32年間の沈黙を破る
▽あの連続幼女誘拐殺人事件の話を綴っていきます。
▽32年間の沈黙を守ってきた理由と背景を説明します。
★目次
第1章 沈黙の32年間→2023/04/06アップ
第2章 『今田勇子vs警察』→2023/04/17アップ
第3章 終わりの始まり→2023/04/28アップ
第4章 書き得→2023/05/08アップ
第5章 遺体発見→2023/05/15アップ
第6章 似顔絵公開→2023/05/19アップ
第7章 昭和天皇危篤→2023/05/24アップ
第8章 動き出した容疑者→2023/05/31アップ
第9章 今田勇子名乗る→2023/06/07アップ
第10章 極秘捜査と特ダネ→2023/06/20アップ
第11章 段ボール箱という物証→2023/06/28アップ
第12章 県警本部長の回顧→2023/07/06アップ
第13章 4人目の遺体→2023/07/18アップ
第14章 呉越同舟→2023/07/28アップ
第15章 伝えなかった極秘情報→2023/08/07アップ
第16章 取られた主導権→2023/08/18アップ
第17章 隠密の夜回り→2023/08/28アップ
第18章 宮﨑勤とは→2023/09/07アップ
第19章 上申書という名の自供→2023/09/20アップ
第20章 リクルート事件→2023/10/02アップ
第21章 秘密のアジト報道の大誤報→2023/10/16アップ
第22章 新聞業界の報道体質→2023/10/30アップ
第23章 不明女児2人目の行方→2023/11/13アップ
第24章 スケジュール→2023/11/27アップ
第25章 不明女児2人目の犯行と遺体発見→2023/12/07アップ
第26章 違った車種→2023/12/18アップ
第27章 住民の死角→2024/01/11アップ
第28章 捜査の衰退→2024/01/25アップ
第29章 起訴、そして初公判→2024/02/22アップ
第30章 時系列が気になる宝島文庫の記述→2024/03/25アップ
第31章 なぜペンネームにしたか、そしてその反響とは→2024/04/26アップ
第32章 賛否に割れたマスコミの評価→2024/06/28
第33章 決意→2024/09/09
第34章 私自身の「解禁」作業→2025/02/02
第35章 宮崎勤が乗っていたクルマの車種を間違えた埼玉県警→2025/08/27
★第1章 沈黙の32年間
▽もうそろそろ、話しても良いだろう。あれから30年以上の年月が経過した。関係者の何人かは鬼畜に入った。沈黙を維持する理由は薄れてきた。私も勤務していた新聞社を辞めて、記憶を封印する必要はなくなった。沈黙を破っても良いと思うようになった。1988年から1989年にかけて首都圏で発生した連続幼女誘拐殺人事件のことだ。
▽冒頭のタイトルで沈黙を破る、と書いたのは、理由がある。私がこの事件を朝日新聞浦和支局の埼玉県警担当キャップとして取材をし、その後の動きも含めて、この事件のドキュメントを、本としてまとめたからだ。その際、その後の影響を考えて、私はペンネームを使い、その後の発言はほとんどしなかった。朝日新聞が会社として警察との取材関係を考えて、私は沈黙した。沈黙することで、あらゆる憶測が飛んできたが、私は無視した。朝日新聞記者として、会社に迷惑をかけまいと思っていた。会社と警察の関係を悪化させたくない、という考えもあった。
▽私はひたすら沈黙を守り続けた。
▽そして2021年8月をもって、私は朝日新聞を退職した。これで私と朝日新聞の関係は切れた。そうである以上、私は会社に忖度をしなくても良い立場になった。これ以上沈黙を守る必要もなかった。
▽だったら、と考えるようになった。もうそろそろ真実を語ってもいいだろう。
▽今回はそのドキュメントの反応や裏話などを書いていきたい。32年の沈黙を破っていく。
( 続く)
★第2章 『今田勇子vs警察』
▽私の書いたこの本『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』(三一書房)は、幼女たちが次々と行方不明になり、連続幼女誘拐殺人事件として容疑者の宮﨑勤が逮捕され、一審が始まるまでの事件展開を、私がペンネーム「大和田徹」を使って書いたドキュメントだ。当時、私は朝日新聞浦和支局(現さいたま総局)に勤務しており、埼玉県警担当キャップだった。
▽この事件を正確に記録しようと、浦和支局から離れてから、考え始めた。県警幹部、捜査員への再取材や自分の取材メモ、朝日新聞や他紙の記事を参考に原稿を書き始めた。完成させた原稿は、三一書房から出版することが決まった。発行は1991年2月だった。今から32年前のことだ。「沈黙の32年」とは、このことを指す。
▽事件を振り返ると、以下のようになる。
▽後の確定判決によると、八八年八月、埼玉県入間市で幼稚園児(当時四歳)を誘拐、東京都あきる野市の山林で殺害して遺体を焼いた▽同年十月、埼玉県飯能市で小学一年生(同七歳)を誘拐、あきる野市の山林で殺害した▽同年十二月、埼玉県川越市で幼稚園児(同四歳)を誘拐して飯能市で絞殺、遺体を山林に捨てた▽八九年六月、東京都江東区で保育園児(同五歳)を誘拐、殺害して遺体を捨てた▽同年七月、東京都八王子市で小学一年生にわいせつ行為をした。
▽新聞記者を主人公にしたドキュメント形式をとることで、当時の捜査が実際にどのように行われ、過熱報道だと言われた当時の取材現場がどんなものだったかを再現した。その狙いは良くも悪くも報道現場の実態を知ってもらい、最近の犯罪報道の是非について、現場の記者の立場から材料を提供しようというものであった。
▽具体的なことは本書を読んでもらいたいが、事件当時から、何の具体的根拠もないまま、さも真実かのように特ダネだとして一部マスコミが大々的に報道し続けてきた実態も迫った。いかに新聞各社に書き得が多いかと検証した。
▽その一方で埼玉県警が追っていた目撃情報がいかに曖昧だったか、そして容疑者を逮捕した警視庁が、事件解決を宣伝するために、容疑者から上申書という名の自供を得るまで最後の最後まで容疑者を拘束し続け、埼玉県警に身柄を渡したのは最後になってからだったことも詳細にリポートした。
(続く)
★第3章 終わりの始まり
▽この本の書き出しは「終わりの始まり」でスタートする。連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として警視庁に宮﨑勤が逮捕されるという情報が入り、新聞社の浦和支局の支局員全員が裏取り取材に指示されるシーンが展開される。1年に及んだ事件の「終わりの始まり」だったためだ。これをプロローグとした。
▽最初は東京都内での強制わいせつ未遂容疑での逮捕だった。6歳の女児を裸にして写真撮影しようとしたところを、父親に見つかり、警視庁八王子署に連行されて、逮捕された。この強制わいせつ未遂容疑の犯行内容が固まった前後から、警視庁は連続幼女誘拐殺人事件について極秘の捜査を始めていた。警視庁の執拗な取り調べで、宮﨑勤は一部を自供。その裏を取ったことで、警視庁は宮﨑を連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として再逮捕した。その水面下の動きは極秘とされ、事件の管轄だった埼玉県警にも再逮捕直前まで連絡をしなかった。
▽一部の新聞がその事実を直前に報道し、マスコミは大騒ぎになる。4人の犠牲者の1人の事件を管轄する警視庁深川署に移送される時は、各社はヘリを飛ばし、報道合戦となった。連行された宮﨑は多くのマスコミにさらし者になった。
▽そして他の2人についても宮﨑が犯行を認める上申書を書いたと、警視庁深川署捜査本部が発表した。自供ではない自供。自主的に供述したことをアピールするために、上申書という方法が取られた。別件捜査という批判を受けないためだった。
▽事件の舞台は埼玉県なのに、事件は最初から警視庁が主導し、その主導権を最後まで埼玉県警には渡すことがなかった。この事件捜査の大きな特徴だった。
▽この「終わりの始まり」を冒頭にして、次の章で時計の針を1年前に戻して、事件の発生当時の状況をこの本では書いた。
▽1988年8月22日の夏の暑い夕方、埼玉県入間市の4歳の女児が行方不明になった、と家族から110番通報があった。県警は翌日朝、地元狭山署が女児不明を発表。その30分後には県警本部も同じ発表をした。
▽これを受けて各社は「女児不明」の第一報を夕刊社会面に送った。扱いは目立たないベタ記事だった。事件事故の関連性が全くなかったためだ。
▽そして2人目。10月3日、飯能市の7歳の小学1年生女児が不明になる。飯能市の発表の日に簡単なものだった。発表を受けて、この時も朝日新聞はベタ記事にしていた。事件事故の判断材料がなかったためだ。
▽県警捜査一課、鑑識課、機動捜査隊が地元に入り、事件事故の両面で捜索しているとしただけで、実際は事件なのかそれとも事故なのか、判断する材料は全くないままだった。
▽夜回りする私に対して、県警幹部は、
「行方不明になった1人目と比較すると、事件という観点から見て、今度の女児不明は、事件に巻き込まれた可能性は低いよ」
と言い切っていた。
(続く)
★第4章 書き得
▽そんな中で1人目の女児不明と関連付けて、いわゆる書き得をするマスコミも出てきた。この事件の特徴の一つに、裏を取らないまま、書きまくったマスコミがいかに多かったことが挙げられる。
▽「(入間川の)約十二キロ下流の同県入間市では、八月二十二日午後、四歳の幼稚園女児が遊びに出掛けたまま行方不明になっており、同県警では、二人がおかっぱ頭で、いずれも月曜日の日中に失踪していることや、現場が同じ入間川沿いなどから二人の失踪事件の関連を調べている」(読売新聞)
▽この記事では、このリードに続いて、2人が事件に巻き込まれた共通点として、おかっぱ頭、月曜日、失踪現場が小学校付近、などの点を挙げて、誘拐犯人は月曜日に自由に動ける散髪屋従業員で、おかっぱ頭の女児が好きな人間とまで言い切った。
▽今から振り返れば、噴飯物の内容の新聞記事だ。
▽この記事に驚いたのは捜査員だった。
「どこからこんな情報を取ったのか」
と首をかしげた。
「内部でこんな共通点を検討した事はないよ」
と私に言った。
▽この段階で早くも読売新聞は迷走を始めていた。
▽この連続幼女誘拐殺人事件で読売新聞は最後の最後までダッチロールを繰り返してたことも大きな特徴だ。
▽それは3人目の女児が行方不明になった時、如実に表れた。
▽3人目の幼女が行方不明になるのは、その年の12月9日夕方だった。川越署はその日の夜、11時になってから発表した。発表と言っても、会見はなく、単に発表文の紙を出したに過ぎない。実際犯人からの要求もないため、県警は川越署で簡単に幼女が行方不明になったと発表した。記者会見はなかった。
▽朝日新聞は状況から判断し、初めて大々的な紙面展開をした。キャップの私と浦和支局デスクのあうんの呼吸というか、8月から続けて3人の幼女が行方不明になっている事実を改めて全国版で報じて、事件性が高いが具体的な証拠はないことも併せて記事にした。
▽しかし読売新聞だけは違った。3人が行方不明になったのに、読売新聞は地方版だけで扱ったのだ。2人目が不明になったときは、書き得をした読売新聞だったが、3人目の時は逆に異様なほど扱いが小さかった。デスクの判断ミスだったのだろう。当時の読売新聞キャップが相当怒っていたことを思い出す。
▽翌日からの各社の報道合戦は過熱し始めた。具体的な情報がない中、行方不明となった川越市の現場に記者を投入し、地取り取材による記事が紙面を埋めるようになる。
「不審な青っぽいワゴン車があった」
「白っぽい乗用車が急発進した」
▽付近住民への聞き込み取材で得たこうした情報は、裏が取れたものではなく、「そんな話もあるかな」という程度の話で、容疑者につながるものではなかった。県警幹部も肯定も否定もしなかった。それゆえ、「急発進した乗用車があることが、県警の調べで分かった」というトーンの記事ばかり目立つようになった。要するに「書き得」だった。書いてしまった方が勝ちだとする意識が透けて見えた。
▽こんな記事は推測記事に過ぎなかった。現場取材といいながら、推測でしかなかった。
▽その川越市から西に35キロ。名栗村(現飯能市)の山林で三人目の行方不明となった女児が遺体で発見されるのは、行方不明になってから6日後の12月15日だった。県立名栗少年自然の家(当時)の職員がその2日前に幼女の遺留品を見つけ、翌日職員が総出で遺留品を捜し出して、さらに翌日の15日に地元の飯能署に届けた。
▽飯能署は県警本部の応援を得て、付近一帯の大捜索に朝から乗り出した。そして午後になって遺体を発見。事件は単なる行方不明事件から連続幼女誘拐殺人事件と発展することになった。
▽県警はここで初めて記者会見を設定して発表した。しかし肝心なことは隠していた。手足がビニールの荷造り用の紐で縛られていたことだ。そして近くにガムテープが落ちていたことも隠していた。後の公判対策だ。「容疑者・被告しか知らない秘密の暴露」のためだった。
(続く)
★第5章 遺体発見
▽その日、1988年12月15日、3人目の行方不明女児の自宅から西へ35キロ、県西部の山奥、入間郡名栗村(当時、現飯能市)の県立名栗少年自然の家の職員が近くを流れる横瀬川の川端で、ひらがなで女児の名前が入った赤い靴、ジャンバー、スカート、ブラウスなどが見つかったと県警飯能署に午前8時半になって電話で届け出があった。
▽遺留品が発見されたことから、近くには本人がいるのではないか、と飯能署の捜査員がやや緊張して捜索に入っていた。川越署管内の行方不明事件が飛び火した。この段階で県警の発表はなかった。
▽午後1時43分、遺留品が発見された場所から、西へ350メートルの山林内で、変わり果てた女児の遺体が横たわっているのを、捜査員が発見した。全裸で仰向けになっていて、口の周りは鳥や動物に食われて肉が落ちていた。両手、両足をビニール紐で縛られていた。
▽遺体発見という段階になってから、県警は発表した。各社は大騒ぎになった。
▽県警は2回目の発表で、司法解剖の結果、女児の死因は首を締められた窒息死であることを明らかにした。死後、経過時間は5−6日としており、胃の内容物は消化状況から見て2−3時間といった。
▽県警は、後の公判対策として手足が縛られていた事実を隠していた。すぐには明らかにならなかった。隠そうとする警察と、暴露しようとする記者と水面下の駆け引きが始まっていた。
▽このころから読売新聞は一連の報道合戦の中でミスが目立つようになる。それが最後は「秘密のアジト発見」という大誤報に繋がっていく。
▽遺体発見の2日後には、「フライドチキン店に不審な男、白いワゴン車」という誤報を流したし、遺体発見状況でも、「口に粘着テープ」という事実ではない記事を載せた。
▽秘密のアジト報道はそのとどめだった。容疑者が逮捕された7日後の1989年8月17日夕刊で「山小屋アジト発見」と大々的に報じたのだ。だが警視庁は完全に否定し、読売新聞は翌日の朝刊で訂正とお詫びを出した。警察庁記者クラブに今でも残る語り草で、「負の歴史」だ。
▽遺体発見から3日後の18日、毎日新聞は手足が縛られていた事実を特ダネとして報じた。確認を求める各社の夜回りに対して、県警幹部の口が固かった。この事実を裏付けとして毎日新聞の特ダネを追いかけることが出来たのは、朝日新聞と共同通信だけだった。それだけ口が固かったのだ。
▽追いかけられなかった読売新聞は、逆に誤報を出した。20日の読売新聞は、「口に粘着テープ」という3段の記事を社会面で掲載した。首を絞められて殺された女児が生きてるうちに口を粘着テープで塞がれたうえで、両手両足をそれぞれ荷造り用の紐でぐるぐる巻きに縛られていることがわかった、という内容だった。
▽読売新聞は両手両足が縛られていたという毎日新聞の記事を追いかけることが出来なかった。裏が取れなかったのだ。今回の記事は特ダネで巻き返す、という意識が見えた。
▽しかしその読売新聞の事実はなかった。粘着テープが貼られていたという事実は、県警幹部に否定されたのだ。
▽実は遺体発見現場付近に、十数センチの粘着テープが落ちていた。これも県警が隠していた事実の一つだった。隠していたのだが、女児の遺体と関連があるかどうかわからなかった。このテープを女児の口に当てた保存写真を捜査員が撮影していた。写真に映った女子は確かに口に粘着テープが貼られていた。事情を知らない捜査員から読売新聞は話を聞き出して、裏付けも取らずに記事にしたのではないか、とある捜査員は私に話した。
▽それだけではなかった。情報漏れを警戒した県警幹部が、ガセネタを流して、県警内部のどこかで情報漏れがあったことを調べていたのではないか、とほのめかす幹部もいた。毎日新聞の今後の特ダネを潰すため、ガセネタを流した結果、読売新聞に行ってしまったと言うのだ。これ以降、読売新聞は、情報を全く取れなくなり、誤報の連続となった。
▽何も読売新聞だけではない。多くのマスコミが誤報を繰り返した。「書き得」を読ダネだと勘違いして、垂れ流した。このことは私の書いた本『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』に詳述した。
▽県警の沈黙と一部マスコミの間では、不信感が次第に大きくなっていった。
(続く)
★第6章 似顔絵公開
▽県警は女児の遺体発見の2日前、地取り捜査の結果として、男性の2枚の似顔絵を公開した。この2枚の似顔絵を公開したことが、報道をさらに混乱させた。今振り返っても全く不要な発表だった。否、報道側が冷静に判断し、受け止めていれば、混乱もなかったかもしれない。「書き得」の延長線にあったといってもいい。
▽事実、朝日新聞を含めた数社は冷静に対応し、この2人の男を容疑者だと断定もしなかったし、扱いも小さかった。
▽県警担当キャップだった私は、
「裏が取れない話は記事にしない」
を徹底していた。今振り返っても、この判断は正しかった。
▽だが、一部の社は、この似顔絵の人物を犯人だと決めつけて、報道するようになる。
▽似顔絵の公開は、当時の県警刑事部長が会見を開き、行った。
▽1枚はサングラスに白いマスクを隠した中田男性だ。似顔絵とはいっても、斜め後ろから描かれたもので、イメージが掴みにくい。もう1枚は、ハンチング帽だけが描かれたイラストだった。
▽部長によると、このサングラス男は女児が行方不明になった午後5時ごろ、現場の近くの公園付近で、赤いジャンパーを着た女児に、ポケットから出した封筒のようなものを渡そうとしていたという。通りがかった小学生が目撃したもので、女児が被害者である可能性があり、行方不明に関連があるかもしれないことから公開した。男は黒いジャンバーに黒いズボンの服装だった。
▽もう1枚のハンチング帽は、このサングラス男とは別で、同じ日の午後4時40分ごろ、自宅近くで、赤いジャンバーを着た女子が40歳前後の中年男性と歩き出そうとしているのを小学生が目撃しているとした。被害者の女児と判断したのは、3人のうちの1人が女児を知っていたからだ。そして3人のうちの2人が、この中年男性が黄土色のハンティング帽をかぶっていたと証言。そのイラストだった。
▽部長は行方不明になった時間帯に、周辺にいたものの、絞り切れない人物が2人いる、誰だかわからない、行方不明に関連している可能性もあるとして、二つの人間が行方不明に関連してる可能性もある、と部長は説明した。ただし2人は別人物だとした。関連が強いのは、このハンチング帽をかぶった中年男性の方であると言う見方を示した。
▽まだ女児の遺体が発見される前で、事件に関連したかもしれない人物を犯人と決めつける可能性が十分にあった。世論をミスリードさせる可能性もあった。
▽仮に2人が事件に関連がある人物だとしても、県警の発表には矛盾があった。
▽部長は2人の人物のうち事件に関連するとすれば、ハンチング帽の中年の男の方が可能性があるとしたが、そのハンチング帽の男の顔は、目撃証言が曖昧なため作成できず、その帽子そのものだけをイラストが作られた。
▽そして、ハンチング帽の男性より、関連性が低いとしたサングラスの男の未来を公表してしまった。県警は、この時点で大きなミスリードしたことになる。
▽ハンチング男とサングラス男。県警は、2人は違うとしていたが、多くのマスコミはそう受け止めなかった、いつの間にか、事件の関連性が低いとしたサングラス男が犯人と、として報道するようになる。一人歩きすることになった。県警の発表は明らかに踏み込みすぎていた。
▽ある新聞は「不審者の似顔絵公開 新たな目撃情報をもとに」と言うタイトルで、サングラス男が失踪直前の女児と一緒に行ったことが、新たにわかり、小学校正門で目撃された男と服装など共通点が多く、同一人物の可能性が強いと見ているとまで言い切った。別の新聞も「手招き男、僕も見た」「新たな目撃者 似顔絵を公開」という見出しで、中年の男が女児と歩いているのを小学生が目撃したことを突き止めたと言い切る記事を載せた。
▽明らかに書き得の範疇を逸していた。目撃情報の公開と言う県警のオーバーランをさらに加速させることになった。報道することで、犯人像はいつの間にか固定化していった。
▽そして遺体発見から3日後の東京新聞は、「似顔絵男 犯人に断定」として似顔絵を公開したサングラス、マスクをかけ、黒っぽいジャンパー姿の中年男を犯人と断定した、と言い切った。不審者を犯人としたのは、この記事が最初だった。
▽県警はこの時点で2人を犯人だとは言ってない。正式会見でも、そして非公式でもそうした断定できるはずがないのだ。
▽ついでに書くと、真犯人である容疑者が逮捕された時も、東京新聞は、サングラスとマスクを押収したという記事まで載せて、この中年男犯人説に固執し、正当化しようとした。容疑者の自宅には、サングラスもマスクもなかったのにである。お粗末な報道だった。
(続く)
★第7章 昭和天皇の危篤
▽当時の時代状況を伝えたい。
▽事件が進む中、1988年9月から翌年1月まで、日本という国を重い空気が覆い尽くしていた。昭和天皇の危篤だった。来る日も来る日も新聞とテレビは昭和天皇の容体を伝え、全国で自粛ムードが広がった。重苦しい空気が流れていた。
▽あらゆる分野で自粛ムードが広がった。テレビの自動車コマーシャルでは、「元気ですか」という言葉が削除された。飲み屋の席では「乾杯」という言葉が使われなくなった。喜びを表してはいけない雰囲気だった。このまま危篤がつき、いつか昭和天皇が亡くなれば、右翼が暴れ出して、戒厳令が敷かれるのではないか、と思ったほどだ。それだけ不穏な空気が流れていた。
▽あの事態の雰囲気は、経験したことがない人には分からないかもしれない。不気味な空気が流れていた。
▽マスコミも怯えていた。
▽朝日新聞では「天皇陛下」と書いたはずの記事が、「天皇倒下」と誤植した紙面が登場してしまい、東京本社から全国の支局に警戒するよう命令が飛んできた。天皇を揶揄したとして右翼が襲撃するのではないか、と疑ったのだ。「倒」はしゃれにもならなかった。ただしそんな襲撃はなく、杞憂で終わった。
▽読売新聞では天皇死去の予定稿の紙面が外部に流出して、大問題になった。
▽昭和天皇の容体が悪化しに伴った、皇居周辺には各社が立ち番記者(当時は「門番」と言った)を貼り付ける体制を組み始めていた。容体の悪化で昭和天皇の下血が続き、その下血報道が毎日紙面化された。いつ悪化してもおかしくない状況で、各社は全国から若い記者を集めて、天皇関係者の動きを見張る立ち番を何人も投入し、連日昭和天皇の容体が紙面化されていた。
▽私が担当していた埼玉県警記者クラブに詰めていた各社も、そして朝日新聞の私の部下も、その立ち番に取られた。主に入社1年、2年生が取られた。そのため朝日新聞の場合だと県警担当は私1人だけという状態が続いていた。
▽連続幼女誘拐殺人事件で、行方不明女児の管内を担当する朝日新聞西埼玉支局(川越市)の支局員に、地取り取材をするよう県警担当キャップである私が要請した。
▽幸いなことに西埼玉支局員は天皇の立ち番応援取材に取られていなかった。地取り取材とは、現場での聞き込み取材だ。目撃者がいるのかどうか、聞いて回る。既に県警の捜査員が聞き込みをしていたのなら、どんなことを聞いていたのかを聞いていく。捜査方針を知るためにも大切な取材の一つだ。指示ではなく、要請というのがもどかしい。当時私は浦和支局員であって、西埼玉支局の上司ではないのだ。直接の指示は出来なかった。
▽この要請に、文句を言ってきた人間がいた。西埼玉支局長だった。「勝手に使うな」という文句だった。まだ遺体発見前の段階で、いつ記事になるか分からない取材など、勝手に指示をするなという内容だった。事件としての進展がなく、原稿も出せないような取材は無駄だという訳だ。しかし取材をストップするわけにはいかなかった。結果として、西埼玉支局員は現場を何回も取材し、最終的には特ダネに結びつけた。これは後述する。
▽支局長の立場からすると、当然の文句かもしれない。しかし当の支局員は「気にしないでください」と私に言ってきた。取材を進めてくれたのである。これがなかったら、現場取材できる人間はいなかったのだ。
私は地取り取材を進めている西埼玉支局員の情報を元に、県警担当幹部の夜討ち朝駆け、関係者の取材を続けていた。
▽県警本部担当記者が一人しかいない以上、現場取材は西埼玉支局に任せるしかなく、私は県警が握っている情報を把握する努力と、関係者の取材から分かった補強材料を、西埼玉支局に伝えるしかなかった。現場がありながら、現場を回れないというもどかしさが続いた。
▽県警担当記者の難しさはここにある。現場があっても、実際の情報を独占しているのは県警であり、その情報を断片的に得るのが、担当記者の夜討ち朝駆けという手段になってしまうのだ。
▽県警幹部や捜査員の自宅を回る夜討ち朝駆けと言っても、県警幹部が担当記者に簡単に情報をくれるわけではない。この情報を取る取材をリークだと批判するのは簡単だが、そんな簡単にリークしてくれるなら、夜討ち朝駆けなど行う必要もない。全く教えてくれないどころか、嘘まで平気でついてくる。冗談を言ってるだけで、実際の情報は全く教えてくれないことも多い。現場で得た情報を幹部に当てて確認したいことですら、イエスともノーとも言ってくれないことすらある。信頼関係を築いた上での情報収集しかない。これが大切なのだ。
▽またこの連続幼女誘拐殺人事件とは別に、この年は県内で多くの殺人事件が発生し、各警察署に捜査本部が設置された。約十件設置されたが、すべて未解決のままになっていた。県警捜査一課にしてみれば、疲弊する中での幼女行方不明事件の始まりだった。
▽埼玉県は当時も人口急増地域が多く、特に県西部の首都圏でマンションやアパートが林立し、隣に住む住民がだれなのか分からないという場所も多かった。それゆえ聞き込みも成果は得られず、捜査が難航した面も強い。
▽このころ、県警は3人目の女児遺体発見現場で、容疑者に繋がる重大な事実を掴み、極秘で捜査を始めていた。マスコミには気づかれないよう、水面下で聞き込みが始まっていた。
▽容疑者が乗っていた車が目撃された、という決定的な事実だった。遺体を放棄した直後に、容疑者の車が道路の溝に脱輪してしまい、通りがかった車に助けられて脱出した、という決定的な情報だった。
(続く)
★第8章 動き出した容疑者
▽たった1人で県警を回る日々が続いた。俗に言う夜討ち朝駆けだ。その年は12月31日の大晦日まで夜回りをして、翌1月1日の元旦は昼回りをしただけで、夜回りを避けた。県警本部長から記者クラブに、
「捜査員を休ませて欲しい。年末年始は夜回りをやめていただきたい」
という申し出があったためだ。県警側にとっても切実な願いだった。我々報道陣も疲れていたし、捜査員も疲労のピークにあった。
▽結果として私が県警担当だった1年間は365日、まさに休みがゼロだった。
▽後に私が書いた本『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』(三一書房)について、社内からは、
「勝手に夜回りノートを盗み見して書いた」
と批判されたことがある。
▽しかし、もう分かるだろう。県警本部を回っていたのは当時、私しかいなかった。夜回りノートなど、私の分しかなかった。これが盗み見だとして批判されるのだから、朝日新聞の一部記者のひがみ体質は相当なものだった。想像だけで、人を批判するものではない。
▽年が明けて、しばらく事件の動きは止まったかに見えた。
▽時代は昭和から平成へと変わっていった。昭和の時代が終わるという、見えない恐怖にもがいていた時代は終わった。
▽3人目の不明女児が遺体となって発見され、遺体発見後の報道が過熱する中で、注目されたのは、最初に不明となった女児と、2人目に不明となった女児の行方だった。
▽そんな中、容疑者は県警の捜査の網をかいくぐって、異様な行動に出た。連続幼女誘拐殺人事件の異様性は、この行動で語られるようになる。
▽1989年2月6日未明に、1人目となった不明女児の自宅玄関前に幼女の遺骨の一部と謎めいたメモを入れた段ボールを置いて去ったのだ。容疑者が誇示した事件の異様性を物語っていた。今振り返れば、宮﨑勤なりのメッセージだったのだろう。
▽父親が発見し、自宅内に持ち入り、段ボール箱を開けた。
中には、土に混じって無数の人骨、歯、そしてメモようなものが書かれた1枚の紙だったメモには、女児の本名と「焼」「遺骨」「鑑定」「証明」と文字が並べられていた。県警も、そしてマスコミもパニックに陥る事件のさらなる始まりだった。
▽父親が段ボール箱を発見したのは、この日午前5時半ごろだった。出勤する前の時間で、父親からの届け出で、県警狭山署員が自宅に出向き、事情聴取した。県警捜査1課の捜査員が到着したのは、さらにそれから2時間以上が経過していた。
▽地元狭山署の動きがおかしい、女児行方不明の関係らしい、と地元の記者から、埼玉県浦和市の県警記者クラブに第一報が入ったのは、昼になって身体ツタ。
▽午後零時半ごろになって、県警捜査1課は記者クラブに、本日午後2時に狭山署でレクを開く、と伝えてきた。レクとはレクチャーのことで、この場合は現地狭山署所で午後2時から記者会見を行うという内容だった。俗に言う「黒板協定」で、レクを開くまで、報道は控えるという紳士協定だった。しかし、夕刊の締め切り時間が近づいている社にとって、協定などお構いなしだった。人骨などが入った段ボール箱が送りつけられた、という断片的な情報を元に、夕刊にフラッシュ原稿を突っ込んでいった。
▽狭山署の記者会見では署長が、段ボール箱の中には、木片、ホッチキスの針などのほか、焼けた骨や歯が無数にあり、髪の毛もあった、と説明した。骨や歯は子供のもののようだったと説明した。
▽県警は骨や歯の鑑定を急ぐことになった。子供のものとすれば、前年8月から不明になっている女児のものである可能性が高かった。その場合は、行方不明事件は、誘拐殺人事件に置き換わる。既に3人が不明になり、1人は遺体で見つかっていた。2人目の遺体となれば、連続幼女誘拐殺人事件となる。県警もマスコミも緊張した。
▽だが、ここで県警は大切な情報を隠していた。謎の文字が書かれていたメモの存在も、白っぽい衣類を撮影したインスタント写真が入っていたことも隠していた。捜査の秘密だった。メモの存在は一部の民放が親から聞いた話として断片的に報じていたが、正確ではなかった。
▽段ボール箱が発見された日の前夜は、午後7時に父親が帰宅したが、その時はなかった。翌朝午前4時半ごろ新聞配達の主婦が置いてあるのを認めている。置いたのは、5日夜から6日早朝、という時間だった
▽容疑者は目撃されるかもしれない、という危険を冒してまで、段ボール箱を届けて、何を目的に何を訴えようとしたのか。
▽会見が終わり、私は県警幹部や捜査員の夜回りを続けた。実際に段ボール箱に何が入っていたのか。
▽メモの内容は、9文字のうち、7文字までか分かった。インスタント写真は女児が着ていたと見られる衣類が撮影されていた。
▽収穫あった。捜査員宅を出て、私は会社に電話入れた。まだ携帯電話も普及されていない時代だ。公衆電話を捜して、原稿をまとめているデスクに報告するためだ。デスクは早版に送った原稿を差し替えて、新しい原稿を作り始めた。容疑者から挑戦状のような文字を入れていた事実を新たな伝える必要があった。事件の異様性が浮き彫りにされていった。
▽翌日朝の各紙紙面は、各社の取材力の差が一目瞭然としていた。挑戦状のようなメモの中身を9文字、正確に報じた社はなかった。朝日新聞が7文字。少ない社は3文字だった。読売新聞だった。
▽またインスタント写真があったことを報道てきたのは、朝日新聞社と毎日新聞だけだった。写真はややピンボケで写されていた。読売新聞は全くキャッチ出来なかった。
▽県警が隠し続けた情報は、少しずつ、報道によって明らかになる、という状況が続くようになった。追いかけることが出来る社と出来ない社の差が出てきた。
(続く)
★第9章 今田勇子名乗る
▽その年、1989年は1月7日早朝、まず昭和天皇が死去、という出来事から始まった。前年9月以来、長かった「下血報道」はようやく終結しようとしていた。一つの時代の終わりだった。4カ月も続いた重体報道は、今度は皇室礼賛報道に変わりつつあった。
▽都道府県の各警察本部は内部にそれぞれ警衛警護警備連絡室を設置して、皇室関係の施設や建物の警備態勢を強化された。表面的な普段通りの態勢で臨んでいたが、過激化封じのため、水面下では、警備公安警察が水を漏らさぬ警戒態勢を敷いていた。
▽こんな中でも、女児殺害事件の捜査員たちは、警備公安警察とは一線を画して、この昭和最後の日も捜査を続けていた。
そんな中で、女子の遺体の一部が入った段ボール箱が届けられたのである。
▽容疑者の異様な行動と誇示は、さらには続いた。
▽今度は2月10日、こともあろうか、朝日新聞東京本社に犯行声明が届いたのだ。そこで容疑者は初めて「今田勇子」を名乗った。女を装った。
▽朝日新聞東京本社社会部では、デスクがいつものように白い手袋をして、社会部に来た手紙類を整理する作業を続けていた。白い手袋をしているのは、指紋を残さないようにするためだ。新聞記者に来る手紙や投書に混じって、事件を予告する告発や声明文もあり、捜査当局に渡したり、押収されたりする場合の混乱を防ぐ目的で、手袋をつける。
▽その手紙には、「朝日新聞東京本社 社会部様」と独特な文字で書かれていた。裏には「所沢市 今田勇子」と差出人の名前があった。
▽中には、目をつぶった女の子の写真と犯行声明、最初の行方不明となった女児宅に段ボールを置いたのは、この私です、と書かれた文章が入っていた。
▽段ボール箱に入った遺骨は、その女児のものだとして、その理由と動機を長々と書いたうえで、「子どもを産むことができない」などと言い訳を綴っていた。事件の犯人であることを告白した後、別の事件とは無関係と強調するのだった。
▽朝日新聞では緊急呼び出しを受けた本社社会部と浦和支局の記者たちが犯行声明の徹底した分析を始めた。
▽声明には疑問が多かった。疑問の一つが犯人だという今田勇子は本当に女性なのかどうかだった。
▽女児の殺害現場にしても疑問があった。
▽最終的に犯人かどうかを判断するのは、捜査当局だ。朝日新聞はこの声明をコピーするとともに、女児を写した写真を接写し、社会部を通して警察庁に届け出た。警察庁は出張中だった県警刑事部長に渡して、内容を検討し始めた。
▽結局、写真が決め手となって、県警は犯人だと断定する。
▽犯行声明は朝日新聞に届いたものだ。その意味では朝日新聞の特ダネである。一方で一社だけに特ダネを与えたくない当局。朝日新聞と県警との駆け引きが始まっていた。
▽捜査本部設置を発表しようとする県警に対して、朝日新聞は記者会見の発表時間を、朝刊の最終版締め切り時間が過ぎる午前2時以降にするよう要求した。だが県警はそれとはなしに、各社にリークを始め、各社は断片的な情報で、内容は不正確ながら、各社14版の最終版にギリギリに記事を突っ込んだのだった。
▽時計の針は午前2時になろうとしていた。すでに日付は11日になっていた。緊急の記者会見はこんな時間帯に、県警狭山署で始まった。
▽マスコミも大混乱に陥った。
▽未明から始まった狭山署での記者会見は、NHKが臨時の実験中継を行った。一般の人が既に眠っているはずの時間だ。しかし11日は建国記念日で休日。しかも週末の土曜日で、連休となることから、夜遅くまでテレビを見ている人は多かった。
▽会見は、地元の狭山署長と刑事部長が臨んで行った。
▽刑事部長は犯行声明が朝日新聞社に届いた事と、その内容、そしてカラーのインスタント写真が入っていたこと、さらには不明だった女児本人であることが確認されたことから、狭山署に誘拐殺人事件の捜査本部を設置する、と発表した。
▽報道陣には、犯行声明のコピーを配布したが、部分部分では、黒く塗りつぶしていた。両親の気持ちを考えて、というのが表向きの理由だが、それ以上に、犯行声明の言うような方法で殺害されたとしたら、それは容疑者本人しかわからない真実であり、逮捕後の公判対策を考えてのことだった。黒く塗りつぶされている部分を知っている朝日新聞記者は、少なくとも記者会見の時点では、他社に優位に立っていた。
▽問題は、この犯行声明の封書にあった青梅2−8と言う消印だった。東京都青梅市は、埼玉県入間市から南西にわずか7キロの距離だ。容疑者の行動範囲内にあることは間違いなかった。
▽青梅郵便局によれば、「青梅」の消印は、青梅市内の一部を除く84カ所のポストへ投函される。「青梅2−8」の日付と収集時刻を逆算して、容疑者は2月8日午後5時から8日午後5時までに投函したもの、と推定された。青梅郵便局から市外には、トラック便で1日3階、東京都府中市の東京多摩郵便局に届けられ、ここで行き先別に分けられる。朝日新聞東京本社には、東京中央郵便局からさらに京橋郵便局を経由して10日午後2時半から3時の間に届けられた。
▽執着心、というか、粘着性というか。この犯行声明は実は、朝日新聞にだけ送られたものではなかったことが、半日後に判明する。
▽朝日新聞社に届けられた翌日、つまり記者会見の半日後、11日昼前になって、今度は女児の自宅にも犯行声明が届いたのだった。母親宛てになっていた。
▽中身は朝日新聞に送られた犯行声明のコピーとカラーの印刷写真と全く一緒だった。
▽消印から見て容疑者が同じもの朝日新聞社と同時に投函したものであることがわかった。それが郵便配達の場所の違いから、先に朝日新聞に先に届いたと推測された。わずか半日の差で、朝日新聞社は、特ダネを取ったことになる。
▽ではなぜ、容疑者はこんな犯行声明を送ってきたのか。
▽理由はその前の県警の記者会見にあった。
▽女児の自宅に送られた段ボールの中に入っていた歯を、県警が法歯学の権威に鑑定依頼をしていた。しかし結果は、本人ものではない、という想定外のものだった。これを受けて、県警は記者会見を開いて、被害者の歯とは違うという発表を行った。
▽ではだれの歯なのか。マスコミの一部が騒ぎ始めた。
▽これに対して鑑定を行った法歯学の権威が、自分の鑑定結果に疑問を持ちだして、
「本人ではないという根拠は、なくなった」
と鑑定結果を否定したのだ。
▽この一連の騒ぎを、容疑者が不満に思ったのだろう。
▽段ボール箱の中身は、被害者の女児のものであることを強調するために、犯行声明を送りつけた、と推定されたのだ。
▽被害者宅に人骨が入った段ボール箱が送られた直後に、不審な車両が浮かび上がった。ホンダのプレリュードだった。毎日新聞は、執拗にこの車を報じ始めていた。容疑者の車だと決めつけるような報道をしていた。これも誤報の一つだった。他社は書かなかった。
(続く)
★第10章 極秘捜査と特ダネ
▽実は埼玉県警は我々報道陣が気づかない水面下で、極秘情報を追っていた。
▽埼玉県名栗村(当時)の遺体発見現場付近で容疑者が運転していた日産ラングレーが道路の側溝に右前輪を脱輪し、その側溝に80センチにわたってギザギザの脱輪跡があったことと、その脱輪した車を偶然遭遇した人間が2人いて脱輪車を助けたこと、さらにはその容疑者を暗闇の中で見ていたことだった。
▽県警は内部で色めき立った。容疑者に繋がる初めての情報だった。
▽容疑者がラングレーに載せた幼女の遺体を山林に放置して、ラングレーに戻ったが、ラングレーは側溝に脱輪していて、動けなくなっていた。たまたま車で現場を通りがかり、脱輪したラングレーを1人が運転席に座って運転し、1人が後押しして手助けした。容疑者は無言で立ち去ったという。容疑者にとっては、遺体遺棄直後のハプニングだった。
▽側溝には脱輪跡のほか塗装片やタイヤ痕も残っていた。
▽県警はこの2人から極秘で何回も事情聴取した。報道陣は全く気づかなかった。
▽しかしここで県警は大きなミスを犯した。容疑者が乗っていた車種をトヨタカローラⅡと断定してしまい、最後まで容疑者を割ることが出来なかったのだ。2人の証言から車種はワンボックスカーで、運転席の形状から、トヨタ車と絞ってしまったのだ。
▽県警はトヨタカローラⅡの所有者リストを入手し、県内と東京都内の所有者をしらみつぶしに探し始めていた。
▽しかし県警の「トヨタ・カローラⅡ」説は実際に容疑者が乗っていた「日産ラングレー」とは最後まで交錯しないままだった。大きな分岐点だった。
▽脱輪跡の存在は、朝日新聞が2月20日の紙面で特ダネとして報じた。
▽西埼玉支局員が、遺体発見現場の近くで道路側溝付近を何回も見つめ直す捜査幹部の姿を目撃。遺体発見現場ではなく、なぜ道路側溝を見ているのか疑問を持った。一方で別の浦和支局員が捜査員から脱輪跡があることを夜回りでようやく取ってきて、ダブルチェックで極秘情報を確認し報じた。
▽ここで初めて、「事件取材の現場」の意味が生きてきた。県警が持つ極秘情報を現場で確認するという手法だ。
▽事件取材の多くは、情報の多くを警察が握っていて、記者はその情報を取るためにあの手この手を使って取材を続ける。夜討ち朝駆けはその典型だろう。
▽しかしその情報はあくまでも警察という権力を持つ機関の見立てであり、それ以上でもそれ以下でもない。その情報が真実なのかどうか、それを確かめる確認作業が必要だ。県警捜査員が取材する記者に嘘を言って、それを信じて報じたら誤報になる。一連の報道で一部新聞で誤報が多かったのは、現場で確認作業をしないで報じたためだ。
▽この朝日新聞の特ダネはそれを見事証明したものだと、私は今でも思っている。西埼玉支局員の現場取材と浦和支局員の取材で得た特ダネだった。
▽ただし朝日新聞はこの時点で脱輪跡の情報はつかんだが、車種が日産ラングレーであることも、そして目撃情報から県警がカローラⅡを追っているとは、分からなかった。
▽県警幹部は、夜回りした私に対して、この報道は半分は当たっている、と事実を認めた。後に知ったことだが、半分とは、朝日新聞の報道は目撃者がいたことまでつかめてなかったことと、もう一つは、朝日新聞の記事は2人目の犠牲となった幼女の自宅近くで目撃された不審車両と絡めてしまい、その脱輪車と間違った報道していたからだ。
▽朝日新聞の記事が出たその段階では、県警はすでにこの車両をカローラⅡと断定し、県内や県外の所有者のリストを持って、捜査員が連日回っていた時期だ。犯人は必ず、このリストの中にいる、という信念での捜査だった。
▽県警の捜査が、確実に犯人に接近していたはずだった。
▽既に鬼籍に入った当時の県警幹部は生前、宮﨑勤の死刑執行についての私との雑談の中でも、こう言って悔しがった記憶がある。
「車を手助けした2人のうちの1人は自動車関係の仕事をしている人物。その人間に何回も話を聞いて、車種を割り出したはずだった。まさか、違っていたとは。今でも信じられない」
▽埼玉県警が極秘に捜査していたこの脱輪痕の車種を間違ったために、容疑者にたどり着くことが出来なかったのだ。この事件のハイライトだと今でも思っている。
(続く)
★第11章 段ボール箱という物証
▽物証はまだあった。
▽被害女児の自宅に届けられた段ボール箱だった。
▽その製造元は、実は県警本部のある足元、埼玉県浦和市(当時)の段ボール箱製造会社で作られたものだった。この製造元を割るのは捜査の重点の一つだった。
▽年間5000万個の段ボール箱を作り、約80社に納入していた。この会社に県警の捜査員が訪れたのは、事件発生翌年の1989年3月。箱の寸法や板紙の材質などが記入された伝票を元に、被害女児の自宅に届けられたものとそっくりの段ボール箱があるのを見つけ出した。段ボール箱が送りつけられて約1カ月後にはたどり着いたことになる。
▽その段ボール箱は、川越市の光学機器取り扱い会社に納入されていた。商品のレンズ類を箱に詰めて取引先に送っていた。
▽捜査員はこの光学機器取り扱い会社にも尋ねた。ただこの時は取引先を確認しただけでとどまった。たどり着いたはずなのに、そこからの捜査が進まなかった。
▽関東地方には専従捜査員が約500社の段ボール箱製造会社に出向いて、調べを続けていた。だが該当する段ボール箱がないことから、再度この光学機器取り扱い会社を訪ねたのは、それから2カ月が経過していた。
▽対応した会社の次男が捜査員の示す段ボール箱の写真を見て、「似ている」と思った。以前に使ったことがある段ボール箱に似ていた。
▽この次男はビデオ愛好者だった。愛好家同士でビデオテープを交換することが何回もあった。その中に実は容疑者もいたのだ。
▽容疑者とは4年前からビデオテープの交換をしていた。直接会って渡すことではなく、その都度、段ボール箱に入れて宅配便で送っていた。
▽手帳を頼りに段ボール箱でビデオテープを送ったことのある友人数人の名前を、捜査員に伝えた。しかしこの中に容疑者の名前はなかった。手帳を新しいものに替えた段階で、それほど付き合いが多くない容疑者の名前を書き写すことはしなかったのだ。
▽捜査はここまで来ていたが、ここで再び止まっていたのだ。段ボール箱と言う重要な物証を捜査は、今一歩のところで及ばなかった。
▽後に、容疑者が逮捕された時、この次男は捜査本部に電話をした。
「うっかりしてました。今テレビニュースでやっている宮崎勤にも、段ボール箱を届けていました」
▽古い手帳にその容疑者の名前はあった。やはり犯人は捜査の範囲の中にいたのだ。
(続く)
★第12章 埼玉県警本部長の回顧
▽ここで事件現場から話を飛ばして、当時の埼玉県警本部長の話をしよう。
▽連続幼女誘拐殺人事件発生から35年が経過した2023年4月15日付朝日新聞にこんな記事が掲載された。
▽記事を読んで、あっ、あの本部長だとしばらくして私は気づいた。
▽「喪の旅 89歳の学生生活、妻の贈り物 京都に移り住み仏教を学ぶ、石瀬博さん」
▽こんな見出しで、記事は始まる。
《学生が行き交うキャンパスを、白髪の男性が背筋を伸ばして歩く。京都市北区の大谷大学の聴講生、石瀬(いしぜ)博さん(89)。浄土経典などを学び、3年目の春を迎えた。
▽週末には、妻の美子(よしこ)さんの分骨が葬られている大谷祖廟(そびょう)へのお参りを欠かさない。
▽「美子さん、元気ですか。ぼちぼちそっちに行こうと思うんだが」
そう語りかけると、「まだ、いいわよ」と答えてくれている気がする。
▽夫婦仲むつまじく、川崎市で暮らしていた。美子さんの体が弱り、理解力がだんだん衰えてきたのは10年余り前のことだった。博さんはせいいっぱい介護した。食事をととのえ、お風呂で体を洗い、隣のベッドで寝て付き添った。博さんの作るビーフカレーが美子さんの好物だった。
▽記憶が薄れても、美子さんは夫の名前だけは忘れなかった。デイサービスに行くと、「ひろしさんはどこ?」といつも待っていた。
▽7年ほど介護が続いた2019年1月末。デイサービスから帰り、一緒にテレビを見てから、寝室で休ませた。博さんは隣の書斎で確定申告の書類を夜通し書いた。朝5時半ごろ、寝室に行くと、美子さんがベッドの下に倒れていた。抱き起こした時はぬくもりがあった。だが、逝ってしまった。80歳だった。
▽富山の同郷の者同士、連れ添って60年。電車やバスで赤ちゃん連れを見れば、笑顔であやす優しい女性だった。そんな妻が突然旅立ってしまった》
《博さんは警察キャリアだった。1984年のグリコ・森永事件の時、大阪府警総務部長をしていた。88~89年、埼玉と東京で連続幼女誘拐殺人事件が起きた時は、埼玉県警本部長を務めていた。
▽10カ月の間に4人の女の子が誘拐、殺害された。最初の犠牲者が出てから容疑者起訴まで400日余り。「心臓が止まるほど胸がしめつけられる日々」だった。
▽あの子たちのためにもいつか死生観をしっかり考えたい。そう願ってきた》
《そして昨年8月16日、古都のお盆を締めくくる「京都五山送り火」の日、思わぬことが起きた。カメラを構え、送り火を見ていた。如意ケ嶽(にょいがたけ)に「大」の字が浮かび上がり、やがてその火が消えていく。それを見た時、涙があふれて止まらなくなった。
▽美子の魂が帰っていくんだ……。
▽お葬式でも流れなかった涙。妻が亡くなって3年半たち、初めて流した涙だった》
▽記事を読む限り、県警トップの本部長すら、この事件に心を痛めて、それが死生観を左右したということなのだろう。
▽埼玉県警は容疑者を捜査範囲内に絞っていたにもかかわらず、容疑者を逮捕できなかった。そのいらだちも県警本部内にはあったはずだ。トップの本部長は、それを実感していた。
▽私自身、この連続幼女誘拐殺人事件で自分の記者人生が大きく左右された、と今でも思っている。
▽次の章では再び事件現場に戻す。
(続く)
★第13章 4人目の遺体
▽その日は新聞休刊日だった。
▽休刊日とは新聞記者にとっては、翌日の新聞がないため、最小限の警戒要員を残して、全員が休みとなる。翌日の朝刊がないから、よほど大きな事件がない限り、呼び出されることもなく、一番気が楽になる日だった。
▽浦和支局の記者たちは自宅でのんびりとした遅い朝を迎えていた。
▽1989年6月11日、その休刊日だったその日に突然のようにポケットベルが鳴ったのは、昼を過ぎていた。ピー、ピー、ピー、と鳴り続けた。
▽ポケットベルは、スイッチを押しても、数分後には再び鳴り出した。よほど緊急の連絡なのだろう。会社に電話をすると、「大至急、支局に来てください」。こう若い記者が慌てるように話してきた。支局では、泊まり明けの記者と出番の記者ら若手の支局員3人がデスクや支局員を緊急で呼び出していた。
▽埼玉県飯能市宮沢、宮沢霊園内の公衆トイレ付近で、また、幼女の遺体が見つかった、という事件連絡だった。しかも遺体はバラバラだというのだ。地元の記者が現場に車で走らせているという。詳しい話はわかっていないと興奮していた。
▽浦和支局には、呼び出しを受けた記者たちが1人、2人と上がってきた。「また殺人事件か」という表情をしていた。
▽この日午前11時45分ごろ、宮沢霊園入り口から約150メートルの駐車場北側にある公衆トイレの脇に子供らしい全裸の遺体があるのを、墓参りの会社員が発見した。
▽遺体は仰向けで、首も両手首、両足首もなかった。身長から見て5歳から10歳ぐらいの女児であることがわかった。埼玉県警飯能署の調べによると、死後数日経過しており、外傷や手術跡など、身体的な特徴はなかった。
▽そして第2報として、飯能署に捜査本部を設置し、遺体を所沢市の防衛医大で解剖することが決まった、という報道発表があった。
▽もっとも、この日は休刊日で、翌日の朝刊がなく、記事が掲載されるのは、すべて翌日朝刊まで待たなければならなかった。現在のようにインターネットもない時代で、デジタル用にフラッシュ原稿を書くこともなかった。せいぜい、新聞社は系列テレビ放送のため、通信社はテレビ局のために流しただけだった。
▽飯能署管内では、前年から行方不明になっている女児の住んでいた場所であり、さらにはその冬の12月には、川越市の女児が遺体で発見された埼玉県名栗村も、守備範囲だった。
▽すでにこの段階で記者たちが、この遺体はだれであるか、おおよその見当をしていた。
▽東京都江東区の会社員の5歳の長女が6月6日から行方不明になっていて、その遺体ではないか、という推論だった。
▽午後5時ごろ、隣棟の友人宅に遊びに行く、といった、同7時になっても帰宅せず、行方不明になつていた。
▽間違いなければ、埼玉県警は天敵の警視庁と合同捜査をしなければがなかった。やりにくいことになる事は目に見えていた。
▽埼玉県警が3件の幼女行方不明事件を抱え、そのうち2件は誘拐殺人事件として捜査していた。
▽隣の警視庁は傍観者として見ていた。犯人逮捕になかなか至らない県警の捜査を、「初動捜査がまずかった」と批判していた。遺骨の鑑定では法歯学の権威の鑑定が二転三転した時は、県警の発表を「軽率な発表」と評していた。
▽その天下の警視庁に、傍観者として見ていた幼女誘拐不明事件が飛び出したのだ。届け出を受けた深川署は、近くの運河沿いを探すとともに、事件の可能性もあるとみて、警視庁捜査1課の応援を求めて捜査を始めた。
行方不明から5日目だった。
▽女児の自宅から北に60キロ、埼玉県飯能市の宮迫霊園内で、女児の遺体が見つかった。
▽遺体解剖の結果、遺体はこの女児であることが判明した。血液型も同じO型だった。
▽ついに警視庁管内でも、幼女誘拐殺人事件が発生した。県警と警視庁の合同捜査が始まった。呉越同舟とはまさにこのことだった。
▽その意味は次章で書く。
(続く)
★第14章 呉越同舟
▽苦い思い出があった。埼玉県警と警視庁に、である。
▽隣接する捜査機関なのに、一方で、警察国家ニッポンを標榜する天下の警視庁と、その一方では東京都とは隣接しながらも、田舎警察の体質を抜け出せないでいる埼玉県警。管内の人口を警察官の人数で割ると、警察官1人当たりの負担人数は当時、警視庁が288人と日本一少ないのに対し、埼玉県警は781人と日本一多いのだ。単純な計算だけでは比較できないが、警察官1人にかかる負担は、2.7倍もの開きがあった。
▽その二つの警察組織が、一つの事件で対立しあった。
▽連続幼女誘拐殺人事件の4人目の被害者が出た事件の1年前に遡る。1988年6月15日未明のことだ。この日午前1時ごろ、東京都に近い埼玉県朝霞市仲町の理髪店から出火し、店舗兼住宅など2棟が全焼し、2歳になる男児が焼死体で見つかり、4人がけがをした。
▽続いて2日後の17日午前2時半ごろ、今度は所沢市東町のガラス店から出火し、木造モルタル2階建ての店舗兼住宅約100平方メートルが全焼し、焼け跡から経営者の男性(当時78)と長男の妻(同44)が焼死体で見つかった。
▽さらに同じ日の午前3時20分ごろ、所沢市上新井のそば店の店内が荒らされ、放火されるという事件が起きた。
▽状況から見て、窃盗・放火事件は明白だった。いずれも住宅や店舗の窓から侵入して、内部を荒らし、そして火をつけるというやり方だった。同様の事件は県内で10件が相次いだ。
▽この連続窃盗放火事件は、東京都にも飛び火した。その1週間後の24日午前2時ごろ、東京都小平市仲町の歯科医院宅が全焼するなど、11件が起きた。
▽埼玉県警は犯行手口から、甲府刑務所から出所してきたばかりの無職男(同26)をひそかにマークしていた。
▽そんな時だった。突然のように6月25日の各社社会面に同じような記事が掲載された。「窃盗放火事件は同一犯と警視庁が断定した」、という特ダネだった。朝日新聞も毎日新聞にも出ていた。
▽警視庁が守備範囲でもない埼玉県警の事件まで、捜査もしていないのに断定した、というのだ。驚いたのが埼玉県警を担当していた浦和支局員の私だった。そして怒りをあらわにしたのは、埼玉県警幹部だった。
▽少なくとも県警はその時点で、同一犯の感触を得ていたが、断定していなかった。それをお隣の警視庁が、ご丁寧にも新聞を使って断定してくれたのだ。
▽しかも各紙は特ダネと銘打って社会面に報じた者の、同じ日に同じ内容の記事が各紙に出ていた。
▽「これはリークだ。新聞記者を使ってむ、県警の反応を見たのだ。探りを入れてきたのだ」
▽その日夜、県警幹部は私にこう不満をぶつけた。不満というより、完全な警視庁批判だった。一部の新聞は容疑者の男が出所する前という、アリバイがある火災まで同一犯にしていた。
▽正式発表はしていなかった。しかし、リークとまで行かなくても、警視庁の狙いが何であるかは、私でも察知できた。
▽県警は25日、男を別の自動車等の疑いで逮捕し、追及を始めた。身柄が県警にあったため、県警からの情報が来ない、として警視庁が陸を始めたのは目に見えていた。
▽連続窃盗放火事件の容疑者が逮捕されたらしい、という事実はまず、地元紙の埼玉新聞が取り上げたものの、内容が不完全で、県警は記事の内容を完全に否定した。各社は後追いしなかった。私も県警の言い分を信じて、朝日新聞は後追いを避けた。
▽しかし1週間後の7月4日になって、今度は東京新聞が、火災で焼けた都内の民家から男が盗んだとみられる財布が、男の出入り先から発見されたことを報じて、県警が男を容疑者としてみている、という完全な特ダネを書いた。朝日新聞も追いかける必要があった。後追いを強いられた。
▽そして翌5日は、2歳の男児が焼死した埼玉県朝霞市の理髪店の火災で、そこから盗み出した女性の腕時計が、都内の出入り先にあった事実を県警がつかんだと、朝日新聞は報じた。後追いを特ダネで巻き返した形になった。
▽細かい事実の特ダネ競争だが、県警担当者にとってはこれは宿命の仕事だった。
▽県警は7月6日、ようやくこの理髪店火災の窃盗放火容疑で男を再逮捕し、県警と警視庁の合同捜査本部を所沢署に設置すると発表した。
▽身柄が埼玉県警にある、という自室は、警視庁の捜査幹部をいらだたせた。県内の捜査が優先され、都内の捜査が遅れる、という危機感であり、身柄を自由に出来ない、という捜査当局独特の体質だった。
▽追い打ちをかけるように、県警は2日後、この朝霞市の理髪店放火事件について、放火すれば家人が逃げ遅れて、焼死する可能性があったことを知っていた、という未必の故意による殺人と殺人未遂の疑いで追送検し、事件が窃盗・放火・殺人事件と大きく拡大した。さらに基礎に合わせて、別のガラス店放火やそば店放火の容疑で再々逮捕してむ、身柄を拘束し続けた。
▽一連の事件は最後の最後まで、埼玉県警が主体となって捜査した。最終的な事件発表も県警が行い、マスコミ報道から見ても警視庁の影は薄かった。警視庁は「従」を強いられた。天下の警視庁にとっては、屈辱の捜査だった。苦い教訓だった。
▽それから1年。連続幼女誘拐殺人事件で、立場は完全に逆転することになった。
(続く)
★第15章 伝えなかった極秘情報
▽話を4人目の犠牲者に戻す。
▽人通りの多いはずの都営マンモス団地で、5歳になる女児が突然行方不明となり、5日後には遺体で発見された事件は、地元住民にショックを与えていた。誘拐殺人という犯人の手口に、住民たちは犯人が女の子を強引に拉致したのではないか、というイメージを広げて、それなのに、だれも拉致した時を目撃していなかった、という団地の死角を浮かび上がらせた。
▽警視庁の捜査員たちは行方不明になった6月6日午後6時ごろ、団地中央の公園には大人や子供役20人がいたことをつかみ、この中に目撃者が必ずいるはずだと見て、連日事情聴取をしていた。しかし結果は出なかった。
▽容疑者の宮崎勤が乗ったニッサン・ラングレーは午後5時ごろには団地近くまで来ていた。団地4号棟東側に車を停めた宮崎は、カメラを持って降りて、この高層団地の公園のベンチに座った。ベンチに座りながら目に入ったのが公園の東側で1人遊んでいた女児だった。
▽宮崎は女児の後を追った。女児が通っていた保育園の入り口付近に来たところで、「写真を撮らせてね」と声をかけた。ニッサン・ラングレーまで誘い、車の助手席に乗せ、発進させるまで、わずかの時間しかなかった。
▽女児を乗せたニッサン・ラングレーは、一度は駐車場に入ったが、再度発進して近くのプレハブ倉庫の前に止まった。
▽後の捜査によれば、宮﨑は女児を後部席に移動させて、チューインガムを与えた。だれも見ていないことを確かめると、この車内で女児に覆いかぶさるようにして、自分の全体重を両手の親指にかけて、首を絞めた。誘い出してわずか20分しか経過していなかった。
▽後の調べに対する供述によれば、幼いころにあった腕の障害を女児に指摘され、カッとなったことも殺害の理由とされた。
▽ニッサン・ラングレーは、殺害された女児の遺体を乗せたまま、宮崎の自宅に向かった。
▽遺体は異臭がひどくなり、宮崎は遺体を捨てることを考えた。ノコギリや刃物で首や両手両足首を切断し、深夜自宅を出て、まず胴体部分を埼玉県飯能市の宮沢湖霊園公園内のトイレの脇に捨てた。残る首や両手両足首も自宅近くの杉林に投げたという。
▽行方不明になった女児の遺体が発見されるのは、遺体が放棄されてから丸1日以上が経っていた。
▽埼玉県警が一連の連続幼女誘拐殺人事件のうち、警視庁に捜査を依頼したものは数件あった。
▽その一つに、最初の犠牲者である女児のマンション近くをゆっくり走っていたホンダの黒っぽいプレリュードの所有者を割り出しがあった。
▽県警は2人目の犠牲者となった女児の遺体発見現場で目撃された車をトヨタのカローラⅡだと断定し、極秘で捜し出そうとしたが、その一方で潰しきれない目撃情報だとして、このプレリュードも必死に割り出そうとしていた。
▽警視庁捜査員が黒のプレリュードを追って、都内のある自動車関係者を訪ねた時だった。
▽その数時間前には、埼玉県警の捜査員が訪ねてきたことがわかった。捜査が重複する事はよくあることだが、県警捜査員が聞き出していたのは、黒のプレリュードではなかった。トヨタのカローラⅡだったのだ。
▽道路の側溝に脱輪して動かなくなった宮﨑の車を、2人の会社員が手伝って動かしたという情報は、県警独自の極秘情報であり、警視庁には伝えていなかった。県警にとってこのカローラⅡを絞り込むことで容疑者に到達できるという信念が県警幹部にあった。
▽警視庁捜査員は変だと思いつつ、プレリュードを追い続けた。脱輪と2人の目撃情報が新聞報道されても、この情報を警視庁に伝えることはなかった。
▽県警にも言い分があった。県警の独自情報が警視庁ルートでマスコミに漏れている、という不満があった。
▽さらに言えば、2人目の犠牲者の事件は、純粋に県内の事件である。警視庁にあれこれ説明する必要はなかった。
▽県警は最後の最後まで警視庁にカローラⅡについての連絡はしなかった。警視庁は県警から捜査依頼を受けていた黒のプレリュードだけを追いかけていた。
▽逆のケースもあった。警視庁の捜査で分かった4人目の犠牲者の情報は、県警にはほとんど届かなかった。
▽警視庁の捜査員は県警に、県警の捜査員は警視庁に不満を持ち始めていた。
▽お互いの不信感。メンツ争い。
▽追っている車種が全く違っていた。宮﨑が乗っていたのは、ニッサン・ラングラーである事は最後までわからなかった。
▽もっとも、マスコミのこの連続幼女誘拐殺人事件についての報道は次第に小さくなっていった。東京都議会議員選挙、参院選という大きな選挙を迎えるに当たって、リクルート事件に消費税、宇野首相の女性スキャンダルという3点セットが焦点となって、世論は政府自民党に対して批判の目を向け始めていた。3点セットは、自民党にとっては向かい風になり、野党の社会党にとっては追い風となり、各種世論調査は自民党の敗北と社会党の躍進を伝えていた。
▽この間、連続幼女誘拐殺人事件の報道はほとんど紙面になる事はなかった。
▽マスコミが再び幼女連続誘拐殺人事件に振り回されるのは、夏の暑い日、NHKが朝から晩まで夏の甲子園球場を実況中継し始める直前だった。
▽1989年8月10日、警視庁八王子署に強制わいせつ未遂事件で逮捕、拘留されている男が4人目の幼女誘拐殺人事件の犯行を自供したらしい、という情報が一部の社に入り始め、昼になってから遅れていた社も急にバタバタと動き始めた。事件の「終わりの始まり」が幕を開けた。最初の幼女誘拐殺人事件から353日目だった。
(続く)
★第16章 取られた主導権
▽ここで当時の私の立ち位置を記しておこう。1988年4月から担当していた埼玉県警キャップから翌年4月には埼玉県政キャップへと変更になった。連続幼女誘拐殺人事件については3人の犠牲者が出たが、事件そのものは小康状態が続いており、私は県警担当を離れ、県庁を取材対象にした取材を続けていた。
▽その1989年は、東京都議会議員選挙、参院選という大きな選挙を迎えるにあたって、リクルート事件に消費税、宇野首相の女性スキャンダルという3点セットが焦点となって、世論は政府・自民党に対して激しい目を向け始めていた。
▽3点セットは自民党にとって逆風となり、社会党にとって追い風となり、各種世論調査でも、自民党の敗北、社会党の躍進を伝えていた。自民にとっては激震となる選挙結果となる事は目に見えていた。
▽こうした時代の流れを背景に、県政担当となった私は、参院選とそして同日選の可能性も出てきた衆院選も視野に入れて取材を続けた。県内の候補者の動きを追っていた。
▽そんな時に起きたのが4人目の幼女誘拐殺人事件だった。日中は県政を取材する一方で、夜は県警幹部や捜査員に夜回りをかけるというかなりハードな取材を進めていた。
▽そして、「終わりの始まり」が幕を開けたのだった。
▽8月10日正午のテレビニュースでは、早くも第一報とし、容疑者が別件の強制わいせつ未遂事件で既に逮捕されていた、という情報が流されていた。東京本社社会部では、夕刊作業と並行して、記者たちを容疑者の自宅や、逮捕された八王子署に向かわせた。浦和支局では、犠牲となった3人の幼女の自宅と、そして県警の動きをチェックするよう指示が出された。
▽その日の県警幹部は、夜回りに来た私に対し、
「こっちがこんなに苦労してきたのに。良い所を警視庁に取られてしまったな」
と言って、疲れた表情を見せていた。
▽一連の事件はもともと埼玉県警の事件である。それが、いつの間にか警視庁の事件になり始めていた。県警がまだ県内を中心とした捜査に重点を置いている時に、警視庁は広域捜査の協力を口実に、県警が得た捜査情報を独自に分析し、県警とは別の捜査を始めていた。そして腹の中では、
「警視庁の方が県警よりももっと高度な捜査をしている」
と県警の捜査のお粗末さ笑っていた。
▽次の日は別の幹部に夜回りをかけた。
▽4人目の犠牲者について、容疑者が自供したという情報は、警視庁ではなく県警筋から入っていた。警視庁からの情報ではない。警視庁から見れば情報漏れてある。その警視庁情報を県警から取れ、というデスクに指示に私もうんざりもした。
▽この幹部はサバサバとした表情で私は自宅に迎い入れた。居間のソファーに座って、この日が来ることを予感していたように顔つきだった。
「主導権は警視庁に取られてしまったどうなるかわからないが、あの警視庁のことだから、全て一気に解決させるでしょう」
▽これまで県警と警視庁の捜査がうまくかみ合っていたとは、だれもが思っていなかった。
▽幹部は続けた。
「身柄を取った方が勝ちですよ」
▽埼玉県警の事件だったのに、最後になって警視庁が逮捕して、主導権を握っていることに悔しさはあった。
▽だが幹部も捜査員も事件が解決するかもしれない、という安堵感は大きかった。それがサバサバした表情となっていたのかもしれない。
▽未解決事件を嫌う捜査員とって、先が見えてきた事件ほど、安堵感を覚えるものではないのだろうか。嫌な顔をせず、居間に通してくれたのもそうした気持ちの表れなどなんでだろう。
▽県警にとっても長い捜査の終わりの始まりだった、それは捜査員にとっても、長い捜査が終結する、という期待を込めたものである。
▽この日は久々に酒を出されて、2人で飲んだ。県警にしても、身柄が警視庁にある以上、正式な情報もなく、たとえ情報があったとしても、埼玉の事件を解決させることにはならないはずだった。
▽夜回りから浦和支局に戻った私たちは、深夜の打ち合わせ会議で、具体的な情報がなかったことを報告。もはや本社社会部での取材が全てであることを確認した。支局にとっても、もはや特ダネを抜いた、とか抜かれたというレベルの競争が本社に移ったことだけでも、ホッとした気分になっていた。
▽わずかな安堵感が漂っていた。
(続く)
★ 第17章 隠密の夜回り
▽県警幹部の夜回りでは、こんな経験があった。
▽私は、知り合いの県警幹部の自宅にタクシーで向かっていた。自宅に近づいて、やや遠くから見ると、同業他社の記者が数人、家の前で立っており、その幹部の帰宅を待っていた。
▽私は他社には悟られないように、近づくのをやめるようタクシーの運転手に言った。そしてやや遠い林の茂みの中にタクシーを止めてもらった。隠密行動を取った。他社に私が近づいていることを悟られないためだ。
▽タクシーの屋根の上にある行灯の灯を消してもらい、タクシーメーターにはタオルをかけてもらった。タクシーの屋根に着いている行灯は、タクシー会社の社名が入っていて、灯が点いていると、他社にタクシーであることがすぐに分かってしまう。メーターも灯が点いていて、灯りが外部に漏れる。私の存在が分からないよう、他社には気づかれないようにして、ずっと幹部の自宅前を見ていた。
▽時刻は午後11時を過ぎていた。この連続幼女誘拐殺人事件の捜査で、私は連日夜討ち朝駆けをしていた。この幹部は私にとっての大切なシンパだった。シンパゆえに、そのことを他社には悟られないために、私は他社との接触を避けたのだ。親しいことが他社に分かってしまうと、情報源として潰される可能性が高い。このために、私がこの県警幹部の自宅に近づいていることを、他社には知られたくなかった。これが行灯の灯消しとメーター隠しの理由だった。
▽やがて県警幹部は、県警の車で帰ってきた。そしてその幹部を他社の記者数人が取り囲んで、しばらく立ち話をしていた。そして他社は引き上げた。
▽ここからが私の出番だ。当時は携帯電話もなかったから、自宅に行くしかない。他社が全部引き上げたところを見計らって、私は幹部自宅の玄関のチャイムを鳴らし、自宅に入れてもらった。県警幹部はすでに寝床に入っていたが、私を通してくれて、私の質問に答えてくれた。そして礼を言って引き上げた。
▽たぶん、私が知らんぷりをして、同業他社の輪に加われば、同業他社と同じレベルの情報しか取れないだろう。否、同じレベルで情報も取れないだろう。
▽1対1だからこそ、独自の情報が取れる。そう信じての「タクシー隠し」だった。情報源を守ることも、他社には知られないことも、大切な取材行動の鉄則だ。
▽このようにして、夜回りとは、他社には知られてくない動きをするものだ。他者と同席になってしまえば、独自の情報などは取れない。あくまでも1対1での夜回りが必要だと思う。
▽こんな手法で、連続幼女誘拐殺人事件での取材を続けてきた。
▽容疑者である宮﨑勤が被害者宅に段ボール箱を送りつけ、中には土が混じった遺骨のほか、「真理」「遺骨」「焼」「鑑定」と書かれたメモを残していた。このメモは県警が徹底的に秘密にしていて、会見ではノーコメントを貫いていた話だった。それを夜回りで情報を取った。朝日新聞の特ダネだった。
▽夜回りの深度というか、深さというか、形だけ夜回りをしても、情報は取れないことは知った方がいい。
(続く)
★第18章 宮﨑勤とは
▽埼玉県警幹部も、そして県警担当記者も驚いたのが、東京・五日市の容疑者宮崎勤の自宅自室を警視庁が公開したことだった。
▽記者もカメラマンも、通常ならあるはずの「立入禁止」のロープがないことを理由に、一気に正面突破を敢行し、本来ならプライベートな部分である「自分の城」に潜入し、何回も何回もシャッターを切った。宮崎勤のプライバシーが暴かれる瞬間でもあった。
▽6000本もあったおびただしいビデオテープ、アニメ雑誌、4台のビデオ機器、ヌード雑誌等々。6畳一間の自室には、これらのものが所狭しと並べられてあった。
▽記者たちは驚いた表情を見せながら、無線を通じて本社デスクに自室の中身を報告した。
▽本社デスク席でも、驚きの表情が広がっていた。
▽一つはこれまで「中年男」と報道されていた犯人像を軌道修正する必要があったのだ。埼玉県警が不審者として公開した「サングラスにマスク男」と「ハンティング帽男」は、当初は別人物としていたにもかかわらず、いつの間にか一人歩きして、「サングラスのハンチング帽男」となって、大部分のマスコミが報道するようになっていた。中年男というイメージは、固定化しつつあった。
▽それが、であった。逮捕された宮崎勤はまだ28歳と若いのだ。記者の多くは固定された、誤った犯人像を修正する必要があった。書き得をした挙げ句、間違った犯人像を作ってしまった罪は重いはずなのに、その反省する時間もなかった。
▽驚きの理由はもう一つあった。宮崎の部屋に、自分の社の記者やカメラマンが潜入できた、という報告があったからだ。
通常の事件捜査で警察が報道陣に最初から公開することは、ありえないからだ。あったとしても、徹底的に捜索した後に、と相場は決まっていた。それが、いきなりビデオテープの山、という写真が撮れた、という連絡である。
▽翌11日の朝刊は、各社が社会面で容疑者の部屋を取り上げた。
「孤独に潜む尋常さ」「友はアニメ・ビデオ」(朝日新聞)
「幼女の写真散乱」「内気、趣味はカメラ」(毎日新聞)
等々。
▽宮崎勤の生い立ちから交友関係、履歴など、一つ一つ剥がされていった。もはや事件被疑者としての人権など全くなかった。
▽もちろん警視庁は公開したとは認めていない。報道陣が勝手に入ったとしている。
▽だが、県警はそうは見ていなかった。
「報道陣にサービスした」
と批判した。
▽県警幹部の予測が当たった。
▽宮崎勤を再逮捕するため、警視庁は11日、宮崎の身柄を八王子署から深川署に移送した。
▽白い乗用車に乗った宮崎が、八王子署から出てきたのは、午前11時43分。薄い水色の半袖ポロシャツに濃いグレーのズボン姿で、両脇を警察官に挟まれ、上半身を預けるように体を埋めて、自分の左腕で顔を隠した。
▽車が出てきた途端、市民の間からは、「宮崎!」という怒鳴り声が飛んだ。
▽八王子署前を走る国道20号には、はテレビ中継車が10台ほど並び、上空をヘリコプターが巡回する。報道陣のほか、異常な犯行に走っているのだ。宮﨑をひと目見ようとする市民ら約500人が詰めかけて、ごった返しした。
▽容疑者を報道陣の前にさらけ出す、引き回しである。大事件の捜査で犯人を逮捕した時に、警察が捜査力を誇示するために行う演出だ。通常なら報道陣に見つからないように極秘に動くのだが、警視庁は違った。ロス疑惑の時の逮捕劇を連想させた。マスコミへの過剰サービスであり、容疑者への人権侵害だった。
(続く)
★第19章 上申書という名の自供
▽それだけではなかった。上申書という名の自供があった。
▽8月15日未明、警視庁が新聞朝刊の締め切り時間ギリギリに記者発表したのは、容疑者の宮崎勤が上申書を書いて、4人のうちの2人の幼女殺害についても認めたという内容だった。
▽各社はその日の夕刊で同じような紙面展開をした。
「犯行を認める上申書」
「2人の殺害犯行を認める」
「いずれも車内で」
「車内で首をしめた」
▽一連の4人の幼女誘拐殺人事件で、既に犯行を認めていたのは4人目の幼女殺害事件だが、それ以外にも関連があると見ていたのは、当然のことながら警視庁である。
▽マスコミも警視庁がどんな形で自供に追い込むかが焦点となっていた。そしてそれがどういう形でマスコミに流れるか、だった。
▽4人目の幼女誘拐殺人事件で逮捕している状態で、警視庁は別件の取り調べを表面上やっていないことになっている。しかし、一連の連続幼女誘拐殺人事件の容疑者はこいつに違いない、強引な取り調べをしたのではなく、自供で供述させた、とする。自供ではない自供。ここで考えられたのが、上申書の正体だった。
▽警視庁には計画があった、と一部の記者は見ていた。4人の被害者のうち、3人の被害者の事件は、本来なら埼玉県警の事件である。埼玉県警に身柄を引き渡さなくてはならない。
▽引き渡す前に、警視庁の手で事件を一気に解決してしまう、と考えたのではないか。埼玉県警に渡す前に、残り3人の殺害を認めさせてしまえば、世間的には警視庁が全て片付けてしまった印象を与える。こんな思惑が見え隠れした。
▽ただ、多くのマスコミは、上申書の報道に血眼になり、抜いた、抜かれたという競争にどっぷりと浸かってしまい、警視庁の手のひらの上で完全に泳がせるている事実に気づかなかった。
▽こうして警視庁は上申書という形で自供を引き出して、宮崎勤の犯行を発表したのだった。おいしいところを横取りした警視庁は埼玉県警に勝ったのだった。
▽後に2017年10月、フジテレビ系列で放映された「30年目の真実 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯 宮崎勤の肉声」では、警視庁取調官の録音テープを入手し、一連の連続幼女誘拐殺人事件をドラマとして再現している。このドラマでは、宮崎が多重人格ではなく、通常の「持てない男の女への興味」から事件を引き起こしたことや、遺骨を返却したのは、「仏心だった」ことなど、その後に出てきた多重人格説を否定している。死刑が執行されても、疑問は残るが、その後毎日新聞記者が多重人格説、一橋文哉が「通常の人間説」を取り上げて、本を出しているが、私も通常の人間説に同意したいと思う。
▽さらにはこのドラマを元にした『肉声 宮﨑勤30年目の取調室』(安永英樹、文藝春秋)も読んだ。その肉声を解説したものだが、改めて感じたのは、宮﨑が通常の人間であり、多重人格ではないこと、さらには警視庁主導で取り調べが進み、問題の上申書を書かせていたこと、警視庁の取り調べをした捜査員をかなりヨイショしていること、埼玉県警の話が全くないことが気になった。
▽警視庁を取材していたフジテレビと、埼玉県警を取材していた私の、警察に対する考えが全く違うことが分かってくる。
(続く)
★第20章 リクルート事件
▽宮﨑勤逮捕とその上申書が発表され、連続幼女誘拐殺人事件は異様な雰囲気の中で報道が続いていた。
▽その年、1989年夏、新聞社にとっては忙しい年になった。
▽朝日新聞がその前年の1988年6月18日付の朝刊社会面トップで報じたリクルート疑惑は、その後政界に拡大し、東京地検特捜部が捜査に着手。リクルート・コスモス社の社長室長を申し込み贈賄容疑で逮捕したのを突破口に、「NTTルート」「労働省ルート」「文部省ルート」の摘発を行い、略式起訴を含む20人を起訴した。
▽事件の発端となった記事の内容は、川崎駅西口の再開発地区にリクルートが進出する際、川崎市の当時の助役に対して、リクルート社の関連会社、リクルート・コスモス社の未公開株、3000株が譲渡されていた、というもので、助役は当時、再開発を担当する企画長生局長だった。1億円という巨額な売却益を得ていた、という事実だった。朝日新聞の調査報道で明るみに出た話だった。後に出版された『リクルート報道』(朝日新聞)に詳しい経緯が綴られている。
▽最終的に政界に流れた資金は、判明しただけで、総額13億3000万円にのぼり、当時の竹下内閣にあっては、株を譲渡された大臣が次々と辞任して、最終的に内閣退陣に追い込まれる結果となった。
▽また大手マスコミの幹部もリクルート・コスモス社の未公開株を受け取っていたことが明るみに出て、後味悪い結果を残した。
▽リクルート事件捜査の最終場面では、特捜部の捜査ターゲットが、米クレイ社のスーパーコンピューター導入に絡んで、中曽根元首相に絞られつつあることが分かり、各社はその準備取材に追われていた。
▽本社社会部の記者だけでは人手が足りず、捜査の大詰めに迫った2月ごろから、各社は地方支局の記者を張り込み要員として本社に上げていた。
▽事件を捜査している東京地検特捜部には、社会部担当記者ら約10人を連日夜討ち朝駆けの取材に投入させたほか、遊軍記者や国会担当記者にも政治家と秘書の動きをチェックさせていた。社会部とは別に政治部も動いていた。
▽そんな中で7月に行われた参院選は、リクルート事件に加えて、首相の女性スキャンダル、消費税という3点セットになって、社会党が大々的に躍進し、自民党が敗北した。土井たか子委員長の「山が動いた」は名言になった。
▽余談だが、その参院選埼玉選挙区では社会党候補として歌手でマルチタレントの山本コータローが出馬する問題が取り沙汰されていた。しかし、社会党内部の派閥争いから、山本コータロー本人が出馬を辞退していた。社会党の内紛が表面化した。この話を、私は当時取材していた。
▽各社はリクルート事件が一段落し、選挙結果の後始末に追われていた。
宮﨑勤が逮捕された、という情報はそんな時に入ってきたのだった。本社の取材競争が始まった。
▽そんな時に飛び出したのが、読売新聞の秘密アジト報道の大誤報だった。
(続く)
★第21章 秘密のアジト報道の大誤報
▽連続幼女誘拐殺人事件の4人目の被害者の容疑として宮崎勤が警視庁深川署に再逮捕され、この他にも2人の殺害を認めた、とする上申書の存在が報道されてから、わずか2日後、つまり1989年8月17日、読売新聞は夕刊一面トップで「宮﨑のアジト発見」「3幼女殺害の物証多数押収」「小峰峠の廃屋」「遺体放置場所と断定」という記事を大々的に載せた。
▽夕刊が配られ始めたころら、現場にいた同業他社の記者のポケットベルが鳴り始めた。
「何でもいい、とにかく見つけろ」
という指示が東京本社から飛んできた。
▽宮崎勤の自宅から1.5キロの奥多摩山中の小峰峠付近に、頻繁に出入りしていた秘密アジトがあることを警視庁・埼玉県警捜査本部は突き止めた、という内容だった。記事では、「この小屋は、既に古ぼけているが、かつて宮崎家の使用人だった男性が住んでいた小屋で、この男性を慕っていた宮崎勤が、幼いころから頻繁に訪れていた場所でもあった」と詳細に報じていた。
▽各社は慌てた。事実なら追いかけなくてはならない。現場に記者を何人も投入しているのに、そんな秘密のアジトがあるという情報などなかった。早速捜し出すとともに、警視庁幹部に確認取材をするよう指示が出た。
▽だが警視庁は、この記事の内容を即座に否定する。
その日の夜、警視庁幹部はそのような存在は確認されていないと言い切り、それが誤報であることを強調した。
▽一連の連続幼女誘拐殺人事件に関する報道について、埼玉県県警幹部が一切コメントしなかったのとは大きな違いだった。これまでの一連の事件では、県警は各社の報道内容にいちいちコメントしなかった。その分だけ、誤報が拡大・再生産されていた経緯があるが、今回の場合は警視庁が即座に、完全なミスリードであることを断言した。異例だった。
他社を驚かせたのは、それだけではなかった。読売新聞の翌日の朝刊での扱いだった。
▽「山小屋アジト否定」という4段の大きな見出しで捜査本部に否定された記事と、「おわび」を載せ、即座に誤報を認めてしまったのだ。異例の扱いだった。
「警視庁・埼玉県警合同捜査本部は17日夜、記事は事実に反するとの見解を明らかにしました。この記事は捜査関係者、本社独自の聞き込み情報など複数の取材源の話をもとにまとめたものですが、取材、記事作成段階での事実確認の甘さや誤解、記述の行き過ぎがありました。『アジト発見』『物証押収』『遺体放置現場と断定』などは誤りでした。おわびします」
▽容疑者の秘密アジトを発見した、という誤報について、異例とも言えるおわびや関係者の処分に踏み切ったのだが、一連の報道で、こうしたおわびは初めてだったし、しかも処分なんて、普通の事件報道ではあり得ないものだった。
▽私の経験則だが、後になって誤報とわかっていても、事件報道の洪水の中で消されてしまうのが、がほとんどだ。連続幼女誘拐殺人事件の一連の報道では、訂正やおわびをしたケースなど全くない、と言ってよかった。
確かにアジトがあればつじつまがあった。だから、アジト探しに行ったとしても不思議ではなかった。
▽しかし特に読売新聞は、これまでの一連の事件のポイント、ポイントで、一番の誤報をしていた。「フライドチキン店に不審者」「口に粘着テープ」に始まって、被害者の自宅に送られた遺骨に入っていたメモの9つの文字も、当初は間違って報じていた。
▽「アジト発見」という誤報は、読売新聞が確認をしないで書いてしまう体質を持っていたということを、たまたまさらけ出したに過ぎない、と話す記者も多かった。
(続く)
★第22章 新聞業界の報道体質
▽だが、読売新聞の「おわび」には現在の新聞業界全体の取材方法が如実に示されていて、興味が深い。
▽「おわび」では、「この記事は、捜査官係者、本社独自の引き込み情報など複数の取材源の話をもとにまとめたもの」と言い切った。つまり、「○○日までの捜査本部の調べで明らかになった」というスタイルの記事になっていたが、捜査当局から情報を取ったものではなく、自らの独自取材を、当局の権威を利用して、あたかも「当局の調べで明らかになった」とごまかして書いた、と言うことになる。
▽捜査当局という支えを持つことで、裏の取れない情報を権威づける、という取材方法は、この業界で古くから行われてきた。一連の連続幼女誘拐殺人事件では常にそうだった。
▽これまで埼玉県内の一連の事件で、記者が誘拐現場付近で聞き込んだ不審な車や人間は、県警が事件との関連性を否定しようとも、あたかも関連があるかのように報道が続いた。県警は表面的に沈黙していた。各マスコミはそれを良いことに、誤報を拡大していった。
▽その意味では、読売新聞の今回の誤報は、マスコミの体質そのものをさらけ出すものだった。一方的に報道し続けても、何の批判もされなかったのである。
▽この姿勢は、容疑者宮﨑勤が逮捕され、自室が公開され、さらには別件の二つの事件も上申書という形で、犯行を自供した前後から、さらに激しくなった。独自取材をもとに、宮崎の過去が暴露されていく。
▽「押収ビデオはアニメ物が中心だったが、今回の事件の動機とも手本とも思わせるものがある。ヌードの幼女が野原でセミを追いかけるといったロリコン物と、女性を誘拐して手足をノコギリなどで切断するホラー物だ。
▽友人もほとんどなく、仕事にも熱中できない宮崎は、ビデオの城の中でひとり現実とブラウン管とを取り違え、異常犯罪にのめり込んでいったようだ」(産経新聞)
▽「宮崎がビデオに熱中し始めたのは、家業の印刷会社を継ぐため、東京・小平市の印刷会社を辞めた六十一年(1986年)春ごろから。同じ時期、持っていないテープをダビングするネットワークを広げるため、ビデオサークルにも加入した。
▽宮崎はレンタルビデオ店やサークルを利用し、精力的に昔の特撮ものやアニメなどを次々と録画した。同クラブの会報の昨年五月号には、『僕のテープ本数は約二千巻』と投稿しており、それから逮捕までわずか一年余の間に約六千本を増やした。テープ代だけでも四百万円を超える。
▽宮崎が異常な興味を示した血や内臓が飛び散る残酷な『スプラッター映画』は一部のマニアの間で根強い人気を保っている」(読売新聞)
▽東京近郊のレンタルビデオ店の中に、宮崎が利用していた店もあった、として、各社はレンタルビデオ店を探し回った。ビデオサークルに入っていたとあれば、その関係者に取材した。この結果がこんな記事になっていった。
(続く)
★ 第23章 不明女児2人目の行方
▽ここまで書いてきて、この時点でもう1人の女児の行方をまだ追っていないことに気づく読者もいるだろう。
▽もう一度、犠牲となった女児の行方不明の日付と、遺体発見を整理しておく。分かりやすいよう、ABCDのイニシャルを使わせてもらう。
1988年8月 A子ちゃん行方不明
10月 B子ちゃん行方不明
12月 C子ちゃん行方不明
1989年6月 D子ちゃん行方不明
▽遺体発見は次の順だ。
1988年12月 C子ちゃん遺体発見
1989年2月 A子ちゃん遺骨届く
1989年6月 D子ちゃん遺体発見
▽そして1989年7月に、宮﨑勤が強制わいせつ未遂容疑で逮捕
▽8月 4人目のD子ちゃんの犯行自供と続く。
▽注意してもらいたいのは、宮﨑勤の容疑が次第に明らかになっても、この時点ではB子ちゃんの遺体は不明のままだった。
▽マスコミは大騒ぎしたその一方で、このB子ちゃんの遺体は不明のままだという報道はなかった。
▽もちろん、警視庁が1人目の女児不明と、3人目の女児不明事件を自供させたことで、焦点は2人目の女児の行方だった。
▽1人目の女児事件では、遺骨入りの段ボール箱と犯行声明などが届けられた段階で、事件と認知された。3人目の女児事件では山林で遺体が見つかったことで、誘拐殺人事件となった。だが、2人目の女児不明については、事件だと断定する材料はなかった。前年の10月、忽然と姿を消し、そのままになっていただけに過ぎない。
▽この2人目の女児についても宮崎勤容疑者がかかわっている、と最初に報じたのは、朝日新聞8月18日の朝刊最終版だった。
▽1面トップで「宮崎容疑者が自供、事件の全面解決へ」と大々的に報じた。
▽「宮崎勤が、17日までの警視庁と埼玉県警の合同捜査本部の取り調べに対し、昨年10月からになっている埼玉県飯能市の女児についても、『私が誘拐して殺した』と自供した模様だ。しかし、遺体の捨て場所については、『山の中』程度のあいまいな供述をしているといい、合同捜査本部は(中略)、遺体の捨て場所の特定を急いでいる」
▽警視庁が隠していた情報だった。しかし表現は、警察原稿にしては珍しく、「自供した模様だ」というスタイルになっている。それだけトップシークレットの情報だった。
▽毎日新聞も朝日新聞報道の2日前の16日付夕方に、「『他にももう一件」ほのめかす」という記事を出している。そこまで踏み込んだ情報が取れないだけだった。
▽もっとも各社もそして読者も、意外性はなかった。あれだけ宮﨑勤の犯行を暴き立てている以上、2人目の女児不明事件に関連していたとしても、不思議ではなかった。問題は、いつ、どういった形で警視庁が追及するか、ということだけだった。
▽だが、確認を求める他社に対して、警視庁幹部の口は固かった。確認を取り、後追いするのに数日かかった。物証がないことが、口を固くさせていた。
(続く)
★第24章 スケジュール
▽警視庁はこの年、1989年9月2日という日を非常に気にして、スケジュール通りのように、ことを運んでいた。
▽4人目の女児誘拐殺人事件で、警視庁が宮崎勤を再逮捕したのが、8月11日。東京地検に身柄送検したのが2日後の13日。検察庁の最大拘留日数は10日間を2回の計20日間だから、拘留期限は9月2日となる。つまり東京地検が宮崎を起訴するには、この最終日となるわけだ。
▽この日までに起訴できるかどうかを心配していたわけではない。宮崎勤の身柄を警視庁が自由にできなくなる日でもあったからだ。この点を十分に理解してもらいたい。
▽一般論で言うと、送検後の容疑者の身柄は、本来は検察庁が抑え、拘留場所として拘置所を使う。ここで検察官が取り調べを行い、起訴するかどうかを決める。
▽しかし日本では、この拘留場所として検察庁に施設がないことを理由に、代替監獄として、警察署の留置場を拘留場所として使うことを認められている。つまり、送検後も警察署に身柄があることになる。法律的には検察庁にあるのだが、実態は警察の施設にある。
▽ここで警察官と検察官が交互に取り調べを行うことになるが、密室での取り調べが可能になることから、この代用監獄が冤罪事件の温床となっている、という批判が根強い。
▽起訴後は「起訴拘留」となって、弁護士の接見が可能となる。逮捕した容疑者が複数の事件を起こし、取り調べが充分でない時、捜査当局はこの接見を嫌う。この接見を避けるため、厳密に言えば妨害するため、起訴と同時に別の容疑で再逮捕、という手段を使う。起訴と再逮捕を繰り返し、いつまでも身柄を確保し、取り調べを続けるのだ。
▽今回の場合、捜査当局は、警視庁が4人目の女児誘拐殺人事件を、そして埼玉県警が1人目の女児、2人目の女児、3人目の女児の不明事件を捜査していた。つまり4人目の女児誘拐殺人事件で起訴した後、宮﨑の身柄を埼玉県警に渡す必要があった。
▽宮崎を逮捕したのは、警視庁である。せっかく逮捕したのに、事件を解決できないでいた埼玉県警に渡して、事件解決を宣言されてたまらない。こんな計算が警視庁には出来ていた。
▽このために行ったのは、すべての事件を警視庁で自供させることだった。1人目の女児誘拐殺人事件、2人目の女児誘拐殺人事件の2つの事件を上申書という形で自供させた後、今度は2人目の女児行方不明事件も自供させたのである。
▽記者たちはこんな警視庁のしたたかな計算を知らなかった。
▽そして、予想以上に警視庁はしたたかった。
▽記者たちは、当然のことながら、起訴、イコール再逮捕であり、連続幼女誘拐殺人事件の最終章に向かう、と踏んでいた。ところが起訴したものの、いくら待っても待っても、再逮捕にはならない。
▽埼玉県警狭山署に身柄を移されて再々逮捕したのが、起訴から6日後の8日だった。
▽この6日間の間に、ほとんどの社は、ようやく「2人目の女児不明事件で自供」を追いかけた。マスコミが報道するまで、身柄移送を待っていたと言ってもよかった。
▽すべて警視庁に身柄があるうちに、事件解決のめどを立てた、という事実だけが残った。
(続く)
★第25章 不明女児2人目の犯行と遺体発見
▽不明となった2人目の女児は、自宅近くの埼玉県飯能市原市場小学校の前の道路を1人で歩いていた。ニッサン・ラングレーに乗った容疑者宮崎勤は、女児に声をかけた。
▽「道が分からなくなったので、教えてくれるかい」
▽「僕が知っている所まで、車に乗って教えてくれないか」
と話した。
▽ニッサン・ラングレーは、そのままだれにも気づかれることもなく、飯能市を出て、東京に入った。時間にして約1時間。八王子市の東京電力新多摩変電所の空き地に止まった。そこで、宮﨑は、
「降りて休もう」
と車から降りて、さらにはしゃぎ回る女児に対して、
「今度は電車に乗ろうね」
と言って、山林内まで連れて行った。
▽後の捜査本部の調べによれば、車内から持ち出した新聞紙を広げて、地面に敷いて、2人で並んで座った。
▽ここで宮﨑の態度が豹変した。
▽仰向けに寝転んだ女児の首を力任せに絞めて、窒息死させたのだ。時刻は午後5時になっていた。女児が宮崎勤に、
「いつ帰るの」
と時刻を気にし始めた直後だった。
▽ぐったりとなった女児の遺体はそのまま山林に放置され続けた。
▽後の捜査本部に調べにによると、宮崎は遺骨を女児の自宅へ届けようとして、再度この山林に来た。1人目の女子誘拐殺人事件と同じように、だった。だが、記憶を頼りに遺体を探したが、山林内の様子が変わってしまい、発見することができなかった、という。
▽ニッサン・ラングレーの走行距離は、誘拐があった1988年から急に伸びていた。月平均が1500キロ。それ以前より2−300キロも多くなっていた。
▽この距離は、車で営業セールスをする業界の距離に匹敵する長距離だ。それだけ宮﨑はこのニッサン。ラングレーを酷使していた。
▽1986年に親に買ってもらったラングレーは、最初の女子誘拐時に走行距離が3万キロになり、翌年6月の4人目の女子女児誘拐人時には、4万5000キロにまでなっていた。
▽途中、クラッチの修理を2回、セルモーター、燃料メーターの修理も各1回行っている。新車を購入したにしては、修理が多い。宮崎はラングレーを酷使していた。
▽警視庁は9月6日、2人目の女児の遺体を捨てたとしている東京都八王子市と五日市町堺の小峰峠付近の山中で、宮崎を立ち合わせた上で、遺体の側索を実施した。午前10時42分、五日市町の山林内で、腰部を除く女児の頭部、両腕など人骨を発見した。さらに、当時の衣類や靴も近くで見つけ、遺体はその女児であると断定した。
▽供述通りに遺体が発見されたことで、容疑者宮崎勤の2人目の女児誘拐殺害容疑も決定的となった。犯罪史上、4人の女児を誘拐し殺害するという前例のない事件となったことに、世間は言葉を失った。
▽既に宮﨑は4人目の女児女児誘拐殺人事件で起訴されていた。警視庁は、遺体という重要な物証を発見したことで、ようやく身柄を埼玉県警に移すのだった。
(続く)
★第26章 違った車種
▽一連の事件が宮崎勤の犯行だとしても、安易に納得できない事実があった。
▽それは宮崎が一連の犯行で使用していた車がニッサン・ラングレーであり、埼玉県警が目撃情報から割り出した車種と違っていたことだ。県警は最初の1人目の犠牲者の事件では、黒のホンダ・プレリュードを、また3人目の犠牲者の事件ではトヨタ・カローラⅡを追っていた。
▽ホンダ・プレリュードについては、犯人が遺骨の入った段ボール箱を1人目の犠牲者の女子宅に届けた時刻ごろ、目撃された不審な車で、警視庁にも捜査の依頼が県警からあった。また、カローラⅡについては、3人目の犠牲者の遺体が捨てられた山林近くの道路に脱輪痕があり、その脱輪した車を手助けした2人の会社員が目撃していた。会社員のうち1人はかつて自動車販売関係の仕事をしていたことから、カローラⅡ、もしくはターセルなどトヨタ系の姉妹車に間違いない、という判断がされていた。
▽しかもその目撃者が言うカローラⅡはツーボックスカーで、宮崎の乗っていたセダンではなかった。
▽報道でもその矛盾が言及された。
▽「宮崎が上申書で日産ラングレーとしているのに対し、18日までの埼玉県警の調べでは、トヨタカローラⅡの可能性が高い。次第にこの物証が浮かぶ(1人目の)事件に比べ、(3人目の)事件で有力な決め手がなく、今のところ脱輪車が最大の手がかり。同県警では、目撃者から詳しい事情聴取を進める一方、宮崎が車について何か隠している可能性もあるとしてさらに調べる」(読売新聞8月19日朝刊)
▽読売新聞は脱輪痕という物証が出たという朝日新聞の特ダネを追いかけることが出来なかったが、宮崎の逮捕でようやくこの事実を追いかけ、さらにはニッサン・ラングレーという物証も出てきたことで、宮崎、イコール、ニッサンラングレーという結論に達していた。
▽だが、そのラングレーの車体にはそんな疑問を吹き飛ばすような証拠があった。脱輪した際に出来た傷が見つかったのだ。。
▽朝日新聞がこう報じた。
▽「新たに見つかった傷は、右前輪と車軸を斜めにつないでいるローアームと呼ばれるパイプについており、右前輪が脱輪した場合、ローアームが側溝の角に接触、車を支える状態になって生じる傷と酷似していた」(朝日新聞19日付夕刊)
▽埼玉県警の捜査員はラングレーが押収されている警視庁八王子署に出向き、車を徹底的に調べた。カローラⅡではなかった。ツーボックスカーでもなかった。4ドアののセダンだった。傷がついていることが決定的だった。残りは「カローラⅡ」と証言した目撃者の話の内容の信憑性だけだった。
▽2人の会社員は再び県警の事情聴取を受けた。目撃した状況、運転した感触、そして実際、車種がどんな形をしていたのか、再び念入りに聴かれた。
▽県警にしてみれば、「カローラⅡ」は確たる信念を持っての捜査結果だった。それが違うとなれば、この半年以上の捜査は空振りだったことになる。犯行に使われた車種がニッサン・ラングラーであることが次第にはっきりしてきた。そして、目撃情報情報から、会社員たちの証言は誤っていた、と結論に達したのは、宮崎が警視庁から埼玉県警に身柄を移される直前だった。脱輪痕という決定的な証拠を握りながら、県警の捜査は徒労に終わった。
▽サングラスにハンチング帽という情報と同様、目撃情報は最後まであてにならなかった。
(続く)
★第27章 住民の死角
▽1989年8月20日朝、警視庁は4人目の被害者となった女児を誘拐した現場とされる東京都江東区の団地周辺の実況見分を行うため、容疑者の宮崎勤を立ち合わせた。八王子署から深川署に移送されて以来、宮崎がマスコミにさらされるのは初めてだった。しかもその時は、顔を隠されていたから、「生の顔」を見せるのは初めてだった。
▽宮崎は白いジャケットを着て、グレーのズボン、茶色のサンダル履きだった。白いジャケットは、手帳を見せないための長袖の借り物だった。髪の毛はややボサボサで、眼鏡姿だった。
▽宮崎を乗せた捜査本部の車は、まず宮崎が犯行当日、同団地に止めたとした4号棟東側路上に着いた。女児に声をかけたとする位置と何回か往復し、捜査員の質問に落ち着いた表情で、一言二言答えた。
▽その実況見分を、団地住民は遠巻きに見ていた。14階では女児の家族が不安な表情で見守った。
▽報道陣も遠巻きにカメラのシャッターを切った。マスコミが「殺人鬼」と言うには、やや物足りない、そしてやや穏やかな表情はそこにあった。マスコミが勝手に流していた「中年の男」では決してなかった。
▽実況見分に集まった住民の数とは裏腹に、実際の犯行日には、誘拐された「その時」をだれも知らなかった。だれも見ていなかった。
▽それは他の事件も一緒だった。団地の死角と言われたが、子供たちの動静まで気にしている住民は、そんなにいないことが浮き彫りになっていた。
▽1人目の被害者の事件では、宮崎は入間市の団地駐車場にニッサン・ラングラーを置いて、歩道橋を1人で上り掛けていた女児を見かけ、反対側から上って歩道橋上で、「お嬢さん」「涼しいところに行かないか」と声をかけた。夏の暑い日だった。
▽ついてくるように言って、ラングレーにあるところまで誘った。女児を乗せたラングレーは、そのまま一気に東京都に入った。目撃した住民はいなかった。宮崎の後をついていく女児を、近所でキャッチボールで遊んでいた子どもが見かけただけだった。
▽調べによると、女児を誘い出した宮崎は、八王子市の東京電力新多摩変電所の空き地に車を止め、そこで女児を降ろして、林道に入り、東京都西多摩郡五日市町戸倉日向峰の山林までの1200メートルを歩かせた。そこで泣きだした女児の首を絞めて殺害したのだった。
▽2人目の女子も同様だった。自宅近くの飯能市原市場小学校前の道路を1人で歩いていた女児に、宮崎は「道が分からなくなったので、教えてくれるかい」などと声をかけた。そして同じようにニッサン・ラングレーはだれにも気づかれることなく、飯能市を出て、八王子市の東京電力新多摩変電所の空き地に止まった。そして山林内に誘い出した。
▽3人目の事件では、寒い外気の中を歩いていた女児を「あったかい所へ行こう」と誘い出し、国道299号を通って埼玉県入間郡名栗村の県立名栗少年自然の家の駐車場まで一気に走行し、車内で女児をカメラで撮影した。その際、女児が急に泣き出したことから殺害した。
▽だれも誘い出したところを見ていなかった。誘い出した手口は単純だということも、殺害方法も、後の取り調べで明らかになったことだった。
(続く)
★第28章 捜査の衰退
▽逮捕時には騒がれていなかったものの、後の捜査で改めて驚かされたものに、二つの怪文書の存在があった。
▽一連の事件で2人目の犠牲者となった女児の遺体が発見され、殺害が明らかになった1988年12月15日、容疑者の宮崎勤は、事件の犯行をにおわせたはがきを2枚、その女児の自宅と、最初の犠牲者の女児宅にそれぞれ送りつけていたことが、後に判明した。
▽このうちの1枚は2人目の犠牲となった女児の自宅に送ったはがきだ。自宅にあった新聞紙などから拾い出した文字から、女児の名前と「かぜ」「せき」「のど」「楽」「死」の文字を、自宅工場の電子複写機でコピーし、これを切り取って、同じ順序で並べて、矢印を書き込んだものをさらにコピーした。郵送したのは、そのコピーを張り付けたはがきだった。埼玉県入間市の郵便ポストから投函した。
▽このはがきの存在については、一部の社が2カ月遅れでキャッチし報道していたが、埼玉県警が2人目の女児の事件との関連は薄く、「いたずらである」という判断をしていた。県警が重視していないことと、他に材料がないことなどから、他社は騒いで報道する価値はない、として記事にはしていなかった。
▽意味不明のはがきはもう1枚あった。報道されなかったこのはがきは、1人目の被害者となった女児の母親宛てになっていた。
▽はがきには「魔が居るわ」という文字のコピーが張ってあった。新聞の文字を自宅工場の電子複写機で拡大コピーし、これを切り取って同じ順序で並べてさらに拡大コピーした。
▽「魔が居るわ」とは、1人目の被害者となった女児の自宅付近に流れる入間川の「いるまがわ」の文字をもじって、並べ替えたものだった。このはがきを容疑者の宮崎は川越市内の郵便ポストから投函した。
▽2枚のはがきは、ともに文字を並べ替えるパズル、アナグラムだった。意味不明だったはがきには、犯行を伝えるキーワードが隠されていた。宮崎なりの犯行声明とも言えた。これに気づく捜査員はいなかったのだ。
▽同じようなアナグラムのキーワードが、2人の女児の自宅に送りつけられていたのに、県警は最後まで、同一犯と断定することはしなかった。4件の事件が出揃い、マスコミ報道で高まっていた同一犯説にも、否定的だった。4人目の被害者の事件では、手足をバラバラに切断する犯行には、「知性のかけらもない」としたが、1人目の女女児の事件のように遺骨を届ける行動は、「頭脳的」として、「同一犯がこの二つの犯罪を出来るだろうか」と言った。
▽捜査の常識というものがあるとするなら、今回はその常識を超えた犯罪、ということになる。捜査に限界があった、という言い訳にもなる。
▽この事件の容疑者宮崎が逮捕されたのは、容疑者が別のわいせつ未遂事件を起こし、被害者の父親が取り押さえたからだ。この事実をして、刑事警察の捜査が衰退している、という指摘が相次ぎた。
▽幼児が次々といなくなった時、現場周辺では犯人の存在感が薄いことから、誘拐という線は出なかった。ましてや同一犯という考えは、県警にはなかった。
▽容疑者である宮崎が逮捕された時、県警幹部は、宮崎は捜査の範疇にあったと強弁した。段ボール箱やコピー機などの物証を元に流通ルートの中を洗い出していけば、宮崎勤の父親が経営する会社兼自宅にたどり着いていた、という理由からだった。
▽だが段ボール箱にしても、捜査員が二度も送り主にたどり着きながら、失敗していた。宮崎にビデオテープを送った川越市内のビデオ愛好家の所に行きながら、分からなかったのだ。聞き込みは失敗だった。目撃者情報も、そして似顔絵といい、車といい、失敗だったのである。
(続く)
★第29章 起訴、そして初公判
▽年が明けた1990年3月30日、東京地裁で誘拐、殺人、死体損壊・遺棄などの罪に問われた宮崎勤被告の初公判が開かれた。埼玉県内で発生した3人の女児の誘拐殺人事件は、埼玉県警が浦和地検に身柄送検し、これを受けて、同地検が浦和地裁に起訴したが、最終的には東京地裁で併合審理されることになった。
▽県警の幹部は自嘲気味にこう言った。
「広域捜査とは言うが、身柄を取った方が完全に強いなぁ」
▽この言葉には、今まで1年間地道に捜査した県警の努力の集大成が、アッという間に警視庁に取られてしまった、という思いがあった。県警の対応の悪さは確かにあった。しかし、それは一人、県警が悪いのではなく、日本の警察組織そのものが抱えている組織の硬直が、事件の拡大を招いた、と言いたかったはずだ。
▽警視庁は県警の捜査を批判しているが、最初の犠牲者がいなくなってから、捜査陣は必死だった。その当時、県警内部からも「事件か事故か分からないのに、そんなにエネルギーを注ぐ必要があるのか」という声があった。そんな内部批判を無視してやっていた。記者にしてもそうだった。
▽初公判は午後1時からだった。被告の人定質問、検察官による起訴状朗読に続いて行われた罪状認否で、宮崎被告はこう陳述した。
「誘拐しようと思ったのではなく、殺意はなかった。覚めない夢の中でやったような感じだ」
▽またこうも言った。
「遺体の一部は捨てたのではなく、食べた」
▽果てしない夢の中での犯行、と自らの意思で話した。そして遺体を食べた、という言葉が法廷内に広がった。
▽検察官の冒頭陳述を後回しにして、弁護側の意見陳述が先に行われた。弁護側も異例の陳述となった。
「被告の本件事件当時における精神状態は、自我の形成が未発達、自分と他者の区別が困難、生と死の認識、理解の欠如、現実感の不存在、強度の母胎回帰の願望の存在等を有していた」
「すなわち、自分の部屋は母親の母胎であり、部屋に置いてあるテレビの中の映像世界は、さらにもう一つの母胎であり、生活感覚の大部分は、母胎である自分の部屋と、テレビ・ビデオの映像世界に浸りきって、胎児から幼児期にかけて母親から受けたであろう柔らかく包まれた感じ、自由、甘い感じに浸る、安心していられる等の感性を身に委ねることであった。現実感がなく、極めて特異な閉鎖的な精神世界であったと言える」
▽意見陳述には説得力があった。だが、これまで明らかになっていない新事実まで、弁護側は明らかにする。
「しかし祖父の死がこの特異な世界をつき崩した。
▽祖父は父親に代わって、被告にとり自分を守ってくれる自分の保護者だったが、この祖父の死が、被告の精神世界の崩壊をもたらした」
▽こう述べて、祖父の死が契機となって、家庭内で暴力を働き、犬をひき殺すなどの行動をするようになった、と指摘。そして祖父の遺体を焼いた際、その遺骨の一部を自宅の部屋に持ち込んで食べた、というショッキングな新事実を明らかにするのだった。
▽4人の幼女が殺害される事件が、県警の捜査能力を超えて、堂々とまかり通ってしまった原因は、宮崎の内面にまで入り込まなくては分からない部分が多い。そのためには、通常の裁判でありえない、被告の不利な事実まで暴露する、という戦術を、弁護側はあえて取った。
▽さらに幼女の手首、足首を焼いて食べ、さらには血も飲んだ、と付け加えた。
▽宮崎が夢の中で、死んだはずの4人の幼女が、自分に向かって、「ありがとう」とお礼を言う夢を見た、とも陳述した。殺害は、憎悪のためではない。かわいがったためなのだ。だから、幼女に感謝されていた−−。こんな倒錯した感情があった。
▽覚めない夢を見ていたのかもしれない。宮崎にとっては、夢の中の犯行だった。今の刑事裁判では、決して理解されない犯行だった。大人になったもの、いまだ夢を見ながら東京と埼玉を徘徊し続けた青年が、そこには立っていた。
(続く)
★第30章 時系列が気になった宝島文庫の記述
▽やはり気になったので、指摘しておきたい。正しい事実を時系列で伝えたいためだ。気になった事実の時系列を記したい。
▽『死刑囚200人 最後の言葉』(別冊宝島編集部、宝島文庫)という文庫本を読んだ。この本は個別の死刑囚を約50人取り上げて、事件の概略、裁判の推移、拘置所での出来事を紹介したものだ。帝銀事件の平沢、吉展ちゃん事件の小原、袴田事件の袴田、永山則夫、大久保清、道庁爆破事件の大森、宮﨑知子、澤地和夫、毒カレーの林真須美、附属池田小事件の宅間、秋葉原無差別殺人の加藤、木嶋早苗ら有名人を取り上げている。だれが書いたか分からない。
▽この中で誤った記述ではないが、時系列としては流れが違う話なので、そこだけを指摘しておきたい。
▽この本の中で、この連載で取り上げている連続幼女誘拐殺人事件(1988−1989年)の宮﨑勤の話を掲載している。この事件では、最終的に4人の幼女が誘拐・殺害された。1人目がいなくなり、2人目が不明になり、そして3人目がいなくなった。そして最初に遺体として発見されたのは、3人目の幼女だった。
▽容疑者の宮崎勤は、最初に遺体として発見された3人目の幼女の事件後、しばらく動きを見せていなかったが、年が明けた1989年2月に最初に行方不明になった幼女の自宅に段ボールを送りつけたことが明らかになり、マスコミも県警もパニックになった。この中身こそが、この事件の特異性を物語っていた。
▽段ボール箱は父親が発見し、自宅内に持ち入り開けた。中には、土に混じって無数の人骨、歯、そしてメモのようなものが書かれた1枚の紙が入っていた。メモには、女児の本名と「焼」「遺骨」「鑑定」「証明」と文字が並べられていた。県警も、そしてマスコミもパニックに陥る事件の始まりだった。 詳しくは私がこのホームページでの連載して来た「32年間の沈黙を破る」で詳細に書いてきたが、この『死刑囚200人 最後の言葉』では、3人目の幼女の自宅にもはがきでメモを送っていた事実を紹介し、最初の不明者となった幼女の自宅に届けられた事実は、「別の被害者宅」という表現で簡単に記しただけで済ませている。
▽これでは、この事件の特異性が全く伝わらないし、時系列が逆になっている。
▽何回か書いてきたが、私はこの連続幼女誘拐殺人事件では朝日新聞浦和支局で埼玉県警担当キャップとして取材を続けていた。そしてこの事件が宮﨑逮捕で一応の節目が着いたところで、私は『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』(三一書房)という本を出版した。幼女たちが次々と行方不明になり、連続幼女誘拐殺人事件として容疑者の宮﨑勤が逮捕され、一審が始まるまでの事件展開を、私がペンネーム「大和田徹」を使って書いたドキュメントだ。
▽私の本では当時の県警、警視庁、マスコミの動きを丁寧に追ったもので、マスコミの多くが作文を書いて、誤報の連続だったことも取り上げた。
▽この私の本を丁寧に読んでいただければ、最初に発覚し、県警もマスコミも世間もパニックになったのは、宮﨑勤が段ボール箱を送った相手が、3人目の幼女宅ではく、最初の幼女宅であることが分かるだろう。
▽3人目の幼女宅に送った事が分かったのは、宮﨑勤が逮捕されてからのことで、それまで県警は事件とは無関係だとして、その事実も無視していたし、公表もしていなかった。あくまでも逮捕されてから、「そう言えば」という程度のものだった。
▽だからこの文庫本の書き方は、時系列を無視した「じゃんけんの後出し」に過ぎないのだ。
▽こういう時系列の誤りをそのままにすると、この事件の記録は正確に伝わらない。それが怖い。事件の異様性も、報道のいい加減さも知ってもらいたいと私は切に願う。
▽そのことだけを指摘しておきたいと思う。
(続く)
★第31章 なぜペンネームにしたか、そしてその反響とは
▽冒頭の第1章、第2章に戻る。
▽私はこの事件を、『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』というタイトルでまとめて、三一書房から出版した。幼女が次々といなくなり、連続幼女誘拐殺人事件として容疑者の宮﨑勤が逮捕され、一審が始まるまでの事件展開を、ペンネーム「大和田徹」を使って書いたドキュメントだ。
▽当初は本名で出すことを考えていた。しかし考えが変わった。一介のサラリーマン記者として生きていく以上、会社と警察との関係性を悪化させないことも、必要だと感じた。
▽この本では埼玉県警の捜査の甘さやベクトルが本筋から外れている点も指摘している。いわば批判している部分も多い。また捜査の主導権を握った警視庁も批判している。この本が世に出れば、私が所属している朝日新聞社と、警視庁、県警との関係は非常に悪くなる。警察情報をつかむのも新聞記者の仕事の一つだとすれば、私の会社が今後不利にならないようにするのも、サラリーマン記者の役目だと考えた。ペンネームで出したのは、そういう理由だ。
▽本を出した後、早速、各雑誌などに書評が載った。特に毎日新聞書評欄では、かなりの扱いで大きく載せてもらった。それなりの反響があることも知った。
《十年に一度あるかないかの猟奇的な大事件、といわれた連続幼女誘拐殺人事件のドキュメントである。この事件に対する警察の捜査と懸命の報道合戦の取材を、現場で自ら体験した筆者が苦心してまとめただけあって、迫真性に富み、情報化社会における幾多の問題点への反省を迫っている》
《誤捜査、誤報のイタチごっこが続き、警察と取材陣が幻の「今田勇子」の追求に狂奔する様子が、如実に捉えられている。こうした中で、今田勇子と警察の対決を軸に、さまざまな競争が激化していった。特種意識に振り回された新聞社間の取材競争と誤報合戦、警察対取材陣の腹の探り合い、県警と警視庁との功名争いなど、新聞紙面やテレビの画面だけでは窺い知れぬ水面下の情報争奪戦の実態は、まことに生々しい》
《犯人逮捕に至るまで、一体どれだけの誤った捜査や報道が重ねられ、さらに逮捕後も含め、いかに人権が無視されたことか。筆者は現場にあって直接目撃し、自身も巻き込まれた幾多の事例を自省をこめて描き出した。犯人が隠すそうとする「犯人しか知り得ぬ真実」こそ、ニュースバリューが高い。けれども検証も行わず、特種意識に駆られて書き飛ばし重大なミスを犯すケースや、捜査陣の思惑に便乗し人権を侵害し表現の自由を狭めることも少なくないのだ》
《謙虚なに反省に立って書かれたこのドキュメントは、真の報道のあり方についてさまざまな示唆を与えてくれる》(1991年4月8日付毎日新聞)
▽かなり評価された書評だったと今でも思う。
▽内部告発のつもりで書いたわけではなかったものだが、関係者には告発のように受け取ったかもしれない。出版直後から、何社かで犯人探しが始まったということを後に知った。
▽この事件を担当した他社の記者は、突然社会部デスクから電話が入り、これはお前が書いたのか、と追い詰められた、という。否定すると、こんな内容を書けるのは、内部の人間しかいない、とも言われた。
▽出版元の編集者には、全国社会部記者を名乗る人物から、この本は面白いですねと持ち上げた上で、著書がどこの人間なのか教えてください、というストレートの問い合わせがあったという。この記者は当時埼玉県警を担当し、後に警視庁を担当しているとのことだったが、警察の捜査を批判した内容だけに、警視庁に筆者だと疑われてはまずいと判断したのだろう。自らの犯人説を必死に否定して犯人探しを行っている、という話を別の人間からも聞いた。警察担当記者にとって、情報源の最大の拠り所である警察に嫌われて、仕事ができなくなるということは絶対に避けなくてはならないことだったのだ。
▽私の新聞社でも犯人探しがあった。出版から数か月経ったある日、かつての上司が私に電話をしてきて、正直に君が書いたのだろうと言え、と詰問調に行ってきた。本の中の記述で、若手事件記者に対してベテラン上司が怒鳴る場面があるのだが、この場面に登場する人物は君ではないのか、という質問だった。
▽県警も警視庁も、知り合いの記者を使って、誰が書いたものなのか探りを入れたようだ。警察担当からは既に離れた私の自宅にまで電話して、本を送ってくれないかというお願いまであった。書店に行って注文すれば済む話なのに。おそらく真犯人を知りたかったのだろう。
▽それでも私は沈黙を続けた。
(続く)
★第32章 賛否に割れたマスコミの評価
▽マスコミ関係者の評価は二つに分かれたように思えた。
▽一つは、「こんな本を書きやがって、何様のつもりだ」というものだ。マスコミ各社はライバルであると同時に、記者仲間という逆の意識を持つ。その記者仲間が行った仕事の中身を暴露し、裏切って良いのか、という内容だ。
▽これに対し、好意的な見方もあった。「よく書いてくれた」「この連続幼女誘拐殺人事件に関する過剰な報道については、だれかが一度きちんと整理しなければならなかった、中身もよくできている」という評価だ。
▽苦笑したのは、「誤報を連発した」と私の本の中で批判した新聞社に勤める若い記者から、「大変勉強になりました」という感想が出版社に届いたことだ。この新聞社は誤報を繰り返し、記者仲間から早くも転けたと揶揄されていた。
▽また意外だったのは、捜査を批判された県警の幹部から、好意的な評価があったことだ。「もっと警察に厳しく書いてもよかった」と思ったほどだったという。
▽もっとも、これには裏があって、事件当時、警察の内部で捜査方針をめぐって幹部同士の対立が続いていた。容疑者が逮捕・起訴された段階でも、当時の確執が残っているようで、今回の本が一方の幹部への批判材料になっているようにも思えた。正直には受け取れないのが実情のようだった。
▽この本の執筆にあたって気をつけたのは、新聞記者を主人公にしたものの、特定された社に限定されることはしないで、ある場面でA新聞社を、別の場面で新聞B社、別の舞台では通信社Cというように、使い分けてそれぞれ書いた。新聞記者のバイブルと言われた「デスク日記」が、特定した社にしなかったように、注意を払った。
▽そして書いて出版した後も私は30年間以上、沈黙を守った。
▽こんなこともあった。
▽出版してしばらくしてからだった。知り合いの雑誌編集者が女性のライターを伴って、私の所に来た。既に私は東北地方に飛ばされていて、この本については余計に沈黙していた時だった。
▽この編集者は昔からの知り合いで、私がペンネームで書いたことを当然知っていた。
▽用件は、「容疑者として逮捕された宮﨑勤が冤罪ではないか」という問題意識から、新たな連載を書きたいという内容だった。
▽後に知ったことだが、研究者らが中心となって、宮﨑勤が冤罪だとする市民団体が発足し、この動きに合わせた企画だった。
▽私はもちろん、知っている内容は話した。しかし、冤罪だという認識は全く出来なかった。冤罪なら冤罪で構わないが、材料がないのだ。そのことを告げると、雑誌編集者もライターもがっかりした様子で引き揚げた。結局連載は一回か二回で終わったようだった。
▽この間、本人の精神鑑定が行われ、多重人格説を検証し支持する記者が、出版社を通して、私に質問状を送ってきたが、申し訳なかったが、ペーンネームで沈黙を貫いている以上、出すことはしなかった。
▽年月が経過し、本人の死刑判決が確定し、死刑執行された。確定からわずか二年半の短さだ。死刑問題をずっとウォッチしてきた私には、異様に映った。早すぎるのだ。通常は確定判決から執行まで六〜七年と言われていたが、何を急いで執行をしたのか、気になった。しかし、それ以上の取材をすることはなかった。転勤族で、担当記者でなかったことも大きい。それがサラリーマン記者の宿命だった。
▽その後、宮﨑勤は一審で死刑判決が出て、控訴、上告するが死刑が確定した。
▽だが、一方では少しずつ少しずつ、秘密にしていたはずなのに、私がペーンネームでこの本を出したことが社内で漏れていった。
▽そしてその反応は私が予期しない方向に広がっていった。
「裏切り者」
「勝手に取材の夜回りノートを盗み見した」
と、批判が社内の一部で出てきた。本を出したことに対する反発と怨嗟だろう。その話を聞いて、確認することもなく、上司は人事権をかざして、私を脅すこともあった。今で言うパワハラだ。
「君の人事権は俺にあることを忘れるな」
▽こう言われたことは鮮明に今でも覚えている。
▽私は裏切りでもないし、盗み見などもしていない。あの時期は昭和天皇の危篤状況が続いていた時期で、私の県警担当の後輩記者が1人、2人と皇居周辺の動きをウォッチする「門番記者」の応援に取られてしまい、県警担当記者は私1人だった。夜回りノートなど、後輩記者が書けるはずもなかった。私自身のメモと新聞の切り抜き、再取材などがすべてだった。
▽それでも私は反論を控えた。沈黙を守ることが、サラリーマン記者の宿命だと言い聞かせていた。組織内記者とはこんなものだと、変に悟っていた。
▽私は本社や支社、支局など、いろいろ転勤を命じられ、それに従った。そして退社する日々が迫っていた。その間、何冊か本を書いたり、雑誌に執筆することはあったが、私は組織内の記者だから、その場その場での取材をして、連載企画や選挙、議会、事件事故、そして高校野球などの新聞記事を書いていった。
▽連続幼女誘拐殺人事件は、宮﨑勤・元死刑囚に対する死刑判決や死刑執行などで、時折思い出していたが、かなり私からは離れた事件になっていた。遠い記憶になりつつあった。
▽しかし、それで終わることはなかったのだ。
▽最後の勤務地となった埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局時代に読んだ雑誌が、私の遠い過去をよみがえらせたのだった。
(続く)
★第33章 決意
▽今回、敢えて本名を出すことを決めたのは、月刊雑誌「世界」2021年2月号だった。フリージャーナリスト青木理氏が書いたリポート「読書の要諦 ノンフィクション」で、この私の本を取り上げていた。
▽捜査権力と記者はどう対峙してきたか、という問題意識を前提に、記憶に残るジャーナリズムの本として何冊かを列挙して批評し、ペーンネームで書いた私の本について、青木氏はこう書いてくれた。
《1980年代後半、首都圏で起きた連続幼女誘拐殺人事件を捜査する警察と取材する記者たちの実態を驚くほど赤裸々に描いたルポルタージュである》
《筆者は大手紙の記者で、大和田徹はペーンネーム。おそらくは共同通信の編集局長を務めた原寿雄が書いた『デスク日記』を綴った際のペーンネーム・小和田次郎をもじったのだろう。本書は読み物として抜群に面白く、警察と担当記者の関係がどのようなものであり、警察取材に奔走する記者の日常がいかなるものなりか、ここまで遠慮なく描いた書は以後も記憶にない。どこかの出版社が文庫本にしなのかと、なかば真剣にいまも思うのだが》
▽目を疑った。
▽これは、間もなく務めていた新聞社を退社することが決まっていた私へのメッセージだと感じた。迷った。青木氏からの叱咤激励のようにも見えた。ぬるま湯の新聞社で、何をしているのかと。
▽もう、そろそろ沈黙を破ってもいいだろう。そんな考えを持つようになった。実際、私は2021年8月で勤めていた新聞社を退社し、会社への義理立てもなくなった。迷惑をかけることもない。忖度する必要はなくなった。
▽大袈裟だが、ジャーナリズムの神様がいるとしたら、そろそろ新聞社にしがみつくのはやめなさいと、諭された気分になった。
▽今回の連続幼女誘拐殺人事件の連載と告白はこうした理由による。
(続く)
★第34章 私自身の「解禁」作業
▽解禁は、私自身が出す本の中で行おうと思った。新聞社を退社して、自分なりに、「新聞ジーナリズムとは何か」を考えるドキュメントを書こうと、原稿を書き始めた。半年かけて、原稿を完成させた。何社かとのやりとりで、一昨年(2023年)3月に、本『取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶』を出すことが決まった。
▽その計20章のうちの冒頭の第1章を、この連続幼女誘拐殺人事件に充てた。
▽その本の前書きで私はこう書いた。
《連続幼女誘拐殺人事件については、そのドキュメントを一冊の本にまとめて、ペンネームで書いた経緯があるが、その後、私なりの考えもあって、この事件についての発言を一切封印してきた。今回はその長い沈黙を破って発信することになる。犯人探しもこれで終わりにしたい》
▽私なりのけじめをつけた気持ちで、その第1章を書いた。
▽1人目、2人目と不明者が出た時の、当時の受け止め方とその報道。当時はまだ事件だと断定する材料がないままだった。そのため扱いは小さかった。
▽そして3人目が出てからの紙面の大展開。初めて遺体が発見された時の衝撃。被害者宅に幼女の骨などが送られてきたことなど振り返った。
▽なぜ埼玉県警が容疑者にたどり着くことが出来なかったのか。そのヒントとして、朝日新聞が打った特ダネを紹介した。以下はそのさわり部分だ。
《県警が極秘で捜査していたものがあった。名栗村の遺体発見現場付近で容疑者が運転していた日産ラングレーが道路の側溝に右前輪を脱輪し、その側溝に八十センチにわたってギザギザの脱輪跡があったことと、その脱輪した車を助けた人間が二人いて、容疑者を暗闇の中で見ていたことだった。県警は内部で色めき立った。容疑者に繋がる初めての情報だった。
容疑者がラングレーに乗せた幼女の遺体を山林に放置して、ラングレーに戻ったが、ラングレーは側溝に脱輪していて、動けなくなっていた。たまたま車で現場を通りがかり、脱輪したラングレーを一人が運転席に座って運転し、一人が後押しして手助けした。容疑者は無言で立ち去ったという。
側溝には脱輪跡のほか塗装片やタイヤ痕も残っていた。
県警はこの二人から極秘で何回も事情聴取した。
しかしここで県警は大きなミスを犯した。容疑者が乗っていた車種をトヨタカローラⅡと断定してしまい、最後まで容疑者を割ることが出来なかったのだ。二人の証言から車種はワンボックスカーで、運転席の形状から、トヨタ車と絞ってしまったのだ。
県警はトヨタカローラⅡの所有者リストを入手し、県内と東京都内の所有者をしらみつぶしに探し始めていた。
しかし県警の「トヨタカローラⅡ」説は実際に容疑者が乗っていた「日産ラングレー」とは最後まで交錯しないままだった。大きな分岐点だった》
《脱輪跡の存在は、朝日新聞が二月二十日の紙面で特ダネとして報じた。
西埼玉支局員が、遺体発見現場の近くで道路側溝付近を何回も見つめ直す捜査幹部の姿を目撃。遺体発見現場ではなく、なぜ道路側溝を見ているのか疑問を持った。一方で別の浦和支局員が捜査員から脱輪跡があることを夜回りでようやく取ってきて、ダブルチェックで極秘情報を確認し報じた。
ここで初めて、「事件取材の現場」の意味が生きてきた。県警が持つ極秘情報を現場で確認するという手法だ。
事件取材の多くは、情報の多くを警察が握っていて、記者はその情報を取るためにあの手この手を使って取材を続ける。夜討ち朝駆けはその典型だろう。
しかしその情報はあくまでも警察という権力を持つ機関の見立てであり、それ以上でもそれ以下でもない。その情報が真実なのかどうか、それを確かめる確認作業が必要だ。県警捜査員が取材する記者に嘘を言って、それを信じて報じたら誤報になる。一連の報道で一部新聞で誤報が多かったのは、現場で確認作業をしないで報じたためだ。
この朝日新聞の特ダネはそれを見事証明したものだと、私は今でも思っている。西埼玉支局員の現場取材と浦和支局員の取材で得た特ダネだった。
ただし、朝日新聞はこの時点で脱輪跡の情報はつかんだが、車種が日産ラングレーであることも、そして目撃情報から県警がカローラⅡを追っていることも、分からなかった》
▽埼玉県警が極秘に捜査していたこの脱輪痕の車種を間違ったために、宮﨑にたどり着くことが出来なかったのだ。この事件のハイライトだと今でも思っている。現場を踏む取材の大切さを伝えたつもりだ。
(続く)
★第35章 宮崎勤が乗っていたクルマの車種を間違えた埼玉県警
▽デイリー新潮が2024年9月8日に配信した《【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話》は、容疑者の宮﨑勤が乗っていたクルマを最後まで突き止められなかった埼玉県警の内部情報を伝えている。私の著書からも引用して、その理由を検証している。
▽私のペンネームで書いた著書「埼玉県警VS今田勇子」と、私のホームページのこの連載「沈黙を破る」でも書いているが、最後の最後まで埼玉県警が間違った判断をして、宮崎勤の車にたどり着けなかった話を、デイリー新潮が再度振り返っているので、全文を紹介したい。
▽以下はそのネットに出た記事全文だ。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/8fa0bf2f61c3ac67b09b7c9518576a60f2c5f4e6
【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話
9/8(日) 11:12配信
紺の日産ラングレー
その車は1審判決を控えた1997年4月になっても、かつて捜査本部が置かれていた埼玉県警狭山署の倉庫に保管されたままだった。
「ボクの車を返して欲しい」
法廷で何度か言及した自分の車、紺の日産ラングレー。全ての事件でこの車が使用されており、被害者に手を下した現場にもなった。今から35年前の夏、日本列島は、この男の起こした事件の話題でもちきりとなった。
「広域にわたる連続幼女誘拐殺人並びに死体遺棄事件」(警察庁指定117号事件)である。宮崎勤死刑囚(2008年6月17日死刑執行、享年45)は、4人の幼女を誘拐して殺害し、遺体を損壊して遺棄するという、
〈我が国の犯罪史上にも例を見ない、極めて残忍非道で社会的反響の大きい重要凶悪事件であった。その凶悪性、残忍性は、幼い子をもつ家庭はもとより全国民に大きな不安と衝撃を与えた〉(「刑事警察史(事件編)」警察庁の資料より)
被害者の遺骨を自宅に送りつけたり、「今田勇子」名で犯行声明文を出したり……異様な犯行に、大捜査を展開した埼玉県警と警視庁だが、宮崎死刑囚の車を巡って、捜査は二転三転してしまう。関係者の証言や資料から、その舞台裏を紐解いてみたい。
八王子ナンバーのツーボックスカー
事件経過と被害者を一覧にすると、以下のようになる。事件はまず埼玉県内で起こり、東京へと移っていく。
(1)1988(昭和63)年8月22日。埼玉県入間市の4歳女児。
(2)同年10月3日。埼玉県飯能市の7歳女児。
(3)同年12月9日。埼玉県川越市の4歳女児。
(4)89(平成元)年6月6日。東京都江東区の5歳女児。
埼玉県警では、半年の間に県西部で3人の女児が行方不明になるという事態に、本部長直轄の対策本部を設置していたが、88年12月15日、(3)事件の被害者の遺体が埼玉県名栗村の山林で発見された。
「現場検証の結果、県警鑑識課が近くの道路の側溝に車の脱輪痕を発見しました。さらに、事件当日の深夜、その場所で右前輪を側溝に落とした車があり、通りがかった別のドライバーが発見しました。しばらくすると、脱輪車のドライバーが山から下りて来て、動かせないというので、車を動かすのを手伝ったというのです」(当時の埼玉県警捜査員)
通りがかった車にはドライバーと友人が乗っており、独りが運転席に、もう一人が車の後部を押して脱輪したタイヤを側溝から出したが、男は礼も言わずに立ち去ったという。
宮崎死刑囚は警視庁に提出した上申書の中で〈死体を捨てる場所を探しているうちに車輪の一個がみぞにはまった。死体を捨てて戻ると二人ぐらいの男がいて、一人が車を運転して助けてくれた〉と書いている。この、運転席で車を動かした人は、ディーラー勤務のある自動車修理工だったという。
〈二人の証言から一致したのは、車両の形がツーボックスカーだったことだ。ツーボックスカーは、各メーカーから多くの車種が出ている(略)。目撃した会社員のうち、一人が車に乗って、一人が後ろから押して手助けしたが、車に乗った運転席の感覚から、「トヨタ系の車両に間違いない」と県警捜査員の事情聴取に答えた。その証言を元に、県警はハンドルや計器類、ギアチェンジレバー、サイドブレーキ、ウインカーなどの位置を何回も確認した。そのうえで、「車種はトヨタ・カローラIIか同じトヨタ系のコルサまたはターセル」と断定したのだった〉(大和田徹著『今田勇子vs.警察』三一書房)
さらにその後の調べで「紺と銀色のハッチバック車で、カローラIIの可能性が高い」となったが、ナンバーは覚えておらず、「八王子だったかもしれない」とのことだった。だが、有力証言であることは間違いない。同車種の所有者の洗い出しが極秘で始まった。
警視庁の極秘捜査
年が明けた89年2月6日、(1)事件の被害者宅に、焼かれた遺骨が送りつけられ(後に被害者の遺骨と断定)、同10、11日には犯行声明文が被害者宅と朝日新聞社に届いた。
前出の警察庁資料によると、一連の事件捜査や総合対策のため、警察庁の指導調整により栃木、茨城、群馬、神奈川、警視庁の各警察から、事件の主要舞台になっている埼玉県警へ、三次にわたり応援部隊が派遣されていた。
3月に入り、警視庁は立川市にある第4機動隊舎内に「埼玉県警支援捜査班」を極秘で設置した。埼玉県警からの捜査支援要請は、朝日新聞社に送られた犯行声明文の消印が青梅だったので、使用された封筒の販売ルートなどの捜査に加え、重要な目撃情報の裏付けがあった。
2月6日未明に被害者宅に遺骨が送りつけられた際、新聞配達員が不審な車を目撃していた。時間は午前3時、車種は黒のホンダ・プレリュード。ヘッドライトを消し、人が歩くくらいの速度で、被害者宅の方向へ走って行ったという。
「この配達員も車が好きで、車種も色もよく覚えていたのです。ナンバーは詳細まで記憶していなかったのですが、3ケタであることは覚えていました。この当時、3ケタのナンバーというと、85年2月に開設された八王子ナンバーの可能性が極めて高い。そこで、八王子ナンバーの黒のプレリュードを洗うことになったのです」(当時の警視庁捜査一課幹部)
埼玉県警がカローラIIを水面下で追っていることは、警視庁に提報されることはなかった。双方とも、車の割り出しから「今田勇子」につながると信じていた。その後、一部報道で埼玉県警がカローラIIを追っていることが明るみに出ても、県警から警視庁への説明はなかったという。
そして、警視庁管内で(4)の事件が起きる。
6000本のビデオ解析
元警視庁捜査四課刑事だった古賀一馬氏は、(4)事件の発生を受けて、警視庁深川署に設置された捜査本部へ応援派遣された。聞き込み要員は50組100人。犯行に使われた車を割り出す要員だけで2、30組はいたという。
〈周辺で動いた車は全部高速道路の入り口などに置かれているカメラ「Nヒット」でナンバーが撮ってあったから、これを一台一台確認していくのである。私が一課に行ったときは、一般職の専門家がやって来て、車のナンバーは全部出されていた。一万台はあっただろう。宮崎が犯行に使った車は紺のラングレーだったが、八百台ぐらいつぶし確認をしたところで、宮崎は別件で八王子で逮捕されている〉(古賀一馬『警察官の掟 粘る 怒鳴る 突っ込む――刑事たちの表とウラ』三笠書房)
宮崎死刑囚は89年7月23日、八王子市内で幼女に対する強制わいせつ事件を起こし、警視庁八王子署に逮捕された。犯行手口や生活環境などから警視庁捜査一課は自宅を家宅捜索。8月7日に逮捕容疑で起訴し、9日に(4)事件当日のアリバイなどを追及したところ、犯行を自供。翌10日に供述通り女児の遺体を発見したことから11日、(4)事件の被疑者として逮捕した。
その後の調べで分かったことだが、宮崎死刑囚は西多摩郡(当時)の自宅から、江東区の現場まで高速道路を使用せず、ひたすら一般道を走っていた。その理由は、当時、片道で2千数百円だった高速代が「もったいない。ビデオテープを買った方がいい」というものだった。
〈最も大変だったのは、押収した六千本のビデオの分析だった。各所属からビデオデッキとテレビをカキ集めて、日勤(昼間の勤務)の制服組も動員して講堂で見るのである。気が遠くなるような作業だったと思う。連日捜査員たちは真っ赤に充血した目で画像を追い続けた。このなかから事件に関連があるものと思われるものが約二百本。それをさらに直接関連する遺体のビデオと、直接関係のないものなどに分類していくのである〉(前出・同)
先に身柄を取った警視庁の捜査はどこまで進んでいるのか。埼玉の事件について何か話していないのか……埼玉県警の捜査員も忸怩たる思いだったに違いない。その最中、埼玉県警から正式に、カローラIIの捜査に関する説明があったという。
警視庁と埼玉県警。どちらも威信をかけた捜査は宮崎死刑囚の逮捕まで、3ケタの八王子ナンバーで紺のラングレーにたどり着くことはなかった。(1)事件で目撃されたプレリュードは後に、事件が話題となり、気になって様子を見に来た一般人だったという。
宮崎死刑囚が警視庁管内の(4)事件での取り調べを終え、埼玉県警に身柄を移されたのは9月8日だった。
デイリー新潮編集部
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▽あれから36年が経過した。
(続く)