリガン対策として警戒に当たっていた。他の県からの応援組みを含めて7000人の厳戒態勢を敷いていた。一般のファンが試合後どういった行動に出るか、サポーターが暴徒化したことに備えて、特別な沈静化道具を用意し、徹底した警備体制を続けていた。
▽私たち朝日新聞北海道報道部(当時・現北海道報道センター)の記者も警戒のため、試合を終えたサポーターたちがススキノに集まることを念頭に、札幌ドームから地下鉄で移動し、ススキノの街を見回っていた。
▽どこの店も混んでいた。そしてうれしそうにビールを片手に談笑している姿を見た。暴動は起きそうにもなかった。
▽だったら、サポーターの話を聞こうとビールバーに入ったのだった。
▽冒頭で紹介したシーンは、その時のものだった。
▽とにかく、うれしかったようだ。陽気に英語で話しかけてきた。「あのアルゼンチンに勝った」という長年の思いが実現したのだろう。
▽しかもイングランドの貴公子と言われたベッカムのシュートが試合を決めた。役者がそろったのである。
▽W杯取材のため、数カ月前から準備を行ってきたが、あるJリーガーの選手が話していたことを思い出す。
「サッカーは戦争ですよ」
▽欧州のサッカー事情を知っているだけに、ズバリ言い当てていた。サッカーは戦争だった。
★074「しれとこ100平方メートル運動」
▽「しれとこ100平方メートル運動」をご存知だろうか。北海道・知床半島の大自然を守ろうと、地元の斜里町が始めた自然保護運動だ。運動がスタートしてからすでに40年以上が経つ。2022年10月、冬が訪れるのを前に、私はその斜里町の運動の拠点となっている知床自然センターの敷地内にある建物「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を訪れた。
▽成田空港から格安航空機で北海道・女満別空港まで飛行機で約2時間弱。女満別空港からはレンタカーを借りて、知床半島に向かって約2時間かかった。
▽そのハウスの中に、私が今回目的にしていた名札を探した。運動の賛同者で全国からの集められた寄付をした人の氏名が書かれた名札だ。寄付者全員の名札があった。都道府県別に、あいうえお順に掲示されており、目的の名前はすぐに見つかった。私の長男の名前だった。長男が生まれてすぐに、長男名でこの寄付を行った。
▽「しれとこ100平方メートル運動」はかつて乱開発の危機に遭った知床国立公園の開拓跡地を保全し、原生の森を復元する取り組みだ。地元斜里町が1977年に知床国立公園内の開拓跡地の保全と原生林の再生を目指し、「しれとこ100平方メートル運動」の開始を発表した。全国から賛同人を募り、寄付を集めて、原生林の土地を買っていく運動だ。
▽きっかけは朝日新聞のコラム天声人語だった。天声人語で紹介されたイギリスのナショナル・トラスト運動に、藤谷豊町長(当時)が注目し、知床流のナショナル・トラストとしての行動開始を決断したという。
▽ホームページにはこう記されている。
《国による土地の買い上げ実現が遠のいていく中、開拓跡地の保全対策に心をくだいていた藤谷豊町長(当時)は、全国に呼びかけて100平方メートルずつの土地を買い上げてもらう運動の構想を東京の知人達とひそかにあたためていました。ある日、朝日新聞朝刊の「天声人語」欄で紹介されていたイギリスのナショナル・トラスト運動に注目し、これを読んだ藤谷町長は知床流のナショナル・トラストとしての行動開始を決断しました。そして、1977年2月に「しれとこ100平方メートル運動」のスタートを発表したのです》
《「しれとこで夢を買いませんか」のキャッチフレーズで土地の買い取りや植樹費用等にあたる金額8000円を一口として寄付を募りました。この運動は自然保護に関心を持つ全国の人々から賛同を得られ、また運動を支援する報道にも後押しされて各地から寄附金が寄せられました》
▽当時乱開発の危機にあった開拓跡地の買い取りに必要な寄付を募った。この運動は全国から多くの賛同を得て、1997年には延べ参加人数4万9000人、寄付金額は5億2千万円となり、ほぼ全ての土地の買い取りをすることができたという。2010年には100%の取得を完了した。この運動は1997年から「100平方メートル運動の森・トラスト」へと発展を遂げ、運動地にかつてあった原生の森と生態系の再生を目指した取り組みを続けているという。
▽私がこの運動に関心を持ったのは、新聞業界に入った1981年ごろだ。朝日新聞天声人語に紹介されたことの記憶はないが、地元紙ではなく、全国紙が注目したことに、そして地元町長がその天声人語にヒントを得て、運動を始めたことに興味を持っていた。
▽ハウスでずらりと並ぶ全国の賛同人の名札を見ていると、運動は絶えることなく続いてきたことを実感した。名札すら、もうないのではないかとも思っていたのだ。
▽自然破壊が進む中で、この運動を提唱した当時の町長や関係者の惜しまない努力に敬意を表したい。
★047炭鉱
▽昭和時代の国のエネルギー政策の転換で、石炭から石油へと大きな舵取りが行われ、全国各地にあった炭鉱は閉山に追い込まれていった。炭鉱の遺産を歴史的に残そうという動きは、あまり見られないのはなぜなのだろうか。
▽その炭鉱の一つ、九州・筑豊炭鉱で炭鉱労働者として働いていた山本作兵衛(1892-1984年)という人物が描き続けた炭鉱労働の記録画と日記697点が2011年のユネスコ世界記憶遺産になったことは、炭鉱に関心を持つ人間以外、あまり知られていない。その山本作兵衛の足跡と作画、日記を紹介しながら、筑豊炭鉱の歴史をドキュメンタリーで紹介したのが、熊谷博子監督の「作兵衛さんと日本を掘る」だ。一般公開は2018年の製作・公開で、自主上映も始まっている。
▽映画では、作兵衛が描く炭鉱労働者の絵がリアリティーに富んでいて、見る者の目を引きつけていくことを紹介し、炭鉱現場の重労働を紹介している。そして作兵衛の子ども、孫、炭鉱の実態を記録し続けた記録作家の上野英信の長男、作家の森崎和江、炭坑夫だった高齢の女性らを登場させて、立体的に筑豊炭坑の歴史、日本の炭坑の歴史を振り返った。完成度の高い作品になっている。熊谷曰く、「完成まで7年間かかった」と言う。
▽炭鉱の歴史は、日本を支えた貴重な産業の栄枯盛衰でもある。こうした貴重なドキュメンタリーが公開されたことは喜ばしいことだと私は思う。
▽歴史はこれからも記録していかなくてはならないと感じる。
▽翻って、北海道夕張市の北炭夕張新鉱はどうだったか。北炭夕張新鉱は呪われた歴史を持つ。1981年10月には死者93人を出すガス突出・ガス爆発を発生させて、夕張市の斜陽化は加速した。
▽そして、この犠牲になった炭鉱マンに対するカネが入ったことで、炭鉱の下請け業者だった夫婦がその3年後の1984年5月、自分の会社の寮に火を点けて、6人を殺害する保険金殺人事件を起こした。生命保険と火災保険で1億3800万円のカネを手にした。
▽「呪われた」と書いたのは、それだけで終わらなかった。逮捕された夫婦は、1審の札幌地裁で死刑判決を受けて、控訴するが、昭和天皇の死去に伴う恩赦を期待して、突如として控訴を取り下げてしまう。1988年のことだ。あの1988年秋は、昭和天皇の危篤が続いていた時期だった。
▽新聞もテレビも天皇の様態を細部にわたって刻一刻と伝えていた。毎日毎日、大ニュースとして取り上げていた。そんな社会から隔離されていたはずの、刑務所の受刑者や、拘置所の未決者に恩赦の期待が高まったのだ。天皇死去に伴って政府が実施する大喪の礼や新天皇の即位の礼に伴う恩赦の対象に、死刑確定囚も含まれる、という噂が流された。死刑囚にも恩赦が期待できる、しかし刑が確定しなくては対象にならない、という内容だった。
▽だがこれは誤りだった。死刑確定囚や死刑相当事件の受刑者に対して恩赦が実施されたことは過去になく、まさしく単なる誤報だった。
▽そして1997年8月、夫婦2人は同時に死刑執行された。「呪われた」とは、昭和という時代に翻弄されたため、という意味だった。
▽◎関連図書→拙著『極刑を恐れし汝の名は』(洋泉社)、拙著『取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶』(東京図書出版)
★020新庄がやってきた
▽「僕はボールをなめていました。ボールは僕をなめていました」
▽プロ野球の日本ハムに新庄選手が加入した年の沖縄・名護キャンプで報道陣に囲まれた新庄剛志選手が話した一言がこれだった。練習試合で不覚にも外野フライを取り損なってしまい、エラーになった。その場面を振り返っての名言だった。簡単な外野フライだと思って馬鹿にしていたら、ポロリとボールが逃げていった。打者走者に進塁を与える失策である。通常の選手なら、聞かれたくない話なのに、新庄はこんな場合でも逃げないで、こういう発言をしてくれる。大物だと思った。
▽プロ野球の場合、選手を取材する順番が決まっていて、最初はテレビなどの動画取材を優先させて、次にスチールやペンなど新聞記者の取材に移る。
▽新庄の場合、受けを狙って、我々記者に度々面白い発言をしてくれるから、この日も期待して待っていた。それがこの「ボールは僕をなめていました」という発言になったわけだ。
▽日本ハムが北海道に移転してきた時、たまたま私が北海道報道部(当時・現北海道報道センター)の担当記者だった。当時、北海道にプロ野球球団はなく、それゆえ、本社運動部も担当記者を置いていなかった。シーズンが始まるまでは、北海道報道部の仕事となった。遊軍だった私が担当することになった。
▽札幌ドームを拠点とすることも決まっていた。2月からの沖縄キャンプに入ろうとする直前で入ってきたニュースが、あの新庄加入だった。地元マスコミは大騒ぎになった。私も北海道版で連載記事を書いた。
▽私が日本ハムの沖縄キャンプに取材で行く時、偶然にもその本人を見た。新千歳空港からの全日空便に乗り、羽田空港で乗り換えて沖縄・那覇空港に到着した時だ。飛行場の到着ロビーに向かう長い廊下を歩いていると、先にジーンにサンダル姿で歩く大柄の男がいた。最初はヤクザかなと思ったほど、妙な雰囲気を醸し出していた。それが新庄だった。到着ロビーでは新庄を待つ地元ファンであふれていた。ロビーは騒然となっていた。新庄人気、恐るべしと思った。
▽それからしばらく日本ハムのキャンプ情報を取材して記事にしていったが、注目はやはり新庄だった。他にも小笠原道大など有名な選手もいたが、宿泊施設からキャンプ場に歩いて向かう小笠原は、マスコミの取材に全くしゃべらない。無言で歩く小笠原に同行するだけだった。その点、新庄は練習後にはよく囲みの取材に応じてくれた。このサービス精神こそ、プロ野球発展には必要だなと今でも感じている。
▽その新庄が、その後大活躍して、日本ハムは強くなった。
▽そしてだれもが予想できないまま、今度は日本ハムの監督になった。
▽「ビッグボス」である。プロ野球に楽しみが出来た。
★009W杯
▽「あのアルゼンチンに勝ったんだぜ。こんなにうれしい事はない。君たちも飲んでくれ」
▽カウンター横にいた若い男はそう英語で話しかけて、私にビールを勧めるのだった。
▽その日の夜、札幌市の繁華街ススキノのビールバーに私はいた。カウンターの隣にいたのは、日本に留学しているという英国人だった。
▽2002年サッカーワールドカップ(W杯)日韓大会で試合会場となった札幌ドームでは、計3試合が行われ、そのうちの1試合が、イングランド対アルゼンチンの試合だった。まさに怨念の対決。フォークランド戦争があり、その20周年を迎えての試合だった。一部マスコミは「両国はまるで戦争準備をしているかのようだ」と書き立てていた。
▽試合はベッカムのフリーキックで得た1点をイングランドが守り切り、勝った。観客席の私の目の前で球を蹴るベッカムがそこにはいた。
▽この試合後のサポーターの暴動を心配した道警(北海道警察本部)は、フーリガン対策として警戒に当たっていた。他の県からの応援組みを含めて7000人の厳戒態勢を敷いていた。一般のファンが試合後どういった行動に出るか、サポーターが暴徒化したことに備えて、特別な沈静化道具を用意し、徹底した警備体制を続けていた。
▽私たち朝日新聞北海道報道部(当時・現北海道報道センター)の記者も警戒のため、試合を終えたサポーターたちがススキノに集まることを念頭に、札幌ドームから地下鉄で移動し、ススキノの街を見回っていた。
▽どこの店も混んでいた。そしてうれしそうにビールを片手に談笑している姿を見た。暴動は起きそうにもなかった。
▽だったら、サポーターの話を聞こうとビールバーに入ったのだった。
▽冒頭で紹介したシーンは、その時のものだった。
▽とにかく、うれしかったようだ。陽気に英語で話しかけてきた。「あのアルゼンチンに勝った」という長年の思いが実現したのだろう。
▽しかもイングランドの貴公子と言われたベッカムのシュートが試合を決めた。役者がそろったのである。
▽W杯取材のため、数カ月前から準備を行ってきたが、あるJリーガーの選手が話していたことを思い出す。
「サッカーは戦争ですよ」
▽欧州のサッカー事情を知っているだけに、ズバリ言い当てていた。サッカーは戦争だった。
★005水島新司の取材
▽プロ野球の日本ハムが北海道に移転することが決まり、私が当時勤務して朝日新聞北海道報道部(当時・現北海道報道センター)では、新年企画として日本ハムの特集を組むことになり、計8ページの正月別刷りを作ることになった。
▽担当デスクと担当記者数人でチームを作り、企画案を出して、あれこれとリサーチし、私は漫画雑誌で札幌ドームを舞台にした連載漫画を続けていた漫画家の水島新司にインタビューすることになった。このほか「親分」の名で知られていた大沢啓二・元監督と阪急で活躍した北海道出身の左腕投手、星野伸之にもインタビューすることになり、そのアポ取りを急ぐことにした。
▽「野球狂の詩」「ドカベン」「あぶさん」などの作品で有名な水島新司のアポ取りは難航した。事務所に電話しても、秘書らしい人物がキチンと取り次いでくれない。事務所に直接行っても拒否された。仕方ないので、水島新司の予定行動を探ることにして、突撃取材するしかないと考えた。何回か東京と札幌を往復した。結局神宮球場で彼が作っている野球チームの試合があることを知って、そこに行き、突撃のインタビューを敢行した。
▽札幌ドームを本拠地にする日本ハムをどう思うか、などキーワードを日本ハムとその前身である東映、札幌ドーム、北海道などに絞って質問し、答えてもらった。当の本人は全く嫌な顔はしないで答えてくれた。
▽そして漫画で連載した画像もそのまま新聞に使っても問題にないと言ってくれた。これは出版元にも問い合わせたが、オーケーだった。何と寛容な人物なのかと思ったりもした。通常だと使用料と称して数万円を請求されるところだ。
▽正月の別刷り紙面は、結果として予定通り取材できて、良かったと思っている。
▽「野球狂の詩」にしろ、「ドカベン」にしろ、「あぶさん」にしろ、野球を大好きな水島新司が世に放った作品であり、私も読んでいて、かなり感化された人間だ。また「あぶさん」では、まだセリーグに比べて人気がなかったパリーグに光を当てたという功績も大きい。
▽また私が新潟勤務になった時は、朝日新聞新潟総局近くに、本人の兄弟が経営する「どかベん」という飲食店があり、昼食のランチは、まさに「どかべん」だった。ご飯がてんこ盛りだった。何回通ったことか。
▽新潟市の中心街の商店街アーケードには、「野球狂の詩」で登場する人物の銅像がいくつも設置されていて、水島新司が新潟出身で、新潟市民も彼を応援しています、というメッセージも伝わってくる。
▽その水島新司が2022年1月に亡くなった。冥福を祈りたい。
★005警戒電話
▽私が朝日新聞退社前の数年気になっていたのは、夜勤や泊まりの記者が管内警察署への警戒電話をしなくなったことだ。所轄や県警本部広報に電話をして、事件事故の発生の確認をすることを、警戒電話と称するが、その警戒電話をする光景が、いつの間にかなくなった。
▽以前なら、朝刊、夕刊の降版時間に合わせて、警戒電話をして来たから、一晩だけで数十件以上も電話していた。電話をするだけでうんざりだったし、電話で事件事故をキャッチ出来れば、そのまま広報責任者から内容を聞き出して、原稿にする作業もあったから、泊まりの記者にとっては仕事量がそれだけ増えた。もちろん大きな事件事故は県警担当記者の仕事になるが、小さな事件事故は短信と呼ばれるミニニュースをするのは泊まり記者の役目だった。泊まり勤務は気の抜けない仕事だった。
▽警察署は夕方になると、当直体制となり、各課の課長が当直長として広報責任者となる。だから夜勤記者はこの当直長に電話をするのだが、各社一斉に電話が入るとなかなか繋がらない。こんなことはよくあった。
▽この警戒電話がいつの間にか、なくなっていた。代わりに、所轄や県警本部広報からのファクスで、事件事故の発生を知るようになった。もちろん突発性の高い事件事故は県警本部広報から記者クラブの幹事社を通じて、各社に連絡が回るが、いずれにせよ、警戒電話をすることがなくなったのは事実のようだ。
▽警戒電話をしないというのは、ちょっと私の世代では考えられないことだ。広報の発表するファクスを待っていたら、それだけで30分も1時間も情報のキャッチが遅れる。遅れれば、締め切りに間に合わなくなる。こんな危機感はないのだろうか。
▽警戒電話で私が思い出すのは、1983年9月1日の大韓機撃墜事件の時だ。大韓航空のボーイング747機がソ連の戦闘機に撃墜され、乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した事件で、私は当時北海道新聞記者として、小樽支社報道部に勤務していた。この日早朝、北海道小樽市にある第1管区海上保安本部(1管本部)に1回目の警戒電話を自宅から入れた。当直責任者は、大韓機が釧路沖で機影が不明になったと教えてくれた。最後に確認出来た場所とその日時を確認し、本社社会部に第一報を入れたことを覚えている。その後情報はぶれて、釧路空港に着陸という情報になり、さらにはサハリン沖で墜落、という内容に変わっていった。
▽おそらくだが、この私の第一報が日本のマスコミの中では一番速かったと今でも思っている。
▽第一報が速ければ、その分取材体制もキチンと組める。
▽この一報以降、私は数カ月、1管本部に詰めっきりとなり、さらには漂流していた遺留物をソ連から受け取った1管本部の巡視船の取材をすることになった。
▽その取材風景が写真週刊誌に出るとは夢にも思わなかった。