地方支局編

地方で考えた 


★927待ちに待った埼玉・新見沼大橋有料道路の無料化(2026/07/03掲載)

▽さいたま市東部を東西に走る新見沼大橋有料道路が無料になるという朗報を、ネット記事で読んだ。これでさいたま市から越谷市に行く場合、国道463号のバイバスを使えば、有料の外環道を通らなくても良くなる。利用者にとってはかなりの吉報だ。私もその一人だ。
▽埼玉県の場合、こうして有料道路は長い時間をかけて無償化されている。一方で、全国を走る高速道路は斬定と言いながら、いつまでも、いろいろ言い訳を作って無料かを阻んでいる。この違いはなんだろうか。
▽さいたま市と県東部の越谷市を結ぶ道路は、主に狭い2車線の463号と、そのバイパスである通称「越谷浦和バイパス」、そして外環道の三つがある。狭い2車線の463号を避けて車を走らせるには、越谷浦和バイパスか外環道を走らせるしかない。
▽ネットではこんな説明がされている。
《越谷浦和バイパスは、越谷から入間に向け、埼玉南部を横断するように走る国道463号のバイパスで、国道4号の北越谷から「埼玉スタジアム2002」のある浦和美園、東北道の浦和ICと国道122号、さいたま市緑区の中心部を通り、浦和駅の西側で国道17号と接続します。
▽国道4号から国道17号という、埼玉県内の主要な国道を結ぶことで、かなりの交通需要がある国道463号ですが、旧道「越谷街道」は2車線の狭い道路で、浦和ICとも直結せず、市街地を縫うように走り、慢性的に渋滞。
▽そこで越谷浦和バイパスが2001年に開通。4車線で整備され、しかも浦和ICと直結。非常に走りやすく、県南部の東西アクセスが飛躍的に向上しました。
▽いっぽう、浦和ICから浦和駅方面に行くには、途中で芝川という川を渡りますが、この橋に架かるのが新見沼大橋有料道路となります》

▽そう、今回無料になる新見沼大橋有料道路は、その越谷浦和バイパス上の一角に位置している有料道路だ。
▽1996年11月28日に開通した新見沼大橋有料道路は、旧道と比較して10分以上も短縮できるというとても便利な道路で、通行料金は普通車が150円だ。しかしわずか150円でも節約したい地元住民にとって、この有料大橋を避ける傾向が強く、利用者は多くないらしい。
▽今回は開通から30年を迎える2026年11月27日、通行料金が無料化される予定だという。
▽ネットの記事ではこう評価している
《無料化されれば、通行料金回避のために迂回していたクルマもここを通ることになり、旧道や浦和IC周辺の混雑も解消するものとみられます》

▽私は2010年4月から埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務しており、さいたま市の自宅から通っていた。マイカーを使うこともあれば、電車通勤することもあった。マイカーの場合は、有料の外環道を走らせるか、またはこの越谷浦和バイパスを走らせていた。この新見沼大橋有料道路も使った。
▽だから、このバイパスが全線無料になるのは、利用者にとってとても大きいと思った。

▽埼玉県では、過去にも有料道路を無料化したケースがある。
▽このうち現在は川越バイパスと呼ばれている富士見有料道路も有料だった。このバイパスは、埼玉大学の通りから、川越市を経由し、東松山市まで行くバイパスで、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時や、埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時、よく使った。さいたま市の自宅に帰る場合、高額の関越道と外環道を避けて、東松山インターを出ればこのバイパスにつながる。関越道と外環道を使うより、料金ははるかに安かった。
▽この富士見有料道路を無料化する際の当時の県幹部によれば、有料化で得られる収入より、料金所でかかる人件費の方が高かったため、有料化を廃止したという。
▽この判断が、利用者に恩恵をもたらしいている。
▽果たしてこういう判断を全国の高速道路では通用しないのだろうか。暫定ガソリン税と一緒で、暫定であるはずなのに、有料化を維持しているいるのは国民を騙していないのだろうか。高速道路は膨大な権益の闇なのだろうか。

★925朝日新聞地方版のあり方とは(2026/07/01掲載)

▽最近の朝日新聞地方版のあり方について、かなりの違和感を持っている。このホームページでも何回か取り上げてきた。そして先日、たまたま気になってX(旧ツイッター)にポストした話に、反響があったため、改めて、朝日新聞を含めた全国紙の地方版のあり方を書いてみたい。
▽先日の朝日新聞埼玉版では、データを使って、「山形県民はラーメンが好き」というトーンの記事を載せていた。東京版も含めて、共通紙面になっていた。埼玉には直接関係ない記事で、愕然とした思いを、ポストにした。
《28日の朝日新聞は都内版も埼玉版も共通紙面で、データを使って、「山形はラーメン好き」という長い記事を掲載したが、こんな記事、地方版で読みたくない。地元とは全く関係ない話だ。何のための地方版だと思っているのか。次第に手抜き紙面になっているな》
▽これに対して、何人か、反応してくれて、こんな意見を寄せてくれた。
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▽全国紙の場合「山形版の紙面で埼玉県のラーメン事情を延々語られる」のは昔からあったのですが、ついに反対方向も出現し始めたのですね。地方民には「ざまみろ俺たちは昭和の昔からそうだった」と同情されないだろうけれど、実は東京大阪はローカルメディアに乏しいという裏返しの問題がある。

▽東京には名古屋の中日新聞社の別紙とはいえ東京新聞があるけど、大阪は朝日毎日の故郷であるゆえにもっと深刻だったりする。経営が難しい毎日は「大阪の地方紙」に回帰するという方法もあるんじゃないかと思ったり。

▽手抜きじゃなくて、ライターもエディターも足りないんですよ。

▽それを言ったら、地方版右側の「地域総合面」なんかずいぶん以前からそうなっていますし、西部本社版統合版なんか、2000年代から「有楽町朝日ホール」や「朝日ニュースター」の全面広告とかが出ていて、東京本社版セット版に比べてスカスカでしたね。朝日記者時代はお気づきではなかったのでしょうか。
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▽なるほどと思う。
▽地方から見ると、私の視点よりも、朝日新聞はもっと地方を見下している紙面作りをしているのか、と思った。
▽人手が足りない中、中央で書いて地方に配信している記事の内容が、地方を軽視していることが、よく分かる意見だった。

▽では、朝日新聞にとって地方版とはどういう位置付けなのか。
▽先日私がこのホームページで書いた記事が、その回答になると思う。再掲載したい。

▽私はこのホームページでこう書いている。
《★895全国紙の地方版とグリコのオマケの関係(2026/05/20掲載) ▽全国紙である朝日新聞に掲載されている地方版が次第に変貌している。全国共通の紙面が多くなり、その地域ならではの地元ニュースの発信が激減している。私はこの状態を「地域ジャーナリズムの危機」だと思っている。 ▽今年(2026年)5月17日付朝日新聞埼玉版を見て、私は愕然とした。全国共通の紙面でデータジャーナリズムの記事一辺倒。埼玉関連の記事は全くなく、紙面はそれだけで埋まっていて、埼玉に関する記事が全く出てこない紙面だった。こんなものを読まされても読者はついてこないと思った。 ▽そして、私が勤務していた朝日新聞本社時代に当時の編集幹部が言い放った言葉を思い出した。 ▽「地方版は所詮、グリコのオマケだ」 ▽こう言ったのだ。 ▽この幹部が言った意味は、地方版など所詮オマケであり、朝日新聞の本当の商品は全国版に掲載しているニュースだということだ。全国紙を自負した言葉だが、一方で、中央こそがニュースであり、地方はニュースではないと断言しているようにも思えた。 ▽この人は全国ニュースこそが新聞の記事であり、地方版はオマケに過ぎないとということらしい。だが、グリコのオマケは、子供のころ、オマケが欲しくて、グリコを買ったのだ。 ▽それは新聞地方版でも言える。地方版を読みたいから朝日新聞をとっているのだ。そんな読者をこの幹部は無視している。 ▽私は心の中で反発した。 ▽私は子どものころ、オマケが欲しいからグリコを買っていた。読者も同様だ。オマケの地方版が読みたいから、読者は朝日新聞と契約しているのだ。地方版の位置付けを朝日新聞幹部は間違っていると思った。 ▽グリコのオマケと朝日新聞地方版をこのコラムでは考えてみたい。グリコのオマケを知らない読者にまず説明していく。 ▽私が子供のころ、グリコのオマケは魅力的だった。数十円を持ってキャラメルを買うと、オマケが付いていた。小さなプラスチック製のおもちゃだった。キャラメルを食べたいと言うよりも、このオマケが欲しかったのだ。当時の私の周囲の子供たちはそうだった。グリコのオマケは魅力的だった。オマケが欲しいからキャラメルを買ったのだ。 ▽これは他の食品でも言えた。漫画「おそ松くん」のキャラクターをあしらった食品のふりかけ「おそ松くんふりかけ」のコマーシャルもそうだった。おそ松くんふりかけを買って、何枚か抽選券を集めると、レーシングカーが当たると宣伝していた。当時の子供にとってレーシングカーは憧れの高級なおもちゃだった。もしかしたら、50円のこのふりかけを買えばレーシングカーがもらえるかもしれないと思い、みんな子供のころ、親にねだっておそ松くんふりかけを買ったものだ。 ▽つまりだ。こうしたおまけや景品で誘導して、子供心を刺激し、そうやって企業は儲かっていたのだ。決してその商品が欲しいというわけではなく、おまけが欲しかったのだ。 ▽グリコのオマケは当時の時代の象徴だった。 ▽そして、時代が数十年流れた。 ▽私の朝日新聞東京本社の仕事の一つとして、東京本社管内の地方版の見直しとブラッシュアップを目指す取り組みをしていた。当時、私は仲間と一緒に、朝日新聞地方版の内容拡充をしようと、東京本社の地方支局と連携して、連載や特集をそれぞれの地方版で紙面化していった。そんな私らの思いを、当時の編集幹部は揶揄するように言ったのが、上記の言葉だった。 ▽繰り返す。 ▽「所詮、地方版はグリコのオマケだ」 ▽この幹部は、朝日新聞の地方版などオマケと考えていたのだろう。しかしこの幹部は実態を知っていない。読者はオマケが欲しいから朝日新聞を買っているんだ。その実態にこの幹部は気づいていなかった。 ▽私は上記の埼玉版について、X(旧ツイッター)ポストでこう書いた。 《17日の朝日新聞埼玉版は全国共通の紙面でデータジャーナリズムの記事一辺倒。埼玉の記事が全く出てこない紙面。こんなものを読まされても読者はついてこない。地方版は「グリコのオマケ」とかつての朝日新聞幹部が言っていたが、オマケが欲しいからグリコを買っていたのだ。地方版の位置付けを朝日新聞は間違っている》 ▽予想外の反響があった。リツイートしてくれる人もいた。 《朝日新聞のデータで探る47都道府県、私も当該記事を読んだけどあれを地域面に載せる意味が不明だった。 何年も前からやっている日経は全体版を前面に載せて地域面では各地それぞれの傾向について詳報している。全体版を地域面に載せてどうする》 《朝日は批判的に見ることが多いけれど、 地方に関しては全国紙であるが故に地方紙が地域の有力者に完全に癒着している場合、地方紙だと出せないきちんとした視点でいい記事を出してくれたりしているんだよねぇ》 《朝日は批判的に見ることが多いけれど、 地方に関しては全国紙であるが故に地方紙が地域の有力者に完全に癒着している場合、地方紙だと出せないきちんとした視点でいい記事を出してくれたりしているんだよねぇ》 ▽朝日新聞デスク経験者からも、私と同じようなポストをもらった。 ▽振り返ってみると、朝日新聞も含め、毎日新聞、読売新聞も、そして地方新聞も、それぞれ地方版を拡充して、部数を伸ばしてきた歴史がある。そう、地方版が部数拡張の生命線だったのだ。朝日新聞で言うなら、埼玉版ではわずか10年前には計四つの紙面を作っていた。県北部、県南部、県東部、県西武とそれで土地に分けて紙面作りをしていた。そうしたきめ細かい作り方で部数を拡張して、部数を維持してきた。 ▽そんな地方版の役割を、簡単にグリコのオマケだとして唾棄する会社幹部の発想がわからない。 ▽読売新聞などは、一時期、1面トップに地方版を持ってきて編集する紙面を一部で作っていたほどだ。地方版は各紙にとって、戦略的な商品であるのだ。 ▽朝日新聞も含め、今新聞は斜陽化の道を進んでいる。そんな中で地方版を雑に扱うという発想と経営方針は、自らの首を絞めていることにはならないか。私はそう危惧している》

 つまり地方版は読者のニーズに合わせて作られて、部数を維持してきた。このことを、朝日新聞編集幹部は全く気づいていない。それが悲しい。


★924女デスクによる年寄り男性記者いじめ(2026/06/30掲載)

▽ある地方支局に勤務していた時のことだ。県庁所在地の総局の女性デスクが支局のベテラン男性記者をいじめているのを目撃したことがある。ずいぶん、ネチネチとやるなと思った。そのベテラン男性記者はシュンとしていた。
▽北朝鮮拉致被害事件に関連し、そのベテラン男性記者は、本社経由の指示でその遺族のコメントを取るよう、女デスクから指示された。
▽しかし、実際には記事にはしないという本社からの判断で、その趣旨を女性デスクが男性記者に伝えた。これがいけなかった。男性記者は、記事にしなくて良いと言うことから、取材の手抜きをしてしまったのだ。
▽通常、こういう本社からの指示の場合、取材をして、記事にしなくても、メモを挙げる。いわゆるメモ出しだ。しかも趣旨ではなく、正確な文字起こしで、政治部特有のメモ出しだ。これを男性記者は怠った。
▽男性記者からの取材メモが挙がってこないので、女性デスクは、あと1時間後にメモを挙げてと指示したのだ。男性記者は取材をしていないから、メモなど取っていない。メモ挙げができない。約1日もかかってメモ挙げをしていた。
▽少し背景を説明する必要があるだろう。この女性デスクは、政治部出身だった。男性は出版局が長かった。政治部とは、メモ挙げの文化だ。キャップやデスクに取材した正確なメモを挙げて、メモを共有するという文化がある。政治家の話を一言一言メモにして、上司に挙げて取材グループとして共有する。メモ挙げ文化。これに対して男性は出版局にいたから、メモ挙げなどできない。そこを狙って女性デスクはいじめをしてきたのだ。
▽男性記者からしたら、たまらない。メモを挙げろという指示なのに、メモを挙げることができなかったのだ。
▽確かに、私から見ても、この記者はサボることで有名な記者だった。仕事はしないし、サボるし、仕事もできなかった。それゆえ、女性デスクがいじめてるのも無理ないなと思った。
▽それともう一つ、この女デスクは、部下に対するいじめ方をよく知っている。そう思った。こうすれば、相手は困るだろう、という嫌らしい指示の仕方を熟知していた。これがすべてだった。年下の女デスクの方が強かった。
▽政治部にいると、こんな記者が増えていく。


★923赴任したくなかった転勤先と赴任したかった転勤先(2026/06/29掲載)

▽私は33年5カ月、朝日新聞に勤務していた。全国紙だから当然ながら転勤はつきものだ。その中では、赴任したくなかった転勤先や赴任したかった転勤先もある。それでもサラリーマンだから、不満を持ったことはないし、赴任したくなかった転勤先でも、仕事は充分にやったつもりだ。生活でも満足していたと今は思っている。
▽朝日新聞の転勤では、内示前に上司が本人に転勤を伝える「内々示」という制度があった。この内々示制度で、新たな赴任先を知った時、嫌だなと思った転勤先は、私には過去三カ所あった。
▽その三つとは、宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局、大阪本社社会部だった。
▽朝日新聞塩釜通信局への転勤は、上司との大喧嘩からだった。私が浦和支局(現さいたま総局)から塩釜に行けと言われた時は、ショックを受けた。つい最近まで、「次は東京本社だ」と言われていたためだ。大喧嘩をした当時のデスクには、「ざまぁみろ」とも言われたほどだ。この話は私のこのホームページでも丁寧に記している。
▽しかし塩釜での生活は充実していた。現地には海上保安庁の出先機関である「第二管区海上保安本部」と塩釜海上保安部があり、太平洋でのマグロ漁船の転覆などの海難事故が多く、その取材に追われていた。未明から早朝に塩釜港に水揚げされる本マグロの取材も楽しかったし、イカ釣り流し網漁の取材も多く、海にまつわる話が多かった。もちろん地元ネタも多数書いた。
▽私が楽しんで仕事をしているのを知って、「ざまぁみろ」と述べたデスクは驚いただろう。私はいつでもどんな場所でも楽しんで仕事をするタイプなのだ。私を飛ばしたと思ったデスクは、「飛ばしがいがない」と思ったかもしれない。私はその後本社に上がった。
▽もう一つ行きたくなかったのが朝日新聞渋川支局だ。北海道報道部から内々示があり、エッと思ってしまった。
▽私は東京生まれで千葉育ち、さらには浦和支局も経験しているから。北関東の、隣の群馬県の事情をよく知っていた。勤務地が嫌と言うよりも、群馬県の土地柄に嫌悪感を持っていた。夏は暑くて冬は寒い。そんな土地柄なのだ。過ごしていけるのかと思ったほどだ。
▽しかし渋川支局管内には草津温泉、伊香保温泉、四万温泉など温泉地が各地にあり、当時始まっていた平成の大合併問題もあり、地元の取材材料は多数あった。地元で知り合った人たちと交流会を開き、飲み会もずっと参加していた。北海道報道部の同僚たちは私が飛ばされたと思っていたが、私は全然気にしていなかった。
▽大阪本社社会部も行きたくない部署だった。これは当時の所属長から打診されたが、私は行きたくないと言った理由を述べた。
▽その昔、高校野球取材で甲子園球場に行った時、大阪本社館内の幹部の師弟にいじめられた記憶があるからだ。詳しい話はこのホームページにも書いているが、父親の立場を利用し、東京から来た私たちをいじめていた。ひどいと思った。そんな経験があり、私は大阪社会部の異動を断った。異動を断ったのはこれが最初で最後だった。異動を断ったとき、私の親しい上司は「よく断ったな」と驚いていた。普通だったら行くのだと思ったのだろう。東京本社と大阪本社はそれだけ仲が悪いのだ。

▽逆に行きたい地方の一つが新潟県佐市の朝日新聞佐渡支局だった。一度は離島で生活し、離島で取材したいと思っていた。佐渡金銀山があり、国の特別天然記念物トキの再生事業が始まっていた。海に囲まれ島の生活を堪能した。何もない島だったが、それが逆に楽しかった。いろいろ多数記事を書いた。地元の人とも仲良くなり、何回も酒を飲んだ。
▽もう一つ行きたかったのが、最後の赴任地となった埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局だった。埼玉県唯一の寒冷地帯で、山に囲まれた盆地だった。過去には秩父事件もあり、歴史も多い街だ。秩父鉄道と西武鉄道が走っており、背景には武甲山もあった。山の暮らしも悪くなかった。いろいろ記事を書いて楽しんだ。
▽最後の1年は新型コロナ感染拡大で取材が十分にできなくなったが、記者クラブの仲間たちと夕方近くの公園に集まって、酒とつまみを持ち歩いて、青空飲み会を何回も開いた。これも楽しい思い出だった。
▽こうしてみると、私はサラリーマンとして命令された赴任先には、大阪社会部の1カ所だけを除くと、きちんと赴任して仕事をしていた。東京本社の人間、特に女性は地方に勤務するのを嫌がるが、私はサラリーマンだから、だれか地方に行かなくてはならないのだから、行くべきだと思って、ほとんど受け入れていた。
▽私の持論だが、取材現場は地方にある。地方で丁寧に取材することが新聞記者だと思っている。地方から変革が起きているのを見逃さない。それが記者だと思っていた。その考えは今でも変わらない。


★919富士見有料道路と川越パイパス(2026/06/23掲載)

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時、自宅があるさいたま市へ帰省する時は、マイカーを使っていた。高速道料金を節約するため、関越道を途中で降りて、国道を走らせて、当時の富士見有料道路を使って、自宅に戻った。その富士見有料道路が現在は無料となり、時代の流れを感じる。この流れを見るなら、現在の高速道をすべて無料にするのが当然だと私は感じてしまう。
▽ルートは以下のようなものだった。
▽支局がある渋川市の関越道渋川伊香保インターから関越道に入り、南下して、東松山インターで降り。ここから国道254号を走らせる。川越市の市街地を過ぎると、富士見有料道路に入り、確か200円を支払って通貨。さらに南下して、埼大通りを左折し、さいたま市に入るルートだ。
▽ネットによると、「富士見有料道路」は、正式名称を「富士見川越バイパス(ふじみかわごえバイパス)」と言い、埼玉県富士見市下南畑交差点から同県川越市小仙波交差点に至る国道254号のバイパス道路である。
▽国道254号である川越街道の混雑緩和を目的に1077年(昭和52年)6月に着工。1981年(同56年)8月1日に「富士見川越有料道路」として供用開始された。
▽この有料道路、私が渋川支局時代だけではなく、さらに1988年から翌1989年まで勤務していた朝日新聞浦和支局(現さいたま総局)時代もよく使った。当時は県警担当キャップとして、所轄警察署に殺人事件の捜査本部が出来ると、その会見に出るため、この有料道路を利用した。その時は連続幼女誘拐殺人事件のように県西部での殺人事件が異様に発生した時代で、私はチャータしたタクシーで県警本部と所轄警察署を何回も何回も内谷橋道路服した記憶がある。
▽こんな説明がある。
《2009年(平成21年)7月31日に28年間の料金徴収期間が満了し、翌8月1日から全区間無料開放され、現在の名称に変更された》
▽この「28年間の料金徴収期間が満了」という表現には、少し説明が必要だろう。
▽私が当時の担当責任者だった県幹部に聴いた話では、ETCやクレジットカードも使えず、料金徴収はもっぱら人間による手作業で、人件費が異様にかかり、料金収入以上に人件費がかかったための判断だった。つまり、赤字のために有料道路を放棄したのだった。
▽この川越パイパスはさらに南進を果たし、使い勝手がぐんと良くなった。
▽埼玉県には現在、有料道路が何カ所かある。秩父地方に向かう皆野寄居有料道路や新見沼大橋有料道路などだ。埼玉県道路公社が管理している。いずれも、将来は無料になるらしい。
▽だったら、関越道も東北道も、いつまでも有料に固執することなく、段階的に無料にすべきだ。自民の道路族が反対するだろうが、国民経済のためでもある。


★917地方に赴任すると仕事をしなくなる記者の正体(2026/06/19掲載)

▽一部の人間だと信じたいが、朝日新聞記者の中には、本社から地方に転勤すると、仕事を全くしなくなる記者が存在する。なぜなのか、私は以前から不思議だと感じていた。これらの記者に共通しているのは、プライドが高いという事だった。
▽Hさん。私が支局長を務める地方支局に、シニア記者として赴任してきた。シニア記者とは60歳の定年を過ぎて、再雇用された記者のことで、ベテラン記者だ。
▽この人は全く仕事をしたかった。赴任して最初に書いた原稿は、赴任から1カ月半後のことだった。地元のイベントを取材して記事を書いただけで終わった。その後も鳴かず飛ばず。いつまでたっても、取材らしき事はしないで、原稿も書かなかった。夕方になると支局から出かけてしまい、新聞記者としての仕事は全くしなかった。
▽当然、選挙取材なども出来なかった。注目されている選挙区の担当なのに、最初の土日曜日にゴルフに出かけてしまい、候補者の最初の土日曜日の街頭演説の取材をすることもしなかった。ゴルフの誘いのメールを誤って県内全員メールをしてしまい、選挙取材もしないでゴルフに行くことを自らバラしてしまったこともあった。そんな記者を、デスクも注意することはできなかった。「ゴルフは記者を堕落させる」というのは、名言だと感じた。
▽Nさん。赴任して1年がたつというのに、自分の担当の市役所の記事は全く出てこないまま。要するに回っていないのだ。回っていないから、地方行政の話も地方議会の問題も出てこない。書いているのは相撲の話だけ。よっぽど本社に未練があるらしい。
▽Aさん。この人もほとんど自分の担当役場を回っていない。前任者があれだけ街ダネを書いていたのに、この人が担当になったらほとんど記事が出てこなくなった。役所を回って、記事を書くという発想が全くできていないのだ。館内にはクルド族問題も起きているのに、全く取材していない。
▽これらの記者に共通するのは、本社でしばらく記者生活を送っていて、自分は専門職であるという意識が強い人間たちだ。だから地方で行っても地方取材はしたくないと思い込んでいる。本社で得た自分の立場にしがみついているのだ。だから地方での取材ができない。
▽プライドも影響している。プライドがあるから、つまり本社の方が地位が高いからと信じ込み、地方を馬鹿にしている。地方を馬鹿にしてるから取材もしないし、原稿も出てこない。
▽こうしてみると、朝日新聞社は適応障害者が多い。本社から地方に行くと自分のモチベーションが下がって、担当の地方取材に対応できない記者が多い。OBの私は悲しい。
▽朝日新聞がインターネットで発信している朝日新聞ポッドキャストでも、司会者と出演者が、ともに地方には行きたくないという趣旨の発言をして、驚いたことがある。地方にこそ取材現場が宿るというのに。そういうことも新人時代に地方取材で身につけることが出来ず、本社に上がってしまったということだろう。悲しい事実だ。


★913何百回と走った高速道路で見続けた風景(2026/06/15掲載)

▽私は朝日新聞で長く地方勤務を続けたため、マイカーで高速道路を走らせることが多かった。特に関越道はもう数百回は走らせている。その関越道は、無謀運転あり、覆面パトカーの検挙あり、事故あり、逆走車あり、とまさに高速道路の縮図だった。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局時代には、北陸道や上信越道、関越道、外環道を使って埼玉市の自宅に帰省したこともあった。同じく新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局では、フェリーと関越道、外環道でマイカーを走らせることもあった。また群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局でも関越道をよく使っていたし、埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局時代にも関越道をよく使っていた。
▽振り返ってみると、何と関越道を走らせる回数が多かったのだろうか。数百回と書いたが、もっと走らせていると思う。
▽そしてその関越道でよく見るのが無謀運転と覆面パトカーの取り締まり、そして交通事故だった。
▽関越道は大泉ジャンクションから北上し、新座料金所を通過して北上していくと、前橋インターまでは片道3車線の高速道だ。比較的カーブが少なく、その分、無謀とも言える運転をするドライバーを時折見かける。追い越し車線を走っていたら、前が詰まっているために隣の車線に変更し、さらに左の通常車線に移る。さらに車線を変更し、また追い越し車線に行くという、クネクネ運転だ。隙間があればすぐに車線変更し、どんどん走ってしまうタイプだ。運転に自信があるからだろうが、直前の車線変更で危ないと思ったことは何度もあった。こうした無謀運転の多くが群馬ナンバーだった。
▽時速150キロ以上で走っている乗用車を見かけたこともある。ナンバーは外交官ナンバーだった。猛スピードで抜かれた。外交特権があるからと言って、無謀運転を許して良いのかと思った。
▽事故も当然のように見かけた。私がマイカーで関越道を南下していると、前を走っていた軽トラックが中央分離帯のガードロープにぶつかってしまい、軽トラックは2回転して止まった。タイヤも外れた。私は危ないと思って、その軽トラックを避けるのがギリギリだった。もう少し車間を詰めていたなら事故に巻き込まれていただろう。
▽カーブが少ない分、速度を出しやすい。それゆえにドライバーも慎重さがなくなり、事故を誘発する。
▽覆面パトカーによる検挙も多いのが、この関越道だ。スペースがある路肩に止められて検挙されている車をよく見かける。埼玉県警には、青いスバルインプレッサがあった。どぎつい青色の車体で、覆面パトだった。おそらく速度の出し過ぎを検挙したのだろう。
▽こういう私も速度超過で、埼玉県警に検挙されたことがある。昔、埼玉県警の担当記者だったのに。こう思っても遅かった。
▽関越道の中で一番怖い区間は、関越トンネルだ。長さ10キロもあり、狭い空間で走っていて閉塞感がある。長い長いトンネルで、早くこのトンネルから抜け出したいとい思いを強く持って運転していた。
▽関越トンネルを北上しトンネルを出ると下り坂となり、カーブが続く。そして下り坂が終わると新潟平野が広がり、比較的速度を出しやすいコースになる。ここでの運転も危険だ。交通量が比較的少ないので、ドライバーは速度を出しやすいのだ。
▽関越道と比較して、比較的カーブが多いのが上信越道だ。高崎ジャンクションから長野方向に向かう。この上信越道はカーブが多いばかりでなくアップダウンも多いため、そんなに速度は出せないコースだ。しかしそれでも、時折速度をグイグイと出している車を見かける。片道2車線なので、速度を出しすぎて車が車線をはみ出すのが怖い。事故に巻き込まれてしまう恐怖がある。


★911注意した方がいい中古車選び(2026/06/11掲載)

▽東京本社から地方支局に突然転勤となると、困るのが取材で使うマイカー選びだ。私はそのようなケースを2回経験したが、中古車を選んで失敗したことがある。
▽新聞社にとって多くの場合、地方勤務では取材の移動にマイカーを使うのが原則だ。マイカーを仕事で使うため、会社からは維持費やガソリン代の補助が出るが、それだけではとても足りない。取材でマイカーを駆使するため、次第にガタが来るのだ。このことも考慮してマイカー選びをしてもらいたいと思う。
▽私の場合、最初のケースは東京本社から新潟県上越市の朝日新聞上越支局に転勤になった時だ。あの時、私の家族が使っていたマイカーがあった。トヨタのスプリンターカリブをそのまま転勤先に持っていった。土日曜日に使うだけの車だったが、乗り慣れていたので、上越支局での運転に問題はなかった。ただし、雪国だったので、新たに冬タイヤを買い足した程度で済んだ。4輪駆動車だったため、雪道運転でも問題はなかった。
▽しかし困ったのが私の家族だった。単身赴任だったため、残された家族は結局、新たに中古車を買うことになったのだ。スプリンターカリブを自宅に置いて、私が中古車を現地で買った方が良かったかもしれない。
▽2回目のケースは、東京本社から埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局への転勤だった。今度は私が中古車を購入して、取材に使うことにした。全国チェーンの中古車店で、スバル社のスバルインプレッサを中古で買った。走行距離88000キロという中古車だった。
▽これが失敗だった。高速道路を運転しているとハンドルが取られて、まっすぐ進めないのだ。前後左右のタイヤの減りが異なっていて、そのためにハンドルが捉えるのか。それともホイルバランスが悪くて、ハンドルが取られるのかわからなかった。
▽中古店に行き、タイヤを前後左右、交換してもらったが、それでも直らない。ホイルバランスもしてもらったが、それでもだめだった。結局、比較的新しい中古のタイヤに交換した。
▽それだけではなかった。今度はエンジンオイルの漏れが見つかり、エンジンオイルの容器を交換することになった。さらにはエンジンのファンベルトが緩んでしまい、そのファンベルトも交換することになった。バッテリーがへたってしまい、バッテリー交換もした。
▽ヘッドライトが点かなかった故障も経験した。ワイパーもさびて、さび防止のペンキ塗りもした。
▽このようにあちこちで故障が出て、半年に1回、部品を交換する出費が出た。予想外のかなりの出費になった。
▽結局スバルインプレッサは4年間乗り、走行距離は130000キロになった。中古車も走行距離が長いとそれなりのダメージを受けるし、前所有者がクセのある運転をしていれば、それだけクセのある故障が出てくるのだ。
▽もうスバルインプレッサはダメだと思い、私は新たにスパル店でスバルXVを新車で購入した。
▽そして1年後、私は新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任になった。新潟県も雪国で、佐渡でも冬タイヤを新たに購入し、冬の間は冬タイヤで運転していた。
▽その後もスバルXVは何の故障もなく、半年1回の定期点検と車検を受け、問題なく走り続けていた。
▽やはり中古車と新車は全く違う。中古車選びは慎重にしてほしい。注意すべき点を見て、購入を決めたほうがいい。実際にある程度の期間、運転しないと、その中古車の癖は見抜けない。
▽ビッグモーターのような不正事件も出てくる。あまり信用しない方がいい。


★910写真がタテかヨコかの意味が分からなかったデスク(2026/06/10掲載)

▽「写真はタテなのか?▽ヨコなのか?」。この意味の大切さを分かるだろうか。
▽私が地方支局に勤務していた時の話だ。締め切り時間がギリギリの集会取材をした。事前に出稿連絡をして、写真はヨコ写真だと支局デスクに伝えた。集会が終わり、原稿と写真を出稿する際にも、デスクに「ヨコ写真だ」と伝えた。
▽しかし、デスクの反応はなかった。タテかヨコかの意味が分からなかったのだ。
▽新聞社にとって締め切り時間や降版時間が近づくと、写真がタテ写真なのかヨコ写真なのかは重要な意味を持つ。新聞紙面のレイアウトが全く違ってくるためだ。
▽つまり私がヨコ写真だと伝えたのは、デスクが地方版の編集者に、きちんとヨコ写真であることを通告してもらう必要があるためだ。それをデスクは怠ったのだ。要するにデスクとして原稿や写真の采配ができなかったと言うことになる。情けないと私は思った。
▽ちなみに地方版の締め切り時間とは、デスクが編集者に最後の原稿や写真を出す時間帯のことで、降版時間とはこの時間に、組んだ紙面を印刷に回す時間を指す。通常は1時間の差があり、朝日新聞の場合、何十種類もの降版時間が設定されている。
▽新聞社の製作現場では締め切り時間が過ぎて降版時間が近くなると、まだ届かない写真を巡って、出稿側のデスクと、紙面をレイアウトする整理部員との神経戦が始まる。特に大切なのが、写真がタテ写真なのか、ヨコ写真なのか、ということだ。タテとヨコではレイアウトが全く違ってくるためだ。
▽締め切り時間ギリギリに飛び込んできた事件事故の情報や、予定されていたイベントの話など、出稿側デスクは、原稿の行数とともに写真も出稿することを整理部に連絡する。これを元にして整理部員は、「開け組み」といって、紙面を開けて原稿と写真を待つのだ。
▽だから写真がタテ写真なのか、ヨコ写真なのかは、整理部員にとって、大切な情報だ。ヨコ写真だと言っていたのに、タテ写真が届いた場合、大幅なレイアウトの変更になり、降版時間の直前の作業になってしまう。
▽逆に出稿側デスクは、出稿が写真は、タテなのかヨコなのかキチンと把握し、整理部に伝える必要がある。
▽本社ならまだこういうルールはキチンと徹底されているのでいい。問題は地方支局が作る地方版だ。上記のように、タテ写真かヨコ写真なのか、その意味の重さが分かっていないデスクがいる。
▽取材して原稿と写真を出稿する記者と、原稿と写真を采配するデスク、そして原稿と写真を受け取る編集者の3者が、写真はタテかヨコかという認識を共用しないと、新聞作りはスムーズにはいかない。そのことをちんと現場記者にも教育する必要があるし、デスクもまたそれが大切だと言う認識を持たなければならない。
▽朝日新聞の地方支局のデスクも時折こういう大切なルールがわからない人がいる。どうやって紙面が作られていくかを知らないのだ。実に情けないと思う。


★907よく走った関越自動車道(2026/06/05掲載)

▽私が現役の新聞記者時代、勤務先の地方支局からさいたま市の自宅に帰る時、よくマイカーを運転し高速道路を利用していた。中でも関越自動車道の利用回数が異様に多かった。会社を退職した今でも、この関越道はよく使う。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時は、上信越道と関越道を使って自宅に帰った。上信越道は上越市まで延伸し、北陸道と繋がったため、それまで利用していた北陸道から長岡ジャンクションを経由して関越道に入るコースよりこの上信越道コースを使うことが多くなった。
▽ただしその時の上信越道延伸部分は、上下2車線の対面交通での見切り開通で、中央分離帯がなく、対向車がこちらにはみ出してこないかとヒヤヒヤしながら運転していた。また上信越道自体、かなりカーブが多く速度を抑えての走りを強いられた。走りにくい高速道だった。
▽関越道は前橋以北が上下2車線で、その南側は片道3車線なので、速度が出たし、運転もスムーズだった。
▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務している時も、回数が激減したが、時折車で自宅に帰ったことがある。フェリーに乗って、新潟から関越道をずっと走り続けるのだ。関越道の中で一番の難所は関越トンネルだ。距離にして約10キロ。片道2車線の道路が続き、長い距離なので閉塞感に襲われる。この閉塞感の中での運転が嫌だった。
▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時も関越道を使った。花園インターから入り、関越道を南下するのだが、片道3車線の道路で一番右側の追い越し車線は結構みんなスピードを出す車が多い。ある時、前を走っていた小型貨物車が、右の中央分離帯にぶつかり、車を2回転させ止まり、追突しそうになったことがある。単独事故だった。その車を避けて、何とか走り抜いた記憶がある。速度の出しすぎだった。慌ててハンズフリーの携帯電話を使い110番通報した記憶がある。速度を出しすぎると、運転技術が下手な人が制御不能事故につながるという典型的なケースだった。
▽また外交官ナンバーを付けた乗用車が、時速150キロ以上を出して走っているのを目撃したこともある。まさに無法地帯だった。
▽このようにして私は関越道をもう何十回どころか、何百回も利用している。幸い今のところ事故は起こしていないし、もらってもいない。気になるのは煽り運転だけだ。
▽現役時代を終えた今でも関越道を走らせている。事故が今後もないことを祈っている。
▽ついでだから言うと、関越道のサービスエリアはほとんど利用している。最近の高速道路のサービスエリアは飲食店や土産店も充実しており、楽しい場所が多い。


★904最近のイチゴあまりんにガッカリしている私(2026/06/02掲載)

▽埼玉県特産のイチゴ「あまりん」に最近、私はがっかりしている。秩父地方で細々と栽培され、秩父地方だけで作られ売られていたこの品種が、人気を呼び、県内各地で生産されるようになった。しかしその影響で、品種が悪くなってしまったようなのだ。ここ2、3年、秩父地方以外の場所で買ったあまりんは、はっきりってまずかった。がっかりしている。
▽先日、秩父にマイカーで往復した際、花園道の駅で、1パック900円のあまりんが売られていた。どうしようと迷ったが、期待を込めて買った。帰宅して食べたが、甘みも酸味もない、単なる通常のイチゴだった。損した気分でムッとしてしまった。「こんなものは、あのあまりんではない」。そう感じた。裏切られた気分になった。
▽私がかつて勤務した埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局で取材したのが、このイチゴとの初めての出会いだった。おそらく朝日新聞としては初めて記事にしたと思う。
▽私は2019年1月16日の取材でこんなことを書いている。当初は単なる品評会の記事にする予定だったが、話のトーンを新品種が人気というトーンにして、記事にした。
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▽埼玉県が開発したイチゴの新品種「あまりん」と「かおりん」の人気がじわじわと浸透している。ともに酸味と甘さのハーモニーを売りにしており、イチゴ狩りが今月から始まった秩父地方でも、栽培を手がけるイチゴ農家が増えてきた。16日は秩父市でイチゴ品評会があり、上位5位のうち、1~4位までがこの2品種が占めて、商品価値の高さを証明する結果となった。
▽イチゴと言えば、「とちおとめ」や「紅ほっぺ」などの品種が有名だが、県内には県独自の品種がないことから、オリジナル品種を求める声が挙がっていた。県によると、2009年から交雑・選抜を重ねて品種の開発を行い、2016年に品種登録出願を行い、「あまりん」と「かおりん」という愛称を付けて、県内での生産拡大と普及に図っている。
▽「あまりん」のうたい文句は「際立つ甘さ、ほのかな酸味、ジューシーな味」。一方の「かおりん」は「芳醇な香り、強い甘みに酸味のアクセント」。実際に食べてみると、濃厚な味が、口の中に広がってくる甘さがある。
▽16日に同市の県秩父農林振興センターであった品評会「いちごグランプリ2019」は、JAちちぶが主催した。イチゴ農園31軒のうち10軒が、7品種、19点を出品したが、このうち「あまりん」が5点、「かおりん」が2点と、イチゴ農家でもこの2品種の栽培が次第に広がっていることを示すものになった。
▽品評会では10人の関係者による特別審査と、50人の高校生や主婦らによる一般審査が行われた。「めちゃ、甘い」「おいしい」という声が何回も上がり、イチゴの味を堪能した。それぞれ決められた持ち点で投票して、1位の「秩父農林振興センター所長賞」から5位の「特別審査員奨励賞」を決めた。その結果、1位が「あまりん」、2位が「かおりん」、3位が「あまりん」、4位が「あまりん」、5位が「やよい姫」と、1位から4位までを県の2品種が独占する結果となった。
▽JAちちぶは「収穫量が少ないので、まだまだ普及するには時間がかかるが、寒暖差が大きい秩父での気候を生かして、特産品になるよう、努力していきたい」と話す。
▽秩父地方では現在、観光イチゴ園で、イチゴ狩りをスタートさせており、6月中旬まで観光客で賑わう。
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▽あまりにうまいイチゴだった。それが私とあまりんとの出会いだった。

▽さらには、私のこのホームページでこんな紹介をしている。
《▽★046イチゴ
▽「あまりん」「かおりん」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
▽ともに埼玉県が推奨するイチゴの品種だ。県がオリジナル品種として開発し、県内の農家と契約し、県内だけで育成・販売されている。
▽そして県内では秩父市での農家が作り始めた。「あまりん」「かおりん」という名前は、秩父市出身の落語家林家たい平師匠が付けた。
▽私は朝日新聞秩父支局に赴任して、初めてこのイチゴを取材して、そして食べた時の感動を忘れられない。抑えた酸味があり、そして甘いのだ。うまかった。イチゴに対するこれまでのイメージは吹っ飛んでしまった。イチゴは酸っぱくて、子どものころはコンデンスミルクをかけて食べていた昔のイメージがずっと残っていたこともある。
▽秩父市にある県の出先機関で、栽培農家と県、農協による品評会があるのだが、糖度といい、うまさといい、だれもが異口同音に、「おいしい」を連発していた。
▽それ以来、私は土産に自分用にこのイチゴを買うようになった。一般のイチゴより、かなり高額な価格設定だが、それでも買いたくなる食感だ。イチゴをこんなに買うようになったのは、「あまりん」「かおりん」のおかげだ。当初は秩父市内の限定発売だったから、秩父支局を離れた現在でも、秩父市まで買いに行くようになった。秩父支局秩父地方に行けば、「あまりん」「かおりん」と書かれたポスターやのぼりを掲げた農家があるから、そこで買うことが出来る。
▽地元FM放送局が番組で紹介した時は、秩父地方の店頭での商品があっという間になくなった、というエピソードもあった。
▽最近は越谷市などの農家でも栽培・販売するようになった。
▽県外の人たちも、ぜひ埼玉県に来て、このイチゴを食べてみてください》

▽それから何年か経ち、県内であまりんの生産農家が増え、秩父だけの特産とはならなくなった。各地でも作られ、県内のスーパーでも売られるようになった。
▽2025年3月26日に埼玉県農林部が出した「県育成いちご品種生産振興方針」によると、育成品種として「あまりん」と「かおりん」「べにたま」の3品種を県内育成するイチゴとして取り上げている。あまりんなどが他の品種よりも高価格で取引されていることも指摘している。
▽栽培面積はあまりんが24.9ヘクタール、かおりんが0.8ヘクタール、べにたまが4.7ヘクタールで、計30.4ヘクタールだ。イチゴ全体の栽培面積の3割を占めるようになった。農家としては高価格が期待できるうまもみがあり、徐々に栽培面積が広がってきていることを、数字上でも確認できる。
▽しかし、栽培面積が広がったことで、品種が落ちているという現状を、県はどう考えているのだろうか。
▽この2、3年、スーパー店頭などで買うあまりんは、甘みも酸味も抜け落ちていて、粗製濫造という言葉がぴったりだ。うまくないのだ。あの秩父で食ったあまりんはどこに行ったのか。
▽やはり秩父産のあまりんが、本物のあまりんなのだろうか。
▽あまりんなどの名付け親である秩父市出身の落語家林家たい平師匠も嘆いているに違いない。


★900もっと早く実現してほしかった西武池袋線とJR武蔵野線の直通運転(2026/05/27掲載)

▽もっと早く実現してもらいたかった。西武池袋線とJR武蔵野線が直通運転するというニュースだ。私が現役記者として埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時に、実現してもらいたかった。それだけ、西武線とJRの乗り換えは大変だったのだ。
▽私は2018年9月から秩父支局に勤務していた。1人支局で、支局に寝泊まりしながらの勤務だ。家族はさいたま市に残しての単身赴任だった。
▽県庁所在地のさいたま市には、朝日新聞さいたま総局があり、この総局に月に2、3回、夜勤勤務があり、夕方着席して、夜の午後11時過ぎに解放されるという勤務を続けてきた。それとは別に、2カ月に3回という堀合で、単身赴任者に対する帰任が認められていたので、夜勤や帰任を含めて、月に2、3回は帰省したことになる。
▽問題は鉄道による移動だった。秩父支局からさいたま総局に上がるには、西武秩父駅から西武秩父線に乗って、そのまま同池袋線に入り、新津駅で降りて、JR武蔵野線に乗り換えて、さいたま市に向かうルートか、西武秩父駅から特急に乗って、西武池袋駅に行き、ここからJR池袋から埼京線に乗って、さいたま市に行くルートがあった。
▽時間がある時は、各駅停車で新津駅まで行き、そこで降りて新新津駅に行き、ここから武蔵野線に乗るのがベストだが、この乗り換えが非常に不便だったのだ。
▽駅間は400メートルあり、その沿道は屋根もない商店街だ。アーケード街でもないので、雨が降れば、傘を差す必要があり、400メートルという距離は微妙に長かった。通勤客も通学客も、この駅間を利用するには、大変な思いをしてきたはずだ。
▽私もさいたま総局に向かう時や、自宅に帰省する時には、この秋津駅と新秋津駅との乗り換えの不便さを、何回も味わってきた。そしてそのまま朝日新聞を退職した。

▽そして昨年(2025年)6月。こんな報道があった。
《JR武蔵野線と西武池袋線が、2028年度をめどに直通運転を実施する方向で検討していることがJR東日本と西武鉄道への取材でわかった。実現すれば、両社間の直通運転は初めてで、埼玉・秩父エリアから千葉・東京湾臨海部まで乗り換えなしでの移動が可能になる。
▽関係者によると、両線には接続駅がないため、JR新秋津駅(東京都東村山市)と西武・所沢駅(埼玉県所沢市)間にある連絡線を使って直通させる案が検討されている。
▽連絡線の近くには、新秋津駅と西武・秋津駅(東京都東村山市)があり、路線乗り換えで利用する乗客も多いが、両駅は約400メートル離れている。武蔵野線はさいたま市方面、西武池袋線は池袋方面への交通手段として、通勤通学などで利用する近隣住民からの相互乗り換えの需要が高い。
▽両社は今後、直通運転の具体的なルートについても協議を進めていく。ルート次第では、アニメファンらが作品の舞台を巡る「聖地巡礼」でにぎわう秩父エリアの西武秩父駅(埼玉県秩父市)を出発し、JR東の武蔵野線に乗り入れ、京葉線を通って東京ディズニーリゾートの最寄りとなるJR舞浜駅(千葉県浦安市)まで乗り換えなしで移動できる可能性がある》

▽当初は季節運行の特別列車との報道もあったが、実現すれば、新津駅と新新津駅での乗り換えは必要なくなり、西武鉄道の車両でさいたま市まで行くことが可能になる。もしかすると、西武特急ラビューが西武秩父駅を出発し、京浜舞浜まで走ることになるかもしれない。
▽これは大きなニュースだと思った。
▽西武鉄道がJRに乗り入れること自体、関係者には大きなニュースなのだ。東武鉄道ではかなり以前からJRと乗り入れをしているのに、西武鉄道ではそんな話すら出てこなかったからだ。
▽にしても、私が朝日新聞秩父支局勤務時代に実現してくれれば、乗り換えの不便はなくなっていた。残念な、そしてうれしいニュースだった。


★897朝日新聞埼玉版がひどい(2026/05/22掲載)

▽もう一度書く。私の自宅に届く朝日新聞は地方版として埼玉版が掲載されている。この埼玉版がこの1年間以上、実にアンバランスな紙面を作っている。県南部と南西部からの原稿がほとんど出てこない。出てくるのは、県北部、県西部、県東部、そして、中心のさいたま市だけだ。担当記者は何をやってるんだろうか。
▽確かに県内の地方支局は縮小や廃止が続いて、現地に記者を置かなくなっている。県庁所在地のさいたま市にある朝日新聞さいたま総局から現場に通って取材を行うため、時間の無駄もあるが、それにしても南西部と県南部の記事は出てこない。
▽具体的には和光市や朝霞市、志木市などの県南西部と川口市や蕨市、戸田市などの県南部の地域だ。ここ1、2年、地元市議会の記事も、地元自治体の話も、そして街ダネすら読んだことがない。ひどい話だ。
▽担当記者は置いているはずなのに、出てこない。要するに、現地を回っていないのだ。地元自治体に行き、担当者の話を聞いたり、首長の話を聞く。議会事務局に行き、それぞれの市議の話を聞く。こうした記者として基本の取材ができていないから、記事が出てこないのだ。読者として私は怒りすら覚えている。
▽紙面に出てくるのは、熊谷市や深谷市の県北部、所沢市や狭山市の県西部、春日部市や越谷市の県東部、そしてさいたま市の話ばかりだ。いかにアンバランスな紙面になっているのか。分かっているのだろうか。
▽紙面がアンバランスなのは、こうした担当記者の怠惰な活動にあるのが原因だ。しかし、それだけではない。地方版づくりにも出ている。
▽定期的に日本農業新聞の記事を埼玉版に掲載したり、体操の話が出たりする。こんなものが紙面に必要なのだろうか。読者としてはたまったものではない。純粋に埼玉の話を読みたいのに、埼玉版にそうした記事が載っていないのだ。これは完全に読者は無視した紙面作りだ。
▽確かに地方支局を縮小し、記者数も少なくなっているのは分かる。それゆれ省力化の結果だろうが、あまりにも読者を無視していないんだろうか。
▽川口市地域ではクルド問題もある。この話すらほとんど出てこない。
▽県南部、南西部は東京都と接しており、人口増加に伴う都市問題も多い。取材をすれば、大きな問題も発掘できるはずなのに、それをしていないのだ。朝日新聞OBとして情けなくなる。
▽朝日新聞さいたま総局長よ、何を考えているのだろうか。


★895全国紙の地方版とグリコのオマケの関係(2026/05/20掲載)

▽全国紙である朝日新聞に掲載されている地方版が次第に変貌している。全国共通の紙面が多くなり、その地域ならではの地元ニュースの発信が激減している。私はこの状態を「地域ジャーナリズムの危機」だと思っている。
▽今年(2026年)5月17日付朝日新聞埼玉版を見て、私は愕然とした。全国共通の紙面でデータジャーナリズムの記事一辺倒。埼玉関連の記事は全くなく、紙面はそれだけで埋まっていて、埼玉に関する記事が全く出てこない紙面だった。こんなものを読まされても読者はついてこないと思った。
▽そして、私が勤務していた朝日新聞本社時代に当時の編集幹部が言い放った言葉を思い出した。
▽「地方版は所詮、グリコのオマケだ」
▽こう言ったのだ。
▽この幹部が言った意味は、地方版など所詮オマケであり、朝日新聞の本当の商品は全国版に掲載しているニュースだということだ。全国紙を自負した言葉だが、一方で、中央こそがニュースであり、地方はニュースではないと断言しているようにも思えた。
▽この人は全国ニュースこそが新聞の記事であり、地方版はオマケに過ぎないとということらしい。だが、グリコのオマケは、子供のころ、オマケが欲しくて、グリコを買ったのだ。
▽それは新聞地方版でも言える。地方版を読みたいから朝日新聞をとっているのだ。そんな読者をこの幹部は無視している。
▽私は心の中で反発した。
▽私は子どものころ、オマケが欲しいからグリコを買っていた。読者も同様だ。オマケの地方版が読みたいから、読者は朝日新聞と契約しているのだ。地方版の位置付けを朝日新聞幹部は間違っていると思った。

▽グリコのオマケと朝日新聞地方版をこのコラムでは考えてみたい。グリコのオマケを知らない読者にまず説明して行く。
▽私が子供のころ、グリコのオマケは魅力的だった。数十円を持ってキャラメルを買うと、オマケが付いていた。小さなプラスチック製のおもちゃだった。キャラメルを食べたいと言うよりも、このオマケが欲しかったのだ。当時の私の周囲の子供たちはそうだった。グリクのオマケは魅力的だった。オマケが欲しいからキャラメルを買ったのだ。
▽これは他の食品でも言えた。漫画「おそ松くん」のキャラクターをあしらった食品のふりかけ「おそ松くんふりかけ」のコマーシャルもそうだった。おそ松くんふりかけを買って、何枚か抽選券を集めると、レーシングカーが当たると宣伝していた。当時の子供にとってレーシングカーは憧れの高級なおもちゃだった。もしかしたら、50円のこのふりかけを買えばレーシングカーがもらえるかもしれないと思い、みんな子供のころ、親にねだっておそ松くんふりかけを買ったものだ。
▽つまりだ。こうしたおまけや景品で誘導して、子供心を刺激し、そうやって企業は儲かっていたのだ。決してその商品が欲しいというわけではなく、おまけが欲しかったのだ。
▽グリコのオマケは当時の時代の象徴だった。
▽そして、時代が数十年流れた。
▽私の朝日新聞東京本社の仕事の一つとして、東京本社管内の地方版の見直しとブラッシュアップを目指す取り組みをしていた。当時、私は仲間と一緒に、朝日新聞地方版の内容拡充をしようと、東京本社の地方支局と連携して、連載や特集をそれぞれの地方版で紙面化していった。そんな私らの思いを、当時の編集幹部は揶揄するように言ったのが、上記の言葉だった。
▽繰り返す。
▽「所詮、地方版はグリコのオマケだ」
▽この幹部は、朝日新聞の地方版などオマケと考えていたのだろう。しかしこの幹部は実態を知っていない。読者はオマケが欲しいから朝日新聞を買っているんだ。その実態にこの幹部は気づいていなかった。
▽私は上記の埼玉版について、X(旧ツイッター)ポストでこう書いた。
《17日の朝日新聞埼玉版は全国共通の紙面でデータジャーナリズムの記事一辺倒。埼玉の記事が全く出てこない紙面。こんなものを読まされても読者はついてこない。地方版は「グリコのオマケ」とかつての朝日新聞幹部が言っていたが、オマケが欲しいからグリコを買っていたのだ。地方版の位置付けを朝日新聞は間違っている》
▽予想外の反響があった。リツイートしてくれる人もいた。
《朝日新聞のデータで探る47都道府県、私も当該記事を読んだけどあれを地域面に載せる意味が不明だった。
何年も前からやっている日経は全体版を前面に載せて地域面では各地それぞれの傾向について詳報している。全体版を地域面に載せてどうする》
《朝日は批判的に見ることが多いけれど、
地方に関しては全国紙であるが故に地方紙が地域の有力者に完全に癒着している場合、地方紙だと出せないきちんとした視点でいい記事を出してくれたりしているんだよねぇ》
《朝日は批判的に見ることが多いけれど、
地方に関しては全国紙であるが故に地方紙が地域の有力者に完全に癒着している場合、地方紙だと出せないきちんとした視点でいい記事を出してくれたりしているんだよねぇ》
▽朝日新聞デスク経験者からも、私と同じようなポストをもらった。

▽振り返ってみると、朝日新聞も含め、毎日新聞、読売新聞も、そして地方新聞も、それぞれ地方版を拡充して、部数を伸ばしてきた歴史がある。そう、地方版が部数拡張の生命線だったのだ。朝日新聞で言うなら、埼玉版ではわずか10年前には計四つの紙面を作っていた。県北部、県南部、県東部、県西武とそれで土地に分けて紙面作りをしていた。そうしたきめ細かい作り方で部数を拡張して、部数を維持してきた。
▽そんな地方版の役割を、簡単にグリコのオマケだとして唾棄する会社幹部の発想がわからない。
▽読売新聞などは、一時期、1面トップに地方版を持ってきて編集する紙面を一部で作っていたほどだ。地方版は各紙にとって、戦略的な商品であるのだ。
▽朝日新聞も含め、今新聞は斜陽化の道を進んでいる。そんな中で地方版を雑に扱うという発想と経営方針は、自らの首を絞めていることにはならないか。私はそう危惧している。

★894朝日新聞長野事件で会社が示した改革案に反発(2026/05/19掲載)

▽その昔、朝日新聞で長野事件というものがあった。当時の田中康夫知事の動向、言動をすべてメモをして送れという本社政治部の指示に対して、長野総局員が話をでっち上げたメモを送り、そのメモで政治部員が書いた記事が誤報となった事件だ。朝日新聞は謝罪するとともに、その防止策案を作り、地方にいる私たち記者に送ってきたのだ。その内容に笑ってしまった。
▽今回はその防止策案を批判した当時の私のメモを紹介する。
▽2005年11月のことだ。私は当時、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた。
▽会社の専用ネットである「アトムネット」で長野事件を教訓にした改革案が出ている、というので、ようやくダウンロードした。地方の実態を知らないで、こういう添付ファイルを送りつけること自体間違っていると感じた。
▽以下は、当時の私が書いた感想と意見。なお、本社からの指示や発注を、朝日新聞は「行政」という名前を使っている。
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▽■改革に対する私的意見
▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽渋川支局・原▽裕司

▽会社専用のアトムネットで一連の提言などを読み、笑ってしまいました。
▽会社が本当に改革する意識があるのだろうか、と。全く机上の空論のように思えます。
▽本社と地方の格差をものすごく感じます。本社と地方の差別が、意識の中でなくならない限り、長野事件は何回も繰り返されます。そう思います。

▽笑ってしまったと言ったのは、地方の実態を全く無視してこうした改革案をネットに載せたことです。
▽本社や総局だったら、会社の専用線を使って、常にパソコンを立ち上げて、メールに添付ファイルを付けて送ればいいことでしょう。
▽しかし、地方は違います。
▽マイカーで運転している時間が異様に長く、パソコンを開くにしても、支局事務所にようやく戻って開くか、または取材先の近くの飯屋やマイカーの中で貸与パソコンを立ち上げなくてはならない。
▽経験をされていると思うが、会社の貸与マシンはアトムネット・次期システムを導入した時から、立ち上げる時間が長くなりました。電源を入れて完全に立ち上げて、さらにPHSカードでネット接続し、メールをダウンロードするまで異様な時間がかかります。地方では専用線もないし、電波状態も悪い。浅間山麓や草津温泉、四万温泉では次期システムに接続することが困難です。はっきり言って実用化レベルではない。
▽こんな地方の実態が分かっているなら、こんな添付ファイルを送りつけること事態ナンセンスだと思いました。添付ファイルがあるから、それだけダウンロードする時間が長くなる。
▽地方の実態を無視している、というより、地方に対して差別しているからだと思いました。

▽長野事件の本質は、本社と地方の差別から出たものだと私は思っています。
▽本社から垂れ流される「行政」という名の発注。
▽これを県庁所在地の総局は、今度は一人勤務の旧通信局、現支局にそのまま丸投げしているのが現状です。メモを上げろ、とか、情報を出せ、とか、安易な発注が多すぎる。
▽メモさえ出せばいい、という雰囲気が生まれる。
▽形だけ夜回りをして、本当の情報が取れていない。
▽今から一年ほど前だったか、郵政民営化に対して地方議会が反対決議をしているから、そのデータを集めろ、という行政が大阪社会部からありました。前橋総局はそのまま地方に丸投げして来ました。しかも締め切りは二日後。
▽私の担当管内は16市町村もあります。しかも私は翌日から肺ガンで入院する父親の入院手続きをしなくてはならず、休みを申請していました。
▽結局は休むことが出来ず、翌日一日かがりで電話取材でデータをまとめて前橋総局に送ったのですが、行政を発注した大阪社会部からはお礼すらありませんでした。
▽たぶん大阪社会部の発注者の頭の中には「本社はえらいのだ。地方は本社の指令に従えばいいのだ」という発想があったから、こういう行政を流したのでしょう。
▽ふざけるのもいい加減にしてもらいたい、と思います。
▽こんな行政、大阪社会部が全国に電話で取材すれば済むものでしょう。それとも前橋総局で電話取材すれば済む話でしょう。
▽ニュースの価値観すらあまりありそうもない。事実、北海道報道部のデスクも、この行政に対して疑問を投げかけていた、といいます。

▽行政でおかしいと思ったことは何回もあります。
▽地方の議会のことで発注があったので、メモの形にして送ったことがあります。
▽数日後の紙面を見て驚きました。
▽何とその発注した記者の署名で、記事が出ていたのです。
▽新聞記者は情報こそ命なのに。
▽その情報をさも自分で取材したようにして、原稿を仕上げる本社って何なんだ、と思いました。

▽改革を本記で実行するなら、こうした本社と地方の格差、そして差別意識をなくすことが先決だと私は思います。
▽本社に五年勤務したら、次は地方に出る。デスクになる時は、一度一人勤務の支局に出る。こうした平等の人事が出来ないから、いつまでたっても「本社はえらいのだ」という内なる差別が生まれる。
▽この点、読売新聞の方が、こと、地方で見る限り平等だと思われます。
▽県庁所在地に配属された新人記者は何年かすると県内の一人勤務の通信部に出されてまた県庁所在地の支局に戻る。そうしてその後は必ず本社の地方版整理部に行かせる。
▽こういう平等の人事がなぜ朝日新聞では出来ないのか、不思議で仕方ありません。
▽おそらく一部のエリート意識を持った人間が、エリート街道の既得権を手放したくないと考えているのではないか。

▽たとえば、箱島前社長時代に導入された給与の査定。能力給というが、新聞記者にそういう査定を導入することが、どれだけモチベーションを下げていることか。
▽人間が人間を査定する、ということは、人間が人間を差別しているということです。
▽本社勤務の能力給が高くて、地方が低いという実態は、ただそれだけでもモチベーションを下げていることに、本社の人間は気づかないのだろうか。
▽まずはこうした給与の差別をなくすことが先決だと感じます。

▽否、本社内の差別もなくさないと、改革は出来ないと思います。
▽同じ編集局であるのに政治部、経済部はエリートで、地域報道部、地方版編集、生活部は違うのか。同じ整理の仕事をしているのに、地方版編集より整理部の給与が異様に高いのは、なぜなのか不思議です。
▽仕事量が違うと言っても、希望して配属された人間は少ないでしょう。
▽こうした差別があるから、全社でのモチベーションが下がり、長野事件を発生させる土台を作ってきた、と言えないでしょうか。

▽人事や給与で社内の格差、差別をなくすこと、特に本社と地方の差別を解消させることが、第一歩だと私は思っています。



★893国会議員について週刊誌への情報提供(2026/05/18掲載)

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。週刊誌記者から支局に電話があり、情報提供を求められた。断る理由もないので、実際に会って、知っている事実を話した。しかし、情報提供の謝礼は全くなかった。
▽週刊プレーボーイの人間が朝日新聞渋川支局に電話し、私の個人携帯電話に転送された。当時の群馬選挙区の参院議員、山本一太議員について調べているので、何か教えて欲しい、という。ナンパ系の週刊誌が、国会議員の取材をするという、意外な関係性は面白いなと思った。
▽私は今、浦和市(当時・現さいたま市)に帰省しているので、というと、きょう話を聞きに行きたい、ともいう。
▽うーん。一太ねえ。群馬の人間は、山本議員の名前を持って、「いった」と読んでいる。
▽国連職員などを経て、父親の票田を次いで当時、参院2期目で、そして前年の総選挙では小泉首相の刺客となることを、自ら申し出た人間だ。小渕優子の対立候補になる話も出たほどだ。
▽そして自民党総裁選に出た安倍の応援団長という、不気味さも持っている。憲法改正、教育基本法改正、自衛隊派兵。消費税増税。何一つとっても、かなり危ない安倍を応援するというポリシーらしい。
▽山本は群馬県草津町生まれで、渋川市にある県立渋川高校出身だ。朝日新聞渋川支局の取材管内だ。そしてあまり知られていないが、朝日新聞に入社し記者として福島支局に配属されるという、「輝かしい経歴」を持ち合わせている。ただし記者としては2カ月でやめて退社している。自分のポリシーと朝日新聞のポリシーが違っていたことに、早くから気づいたのだろう。
▽そんな人間が後に県知事になるのだから、群馬県人は人を見る目がないのか。
▽でその週刊プレーボーイの人間からまた電話が入り、JR武蔵浦和駅で会うことになった。
▽何も情報はないのだが、週刊プレーボーイの記者2人と合流。近くの店で、政治家山本一太についての説明をした。50分で引き上げた。
▽相手はもう少し話を聞きたいみたいだったが、全くの謝礼なしで、情報を提供するのも、マスコミ全体の慣例とはいえ、よくないと思った。情報こそカネであり、蓄積であり、財産だからだ。
▽その後、週刊プレーボーイで山本一太がどのように扱われたかは定かではない。連絡もその後なかった。


★889朝日新聞編集委員だったOBの突然の支局来訪(2026/05/12掲載)

 ▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時だ。朝日新聞編集委員だったOBが突然支局を訪ねてきた。私としてはあまりに大物の編集委員だった人物の訪問に戸惑い、驚いた記憶がある。
▽そのOBが石弘之さんだった。当時も、そして今も現地で続いている国の特別天然記念物トキの再生事業の取材に来たと言っていた。その関係者とともに支局に突然遊びに来たのだ。その相手が石さんだと知って、私は驚き、そして戸惑った。私の大先輩であるが、職場が一緒になったこともないし、付き合いもなかった。そんな人物の訪問だった。
▽石さんの経歴は以下のようにものだ。
《日本の環境ジャーナリスト、環境問題研究者。専門は地球環境論。朝日新聞編集委員を経て東京大学教授、駐ザンビア特命全権大使等を歴任した》
▽私個人に用事があるわけではなかったようだ。佐渡に朝日新聞支局があり、その支局長と雑談しようと訪問したらしい。石さんとその関係者は以前から知り合いらしく、私もまた取材を通してこの関係者を知っていた。
▽石は私の経歴を聞いてしばらく雑談し、そして昼食を摂りに3人で外出した。
▽この石さん。私が学生時代の時に朝日新聞ニューヨーク支局の特派員をしていた。その時のエピソードが興味深かった。
▽当時、アメリカのペンシルバニア州のスリーマイル島の原発で大規模な事故が発生、世界中を驚かせていた。科学部出身の石さんは、ニューヨーク特派員として、この原発の危険性を訴え続ける記事を書いていた。
▽そんな時だった、当時の筑紫哲也が司会をしていたテレビ朝日の番組「こちらデスク」に生中継で対談で出演していた。もう1人の相手が、朝日新聞科学部長だった。
▽石さんはスリーマイル島の原発がいかに危険なものかを記者として訴え受けた。これに対して科学部長は、原発は安全で必要なものと頑なに強調していた。
▽つまり朝日新聞科学部内でも原発は危険なのか、安全なのか、意見が分かれていた。
▽当時の朝日新聞の原発に対する報道姿勢は、「イエス・バッド」路線から、完全な推進路線と舵を切っていた。そんな朝日新聞の原発推進路線を真っ向から否定していたのが、このニューヨーク特派員の石さんだった。
▽学生時代の私ですら、当時の朝日新聞の原発推進路線は異常に写っていた。だから、この石さんがテレビでも原発は危険なものと訴えている印象がものすごく強く残っていたのだ。すごい記者がいるなと私は思った。
▽そんな筑紫哲也の番組を私は見ていましたよ、と私が話題として振ると、石さんは笑いながら、その頃を振り返った。
▽石さんはその後、編集委員を務めた後、朝日新聞を早期退職し、東大で研究者となり、自分のライフワークを続けていた。私との付き合いは全くなかったが、こうして偶然にも佐渡島という日本海に浮かぶ孤島でお会いし、雑談できたことを嬉しく思った。
▽地方にいると、こんなささやかな、面白い出会いもあるものだと私は思ってしまった。
▽石さんはその後も精力的な執筆作業を続けている。


886引っ越し貧乏は真実だ(2026/05/07掲載)

▽引っ越し貧乏という言葉がある。引っ越しが重なれば、金は貯まらず、貧乏になる例えだが、私はそれを実感している。私は40年間の新聞記者生活時代に何回引っ越しを続けただろうか。まさに引っ越しとは金を使う大掛かりなイベントだった。金は貯まらず、引っ越し貧乏とは真実だった。
▽私は東京で生まれて、千葉県で育ち、1981年4月に北海道新聞に入社した。1988年3月に退社。その年4月に朝日新聞に転職した。2021年8月に退社した。
▽最初の引っ越しは実家があった千葉県柏市から北海道新聞の最初の赴任地である小樽市への引っ越しだった。引っ越しといっても、当時ほとんど荷物はなく、着替えや文具、学生時代に水シャワーを浴びる。買ってあった一眼レフのカメラなどを持って行っただけだった。約2週間、北海道新聞小樽支社の当時の3階にある休憩室で寝泊まりをした。そしてやっと住む場所を見つけた。一軒家の2階に下宿した。6畳間と台所が一つ、そして和式のトイレという下宿だった。ここで最低限の家財道具である冷蔵庫と折りたたみの机、そして食器や鍋、フライパンなどの調理器具を買った。入社前に2カ月アルバイトをしており、そのアルバイト代金をすべてこの引っ越しで使った。冬には灯油ストーブも買った。
▽その1年後、先輩が転勤したために、その先輩が住んでいたアパートに引っ越した。4畳半と6畳間、そして待望の風呂があり、そこに住んだ。ここでも引っ越しによる金が必要になった。天井に取り付ける電灯や蛍光灯、さらには布団などの寝具などを買った。
▽そして、会社員として初めての転勤だ。小樽市から札幌市の隣の江別市の北海道新聞江別支局に転勤になった。市内のマンションを借りた。3DKのマンションで、ここでも新たに電灯や蛍光灯を買った。ストーブは据え付けのものがあったので、それを使った。ここでも家具を買うことになり、支出は続いた。
▽さらに北海道新聞本社がある札幌市に転勤した。最初は2LDKのアパート暮らしだった。ここでも電灯や蛍光灯を買い換えた。絨毯なども揃えた。
▽このアパートは2年で出た。近くのマンションに引っ越した。ここでもお金がかかった。新たにテレビやステレオなども買い換えた。
▽既にこれだけで北海道新聞の7年間で、引っ越しを5回も行っている。
▽そして朝日新聞への転職。最初の振り出しは浦和支局(現さいたま総局)だった。不動産で物件を探したが、首都圏の物価がこんなに高いと思わなかった。わずか40平方メートルにも満たない、3DKの賃貸マンションの家賃が17万円もした。会社からは補助が出たが、それでも足りなかった。駐車料金は別だった。ここでもマンションの仕様に合わせた電灯や蛍光灯など照明器具を買いそろえた。支出は一気に増えた。札幌市から浦和市への引っ越しにも、朝日新聞が旅費を出してくれたが、それでも充分ではなかった。マンションに引っ越しの荷物を入れる際、2日遅れたので、最初はホテル暮らしを強いられた。このホテル代は出してもらえなかった。
▽浦和支局の次が宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局だった。ここでも家財道具を一部買い換えている。
▽そして東京本社勤務。最初は浦和市の賃貸マンションに住んでいたが、朝日新聞の場合、住宅補助は5年を過ぎるとかなり減額されるため、マンションを購入をした。
▽そしてマンション購入からわずか2年で転勤命令が出た。新潟県上越市の朝日新聞上越支局だった。ここでも家財道具をすべて買った。単身赴任だったため、新たな家財道具が必要だった。冷蔵庫や洗濯機、机やパソコンなども買い足した。雪国だったため、車も4輪駆動車に買い換えた。冬タイヤも必要だった。
▽そして札幌市の北海道報道部への転勤。ここでは賃貸マンションを借りた。ここでも出費が重なった。そして群馬県渋川市の渋川支局への転勤。ここでも家財道具を買い足している。
▽さらに東京本社に勤務となり、そして埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に赴任。ここでは自宅から通っていたので引っ越しはなかった。
▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局への転勤。新たに家財道具を買った。
▽最後は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局への転勤だ。ここでも出費が続いた。
▽そして定年退職だ。秩父支局から自宅に引っ越した。
▽何回引っ越したことだろう。引っ越しのために家財道具を買い、引っ越しのために家財道具を捨ててきた。雪国への赴任となれば冬用の衣類もストーブも必要となった。
▽引っ越し貧乏とはまさにその通りだ。東京本社でぬくぬくと生きている社員には、こんな引っ越し貧乏の体験などわからないだろう。


★885ベンツから中古車のカローラまで(2026/05/06掲載)

▽全国紙である朝日新聞で、地方に勤務する記者はマイカーでの取材移動が義務付けられている。タクシーやハイヤーは使えない。第一、地方にハイヤーはないし、タクシーも台数は少ない。使えないのだ。
▽マイカーだから自費だ。だから安くあげようとするならば、中古車の安い大衆車を買うし、金があるならば、ベンツなどの高級外国車を乗り回す者もいた。しかし、やはりベンツでの取材には驚く。
▽私が北海道新聞社を辞めて、朝日新聞に転職し、最初の赴任地が浦和支局(現さいたま総局)だった。そこで見たのが、若い支局員が乗っていた車だった。トヨタのカローラレビン、スプリンタートレノ、MR2などのスポーツカーに乗っていたのだ。まだ若い20歳代。スポーツカーに憧れていた世代だったな、と今振り返ればそう思う。国産車だからそんなに驚くことがなかった。しかし、別の支局では、ベンツに乗っている新人記者がいるのを知って驚いたことがある。ベンツかと思ってしまった。新人の給料ではとても買えない車だった。
▽当時の朝日新聞のシステムでは、100万円を限度にマイカー購入費を無利子で貸与していた。しかしあくまでも貸与であって、支給ではなかった。借金だった。だから、新人のころは最初に中古車を買い、乗っていた。給料でお金が貯まれば、新車に買い換えていた。スポーツカーを運転していたのは、そういう入社3〜4年の若者だった。
▽その後私は各地を転勤し、多くの記者が国産車に乗っているのを見た。しかし、一部の記者は外車に乗っていることを知って、やはり趣味の世界だと思ってしまった。日本の道路には、日本の車が合うはずなのに、あえて外車を選ぶのだから。
▽こうも思った。取材相手がどういう反応を示すか。取材でベンツに乗ってきた記者をどう思うのだろうか。相手は驚くだろう。ベンツで来たと。朝日新聞記者は相当な給料をもらっていると思ってしまうだろう。
▽そういう想像力が、ベンツなど外車を運転している記者にはないらしい。相手は驚くほか、自分よりも高給取りが来たと思うのだ。決して高級車に乗っての取材など私はしたくなかった。
▽私と言えば、北海道新聞時代に買ったスバルレオーネに乗り、次はトヨタスプリンターカリブに乗り換えた。そして転勤で、三菱のパジェロイオに乗り換えて、さらに転勤を重ねて、日産エクストレイルに乗った。さらには日産ノートに乗り、そして中古車のスバルインプレッサに乗り換えた。さらにはスバルXVに買い換えた。ずっと国産車だった。国産車で困ったことは全くなかった。見栄もなかった。
▽ベンツを乗り回している記者はどういう意味を込めて乗り回していたのだろうか。ちょっと疑問に思っていた。

★883本州にあって佐渡島になかったもの、そして佐渡島にあって本州にないもの(2026/05/04掲載)

▽私は2015年5月から新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した。3年4カ月、その離島で過ごしたが、離島ゆえに、本州ではあったが、佐渡にはなかったものを記してみたい。
▽本州にあって佐渡島にないもの。鉄道、映画館、ユニクロ
▽逆に本州になくて佐渡島にあるもの。それは旅の旅情だ。

▽まずは鉄道がなかった。公共共通はバスだけだった。しかも朝と夕方、1時間に1本あるかないかだった。地元の高校生の通学が大変だった。その一方ではすさまじいほどの車社会だった。だれもがマイカーで移動していた。朝夕の幹線国道は渋滞するほどだった。
▽佐渡島になかったもの。もう一つがユニクロだ。たかが衣料品店と言うなかれ。私の場合、ユニクロの冬用下着のヒートテックを重宝していた。これは冬の朝、ジョギングで使う時最適な下着だった。ウィンドブレーカーなどを着て外を走ると次第に内部で汗が溜まってくる。ユニクロのヒートテックの下着は、この汗を吸収すると、そのまま発熱し、体が冷えることがないのだ。通常のメーカーの下着ならば、汗が出て、下着が濡れれば体が寒くなってきて体が冷える。これがジョギングの場合だと直ちにわかる。ユニクロのヒートテックの下着にはそれがなかったのだ。ユニクロがなかったことは、中年ジョガーの私にとって、残念なことだった。
▽映画館がなかったのも辛かった。月に2、3回、私は本州の朝日新聞新潟総局に上がってデスク当番をしていたが、時間に余裕がない限り、映画を見ることはできなかった。だから佐渡島にいた3年間、ほとんど封切りの映画を見ていない。見ていたのはテレビで流されて録画した映画や、アップルTVの映画だけだった。まだインターネットでの映画配信がそんなに普及していなかった時で、今のようにネットフリックスや、アマゾンプライム映画などをまだ見ることができなかった。私が佐渡島にいた3年間は映画を見ることができなかった。
▽スポーツ整形外科の病院もなかった。私は毎朝ジョギングをする中年ジョガーだったので、時折けがをする。坐骨神経痛や鵞足炎(がそくえん)、肉離れなどのけがをしてきた。しかし、佐渡島にはスポーツ整形外科がなく、単なる整形外科の病院があっただけ。代謝療法として、薬をもらっただけだった。さらに言うと、朝日新聞佐渡支局があった両津地区にある市立病院の整形外科はひどかった。若手の医師がレントゲンを撮るだけで、何の説明もない。上目視線でいい加減な処置をしていたのだ。実に不愉快だった記憶がある。
▽それ以外、生活で不便に感じることはなかった。衣類にしても、しまむらなど全国チェーンの衣料店があったし、食料品なども地元資本のスーパーや本州資本のスーパーがあった。電化製品にしても全国チェーンで展開する大型家電店があったし、書店ではTSUTAYAがあった。一般の生活レベルとして、問題はなかった。

▽逆に佐渡島でしか見ることができない光景もあった。フェリーでの別れの光景だ。
▽お盆休みや年末年始の休みで故郷の佐渡島に帰省した人たちが、帰り際のフェリーの乗り場で、地元の家族と別れを告げるシーンだ。本州に帰ってしまう自分たちの子供や孫を見て、高齢の女性が泣いているのだ。別れが悲しいためだ。傍ではその夫が
「バカ。みっともないから泣くな」
とたしなめている。
▽こんな光景を何回か見た。フェリーでの別れは、旅情を誘う。これは本州ではあまり見られない光景だろうと私は思っている。
▽佐渡島には3年4カ月いた。私は新聞記者の最後を佐渡と決めていたが、次にまた辞令が出た。埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局への赴任という辞令だった。
▽私の人生の旅はまだ終わらなかった。

★877朝日新聞埼玉版の読者にとっての朗報(2026/04/24掲載)

▽厳しいことを言うが、埼玉県の朝日新聞読者にとっては朗報だったと思う。朝日新聞さいたま総局に在籍していた2人のベテラン記者が今年(2026年)4月の人事異動で、県外の総局に異動になったのだ。私は読者として、そして朝日新聞OB記者として、朝日新聞埼玉版をずっと読んできたが、これまでこの2人は担当自治体の取材をほとんどしなかった。それゆえ、記事が全く出なかった。読者不在の記者活動だった。
▽1人が県南の川口、蕨、戸田市の自治体を担当していた。元々は川口支局があったエリアで、朝日新聞が地方取材網の縮小の一環として、川口支局を廃止したため、そのエリア担当として、さいたま総局員のベテラン記者を指名し、取材をすることになっていた。
▽もう1人が県西部の朝霞、新座、志木市などを担当していた。このエリアは、元々、川越市にあった朝日新聞西埼玉支局の担当者が取材していた場所で、西埼玉支局が廃止されたために、さいたま総局のベテラン記者が担当することになっていた。
▽自治体の取材は、範囲が広い。市長選や市議選に始まり、市議会や執行部の動き、予算案の計上、行政の不備の有無、現地出身の県議や国会議員の動き、街ダネなど、電話取材では全く分からない情報を、現地で人に会って、集めてくる。このためにはほぼ毎日、自治体を回らなくてはならない。回っているからこそ、初めて知る情報も多い。その分時間もかかる。無駄な取材も多くなる。取材の空振りもある。それでも回らなくてはならないのが、地方記者の義務であり、仕事だ。
▽しかし、この2人がそれぞれの担当自治体を回っていた痕跡は全くなかった。回っていたなら、当然出てくるはずの原稿を、この2年間、私はほとんど読んだことがない。唯一記事にした市長選の記事もかなりの手抜きの内容だったし、地元の街ダネ記事は掲載されたことはほとんどなかった。
▽要するに取材もしないため、原稿も出なかっただけの話だ。
▽では、なぜ2人は原稿を書かなかったか。
▽それは理由が二つ考えられる。
▽一つは、自治体回りの取材は時間がかかり、面倒くさいことだ。地味な仕事だし、ニュースバリーも低いこともある。ニュースになるか分からない回り方をしても、無駄だと考えていたのだろう。
▽もう一つが、ベテラン故のプライド。ともに東京本社の記者生活が長く、それぞれ専門の分野を持っていた。専門分野を持っているために、地方自治体などの取材など出来るか、と自問自答していたと思われる。プライドが地方自治体の取材をさせなかったのだろう。
▽私からすれば、情けないと思った。地方に出た以上、地方の取材をするのは当たり前だ。それが2人には出来ていなかった。1人は相撲専門記者を自称していて、さいたま総局員なのに、関係ない相撲の連載を都内版にも書いていたが、プライドを捨てることは出来なかったのだろう。この記者が県西部での街ダネを書いたことをみたことがなかった。
▽私は朝日新聞を辞めて4年以上たつが、紙面を読んでいるだけで、記者の動きは経験上分かってくる。2人が担当自治体を回っていないことは、手に取るように分かっていた。
▽4月になり、別の記者の署名で、県南部の記事が出るようになり、そこで初めて人事異動を知った。紙面を丁寧に読めば、どの記者が仕事をしていて、どの記者がサボっているかは、よく分かる。
▽同じ事は毎日新聞にも言える。総選挙の最中に現地取材をしないで、都内の狭山事件の集会の記事を延々と書いていた。狭山事件の取材をするなと言いたいのではない。総選挙なのだから、現地の権力構造の変化をキチンとフォローしてもらいたかった。私が毎日新聞の契約をやめた理由だ。
▽私は地方を回り続けたから、一つだけ、朝日新聞の2人に忠告しよう。
▽それは、
「地方にこそ取材現場は宿る」
ということだ。地方取材を軽視する記者は、地方に馬鹿にされる。それは私の40年間で得た教訓だ。

★871草津温泉と伊香保温泉の違い(2026/04/16掲載)

▽私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に5年間も勤務していた。取材管内には日本でも有数の温泉街、草津温泉と伊香保温泉があり、ともに何回も何回も取材や入浴で行ってきた。同じ群馬県でも、二つの温泉街にこんなに違いがあるとは思わなかった。
▽最初の違いは、温泉の湯の量だった。草津温泉は活火山断層から湧き出る湯が多くて熱い。高温の96-98度の湯が大量に湧き出てくる。泉源もいくつかあり、各ホテルや旅館に給水している。この湯を運ぶ給水管を水道管とくっつけて湯を冷まして、各家庭にも運んでいる。酸性値が強い湯で、切り傷に効くという効能がある。熱くて豊富な湯量が草津温泉の売りだ。
▽これに対して、伊香保温泉は、江戸時代から続く「黄金の湯」を源泉として、限られた数のホテルや旅館に流しているだけで、その権利を持たないホテルや旅館は、別の源泉である「白銀の湯」を新たな開発して、湯を供給してきた。この「黄金の湯」も「白銀の湯」も湯量は多くなく、源泉からはチョロチョロと流れているだけで、やや心許ない。私が勤務していた時は、以前に比べると湯温が0.5~1.0度下がっていることも判明している。
▽かつて伊香保温泉では湯泥棒が発生したのも、こんな背景があったためだろう。
▽私が勤務していた時は、井戸水を沸かしただけで、「天然温泉」という看板を掲げていた旅館の存在が週刊誌に書かれて、大問題になったこともある。湯の量が圧倒的に少ない伊香保温泉ならではの事件だった。

▽次の違いは、町の距離だ。草津温泉は渋川支局から車で1時間半から2時間かかる場所にあり、山の上に位置する、遠い場所にある。特に冬になると、雪道のため、車での運転も難しくなる場所になる。これに対して伊香保温泉は、車で15分で行ける場所にある。
▽この距離感は、取材に影響する。どうしても近い場所の取材が優先する。情けないが、私もその一人だ。夜のイベントが草津温泉であっても、1泊する余裕がなければ、草津温泉に取材に行くことはなかった。だから伊香保温泉での取材が多くなり、結果として伊香保温泉の話ばかり書いていたような気がする。
▽しかも伊香保温泉では観光協会が定期的に記者会見を開いて、町の宣伝をしていたが、草津温泉観光協会は会見を開いたことはなかった。
▽三つ目の違いは、その距離の差によって、観光客の質の違いが出ていることだ。草津温泉は純粋に温泉郷を楽しむ個人客や団体客が多いのに対して、伊香保温泉は特に年末年始になると、前橋市などの企業や事務所が忘年会や新年会に使うことが多かった。つまり温泉郷を楽しむというより、宴会の場所になっているということ。それゆえ、売春容疑で摘発される店も出るようになった。利用者は「酒と女」を求める癖がある人間が多く、それにつけ込む暴力団関係者もいた。

▽四つ目の違いは風情だろうか。草津温泉は湯畑を中心に、温泉街が広がっている。湯畑には多くの観光客が見て回り、坂道があり、とぼとぼと歩いて楽しむ。日帰りの温泉施設や無料の町民用の温泉施設もある。いかにも温泉街らしい。温泉ハシゴもできた。これに対して、伊香保温泉は階段街があり、こちらも風情がある。階段をゆっくりと歩いて、温泉街を楽しむのもいいだろう。ただし私が勤務していた時、日帰りの入浴施設は一つしかなく、温泉のハシゴというのはできなかった。

▽こうして草津温泉と伊香保温泉を俯瞰すると、同じ県内の温泉なのに、全く異質の温泉郷であることを気づく。そんな群馬に私は5年間勤務していた。


★868転勤族と無駄となる地方銀行口座(2026/04/13掲載)

▽私の手元には、使わなくなった銀行の通帳が何冊もある。転勤族だったため、地元の地方銀行に口座を作り、そこで光熱費などの引き落としていたためだ。しかし、転勤になってしまうと、次の赴任場所にその銀行の支店がない限り、そのまま放置するしかなかった。だから、私の手元には残高1000円未満の通帳が何冊も残ってしまった。
▽初めて単身赴任したのは、新潟県上越市の朝日新聞上越支局だった。会社からの給料振り込みに使っている都市銀行の支店がこの上越市にはなかった。このため、振り込まれた給料を家族に生活費として振り込むには一度、地元の地方銀行で金下ろし、さらに家族の口座に振り込むという二重の手間がかかった。それぞれ手数料がとられた。
▽支局で使う光熱費やタクシー代などの取材経費などを振り込むには、地元の地方銀行の口座が必要になったため口座を作った。ここから引き落とししてもらうためだった。このため、会社に請求した実費のカネは、私の都市銀行の口座に振り込まれた後、一度私の口座からこの地方銀行に移す必要があり、これも手数料が取られた。
▽しかし転勤してしまうと、この地方銀行の口座は当然ながら使えなくなる。私は1000円単位で金をおろし、この銀行の通帳はそのままにした。光熱費の引き落としが1カ月から2カ月遅れであるので、解約も出来ないまま、転勤するしかなかった。
▽次に転勤した札幌市の北海道報道部でも同じだった。借りたマンションの家賃や光熱費、新聞代を自動引き落としにするため、地元の地方銀行で口座を作った。給料が振り込まれた都市銀行の口座からカネをおろし、こちらの地方銀行に金を移した。当時はまだインターネットバンキングなどがなかったので、こうするしかなかった。そして北海道報道部を離れて、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に転勤になった時も、その口座は放置した状態になった。
▽そして新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時だ。取材用のマイカーを買い換えた。ローンを組んだので、その引き落とし口座を、地元の農協で作った。その農協口座に、私の持つ都市銀行の口座からローン全体の金額を入金し、毎月の引き落としをした。
▽そしてまた転勤となり、埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤になった。さらに会社を辞めたが、ローンの引き落としは続いていた。その農協の口座はローンが終わるまでそのままにした。幸い私の現在の住んでいるさいたま市にも農協のATMがあり、1000円単位でカネをおろして、残高は数百円になった。
▽ただし、解約は出来なかった。佐渡市の農協に通帳を送る必要があり、その書留料金を考えると、解約する方が料金が高くなってしまうのだ。
▽こうして私の手元には数百円が残る各銀行の通帳が何冊も残った。このまま放置すると、自動的に国庫に流れるのだろう。
▽転勤族というのはこういう無駄なことをやっていることを、本社の人間は知らない。知ろうともしない。
▽無駄な残金数百円の通帳だ。


★864電話は鳴る前に取る支局員教育(2026/04/06掲載)

▽会社にかかってきた電話を取れない支局員がいたので驚いたことがある。本社制作局から配転して初めて新聞記者になった人間だった。40歳近くになっても、満足に電話も取れないのかと驚愕した。
▽私がある支局長として経験したことだ。電話が鳴ったので、電話を取らない支局員に注意した。
「早く電話を取れよ」
と声をかけた。するとその支局員、受話器を取るなり、こう話し出したのだ。
「はい、もしもし」
と大声で電話を取ったのだ。
▽私は驚いてしまった。電話を満足に受けることすら学んでいないのかと思ってしまった。
▽私はその電話が終わってからその支局員に注意した。
「はい、もしもし、ではなく、はい朝日新聞です、だろう」
▽そう話すように説明した。
▽この支局員、これまでの人生の中で、電話を取ること自体、今までやっていなかったのだろう。同じ新聞社とは言え、現場の新聞記者と内勤の制作局の仕事は全く違う。本社の内勤なら、外部からの電話を取ることはほとんどないからだ。逆に、地方の支局の記者たちは電話は山ほど来るから、否応でも電話を取らざる得ない。電話が鳴ったら、まずは一番に取らなくてはいけないのだ。電話を取れない支局員など要らないとさえ私は思っている。
▽考えてみれば、朝日新聞は地方支局の場合、電話を真っ先に取る訓練を自然としている。電話が鳴ったらとにかく取る。県庁所在地だと支局員数は当時10人ぐらいだから、だれかしら電話を取ることになる。
▽こんな話を同業者の読売新聞の知り合いに話したら、読売新聞も同じような教育をしていた。
「電話が鳴る前に取れ」
と言われたと言うのだ。
▽新聞社にとって電話は生命線の一つだ。内部情報を教えてくれるタレコミかもしれないし、事件事故のお知らせかもしれない。電話を取るのは大切な取材の一歩なのだ。
▽だから冒頭のように、電話を取れない支局員の姿を見て、私は驚いてしまった。訓練させるしかないと思った。それ以来、私はこの支局員が電話をすぐに取るよう、何回も何回も指示した。身体で反応するしかないのだ。
▽そしてもう一つ、朝日新聞にはルールがある。
「はいも朝日新聞」
と電話を取ったならば、相手が知り合いの場合は自分の名前を名乗ると言うことだ。
▽例えば私が電話を取った場合、
「はい、朝日新聞」と言い、相手が名乗ってきたら、
「はい、原です」
と言うように答える。このルールは、朝日新聞に私が入社した時には出来ていた。
▽だれもが教えてくれるわけではなく、自然にそういうルールが出来上がっていた。自分を名前を名乗るということはそれだけ仕事がスムーズに行くということになる。
▽私が北海道新聞から朝日新聞に転職した時、この暗黙のルールを知って素晴らしいと思った。そして私もそのルールに従うようになった。電話は真っ先に取る。そして相手が知り合いならば、自分の名前を乗る。これが朝日新聞の暗黙の電話のルールだった。
▽しかし、それが最近私が退職する前、少しずつルールが守られなくなっているのが気になっていた。


★863支局の駐車場探しに苦労した朝日新聞東埼玉支局時代(2026/04/03掲載)

▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時、苦労した仕事の一つに、駐車場探しというのがあった。支局長の私が、なぜこんなことまでしなくてはならないのか、と思いつつ、駐車場探しをしていた。朝日新聞東埼玉支局の特殊事情があった。
▽新聞社の地方支局というのは、通常、建物と駐車場がセットになっており、支局長の私や支局員が支局に上がってくる際は、その支局にセットになった駐車場を使うだけなのに、朝日新聞東埼玉支局にはそれがなかった。民間駐車場を年間契約して使っていただけだった。
▽その理由は、支局の場所が、JR武蔵野線南越谷駅と東武伊勢崎線新越谷駅に近い場所にあったことと無関係ではない。朝日新聞東埼玉支局は埼玉県東部地区の読者層を増やそうと、新たに開設された支局で、駅に数分で行けるビルの一室を借りて、支局とした。しかし、ビルそのものに駐車場も立体駐車場もなく、開設した当時から、支局長と支局員用の駐車場スペースを民間駐車場から借りるという方法を取ってきた。当時の支局長と2人の支局員の計3台分を借りていた。しかも同じ駐車場ではなく、バラバラの民間駐車場から1台分ずつ借りるという、非効率的な契約だった。
▽これが、長い間続いていたが、ある時、支局員の人数が一人減らされた。これに伴って、契約駐車場も2台分に減らされた。そして、月日がたち、今度は在宅勤務する支局員が出てきたため、駐車時の契約は2台のままだった。いずれも私がこの朝日新聞東埼玉支局に赴任する前の話だった。
▽そして私が支局長になって翌年、この在宅勤務の支局員が異動し、若い記者が転勤して来て、再び3台分の駐車スペースが必要になった。
▽もう1台分の駐車場が必要になる。そう思って、私は支局周辺の不動産業者を回った。しかし良い物件はなかった。駅近くの駐車場で年間契約できる物件がなかったのだ。
▽かなり回って、やっと見つけたのは、支局からやや遠い場所の民間駐車場だった。仕方ない。ここにしようと思って、本社の担当部署に相談し、契約は本社に任せた。本社は駐車場探しに一切タッチしくれなかった。
▽この新しい契約の駐車場を私は使うことにした。契約以来、私は自宅から支局にマイカーで行く場合、この新たな駐車場に止めて、やや歩いて支局に上がるようになった。支局に近い物件は最後までなかった。
▽朝日新聞東埼玉支局を開設した時に、本社は支局にセットになった駐車場を確保すべきだった。それをしなかったのは、怠慢そのものだ。地方支局にとって、マイカー取材は必需品だ。そのマイカーを支局近くに止められないのは、時間の無駄にもなる。
▽何日も何日もかかって、民間駐車場の空き物件を探すというのは、新聞記者本来の仕事ではないだろう、と私は思った。本社の担当者の仕事ではないのか、と思った。ただし紛争被災地や災害被災地で支局を開設する場合は、そうした物件探しから始まるわけで、すべてを否定する気になれない。
▽しかし、本社も、そして県庁所在地のさいたま総局の総局長が、見て見ぬふりをして、そうした雑用に支局長の私が振り回されているのを放置しているのは、いかがなものか、とも思った。支局長の仕事は雑用、と言ってしまえば、それまでだが、当時のさいたま総局長はこうした準支局の支局長にも、原稿の量を求めていた。そしてそれを査定に使った。軽蔑したくなる人間だった。

▽たかが駐車場探しだが、こんな雑用ばかりこなしていると、次第に不愉快になってくるのも事実だった。


★861シニア記者に無給の夜勤を要求された秩父支局時代(2026/04/01掲載)

▽シニア記者にはきつかった無給の夜勤勤務の話を記そう。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局から埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤になる際、さいたま市の朝日新聞さいたま総局で夜勤の勤務をさいたま総局長に要請された。月平均3日、さいたま総局に夕方上がって、夜勤の勤務に就け、という内容だ。
▽既に私は会社との契約は定年を終えて、1年契約のシニア記者になっていて、夜勤も泊まり勤務も対象外だった。しかし若手記者の人数不足とシニア記者の増加で、さいたま総局での夜勤や泊まりの勤務ダイヤが回らないとして、かなり強い要望だった。私は仕方ない、と思ってそれを受け入れたが、県内に6〜7人いたシニア記者の多くが反対した。労働強化であり、夜勤が無給だったこともある。しかし結局は押し切られた。
▽新聞社には泊まりという勤務がある。夕方にデスク席に着席し、デスクの補助の仕事をこなした後、文字通り会社に泊まって早朝に起きて、夕刊の最終版降版時間まで縛られる勤務だ。睡眠時間は短く、年を取るに従って、かなりきつい仕事になっていく。この泊まり勤務とは別に夜勤というローテーションもあった。こちらは朝刊の早版作業が終われば開放される勤務だ。
▽私の場合要請された夜勤の勤務は、夕方5時にさいたま総局のデスク席に座る。このため、私は朝日新聞秩父支局を午後1〜2時過ぎには出て、電車かマイカーでさいたま総局に向かう必要があった。デスク席に座れば、夜の11時まで拘束された。この間、県内各地から出てきた原稿の点検作業を進める一方、定時刻に警察署に警戒電話を入れて事件事故の点検を行う。泊まり勤務の場合はさらに起きていて、朝刊最終版の降版時間である翌日の午前1時半まで拘束される。その後泊まり部屋で睡眠をし、午前6時に起きて、各紙朝刊チェックと夜中に発生した事件事故の処理をしなくてはならない。昼を過ぎて午後1時半の夕刊最終版降版時間まで拘束される。
▽このようにさいたま総局では、夜勤と泊まりの記者がそれぞれ配置されて、2人でデスクをサポートしていた。泊まりの勤務の方が当然、肉体的にはきつく、会社から泊まり勤務手当が出たが、夜勤の記者には手当が全く出なかった。
▽新聞業界の斜陽化で新人記者の採用人数が減らされて、地方での記者は次第にベテランが増え、若手が減っていった。このため、本来はベテランには行っていなかった夜勤もするようになってしまったのだ。これが実態だ。
▽総局長の夜勤勤務の提案に対し、ほとんどの記者が反対した。そもそもシニア記者の給料は安く、ただ働きである夜勤をすることへの反発だった。私はあえて反対しなかったが、何人かのベテラン記者はかなり激しく反発した。手当てもないのに、なんで勤務時間を伸ばすのかという、もっともな反発があった。しかしこの提案をしぶしぶ受け入れて、夜勤勤務が始まったのだ。
▽だから私は秩父支局時代の3年間、ただ働きの夜勤勤務をずっと続けてきたことになる。文句は言わなかった。これが新聞社だと思っていたためだ。
▽それまでの朝日新聞社は泊まりや夜勤の勤務を50歳までとしており50歳以上の人間は体力への消耗が激しいと夜勤や泊まりをさせなかった。賢明な判断だと思う。
▽私の場合50歳になる前、北海道報道部でやはり泊まり勤務をしていた。北海道報道部の場合、朝刊も夕刊も最終版の降版時間が遅くて、デスク席で泊まり勤務を解放されるのは午前2時10分だった。それが終わって仮眠部屋で仮眠し、朝6時に起きて各紙の点検と事件事故の警戒をしていた。午後2時過ぎまで夕刊デスクのサポートをして、解放されるのが午後2時過ぎだったから、かなりきつかった思いがある。
▽こうした泊まり夜勤を、「働き方改革」で朝日新聞が次第に地方を中心に減らしていったのは、今から10年ほど前だろうか。東北の地方総局では、泊まり勤務そのものをなくして、夜勤と早出だけのカバーで事件事故を警戒していると聞く。
▽しかし一方で本社では簡単に泊まり勤務をなくすことができない。新聞社で泊まりや夜勤をなくしてしまったら、朝刊に入るはずの事件事故のニュースも入らなくなるのだから。泊まり勤務は減らすことはあったとしても、絶対なくならない宿命なのだ。とても年寄りにはできない勤務だ。



★858転勤と引っ越し続きだった私の新聞記者生活(2026/03/27掲載)

▽春は転勤と引っ越しのシーズンだ。私は北海道新聞に7年、朝日新聞に33年余いて、転勤と引っ越しに明け暮れたサラリーマン生活だった。時に引っ越しには泣かされた。
▽朝日新聞の場合だと、異動時期は年に2回、4月と9月だった。4月1日付の人事異動は2月に入ると、地方支局の人事異動の構想が始まり、それが固まると2月の終わりに本人に内示される。だから人事異動を原案を作成している部署の責任者は忙しくなるし、転勤対象とされる人間は、「今度は自分か」とそわそわとしてくる。異動するのか異動しないのか、サラリーマンにとっては大切な時期だ。
▽多くの人間はそれに従って引っ越しの準備を始める。しかし、一部の人間は反発し、「行きたくない」と駄々をこねて揉める。親の介護とか子供の教育とか、病気を抱えているとか、いろんな理由で拒否する人間も多い。特に女性記者が揉める。特に本社から地方に異動内示が出ると、かなり揉めて、最終的にその内示は取り消されることがあるが、その時は記者職を外されて、編集以外の部署に移っていく。
▽私はほとんどの場合、転勤の内示をそのまま受け入れた。どこへ行こうが仕事はあるし、行けば行ったで、仕事を楽しめば良いのだと思っていた。
▽転勤に伴う引っ越しで一番困るのは家探しだった。私が北海道新聞を辞めて朝日新聞に転職した時に、最初の赴任地である浦和支局(現さいたま総局)での家探しも苦労した。東京地方は当時、バブル経済が始まっており、やたらに賃貸マンションの家賃が高かったのだ。地元の不動産会社に行き、物件を数軒紹介してもらったが、家賃が異様に高かったことを思い出す。札幌時代に借りていたマンションの家賃価格の2倍になり、面積が2分の1になった古い賃貸マンションを借りた。当時で既に3DKで16万円もした記憶がある。こんなに高いのかと私は驚いてしまった。
▽次には宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜支局から東京本社に上がった時もそうだった。東京の中心部は家賃がとても高くて住めないので、やはり浦和市を中心に物件を探した。
▽そして浦和市と戸田市の境界線に近いJR北戸田駅に近い賃貸物件を選んだ。ここも家賃は高かった。バブル経済が続いていて、物件が全て高いのだ。東京本社では社宅は何軒か用意されているが、すぐに埋まってしまい、私のような新参者が入居することもできなかった。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局から北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部に転勤になった時も、家探しに苦労した。札幌市の中心部の賃貸マンションはやはり家賃が高く、地下鉄で20分ほどの賃貸マンションを選んだ。もっと会社に近いところと思っていたが無理だった。その時も不動産会社に紹介されて物件を回ったが、あまり良いところがなかったことを思い出す。
▽他社は分からないが、朝日新聞の場合、物件探しはすべて転勤を命じられた人間が行う。会社のサポートは全くない。
▽さらに言うと、朝日新聞の場合、転勤が決まると引っ越し先の家を探すその移動手当が出ない。自腹で現地に往復して、家を探すしかないのだ。遠ければ遠いほど、移動時間も料金もかかるから、とんでもない出費となる。
▽借りた物件に電灯や電気製品がない場合は、それを揃える必要もある。
▽転勤に伴う引っ越しは、引っ越し貧乏という言葉となって現れてくる。ちなみに私は16回の転勤をした。


★855意気がって記者が放ってはいけない言葉(2026/03/23掲載)

「もう原稿を出さないぞ」
「原稿を書かないぞ」
▽こう、デスクに向かって告げる記者を時折見かける。デスクに直接ではなく、デスクには聞こえないような場所でこっそりと話す記者もいる。多くの場合、中堅記者の記者で、書いた原稿の扱いが悪いとか、原稿を悪く書き直したという場合に、放つ言葉だ。裏には「俺が原稿を出さなければ、デスクが困る」という意識がある。だからデスクを困らせたいために出てくる言葉だ。
▽私も地方支局や北海道報道部で、時折見かけた。
▽デスク批判をする中で、出てくる。
「もう記事を書かないぞ」
と脅す。否、脅したつもりになっている。
▽私からすると、
「何言ってんだろうか」
と思ってしまう。
「お前さんが原稿を出さなくても、だれも困らない。原稿を書きたい記者が多い」
と反論もしたくなる。
▽こういう、「原稿を書かないぞ」と強調する記者のほとんどが、実はふだん、あまり原稿を書いていないし、特ダネもない。根拠のない自信があるかだから、脅したつもりになっていたとしても、デスクには脅されたという受けた目はしていない。むしろ、デスクからすれば、
「どうぞ、お好きに」
と反論するだけでいいのだ。
▽私も実際に、ある支局長時代に部下の女性中堅記者から、同じような言葉を言われたことがある。
▽しかし私は何も答えないで、うっすら笑っただけにした。
「結構です、書かなくても、困りません」
と心の中で反論した。
「こいつ、自分が相当、優秀な記者だと思い込んでいて、自分が書かないとデスクが困ると思っているのだろう」
▽私は笑ってしまった。何を根拠にそんな自身があるのだろうか。日々の紙面作りで、どれだけ記事を書いているのかは、私がすべて知っている。あまり原稿など書いていないのだ。だから、書かないと言われても、何も困らないのだ。
▽重要なことを記しておく。
▽記者が「原稿を書かない」と宣言するのは、自分の首を絞める事だと言うこと。記者ではなくなることを意味する。記事を書かない記者は、記者ではない。そのことに、「原稿を出さない」と宣言した人間は気づいていない。
▽脅したつもりで放ったこの言葉は、記者終了宣言に等しい。地方で時折この言葉を聞いてきたが、さすが本社では聞いたことがない。放った瞬間から、その記者は永遠に編集局から外される。


★854警察署長宅の地図を送ってきた女性県警担当記者(2026/03/20掲載)

▽私がある支局の支局長をしている時のことだ、管内で殺人事件があり、なかなか容疑者が特定されない日々が続いた。もちろん朝日新聞も情報が取れなかった。焦ってきた県警担当の女性キャップが、私の支局宛に、管内の所轄警察署の署長官舎の地図をファクスで送ってきたのだ。この意味が分かるだろうか。そう、署長宅を夜回りしてください、という一種の命令、要請だった。これには私は苦笑いしてしまった。
▽一般に殺人事件が発生すれば、その所轄に捜査本部が出来る。本部長は県警の刑事部長や管理官などが当たる。現場の署長も捜査本部の幹部として名を連ねる。捜査本部には県警本部捜査1課の捜査員と、所轄署の刑事課の署員が合同で捜査に当たる。そこまではだれでも分かるだろう。
▽しかし問題はその捜査の過程で得た情報が、捜査本部としてどう機能していくかだ。大切な情報ほど情報漏れを嫌い、一部の捜査員、一部の幹部にしか伝わらず、容疑者逮捕に繋がる情報は捜査本部の一部幹部にしか分からない。情報のピラミッドなのだ。
▽だから、県警担当記者はこの情報のピラミッド内を自分なりに探り当てて、容疑者に繋がる情報を自分で取るしかないのだ。
▽つまりだ。所轄の署長が重要な情報を握っているとは限らない。そうである以上、所轄の署長宅に夜回りをかけても、情報など簡単に取ることは出来ないのだ。
▽こんなことを当時の県警担当の女性キャップは知らなかった。要するに、この女性担当記者は、県警幹部の情報を取れなかったことを、自ら暴露したことになる。経験不足と言えば、経験不足だ。苦笑いをしたのは、このためだ。
「この子、何も分かっていないな」
と私は思った。
▽だからこのファクスを受け取って、支局員に渡したが、私は無視をした。
▽私も若いころ、サツ周りを無茶苦茶した時代がある。その経験で言うと、所轄警察署で殺人事件の情報を取ることはあまりない。県警本部の幹部に直接夜回りをして、情報を取るしかないのだ。それを分からないで、所轄のある支局に発注する発想がおかしい。
▽具体的には、首都圏で発生した連続幼女誘拐殺人事件を振り返れば分かることだ。1人が不明になり、2人目、3人目が不明となり、三人目の女児が遺体で発見された。すべて所轄が違った。担当していたのは県警刑事部の幹部だった。私は当時朝日新聞浦和支局で県警担当のキャップをしていた。すべては県警関係者から情報を取り、特ダネにしていった。裏が取れない情報は記事にしなかった。所轄情報など全くなかった。これも県警の情報ピラミッドのなせる技だ。
▽現場で得た情報が、県警内部ではどんな受け止め方をしているのか。丁寧に取材を続けるしかない。夜回りを拒否されようとも、朝駆けを無視されようが続けるしかない。サツ周りは甘くない。情報は簡単には取れないのだ。
▽逆にそのピラミッド情報を誤って取ったために、リークに乗せられて、偽情報を書いたのが読売新聞だ。これも歴史的事実だ。
▽県警がどのように動いていくか、見極めるには最終的に県警幹部の動きを注視するしかない。所轄の動きは無視してもいい。
▽私は彼女に後にこうした歴史を教えて、注意したいと思ったけど、まぁ無視することにした。発注の仕方で能力が見えてくると思った。
▽この女性記者は将来もこうやって、意味のない発注をするのだろうなと思ったから無視した。
▽その後、しばらくしてこの女性記者は編集から離れていった。

★847私は朝日新聞で最後の地方記者だった(2026/03/11掲載)

▽改めて書く。私は朝日新聞で最後の地方記者だった。
▽私は朝日新聞に33年5カ月勤務していたが、多くは地方勤務だった。本社勤務もあったが、地方勤務の方が長かった。そしてその勤務していた多くの支局、かつては「通信局」と呼んでいた支局はほとんど廃止されてしまった。ある意味で、朝日新聞では私は地方を回る最後の記者だったのかもしれない。
▽最初の振り出しは浦和支局だった。現在はさいたま総局と呼んでいる。この時、浦和支局以外に複数の記者を置いている準支局は、熊谷市の熊谷支局(後の北埼玉支局)、川越市の川越支局(後の西埼玉支局)だ。このほかには、県東部には越谷通信局と草加駐在、春日部駐在があった。県西部には所沢通信局、朝霞駐在、新座駐在もあった。県央には大宮通信局があり、上尾駐在があった。県北部には秩父通信局があった。記者数は総勢30人いた。部数も60−70万部出ていた。
▽それが30年以上が経った現代、残っているのはさいたま総局と所沢支局、春日部駐在ぐらいだろうか。そこまで縮小してしまっているのだ。県内取材網は完全になくなっている。朝日新聞埼玉版の題字下は通信網の連絡先を全く記さなくなった。
▽次の赴任地、宮城県塩釜市の塩釜通信局でもそうだった。仙台支局のほか、古河通信局や迫駐在、気仙沼通信局、石巻通信局などがあった。それが今では、仙台総局以外にほとんどがなくなっている。
▽私は本社を経て次の勤務地が新潟県上越市の上越支局だった。その時、新潟県には新潟支局や長岡支局、新発田通信局や佐渡通信局、六日町駐在などがあった。今では上越支局も廃止され、六日町にも記者を置いていない。佐渡支局も廃止されて上越支局もなくなった。柏崎支局だけは、原発があるため生き残っている。
▽次の勤務地が北海道報道部だった。現在は北海道報道センターと言う。この北海道内も取材網の縮小の嵐が続いている。最北端の稚内支局も廃止された。旭川市は複数の記者がいたが、現在は1人だ。網走に記者はまだ置いているが、北見にはいない。根室には残っているが、苫小牧や室蘭は支局を廃止した。釧路にはいるが、帯広にもいない。函館にも1人いるだけだ。
▽ここまでやるかというような、縮小だ。広い北海道の取材網がズタズタになっている。それだけ新聞業界の斜陽化が極端に進んでいるためだろう。
▽次に赴任したのが群馬県渋川市の渋川支局だった。当時は前橋総局のほか、高崎支局や太田支局があったほか、沼田支局もあった。かつては伊勢崎にも駐在記者が置いていた。ほとんどは廃止された。
▽私は渋川支局の次に本社に異動し、それから間もなくして、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に赴任した。当時は北埼玉支局も西埼玉支局もあったが、すべてなくなった。一人支局もほとんどがなくなった。
▽次に新潟県佐渡市の佐渡支局に勤務した。3年いたが、その後任OBが赴任した。その後支局は廃止されてしまった。実に嘆かわしい。
▽次に埼玉県秩父市の秩父支局に赴任したが、同様だった。私がここで記者生活を終えた後、秩父支局は廃止された。
▽こうしてみると、私が勤務した地方支局はほとんどがなくなった。その意味では、朝日新聞としては最後の地方記者だったのかもしれない。
▽だからあえて言いたい。こんなに取材網を減らして、全国紙と名乗っていて良いのだろうか。
▽東京だけに記者を残して集中するならば、もはや全国紙ではなく中央紙と言うことになる。
▽残念だが、新聞業界の斜陽化は止まらない。私はそれを実感する。
▽出世競争に敗れて、最後に編集幹部から地方の記者になるケースは何人もいるが、私のように地方をぐるぐる回っている記者は、もう出ないだろう。地方支局がないのだから。
▽その意味で、私は朝日新聞最後の地方記者だったことを誇りに思う。


★843伊香保温泉に来た友人らとの1泊(2026/03/05掲載)

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務している時だ。取材管内である当時の伊香保町(現渋川市)の伊香保温泉に友人ら一行約10人が遊びに来た。地元でも有名な老舗旅館に泊まり、宴を続け、翌日はうどんで有名な水沢うどんに寄って昼食を摂った。楽しい1泊2日の旅だった。
▽確か雪解けが始まった3月上旬のころだ。知り合いの弁護士一行が遊びに来た。オウム事件でも有名な弁護士、その事務員、支援者らだった。日々の仕事を忘れてもらおうと、知り合いの社長が経営する老舗旅館に予約を入れてもらった。江戸時代から続く老舗旅館で、伊香保温泉のシンボルである石段に沿って建物が並ぶ旅館だ。皇族も利用したことで知られる。
▽伊香保温泉の湯は、高温ではないから、嫌いでなければゆっくり長湯が出来る。夕方前に到着した一行のうちその弁護士は、外風呂の湯で1時間以上、私らと一緒に使って、残雪がある外の風景を楽しんでいた。
▽そして夜の宴会。ビールに日本酒、焼酎に料理。飲んで食っていた。
▽持ち込みは禁止なのに、ポットに日本酒を忍び込ませた輩もいた。そんな隠密行動は旅館に筒抜けだったが、見逃してくれた。
▽飲んで食って、大部屋でみんなで寝た。
▽翌朝は朝風呂だ。私と弁護士らが外湯に入り、ずっと浸かっていた。仕事を忘れて温泉に浸かるとはこういうことなんだと思った。
▽朝食を摂ってから、宿を後にした。
▽一行は一人が乗ってきたクルマと私のマイカーに分乗して、水沢うどんに直行。水沢うどんの店に入り、うどんを堪能した。みんな、
「うまい」「うまい」
と連発してくれた。
「予想外のうまさ」
と言った人間もいた。
▽そしてクルマは東京を目指して走り続けた。
▽こうして1泊2日の旅は終わった。
▽こういう外部との息抜きも必要だと、今になって思う。楽しい時間だった。

★841資源ゴミである古新聞を地方支局で出す苦痛(2026/03/03掲載)

▽新聞社地方支局で自宅兼事務所がある支局に勤務していると、一番困るのが古新聞の処理だった。支局近くに資源ゴミ回収の場所があり、定期的に回収してくれるならば、簡単だが、そうでないところもあり、古新聞の処理は結構時間がかかった。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務してる時は、まさにそうだった。支局近くに資源物を回収する場所もないため、車で20分も離れた清掃センターに持っていかなくてはならなかった。
▽切り抜きを終えた朝日新聞や毎日新聞、読売新聞、さらには地元の新潟日報の古新聞を紐で縛って持っていくのだが、新聞は結構重い。約厚さ10センチにして、古新聞の束を作り、紐で縛るのだが、それがいくつもできる。定期的に清掃センターに持っていくのだが、新聞をしばるという作業も、持っていく作業も結構時間がかかるのだ。
▽これが首都圏だったらば、近くに資源回収の場所があり、そこに持っていけばよかっただけだが、地方はそういうことがないのだ。
定期的に古新聞の束を作り、定期的にその束を清掃センターに持っていくのは、かなりの苦痛だった。
▽それが埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤すると、その作業から解放された。支局の敷地の一部が資源回収の場所に指定されていたため、古新聞の束はそこに運んでいくだけで良くなった。苦痛から解放された。
▽ただし、支局の敷地の一部が資源回収の場所に指定されていたため、近所から大量の資源ゴミが集まり、その部分が異様に汚れてしまい、掃除するのが、大変だった。資源ゴミの日に、燃えないゴミを出す人もして、回収車が無視してしまい、支局敷地内にそのゴミが延々と何日もおかれた事態もあった。
▽こうした、ささやかな、かつ苦労する作業を、本社の人間は全く分かろうとしない。ゴミ出しは苦労するに迷惑も受けた。よい記憶はない。


★839佐渡の酒あれこれ(2026/02/27掲載)

▽日本海の離島、新潟県佐渡市の佐渡島では酒造会社がいくつもあり、それぞれが個性的な日本酒を造り続けている。佐渡島の日本酒、あれこれを記したい。
▽佐渡の島民が通常の夕食でともにする酒が、「金鶴」だ。私は2015年5月から2018年8月まで佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していたが、一般家庭でも居酒屋でも多くの島人が好んで飲んでいるのが、この「金鶴」だった。癖のない飲み口で、冷やでも良し、燗酒でも良しとする、愛すべき日本酒というイメージが今でもある。
▽値段も通常の日本酒のレベルで、庶民の酒というべきか。私も愛飲していた。政府から佐渡市に出向した市幹部もこの酒を飲んでいた。1915年創業の加藤酒造店が製造している。ネットの紹介ではこう書いている。
《使用する米はすべて佐渡産。佐渡島内でも唯一の全量佐渡産米を使用している蔵です》

▽次に尾畑酒造。新聞などのマスコミでは時折取り上げられる酒造会社で、「真野鶴」などの日本酒を生産している。生産の6割以上を海外に輸出しており、航空会社でも機内でのサービスにこの酒造会社の酒を提供しているという。
▽朝日新聞佐渡支局がある両津地区とは正反対の真野地区にあり、片道1時間の道のりを車で走らせて、取材に行ったり、酒を買いに行ったりしていた。
▽尾畑酒造が取り組んでいるもう一つの酒蔵が、廃校となった旧西三川小学校の校舎を利用したもので、その日本酒名も「学校蔵」。確かにうまい酒だ。ただし地元での流通は少なく、東京の会社と契約し、東京での評判が高い。
▽そしてこの「日本一美しい夕日を見ることが出来る」というこの旧校舎を利用し、酒造りだけではなく、佐渡の将来を語り合うプロジェクトを展開している。
▽私はこんな記事を書いている。
《佐渡市の酒造会社、尾畑酒造の社長平島健さん、専務尾畑留美子さん夫婦が立ち上げた「学校蔵プロジェクト」は、同市の廃校になった小学校校舎を利用して造った酒蔵を舞台に、実際に酒を造り、その酒蔵で酒造りを体験してもらい、古い教室を利用して国内外の参加者を募った特別授業で講師役とともに佐渡や地方の将来を語り合う、夢ある事業だ》

▽逸見酒造。島内にある順徳上皇の火葬塚、真野御陵を由来に持つ銘柄「真稜」を製造している。ネツトではこう書かれている。
《複雑な酸とキレの良さがあります。もうひとつの銘柄「至(いたる)む果実を思わせるフルーティーな香りで首都圏でも人気》
「至」については、有名なミュージシャンが紹介したことから、人気を呼び、私も知り合いから送ってくれと言われたことがある。急に全国的に有名になった酒だ。

▽天領盃酒造の「天領盃」。軽快な飲み物だ。島民の一部が、愛飲している。
▽そして、北雪酒造。「北雪」のブランドで知られている。高級酒のイメージが強い酒だ。贈り物に使うことが多い。
▽ネットではこう紹介されている。
《全国的にも貴重な遠心分離機もそのひとつ。もろみを透明な酒と粕に分ける上槽という作業では、多くの蔵がヤブタ式という自動的に搾れる機械を使用しているなか、北雪酒造では遠心分離機で高速に回転させることで遠心力を利用して酒を抽出しています》

▽佐渡にはかつて、いくつもの酒造会社があり、次第に淘汰されて、当時は五つの会社が生産していた。それぞれに特徴があり、その個性を知りながら飲んでいた。魚もうまかったが、酒もうまかった。

★838地方では牡蛎の食い方が違う(2026/02/25掲載)

▽スーパーで買ってきた岡山産の生牡蠣を、酢牡蠣にして食った。日本酒に合う。うまかった。こんなことを書くは、私がかつて勤務していた地方支局で、牡蛎の食い方が違ったためだ。
▽松島湾の生牡蠣と、佐渡島の熱処理牡蛎。どちらもおいしかったが違いがあった。
▽宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤務していた時は、取材範囲である松島町の松島湾で養殖の牡蛎が捕れた。1年もので甘みがあり、小さかった。生牡蠣のまま食べるのに、ちょうどいい大きさだった。牡蛎酢か、牡蠣シチューにするか、牡蛎飯にするか、熱料理も試してみたが、やはり生のまま食う牡蠣がうまかった。
▽牡蠣と言えば、広島県も牡蠣の産地だが、こちらは2年物の牡蠣で、味が大味になってしまい、生で食うよりカキフライにするにはちょうどよかった。私は塩釜通信局時代に真冬に味わっていたので、やはり生牡蠣が好きになった。
▽これに対して新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局では、佐渡島に県内一大きな湖があり、ここで牡蠣が養殖されていた。大佐渡山地からの養分を含んだ川水と海水のプランクトンが交じり合う加茂湖での養殖だが、大腸菌数素が多く生牡蠣は禁止された。生では食べられないのだ。だから熱処理をしなければならなかった。スーパーで売っている牡蛎も、「熱処理用」と書かれている。
▽新潟県のホームページでもそううたっている。
《新潟県では、夏場にシーズンを迎える生食用殻付き岩かきによる食中毒を防止するため、「新潟県生食用殻付き岩かきの衛生確保に関する要綱」を制定し、漁業協同組合や卸売市場関係者と連携して安全確保を図っています》
▽それでも寿司屋で食った、その熱処理した牡蠣もうまかった。こちらも日本酒で飲んで食った。
▽最近は生牡蠣は怖いと言って敬遠する人も多いが、私はやはり生牡蠣が好きだ。冬になると、やはり牡蠣の季節である。酢牡蛎を食い、牡蠣鍋にして飲食を楽しみたいと私は思う。


★827自宅に届く朝日新聞地方版を見て覚える違和感(2026/02/10)

▽自宅に届く朝日新聞を読んで、最近違和感を持つのは地方版の紙面作りだ。紙面に占める1本の記事がやたら長いのだ。1本の記事が異様に長いため、残りの紙面は窮屈になり、短い雑報が入らない事態に陥っている。一点豪華主義と言えば聞こえが良いが、読者不在の自己満足的な紙面作りに陥っていないだろうか。
▽私はさいたま市に住んでいる。さいたま市に届く新聞は、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も地方版として埼玉版が掲載されている。そこでここ1年間気になっているのが、朝日新聞と毎日新聞の埼玉版の記事だ。アタマと呼ばれているトップ記事が異様に長いのだ。この結果どうなるか。1本の記事が長いために他の記事が小さくなり、結果として紙面が歪められているのだ。どうしてこんな作りをするのだろうか。
▽私のデスク当番の経験から言えば、地方版1ページの記事の行数は、計220〜250行だ。これに写真が数枚入る。この行数でバランスが良い紙面作りとなると、アタマの記事の行数は80〜100行で、カタと呼ばれる準トップ級の記事で50〜60行ぐらいが妥当な行数だ。第一、長い行数は読者に読まれないことが多い。これは経験則だ。
▽デスク当番に就くと、アタマは何にするか、カタは何にするか迷って、デスクワークをする。行数が長ければ、デスクの権限として原稿を削っていく。当然の行為だ。250行の原稿しか入らない紙面に、300行も400行も紙面化できない。紙面のバランス感覚も大切な要素だ。
▽それが最近の朝日新聞埼玉版のアタマの記事の行数が150〜200行もある。以前の約2倍の行数の記事が多くなっている。その分、他の記事が小さくなってしまっている。バランスの悪い紙面だと、最近は常に思う。学級新聞みたいな紙面なのだ。
▽なぜなのか。
▽理由は地方総局、朝日新聞の場合はさいたま総局の人員構成によることが大きいと私は思っている。過去と違い、今の県庁総局の総局員は、高齢化が進み、若手が少ない。中高年記者の多くが、本社から異動してきたベテランだ。そのベテランたちは、良くも悪くも問題意識を持っており、自分の専門分野を知っている。それ故、通常の雑報記事は書かないで、自分の専門分野の記事だけを書くようになる。専門記事の取材は時間もかかるから、それ以外の取材はしない。そう、完全な作家気取りになっているのだ。だから1カ月に1本も書かない記者が出てくる。実に燃費の悪い記者が揃っていることになる。
▽地方における記者の役割は、長い記事を書くことだけではないはずだ。地方を回って役所を回って議会を回って街を回って、雑報を書くことに尽きる。これができていないのだ。要するに役割が出来ていない。ここ数年の紙面を見れば、40年間の記者経験がある私にはよく分かる。仕事をしていないのが、手に取るように分かってしまう。
▽そしてデスクにも問題がある。こうした記者に注意をしないで、原稿をそのまま通していることだ。
▽250行の行数しか入らない紙面に、200行の記事を載せるとどうなるか。他の雑報はほとんど入らない紙面になってしまう。このことにデスクは危機感を持たないのだろうか。原稿を削ることもしなくなっているのだろうか。
▽どうしてこんないびつな紙面を作っているのだろうか。自分が専門のジャーナリストだと気取っているのではないかと思われる。長い記事を書くことで、自己満足してしまっているのだ。
▽これは何も朝日新聞に限ったことではない。以前にもこのホームページで書いているが、毎日新聞もそうだ。総選挙の最中なのに、東京都内であった狭山事件の集会の記事を長い行数で書いていた記者がいた。現代の戦争と言われる選挙戦、しかも総選挙の最中に、選挙取材をしないで、つまり現場を放棄して、狭山事件の集会を取材したことに、私は驚いてしまった。狭山事件の支援者や市民運動の人たちは喜ぶべき記事だろうが、総選挙の期間中にこうした集会に出て行く発想が、私には信じられなかった。職場放棄以外何でもない。新聞は市民運動の機関誌ではない。
▽本人は自己満足しているかもしれないが、こんなのは新聞記者ではないと私は思った。
▽かつて朝日新聞秩父支局に勤務していた時も、埼玉県内には勘違いしていたベテラン記者が何人かいた。ほとんど仕事はしないで、作家気取りになっているだけだった。選挙の期間中なのにゴルフに誘ったメールが全員に流れてしまい、失笑を買ったこともある。
▽何回も言う。新聞は多くの記者が絡み合って、紙面を作っている。一人だけの紙面ではない。多くの材料を提供していくのが、新聞の役割だ。作家気取りの記者の記事を読みたいとは思わない。
▽もしかすると朝日新聞も毎日新聞も地方から崩壊していくのかもしれないと私は危惧している。

★824離島・佐渡支局への赴任の決意(2026/02/05掲載)

▽新聞記者の最後は離島勤務が良い。そう自分に言い聞かせて、新潟県佐渡市の「朝日新聞佐渡支局希望」を会社に伝えたのは、私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時だった。60歳の定年も近くなり、離島での新聞記者はどう生活し、どう感じて原稿を書いているのか、体験したかったのだ。それが現実となったのは、2015年5月だった。私は退路を断って、日本海に浮かぶ佐渡島に渡った。
▽全国紙である朝日新聞は、地方に集材網を巡らせてある。全国の都道府県の県庁所在地などには、現在は「総局」と呼ばれている取材拠点があり、各地方都市には当時は通信局と呼んでいた取材網が点在していた。離島には佐渡支局のほか、沖縄県の那覇総局などある。ただし那覇総局は朝日新聞東京本社の社会部や政治部の指定席になっていて、入り込む余地はなかった。かつては長崎県厳原紙の厳原通信局などもあったが、数十年前に廃止されており、東京本社管内の離島支局は佐渡支局しかなかったのだ。
▽たまたまただが、私が勤務していた朝日新聞東埼玉支局の直属の上司がさいたま総局長で、後に本社地域報道グループ長に異動になり、私の人事を動かしてくれたようだ。そのことには感謝したい。
▽佐渡支局への異動が決まり、口が悪い同僚らは
「島流しに遭ったな」
と悪態をついたが、私にすれば、定年前の最後の勤務地を、希望通りに行くことが出来る、という満足でいっぱいだった。
▽さらに言うと、私が東京本社に勤務していた時に、たままた当時の環境庁(現環境省)を担当しており、佐渡に生息している国の特別天然記念物の野鳥トキの絶滅寸前が叫ばれており、何回か佐渡に取材に行っていることも、良かった。土地勘があったのだ。
▽人事異動が内示されて、私は引き継ぎのため、転勤前に一度佐渡支局に行き、前任者から引き継ぎを受けた。前任者は丁寧な引き継ぎを残しており、大変助かった。
▽こうして私は、人事異動発令日の1週間前に家具などをそろえて、引っ越し業者に荷物の搬送を依頼した。船の便があるため、引っ越しには1週間かかると言われたためだ。
▽私はマイカーに荷物を積んで、自宅を出た。
▽直接、関越道で新潟市に入り、そのまま新潟港からフェリーに乗り、佐渡の両津港に渡るルートが近いのだが、今回の赴任は、私がかつて勤務していた新潟県上越市の朝日新聞上越支局の跡地を見たかったこともあり、関越道と上信越道を走らせて、上越市に入り、そこの直江津港からフェリーで佐渡の小木港に渡った。小木港は佐渡島の南西部に位置する港だ。
▽小木港から両津にある佐渡支局はマイカーで2時間ほどかかった。
▽両津の旅館に1泊して、翌日、引っ越し荷物を支局で受け取った。引っ越しの荷物は、運送業者のリレーで行われて、最後はフェリーで地元の業者が配送した。
▽荷物を支局に入れて、配置して、ようやく佐渡での生活が始まった。
▽しばらくは東京には戻らないと覚悟を決めて、離島生活を始めたのだった。
▽そして最初に驚いたのは、翌朝の新聞配達時間が異様に遅かったことだ。朝日新聞も毎日新聞、読売新聞、地元の新潟日報の支局兼自宅に届くのは午前8時過ぎだった。さいたま市の自宅ですら午前5時前には届いているのに。しかも天気が荒れて、フェリーなどが欠航すると、新聞は届かなかった。さらにはスーパーの棚から食料費が消えていくのも分かった。離島故の生活環境の変化だったのだ。
▽こんな驚きと戸惑いから、初めての離島生活が始まった。


★821後輩記者の顔が分からなくなった新型コロナウイルス感染拡大(2026/02/02掲載)

▽私は2021年8月で朝日新聞を退職した。その前年、日本で新型コロナウイルス感染が確認され、全国的に猛威を振るい始めた時期だ。このため職場でもマスク着用を指示され、若い記者、特に新人や2年生記者の顔を満足に見ることもなく、会社を去ったことになる。名前は分かるが、顔をまともに見たことはないままだった。
▽私の最後の職場は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局だった。私はその3年前に新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局から転勤しており、この秩父支局が最後の職場になる予定だった。
▽既にシニア契約の記者となっていた私は、県庁所在地、さいたま市にある朝日新聞さいたま総局に月に数回、夜勤勤務をするよう命じられており、秩父支局からマイカー、または電車の乗り継ぎでさいたま総局に上がり、夕方から夜の11時までの夜勤をするようになっていた。
▽そのほか、数カ月1回、定期的な部会や、春や秋の人事異動に伴う部会もあり、1週間から10日の割合で、総局に上がっていた。最初は相方の泊まり勤務の記者や、取材から上がってくる総局員と雑談もし、名前も顔も覚えるようになった。
▽そんな時に発生したのが新型コロナウイルス感染だった。
▽記者全員にマスクを着用するよう、会社から求められ、私もマスク姿になった。さいたま総局でも全員がマスクをするようになった。以前から顔を知っているさいたま総局員やデスク、総局長は、マスクをしても問題なく会話ができたが、新型コロナウイルス感染拡大以降に入社した新人記者、転勤してきた記者、デスク、総局長の顔が分からず、会話にも躊躇した。だれに話しているのか、分からないためだ。
▽マスク同士の会話は、同じ職場にいながら、よそよそしい雰囲気を作ってくれた。会話が成り立たないのだ。顔が分かっている人間ならスムーズな会話が出来るが、顔が分からない人間に対しての会話はぎこちなくなり、会話も進まない。会話がないと取材のヒントも出てこない。
▽新型コロナウイルス感染拡大は続き、収束が見えない中で、私は退職する日が近づいた。私が退職することを報告する部会があり、さいたま総局員やデスク、総局長、県内支局の記者の前で挨拶したが、みんなマスク姿なので、私もぎこちない挨拶になってしまった。
▽部会が終わって、その場で簡単な飲食をして、お別れ会を開いてもらった。その時にようやくみんながマスクを外して、飲んで食べて、会話をした。しかし短時間のため、私は名前と顔を一致させることが出来ず、特に新人や2年生記者、そして転勤してきた記者の顔が分からないままだった。
▽だから、退社した今でも、何人かの記者の顔を思い出すことが出来ないでいる。朝日新聞の紙面で署名を見つけても、どんな顔だったのか、思い出せないでいる。
▽何人もの人間の顔を知らないまま、私は退職したことになる。


★816ベテラン記者による市長選予定稿の失敗(2026/01/26掲載)

▽ある北関東の市長選で、ベテラン通信局長が大誤報を出したことがあった。無投票当選という予定稿を書いたら、立候補届け出の締め切り直前に、別の立候補者が現れて、選挙戦になってしまった。これを確認せず、知らなかった当の通信局長はそのまま予定稿を解除したため、翌日はお詫びと訂正を出したという内容だ。今回はこのケースを検証してみよう。

▽この市長選は現職が早い段階で再選を目指し、立候補表明を市議会でしていた。
▽通常の市長選は、現職が市議会本会議で市議の質問に答える形で、立候補を表明する。他の新顔候補は事前に会見を開いて、立候補表明をするほか、事前の説明会に出席し、立候補の意思を明らかにする。この場合、マスコミ各社はこの説明会で確認し、どのような選挙戦になるのかを判断する。
▽この市長戦では事前説明会でも現職陣営しか出席しておらず、朝日新聞も含めて選挙の直前まで、現職が無投票再選するという構図を描いていた。
▽選挙取材は事前の準備が多い。現職の立候補表明のほか、事前の説明会に出席した候補予定者には調査票という空欄の履歴書を配布し、履歴を書いてもらう。そして予定稿を書いていく。
▽最初の予定稿は告示日2日前だ。「あす市長選告示、○○市長選」という原稿だ。その中で、現職候補以外に他の候補の動きがなく無投票で再選されるという見込み原稿を書いて、翌日の朝刊地方版に紙面化した。
▽そしてその2日後の告示日当日。立候補届け出の受け付けは午前8時半から始まり、午後5時まで続く。実際には現職陣営だけが8時半に届け出を済まし、朝の第一声を挙げた。ちなみに前日の「きょう告示▽○○市長選」という記事は一般の市長選では書かない。
▽当の我が朝日新聞通信局長は既にデスクに出している予定稿「現職が無投票再選、○○市長選」の確認作業を進めるため、本来なら市選挙管理委員会にこまめに電話を入れて、「他の候補者の届け出はないのか」とチェックする必要がある。
▽後は午後5時までに他の立候補がなければ、予定稿を解除する連絡をデスクに出して、予定稿をそのまま掲載することになる。
▽この場合、こうした無投票当選の場合の予定稿は、午前8時半の届け出以外にない場合は、夕刊や朝刊の降版時間に従って何回も選挙管理委員会に電話を入れて、他の候補がないかどうかを確認していく。おそらくこの通信局長も選挙管理委員会に何回か電話で確認したのだろう。
▽しかしだった。そこに大きな落とし穴があったのだ。午後4時55分になって、全く予想もしなかった新顔候補が届け出を行ったのだ。締め切り直前の立候補届け出だった。
▽これで選挙は現職と新顔の一騎打ちとなる。選挙戦となったのだ。
▽しかし当の通信局長は夕方午後5時過ぎに警戒電話をしなかった。無投票再選だと信じ込んでしまい、他の候補者への警戒を怠った。
▽つまり、5時過ぎに選挙管理委員会に警戒電話を入れていれば良いのに、それをしなかった。新たな立候補者がいることを全く知らず、デスクに予定校解除したと連絡したのだ。
▽予定稿はそのまま使われ、翌日の朝刊地方版に「現職が無投票再選」という記事を掲載してしまった。しかし、実際は選挙戦が始まっていたのだ。同業他社の読売新聞や新聞は「現新対立」という選挙戦が始まったという記事を載せていた。明らかに通信局長が最後の最後に詰めの作業を怠ったた、大誤報となってしまったのだ。
▽デスクも通信局長がベテランだからといって遠慮せず、夕方5時になったら、再度の確認電話を入れさせて、他の候補者がいないかどうかチェックさせるという指示をすればよかったのだ。
▽この誤報の教訓は、選挙管理委員会にはまめに電話を入れて警戒し、夕方5時までに新たな立候補がいるのかいないのかを確認するという作業を怠ると、大誤報につながるということだ。
▽翌日、県庁所在地の支局長はこの通信局長を注意し、お詫びと訂正の記事を掲載した。
▽選挙戦では事前の取材が全てだが、このようにこまめな確認作業をしないと、誤報につながるというと言うことだ。他山の石としたい。

★813取材のイロハなんて、あるはずがない(2026/01/21掲載)

▽取材のイロハなんて、あるはずがない。私は40年間の新聞記者時代を振り返って、こう断言する。記者は一人一人、個性や性格、好き嫌いも加わって、10人いれば、10通りの取材方法がある。取材のイロハは、各自が少しずつ、取得していくしかない。教えることはできないのだ。
▽私がある地方の支局長に勤務していた時のことだ。正直言って記者に向かない中年の支局員がいた。何をしてもトラブルを起こすし、取材も満足にできない。だから原稿も満足に書けなかった。
▽そんな彼が、最後になって第三者に、こう愚痴をこぼしたのを後に知った。
「原さんは、取材方法を教えてくれない」
と。
▽私はその話を聞いて、
「えーっ」
と思ってしまった。
▽最後まで、この支局員は何も分からなかったなと思った。分かっちゃいないと吐き捨てたくなった。
▽私自身、上司や先輩に、取材手法のイロハを教わったことは全くない。40年間、試行錯誤で取材を続けてきた。だれからも学んだこともない。
▽事件事故があれば、現場に行け、と指示が出されて、現場に行き、現場で警察官や関係者に話を聞いて、周辺の聞き込みをして、それをメモにした。そこに上司も先輩もいなかったから、独り相撲のような様相だった。何回も取材現場に行くようになり、警察官の名前や顔を覚えていき、私の顔と名前も覚えてもらうようになった。現場から警察署に戻り、刑事部屋に行き、雑談をしながら、事件事故の概要を聞き出そうと努力をしていった。
▽そのうちに、知り合いの刑事宅に夜回りをかけるようになり、取材手法が私なりに確立されていた。刑事宅がどこなのかを聞き出す手法も、自分で編み出した。この夜回りだって、自分で始めたことであって、上司に支持されたことも、先輩に言われたこともない。自分から進んで行った。
▽警察担当ばかりではない。行政取材だってそうだった。市議会を回り、首長や市役所幹部を回る。雑談をしながら、記事になりそうなヒントを得ていく。
▽私の記者としてのスタートは1981年4月。北海道新聞小樽支社報道部だった。担当が2年間の警察署から市役所に代わって、当時大問題になっていた小樽市の小樽運河埋め立て論争が続いていた。歴史的遺産である小樽運河を潰して、バイパスを造るのか、それとも全面保存をして運河を後世にも残すのか、市議会でも大論争になり、市民運動グループと行政が全面的対立した。街づくりの大論争だった。そんな状況で私は市民運動のグループに食い込んで、取材を続けた。
▽小樽運河問題は全国から注目され、当時の北海道知事横路孝弘も現地に乗り出して、調整作業に入るという過熱ぶりだった。
▽そんな取材でも、私は上司や先輩から何の指示もされることなく、取材を続けて記事を書いていった。市民運動の会合が終わるのは毎日夜9時過ぎ。そこからメンバーに取材をかけて、証言を集めて記事にした。最後は特ダネも取った。
▽もう分かるだろう。取材のイロハなど、一人一人が確立させるものであって、教えるものではないし、教わるものではない。強いて言えば、失敗談は話してもいいかもしれない。
▽記者としていい記事を書きたいなら、取材を粘り強く続けることだ。試行錯誤の末に、自分なりの取材手法が確立できる。先輩や上司に甘えるなと言いたい。
▽ついでに書くと、冒頭で甘えた愚痴をこぼしたその当時の支局員は、最後は窓際部署に異動し、退職していった。何も分かってくれなかった。


★810総選挙を甘く見ていた支局員の失敗(2026/01/16掲載)

▽首相が衆院を解散し、総選挙となると、新聞社は多くの部署で忙しさが倍増する。どの選挙で誰が当選するのか、取材を通して予想し、選挙結果の大勢を方向付けていく。総選挙のいやらしさは、小選挙区の「当打ち」だけではなく、比例区における復活当選があるため、投開票日の翌朝まで最終的な結果が分からないことだ。実に悩ましい取材だ。
▽私がある地方の支局に勤務していた時のことだ。ある支局員が、小選挙区担当記者として、「当打ち」を終えて、そのまま勝手に帰宅してしまったことがある。帰宅したことに気づかなかった私は、翌日になって、そのことを知り、驚愕した。当打ちした候補者とは別の候補者が、比例区で復活当選して、その取材を全くしていなかったのだ。復活当選の予定稿すらなかった。選挙を甘く見ている証拠だった。
▽私は過去40年間の新聞記者生活の中で、多くを地方勤務に費やしてきた。だから総選挙となると、地元の小選挙区担当として、当落の予想取材を続けてきた。
▽選挙区の選挙は意外に難しい。地元首長や県議、市議、村議、地元有力者、支持者、支持母体、支援団体、労組などを回って、どの候補がどのくらいの票を獲得するのか、予想していく。過去の実績を元にして、今回の選挙ではどの程度の得票率があるのか、予想していく。そして選挙投開票日の前日には、予定稿を作ってデスクに出す。
▽予定稿ではA候補が当選の場合は、その得票の背景を描いていく。B候補が当選の場合も、同じく得票の原動力を書いていく。事前に世論調査や出口調査結果が出ている場合は、それを参考にしていく。予定稿は一つの選挙区に最低でも2本、候補者が乱立している場合は3本以上の原稿が必要だ。
▽ここで注意しなくてはならないのは、この予定稿では、「A氏落選」とか「B氏落選」とは絶対に書いてはならないことだ。小選挙区では一人だけ当選するシステムだが、比例区に重複候補をしている場合、小選挙区で負けても、比例区で復活当選する可能性があるためだ。
▽特に地方版の場合、本紙全国版に比べると、締め切り時間、降版時間が早いため、比例区の復活状況を紙面に載せることができない。地方版で「落選」と打てないのはそのためだ。候補者本人も、当打ち担当者も、最終結果が出る比例区の数字を見るまで、目を離すことができないのだ。
▽選挙区の選挙報道が難しいと書いたのは、以上の理由による。「当打ち」は出来ても、「落選打ち」は出来ないのだ。
▽だからこそ、上記のように支局員が勝手に自分の判断で帰宅してしまい、復活当選の取材が出来ないというのは、言語道断という言葉に尽きる。
▽その時、復活当選した当事者は、その日の夜に記者会見を開いた。しかしその支局員はその会見に行くことも拒否して、周囲を驚かせた。
▽選挙は甘く見ていた記者の失敗だった。私は注意することも、呆れて出来なかった。

★809新聞記者として言ってはいけない一言とは(2026/01/15掲載)

▽新聞記者として、職場で言ってはいけない一言を羅列してみた。私の40年間の記者生活から、まずはこの5本の言葉を選んだ。

「彼は優秀だ」
「彼を育てたのは、私だ」
「私はお金に困っていない」
「私は仕事をしている」
「取材方法を教えてください」

▽まずは、「彼は優秀だ」という一言。
▽入社したばかりの新人記者や2年、3年生記者を評して、こう言う人間が時折いる。後輩や部下に対して評価しているように見えるが、実は、全く違うことを暗にほのめかしているのが実情だ。
▽職場で人を評価するということは、評価する側に、ある程度の能力がないとできない行為だ。つまり、評価される人間に対して、自分がいかに優秀かを暗に悟って、それを無意識か意識してか、述べているに過ぎない。つまり査定する側に自分がいて、自分が優秀であることをアピールしているのだ。他人を評価しているようで、実は自分が偉い、ということを暗に話しているのだ。
▽こう発言する人間に対しては、注意した方がいい。単にうぬぼれているだけだ。

▽次の「彼を育てたのは、私だ」という言葉。
▽地方支局でキャップやデスクが時折使う言葉だ。優秀だと評価されて、本社に上がった若い記者を称して、キャップやデスクが、こう同僚に話すのを、私は何回も聞いている。
▽しかし、だ。キャップやデスクとの関係など、地方支局ではわずか1年か2年間の付き合いに過ぎない。それを、「自分が育てた」と勘違いする人間がかなりいる。
▽新聞記者は自分で努力して、自分なりの取材方法を確立して、自分で育っていく動物だ。キャップやデスクの指導で成長する部分は、非常に少ない。「彼を育てたのは、私だ」と勘違いしている人間が、朝日新聞には多すぎた。

▽嫌らしいのが、「私はお金に困っていない」という一言だ。
▽だれも聞いてないのに、自分の家庭状態を話したがる記者がいる。自宅に床暖房を取り付けたとか、屋根に省エネの太陽光パネルを取り付けたとか、さり気なく、カネがあることを自慢したうえで、こうのたまうのだ。「私はお金に困っていない」と。それはそうだろう。自分の両親が住む敷地内に自宅を建てて、婿をもらっているのだから。カネに余裕があることを言いたいため、この言葉が出てくる。だれに聞きたくないのに、「私は裕福な家庭です」と言っているようで、私は不愉快だ。

▽これも不愉快な言葉だった。「私は仕事をしている」
▽仕事をしている記者なら、淡々と取材をこなし、時には特ダネを書き、一方では行政や議会に食い込んで、丁寧な記事に仕上げる。こういう記者は、自分から、「私は仕事をしている」とは決して言わない。
▽逆に、サボっていることを自分では知っていて、それを知られたくないために、この言葉「私は仕事をしている」を連発するのだ。仕事をしていないことを見破られたくないために、こう強調するのは、私から見れば滑稽だった。

▽これも言ってはいけない言葉だ。「取材方法を教えてください」
▽新聞記者に決まった取材ルールはなく、取材手法やスタイルは、自分なりの試行錯誤して確立していかなくてはならない。だから、常に現場に出て、体当たりするしかない。これをしないまま、上司や先輩に、「取材方法を教えてください」というのは、完全な甘えだ。こんな甘えている人間に新聞記者は務まらない。
▽記者が10人いれば、10通りの取材方法ができる。そういう世界だ。この言葉を発した段階で、記者の資格はゼロと見なしたい。

▽以上が、禁句の言葉、5本だ。
▽ほかに別の言葉があるなら、教えてほしい。


★804地方でのマイカー取材は時代遅れだ(2026/01/07掲載)

▽新聞社、特に中央紙の場合、入社すると地方に配属されて、マイカーによる取材が始まる。マイカーを借金で買わされて、そのローンを支払いながら、取材を続けていく。このシステムを何の批判もなく私も受け入れてきたが、退社した今思えば、やはりおかしいシステムだと感じている。
▽地方は公共交通網が乏しいから、どうしても車による移動が必要になる。県庁所在地にはかつてジープなどのやや大きな車が配備されていたが、事件事故現場で使うことが多く、多くの記者はマイカーを買い、そのマイカーで取材の移動をしている。
▽そのマイカーの購入原資も会社から無利子で借りていた。その借金のローンを毎月数万円支払うことになる。
▽これは置屋の芸者が借金をたくさん作って、置屋をやめられなくなる論理と似ている。借金をして、その全額を返すまでやめられないのだ。
▽こんなシステムが、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も続いていた。
▽私がこのシステムがおかしいと気づき始めたのは、地方紙ではマイカー取材ではなく、会社が支局員の人数分の車を配備し、取材をさせていた事実に気づいたからだ。
▽私が朝日新聞北海道報道部に赴任し、夕張市の炭鉱問題を取材するため、何回も夕張市に通っていたが、地元北海道新聞記者は会社から配備された四輪駆動車を使って取材をしていた。
▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に赴任した時は、地元上毛新聞の支局員らは、会社の車で取材をしていた。新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時は、新潟日報の記者が、やはり会社が配備した車を運転していた。
▽こんな地方での実態を見ると、いかに朝日新聞や毎日新聞、読売新聞は時代遅れのシステムを採用し続けているかということが分かってきた。
▽朝日新聞東京本社管内で例外なのは、北海道報道センターと横浜総局だ。交通量が多いとか取材範囲が広すぎるなどの理由でマイカー取材は禁止している。ただしあくまでも例外だ。
▽マイカーをローンで買わせて、それで取材するというのは、はっきり言って、労働者の搾取そのものだ。いくら自分のマイカーになるからと言って、所詮は借金をさせて、取材をしているのだ。時代遅れのシステムではないのか。
▽もうそろそろ朝日新聞もこんな労働者搾取のシステムはやめて、地方支局には人数分の車を配備すべきなのだ。
▽いつまでこのシステムを維持しようとしているのか。OBとしては耐えがたい実態だ。


★802地方取材をしなくなった毎日新聞がやばい(2026/01/05掲載)

▽毎日新聞が危ない状況になっている。全国地方の取材網を減らして、地方での出来事や議会、選挙などの取材を放棄し始めているのだ。もはや全国紙とは呼べないレベルの状況になっている。
▽ある北関東の地方都市の話だ。私の知り合いがこの都市で副市長をやっている。彼によると、副市長のところに取材に来るのは地元紙の若い記者と読売新聞の若い記者だけと言う。朝日新聞は1回、ベテラン記者が県庁所在地の総局から挨拶に来ただけで、その後の取材は一度も来ないいう。毎日新聞は挨拶すらないらしい。この都市での発表ものや市議会の出来事など、毎日新聞は全く無視しているらしい。
「完全に毎日新聞は取材を放棄していますね」
と副市長は嘆く。
▽日本海のある都市の話だ。ここでも毎日新聞と朝日新聞は支局を廃止した。それでも定例の会見に朝日新聞記者は隣の支局から来るが、毎日新聞は全く来ない。市議会の動きも記者会見の発表も全く触れようとしない。
▽毎日新聞は全国でもこんな状況が続いているんだろう。地方の出来事、市政の動き、市議会の動きなど取材はしないのだ。議会や行政を監視することもやめてしまっている。
▽私がかつて勤務していた群馬県渋川市でも毎日新聞の記者はいなかった。新潟県佐渡市でも毎日新聞は記者を置いていなかった。
▽確かに新聞業界は斜陽化で経営が怪しい。部数も減っていき、毎日新聞は日経新聞の部数に負けている。その影響で地方の記者を減らし、地方の取材網を崩していった。その結果が地方取材を放棄することになった。新聞社が地方取材をやめればどうなるか。地方権力の横暴を監視できなくなる。記者が地方にいるからこそ、地方権力を監視しているという意味が毎日新聞には分からないだろう。それだけ経営が苦しくなっているのだ。
▽その反動で、毎日新聞の地方版の記事は全く面白くない。選挙も議会もきちんと取材をしないで、一部の記者は好き勝手なことを書いている。選挙期間中なのに、選挙取材もしないで、勝手に記事を書く記者を制御できる能力が、毎日新聞にはないのだろう。記者がバラバラで、一体感がない紙面作りをしている。
▽その傾向は本社でもある。各社が合同で集まる会合やイベントに、毎日新聞は来なくなったという。
▽私は昨年4月、毎日新聞との購読契約をやめたが、ここまで毎日新聞が落ちるとは思わなかった。もはや毎日新聞は、全国紙とは呼べない。
▽毎日新聞が輝いていたのは、昔の話となってしまった。


★799旧伊香保町はケーブルテレビ発祥の地だった(2025/12/29掲載)

▽たまにはミニ知識のクイズを。日本で最初にケーブルテレビ(CATV)が導入された場所はどこだろうか。これが意外にも、群馬県の旧伊香保町(現渋川市伊香保町)であることを、多くの人は知らない。
▽私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時に、その歴史を知った。2005年11月に、伊香保町にケーブルテレビ発祥記念碑が設置されることになり、その除幕式が行われることを前打ち原稿として書いた。
▽町や伊香保温泉観光協会などによると、CATVは1955年6月にNHKと地元が共同実験の形で開始した。その2年前から国内ではテレビ放送が開始されていたが、伊香保町は山間部のためにテレビ放送を受信することが出来ず、その対策としてCATVが導入された。提唱者は老舗旅館、千明仁泉亭の当時のオーナーだった故千明三右衛門さんで、記録によると業務開始日はその年で、発祥記念碑はそれからちょうど半世紀にあたる節目となることに合わせて建立した。
▽一般家庭の普及は進まなかったが、町の中心街に大型の受像器が設置されたほか、旅館の一部でも導入された。当時は人気のあったプロレスなどの番組を町民や観光客らが「がんばれ、力道山」などと熱心に見入っていた、という。電波障害が解消され一般家庭にもテレビが普及したため、同町でのCATVそのものは数年ほどで取り外されたが、CATVの存在意義をアピールするため、発祥の地である同町に記念碑を設置するとしていた。
▽国内のテレビの普及は、プロレスの興行とともに一気に伸びていった。いわゆる「力道山人気」だった。
▽ついでに書くと、力道山とテレビの関係については「力道山」(斎藤文彦、岩波新書)に詳しい。
▽日本の植民地化されていた北朝鮮で生まれ育った力道山が、日本で力士となり、そしてプロレスラーとなった半生を描いた作品だ。力道山の関する書籍は多数ある。北朝鮮出身者ということで、望郷の念を中心に描いた物や、プロレスという西洋相撲を日本に紹介したものなどあるが、この新書はプローレスラーとしての力道山と、プロレスのプロモーターとしての力道山に光を当てて、昭和の時代、力道山が黎明期のテレビを育て、テレビが力道山を作り上げたというストーリーを展開し、昭和とはどんな時代だったのかを界面して見せた文明史だ。空手チョップで米レスラーをやっつける姿に多くの日本人が熱狂していた。そして突然の死。ジャイアント馬場やアントニオ猪木がその遺志を引き継いで、プロレスの今は、テレビ中継すらない時代になった。昭和の終わりだった。もう一つの昭和史だった。
▽こんな昭和の時代の一場面をテレビは映し出して、地方の伊香保町では、それを受けたCATVで力道山を応援していたことになる。
▽CATVは多チャンネル放送として市町村単位の地域メディアとして発展してきたが、一方ではインターネットなどへの参入が各地で進み、総合情報ネットワークの一角を担ってもいる。伊香保の関係者は先見の目があったということだろう。


★797地方現場では何も分からないことが多い(2025/12/25掲載)

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の話だ。渋川市役所職員が県警外事課に逮捕され、前橋総局デスクからその雑観記事を送るように言われた。県警外事課と聞いても、すぐにはピンと来ないだろう。公安警察の中で、外国諜報機関の諜報活動や外国人テロ、不法滞在などを捜査する部署だが、実際にどんな具体的な逮捕容疑かも分からず、分からないまま取材して、原稿を書いた記憶がある。
▽デスクからの電話指示はこういうものだった。
「渋川市職員が県警外事課に逮捕された。不法滞在に絡んだ事件で、大きくなるなら市幹部のコメントを」
というものだった。しかしその後連絡はなかった。
▽ただ個人犯罪だとしても、市の職員が逮捕されたのだから、それなりの取材はしないと、と思い、市役所で市民課長らから話を聞いた。
▽県警の逮捕容疑はこうだ。
▽フィリピン国籍の不法滞在女性に頼まれて永住資格申請を法務省東京入国管理局に提出したとして、虚偽公文書作成の疑いで渋川市職員が逮捕された。このため同市は再発防止策の検討に入った。しかし、永住資格申請の受付窓口は入管だけであって、地方自治体が永住資格申請事務作業にかかわることはないため、行政システムの欠陥を見いだすことは難しく、逮捕された職員個人の犯罪という見方が支配的だ。
「どんな書類を偽造したのか、全く分からない。市の書類を偽造したとしても、上司の決裁が入る。チェック体制は出来ているはず」
▽同市市民課の責任者はこう説明する。
▽逮捕された容疑者は当時、市民課市民グループリーダーという立場で、同市の外国人登録の実務責任者だった。
「内部の手続きをチェックする立場にあった」
と同市は説明する。
▽しかし、同市が来日外国人に関連する業務は、滞在する外国人に対して外国人登録証明書を、入管の受託事務として行っているだけで、容疑となった永住資格申請行為は、手続きとしては範囲外だ。
「どこをどう偽れば、永住資格申請を偽造できるのか分からない」
と説明する。
▽入管などのホームページによると、日本に永住するためには、正規の在留資格で日本に在留したなどとする居住歴などの要件を満たし、永住許可申請書、履歴書、戸籍謄本、住民票、在職証明書、身元保証書など各種の書類を提出することが必要だ。入管の説明では、永住を希望する申請者本人以外も公益法人職員などが申請は出来るが、市役所職員はこれに該当しない。容疑者はどんな手続きを行ったか、市には具体的な内容は伝わってこない。
▽県警からは何の説明もないため、具体的に今回の逮捕の背景には、市の事務システムに欠陥があるのかないのか、分からないのが実情だ。
▽このため、再発防止策を検討しても、外国人登録証申請の受け付けと交付の手続きに関して、チェック体制を見直すことぐらいしか見あたらず、容疑者が個人的に永住資格申請を行ったという見方が強くなっている。
▽ただ市職員が逮捕された、という事実は重く、別の幹部は「公務員としてのモラル徹底は説いていきたい」と強調した。
▽以上のような内容を原稿にして、デスクに送った。要するに県警の情報が不足している以上、現場で取材できる範囲は限られている、ということだ。
《フィリピン国籍の不法滞在女性に頼まれた外国人登録証明書の申請に絡んで、虚偽公文書作成の疑いで渋川市職員が逮捕された事件で、同市は当面の再発防止策を発表した。同市の外国人登録申請事務作業が事実上、逮捕された職員1人で担当していたことを明らかにしたうえで、これが犯罪を誘発した原因だとして、今後は複数の職員が申請内容を確認することを決めた。併せて市長名でおわびするコメントを出した。
▽同市によると、入国管理局の受託事務である外国人登録証の受け付けは年間約600件ある。この担当には2人の職員が配置されていたが、実際は逮捕された容疑者が市民課市民グループリーダーという立場で、1人で受け持っていたという。「内部の手続きをチェックする立場にあったため、それ以上のチェックが出来なかった」と説明する。
▽複数の職員が確認作業することで、今回のような不祥事を未然に防ぎたいと強調した。
▽また今回のチェック体制の強化と併せて、外国人登録証以外の他の部門でも、点検のプロセスを再点検することにした》

▽改めて、逮捕当日の朝日新聞記事を読んだ。そしてミスを発見した。「永住資格の外国人登録証」とあるのだ。外国人登録証と、永住資格、または永住許可申請は全く別物だ。短期滞在のために外国人登録証が必要になるが、永住許可は、この証明書も含めて各種証明書が必要になる。県警担当者はこれをごっちゃに混同して表現していた。そしてデスクはこれを見抜けなかった。
▽県警担当者もデスクもよく分からないまま、地方支局の私に追加原稿を発注していた、ということになる。そういうことだったのだ。
▽県警の事件では、発注されても地方現場の取材では分からないことが多い。やはりこういうケースでは県警担当者が実際に渋川市に来て取材すべきだった。


★796秩父で食ったホルモン焼きのうまさ(2025/12/24掲載)

▽カシラ、ハラミ、ガツ、タン。これはみんな豚の内臓などの部位である。これを焼いて食べるのがホルモン店だ。私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時、市内にあるホルモン店に時々行ってホルモンを食った。秩父市はホルモン店で有名だった。うまかった。今回はホルモンの話を記そう。
▽正式な説明ではないが、ホルモンとは、「放(ほお)るもん」からなまった言葉だと言われている。以前は豚肉を解体する際、捨てていた部位だ。捨てて放っておいたため、それが変化しホルモンとなった。ホルモンを食べるのはここ数十年の歴史だとされている。
▽確かに私が高校生だったころ、街の肉屋ではこうしたホルモンは店頭に並んでいなかったし、こうしたホルモンの部位を注文すると、肉屋はタダで譲ってくれた記憶がある。やはり放っておいたのだ。そんな、食べない対象の肉だった。
▽ホルモンは、牛と豚のそれぞれ部位が食べられる。ちなみに私が食べている部位は、豚では以下のようだ。

カシラ▽頭肉
ハラミ▽横隔膜筋
ガツ▽胃袋
タン▽舌
トンソク▽足
ハツ▽心臓
レバー▽肝臓
コブクロ▽子宮
ショウチョウ▽小腸

▽西武秩父駅隣の秩父鉄道御花畑駅近くに、人気のホルモン店がある。地元の客や観光客で賑わう。
▽狭い店内では、七輪でホルモンを焼いて煙がもうもうとしていた。私はカシラやレバーなどを頼み、焼きながら、ビールを飲み、飲み食いした。
▽店員は高齢の女性3人が仕切っていた。新鮮なレバーをちょっとでも焼きすぎると、その女性が、
「そんなに焼いちゃだめだよ、新鮮になんだから」
と叱ってくるのだ。文句が言われたようで最初は嫌だったが、何回も通うと、こういう店員からの注意にも耳を傾けるようになるし、レバーの焼き方も注意するようになる。カシラやレバーを焼いて、口に入れる。うまい。ビールを飲む。うまい。こうして夜は更けていくのだった。
▽市内にはこうしたホルモン店が何件もあり、支局に近かったせいもあって、夜になると歩いて通ったものだった。
▽なぜ秩父市内にこんなにホルモン店が多いのか。私なりの推測をすると、隣が群馬県だからだ。群馬県もホルモンで有名だ。そんな群馬で生産された豚肉の部位が伝わってきたのではないだろうか。
▽私は秩父支局を最後に朝日新聞を退社したため、秩父にホルモンを食いに行く回数は激減した。またまた行きたいなと思う。今度はだれと行こうかなと考えている。ちなみに西武特急で行けば池袋からは1時間半で到着する。


★789塩釜市か塩竈市か(2025/12/15掲載)

▽私が宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤務していた時の話だ。当時の市長が街づくりの一環として、「塩釜市」ではなく、「塩竈市」と表記する運動を始めた。難しい「竈」の字を使うことで、郷土愛を深めようという考えからだった、「釜」か「竈」か。私も調子に乗って、「カマカマ論争続く」という記事を書いた経験がある。
▽塩釜市か塩竈市か。どちらでも良さそうな気がするが、市長は断固、「塩竈市だ」と強調して見せた。市の公文書はすべて「塩竈市」となっている。小中学の学校現場でも、この難しい漢字を使わせていた。しかし市外にはなかなか浸透しなかったのも事実だ。私が「カマカマ論争」と朝日新聞夕刊三面で大々的にこの話を書いたのも、そうした現状があった。
▽市長の言い分は、地名の由来から続く。現在の表示されている同市のホームページでは地名の由来から説明している。
《地名の由来
海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこのようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれています。わが郷土も、この竈のある場所として有名になり、それがそのまま地名になっていったといわれています。 塩竈という地名のほかに、国府津(『こうづ』と読み、国府の港という意味です)とも呼ばれていましたが、塩竈神社が、陸奥国の総鎮守(多賀城から見て東北の方角に位置する鬼門を守る意味がある)として建てられ、信仰を集めるようになり、国府津よりも塩竈の方が地名として定着していったものといわれています》
▽つまり塩竈神社の名前から付けられたのが塩竈市ということになる。

《塩竈か塩釜か
塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただし、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理することとしています。 市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むものであるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました》

▽塩釜市のホームページによれば、同市の公文書では「塩竈市」とこの難しい表記を用いている、というから、正式の名称は「塩竈市」だ。
▽ただし、塩竈市の『竈』の字については、『竈』と『釜』の両方を使用することが認められており、《「竈」は21画と画数が多く、書き方も難しい漢字》であるため、ご丁寧にも正しい書き順をホームページでも説明している。

▽アンケート調査も行っている。

《市の名前をめぐる市民アンケート
昭和56年7月、市の名前についてアンケート調査が行われました。正式な市名は「塩竈」ですが、駅や県・国の機関のほとんどは「塩釜」が使われているため、「塩竈」をこれからも使い続けたほうがよいかどうか、市民の意見をお聞かせいただいたものです。 75歳以下の全有権者(43,226人)から1,500人を抽出し、633の回答を得たアンケートの有効回答数は613(40.9パーセント)。その結果は次の通りでした。

現在の市名「塩竈」に不便を感じるか
特に不便を感じない人…54.8パーセント

市名を変更したほうがいいか
*▽賛成…66.6パーセント
*▽反対…21.2パーセント
(賛成のうち「塩釜」にという人は94.1パーセント理由は「一般的」「書きやすい」など)

そのほかのご意見
由来を大切に継承したい、だれでも書けて読める字にしたい、混乱がなければ併用してもなど
現在の市名に特に不便を感じない人が半数以上であること、回収率からみて市名変更の機運にはないと思われることなどから、それまで同様に、「塩竈」を市名とし、公文書などで「塩釜」と表記されても「塩竈」と解釈して受理することになりました。
塩竈か塩釜か▽塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。▽ただし、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理することとしています》

▽ただし、この「塩竈市」の運動が、他の自治体に浸透していったかは別の話だ。私が勤務していた朝日新聞塩釜通信局はそのまま簡単な漢字の「塩釜」を使い続けてきたし、通信局の名称が廃止されて、「塩釜支局」になっても、難しい漢字の「竈」は使わなかった。
▽「カマカマ論争」は塩釜市だけの、地方の論争に終わってしまった。ちょっと残念な話だった。


★788現場がない海難取材の思い出(2025/12/12掲載)

▽北海道小樽市にはあって、札幌市にはないもの。宮城県塩釜市にはあって、隣の仙台市にはないもの。千葉市にはなくて、横浜市にあるもの。この問いに答えられる新聞記者がどのぐらいいるだろうか。そう、すべて海上保安庁の出先機関である管区海上保安本部がある場所なのだ。
▽小樽市には第1管区海上保安本部(1管本部)、塩釜市には第2管区海上保安本部(3管本部)、横浜市には第3管区海上保安本部(3管本部)がある。小樽市は人口10万人。塩釜市は5万人。1管本部と2管本部を見る限り、まさに地方都市に国の出先機関があることになる。
▽このうち私は北海道新聞小樽支社報道部時代にはこの1管本部を、朝日新聞塩釜通信局時代には2管本部を担当しており、ある意味で、海上保安部の取材経験は長い方だ。
▽1管本部の一番の思い出は、1983年9月1日の大韓機撃墜事件だった。ソ連ジェット機のミサイルに撃墜されて海上に墜落した。
▽私はその日早朝、警戒電話を入れて、その第一報を知った。しかし、その情報は、迷走していた。
▽最初はこういう内容だった。
「サハリン沖で、航空機が不明」
▽次に、こう変わった。
「釧路空港に強制着陸」
▽そして墜落情報。
▽私のこのホームページ社会事象編にコラム「076インテリジェンス」と題して、「日本インテリジェンス史」(小谷賢、中公新書)という本を引用し、こう書いた。
《▽第1管区海上保安本部は、その情報をどこから入手したのだろう。防衛省からか。だとしたら、釧路空港に強制着陸したという情報は何だったのか。
▽この「日本インテリジェンス史」にはこうある。
▽当時、北海道・稚内で米軍側が傍受作業をしていて、その1人がソ連軍パイロットの「目標を撃破」と交信しているのを直接確認した。同じころ日本側も陸自が東千歳通信所に勤務する自衛官が識別不明機に対するスクランブル状況の報告を受けて傍受班に対して緊急強化配備を要求。ミサイル発射と目標撃墜のやりとりを録音したことに成功したという。
▽この情報は筆者によると、運輸省に届けられず、極秘に官房長官の後藤田正晴に「韓国の民間機が不明」だと報告され、午後1時に内閣調査室が首相の中曽根康弘に上げた。
▽日米が極秘にソ連の通信を傍受していたことを暴露されたくない日本は、何も出来なかったらしい。米国側に情報を提供するだけで終わった》

▽それから1カ月は機体の破片がオホーツク海の海流によって流れ、沿岸に流れついた話を連日取材していた。
▽1管本部所属の巡視船が機体の一部などをソ連から引き取り、小樽港に到着し、公開されたことも取材していた。
▽太平洋上の海難を担当する2管本部では、漁船の遭難が相次いでいた。海難の場合、簡単に取材に行けないから、どうしても海上保安本部の情報が頼りになる。そして漁船の所属している漁協や家族の取材が重なる。
▽だから小樽でも塩釜でも、管区海上保安本部や海上保安部への警戒電話を怠りなく続けた。夕刊と朝刊の締め切りに合わせ、警戒電話を常に入れていた。
▽ある時の海難取材だった。石巻市の漁協の所属船が行方不明となり、海難捜索が始まった。私も石巻市の現地に行った。そこで北海道新聞時代の先輩が東京支社から取材に来ていて、久しぶりの再会をしたことを覚えている。場所が場所だけに、その先輩はどこに行っていいのか分からないらしく、私は取材先の場所を教えたりした。アドバイスをしたりした。北海道新聞時代はずいぶん助けてくれた先輩に、ちょっとだけ恩返しをした気分になった。
▽海難の捜索は通常だと1週間から2週間は続けられる。船体の一部が見つかったりすれば、遭難が確実となり、不明者の捜索も始まる。
▽こうした取材を通して、私は海上保安庁の職員には好感を持つようになった。みんな海が好きで海のお仕事がしたいという思いで、この職場に就いていた。海の危険も分かっている。そうした彼らの仕事ぶりを見て、新聞記者として私は、正確な取材をするよう努めていた。


★787時短給取得は悪か善か(2025/12/11掲載)

▽労働者の権利として使う「時短給」という言葉をご存じだろうか。私はこの言葉の響きを、実に忌まわしく聞いてきた。「時短給」に対する私の思いを書きたい。
▽多くの企業で時短給取得という制度がある。子育てや親の介護という理由で、労働時間を短縮し、遅く出社したり、早く帰宅する制度だ。この場合、労働時間が短い分、給料は当然ながら削減される。かなりの削減になる時短給もある。「給料が半減された」と嘆く社員もいた。これが時短給だ。
▽私が朝日新聞のある地方支局に勤務していた時のことだ。ある女性支局員にこう言われて、衝撃を受けた。
「私が時短給を取ったら、困るのは原さんだ」
▽私にこう言い切った。
▽この言葉の背景を説明する必要があるだろう。
▽この女性支局員、子育てと称して、事実上の時短給を取っていた。支局にはほとんど上がらず、自宅で仕事をしていた。事件事故の現場に行くこともせず、ほとんどが電話取材だった。支局に届いた行政資料などはすべて支局のアルバイトがファクスなどで彼女の自宅に送っていた。リモート取材といえば、聞こえは良いが、支局でのさまざまな雑用はせず、自宅での仕事をしているだけだった。実態は時短給だった。
▽支局に届いた取材要請や、取材依頼などはすべて私が受け持つことになった。土日曜日にある各種イベントの取材は、すべて私が行った。だから私は土日曜日がすべて取材で潰れた。代休など取れなかった。
▽問題なのは、彼女の実態は時短給なのだが、給料はフルタイムとしてもらっていたことだ。要するに形だけフルタイムだと見せかけて、フルタイムの給料をもらっていた。都合が悪くなると、実際は時短給だと言い訳をして、取材を拒否した。
▽朝日新聞は当時、記者の在宅勤務は全く認めていなかった。恐らく彼女の一部上司が認めてしまい、それをそのまま本人が特権として利用し続けた。実際は時短給なのに、給料は減らしてもらいたくない。そんな本音が透けて見えた。
▽仕事の事実上の時短給を認めた弊害は、私が直接被ったことになる。
▽そんな状態が続いて1年が経過したころだ。
▽上記の言葉が突然、彼女の言葉が飛び出したのだ。
▽私は、
「えっ」
と思った。耳を疑った。
▽彼女が事実上の時短給を取り続けて、私に都合悪い取材を押しつけてきたのに、出るのは、
「迷惑をかけています」
という謝罪ではなくて、この言葉かと思って、愕然とした。
▽既に実際は時短給を取り続けているのに、「困るのは原さんだ」と言い切る発想とその態度に不愉快になった。私は困りもしないと思った。もう事実上の時短給を取っているのだから、私は困ることは何もないと思った。
▽フルタイムの給料をもらっているなら、キチンと仕事をしろと言いたくなった。
▽この支局員、最後は仕事をさぼってしまい、いわゆる「特落ち」をしてしくじった挙げ句、実際の時短給がばれてしまい、人事異動が決まった。本社の内勤部門に異動になった。特権は2年しか続かなかった。
▽にしても、「困るのは原さんだ」と言い切る自信は、どこから出てきたのだろうか。


★783立ち小便から座り小便に変更した一人勤務支局時代(2025/12/05掲載)

▽新聞社の1人勤務の地方支局で生活をしていると、一番厄介な作業の一つが、トイレ掃除だった。私が住んでいた居住スペースにあるトイレと、来客用に使う事務所のトイレの二つがあり、その掃除をするのが億劫だった。トイレは使っていけば汚れる。だから掃除をしなくてはならない。横着な私にとってこのトイレ掃除が一番嫌いだった。そのため、私はトイレを汚さないようにと、いつしか小便をする際には、立ち小便をせず、女性のように座り小便にすることになっていた。
▽汚い話になるが、許してほしい。
▽洋式便器で立ち小便をすれば、小便のしぶきが周囲に飛んでいく。通常では目に見えないが、紫外線などの蛍光管を当てて見ると、そのしぶきが便器の中だけでなく、便器の周囲、壁などにも飛び散っている。これに気づいた時、私は実に汚いトイレを使い続けたことがわかった。このためには、どうすればいいのか。考えた挙げ句、立ち小便をするのをやめた。洋式便器に座って、大便と同じように、座って小便をすることにした。
▽1人勤務の新聞社の局舎は、事務所と居住区に分かれている。それぞれにトイレがあり、事務所のトイレは来客用、居住地のトイレは自分用に使ってきた。来客用のトイレはどんな使われ方をしてるか分からないので、厄介だった。時折掃除をしていたが、それでも小便の飛沫が便器外に飛び散っているのがわかった。居住用のトイレも同じ状況だった。自分で座り小便をしていても、来客用のトイレは汚れる。来客者に、座り小便をしてくださいとも言えなかったからだ。
▽県庁所在地の地方総局ならば、そして本社ならば、外部の業者がトイレ掃除をするから、社員がトイレ掃除をする事はない。そこへ行くと1人勤務の支局は、記者自身がトイレ掃除をしなくてはならない。こういう厄介な作業をせざる得ないことに本社は気づいていない。気づいていても、知らないふりをする。便器内部にこびりついた大便のカスをブラシでこすり、水で洗い、専用の洗剤をかけて洗っていく。こんな作業を時折しなければならないのだ。
▽だから私が立小便から座り小便したのは、この厄介さを少しでも減らすためだった。
▽男子が座り小便をするというのは、世間一般的にも広まっているらしい。子供にもそう教育している親がいるという。親として自宅の便器を汚されたくないための対策だ。洋式便器で座り小便をするのは、時代の流れかもしれない。
▽以前、NHKの「プロジェクトX」で、トイレメーカーがウォッシュレットの開発物語を放映していた。その時にキャッチコピーは「お尻だって洗ってほしい」だった。そう、トイレの便器だってきれいにしたいのだ。
▽男子が現在自宅で座り小便をしている割合は、どのくらいあるのだろう。だれかその調査をしてほしいと私は思う。トイレの専用メーカーだったら、もしかしたら調査研究をしているのかもしれない。


★781記者の特権と警察との蜜月関係(2025/12/03掲載)

▽新聞記者に特権があるのだろうか。ふと考えてしまった。特に警察を担当していると、一般市民にはあり得ない警察の世界に入り込み、自分が一般市民とは違う人種になっていると勘違いする記者は確かにいる。しかし、だからと言って、記者に特権があるとは私には思えない。時代が確実に変わってきている。特権がなくても、記者は取材を重ねて真実を追っていくものだと私は思っている。
▽私が朝日新聞浦和支局(現さいたま総局)で県警担当キャップをしていた時だ。浦和支局デスク経由で、本社社会部デスクから、変な依頼があった。
「社会部警視庁担当記者が乗っていたハイヤーが交通違反容疑で埼玉県警に軽挙されたので、何とかしてほしい」
▽こんな内容だった。要するにもみ消し。私は曖昧に受け止めて、断ったが、後味悪い雰囲気になった。
「こんなことも出来ないのか」
とデスクに叱責された記憶がある。
▽警視庁担当者から見れば交通違反のもみ消しなど、簡単にできた時代。そんな雰囲気があった。軽微な容疑の検挙なら、署長決裁でもみ消し出来るのは、記者経験から分かっている。しかし私は、そうした警察との取り引きをするのは嫌いだったので、結果として断っただけだ。
▽警察と記者。昔は持ちつ持たれつ、と関係だった。交通安全運動などの警察のキャンペーンや、未解決事件の容疑者特定の協力要請など、警察に協力する代わりに、警察も記者を仲間の一員と見なして、交通違反を見逃してもらったり、有利な情報をもらったりしていた。記者の特権はかつて、確かにあった。
▽警察と記者の蜜月時代が確かにあった。それは私も経験上認める。記者クラブとの懇親会も昔はよく開いていた。
▽しかし、時代が変わった。警察は記者たちを仲間とは見なさず、敵として見るようになった。殺人事件の現場でも、かつては記者だけ現場近くまで近づけたが、今はシャットアウトして近づけさせない。所轄の警察署もかつては庁内回りが出来たのに、今では署長か副署長しか会えない状況になっている。昔なら平気で刑事部屋に出入りできたが、今は全く出来ない。明らかに、蜜月時代は終わった。
▽だから、交通違反のもみ消しなど、今はあり得ない。特権などあり得ないのだ。
▽警察と記者との世界は、ようやく健全な姿になってきた、と私は思う。本来は権力と言論の自由との対決なのだ。
▽記者と一般市民と違うのは何かと聞かれれば、それは特権ではなく、事実を知ろうとする記者の努力、記者の取材力だろう。記者が取材した結果、新たな事実を知るので合って特権故に、知るのではない。今の時代、記者の特権などないと主張したい。

★778次第に改善されつつある埼玉・秩父への取材ルート(2025/11/28掲載)

▽私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時、万一の大災害や大事件、大事故が発生した場合、この山に囲まれた盆地に、東京本社や周辺の支局からの応援の取材陣はどのルートを通ってくるのが速いかを常に考えていた。新聞人の当然の発想だった。ルートは三つ遭った。そのうちの1本だけは難しい困難な山岳ルートだった。しかしその困難なルートが次第に改善されようとしている。
▽まずは三つのルートを紹介する。
▽一つが関越道花園インターを降りて、国道140号で秩父を目指すコース。東京本社の場合、首都高と外環道、関越道を走らせて、花園インターで降りる。140号を使って、途中からは有料道路である皆野寄居バイパスを走らせる。皆野寄居バイパスは2005年に全面開通した高規格道路で、全長9.88キロで、大きくカーブが続く国道140号をショートカットし、時間短縮に貢献した。
▽さらにはこれに続くのが皆野秩父バイパスで、2018年に全面開通した4.9キロの、同じ高規格道路だ。
▽東京本社から秩父を目指す場合、このルートが一番速いし分かりやすい。ただしその先、秩父市大滝地区に行くには、片道一車線の国道140号を頼るしかなく、完全なボトルネックとなっている。大滝地区の国道140号は荒川と並行したルートで、クネクネとカーブが多く、危険地帯でもあるため、万一の大災害や大事件、大事故では近づくには容易ではない。
▽この東京方向とは逆のルートもある。そう、山梨からのルートで、140号を走らせて、6625メートルの雁坂トンネルを抜けて、秩父に向かう道路だ。ただしこちらも山岳を走らせる狭い道路で、目的地にもよるが、同トンネルを抜けると、道路状況は一変して、目的地にはほど遠いルートとなる。
▽埼玉県のホームページではこう紹介されている。
《県境に位置する雁坂峠を挟み、長年「開かずの国道」と呼ばれていた一般国道140号であったが、平成10年に雁坂トンネルが開通。現在、一般国道の山岳トンネルとしては日本最長となっている》
▽そして三つのルート。それは所沢、飯能を経由して、秩父に向かう国道299号で、飯能からは西武池袋線とほぼ平行しながら走って行くルートだ。ただしここも片道一車線の狭い道路で、谷底をクネクネとカーブが多い道路で、一度事故になると不通になってしまう可能性が高い。この道路の飯能地区では、人気漫画「イニシャルD」を真似た暴走族が出現する場所で、夜中は危険地帯と化する。

▽こんな取材ルートを考察したのは、秩父市の山岳地帯で登山者の遭難者が出て、救助に向かった県庁の防災ヘリがさらに墜落したという二重遭難が発生していたからだ。
▽さらに言うと、その二重遭難が実は四重遭難である可能性が高いことを知ったからだ。この私のホームページ地方支局編にコラム「四重遭難」としてこう取り上げている。
《▽山岳遭難に詳しい羽根田治の著書「山のリスクとどう向き合うか」によれば、実はこの二重遭難の同じ日に、地上から現場に向かっていた救急隊員が、現場に向かう途中で遭難した男性を救助した。後に搬送先の病院で死亡が確認された。遭難事故などについてネツトで積極的に発信しているブロガーであることが判明。たまたまヘリの墜落を目撃し、現場に向かったところで滑落したのではないかと推定されるというのだ。
▽そしてヘリ墜落から6日後、日本テレビの記者とカメラマンが遭難した。この取材クルーの遭難自体は私も知っていたが、これらを含めると四重遭難であり、「負の連鎖」「前代未聞」と筆者は指摘する》
▽さらには私は秩父支局の後任者宛の引き継ぎでこう指摘している。
《秩父支局管内ではかつて遭難とヘリの二重遭難、マスコミの三重遭難があり、現場へのルートをキチンと検索する作業が必要です。応援組が現場に入るには、関越道花園インターから国道140号で向かうのがいいのか、それとも飯能経由で299号がいいのか。さらには山梨県から山越えがいいのか、常にルートを考えておいた方がいいです。かつて秩父市荒川で二重、三重遭難があり、現場のルートを確保する必要性を痛感しました》

▽そして私が退職した翌年の2022年、山岳地帯を走る国道140号の渋滞解消策として、大滝トンネルの工事が始まり、今年(2025年)3月、トンネルの本体工事が完了した。2053メートルのトンネルで7キロの国道を約5キロショーツカットするトンネルとなる。供用開始は2027年で、待望の開通となる。
▽これによって、私が考えた三つのルートのうち、一つ目と二つ目のルートがショートカットされて、現場により速く到着することが期待されている。
▽国は花園インターからこの国道140号と皆野寄居パイパス、皆野秩父パイパスなどを通って山梨に向かうルートを「西関東連絡道路」と命名して、整備を目指している。
《西関東連絡道路は、埼玉県(関越自動車道花園インターチェンジ)と山梨県(新山梨環状道路)を結ぶ「地域高規格道路」で、広く北関東と甲信・東海地方の人や物の交流を促進し、経済・観光等の活性化を目指す広域的な幹線道路です》

▽交通難所が解消され、秩父地方へのルートがより整備されることを願っている。

★776高齢化に伴う社内の個人同窓会の衰退(2025/11/26掲載)

▽私は朝日新聞で地方勤務が長かったので、赴任先で知り合った社内の同僚や先輩、上司、後輩らとそれぞれ個別の同窓会を開いてきた。しかし最近、先輩の高齢化とともにその同窓会も順次開かれなくなっている。少し寂しい気がする。
▽私は朝日新聞の振り出し支局が浦和支局(現さいたま総局)だった。その次に、宮城県塩釜市の塩釜通信局に異動し、その後は本社勤務になった。本社に6年間いた後、新潟県上越市の朝日新聞上越支局に転勤し、その後は北海道報道部、群馬県渋川市の渋川支局、東京本社、埼玉県越谷市の東埼玉支局、新潟県佐渡市の佐渡支局、そして最後が埼玉県秩父市の秩父支局だった。
▽私にとって、最初の同窓会は浦和会だった。当時私は東京本社に勤務しており、当時の浦和支局のメンバーや上司、さらには埼玉県内に当時勤務していた記者たちが、東京の居酒屋に集まり飲み会を実施した。個人的な同窓会である。昔話に花が咲いたが、上司の1人が突然パワハラ発言をしてしまい、会の雰囲気は台無しになり、浦和同窓会はそれが最後で終わった。少なくとも私が浦和会として呼ばれたのは、それが最初で最後だった。
▽浦和支局の次に勤務したのが塩釜通信局だった。この通信局時代は、仙台支局(現仙台総局)の上司であるデスクに可愛がってもらい、この人が中心となって、現役時代も、そして私がOBになってからも延々と仙台会を開いてきた。主に東京で飲み会を開き、あれこれと昔話をする飲み会だった。仙台会が延々と続いたのは、このデスクが中心となって開催したからだ。私にとって一番長く続いてきた個人の同窓会だった。
▽しかし、この同窓会も多くのメンバーが高齢化で、少し元気がなくなり、ここ数年開いていない。
▽東京本社では私は4回部署が変わり、それぞれの部署で当時、1泊2日の慰安旅行はあったが、その部署を離れてからの同窓会は全くなかった。おそらく記者たちが上司を嫌っていたことが大きい。嫌な奴とは飲みたくないのだろう。
▽東京本社を離れて、新潟県上越市の上越支局時代は、やはり当時の新潟支局長が力を発揮し、私がいた時の仲間がその後東京本社で集まり、飲み会を数回実施した。しかし、この新潟支局長がテレビ局に出向し、卒業してからはこの新潟会も開かれなくなった。
▽北海道報道部にいた時も、1回だけ東京でミニ同窓会があった。この時は多くの人間が集まったが、私がいたときの仲間による同窓会はそれが1回限りだった。ただし、同僚などは今でも個人の飲み会として開いている。それは今でも続いている。
▽そして群馬県渋川市の渋川支局時代。ここの上司や同僚とも東京で何回も飲んでいる。上司とは仲が良かったので、上司も私も朝日新聞を辞めた後、今でも時折飲み会を開いて飲んでいる。結局個人的な付き合いが大切だということだ。
▽その後、私は新潟県佐渡市の秩父支局に行き、その時の新潟時代の仲間とは一度東京でミニ同窓会を開き飲んでいるが、その後の連絡はない。私のいないところで同窓会を開いているのかもしれない。
▽さらに埼玉県秩父市の秩父支局時代の、さいたま総局や県内の仲間とはまだ時折飲む機会がある。
▽こうしてみると、一番長く個人の同窓会を開いているのは、仙台会だ。しかし次第にみんなが高齢化し開催が危ぶまれているのだ。仙台会の場合、既に何人か現役時代に死亡している後輩が数人いる。これも寂しい。私より後輩が先に死ぬなんて。と思ったりした。

★775新潟・直江津駅の栄枯盛衰(2025/11/25掲載)

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時に、よく利用していたのがJR直江津駅だ。この直江津駅、わずか四半世紀で、栄枯盛衰の時代に直面した。
▽同駅はJR東日本が運営する信越本線とJR西日本が運営する北陸本線の乗換駅であり、北陸地方の交通の要衝として、国鉄時代から栄えてきた駅だ。信越本線経由の特急や北陸本線からの特急も停車していた。大阪駅発札幌駅行きの寝台特急トワイライトエクスプレスも停車していた。
▽私が上越支局に赴任する直前には、ほくほく線が開通し、直江津駅は越後湯沢駅からは出発した特急はくたかがほくほく線経由で直江津駅に停車し、富山・金沢方面に向かい、日本海を代表する主要駅として賑わっていた。海の玄関である直江津港には貨物船や大型エリー、高速船ジェットフォイルも接岸し、新潟県の主要駅として繁栄していた。
▽私は朝日新聞新潟総局にデスク当番などで出張する際は、特急で直江津駅から新潟駅に通っていたし、東京に戻る時には、第三セクターほくほく線を経由した特急はくたかに直江津駅から乗って、越後湯沢駅に行き、ここで乗り換えて上越新幹線に乗った。直江津駅をかなりの回数で利用した一人だった。
▽その直江津駅が新しい駅舎として開業したのが、2000年4月。私はこんな前打ちの原稿を書いた。

《全国有数の鉄道の要衝駅であり、上越市直江津地区の顔でもあるJR直江津駅が七日、新しい駅舎に生まれ変わってオープンする。同市の同駅周辺整備事業を受けて、一九九七年から新駅舎建設工事が進められてきた。一八八五年(明治十八年)に信越線の部分開通に伴って開業して以来、北陸線の開通や国鉄の分割・民営化、最近では第三セクターほくほく線の開業と、常に長大路線の乗換駅として支えてきた。新たなオープンを祝って、地元では七日、盛大なセレモニーを開く。 
▽新しい駅舎は、現在の駅舎の東側に隣接する形で建設が続けられてきた。三階建ての橋上駅舎で、豪華客船「飛鳥」をイメージした外観になっている。全体的に段差を少なくして、バリアフリーに配慮。これまで乗り降り口は北側しかなかったが、駅南側と北側を結ぶ自由通路も併設され、今まで線路で隔てられていた南北の行き来が自由になる。
▽直江津駅の歴史は、日本の鉄道の歴史そのものを反映している。当初は、港からの資材輸送のため、市内を流れる関川沿岸に設置され、直江津|新井間が部分開通した。群馬と長野を結ぶ碓氷トンネルの完成で、信越線は一八九三年(二十六年)、直江津と高崎間が全通。さらには一九〇四年(同三十七年)、上野と新潟を結ぶ長大路線、信越線が全通し、直江津駅は佐渡への定期航路への降車駅として繁栄するようになる。
▽その後、一九一三年(大正二年)には北陸線の直江津と米原間が全通し、同駅は長大路線の乗換駅となり、駅前は旅館や商店街が立ち並ぶ、文字通りの町の顔で、直江津っ子自慢の空間となっていた。
▽同駅が現在地に移転したのは一八九八年(明治三十一年)のことで、今の駅舎が完成したのは、太平洋戦争始まる前年の一九四〇年(昭和十五年)。風雪に耐えながら、日本海の玄関口として現在に至っている。
▽国鉄の分割・民営化で、同駅はJR東日本の傘下に入って営業活動を続けているが、現在の同駅の特長は、数多くの特急が乗り入れしている点だ。民営化で始まった大阪発札幌行きの豪華寝台特急トワイライトエクスプレスが夕方、同駅に停車し、その姿が見られる。鉄道ファンの多くは「夕日に照らされるこの特急の美しさは最高」という。また県民の悲願だったほくほく線が一九九七年(平成九年)に開業し、JR西日本ご自慢のスーパー特急はくたかも停車する。在来線最速の一五〇キロで走るこの車両は赤と白のツートンカラーで、イタリア鉄道の特急ペンドリーノを連想させる独特のスタイルだ。
▽さらには長野新幹線の完成で、長野経由で東京に行き来する利用者も出てきた。
▽関係者の一人は「将来、長野以北の北陸新幹線が完成した時、直江津駅がどうなるか、それだけが心配です」と話している》

▽この原稿を書いた15年後の2015年3月、長野新幹線は金沢まで延伸して、北陸新幹線となり、並行在来線の北陸本線の一部と、信越本線の一部がJRから経営分離されて、日本海ひすいラインと妙高はねうまラインとなって切り捨てられた。北陸新幹線の上越市の駅は、直江津からはやや遠い場所に上越妙高駅として新設された。直江津駅に特急は止まらなくなり、過疎の鉄道駅に転落してしまったのだ。
▽まさに栄枯盛衰の物語をわずか四半世紀で早送りをして見ているような気分になる。
▽この原稿、いい原稿だと思っていたが、実は出稿した際に徹底的に削られてしまった。理由は分からなかった。
▽しかし翌日の紙面を見て、悪い意味で納得した。翌日の新潟版のトップ記事をよく見て、唖然としてしまったのだ。なんと新潟総局のアルバイトだった学生が就職した地方役場での辞令交付式を実に大きく扱っていたのだ。全くの仲間内の話を、天下の朝日新聞の紙面に堂々と登場させているのだった。こんなこと、週刊誌がかぎつけたら、大きな問題になるぞと思った。こんな感覚で新聞を作る新潟支局のデスク感覚ってなんなんだと思った。

★768サッカーJリーグ、浦和レッズのミニコミ(2025/11/14掲載)

▽サッカーJ1浦和レッズと朝日新聞販売店のうち、さいたま市の販売店グループが協力して作っているミニコミがある。「レッズツマロウ」というタブロイド判のミニコミで、ホーム戦がある前日の日に、4ページから8ページの紙面を、朝日新聞に折り込んで無料で配っている。
▽その中にレッズやサッカーに関するコラムがあり、私はこのコラムを2年ほど担当して書いていた。当時、私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していたが、本来のスポーツ担当であるさいたま総局記者たちが事件事故に追われて、サッカー取材も出来なくなり、私に担当が回ってきたのだ。
▽ある時こんな文章を書いている。J1広島からレッズに移籍していた森脇選手の事だ。

《埼玉スタジアムで今年1月中旬にあった新加入選手の会見で、広島から移籍したDF森脇選手の話は、心に残った。サポーターに対する気持ちを聞かれ、森脇選手はさいたま市に引っ越してきた際に、大雪で地元の人に助けられたことを披露し、「もう帰る場所がない。(サポーターに)帰れと言われないようにプレーしたい」と決意を述べるとともに、レッズに移籍した最大の理由として、こう言い切ったのだ。「人もボールも、人の心も動かせるのは、日本ではレッズだけ」。いい言葉だなと思った。
▽人もボールも動くサッカーとは、連動感と躍動感あるサッカーだろう。攻撃陣と守備陣を固定化してないで、だれもがゴールを狙えるパスサッカーをする。昨年のレッズのスタイルだ。だからこそ優勝争いに加わることができた、と私は思っている。
▽そして、森脇選手が表現した「人の心を動かす」サッカー。単なる勝利ではなく、感動を呼ぶ試合を続けたい、と言いたかったのだろう。その言葉を期待したい》

▽このコラムは元々朝日新聞さいたま総局の若い記者から引き継いだもので、2週間に1回の割合で担当が回ってくる。Jリーグシーズンに回ってくるのだが、なかなかネタが浮かばない時もあり、冷や汗もので書いたこともある。実際に試合を取材していないと原稿も書けないので、かなりマメに取材を続けていた記憶がある。
▽コラムは新聞記事の雑報と違って、落とし所も必要だから、雑報のような書き方は出来ず、歴代の担当者も苦労していたようだ。
▽私は朝日新聞埼玉版にとって、レッズや大宮アルディージャは読者を維持するキラーコンテンツだと思っていたので、このコラムも大切にしていたし、埼玉版に書くレッズやアルディージャの記事も大切に取材していた。

★766JR武蔵野線と利便性と不便性(2025/11/12掲載)

▽東京都、埼玉、千葉県を結ぶJR武蔵野線は、首都圏を半円を描くような路線を走る大動脈だ。開業から半世紀以上経ち、沿線住民の人口は爆発的に増えた。新駅も開業し、武蔵野線の利便性は高まってきた。しかし一方では東京に乗り入れる鉄道幹線との接続が悪く、利用者からは不満の声も出ている。車両も1編成8両と短く、乗客収容能力は限界に達している。今後、武蔵野線はどうなるのだろうか。
▽1973年に開業した武蔵野線は、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から東京都府中市の府中本町駅、埼玉県さいたま市南区の南浦和駅を経由し、千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ鉄道で、元々は国鉄時代に山手線の貨物輸送を補完する貨物線として計画され、旅客輸送も併用する路線として誕生した。そのため、開業当初の電車の本数は少なく、1時間に1〜2本しかない時代もあった。
▽しかし、東京都心に向かうJRや私鉄各路線との乗換駅が多いことから、その利便性が評価されるようになり、利用客が増えて次第に電車本数が多くなり、東京駅に京葉線経由で直通する電車も出来た。
▽東京都では中央線西国分寺駅が乗換駅となり、新秋津駅では西武池袋線と、北朝霞駅では東武東上線と乗り換え、さらには武蔵浦和駅では埼京線と、南浦和駅では京浜東北線と乗り換えができる。東川口駅では埼玉高速鉄道と、南越谷駅では東武伊勢崎線と乗り換える。さらには南流山駅ではつくばエクスプレスとの乗り換えをして、新松戸駅では常磐線と乗り換えをする。東松戸では京成電鉄との乗り換えがある。この利便性は評価されていい。
▽越谷市では関東一のショッピングセンターと言われる越谷レイクタウンが開業し、これに伴って、武蔵野線に越谷レイクタウン駅が完成した。さらには請願駅として吉川美南駅が誕生し、沿線住民の人口は爆発的に増えた。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時は、私はさいたま市の自宅から武蔵浦和駅まで歩いて、ここから武蔵野線に乗り、南越谷まで通っていた。既に10分に1本の電車があり、不便はなくなっていた。ただし通勤時の混雑ぶりはひどかった。
▽武蔵野線の欠点は乗り換え駅での接続が悪いことだ。特に南浦和駅では京浜東北線に乗り換えるが、高崎線と宇都宮線のホームはなく、各駅停車の京浜東北線しか利用できない。新松戸では常磐線と乗り換えているが、快速のホームはなく、ここも各駅停車に乗り換えるしかない。同じJRなのに、この不便さは全く解消されていない。
▽接続が悪いだけではない。1編成8両のため、乗客収容能力が限界に達しており、乗換駅のホームでは、満員になった乗客で身動きが取れなくなっている。

▽私は朝日新聞東埼玉支局時代にこんな原稿を書いている。2012年3月だ。以下は生原稿だ。

《JR武蔵野線に17日、新駅「吉川美南駅」が開業する。かつて電車本数の少ない同線を利用し、苦労して通学した経験を持つ人たちは、青春時代の甘酸っぱい思い出とともに同線の発展ぶりを驚きと歓迎の意を込めて見つめている。
▽武蔵野線は当初、貨物線と計画された経緯があり、貨物列車優先で、電車本数が少なかった。吉川市に残っている資料によると、1973年の開業時にピーク時で1時間に4本。1時間に1本しかない時間帯もあった》
《吉川市でガソリンスタンドを営む男性(53)は、高校生時代、吉川、南浦和、赤羽、十条と電車を3回乗り換えて通った。サッカー部に所属していたため、1年生の時は、吉川駅を午前6時11分に出る電車に乗らないと間に合わなかった。帰りは南浦和を午後9時29分に出る電車に間に合わせた。「帰りは乗り遅れると、1時間近く電車がなかった。学校から十条駅まで必至に走って帰りましたよ」。当時の電車発車時刻まで鮮明に覚えていた。
▽同市の小学校教諭の男性(52)は吉川から高校と大学は東京・九段下まで通った。「飲み会が盛り上がっても、最終電車が早かったから、一番いい時に帰る時間になってしまった」。電車に乗り遅れると、東武線新越谷駅まで行き、そこから一時間かけてとぼとぼ歩いて帰宅したこともある。「駅前は畑と田んぼ。商店もなく、真っ暗だった。それが今ではこんなに整備されるとは驚きです」と振り返る。
▽草加市職員(49)は、高校時代、草加市から北浦和駅まで、私鉄と国鉄を計3本乗り継いで高校に通っていた。土曜日の下校がネックだった。南浦和からの乗り換え電車が少ないのだ。「土曜日は1時間に1本も走っていなかった。授業が終わると、ゲームセンターに行って時間つぶしをしていた。電車より貨物列車の方が多かった。いろいろな貨物を見て、当時の日本がどんなものを輸送していたのか、社会勉強にもなりました」と振り返る》
《そんな武蔵野線だったが、他の私鉄との乗り換えの利便性が増し、沿線が開発され、今では大動脈となってきた。
▽越谷市の男性(54)は、フィナンシャルプランナーとして独立した1998年以来、武蔵野線をよく利用するようになった。「顧客に会う時、東京駅だったら南浦和駅で、新宿だったら武蔵浦和駅で乗り換えればいい。便利な鉄道ですよね。以前は南越谷駅から東武線を使っていたのですが、最近は利用回数が減りました」
▽同市南越谷から越谷レイクタウンに移り住んだのは、3年前。「武蔵野線の将来像を想像したんです。発展性を考えて移住しました」》
《国内最大級と言われるレイクタウンがオープンしたのは2008年。これに併せて新駅「越谷レイクタウン駅」も開業した。当時の都市基盤整備公団(都市再生機構)が整備を開始し、イオンが進出し、最終的には7000戸、22400人が住むことになる高層住宅と大型商業施設だ。
▽高校時代も武蔵野線を使っていた。その時は草加市の東武線新田駅から千葉県松戸市の私立高校に通っていた。新越谷駅から武蔵野線南越谷に乗り換えて新松戸駅でさらに乗り換え、北松戸に通っていた。「あのころは30分に1本しか電車がなかった。1本乗り遅れるとずっと待たされた記憶がありますね。それがこんなに便利になるとは思ってもみなかった」》
《強い風が吹くと、すぐ運休になるのも武蔵野線の特徴だった。高架を走るから、風をまともに受けやすいのが欠点だった。1980年には西浦和駅付近で発生したタイヤ火災で一部が1カ月も、台風の影響で2カ月も不通になる過去もある。
▽それでも武蔵野線は走っている》

▽この原稿のほか、半年後には武蔵野線を中心とする首都圏のループ路線構想を、社会部記者とともに取材して、夕刊1面に載せたこともある。


★761定年の60歳になり、サボる記者と頑張る記者(2025/11/05掲載)

▽私は朝日新聞を退職するまでの最後の5年間は、いわゆるシニア記者だった。一度正社員として退職し、シニア記者として1年ごとの契約を更新し、2021年8月の誕生日まで働いた。朝日新聞はその後、定年を60歳から65歳に延長したが、この60歳から65歳までの5年間というのは、サボる記者と、逆に頑張る記者がいて、私は「サボる記者」と同類項と見られないよう、働いたつもりだ。
▽私がかつて支局長として勤めていた支局や同じ県内の別の支局に、サボる記者が何人かいた。
▽本社でデスクになったのに、その後の出世ができず、本社に残ることさえもできず、地方支局に出されたベテラン記者たち。いわゆる役職定年だ。60歳になり、1年契約のシニア記者となった、私の支局のそのベテラン記者は、サボることだけを徹底的にしていた。夕方になれば、都内に出かけると言っていなくなる。連絡が取れない。土日はゴルフで忙しい。原稿もほとんど書かなかった。殺人事件が起きても連絡が取れずゴルフをしていた。定年退職をして退職金をもらって、私には小遣い稼ぎのような仕事ぶりと映った。
▽東京近郊での出張も、カラ出張をしていたし、金の使い方もルーズだった。最後は、アルバイトの女性にセクハラ行為をしていた。
▽こんなシニア記者を雇用している朝日新聞はおかしくないのかと私は感じていた。
▽別のベテラン記者は、取材の移動にマイカーを使わず、東京本社からハイヤーを呼んで使い、取材で利用していた。このことが発覚し、会社側はこのベテラン記者に数百万円のハイヤー代を請求している。こんな非常識がまかり通っていたことに、私も驚いた。地方の取材移動はマイカーが原則だからだ。
▽一方で県庁所在地の総局長経験者のベテラン記者は、よく働いていた。事件事故があるとすぐ現場に行き、記事を書いた。私がデスク当番をしている時は、頼もしい記者の一人だった。この人も1年ごとの契約だった。
▽こうしてみると、60歳を過ぎると、仕事をしない記者と仕事をする記者がいることがよくわかった。仕事をしない記者は、危機感がないのか、全く仕事をしてくれなかった。そのくせ、自分の名刺には、「ジャーナリスト」と書いていた。笑ってしまった。
▽朝日新聞は定年を65歳に延長するにあたり、全社員に細かな注意を出していた。趣旨は同じ正社員として、きちんと働いて欲しい、サボってはいけない、という内容だった。既に退職していた私はこの文章を読んで笑ってしまった。本社は60歳以上の社員はサボると見ていたのだ。だからこんな注意書きをメールで送ってきたのだと思った。
▽ちなみに、シニア記者の給料は、現役時代の3分の1となり、その制度設計は、定年延長後の60歳代以降の社員にも適用されている。つまり60歳になれば年収が激減する。この事実を持って、「だから、私は仕事をしない」という論理を、一部のベテラン記者が主張していた。悲しい論理だ。給料を正社員並みとせず、下げる朝日新聞も酷いが。


★760運転マナーの悪さと迷惑駐車の発生率は比例する(2025/11/04掲載)

▽運転マナーの悪さと迷惑駐車の発生率は比例する。私が地方支局に勤務している時に、そんなことを痛感した。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川局に勤務している時だ。支局は住宅街の一角にあり、道路を挟んだ向かいが市立体育館だった。支局の車庫の前に細い道路によく迷惑駐車された。体育館の駐車場スペースが狭いこともあって、この一般道路に平気で迷惑駐車をしてしまう輩が多かった。
▽車庫前に迷惑注射されると、私の車を出すことができない。特に取材で出ようとしている時、事件事故の急ぎの取材をしようと出たい時、大変困った。その場合は仕方ないので、110番して警察官に来てもらい、この迷惑駐車を取り締まってもらった。おそらくこの車の運転手は、違法駐車という意識など全くないのだろう。
▽この渋川支局で痛感したのは、ドライバーのマナーの悪さだった。一般道を私が車で運転していると、脇道から急に車が飛び出してくる。左右を確認しないで脇道から出てくるから、衝突の危険性が多かった。ウインカーを出す時も、ブレーキをかけてから交差点を曲がる直前にウインカーを出すから、怖かった。後続車から見ると、前の車が急ブレーキをかけてくるのだ。ウインカーとブレーキの順番を間違えている。
▽交差点の角にコンビニがあると、赤信号を避けるため、コンビニの駐車場をショートカットして使うドライバーも多かった。駐車場には人が多くいるし、危険なのに平気でショートカットしてしまうドライバーが群馬には多かった。
▽道路工事のため相互一方通行している際、カウントダウンの信号機があっても、カウントダウンがゼロになる前に渡ってしまうドライバーも多かった。群馬のドライバーはせっかちだった。一方通行を平気で逆走する。高級車が多かった。
▽こうしてみると、迷惑駐車をするドライバーと運転のマナー違反ドライバーの割合は比例している。違法駐車も運転マナー違反もともに行っているドライバーが多いと私は気づいた。
▽これは埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局でも経験した。
▽この支局には支局長以下2人の支局員がいて、自前の駐車場がないため、民間の駐車場を人数分借りていた。このうち私が使っていた民間駐車場は南越谷駅近くの居酒屋の向かいにあり、時折、勝手にこの駐車場に止めてしまうドライバーがいた。車を止めてそのまま電車に乗って東京に行ってしまうのだ。非常に迷惑な車だった。
▽私は取材から戻ってもこの民間駐車場にマイカーを止めることができない。止めなければ、支局に戻って原稿を書くこともできない。時間がない。仕方ないので、時間式の駐車場を新たに借りて、そこにマイカーを止めて支局に戻った。後に警察に電話して、この迷惑駐車の車を撤去してもらうことにした。本人は東京に行っており、しばらく戻ってこないと言うから呆れてしまう。
▽民間駐車場に止めているので、警察としては一般道の違反としては摘発できないのだ。迷惑された方はとんでもないが、何の違反金も取れずにいるだけだ。
▽東埼玉支局館内でも、ドライバーのマナーの悪さは目立った。赤信号なのに延々と交差点を右折する車が続くし、脇道から急に車が飛び出てくる。一時停止はしない。歩行者がいるのに減速しない。携帯電話をしながら運転をする、今で言うスマホ運転をする。高速道路での車線変更にウインカーを出さない。
▽迷惑駐車をするドライバーは、運転でマナー違反を繰り返している。比例しているのだ。


★759朝日新聞のいびつな地方人事とその結果(2025/11/03掲載)

▽朝日新聞に入社する新人記者数が少なくなったため、県庁所在地の地方総局や地方支局に配属される記者の年齢構成が、異様にいびつになっている。総局長やデスクを除けば、地方総局の年齢構成は30歳以下の記者でかつて占められていたが、ここ10年以上は総局の半数が40~60歳で占められるようになった。その結果、何が起きているのか。
▽私は現在、さいたま市に住んでいるので、読む新聞地方版は各紙の埼玉版である。特にOBであることから、朝日新聞は熱心に丁寧に読んでいる。
▽その朝日新聞埼玉版でここ1~2年気になるのが、一部の地域では地方自治体や地方議会の問題点、地方の街ダネが全く出なくなったことだ。行政と議会との水面下の駆け引きや闘い、議会と議員との確執、議員と行政との対立など、取材すれば、必ずと言っていいほど、議会民主主義に絡む話が出てくるはずなのに、朝日新聞では全く出なくなった。朝日新聞埼玉版で出てくるのは、県政や県警の話ばかりで、地方行政の話などほとんど出てこない。2025年に発生した八潮市のマンホール陥没事故は、規模が大きかっただけに連日報じられてきたが、これは全国的に注目されたからであって、記者の努力ではなかった。
▽どうして、こうも朝日新聞からは地方ネタが消えたのか。
▽それは担当者が40~60歳代の高齢者で埋められ、腰が重くなり、要するに担当自治体を回っていないためだ。私は長い間、地方を回ってきたから分かるが、地方自治の話や地方議会、地方の街ダネは、記者自身が担当者という自覚を持って、積極的に回っていかないと、ネタは取れない。朝日新聞埼玉版を読んでいると、回っていないことがよく分かる。回ろうとしていないことが、よく理解出来る。やる気がない、ということなのか。
▽行政や議会を回るというのは、時間がかかる。記事になるものがあるのか、分からないまま回るので、非効率だ。だから、回らないのだろう。
▽しかし、御用聞き、よろしく、庁舎回りは記者にとって大切な取材手法だ。担当部局の責任者を訪ねて、雑談をしていく。雑談の中で、現在、行政内部で何が起きているか、ヒントを見つけていく。こんな庁舎回りが出来ていないのだろう。発表ものしか書けないのだろう。悲しくなる。
▽朝日新聞は地方各地に記者を配備し、全国紙として誇ってきた。入社する新人記者も多く、地方には若い記者が配置されて、切磋琢磨して取材をして、紙面を作ってきた。やる気があったし、地方版も充実していた。
▽それに伴って部数も増加し、読売新聞とともに、全国紙としての競争を繰り広げてきた。こうした地方の支えがあるからこそ、経営が成り立ってきたし、本社では特ダネ競争に金や人を投入することが出来た。地方取材網の充実が、新聞の経営を支えてきたのだ。
▽それが斜陽化が進む現在、地方の取材網が縮小されて、記者数も少なくなり、紙面は地方自治や議会を監視する役割も放棄しようとしている。仕事をしない中高年記者が増えて、紙面が劣化すれば、さらに部数は減っていく。
▽その結果、経営は悪化して、本社の取材能力に影響が出ようとしている。「経費節減」という名目で、取材意欲が削がれようとしている。
▽つまり、地方取材網の劣化が、本社の取材能力の劣化を招こうとしていることに、経営陣は気づかなくてはならない。
▽地方にやる気のない中高年記者を置いている施策は、もう辞めた方がいい。
▽読者に失礼だ。


★755合併で受け継いだ旧伊香保町役場の負の遺産・第2弾《2025/10/22掲載の「751平成の大合併で明らかになった旧伊香保町の無駄遣い」の続報》(2025/10/28掲載)

▽平成の大合併で、群馬県では渋川市と合併した旧伊香保町でにずさんな会計処理が行われ、当時の町長らが逮捕され、そのツケを合併した渋川市が背負うという判決が出された。伊香保町の犯罪なのに、なぜ渋川市が税金で負担しなければならないのか。平成の合併で、負の遺産を引き継いでしまった責任はだれが負うのか。
▽まずは当時の地元紙の記事を読んでほしい。
《伊香保町の前町長、石坂稔容疑者(70)=前橋市前箱田町=が在任中の二〇〇二年七月に町名義で虚偽のローン契約を結んだ事件で、町に損害を与えたなどとして、県警捜査二課と渋川署は二十五日、背任や虚偽有印公文書作成などの疑いで、石坂容疑者ら四人=有印公文書偽造罪などで起訴済み=を再逮捕した。県警は、旅館の経営危機に目をつけた機械販売業者らの話に乗った石坂容疑者が数千万円を見返りに犯行に及んでいたとみて調べている。
▽石坂容疑者のほかに再逮捕されたのは、東京都港区海岸、自営業、保科準二(49)、同渋谷区広尾、会社社長、唐木峰男(43)、京都市上京区西裏辻町、同、宮尾昭徳(53)の三容疑者。
▽調べによると、伊香保町長だった石坂容疑者は、保科、唐木の両容疑者と共謀して〇二年七月上旬、自分たちの利益を図る目的で、その任務に背き、町が生ごみ処理機を約四億八千万円で大阪市内の金融機関から購入する虚偽のローン契約を無断で結び、町側に損害を与えた疑い。
▽また、石坂、宮尾の両容疑者は〇三年二月下旬と六月中旬、同契約に基づく返済が滞ったため、石坂容疑者が経営する旅館で、計約一億二千万円を支払うことを確約した念書各一通を作成したなどの疑い。
▽四人はいずれも容疑を認めている。二通の念書とも本物の町長印が押されており、石坂容疑者がすでに町長でなかった〇三年六月の犯行では町関係者が公印を持ち出していた疑いも浮上している。
▽これまでの調べで、処理機の実勢価格は一億数千万円とされ、契約価格の四億八千万円との差額利益の大半は、処理機販売会社を経営する唐木容疑者側に渡ったとみられている。
▽伊香保町の村尾隆史助役は「捜査は順調に進んでいると思う。背任容疑については損害の危険性を与えたということであり、民事裁判に影響はないと考える」とコメントした》(2005年2月26日付上毛新聞)

▽要するに、合併前の伊香保町で元町長が公印を使用して、開催されていない議会の議事録を作成して、町と金融機関でリース契約を結んだ事件だ。
▽そして私が赴任していた朝日新聞渋川支局時代にその民事訴訟の判決が2007年4月10日にあ東京地裁であった。
▽簡単に言うと、渋川市に2億6700万円あまりと16年からの年利5%をつけて支払えという内容だ。訴訟費用は7割負担しろというもの。
▽トンデモナイ金額だった。
▽東京地裁で取材をしていた前橋総局の記者から電話が入った。市の敗訴を知った。
▽ファクスで判決文を送ってもらい、私は朝日新聞群馬版にこんな雑観記事を書いた。

《2億6千万円--。東京地裁の判決に、渋川市の幹部は衝撃を受けている。合併に伴って旧伊香保町から引き継いだ「負の遺産」と言われた裁判。市はこの裁判を、元町長石坂被告の個人犯罪ととらえてきた。それだけに原告側の支払い請求が認められたことも、さらには判決の金額が想定外の高額であることにも、幹部らは一応にショックを隠さない。控訴する方針だ。
▽「伊香保町と契約した」という原告側に対して、市幹部はその契約書のコピーをかざして、こう強調した。「地方自治体と業者が通常かわす契約書の体裁を取っていない。これ一つ見ても、ずさんな個人の犯罪だ」
▽さらには犯罪に使われた町長名の公印について、こうも言い切った。
▽「厳格に管理されているはずの町長名の公印が、何回も町長1人だけの判断で使われるなんて信じられない」
▽判決ではこうした市の主張を認めて、石坂元町長が伊香保町を代表して原告の間で売買契約したものではないと断定した。しかし一方で石坂元町長の行為に対して伊香保町は損害を賠償する責任があり、その権利義務を引き継いだ市は賠償義務を負う、とした。判決理由でも公印が幾度も使われている点を引き合いに出しているが、原告側の過失は軽度とした。
▽市が今回の判決で衝撃を受けたのは、その金額の高さだ。内部ではこれまで、和解する場合に備えて何種類かの金額を想定した和解案を作ることを検討。その際、裁判長の発言からして損害請求額に対する負担の割合は、たとえ認められたとしても、1割から2割ではないか、と担当の弁護士から言われていたことも紹介されていた。それだけに今回の金額は、請求額の約7割を認めるという、「まさに青天のへきれき」(担当幹部)という金額だった。
▽判決の連絡を受けて、市は内部で対策会議を開き、判決の内容を検討。そして木暮治一市長名で、「市の主張を否定するものであり、誠に遺憾」とするコメントを出した。その中では、「本事件は、元伊香保町長石坂稔が、町長としての名義及び公印を悪用して締結した私的契約であります」と呼び捨てて強調した。今後は控訴することも含めて市議会と協議して対応を決めるなどと説明した》

▽当時の日記にはこう書いていた。
《こんな判決が通ってしまえば、市の税金が使われるのだぞ。伊香保の話なのに、合併って怖い》
▽当時の市議らもこんな感想を述べている。
《厳しい判決が予想されていましたが、何とも納得できません。合併したとはいえ伊香保町の問題をなぜ私達の税金で、しかも個人の犯罪の弁償をしなければならないのか。市民の納得は得られません、
▽せめて石坂および犯罪に関わった者とその家族、当時の伊香保町の幹部職員、町会議員などが私達より重く責任を受け止めてもらいたい》
▽伊香保町の責任を、渋川市が取るという、合併ゆえの負の遺産を背負った判決だった。
▽合併は、市町村公務員の人件費を減らす目的もあったが、負の遺産を背負うとは、予想もしなかったことだろう。

▽さらにはその後、私はこんな記事を書いた。
《旧伊香保町の元町長による背任事件に絡み、合併した渋川市がリース会社から巨額の支払いを求められた訴訟で、一審東京地裁が2億6700万円を支払うよう命じたが、そのリース会社が市内の小中学校にリースしているパソコンが数百台にもなっていることが、分かった。裁判では原告と被告との関係であると同時に、教育現場ではパソコン教室を中心とした機器をリース契約していたわけで、一軒矛盾した状態に、市幹部は悩んでいる。
▽市によると、旧市の中学校4校のうち2校で、計80台のパソコンをこのリース会社からリース契約しているほか、小学校6校では全学校で計240台を契約していた。現在も契約が続行中で、現場で教諭や児童、生徒が使い続けている。リーズ期間は基本的に5年で、市との契約が切れると、入札によって納入メーカーを決めていく。
▽リース会社と市はこれまでトラブルもなく、入札自体にも問題はなく、このリース会社の提供するパソコンが学校現場で利用されてきた。
▽矛盾した状態になったのは、昨年2月の合併だ。旧伊香保町が抱えていた元町長の事件とその裁判が、新しい渋川市に引き継がれたからだ。市にとって、それまではパソコンをリースする会社という存在だったのが、今度は一転して金の支払いを要求する原告となって登場した。そして巨額の支払い命令が10日出た。
▽「裁判の判決は不当だが、しかし、入札に不備があったわけではないから、リース契約を打ち切る理由にはならない」と幹部。別の幹部は「何らかの対策を考えないと。一方でケンカして、他方で握手しているようなものだから」と渋い顔だ》


★754新聞の締め切り時間を知らない記者、守らない記者(2025/10/27掲載)

▽新聞記者になると、新人時代から徹底して叩き込まれるのが、新聞の締め切り時間や降版時間だ。夕刊や朝刊にはそれぞれ版どころの締め切り時間、降版時間があり、その時間を逆算して、取材を終えて原稿を書いていく。しかし、それが最近の若い記者は、出来ていないような気がする。締め切り時間、降版時間を無視して仕事をしていると、必ず痛い目に遭う。それがこの新聞業界の宿命だ。
▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務している時の話だ。管内の老人ホームで入所していた老人6人が亡くなった、とNHKの昼のニュースが伝えていた。集団感染らしい。たまたま私はその時、同業他社と昼食を外で食べている最中で、ニュースを見て、慌てて部下の支局員に電話連絡をして、現場に行き、取材をするよう求めた。私も食事を切り上げて支局に戻り、電話取材を始めた。夕刊最終版4版に間に合うかもしれないと思っての判断だった。当時の夕刊最終版の4版の降版時間は午後1時半。フラッシュ原稿でも入ればいいなと思っていた。新潟では夕刊がないが、都内に配達される夕刊4版に間に合えば良いと思った。しかし実際は間に合わなかった。
▽問題はこの老人ホームでの死亡事故の情報源がどこだったのかということだった。タレコミでもない限り、行政機関が発表していたかもしれない。そう思った。後に知って驚いたのは、なんと新潟市の新潟県庁記者クラブに午前中に投げ込み資料があったのだ。この投げ込み資料を見て、NHKを含めた各社が取材をして、NHKは昼のニュースで、他社は夕刊に間に合うように原稿を送っていた。朝日新聞だけが夕刊に間に合わなかったのだ。いわゆる「特落ち」だった。
▽しかも驚くことに、その時の県政担当者が、午前中に一度だけ記者クラブを覗いただけで、夕刊警戒を怠っていたのだ。夕刊最終版降版時間の午後1時半まで記者クラブにいたならば、朝日新聞は特落ちをしないで済んだはずだった。夕刊の降版時間、締め切り時間を気にして取材活動をしないと、こういう痛い目に遭うことを、この若い県政担当記者は知らなかったのだ。
▽何も記者クラブにずっと貼り付いていろ、と言っているのではない。当時の夕刊は、朝日新聞の場合、2版、3版、4版とあり、それぞれの締め切り時間と降版時間が決まっていた。このそれぞれの時間を気にして取材活動しなければいけないのに、担当記者はそれを怠っていた。そのために特落ちをした。だが、この若い記者に対して、上司であるデスクや支局長が注意するようなことはなかったようだ。
▽こんなケースもあった。私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務している時のことだ。管内のさいたま地検越谷支部が、ある事件で被疑者を起訴する事案があった。朝日新聞だけが特落ちをした。朝日新聞さいたま総局デスクは、東埼玉支局に後追いの取材をするよう求めてきた。私がさいたま地検越谷支部に行くと、対応はすべて本庁でしているとして取材を拒否された。
▽後に知るのだが、さいたま地検と県警記者クラブは協定を結んでおり、地検支部での扱いはすべて本庁で行うことになっていた。今回の起訴も本庁が投げ込み資料を、県警記者クラブの各社のボックスに入れていた。これを県警担当記者が見逃していた。否、見逃したのではなく、県警担当記者が記者クラブを離れてしまい、その投げ込み資料に気づかなかったのだ。
▽これも担当記者が締め切り時間を気にしていたなら、夕刊降版時間まで県警記者クラブにいただろうし、特落ちをすることもなかっただろう。
▽そしてこの特落ちの理由を全く理解しなかった当時のさいたま総局デスクは、その特落ちを東埼玉支局に押し付けてきたのだ。デスクもそんなルールを知らないのだから、恥ずかしいと思ったし、デスクに対して私は怒りを持った。責任逃れだし、全く的外れの言動だった。
▽県政記者クラブや県警記者クラブを、安易に離れるとこういう特落ちが必ず出てくる。締め切り時間、降版時間を無視していると、こういうことになるのだ。
▽私が現役の時、朝日新聞の夕刊の締め切り時間、降版時間はそれぞれ時間が設定されていた。締め切り時間とは、記者がデスクに原稿を出し、デスクが手直しをして、整理部に出す時間を指す。そしてその1時間後には降版時間と言って、紙面を下ろす時間が設定されている。この時間が過ぎてしまえば、どんなに文句を言おうが、紙面は変更できない。このルールを知らない記者が多すぎる。
▽私が北海道新聞記者を辞めて朝日新聞に入社し、埼玉県警担当のキャップをしていた時もそのことを痛切に感じた。前任の担当キャップも、そして同業他社も、夕刊3版の降版時間が終わると、記者クラブを離れて、外に昼食を摂りに出てしまうのだ。私はえっと驚いた。まだ夕刊は4班の降版時間まで1時間ある。この1時間の間に、事件事故が発生したり、新たな県警の動きが出たら、完全な特落ちになる。記者クラブにいなければ、全く情報すら取れないのだ。新聞の締め切り時間と降版時間を知らなさすぎると私は思った。ちなみに私はその県警担当キャップとして、夕刊3版、夕刊4版に特ダネを何回も入れたことがある。そのためか同業他社はやっと夕刊最終版の4版降版時間まで記者クラブにいるようになった。痛い目に遭わないと気づかないものなのだろう。
▽逆に朝刊最終版の14版の最終紙面に突っ込み原稿を入れたことも触れよう。
▽私が新潟県佐渡市の佐渡支局長だった時に、月に数回、海を渡って、新潟総局のデスク当番に入っていた。ある日の夜、朝刊の新潟版の降版時間が終わり、総局内で若い記者と軽く飲食していた。新潟県に届く12版▽という統合版の降版時間が終わり、私はホテルに引き上げた。そんな深夜に火災が新潟市であった。4人が死傷した。私はタクシーで新潟総局に戻り、若手記者から原稿は全く届かなかったため、記者たちが断片的に送ってきた材料から、私がフラッシュ原稿を作り、わずか10行の原稿を社会部デスクに送った。最終版の14版に段数が立つ見出しとともに、フラッシュ原稿として社会面に入った。整理部記者が紙面を変更して、突っ込み原稿を入れてくれたのだ。
▽最終版の降版時間を気にしたからできた突っ込み原稿だった。私は「やった」と思った。こういう降版時間ギリギリの芸当ができたと感じた。
▽そう、新聞には常に締め切り時間と降版時間があり、その時間に間に合う記事を送れば、フラッシュ原稿として紙面になるのだ。自慢話をしているのではない。降版時間を気にしながら取材をし、デスクも降版時間を気にしての作業をしなければ、間に合う原稿も間に合わなくなる、ということを言いたいのだ。


★751平成の大合併で明らかになった旧伊香保町の無駄遣い(2025/10/22掲載)

▽群馬県渋川市に平成の大合併で合併した旧伊香保町で不要なゴルフ会員権を購入し、資産価値が2000万円からたった6万円になっていたことが判明し、問題になったことがある。私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の話で、私は「合併前の渋川市では無縁だった株や会員権に泣かされている」という記事を書いた。
▽平成の大合併後に時折明るみに出るのが、旧町村のずさんな会計処理やいい加減な支出だ。合併によって町職員、村職員よりは優秀な市役所職員による会計検査で、その会計処理や支出があぶり出されて、後に問題になっていくケースがある。今回のレースはまさにこれに当たる。
▽市の幹部から聞いた話で、その資料を私は入手した。その資料を元に取材をした。
▽このゴルフ場は東吾妻町(旧東町)にある「伊香保ゴルフ倶楽部」。前橋市の建設会社グループのレジャー部門として1981年に設立され、旧伊香保町は会員権を2口、計2000万円で取得した。ゴルフ場は預託金200億円を集めてオープンした。
▽だが、預託金のうち179億円の償還期限を迎えても同ゴルフ場は償還を出来ないことが判明。バブル経済の影響で収益が悪化し、会員からは返金を提訴されるなどして経営悪化が表面化した。そして2007年、東京地裁に民事再生手続き開始の申し立てを申請し、事実上倒産した。「バブル経済の典型的なケース」と関係者は指摘する。2008年7月、同地裁は再生計画認可を決定した。
▽再生計画ではスポンサー企業の子会社に事業譲渡して、優先債権者への弁済後に残った残金を一般債権者への配当の原資とするなどを決めた。しかし、問題はその分配額だった。確定債権者数は5991人もいて、確定債権総額は実に526億6500万円に膨れあがっていた。しかし実際には一般債権者への弁済額の総額はわずか1億円。弁済率は実に0.208%でしかなかった。譲渡会社に移行しなかった場合の同市の資産価値は、約6万円でしかないことが同市の計算で判明した。
▽つまり、額面2000万円のゴルフ会員権が、たった6万円になってしまったのに、何の対策も旧伊香保町は立てなかったのだ。
▽なぜ旧伊香保町は、通常の自治体では購入すること自体あり得ないゴルフ会員権を持ったのか。
▽こんな疑問に同市幹部はこう解説した。
「隣の自治体に出来たゴルフ場だから、温泉利用者を増やす好機だと思ったのでしょう。観光のためだと。しかし周囲にはゴルフ場はたくさんあるし、渋川市も自前のゴルフ場を持っているし。現在の不況など見通せなかったのでしょう。市がこの会員権を持ち続けても意味がないのだが」
▽同市では旧伊香保町時代から引き継がれた東電の株も、世界恐慌のあおりで乱高下しており、合併前の渋川市では無縁だった株や会員権に泣かされている。

▽私は当時こんな原稿も書いている。
《渋川市が旧伊香保町から引き継いだ東京電力株約4万株を原資とする二つの基金条例を廃止し、株を現金化する計画が、宙に浮いている。世界恐慌のあおりで株価が下がり、現金化しても売却額が予想外に少なくなり、内部では売却にちゅうちょする声すら出ている。一方では、廃止条例案を9月に可決した市議会は、歴史的経緯があることなどを理由に、保有を求める付帯決議も行っており、市は「売っても損だし、保有してもリスクがある」と頭を抱えている。
▽旧伊香保町が東電株を所有するきっかけとなったのは、同町が1907年(明治40年)に水力発電による町営電力事業を開始したことにまでさかのぼる。その後、国(逓信省)の命令で太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に関東配電会社に出資統合した。その後数年間にわたって国から保証金として交付金を受けていたが、その代替として1954年(昭和29年)に東電株を無償で受けた。国策の代替として得た株だった。
▽水力発電設備は撤去されたが、町はその後、東電株を増資をするなどして保有。2006年2月の合併でこの株券が流失することを防ぐ意味からも、合併前の2005年に、この株券を元にした二つの基金条例を作った。地域を活性化させる事業の財源に充てる「伊香保町地域振興基金条例」と、防災対策経費に充てる「伊香保町防災基金条例」で、合併時にはその条例はそのまま新渋川市の条例として生まれ変わっていた。
▽この「渋川市伊香保地域振興基金条例」と「渋川市伊香保防災基金条例」が、株を基金とした全国でも珍しい条例である一方で、リスクがあることが理由で、地方自治法に抵触する恐れがあることが、最近になって発覚した。元本保証がない株券を原資とする基金条例そのものがおかしいと指摘された。「条例に株の具体数を記すなんて、これだけで縛りがかかる内容。よくこんな条例がまかり通った」と担当者は振り返る。検討の結果、伊香保地区の地域振興や防災対策は一般財源でまかなえるという判断から、二つを廃止する条例案を、9月定例会で提出し可決した。
▽問題は株価の動向だった。売却の検討に入ったが、市議会の付帯決議に加えて、株価が下落。東電株も1時は3000円だったが2400円ほどに落ちている。結局、様子眺めとなった。「リスクがある株を財産には出来ない。今は条例が廃止されて、一般財源と同じ扱いになった。ただ今売却しても、入ってくる現金は少ないし」と市は説明する。当分は株価眺めとなりそうだ》(2008年10月)

▽平成の大合併は、地方自治体のずさんな会計処理やいい加減な支出があぶり出されるという副産物も生んでいた。この意味でも大合併は成功だったのかもしれない。


★【再掲載】049金塊盗難騒ぎ(2025/10/18掲載)

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤めていた時、金塊盗難事件があった。金塊と言っても本物ではなく、レプリカで、犯人はレプリカとは知らずに強引に盗んでいった。しかもそのレプリカと隣には、本物の銀塊が陳列されていて、犯人はそれには無視した。犯人に対して、同情論まで出る始末だった。
▽2017年4月のことだ。世界文化遺産登録を目指していた新潟県佐渡市の佐渡金銀山の一角、同市相川郷土博物館で展示されていた金塊のレプリカ5枚が17日未明に盗まれ、同市が県警佐渡西署に被害届を出した、と支局のファクスに広報連絡があった。支局のファクスはそのまま私のスマホに転送される。「相川郷土博物館で金のレプリカが盗まれた」という内容で、別の取材でマイカーで移動中だった私は、最初はそのニュースの意味はよく飲み込めず、電話取材で済ませようかと思っていた。しかし、写真は必要だと判断し、マイカーを島の反対側である相川に向かわせた。この判断が、結果として良かった。
▽博物館関係者の説明によると、既に被害届を出したという。何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。展示室にあった収納ケースの裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだ。侵入と同時に警備会社が設置したアラームが鳴ったが、同署員が到着した時には、既にレプリカはなくなっていた。
▽ニュースの焦点は、これが本物の金塊ではなく、偽物のレプリカだったことと、さらには広報には書かれていなかったが、同じケースには本物の銀塊3本も展示されていて、こちらは無事だったことだ。このことは博物館の説明で初めて知った。犯人は金塊を本物だと信じて盗んだらしい。しかも、隣の本物の銀塊は目もくれなかったから、笑えた。収納ケースの掲示板には、「佐渡金山から産出された最後の金銀」などと記されており、この表記に犯人がだまされた可能性もある。
▽このレプリカは、金と銀を産出していた佐渡鉱山が閉山した1989年3月、記念として最後の鉱石から抽出した金として展示した。レプリカは何らかの金属に金メッキで加工したインゴットで、長さ118ミリ、横54ミリ、厚さ8ミリの大きさで計5枚が、ガラスの収納ケースに展示されていた。本物の銀塊が無事だったことについて、同市教委の責任者は、
「私も銀塊が本物だとは知らなかった。ホッとしているが、レプリカとは言え、こちらも大切な市民の財産。これからは防犯体制を充実させたい」
と話した。
▽翌日の各紙の記事を見ると、現場に取材に来なかった社は、本物の銀塊が無事だったことは、全く触れていなかった。ニュースとしてはこのことを伝えないと、ニュース性が下がる。電話取材ではこうした「特落ち」が必ず出ることを痛感した。
▽それにしても、用意周到な犯行だった。侵入から立ち去るまでにわずか24分で完了しており、複数犯の可能性も出ていた。
▽同市によると、何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。侵入した倉庫室の隣に展示室があり、犯人は展示室にまっすぐ移動。壁際にあった重い収納ケースを約1メートル移動させて、裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだと見られる。床などには収納ケースを引きずった跡が残っていた。
▽その後の調べで、レプリカの被害額が計5万円であることが分かった。壊された収納ケース(ショーケース)の被害額の方が約45万円と高くなり、計51万2024円の損害だった。
▽その後の市議会全員協議会では、この事件のことが議論されたが、その質疑も笑えた。
▽議員からは、
「レプリカを置いていたのに、展示案内にはレプリカと書いていなかった。これまで観光客は(本物の)金塊だと見てきた。そっちの方が問題なのではないか」
という質問があった。
▽これに対して市教委の担当者は、このレプリカを展示したのは1998年、旧相川町時代で、(2004年に)合併して佐渡市になっても、表記をそのままにしていたと説明し、
「適切ではなかった。見直していきたい」
と釈明した。
▽また別の議員からは、盗難が明らかになった時の市教委の担当者の報道に対するコメントが悪いとして、
「盗まれなかった銀塊が本物で、盗まれた金塊が偽物。泥棒にだってプライドがある」
と犯人に同情するかのような意見も出された。
▽その後、この盗難事件の犯人2人が本州で長野県警に逮捕されて、被告となった2人と同市の間で、和解金86万円を支払うことで合意した。市によると、和解額は86万2024円。事件当初、レプリカの被害額が計5万円、壊された収納ケース(ショーケース)の被害額が約45万円で計51万円が被害額としていたが、双方の弁護士との話し合いで、レプリカの評価額が最終的に1枚5万円相当だとして、損害賠償の慰謝料などを含めてこの和解額になった模様だ。


★747地方支局デスクが出す出稿メモとは(2025/10/16掲載)

▽朝日新聞は県庁所在地の支局を「総局」という名称に変更し10年になる。その総局のデスクの仕事の一つに、編集担当デスクに出す「出稿メモ」というのがある。その出稿メモすら書けないデスクがいて、驚いたことがある。
▽まずは出稿メモについて説明する。
▽県内には総局員の記者のほか、地方には複数に記者がいる準支局、さらには1人勤務の支局が点在していて、県内の記者数はかつて10〜30人がいた。1人支局はかつては通信局や駐在と呼ばれていた。
▽この記者たちが、その日にどんな原稿を出すか、その日当番のデスクに事前に伝えるのが出稿連絡だ。
「県政担当から、本日の知事会見で注目事業発表、50行」
とか、
「県警からは殺人事件の続報、40行」
▽さらには地方支局からは、
「秩父夜祭、盛大に開催、30行、写真付き」
などと、電話やファクス、最近では社内メールなどで出稿連絡が次々と届く。
▽これを当番デスクが、本紙の社会面に行く原稿と地方版に使う原稿を振り分ける。その中から地方版に限ると、どれを地方版のトップ記事にするか、2項目目を何にするかを固めていく。トップ記事とは「アタマ」と読んでいるし、第2項目目は「カタ」と読んでいる。アタマとカタが決まれば、写真の扱いと、全体の行数を換算して、原稿を調整していく。原稿の行数が多い時は、原稿を削ることもあるし、内容が分からなければ、筆者に問い合わせをして、原稿を直す。
▽県内の記者から届いた原稿をデスクがこのように手直しをして、地方版編集デスクに原稿を出すことを、「リリース」と呼んでいる。
▽そしてリリースと並行して作るのが、出稿メモだ。
▽アタマはAの原稿、カタはBの原稿、第3項目目の原稿はCにする。
▽こんな内容をかつてはフックスで、現在は原稿を処理する会社独自のシステムで地方版編集デスクに届ける。これが出稿メモだ。原稿の行数は地方版1ページでざっと200〜250行が適切だ。写真は2〜3枚だ。
▽出稿メモを受け取った地方版編集デスクは、実際の編集担当者にメモを渡して、紙面イメージを作っていく。
▽だから出稿メモがなければ、紙面は作れないし、何も出来ない。また行数感覚や紙面イメージが総局デスクにないと、紙面が滅茶苦茶になる。行数は長くても短くてもいけないし、写真が多くてもなくてもいけない。これが紙面感覚というモノだ。
▽私がある支局の支局長をしていた時だ。政治部出身のデスクが、赴任早々、出稿メモを作れないことを知った。えっと思った。時間が刻々と過ぎていき、地方版編集デスクの手元にメモが届かない。要するに出稿メモを総局デスクが作ることを知らないまま赴任してきたのだ。驚いた。そんな教育も受けていないのかと思った。
▽記者が原稿を出せば、紙面が勝手に出来ると思っていたようなのだ。これには私も苦笑した。苦笑どころではなく、ブラックユーモアだと思った。
▽考えてみれば、政治部の記者は、メモ上げの文化で育ってきている。政治家や関係者に取材して、自分の判断はしないで、キャップやデスクにメモだけを上げる。メモ上げしかしない仕事をしているから、朝日新聞がどういうシステムて紙面が出来ているか全く知ろうとしない。どういうシステムで紙面が出来るのか、理解していないまま、総局デスクに赴任してきたのだ。出稿メモを作れないということは、紙面感覚もないということだ。
▽こんな人間を政治部は平気で地方総局にデスクとして送り出してくる。
▽このデスク、政治部に戻りたかったが、結局戻れないまま、地方放送局に出向し、そして編集以外の部署に戻ってきた。
▽どこに行っても、使えなかったのだ。


★743新人記者時代の火事取材の失敗(2025/10/10掲載)

▽新聞記者は新人時代にいろいろと失敗する。失敗することで成長もある。恥じることではない。今回は私の新人時代の失敗談を話したい。
▽住宅密集地で夜火災が発生し、店舗兼住宅など3棟が全焼する火災があった。現場に急行した。現場では消防による放水と、現場の関係者から事情聴取する捜査員でごった返ししていた。
▽私は張り込み線をくぐって現場に近づいた。知り合いの捜査官から、
「店のママさんが天ぷらを揚げていた時に火が周囲に燃え移ったらしい」
と聞き出して、私は近くの公衆電話から原稿をデスクにフラッシュ原稿として送った。
▽その際、私は表現内容を工夫した。
「店のママさんの料理で出火した」
と露骨に表現することは避けて、
「店の人の料理で出火した」
という表現に改めた。店のママさんの責任が露骨に分かってしまうと思ったからだ。曖昧にしたつもりだった。私なりに考えた表現方法だった。
▽しかし、紙面が掲載された翌日だったか、抗議の電話があった。
▽その店のママさんではなく、その店で働く従業員の女性からだった。
「店の人の料理、とは私のことになるのではないか」
「私は火災に関与していない」
▽聞けば、店にはママさんとその従業員しか働いておらず、「ママさん」ではなく、「店の人」としたため、この女性従業員が関与する表現になってしまったのだ。
▽そのことに気づいた時、私は愕然とした。ママさんを守ったつもりが、従業員を加害者に仕立ててしまったのだ。私の失敗だった。
▽デスクとともにその従業員に菓子折を持って謝罪に行った。
▽もっと曖昧な表現があると思った。
「店内で料理をしていて、火災になった」
と書けば良かったのだ。今振り返っても、想像力が欠如した表現だった。
▽想像力の欠如が、女性従業員を傷つけてしまったのだ。
▽最近の若い記者は火事の現場すら行かなくなっているが、このように火災取材はかなり難しい。紙面の締め切り時間が迫っているのに、出火原因などすぐには分からないし、燃えた建物の構造がどうなっているかを知るのも苦労する。延べ面積も推定で補うしかないこともある。
▽火災現場に限らないが、もっともっと現場に行ってもいいと私は思う


★741朝日新聞社にもいた幽霊社員(2025/10/08掲載)

▽朝日新聞の、とある県庁所在地の地方総局で、女性記者が精神的な病でしばらく休んでいた。ようやく復帰すると思ったら、今度は親の介護で休暇を申請。さらには結婚して子供ができたとして産休を取り、さらには結婚相手が海外に赴任したため、休暇を取り10年近く休んでいた。休職制度があるため使うことに問題はないが、様々な理由をつけて休むという彼女の態度に疑問を持つ社員は多かった。朝日新聞にも幽霊社員がいたのだ。
▽彼女が復帰して、地方総局に戻ってきた時、彼女を知っている記者はほとんどいなかった。たまたま私は転勤に次ぐ転勤で同じ県内に赴任したため、昔の彼女を知っていたが、まさかこんなにずっと休むとは思ってもみなかった。
▽「朝日新聞にも幽霊社員がいた」と書いたのは、読売新聞にもいたことを、当の読売新聞記者から聞いたことがある。休職期間が長いと、本人も出勤するのが辛くなるし、周囲も転勤してしまい、だれも休職している社員について分からなくなってくる。理解もされない。
▽新聞記者の仕事は精神的にきつかったのだろう。彼女は取材現場から時折抜け出すことが多かった。そして精神的病だとして休暇を取り、1年以上休んでいた。
▽そしてようやく復帰という段階になって、今度は親の介護の休職申請をしてきた。これで再び彼女は1年以上休んだ。
▽さらに周囲を驚かせたのは、結婚して妊娠したという報告だった。今度は産休で休むことになった。
▽そして驚いたのは、結婚相手が海外に赴任したことだった。妻として彼女は子供も連れて行った。これで海外に2年移住し、休んだ。結婚相手による海外移住で、これも休職の理由として成り立った。
▽つまり10年近く一度も支局に来ることもなく、ずっと休んでいた。
▽ずっと休んでいたため、転勤することも出来ず、彼女の肩書は地方総局員のままだった。
▽そして海外赴任が終わって、総局に復帰した。この幽霊部員を、ほとんどの記者は知らなかった。総局長も何人も交代しており、総局長すら知らない幽霊社員だった。
▽唯一、彼女を知っていたのは、私1人だった。
▽ずっと休んでいたから、もちろん転勤はできない。まずはこの地方総局で働いてもらうしかない。そんな事は彼女もわかっていて、我慢して仕事をこなした。もちろん子育てがあるため、時短給の勤務だ。
▽数年前に本社に移った。もちろんいわく付きの幽霊社員だったため、本社の外勤部門ではなく、内勤部門に移った。
▽休暇制度があり、休暇を取るのは社員の権利だ。これに対して周囲が非難をする事は許されないだろう。しかし、制度をうまく完全に使い切るという彼女の生き方を見て、私も含めて周囲は疑問に思っていた。権利を行使するのは労働者として当然かもしれないが、社員としていかがなものかと私は思った。彼女が突然休んだために、何人か迷惑を受けていた。少数の総局では、みんなが仕事をカバーし合っている。彼女が休んだために、特定の人間に非常に負担になったのだ。これが本社で大所帯なら、周囲の負担は減るが、地方総局ではその負担が大きい。
▽権利は分かるが、社員としての義務も分かってもらいたいと私は思っていた。
▽たぶん、こんな幽霊社員、どの企業でもいるのだろう。


★738トライアスロン大会出場には金がかかる(2025/10/03掲載)

▽新新潟県佐渡市の佐渡島で、毎年9月に行われる鉄人レース、佐渡国際トライアスロン大会を、私は朝日新聞佐渡支局に勤務している時、毎年取材していた。ここで驚くのは、出場選手たちの顔ぶれだ。プロからセミプロ、素人まで参加するのだが、多くが金銭的に余裕がある人、会社の部長だったり、自営業者だったり、医師だったりするのだ。やはり金銭的に余裕がないと、こうしたレースには出られないだろうと私は勝手に思ってしまった。
▽その大会は数種類のコースに分けられ、それぞれスイミングと自転車、そしてランニングを使う。一番長い距離だと、最初の水泳が数キロ、次の自転車によるレースが周遊コースで実に138キロ、そして最後のマラソンが42キロとまさに過酷なレースが展開される。この過酷な鉄人レースに毎年2000人近い選手が参加する。
▽取材では水泳が始まる1時間以上前に、指定された場所に集まり、臨時の取材用ボートに乗って、海からの撮影を行う。
▽確かに金がかかるスポーツだ。東京からの参加となると、選手本人の運賃として新潟までの新幹線とフェリーやジェットフォイル、さらには佐渡島・両津港からはタクシーで宿泊先まで行く必要がある。自転車も運ぶため、多くはフェリーを使わなければならない。その搬送料金も必要だ。。
▽使っている自転車だって数十万円から数百万円の値段だ。ちょっとした普通乗用車が買える値段だ。この大会に出ること自体が金がかかるのだ。
▽おまけにそうした鉄人レースに出るためには練習も欠かせない。スイミングでの練習やマラソン、それには自転車。すべてに金がかかるのだ。
▽だから鉄人レースは、ある程度金銭的余裕がある人のレースになってしまう。
▽考えてみたら、一般的にもスポーツは、金銭的に時間的に余裕がある人のものだ。トライアスロンに限らないが、スポーツには金がかかる。
▽野球をしようと思えば、ユニフォームも必要だし、グローブやバット、ボールが必要だ。サッカーでもボールが必要だし、シューズも必要だ。バレーボールならコートも必要だ。マラソンだってシューズも必要だし、サングラスも必要だ。金がかからないスポーツなどない。
▽こうして考えると、スポーツというものは余裕がある人の余暇のようにも思えてくる。以前から高学歴な人間ほど、スポーツとセックスに関心が高いと言われてきたが、まさにそうなのだろう。スポーツもセックスも、金銭的余裕があるからこそ手が出せるものなのだ。
▽佐渡国際トライアスロン大会を見ていて、私はこんなことも考えてしまった。


★735オフミとインターネット(2025/09/30掲載)

▽「オフミ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。オフミとはオフ・ミーティングのことで、ミーティングから外れるという意味から、通常は飲み会を指す。私は宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤めていた1990年ごろ、このオフミに参加していた。楽しい思い出だ。
▽ウィンドウズ95が出る前の1990年前半だった。インターネットの黎明期で、ニフティーやBIGLOBEなどの通信会社がインターネット上に掲示板を開き、利用者は電話回線を通じて、パソコンでその掲示板を使って会話を楽しんでいた。自分の話をアップし、他人の話を読んで、楽しんでいた。
▽テーマごとに掲示板が作られ、私は宮城県人らが自由に発言するあるサークルの掲示板に入り、自分の話をアップし、他人の話を見ていた。
▽この掲示板を「宮城ボード」と呼んでいた。略して「宮ボー」だ。この「宮ボー」にみんな自分の話を書いて、自由にアップする。それを読むだけでも楽しかった。あるサラリーマンは会社の内部のいろいろないざこざを書いていたし、出張時でのトラブルも書いて笑いを誘っていた。夫婦で参加している人もいた。お互いに陰口を掲示板で書いていて、ほのぼのとして面白かった。保険会社に勤務しているサラリーマンもいた。オフミは異業種交流の場だと私は思った。みんなハンドルネームだったので、最初は本名も分からなかった。
▽当時はこの掲示板を読むには電話回線でインターネットに繋ぐ必要があった。電話代が気になっていたから、いろいろな掲示板の文章を自動でダウンロードするソフトも出回り始めた。繋げたままで掲示板を読むと電話代がかかるので、一気にダウンロードして読むというソフトだった。インターネット黎明期ではよく電話代を気にしていたことも思い出す。
▽「宮ボー」でのやりとりがしばらく続いた後、今度みんなで一回会おうということになって飲み会になった。オフミの始まりだ。その後も掲示板でのやりとりは活発に続き、オフミも何回か行った。1泊2日の旅行にも行った。中には夫婦で揃って掲示板に参加している人もいた。
▽私はその後転勤で東京本社に上がったが、この「宮ボー」の掲示板はずっと続いていた。私も仙台への出張があると、時折その仲間らと会って、飲食をともにする時が続いた。
▽そしてインターネットの発達とともにこの掲示板が閉じられ、しばらくはこの宮城県と仲間たちはメールでのやりとりがあった。
▽そこで発生したのが東日本大震災だった。掲示板の仲間の一人の自宅が被災し大変なことになっていた。気にはしていたが、私は掲示板もなくなり、オフミもなくなり、年賀状のやり取りだけになっていた。
▽そして復活したのがLINEでのやりとりだった。友達になり、また再びやりとりが始まった。
▽あれから30年以上がたったが、みんな年をとり、体の痛みや病気の話、そして孫の話をするようになっていた。そして数年前、東日本大震災で被災した仲間が亡くなった。LINEでその死をみんなで悼んだ。
▽単純な掲示板だったが、あのころのやりとりが懐かしい。みんな、元気かい。


★733地域新聞の興亡を見た(2025/09/26掲載)

▽日本の全国各地には、新聞協会にも入っていないような小さな経営媒体の地域新聞がかなり存在する。私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務している時には、地元に「上越タイムズ」という地域紙があったし、次に転勤した札幌市の朝日新聞北海道報道部時代にも、「札幌タイムス」という地域紙があった。しかしこの二つの新聞は明暗を分けた。
▽上越タイムスは上越市を中心に発行してる日刊紙で、地元の話題を掲載していた。政治や経済、事件事故などははほとんど扱わなかった。各種会見にも顔を出さず、もっぱら地元の話題を徹底的に取り上げていた。これが功を奏して、部数は数千部から2万部ほどに大幅に伸びた。
▽地の利も良かった。全国紙である朝日、毎日、読売はこの上越地区ではあまり部数が出ておらず、地元の新潟日報ぐらいしか新聞がないのだ。新聞の過疎地と言うべき場所で、上越タイムスの存在は大きかった。全国紙とこの上越タイムスを併読の契約をしている家庭も多かった。だから部数も落ち込まず、維持できていると言うことなのだろう。
▽ネットではこう説明されている。
《1999年に社長に就任した大島誠は、政治、経済や、事件記事の比重を減らし、ヒューマンインタレスト記事を積極的に取り上げ、さらに紙面の一部の編集を丸ごとNPO法人に任せるなど、「従来のジャーナリズムにこだわらない」紙面改革を進め、就任時に6,700部から7,000部程度であった部数を、2009年には2万部の水準にまで増やした》

▽逆に札幌タイムスは、大都市・札幌市の中心街に本社を持ち、経営が最初から悪かった。後に知ったのだが、廃刊した地元紙の北海タイムスの元幹部や記者らが販売店の協力を得て、再生して作った日刊紙だった。しかし、札幌では地元紙の北海道新聞や朝日、毎日、読売新聞が部数を競い合って、札幌タイムスの部数拡張を阻んでいた。
▽部数は3000部程度で、最終的に日刊紙から週刊紙に移行したが、経営悪化は止まらず、2009年で休刊した。
▽ネットではこんな沿革が記されている。
《1998年9月に「北海タイムス」が休刊となったあと、復刊運動を展開した同社の元役員や販売店経営者らが、元社長の藤野紘一を代表に1999年4月9日、北海道二十一世紀タイムス社を設立。同年6月1日に週刊の「フロンティアタイムス」を創刊した。
当初の公称発行部数は約3万部。同年7月1日から朝刊日刊紙に移行し、北海タイムスの後継紙を目指して旭川支社などを開設。道央圏の広域地方紙を目指した。しかしおよそ1カ月で旭川支社を閉鎖して夕刊紙に移行し、以降は実質的に札幌周辺の地域紙となった。
2001年2月1日に『札幌タイムス』に改題。部数が約3000部前後に低迷し、厳しい経営状況が続く中、2005年11月には週刊に移行し、経営の立て直しを図った。一時は単年度収支の黒字化も果たしたが、景気低迷に伴う広告契約の解除で資金繰りのめどが立たなくなり、累積負債約2億1000万円を抱えて2009年3月6日付の2057号で休刊した》

▽記者クラブで知り合った札幌タイムスの記者は何人かいたが、その後は連絡が取れなくなった。
▽このように地域の日刊紙でも、地の利を生かして経営を維持できる社もあれば、札幌タイムスのように、地元紙と全国市紙が競合する中で、生き残なかったような新聞もある。
▽札幌タイムスの記者たちは今、何をやっているんだろうか、とふと思うことがある。別の新聞社に移って、記者活動を続けていれば嬉しいが、そうでない人もいるだろう。さらには新聞業界の斜陽化で、記者として生き残るのも難しいかもしれない。

★721朝日新聞BB制度の功罪

▽朝日新聞には、県庁所在地の地方支局(現地方総局)に、本社からの中堅記者を送るBB制度というものがあった。「あった」と過去形で書いたのは、BB制度の功罪の「罪」の部分が大きくなって、機能しなくなっているためだ。新聞業界の斜陽化とともに、次第にこのシステムはなくなっていくのだろう。
▽BB制度とは、「ビッグブラザーズ制度」と言って、朝日新聞独自の人事システムだ。新聞が高度経済成長に乗って部数拡大が続き、地方支局の人数が増える中で、地方支局の支局員の多くが20代の若手記者で占められるようになった。そういう若い記者を指導する立場として、東京本社社会部や政治部の中堅記者が送り込まれ、総合キャップとして若手記者の指導に当たった。これがBB制度だ。
▽しかし、具体的な指導方法などプログラム化されていないから、役割を担ったBB記者は、個人で勝手に指導するなり、指導もしないで勝手に記者活動をしていた。記者に取材をさせて原稿を書かせ、さらに再取材をさせるという訓練をきちんとするBB記者がいる一方で、指導などせず、勝手に自分で連載記事を書き、勝手に本を出すBB記者もいた。
▽私が新潟県に勤務していた時、政治部を経由して社会部から来たBB記者がいた。この記者は若手の記者を指導することもなく、かと言ってて、記事を書くこともなく、なんとなく支局にいた。そして若手を密かに誘ってはスキーに行ったり、飲みに行ったりしていた。単にいるだけでBBの仕事すら全くしなかった。次第に若手の支局員がBBに反発を強めていった。
▽群馬県にもひどいBB記者がいた。県内の記者のアラ探しをし続けた。それを総局長に密告した。それも1回や2回ではなく続いた。私も被害に遭った。その一方で訂正記事を何回も出していた。ひどいBB記者だった。こんなBB記者を押し付けられた総局はたまらなかった。
▽新聞業界の中で、朝日新聞社は社内の社員身分制度が一番厳しく規定されている会社であった。このため、BBというだけで、地方支局で失敗しても、必ず本社で戻るというルールを決めていた。そうしないと、BB記者の不満が強くなるためだ。
▽この新潟県のBB記者もそういう身分制度に守られた。問題があったのに、東京本社に戻った。
▽その後も全国でBB制度は維持されてきた。
▽しかし、新聞業界の斜陽化がこの制度を狂わせた。全国で地方支局が減り、特に地方の記者数を朝日新聞は減らし続けた。当然入社する若手も少なくなり、ベテラン記者が地方総局に異動することが多くなった。つまり、地方総局では、若手記者よりも、ベテラン記者、シニア記者の方が多くなり、本社からBB記者を送ったところで、指導する相手がいないのだ。BB記者などいなくても、そうしたベテラン記者が気にかければ、指導することができる。これがBB制度の事実上の崩壊の始まりだった。
▽本社と地方総局の年齢バランスが崩れ、かつては地方には若手記者、本社には中堅とベテランがいるという人事の構図が崩れた。地方にもベテラン記者が多くなり、BB記者は必要なくなったのだ。
▽BB制度は功罪の双方があったが、最後は「罪」が強くなって、終わろうとしている。


★719学歴詐称問題で浮き彫りになった調査表とプロフィール会見の中身

▽静岡県伊東市の田久保真紀市長が学歴を詐称した問題で、改めて浮き彫りになったのは、地元記者クラブが主催するプロフィール会見と、それに伴う調査表の内容だった。記者にとっては地味な作業だが、この調査表の内容が問題になったことになる。
▽私は地方勤務が長かったから、何回も何回も経験しているが、市長選の場合、候補者に経歴などを書いてもらう調査表を送り、記入してもらい、回収する。各社の調査票の仕様はバラバラだったが、最近は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞が統一の調査表を作っており、候補者側の負担は減っているはずだ。
▽調査表では、学歴と職業歴などを書いてもらい、これを元に、各社は確認作業をそれぞれ行う。通常は支局に戻ってから、それぞれの企業や組織、団体に電話で確認したりする。学歴については、大学側が個人情報保護を理由に問い合わせの答えを拒否しているため、候補者自らが卒業証書などを取り寄せて各社に渡す。ただし朝日新聞の場合、その作業を簡略するために、最終学歴を直接大学に確認することも、本人に確認することもせず、「学歴に詐称があった場合は、公選法違反になる可能性がある」という警告文を候補者に渡している。
▽プロフィール会見では候補者の政治的な信条や考え方、さらにはどんな生活を送っていたかなどを聞いたり、家族構成などを聞き出し、その候補者の人物像をつくり出す作業を行う。最後にポーズ写真をカメラで撮り、正面と右、左から撮影する。こうして会見で得られた情報で、「候補者の横顔」という記事を作っていく。候補者が3人いる場合は、3人分のプロフィール会見を行い、記事を3人分作る。
▽では静岡県伊東市長の場合はどうだったか。
▽朝日新聞が今年(2025)年9月4日に配信した朝日新聞ポッドキャストによれば、地元記者クラブが主催したプロフィール会見の席で、幹事者が候補者の田久保に対して最終学歴の証明を求めたことに対し、彼女がいきなり、「選挙戦にマイナスだ」として激怒したというのだ。拒否したことになる。しかし最終的には丸め込まれ、大学時代の話を振り返り、最終的に幹事社が大学卒業の証明を求めることをしなくなったのだ、と言う。
▽これは地元の朝日新聞記者がポッドキャストで振り返ったもので、ここが最終学歴詐称問題の大きなターニングポイントだったなと私は思う。大卒だと通してしまったのだ。
▽この時、記者クラブの社が強く、彼女の最終学歴を証明するよう求めていたならば。彼女の学歴詐称問題は後に浮上しなかっただろう。彼女は地元記者クラブ主催のプロフィール会見を乗り切ったことで、自信を持ってしまい、東洋大卒とそのまま通してしまったのだろう。
▽そして彼女は、「東洋大卒」と嘘をついて市長選に当選した。
▽しかし、そのツケは大きかった。学歴詐称がばれて問題となり、刑事告発を受け、不信任案も議会で解決した。嘘をついていなければ、こんな大きな問題にもならなかったのではないか、と朝日新聞の地元記者も言う。
▽その記者によれば、彼女は市民運動家として弁も立つし、頭の切れも良いそうだ。市内で計画されたメガソーラー建設問題に反対し、市民の理解を得られたのだろう。
▽伊東市は観光都市だが、地盤沈下が続き、歴代の自民党系市長に対する反発も強かったと言う。せっかく得た市長の座を、こんな形で降ろされるとは思ってもいなかっただろう。嘘をついた代償は大きい。
▽プロフィール会見と調査表は、記者にとっても、候補者にとっても、大切な道具でもある。そのことだけは、よく分かった。そして彼女と記者クラブの仲は、完全に亀裂した。記者クラブは市長と市議会のウォッチャーとなり、本来の使命の存在となった。

★717気になった群馬県渋川市長選結果

▽群馬県渋川市の市長選は、元県議が元副市長の候補者を破り、初当選を果たした。私は朝日新聞渋川支局にかつて勤務しており、ともに2人の候補者を知っていた。どちらが当選するのか、注目をしていた。
▽まずは結果から見よう。以下は地元の上毛新聞のネット上の記事だ。

《任期満了に伴う群馬県渋川市長選は31日投開票され、無所属新人の元県議、星名建市氏(68)=金井、自民、公明両党推薦=が同じく無所属新人の前副市長、伊勢久美子氏(56)=渋川=を8191票差で破り、初当選した。投票率は48.35%(男48.06%、48.62%)で、過去最低だった2021年の前回(45.81%)を2.54ポイント上回った。

渋川市長選開票結果(選管確定)
当 18813 星名 建市 無新①自公
 10622 伊勢久美子 無新
(無効267票、不受理・持ち帰り0票)敬称略。丸数字は当選回数。四角囲みは推薦政党、自=自民、公=公明》

▽結果としてかなり票が離された一騎打ちだった。星名候補には、自民と公明が支持しており、無所属で新人の元副市長、伊勢候補は、そうした政党の支持を受けなかったため、草の根選挙にならざるを得なかった。選挙戦にこなれているわけでもなく、素人の選挙戦だった。
▽私が驚くのは、伊勢氏の経歴だ。私が朝日新聞渋川支局に勤務してきた時は、企画関係の職員で、職員としてはかなり目立つ活動していた。体外的な渉外交渉なども積極的に行い、いわゆる「街づくり」に精通していた。将来は有望視された職員だった。
▽私は取材相手の一人として伊勢氏とも何回も付き合い、酒を飲んだり、会話をしていた。
▽その後私は渋川支局を離れ、そのまま連絡もしていなかった、いつの間にか、伊勢氏は市の広報課長となり、そして市長の片腕となる副市長に就いていた。恐るべき出世だなと思った。
▽渋川市は平成の合併で周辺の市町村が対等合併した。おとなしい職員が多く、将来の展望を描く職員が少ない中で、伊勢氏の存在は目立っていた。ただ、まさか副市長に抜擢されて、さらには市長選に立候補するとは思いもしなかった。何が彼女をその気にさせたのだろうか。
▽当落を伝えた朝日新聞でこう書かれていた。
《市職員、副市長として33年の行政経験がある伊勢氏は「市政の課題はだれよりも分かっている」と主張。「働くことをあきらめないまち」を目指して、子育て・介護支援の充実などを訴えた。終盤には、「渋川市初の女性市長に」と支援を呼びかけていた》
《選挙戦は、既存の組織に頼らず政策に賛同する有志の後援会が中心となったが、及ぼなかった》

▽敗北の弁を、伊勢氏はこう語っている。
「訴えてきたことは十分に伝わった」

▽今回の選挙では落選したが、まだまだ先がある人生だ。今後も政治家を目指すのか、それとも別の仕事を見出すのか。彼女の未来を見てみたい。


★716クマと人間の境界線を決めるのはだれだ

▽全国各地でクマが人間の住宅街に出没して、民家や畑が荒らされたり、人間が襲われたりするケースが相次いでいる。私は転勤族で地方各地を渡り歩いたが、北海道も東北も、そして関東地方もクマは出た。人間がクマの生息地に進出したためか、それともえさ不足で、クマが人間の領域に近づいたのか。
▽東京で生まれ、千葉県柏市で育った私は、野生動物とは全く無縁の生活を送っていた。動物と言えば、小学校で飼っていたウサギなどの小動物ぐらいで、飼育係としてえさをやったり、遊んだりした記憶しかない。
▽それが新聞社に就職し、一変した。最初の振り出しは北海道新聞小樽支社報道部だった。小樽市と札幌市の境界である朝里川温泉地区と定山渓の間の山林に時折、クマが出没し、住宅街に近づくことがあった。春から夏にかけてよく目撃されるようになった。注意を喚起する警告記事として、マメに新聞記事に書いた。
▽こんな出だしだった。
「小樽市に入った連絡によると、小樽市朝里川温泉の山林でクマ1頭目撃された。目撃した住民によると⋯⋯。小樽市は注意を呼びかけている」
▽こんなような記事だった。子グマだったり、親グマだったり、目撃情報として私は記事を書いた。先輩が書いた記事を見よう見まねで書くようになった。
▽そうか、北海道ではクマが出没するのは珍しくないんだと、私は納得した。警告記事として新聞に載せるのも意味があるのだなと思った。
▽その後私は転勤に転勤を重ねた後、朝日新聞に転職。その転勤先の東北でも、関東地方でもクマの目撃は続いた。群馬県渋川市ではクマが住宅街に近づき、射殺されたというニュースも書いた。最近のマスコミ記事は、「射殺」と言わず、「駆除」と言い換えているが、どう考えても、射殺だ。
▽その後の転勤で埼玉県秩父市でもクマは出た。秩父でもクマは出るのかと驚いた記憶がある。
▽そんな時、クマが民家を襲ったという知らせが入り、私は取材して記事を書いた。

《埼玉県秩父市で7月下旬、民家に野生のクマが侵入し、冷蔵庫を物色するなど家の中を荒らしていたことが6日分かった。秩父地方では例年春から秋にかけてクマの出没が多いが、民家が襲われたのは、かなり久しぶりだという。同市などは罠を仕掛けて、猟友会に捕獲を依頼するなど、警戒態勢を取っている。
▽同市生活衛生課によると、同市浦山の川俣地区の民家で、一人暮らしの女性宅に7月28日夜から翌日未明にかけて、クマが侵入し、家の中を物色した。家具などが壊されたほか、冷蔵庫の扉を強引に開けた跡があり、冷蔵庫の食料をごっそりと食べていった跡があった。冷凍食品もなくなっており、扉は壊されて、外れていた。玄関から出て行った跡があるが、進入口ははっきりと分かっていない。おそらく窓ではないか、という。クマはツキノワグマとみられている。
▽同地区は森林が近く、民家が点在している。付近では、前日からクマの目撃情報があり、クマが家の壁をたたくなどの行動を取ったため、女性は被害を恐れて近くの娘宅に避難して、無事だった。
▽同課によると、浦山地区や大滝地区では今年、クマが民家に接近しているという目撃情報が例年より多く、今回のように、民家を襲ったのは、「もう何年も前にあったという記憶しかない。今年は危機感を持っています」と担当者は説明する。
▽秩父地方の山林はクマの生息地で春から秋にかけて活発に行動するという。県内では昨年、34件の出没件数があり、今年は6月末現在で16件あった。登山やハイキング、渓流釣りなどで入山する場合は、注意が必要だ》

▽この記事は地元警察署も市役所も発表しておらず、私はシンパからの話を聞き、取材して記事にした。
▽秩父市はクマだけではない、イノシシ、サル、シカも出る。
▽市街地を抜けて、山側の舗装された道路をマイカーで走っていると、その舗装道路にサルが10頭も20頭も歩いていた。野生のサルだ。ちょっと怖くなった記憶がある。こんな場所に野生のサルがいるなんて。市街地に近かった。
▽秩父地方ではイノシシもよく出る。猪突猛進ぶりは、文字通りで、走っている車にぶつかってくる。そしてなぜか車の方が壊れる。イノシシはそのまま逃げる。車の被害にあったという人間は地元では多い。
▽振り返ってみれば、埼玉県秩父地方は人間が開発し、移り住んだ場所だ。自然の動物界から見れば、動物の領域に人間が勝手に侵入してきたという理屈になる。動物の領域を荒らされたという考えならば、クマは人間を襲うのは当然かもしれないと思った。
▽しかし、それでも民家を襲うのは異常な事態だ。しかもご丁寧に冷蔵庫を開けて、冷凍食品まで手を出しているのだ。味を占めたクマたちは、さらに人間を襲うのかもしれない。人間の味を占めたクマも出ている。安全対策だけはしなくてはならないのだろう。動物と人間の共存はあり得るのかどうか。人間がいけないのか、クマがいけないのか。


★715新聞記者の事始め、私の1年目は暗かった

▽新聞記者を始めた1年目の私の生活は暗かった。朝から晩まで理由なくキャップに怒鳴られ、クタクタになっていた。取材や職場、そして電話取材以外、人と話すことはなくなり、かなり無口になっていた。夜回りをして、帰宅する前に焼き鳥屋かスナックで夕食を食い、下宿先に戻るだけの生活で、「何のために記者になったのか」と常に自問自答する毎日が続いた。
▽振り出しは北海道小樽市の北海道新聞小樽支社報道部だった。報道部には部長と2人のデスク、そしてキャップ以下10人の記者がいた。
▽赴任直後に私より3歳か4歳年上の先輩記者に嫌みを言われたことを覚えている。
「労使交渉で、支社報道部には新人を入れないことになっているのに、なぜ来たんだ」
▽こんな趣旨のことを言われた。報道部に新人が入ると、先輩たちの仕事量が増えて迷惑だし、足を引っ張られる、という意味だった。
▽いきなり労使交渉の合意を言われても、そして人事異動で決まった配属先を、私に言われても反論も出来なかった。
▽私は警察署と市役所の担当として配属された。もちろん新人だがら、街ダネも特ダネも取れるはずはなく、自己流で取材をして、原稿を書いて、キャップに渡した。当時はワープロもパソコンもケータイもなく、手書きの原稿用紙をキャップに手渡すだけだった。
▽そしてその原稿をキャップが見ると、何回も何回も怒鳴りだして、問い合わせが始まった。私がしどろもどろで答えると、また怒鳴られた。
▽だから毎日のように朝から晩まで怒鳴られ続けた記憶だけが残っている。
▽そして少しずつ、警察署や市役所の人間に顔を覚えてもらい、名前を知ってもらい、取材が進むようになった。
▽それでもキャップの怒鳴る態度は変わらなかった。時代は怒鳴ることを、注意とか指導という名前で美化して、正当化していた。私が怒られるのを見て、部長まで皮肉を言うようになった。先輩までが私を馬鹿にするようになった。私はクタクタになっていった。
▽注意でも、指導でもなかった。とにかくサンドバッグのように怒鳴られた。しかも朝から晩まで。クタクタになった。精神的に不調になった。そのキャップ、両足を机の上に乗せて、煙草を吸っていた。映画のヤクザそのものの姿だった。
▽こんな生活はいつまで続くのかと思った。私が初めて特ダネを取ってきた時ですら、そのキャップは怒鳴った。なぜ機嫌が悪いのか分からなかった。褒められる事はいつもなかった。そしてやはりこんな生活は続けられないと思うようになった。辞表を書いて、常に上着のポケットに入れるようになった。いつでも辞めてやりたいと思った。
▽1日の原稿を書き終えてから、夜回りが始まった。警察署幹部や親しくなった刑事宅を回った。刑事の自宅探しも難しかった。
▽乏しい情報がないまま、夜回りを終えて、自宅の下宿先に引き揚げる前、繁華街の居酒屋で遅い夕食を摂った。居酒屋と言っても、実際はカウンターだけの焼き鳥屋か、小さなスナックだった。当時のスナックは、テレビゲーム機が置かれており、100円玉を入れて、飲食をしながらゲーム機で遊び、クタクタになった精神を癒やしていた。飲食と言っても、乾き物を食うか、近くの惣菜店に注文してもらい、唐揚げを食って、ウイスキー水割りを飲む程度だった。ちなみに北海道の鶏の唐揚げは「ザンギ」と称する。そのザンギを食って飲んでいた。
▽ある時だった。そのスナックでゲームをしながら、飲食をしていると、カウンターの若い女性客から声をかけられた。
「そんなとこで1人飲んでないで、こっちに来なよ」
と誘われた。
▽その女性客の横に座ったが、疲れていたため会話を進まない。暗い生活そのものだった。今だったら、若い女性に声をかけられれば、うれしくなって、会話も弾むというのに。
▽こんな生活が1年、そして2年と続いた。
▽いつ辞めようかと思っていた新聞記者の仕事は次第に慣れてきて、少しずつ特ダネも取れるようになった。しかし、職場での先輩との付き合いは没交渉だった。良い悪いは別にして、社内の付き合いはほとんどなかった。相変わらずキャップの怒鳴り声は続いた。
▽そして2年が経過し、そのキャップが転勤していった。私のクタクタ感は次第になくなっていった。
▽新人記者の時はみんなこうだったんだろうな。


★712絶景の雲の上の温泉、新潟・蓮華温泉

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時だ。支局取材管内である糸魚川市の蓮華温泉に、支局員とともに行ってきた。愛好者には「雲上温泉」、つまり「雲の上の温泉」として人気がある温泉で、標高約1500メートルの山の中腹にある温泉を堪能した。
▽7月上旬。車2台に分乗して、上越市から県内西部の蓮華温泉を目指した。北陸道を走って、蓮華温泉に。山開き取材のついでに行ったのだが、露天風呂に入ろうとタオルを用意して行った。
▽途中のコンビニでサンドイッチを買って車の中で食べて、山の奥の向かった。クネクネした坂道をずっと走らせた。
▽蓮華温泉は標高約1500メートルの場所に位置する。登山客でにぎわう、雲上温泉として知られる。
▽神事が終わってから、現地で合流した読売新聞記者とともに露天風呂に。タオルを用意していなかった読売新聞記者には持ってきたもう1本のタオルをプレゼントした。
▽ロッジから山の中腹を歩いてやっと辿り着いた。ようやく露天風呂に。まさに露天風呂。ほかには脱衣場もなければ、シャワーも、衝立もない。ようするに丸見え。
▽真っ裸になって、入った。
▽女性客でもいれば、と思ったが、風呂に浸かっていたのは、埼玉から来たという中年ライダーたち。風呂の中で雑談をした。
▽雲が近くまで来ていて、風も強くて、風呂で熱くなった体は、この風で冷やしてくれる、天然のクーラーとなっていた。
▽下界は猛烈な暑さだったのですが、さわやかな高原の風が吹いていました。
▽こんなところに、こんな温泉があるなら、もっと早く行っておくべきだった。
▽上がれば風が結構強くて、気持ちいい。

▽ネットではこんな紹介がある。
《蓮華温泉は、中部山岳国立公園内の標高1,475m付近にある天然温泉です。新潟県側から北アルプス山行を目指す登山家たちの拠点でもあります。
▽JR糸魚川駅からバスで約90分。麓の町とは10℃前後の気温差があり、真夏でも朝晩は肌寒さを感じるほどです。入浴を楽しめるのは、3月半ば~10月20日ごろまで。冬は大雪が降るため、蓮華温泉を管理しているロッジはクローズします。春先でも雪はまだ数メートル単位で残っているので、5月いっぱいは雪景色の入浴が楽しめるのだそう。
《野天風呂があるのはロッジの裏手。登山道を登っていくと、4つの野天風呂に入ることができます。
▽足元は斜面でぬかるんでいることもあるので、歩きやすい靴を履き、脱ぎ着しやすい服装で行くのがおすすめです。アメニティやタオルはもちろん、脱衣所もシャワーもない所なので、必要な手回り品をお忘れなく》


★711仕事が出来る記者と出来ない記者の違い

▽サラリーマン記者を40年間続けてきたので、会社員としての記者を、仕事ができる新聞記者と、仕事ができない新聞記者の違いは何かを考えたことが何回かある。ジャーナリストとしてではなく、サラリーマン記者として、いろいろ基準はあると思うが、私は時間の取り方が基準になると思う。特に昼食時間を一つの例として挙げたい。さらには休みの使い方にも考えてみたい。
▽私が県警担当キャップの時の話だ。私の前任者や後輩たちが、夕刊の締め切り時間が終わって、昼食を摂りに外に出て行くことが多かった。夕刊の最終版降版時間は午後1時半で、その時間が過ぎると、県警記者クラブから外出し、昼食を摂りに出た。記者クラブから片道10分ほどの繁華街にあるレストランがお気に入りの場所らしく、前任者はかなり頻繁に通っていたらしい。後輩たちはファミレスに行って、ランチを堪能していた。
▽通常、外食となれば、行って帰ってくるだけで1時間かかる。私は時間の無駄だなと思った。
▽昼食時間に1時間も取るなら、それは記者にとっては時間の無駄遣いである。コンビニなどで弁当や調理パンを買って、記者クラブで食べれば良い。それならわずか10分か20分で済む。
▽要するに時間の使い方なのだ。昼食時間を1時間ではなく10分か20分に短縮し、残りの40分は取材の資料を読み込んだり、昼寝でもしたりして、体力の温存を図った方がいい。
▽わずか40分の時間短縮と言うなかれ。これを1年間365日だったら、どれだけの時間が浮くだろうか。夜討ち朝駆けで、ただでさえ忙しい新聞記者は、時間の管理こそ、大切なことなのだ。それが前任者や後輩には分からなかったようだ。
▽ここに、仕事が出来る記者と、出来ない記者の格差が出来る。出来る記者はこうやって時間を作り、取材の準備をするし、本も読む。出来ない記者はそれすらもできない。それが1年、2年、さらには5年、10年続けば相当の差になる。
▽だから私は昼食を外出して食事を摂る事はほとんどなかった。県警クラブにいた時もクラブにやってくる弁当屋さんの仕出し弁当を食べていたし、コンビニで買って弁当を食べていた。出来る記者になりたいと思ったからだ。
▽夜討ち朝駆けは続けていたので、睡眠時間も不足する中、時間をうまく使うのはより良い取材をし、より良い記事を書きたいためだ。昼食時間の取り方一つで、出来る記者と出来ない記者が分かってしまうのは、40年の経験則からだ。
▽これは休みの日の使い方も同じことが言える。「働き方改革」の問題とは別の次元だが、出来る記者は休みの日も取材をしているし、図書館や古本屋街を回っている。読書もこなす。出来ない記者は旅行に行っている。本も読まない。新聞すら読まない。この差は大きい。


★709東武鉄道は利用者が多い埼玉県民を軽視しているのだろうか

▽東京に本社を置く東武鉄道が、東京・浅草と群馬・伊勢崎を結ぶ東武伊勢崎線の名称を、「東武スカイツリーライン」に変更すると発表したのは、東京スカイツリーが開業する100日前の2012年2月のことだ。スカイツリー開業に合わせた名称変更で、利用者が多い埼玉県民には、気になるニュースだった。しかし、この発表方法も、そしてこの発表会見に出た朝日新聞社会部の記者は全く無視して、スカイツリーの話だけを書いていた。東武鉄道も朝日新聞記者も埼玉県民を軽視していたことになる。
▽記者会見は都内にある東武ホテルであった。その3日後に、「東京スカイツリー開業まであと100日」という内容で、各エリアの名称が決まったことや、伊勢崎線の愛称を「東武スカイツリーライン」などとするという埼玉県民にとっては大切な話もあった。
▽当時、私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。支局は東武伊勢崎線とJR武蔵野線が交差する新越谷駅に近く、東武伊勢崎線は取材の対象の一つで、私はその伊勢崎線に乗って、記者会見に出た。
▽会見には朝日新聞東京本社社会部の記者も出ていたことを後に知るが、事前に調整するなどの準備はなかった。このため私はさいたま総局デスクの指示で、原稿は同席していたはずの社会部が出稿する内容を見てから検討することになった。
▽しかし、案の定、社会部が出して来た原稿は、スカイツリーの話ばかりで、東武伊勢崎線の名称が変更になる話は、全く出ていなかった。社会部にとって、埼玉県を走る伊勢崎線のことなど、眼中にはなかったようだ。
▽東武鉄道にしても、利用者が圧倒的に多い埼玉県民のことを考えるなら、東京だけではなく、埼玉県内でも会見を行い、名称変更を発表すべきだった。埼玉県民を軽視しているとしか思えなかった。
▽このため私は東武伊勢崎線の名称変更を主な焦点だとして、1日遅れで原稿を朝日新聞埼玉版に書いた。

《東武伊勢崎線(浅草―伊勢崎)のうち、浅草―東武動物公園間が3月から、「東武スカイツリーライン」という愛称を導入することになった。5月に開業する東京スカイツリーにつながる路線として、イメージアップさせる作戦の一環で、併せて駅のナンバリングとダイヤ改定も行う》
▽東武鉄道が発表した。同社によると、スカイツリーは世界的な観光資源となることを踏まえて、鉄道事業もそれに見合った戦略として実施する》
《同社が3月から行う事業は、東武線全線を五つのエリアに分けて、頭文字で案内する。伊勢崎線浅草―東武動物公園間と亀戸線、大師線を「TS」、伊勢崎線和戸―伊勢崎間、佐野線、小泉線、桐生線を「TI」、日光線、宇都宮線、鬼怒川線を「TN」、野田線を「TD」、東上線、越生線を「TJ」としたうえで、各駅にナンバリングを振っていく。例えば伊勢崎線浅草駅は「TS―01」。新越谷駅は「TS―20」となる。東上線川越駅は「TJ―21」となる。
▽これに伴って、全線の駅の案内表示や看板などもこの表示に書き換える。
▽「スカイツリーライン」の愛称も、この戦略から生まれた。同社にとって愛称路線は初めての導入だ。長い間、県東部の住民に伊勢崎線として親しまれていた同線は、今度は「スカイツリーにつながる電車」というイメージになる。ただし、同線は現在、多くの電車が東京メトロの日比谷線、半蔵門線と相互乗り入れをしており、直行するには1時間に3本走らせている浅草行き電車に乗る必要がある。
▽また現在の「業平橋駅」という名称も、「とうきょうスカイツリー駅」に改称する。ダイア改定で特急スペーシアも上りは全列車を、下りは1日4本を同液に停車させる》

▽結果としてだが、1日遅れになっても、各紙に伊勢崎線の名称変更の記事はなかった。その意味では朝日新聞だけが名称変更を報じたことになる。
▽埼玉県東部地区は、伊勢崎線が南北に入り、沿線には住宅地が密集していて、東京に通う会社員や学生が多い。このことを考えるなら、名称変更は県民にとって大きなニュースなのだ。そのことを朝日新聞社会部記者も東武鉄道も気づいていない。スカイツリー開業に浮かれてしまって、大切な視点を忘れていた。
▽情けない紙面扱いだったし、それをカバーできた私の判断と記事は正しかったことになる。


★704叱られて食べた秩父のホルモン店

▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時、よく通った居酒屋の一つがホルモン店だった。豚肉や牛肉のうち、内臓の肉を提供して、その場で客に焼いてもらい、飲食をする店だ。
▽市内にいくつかあった店の一つ、秩父鉄道御花畑駅近くにあるホルモン店は、よく通った。午後5時の開店とともに客がどっと入っていく。地元の人間もいれば、観光客も多い。
▽狭い店内で、当時は3人の高齢の女性が切り盛りをしていた。客から注文を聞き、ビールや豚肉の内臓の部位を提供し、客が自ら炭火の網で焼いていく。もうもうと店内は煙で充満する。
▽豚肉のホルモンと言ったら、以下のようなメニューだろうか。
▽タン(舌)、ハツ(心臓)、レバー(肝臓)、ハラミ(横隔膜)、ガツ(胃)、ショウチョウ(小腸)、ダイチョウ(大腸)、コブクロ(子宮)、カシラ(ほほ肉)
▽このうち、この店で提供されるのは、タン、ハツ、レバー。ショウチョウ、カシラぐらいだが、もうもうとした煙が立つ中、客たちはビールを飲み、焼き上がったホルモンの肉をほおばる。これがうまいのだ。狭い店は煙で充満し、客の笑い声が響き合う。
▽私はレバーとカシラが好きで、よく注文して食っていた。
▽ただし、この店にはある特徴があった。3人の切り盛りするおばさんたちの愛想が悪いのだ。否、愛想が悪いのではなく、言動が厳しいのだ。
▽例えば豚の内臓であるレバーを焼いているとする。すると店のおばさんがこう言って客に注意するのだ。
「レバーは新鮮だから、そんなに焼かなくていいよ」
▽こうして怒られ、客は驚く。子どもが学校で先生に叱られたような気分になる。
▽確かに新鮮なレバーならさっと火を通して食べれば良い。以前だったらレバーだって刺し身として食っていた時代もあった。
▽私も何回か叱られたことがある。やはりレバーを焼きすぎだと注意された。
▽ビールを飲み、カシラやレバーなどを食い、焼酎に切り替えて、もんもんとした煙の店を出る。その値段の安いこと。
▽ただし店のメニューは、ホルモンとビールや焼酎などの飲み物、それにご飯やお新香しかない。メニューは極めて少ない。しかし、ホルモンの新鮮さを誇る店だ。これで良いのだ。
▽私は秩父支局に勤務する前、「ホルモンなんて」と思って、食べず嫌いだったが、食べてみるとこんなにうまいとは思わなかった。
▽秩父に行ったら、ぜひ利用することをお勧めする。秩父鉄道御花畑駅近くの店だ。踏切が目印だ。


★701私はスバリストだった

▽私は転勤族で赴任先は雪国が多かった。それ故、取材で使うマイカーは四輪駆動車ばっかりだった。しかもスバルの車が多かった。私はスバリストだったのだ。
▽スパリストとは、スバルの車を愛しているユーザの名称だ。スバル車が好きだから、スバル車を愛しているからスパリストとなるのだ。日産でも、トヨタでも、スズキでもない。スバルが好きなのだ。
▽新聞記者として最初の赴任地が北海道小樽市。最初に購入した車は、トヨタの中古車だったが、すぐにスバル・レオーネに買い換えた。初めての四輪駆動車で、雪道の走行は安定感があった。四輪駆動車を過信しているわけではないが、前輪駆動車や後輪駆動車よりも雪道での安定感は抜群だった。
▽レオーネはしばらく乗っていた。朝日新聞に転職し、浦和支局(当時・現さいたま総局)から東北の宮城県塩釜市の塩釜通信局に異動となった。その際に買い換えたのが、トヨタのスプリンターカリブだった。ワゴン車タイプの四輪駆動車だった。塩釜地方は雪はそんなに多くなかったが、雪道を走らせる時には安定感があった。
▽本社を経て、新潟県上越市の朝日新聞上越支局に赴任した時も、このスプリンターカリブを持っていった。しばらく乗っていて、そこで初めて三菱自動車となるパジェロイオに買い換えた。SUV車で、四輪駆動車。上越地方は日本有数の豪雪帯で、一晩で数十センチから、1メートル以上の降雪となることがよくある。そんな豪雪地帯でパジェロイオは活躍してくれた。深い雪の道を走らせても、車高も高く安定した走行を見せてくれた。
▽その後転勤となり、札幌市の朝日新聞北海道報道部に勤務。その時もパジェロイオを使っていた。
▽そして群馬県渋川市の朝日新聞渋川市に赴任してしばらくして、今度はパジェロイオから日産エクストレイルに買い換えた。この車も四輪駆動車で雪道を問題なく走り抜けた。
▽再び東京本社に戻り、次の赴任地である埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に転勤が決まった時に、スバルインプレッサの中古を買った。スポーツワゴン車タイプの中古車で、購入時に走行距離が何と8万8000キロもあった。それでも走行は安定していた。高速道を走らせても、ぶれなかった。
▽そして朝日新聞東埼玉支局の最後にスバルXVに買い換えた。SUV社で、その車で新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した。佐渡島の雪道を走らせても、何の問題もなかった。さらに別の新しいスバルXVに切り替えた。
▽スバルXVには、オートマチック車だったが、マニュアル運転も出来て、運転が楽しくなるクルマだった。高速道はマニュアル運転で、一般道はオートマチックで走らせていた。
▽こうしてみると、私が所有していた車のほとんどスバルで占めており、すべてが四輪駆動車だった。
▽雪国で暮らしていると、車は取材のほか生活必需品であり、雪に閉ざされた道を走らせるには、どうしても四輪駆動車が必要だったのだ。
▽そして会社を退職した現在も、このスバルXVを乗り続けている。
▽私はスパリストだったのだ。


★699所轄警察署の100周年記念誌が謎の回収

▽私が新聞記者1年生だった時の話を書きたい。担当していた所轄警察署が、設立100年を迎えた。これに合わせて署内で記念誌を作った。署員らに配ったが、しばらくして突如回収される騒ぎになった。水面下の話で、これに気づいた私が記事にした。紙面化されると、所轄署は事実上、私を出入り禁止にする措置を取った。もう40年前の話だが、今でも思い出したくない対応だった。
▽この所轄署は、戦前から公安事件の舞台ともなった有名な警察署で、100周年に合わせて、私は連載記事を書いた。この所轄署管内で起きた事件や事故を振り返る記事をを書いた。そこまでは良い。問題は、その際、内部で出した設立100周年の記念誌が、本部の指示によって密かに回収される出来事が起きた。記念誌は内部だけに配られており、マスコミに発表もしていない。いわば内部資料のようなものだ。それが密かに回収された。
▽水面下で行われた謎の回収問題は、内部の関係者の話でわかった。取材を進めていくうちに、本部からの指示があり、記念誌が回収されたのだ。
▽記念誌には実は署員の顔写真が全員掲載されていた。本部が問題にしたのは、その中の公安・警備部門の署員の顔写真が載っていたことだった。水面下で隠密に捜査する公安・警備部の人間の顔と名前を載せてはまずい、と本部が判断したのだ。
▽関係者の話を聞いた後、私は本部の幹部にも直接インタビューし、裏を取った。
▽そして記事にした。
「記念誌、謎の回収」
という記事になった。
▽反響は大きかった。日本の公安及び警備部門の体質を書いたからだろう。体質を暴露したことになる。
▽と同時に、所轄幹部は私を無視するようになったし、所轄内部を回ろうとすると、幹部が私を尾行した。嫌がらせでもあった。
▽このことを私の上司に話すと、私は所轄担当をしばらく外れることになった。
▽今振り返っても、よくこんな記事を新人の時に書いたなと思っている。
▽たかが記念誌の回収かもしれないが、こういう水面下の動きを追うのも、新聞記者の仕事だと私は思う。
▽あれからもう40年も経過している。多くの関係者は鬼畜に入った。もう書いても構わないと私は判断し、このコラムを書いた。



★696かつての部下だった元支局員からの涙の電話

▽私がある地方支局の支局長を務めていた時、当時の部下だった記者から久々に電話があった。ZARDの名曲「負けないで」を聞いていて、涙が出てしまった、と言ってきた。当時私はZARDの曲ばかり聞いていたので、それで電話をしてきたというのだ。涙には彼なりの理由があった。
▽彼が涙を流した、と言うには理由がある。私はその支局の後、様々な地方へ転勤を繰り返し、東京本社にも戻り、さらに地方に行き、最後は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局を最後に退職した。彼はその後、東京本社に行ったが、主に地方をぐるぐる回っていた。一緒になる事はなかった。
▽その途中で彼は精神的な病を患って、適応障害となり、ここ3年間、ずっと会社を休んでいたのだ。休職中だった。彼の強い個性もあって、彼の上司が彼を嫌い、窓際に追い詰めたこともある。時折、電話をもらったが、私は管理職でもないので、何もすることはできなかった。
▽だから自宅でZARDの音楽を聴いていて、私を思い出して電話をしてきたのだった。
▽電話ではその支局時代の仕事の話になった。
▽私は部下であるその支局員に仕事で指示したのは一つだけだった。選挙は全て1人でやれ、ということだった。選挙取材は取材記者のバロメーターだと私は考えている。どれだけ選挙取材が出来るか、記者の能力、取材力が分かってしまう。だから1人でやれば、力も付く。
▽同じ選挙区で2人の候補者が競っている場合、その2人のそれぞれの陣営を1人で回れ、ということだった。絶対に仲間と手分けしての取材はダメだ。それが指示内容だった。そして、それぞれの陣営の風を読めと付け加えた。
▽陣営にとって、追い風か逆風なのか、街頭演説や選挙カーに向かって、有権者がどれだけ手を振っているのか、選挙ポスターの掲示板にどのくらいの勢いでポスターを貼ることができるのか、そうした勢いや風を感じ取って取材しろと指示していた。選挙では数値化されない勢いというものがある。それが最終的な選挙の当打ちに繋がる。その候補者に風がどのように吹いているのか、有権者はどう見ているのか、その風を感じ取れと指示した。特に、有権者が候補者や選挙カーに向かって手を振る光景を大切にしろと言った。
▽反論されるかもしれないが、選挙には数値化されないものが必ずある。世論調査や出口調査の結果を大事にする記者が多いが、それだけでは票を読むことはできない。その風を感じ取って欲しいと思ったのだ。刑事ドラマでいうところの「刑事のカン」というやつだ。
▽その支局員はその指示を守った。そしてそれぞれの候補者に食い込んでいった。そうした人脈ができて、その後政治部に行った。
▽彼の選挙取材力はおそらく朝日新聞の中でもトップクラスだろうと私は思った。
▽しかし何が彼を追い詰めたのだろうか。個性豊かな記者を嫌う最近の朝日新聞の体質なのだろうか。
▽私はもらった電話で何も彼にアドバイスはできなかった。頑張れよとだけ付け加えてしまった。精神的な病を持つ人間に、「頑張れ」は禁句だった。今度彼のところに遊びに行って、雑談でもしようかと考えている。


★694交通死亡事故の報道が軽くなってきた

▽私は北海道新聞記者として7年、朝日新聞記者として33年5カ月、記者活動を行ってきたが、この40年で感じる変化の一つが、交通死亡事故の扱いが、次第に小さくなってきたことだ。交通事故死はかつて年間1万人という数字が続き、警察庁が中心となって、様々な対策が取られてきた。これに伴って、交通事故死が減少し、新聞での扱いも小さくなってきた、と思っている。交通死亡事故はもうニュースではない、ということなのか。
▽私が新聞記者としての一歩を踏み出した北海道では、交通事故死が異様に多かった時代だ。交通死亡事故が発生すれば、必ず現場に行き、現場の交通課警察官の責任者から話を聞き、現場周辺を歩き回って、事故がどんな状況で発生し、犠牲者がどんな状態で亡くなったのかを調べた。そして犠牲者となった遺族宅や関係者らを回って、必ず顔写真を借りて、紙面に掲載した。当時、交通死亡事故は大きなニュースだった。
▽顔写真を接写する場合は、一眼レフカメラに接写リングをレンズと本体の間に取り付けて接写し、支局で現像して、写真焼きをした。
▽そんな取材に追われていた。私にとって交通死亡事故は大きなニュースであり、取材対象だった。死亡事故を減らそうと、シートベルト装着のキャンペーンも新聞社として続けた。
▽それがいつのころか、多分私が北海道新聞から朝日新聞に転職したころからか、交通死亡事故は現場に行かない取材となって定着した。交通死亡事故が次第に減ってきたこともある。警察庁が全国の都道府県警に指示して、安全キャンペーンを続けたことも大きい。自動車メーカーの安全対策が進んだこともある。
▽だからよほど大きな交通事故でない限り、記者は現場には行かないで、警察署の広報責任者である副署長や次長、または当直長から話を聞き、それだけで記事にするようになった。取材現場に行かなくなったことは大きい変化だ。退潮傾向となった。
▽それどころか、顔写真も取ることはなくなった。人が亡くなったのに、現場に行かない取材。それが交通死亡事故の平均的な取材手法になった。
▽確かに交通死亡事故は減少している。警察庁の統計に寄れば、昨年(2024年)の交通事故による死者数は、2663人で、前年比でマイナス15人、マイナス0.6%で、昨年より減少している。過去1万人だった数字からみると、実に4分の1になっている計算だ。交通死亡事故がニュースにならなくなっているのだ。
▽ちなみに警察庁が統計を取っている交通死亡者数とは、事故発生から24時間以内に亡くなった人間を指しているため、2日後や1週間後に亡くなった場合は、統計に入らないから、実際にはもっと多い。
▽交通死亡事故がニュースにならない、という事態に私は危惧している。数年前から問題になっている煽り運転では犠牲者も出ているし、危険運転は相変わらず多い。性能の高いクルマが出現し、クルマの高速運転は常に危険がつきまとう。絶対に安全ということはない。池袋の暴走事故の記憶も新しい。東京地検特捜部長だった男が死亡事故を起こしたこともある。高齢者による事故も後を絶たない。店舗に突っ込んだ、というニュースはよく出てくるが、話題ものという扱いだ。
▽交通死亡事故はまだニュースであり続けてもらいたい、と私は願っている。


★689私にとって行きつけの店とは

▽地方に勤務すると、「行きつけの店」というものができるようになる。その日の仕事が終わった直後、軽く一杯飲みたい、と考えると、自然に足が向くのは、職場近くの店だ。赴任直後はいろいろな店に飲み歩いたが、最終的には同じ店ばっかり行くようになる。これが「行きつけの店」だ。特に単身赴任だと、会社近くの店、自宅の近い店など、行きつけのお店が多くできるようになる。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務した時は、自宅兼事務所の支局から歩いて15分の和食店が、私の行きつけの店となった。新聞記者の場合、その日の最後の原稿を出した段階で、休憩となる。原稿をいくら早く出しても、原稿を受け取ったデスクの処理能力の限度もあり、なかなか原稿のデスク処理が終わらない場合も多い。だから原稿を出してから、しばらくは原稿の問い合わせもなく、時間が過ぎていく。こんな場合は、食事に出るのがよろしい。軽く一杯となる。その飲んでいる時に、デスクから原稿の問い合わせもあるし、その日に使わない場合は、何の連絡もないこともある。
▽上越支局では、部下の支局員がいたから、多くの取材は支局員に任せていて、私は後方支援に徹していた。その方が支局員も仕事がしやすかっただろうし、責任感も持つようになった。だから支局員の仕事ぶりをみてから、私は飲みに出た。
▽札幌市の北海道報道部時代は、私は遊軍担当記者だったから、道警や道庁、市役所担当記者としての仕事はほぼなく、つまり発表ものをこなす必要がなかったので、独自取材に徹していた。行政の隙間を狙うような取材を続けていたし、連載も書いていた。だからかなりの自由があった。原稿を出して紙面化される時は、デスクが原稿を処理するまでずっと報道部にいて、デスクの問い合わせを待っていた。だから、報道部を出るのは夜の午後9時を過ぎていた。それから1人で近くの店に行き、軽く一杯飲んでいた。この時も最初はいろいろな店に入ったが、最終的にママさん一人が切り盛りするカウンターだけの店に通い続けることになった。
▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局でも同じように、いろいろと店を利用してみたが、最終的には支局から歩いて5分の和食店に毎日行くようになった。刺し身などを日本酒で軽く飲んで食った。やや高かったが、仕事を終えた一杯は格別な味だった。
▽さらには埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局でも、支局近くの和食店を利用した。原稿を書いて、デスクの処理が終わったころを見計らって、支局向かいのその和食店を利用した。年配のママさんが中国人女性のアルバイトを使って切り盛りしている店で、私の行きつけの店としては、満足な雰囲気だった。
▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局では、支局から歩いて15分の両津飲食店街にある店を物色していたが、最終的にはこの一角にある寿司屋が行きつけの店となった。市内の有名人がかなりの頻度で利用することを後に知った。だからこの店では、多くの人間と知り合いになった。ビールに日本酒、刺し身。日本海のイカやマグロ、ブリの刺し身を食った。店主はこの店の婿で、元々は芸術家志望の人間だった。僕と同じジョガーで、何回か島内ですれ違ったこともある。奥さんもかわいらしい人だった。
▽そして埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局。この支局でも行きつけの店が出来た。西武秩父駅前の蕎麦屋で、仕事が一段落すると、毎日のように通った。マスターは大相撲好き、川釣り好きの人で、飲んで食って、会話をして楽しい人間だった。定休日にはそのマスターとの奥さんの3人でよく飲んだ。
▽最近になって、大腸がんで死去したことを知った。
▽行きつけの店で共通していることがある。それはどの店もカウンターがあるということ。カウンター越しに飲んで、店の経営者、マスターやママさんと会話するのだ。雑談でいい。仕事から解放され、その日の疲れが取れてくる。カウンターのない店は、行きつけの店とはならないのだ。
▽一度でいいから、行ってみたかった台詞がある。
「いつもの」
▽こういうだけで、ビールや日本酒が出てくるとありがたい、と思っていた。


▽地方に勤務すると、「行きつけの店」というものができるようになる。その日の仕事が終わった直後、軽く一杯飲みたい、と考えると、自然に足が向くのは、職場近くの店だ。赴任直後はいろいろな店に飲み歩いたが、最終的には同じ店ばっかり行くようになる。これが「行きつけの店」だ。特に単身赴任だと、会社近くの店、自宅の近い店など、行きつけのお店が多くできるようになる。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務した時は、自宅兼事務所の支局から歩いて15分の和食店が、私の行きつけの店となった。新聞記者の場合、その日の最後の原稿を出した段階で、休憩となる。原稿をいくら早く出しても、原稿を受け取ったデスクの処理能力の限度もあり、なかなか原稿のデスク処理が終わらない場合も多い。だから原稿を出してから、しばらくは原稿の問い合わせもなく、時間が過ぎていく。こんな場合は、食事に出るのがよろしい。軽く一杯となる。その飲んでいる時に、デスクから原稿の問い合わせもあるし、その日に使わない場合は、何の連絡もないこともある。
▽上越支局では、部下の支局員がいたから、多くの取材は支局員に任せていて、私は後方支援に徹していた。その方が支局員も仕事がしやすかっただろうし、責任感も持つようになった。だから支局員の仕事ぶりをみてから、私は飲みに出た。
▽札幌市の北海道報道部時代は、私は遊軍担当記者だったから、道警や道庁、市役所担当記者としての仕事はほぼなく、つまり発表ものをこなす必要がなかったので、独自取材に徹していた。行政の隙間を狙うような取材を続けていたし、連載も書いていた。だからかなりの自由があった。原稿を出して紙面化される時は、デスクが原稿を処理するまでずっと報道部にいて、デスクの問い合わせを待っていた。だから、報道部を出るのは夜の午後9時を過ぎていた。それから1人で近くの店に行き、軽く一杯飲んでいた。この時も最初はいろいろな店に入ったが、最終的にママさん一人が切り盛りするカウンターだけの店に通い続けることになった。
▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局でも同じように、いろいろと店を利用してみたが、最終的には支局から歩いて5分の和食店に毎日行くようになった。刺し身などを日本酒で軽く飲んで食った。やや高かったが、仕事を終えた一杯は格別な味だった。
▽さらには埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局でも、支局近くの和食店を利用した。原稿を書いて、デスクの処理が終わったころを見計らって、支局向かいのその和食店を利用した。年配のママさんが中国人女性のアルバイトを使って切り盛りしている店で、私の行きつけの店としては、満足な雰囲気だった。
▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局では、支局から歩いて15分の両津飲食店街にある店を物色していたが、最終的にはこの一角にある寿司屋が行きつけの店となった。市内の有名人がかなりの頻度で利用することを後に知った。だからこの店では、多くの人間と知り合いになった。ビールに日本酒、刺し身。日本海のイカやマグロ、ブリの刺し身を食った。店主はこの店の婿で、元々は芸術家志望の人間だった。僕と同じジョガーで、何回か島内ですれ違ったこともある。奥さんもかわいらしい人だった。
▽そして埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局。この支局でも行きつけの店が出来た。西武秩父駅前の蕎麦屋で、仕事が一段落すると、毎日のように通った。マスターは大相撲好き、川釣り好きの人で、飲んで食って、会話をして楽しい人間だった。定休日にはそのマスターとの奥さんの3人でよく飲んだ。
▽最近になって、大腸がんで死去したことを知った。
▽行きつけの店で共通していることがある。それはどの店もカウンターがあるということ。カウンター越しに飲んで、店の経営者、マスターやママさんと会話するのだ。雑談でいい。仕事から解放され、その日の疲れが取れてくる。カウンターのない店は、行きつけの店とはならないのだ。
▽一度でいいから、行ってみたかった台詞がある。
「いつもの」
▽こういうだけで、ビールや日本酒が出てくるとありがたい、と思っていた。


★686読売新聞よ、お前もかと思ったミニコミ休刊

▽読売新聞よ、お前もか、と思った。そんなニュースを見た。
▽私がかつて勤務していた地方支局管内は、読売新聞の牙城だった。部数が圧倒的に多く、その部数をバックに販売促進用のミニコミ新聞を折り込みで出していた。地方版を補完する紙面作りで、部数維持に貢献していたミニコミだった。そのミニコミ新聞が休刊したというのだ。新聞の斜陽化を象徴する出来事だった。まさに「終わりの始まり」だと感じた。
▽私は2010年4月から5年間、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。越谷市をはじめ、草加、八潮、吉川、三郷の各市と松伏町の計5市1町を担当していた。管内人口は100万人に近く、東京近郊都市として人口が徐々に増えていた。朝日新聞はこの地域対策として、越谷市にあった通信局と、春日部、草加にあった駐在記者を統合して越谷市に新たな朝日新聞東埼玉支局を造り、支局長以下計3人の取材体制で取対応していた。
▽しかし一方で、読売新聞はこの管内の部数は圧倒的なシェアを持っており、我々が管内関連の記事をいくら書いても、部数の牙城は崩すことは出来なかった。
▽その牙城を守ってきた一つが、読売新聞に週1回、折り込みで出していたミニコミ新聞「東武よみうり新聞」だった。本体の読売新聞埼玉版で、管内の話が出るのはせいぜい1日1本。それを補うように、「東武よみうり新聞」は細かい町ダネのニュースを紙面で埋めた。地元の獨協大の話題ものも載せていた。私が勤務していた時は、この「東武よみうり新聞」を名乗る記者が5人ぐらいいたと思う。取材現場で一緒になったこともある。いかにもシロウト的な取材態度だったが、載せる記事の量は半端なかった。地元の埼玉新聞より、記事の量は多かった。
▽もちろん、新聞協会加盟の新聞ではない。読売新聞販売店の販促ミニコミだ。それでも時折、市議会や行政、市長の話も書いた。読売新聞の当時の地元通信部記者だった人間が、天下りして、編集長になっていたことも幸いした。市長と市議会が対立した時は、市長擁護をする論調を張って、半焼の市議が市議会で読売新聞批判を繰り広げたこともある。地元では影響力があったミニコミだった。
▽その「東武よみうり新聞」が休刊したのだという。
▽以下はそれを伝える地元埼玉新聞の2025年7月7日付記事だ。

《埼玉県東南部で約半世紀にわたり、読売新聞に折り込まれ週1回発行してきた「東武よみうり新聞」(東武よみうり新聞社発行、本社・越谷市蒲生茜町)が、7日付で休刊する。越谷市を中心に5市1町(同市、草加市、三郷市、八潮市、吉川市、松伏町)では、かつて地域紙が数多く発行されていた。近年、編集者の高齢化や新聞離れ、物価高騰による経営難が続き、県東南部から地域紙が次々と姿を消している》
《東武よみうり新聞は1977(昭和52)年に創刊した。毎週月曜日に発行されるブランケット判4ページ。「読者と共に歩む」をモットーに、県東部5市1町の地元情報を発信し、「東(とう)よみ」の愛称で親しまれてきた。
 6月23日付の1面に社告を掲載し、「東武よみうり 次号で休刊」と発表。見出しの通り「48年半の歴史に幕」を下ろす》
《発行部数10万部の地域紙がなくなる影響は大きい。社告を受け、同社には電話やファクス、メールを通じて、これまでの感謝や休刊を残念がる声が寄せられているという。
 休刊の理由は「コスト高騰」。同社関係者は「読者には申し訳ない気持ちでいっぱい。とはいえ、経営状況が厳しくなるのはやむを得ない。時代の流れ」と休刊を悔やんだ》

▽新聞販売店による販促用ミニコミだから、新聞販売店が新聞発行の資金を出していた。その資金繰りが苦しくなったのだろう。つまり、発行部数の多さを誇っていた読売新聞の埼玉県南東部の地域ですら、部数減が響いている、ということなのだろう。まさに斜陽化する新聞業界の象徴とも言える。読売新聞ですら、こうなったのだ。まさに、読売新聞よ、お前もか、という感じだった。
▽余談だが、この「東武よみうり新聞」と地元に駐在する読売新聞通信部記者との付き合いはほとんどない。実は記者クラブ問題を巡り、新聞協会にはいっていない「東武よみうり新聞」の記者を、記者会見や記者クラブに入会させるのはおかしい、と問題になったことがある。この時の記者クラブの幹事社が読売新聞の当の通信部記者で、記者会見や記者クラブへの入会に反対する決議を出した時の中心人物になった。これに激怒した「東武よみうり新聞」は、親会社の読売新聞販売局に抗議。その結果、この読売新聞通信部記者は突然の転勤をして、記者職を剥奪されて、窓際に追い込まれる事態となった。
▽読売新聞の記者が地雷を踏んでしまい、左遷されてしまった。その原因を作った「東武よみうり新聞」がなくなったことになる。

▽上記の埼玉新聞の記事をさらに紹介する。
《平成期、県東南部では日刊紙に加え、少なくとも地域紙が6紙あった。大手紙に折り込まれる「東武よみうり新聞」「東武朝日」「とうぶまいにち」。この3紙に加え、独立系の地域紙「東武新聞」「東埼玉新聞」「東部民友新聞」が競うように地域の情報を発信した。
▽県東南部は高度経済成長期に人口が急増。大手紙の発行部数が増え、販売店は読者サービスの一環として地域紙を本紙に折り込んだ。人口の増加に比例して、都心部から近い地域で中小企業も急増。広告スポンサーにも恵まれた。販売店の支援を受けず、独立系の地域紙は広告収入を支えに新聞発行を続けた。
▽ところが近年、各紙が相次いで実質的な休刊に追い込まれている。編集者の高齢化などを理由に、2023年までに独立系の地域紙3紙が紙媒体としての活動を実質休止した。昨年は「とうぶまいにち」が休刊。今回の「東武よみうり新聞」休刊を受け、残る地域紙は「東武朝日」のみとなった。
▽埼玉新聞、毎日新聞の記者を経て「とうぶまいにち」を創刊した飯嶋英好元編集長(85)は昨年3月、休刊を決めた。県東南部の取材を長年続け、大手紙や地域紙双方の事情に詳しい。
▽飯嶋さんは「全国紙が書けないネタを地域紙が書く。独自の見識と取材網を通じて、それぞれ地域に密着した情報を書くことができた。日刊紙に比べ、興味深い話題が多い」と地域紙の魅力を語った》

▽文中に出てくる飯嶋さんも、私が朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時の記者クラブの仲間だった。

★682寝坊し嘘をつき現実から逃げた新人記者

▽現実から逃げた新人記者の話を書こう。
▽取材に遅刻し、注意されると、「いじめられた」とSNSに書き続けた。そして精神的な病気だとして本社産業医に申告し、長期休暇に。自宅で療養していると思えば、新宿の飲食店でどんちゃん騒ぎ。それでも会社としてはクビに出来ず、本人が辞めるのを待っていた。そしてやっと辞職したが、彼に待っていたのはイバラの道だった。
▽入社した時から、つまり最初からおかしかった。朝日新聞の、とある有名な論説委員が退社し、ある私立大学の教授としてゼミを持ち、そのゼミ生という触れ込みだった。有名な元論説委員の弟子だから、「私を大切にしなさいよ」というオーラが漂っていた。
▽しかし、新聞記者という職業は本人の努力なしでは、全く成長しない。取材をするのは当たり前だが、その取材にもルールがある。
▽その一つが、チームワークで働く、ということ。チームのルールを守る必要がある。
▽ルールの一つが、取材現場に遅刻しない、ということだった。当たり前のことだが、その新人記者は出来なかった。
▽夏の高校野球は朝日新聞の主催だ。県大会の場合、開幕日はいろいろな役割を担う。試合会場への選手の入場と行進。県知事や高野連幹部、そして朝日新聞総局長の挨拶。さらには場内アナウンスを担当する女子高校生。そして選手宣誓。さらには朝日新聞ヘリが試合会場に上空から始球式のボールを落とす儀式。それらの場面を分担して取材するのだ。遅刻は許されない。
▽しかし、だった。この新人記者、この開会式に見事に遅刻した。1時間も遅れた。
▽担当の3年生記者は激怒した。
「なんで、遅刻するんだ」
▽こう問い詰めた。
▽その時の新人記者の言い訳がふるっていた。
「球児の取材をしていたため、遅れた」
▽完全な嘘だった。
▽3年生記者はこう詰問した。
「だったら、その取材ノートを見せろ」
▽この質問に、新人記者は答えることが出来なかった。
▽そしてこの翌日から、体調不良を理由に長期休暇を取るようになった。
▽用意周到だったのは、本社の産業医に申告して、精神的な病だと正当な理由を会社側に提出したことだ。このため総局長も本社も本人に注意することは出来なかった。
▽しばらくして、長期休暇しているはずの彼が新宿の飲食店でどんちゃん騒ぎをしていることが発覚した。本人が発信したSNSで分かってしまった。要するにサボっているだけ。総局長らは呆れてしまい、彼に対する奇異度はゼロからマイナスになっていった。後は彼がいつ朝日新聞を辞めるかどうかだった。会社からは「辞めろ」とは一切言わない日々が続いた。
▽そして半年が経過したころだった。彼は一身上の都合を理由に辞めていった。総局長はホッとした表情を見せていた。
▽一連の騒動で分かったのは、時間にだらしない人間は、すべてがだらしないということだった。「たかが遅刻」と言うなかれ。取材に遅刻する人間は、やはり新聞記者には向かない。時間にだらしないから、緊張感がない。
▽この彼には、続きがある。
▽辞めて数カ月後だった。総局長の本社経済部時代の同僚から電話が入った。その同僚は、数年前に朝日新聞を辞めて、同族会社の地方新聞幹部になっていた。その地方紙幹部がこう切り出したそうだ。
「うちの就職試験の面接に残った人間の中に、●●君というのがいるが、朝日新聞を辞めてうちの会社に来たいと言っている」
▽その●●君こそが、トンデモナイ新人記者の彼だった。
▽総局長は即座にこう答えた。
「彼は使い物にならず、嘘までついて、遅刻を言い訳にしていた。使わない方がいい」
▽この一言で、彼は面接試験で落とされた、という。朝日新聞を脱出して、地方紙に将来をかけようとした彼のもくろみは木っ端みじんに壊れたことになる。
▽この業界は実に狭いのだ。甘く見てはいけない。


★679群馬県人の男性はロレックスが大好きだ

▽高級腕時計ロレックスを巡る投資詐欺が伝えられたのは、昨年(2024年)年暮れだ。この話が報じられた時、私は群馬県に勤務している時の話を思い出した。「ロレックスを買ったほうがいい」と知り合いになった男性に勧められたのだ。私は高級腕時計に興味がなかったので、聞き流したが、群馬県の男性はブランド好きが多いことがよく分かった。
▽もう何年も前の話だ。私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。地元で親しくなった居酒屋店主らと酒を飲みに行った。飲んで食って、店を出た時、なぜかそれぞれが持っている腕時計自慢が始まった。4人のうちの2人がロレックスを持っていた。高級時計だ。まだ電波時計もAppleWatchも出回ってないころで、私は確かシチズンの腕時計をしていたので、それを見せた。みんなは、
「なあんだ」
という顔になった。
▽そしてそのうちの一人が、私にこう言った。
「原さんもロレックスを持った方がいいよ。財産になるし、子どもに遺産として、形見として引き継げる」
▽私は、エッと思ってしまった。本当にこんなことを考えているんだ、と驚いた。
▽私は高級腕時計など興味がなかったし、腕時計は正確であればいいと思っていた。だからロレックスを持っているのがステータスだとは考えたことがなかった。
▽そう、群馬県人はブランド好きで、男性はロレックスが大好きなのだ。これは群馬県に5年間勤務していて、よく分かった。持っている車もベンツやワーゲンなど外車ばかり。要するにモノを持ってることに執着している県民性がある。
▽知り合いになった地元の女性は、私にこう言った。
「群馬の男たちは金の使い方を間違っている。なんでこんな高級品に金を使おうとするんだろうか?」

▽そこで今度のニュースだ。ロレックスという高級時計に対する執着心が、犯罪を生む温床になったと読み取れた。
▽以下は当時の朝日新聞の記事だ。
《1月にはシェアリングサービス「トケマッチ」が突然終了した。
▽所有者から預かった高級腕時計を借りたい人に貸し出すサービスだが、運営会社(解散)の元代表らは腕時計を返さずにドバイへ逃亡。警視庁が業務上横領容疑で指名手配して行方を追っている。
▽高級腕時計を狙う窃盗事件は全国で頻発。大阪市では5月、ロレックス172本などを積んだワンボックス車1台が盗まれる事件があり、東京・銀座のブランド品買い取り・販売店では外壁に穴を開けてロレックスなどが盗まれる事件が発生した。
▽背景には、腕時計の資産価値の高まりがある。
▽一般社団法人「日本時計協会」のまとめでは、昨年の国内での腕時計の実売金額(推定)は約1兆1千億円で、統計開始以降、初めて1兆円を超えた。8割超が海外製品で、大半はロレックスという。
▽一方で、数量(推定)は昨年が1700万個で、前年と比べて17%減に。担当者は「2000年代初頭から腕時計一つの値段が上がってきた。コロナ禍が終わり、ここ数年でさらに伸びてきた」と話す。
▽世界の時計市場に詳しい千葉商科大学の磯山友幸教授は「世界的なインフレの中、金や時計といった実物資産にお金を移す流れが21年ごろから加速した。腕時計への投資ブームに目をつけた犯罪だ」と分析。「社会全体で金融リテラシーを高めるべきだ」と語る》

▽もうわかるだろう。ロレックスに資産価値があると信じてロレックスを買う。自己満足に過ぎないのだが、これには資産があるとして周囲を納得させて、自分も納得させて買っているのだ。
▽だから今回のロレックスをめぐる詐欺事件では、私は結構冷めた目で見ている。


★677八ツ場ダム完成で整備された道路と草津温泉

▽日本でも有数な温泉地である群馬県・草津温泉に行く道路がこんなに整備されていたとは驚いた。先日、草津温泉にマイカーで往復したが、渋川市から草津温泉に向かう吾妻川沿いの国道が以前に比べて整備され、高規格道路もあり、走りやすくなっていた。国家的プロジェクト、八ツ場ダムの完成で、周辺道路が整備されたためだ。あれだけの反対運動があったダム建設で、こんな風景が出現するとは思いもよらなかった。
▽八ツ場ダムは利根川の主要な支流の一つである吾妻川中流部、群馬県長野原町川原湯に建設された多目的ダムだ。2020年4月に供用を開始した。
▽以下はネットで説明された内容だ。
▽形式は重力式コンクリートダムで高さは116メートル。国土交通省関東地方整備局が事業主体である。ダム湖は八ッ場あがつま湖と命名さされた。神奈川県を除く関東1都5県の水がめ・利根川上流ダム群の一つとなる。総事業費は約5320億円で日本のダム史上最高額となり、反対運動もあり、計画から68年を要したという長い歴史をダムだ。
▽私は2004年4月から群馬県渋川市の朝日新聞渋川市支局に5年間勤務しており、支局の取材管内として、このダム現場がある長野原町や草津温泉がある草津町を取材対象としていた。
▽当時の八ツ場ダムはまだ細々と工事が始まっているだけで、ダム本体の建設も始まっていなかったし、私が渋川支局を離れた後、民主党政権の誕生で、ダム工事が一時中断したこともある。
▽そんなダムが完成する前の風景を横目にしながら、私は取材で草津温泉に向かっていた。当時の草津温泉ではサッカーJリーグ昇格を目指すサッカーチーム、ザスパ草津の練習会場があり、草津温泉のホテルや旅館で働きながらJリーグ復帰を目指す選手たちの取材を続けていた。
▽渋川支局から草津温泉に行くルートは二つあった。吾妻川を並行する南北二つの道路があり、この道路を走らせた。ともに片道1車線の狭い道路で、吾妻川と並行してクネクネと蛇行し、時間もかかった。地元では日影道路と日向道路とも言われていた。冬の間は日影道路に積雪が出来て、走りにくい道路だった。
▽草津温泉には数十回取材で通った。渋川支局からは2時間ほどかかった。渋滞すればもっとかかった。
▽それがどうだろう。先日久々に草津温泉にマイカーで行ったのだが、道路が完備され、南北の道路は高規格道路となり、トンネルができ、橋が整備されていた。クネクネする道路はなくなっていた。ダムが完成し、その付帯事業として道路が整備されたのだ。
▽まさに巨大ダムの影響だった。あれだけ反対闘争が続いていたダム工事だったが、筋肉なことに道路はこうやって整備されたのだ。
▽ネットではこんな指摘が出ている。
《八ッ場ダム事業による道路付け替え、6月24日全線開通
2017年5月29日 八ッ場ダムニュース
▽八ッ場ダムの事業費において、最も大きな金額を占めるのは道路の建設費用です。 ▽以下の上毛新聞の記事によれば、水没する道路の代わりとなる新たな道路の工事(補償工事)に約1200億円が投入され、来月すべて完了するとのことです。 ▽記事を読むと、道路工事はこれですべて終わるように受け取れますが、補償工事以外の道路建設がまだ残されています。JR川原湯温泉新駅周辺の道路工事や、川原湯地区の打越代替地と上湯原代替地を結ぶ町道の建設も、これからです》
《◆2017年5月17日 上毛新聞 ー八ツ場付け替え道路24キロ 来月24日に全通 ー
▽八ツ場ダム(群馬県長野原町)建設に伴う生活再建事業で、群馬県は16日、水没する道路に代わり、「付け替え道路」として整備を進めてきた国道と県道が、6月24日に全線開通すると発表した。
▽特定ダム対策課によると、同日開通するのは同町長野原の県道林長野原線長野原諏訪大橋から町役場付近の約500メートル。同所の町道長野原向原線の約800メートルも合わせて開通し、県と町は同日、開通式典を開く。
▽付け替え道路は1995年度に着工し、新たな開通区間を含めた総延長は24.4キロになる。国と県はこれまでに国道145号八ッ場バイパス(10.8キロ)などを整備。総工費約1200億円が投入された。
▽水没関係5地区連合対策委員会の野口貞夫委員長(73)=同町川原畑=は「今はやっとここまできたという思いだ。大柏木トンネルの県道利用や各地区の町道整備など、さらなる利便性の向上に期待している」と話す。
▽ダム建設に伴い国道145号と並行していたJR吾妻線も2014年の八ッ場大橋完成に合わせ、主に完成後のダム睾丸を通るルートに変更した》

▽この八ツ場ダムに限らず、全国のダム工事建設は、周辺道路の整備を伴う。北海道小樽市の朝里川温泉の朝里ダムもそうだし、埼玉県秩父市の滝沢ダム周辺も同じようになっている。道路はループ状になっていて、運転していて楽しい、観光地としても注目されている。つまりダム建設は周辺の道路整備事業の膨大さも伴っている。
▽皮肉なことに八ツ場ダム建設で、草津温泉へのアクセスは向上した。わずか10年もたたないで、ここまで変わってしまったかと思うと、驚きを隠せない。
▽JR吾妻線もしかり。ルートが改められ、路盤が強化し、速度も出るようになった。これもやばダムの効果だろう。皮肉なものだと私は思ってしまう。
▽ただし、マイカーで行く場合、長野原町大津の交差点からは、吾妻川を離れて、山奥の草津温泉に向かう国道292号を使って北上する。そこからの国道292号線は上り坂で、片道一車線の道路だ。途中には登坂用の道路もできているが、速度は出ない。降雪期はやはりノロノロ運転になってしまう一本道だ。
▽草津温泉は少しだけ近くなったということか。

★676ブラック企業を取材した

▽ブラック企業という言葉が一般化されたのはここ10年ほど。「ブラック企業戦記」(ブラック企業被害対策弁護団、角川新書)という本を読んだが、私は新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務してた時に扱った労基法違反の事件を思い出した。全国津々浦々、ブラック企業はどこにでも存在することを知った。
▽この本は、担当弁護士がそれぞれ扱った個別の事案を報告書として書いたものだ。不当解雇や不当賃金不払い、不当配置転換、不当出向など、こんなにブラック企業が多いのかと驚く。弁護士の守秘義務で、個別な具体的な事はあまり書かれてないから、具体的なイメージがよくわからないことも多かったが、全国にはブラック企業がこんなに多いのかと思った。
▽私が取材した佐渡の労基法違反事件は以下のようなものだ。
▽佐渡市の路線バスや観光バス、観光タクシーを運行する新潟交通佐渡(本社・佐渡市)で、元男性社員に対する賃金の一部不払いがあり、佐渡労働基準監督署は不足分の賃金を支払うよう、勧告を行っていたことが分かった。賃金不払いは、この元男性社員だけではなく、他の複数の社員にも行っている疑いもある。同社は新潟交通の子会社で、採算が取れない赤字のバス路線については、佐渡市などからは補助金を受けている、いわば公共交通機関だ。
▽こんな問題意識で取材を続けた。
▽取材したことを原稿に書いた。
《関係者の話を総合すると、元社員は3年前に入社。月給として受け取るべき賃金が毎月2万円低い約14万円の賃金を受け取っていた。昨年12月になって、2003年に内部で作成された「職種別初任給一覧表」という内規が存在しているのを知って、会社側に問い合わせをしたが、会社側は「求人票に14万円と書いており、納得して入社したはずだ」と内規通りの賃金を支払うのを拒否した。
▽元男性社員によると、内規による基準を下回る賃金の支払いは、この10年間、新規採用者にだけ適用されており、それ以前の管理職には、従来通りの給与が支給されているという。一覧表は労組にとっても会社側にとっても現在も効力を持つ内規だとしており、不当労働行為に当たると説明する。
▽元男性社員は、就業違反だとして、同労基署に相談し、同労基署が調査を始めて、賃金不払いと認定した模様だ。
▽元男性社員は「内規があるのに、それに従わない会社の考えが理解できない。他の社員も同じように賃金の一部不払いがある。会社はどう対応するのか」と話した》

▽その男性にも直接取材をした。以下は原稿用に書いたメモだ。

▽新潟交通佐渡で不当な賃金支給を受けていた元男性社員が、朝日新聞の取材に応じた。会社側は男性に対して、「文句があるなら、やめてもらうしかない」「新潟に最低賃金があるけど、佐渡はもっと最低賃金が低くて良いぐらいだ」などと問題ある発言を繰り返していた。
▽男性は3年前に東京の会社を辞めて、佐渡市にIターンで移住した。しばらくして、この新潟交通佐渡に就職。求人募集で月給14万円とあり、その賃金を毎月受け取ってきた。
▽昨年12月、業務でたまたま2003年に作成された「職種別初任給一覧表」の存在を知り、過去10年間以上、新規採用された事務員に対して、一覧表より2-3万円低い給料が支払われ続けてきた疑いが浮上したという。
▽男性社員は社長に、「事務員に支給されている賃金に誤りがある」と指摘したが、男性によると、大嶋社長は「求人募集にも14万円と書いているし、前からそうしている。入社の時も14万円で良いかと確認したはずだ。本人も納得して入社したのだから、今になって文句があるなら、会社としては何も出来ないから、辞めてもらうしかない」と言ってきたという。
▽男性は親会社の新潟交通労働組合に賃金規程と労使協定を確認し、賃金一覧表が労使ともに現在も効力を持っていることを、改めて分かったという。連合新潟にも見解を仰いで、「内容が真実であれば、是正が必要ととらえるのが一般的な見解だ」という返答をもらった。
▽このため男性は改めて、社長らに労組の見解も含めて提言したが、男性によると、大嶋社長は「まだ納得がいかないのか。入社する時、東京から比べれば給料は下がると言ったではないか。新潟の最低賃金はあるけど、佐渡はもっと最低賃金が低くても良いぐらいだ」と言い放ち、賃金の是正をする考えはないことを明らかにした。
▽これらのやり取りについて、大嶋社長は朝日新聞の取材に対して、「やめろと行った記憶はない。また佐渡賃金については、生産性を上げたいという意味で述べただけで、悪意はなかった」と説明している。
▽男性社員は同僚にも話を聞いて、同じような処遇の人間が複数いることを確認した。過去の労組役員にも話を聞いたが、「労組が知り得ないであれば、そんな勝手なことは許されない」と答えたという。
▽さらに社長と交渉したが、社長は「現在ある賃金表は使っていない」などと説明したといい、賃金不払いを最後まで認めなかった。
▽これ以上の話し合いは不毛だとして、男性は、不満のまま、3月で会社を辞めた。
▽辞める際に、社長にはこう言われたという。「念書を書いていけ」
▽渡された1枚の紙には、「秘密保持誓約書」というタイトルで、退職に当たり、秘密情報を保有していないことを確認する内容で、違反した場合、法的責任、一切の損害を賠償することを約束する、という内容だった。都合悪い情報は外部に出さないという、まさに念書。男性は提出しなかった。

▽私としてはささやかな特ダネになった。
▽酷い企業だった。この時はまだ、「ブラック企業」という言葉はなかったが、まさにブラック企業だった。

★672東電柏崎刈羽原発と佐渡島の思い

▽私は2015年5月に新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した。日本海に浮かぶ、あの離島だ。着任してしばらくして気づいたのは、本土である潟県柏崎市の東京電力柏崎刈羽原発との距離がわずか50キロ圏であるという事実だった。2011年3月に発生した東日本大震災で福島原発が壊滅的に破壊し、メルトダウンが始まったことから、佐渡でもこの東京電力柏崎刈羽原発の事故を不安視する人も多くなっていたことを知り、取材を続けた。
▽地元では、柏崎刈羽原発の再稼働に反対する声が多くなり、地元の市民団体が2506人分の署名簿を市議会に提出し、国に意見書を出すよう求めていた時期だった。
▽しかし市議会は自民系の保守議員が多く、3月の定例市議会では継続審査になっていた。
▽このため新たに発足した市民団体が署名を積み上げ、新たに市議会に追加提出することになった。市内で初の街頭署名活動をして、市民に協力を訴えていた
▽元々の署名は「柏崎刈羽原発の再稼働に反対する意見書」と題して、佐渡地区労等懇談会など4グループが共同で出していた。
▽佐渡市は同原発から50キロの距離にあり、福島原発事故による放射能汚染の広がりを見れば、
「佐渡は逃げる場所もない離島であり深刻な問題」
と訴えていた。
▽そして国に、再稼働は行わないことと再生可能な自然エネルギーへの政策転換を求める意見書を提出するよう求めた。当然の動きだった。
▽3月市議会では、各会派の意見が分かれたため、継続審議となり、議論が始まることも分かった。
▽新たに発足したのは、「柏崎刈羽原発再稼働を考える佐渡の会」だった。東日本大震災が発生した4年前の2011年3月11日を忘れまい、としてその年3月11日に発足した。
「人類とは共存できない原発の全廃と核なき社会をめざしつつ、まずは東京電力柏崎刈羽原発を再稼働させないための行動をする」
と会の目標を定めた。そして市議会で意見書が継続審査となったことを受けて、追加の署名活動を各家庭に回して進めてきた。
▽街頭署名活動では、署名に応じる市民が多く、中には友人に書いてもらった署名簿を手渡すお年寄りもいた。会のメンバーの1人は
「佐渡で原発に異議を唱える団体が出来たことは画期的だ。先日はJA佐渡も再稼働に反対する決議をしている。島の人にはもっと理解をしてもらいたい」
と話した。
▽ここで私が関心を持ったのは、この考える会の代表の男性だった。そう、福島県から佐渡に避難してきた人だったのだ。だからより思いは強かった。
▽その男性は福島県川内村から佐渡に避難してきた1人だ。東京で40年間のサラリーマン生活を終え、川内村で自給自足の生活を営んでいた時に、東日本大震災と福島原発の事故が発生し、避難生活が始まった。福島県で1年間の避難生活を続けた後、友人の紹介で佐渡に3年前に渡ってきた。
▽その男性が危機感を持ったのが、柏崎刈羽原発と佐渡との距離の短さだった。万一の事故の場合、この佐渡も被害に巻き込まれる。福島で痛いほど経験した避難生活から学んだのが、「原発は危険だ」という認識だった。
▽市民の安全と安心を、どのようにして確保していくのか。
▽「私は補償対象ではない、実の被害者だ」
▽こう話す男性の言葉は重い。
▽しかし、こうした思いは市議会に届かず、意見書は廃案になった。佐渡もまた保守系の強い市議会であることを知った。

★671秩父市は埼玉県から独立して群馬県を名乗れ

▽私は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に3年勤務していた。3年間、支局で生活をして、その場所で取材をして、新聞原稿を書いてきた。この経験から言うと、秩父市の風土、生活、気候、気質など、どれを取ってもは埼玉県ではない、ということに気づいた。そう、やはり上州、群馬県そのものだ。だから言いたい。
「秩父市に、埼玉県から独立せよ」
▽秩父支局に転勤して、最初に気づいたのが、ドライバーの運転気質だった。短気なドライバーが多い。交差点を曲がるのに、最初にブレーキをかけてからウインカーを後出しする。これはマナー違反だ。後続のドライバーからすれば、前のクルマが突然、急ブレーキをかけたと思ってしまう。左に曲がりたいなら、最初にウインカーを左に出すのが常識だが、秩父市のドライバーはほとんどが出来ない。
▽脇道から出てくるドライバーは、メイン道路の左右を見ない。右だけ見て、急にアクセルを踏む。左を見ないから、左から歩いてくる歩行者に気づくのが遅れる。危険な運転を平気でする。
▽道路工事で一方通行になった道路でカウントダウンの道路標識では、赤信号なのに発進してしまう。向こうからは対向車が来ないと、思い込んでいる。これも怖い。
▽細いクネクネ道も、平気で対向車線にはみ出して運転してくる。
▽これらのドライバーの気質は、すべて群馬県のドライバーそのものだ。私は群馬県に5年間勤務していたから、よく分かる。秩父市のドライバーは群馬県のドライバーそのものだった。
▽食事も同じことが言える。蕎麦、うどんなど、麺類の外食が多いのも、群馬県と似ている。ホルモン店も多いのも同じだ。私は群馬でも秩父でも、ホルモン焼きを堪能した。うまいと感じた。牛肉でもない、鶏肉でもない。豚肉が好きなのだ。そんな人種だ。
▽保守政治家が多いのも特長だ。昔、運輸大臣になった自民の荒川清十郎が、埼玉県の自分の選挙区である国鉄深谷駅に強引に急行列車を止めた事実は、今でも有名な話だ。その記憶は、まだ残っている。荒川は3カ月で大臣職から追放されたが、この荒川の墓は秩父地方にある。大物大臣を輩出している群馬とどこか似ている。
▽考えてみれば、地形的にも秩父市は群馬県と隣接し、秩父市の北側は群馬県だ。逆に埼玉県の県都さいたま市は秩父からかなり離れている。それゆえ、秩父の人間と群馬県との交流は古くからあり、長い。
▽こんな話を、親しくなった飲み屋の親父に話したら、こんな返事をもらった。
「秩父は上州だよ」
▽群馬県とは言わず、上州だというのだ。納得してしまった。
▽だから私は秩父支局を離れる挨拶でこう話した。
「秩父市よ、埼玉県から独立せよ」


★662地方取材網のベクトルが朝日新聞と読売新聞で正反対になってきた

▽新年度(2025年度)に入り、全国紙の地方取材網のベクトルが正反対になってきた。特に朝日新聞と毎日新聞の地方版戦略はかなりマイナスのベクトルが進み、読売新聞は現状維持の取材網を取っている。今後生き抜いていく新聞はどこなのだろうか。
▽私はさいたま市に住んでいるため、各紙の埼玉版を注意して読んでいる。朝日新聞は新年度、埼玉県熊谷市にあった北埼玉支局を廃止し、熊谷には地方駐在記者として1人置くだけにした。北埼玉支局は、越谷市の東埼玉支局、川越市の西埼玉支局とともに、準支局と呼ばれる主要支局で、支局長以下、複数の記者を置いていた。その準支局が次々と廃止され、最後に残っていたのがこの北埼玉食だけだった。その北埼玉支局も廃止され、記者を駐在記者として置くだけになった。
▽これで朝日新聞では埼玉県の記者は県庁所在地のさいたま総局のほか、この熊谷と所沢ぐらいにしか置いていないことになった。さいたま総局に記者を集約し、それぞれ担当記者を名乗っているだけ。地元に記者を置いていないから、地方の行政や議会をウォッチすることもできず、朝日新聞の紙面からは地方の話がほとんど消えている。
▽かつては県内に北埼玉支局、西埼玉支局、東埼玉支局のほか、所沢、秩父、春日部、久喜、川口、朝霞などにも記者を配置し、埼玉版も4種類の紙面を作っていたが、今は半減し、紙面も2種類しか作っていない。
▽毎日新聞も同様だ。毎日新聞は昨年度いっぱいで、秩父通信部を廃止した。東京新聞も撤退した。朝日新聞は既に3年前に秩父支局を廃止しており、秩父市ではもはや読売新聞と地元埼玉新聞の記者しかいないのだ。
▽朝日新聞は今後の地方取材網について、さらなる縮小を続ける方針で、もはや全国紙とは呼ぶことが出来ない状況になっている。全国紙ではなく、中央紙と言って良いのかもしれない。体力がないために、地方取材網を縮小し東京本社に一極集中させているとしか思えない。地方の問題を伝えづらい状況だ。
▽全国的には毎日新聞も同様だ。経営体力がないために次第に地方の記者を切っている。
▽これに対して読売新聞はいまだに地方支局に記者を置き、地方の取材網を維持している。読売新聞が唯一の全国紙であると強調しているのもうなずけてしまう。読売新聞はまだ体力があるのだ。
▽こうしてみると、全国紙の中で、従来の地方取材網を維持してるのは読売新聞だけで、朝日新聞も毎日新聞も縮小方向に走っている。
▽全国の地方取材網が縮小すれば、それに伴って地方の部数も落ちていく。部数が落ちればさらに経営が悪くなる。この悪循環を朝日新聞も毎日新聞も経営陣は気づかないのか、わかろうとしない。
▽同業他社の知り合いの読売新聞の記者からこんな連絡があった。
「今度の人事異動で日本海の支局に勤務することになりました。2回目の赴任です」
▽この地方では朝日新聞は既に支局を撤退している。悲しいことだ。
▽斜陽化が進む新聞業界で最後に生き残るのはどこの新聞なのだろうか。朝日新聞のOBとしては悲しい結果が待っている気がする。


★661サッカーJリーグ、ザスパはどこに行くのか

▽今年(2025年)5月31日のサッカーJ3リーグ、ザスパ群馬対アスルクラロ沼津の試合。0−0で引き分けた。かつて名称が「ザスパ草津」だった時代の取材を続けてきた私にとって、この試合について非常に寂しい記事を見つけた。ここまで酷評されているのだ。
《カインズ“サッカー部”が、グループ子会社化の初戦を勝利で飾れなかった。
ベイシアグループの子会社化により、草津温泉&上州発の「地域密着クラブ」から「企業クラブ」へと移行したザスパ。子会社化初戦のJ3第14節の18位・沼津戦で、消化不良のスコアレスドローとなり勝点3を奪えなかった。
一言で表現すれば、つまらないゲームだった。観客数は1695人。雨のコンディションとはいえ、あまりにも寂しい数字。招待券客もいたため、有料入場者はさらに少ない。かつての「ザスパ草津」ファンは、どこに消えてしまったのだろうか。
草津温泉発祥のザスパは、草津温泉の「泉質主義」になぞらえて「戦質主義」を掲げて、魂の戦いをみせてきたが、いまはハングリーな姿は消えてしまった。子会社によって今後は潤沢な資金が導入されることが予想されるが、ゲームがつまらなければファンは増えない》

▽私がかつて群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務し、支局管内である草津温泉を拠点にしたサッカーチーム「ザスパ草津」を取材を始めたのは、2004年春のことだ。
▽前年の2003年はザスパ草津にとってはこんな年だった。
《JFL昇格。天皇杯初出場。 株式会社草津温泉フットボールクラブを設立し、日本サッカー協会へ「Jリーグ入りを標榜とするクラブに対する優遇措置」を申請。 同申請が満場一致で承認され、11月に開催される全国地域リーグへの出場資格を獲得。群馬県サッカー協会長杯決勝戦において、群馬FCホリコシを3-0で破り天皇杯出場権を獲得。関東サッカーリーグ2部優勝を果たし、第27回全国地域リーグ決勝大会優勝。JFL昇格を決めた》

▽つまり私が赴任した年は、アマチュアリーグのザスパ草津がJFLでサッカーJリーグへの昇格を目指して時期だ。
▽チームの多くの選手がJリーグのチームを解雇され、草津温泉の温泉施設で働きながらサッカーの練習を続け、Jリーグ復帰を目指していた。温泉施設で働きながら、最終的にはJリーグ復帰を目指すことを目標に戦い続ける姿には、夢があり、共感できる部分が多かった。
▽日本有数の温泉地で働きながらサッカーを続ける元Jリーガーたちのこんなストーリーを描くことを、私も取材の目的としていた。
▽そしてその2004年秋、ザスパ草津の快進撃が続き、最終的にJFL3位とにり、JリーグよりJ2昇格の承認を受けた。 ▽天皇杯では5回戦で横浜マリノスを延長戦で制し、準々決勝まで進出、ベスト8となる。
▽この時の関係者の笑顔を忘れられない。草津温泉であった、ビールかけならぬ、温泉かけを寒い空の下で行い、喜びを味わった。

▽そしてJリーグ2部に昇格。しかし現実は厳しかった。初めての挑戦となるリーグ2部では最下位に。監督も入れ替わり、選手も数人去った。経営する会社の幹部の不祥事もあり、なかなかJ2での成績を残せなかった。サポーターが増えず、観客も伸びない中で、ザスパはクラブ名称を変えていった。
▽ザスパ草津→ザスパクサツ群馬→ザスパ群馬
▽会社名は「草津温泉フットボールクラブ」から今は「ザスパ」の一文字。そして今年は経営陣も変わった。

▽5月30日には上毛新聞がネットでこんな記事を出していた。
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《群馬県創業のベイシアグループのベイシア(前橋市)とカインズ(埼玉県本庄市)は29日、両社でサッカーJ3ザスパ群馬の運営会社、ザスパ(前橋市)の株式の過半数を取得し、グループ会社にすると発表した。売上高1兆円超を誇るグループの強みを生かしてクラブ運営に本格的に参画し、4期連続の赤字と厳しい経営が続くザスパの基盤安定化と早期のJ2復帰を目指す》

 親会社のホームページでもこうある。
《株式会社ベイシア(本社:群馬県前橋市、代表取締役社長:相木 孝仁 以下、ベイシア)と株式会社カインズ(本部:埼玉県本庄市、代表取締役社長 CEO:高家 正行 以下、カインズ)は、株式会社ザスパ(本社:群馬県前橋市、代表取締役社長:細貝 萌 以下、ザスパ)が第三者割当増資にて発行する株式をそれぞれ引き受けることとなりました。これにより、ベイシア、カインズの議決権保有割合はそれぞれ25.2%に、ベイシアグループとしては合計50.4%となり、ザスパはベイシアグループのグループ会社となります。これにより、ベイシアグループは、Jリーグクラブチーム「ザスパ群馬」の運営に参画します》

▽冒頭で紹介した記事が「カインズのサッカー部」と揶揄されたのは、こんな理由からだ。昨年は監督としてゼネラルマネージャーとしてザスパ草津を率いてきた植木繁晴さんが亡くなった。
▽ザスパは「草津温泉」という名前を外し、草津温泉での原点を過去の物をしていくのだろうか。今後どうやって行くのだろうか。私なりに心配している。


★659群馬県人の外車好き、ブランド好き

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に赴任した時に驚いたのが、群馬県人の車好き、だということだった。しかも、外車が大好きであることに、やや違和感すら覚えた。
▽支局は住宅街にあり、近所の民家には、家族分の自家用車があった。4人家族なら、最低4台あったし、5人家族なら、最低5台の車があった。その分の駐車場があるのも驚きだった。
▽しかも、その中には、必ず1台、外車があった。多くがベンツだった。大衆車とされるゴルフは見かけなかった。
▽これだけの財力があるのも、サラリーマンの私には驚きだが、維持費にもかなりのカネがかかるはずで、それだけ金持ちが多いということなのだろう。
▽にしても、なぜ外車なのか。なぜベンツなのか。狭い道路を運転するには不向きな車だ。否、日本の道路事情に合っていない。だからか、一方通行の道路を逆走するベンツを何回も見てきた。無理して走るためだ。ベンツでなくてもいいのに。
▽こんな疑問に、同業他社の記者が答えてくれた。
▽群馬の名前から察するに、「馬が群れる」地方だったから、人々は馬を所有することが、昔からのステータスだった。ブランド好きだよ。それが、馬から外車に変わっただけだよ。だから、ベンツなのだと。
▽なるほど、と思った。しかし、だからといって、一方通行を逆走する行為は、道交法違反だぞ。ベンツだけ許されるのはおかしい。

★656マージャンと新聞記者と記者クラブ

▽以前はどこの記者クラブでもあったのに、最近は全く聞かれなくなったのが、マージャンだ。「古き良き時代」の時間つぶし、というのが、40年間新聞記者を続けてきた私の感想だ。
▽昔はどこの記者クラブでもマージャン台とマージャン牌が置いてあった。県警記者クラブ、県政記者クラブ、市政記者クラブ、所轄署記者クラブのほか、経済クラブにもあった。もちろん勤務していた支局にもあった。
▽県警クラブや県政クラブは発表物が多く、発表までの時間待ちにマージャンを行っていた。県警の場合、マージャンをするのは県警担当キャップでけで、それ以下の部下はマージャン禁止だった。だから、遊んでいるという気持ちは全くなく、次の発表物をこなす心準備の時間でもあった。
▽例えば、県警広報が記者クラブの黒板に、こう書いたとしよう。
「午後1時、捜査1課レク」
「午後2時、交通部、記者会見」
▽書かれた以上、「黒板協定」と言って、発表までの事前取材が出来なくなる協定があった。発表を知ってからの抜け駆け取材はしてならない、という紳士協定だ。水面下でコソコソと情報収集はするが、表向きは協定遵守で何もしていないことになっている。
▽そんな時にライバル紙の相手を牽制するためのマージャンだった。相手に取材をさせないためのマージャンだった。必要悪だったのだ。
▽黒板協定の縛りの前から水面下で取材していたとしても、このマージャンはカモフラージになった。何も動いていないことを、相手に見せるためだ。
▽要するにマージャンは取材のライバル紙との競争道具でもあったのだ。遊んでいたわけではない。
▽時にはメンツが足りないと、県警広報の職員に来てもらい、マージャンをしたこともある。県警広報にとっては記者クラブの動きをチェックするのも大切な仕事だ。マージャンに加わるしかなかった。
▽ただし、これはマスコミという狭い世界だけの話だ。遊びではないが、仕事の水面下の仕事だった。
▽県警記者クラブも県政記者クラブも高層ビルの1室にあるから、マージャンをしていたとしても、外部には分からない。問題にはならなかった。
▽しかし、だ。所轄記者クラブは違った。記者クラブの前の廊下を外部の人間が行き来する構造が多く、マージャンの「ジャラジャラ」という音が外部に漏れてしまう。
「昼間からマージャンなど、しやがって」
と、市民からの抗議が次第に多くなってきた。
▽これがマージャン風景がなくなった原因だ。所轄の警察官が昼間からマージャンをしているようで、問題だという訳だ。
▽次第にマージャンをする光景は途絶えた。
▽会社でもマージャンする光景はなくなってきた。
▽私がある支局で県警の夜回りをしていた時だ。突然ポケットベルが鳴った。公衆電話から支局に電話をすると、
「マージャンのメンツが足りない。夜回りを切り上げて戻ってこい」
▽支局デスクからの命令だった。
▽私は夜回りを切り上げて、支局に上がり、マージャンに加わった。
▽昔はこんなことがよくあった。
▽もちろん事件続きの場合は、マージャンなど全く手が出なかったし、する気も起きなかった。
▽こうやって昔のマージャンの風景を書くと、「古き良き時代」と言われるだろう。確かに時間つぶしの代名詞でもあった。
▽ただし上記のように、ライバル紙を動かさないための方策でもあったことは、知ってほしかった。


★651さいたま市長選で、判断ミスをした朝日新聞

▽2025年5月のさいたま市長選は、現職が5選を決めた。私はさいたま市民として各紙地方版の報道を読んでいたが、朝日新聞埼玉版の紙面が酷かった。告示後の紙面はほとんど扱わなかったし、朝日新聞は大きな判断ミスをしていた。これについて書いていく。
▽まずは朝日新聞の投開票結果の記事から。
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▽さいたま市長選は25日投開票され、無所属現職の清水勇人氏(63)が、元同市議の共産加川義光(75)、前衆院議員の無所属沢田良(45)、音楽家の同小袋成彬(34)、住宅設備業の諸派西内聡雄(51)の新顔4氏を破り、5選を決めた。
▽全国の政令指定都市の市長で5選は最多。投票率は35・78%で、過去最低だった前回2021年の28・70%を上回った。
 *

当 清水勇人 (5)無現 177,217

 沢田良 無新 97,160

 西内聡雄 諸新 55,395

 小袋成彬 無新 32,836

 加川義光 共新 25,946

 (確定得票)
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▽事実上の現職の信任投票であることは分かる。争点が事実上、なかったことも理解出来る。
▽しかし、朝日新聞は現職が、自民、公明のほか立憲などの政党とどんな駆け引きをして、安定する支持層をまとめたのか、何一つ書いていなかった。朝日新聞が選挙期間中に載せた記事は、告示した11日は休刊日と重なり、翌々日の13日に候補者のプロフィールを載せて、あとは続報は全くなく、18日にアンケート結果を掲載したに過ぎない。
▽そして、「あす投開票」「きょう投開票」と決まり事を紙面化しただけだ。物足りないというより、全くやる気がない紙面だった。朝日新聞の読者からすれば、どんな選挙なのか全く分からなかった。
▽そして結果として、投票率が伸びたこと、諸派の新顔が得票を伸ばしたこと、共産候補が最下位だったことの理由を解説することもしていない。
▽信任投票なら、通常は投票率は下がるはずなのに、なぜか上がっている。そして諸派候補の西内聡雄が約5万5000票を取って、5人の中の3位となり、組織票である共産党候補の2倍以上の票数になっている。
▽しかも、だ。朝日新聞はこの諸派候補の西内聡雄を泡沫候補だとして、他の4人の候補と扱いを小さくしていた。プロフィールも載せなかったし、アンケートも掲載しなかった。
▽しかし結果は3位に食い込んだ。泡沫ではなかったのだ。朝日新聞は泡沫候補とした西内の票数を全く予想できなかったことになる。
▽インターネットにアップされた西内聡雄の政策を見ると、泡沫候補とした理由が何となく分かる。
▽こうある。
①外国人生活保護廃止 外国人の生活保護を廃止。外国人の健康保険税等は未収率が高いため、日本人と別けて管理します。
②減税 住民税の減税等。さいたま市に決定権のある税率を財政や経済の状況を鑑みながら実施します。
③農業支援 農業従事者への資金援助、高付加価値農作物の推進。耕作放棄地、遊休農地を有効活用し、さいたま市の農業を活性化。さいたま市内で安心安全な食料の生産と安定供給網の構築。
④教育の修正 GHQの自虐史観教育から、愛国心を育てる教育へと修正。詰め込み型の教育から最適解を求める教育へ転換します。
⑤市長報酬削減 市長報酬20%カット。さいたま市長の退職金制度を改善(退職金受取りの場合は、さいたま市長選挙に出られない)

▽問題は「外国人の生活保護廃止」と「GHQの自虐史観教育から、愛国心を育てる教育へと修正」。いかにもヘイト、ネトウヨに寄り添う政策だからだろう。
▽だから泡沫候補としたのだろう。しかし結果として泡沫ではなかった。票数をある程度獲得した。
▽おそらく彼への共感をしたネトウヨ共感者や支持者が投票に行き、投票率を上げたのではないか。そう考えないと、この投票率アップは理解出来ない。
▽朝日新聞は判断をミスした。多くの材料があるのに、静観してしまった。紙面化しなかった。
▽兵庫県知事選で地元神戸新聞が沈黙し、結果として現職が当選したように、朝日新聞埼玉版も同じような判断ミスをしてしまった。これが西内の票獲得に繋がったとみるべきなのだ。


★650車の安全のため夢の技術を語りたい

▽私は新聞記者として地方勤務が長かったので、マイカーを移動手段として使った取材が多かった。マイカーで運転している分、事故に遭遇する確率も高くなる。そんな中、私はこんな技術があれば、もっと車は安全になるのに、と思ったことがある。それを提案と記していこう。
▽一つ目。ウインカーとハンドルを連動させる技術だ。
▽ウインカーを出さないと、ハンドルを切ることができない技術を車に設置できないかどうか。
▽地方ではドライバーの多くがまともなウインカーを出さないことが多い。通常の場合、例えば交差点を左折する場合、ウインカーを出してから減速し、ハンドルを左に切ってから交差点を曲がる。これが地方だと、いきなりブレーキをかけ、減速してからウインカーを出して、その直後に交差点を曲がるドライバーが多い。後ろのドライバーから見ると、急ブレーキをかけたようで、追突する可能性がある。私は何回もそんな怖い目に遭っている。だからウインカーを出さないと、ハンドルが切れないような装置があれば、追突事故は減るのに、と私は思ってしまう。
▽さらに言うならば、高速道などで車線変更する場合も、ウィンカーを出さないドライバーが多い。これもこうした装置を作れば、間違いなく事故が減るものだと思う。
▽二つ目。アルコール検知器と連動するエンジンスイッチの開発。
▽運転席に、アルコール検知器と連動するエンジンスイッチの開発も必要だ。運転席に座って、呼気からアルコールが検出ればエンジンが入らない装置の開発だ。これは酒酔い運転防止のためだ。エンジンが入らなければ、運転できない。そうすれば酒酔い運転は大幅に減る。
▽三つ目。横断歩道に監視カメラを設置する。
▽一般道路の横断歩道で、歩行者がいるのに、一時停止しないドライバーが多い。これにはどうするか。
▽この場合、監視カメラを設置して、一時停止しない車のドライバーは、免許証の点数を減点させる制度を作るのだ。
▽一時停止しなかった場合、1点を減点する。一時停止しないドライバーは、どんどん点数が減っていき、免許証が失効する。逆に、一時停止したドライバーは、運転免許証に失点ではなく1点を加点させる。こうすれば絶対に運転免許の失効が怖いドライバーは、横断歩道で一時停止するようになるし、しかも積極的に止まるだろう。こうすれば、もっと安全な社会にできるのではないか。
▽先日もある街を歩いていたら、横断歩道で歩行者がいるのに一時停止しないドライバーがいた。近くで監視していた警察官が歩行者の歩行安全義務違反だと指摘して検挙していたことを目撃した。最近の警察はこうした行為にも、検挙する姿勢を見せている。
▽だったら警察官がいなくても監視カメラでチェックすればいいのだ。監視カメラ社会と批判する意見はあるだろうが、安全の社会を築くには、こうした設置も仕方ないと思っている。


★642電話で上司とケンカをすると損をする

▽電話でケンカをすると損をすることを知ったのは、新聞社に入り、かなりの時間が経過してからだ。知った時はもう遅かった。特に上司とは、電話でケンカはしない方がいい。
▽その昔、理不尽な命令や指示をするデスクや支局長に反発を覚え、我慢に我慢を重ねた結果、反発したことがある。しかし、反発すればするほど、そのデスクや支局長の私に対するハラスメントがひどくなり、最後は黙るしかなかった。それだけ昔の新聞社は人間関係が酷かった。
▽そうした経験を経て、なるべく上司とはケンカをしないようにしていたが、それでも理不尽な命令や指示に対してムッとすることがある。そんな場合、ケンカを避けるか、ケンカをするなら同じ土俵に乗ってするしかないことも覚えた。
▽ここで気をつけたいのは、電話での対応だ。そうした理不尽な命令や指示に対して、電話で一人反発をしないことだ。
▽上司が部下に電話で指示や命令をする場合、デスクの声を職場の人間が周囲で聞いていることが多い。デスクや支局長は支局から電話をして命令や指示を出す。その一方的な話を支局員やアルバイトなどの職場の人間が聞いている。これに対して私は一人、取材現場にいるので、聞いている人間は少ない。上司が私を電話で非難する場合、周囲はそのデスクだけの言葉を聞いている。その言葉を聞けば、まるで私が悪人のかのように思われるのだ。
▽デスクが、
「こんなことがわからないのか」
と、私に怒鳴ったとする。するとそれだけを聞いている支局員は、
「原は馬鹿だな」
と電話で判断してしまう。周囲の人間はデスクの一方的な怒鳴り声とその言葉だけを聞いて、「原は馬鹿だ」と判断してしまうのだ。
▽これが怖い。私の話は全く周囲は聞こえていないため、どういう理不尽な命令や指示があったかは、周囲はわかっていないのに、だ。
▽電話によるケンカは怖いのはこういうことだ。
▽理不尽な指示や命令があった場合、それに反発するならば、ケンカをしている場面に周囲に聞いてもらったほうがいい。そしていかに理不尽な命令や指示を上司が出しているかを周りが知ったほうが良いのだ。つまり同じ土俵に乗る、ということだ。これができないと、一方的な命令や指示だということを、周囲に理解されない。
▽もう一つ付け加えるなら、今はインターネット時代だ。理不尽な命令や指示に対してメールで反発することも大切だ。その場合は全員メールを使って、反発したほうが良い。実際、私はこの全員メールのやり方で、上司の無理難題な命令や指示を反発してみせた。メールを受け取った人間の一部は、
「そうだ、そうだ」
と私に共感してくれた。
▽ただしこれもやりすぎると反発を招くので気をつけよう。
▽上司とのケンカには、工夫が必要だ。疎まれると左遷されたり、窓際に回される。人事がつきものだから、怖い事態になる可能性も高い。


★638病欠から復帰した支局員をどのように扱うか

▽少人数の地方支局で支局員が病気で休み、その後復帰した場合、どのように扱うかは難しい問題だ。ただただ支局長の負担が増えていくだけだった。
▽私がある地方の支局長をしていた時だ。部下の中堅の男性支局員が病気となり、約2カ月休んでいた。病気になるのは仕方ないし、それを責めるものではない。しかし少人数の小さな支局で、一人でも病欠した場合、補充人事は無いし、支局全体の戦力は激減する。その分支局長の負担が増えるが、それは仕方ない。
▽問題は休み明けから出勤するようになった支局員にどうやって対応するかだった。
▽会社からは通達が来ていた。

《職場復帰にあたり、復帰後の勤務のあり方(制限勤務の内容)、賃金(制限勤務に伴う減額)等についてご説明します。
◆ 職場復帰日(定時間勤務による復帰)▽2013年1月16日

◆ 職場復帰後の制限勤務
今後の勤務は、産業医の意見書に基づきます。2013年1月31日までの間は、時間外勤務、休日勤務、交代勤務(泊まり・夜勤)については禁止となります。その他作業配慮について、車の運転は1時間を超えないようにしてください。

◆ 基準給与
減額はありません。100%支給となります。

◆ 基準外賃金(制限勤務に伴う減額)
上記の制限勤務により、時間外勤務は禁止となるため、基準外賃金は規定により打ち切り手当の30%を支給します。また、1カ月の実働日数が16日未満の場合は、打切手当支給率を乗じた額を支給します(1月分以降の基準外賃金は、所定の打ち切り手当の30%に下記の実働日数に応じた支給率を乗じた額となります)。
今後は、産業医意見書による制限勤務の内容に基づき、基準外賃金の支給率を変更することがあります。

<打切手当支給率>
▽実働日数 ▽16日以上 ▽12日以上 ▽▽8日以上 ▽▽4日以上 1日以上 ▽▽▽全休
支給率 100% 80% 60% 40% 20% 0%》

▽分かるだろうか。病欠して復帰しても、しばらくは時間外勤務の禁止、休日勤務などの禁止が続き、要するに支局長である私は支局員に基準内賃金の中での仕事しかさせることが出来ないのだ。時間外の仕事はさせてはいけないので、定刻に始まり、定刻に終わる、という普通の地方公務員並みの生活を徹底させることだった。
▽これに対して私はこう返信メールを送った。
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▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽
▽今月いっぱい時間外労働はさせないため、六時には帰宅させるようにします。
▽もう一人の支局員もほとんど上がってこないので、支局は幽霊みたいです。
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▽このように小さな支局で支局員が休んでしまうと、その負担が支局長である私にかかってくる。
▽さらに言うと、もう1人の女性支局員は、当時はまだ認められていなかった在宅勤務をしていたので、さらにその分の負担も私にかかってきていた。仲間の支局員が病気をしたのに、知らんぷりを決め込んでいた。
▽小さな支局で病人が出ると、その負担は支局長にだけかかるのが現状だ。今考えると、よくこなしたな、と私は本当に思っている。休みもほとんど取れなった記憶と記録がある。

★636地元のワルが市議になった衝撃

▽ある地方支局に勤務していた時の話だ。地元では「ワル」と呼ばれていた人間が突然、市議会議員選挙に出馬して、当選した。驚いたのは、こうした人物を支援・支持する人間が少なからずいるという事実だった。
▽地元では有名なワルだった。中学・高校時代から恐喝を繰り返し、高校では退学処分を受けるほどだった。地元の不良仲間でも恐れられていた。「彼とは喧嘩できない」と嘆く人間もいた。電車の中で、カツアゲをしていたことを何回も目撃している人間もいた。カツアゲとは、恐喝して金銭などを巻き上げることをいう隠語だ。相当なワルぶりだった。
▽しかしもそのワルは地元では有名企業の社長の息子だった。しばらくして、そのその会社に就職し、いきなり専務となった。
▽だから金は自由に使えた。金を使って子分を集めて、従わせていた。夜の街も闊歩していた。仲間が少なくなかった。
▽そんなワルの存在を、私も知り合いから聞いていた。私とは遠い世界の話だと思っていた。
▽そんなワルが突然、市議選に出ると出馬表明したのだ。私は驚いた。何のために。こんなワルに投票すること自体、反社会ではないかと思った。
▽しかし私の予想に反して、かなりの得票数で当選してしまった。こんなワルを支持する有権者がいるのか、と私は驚いた。
▽その後私は転勤して、その支局を離れたため、このワルとされる市議がどんな議員活動をやってるか知らないが、議員って、こんな人間が当選していることだけは分かった。
▽こんなワルの話を書いたのは、議員という人間の素性を知ってもらいたいためだ。およそ、まともな人間が少ないということを分かってもらいたいと思った。
▽まともなサラリーマンが選挙に出ても当選する見込みはない。組織とか有力な支援者がいない限り、当選はおぼつかない。そうした中で、選挙に当選するのはやはり特別な人間なのだ。市議になったワルも、地元では有名企業という支援があったからなのだろう。
▽これは市議だけではなく、県議も国会議員でもそうだ。まともな議員がどれだけいるのだろう。その昔、暴行の疑いで逮捕された人間も、今では堂々と自民党の国会議員になっている。議員とはそんな人間だ。維新の議員を見れば一目瞭然だろう。まともな人間なら議員にならない。作家の辺見庸もそんなことを話していた。私はそう考えている。


★635高速道インターで出くわした逆走車の恐怖感

▽思わず、「えっ?」と我が目を疑った。一方通行の道路を走っているはずなのに、対向車が突然正面から走ってきた。危ない、ととっさにハンドルを切って対向車をよけると同時に、クラクションを鳴らした。バックミラーに映ったその車は次第に小さくなって、視界から消えた。関越道渋川伊香保インターでの出来事だ。一瞬の恐怖感を味わった。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の出来事だ。
▽時間は午前10時間ごろ。私は取材で使っているマイカー、日産エクストレイルを渋川市中心街から国道を前橋市に向かって南下し、走らせていた。
▽関越道に入るため、同国道から枝分かれして同インターに入る専用の進入路に入った。先には料金所がある。道路幅はそんなに広くない。
▽進入路は国道から分かれて左にカーブし、やがて右カーブになる。逆走の車は、そんな視界の悪い状態で、突然出てきた。
▽高速道を逆走する車が時折出現するのは、ニュースで知っているが、進入路を逆走するのを、目の前で目撃するのは初めてだ。速度を上げていなかったからよかったが、避けることが出来たのは偶然かも知れないと思った。私は逆走車を何とか避けて、クラクションを鳴らした。後続車は私が鳴らしたクラクションで、逆走車の存在を知り、最初から左に避けていて、大事には至らなかった。
▽その後、関越道を往復し、関越道から出て料金所前で改めて、道路の構造を見た。関越道をこのインターで降りて料金所をくぐると、計3本の道路がある。左が「渋川・伊香保方面」、真ん中が「前橋方面」。そして一番右が赤地に白の進入禁止の標識がある。料金所を通過すると、右にハンドルを切らない限り、進入禁止の道路に行くことはない。どう考えても、通常では逆走は考えられない。
▽料金所で警戒していた県警高速隊員に数時間後、逆走車があったことを告げると、こんな説明を受けた。
「お互い信頼する原則で交通は成り立っている。しかし時折逆走があるので、我々も料金所で警戒している。全面的に信頼しない方がいいですよ」
▽自分の安全は自分で守れ、ということか。高速道は安全ではないことを改めて知った。
▽この以上の顛末を、私は翌日の朝日新聞群馬版に署名入りで記事を書いた。料金所周辺で撮影した写真も送った。
▽デスクに大幅に原稿を直されたが、読書の関心も高かったようだ。
▽記事を読んだ当時の東日本高速道路(NEXCO)の担当者からも問い合わせの電話が私の支局にあった。
「もう少しこの逆走車の話を詳しく聞きたい」
と言ってきた。私は丁寧に答えた。高速道路運営会社も、安全問題には一関心を持っているようだった。
▽しかしだからと言ってこのインターチェンジの構造は変わることはなかった。


★632厄介だった市議選取材と顔写真撮影

▽地方支局にいると、一番困るのが市議会選挙の取材だった。市議会選挙では候補者全員の顔写真を撮影する必要があった。この作業にかなり時間がかかり、手間もかかった。
▽例えば定数30で、40人が立候補したとしよう。告示日当日に顔写真は撮影する時間がないから、記者クラブなどで事前に同業他社と相談し、候補者が集まる事前説明会などで、顔写真を一緒に撮影する。
▽当時はまだデジタルカメラでなく、フィルムカメラの時代だ。1人2−3枚ずつ撮影するとして、36枚撮りフィルムでは、3−4本のフィルムが必要になる。白い壁の前に立ってもらい、候補者の名前など書いた紙を持ってもらい、撮影する。顔と名前を一致させるための作業だ。ストロボの光を直接顔に当てないバウンス撮影をして、順番に撮影していく。
▽これを支局に持ち帰って、フィルムの現像をする。現像が終われば水洗いする。水洗いが終われば、乾燥させる。この時に使うのがドライヤーだ。本来は自然乾燥させていくのが理想だが、時間がない時は濡れたフィルムにドライヤーの暖かい空気を当てて乾かす。ドライヤーはこういう作業にぴったりの道具だった。
▽こうしてフィルムが完成すると、今度は暗室での写真焼きになる。印画紙に写真を焼いて現像し、定着液に浸けて完成させる。次第に暗室の中で、候補者の顔が浮かび上がる。写真の数は、100枚以上になる。数枚の写真を焼くなら、いつもの作業だが、100枚の写真を焼くのは、かなりの労働だ。
▽選挙ポスターのように顔の一部を修正し、より美人に見せる女性候補や、よりダンディーに見せる男性候補もいるが、新聞写真の場合はそんな修正もしないから、素顔のままだ。さらには朝日新聞の場合、立候補から3カ月以内の撮影と決められており、古い写真も、若い時の写真も使えないのだ。
▽印画紙も水洗いをして、乾かす。この時もドライヤーなどを使う。枚数が多いので、暗室での作業は終わらない。このため自宅の風呂場で水シャワーを浴びせて、水洗いをしたこともある。何しろ枚数が多すぎた。
▽こうして出来上がった写真は枚数が多いので、私は県庁所在地の支局経由で本社に送った。
▽そして告示日当日。予定通り候補者が立候補するか、駆け込み立候補があるかを確認しデスクとやりとりし、候補者の全員の顔写真を載せるのだ。
▽こんな経験を地方にいると何回もやってきた。かなり煩わしい作業だった。
▽それがいつの日か、候補者全員の顔写真を掲載することを、朝日新聞がやめた。地方支局の取材網縮小に伴って、こういう手間と時間がかかる作業をする必要がないと本社がようやく判断してくれたためだ。これは毎日新聞も読売新聞も同じように続いた。
▽このように全国は選挙報道について次第に省力化進めている。
▽確かに地方を回ってきた私にとっては時間も手間もかかるこの作業がなくなったことが嬉しい。
▽一方で、この省力化が手抜きとなっているのではないかと思うこともある。顔写真撮影をすることで、候補者と雑談し、選挙の動向が分かることがある。それすら行わなくなっているのではないだろうか。


★629現地の生活感がなかった秩父市長選記事(622本目のコラム「地方選挙を報じる朝日新聞の紙面変化」の続報)

▽2025年4月の埼玉県秩父市長選は、現職が新顔候補に僅差で破れるという大接戦の選挙だった。争点と一つだったのは、老朽化した市立病院の建て替え問題だと一部報道はあった。赤字が続く市立病院を再建し、どこに新たな病院を造るのかということが焦点になっていたとしたが、実際は前市長との代理戦争だったことが大きく、一部の報道はかなりミスリードしていた。
▽一部報道では、自民のほか連合が支援した現職の落選で、今夏の参院選を占う、というトーンがあったが、実際は全く違う。当選した新顔候補には、4年前の市長選で落選した当時の現職が応援しており、実際には、現職と元職との代理戦争だったのだ。保守対革新ではなく、保守対保守の闘いだ。さらには現職を連合が応援するという、中央での連合の自民寄りの姿勢がこの秩父でも如実に現れていた。
▽ただ、市民の関心は市立病院の再建問題にあることは確かだ。
▽秩父管内には三つの病院が拠点になっているが、市立病院が中核だ。しかし、この病院、整形外科がいつも混んでいて、手術があると、外来患者を拒否することもしばしば。こんなことも、記者が現地にいないと分からないし、記事は書けない。実際にそうだった。
▽私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時だ。私は中年ジョガーとして毎朝のようにジョギングをしているが、それに伴って怪我も多い。坐骨神経痛や鵞足炎(がそくえん)、転倒による脱臼なども経験した。
▽こうした経験から転勤先の地元にきちんとした整形外科の病院があるかが気になっていた。
▽しかし市立病院に行ってみると、整形外科では「本日は緊急手術が入ったため、外来患者は受け付けていません」という張り紙を何回も見た。要するに医師が不足しているのだ。利用者から見れば使うことができないのだ。
▽また別の拠点の私立病院では、整形外科すらなかった。
▽これではどうしても怪我が多くなる年寄りには安心して暮らすことができない。仕方なく私は自宅があるさいたま市の病院に、車で時折に通うことになった。地元でまともな整形外科病院がないとこうなってしまう悲劇だ。
▽この安心できない街をどうやって安心して暮らせる街にしていくのか。これが今回の挑戦の争点だったはずだ。
▽落選した現職候補は、4年前の当選時、新型コロナウィルス感染拡大が続いている時に、管内の受け入れ拠点病院の名前を公表してしまった。公然の秘密だったと言え、公表すれば、根拠のない噂が広まり、不安が拡大する。そんなことも分からないで公表するという発想がこの現職市長にあった。病院関係者への思いやりが全くなかった。
▽私が秩父支局を最後に朝日新聞を退職し、朝日新聞は後任者を置かず、しばらくしてから支局そのものを廃止した。毎日新聞は今年(2025年)年3月をもって通信部を廃止し、東京新聞も廃止した。地元にいるのは読売新聞と地元埼玉新聞だけなのだ。
▽地元に記者がいないという事は、そこでの市民の生活感が全くわからないまま記事にしていると言うことだ。だからこそ、今回の市長選で的外れな記事が多かったのはこのためだ。自民党が退潮したわけではないのだ。
▽整形外科に行きたくても行けないという現実を、どう見るのか。些細なことであるが、こうした細かい材料を一つ一つ集めて、市長選をルポする。それが記者と当然の取材なのに、そんなことすら出来なくなっているのだ。残念だ。

★628地方支局で聞いた警備公安警察の本音

「我々の行っていることを知ったら、日本は転覆しますよ」
▽若い警察官にこう言われたことがある。
▽私が新聞記者になったころの話だ。当時、私は所轄警察署周りをしていて事件事故を追いかける一方、街ダネを書く仕事を続けていた。地元は海の街だったこともあり、一年中、祭りやイベントが続いていた。
▽そんな祭りやイベントの取材をしていると、いつでもカメラを持った同じ人間がいた。最初はカメラが好きなアマチュアカメラマンかなと思っていたが、その祭りやイベントを撮影しているのではないことが、何となく分かってきた。そんな雰囲気の人間だった。
▽そしてその人間が、実は私が担当している所轄警察署の警備公安部の刑事だったことが分かった。私服で撮影している対象は、その祭りやイベントに参加している人間たちだった。どんな人間が参加しているかをチェックしていたのだ。
▽それは地元で行われたメーデーやデモでも目についた。私服の警備公安部の人間が、参加者を撮影しているのだ。
▽今思えば、こうした祭りやイベント、デモや市民運動に参加している人間を撮影し、ピックアップしたことが分かる。それが警備公安の捜査手法だった。日本という国にとって、危険な思想を持った人間や、そうした行動をする人物を特定し、チェックしているのだ。
▽所轄警察署でこの刑事に会った時、冗談半分で、
「何をしているのか」
と質問した。するとその若い刑事は、真顔でこう冒頭の言葉を放ったのだ。
「我々の行っていることを知ったら、日本は転覆しますよ」
▽国家にとって都合悪い団体や組織を監視をする。それが警備公安警察のやり方だ。
▽冗談にも思えた、こんなセリフを平気で言う警察官。私は少し気味悪くなった。
▽考えてみれば警備公安警察は、戦前の特高警察を源流にしている組織だ。強引な逮捕で拷問し、死んでいった人間もいる。犠牲になった人間は多い。
▽冒頭の若いころ聞いたその警察官の言葉を、私は今でも鮮明に覚えている。警備公安警察の体質を浮き彫りにしている言葉だと今でも思っている。


★626新聞記者の服装とネクタイ

▽私は過去40年の新聞記者を時代を振り返ってみると、ネクタイ姿で取材を続けていたのは、浦和支局(当時・現さいたま総局)時代と東京本社時代だけだった。それ以外はほぼノーネクタイで通した。私だけではなく、他社も地方だとノーネクタイが多かった。本社以外でネクタイ姿をしている記者は少なくなっている。
▽浦和支局時代は埼玉県警担当キャップだった。担当していた埼玉県警と浦和地検(当時・現さいたま地検)、浦和地裁(当時・さいたま地裁)を担当していたので、ネクタイ姿だった。相手が役人だったこともある。スーツにネクタイ姿だ。さすがに夏はジャケットを着なかったが、ワイシャツにネクタイ姿だった。相手に不愉快な服装をしないこと、という考えからだ。
▽ある真夏の暑い日に、地検幹部にこう言われたことがある。
▽「原さん、そろそろネクタイなんか外したほうがいいよ」
▽ありがたい言葉だった。そう言われてノーネクタイになったこともある。
▽本社でも中央官庁を担当していた時はネクタイ姿だった。他社も多くはネクタイ姿だった。
▽ネクタイ姿を続けたのは、取材相手に不快な思いをさせないためだ。なるべく地味で、派手な服装は避けて、相手に信頼感を与える。これがネクタイ姿の意味だと私は思っていた。
▽ただし、地方勤務ではネクタイをしなかった。他社もノーネクタイ記者が多かった。
▽驚くのは、地方でこの最近10年の他社の服装だ。多くがブルージーンを履いているのだ。さすがに私もこれは驚いた。昔はブルージーンなんて取材する服装だとは思わなかったからだ。相手に不快感を与えなければ良いと言う点からも、私は疑問に思っていた。
▽しかも履いてる靴も、革靴ではなく、布製のスニーカーなのだ。楽な姿で取材をする記者が多くなったということなのか。
▽新聞記者の服装は次第に変わってきているのだと思った。地方ではネクタイをしていない記者がほとんどになっているようだ。時代の変化、と言うことだろうか。
▽昔、大先輩にこう言われたことがある。
「ネクタイは毎日交換しろ」
▽この意味は、仕事を終えたらキチンと自宅に帰って、翌日の服装をキチンとしろということだ。同じネクタイをしていれば、相手は、
「この記者、自宅に帰っていないんだ」
と思われる。それを避けようということだ。確かに毎日同じ服装をしていると、相手に見破られ、不愉快な思いをさせる。
▽これは昔の教訓ではないのだろう。


★624渋川支局時代にジンギスカン鍋を食った

▽北海道に勤務している時に、ジンギスカン鍋を時折食っていた。札幌市近郊には「ビール工場」という名の大きなレストランがあり、会社の仲間を誘ってここで生ビールを飲んで、ジンギスカンを食らうのだ。北海道時代の良き思い出だった。それが、群馬県時代にもこのジンギスカンを提供してくれる場所があり、うれしくなった。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時のことだ。伊香保温泉に近い場所にある伊香保グリーン牧場のバーベキューメニューに、その年、2005年にジンギスカン鍋を加えた。羊肉を使ったジンギスカンの料理専門店は県内にはまだ少なく、ヘルシーという理由で全国的なブームになっていることから、メニューにしたという。
▽ジンギスカンは北海道で流行していたが、羊肉の脂肪は他の肉と違って融点が高く、体内で吸収されにくいとされ、ヘルシーな食品としてここ数年、東京都を中心に専門店が急増している。
▽当時の広告ではこううたっていた。

《ジンギスカンと言えば皆さんご承知の通り羊の肉です。
羊肉は柔らかくタンパク質やビタミンが豊富です。
しかし何と言っても羊肉はヘルシー食品なのです。
羊肉の脂肪は牛肉や豚肉と違い特殊な脂肪(融点が高い)で出来ていますから
体内に入っても吸収されにくく、コレステロールが体内に残らない事が大きな特徴です》

▽同牧場では、ニュージーランド産の羊肉を輸入。スライスした羊肉とモヤシやニンジン、キャベツなど季節の野菜に、ご飯、みそ汁などを付けてランチセットして提供していた。
▽私は昼食時に行き、実際にランチセットを食ってきた。
▽焼き方はいろいろあり、真ん中が膨らんだ専用のジンギスカン鍋の上に、羊肉を乗せて、周囲に野菜を置いて、焼けて出てきた肉汁を染み込ませた野菜とともに食べたり、モヤシを目いっぱい敷いてその上に羊肉を乗せて蒸し焼きにする方法もある。
▽私はモヤシを使って、蒸し焼きにして、特性のタレを付けてご飯ともに食った。マイカーを運転していなければ、ビールも欲しくなってしまう。ジューシーなうまさだ。
▽この牧場は、NHKの連続小説「ファイト」にも登場した施設で、大人から子どもも楽しめるレジャーランドだ。食って、飲んで楽しみたいと当時、思っていたものだ。
▽今でも提供しているのだろうか。

★622地方選挙を報じる朝日新聞の紙面変化

▽埼玉県秩父市の市長選告示を伝える朝日埼玉版の記事を見て驚いた。従来の紙面作りとは全く違っていたのだ。これを新しい画期的な紙面作りと見るのか、それとも手抜きと見るのか。私の考えを述べたい。
▽その秩父市長選は、今年(2025年)4月13日に告示があり、現職と新顔の2人の候補者が立候補を届けた。違和感を持ったのは、翌日の14日付朝日新聞の紙面だった。紙面では告示で2人が立候補したと簡単な記事で済ませて、それとは別に本来なら数日後に載せるべき2人の候補者のプロフィールをいきなり載せていたのだ。
▽通常であれば告示日に立候補を届けた候補者の第一声を写真とともに載せるのが通常だ。朝日新聞はそれをせずに、簡単に立候補者が2人あり、それとは別に2人のそれぞれのプロフィールを載せていたのだ。しかもポーズ写真ではなく、正面からの顔写真だ。プロフィール取材は事前に告示前に行うから、朝日新聞記者は2人の第一声を取材していなかったことになる。取材したとしても、第一声は載せなかった。
▽通常の一般市長選の紙面の流れを書いておく。
▽まずは告示日の2日前の組み日で、「あす告示」と前打ちをする。この場合は「2人が立候補予定」とぼかして書く。3人目候補者が飛び入りする可能性もあるためだ。
▽当日の告示日では届け出をした候補者の第一声を書く。それぞれの候補者の第一声を取材して、その候補者がマイクを握って、支援を訴えるポーズ写真を撮るのが通常の取材だ。
▽そして2、3日後の紙面で、事前に取材した候補者のプロフィール記事を、ポーズ写真とともに載せていく。これが通常の紙面だ。
▽さらに投開票の前々日の組み日で、「あす投開票」という記事を前打ちをする。
▽そして投開票日では、開票結果を元に、当選した候補者の話を記事にする。これが通常の紙面の流れだ。
▽しかし朝日新聞は今回そういうことを全くしなかった。つまり選挙期間中にプロフィール記事を載せるのではなく、告示日の組み日にプロフィール記事を載せてしまったのだ。
▽これはどういうことなのだろうか。画期的な紙面改革なのか、それとも人手不足による手抜き紙面なのか。
▽私は2021年8月いっぱいで朝日新聞秩父支局長を最後に朝日新聞を辞めた。その後任者は来ないで、秩父支局は廃止された。秩父での取材をするならば、所沢支局か、熊谷支局のどちらかの記者が応援に行くことになる。どちらも遠い。
▽つまり現地に記者がいないから、こういった紙面作りをしたのだろうか。
▽プロフィール会見は事前に告示日よりかなり前に取材をする。当日の取材ではない。そして上記の紙面の流れのように候補者のプロフィールは、通常だと投開票の2、3日前に載せることで、読者、特に有権者に徹底させる作りをしてきた。これが新聞の責任ある紙面作りだった。私はそう思ってきた。
▽しかし今回の朝日新聞の作りでは、そういうことを一切配慮していない。読者にやや不親切な紙面作りとなる。画期的というか、手抜きというか。
▽しかも市長選は通常、1人で取材をすることで、候補者陣営の勢いを比較することが出来るのに、朝日新聞の今回のプロフィール会見は2人の記者が手分けをしていた。この意味が分からない。
▽こういう紙面作りをするという事は、今後も朝日新聞は選挙報道でこういうことをするのだろうなと思った。地方支局を強引に削減してきた朝日新聞は現地に記者がいないから、選挙期間中も候補者や関係者への取材をすることもないのだろう。
▽朝日新聞は自称で、「選挙の朝日新聞」とうぬぼれていたが、これは完全に手抜きではないかと私は思ってしまう。
▽もう「選挙の朝日新聞」と自慢しない方がいい。


★619私が佐渡支局を目指した理由

▽私は2015年5月に、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任している。希望しての赴任だった。3年4カ月勤務した。なぜ赴任を希望したのかを記していきたい。
▽私は2016年8月で60歳となることから、定年前に離島での生活をしようと思っていた。離島に憧れたのは、他でもない。離島ならではの生活の不便さ、生活の楽しさを楽しんでみたいと思ったのだ。東京生まれ育ちの私が、新聞社に入り、地方を転勤してきた。しかし、地方と言っても、赴任した地方の支局はその土地では中堅の都市であり、過疎地ではない。だったら離島だったら。全く違う生活が待っていると思っていた。
▽当時の朝日新聞には、離島に支局を置いている場所は数カ所あった。この佐渡島と、沖縄の那覇総局などがあった。さらには20年ほど前には長崎県・対馬の厳原通信局があったが、20年前に廃止されている。沖縄の那覇総局の場合、沖縄が一つの県であり、那覇は県庁所在地の総局なので、離島の支局とは言いがたい。生活が便利すぎるのだ。
▽長崎県・対馬の静原通信局は、もう20年前に廃止されており、朝日新聞東京本社での離島の支局と言えば、この佐渡支局しかなかったのだ。
▽佐渡支局は、佐渡市の両津地区にあり、平成の大合併前は、両津通信局という名称だった。
▽私は60歳の定年を前に、佐渡支局への赴任を希望し、会社にも希望届を出していた。もちろん、サラリーマンだから、希望通りの人事など滅多にない。しかし偶然だが、希望通り2015年5月に赴任することができた。これは当時、私が勤務していた埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局での当時の上司であるさいたま総局長が、本社の幹部となり、その人事異動だと感じた。
▽もう一つ、佐渡支局を希望した理由がある。
▽一度は佐渡で絶滅した国の特別天然記念物の野鳥であるトキその後を見届けたかったのだ。一度は環境行政の失敗で、トキが絶滅していた。絶滅する際に、私は東京本社で環境庁を担当しており、その絶滅の取材をしていたことがある。東京本社から佐渡に出張して、最後に生き残っていた2羽のトキの死亡予定原稿も書いたことがある。その後、トキは絶滅し、予定稿がそのまま使われた経緯もある。
▽後に中国からトキのつがいが提供され、佐渡での人工繁殖が始まっていた。そして人工繁殖がうまく進み、そのひなが自然界に放鳥され、自然界でのトキの再生事業が始まろうとしていた。私はその再生の様子を丁寧に見て回りたいと思った。それが佐渡支局赴任希望のもう一つの理由だった。

▽赴任してみて、やはり気になったトキの取材をずっと続けた。自然界での再生事業は順調に進み、取材を続けた。一方で、離島ゆえの行政の問題、住民の生活上の問題、人々の暮らしなどを取材した。
▽一方で生活者として都会にはないものを感じた。笑い話的に言えば、映画館もないし、大型の商業施設もない。食料品は地元スーパーで買い求めるしかない。離島ゆえに、天候が悪ければ、船の便は欠航し、本州からの食料品が届かなくなる。すると、スーパーの棚から食料品がすべて消えていく。そのためカップ麺や缶詰などは必需品となり、買い貯める必要があった。
▽新聞も本州から運ばれるので、首都圏とは違い、新聞の配達は3時間以上遅れ、届くのは8時半過ぎだった。天候悪化でフェリーなどが欠航すれば、新聞は届かない。新聞が3日ぐらい届いたこともある。首都圏の生活の便利さがなくなり、非常に不便な生活だったが、これも慣れれば楽しむことができた。
▽佐渡の両津港と新潟港を結ぶのは、フェリーと高速船のジェットフォイルだ。私は月に数回、朝新聞新潟総局で、週末のデスク当番を任されるようになり、月に何回か新潟総局に通った。仕事が終わっても、帰りのフェリーもジェットフォイルもないから、ホテル住まいだ。こんな生活がずっと続いた。
▽その佐渡支局60歳の定年を迎え、その後は1年契約のシニア記者として残った。
▽最後まで居残りたかったが、3年4カ月いて、佐渡支局を離れた。
▽今考えても、思い出が多い佐渡での生活だった。口の悪い仲間は、「島流しに遭った」と嘲笑したが、楽しい生活だった。

▽ちなみに60歳の定年の時に、社報にこんなことを書いた。
《環境庁(当時)を担当した時、佐渡島で絶滅寸前の国の特別天然記念物トキを取材していた。予定稿を書いて、紙面化された。時が流れ、中国の協力でそのトキが自然界で生まれ、巣立つという現場で、その取材を続けている。そのダイナミックな偶然性よ。過疎化が進む地方で何が起きているのか。しばらく佐渡で取材しています》


★617貸したカネの返金催促

▽ある地方支局での話だ。毎日新聞の記者にカネを貸したまま、いつまでも返さないので、数カ月後に催促したことがある。返金の催促って、気が重い。しかしカネについてはキチンとしたいから、はっきりと返すよう話した。間もなくして返金があった。これ以来、この記者とは付き合いがなくなった。
▽記者クラブと取材先との飲み会での話だ。割り勘で勘定する際になって、その記者が
「持ち合わせがない」
と言ってきた。
▽たかが数千円のカネだ。そんな金額すら持っていないのか、と内心驚いたが、私が貸すことにして、その記者の分も支払った。
▽問題はそれからだ。
▽その後、定例の記者会見などで、その記者と何回か会う機会があったのだが、その彼は一向に私に金を返そうとしない。通常、人から金を借りた場合、次に会った時には金を返却するべきだと思ってるのだが、その記者はそんな考えがなかったようだ。
▽忘れているのかな、と思ったりもしたが、通常金を借りた場合、それは忘れないのが鉄則だ。これは新聞記者に限らず、サラリーマンにとって大切なことだ。否、サラリーマンだけではない、社会人として大切な行為だ。金を借りたなら、次に会うときに必ず返す、というのが鉄則だ。
▽どうやらこの記者はそんな社会人としてのマナーも持っていないらしい。さらに後に別の人間に聞いた話では、その記者は株式や投資なども行っており、記者以外のアルバイトをしていたようだ。
▽数カ月後、私は思い切って、その記者に言った。
「そろそろ、カネを返せよ」
▽その記者はようやく財布を広げて、私にカネを返した。
▽たかが数千円のことだ、と言うなかれ。カネによって信頼を失った人間は意外に多い。私はそれを言いたかったのだ。カネによる信頼を失えば、人間関係は全て失われていく。私はそう思っている。
▽カネについては、慎重に行動した方がいい。


★614新人記者事始め、3の付く数字に気をつけろ

▽3日、3週間、3カ月、3年。この「3」という数字に気をつけろと言われたのは、私が新聞記者入社時だった。今回はその「3」について説明したい。
▽こう説明を受けた。新聞記者を始めても、わずか3日で辞めたくなる。続けても3週間でやはり辞めたくなる。さらに3カ月我慢しても、やはり辞めたくなる。そして3年が経過しても、やはり辞めたくなる時期だというのだ。大先輩がそう教えてくれた。
▽確かにそんな経験が私にもあった。
▽社会人経験者でもない、大学卒業したばかりの新人がいきなり新聞記者になり、自分名刺を渡され、相手が警察署の署長や副署長、次長らと対等に会って、会社の名前で取材をする。いきなり自分が偉いようになった気分になるが、その一方で記者は厳しい。先輩からは、具体的な取材方法は何も教えてもらえず、見よう見まねで新聞記者を始める。わずか3日で嫌になってくる。これが3日で辞めたい理由だ。
▽それでも頑張って新聞記者をしていても、3週間が限度だった。それでも我慢する。
▽やはりそれでも3カ月で辞めたいと思ってくる。原稿を書いても、ケチョンケチョンにキャップやデスクから怒鳴られ、原稿を直される。この原稿のどこがいけないのか、全く教えてくれない。そんなものを3カ月やってると嫌になってくる。これが3カ月で辞めたくなる理由だ。
▽そのうち慣れてきて、自分も一丁前になったと思って、1年、2年が過ぎると、後輩も出来て、先輩ヅラが始まる。一方で競争紙に特ダネを抜かれて、先輩ヅラは面目丸つぶれになる。上司にぼろくそ言われて、また辞めたくなる。これが3年目のジンクスだ。挫折を経験することになる。自分だけが特ダネを取れないと落ち込む。やはり辞めようかなと思う。
▽私もそういう経験をして、新聞記者をしてきた。「3」の指摘はまさに当たっていた。着ているジャットの裏ポケットには常に「辞表」を持っていた時期もある。
▽経験則だが、新聞記者は6−7年ぐらい経験を積まないと、自分の表現で自分の原稿を書くことができない。書いているつもりでもやはり自分の原稿ではなく、キャップやデスクが直した原稿が、紙面に載っているだけだ。自分の思い通りに原稿を書くことが出来るのは、それだけ月日と訓練が必要だ。私は10年もかかった。
▽そして退職するまで40年間新聞記者を続けてきたが、何とか辞めずにいた。嫌な上司も多かったが、我慢する能力は「3」のジンクスを乗り越えることで、身についた。
▽3年で辞めるという発想は捨てた。


★611佐渡には何もないのが魅力的だった

▽私は2015年5月から3年4カ月、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた。いろいろな地方を回ったが、佐渡支局は魅力的な取材拠点の一つだった。おさらいして書いてみたい。
▽佐渡市は佐渡島の10市町村が平成の大合併で合併し、2004年に発足した。島の中心部は旧両津市で両津港があり、本土の新潟港とはフェリーとジェットフォイルで結ばれている。朝日新聞佐渡支局はこの両津地区にあり、かつては両津通信局と呼ばれ、私が赴任した時は佐渡支局となっていた。
▽希望して佐渡支局に赴任した。最後は島で働きたいと願っていた。
▽不便だったのは、市役所の機能がバラバラだったことだ。市役所の本庁舎は、島の真ん中にあり、支局からは車で30分かかった。市議会は支局とは島の正反対にあり、車で40−50分かかる場所だった。だから市役所の取材では本庁舎や市議会に行くにも相当な時間をかけて回っていた。合併した際の、市町村の対立で、市役所の機能がバラバラのままになっていた。
▽市議会では一部の議員と市執行部との対立があり、常に問題が発生した。執行部が提案した議案が通らず、否決されたことが何度もある。だから、市議会の本会議や委員会、議員全員協議会などの取材は落としてはならない対象だった。かなり丁寧に回っていた記憶がある。
▽佐渡には一度、絶滅した国の特別天然記念物、野鳥のトキの再生事業が中国の協力によって進められていた。環境省が中心となって、人工飼育したトキを年に2回、大空に放鳥し、野生に返すプロジェクトを進めていた。野生に戻ったトキは繁殖力がまだ弱かったが、次第にペアを組み、卵を産み、自然界の2性となっていった。このプロジェクトをずっと取材してきた。時折、佐渡の空にはトキが飛ぶ姿を目撃したこともある。
▽世界遺産になった佐渡金山は、私が赴任した当時、市と県が中心となって世界遺産登録への運動を続けていた。県知事が当時、反政府だったためか、世界遺産の候補に上がることもなく、そのたびに候補を見送られ、佐渡市ではショックを受けていた。そうした世界登録遺産運動の取材も続けていた。
▽佐渡には、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんがいた。年に数回、拉致被害者救出の署名活動を現地などで続けていて、その度に取材をしてきた。曽我さんの夫、ジェンキンスさんの死去の際は、通夜などの取材もした。
▽佐渡は日本海の孤島だ。天候が悪いと、ジェットフォイルやフェリーが止まり、島に新聞が届かなかったこともある。スーパーから食料品が消えた。
▽映画館やユニクロ、デパートなど、都会の施設はほとんどなく、楽しみはずっと海を見ていることだった。海岸をボーッと見ているのも一つの楽しみだった。何もない島で、自分の楽しみを見つけるのも、訓練の一つだったかもしれない。
▽土日になると、マイカーで佐渡を一周する海岸線を走らせた。
▽夜の居酒屋にもよく行った。ブリやマグロ、イカ、エビなど魚は新鮮だった。地元の酒もうまかった。
▽振り返ってみると、取材でよく回ったし、記事も書いた。社内では一部のベテラン記者が、担当する地方自治体を全く回っていないことが時折問題になるが、私はそんな人間とは無関係だったと思っている。よく回ったし、よく取材をして記事も書いた。
▽この佐渡支局で、サラリーマン記者の最後を終える予定だったが、突然転勤になってしまい、かなわなかった。
▽佐渡支局に赴任する際、同僚らは「飛ばされた」と揶揄したが、そんな事はなかった。黄金の島であり、楽しい島だった。そのことだけは強調しておきたい。もう一度行けと言われたら必ず行きたいと思っている。


★609草津温泉と地熱発電騒動

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務している時、取材管内の群馬県草津町と嬬恋村で地熱発電建設構想が浮上し、大問題に発展する事態があった。その話を振り返りたい。
▽高原キャベツの産地として知られる嬬恋村が地熱発電建設構想を打ち出したのが2008年のことだった。嬬恋村の地熱発電構想は、その年の2月、「村地域新エネルギービジョン策定等事業報告書」という冊子で明らかにした。地下のマグマで熱くなった地下水や蒸気を利用してタービンを回し、電気を造り出すもので、前年春初当選した村長の選挙公約を文書で具体化した形だ。発電所の稼働で、年々悪化が指摘される同村の財政健全化を目指すものとして、村長が強い意欲を示したものと受け取られた。独立行政法人・新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の補助を受けた構想であることも関係者は指摘している。
▽これに対して、隣接する草津町が猛反対した。日本三大名湯として有名な草津温泉を持つ同町にとって、
「ボーリング調査さえ、温泉の源泉に悪影響を及ぼす。何百年も続く名湯の危機」
と構想すら否定。同町の名所、湯畑前で、地元官民が協力して千人を集めた「草津の源泉を守る町民集会」を開いて、反対をアピールした。まだ構想を打ち出した段階に過ぎないが、危機感を強めた。

▽報告書では、長野県境に連なる草津白根山ふもとの石津地区と西南の鹿沢地区の2カ所での建設に言及しており、草津町側が反発したのは、このうち石津地区での構想。草津温泉の代表的な源泉の一つ、万代源泉から南に3・5キロしか離れておらず、
「ボーリング調査ですら、湯量や湯温に影響が出る」
と反発。万代源泉は湯温が100度に近く、これを水道管と抱き合わせをして湯温を下げて、各温泉施設などに供給している。代表的な公共温泉である「大滝之湯」もこの源泉を利用している一つだ。
「草津町は温泉という観光資源で成り立っている。その温泉に影響が出れば、町民全員の死活問題。温泉施設で働いている嬬恋村の住民も多いのに」
と町幹部は批判する。
▽この報告書はその年3月末に村長から草津町長に手渡され、そこで初めて、具体的な構想を知り、ボーリング掘削の許可権を持つ県知事にも反対の意思を既に表明している。集会後には、文書で嬬恋村に抗議した。
▽私の取材に対して、村長は
「まだ勉強の段階。具体的な計画を発表しているわけではない」
と、草津町側の反発にはやや冷ややか。ただ現職を破った選挙公約でもあるため、構想の撤回は全く考えていないようだ。このままボーリング許可の申請など、さらに話が具体化していく可能性もある。
▽実は草津町では過去にも2回、地熱発電構想があり、その時も批判して、中断させた経緯がある。一つは1980年に県企業局が打ち出してもので、今回の石津地区と同じ地区で、草津白根山一帯の地下エネルギーを有効利用しようという計画だった。もう一つ渋川市は1997年に当時の嬬恋村長が鹿沢地区に打ち出した計画で、同町に協力要請があったが、申し入れを拒否し、計画は頓挫した。
「この2カ所の地下には、熱源があることは分かっている。発電施設が完成し稼働すれば、汚染も考えられる。反対しかない」
と町幹部は悲壮だ。
▽こんな事態を取材し、私は朝日新聞社会面に記事を書いた。その後、この抗争は頓挫したと聞いた。
▽やはり地元に記者がいるからこそ取材して書くことができる内容だった。地方に配備する記者を減らしてほしくないと切に思う。

★607埼玉・秩父のホルモン焼きはうまかった

▽埼玉県秩父市はホルモン焼きの街だ。中心街にはホルモン焼き店が数多くあり、夜になると多くの客で賑わっている。私は朝日新聞秩父支局代によく通った。
▽中でも有名なのは、秩父鉄道お花畑駅近くのホルモン店「T」だ。古くて狭い店内にテーブルと椅子が置かれ、夕方になると店内は満席になった。
▽入店した客はビールなどの飲み物とホルモン各種を注文し、ホルモンを焼いていく。
▽店内はお年寄りの女性が3人で切り盛りしている。
▽店内の壁に掲げられたメニューはホルモンが数種類とビールなどの飲み物、お新香とご飯。そのぐらいしかない。レバーやカシラなどを注文し、ビールを飲みながら、店員が持ってきたホルモンを七輪で焼いて食べていく。
▽そんな楽しい飲食なのだが、その店員のおばあさんが口うるさい。
「レバー新鮮なのだから、そんなに焼いては駄目」
と怒られることもしばしばだ。
▽店内は煙が充満し、その匂いが衣類にくっついてしまうため、コートなどは店が用意したビニール袋の中に入れる。煙が上がり、お客たちはうまそうに食べる。
▽この店、SNSで紹介されているため、人気店になってしまい、予約を取れないことも多い。5時の開店時には店前に観光客が開店を待っている。
▽私は会社を辞めてからもこの店にも何回か行った。うるさいが、やはりこの店のホルモンはうまい。また行きたいと思う。

★604慎重さが求められる中古車の購入

▽私が朝日新聞東京本社勤務から朝日新聞東埼玉支局に転勤になった際、取材用のマイカーがなかったため、大手中古車メーカーで車を購入した。急な転勤だったため、事前調査する時間もなく、慌てて買った中古車だったが、こんなに中古車がトラブルを発生するとは思わなかった。中古車を購入するには、事前に調べた方が良い。そう思った。
▽購入した車スバル・インプレッサだった。すでに走行距離は8万8000キロも超えており、躊躇したが、料金がそんなに高くなく、購入を決めた。新車だと納入が遅くなるので、新車購入は断念した。
▽転勤になり、この車で自宅から支局へ通ったり、支局を拠点として、取材対象である越谷市、草加市、三郷市、八潮市、三郷市、吉川市、松伏町の5市1町の役場取材と、管内の警察署をこのスバルインプレッサで回って取材を始めた。
▽しばらくして気づいたのが、高速道路を走っていると、ハンドルが左に取られていく現象だった。左右タイヤのバランスが悪かった。購入した中古車メーカーに持っていき、バランスを見てもらった。それでもバランスが悪く、タイヤ交換もした。これで何とかなると思った。
▽しかし次にエンジンのベルトファンが壊れた。ベルトファンを交換するしかなかった。これで修理費数万円かかった。
▽さらにはエンジン近くからオイルが漏れていることもわかり、これも修理した。
▽こうして我がスバルインプレッサは、半年に1回の割合でどこかが壊れて、修理をし、そのたびに数万から10万円の費用がかかった。
▽走行距離が長いという事は、それだけ、この車を使用していたということであり、前オーナーの使い方がひどければ、それだけ車もひどくなっているということなのだ。
▽私はこのスバルインプレッサを3年間近く我慢して乗ったが、もう限界だと思い、新車に買い換えた。
▽こんなにひどいと分かっていれば、最初から新車を購入していたかもしれない。
▽中古車の走行距離はあくまでも見やすだが、長距離になればなるほど、車体の痛みがひどくなる。これを考慮して中古車を選んだ方が賢明だった。
▽それ以来、私は中古車は買わないことにしている。ビックモーター事件も表面化し、中古車はいい加減に扱われているケースがあることも忘れない。


★601あの佐渡島の牛乳をまた飲みたい

▽あの味の牛乳をまた飲みたい、と思った。私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時に毎日飲んでいた地元生産の牛乳だ。雑味がなく、うまかった。
▽佐渡乳業(本社・佐渡市)が生産する「佐渡牛乳」。JA佐渡の一部門から独立した同社が生産する地元のオリジナル牛乳だ。地元の酪農家から生乳を買い上げて、製品化し、スーパーなどで販売している。今では佐渡島以外でも販売され、乳製品は土産物としても人気を集める。
▽地元での繁殖が続く国の特別天然記念物トキを可愛くあしらったイラストが描かれた牛乳パックが目印だ。
▽佐渡市では地元の小学校に給食で出されるほか、新潟市のデパートにも出荷され、大人の愛飲者も多い。私自身、この牛乳を知ってからは、毎日飲むようになった。雑味がなく、新鮮な味がした。
▽2004年に設立した同社は、牛乳の他、チーズやバターなど年間1400〜1500トンの乳製品を製造するようになっていた。チーズ、バター、プリンは旅行の土産物として人気を誇っている。
▽同社幹部はこう胸を張った。
▽「おいしさには自信がある。牛乳には原産地の表示がない。だから佐渡の牛乳であることがわかるように、トキを使ったパックを作った」
▽国連食糧農業機関(FAO)は、毎年5月1日を「世界牛乳の日」として提唱している。私はある年のその日、地元の小学校で給食時に行われた牛乳イベントを取材した。佐渡乳牛の社員が小学校を訪れて、佐渡牛乳について児童に説明。
▽「佐渡で毎日牛乳を飲むことができるのは、佐渡の生産者に支えられているから」
▽そんな思いを子供たちに改めて理解してもらおうと説明した。
▽この日の給食の献立は主食がカレー風味ご飯の米粉シーフードシチューかけ。副食が野菜炒め、デザートは果物のヨーグルトかけ、そして佐渡牛乳だ。昼過ぎに全児童がランチルームに集まり、同社から説明を受け、一斉に食べ始めた。子供たちは「おいしい」を連発。「牛乳が体を作っていく」という話に聞き入れていた。
▽私はこんな書き出しの記事を書いた。
▽「佐渡っ子の成長を支え、地元で愛されている佐渡牛乳」


★600私が好きだった札幌市の日の出と佐渡島の夕日

▽転勤族だったから、いろんな場所で日の出と夕日を見ていた。早朝のジョギングで見る日の出も、そしてボーッとして見る沈む夕日も好きだった。そんな中で一番好きだったのが、札幌市の日の出と佐渡島の夕日だった。
▽朝日新聞北海道報道部は札幌市の中心街にある。その中心街からやや外れた場所から、同市厚別区や北広島市に向かって続くのが、「サイクリングロード」と呼ばれた自転車専用の道路だ。旧国鉄千歳線の跡地を自転車専用の道路として活用したもので、一般道とは立体交差しており、信号もなく、自転車がスイスイと走れる専用道路だった。もちろん通勤通学の人たちも歩いていたし、ジョギングにも適しており、私もこのサイクリングロードを毎日使って走っていた。
▽冬になると、札幌は雪で閉ざされる。このサイクリングロードも雪が積もるが、人々が歩くおかげで、圧雪状態になっており、私はその圧雪されたサイクリングロードを冬でも走っていた。当時住んでいた厚別区から札幌市中央区の方向に向かって走る片道30分の走り。立体交差がある分、アップダウンがかなりあり、かなり苦しい走りとなる。片道30分走ったら。そこからターンをして再び元のコースに戻る。
▽そのターンする際に見ることができたのが、真冬の朝の札幌の日の出だ。白い雪の景色の対象的に大きくて真っ赤な太陽が、あまり光を放たないように出て、その輪郭を見せてくれた。別世界のような太陽だった。
▽気温は零下10度まで下がっていて、かぶった帽子は汗を吸い、その汗が帽子からはみ出し、無数のつららとなって下がるようになる。そんなつららを気にしながら、その太陽を見ながらして走った。
▽この日の出の美しいこと。何もかも忘れてしまいそうだ美だった。ずっとまぶたに焼き止めていたいと思った。美しい日の出とは、こんなものだと思った。
▽そして新潟県佐渡市の佐渡島の夕日だ。私は転勤で佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任したが、その支局のある両津地区とは正反対の相川地区などで夕日を見ることができた。
▽夕日は秋がいい。秋が近づくと、なだらかな日本海の水平線の向こうに、夕日がゆっくり沈んでいく。夕日の光が海に生えて美しいのだ。こんな綺麗な夕日をいつでも見ることができる。佐渡島の人たちはうらやましいと思った。
▽島には日本一夕日が美しい学校として知られた小学校もあった。夕日はこんなに美しいのなら、いつまでも佐渡島にいたいと思った。
▽札幌市の日の出と佐渡島の夕日。ともに日本海に近かったり、面しているために見ることができたのだろうか。
▽現在私はさいたま市に住んでいて、日の出は地平線も水平線もないので、建物の上から出るのを見るしかない。夕日も建物の上に沈んでいく。
▽再び札幌市の日の出と佐渡島の夕日を見ることができるのだろうか。


★598後輩記者の自殺と遺体確認

▽宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤務していた時のことだ。私の後輩が隣町の仙台市で自殺をして、身元確認をしたことがある。どんな気持ちで旅立っていったのだろうか。寂しい気持ちになったことを思い出す。
▽私は朝日新聞に入社する前、北海道新聞に勤務していた。その北海道新聞の先輩から電話連絡があった。かつて仲良かった記者が仙台で自殺したらしいので、身元を確認してほしい、と頼まれた。私は仙台市の所轄警察署に出向いて、遺体を確認し本人だと担当者に話をした。
▽その後輩は北海道新聞では整理部の記者だった。若手としては優秀な整理部員だった。なぜか私とウマが合って、何回か私のアパートに来て、酒を飲み語り合っていた。お好み焼きが好きで、鍋奉行ならぬお好み焼き奉行をしていた。その後私は北海道新聞を辞めて朝日新聞に転職し、しばらく連絡はしなかった。
▽それがどうだろう、彼は北海道新聞を辞めて全国を旅していたのだ。そしてその旅の先の一つである仙台市のホテルで自殺を図った。
▽私が見た彼の遺体は、冷たかった。本人確認をし、北海道新聞の先輩に電話をし、ご両親とも連絡をした。
▽その後、彼の父親から長い手紙をもらった。息子の旅した場所を全部歩いて、息子の気持ちを探りたいと思います、と書かれていた。
▽私は新聞記者を40年間やっていて、先輩や同僚、後輩の自殺に何回か遭遇している。北海道新聞の彼の自殺はそんな若者の自殺の1人だった。なぜなんだ、と私は思いながら彼のことを思っていた。
▽若い人よ。命を無駄にしないでほしい。そう思わずにはいられない。


★596賃貸住宅の敷金とは何なのか

▽ちょっと以前のことだ。私が北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部から群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に転勤した時の話だ。借りていた賃貸マンションを出る際、当然戻ってくるはずだった敷金が全く戻ってこなかったのだ。具体的な根拠もなく、カネは戻ってこなかった。
▽私は転勤族だったので、いろいろ地方を回ってきた。転勤族で困るのは、赴任した土地でマンションやアパート、一軒家など賃貸物件を借りる時だ。仮に家賃が10万円の場合、東日本の多くの不動産業者は敷金を家賃の2〜3カ月、礼金を家賃の1カ月分として前払いする。この際、会社は礼金に対しては補助金を出すが、敷金については補助はなく、自腹だった。家賃が10万円だと、敷金は20〜30万円を自腹で払う必要があった。礼金と家賃を合わせると40〜50万円が必要になる計算だ。
▽借りた人間がその賃貸物件を出る場合、不動産業者はその家の中を点検し、汚れている分や壊された分を敷金から引いてくる。壁に釘の穴があったら、補修費として引いていく。例えば、壁に絵を飾った時、その壁に釘を打ったり、画鋲で留めた場合、小さな穴が開く。これを壁の傷として査定されて、敷金から引かれる。しかし、汚れた部分や壊れた部分というのは、かなり主観があって、どういう判断でそうしたかは説明がない。
▽それ故、私はこういう点に気を使い、壁や柱を傷つけないよう、2年半を過ごした。
▽そして出る際に、不動産会社と大家が点検に来て、傷がないのに、支払った敷金2カ月分を傷の修理代として計上したのだ。私の主観では全く傷つけていないのに、資金が全く戻ってこなかった。どこをどうやって点検して、2カ月分の敷金を計上し、返却できないのだろうか、私には理解できなかった。これが不動産業界の実態だ。
▽こういう不動産業界の「常識」に我々庶民は振り回され、転勤族は「転勤貧乏」と呼ばれるようになっている。
▽家賃については会社の補助も多少あるが、10万円の家賃に対してわずか数万円だ。6〜7万円は自腹となる。
▽転勤で引っ越しをするたびに、敷金と礼金と家賃を取られ、細々と暮らしている。これが転勤族の実態だ。東京から地方に転勤しようとしない記者に言いたくなる。もっと地方にいる仲間のことを考えてほしい。
▽敷金と礼金システムは最近はなくなって、保証人制が登場しクリーニング料金が発生するようになったが、本質は変わらない。

★595新聞記者にとって大切な雑談のススメ

▽現役時代には意識した事はないが、新聞記者にとって大切な能力の一つに、雑談というものがある。雑談ができない人間は、記者にならないほうが良い、と私は思っている。それだけ雑談は大切な取材道具だ。
▽地方支局の勤務を考えよう。市政担当記者だったら、市役所が主な取材対象だ。市役所に行き、市役所内の各部署を回る。いわゆる庁内回りだ。市長や副市長、各部門の部長や課長らと会って雑談を続ける。それは直接の取材ではないかもしれないが、雑談をすることによって、様々な今後の取材のヒントが得られることが多い。だから庁内を回るというのは、雑談のするためでもあり、取材のヒントを得ることでもある。
▽市役所部門だけではない。議会事務局に行き、事務局長や各政党の部屋も回る。各議員と雑談をし、雑談の中から、市役所で今どんな問題が潜んでいるのかを探るのだ。雑談は大切な取材の一歩だ。
▽これは警察担当でも同じだろう。県警本部ならば、各部の部長と雑談し、課長と雑談する。庁内周りだ。夜周りも一緒だろう。事件がない時も夜回りをマメにして親しくなった幹部や捜査員と雑談をする。その雑談の中でも取材のヒントがある。捜査の動きも分かるかもしれない。雑談は大切な取材なのだ。
▽こういう雑談の意味が分からないのでは、記者は務まらない。相手に直接の取材をストレートにするだけでは、本当の意味でのネタは取れない。
▽新型コロナウイルス感染の拡大で、リモートワークやリモート会議が多くなったが、これは新聞記者の首を絞めるものだ。仲間内でも多くの雑談をしないとヒントは生まれない。リモート会議なら、目的の会話しか出来なくなる。雑談はできない。
▽在宅勤務でも同じだ。新聞記者にとって取材相手とは雑談をして会うものだ。電話取材やリモート取材では、ヒントは得られない。新聞記者にとって在宅勤務などありえない。私は今でもそう思う。
▽こんなことを言うのも、私がとある支局長の時に、部下の支局員が在宅勤務を続けていたからだ。在宅勤務というのは、取材相手とはほとんど会わないで電話で済ませる。だから、良いネタが取れない。在宅勤務を許してしまった会社が悪いと私は今でも思っている。
▽ちなみに、その支局員は、その後外勤記者からは外されて、内勤勤務となった。


★593割に合わないマイカー取材

▽全国紙の記者は地方に転勤になると、マイカーを買わされ、それを取材の移動手段として使うことを強要される。現役時代は当たり前だと思っていたが、しかしこれは労働者にとって、いかに不都合なシステムだったかが分かる。
▽地方はハイヤーやタクシーなどないから、マイカー取材が主流となるが、これを減価償却の面から見てみよう。半分以上は自己負担ということが分かるのだ。
▽仮に新車を1台300万円で購入したとしよう。新車の平均使用年月は7年から8年と言われている。仮に10年間乗ったとすると、1年間の減価償却は30万円となる。
▽しかし会社から出される車両維持費は1年で20万円にも満たない。1カ月計算だと、毎月1〜2万円は減価償却の自己負担を行っている計算だ。
▽つまり、減価償却率を考えると、全国の地方勤務の記者は毎月1〜2万円、会社に搾取されていることになる。仕事で使っているマイカーの自己負担率が高すぎるのだ。
▽逆に会社にとっては都合良いシステムなのだ。
▽マイカーの購入費も、上限を設けて会社が無利子で貸与してくれるが、あくまでも貸与であって、返却しないとならないのだ。
▽ガソリン代の多くを会社が負担してくれるが、全額ではない。
▽また事故に遭っても、修理費などは自己負担の割合が高い。
▽つまり、借金してマイカーを買い、取材でマイカーを使い、減価償却が進み、そして車が劣化していく。こんな不都合なことが何十年もまかり通ってきた。
▽こうしてみると、労働者にとって、いかに割が合わないシステムなのか、が分かる。まさに搾取と言っていい。仕事のために自己負担を強いられているのだ。
▽私が見たところ、地方紙では北海道新聞や上毛新聞、新潟日報などは、会社が社有車として個人に貸与して、取材の移動手段として使っている。個人の負担はない。
▽こうしてみると、全国紙の地方勤務記者の負担はかなり大きいと言わなければならない。労働者搾取である。こんなところは改善しないと、優秀な学生は集まらない。


★585三八豪雪と上越・高田地区の雁木通り

▽全国各地で大雪が続いているが、私は「三八豪雪」と呼ばれたかつての大災害を連想する。私が勤務していた新潟県上越市の朝日新聞上越支局で過去の記録として聞いた豪雪の話だった。上越地方は今でも豪雪地帯だが、三八豪雪は今でも語り草になっている。
▽私は上越支局時代に1枚の写真に衝撃を受けた。豪雪で埋もれた鉄道駅のモノクロ写真だった。鉄道列車の高さ以上に雪が埋まって、列車が身動きも出来ない写真だった。
▽これが後に「三八豪雪」と呼ばれるようになった豪雪の被害写真の一コマだった。
▽1962年(昭和37年)12月から翌1963年(同38年)2月まで北陸地方を中心に東北、九州地方まで襲った豪雪は、歴史的な災害となった。
▽以下はネット上でアップされている解説だ。
《北陸地方から西の日本海側を中心に、山陽地方の山間部、四国、九州などの太平洋側でも歴史的に稀な豪雪となった。数メートルに及ぶ記録的な積雪深による生活への影響は大きく、豪雪災害としては初めて気象庁により命名されるなど気象観測史上でも特筆すべきものであった。 また、後述するように雪害としては初めて災害救助法が適用され、孤立状態となった山間部の集落で集団離村が発生するなど、その後の雪国行政や雪国の在り方にとっても大きな転換点となった災害である》
《典型的な里雪型と言われ、中・下越地方で多くの降雪をもたらした。1月16日から1月25日までに妙高で255cm、高田で148cm、長岡では318cmの積雪を記録している。このため国道、鉄道も不通となり、新潟県内は完全に孤立してしまった。鉄道の復旧に見込みがたたず、道路を確保して生活物資を搬入することになった。除雪機械として全国からブルド-ザが集められ、また自衛隊及び青年開発隊が送り込まれる等の騒ぎとなったことで、豪雪が災害として認識され、国を挙げて道路除雪の重要性を認識することとなった》
《除雪機械の開発や防雪施設等が急速に整備される契機となり、後に除雪元年と言われた》
▽昭和38年を取って、「三八豪雪」と記録されるようになった。
▽その三八豪雪の体験者から話を聞いたことがある。女性だ。
▽「各家庭では三日三晩、男たちが屋根から雪おろしを続けて、女性たちはその作業をする男たちの手伝いをしていた。そしてその日の作業が終わると、男のために食事と酒を用意して振る舞った。あの時はすごかった」 ▽この女性はこう話した。

▽その豪雪地帯の知恵として旧高田市の商店街に出来たのが、雁木(がんぎ)通りだ。
▽上越市は旧高田市と旧直江津市が合併して出来た都市だ。今でも高田地区の方が雪が多い。
▽雁木とは、主に冬季の通路を確保するために家屋の1階と2階の間に、庇(ひさし)などを道路側に延長したもので、積雪が高くなっても人間が歩くことができるトンネルのような空間を残した造りを言う。
▽ネットではこう紹介されている。
《上越地域が発祥ともいわれ、高田の現存する雁木の総延長は約16キロ。日本一の長さです》
《「この下に高田あり」と言われたほどの豪雪地帯。それで主屋の前面に庇を張り出して、歩く空間を確保したのが雁木です。
屋根から落ちた雪や降る雪が溜まれば、往来は通れなくなります。周りが雪に覆われても、雁木の下はトンネルのようにぽっかり空いています》
《豪雪地の生活の知恵といえます。高田地区に現存する雁木の総延長は、日本一となっています。雁木通りがある本町6丁目や大町5丁目周辺には、町家を活用した町家交流館高田小町や旧今井染物屋、瞽女ミュージアム高田等の施設や日本最古級の映画館高田世界館がありますので、雁木通り散策に合わせてお立ち寄りください》

▽こう紹介されると、美しい雪の町並みのように思われるかもしれないが、命を守るために生み出された街づくりだった。
▽「この下に高田あり」
▽この言葉が高田地区の町模様を如実に語っている。


★584国の特別天然記念物トキの放鳥と写真撮影の難しさ

▽一度は絶滅してした国の特別天然記念物の野鳥トキの放鳥を、新潟県佐渡市の佐渡島以外の本州、石川県能登地方でも実施するというニュースを聞いて、私は朝日新聞佐渡支局時代の放鳥の取材を思い出した。撮影が非常に難しかったのだ。
▽まずは2025年2月14日のネットの記事を紹介する。
《浅尾慶一郎環境相は14日の閣議後記者会見で、石川県の能登地域で2026年度の実施を目指す国の特別天然記念物トキの放鳥について、「環境整備などに取り組んできた地域の方々の尽力が実り、(能登半島地震からの)復興の後押しとなることを期待している」と述べた。同日の専門家検討会で放鳥時期を議論する。実施されれば本州初となる。
▽環境省はトキの繁殖や生息域の拡大に向け、22年に放鳥の新たな候補地として能登地域と、島根県出雲市を選定した。石川県は推進協議会を立ち上げて環境整備を進め、能登半島地震の復興プランでトキを復興の象徴に位置付けた》
▽これを受けて、私はX(旧ツイッター)でこう投稿した。
《石川県の能登地域で2026年度の実施を目指す国の特別天然記念物トキの放鳥について実施次期について検討に入ったとネットニュースにあった。復興の象徴となろう。日本で絶滅したトキは中国の協力で日本・佐渡で再生事業が始まった。トキは日中友好の象徴でもある。
▽私が朝日新聞佐渡支局に勤務していた時は当時の佐渡市長がトキの石川県での放鳥・再生を反対していたな。希少価値がなくなると。いまではその考えも変わっただろう》

▽トキの放鳥は佐渡では、年に2回、環境省が主体となって春先と秋に行ってきた。
▽放鳥とは人工飼育したトキを空に放つことだ。飼育した中から、雄と雌を10羽から20羽放ち、自然界で生き抜いてもらう。自然界への復帰の第一歩となる。
▽人工飼育されたトキを事前に大型ゲージに入れ替えて、放鳥と決めた日にそこからトキが自分の意思で飛び立つのを待つ。扉が開けられて、いつ飛ぶかわからないが、取材する側はじっと待っている。
▽放鳥の出口の先にはテレビ局クルーが待っていて、その放鳥された瞬間を動画として撮影する。
▽一方の新聞社は動画ではなく、静止画を撮るので、空中を舞うトキを狙う。このため、放鳥する瞬間を見ることができず、別の観察棟の最上階から、空に舞うトキを撮影する。
▽しかし、これがなかなか飛んでこないのだ。トキは一定方向には飛ばず、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、とどまることがない。このため、観察棟に近づいてきた瞬間を撮影するしかない。
▽地元新潟日報の記者は、放鳥の出口の先に立って、トキが自然に飛び立つのを待って、それを観察棟のカメラマンに伝える。その合図を持って、我々はカメラを構えるわけだ。
▽私は佐渡支局に3年半滞在し、トキの放鳥計7回引退した。カメラに望遠レンズを装着し、撮影を試みるが、なかなかシャッターチャンスが回ってこない。来た来たと思ってレンズを構えても、トキはあっという間に行ってしまう。この繰り返しだった。
▽トキはこちらにあまり飛んでくれないから、夕刊締め切り時間との勝負でもあった。夕刊の締め切り時間を確認しながら、撮影する。トキが飛翔してくるのを待っているだけだ。
▽そんなトキの放鳥が今度は石川県でも始めるというから楽しみだ。どんな放鳥方法を取るのだろうか。その時、地元の記者やカメラマンはきちんと撮影できるのだろうか。そんなことまで考えてしまっている。

★582支局での迷惑駐車が酷かった

▽埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務している時、迷惑駐車に悩まされた。会社で契約している民間駐車場に、勝手に他人の車が入ってきて、ちゃっかり利用している。マイカーの取材で支局に戻る際に、その迷惑駐車の「先客」がいて、マイカーを駐車できないトラブルが何回も続いた。そのたびに警察を呼んで、相手方に連絡してもらうが、その相手から一度も謝罪に訪れた事はない。埼玉県民のモラルの低さを実感した。
▽当時、朝日新聞東埼玉支局には支局長の私と2人の支局員がいた。計3人分の駐車場が必要だった。支局周辺の駐車場を年間契約していた。年間契約が打ち切られると、新たな駐車場を捜すのも、支局長の大切な仕事だった。支局はJR南越谷駅と東武鉄道新越谷駅の近くにあり、どの民間駐車場も満席状態だった。
▽そんな駐車場を利用していたが、我々が取材にマイカーで出て、取材から戻ると、その駐車場に、全く見知らぬ車が駐車している、というトラブルがよく発生した。警察に連絡し、迷惑駐車している車のナンバーから、本人に連絡して、移動してもらいたいことを伝える。しかし、本人は駅から電車に乗って都心に行ってしまい、戻るのは遅くなってから、というパターンが多かった。駅に近いから、勝手に駐車してしまう輩の人数がいかに多いかを思い知った。
▽こんな時、私のマイカーが駐車できないと、その分、取材した話の原稿執筆が遅れる。締め切りが迫っている場合、かなりの迷惑になる。業務妨害だった。
▽この場合は、時間単位の民間駐車場にマイカーを移動させて、駐車させた。もちろん有料だ。カネがかかった。
▽こんなトラブルを何回も何回も経験した。
▽しかし、この迷惑駐車の本人から、謝罪に来たり、お詫びに来たり、ということは一度たりともなかった。臨時でかかってしまった時間単位の駐車場の料金を支払ってくれたことなど、全くなかった。
▽こんな迷惑駐車に対して、同僚は冗談半分で私にこうアドバイスをしてくれた。
「その車両に、迷惑です、と書いた紙をフロントガラスにのり付けして、しばらく取れないようにする」
「犬のウンコを、ドアの鍵穴にねじ込む」
「迷惑駐車の車両前に、車を止めて動けないようにする」
▽いいアイディアだったが、さらなるトラブルに発展しそうで、実行に移すことはしなかった。


★580選挙の紙面ルールを知らないベテラン記者とデスク

▽選挙取材で担当記者は、候補者のプロフィールを事前取材をする場合、ポーズ写真撮影には3種類の写真を撮影する必要がある。しかしそのルールを知らないベテラン記者とデスクがいて愕然とする。
▽例えば2025年2月9日告示の埼玉県朝霞市長選。4人が立候補した。
▽2月16日の投開票日に向けて、各紙地方版は、「あす告示」という前打ち記事を打ち、告示日当日の立候補届の確認、事前に取材した候補者の横顔(プロフィール)記事の掲載を行い、「明日、投開票」という前打ち記事を書き、開票日の開票結果などを伝える必要がある。予定稿が多い。
▽このうち、朝日新聞は13日付埼玉地方版で候補者4人のプロフィール記事を掲載したのだが、私は愕然としてしまった。ルールが全く守られていない紙面だった。学級新聞かと思ったぐらい酷かった。
 朝日新聞はこの日の埼玉地方版見開き紙面で、第2県版と呼んでいる右のページの右肩の部分(カタと呼んでいる)に4人の候補者のプロフィール記事を載せた。その記事に付けた候補者のポーズ写真が、バラバラなのだ。読者から見て3人は右を向き、1人は左を向いており、バラバラなポーズだった。
 これは新聞社、朝日新聞にとって選挙のルールを無視した紙面作りだ。右ページの右カタに候補者のプロフィール記事を掲載する場合、レイアウトとして候補者は皆、見開きページの真ん中に顔を向けるように紙面を作らないといけない。逆に左ページの第1県版と呼んでいるページで左カタの部分に載せるならば、逆に候補者はみんな右を見ているポーズの写真を載せなくてはならないのだ。これは常に読者から見て、真ん中に候補者が向くようにするルールだ。これができていないのだ。
 逆に候補者が2人で、第1県版のトップ(アタマと呼ぶ)に仕立てる場合は、2人とも正面を向くポーズ写真、または2人が対立しているように、それぞれ左右に向かせるポーズ写真を掲載する。これがルールだ。あくまでも新聞地方版のレイアウト上の決まり事だ。
 だからこそ、候補者のプロフィール取材をする場合、取材者は1人1人の候補者の写真撮影では右向きのポーズと左向きのポーズ、そして正面からのポーズの3種類の写真を撮影する必要がある。4人いたら12枚の写真が必要だ。
 今回の朝日新聞で候補者のポーズ写真がバラバラだった要因は、取材記者とその写真をリリースしたデスク、そして編集者の3人が紙面作りのルールを知らなかったことにあると私は見ている。
 まずは取材記者がその3種類の写真を撮影したのかどうか。3種類の写真、計12枚を撮影して、デスクに出したのかどうか。そして受け取ったデスクはその12枚の写真をリリースしたのかどうか。さらには編集者が12枚分の写真をキチンと要求していたのかどうか。
 さらには実際の編集作業で、これらのポーズ写真を含むプロフィール記事を先組みしたその紙面を、取材記者とデスクが点検したのかどうか。
 こんなお粗末な紙面を取材記者もデスクも、「問題なし」としたら、大きな問題だ。選挙のルールを取材記者もデスクも知らなかったことになる。ここまでお粗末であることに、私は驚いたし、愕然とした。
 聞けば、担当の取材記者はベテランで、本社の経験が長かったらしい。しかしベテランゆえに選挙ルールを知らなかったとしたら、地方を担当する記者としては致命的だ。残念だ。


★578群馬県で食べた絶品のモツ煮定食と群馬県人

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時,群馬県らしい食事を提供する店があった。そう、モツ煮定食店だ。適度に辛いモツ煮に、どんぶりメシに近い量のご飯がどーんと出される。しかも注文から1分かからない。数十秒で提供されるから、恐れ入る。うまさといい、量といい、腹が減った時助かる店だった。
▽その店は「永井食堂」。渋川市の中心街から国道を北上して約20−30分。左手に見えるのがこの店だ。高級感は全くない。平凡な民家の食堂だ。駐車場には大型トラックが何台も止まっていて、トラック運転手が好みそうな雰囲気の店だ。県内外から多くの人が訪れる人気店となっている。
▽人気のメニューはただ一つ。モツ煮定食だ。最近のホームページには、「もつっ子」という名称になっている。私は最初、同業他社の読売新聞記者に誘われて、入った。
▽店内のカウンターに座り、店員のおばさんに、
「モツ煮定食」
と注文すると、わずか数十秒でモツ煮とご飯が出てくるではないか。まずはモツ煮の汁を一口、フーフーと冷ましながら口に入れる。口の中ではジューシーなモツ煮の匂いと香り、甘さと辛さが広がる。うまい。心の中で叫ぶ。そして軟らかいモツを箸でつまみ、口に入れる。軟らかい食感がたまらない。そしてご飯を食う。この繰り返し。最後は汁をご飯に掛けて食う。これまた、うまいのだ。
▽私のような昭和育ちの人間は、早食い、早飯を美徳とされたため、わずか10分もかからず、完食してしまう。よくもまあ、こんなどんぶりご飯を食べることが出来たなと、我ながら感心してしまう。
▽冒頭に「群馬県らしい食事」と書いたのは、二つの理由がある。
▽一つがこのモツ煮。群馬県内にはホルモン焼きの店が多く、豚肉の内臓の消費量は群を抜いている。群馬県人はホルモンが大好きなのだ。私も群馬県に勤務していた時は、それまでは食わなかったホルモン焼き店に何回も入るようになった。地元のサッカーJリーグチームの監督もホルモンが好きで、私は何回か一緒に食事をしている。モツ煮は群馬県の象徴的な食べ物なのだ。
▽もう一つはご飯の量だ。どんぶり飯に近い量を出してくれるし。群馬県人は米も大好きで、しかもどんぶりで食う人間が多い。以前、同業他社の数人で焼き肉店のランチに入った時、地元の上毛新聞支局長が、
「ご飯は大盛りで」
と注文していた。するとどうだろう。店側は惜しみもなく、どんぶりにてんこ盛りのご飯を提供してきたのだ。そのサービスに驚いた。その支局長、痩せの大食いというか、完食して見せた。私の4倍の米を食っていた。恐ろしいほどの消費量だった。
▽この永井食堂のホームページにはこんな宣伝をしている。
《永井食堂は「うまい、安い、早い」をモットーに、創業以来、皆様に愛される味を提供できるよう、日々努力しております。
また、お土産用の〝もつっ子〟も販売しており、全国発送も行っております。食から生まれる笑顔を、お客様にお届けできるよう従業員一同努めておりますので、群馬県にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい
 
 0120-532-338住所
 群馬県渋川市上白井4477-1アクセス
 バス停(暮沢/関越交通)徒歩4分営業時間
 関越自動車道「赤城」ICより車15分、
 国道17号線「子持村チェーン装着場前」
 JR上越線「敷島」駅より徒歩50分
 JR上越線「渋川」駅から関越交通バス(渋川駅~桜の木・上野入口線)にて20分の「暮沢」停留所より徒歩4分》

▽マイカーがあるなら、クルマが一番便利だ。是非、利用してみてください。モツ煮定食のイメージが変わります。


★576佐渡のササニシキのうまさの秘密

▽自宅に米がなくなったので、スーパーに米を買いに行った。各地方のコメどころの新米が並んでいる中で、私は佐渡産のササニシキを購入した。かつて私が勤務していた新潟県佐渡市の米である。炊いたその米は、やはりふっくらしてうまかった。
「佐渡の人間は、佐渡産の米しか食べないよ」
▽朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、地元の人間にこう言われたことがある。それだけ佐渡で作った米はうまいし、他のコメどころの米には負けない。そんな自信を持っている言葉だった。
▽それ故か、地元のコンビニで売っているおにぎりを佐渡の人間は買わない。本州からの米なので、上手くないと言うのだ。
▽お歳暮などの贈答品にも佐渡の米を贈る習慣があると聞いた。
▽それだけ佐渡の米はうまい。コメどころである同じ新潟県・魚沼産の米よりうまいと佐渡の人間は信じている。
▽私が勤務していた時の当時の市長は、オリンピックの選手に佐渡産ササニシキで作ったおにぎりを提供したい、と記者会見で発言したことがある。うまい米は冷めてもうまいのだ。だから、おにぎりとして食事を提供すれば、エネルギーが出て活躍ができる、と言う理屈だった。
▽佐渡は、野鳥である国の特別天然記念物トキを一度全滅させてしまい、それから長い年月をかけて、再生事業に取り組んできた。地元の市、県、国、そして中国の協力があって、再生事業が順調に進んでいる。そして地元の農家は、トキの食べ物であるドジョウやカエルなどを田んぼで生かすため、化学肥料や農薬などを使わず、米を育てるようにしてきた。だから、佐渡の米は安心安全なのだ。
▽地元の農家を紹介するホームページにはこうある。
《「安心して口にできる農産物を誰もが当たり前に手に取れるようにしたい」と化学肥料や農薬を使用しない農業を目指す》
▽トキが再生した環境を作った農家作った佐渡産ササニシキ。もっともっと宣伝していいと思っている。私は現在さいたま市に住んでいるが、佐渡の米の秘密を知り、取材をした。その米を食べることができてうれしいと思った。


★574雪かきは隣人同士のトラブルの元凶だった

▽日本海や東北、北海道での豪雪のニュースを聞く度に、私は自分が経験した雪かきのトラブルを思い出してしまう。私は転勤族で、その赴任先の多くが雪国だったので、雪にまつわるトラブルや事件事故はかなり遭遇したし、経験した。中でも嫌だったのは、降り積もった雪をかく、いわゆる雪かきで、隣同士といがみ合いになりそうなトラブルも遭遇している。テレビや新聞では報じられない話をしよう。
▽まずは若いころに勤務していた札幌市での話。当時私はアパートに住んでいて。1棟8戸の2階建てアパートで、半地下に個別の車庫がある構造だった。車高の出入り口は道路に面しておらず、一度駐車スペースに出てから一般道路に出る仕組みになっていて、私が借りていた車庫は一番奥だった。
▽冬になり、降雪時期になって、私のこの車庫の場所が命取りになるとは、最後になってやっと分かった。雪が降って、一般道も駐車スペースも雪が積もる。一般道路に近い車庫を借りている住民がそれぞれ自分の車庫前の駐車スペースの雪をかいていかないと、私のクルマを出すことが出来ないのだ。
▽明文化されたルールはないが、自分の車庫や自宅前の雪をかいて、除排雪するのは常識だ。その常識がアパート住民が守ってくれない。仕方なく、私はこの数人の住民のために、自分以外の駐車スペースの雪かきを延々とすることになった。スノーダンプを使って、黙々とこなした。
▽捨て場所にも困った。近くに空き地があればいいが、ない場合は壁に押しつけた。
▽雪が降る度にその作業は続いた。住民に注意したかったが、トラブルになると思い、出来なかった。札幌市は大都会で、都会人の常識があると信じていた私がバカだった。まさに雪国ならではの苦労だった。
▽次は新潟県上越市でのこと。上越市は旧直江津市と高田市が合併した街で、日本海の豪雪地帯として知られる場所だ。
▽朝日新聞上越支局は旧直江津市街地の住宅街の一画にあった。この時は、隣の若い夫婦が、やはり雪かきをいなかったため、苦労した。
▽私はこの支局の支局長住宅に住んでいた。雪が降ると毎日のように、勤務に来る支局員のために支局前の道路と駐車場を雪かきをしていた。しかし隣の若い夫婦は雪かきをしないで出かけてしまうため、隣の自宅前の雪だけが残り、道路をクルマで走らせることが出来ない。仕方なく、隣の分まで雪かきをした。雪かきと簡単に言うが、1時間はかかる重労働だ。おまけに上越の雪は湿った雪だから、重い。スノーダンプで雪かきを続けると、着ていた下着などがびっしょりとなる。着替える必要もあった。洗濯量も増えた。
▽降雪量が増えると、毎朝、8時半ごろに市役所に委託された業者のブルドーザーが入って、除雪をしてくれる。しかし、除雪だけで排雪はしてくれない。そう、ブルドーザーで雪かきはするが、その雪は道路の両側の壁などに移動させているだけだ。この雪をさらに別の場所に移動させないと、クルマを出すことが出来ない。雪を捨てる場所も苦労した。
▽なぜ隣の若い夫婦は雪かきをしてくれなかったのか。私自身、朝日新聞上越支局という看板を掲げているため、社会的常識の範囲で雪かきをしていたが、今でも不愉快に思う。
▽話はまだある。新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時は、局舎が国道に面していた。建物は国道に沿って縦に長いため、支局前の歩道は長くて、雪かきの時間が長かった。隣の家庭は高齢者の自宅で全く雪かきをしてくれなかった。だから私が隣の分も雪かきをした。佐渡は雪が多くない地域だったが、私が勤務していた時は大雪が続き、雪かきの時間が異様に多かった。
▽このように降雪地帯では、人々は疑心暗鬼になることがある。これは経験がない人には分からないだろう。雪国の生活は楽ではない。会社も本社側は全く対処してくれない。



★571温泉の街の魅力とその取材

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時、取材対象となっていた市町村は当時、16もあった。16市町村があるということは、16の市町村議会があり、16人の市町村長がいる、ということだ。1人勤務の支局で、これだけの数を担当するのは、かなりの労力を要した。
▽その一つが統一地方選で、管内の候補者全員の調査表を集めることだった。調査表とはその候補者に書いてもらう履歴書の一種で、書いてもらい、回収するのも時間が異様にかかった。労力と時間がかかるのに、前橋総局のデスクらは知って知らんぷり。何も手助けしようとしない。理解してもらうことも出来なかった。
▽この反面、楽しみの一つが、すべての市町村に日帰りの温泉があったことだ。渋川支局から車で1時間半もかかる草津町は、日本でも有数の温泉観光地で、日帰り温泉のほか、町民に開放している無料の温泉もあり、取材が終われば、そうした温泉を利用することを楽しみにするようになった。
▽もちろん取材第一だから、原稿を送る場合は現地でパソコンを使って、原稿を送ってから、温泉に浸かっていた。私のマイカーには常にバスタオルを1枚入れていた。
▽草津温泉の源泉は熱湯に近い湯温で、それを冷ましてからホテルや旅館、入浴施設に給湯していた。それでも強い酸性の熱い湯が目玉の温泉で、水虫にも効く温泉として、利用していたが、私は最後まで熱い湯に慣れることはなかった。
▽その反面、中之条町の北部にある四万温泉は、中性の源泉で、草津温泉の湯に飽きたら、この四万温泉を利用することを勧められた。確かに、草津温泉のような明るい温泉街とは違い、ややわびしい温泉街があって、それはそれで楽しめる風景が広がっていた。
▽そして渋川支局に一番近い伊香保温泉だ。石段で有名な場所で、いかにも情緒豊かな温泉街が楽しめる。ただし、ここ数十年で源泉の湯温が1−2度下がってきたことを憂慮する関係者も多い。ややぬるめの湯温で、浸かろうと思えば、1時間入っていても、苦しくならない湯温だ。
▽こうした温泉街ならではの話題も多く、渋川支局時代は温泉の話もよく記事にしていた。


★569NIEで小学校の一日講師を務めた

▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時のことだ。本社からの要請で、地元小学校の一日講師を務めた。「教育に新聞を」というキャンペーンを実施している宣伝担当の部門からの要請だった。意外に大変だったのは、小学生を相手に作文教室を行い、安請け合いで、作文の添削もしたことだ。
▽本社から総局長経由でこんなメールが届いた。
《件名:▽FW:▽新聞出前授業へ講師派遣のお願い

原さま
お休み中にメールしてすみません。先日の送別会はお疲れ様でした。
本社CSR推進部から、表題の依頼が来ました。
皆野町の皆野小学校から、新聞の作り方や取材の仕方などについての
「出前授業」をしてもらえないか、というお願いです。
皆野小からは昨年も出前授業の依頼があり、前任の高山支局長が受けてくれました。
今年は原さんに先生役をお願いできないでしょうか。
こうした出前授業の「ひな型」になるパワーポイントの資料なども
CSRにはあるようですので、ぜひ前向きにご検討いただけると幸いです。
よろしくお願いいたします》

▽新聞各紙は新聞の普及の一環としてNIE活動に取り組んでいる。ホームページではこんな説明をしている。
《NIE(Newspaper▽in▽Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用する活動です。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています》
▽今回の要請は、その活動の一環だった。
▽そして関係者と相談し、出前授業の日程を決めて、以下のようにレジュメを作った。
+++++++++++++++++++++++++++
▽皆野小朝日新聞出前授業レジュメ

▽▼朝日新聞という商品の説明
▽各ページの紹介
▽全国紙と地方紙

▽▼朝日新聞の取材網と現場の記者
▽秩父支局→さいたま総局→本社編集センター→制作→印刷→トラック輸送→販売店→配達
▽原の経歴と転勤

▽▼本社での仕事
▽社会部、政治部、経済部、スポーツ部、生活部、文化部、編集センター、校閲部のそれぞれの紹介、地方総局、支局の紹介、転勤


▽▼どう新聞を読んでいくか
▽天声人語の丸写し、文章はリズム、作文を書いてもらい、添削をする

▽そして地元の小学校に行き、朝日新聞出前授業を2時限行ってきた。相手は約50人の小学4年生だった。
▽上記のレジュメを元に、ホワイトボードに昨日の朝日新聞を貼って、児童らにも新聞を配り、商品説明、記事の作り方、取材方法を説明していった。休憩を挟んで、今度は作文教室に。20分で50文字を書かせていき、発表してもらい、公表した。
▽小学生なのに、感性の高い作文もあり、楽しかった。
▽問題は、すべての作文を持ち帰って、添削をしたことだ。添削する作業にかなり時間がかかった。講評を添えて、一つ一つ書き込んでいった。
▽すべては会社の仕事の一環で、臨時手当などは出ない。
▽これで将来、朝日新聞の読者が増えればいいなと、かすかに期待もあったのだが。

★567佐渡への引っ越しは大変な作業だった

▽春は入学、入社の季節。そしてサラリーマンには転勤のシーズンだ。振り返ると私は新聞社に入り、計21回の辞令を受けて、計15回回の引っ越しをした。2年に1度事例を受けて、2、3年に1度は引っ越し経験した計算になる。結構な回数だったと、今も思う。その中でも最も大変だったのが、さいたま市の自宅から新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に転勤した時だった。その話をしよう。
▽春の人事異動で佐渡支局への転勤辞令を受けたのは、2015年のことだった。この年は4年に1度の統一地方選があり、朝日新聞はそれに合わせて通常の4月1日付ではなく、5月10日付人事を実施した。統一地方選の取材体制を保つためで、本来より1カ月以上も遅くなった。
▽当時私は、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していて、さいたま市の自宅から通っていた。辞令の内示を受けたのは、2月下旬だった。
▽引っ越しは、朝日新聞は大手引っ越し業者と契約をしていて、その業者に依頼する。人事異動が内示されると、転勤対象者にはその引っ越し業者の地元窓口の支店の連絡先を教えてくれる。そしてその支店の担当者に、引っ越しの荷物の内容と容量、引っ越しの荷物を送り出す希望日、引っ越し先で荷物を受け取る希望日などをファクスで連絡する。
▽佐渡支局は1人勤務の局舎で、自宅兼事務所になっている。この支局に持っていく生活道具を選別し、そしてそれをチェックシートに記していった。机、椅子、本棚、食器棚、電子レンジ、テレビ、録画機、パソコン、プリンター、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、寝具類、衣類や靴、最低限の辞書類や書籍、そしてマイカー。生活する道具を持っていかないとならないが、このうち単身赴任用の冷蔵庫、洗濯機、テレビなどは現地で購入することにして、引っ越し業者に連絡した。
▽朝日新聞は人事異動の日付の前日までには現地に着任して、その日付から仕事を始める必要があり、単身か家族帯同かで、移動日数が決まってくる。私の場合は単身だったので、4日間の移動日が与えられた。つまり5月6日〜9日の間に引っ越しを済ませる必要があった。
▽与えられた日数が4日間だったが、ちょうど黄金週間が終わる季節でもあった。私は引っ越し業者に引っ越し希望日を伝えた。6日に自宅から荷物を出して、9日に佐渡支局で荷物を受け取る。こんな希望だった。しかし業者から後に返事があり、その希望は無理だというのだ。
▽佐渡は日本海の孤島で、引っ越しには1週間かかるというのだ。しかも黄金週間にかかるので、早めに出してほしいとも言われた。
▽業者とのやり取りで結局黄金週間の最中に荷物を出して、9日までに佐渡支局で受け取ることになった。実に10日近くもかかることになった。
▽マイカーは結局自分で運転して、佐渡支局に持って行くことにした。
▽実際は荷物を出してから、マイカーを運転。日数がかかるため、上質越道を経由して長野のホテルに1泊、そのまま新潟県上越市の直江津港からフェリーにマイカーを乗せて、佐渡島に上陸。佐渡島のホテルでも1泊し、佐渡支局に入った。
▽引っ越し業者は地元の業者に引き継がれて荷物は無事到着。荷物を支局の局舎に入れた後、配置を考えて、配置作業をした。
▽この日も支局に泊まることは出来ず、さらにホテルで1泊した。
▽翌日は地元の電気店で、事前に注文した冷蔵庫や洗濯機などを支局で受け取り、その設置もした。
▽もう分かるだろう。いかに引っ越しとは時間もカネもかかることが。そして体力も気力も消耗することが分かってくれるだろう。会社から引っ越し手当が出るが、すぐに使い切る金額だ。
▽昔から、「引っ越し貧乏」という言葉があるが、その言葉は私にはピッタリだと思っている。


★565地方と国会議員の政務活動費の格差

▽4年に1度ある統一地方選の企画として、県議や市町村議に支給される政務活動費を取り上げることになった。2019年3月、私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時だ。
▽政務活動費については、兵庫県議が不正利用を繰り返すなど、全国各地で問題となったこともあり、私がかつて担当していた市議会では、市議が対立する市長に対する怪文書を政務活動費で作っていたこともあり、不透明感が拭えない税金の使い方の一つだった。一方で、その政務活動費そのものが支給されない自治体があることも知って、その取材を始めた。
▽後輩記者が作ったアンケートによると、当時の埼玉県では、東秩父村と長瀞町は、議員の政務活動費も議会視察費もゼロと答えた自治体だった。
▽このうち県内で唯一の村である東秩父村は2014年に「和紙・日本の手漉和紙技術」として、ユネスコ無形文化遺産に登録され、「和紙の里」として売り出す風光明媚な村だ。一方で過疎地として人口減少も続き、過疎化も進んでいる。
▽そんな村の議員数8人の東秩父村議会で、新潟県の離島、淡島の粟島浦村に議会視察に行くことが決まったのは、前年2018年秋のことだった。
▽同じ過疎地なのに、人口が増えている淡島村の実態を知りたいと、一部議員が切り出し、「自腹を切ってでも行く必要がある」と同僚議員を説いて回った。これを知った村側が、公用車を用意し、議会事務局職員が運転する車で、新潟県・岩船港まで高速道を使って運転し、フェリーで粟島に渡り、総務産業常任委員会として4人の議員が現地での行政視察を行った。
▽10月14-15日の1泊2日の視察で、村は議員1人のあたり、1万3000円の手当を支給した。この中には宿泊代も含まれており、ビールなどの飲み代は自腹を切った。
▽議会事務局は
「議員の政務活動費も出していない中、将来の村づくりを考える上で、自腹はおかしいという判断をした」
と説明する。
▽視察の成果は「村議会だより」で報告されている。それによれば、粟島浦村の人口はこの5年間で19人増えて、354人(11月1日現在)になっている。その要因として粟島浦村は小学5年生から中学3年生までの島外からの入学希望者を受け入れる制度を作るなど、人口減少問題に懸命に取り組んでいることを紹介。東秩父村に参考になる点として、児童生徒の大幅な減少時には小中学校の併設・校長の兼任も考えられるなどと3点を提言して結んでいる。
▽私は取材した結果を、以下のように書いた。
《視察した1人は、
「今の時代、村の財政を考えると、政務活動費を要求する議員はいない。村の将来を担っているという意識で活動している。粟島浦村の視察は勉強になった」
と振り返った。1年生議員は一般論として、
「お金に見合った議員活動をしたいと思っている。人口規模を考えると、政務活動費をもらっても無駄なだけだと思う」
と話した。
▽一方の長瀞町。荒川の流れを楽しむ長瀞ラインくだりが観光資源となる有名な町だが、議員数10人の町議会議員の政務活動費はここもゼロ。議会の行政視察も最近では2016年7月に長野県川上村に5人の議員が行政視察したのが最後だ。この時は公用車のワゴン車を運転し、高速道の料金とガソリン代を町が負担したが、宿泊はせず、日帰りの視察だった。議員への手当はゼロ。まさに質素そのものだ。ある議員は、
「今の町の財政事情を考えると、政務活動費を要求できる状態ではない。自費で議会便りを出すなど議員の歳費だけで議員活動と生活をするのは苦しいが、仕方ないと思っている」
と漏らす》
▽税金を目的外に使う議員がいる一方で、政務活動費すらない議会もある。その格差に、議会制民主主義とは何なのか、と改めて考えてしまう。


★559お知らせ記事と紙面の私物化

▽私がある地方の支局長をしている時の話だ。女性支局員が、自分の父親が幹部を務める地方の文化団体のお知らせ記事を、アシスタントに定期的に書かせていることが発覚し、やめさせたことがある。ある意味で、女性記者のアシスタントに対するパワハラだったし、何よりも紙面の私物化が問題だった。
▽支局のアシスタントは、3年契約のために、私が支局長になった時に、ちょうど新しいアシスタントが入社したばかりだった。そのアシスタントが、しばらくして気づいたのが、そのお知らせ記事を地方版に書かせていたことだった。
▽朝日新聞には書く地方版に「マリオン」というお知らせ記事を載せる欄がある。各種イベントなどの行事や告知記事を載せている。アシスタントはそのマリオンの記事を書くのも仕事の一つだった。支局に売り込んできた各種団体や組織に電話取材をして、確認をして、記事にする。主催者側にとっては新聞広告とは違い料金も無料で、しかも新聞記事のスタイルになっているため、圧倒的に信頼度が高い。
▽その信頼度が高いマリオン欄に、その女性記者は3カ月に1回という頻度の高い割合でアシスタントに命じて、お知らせ記事を書かせていた。その内容はその女性記者の父親が幹部を務めている文化団体の活動のお知らせ記事だったから、ある意味で紙面の私物化だ。新聞記者として、絶対やってはいけないことだった。前任者のアシスタントに聞くと、3カ月に1回、ずっと書かせていたほか、自らも、お知らせ記事を書いていた。
▽これは完璧に紙面の私物化だ。私はそう判断して、その行為を女性記者にやめさせた。その一方でアシスタントにも、この団体のお知らせ記事も当分掲載しないよう指示した。
▽これは支局長として当然の行動だ。自分が関係する団体のお知らせ記事を書くとは、ある意、味記者の行動規範に反している。しかも自分の父親の団体の行動を、紙面を使って書くのは紙面の私物化だ。こんなことをずっと許してからと思うと、情けなくなってきた。
▽その後女性記者は本社に転勤になったが、それでも時折支局に来ては、記事を書くようにアシスタントにやんわりと言ってきたことがあるが、全て断った。当然のことだろう。こんなことを許していたら、記者としての生命も終わりだ。
▽このような記者が紙面を私物化する行為を時折見かける。自分の娘のスポーツ大会にわざわざ九州まで出張して紙面化した支局長もいた。およそ記者とは関係ない話を記事にする輩もいる。こういう事は絶対にやめてほしい、と私は切に思う。


★557ある市役所広報課長の出世

▽ある日、新聞地方版を見ていて驚いた。私がかつて担当していた市役所の広報課長が、なんと部長になっていたのだ。この課長、私が市政批判、もっと詳しく言えば市長をバックアップしていた自民党を批判していたから、実に不愉快な対応を取られたことがある。だからこそ部長になったんだな、と変に納得してしまった。
▽私が担当していたその市役所は、保守が分裂し、自民党は市議団が中心となって、市長を批判・非難する言動を続けていた。その結果、現職市長は次の市長選で落選し、新たに自民が推す新顔候補が市長になった。
▽前後して私は自民の言動を暗に批判する記事を書き続けた。
▽その結果、どうだろう。自民の意向を受けたかのように、広報課長なのに、マスコミの一員である朝日新聞記者への取材協力を拒否し始めたのだ。
▽具体的なことは伏せるが、選挙の取材や行政の取材で、それまで広報課としてマスコミに行ってきた対応をすべてやめてしまったのだ。最初は理由が分からなかったが、後になって、理由が何となく分かってきた。要するに、市政批判、自民批判、市長批判をする朝日新聞はケシカラン、取材に協力するな、ということなのだ。広報課長の独自の判断なのか、指示があったのか分からないが、取材拒否を貫いたのだ。
▽広報課長とは公務員である。公僕である。市長や自民をバックアップする立場ではない。露骨な取材拒否だった。
▽そんな課長が、月日を経て、部長になったのだから、これは市長からの功労者なのだろう。立派な勲章だ。
▽しかし、私は彼にこう忠告しておきたい。
▽いつかはトップが変わる。その時に同じ泥船に乗っていると、遭難するだろう。気をつけた方がいい。


★553屋久島のもう一つの写真集

▽私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時に、縄文杉で知られる鹿児島県・屋久島の冬景色を撮影し続けている写真家がいた。その人が出した写真集をきっかけにインタビューして、記事にしたことがある。
▽屋久島は九州以南では最高峰の山々が連なる島として知られる。南国のイメージが強いが、そんな山々の山頂付近に抱く雪景色を求めて写真撮影していたのは、埼玉県秩父市在住の山岳写真家新井靖雄さんだった。15年間通い続けて撮影した写真集「雪の屋久島」を出版した。南国のイメージが強い屋久島の別世界が広がってくる本だ。
▽東京の出版社、言叢社(げんそうしゃ)から、変形判で112ページ、70点の写真を収録した。かべてモノクロだ。宮之浦岳(1936メートル)、永田岳(1886メートル)という高い山の雪景色を中心に収録した。幻想的な作品が多い。
▽新井さんは58歳の時に初めて屋久島を訪れ、その夜の満天の空に感動し、写真家として通うようになった。その3年間のリサーチ中の山のテントで、雪景色を初めて体験。「屋久島にも雪が降るんだ」という思いから、撮影テーマを「屋久島の雪」に絞るようになった。以来、毎年12〜2月、1カ月に1回、2週間の予定で秩父市から屋久島に通うようになった。
▽持っていたカメラは「マキナ」という単焦点レンズのカメラ4台。これにフィルムや三脚などの資材や食料、それにザイルなど山登山道具で80キロにもなったという。単独行で山に登り、雪が降るのを待って、撮影を続けてきた。冬山の登山だから危険もつきまとう。慎重に山登りを進めた。低体温症になったこともある。
▽フィルムカメラでモノクロにこだわったのは、幻想的な雪景色が、デジタルカメラでは表現できないから。「モノクロのトーンを表現するには、やはりフィルムカメラしかない」とこだわった。

▽私は取材してこんな原稿を書いた。
《取材現場で求めたのは、新井さんがいうところの「エビの尻尾」の自然美だった。標高が高い山中では風が強く吹き、湿った雪がつららのように横向きになって凍っていく。その形が1本1本エビの尻尾に似ていることから、そう表現した。その「エビの尻尾」が何十、何百本も重なって岸壁に着氷したようになって、独特な景色を形成していく。そんな珍しい風景を撮ろうとチャンスを伺ってきた。
▽そして昨年(2019年)1月28日、チャンスはやってきた。永田岳の山中の3カ所の岸壁や斜面で、「エビの尻尾」の模様がすべて出来ている風景に出会い、ザイルを使って撮影ポイントに降りて、シャッターを切った。「このためだけにチャンスを待っていた」と新井さんは振り返る。その写真が写真集の表紙に掲載されている》
《新井さんは秩父市出身の山岳写真家の故清水武甲に師事し、独特の世界観を切り開いていった。「だれもが撮れない写真を撮るという信念でやってきた」と振り返る。今回の写真は集大成だといい、来年春、屋久島で個展を開くという。「屋久島を遠く海から見ると山頂に雪があることに気づくが、多くの人は屋久島で雪が降ることすら知らない。その別世界を知ってもらいたい」と話した。
▽今後は奥秩父の写真撮影も再トライしたいとも言う》
▽写真撮影は、辛抱と粘りが大切であることを教えてくれるエピソードだった。


★552支局内の整理整頓をした時に出したメール

▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時、アシスタントのアルバイトに手伝ってもらい、支局内で大がかりな整理整頓を行った。退社したから言うわけではないが、朝日新聞の人間は整理整頓が下手だ。ヘタだと言うより、取材で得た資料をそのまま放置し、要するに捨てられないでいる。これが小さな支局ではたまりにたまって、使えない資料、イコールゴミになる。
▽そのゴミを1週間にわたって整理し、捨てることにした。民間の業者を呼んで、ゴミ出しをした。
▽そして後日、朝日新聞東埼玉支局に勤務していた支局長や支局員に、分かる範囲で、事後処理のメールを出した。
▽これを読んでいただければ、どんな状態になっていたか、分かってくれるだろう。

《東埼玉支局の歴代支局長の皆さま。支局員の皆さま。
▽東埼玉支局の原といいます。お久しぶり、またははじめまして。

▽以下、ご連絡します。
▽東埼玉支局では、昨年の総選挙が終わった直後から、支局内の整理整頓をかなり大掛かりに実施しました。その結果、かなりの資料や資材を処分したことをご報告します。

▽事件事故の警察発表のペーパーは段ボールにして約十箱。個人の取材資料が二十箱、実費請求の資料が数箱、市町村の資料が十箱、それに錆びたタムロンの望遠レンズや錆びた土鍋、錆びたコーヒーミル、錆びたコーヒーメーカー、錆びたカメラ三脚、新しいフロッピー、新しいインクリボン、新しいロールペーパー、新しい実費請求の紙などです。

▽個人情報が載っている警察関係資料は、段ボール十箱を宅配で本社に送って溶解手続きをお願いしました。個人の取材資料も同様の手続きをしました。●●さん!これはあなたが行う、と言っていた作業ですよ。

▽個人の資料はクリアファイルに入れたものが多く、手作業で資料を取り出して、クリアファイルを再利用することにしました。かなり手間と時間がかかりました。
▽個人で集めた資料で、大切だとは思いますが、大切なら本人が自分で保有すべきで、それを何年も東埼玉支局に置いているということは、大切ではない、と判断し、処分しました。事件資料も多くありましたが、私がこの東埼玉支局に着任して約三年間の間に、その資料を使ったことが全くないため、不必要と判断しました。

▽また新しいフロッピーなどは時代遅れだと判断し、本社の編集サポートに送る予定です。
▽なお、捨てられないものが一つ出てきました。初代支局長時代から数年続いていた写真を貼ったスクラップ帳です。当時、支局内で飲食していたほほえましい写真が張られていました。歴代支局員や当時の浦和支局長なども写っています。
▽これは東埼玉支局に置いたままにしても、もったいないので、見たい方はご連絡ください。郵送します》

▽●●は実名だ。
▽このぐらいのことをしないと、整理整頓は出来ないということだ。
▽もちろん、お礼のメールが多数遭った。しかし名指しされた前任者は、何の返事もなかった。知り合いに文句を言っただけらしい。

★545佐渡で一人の若者が始めたコメづくり

▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務している時、1人の若者が新潟から佐渡に移住し、田んぼ作りをしていることを知り、取材をし、記事にした。過疎地に飛び込み、里山の保全を実践するためだと話していた。その意思の強さに驚かされた。
▽26歳の若者だった。一見すると、ヤンキー風の若者。髪をかき上げると左耳には大きなイヤリングも見える。
▽しかし、佐渡では大きな夢を持って農業を始め、夢を実践する第一歩を歩み出していた。
▽取材をした前年春、佐渡市羽茂大崎に移住し、田んぼを借りて、コメ作りを始めた。東京農大の学生時代からイメージしていた里山の保全を実践するためだ。それまでコメ作りの経験もない。風光明媚な同地区の山間部にある棚田を350平方メートル借りた。田植えから水の管理、草刈り、稲刈りまで、周囲のアドバイスを受けて、試行錯誤でコメを作ってみた。
▽トラクターがぬかるみに取られて転倒させたこともある。田んぼを深く掘りすぎて、トラクターなどの機械が入らない失敗もあった。雑草を放置していたため、
「雑草の種が残ってしまう」
と注意されたこともある。
「借りた田んぼは、その所有者の一番の稼ぎ頭と言われた場所。もっと気合いを入れてやらないと」
▽生半可な気持ちでは続かないと感じた。それでも、やっと収穫できたコシヒカリ約1200キロは、食べた人が「おいしい」と言ってくれた。
「気持ちを込めてコメ作りをすれば、田んぼもキチンと答えてくれる」
▽そう思った。
▽里山とは、人と生き物が共存する地域だと思っていた。その里山が過疎化で人がいない地域になってきた。
「それだったら、僕が住んで、現場の人間になってやろう」
▽こう決意した。まずはカネをためないと、と考え、東京農大を卒業後の2年間はフリーターをしていた。東京や佐渡の居酒屋で懸命に働いていた。親は反対した。キチンと就職しなさいと。しかし、決意は固かった。
▽羽茂大崎地区は、佐渡島らしい風光明媚な場所で、景色がいいと、決めた。佐渡は何回も訪れた島だが、住むのは初めてだ。生活場所は、古民家の納屋を借りた。
「まだコメ作りで精一杯。昔の人は田んぼにもいろいろな感情を持ってコメ作りをしたんだなと思いました。里山の保全運動はまだ先の話」
▽そう言いながらも決意の固さを見せていた。
▽こんな内容の話を記事にした。
▽その記事を読んだ読者から支局に電話があった。
「こんな若者がもっと増えれば、佐渡島は将来も安心だ」
▽休耕田が増える島の現状を心配する読者だった。


★540NHK朝ドラ「どんど晴れ」と伊香保温泉の女将

▽NHKで2007年度に放映された連続テレビ小説「どんど晴れ」を覚えているだろうか。女優の比嘉愛未が主演で老舗旅館女将を演じる物語だ。実はこのドラマ、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時に、取材で知り合った伊香保温泉の旅館女将がドラマのアドバイサーをしていた。それを知って、取材をして記事にしたことがある。それ故か、比嘉愛未には勝手に親近感を持っていた。
▽まずはこの「どんど晴れ」のおさらいをしよう。NHKのホームページではこう紹介されている。
《放送年度:2007年度
横浜にある実家のケーキ店でパティシエを目指していた浅倉夏美は、盛岡の老舗名門旅館の跡取り息子と婚約したことで、大女将(おかみ)と女将のもと、仲居見習いから厳しい修業をすることになる。くじけそうになりながらも、伝統と格式の前で奮闘しながら成長し、真の“おもてなしの心”を知る「女将奮戦記」。作:小松江里子。音楽:渡辺俊幸。語り:木野花。出演:比嘉愛未、内田朝陽、大杉漣、森昌子、草笛光子、宮本信子ほか》

▽アドバイサーとして番組を指導したのは、渋川市の伊香保温泉にある温泉旅館「和心の宿オーモリ」の女将、大森典子さんだ。旅館での従業員の接客や振る舞いなどの場面を指導してきた。
▽共通の知り合いの紹介から、「どんど晴れ」の「旅館指導」の話が持ちかけられ、前年からアドバイザーとして東京に通う毎日が続いた。俳優らが台本を持って行うリハーサルに立ち会い、旅館での実際の振る舞いなどを助言・指導していった。
▽「たとえば、仲居が数人で部屋に布団を敷く時、素早く、かつ花が開くようにしないといけない。丁寧なだけではだめなんです」といい、こうした助言を続けたという。1日15分のドラマだが、朝から晩までリハーサルを続けたこともある。「2カ月間はほぼ毎日、リハーサルに立ち会いました。忘年会で忙しい時期だったけど楽しかった」と振り返る。
▽舞台となる旅館「加賀美屋」で大女将を演じるベテラン女優の草笛光子さんからは「女将を演じるのは初めてだから、何でも注意してくださいね」と言われて緊張したことも。「真心とおもてなし」という気持ちだけは伝えたいと思ったという。
▽旅館のドラマというと、かわいそうな女将と、いじめ役の仲居という設定が多い。「プロデューサーには、夢のある旅館にしてください、と注文もつけました」と大森さん。

▽こんな話をまとめて、私は記事にした。
《盛岡市の老舗旅館を舞台にしたNHK連続テレビ小説「どんど晴れ」で、旅館での従業員の接客や振る舞いなどの場面を指導しているのが、渋川市の伊香保温泉で働く現役の旅館の女将だ。「和心の宿オーモリ」の大森典子さん。いわば伊香保温泉の持てなしが、朝の各家庭のお茶の間に伝わっていることになる。ドラマは現在、主人公が2度目の仲居修業を始めたところで、いよいよ佳境に入るが、「大女優を相手に助言するだけでも身が引き締まる思いでした」と話している》
《ドラマが始まる時、月曜日に限って、「旅館指導・大森典子」という字幕が出てくるが、伊香保温泉の文字もない。しかしそれでも気づく人がおり、「あの大森さんですか」と話しかけてくるという。
▽大森さんは渋川市生まれ。1987年に結婚と同時に、今の旅館に入った。「どんど晴れ」はもちろん架空の作り話だが、大森さんの人生にも重なることが多い。主人公の浅倉夏美は、婚約者の実家である「加賀美屋」で女将になりたい一心で家出をしたが、仲居にいじめられる経験を何回もしている。大森さん自身、家出もしたし、いじめられる経験も何回もした。「ただ、義母にはかわいがってもらいましたからね」。その数日後に義母が亡くなり、悲しい思いもした。
▽「ドラマの加賀美屋とうちのオーモリは違いますが、お客様に対する心構えは同じ。自分を磨いていかないと」と話している》

▽朝ドラファンには、なかなか面白い記事に仕上がったと今でも思っている。

★537フェリーに乗って思う人生の節目

▽NHKのドキュメンタリー番組「ドキュメント72時間」を時折見ている。2024年6月28日の放送は、新潟港と小樽港を結ぶ日本海フェリーを舞台にした定点観測だった。少し大袈裟だが、私の人生の節目を思い出してしまった。少しだけ、個人的な話を書いていきたい。
▽私が新聞業界に入ったのは、1981年4月だった。北海道新聞の入社を1日に控えて、千葉県に住んでいた私はどういうルートで北海道に渡るか考えていた。
▽飛行機で羽田から千歳空港に行き、そこから電車で札幌に行くのが通常ルートだ。しかしそれも味気ない。
▽青函連絡船を使うルートも考えた。夜行電車で上野から青森に行き、青函連絡船で北海道に渡り、ここから函館線で札幌を目指すルートも考えた。学生時代はこのルートで北海道旅行をしたな。
▽もう一つ、ルートがあった。新潟まで列車で出て、新潟港から日本海フェリーに乗り、小樽に入り、電車で小樽から札幌に行くルートだ。当時はまだ上越新幹線は開通しておらず、在来線の上越線を利用して新潟に行く必要があった。
▽幸いなことに、私の学生時代の同期で、1年早く朝日新聞に入社していた友人が新潟支局にいた。その彼を訪ねようと思った。そうであれば、この日本海ルートで決まりだなと考えた。新潟で彼と酒を飲んでホテルで1泊し、翌日のフェリーで新潟を発つ。翌々日の早朝に小樽港に入港する。
▽当時はキャリーバッグもなく、着替えの衣類などを入れたボストンバッグ一つで、上越線を乗り継いで、新潟に入った。その友人と夜の新潟のネオン街で酒を飲み、1泊して、翌日のフェリーに乗った。日本海に沈む夕日がきれいだった。いろいろルートを考えて、日本海から北海道に入ったのだ。3月31日に札幌に入り、ホテルに泊まり、翌日の入社式に備えた。高まる期待と不安があった。そんなフェリーの旅だった。
▽そして月日は流れ、私は朝日新聞に転職し、地方や本社を回って、新潟県上越市の朝日新聞上越支局に赴任した。3年半勤務し、次の勤務地が札幌市の北海道報道部だった。この場合も通常は上越市から電車に乗り、新潟駅から新潟空港に移動し、そこから新千歳空港に行くのが通常のルートだった。しかし私はそのルートは使わず、上越市からマイカーを走らせて、新潟まで行き、ここから小樽行きのフェリーに乗った。2001年8月下旬のことだ。北海道新聞に入社する時に使ったこのフェリーに、今度は北海道に転勤するために利用したことになる。20年前を思い出していた。上記のように、「人生の節目」と大袈裟に書いたのは、入社や転勤で、長い移動を伴う節目に、このフェリーを使ったことによる。
▽フェリーの旅は、ゆっくりと時間が過ぎていく。これがよかった。いろいろと考えていた。上越支局時代の仕事や悩みなど。これから北海道報道部でどんな仕事をしようかとと。
▽フェリーの船旅は、その後も何回か届いた。波に揺れて、その心地よさを知った。
▽NHKの番組では、ホームページでこう紹介された。
《舞台は日本海を行くフェリー。新潟と小樽を片道16時間かけ往復する航路に3日間密着する。水平線を眺められるデッキや大浴場も備えるフェリー。乗客は2段ベッドや個室で寝泊まりし、思い思いの時間を過ごしながら目的地を目指す。バイクで北海道を旅する人や、貨物を輸送するトラックドライバーなど、乗客はさまざま。時間に追われる時代に、長時間かけて船旅を選ぶ理由とは―。行き交う人たちの声に耳を傾ける》
▽旅はまだ続く。


★536新幹線が延伸してもまだ遠い北陸3県

▽北陸新幹線が2024年3月16日、福井県敦賀市まで延伸した。関係者は「東京が近くになった」と大々的なキャンペーンを行った。しかし、朝日新聞に長年勤めていた私にとって、富山、石川、福井の北陸3県は、まだまだ近くて遠い地域である。その理由を書いていく。
▽朝日新聞東京本社にとって、石川も富山も福井もこの北陸3県は大阪本社管内の土地柄だ。つまり県庁所在地の金沢、富山、福井の3市にある朝日新聞総局は大阪本社管轄の総局で、東京本社から見れば、敵の総局だ。
▽「敵」と書いたのは訳がある。朝日新聞は長い間、東京本社と大阪本社間の対立が続いていて、大阪本社の記者たちは、東京本社の記者たちを敵だとみなして、対抗意識を燃やしていた。東京本社の人間は大阪本社関内に行くのを、「都落ち」だと自重してきた。つまり長い間の本社間競争もあって、北陸の3県は、大阪本社の敵の陣なのだった。
▽本社が違うということは、その富山、金沢、福井の3総局や地方支局の人事は通常、大阪本社管内で行われる。人事交流がない限り、これら総局や支局にいる記者は、基本的に大阪本社管内で回される。私は東京本社本社管内の支局を回ってきたが、大阪本社管内に異動になった事は一度もない。以前、大阪本社社会部に行けと言われた時も断った。それ故、東京本社管内しか知らない記者にとって、北陸3県は遠い存在だった。
▽今から30年以上前に、その大阪本社管内であった富山支局が一度だけ、東京本社管内に移されたことがある。当時の富山県の朝日新聞の部数はわずか1万部で、費用対効果から言って、お荷物の支局だった。このため、大阪本社から東京本社に移管した経緯がある。しかし、結局は富山は石川、福井とともに北陸3県での交流が強く、東京本社関内から再び切り離されて、大阪本社に戻された。
▽そして朝日新聞の地方支局縮小の流れを受け、この3つの県の総局は規模が縮小されていった。週末になると、一つの総局デスクが残りの2総局のデスクの分も請け負ってデスク当番をするという交代当番制も始まった。例えば富山のデスクが福井や金沢のデスクに代わって当番をするのだ。まさに地方縮小の象徴だった。
▽だから北陸新幹線延伸で福井県敦賀市まで伸びたとしても、東京本社管内の記者にとって、北陸3県は遠いのだ。近くない。決して喜んでいるような状況ではない。

★523ユンケルと連続幼女誘拐殺人事件

▽首都圏で発生した連続幼女誘拐殺人事件で、私は埼玉県警担当キャップとして取材を続けていた。毎日のように夜討ち朝駆けを行ってきた。仕事は深夜まで及び、翌日朝は早朝に出かけた。あまりにも疲労感がたまってきて、私は毎朝のように滋養強壮剤のドリンクである「ユンケル」を飲んでいた。疲労にはこれがいい、と言われて、毎日飲んでいた。
▽1本数百円から2000円という高価なものまであり、私は1000円のユンケルを飲み続けていた。効果があったかどうかは分からない。最後の最後になって、高熱が数日も続く病気もした。新聞記者は疲労との闘いだな思ったりもした。
▽会社の上司は滅茶苦茶なことを言っていた。
「睡眠時間を減らしても、死にはしない。食べるだけで大丈夫だ」
▽当時の支局長はこんな指示をして、部下を怒鳴った。
▽また別の編集幹部は、こう言い放った。
「取材で死んだ奴はいない」
▽今振り返ると、暴言の連続だった。
▽それでも私たち支局員は黙っていた。暴言を受け流すしかなかった。早く事件が片付いてほしいと思っていた。
▽私がユンケルを飲み出したのはそんな時期だった。
▽取材をして、記事を書き、取材をして、記事を書き続けた。
▽そんなある日、同僚に言われた言葉がある。
「ユンケルばっかり飲んでると糖尿病になる奴がいる」
▽えっと私は思った。
▽確かに甘い小さなドリンクだが、糖分も多いのだろう。
▽その一言で、私はユンケルを飲むのはやめた。高額なドリンク代だったが、これで得たものは何もなかった。疲労感がたまって、発熱が続いただけだった。
▽それ以来私はユンケルなるものは全く飲んでいない。何を信じてあんなにユンケルを飲んでいたのだろうか。
▽疲労には休息が一番なのだ。それが取れずに、取材していたあのころが、今は懐かしい。死なずによかった。

【再掲載】★116すり替え詐欺

▽私が勤務していた埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局で、アルバイトの女性がインターネットのオークションで詐欺に出くわした。幸い、直前で気づいて、ストップさせたが、かなり悪質な手口だったことから、これを取材して、記事にしたことがある。
▽インターネットのヤフーオークション「ヤフオク」を利用し、ブランド品「ルィ・ヴィトン」の長財布を出品したのは、3月中旬だった。入札が相次ぎ、最終的に、福岡市の男性が3万7500円で落札した。
▽ヤフオクのルールに基づいて、掲示板でのやり取りを行い、相手が入金したのを確認して、着払いで発送した。
▽異変があったのは、その2日後。いきなり男性を名乗る人間から携帯電話に電話が入り、こう言われた。
「これは粗悪なコピー品だ。生地も金属部分も違うし、(シリアル番号の)刻印の位置も違う。既に返却のため発送したので、返金してほしい」
▽こう言われてそのまま電話が切れた。
▽女性は不安になった。あれが偽物だったとは。質屋で買ったもので、偽物には思えなかった。あれやこれやと思い浮かべたが、返金を考えた。掲示板には、こうも書かれていた。
「実は私たちは業者。偽物があった時は警察に通報することになっている。返金すれば、穏便に済ませる」
などとあった。
▽そして2日後の日曜日。着払いで自宅に送られてきたその商品を見て、驚いた。送った長財布とは似ているが、全く違うもの。手触りが違うし、財布を開けると、しっかりとした作りではなかった。カードスロット部分が必要以上に開いていて、まさに粗悪なコピー品、偽物だと分かった。相手の不自然な言動は、このことだと気づいた。
▽要するにすり替え詐欺。このまま返金すれば、手元に残るのは、送った本物の財布ではなく、偽物の財布で、すり替え詐欺の被害者になってしまう。本物の長財布は、相手側に渡り、3万7500円も相手に渡るだけだ。幸い、ホームページに掲載した写真とは別に、送った本物の長財布をいろいろな角度から写真を撮っていたことから、その事実が分かった。
▽私はその話を聞いて、彼女と地元の県警草加署と草加市消費生活センターに出向き、相談をした。同署では、
「契約トラブルの一つだが、まだ被害に遭ったわけではない。返金も返品もしなくていい」
と言われた。同センターでは、
「まさにすり替え返品被害。国民生活センターに報告します。返金する必要はない」
と指導された。
▽このため、女性はその日のうちに、ヤフオクの掲示板を使って、
「すり替え詐欺ですね。返金も返品もしません」
などと通告した。
▽すると夜になって、相手からは、
「それなら、明日こちらも早速法的に処理をします。こちらは、本当に穏便に済まそうと思いましたが、人を本気で怒らせたらどうなるか思い知ってください」
と返事が届いた。警察と関係があると偽ってだます手口だ。こちらは新聞記者だ。警察のことはこちらの方が詳しい。
▽暴力を受けないか。心配になって、男の住む住所を管轄する福岡中央署にも私が電話して、事のてんまつを相談した。同署の担当者は
「大丈夫ですよ。詐欺の事例として、受け取ります」
と言ってくれた。
▽それから1週間後。男から速達で手紙が届いた。手紙にはこうあった。
「和解して頂けないでしょうか」
「昨日までコピー品だと勘違いを元に準備していた法的処置を取り下げる」
▽しかし、女性は無視した。相手は詐欺のプロかもしれない。
「警察関係だと臭わせて、穏便に済ませるという言葉の使い方は、こなれていると思った。和解しても、本物の長財布は戻ってこない」
▽ギリギリの所で返金を思いとどまったことだけはよいとしても、この約半月の精神的苦痛を考えると、和解で済ませたくはないと彼女は話していた。
▽記事にはこの顛末をそのまま書いた。
▽この男と業者。いまだに福岡市で詐欺をしているのだろうか。

★519市議選で元朝日新聞記者を名乗った候補者の経歴詐称

▽ある市会議員選挙の取材をしていた時だ。「元朝日新聞記者」を名乗る候補者がいた。しかしその名前に私は記憶はなかった。本社総務部に問い合わせすると、社員ではあったが、朝日新聞記者ではなかった。肩書を詐称しているなら、公選法違反になる。慎重に取材した。
▽さらに調べた。この人物は朝日新聞編集局に在籍していた事実もないし、地方の支局、通信局に勤務していた事実もなかった。編集局とは全く違う別の部署で働いており、最後は朝日新聞の子会社に移った。映像制作系の会社で、そこでリポーターのような仕事をしていたらしい。元朝日新聞記者であると言うのは間違いだった。経歴詐称だ。
▽私はその人物に事前の確認作業をした。本人に問い合わせをし、
「本社ではあなたのことを朝日新聞記者だとは認めていないが、どう思うか」
と尋ねた。
▽彼は子会社で記者をしていたと言うが、その証拠はなかった。
▽つまり朝日新聞記者ではなかったと認めたのだ。
▽このように、朝日新聞記者の経歴がないにもかかわらず、朝日新聞記者であったと名乗るのは経歴詐称だ
▽現在の公選法では、立候補を届ける人間の肩書を確認する作業を、地方の選挙管理委員会は行っていない。つまり、立候補者の言い分をそのまま認めて、肩書きしてしまう。だから新聞記者でもない人間が、新聞記者を名乗っても、そのまま選挙公報に使われてしまう。選挙システムの盲点だ。
▽本人の言い分をそのまま公報に掲載するだけで、確認作業もできないのがこのシステムの欠点だ。
▽この元朝新聞記者を名乗った人物は、私が警告したのを受けて、最終的に立候補取りやめた。それが当然だろう。元朝日新聞記者と名乗って当選してしまえば、公選法違反になり、刑事責任が問われる可能性があるからだ。
▽新聞社はこのように、立候補予定者の肩書きや経歴について、事前にかなり調べる。確認作業を続けてきた。しかし最近は人手不足からその作業を大幅に簡略化している。つまり経歴を詐称しても、そのまま選管の公報や新聞に掲載される危険性が高くなっているのだ。これが怖い。


★518秩父夜祭と報道陣用スペースの奪い合い

▽私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時のことだ。300年以上の伝統を持つ埼玉県秩父市の秩父神社「秩父夜祭」の取材で、撮影スペースを確保できず、苦労した経験がある。アマチュアカメラマンのマナー違反で、確保していた場所が奪われてしまい、どうにもならなかったトラブルだ。
▽秩父夜祭は毎年12月2、3日に開催される祭りで、国の重要無形民俗文化財であり、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産にも登録されている。京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山(ひきやま)祭りに数えられ、年々人気が高まっている。日中から多くの観光客が訪れて、街は2日の宵宮から祭りムード一色だ。
▽大祭の夕方には、秩父神社から曳かれた最大20トンの屋台と笠鉾6基が、市役所近くの傾斜角約25度の急坂「団子坂」を、約100人の曳き手によって「ホーリャイ、ホーリャイ」のかけ声とともに一気に曳き上がり、秩父市役所前の「御旅所(おたびしょ)」に集結した。
▽ポイントは、この傘鉾が一気に集結し、夜空に花火が一斉に上がる瞬間を背景にして撮影する場所を確保することだが、周囲でそれを撮影するのは1カ所しかない。その場所を確保するため、朝から三脚や脚立がおかれて場所取りをしている輩が多く、どうにもならない。
▽そのため、その構図の写真撮影は諦めて、別の角度からの撮影を考えることにした。少し離れた場所に私も朝から三脚を置いて、ガムテープを地面に貼って、「朝日新聞」と書いて、場所取りをした。これでいいだろうと思った。
▽しかし、そのわずか数時間後には、その三脚をだれかが勝手に折りたたんで片付けられて、ガムテープも剥がされていた。マナー違反の極めつけだと思った。
▽こうなったら、実際の撮影時間に、身体を張って、撮影を続けるしかない。
▽アマチュアカメラマンの中に入り込んで、無理して、撮影を続けた。まさにけんか腰の撮影だった。にしても、年寄りのマナーの悪さはどうにもならないと思った。
▽後に知るのだが、近くの居酒屋に申し込めば、1人2万円で撮影ポイントを貸してくれるらしい。そんなことをしないと撮影できないということか。
▽アマチュアカメラマンを相手に、スペースを貸すと言う商売をしているのだろう。なんか変だなぁと思った。
▽各種イベント取材で、昔は主催者が報道陣用にスペースを確保してくれたが、最近はそんなことも少なくなってきたと感じる出来事だった。
▽秩父夜祭は、秩父神社の女神「妙見様」と武甲山の男神「龍神様」が年に1度、御旅所で出会う、というロマンスも伝えられており、夜祭は龍神様を武甲山に送る儀式ともされている。
▽冬空には約6千発の花火が打ち上げられ、観客が酔いしれていたことも記しておこう。

【再掲載】★206楳図かずおと佐渡島

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた2018年8月、「漂流教室」などの作品で知られる漫画家楳図かずおにちなんだ作品展が佐渡島で開かれて、取材したことがある。SFものからギャグ、時代劇まで幅広い作品がある漫画家だが、意外にも佐渡島との接点もあったのだ。作品の一つが、人間の意思を持ったロボットが主人公の異色作品で、佐渡島が舞台の一部になったことから、佐渡での展示が決まった。
▽それは長編SF漫画「わたしは真悟」の中で登場する。「わたしは真悟」は漫画雑誌「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に1982年から連載された近未来型の漫画だ。意思を持った手首だけが本体のロボットが、小学生の男女を両親と思い込んで、旅を続けるストーリーだ。この中で佐渡島に渡った小学生の父親を追いかけようとする主人公が描かれている。作品展が開かれた2018年1月には、フランス・アングレームで開催された「第45回アングレーム国際漫画フェスティバル」で遺産部門に選ばれるなど、国際評価も高い作品となった。
▽作品展は、同市の全域で始まった「さどの島銀河芸術祭」の一環として、実行委が企画した。「わたしは真悟」の連載ページのうち、佐渡島のシーンが描かれたシーンを中心に大型のパネルにした15点を展示した。また外部にも敷地の芝に13点を展示した。主人公のロボットのオブジェも展示していた。作品について、実行委の1人は「ただ、これも主人公の妄想というのが、ファンの読者の通説らしい」と説明する。楳図作品を知り尽くしているようにも感じた。
▽改めてこの作品を読むと、昭和時代のロボットが意思を持ち、そして謎めいたメッセージを残していく、という想像外のストーリーが読み手を引き込んでいくことが理解できる。筆者らしいメッセージを織り込んだのだろう。
▽佐渡島のような離島で、こうした展示会が開催される意義は大きい。その意味を込めて記事を出した。


★511激戦区の県議選の取材指示とその予定稿

▽朝日新聞東埼玉支局時代、統一地方選のうち県議選の取材発注で、さいたま総局デスクから原稿の発注が届いた。しかし、デスクが描くような状況ではないので、その旨を返信して、その理由と、別の予定稿を出した。
▽この中で、山川県議とは後に衆院議員を経て草加市長になる山川百合子のこと、木下とは草加市長から県議になった木下博信のことだ。当時と現在は立場が180度変わるとは想像できなかった。

▽メールでこう書いた。

《民主と山川県議との関係を記事化するのは、やや難しいと思います。
▽理由は以下の通りです。

▽山川は民主の組織票で連続当選を続けたというより、個人票、個人人気です。地元草加市では有名な家庭のお嬢さんとして育ち、政治家としての努力というより、個人人気で票を獲得している人物です。

▽たまたま結婚相手が、元市長の木下に対して敵意を持ち続けている元市議で、国政に維新から出たことから、けじめを付けるとして離党しただけです。この夫婦関係も不思議な「ばかっぷる」ですが、山川本人は民主に離党しても、復党しても、票の取りこぼしはそんなにないと私は見ています。

▽ただし、ご存じのように、草加市区は激戦区で、前回、擁立を見送っていた共産が候補者を立てるので、反自民の支持層が山川ではなく、共産に票が移る可能性はかなり高いと地元関係者は見ています。山川も民主との関係よりも、共産候補の方が脅威と見ています。

▽以上のように、民主と山川との関係を論じるのは難しいというのが、私の考えです。
▽純粋に草加市区のルポなら、書けますが。

▽なお、当初の予定にあった「首長の波乱」というタイトルですが、元市長の木下は市長選に落ちた後、支援者が「浪人のままではいけない」と出馬を促した経緯があり、「首長の波乱」というニュアンスにはならないと思っています》

▽そして県議選のルポ予定稿は以下のように書いたことを伝えた。私としてはなかなかいい原稿だと思っていた。

《草加市区のルポは既に以下のように予定稿を書き上げていますので、あとは組み日までにカギ括弧の部分を増やしたり、手直ししたりするだけです。

▽告示の3日、市内の掲示板には、7人の候補者のポスターが次々と貼られていった。現職が2人いるほか、元市長や元市議らの新顔が並び、市民にとっては、「ほとんどがどこかで見たことがある人たち」だ。南1区(草加市区)は定数3に対して有力7人が挑む激戦区になった。
▽前回まで自民、民主、公明で1議席を分け合っていたが、自民は候補者を一本化出来ず、自民系として3人が出るほか、元草加市長が出馬を表明し、前回は擁立しなかった共産も参戦するなど、様相が変わった。
▽自民はいびつな形で新顔3人が出ることになった。草加市区は現在、自民県議が国政に出たため、自民県議がいない状態になっている。新顔で元市議の自民中野徹は「草加にも自民県議は必要だ」として自民ゼロを解消する目的もあって自民公認で出馬したが、同じく元市議の須永賢治は県連の公認も推薦も得られず、「自民草加支部推薦」という形で出た。須永は「草加支部推薦という形で決まっていたのに、県連には理解してもらえなかった」と話す。加えて、新顔の竹村美保が自民県連から「推薦」のお墨付きをもらって挑む。竹村は「自民の政策に賛同した」と出馬の同期を明かす。
▽関係者によると、草加支部と県連の間で、調整が難航し、草加支部では知らない所で、竹村の推薦が決まったといい、分裂の様相だ。関係者は「共倒れの危険性もある」と嘆く。
▽優位と見られる現職は、民主の山川百合子と公明蒲生徳明の2人で、ともに4選を目指す。山川は市議の夫が維新から国政に出たため、けじめを取って民主を離党したが、県議選を前に復党した。その離党と復党の影響が、選挙戦にどう出るのか。蒲生は組織票が頼りだ。
▽これに元市長の諸派木下博信、共産今村典子が加わったことで、戦いは混沌としてきた。
▽木下の支持者は、「いつまでも浪人のままではいけない」として県議選に転じるよう木下を説得し、木下もこれに応じて県議選に立候補した。「県政の立場から草加をよりよい街にしたい」と語った。木下は前回の市長選で3万2000票を獲得し、5万票を集めた現職に敗れた。陣営には想定外の大差だったが、現職は自民、民主、公明、社民の推薦と共産の支持を得て当選したが、今回の県議選では自民、民主、公明、共産の票が分散される。木下は保守票をどこまで得るのか。
▽また前回は候補者を見送った共産は、昨年12月の衆院選で3区(越谷、草加市区)の候補者が、草加市区で1万5000票を獲得した勢いで、元市議の今村を擁立した。「党勢の回復の波に乗った」と見られており、組織票のほか、山川の票を食っていくと関係者は見ている。「反自民の票を、山川ではなく、今村が獲得する可能性もあり、山川も安泰ではない」と地元関係者は解説する。
▽前回は4人が立候補し、蒲生が1万5960票を取って、3位に滑り込んだ。今回は7人が出るため、当選ラインはかなり下がると見られている》

▽ただしこの予定稿は、デスクの判断で使わなかった。要するに自分が想像していたような話ではなかったためだろう。思い込みが激しいデスクだと、それを修正することが難しいことを実感したやりとりだった。
▽また後日談だが、この選挙区取材をベテランの記者に引き継いだのだが、このベテラン記者は何も取材をせず、選挙の最中なのにゴルフを行くなど、サボり続けた。

◎参考文献→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」(東京図書出版)


★507新聞社は問い合わせに課金すべきだ

▽新聞社の地方支局では、さまざまな問い合わせの電話がある。私が現役記者の時も、問い合わせには丁寧に答えてきたが、それでも限界はある。こんな時はどうすべきか。
▽埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時の話だ。朝日埼玉埼玉版に、あるイベントの記事が載った。これを見た読者と名乗る男性から、支局に電話が入った。このイベント会場の電話番号を教えてくれと言うのだ。記事には番号がなく、私はパソコンでネット検索をし、調べた。しかし該当する番号がない。そこで電話番号が見つかりません、と答えたら、相手は電話を切った。電話の向こうでは、
「使えねぇなぁ」
という声が聞こえた。
▽恐らくこの男性は、カーナビに電話番号を入力して、車で行こうと考えたのだろう。しかしイベントの主催者の番号がなければ、住所で調べればいいだけの話だ。新聞社だったらすぐに答えてくれると思ったのだろう。
▽このような電話が地方支局には多くかかってくる。ある時は、新聞記事のデータベースを調べるよう要求してきたり、ある時はクイズの回答を求めてきたり、様々だ。特にデータベースの使用を求めてくるのは、常連の人たちで、地域の歴史を調べていたり、個人史を出していたりと、新聞社を無料で使える組織だと思い込んでいるから、厄介だ。
▽新聞社は少なくともこうした問い合わせに対しても丁寧に調べて答えているが、時間もかかるし、調べる内容も大変だ。パソコンでデータベースにアクセスしたり、支局の書棚から過去のスクラップ帳を開いたり、集刷版を見たり、かなりの時間と手間がかかる。調べた結果を逆電で伝えることもしばしばだ。仕事の最中にこうした電話が入ると、仕事を中断する必要もある。
▽そこで私は言いたい。こうした問い合わせに対しては、課金せよと言いたい。無料の時代は終わったのだ。
▽本来、新聞は紙面に出た記事がすべてだ。その記事以外のことには答えられない。知りたいのなら自分で調べるか、出来ないなら、お金を払って、サービスを提供してもらう、のどちらかだと私は思う。データベースにしろ、外部からのアクセスは有料だし、無料という時代はもう終わっているのだ。
▽情報には金がかかるということが読者にはわかっていない。
▽問い合わせに対して課金を始めれば、無理難題な問い合わせもなくなってくるだろう。
▽新聞はタダではないのだ。このことを読者ももっと知ってもらいたい、と思う。

★503佐渡で育んだ「学校蔵の特別授業」

▽私の書棚に、こんな本が残っている。「学校蔵の特別授業」(尾畑留美子、日経BP社)。今回はこの本を紹介しよう。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時のことだ。佐渡市とは、日本海に浮かぶ孤島、佐渡島のことだ。フェリーだと新潟港から2時間半もかかる遠い島だ。この島にはいくつかの酒造会社があり、その一つが尾畑酒造だ。朝日新聞佐渡支局がある両津地区とは正反対の真野地区にあり、「真野鶴」などの日本酒を生産している。
▽その尾畑酒造の平島健社長、尾畑留美子専務の夫婦が立ち上げたのが、「学校蔵プロジェクト」という企画だった。同市の廃校になった小学校校舎を利用して造った酒蔵を舞台に、実際に酒を造り、その酒蔵で酒造りを体験し、古い教室を利用して国内外の参加者を募った特別授業で講師役とともに佐渡や地方の将来を語り合う空間だ。
▽学校蔵の特別授業には、私は何回も通って取材し、体験している。日本一夕日が美しいという小学校の廃校を利用した、一種の地域おこしで、行政にも頼らない、自分たちの空間だった。
▽その留美子専務が初めて出版したのが、本書だ。その講師のうち藻谷浩介、酒井穣、玄田有史の3氏を再度インタビューし直し、対談の形でまとめた。一貫して流れているテーマは、佐渡の将来、地方の将来、都市の将来をどう生きていくか、という点だ。藻谷は東京の30年後を佐渡が先取りをしている、として、地方と都会の関係を謎解きしてみせた。示唆に富んだ内容になった。酒井は学校蔵を「いい大人がわくわくして秘密基地を作った」と表現し、今後の活動を期待した。玄田は地方へのVターン、Sターンを薦めた。本を読んでみて、とても素人が書いたとは思えない、完成度の高い読み物になっている。

▽私は新聞では以下のように書いた。
《佐渡市の酒造会社、尾畑酒造の社長平島健さん、専務尾畑留美子さん夫婦が立ち上げた「学校蔵プロジェクト」は、同市の廃校になった小学校校舎を利用して造った酒蔵を舞台に、実際に酒を造り、その酒蔵で酒造りを体験してもらい、古い教室を利用して国内外の参加者を募った特別授業で講師役とともに佐渡や地方の将来を語り合う、夢ある事業だ。その留美子さんが初めて、そのプロジェクトを紹介する本を出版した。「学校蔵の特別授業▽佐渡から考える島国ニッポンの未来」(日経BP社)。地方の将来をどうみるか、完成度の高い読み物になっている。
▽本書では昨年から出荷を始めた日本酒「学校蔵」の製造など学校蔵プロジェクトの立ち上げの紹介と、特別授業で講師となったうち、日本総合研究所主任研究員の藻谷浩介氏、BOLBOP代表取締役CEO酒井穣氏、東大社会科学研究所教授玄田有史氏の3人を再度インタビューし直し、対談の形でまとめた。一貫して流れているテーマは、佐渡の将来、地方の将来、都市の将来をどう生きていくか、という点だ。▽地方問題を専門に研究と提言を続けている藻谷氏は、地方は東京より遅れていると人は言うが、地方は高齢化の進行が東京より進んでいるだけで、東京の30年後を佐渡が先取りをしている、と言い切った。地方と都会の関係を謎解きをしてみせ、示唆に富んだ内容になった。酒井氏は学校蔵を「いい大人がわくわくして秘密基地を作った」と表現し、学校蔵の今後の活動を期待した。「都会より地方の方がグローバル」と主張し、地方の将来に期待を寄せた。食文化にも触れて、地元食材を使って職人が作る寿司とフレンチが地方で増えると売りになり効果的という持論も展開した。玄田氏は実際の特別事業で希望をテーマにして、地元の高校生が発言したことを振り返り、学校蔵の特別授業の効果を評価した。若い世代に生まれ故郷ではない地方へのVターンを薦めてみせた。
▽実際の特別授業は昨年8月と今年6月に行っており、留美子さんが学級委員として、「キリーツ」「礼」と呼びかけて始まっている。
▽本書では、留美子さん自身、都内の大学を卒業後、映画会社に勤めた後、故郷の佐渡市にUターンした経緯やその時の気持ちも綴っており、なぜ「5代目蔵元」になったかも赤裸々に綴っている。映画会社の就職時の面接試験では、佐渡島に映画館はないことと、特技はきき酒と話してこの二つの話で盛り上がって、定員一名の狭き門を勝ち取ったエピソードも紹介している。
▽留美子さんによると、今年6月に出版の話があり、8月、3人にインタビューした。プロのライターを介しての原稿書きをしないで、すべて自分で原稿を書いた。「多忙多彩な3人だったので、インタビューが出来ただけでも、大変なことでした。おこがましいが、3人は似たことを話しています。地方の現実と将来像を希望を持って語っています」と留美子さん。
▽出版後、都内のイベントで本を読んでくれた女性が「地方に行く勇気をもらいました」と言ってくれた。「地方賛歌でも地方移住の薦めでもありません。どちらかと言うと、地方通いの勧めかな。地方で生活する人の背中を押すことにでもなればいい」と話す。
▽本書は1600円プラス税。全国の書店で販売している》

▽地方転勤を嫌がる朝日新聞記者は多いが、地方には地方で育んだ共同体がある。それを発見し、取材することも大切な新聞記者の仕事だ。
▽今回はそのことを強調したいために、このコラムを書いた。


★499「過去の大先輩以来だ」と読者から届いた手紙

▽自宅の自分の部屋に保管していた過去のスクラップ帳を取り出して、ある手紙を探していた。私は現役の新聞記者時代、いただいた手紙などを、スクラップ帳に挟むことにしていて、時代背景が分かるようにしていた。しかし、なかった。見つからなかった。読者から届いた手紙だった。
▽新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡市局に赴任してから1年が経ったころだった。ある読者から、丁重な手紙をもらった。詳しい内容は覚えていないが、私が佐渡支局で取材し、書いてきた記事を賞賛してくれる内容だった。こそばゆい内容だったが、うれしかった。悪い話ではなかった。
▽その手紙の中で、その読者は「工藤さん以来だ」と言ってきたのだ。
▽ここで「工藤さん」を説明する必要があろう。工藤さんとは、工藤宜・元週刊朝日編集長で、ニューヨーク駐在員を務めた後、佐渡駐在員となった。確か編集委員の肩書きを持っていたはずだ。
▽東大新聞オンラインに掲載された記事から引用する。

《ニューヨークで2年あまりを過ごし、日本に戻った工藤氏は、空きが出るという噂を聞きつけて、みずから新潟・佐渡の駐在員を志願します。佐渡駐在とは、住居兼事務所の建物で、ひとりで仕事をすることになります。通常は、入社して間もない若手社員が経験を積むところでしょう。

そこへなぜ工藤氏が志願したのか、詳細は不明ですが、佐渡駐在中に佐渡の文化や生活を取材したルポルタージュを新潟の新聞に掲載します。
1980年、その記事は新潮社より『佐渡にんげん巡礼』(工藤宜著・右画像)として出版されました。
40万字にもわたって、佐渡の人びとの悲喜を記した本書は、のちに大宅壮一賞の最終候補に選ばれ、著名作家たちから高い評価を得ています。
この書籍には、工藤氏の人びとに対する愛情と、その実態を報道しようとする意気込みが余すところなくちりばめられ、ジャーナリストとしての本来の姿を実現しているものと感じます。
組織ぐるみの思惑に巻き込まれ、ジャーナリストとしての使命を抑圧された経験を持つ工藤氏にとっては、佐渡での取材と報道に明け暮れる生活は至福の時だったのかもしれません。

工藤氏は2013年4月、83歳で他界されました。
(取材・文▽古関夢香)
※この記事は、東京大学大学院情報学環教育部の授業の一環で執筆されました》

▽もう分かるだろう。朝日新聞の大先輩で、大物記者なのだ。年代的には、私が佐渡支局に赴任する2年前に亡くなっていて、既に歴史的人物だった。
▽その人物と比較されるのだから、こそばゆい。30−40年前の大先輩以来というのは、それだけ私の記事にインパクトがあったということなのか、と自問自答してみた。
▽過去のスクラップ帳やデータベースで見ると、その工藤さんの記事は、通常の一般の通信局長の記事と違って、テーマを絞って記事を書いていた。通常の地方の記者ならば、地方議会や街ダネ、事件事項を追うのに、そんな事はほとんどしてなかった。代わりにあるテーマを絞って、記事を書いていた。そんな記事が地元の読者に記憶として残っているだろう。
▽とても私にはそんなことはできない。赴任して1年間、地元では地元市議会、選挙、事件事故を追ってきた。佐渡特有の話も書いた。国の特別天然記念物トキの再生事業、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんの話、佐渡金山の世界遺産登録問題などを取材してきた。そんなことを評価してくれる読者がいて、私は少し嬉しくなった記憶がある。
▽にしても、その手紙どこに行ったのか。


★496うなぎ屋で自民党職員と総選挙の情報交換

▽自民党中央の党本部の職員が私を名指しして、「会いたい」と言ってきたのはその年、1989年の夏前だった。その年は夏に、3年に1度の参院選があり、定数2の埼玉県選挙区では、自民候補が危ないとされていて、自民党が朝日新聞記者である私に、情報交換を持ちかけてきたのだ。
▽その年の参院選は、当時の社会党が急上昇中だった。
▽リクルート事件に消費税、さらにはリクルート事件で退陣に追い込まれた竹下登に代わって総理大臣に就任した宇野宗佑の女性問題などが焦点となる選挙だった。
▽時は昭和から平成に入り、最初の国政選挙だった。
▽実際の選挙戦に入っても、その社会党に対する有権者の反応は熱いものがあった。
▽選挙カーで回っていると、道ばたの有権者の多くが手を振ってくれる。
「こんなに手を振ってくれる選挙は初めてだ」
▽知り合いの社会党職員は、当時こんなことを述べていた。
▽指定された場所は、浦和市(当時・現さいたま市)内の有名なうなぎ屋だった。市内にはうなぎの専門店や料亭が多くあり、その中の一つだった。
▽私は社内の仲間と相談しながら、どういう態度で臨むか考えていた。
「自民候補が危ないので、それがどのくらいのものなのか、彼らは知りたがっていたのだから、正直に情報交換していい」
とアドバイスされ、私はその仲間とそのうなぎ屋に行き、ビールを飲み、うなぎをつつきながら、自民党職員のと話を情報交換した。
▽その時の埼玉県内の選挙状況は、社会党の勢いが強く、自民が弱かった。その状況をかなり正確に自民党職員に話した。自民党職員はうなずいていた。
▽2時間ほど話した後別れたが、「ありがとうございます」と丁寧に挨拶をしてくれた。自民党も必死なんだ、と私は思った。
▽自民党職員が、朝日新聞記者の私を指名したのは、今考えれば、かなり正確な記事を何回も報じていたためだと思った。その当時の読売新聞や毎日新聞は、私が見ていてもお粗末な取材に終始していた。だから読売新聞でもなく、毎日新聞でもなく、朝日新聞を指名して、情報交換しようというのは筋が通っていた。
▽実際の埼玉選挙区の構図は、以下のようなものだった。
▽定数2に対して、12人が争い、社会党の深田肇が圧勝し、後に県知事となる参院議長の土屋義彦が5期連続で当選した。県医師会長も出馬したが、落選した。
▽自社両党が2議席を分け合ったが、全国的には自民党は惨敗した。
「山が動いた」
▽結果として、社会党が大勝し、当時の土井たか子委員長は、こう評した。消費税問題とリクルート事件が大きな争点となり、自民が大敗し、衆参ねじれの状態に追い込まれた。
▽私は朝日新聞浦和支局で県政担当記者として、社会党の勢いを肌で感じながら、既にその凋落の小さな芽が出ていたことに、当時は気づいていなかった。組織の硬直化だった。
▽結果として、翌年の総選挙は社会党が大敗し、その後、社会党連立政権が生まれるものの、組織はほぼ崩壊し、現在に至っている。
▽地方の現場にこそ、その後を占うヒントがあるのだ。そう感じるようになったのは、かなり時間が経過してからだ。
◎参考文献→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」 


★493地方で作った使えない通帳とキャッシュカード

▽朝日新聞を退社するにあたって、いろいろなものを断捨離する作業をしてきた。数多くあったカメラや使わなくなっていたパソコン、その他の取材道具、衣類を売ったり捨てたりしてきた。しかし、捨てられずに残っているものもある。そう、地方勤務で作った地元銀行の口座の通帳やキャッシュカードだ。解約作業もうっとうしく、そのまま放置している。
▽転勤で地方に移住すると、借りたマンションの家賃や電気や水道などの光熱費の引き落としを地元銀行の口座で行う。その契約をする。そして転勤になると、その口座は使わなくなるのだが、家賃や光熱費は1カ月から2カ月遅れで引き落としとなるので、口座の解約ができないまま転勤になる。銀行口座は解約しないで、家賃や光熱費の分だけを口座に残しておく。すると、その残高は1000円未満の数百円が残ってそのまま至っている。
▽そんなことを繰り返して、転勤し、そして会社を辞めて今に至っている。
▽1000円未満の残金は、小銭だ。小銭は現在動かすと利用料がかかる。それゆえ、転勤してから口座はそのままだし、キャッシュカードも使えないままになっている。
▽例えば、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡に勤務している時に、取材で使うマイカーの購入でローンを組んだ。そのローンの引き落としは、地元の農協で行った。新たに口座を作り、引き落としを毎月していた。ローンは5年間で組んでいたから、佐渡支局から転勤し、埼玉県秩父市の秩父支局に赴任し、さらに退社してもローンが続いた。やっとローンが終わって、残った残金を1000円単位で下ろしたら、残り数百円になり、そのままにした。佐渡まで行って解約するのも面倒だし、郵便でやっても手数料がかかる。数百円がもったいない話だ。
▽こうして私名義の通帳とカードが、何枚もある。しばらくすれば、休眠口座となり、数百円のカネが国家に回収されるんだろうか。悔しいが地方銀行の口座は、断捨離できないままにいる。郵送で解約の手続きをしても、時間もかかるし手続きにカネがかかりそうで、躊躇している。
▽銀行には転勤で引っ越したことも伝えてないし、新しい住所も教えてないので、そのまま休眠口座となっていくのだろう。もったいない話である。


★491自転車も地方では不便で危険な乗り物だった

▽近場での取材の移動や買い物に便利だろうと、支局時代に自転車を購入した。しかし結果として、ほとんど使わずに支局生活を終えた。不便で危険だった。
▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局時代のことだ。いわゆるママチャリを購入した。近くでの取材なら、マイカーでの移動より、自転車の方が便利だと思った。
▽しかし、購入してから、困ったことがあった。自転車の置き場がないのだ。マイカーの駐車場は道路に面していて、防犯上、危険だった。鍵を掛けたとしても、盗まれる可能性がある。仕方なく、玄関の内部に置くようにした。そのため、使う度に、いちいち玄関から出すという労力が生まれてしまい、便利さからは遠のいた。
▽オマケに、秩父市は坂道が多く、自転車の運転には向かなかった。下り坂はいいが、上り坂になると、力を入れてペダルをこぐ必要があり、疲れた。買い物かごには取材道具を入れているから、ペダルが重かった。
▽さらにいうと、自転車のレーンがないから車道を走ると、ギリギリの距離感でクルマが通過するから、かなり危険だった。地方のドライバーはマナーが悪いし、いつぶつけられるか不安になった。
▽最初は毎日のように使っていた自転車だが、次第に使わなくなり、1カ月に1回ぐらいの利用率になっていた。
▽便利なようで、不便なのが自転車だった。坂道が多い街での運転は疲労感も出るし、道路が狭いと、危険な乗り物であることも実感した。
▽私自身、マイカーを運転していると、自転車がいつ、こちらに倒れてこないか心配になる。それだけ、危険なものに映っていることを再認識した。
▽結局、取材の移動はマイカーになってしまい、何のために購入したのか、と自問自答していた。
▽特に雨の日、雪の日は、自転車はさらに危険な乗り物だ。


★485新人記者の評価は危険だ

▽地方に勤務していると、入社1年生への値踏みを始める輩が必ずいる。「彼は出来るな」「彼女は伸びないな」などと早くも評価して、その新人記者の将来像まで描いてしまうのだ。私は心の中で「かわいそうだな」と同情してしまう。
▽入社して1年にも満たない新人記者を、「出来る」「出来ない」と決めつけるのは、早計すぎると私は思う。確かに1年生なのに、想定外に面白い原稿を書く記者がいる一方で、何を取材させても、原稿の完成度が低い記者もいる。
▽だが、そうした「出来る」と言われた新人記者が10年後にどうなっているか、点検したことがあるだろうか。ある県庁所在地の総局で「新人としてはできすぎる」と評価された男性記者を、デスクが「出来すぎ君」というニックネームを引き継ぎメモで書いていた。私から見ても出来すぎという感じだった。しかしその後、その彼は転勤の末に本社に上がったが、最近は全く記事を見なくなった。全くと言っていいほど、原稿を書いていないようだ。署名など見なくなった。そう、10年が経過すると、「出来る」と言われた記者も、「出来なく」なるということだ。10年ぐらい経過すると、本物かどうか見えてくるのだ。
▽逆に「出来ない」と言われた新人記者はどうか。10年が経過し、20年が経過して、その彼は今でも署名記事を1面や総合面など書き続けている。
▽要するにわずか1年も満たない記者を「出来る」「出来ない」と決めつけるのは危険なこと、ということだ。
▽私の経験で言えば、自分なりの取材をして、自分の考えで自分の文章を書くということが出来るようになるのは6〜7年はかかる。私の場合は10年近くかかった。書いた原稿はボツにされ、書いた原稿はクズに入れられた。書いた原稿はデスクに直され、そうして訓練されて、原稿を書き続け、文章を練ってきたものだ。
▽もう分かるだろう。新人記者を値踏みしてはいけない。貴重な戦力だと思って、訓練していけばいい。
▽ただし、最近の職場環境は悪い。最近の地方での原稿訓練の現場を見ても、若い記者に対する原稿の訓練が出来ていないように思える。デスクは原稿をパソコンで直すだけで、具体的に若い記者に対して原稿の表現を指導してるのはあまり見たことがない。デスクも指導するのは面倒くさいのだ。昔だったら、デスク席の横に立たせて、説教して原稿の書き直しをしていたが、今は出てきた原稿を書き直すだけだ。デスクが全部直してしまう。だから記者が育たないのだ。
▽逆に言うと最近の若い記者は、自分はもう原稿ができると思って勘違いしている。だから文章は下手だ。こんな原稿がよく紙面化されるなと思うことが時折ある。こんな記事がなぜ出てくるの、と私は思ったこともある。記者の訓練が地方では出来なくなっているのだ。これが怖い。

★483サッカーW杯取材余波、レッズを愛した1人の女性の死

▽サッカー取材は、何も試合会場だけではない。会場外でもいろいろな話題を提供してくれる。今回は、私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時の話だ。
▽2010年のサッカー・ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で、Jリーグ浦和レッズ出身の選手が活躍するシーンを夢見ながら、白血病のため、日本代表戦直前に亡くなった女性がいた。自ら書き続けたブログでは、MF阿部勇樹選手が選出されたことを喜ぶなど、一サポーターの気持ちをつづる一方で、自らの闘病日記も克明に書き続け、友人たちの涙を誘っていた。
▽三郷市の女性、佐藤亜希子さんは白血病のため都内の病院で亡くなった。享年33歳。両親と妹に看取られた。
▽私はこの両親や妹、友人に取材していた。
▽前年4月に発症し、入退院を繰り返したが、年末には一度退院し、完治したと本人も周囲も思っていたが、その年5月の検査で再発が分かり、入院。急激に容体が悪化した。
▽私は記事で以下のようなことを書いた。
▽彼女が残した遺品の中に、サッカー浦和の練習場で選手と一緒に写した写真や、毎日のように書いたブログの日記があった。
▽ブログにはこう書かれていた。W杯代表選手が選ばれた時だ。FW田中達也選手を「田中姫」と、サポーター仲間で使うニックネームで表現した。
▽「レッズからは阿部が選出。そうだったらいいなと願っていた田中姫は?人にははいれませんでした。阿部については素直に『おめでとう!』と祝福したいのに、田中姫が落選したショックが大きくてどうも胸の内は『だから代表ってさぁー』という想いがぬぐい切れません」(5月)
▽「阿部には田中姫の分も、そしてレッズの代表としてぜひ頑張ってきてもらいたいです。W杯のピッチに立つ阿部の姿をもの凄く楽しみにしています」(同)
▽その阿部は、彼女が亡くなった翌日からののカメルーン戦、オランダ戦では、守備的ボランチとして相手の攻撃を封じる活躍を見せた。その活躍を見ることなく亡くなったことになる。
▽またブログでは、再び入院した事実をこうつづった。
▽「今日からまた闘病生活のはじまりです。イヤでイヤでたまらないのですが、やるしかありません。今、私の体は確実に死へむかっていってますから。(中略)全然自覚症状がなかったんですけど、体のなかはとんでもないことになってたんですねー」(5月)
▽「熱に苦しめられています。昨年だったら、こんなの序の口だったんですけど、久しぶりはやっぱり辛い。ホリーがスタメンなので、私も熱に負けないようにしないとなあ……」(5月)
《「ホリー」とは、Jリーグ浦和のDF堀之内聖選手のことだ。彼女が最後に熱中した選手で、同選手の両親が経営する靴店に頻繁に通うようにもなっていた。亡くなる前には同選手から携帯電話にメッセージをもらい、「最高のプレゼント」と喜んでいたともいう。
▽ブログの日記はこの5月を最後に終わっている。「まさか娘がこんなにサッカーにのめり込んでいるとは知りませんでした。娘が愛したサッカーを、今度は夫婦で見たいと思っています」と父親は言う。
▽彼女がサッカーに関心を持ったのは、大学を卒業後にしばらくして勤め始めた新聞社編集アシスタントで、職場の仲間からJリーグ浦和の試合に誘われてからだ。2003年ごろだった。
▽当時の仲間だった友人によれば、いやがる彼女を無理やり誘った。そして次第にはまるようになり、浦和のサポーターとなったという。当初はホーム戦だけだったが、時間があれば、アウェー戦にも行くようになったという。新聞社アシスタントの契約を終えて、職場が情報誌編集部に変わっても交流は続いた。友人は「彼女のレッズに対する情熱は、私にはとても及ばないが、試合の時はいつもそばにいると思って、彼女の分まで応援していきたい」と話した》

▽彼女が書いたブログは「ありがとう浦和レッズ」として書籍化された。

★475「このほど原稿」と「日付原稿」の違いと違和感

▽最近の新聞地方版を読むと、イベント等の取材記事で、日付のない原稿がよくあることに気づく。例えば1日に開かれたイベントなら、「1日開かれた」と書くべき原稿なのに、その「1日」という日付がないのだ。この日付がない原稿が最近多くなり、気になっている。
▽私も経験があるのだが、全国紙の地方版の原稿は県内各地の記者が書いてくるため、その日1日ですべてを掲載できない場合がある。掲載できない原稿はデスクがパソコン上で保管し、取り置き原稿となる。取り置かれた原稿は早ければ翌日に掲載されるが、何日たっても掲載されない原稿も出てくる。
▽こうした原稿はデスクが紙面化する場合に、その日付を外して、以前なら「このほど」と書き直して原稿は掲載された。つまりイベントが「1日開かれた」ではなく、イベントが「このほど開かれた」となるわけだ。
▽このようにして、以前の地方版では「このほど原稿」がかなり多かった。「このほど」とすることで、日付を曖昧にし、記事の鮮度をごまかしていたわけだ。本来はイベントが開かれた翌日に載せるべきなのに、掲載できず翌日以降になるため、ニュース鮮度をごまかすために「このほど」と書き直しているわけだ。
▽これを読者から見れば、これほどいい加減なことはない。「このほど」と書くことで、このイベントがいつ行われたか分からないのだ。記録からするととんでもない発想だ。新聞社側にとっては「このほど原稿」は都合良いスタイルだが、記録として見ると実に都合悪い事なのだ。何年も経過してこの記事を読んだとすると、日付がないことで記録性を失う意味を理解できるだろうか。
▽遅れた日付を書くことによって、原稿の鮮度は失われるが、それでも日付は付けてもらいたいと思う。
▽そして最近はこの「このほど原稿」も見る事はなくなった。代わりにあるのは「日付」も「このほど」もない原稿だ。イベントは開かれたと書くだけで、いつ行ったのか全くわからないのだ。つまり鮮度が悪くなることを考慮して、日付すらなくなってしまう記事が最近増えている。これは新聞の記録制からすると重要な誤りだ。
▽原稿の書き方を工夫して、「このほど」も「日付」も前文に入れず、本記の中で日付を入れる工夫をしてもらいたい。こんな工夫すら最近の地方デスクはできないのだろうか。残念だ。

★472公安委員長を決めるのはだれだ

▽地方を回って、県庁所在地の総局でデスク当番に就くと、新人記者のトンデモナイ原稿に出くわすことがある。何が間違っているか新人の先輩も教えないし、新人も県警や県庁の組織のことを分かっていない。それなのにストレートに書いた原稿をそのままデスクに対して出してくるから、デスク席に着席した私には、「大丈夫か、こいつは」と思ってしまうことも何回もあった。
▽ある県庁所在地の総局でデスク当番をしている時だった。入社1年目の女性記者が書いていた原稿に驚いた。
「県警は、X氏を県公安委員長に決めた」
▽こんな原稿だった。公安委員会の委員長は、公安委員会が決めるのであって、県警が決めるものではない。公安委員会が互選して委員長を決めるだけの話だ。
▽これを県警が決めた、となっていた。どうしてこんな原稿になるのだろうか、と私は思った。
▽おそらく県警が発表したペーパーにこう委員長が決まったと書いてあったのだろう。それを充分確認しないで、県警が決めた、と決めつけて書いてきたのだろう。
▽こんな新人の原稿を、本来なら県警キャップが点検し、注意し、指導し、書き直すべきなのに、いきなりデスク当番の私に飛んでくるのだから、たまったものではない。
▽しかも朝刊締め切りのギリギリの時間で飛び込んできたから、私は注意もせず、叱りもせず、原稿をそのまま直した。
「公安委員会がX氏を委員長に決めた」
という原稿を直して、リリースした。
▽おそらくこの新人の女性記者は、公安委員会や県警、県庁の組織や会議、議会のことを全く知らなかったのだろう。
▽知らないなら知らないで、調べるべきである。勉強すべきである。
▽こんな原稿がそのまままかり通って、紙面化されたなら、その記事は訂正を出さなくてはならない。たかが短い数行の記事だが、こうした間違いが出てきたのは、基本中の基本も知らない、と言うことに尽きる。私はもっと注意すべきだったかなと、今では思っている。甘やかせてしまった。
▽たかが短い原稿だと言うなかれ。こういう原稿にこそ、基本が分かっているか、分かっていないかが露呈されるのだ。
▽選挙だってそうだろう。地方選挙で、「当打ち」が出来ない記者が、国政選挙で当打ちなど出来ない。そんなことが分からないまま政治部デスクになった人間もいたが。
▽その女性記者は周囲にちやほやされて、その後別の総局を経て、東京本社に上がった。こうやって育っていくのだろうけど、もっと勉強してもらいたかったと思う。地方できちんとした事柄、組織図を学ばないと、最終的に本社でも失敗する例を私はいっぱい見ている。基本が分かってない記者が東京本社でも多かった。
▽地方は新人記者を鍛える大きな空間でもある。そのことを、会社幹部はもっと肝に命じてほしい。私はそう思っている。

★471演歌歌手丘みどりさんと佐渡島

▽NHK紅白歌合戦に出場を果たし、最近は歌謡番組に出るなど、地道な音楽活動を続けている演歌歌手丘みどりさんは、新潟県佐渡市の佐渡島と縁がある人だ。佐渡をテーマにした歌もあり、佐藤を訪れ、ミニコンサートなどを開いてきた。
▽私が朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、こんな原稿を2017年12月に書いている。

《演歌歌手丘みどりさんが31日のNHK紅白歌合戦に初出場し、佐渡を舞台にした持ち歌「佐渡の夕笛」が披露されることになった。これを応援するため、佐渡市は25日、同市両津地区の複合施設「あいぽーと佐渡」でパブリックビューイングを開くと発表した。「佐渡の名前が全国的にさらに広まる」と同市は期待している。
▽兵庫県姫路市出身の丘さんは、幼少より民謡を歌い始めて、小学5年生の時に出場した「兵庫県日本民謡祭名人戦」で史上最年少優勝をした。その後演歌歌手を目指して、2005年に、佐渡をイメージした「おけさ渡り鳥」で演歌歌手デビューした。これまでに「北国、海岸線」「木曽恋がらす」などの曲を出している。昨年出した「霧の川/別離の切符」はオリコンランキング1位になるなど、注目される演歌歌手の1人になっている。紅白歌合戦で歌う「佐渡の夕笛」は今年2月に出した曲だ。
▽5月には佐渡市役所に三浦基裕市長を表敬訪問し、今後出すアルバムのジャケットに佐渡金銀山の世界遺産登録を訴えるシールを貼ることや、宣伝プロモーションなどで宣伝活動をしていくことを約束し、佐渡のつながりを深めた。6月には、同市の金井能楽堂でミニコンサートを開いた。コンサートを前に、佐渡金銀山の一角、北沢浮遊選鉱場跡を初めて訪れ、「(国の特別天然記念物の)トキを見ることが出来れば、願いもかなうというので、私の願いもかなえればいいと思う」などと述べた。報道陣に、「願いとは何か」と問われた丘さんは、年末の紅白歌合戦に出場することだと断言。その夢が叶ったことになる。
▽出場は決まったが、曲名が佐渡の関する歌になるかどうかはなかなか決まらず、発表が23日にやっとあった。
▽丘みどりさんのファンだと断言している同市の伊藤光・副市長は朝日新聞の取材に対して、「デビュー曲も、今回歌ってくれる歌も佐渡の歌。縁を感じます。私は元々そんなに演歌は好きではなかったのですが、彼女の歌はいい。上手だ」と褒めちぎった。
▽パブリックビューイングは31日午後7時から、入場無料。収容人数は250人を限度としている。餅や甘酒などの振る舞いも予定しているという》

▽丘さんと佐渡市が良好な関係を築きつつあることが分かるだろう。
▽残念だったこともある。丘さんと佐渡市の間で、「丘さんを佐渡の観光大使に」という話が持ち上がったが、実現しなかったことだ。本人もプロダクション側も、そして佐渡市も乗り気だったが、金銭面で折り合いが付かなかったらしい。後に聞いた話によると、丘さん側が要求した金額が高くて、財政難の佐渡市は応じることが出来なかったらしい。
▽せっかく佐渡の宣伝をしてくれるのだから、その話は実現してもらいたかった。残念な話だった。
▽丘さんには今後も佐渡をテーマにして歌を歌い続けてもらいたい。

★470私が勤務していた朝日新聞の支局はすべてが廃止されていた

▽朝日新聞が強引に地方の取材網を縮小していることは、このコラムで何回も触れた。改めて私が勤務していた地方支局、地方通信局を調べてみると、私が在籍していた支局と通信局の実に計6カ所が廃止されていた。異常と言うしかない。そこまで廃止するのは、経営が行き詰まっているというより、経営の誤算、経営方針の失敗、経営戦略のまずさだと私は思っている。
▽具体的に勤務していた地方支局・通信局を記していこう。朝日新聞はかつて県庁所在地にある支局を支局、数人の準支局も支局と呼び、基本的に1人勤務の場所を通信局、もしくは駐在を呼んでいた。それを10年以上前に、県庁所在地の支局を総局に変更、準支局をそのまま支局、通信局を支局に呼称変更している。

▽浦和支局→さいたま総局
▽塩釜通信局
▽本社
▽上越支局
▽北海道報道部
▽渋川支局
▽本社
▽東埼玉支局
▽佐渡支局
▽秩父支局

▽以上が私が在籍していた勤務地だが、このうちの本社と北海道報道部を除く、塩釜通信局、上越支局、渋川支局、東埼玉支局、佐渡支局、秩父支局の6カ所が現在なくなって廃止となっている。
▽戦後の高度経済成長期に全国紙はもちろん地方紙も部数拡大を目指して、地方取材網を拡張してきた。私が朝日新聞の振り出し支局となった浦和支局(現さいたま総局)時代、埼玉県内には浦和支局の他、熊谷には熊谷支局(後の北埼玉支局)、川越には川越支局(西埼玉支局)があり、このほか取材網として、川口通信局、大宮通信局、所沢通信局、越谷通信局、朝霞駐在、春日部駐在、草加駐在、上尾駐在などがあった。さらには県南東部を強化するため、途中から越谷市に朝日新聞東埼玉支局を造り、越谷通信局、春日部駐在、草加駐在を合体させた。
▽このように、地方取材網を充実させて、地方版である埼玉版も計四つの紙面を作ってきた。
▽それがどうだろう。大宮、上尾をかなり前に廃止し、西埼玉支局、被害埼玉支局も廃止し、川口、秩父もなくした。所沢、春日部は辛うじて駐在記者を置いているだけだ。

▽もう見ても分かるだろう。朝日新聞は全国的に地方取材網を激減させているのだ。毎日新聞も読売新聞もこんなことはしていない。
▽だから、最近の紙面を見ると、朝日新聞だけが記事を載せていなかったり、情けない記事を掲載している。現場に行っているとは到底思えない記事を載せるようになっている。取材網の劣化だ。
▽朝日新聞幹部はもう全国紙のステータスを捨てたということだろう。中央紙でいいと思っているのだろう。
▽しかしこれは絶対に失敗する。地方取材網を削減すれば、全国紙としての新聞の生命線が失われる。
▽このことが分かっていない。

★468地方でのマイカー取材の危険度と本社の違い

▽全国紙の多くは、新人記者にマイカーを買わせて、赴任した地方で、取材の移動手段としてマイカーを運転させる。マイカー運転は十分に気をつけても、事故に巻き込まれるのが可能性が多い。危険と隣り合わせで取材をしていることを、もっと多くの人間に知ってもらいたい、と思う。
▽多くの新人はまだ社会人になったばかりだから、金も持っていない。そこでマイカーを買う場合は、ローンを組んで買う。その買った車で、地方での取材を続ける。
▽地方の場合、遠い場所だと2時間も3時間もかかる場所に行くこともある。長時間の運転だ。疲労で居眠り運転することもある。危険な行為なのだ。
▽実は朝日新聞では過去に死亡交通事故を起こした記者が何人かいる。会社もその対応に否応なくしてきた。被害者からすれば、相手が朝日新聞記者だから、被害保証は大きくなることもあった。
▽一方で地方紙の場合だと一部の社だが、マイカー取材ではなく、社有車が記者一人一人に与えられて、記者たちは会社の車で運転し、取材をするケースを見てきた。北海道新聞、上毛新聞、新潟日報の地方取材がそうだった。それでも記者本人が運転するのだから、危険度は同じだ。
▽違うのはマイカー運転するのか、社有車運転するかの違いであって、マイカーだと大切に乗るが、社有車の場合だと意外に横暴に運転するから、車が傷つきやすい、という欠点がある。
▽私自身、各地でマイカー取材を続けていた。時折睡魔に襲われたことがある。その場合、車を駐車場に止めて10分か20分仮眠してから、運転を再開させた。運転で事故起こした場合、全て自己責任になるからだ。マイカー取材は危険が伴う。それをもっと知ってもらいたい、と私は思っている。
▽そこへ行くと本社の場合は、ハイヤーやタクシー、電車等が自由に使えて危険性は全くない。そこが羨ましかった。
▽ただし東京本社にいた時だったか、取材からタクシーで帰宅した記者が、道路を渡った時に別の車にはねられて、重傷を負い、記者に復帰できなかった人間がいた。そのまま退社を余儀なくされた悲劇だった。こんなこともあるから、車には気をつけたい、と私は思っている。


★464佐渡一周線をいつもクルマで走らせていた

▽新潟県佐渡市の佐渡島には、島を一周する県道佐渡一周線という道路がある。車で一周すると3時間半のコースで、朝日新聞秩父支局に勤務していた私は、週末の休みになると、マイカーでこの佐渡一周線を半周するか、一周して、土地勘を養うようにしていた。
▽この一周線の一部は、上下の車がすれ違うことが難しい狭い道路幅の所もあるが、整備されている場所が多く、交通量もそんなに多くなく、走りやすい。風光明媚な場所も多く、その景色を楽しみながら、車を走らせていた。ただし、田舎の島ゆえに、市街地以外にも集落が点在するが、コンビニや飲食店はほとんどなく、事前に食事を済ませたり、飲み物を持っていくという対策を取っていた。
▽そしてこの佐渡一周線は、毎年5月にある島の大イベントである自転車レース「佐渡ロングライド210」と、毎年9月に開催される「佐渡国際トライアスロン大会」のコースにもなっており、全国各地から集まった参加選手たちは、この約210キロの佐渡一周線を必死にペダルをこぎながら、走り続けてきた。所々にアップダウンがあり、車では苦にならないが、バイクレースにとってはかなり過酷なコースになっていた。
▽特にトライアスロン大会は、スイム(水泳)とバイク(自転車)、そしてラン(マラソン)の三つの種目に挑戦するが、最初のスイムが海水の温度に左右されることから、開催日を9月に決めており、残暑がきついと、バイクレースとランは、まさに過酷な鉄人レースの様相を呈していた。
▽私が勤務していた2018年には、4月にその一周線のうち、同市野浦地区で落石事故があり、自転車レース「佐渡ロングライド210」は、コースの一部変更を余儀なくされた経緯もある。長さ50メートルにわたって落石があり、その後も崖から落石する危険が続いていた。事故現場は両津港東側の姫崎灯台を最北端にした半島の東側の一周線の南端部分で、周囲に迂回路がなく、半島をショーツカットする山道である県道赤玉両津港線を使った。
▽県佐渡地域振興局によると、対策として佐渡一周線野浦から東強清水区間を全面通行止めとする一方、落石防止対策工事を進めてきた。落石の発生源対策としてモルタルを吹き付け、ロープで固定させた。その上で落石防護網で補修工事を続けた。同振興局は工事完了の目途が立ったとして、全面通行止め解除を決めた。このため9月の佐渡国際トライアスロン大会はコース変更はなくなった。
▽当時、こんな原稿を書いている。
《新潟県佐渡市野浦地区の県道佐渡一周線で発生した落石事故で、県は7月5日、同地区の全面通行止めを13日午後4時から解除すると発表した。対策工事が進んだためで、地元住民の生活も元に戻るとともに、今年9月2日に実施される佐渡国際トライアスロン大会は、コース変更をすることなく開催されることになり、関係者もホッとさせている》
▽毎年5月と9月は、佐渡島に自転車が各地から集結する季節でもあった。

★462選択定年で辞めた記者の穴埋めをしない会社の滅茶苦茶な論理

▽業界の斜陽化と経営の悪化で、朝日新聞はここ数年、毎年のように早期退職希望者を募ってきた。早期退職すれば、退職金の上乗せや企業年金の積み上げなどがあり、それに応じて早期退職した社員は多い。最後は勧奨退職まで言われた人間もいる。私の友人も後輩も次々と辞めていった。
▽そんな状況の中で、ある県内の1人勤務の支局長が選択定年で辞めた。
▽問題はその1人支局の支局長の補充だった。1人の記者しかいないのだから、後任の補充者を探して赴任させるべきなのに、会社側それをしなかった。事実上の人減らしだった。
▽その時の会社の説明がおかしかった。
「選択定年だから、後任者は置かない」
▽その発言を聞いて私は驚いた。そして怒りを持った。
▽選択定年すれば補充者はかない、という論理がまかり通るなら、本社の社会部長が選択定年で辞めたら、社会部長の席は空白にするべきなのか。
▽こんな論理がまかり通っているところに、朝日新聞の病巣がある。選択定年、イコール、削除という論理を社員に押し付けたのだ。
▽そして、その論理をだれも疑問に思わなかった。その1人勤務の支局長が抜けた時、県庁所在地の総局長が話したのは会社と同じ論理だった。
「選択定年だから、補充しない」
▽では聞くが、その空白になった1人支局の取材カバーはだれがするのだろうか。労働強化になるのは、部下の総局員や隣接の支局長だ。そんな説明もしないで、会社幹部の論理を繰り返すとは情けなかった。
▽もう一度言おう。社長が選択定年で辞めたならば、朝日新聞は社長を空白にするのだろうか。編集局長が選択定年で辞めたら、編集局長のポストを空白にするのだろうか。そんなことは絶対ありえないのだ。
▽こうして朝日新聞は見えすいた人事の論理を押しつけてくる。地方支局は疲弊している。そのことを痛感した人事だった。


★460一人勤務支局のメンテナンスの苦労

▽朝日新聞はかつて1人勤務の前線基地を「通信局」と呼んでいた。それが「支局」と呼ぶようになり、1人勤務の支局長は、その支局管内の取材をするとともに、支局のメンテナンスのすべてを任せられることになる。「任せられる」という表現は正しくないかもしれない。そうではなくて、丸投げされるのだ。特に大変だったのは、支局の敷地にある雑草取りと雪かきがあった。
▽1人勤務だから、当然ながらアルバイトもいない。家族同伴者ならともかく、独身や単身赴任の場合、支局のメンテナンスはすべて支局長にかかってくる。
▽一軒家の支局の敷地がある程度大きいと、その敷地内で生えてくる雑草類が伸びてくる。梅雨を過ぎると、雑草は一気にジャングルのように生えて、その雑草を刈り取る作業が必要になる。長靴を履き、軍手をして、雑草を刈り取るのだが、かなりの重労働だ。
▽以前は、そうした作業を業者に依頼して、必要経費を会社が認めていたらしいが、私が勤務していた時は、そんな事はなく、無償で雑草取りに明け暮れる時があった。
▽ある時は、雑草を刈り取る際に外部の電源コードを切ってしまい、トイレや風呂が使えないという事故も起きた。情けないが、雑草狩りは嫌な仕事一つだった。
▽さらに言うと、ある支局時代には、支局の敷地内に生い茂っていた樹木の枝が伸びてしまい、枝から毛虫が落ちるようになった。隣接する民間駐車場の車の屋根に毛虫などが着いてしまい、苦情が来たこともある。この時はさすがに枝を切り取るため、地元のシルバー人材センターに依頼した。もちろん自費で払った。
▽雪だと雪かきも重労働の一つだ。毎朝のように降る雪を除雪するため、スノーダンプを使って、雪かきをするが、支局前の道路沿いの雪かきをすべてすると、1時間以上かかる。これを毎日するのだから、相当な労働だった。
▽しかも雪の捨てる場所がない場合は、道路の壁に押し付けるように捨てるが、それでも足りなくなってくると、やや遠い場所まで雪を運ばなくてはならない。これまた力仕事だった。
▽このようにして1人勤務の支局のメンテナンス作業は、大変だった。こんなことに会社は気づいてくれない。すべて現地の支局長任せだ。丸投げと表現するのが正しいだろう。
▽だから地方勤務に希望する記者などいないのだろう。特に女性記者が1人勤務の支局に赴任したケースは、私が現役時代はわずか3人だった。その間に男性記者は数百人の単位で、1人支局に赴任を繰り返している。
▽もっと地方での取材環境を整備してもらいたかった。


★457夏の高校野球取材とその労力、エネルギー

▽夏の高校野球が始まると、主催者である朝日新聞の裏方作業を思い出してしまう。読者にはわからないだろうが、相当数の記者と多くのアルバイトを使って作業を続けているのだ。地方大会が開かれる7月は、地方の多くの記者が高校野球取材と裏方作業に駆り出される。今回は改めてその内訳を書いてみよう。
▽地方大会の場合、各球場に担当記者を1人か2人貼り付ける。試合の流れや試合のポイント、攻守の入れ替えなど、試合内容を取材して記事にする記者だ。注目されるチームが出ると、カメラマン役に記者を貼り付ける。その場合1塁側か3塁側のカメラマン席から撮影する。場合によっては、バックスクリーンからの撮影をすることがある。
▽記者だけではない、。アルバイトも動員する。朝日新聞専用のスコアラーを記録係として付ける。もちろん記者もスコアを付けていくが、正確性を担保させるためだ。これとは別に主催者側の高野連もスコアラーを付けており、試合が終われば、照合する。野球の場合は、サッカーと違い、すべてが数値化される。打者数、安打数、四死球数、盗塁数、打点、特典、失点、塁打などすべてを数値化される。その数字を照合する。照合して数字が合わないと、もう一度計算し直す。
▽地方大会の場合、こうして照合した数値を、地方総局内でさらに再度点検する。球場から届いたスコアを、まずはアルバイトが点検する。これに内勤として詰めている記者が2人1組となって、点検する。数値化を全て点検する。こうして出来上がった高校野球の数字が、紙面になるわけだ。
▽だから、地方大会が開催される7月は、朝日新聞の多くの記者が高校野球に駆り出されて、延々と数字との戦いをするのだ。
▽それは甲子園大会でも同じだ。カメラマンを1塁側と3塁側、さらにはバックスクリーンに置いて、すべての写真を撮る。記者も本社スポーツ部の記者のほか、大会で優勝したチームに同行した地方総局の記者も取材にする。
▽さらには試合がない担当者がスタンド雑観と言って、スタンドでの話も取材する。
▽試合が終われば、両監督と両主将のインタビュー取材も大切な仕事の一つだ。担当記者だけではこなせないので、ここでも応援記者を使う。
▽こうやって見ると、主催者の朝日新聞社はいかに高校野球に記者を注ぎ、エネルギーを注ぎ、金を注いでいるのかと改めて思う。驚くほどのエネルギーだ。
▽私も東京本社時代、高校野球を担当していて、地方大会と甲子園大会をずっとキャップとして、代版デスクとして取材の指導をしてきた。だからこそ、この高校野球大会になると、担当者や応援の記者の苦労が分かるのだ。みんなご苦労さんと言いたくなる。
▽さらに言うと私は転勤族だったので、転勤先の地方の代表校を常に応援する。しかしともに代表チームが転勤の勤務地だと、困ってしまう。どちらも勝ってもらいたいと思う。そんなことができないのが、高校野球だ。そう思いつつ応援している。


★456朝日新聞富山総局の存在価値

▽毎日新聞が富山県への新聞発送を取りやめることが新聞業界で大きな話題となった。全国紙の看板をおろしてしまう、という危機感があったためだ。私はもう一つ考えてしまったのが、その富山県に置いている朝日新聞富山総局の存在価値だった。朝日新聞も毎日新聞のようなことは起きないのだろうか。
▽確か私が朝日新聞に入社した翌年の1989年の事だった。当時の朝日新聞富山支局を、大阪本社管内から東京本社管内に移すという組織改変が行われた。
▽いろいろな理由があったと思われるが、大きな理由として、朝日新聞富山支局が大阪本社管内ではお荷物となっていたのだ。富山県内の発行部数は当時で、わずか1万部。要するに、朝日新聞にとって、富山支局での販売部数が少なく、経営的に重荷になっており、大阪本社管内が、切りたがっていた。このため、東京本社管内が引き受けた形だった。
▽外部の目にはわからないかもしれないが、大阪本社管内から東京本社管内に移したという事は、富山支局の予算も人事も東京本社管内だけで行われることになる。支局長人事も支局デスク人事も、そして支局員人事も、そして県内の通信局長人事も、東京本社が取り扱うことになる。
▽当時、私は朝日新聞浦和局に勤務していたが、その浦和支局のデスクが、富山支局のデスクに異動になり、その後そのデスクは富山支局長になった。人事は完全に東京本社が独占的に行うことになった。新人が富山支局に赴任した場合は、その後も東京本社管内の人事で動くことになった。大阪本社管内は絡まないことになった。
▽予算や予算の執行状況も東京本社が司ることになった。このため、富山支局で以前続いていたカラ出張も明るみになった、というオマケも出た。
▽その富山支局が作る地方版の富山版だが、他紙を意識した紙面作りになっていた。富山県では、地元紙のほか、中日新聞や読売新聞もそれなりの部数を誇っており、朝日新聞と毎日新聞だけが極端に部数が少なかった。このため本来なら使わないような交通事故も富山版に入れていた。読書サービスを意識した作りだった。
▽そんな東京本社管内に移した富山支局だが、その後年月が経過し、再度大阪本社管内に戻した。富山という地域は、東京よりも隣の石川県や福井県のとのつながりがあり、それを意識して再び富山総局を大阪本社管内として、富山、石川、福井を北陸三県とした紙面作りを目指すことになった。名前も富山支局から富山総局に改称している。
▽そして北陸新幹線の延伸が実現。富山はまた東京に近くなり、石川県も東京を意識する観光サービスに力を入れ始めた。
▽しかしその一方で、新聞の部数は次第に減り始め、朝日新聞は富山や石川、福井の三つの県の地方版を事実上、紙面が共通化する作りを始めた。県内のそれぞれの記者数も減らした。
▽今後富山総局がどのような取材拠点になっているかわからないが、さらに記者数を減らし、その富山総局もなくしてしまうのではないか、と私は危惧している。毎日新聞と同じベクトルで進む可能性は高い。
▽余談だが、登半島地震が起きた2024年元旦。当日の地震取材をさせようとしたが、福井県内には記者がだれもいなかったらしい。名古屋本社と大阪本社から応援の記者を向かわせたという。情けないが、記者の空洞化は既にこの3県で始まっている。朝日新聞富山総局の存在価値もなくなっていくのだろうか。

★454佐渡金山の世界遺産登録と登録漏れの歴史

▽新潟県佐渡市の佐渡金山が2024年、世界遺産登録に決定した。しかし、ここまで長い歴史があった。私はかつて朝日新聞佐渡支局に勤務していて、今年こそ世界遺産候補に、という取材をして、予定稿を書いてきた。その予定稿と実際の原稿を紹介したい。
▽私は2017年7月の選考漏れの時に、こんな記事を書いている。

《3度目の正直にもならなかった--。世界文化遺産の登録を目指す国の文化審議会世界文化遺産部会の選考が31日あり、佐渡市と県が推薦していた佐渡金銀山は、今年も選考から外れた。3年連続の選考漏れ。連絡を受けた同市の関係者は会見を開いて、残念な表情を現すと同時に、「来年こそは」と新たな決意も見せた。その一方で、「世界遺産ありき」の考えに冷めた声も出ている。》

▽当時、佐渡金山は、「佐渡金銀山」と称して、世界遺産登録を目指していた。しかも国と県の指導で何回も何回もその概要を書き直され、佐渡金銀山として定義してきた。
▽だから選考漏れに不満も出た。

《「今さら、何を言っているのか」。佐渡市の幹部職員は憤慨した。佐渡金銀山が世界遺産の政府候補とはならないことが分かった31日の文化審議会。その記者会見の放送を見て、怒っているのだ。
▽佐渡はいくつもの鉱山跡がある。そのうち鉱山跡は3カ所に絞って佐渡金銀山とした。文化庁の指導で、名称を「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」に変更した。当初は、相川金銀山からはやや距離がある新穂銀山跡も、佐渡金銀山に入れていたが、「施設群の一体感を出すため」として、同銀山跡を外した経緯がある。市とすれば、県や文化庁の指導で、佐渡金銀山を定義したのに、「一体感がない」とされたことに、はしごを外されたような思いだというのだ。
▽3年連続の選考漏れ。こうなると、こんな冗談話も現実味を帯びてくる。「中央官僚は安倍官邸の意向を忖度する。原発の再稼働を認めない新潟県を安倍官邸は嫌っている。だから佐渡金銀山を世界遺産にさせることは出来ない」。冗談ならいいが》

《世界遺産の政府候補に佐渡金銀山が見送られた31日の文化審議会後の記者会見で、文化庁の担当者が話した説明について、佐渡市の担当者が困惑している。県や文化庁の指導で、3カ所の鉱山跡と4カ所の関連施設に絞って、佐渡金銀山として市が推してきたが、「一体感がない」などと説明したとされ、「今さら、何を言っているのか」と驚きとショックを隠しきれない。市と県はこれまで続けてきた推薦運動の戦略を大幅に変更せざる得ない立場に追い込まれようとしている。
▽同市に点在する鉱山跡は多数あり、このうち同市は室町時代に発見されたという西三川砂金山と鶴子銀山、そして戦国時代から開発が始まり、江戸時代に幕府の直轄事業となり、平成元年まで稼働していた相川金銀山の計3カ所に絞って、4カ所の関連施設を入れて、佐渡金銀山だと定義した。これを「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称に変更し、2010年にユネスコの世界遺産暫定リストに記載された。世界遺産登録を目指して、同市の世界遺産推進課長として、国や県と協議を続けてきた安藤信義・現産業観光部長は「『金を中心とする』という表現は、文化庁の指導で作った言葉だった」と振り返る。
▽安藤部長によれば、当初は、相川金銀山からはやや距離がある新穂銀山跡も、佐渡金銀山に入れていたが、県や文化庁の指導で、「施設群の一体感を出すため」として、同銀山跡を外した経緯がある。また鶴氏銀山跡を入れたのは、同銀山の開発が相川金銀山の発見につながったためで、歴史的一体感を出すためだった。つまり市とすれば、県や文化庁の指導で、この7カ所に絞った構成にしたのに、「一体感がない」とされたことに、はしごを外されたような思いだというのだ。
▽31日の文化審議会直後の記者会見内容は、直接には知らされず、その日の夜、テレビ局が流したニュースを見て知った。「今になって、こんな理由を言うことが信じられなかった。文化庁の指導で、構成要件を絞ってきたのに。室蘭時代から現代に至る鉱山の歴史が一目で分かるのが佐渡金銀山だ。選考漏れの本当の理由を知りたい」とまで話した。
▽また文化庁の説明では、世界遺産には多くの鉱山跡があり、ユネスコ側の審査が厳しくなっていることを挙げていたが、これについても、安藤部長は「アジア圏ではあまりない遺産群だ。物語性は多数ある」と語気を強めた》

▽分かるだろうか。国と県に振り回されて、それでも推薦が見送られた。そして朝鮮人労働問題が韓国から批判されると、安倍政権が強引に推薦を通そうとした。政治案件になっていたのだ。
▽今回の佐渡金山の世界遺産登録を契機に、改めて朝鮮人労働問題をキチンと検証したい。

★450浦和レッズのユニホームは阿波踊りで有名な企業のロゴ入りだ

▽サッカーJリーグ、浦和レッズのユニホームに、「POLUS」という大きなロゴが入っていることをご存じだろうか。「ポラス」と読む。ポラスとは埼玉県越谷市に本社がある、住宅建設販売会社の名前だ。浦和レッズのトップパートナーとして既に10年以上続いている。通常だと東京に本社を置く企業がトップパートナーとして契約することが多く、埼玉連東部地区の中堅都市に本社がある企業が、ビッグクラブのパートナーとして続くのは珍しい。
▽この会社は徳島出身の社長が起こした。徳島と言えば阿波踊り。その踊りの輪を、越谷市でも広げようと、社長が関係者とともに走り回って始めたのが、南越谷阿波踊りだ。今では本場の徳島阿波踊りと並ぶ人気がある。私はこの越谷市にある朝日新聞東埼玉支局勤務時代に、この会社の理念をかなり聞かされていた。踊りに対する思いを強く感じた。
▽南越谷阿波踊りの開催実行委員会の委員として、朝日新聞東埼玉支局長も参加することになり、毎回の会合に出ていた。計画の規模や警備、出店、人手の問題などかなり念入りに話し合って、南越谷阿波踊りに向けて開催準備をしていた。また紙面として、この阿波踊りの連載を記事にしたこともある。
▽ちなみにJR南越谷駅ではこの阿波踊りの音楽が流されている。まさに阿波踊りの街なのだ。
▽だから、浦和レッズの試合を見るたびに、このポラスの文字をどうしても見てしまうのだ。

▽かつてこんな記事を書いたことがある。2015年1月の記事だ。
《浦和レッズの新しいユニホームに今年も、越谷市の住宅建設販売会社ポラスのロゴ「POLUS」が胸部分に入った。13日発表されたレッズの会見で、今年もポラスがトップパートナーの一員として契約することが明らかにされた。ユニホームにポラスのロゴが入るのは3年目となる。
▽ポラスは越谷市を中心に県内で住宅建設と販売を中心に伸ばしてきた企業。地域密着型を企業理念としており、南越谷阿波踊りを全社で応援していることでも有名だ。そのポラスがレッズの企業理念と合致するとして、トップパートナーとして2年契約を初めて結んだのが2年前だ。トップパートナーとなったこの2年は、レッズもJリーグで優勝争いを演じており、「テレビ中継されれば、それだけ宣伝効果も大きい。越谷市の一企業だったポラスの名前が全国的に知られるようになった」(広報)という。今季は契約更新となり、再び2年契約となった。
▽レッズの今季のトップパートナーはポラスのほかナイキジャパンやぴあなど7社が契約したが、ポラス以外はいずれも東京に本社を持つ企業で、越谷市に本社を持つポラスの存在は珍しい。
▽13日発表されたユニホームはナイキジャパンがデザインを担当した。ホーム用、アウェー用、アジア・チャンピオンズ・リーグ(ACL)用などが用意され、このうちJリーグ用の新しいユニホームは、ホーム用には赤い生地に白地のロゴ「POLUS」が大きく入り、アウェー用には白い生地に黒のロゴが大きく記されたデザインだ》

▽その後もパートナーとして契約しているのだから、地方の優良企業として業績を伸ばしているのだろう。


★447居酒屋の潰れ方の研究

▽私は転勤族だったから、転勤先の地方の居酒屋をかなり利用した。そんな経験から分かるのが、開店したのに、わずか1〜2年で閉店を余儀なくされる店が少なからずあるということだ。そして潰れ方には共通点がある、ということも分かってきた。
▽共通点とは、客の回転率が悪いということだ。特に女性客が多い店では、この傾向が強い。店は結構混んでいるが、特に女性同士の客は長居するし、1人の単価が男性に比べて安い。男性客がパッと飲んで食って出て行ってくれるのとは違い、女性客は延々と店にいて、飲む量も食べる量も少ない。店の席を専有する時間が長い割には、単価が安いのだ。要するに回転率が悪いと言うことになる。
▽何もこれは大きな店に限らず、地方の料理屋にも共通する。テレビをカウンター越しに置いて、プロ野球を中継する店は要注意だ。プロ野球を見ながら飲み食いする客は、一向に食事が進まない。カウンター席を専有して、最後の最後までプロ野球を見ようとする。飲むのも焼酎をちびりちびりと飲む。客の回転率の悪さの象徴だ。
▽こういう回転率の悪い客を抱えていると、間違いなく店の経営は悪化する。混んでいるようで、儲かっていないのだ。
▽以前読んだ新聞記事に面白い指摘があった。
▽都内で展開する立ち飲み屋は、客が使うテーブルの高さまで研究しているというのだ。高くもなく低くもなく、90センチの高さにして、客が次第に立っていると疲れていくような高さに調整している、というのだ。疲れてくれば、客は飲食を終える。回転率が高くなるのだ。これこそ人間工学から得た店舗設計ではないか。
▽だから私が余計な心配をしてしまうのは、スポーツバーの経営だ。サッカーワールドカップ(W杯)など国際的なスポーツ大会の中継がある時は、客で混雑するが、大会がない時の経営状態はどうなっているのだろうかと。
▽スポーツバーではないが、さいたま市のJR浦和駅近くにある居酒屋「力」はサッカーJリーグ、浦和レッズのサポーターの店として定着しているが、試合がない時でも客で混んでいる。店舗の経営に参考になるヒントがあるはずだ。私はもう古くから時折利用してきた客の1人だ。


★445鉄道公安官と小樽、そして鉄道公安36号

▽私が子どものころに放映されたテレビドラマ「鉄道公安36号」は、旅情をそそる内容で、かっこいいと思って見ていた番組だ。国鉄で働く鉄道公安官が犯罪を摘発する刑事もので、かつ鉄道ものだ。実際の鉄道公安は、国鉄が分割・民営化された時に解体されて、そのまま各都道府県警の鉄道警察隊として存続することになり、現在に至っている。しかし、なあ、と私は思っている。
▽ネットによれば、NETテレビ(現在のテレビ朝日)で1963年から1967年まで前198話が放映されたとある。
▽詳しい内容は覚えていないが、当時の鉄道公安官は司法警察権を持っており、容疑者の逮捕、事件の摘発を行うことが出来た。列車に絡む事件の捜査、摘発を行う組織で、それゆえ、子供心をくすぐったのだろう。かっこいいと思っていた。
▽私が1981年に北海道新聞記者として記者をスタートさせた時、国鉄の小樽駅には鉄道公安室があり、時折取材に訪れていた。小樽駅は札幌駅から普通電車で約1時間かかる港湾都市の駅で、確か室長以下約10の鉄道公安官が常駐していた。駅構内のパトロールや列車内に乗り込んで、容疑者の摘発などに従事していた。
▽通うようになってから、知り合いも増えて、公安室奥にあった風呂にも入れてもらった記憶もある。確か室長だったと思うが、本当は警察官になりたくて、なれなかったとして、自分の娘を警察官にさせた、という話も聞いた。道警の婦人警官になっていた。そんな婦人警官が、私の取材相手というか知り合いでもあった検察事務官と結婚すると知った時は驚いた。結婚式にも呼ばれた。
▽こんな鉄道公安官も、国鉄の分割・民営化でなくなってしまった。鉄道警察隊として残ったのは良いが、風土は違う。公安官は公安官の良さがあった。鉄道警察隊はあくまでも都道府県警の中の一組織に過ぎないのだ。
▽ドラマとしては、その後「さすらい刑事旅情編」や西村京太郎シリーズのトラベルミステリーの刑事ドラマなどが出てくるが、やはりイチオシは「鉄道公安36号」となってしまう。
▽どなたか、YouTubeにアップしてくれないだろうか。

★443高校野球取材で出された弁当に一喜一憂

▽夏の高校野球は朝日新聞が高野連とともに主催している。主催者だから、県大会では県内の記者のほとんどを投入し、各球場に記者を配置し、取材を続けてきた。
▽私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時、県営大宮、上尾市民、市営浦和の各球場を持ち回りで担当し、取材をしてきた。プレーを追い、写真撮影をして、スコアを点けて、試合後に監督や選手の話を聞く。そんな合間を縫って、出された弁当を食べるのが、楽しみの一つだ。
▽出された、と書いたが、主催者の高野連の先生たち、つまり各高校野球部の監督たちとともに実費注文するのだが、各球場の弁当にはそれぞれ特徴があり、弁当のふたを開けるのが楽しみだった。
▽ある球場は、洋食弁当でボリュームもあり、これで仕事がなかったら、ビールが飲みたくなるほどの品数だ。また別の球場では、煮魚が入っていて、手抜きを感じさせない。もちろん限られた予算の中での中身だから、限度はあるが、作ってくれる業者の心意気を感じた。たかが弁当、されど弁当だ。
▽群馬県渋川市の渋川支局に勤務していた時は、前橋の球場で取材した。この時出された弁当は、群馬の特徴がよく出ていたことを思い出す。天ぷらにご飯、そしてうどん。鶏肉とご飯だけの弁当など。群馬県人はお米が大好きな県民だとされていて、炭水化物の多い弁当が特徴だった。総菜数も少なく、野菜はほとんどなかった。ちょっぴりがっかりしたことを思い出す。
▽弁当の中身に一喜一憂していたのが、高校野球取材の記憶だ。


★441夏休みに入った子どもたちの写真が消えた

▽子どもたちが夏休みに入った。以前の新聞だったら、地方版などに必ず掲載されていた子どもたちのうれしそうな写真「さあ、夏休み」が、最近は全く掲載されなくなった。それはいつごろからだっただろうか。
▽私が新人記者だったころ、小学校の1学期の終業式は取材の対象だった。終業式が終わり、子供たちが、「さあ夏休みだ」と校門から元気よく飛び出し、満面の笑顔を写真で撮るのが常だった。
▽そのためには事前に市教委経由や直接小学校の校長に電話をし、事前のアポを取ってから、取材に出かけた。学校責任者の承諾をもらうことで、取材を行った。
▽子供たちのうれしそうな表情を取るのがプロの写真だと思っていたし、そういう写真を若いころは撮っていた。
▽しかしいつのころからだったか、そんな写真は全くなくなってしまった。子供の写真を勝手に撮るな、という保護者からの要望や苦情もあり、人権上の問題も考えて、子供たちの写真を直接撮影する事はなくなってしまった。
▽撮影したとしても、映った子供の保護者全員から掲載の許可を取る必要もあり、そんな作業をする時間もかなり要するため、掲載はしなくなった。1人でも反対が出れば、掲載は出来なくなった。
▽そんな状況だから、学校でいじめが起きたり、事故が起きたりと注目された時だけ、子どもの写真を撮影するが、その時は子供たちの顔が出ないよう、後ろ向きの写真や下半身の写真を撮っており、写真の出来からすると最低限のものになっている。
▽以前私が朝日新聞の支局に勤務していた時、デスクが勝手に子供の登校写真を撮り、部下に指示させて記事にしたことがある。掲載後、校長から支局に抗議が来た。勝手に撮影するなという内容だった。
▽デスクはそういう新聞社の最近のルールも知らなかったらしい。部下の支局員を指示するデスクが、ルールを破るのだから、ルールは徹底されていないのだ。
▽私の自宅の近所でつい先日、子供たちの終業式があり、自分の道具を持って帰宅する姿は、そんなにうれしそうにも見えなかった。社会全体が沈んでいるようで、なんか寂しい。新聞社の紙面から、子供の嬉しそうな顔が消えてしまっている。

★439炎天下の高校野球取材は辛い

▽夏の炎天下で、よくあんな取材を続けることができたなあ、と今でも思う。夏の高校野球地方大会の取材だ。真夏の開催については、その是非論があるが、それは割愛する。主催者である朝日新聞の一員としては、どうしても避けられないイベントだ。
▽夏の高校野球は高野連とともに朝日新聞社が主催する。このため、県大会などでは、県内のほとんどの記者が各球場に配置されて取材する。私も地方支局転勤をしていたから、高校野球の各地方大会も取材を続けてきた。埼玉、新潟、北海道、宮城、群馬などの各地方球場の取材を続けていた。
▽高校野球の取材は、試合結果を書く戦評記事、試合のハイライトとなる雑観記事、さらには両チームの監督と主将の談話、さらには試合のポイントとなった選手への取材がある。試合運びを見ながら、カメラでの撮影も欠かせない。1塁側ベンチ横のカメラマン席、3塁側ベンチ横のカメラマン席、そしてセンターバック裏のバックスクリーン席での撮影だ。ここから投手や打者を撮影するのだが、距離があるため、バズーカ砲と呼ばれる超望遠レンズを使って撮影する。
▽1塁側も3塁側も、カメラマン席は直射日光が当たるから異様に暑い。しかしずっとここで撮影を続けているわけでもないので、問題は無い。時折、冷房が効いた記者席に戻って、撮影した写真を送ったり、原稿を書いたりすることもできるから、暑さ対策は問題がない。
▽問題は、バックスクリーンからの撮影だ。すぐに移動もできないので、試合が終わるまでずっとカメラを構えて撮影を続けるしかない。直射日光を浴びても我慢するしかない。まさに暑さとの戦いだ。
▽私も埼玉県に勤務している時、県営大宮球場でこのバックスクリーン手間撮影を担当していた。暑いから、凍らしたペットボトルのドリンクと冷たいドリンクの2種類を持って撮影に当たった。帽子をかぶり、太陽光対策で両腕をカバーするアームカバーを着用し、太陽の暑さを防いだ。さらには高熱の影響でカメラの計器類が故障するのを避けるため、カメラにはを白い手ぬぐいを覆って熱暴走を不正だ。
▽こんな夏の高校野球地方大会の取材をよく続けてきたなと、私は我ながら感心してしまう。
▽ただし一度だけ熱中症にかかったことがある。暑さでボーッとしてしまい、発熱のような症状が出た。とても取材を続行できる状態ではなかったので、後輩に、「ちょっと休む」と言って、球場駐車場に止めていたマイカーに乗り、エアコンをつけて、シートを倒してそのまま横に1時間ほどなっていた。この対応が幸いして、熱中症は治って、通常の取材に戻った。あのまま取材をしていたら、熱中症が悪化しただろう。怖い話だ。熱中症にかかったと思ったら、仕事は休んで、早く治したほうがいい。そう思っている。
▽今年の高校野球取材をする記者の皆さん、無理はしないでください。

★437常に佐渡をマイカーで回っていた

▽日本海に浮かぶ新潟県佐渡市の佐渡島は、日本では沖縄に次ぐ大きな島である。東京都23区より大きく、島の周囲は約263キロ。地形を3つに大別でき、島の北側の産地を大佐渡山地、南側の山地を小佐渡山地、そしてこの二つの間に穀倉地帯の国中平野が広がる。
▽私が朝日新聞佐渡支局に勤務していた3年半、休みがあれば、大佐渡か小佐渡を一周する一本道の道路をマイカーで走らせていた。県道佐渡一周線という道路を使えば、迷うことなく一周できる道路だった。
▽大佐渡なら、支局がある両津地区からマイカーで島の東側道路を北上。途中まで道路は整備されており、交通量も多くないから、スイスイと走らせることが出来た。島の北西部には、景勝地の二ツ亀島があり、ここから島の西部の一本道を南下する。海岸は絶壁で、それを見ながらクネクネと曲がった細い道を走らせた。所々に集落があり、南下して行くと、相川地区に出る。平成の大合併前は相川町だった行政の街だ。そして島の海岸線に沿って進むと、半島を反時計回りで進み、佐和田地区に出る。ここから内陸部に進み、国中平野を横切って、支局に戻る事が出来る。2時間のドライブコースだ。
▽時計回りの時は、同じコースで回れば良い。
▽小佐渡を回るなら、支局を出て南下して、姫崎灯台の方角に向かう。両津港と新潟港を結ぶフェリーやジェットフォイルに位置を知らせる灯台だ。その灯台をかすめるようにグルッと回って南下する。北朝鮮の難破船が出現する岩首地区や松ケ﨑地区などの集落や、赤泊港を通って、小木地区に。ここまでの道路は非常に狭くなり、道路幅が一車線分しかなく、車のすれ違いが出来ない場所も多くなる。
▽やっとたどり着いた小木港は対岸の直江津港と当時はフェリーで繋がっており、当時は新造船が就航して、にぎわっていた。
▽そのまま島南西部の半島を時計回りで回って、佐渡一周線に合流して北上。真野地区を回って佐和田地区から国中平野に入り、支局に戻った。1時間半のコースだった。反時計回りだと同じコースを逆走するだけでいい。
▽なぜこんな運転をほぼ毎週のように行っていたか。
▽それは佐渡島の距離感を体感することで、土地勘を養い、万一の事件事故の取材に役立てるためだ。かなり広い島なので、土地勘がないと、取材現場に着くのも遅れてしまう。カーナビに頼ると、内陸部の道路が優先されてしまい、それに従うと山道を走らせることになり、逆に時間がかかることもあった。
▽このため、毎週の休みになると、大佐渡か小佐渡を一周してきた。
▽無駄な時間のように思われるかもしれないが、大切なドライブだった。佐渡を離れた今となっては、脳裏に浮かぶ島の光景が大切な思い出となっている。


★434支局員の評価と愚痴

▽ある支局長時代、遅刻を続け、仕事の失敗を何回も犯す支局員の行動に悩まされていた。知り合いに愚痴のメールを送ったり、仲間に雑談の会話をして、気を紛らわしていた。
▽そんな私の心情を理解してくれた、前の会社の先輩が送ってきたメールがある。それを紹介したい。
《最近というか、本年度の社内で面白かったことナンバー1との呼び声が高い話を。
▽99年4月に入社し、旭川報道に配属された20代女性記者。残念にも廃刊となった北海タイムスからの移籍組なのだが、とんでもないやつだった。
▽昨夏、マイカーを運転中、一般道路を160キロだか180キロでぶっ飛ばして警察に捕まり、執行猶予つきの有罪判決(懲役i6月だったか1年)を受けた。
▽旭川実業高に同行し、甲子園取材に赴いたが、なんと、Tシャツと短パンという着の身着のままで出張していた。1週間そのままの姿で、見かねた先輩が「服ぐらい買ってこい」と指導したところ、自衛隊の迷彩服もどきの服を買ってきて取材にあたっていた。

▽この記者、毎日1回は訂正を出しかねない雑な原稿を書き、デスクは心配で、いつも自分の側に記者を座らせてデスクする。
▽弊社では、訂正を出すたびに本人とデスクがそれぞれ「訂正報告」なる書類を提出し、それが全社に回覧されるのだが、ついに切れてしまったあるデスクが「この記者はどんなに指導してもよくならない。訂正をなくすためには、この記者に書かせないようにするしかない。ペンを取り上げるべき」と書き、その紙が全社に回ってしまった。
▽さすがに、「それはないだろう」と編集局次長らがクレームをつけたが、そのデスクに同情する声も多数。
▽お宅の支局員よりすごいと思いますが、どうですか》

▽これに対して、私はこんな返信メールを送った。

《よく速度違反で検挙される(違反切符を切られる)ケースはありますけど、有罪判決が出る、というのはあまり聞きませんね。
▽僕の支局員も訂正すれすれのことをよくやっていますが、実は原稿を書くスピードが全く遅いため、日々訂正につながるケースではありません。50−60行の原稿を、二週間、三週間かけて、ようやく仕上げるから、のんびり構えないとやってられません。
▽あれはどうしたの、とか、この原稿はどうしたの、と尋ねても、「まだやっていません」「まだ取材していません」ばかり返ってくるので、今年に入ってからは、注意するのも、説教するのも、アドバイスするのもやめました。
▽きょうも一時間近く遅刻してきたけど、呆れてしまい、何も言っていません。言われなくなったらおしまい、と新人の頃、よく使われたせりふですが、まさにこんな状態です》

《今は彼を早く東京本社の内勤部門に異動させるよう根回しをしている最中です。データベースとか広告整理とか、そんなセクションを模索しています。
▽記者編集の勉強をさせてから、という名目で、地方版編集も残された道の一つです。ただ、僕の知り合いのデスクは「そんな奴、いらん。実際に来たら怒りますよ」なんて言っていましたが。
▽いわば、クーリングオフ。
▽使い物にならなかっただけ、という結論です。
▽ただ、組織が大きくなると、一人動かすのに、最低でも五人は動くので、簡単にはいきません。
▽四月の人事で六対四の割合で、彼は動きそうだ、と新潟支局長はいいます。
▽今さら、と思いますが、はやく対処しておけば、よかったのに、今になっては、ばってんのレッテルだけが張られて、その汚名を返上できないまま、彼は次の職場に進みます。
▽実に無駄な一年でした。勉強になりましたが》

▽さらにこう送った。

《その支局員、ようやく、転勤が決まりました。
▽と言っても、本人はまだ知りません。
▽本人内示は21日だとかで、知っているのは僕と支局長のみです。
▽ただ行き先に僕は不満があります。
▽同じ準支局だからです。
▽同じような環境だと、この支局と同じ失態や失敗を繰り返すだけだと思うからです。
▽数日前も、豪雪取材のためにカメラマンが来た時、彼はそのカメラマンと酒を飲んだらしく、翌日は寝坊・遅刻して来ました。
▽カメラマンの方は午前六時に取材に出たのに、我が支局員は九時過ぎに眠そうな顔をして、支局に到着。お茶を飲んで一服して、という、マイペースでした。
▽自己管理がまったくできない。恥ずかしい、とも感じていない。罪悪感もない。
▽こんな生活態度を次の支局で続けたら、支局長はどう彼を評価するのでしょうかね。
▽(県庁所在地の人事権がある)支局長は、彼を県庁所在地にと申請していたそうですが、一人だけ、寝坊・遅刻を繰り返す支局員を、同僚の若者はどう見るのか。きっと浮いてしまうでしょう。
▽職業に緊張感のない人間を、やはり育てることが出来ない僕がいけなかったのでしょうか》

★432狭い団地に住む市長

▽2013年に埼玉県八潮市長を退任した多田重美さん(当時)の話は、新聞記者として魅力的だった。市長を3期務めたが、住まいは八潮市北部にある旧公団住宅の八潮団地にある。もう数十年近くに住み続けていた。約40平方メートルの2DK。結婚後まもなく入居し、自治会役員として市議選に担ぎ出されて当選しても、市長3期目になっても、手狭な団地から引っ越すつもりはなかった。
▽私は当時、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していて、朝日新聞さいたま総局の記者仲間とチームを組んで、2012年正月の連載企画として、団塊世代を取り上げる取材をしていた。その1人が多田さんだった。
▽8人きょうだいの末っ子。実家は田畑と酪農を手がける大きな農家だった。おかげで食べ物に困った記憶はない。その代わりに小学生から農作業を手伝ってきた。だから勉強したり、友達と遊んだりした記憶はない。
▽朝は牛の乳搾りから始まる。学校から帰ると、夜まで牛の餌やりの用意や乳搾りをした。絞った生乳はリヤカーで集荷場まで運んだ。厳しい暑さの盆地の夏も、山から冷たい風が吹き付ける冬も我慢した。
▽地元の農業高校を卒業し、そのまま自宅での農作業に汗を流していた。分家して、農地をもらって農業すると思っていた。それが義兄の一言で変わった。
「しげちゃん、外で働いてみないか」
▽義兄が勤めていたのは釜石市の富士製鉄所(当時)。列車に1時間揺られ、臨時職員として働き始めた。単純な点検作業を任されただけだったが、農業しか知らない負い目から、必死に製鉄所の仕組みについて勉強した。
▽しかし、当時の職場は東大卒のエリートが幅をきかせていた。
「大学を出ないと人間扱いされないことを肌身で知った。このままで、人生は終わらせられない」
▽1年足らずで会社を辞め、上京して百貨店などで働いて貯金し、日大法学部(夜間)に入学した。
▽昼間は法律事務所で働いて学費を稼いだ。まだ学園闘争が続いていたころ。ヘルメットをかぶった学生が授業中に乱入すると、授業は中止になった。勉強がしたくて大学に入ったのに、授業を受けられず、無性に腹が立った。
▽大学でも遊んだ記憶はない。学部4年間と専攻科1年間で卒業し、東京・神保町にあった別の法律事務所に就職した。
▽経済成長期で、仕事は探せばいくらでも見つかった。結婚後、八潮団地に移り住み、バスと東武伊勢崎線を乗り継いで通勤した。仕事も住まいも不自由はなかった。職に就けない若者があふれている現代に比べると、「大変だった」とはいう意識は感じない。
▽連載記事では最後にこんなことを書いた。
《生まれ故郷は、四方を北上山地に囲まれ、美しい田園風景が広がっていた。春になると、一斉に桜の花が咲き、美しいピンク色に彩った。団地に暮らしていても、ふるさとを思う気持ちを忘れたことはない。東日本大震災の発生で、その思いは強くなった。
▽「この団地の敷地にも、桜が見事に咲くお気に入りの場所があるんです」
▽地道に働き、苦労して学んできた生き方には、堅牢なたたずまいの団地がちょうど似合っていると思う。年を取ってきたのはお互い様。来春も、その次の春も、この団地で春を迎えるつもりだ》
▽満足できる記事に仕上がったと今でも思っている。


★429転勤族とジョギングのコース

▽私は転勤族だったため、地方に赴任すると、最初に考えたのは常に、朝走るジョギングコースの設定だった。ジョガーにとって、意外とこれは大切な作業なのだ。
▽宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に赴任した時、自宅兼事務所の支局は市役所の隣で、市の中心街にあった。地方の都市だから、中心街といっても、その範囲は狭くて、すぐ隣の地区が飲食店街だった。このため、ジョギングのコースはその中心街から住宅地を抜けて、飲食店街の真ん前を通るコースとなった。港町であったため、港の方も走ることがあった。冬の朝は寒く、冷たい風に当たりながら走っていた記憶がある。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局に赴任した時は、支局から出ると、すぐに海岸線があった。その長く続く海岸線の通りをずっと走った。夏になると海岸線には海の家が出来上がり、駐車場では長野ナンバーの車で埋まっていた。そんな道路をずっと走っていた。海岸線からは上り坂になっていて、息を切らせながら、走っていた。
▽北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部に赴任した時は、会社と自宅は別々だったため、借りていたマンションから走り出し、札幌サイクリングロードという特別な道路を走った。ここは旧国鉄の千歳線の跡地で、自転車と歩行車だけが使える整備されたコースで、交差する道路はなく、すべて立体だったので、信号で止まることもなくずっと走ることができた。ただし、その分アップダウンが激しく、走りすぎたため、足を故障したこともある。冬になると、雪が降り、雪が固まって、一部がアイスバーン状態になった。そのため、シューズもスノートレを履いていた。スノースノートレの裏底にスパイクピンを打って、滑らないようにしていたこともあった。かぶっていた帽子には汗が固まってつらら状になっていた。朝日は夕日のように映し勝った。こんな氷の道を走るのはそれが最後だった。
▽群馬県渋川市の渋川支局では、坂道の街だったので、走りには苦労したある。どのコースにとっても坂道で、アップダウンが常にあり、走りは苦労した。おまけに近くには女子校があり、ジョギング時間をちょっと間違えると、女子校の生徒の集団登校時間に重なり、そこを横切るのが大変だった。また自分の娘を車で送る母親が多く、その車が女子校の横の道路に強引に駐車するため、危険も伴った。ちゃんと左右を見て前を見て、車を止めてほしいと思ったものだ。
▽新潟県佐渡市の佐渡支局では、やはり海岸線を最初走った。しかし、風が強くて、海岸線のコースはやめて、内陸部の商店街のコースを走った。佐渡のドライバーは、運転マナーが悪く、交差点から出る時も左右を確認することなく出るので、何回かぶつけられそうになった。怖かったのだ。
▽埼玉県秩父市の秩父市区では最初国道と脇道を走ったが、ここもドライバーのマナーが悪く、何回もぶつけられそうになった。危険だった。このため、まだ職員が登庁していない早朝の市役所の駐車場をぐるぐる走った経験がある。
▽こうしてみると、ジョガーにとって地方は危険なドライバーが多いということを感じる。そして地方は予想外に平地は少なく、坂が多いことも実感した。


★428地方新聞と地元記者への愛着

▽私の新聞記者のスタートは、北海道新聞だったためか、朝日新聞に移ってからも、地方新聞への愛着は人一倍強い、と思っている。
▽朝日新聞に移り、最初の振り出しは当時の埼玉県浦和市の浦和支局(現さいたま総局)だった。その時はやはり地元紙の埼玉新聞の記者と仲良くなっていた。地方新聞としてもかなり弱小の新聞だが、記者としては尊敬する人間もいた。
▽次に赴任した宮城県塩釜市の塩釜通信局では、やはり地元の河北新報の記者と仲良くなった。
▽東京本社を経て、新潟県上越市の上越支局に赴任した時は、やはり地元の新潟日報の記者と仲良くなった。その付き合いは今でも続いている。
▽さらに北海道に渡り、朝日新聞北海道報道部に転勤になった時は、かつて勤務していた北海道新聞の記者とも仲良くなった。
▽群馬県渋川市の渋川支局では、上毛新聞の記者と仲良くなり、サッカー取材を通じて、いろいろサッカー談義やカメラの話をしたものだ。その付き合いは今でも続いている。
▽さらに東京本社を経由し、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に赴任にした時も、地元埼玉新聞の記者と仲良くなり、酒も飲んだりしていた。もちろん、東京新聞の記者との酒の付き合いもした。
▽新潟県佐渡市の佐渡支局では、再び新潟日報の記者と交流を深めた。そして埼玉県秩父市の秩父支局では、埼玉新聞の記者や東京新聞の記者と仲良くなっていた。
▽地方新聞の記者と付き合っていると、やはり地元愛を強く抱いていることがわかる。そういう記者に私はシンパシーも感じる。
▽ただし例外が一つだけあった。上記の塩釜通信局にいる時だ。地元の河北新報のベテラン支局長が私に喧嘩を売ってきた。理由はわからないが、お前は嫌いだ、と酔っ払って怒られたことがあった。おそらく、私が地元のニュースをいろいろ書いたので、反発が起きたのだろう。彼が書く記事の2倍から3倍は書いていたから、やっかみがあったのだろう。笑ってしまった。
▽こういう人間とは一生付き合いたくないと思ったものだ。ただし、これはあくまでも例外である。

★422地方勤務は病院探しに苦労する

▽転勤で新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局から、埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に異動になった時のことだ。病院探しに苦労した。当時の私は病気の継続的な治療と怪我で、計四つの薬を常用していたが、それを対応してくれる総合病院がなく、故に薬を処方してくれる医師もいなかった。地方の病院問題はかなり深刻だと感じた。
▽地方に転勤すると、困るのは病院探しだった。若いうちは健康で問題ないが、年を取っていくと、病気やその継続的な治療、怪我などが重なり、そんな中で転勤すると、適切な病院がなかったり、継続して飲んでいた薬が得られなかったりする。
▽秩父支局に転勤になった時、特にそう感じた。当時私は、十二指腸潰瘍の再発とその防止のため、胃酸を抑える薬を継続的に飲んでいた。さらには尿酸値が高いことから、その数値を抑える薬も飲んでいた。また怪我も重なり、右膝には鵞足炎(がそくえん)が発症。その治療に漢方薬を飲み、腰には座骨神経痛の痛みも出ていて、ビタミン剤も飲んでいた。
▽もう少し詳しく説明すると、十二指腸潰瘍は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局時代に、ストレスのために発注した。薬を飲む治療を行い、一度は治った。しかし次の次の勤務地である埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局で嫌な上司がいてストレスが溜まり、再発したのだ。そのため病院で再び胃酸を抑える薬を処方してもらい飲み続けていた。
▽尿酸値はもともとやや高いため、予防のために時折飲んでいた。痛風が発症するのを恐れていたためだ。
▽さらには鵞足炎では、ジョギングのやり過ぎで右膝に炎症が起き、筋を痛めた。一時はジョギングも出来ないほど痛みが出て、漢方薬を処方してもらい、治した。坐骨神経痛もジョギングのためで、腰の軟骨が飛び出して神経を触り、痛みが尻の付け根部分に出た。除去手術はしないで、いわゆる保存治療という方法を選び、腰の牽引をする治療とビタミン剤を処方してもらい、飲み続けていた。
▽その後、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に転勤になり、地元で病院を探した結果、支局とは島の正反対にある民間総合病院で問診と薬の処方を受けるようになった。整形外科と内科の両部門があり、それぞれ医師に相談し、薬を処方してもらっていたのだ。
▽そして秩父支局だ。秩父市で総合病院を探したが、二つの部門を持つ層病院がなかった。ある総合病院は整形外科がなく、断念した。また別の総合病院では整形外科があったが、急患が入ると手術で追われて、医師が問診もできないと言われ、断念した。つまり一つの病院で、私の四つの病気や怪我を診てくれる病院がないのだ。
▽困った末、私は家族を残したさいたま市で病院を探すことにした。その結果、民間総合病院が見つかり、整形外科と消化器内科でそけぞれ私の病気や怪我を見てもらうことにした。1カ月に1回、週末に自宅に戻り、通院した。
▽通うようになって、鵞足炎で処方してもらった漢方薬を途中からやめ、尿酸値対策の薬もやめた。
▽2021年8月に会社を退社し、現在はさいたま市の自宅に住んで、坐骨神経痛の薬の処方を個人の整形外科医に診てもらい、十二指腸潰瘍については、総合病院の消化器系内科で診てもらっている。
▽地方に転勤になると、自分の病気や怪我に見合った病院はがいかに少ないか、実感する。病気になったり怪我をしたりすると、その現地ではすぐに診てもらうこともできないのだ。地方に転勤するという事は、覚悟もいる。
▽2024年6月17日の毎日新聞埼玉版にはこんな記事を載せている。
《埼玉県秩父市や小鹿野町など1市4町で構成される秩父医療圏で、夜間休日に入院が必要な救急患者を交代で受け入れる「2次救急輪番制」の維持が難しい状態となっている。現在、秩父市立病院、皆野病院、秩父病院の3病院で実施しているが、秩父病院が「医師確保が困難」として離脱を検討。県などからの医師派遣も望めず、現場から悲鳴が上がっている》
▽まさにその通りだ。


★421トキの絶滅と再生、そして環境庁の功罪(「301トキの絶滅と佐渡赴任、そして再生事業」の続報)

▽新潟県佐渡市の佐渡島で、国の特別天然記念物トキが環境省主導によって再生事業が進み、日本では一度絶滅したトキが現在500羽以上も生息するようになった。これは環境省の事業に対して、県や佐渡市、地元住民が協力したことに他ならないが、一方ではトキの絶滅には当時の環境庁も大きく関与していることには注意しておきたい。
▽絶滅するトキについて、地元でトキの生存に大きく貢献した人がいる。佐藤春雄という人物で、トキの保存に一生を捧げた。詳しくは、『朱鷺の遺言』(小林照幸著、文春文庫)で扱っている。トキの保存に一生を注いだ佐藤春雄を軸にトキと人間の共生と失敗を描いたドキュメントだ。なかなかいい作品だ。
▽ここで注意しておきたいのは、当時の環境庁の方針で無謀にもトキ5羽の全捕獲をして、絶滅寸税のトキを捕獲し人工飼育する道を歩んだが、佐藤本人は反対していたという点だ。無謀な計画だと批判していた。つまり今振り返れば、この方針でトキは自然での生存が出来なくなり、結局絶滅に追い込まれた。トキ絶滅に関しては環境庁も犯罪者だったのだ。
▽これが日本でトキが絶滅した大きな理由だった。この事はきちんと記録に残したほうが良い。政府の全てが正しいやり方ではなかったのだ。
▽たまたま私は東京本社に勤務していた時に、トキが2羽となり、老衰も進んでいて、2羽の死亡予定稿を書いている。1995年4月にミドリが死亡し、その予定稿が使われことは今でも覚えている。そして2023年10月、最後のトキであるキンも死んだ。環境庁から組織変更した環境省は何も出来なかった。
▽そして日中友好の証として、中国から提供されたトキが繁殖し、自然界によみがえることになった。

★420査定に一喜一憂する朝日新聞記者

▽ちょっと前の話だ。県庁所在地の朝日新聞総局に、関東地方のある総局から転勤してきた女性記者が注目された。給料の能力査定がトップの「S」査定、という噂が広がったからだ。S査定というのは、上司が部下につける能力査定のことで、一番トップという査定だ。査定なので、当然給料も高くなる。そんな女性記者が来た、とちょっと騒ぎになっていた。
▽どれだけ仕事ができるのか、とみんな注目していた。

▽しかし、待てど待てど、彼女からは1本の原稿も出てこない。特ダネどころか、一般の雑誌記事も出してこなかった。3カ月経ち、半年が経ち、1年が経った。1年で数本しか原稿は書かなかった。特ダネ記者でもなかった。
▽そして2年が過ぎたが、事態は変わらなかった。
▽査定というのは前任地の上司が付けた査定であって、それが本物ではないことが明らかになってきた。最終的に彼女は本社の内勤に異動がなった。本人は嫌がっていたが、これは仕方がないことだ。原稿を書かない記者など必要ないのだ。
▽それにしても、朝日新聞記者は、他人の査定がすごい気になっている人種だと思った。自分より他人の査定が良いとひがむし、何がどうしてこういう結果になったのかと疑問に思う。自分が査定が良いと、当然だと思い込む。これがすべて給料に反映されるから、仕方ないのかもしれない。
▽しかし、冷静に考えたい。査定などその当時の上司が部下に点けたに過ぎない。新聞記者に客観的な能力の査定などできないのに、あえて朝日新聞は査定を点けている。つまり、上司の好き嫌いによって仕事ができる、仕事ができないという査定を点けているだけなのだ。部下からすれば、たまらない。新聞社で査定などしてはならないはずなのに、と私は思うが、その査定を点ける。そしてこれに一喜一憂する。これが朝日新聞のここ数十年の歴史だ。
▽査定など気にしないほうがいい。査定は所詮、査定に過ぎない。この女性記者のことでそれが分かったことだろう。

★418今となっては幻の朝日新聞上越支局の移転問題

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時の話だ。支局が老朽化し、移転する話が一部だが、出てきた。私は移転する場合、支局があった直江津地区ではなく、内陸部の高田地区に移転することを、支局長として望んでいた。その理由と、そして上司に宛てた具申のメールを紹介したい。今となっては、支局もその後廃止されてしまい、幻の移転話だった。
▽朝日新聞上越支局は、旧直江津市の直江津駅から10分の住宅街にあった。元々は、朝日新聞直江津通信局だった建物で、旧直江津市と旧高田市が合併し、上越市になったことから、朝日新聞は当時、旧高田市に置いていた高田駐在記者を廃止して、上越支局を誕生させた経緯がある。職長が1人、支局員も1人の、朝日新聞でいうところの準支局だ。
▽私が上越支局長に赴任した時も、その体制が続いていたが、歴代の支局長が引き継いでいたのが、「支局員は高田地区に住む」ということだった。
▽これは上越地方の特別な理由があった。そう、上越地方は日本海側でもトップの豪雪地帯で、特に高田地区は直江津から10キロ以上内陸部にあり、降雪期は交通がマヒする。降雪期に事件事故が管内内陸部で発生するならば、直江津地区の上越支局から取材に行くより、高田地区から行った方がより現場に早く到着できる、という読みがあったのだ。
▽このため申し送りされたこの決まり事を、私も支局員に伝えていたし、支局員も守ってきた。

▽だが、1年たち、2年が経過すると、私が住む上越支局を直江津に置いておく意味が次第に薄れていることを感じてきた。
▽だったら、支局ごと、高田地区に移転し待った方がいい、と思うようになった。豪雪の危険性があるが、そのデメリット以上にメリットが大きいと考えた。
▽以下が上司に送った具申のメールだ。読んでいただければ、理解できると思う。
▽=========================================
■上越支局の高田移転案
上越支局・原▽裕司

▽上越支局の場所を、以下の理由で、高田に移転するよう、申し上げます。

▽築30年経過した上越支局は、現在改築の話が進んでいますが、現行の場所に建物を建て直すのではなく、現在の直江津地区から10キロ離れた高田地区に移転させた方が、将来の朝日新聞の取材拠点として、より活動がしやすくなる、と思います。
▽▼理由の一つとして、この直江津地区に現在の建物を建てた時の予想が外れたことです。今から30年前、旧直江津市と高田市が合併した際、朝日新聞は、将来は直江津地区が中心地となるだろう、として、この地区に建物を建てた、としています。
▽この場所は当時の直江津警察署、現在の上越北署の裏にあり、また直江津駅から歩いて10分という距離で、さらに言えば鉄道要衝の地である直江津こそ、繁栄の場所として信じていたようです。
▽しかしながら、30年経過した今も、繁華街があるのは、高田地区で、直江津で日々生活をしていても、高田の様子、上越の経済の様子は全く分かりません。
▽上越の経済の様子を見るためにも、高田いた方が分かりやすいし、日々の街ダネも出稿しやすくなると思います。
▽▼そして、あと2年すると、上越北署と上越南署が合併して、上越中央署が、直江津と高田のちょうど中間地点に完成する予定でして、朝日新聞が直江津に支局を持つ最大の根拠を失ってしまうのです。
▽さらに言えば、県の出先機関や国の出先機関、取材が多い新潟地検高田支部、新潟地裁高田支部、高田測候所など、すべてが高田にあって、直江津にはありません。陸上自衛隊高田駐屯地も高田です。
▽豪雪地帯の土地柄ゆえに、雪となると道路はノロノロ運転を強いられて、直江津から高田に行くときは、1時間半以上もかかる毎日が続きます。
▽▼さらに言えば、一昨年開通した上信越道もジャンクションも高田にあり、妙高高原や長野に来るまで行く場合も、高田に支局があった方が、時間的にも都合がいいのです。
▽▼直江津に支局を置いておく最大のメリットだったのは、上越北署の裏であること、直江津に近いこと、直江津港に近いこと、支局長が家族同伴者なら、近くにショッピングセンターやホームセンター、スーパーがあることなどが3年前には引き継ぎとして言われていましたが、ホームセンターは撤退し、スーパーは倒産してなくなりました。空洞化が進んでいるのです。
▽▼高田に移転した場合のデメリットは、直江津駅から遠くなる、直江津港から遠くなる、雪が直江津より倍も多い、などがありますが、これもマンションなどに住むことによって解消されることだと思います。


▽以上の理由で、直江津に固執する意味が、取材上は全くなくなってきたことを申し上げておきます。

 敬具


▽その後私は転勤になり、この話は後任者に引き継ぎになったが、支局の老朽化が進んでしまい、朝日新聞は高田への移転ではなく、支局から1キロ内陸部のマンション内に支局を移転させて終わった。支局だった場所は民間に有料で譲渡した。
▽私の支局高田地区移転案は幻に終わり、そして最後は上越支局そのものが廃止されてしまった。悲しいことだ。

★417朝日新聞上越支局と高田駐在の廃止、そしてその損失

▽冬になると、豪雪地帯である新潟県上越市の状況が気になる。ある年は数メートルの積雪があり、日本でも有数な豪雪地帯。この街がどんな状態になっているか気になるのだ。しかし朝日新聞は地方取材網の縮小で、この上越支局を廃止してしまった。それ故、朝日新聞の紙面からは上越の記事が消えている。
▽朝日新聞は以前、上越地方に上越通信局、高田駐在、糸魚川駐在の3人の記者を配置していた。上越通信局は海寄りの直江津地方にあり、かつては直江津通信局と呼んでいた。高田駐在は、直江津より内陸部へ南に10キロの高田地方に記者を置いていた。糸魚川駐在は糸魚川にいた。
▽それが、糸魚川駐在と高田駐在をなくし、上越通信局を上越支局に格上げすると措置を取った。高田駐在記者が上越支局員となり、上越支局は支局長と支局員の2人体制となった。糸魚川の記者がいないから、この地域は3人から2人になったことになる。
▽私がその上越支局に赴任した時は、この2人体制の支局だった。
▽ただし、上越支局員は、高田に住むことを歴代の支局長の申し送りで決められていた。高田地区は、直江津地区より降雪量も積雪量も多く、万一の内陸部の事件事故の場合、いち早く現場に着くことを優先させるための対応だった。
▽元々高田駐在記者を朝日新聞が置いたのは、豪雪地帯だからだ。日本海側に近い直津地区より内陸部に10キロ以上奥の高田地区の方が雪の量は非常に多い。雪が降り始めると、国道は渋滞で麻痺し、行き来がほとんどできなくなる。それだけ雪の量が多いのだ。
▽上越通信局が上越支局に昇格し、高田駐在記者をなくした時、上越支局員を高田に住むようにさせたのは、このためだ。取材の行き来をうまくさせるためだった。
▽私が上越支局長に赴任した時も、支局員は高田地方に住んでいたし、支局員が移動して県外に出ても、後任支局員は高田に住んでいた。
▽そんな状況だったのに、朝日新聞はいきなり上越支局を廃止してしまった。
▽新潟総局から上越支局まで約140キロ離れており、夏の場でも車では2時間はかかる。雪道だったらもっとかかる。そんな上越地方の特有な事情を考慮するなら、上越支局を廃止したのは理解できない。
▽上越の豪雪のニュースをテレビで見るたびに、朝日新聞は上越のニュースを捨てているのかな、と思ったりする。悲しい限りだ。2024年元旦に発生した能登半島地震では、上越でも被害があったのに、ほとんど報道されなかった。


★415取材相手の好みを知るのも、大切な取材の一つだ

▽今回は取材相手の好みを知るのも、大切な取材の一つであることを書いていく。そしてその話は、他人には絶対話してはならない。他人とは社内でも社外でも同じだ。社内の人間にもシンパがだれであるかは、明かさないことと同列の話だ。
▽ある時のことだ。私は赴任先から自宅に戻っていて、休みを取っていた。自宅で酒を飲んでくつろいでると、知り合いの検察官幹部から電話があった。酒を持って飲みに来いというのだ。私はタクシーを使って、その検察官の官舎に遊びに行くことになった。途中で酒と焼き肉用の牛肉をスーパーで買ってから伺った。
▽この検察官は私が地方勤務の時からの知り合いで、東京でも別の地方でも一緒になったことがある。この時はたまたま私の自宅が管内の地方検察庁の幹部になっていた。私は別の地方に勤務していた時だった。だから直接の取材相手ではない。
▽官舎に着くと、その検察官幹部と奥さんがいた。奥さんは「久しぶり」と招き入れてくれた。
▽買って来た日本酒を飲み、焼き肉を焼いて、食べ始めていると、その検察官幹部が問わず語りに話し始めた。
▽地元の朝日新聞支局の警察担当記者数人がその日の午後遊びに来て、官舎で焼き肉パーティーを始めたそうだ。検察官幹部と記者が交流を目的にこうしたパーティーがあるのはおかしくないし、顔つなぎもあるから、大切な交流だ。
▽問題はその朝日新聞記者が土産に持ってきた飲み物が、缶酎ハイだったことだった。この検察官幹部、ビールの他、日本酒しか飲まないのだ。それを知らずに、朝日新聞記者たちは缶酎ハイを何本も土産に持ってきたというのだ。
▽酒は好みがあるのだから、ビールや日本酒も選択肢として入れるべきだったのだろう。
▽私たちは旧交を温めながら酒を飲んでいた。私は日本酒を飲みながら、
「相手の好みを知ることも大切な取材の一つですよ」
と話していた。
▽そして帰宅する際に、その幹部から大量の缶酎ハイを渡された。
「持って行けよ、俺は飲まないし」
と言われた。
▽私はその缶酎ハイをもらって帰宅した。
▽朝日新聞の警察担当記者が検察官のために持ってきた大量の缶酎ハイは、私が後日飲むことになった。笑ってしまう一幕だった。こんこことを当人たちは最後まで知らないだろうな。


★411新幹線事故の現場取材と本記、雑観記事の使い分けが出来ないデスク

▽私が乗っていた上越新幹線の東京発新潟行きの下り新幹線列車で事故があった。新幹線そのものが動けなくなり、上りの新幹線が横付けになって救助に当たり、私たち乗客はその救助の新幹線に乗り移った。滅多にない事故で、私はその新幹線の中から、パソコンと携帯電話で現場ルポの原稿を送った。しかし、新潟支局デスクは、この原稿を使うことはしなかった。なぜかと思ったが、今にしては分かる。このデスク、現場の雑観ルポと、本記の記事の区別が分からず、勘違いしていたのだ。
▽当時、私は新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた。実家に帰省しての帰りで、そのまま翌日からの新潟支局でのデスク当番に入る日程で、新潟に向かっていた。
▽乗っていた新幹線が新潟県に入って、しばらくしてからだ。列車のモーターに不具合があったらしく、列車が高架線上で止まった。アナウンスが流れていたが、運転再開の見込みは立っていなかった。
▽1時間がたち、2時間がたち、救援列車が来ることがアナウンスで流れて、乗客はその救援列車に乗り移ることになり、私も他の乗客と同様に、脱出口となった別の車両に移り、出口から移って、救援列車に移った。
▽そんな列車内で起きた出来事を、私は新潟支局デスクに電話して、雑観原稿をパソコンで打ち込んで、送った。
▽こうした事故の場合、新幹線の中にいては、事故の全体像は全くわからないし、見えない。分かるのは、列車内の出来事だけだ。私が送ったのは現場の雑観記事であり、いわゆる現場ルポである。
▽事故の全体像、つまり発生時間、発生場所、事故の影響、事故原因を知りたいなら、JR本社の運行担当部門や、そこから流れてくる広報部門での取材が必要だ。現場では事故原因も、どんな状況なのかも全く知る術がない。
▽全体像を知りたいなら、新潟支局デスクは本社社会部のデスクに第一報を入れて、取材を依頼し、社会部員に取材してもらうしかない。
▽しかし、この新潟支局デスクは、そんなことすら分からないらしく、私には全体像を入れる本記の原稿を求めてきたのだ。何を考えているのか分からなかった。ボツになったのは、本記と雑観の使い分けが出来ないデスクの判断が出来なかったためだ。本記は東京本社社会部のデスクに発注し、頼めばいいのに、それすらできなかったのだ。
▽デスクとは本来、どんな記者から、どんな原稿が出てくるのか、きちんと把握しなければならないのに、それがこのデスクはできなかったのだ。
▽本記と雑感の使い分けは、大きな事件事故ほど必要になってくる。例えば、飛行機が墜落した場合、発生時間、発生場所、事故の規模を一面トップで書き、これが本記となる。社会面では、どんな乗客が搭乗していたか、家族の話、航空会社の話、管制官の話、捜索の話などを社会面で書くのだ。これが雑観記事だ。これが本記と雑観記事の使い分けとなる。そんなこともわからないのが新潟支局支局のデスクだった。情けないと今になっては思う。


★408高校野球の取材場所取りでNHKとケンカ

▽ある年の高校野球県大会決勝戦で、NHKに取材妨害されたことがある。
▽夏の県大会は地元ファンにとって大切なゲームで、特に決勝となると、地元のテレビ局やNHKなどが中継する。1塁側と3塁側のカメラマン席、ネツト裏とバックスクリーン近くにカメラを設置し、実況中継に使う。
▽そんな中、1塁側カメラマン席で、NHKがロープを張って場所取りをしていた。グラウンドに近いカメラマンの席を全部占領していた。
▽これでは、他社のカメラマンが使えない。私はそのNHKの場所取り行為を見て、むっとした。
「譲り合いの精神がないのか」
と。
▽そしてそのロープを無視して、最前線で自分のカメラを三脚に設置して構えた。
▽するとどうだろう。NHKは、こう言ってきたのだ。
「こっちが場所取りしてるんだから困る、主催者にも許可は得ている」 ▽その話に、私はカチンとした。
▽夏の高校野球の主催者は、高野連と朝日新聞社だ。つまり、NHKは主催者である朝日新聞に許可をもらったのだろうか。
▽私は反論した。
「私は朝日新聞の記者だ。私の許可を取ったのか。取っていないのだったら、引き下がれ」
▽こう言ってにらみつけた。
▽しばらく沈黙が続いた。このNHKのカメラマンは、主催者が朝日新聞であることを知らなかったらしい。
「主催者の許可を取ってある」
と言い張ったその彼は、まさかこんな私の「私の許可を取ったのか」という発言に驚いたのだろう。
▽しばらく沈黙が続いた後、このNHKカメラマンは、こう返答してきた。
「すいません。そこだけなら大丈夫なので」
と言って引き下がった。
▽当然のことだ。カメラマン席は各社で皆、平等で使わなくてはいけないのだ。
▽先に場所取りをして、自分たちだけが中継するという誤った発想は持ってもらったら困るのだ。
▽後に総局長にこのことを報告すると、よくそんな反応が出来たなと苦笑いされてしまった。

★407孤独死とマンモス団地の栄枯盛衰

▽埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた2013年に参院選があり、その企画の一つとして、管内のマンモス団地を取り上げたことがある。いわゆる老朽化し、高齢化した住民が住む公団住宅問題だ。
▽草加市のUR(都市再生機構)草加松原団地。1963年に入居を開始した旧日本住宅公団造成の賃貸住宅で、324棟、総戸数5926と完成当時は東洋最大規模のマンモス団地と呼ばれた。当時の日本は高度経済成長前で、風呂がある公団住宅の生活は、庶民の憧れだった。
▽そんな団地に住む数人の住民に話を聞いた。商社マンだった男性(当時77)も抽選で入居が決まり、2DKでの新婚生活が始まった。
「家賃の5倍の収入がないと、入居できなかったんですよ」
▽こう振り返る男性は、東武伊勢崎線で東銀座まで通うサラリーマン生活で定年まで続いた。
▽さらに最近の話も聞き回っていた。
▽私はこんな書き出しで原稿を書いた。
《「様子がおかしい人がいる」
▽こう言われて、向かった団地の一角。ベランダの窓は戸締まりされており、無数のハエが飛び回っていた。玄関をトントンたたいたが、反応がない。異臭がした。「もしかしたら」。そう思った。案の定だった。一人暮らしの六十歳代の男性が死んでいた。孤独死だった。北海道出身だとしか分からない。地元でお年寄りを相手にしたボランティア活動を続ける男性は「またか」とつぶやいた》
《その団地で年寄りの孤独死が相次ぐようになったのは、最近のこの10年間だ。「孤独死」と定義する市の統計はないが、地元ボランティア団体の資料によると、2005年に13人もの孤独死が発見され、関係者に衝撃を与えた。大半が高齢者だった。入居者の高齢化で、一人暮らしのお年寄りが多くなったためと見られた。市によると人口に占める65歳以上の高齢者率は、2004年4月の13.3%から今年4月21.1%に急増しているが、中でもこの草加松原団地だけだと40%と2倍近い率になっている。
▽急速に進む高齢化社会。かつての憧れのマンモス公団住宅も建築から半世紀がたっており、老朽化しており、立て替え事業が部分的に進む》
▽そしてこの男性は退職したことを機に、地域の民生委員などを務めるようになった。
「ようやく地域交流ができるようになったんです」
▽そこで初めて、忍び寄る高齢化社会の実態を知るようになった。住宅の建て替え、高齢化、孤独死の三つが大きな課題になっていた。
「このままではいけない」
と思ったと私に話した。
▽孤独死が相次いだことから、男性が仲間と話し合って、発足させたのが、「松原団地見守りネットワーク」という組織だった。団地の商店街の一角に事務所を設置し、毎週月、水、金曜日の午後、スタッフが集まり、ボランティアを受けたい自宅を訪れる仕組みを作った。
「見守りネットワーク」は翌年にはNPO法人になり、地域にようやく溶け込みつつある。孤独死の歯止めにもなりつつあるのだろう。
▽しかし一方では、ボランティア側の人間も高齢者が多い。高齢者が高齢者を見守る、という図式で、将来図が明るいとは決して言えない状態だ。
▽最後にこう書いた。
《そして男性が心配するのが、認知症になる高齢者の増加だ。認知症が疑われた入居者に対しては、市が運営を委託している「地域包括支援センター」などに連絡し、高齢者施設に入所する手続きもお願いをするが、相当な時間と労力が必要になる。市長寿・介護課によれば、市内の特養老人ホームはどこも予約が一杯で、すぐに入所できる状態ではない。
▽団地に住む高齢者のほとんどが年金暮らしだ。団地の建て替えで、新しい団地には優先して居住する権利があるが、賃貸料は2倍以上に上がる。アベノミクスで日本経済が好転したと強調する安倍政権だが、高齢者に対する国の支援はまだ見えてこない》
▽高齢者は見捨てられていくだけなのか、と感じる取材だった。

★406総局の夜食風景と自宅に戻って食事をする記者

▽県庁所在地の支局を、朝日新聞はちょっと前から総局と呼ぶようになっている。その総局で泊まり勤務や夜勤につくと、デスクや総局員、同僚とともに、同じ店に夕食を注文することになる。いわゆる店屋物だ。
▽蕎麦屋だったり、洋食屋だったり、弁当屋だったりする。みんな仕事をしているから、店屋物が届くと、それぞれ自分の分の金を支払って、時間を見計らって、夕食を撮る。食べながら、パソコンに向かっていることも多く、しっかりとした食事時間は取れていない。夕食と行っても午後8時〜9時ごろになっているから、遅い夕食というか、早い夜食と表現した方がいいかもしれない。
▽仕事をしながら食事を摂る、というのが、昔からの総局の夜の風景である。もちろん取材先や仲間と飲みに出たり、先に帰宅する人間は総局にはいない。
▽しかし、だ。
▽こんな食事の風景に入らない人間もいることを、後に知った。
▽夕食時間になると、自宅に一度帰って、自宅で食べてくるのだ。そして総局に戻ってくる。
▽その話を聞いたときに、私は「えっ?」と違和感というか驚きを持った。
▽サラリーマンだったら、朝自宅を出たならば、帰宅するまで、仕事モードになっているので、自宅には戻らないと私はずっと考えていた。仕事の話を自宅に持ち帰ることになるし、夜の食事に自宅に戻るとは考えられなかった。
▽節約だとか、栄養のバランスを考えて、とか言うこともあるが、勤務時間中に帰宅することなど、私の人生ではありえなかった。
▽サラリーマンは一度自宅を出たら、夜に帰宅するまで自宅のことは考えないし、考えてはならないとずっと思い続けていた。
▽だから、帰宅して夕食を摂るという行動をずっと理解できないでいた。
▽そんな違和感を持ちながら、私は朝日新聞を退職したのだが、いまだにそういう話を時折聞くので、違和感は晴れないままだ。
▽勤務中に自宅に帰って食事をすることがいいのか、悪いのか、私にはいまだにわからない。
▽これが本社だと、夜勤や泊まり勤務には弁当が配布されるので、帰宅などあり得ないのだが。


【再掲載】★322新聞社のデスクとその能力とひどさ

▽私は一線記者として100人以上のデスクと付き合ってきた。尊敬するデスクもいたし、逆に酷いデスクもいた。今回はその酷いデスクの話をしようと思う。
▽新聞社にとってデスクとは、日々部下の記者が出してきた原稿を整理し、その日に組む紙面構成をどうするかを決める専任者だ。デスクといっても、本社と地方のデスクは仕事の方法が違うので、まずは地方のデスクについて記していこう。
▽ここでおさらいをすると、県庁所在地がある都市の総局には、トップに総局長が、次席としてデスクが、その下にキャップや一般総局員がいる。また地方には準支局や支局があり、そうした地方の記者もいる。デスクとは、キャップや一般総局員、地方の支局長が書いた原稿を直したり、削ったり、指示したりして、地方版の紙面を作っていく。
▽ここで大切なのは、その紙面感覚だ。つまり、地方版のアタマと呼ばれるトップ記事を何にするか、トップの次にカタと呼ばれる第2項目は何にするか、さらには3項目、ベタ記事には何をするのか。こんな紙面構成をどうやって組み立てていくかというセンスを紙面感覚と言うのだが、その紙面感覚がないデスクが意外と多い。
▽1ページに入る紙面の記事の量は決まっている。写真や見出しも入るので、1ページの記事の行数はせいぜい250−300行ぐらいだ。この紙面の中でどういう紙面構成をするのかが問われるのが、デスクの紙面感覚だ。
▽何が何でも長い行数の原稿を何本も出したり、写真をやたら何枚も出したり、記事を極端に削ったり、紙面感覚が欠如しているデスクが意外に多い。デスク業務のダッチロールが見られる。
▽こんなデスクが業務をしていると、その紙面を実際に組む地域版編集者にとってはたまったものではない。紙面がなかなか決まらないのだ。本人は紙面感覚がないことを自覚していないから、たちが悪い。
▽次にダメなデスクとは、部下に空威張りする人間だ。電話で怒鳴ったり、怒ったり、一見指導しているように見えるが、単なる感情を抑えられないだけだ。怒鳴ることが、指導だと勘違いしている人間は何人もいた。私は何人も、そういうデスクを経験した。
▽さらにひどいデスクとは、部下とのコミュニケーションが取れない人間だ。部下がどんなことを考え、どんな記事を書きたいのか、そういう事は全くわかってないデスクが多かった。要するに会話が成り立たない。会話が成り立たないから、新しい企画に取り組むことも出来ない。えさを待って口を開けている魚のようだ。部下から見ても、何を考えているか分からないのだ。
▽さらに言うと、部下と競争してしまい、部下より俺のが偉いんだ、と言わんばかりに、態度に出すデスクもいた。
▽知ったかぶりをして、誤った指導をするデスクもいた。部下の悪口を総局長に告げ口するデスクもいた。
▽このように見ると、地方では私はあまり良いデスクには出会えなかったかもしれない。

★401咲かないアジサイと蕎麦屋からのクレーム

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。群馬県渋川市の中心街にある小野池あじさい公園で、例年なら開花するアジサイの花が、ほとんど咲かないまま、「あじさいまつり」が始まっていることを記事にしたことがある。取材に行ったら、ほとんどのアジサイが開花しないままになっていた。
▽管理する渋川市に取材すると、せん定をしすぎたのが原因だ、という。切りすぎたために花が咲かなくなったらしい。このままアジサイは花を咲かせないまま、祭りが終わりそうだという趣旨の記事を書いて、紙面化された。
▽渋川市では1976年にアジサイを市の花と定めて、約1万3760平方メートルの同公園では約8千株のアジサイが例年6月から7月まで咲き誇っていた。毎年6月上旬から「あじさいまつり」を開催し、その年も案内役の職員を現地に配置し、祭りムードを盛り上げることにしていた。
▽しかし、その年は6月中旬を過ぎてもアジサイの花が一向に開花しない。咲いているアジサイは1割にも満たなかった。葉だけが青々としているだけだ。夜間のライトアップもむなしい光景になっていた。
▽同市都市計画課によると、同公園のアジサイを管理するため、毎年末に業者に委託し、せん定しているが、「せん定が強すぎた」といい、切りすぎたのが原因で、花が咲かないらしい。
「このまま今年は咲かない可能性が高い」
と説明し、現地では訪れる観光客のために、「今年は花が少ない」という趣旨の看板を設置した。祭りは7月10日まで行った。
▽原稿の最後に、私はこう書いた。
「同公園のあじさいまつりでアジサイが咲かないのは初めての経験だといい、市では来年に向けて、せん定の方法についても研究するつもりだ」
▽この記事に対して、前橋総局にクレームが入った。電話だったが、
「こんな記事を載せて、迷惑だ」
という内容だった。
▽電話の主は、あじさい公園近くの蕎麦屋の店主だった。要するに商売の邪魔だということらしい。アジサイを楽しみに来た客が、蕎麦屋に寄ってくれる、という思惑があるらしく、最初からアジサイが咲いていないなら、客が来なくなる、という考えだ。
▽ちょっと納得出来ないクレームだなと思った。市当局も「今年は花が少ない」という看板を出している。インターネットが発達した現在なら、訪れる客はインターネットで調べてから、行くか行かないかを決めるだろう。要するに、私が書いた記事が商売の邪魔になる、というクレームは無理がある。客はだましてもいいという考えになる。
▽この蕎麦屋。結構良い店で、蕎麦もうまかったが、それ以来、利用するのはやめた。クレームを入れたことで、客が1人減ったということになる。


★399幻のブドウ「ちちぶ山ルビー」を食べたい

▽朝日新聞秩父支局に勤務していた時、夏の楽しみの一つに、埼玉県秩父地方で育てられる地元特産のブドウ「ちちぶ山ルビー」を食味することがあった。種なしで皮ごと食べられる人気のオリジナル品種で、生産期間も8月中旬から下旬までと短く、店頭にも並ばないため、「幻のブドウ」とも言われる。
▽秩父ぶどう組合連絡協議会によると、「ちちぶ山ルビー」はロシアと米国の原産種を配合して、山梨県で生まれた。秩父地方では種なしのオリジナルの品種として、一部農家が苗木を入手して試験栽培を始め、次第に生産者が拡大していった。商品名を公募で「ちちぶ山ルピー」と決めて、売り出すようになった。
▽長さ約2センチの楕円形をした形状で、ブドウ特有の渋みもなく、糖度が高いのが特徴だ。生産農家が次第に増え、現在はブドウ農家の半数以上が生産している。農園での販売に限定し、秩父から持ち出さない、スーパーなどの小売店には出さないことを決めており、「秩父に行かないと食べられないブドウ」として次第に秩父の特産品として人気が高まってきた。
▽若い世代の購買層が多く、贈答用として予約する客層も多いという。「世界では秩父だけでしか食べることの出来ないブドウ」と関係者は胸を張る。
▽例年だと8月中旬~下旬のわずか2週間で生産が終わるが、天候不順があると、生産時期はややずれていく。
▽私は生産者らで開催する品評会の取材で、初めてこのブドウを知って、初めて食べた。こんなにうまいブドウがあるとは、と感動した。食感といい、甘みといい、大きさといい、一粒を一口でパクッと食べてしまった。生産者は常に研究して、うまいブドウ作りを手がけていることも知った。
▽以来毎年8月になると、管内の農園を訪れて、このブドウを買って、食べてきた。一般のブドウより、やや値段が高いが、それに値するうまさがある。
▽自腹でブドウを買って食べる、という行為は私の人生で初めてだった。ブドウって、皮を剥いて種を出す、という食べ方しか知らない世代だから、食べるのに面倒なイメージのまま、この年になってしまったのだ。ブドウに対する考えが完全に変わった。
▽全国的にはシャインマスカットなどの高級品が有名だが、ちちぶ山ルビーも高級品の一つとして、定着していくだろう。ぜひ、秩父を訪れて、このブドウを味わってほしい。

★398新型コロナ対策で出された自粛要請

▽新型コロナウィルスの感染拡大で、県外移動への自粛が求められた時期、私は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた。その時、観光地秩父には、県外や市外からの車による移動が想像以上に多く、驚いたことがある。どの程度の割合で、県外ナンバーの車が来ているか調べてみたことがある。
▽別にコロナ警察とか、自粛警察になるつもりではない。純粋にどのぐらいの割合で県外ナンバーが来ているかをを知りたかった。
▽市街地を走る交通量の多い国道と、観光地の1カ所を計測ポイントとして、それぞれ立って測った。
▽国道では、県外から来る下り車線を通過する車のナンバーを調べた。横浜、千葉、川崎、大宮、甲府、前橋など県外、市外から車が予想外に多かった。地元の熊谷ナンバーはわずか2割から3割だった。
▽一方の観光地施設の前でも、同じように立って測った。
▽それぞれ通過した100台ずつを見ていたのだが、同じような傾向だった。
▽こんな結果を、こんな記事にしていた。
《秩父市の羊山公園で開園している「芝桜の丘」には、西武秩父駅から歩いてくる客と、国道299号などを使ったマイカーの客がポツリポツリと上ってきた。記者が芝桜の丘に向かう車のナンバーを午前10時過ぎから100台計測したところ、地元の「熊谷」ナンバーが31台、それ以外の「所沢」「川越」などの県内ナンバーが37台、多摩、横浜、足立、練馬、群馬などの県外ナンバーが32台だった。ほぼ同数で、地元以外のナンバーが3分の2を占めた。
▽また休日だと多数のオートバイであふれる国道140号も、交通車両は少なく、比較的静かな休日になった》
▽予想以上に、市外、県外からの観光客が多かった。県外移動を自粛するよう要請されていたが、多くの人間は聞き入れていなかったことになる。
▽地元では秩父市や周辺の5町村の首長が会合を開いて、
「当面の間、埼玉県秩父地方には遊びに来ないでください--」
と呼びかける緊急メッセージを流していたこともある。
▽県内では有数の観光地として定着し、これまで観光客の誘致に積極的だった同地方だが、外出の自粛要請にもかかわらず、週末の観光客のにぎわいに危機感を深めた形だった。
▽秩父市、長瀞、皆野、横瀬、小鹿野町の4市町に今回は、道の駅でのにがわいがある東秩父村も加わった。
▽私は記事でこう書いた。
《緊急メッセージでは「秩父地域に来訪される皆様へお願い」と題して、同市の久喜邦康市長が読み上げた。メッセージでは、新型コロナウイルス感染の拡大が懸念され、不要不急の外出は控えるよう要請が出されているとして、「この状況にある間は、秩父地域へお越しになることはご遠慮いただくようお願いします」として、秩父への観光を控えるよう訴えた。
▽その理由として、メッセージでは「秩父地域は高齢者率が高く、医療体制も決して盤石とは言い切れない」「万が一感染が急速に拡大した場合には医療崩壊が起きる可能性もある」として危機感を訴えた。
▽最後にメッセージでは、「この難局が一段落した際には、地域を挙げて歓迎いたします」として理解と協力を求めた。
▽市の説明によると、先週末の土日曜日は、地元の道の駅や国道に県外ナンバーの車があふれ、一部で渋滞が発生する時間帯もあった。市には電話やSNSなどで、「道の駅や神社の駐車場をなぜ閉鎖しないのか」「(関越道)花園インターなどで検問は出来ないのか」などとする苦情も多数寄せられるようになったという。
▽また長瀞町の大沢タキ江町長によると、町内では多くの店が休業しているが、一部の店が営業し、その駐車場が満杯になっているといい、県内外の観光客がかなり訪れている現状を説明した。東秩父村でも地元の道の駅を利用する観光客が多いといい、その危機感を語った。小鹿野町の森真太郎町長は、街おこしとして「バイクの町」をうたっており、オートバイで町に来るのを、登山者の来訪とともに今後断るしかないことを強調した。
▽今後、6市町村名と「大事な命を守るため▽今は自宅で過ごしましょう」と書かれた看板を随時設置していく》
▽地元の危機感が、外部に伝わらなかった、ということなのかと当時の私は思った。


★396目の前で無安打無得点を見ていたのに気づかなかったベテラン記者

▽数年前の高校野球県大会での出来事だ。無名の高校の投手がノーヒットノーラン(無安打無得点)を演じた。地方版ではニュースになる。当然ながら球場を担当した記者が原稿を書いてくると思った。しかし出てこない。問い合わせると、ノーヒットノーランになったことすら知らなかった。指示をして、ノーヒットノーランをした投手に取材をさせた。結局、その記者はバスで帰ろうとしているその投手にボールを持たせた写真を撮影し、話を聞いて、記事に出してきた。本来ならマウンドで打者に投げている写真が必要だったが、それは撮影しておらず、なかった。
▽なぜノーヒットノーランに気づかなかったのか、わからない。しかし試合を見ていなかったことに尽きる。自分でスコアを付けていれば、分かりそうなのに。サボっていたのだ。どうにもならないベテラン記者だった。試合中、何をしていたのだろうか。情けなくなった。
▽夏の高校野球大会は、新聞社にとっては大きなコンテンツだ。新型コロナウイルス感染の拡大で、無観客にしたり、変則の開催をしたり、主催者も知恵を絞っての開催をしているが、読者の関心は高い。
▽試合球場には記者を配置させて、試合結果を記事にしていく。当然写真も撮影する。地方版はこの高校野球の話で紙面が埋まる。球場ではスコアを付けるアルバイトを雇って、試合結果を確認する作業もしている。地方総局や地方支局には試合結果を知りたい読者からの電話が多数かかってくる。準決勝レベルになると、スポーツ新聞の取材も多くなる。
▽新聞社と高校野球が切っても切れない関係があるのは、コンテンツの大きさにあるのだと私は解釈している。
▽だからこそ、多くの新聞社が入社した新人記者に教育する一つに、高校野球がある。野球好きなら問題はないが、野球を知らない新人の場合は、野球というスポーツがどんなものかを勉強しないとならない。先攻と後攻があり、攻守が切り替わり、投手が球を投げて相手打者が打つ。打球を追う野手がいて、打者走者が進塁する。幼いころからこうした野球を見ていれば、何となくルールは分かりそうだが、野球に関心がないとそうは行かない。ゼロから勉強しないとならない。ビデオで野球を真剣に見ている新人記者も多い。野球はルールが多いスポーツの一つだから、勉強も大変だ。
▽こうした経験を過去に持つベテランだったら、目の前の試合でノーヒットノーランを演じて見せたことに気づかないはずはないのだ。恥ずべき出来事だった。


★394秩父地方のB級グルメ「わらじカツ丼」

▽埼玉県秩父地方では、地元の人間はほとんど食べないが、地元以外の観光客がこぞって店前に列を作って食べるB級グルメがある。そう、「わらじカツ丼」だ。今回はその話をしよう。
▽地元の有名店では、何十人もの人が店の前で列を作って順番を持っている。しかしこの列の中に、地元人間はほとんどいない。こんなB級グルメだ。
▽わらじカツとは、地元の料理人が考案したもので、豚肉を叩いて叩いて、引き伸ばして薄く平らにしてから、衣を着けた揚げたカツだ。やけに面積が広く、これを2枚丼に載せると、丼をはみ出してしまう。2枚載せるので、草鞋のように見える。一見豪快に見えるのが、わらじカツ丼の良さだ。
▽私も朝日新聞秩父支局に赴任した直後に一度食ったのだが、なんだ、これは、と思ってしまった。
▽豚肉を叩いて叩いて薄くしただけで、これに衣を着けて揚げているから、ハムカツのように思えた。中身の豚肉より、衣の方が厚いから、どちらかと言えばハムカツそのものだ。うまいともまずいとも言えなかったが、私は3年勤めた秩父支局で、わらじカツを食べたのはその1回だけだった。もういいやと思った。
▽豚肉のカツを食うのだったら、もっと厚い方がいいし、中身の豚肉より、衣の方が厚いから、デンプンと脂肪の塊。健康にも悪いと私は思ってしまった。
▽だが、それでも市内にある専門店には、客が並ぶ。どんな暑い日でも、どんなに寒い日でも20人から30人の客が店の前で待っている。その前を車で通るたびに、私は不思議に思っていた。こんなB級グルメ、なぜ人気があるのか、と。
▽もっとも地元では、このわらじカツ丼を発案した料理人を称賛する声がある。よくもまあ、こんな食べ物を作ったものだと感心していた。
▽これによって秩父ではこれがB級グルメになって、観光客を呼んでいるんだ。その意味では貢献度は高いのかもしれない。
▽こうして秩父ではわらじカツ丼を求めて観光客が今日もやってくる。


★392日記に書いたアホ上司への怒り(114本目「記者編集」の続報)

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時、朝日新聞では大きなプロジェクトのテストが進行していた。朝日新聞新潟版を本社の地方版編集の担当者が組むのではなく、新潟支局の人間が組むという「支局記者編集」(通称S編集)、今から振り返ればトンデモナイことをトライしていた。究極の合理化だと喧伝された。私も上越支局から140キロも離れた新潟支局に駆り出されて、毎週末2泊3日か、3泊4日の出張を強いられて、デスク当番と編集作業の二つの仕事を交互に行っていた。
▽そんな時、本社の筆頭デスクが私の悪口を言っているのを、知り合いから聞いて、怒りを持った記憶がある。
▽その時に書いた日記をそのまま紹介しよう。名誉のために、デスクの本名はイニシャルにした。

《にしても、怒りも沸いてきた。
▽今、本社の筆頭デスクのUに対してだ。
▽支局員にこんなことを言っていた、というのだ。
▽「俺は原が嫌いだ」
▽「仕事ができない奴が地編に行く」

▽反論をしておく。
▽僕が嫌いでも、それはかまわない。
▽人間の好き嫌いは感情論であって、まっ、人間らしいことだろう。
▽問題は立場を考えて発言しろ、ということだ。
▽元新潟デスクであっても、現在は本社筆頭デスクという立場だろう。人事権者に近い立場の人間の発言は、一人歩きする。
▽ましてや、新潟支局はS編集(支局記者編集)というやっかいなシステムを抱えており、支局一丸となって進めている最中だ。
▽こういう発言が、チームワークにどう波紋を投げかけるか、分かっているのだろうか。支局のチームワークを乱すような発言は、いくら個人的にしたとしても、やめた方がいい。
▽部下が嫌いでもかまわない。朝日新聞通信部の歴史は、仕事の実力本意で人事を動かしてきた、というより、好き嫌いで動かしてきたし、そういう意味では、Uは、イエスマンになり切って、上にヘラヘラ、下に厳しく、という態度で今の地位を得たのだから。

▽もう一点。
▽後者についても反論する。
▽こういう考えがあるから、S編集(支局記者編集)が進まないのだ。
▽こいつがS編集の責任デスクと聞いた時、ブラックユーモアかと思った。
▽確かに、朝日新聞の地方版編集は、「仕事が出来ない」という烙印をおされて人事異動で来た人間が多いのは確かだ。
▽その意味では、Uせんせいは、仕事ができたのでしょう。出来た、というより、出来るふりを見せるのがうまいのでしょうね。
▽ここで見逃してはならないのが、彼の心のどこかに、今でもある、地方版編集に対する差別心です。その心が、言動に現れてくるのです。
▽こんな人間が幹部になるから、そのような人事を繰り返してきたのだし、今になってS編集(支局記者編集)の要員が足りない、なんていう事態に直面しているのだ。
▽まさにブラックユーモア。
▽将来展望もしないで、好き嫌いで人事を動かした結果が、今のS編集(支局記者編集)状態です。
▽分かりますか。この将来展望のない人間を、デスクにしたこと自体、どういう意味か分かるでしょうか。

▽ついでに言っておくと、紙面を組むのは難しい作業だよ。いくら知ったかぶりしても、編集作業というのは、出来ない。一度、Uに地方版を組ませてみたいなあ。簡単にはいかないことが、よーわかるやろ。

▽S編集(支局記者編集)を強硬に進めようとする本社の役員よ。
▽本当に進めたいのなら、こうした差別心を持つ中間管理職を、どこか飛ばさないと、無理ですぞ。
▽そして労組幹部よ。準支局長が休みをまともに取れずにS編集(支局記者編集)をしている実態を知りなさい。
▽根性論だけでは出来ません。
▽ついでに私もS編集(支局記者編集)のないところに飛ばしてくれないかなあ。

▽ふーーーーっ、疲れるぜ、馬鹿デスクを相手にすると。
▽僕は、Uが嫌いではありません。念のため。軽蔑しているだけです。ハイ》

▽当時の怒りが今でも伝わってくる内容だ。
▽そしてこの支局記者編集は、合理化が出来ないことを会社が認めて、中止になった。
▽さらに言うと、このUというバカデスクは、最終的に地方の放送局に出向になって、そして評判が悪いまま辞めた。


★391楽しかった青空飲み会

▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時、新型コロナウイルス感染の拡大と縮小が続いていた。居酒屋は閉まっており、私は記者クラブの同業他社を誘って、市役所の近くの公園で、夕方の青空飲み会を何回か開いたことがある。
▽スーパーやコンビニで買ってきたビールや缶チューハイ、惣菜を持ち寄って、各自公園のベンチに座って飲みながらおしゃべりするのだ。中には自分で作ってきた料理を持ってきた同業他社もいた。単身赴任で料理には自信があるらしい。
▽記者クラブと言うのは、新聞やテレビなどの同業者が集まる緩い組織で、本来はライバルであり、敵でもあるのだが、地方の記者クラブの場合だと、同じ仕事をしているため、仲間意識も強い。場所にもよるが、当局との懇親会のほか、年に数回、懇親会をやっていた。クラブの会員全員ではなく、有志など飲み会もあった。
▽私はそういう場が嫌いではなかった。同業他社の話は面白かったし、参考になった。
▽転勤族だったので、以前一緒だった同業他社の記者の最近の動向を聞いたりすることもあり、懐かしい話もあった。
▽コロナの時期、公園での青空集会は、そういった同業他社の飲み会の場所として有効だった。夕方から始めたが、空はまだ暗くなっておらず、約1時間で引き上げたのだが、秩父支局では鮮明に残る記憶である。定刻に仕事を終えた市役所の職員も立ち寄ってくれた。
▽しかしなぜか当時の毎日のベテラン記者は全く参加してくれなかった。

★390武甲山の山開き

▽埼玉県秩父市と横瀬町にまたがる武甲山(1304メートル)は不思議な山だ。現在も石灰岩の採掘が行われている山で、山肌が次第に削れてきて、長い時間をかけて、その山の形が次第に変化している。そのピラミッド型の山は、秩父市の市街地から一望を見ることが出来て、地元に愛され、日帰りできる登山コースとしても知られている。冬は冠雪し、冬の到来を告げる山でもある。ガイドブックなどには《日本二百名山、および花の百名山に選定されています》と紹介されている。
▽私が朝日新聞秩父支局に勤務していた2019年5月1日、その武甲山の山開きがあり、私は取材で同業他社とともに山に登った。平成時代が終わり、令和初日となったその日は、山頂に立った愛好者らは雲間から見る眼下の市街地の様子を、楽しんで写真撮影していた。
▽とここまで書くと、私も一般登山者として登頂したと思われるだろうが、実は報道陣用に地元の鉱山会社が専用のバスを用意してくれて、頂上までいくことが出来たのだ。山の中には石灰岩の採掘と搬出のため、多数のトンネルがあり、そのトンネルを使って専用バスはクネクネと進み、難なく、頂上に着いた。
▽そのコースの途中では、削られた山肌が露出していて、地上からは想像できない荒々しい採掘現場であることが確認できる。遠くから見ればきれいだが、近づくと肌が粗いという感じなのだ。確かに冬になると冠雪するが、その模様が段々畑のように見えるのは、石灰石の採掘のためだった。
▽山頂近くの武甲山御嶽神社では山開きの神事があり、登山者らが山の安全を祈った。これに続いて、新天皇の即位を祝うため、「大黒舞」という伝統の踊りが神楽師によって奉納された。氏子総代が
「平成も終わり、元号が変わり、山開きも重なり、本日は本当に素晴らしい1日になった」
などと語った。
▽今度はキチンと歩いて登ることにしよう。


★387部下に送ろうとした説諭の手紙(「370部下への説諭と説教は必要悪か」の続報)

▽コラム「370部下への説諭と説教は必要悪か」で、遅刻や失敗を繰り返す支局員に最後説諭した話を書いたが、その際、彼に渡そうとした手紙があった。その手紙を紹介する。

《G君。
▽これまでご苦労様でした。
▽これまで君が支局で行ってきたことを教訓にして、新しい職場で働いてもらいたい、と願っています。
▽ともかく君が行う言動の一つひとつが、新聞記者、否、社会人として逸脱しているので、驚く日々でした。
▽最初は原稿を書くのが先決だと思い、目をつぶっていたのですが、原稿を書けない、トラブルを犯すのは、生活態度に原因がある、と思うようになりました。そして統一地方選を契機に、当時のデスクと相談して、原稿はデスク、生活態度の指導を僕が、という分担を決めました。
▽ともかく寝坊・遅刻が多すぎる。一度でもやってはいけないものなのに、それに対する罪悪感が君にはない。同僚と一緒のスタート地点に立てない、ということは信頼されない、ということです。
▽寝坊・遅刻するから、新聞記者なのに、新聞すら読んでこない。他社に抜かれても、何の行動もしないことばかりでした。
▽事務所の新聞切り抜きをしろ、と命令したのに一向にしない。
▽寝坊してぎりぎりに来るから、君が小脇に抱えてきた他社の新聞が事務所にたまるようになってきた。これも何回も注意したことを覚えていますか。
▽八時半までに来たから、というのは、寝坊・遅刻しなかった、というエクスキューズにはなりません。
▽自宅で朝、新聞を読んで、テレビのニュースを見てから出勤し、事務所に来た時は、さあ仕事をスタート、というのは、新聞記者としての基本です。そうした生活リズムがいつまでたっても君には出来なかった。
▽話があるので君が支局に来た、と思って事務所に入ると、君はうんこをしている。
▽うんこなんか、自宅で出勤前にするものでしょう。
▽それに君は時々、うんこを流さない。パートのおばさんが愚痴をこぼしていました。
▽とにかく生活態度がだらしない。だから、学ぶ態度がつけられない。
▽君のために、いろいろな情報をヒントに、取材と執筆をアドバイスしてきたのに、君が実行したのは約一割。残り九割は実行してくれませんでした。
▽原稿を書くのが遅いのは仕方ないとしても、取材した原稿を翌日回しにすることはやめてもらいたかった。その日に行うべきものを、君は翌日回しにしてしまう。実に自分に甘えている。
▽その一方で地元嘱託カメラマンに誘われて、安易なスケッチ取材や行事ものの取材に行ってしまう。
▽何回か怒ったけど、君は僕の注意もアドバイスも、そして命令も聞く耳を持たなかった。
▽行事ものは片手間にやるものであって、新聞記者の本質ではない。
▽君のためにと思って指導してきたのに、君は僕の話を無視してきた。
▽だから君は成長をしなかった、と僕は思います。自分に甘えているだけ、と判断せざる得ないのです。
▽君は大五郎事件で地検幹部に食い込んだ事実は評価しますが、それを「馬車馬のごとく働いた」と僕に話したことに、ややショックを受けています。こんなわずか一カ月の取材で、「馬車馬」ならば、首都圏支局や本社の労働実態は、この何倍もひどくて、とうてい、君には生活リズムが追いついていけない、と思います。
▽一年間は休みなし、と前支局長には言われたはずだけど、僕は休みを与えたつもりです。休みの使い方も、前の職場の体質を引き継いでいるようで、残念です。
▽まだ発展途上なのに、このままだと君自身がかわいそうだし、君のためにはならない、と判断します。
▽君は新聞記者には向いていない。会社組織で生きていく場合、一回でも罰点の烙印を押された汚名を返上するには、時間がかかります。まだ新聞記者で生きていく、というなら、歯を食いしばって休みも返上して、死にものぐるいで勉強し、仕事をしてください。
▽以上です》

▽この手紙、本人に渡したかどうか忘れてしまったが、今読み返しても、かなり深刻な状態であることが分かっていただけただろうか。


★383サッカー日本代表のセンターバック中沢選手その3(380・中沢選手その1、その2の続き)

▽サッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会に出場する日本代表の中沢佑二選手は埼玉県出身である。
▽私は以下のような企画案をさいたま総局デスクに提出していた。
《▽■企画案、サッカーワールドカップ代表中沢選手の故郷から

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽東埼玉支局▽原

▽表題のように企画を提案します。
▽中沢は日本代表のうち、埼玉県を故郷にしている選手です。
▽新内閣の発足と近づく参院選で、紙面取りも含めて、7日の月曜日の週に掲載を希望します。次の週は大会が始まってしまうため、前打ちの意味がなくなってしまう、という意味もあります。また本社の行政回答が無駄になるのを防ぐこともあります。また本紙でどう使うかは、全く予想できないこともあります。

▽まずは、2県を埋めてしまう案を提案します。これが無理な場合は、ワッペンで分割して随時掲載、という案にします。
▽以下で本紙と重なる可能性があるのは、本文3の高校時代の恩師の話です。県版と本紙は別、という意識なら重複はある程度構わないと思っています。重複を避けるとなると、恩師の話は、削って短くすることも一案だと思っています。


▽▼前文▽▽無名だった中沢はどんな中高時代を吉川で過ごしたのか、というトーンにします。▽15行

▽▼本文1▽中学時代の中沢▽40行

▽▼本文2▽同じサッカー部の先輩2人の話▽80行

▽▼本文3▽高校時代の恩師の話▽100行

▽▼本文4▽中沢が通っていた高校の今▽30行

▽▼写真は、中沢が通っていた高校の今のサッカー部の練習風景▽一枚

▽以上です》
▽朝日新聞埼玉版の見開きの紙面のうち、「第2県版」と呼ばれている右のページをすべて、この中沢選手のエピソードで埋めてしまおうとものだった。
▽かなり面白いエピソードが取材できたので、面白い紙面になると確信していた。
▽しかしデスクからの反応はないままだった。企画案にも書いたように、新内閣の発足と近づく参院選のため、紙面がきつくて、入る余地がなかったからかもしれない。
▽結果として、私の書いた原稿のうち、わずか一部が使われただけで終わってしまった。もったいないと思った。
▽実際に南アフリカ大会が始まると、中沢は活躍した。今度は中沢選手の出身地である埼玉県吉川市で深夜、パブリックビューイングのイベントがあり、その取材に追われた。せっかくのエピソードは幻に終わってしまった。
▽残念だった。
▽今振り返ると、やはり当時のさいたま総局デスクの能力の問題だったのだろう。出した企画案や原稿について、私に対して、何も説明してこなかった。使うのか、使わないのか、削るのか。使わないなら、その説明することすら出来ないデスクだった。こうしたデスクの管理能力劣化も気になる。

★382サッカー日本代表のセンターバック中沢選手その2(380・中沢選手その1の続き)

▽埼玉県内有数の高層住宅が広がる三郷市の中心街に、その高校はある。中沢選手が通った県立三郷工業技術高だ。私が勤務していた朝日新聞東埼玉支局の管内にある。
▽サッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会に出場した中沢選手は、吉川市とは隣の三郷市にある、県立三郷工業技術高に入学した。サッカーとしては県内高校でも常勝高ではなく、さらには百数十人いたサッカー部員の中では全く目立たない選手だった。
▽当時の監督は、その時の中沢選手の印象をこう語る。
「下手くそで、左足が使えない。色が黒く、ゴボウのような印象しかなかった」
▽だが、この時の中沢は、早くも希望を秘めての入学だったらしい。入試面接の時に将来の希望に聞かれて、こう答えて周囲を驚かせている。
「この高校出身者初のJリーガーになる」
▽冗談とも本気とも分からない中沢の発言は、後に語り草になっていくのだが、監督によると、当時のサッカー部には中沢選手よりプレーがうまい選手が何人もおり、1年生の中沢選手は、他のうまい選手とのギャップを埋めるため、黙々と練習をこなした。パスが下手だと分かると、仲間が練習を終えても何回も何回もパス練習を1人でこなした。日が暮れて周囲が暗くなると、今度は体育館でフットサル方式で練習を続けた。あまりの熱心さに、監督は、こう冗談交じりで怒鳴ったこともあった。
「いい加減に帰れ。おれは新婚だぞ。離婚させる気か」
▽とにかく走らせた。100メートルダッシュを100回。300メートルダッシュも10回。サッカーに必要な運動量を作り出すためだ。
「サッカーに必要なのは瞬発力と持久力。そのために徹底してトレーニングを続けさせた。奴の基礎体力は高校時代に作った」
と監督は振り返る。
▽中沢選手は自分の弱点を知っていたようだ。足が遅くて瞬発力がない。これを克服する努力を、練習で続けていたのだ、と監督は言う。
▽中沢選手が、ようやくその存在を認められたのは2年生の時だ。3年生のレギュラーがけがで試合に出ることが出来なくなり、中沢選手が代役に起用されたのだ。その後、レギュラーの座を射止めた中沢選手は、次第に頭角を現してきた。サイドバックのDFとして、守備の要になっていく。
▽そして3年生の時は主将を務めた。あまりの練習量の多さに、部員が次々とやめていく事態も招いた。ストイックさについて行けなかった選手が多かったのだ。
「命がけでサッカーをしているのに、何なんだ」
と本人は語ったという。練習の虫でもあった。
「高校に入った時は、『使えない選手』だった。彼よりうまい選手が何人もいた。それが練習量でレギュラーを獲得した」
と当時の教諭は振り返る。
▽卒業後も何かあると監督を訪ねるようになった。
「何か悩みがあると、私のところに来るんです。しかし、悩みそのものは何も話さない。私に一押ししてもらう言葉が欲しいのでしょうね」
▽大会前にも一緒に食事をした。よくしゃべる。将来は高校教師になってサッカーを指導したいと希望を漏らしたこともある。
▽W杯南アフリカ大会に出る中沢選手については、こうエールを送った。
「相手を怒らせるような、あいつらしい、泥臭い、しつこいプレーをしてもらいたい。1勝1敗1分けで予選を突破してもらいたい」
▽いいエピソードを取材できたと思った。埼玉県版に最適な記事になると思った。
▽しかし、理由は分からないが、ほとんど紙面化されずに終わった。今振り返ると、さいたま総局デスクの理解を得るのが出来なかったのだろう。


★381ザスパ草津の監督を務めた植木繁晴さんの死

▽サッカーJリーグ、ザスパ草津(当時・現ザスパ群馬)の監督や社長を務めた植木繁晴さんが亡くなった。改めてお悔やみを申し上げたい。
▽まずは朝日新聞に掲載されたお悔やみ記事から見よう。
《植木繁晴さん(=うえき・しげはる=Jリーグベルマーレ平塚〈現湘南〉元監督)11日、前橋市内の病院で死去、69歳。葬儀は15日午後1時から前橋市六供町2の50の30の日典ラサ前橋で。
▽1977年に湘南の前身、フジタ工業サッカー部に加入。96年から平塚(当時)を指揮し、中田英寿を指導した。2004年に草津(現群馬)の監督に就任し、社長などを歴任。14年からは上武大の監督を務めた》

▽今でも覚えているのは、2004年12月17日夜の天皇杯5回戦、仙台で開かれたザスパ草津と横浜マリノス戦だ。ザスパ草津はこの年、JFLで3位になったチーム。Jリーグ昇格を目標に1年間を戦ってきたが、目標の優勝には届かなかった。一方の横浜は岡田監督が率いてJ1優勝を果たした王者だった。
▽ザスパ草津の特長は、選手のほとんどが一度はJリーグを解雇されて、群馬県草津町の温泉街で働くアマチュアのチームだったことだ。当時私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤めていて、ザスパ草津の全試合を取材していた。
▽試合は、ザスパ草津の先制で前半を終える。しかし後半、ザスパ草津の選手が2枚目のイエローで退場。その直後に1点を献上し、同点となる。さらにはもう1人、2枚目のイエローとなり、ザスパ草津の選手は9人となり、絶体絶命のピンチとなる。11人を相手に9人だ戦うという絶対的に不利な条件だ。
▽それでも90分を1対1で終えて、延長戦に突入する。
▽ザスパ草津のGK、元日本代表の小島は膝を怪我して、足を引きずりながらのプレーを続行。痛々しさが伝わる。
▽そして延長11分。横浜陣内で得たFKからのクロスで出たこぼれ球にDF依田が反応し、決勝ゴールを奪ったのだ。決勝ゴールで試合は終了した。何という結果だ、と思った。伝説のゴールだと今でも思っている。
▽9対11の闘いで、王者にアマチュアチームが決勝ゴールというとどめで勝ったのだ。
▽この興奮が今でも忘れられない。私は急いで、記事を書いた。「挑戦者に意地か、王者のプライドか」。こんなトーンの記事を書いた。
▽その時の笛木監督とGK小島が笑顔で向き合っていた写真が、葬儀の時にも飾られていた。あれから20年が経過したのだ。

▽振り返ってみれば、その年の4月、私が朝日新聞渋川支局に赴任した時から、私のザスパの取材は始まった。Jリーグを解雇された選手たちが、日本有数の温泉地である草津温泉の施設で働きながら、サッカーJリーグを目指す、というストーリーに、惹きつけられた。前任者の引き継ぎや、前橋総局長の指示もあり、私はザスパ草津の取材を続けた。
▽練習地である草津温泉は、私が勤務する渋川支局から車でⅠ時間半もかかる上高地だ。何回も練習会場に行き、JFLのホーム戦とアウェーのすべての試合を取材した。
▽朝日新聞にとっても、サッカーは大切なコンテンツだったのて゜原稿を書き続けた。
▽試合前でも、植木監督は私たち取材陣を相手に雑談をよくしてくれた。よく取材に応じていた。Jリーグの監督だったら、ありえない対応してくれたものだった。
▽JFLでは結果として3位に終わったが、J2への昇格が決まった。その昇格時の話は別稿で書いているので、そちらは参考にしていただきたい。植木監督は泣いていた。
▽昇格後、ザスパ草津は宮崎県でシーズン前のキャンプを張った。ある時、取材で来ていた私の携帯電話に植木監督から電話が入った。
「キムチを買ってきてほしい」
▽新加入した元韓国代表選手が、キムチを食べたがっているというのだ。キャンプの食事ではキムチがないらしい。
▽私は借りていたレンタカーでスーパーに寄ってキムチを買い、キャンプに持っていった。そのぐらい、監督と報道陣との壁は低かったのだ。
▽ザスパが全国で注目されたのは、温泉街で働きながらJリーグに復帰するという選手の夢と希望を、植木監督が与え続けたからだ。その意味で群馬のサッカー界にならず、全国のサッカー界への貢献者でもあるのだ。
▽植木さんよ、安らかに眠ってほしい。そして、感動をありがとう。そう伝えたい。

▽2023年10月1日、NHK総合で放映された「サッカーの園 〜究極のワンプレー〜 」はジャイアントキング特集を行い、ザスパ草津と横浜マリノスの試合を振り返っている。


★380サッカー日本代表のセンターバック中沢選手その1

▽2010年のサッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会に出場した日本代表の1人が、埼玉県吉川市出身のDF中沢佑二選手だ。屈指のセンターバックとして活躍したが、大会出場前に私は中沢選手のエピソードを取材していた。当時、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。管内の吉川市や中沢選手が通っていた高校も三郷市にあり、ともに支局管内であることから、埼玉県版用に紙面化しようとしていた。
▽中沢選手は、多くの日本代表選手とはやや変わった経歴の持ち主だ。日本代表の多くがクラブのユースチームや強豪の高校からJリーグ選手に上り詰めたのとは対照的に、中沢選手は中学、高校時代を通して、全国的には無名に近い選手だった。
▽中沢選手が通った吉川東中学は当時、校舎の改築工事最中で、グラウンドはプレハブ教室が建てられて、練習は学校から走って5分から10分の江戸川の土手を使って体力トレーニングをするか、自転車で30分もかかる草っ原での練習が中心だった。当然試合も自分の中学では出来ず、すべてはアウェーだった。
▽こう語るのは、当時の監督だ。
▽4―4―2のシステムで、中沢選手はセンターバックで、ストッパー役。1対1が強くて、ヘディングもうまかった。球の落下点に入る速度が速かった、と元監督は振り返る。セットプレーで中沢選手のヘディングシュートで1対0で勝った試合もある。
「ドンピシャリのタイミングだった」
▽相手の監督に、あいつはだれなんだと聞かれた。
▽とはいえ、しょせんは農村部の中学サッカー部。県東部の吉川、三郷、松伏での3市町で構成するサッカー中学地区大会では、大差で負ける試合が多かった。2年途中からキャプテンになったが、無名のまま中学時代を過ごしたと言っていいだろう。
「どちらかと言えば、プレーヤーとしては目立たない、本当に印象のない選手だった」
と中沢の中学時代を振り返るのは、中沢選手が通っていた吉川東中サッカー部時代の1年先輩だ。ともにDFで、中沢選手がサイドバックだったと記憶する。中沢選手は現在のような身長もなかった。ただ運動神経がよくて2年生でレギュラーとなり、一緒に試合に出た。
「記憶に残るプレーはなかった。ただ、負けん気が強かった。やんちゃで、プレーに対するひたむきさが、あの時からあった」
▽その中沢選手が選んだ高校は、県立三郷工業技術高校サッカー部。そこには1年先輩のGKがいた。吉川市の小、中、そして高校でもサッカー部で一緒の先輩だ。その先輩が見た高校時代の中沢選手は、我慢強い、サッカーばかり考えているような高校生だった。
▽2年生でレギュラーとなった中沢選手は、4―4―2システムの最終ラインのDFとして、ストッパー役を任されていた。ゴール前にひしめく混戦の中を、中沢選手らとGKらがゴールを必死に守り合う意識が次第に芽生えてきたという。
「お互い助けたり、助けあったりしていた。彼はファウルで倒されても、絶対アピールしないし、けがをしても痛がるようなアピールもしない。中学時代から体が強かった」
▽そんな中沢選手が、高校を卒業後には全く違う中沢選手になっていた。中沢選手がブラジル留学を終えて、当時のヴェルディ川崎(現在は東京ヴェルディ)の契約練習生になり、吉川市内で開かれた市民のサッカー大会で、中沢選手を助っ人として選手として出てもらった時だ。その大会で久しぶりに中沢選手のプレーを見た小沢さんは、絶句した。
▽背が伸びていて、身体も強くなり、ブラジル留学で得た肉弾戦のプレースタイルに、驚いた。この時はFWとして、全試合の得点すべてに絡んで、チームは優勝した。中学時代とは全く中沢選手がそこにはいた。
「驚きました。これがあの中沢か」
「プロになれるとは思ったが、まさか日本代表になるとは、まさかと思った」
▽こんなエピソードを集めて、朝日新聞さいたま総局デスクに企画案を出した。

【再掲載】★049金塊盗難騒ぎ

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤めていた時、金塊盗難事件があった。金塊と言っても本物ではなく、レプリカで、犯人はレプリカとは知らずに強引に盗んでいった。しかもそのレプリカと隣には、本物の銀塊が陳列されていて、犯人はそれには無視した。犯人に対して、同情論まで出る始末だった。
▽2017年4月のことだ。世界文化遺産登録を目指していた新潟県佐渡市の佐渡金銀山の一角、同市相川郷土博物館で展示されていた金塊のレプリカ5枚が17日未明に盗まれ、同市が県警佐渡西署に被害届を出した、と支局のファクスに広報連絡があった。支局のファクスはそのまま私のスマホに転送される。「相川郷土博物館で金のレプリカが盗まれた」という内容で、別の取材でマイカーで移動中だった私は、最初はそのニュースの意味はよく飲み込めず、電話取材で済ませようかと思っていた。しかし、写真は必要だと判断し、マイカーを島の反対側である相川に向かわせた。この判断が、結果として良かった。
▽博物館関係者の説明によると、既に被害届を出したという。何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。展示室にあった収納ケースの裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだ。侵入と同時に警備会社が設置したアラームが鳴ったが、同署員が到着した時には、既にレプリカはなくなっていた。
▽ニュースの焦点は、これが本物の金塊ではなく、偽物のレプリカだったことと、さらには広報には書かれていなかったが、同じケースには本物の銀塊3本も展示されていて、こちらは無事だったことだ。このことは博物館の説明で初めて知った。犯人は金塊を本物だと信じて盗んだらしい。しかも、隣の本物の銀塊は目もくれなかったから、笑えた。収納ケースの掲示板には、「佐渡金山から産出された最後の金銀」などと記されており、この表記に犯人がだまされた可能性もある。
▽このレプリカは、金と銀を産出していた佐渡鉱山が閉山した1989年3月、記念として最後の鉱石から抽出した金として展示した。レプリカは何らかの金属に金メッキで加工したインゴットで、長さ118ミリ、横54ミリ、厚さ8ミリの大きさで計5枚が、ガラスの収納ケースに展示されていた。本物の銀塊が無事だったことについて、同市教委の責任者は、
「私も銀塊が本物だとは知らなかった。ホッとしているが、レプリカとは言え、こちらも大切な市民の財産。これからは防犯体制を充実させたい」
と話した。
▽翌日の各紙の記事を見ると、現場に取材に来なかった社は、本物の銀塊が無事だったことは、全く触れていなかった。ニュースとしてはこのことを伝えないと、ニュース性が下がる。電話取材ではこうした「特落ち」が必ず出ることを痛感した。
▽それにしても、用意周到な犯行だった。侵入から立ち去るまでにわずか24分で完了しており、複数犯の可能性も出ていた。
▽同市によると、何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。侵入した倉庫室の隣に展示室があり、犯人は展示室にまっすぐ移動。壁際にあった重い収納ケースを約1メートル移動させて、裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだと見られる。床などには収納ケースを引きずった跡が残っていた。
▽その後の調べで、レプリカの被害額が計5万円であることが分かった。壊された収納ケース(ショーケース)の被害額の方が約45万円と高くなり、計51万2024円の損害だった。
▽その後の市議会全員協議会では、この事件のことが議論されたが、その質疑も笑えた。
▽議員からは、
「レプリカを置いていたのに、展示案内にはレプリカと書いていなかった。これまで観光客は(本物の)金塊だと見てきた。そっちの方が問題なのではないか」
という質問があった。
▽これに対して市教委の担当者は、このレプリカを展示したのは1998年、旧相川町時代で、(2004年に)合併して佐渡市になっても、表記をそのままにしていたと説明し、
「適切ではなかった。見直していきたい」
と釈明した。
▽また別の議員からは、盗難が明らかになった時の市教委の担当者の報道に対するコメントが悪いとして、
「盗まれなかった銀塊が本物で、盗まれた金塊が偽物。泥棒にだってプライドがある」
と犯人に同情するかのような意見も出された。
▽その後、この盗難事件の犯人2人が本州で長野県警に逮捕されて、被告となった2人と同市の間で、和解金86万円を支払うことで合意した。市によると、和解額は86万2024円。事件当初、レプリカの被害額が計5万円、壊された収納ケース(ショーケース)の被害額が約45万円で計51万円が被害額としていたが、双方の弁護士との話し合いで、レプリカの評価額が最終的に1枚5万円相当だとして、損害賠償の慰謝料などを含めてこの和解額になった模様だ。

【再掲載】★272草津温泉のサッカーチーム昇格で湯かけ

▽次から次へと、選手達に温泉の湯がかけられていく。選手達は水浸しになって、寒い空気の中、暗闇の中を喜んでいた。標高1200メートルの寒さの中での「湯かけ」だった。
▽2004年12月の夜、群馬県草津町の温泉街の一角。地元を本拠地としていたアマチュアリーグのチーム、ザスパ草津(当時・現ザスパクサツ群馬)のサッカーJ2への昇格が決まったことが伝えられ、喜びを爆発させた瞬間だった。
▽これがプロ野球の優勝だったら、ビールかけなのだろうが、そこは日本有数の温泉郷だ。温泉の湯をかける「湯かけ」が行われた。選手も監督もコーチも湯を浴びながら、喜びを表していた。
▽草津温泉の湯は2系統あり、1系統は強い酸性の熱い湯が特徴で、これを冷まして温泉として使う。これを湯かけに使った。酸性の湯だからたまらない。湯に浸かってしまった携帯電話はすぐに使えなくなった。
▽ザスパ草津の選手たちの多くは、サッカーJリーグで一度クビを切られた人間だった。これを地元町役場や温泉街の協力で、選手達を温泉街で雇って、練習に参加し、「いつかはJリーグに昇格を」を合言葉にアマチュアリーグで試合を続けてきた。そしてこの年から、アマリーグとしては最高峰の日本フットボールリーグ(JFL)に参戦し、破竹の勢いで勝利を積み重ねていた。
▽草津町は、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の取材対象管内にあり、車で片道1時間半かかる場所にあった。上司の命令もあり、ザスパ草津の試合はホームもアウエーも全試合取材した。最後はライバルとの試合に負けてしまい、昇格か残留か分からないまま、決定の日を迎えた。
▽「元Jリーガーのリベンジ」というストーリーのため、東京から多くの記者やカメラマンも来ていた。
▽昇格が電話で伝えられると、監督は泣いた。それを見ていた関係者は「おーっ」と声を挙げた。
▽私は取材をして、朝日新聞群馬版に原稿を書いて送った。
▽翌日の紙面を見て、ちょっと驚いた。朝日新聞「ひと」欄に、このザスパ草津のGKを本社運動部の記者が取り上げていたのだ。私に一言も連絡はなかった。美味しいところだけを持っていく本社記者らしい仕事ぶりだった。

★378いじめ取材と私が受けたいじめ

▽埼玉県草加市の市立中学校でもいじめ問題が発覚し、それを取材したことがある。これについて書いたコラムがあったので、ここで紹介したい。ただし紙面化された記憶はない。
▽当時、私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。中学2年生男子が同級生計4人に校舎の1階と2階のひさしから飛び降りるよう強要され、けがをしたという事案だった。4月に起きた問題だが、7月になって一部の報道によって表面化した。当初は悪ふざけのつもりだったように思えたが、被害者の母親はいじめが小学校時代から続いており、学校側は何の対策も取らなかったと批判し、男子は登校しないまま、夏休みを迎えた。両者の話し合いは進んでいない。
▽大津市のいじめ自殺事件がなかったら、大きな扱いにはならなかったかもしれない。2011年10月に滋賀県大津市の中学2年生男子がいじめを原因として自殺した事件だ。学校当局と教育委員会が隠蔽し、大問題になった。
▽今回のいじめでも学校側がもう少し、被害者側の話をもっと聞いて対策をしていたら、いじめは防げたかもしれない。
▽コラムでは、この事件を振り返った後、こう書いた。
《ふと10年前に私が札幌に勤務していた時の中学校のいじめ取材を思い出した。被害者とされる親の話を聞き、そして学校側の話を聞いたが、話が全くかみ合わず、具体例がとぼしく、結局記事にするのを見送った。白黒付く話ではなく、いじめの取材は難しいことを経験した。
▽その昔、私の長女が小学校時代にいじめに絡まれて、相手の親から抗議を受けたことがある。あるいじめっ子男児を注意した長女と取っ組み合いになってしまい、相手を泣かした。相手の親が怒っていた。しかし長女は「私は悪くない」と言い続けた。親として子どもの言い分を信じるのは当然だとして、引き取ってもらった。子どもを信じない親などいない。あの時、相手の親の言い分を信じていたら、長女は父親の私を信じなくなっていただろう。
▽いじめは昔からある。私も小学校時代、何回もいじめられて小中学校時代を過ごした。貧乏だったので、それをやゆされたこともある。トイレに連れられて、パンチを食らったこともあるし、ボクシングのグラブを持たされて、ボクシングごっこを衆人環視の中でさせられたこともある。しかし、けがをしたり、自殺したり、そんなことを考えることもなかった。いじめ側に回る子どもも、手加減していた。学校の教諭がいじめがあることを知ることすらしなかった。
▽夏休み。いじめをテーマに、家庭内で親と子がじっくりと話し合ってはどうだろう。父さんも昔はこうだった、と素直に話し合うのだ。社会には強い人間ばかりいるのではない。弱い人間がいるからこそ、みんな生きているのだと》
▽悪くないコラムだなと、今読み返しても、そう思う。ただしどういう手続きでこの原稿を書いて、どういうプロセスで紙面化しなかったのかは、忘れてしまった。

★377埼玉県小鹿野町の「負動産」とその再生

▽全国各地に、「負動産」と呼ばれる老朽化施設が点在する。バブル経済に乗って、地方自治体が建設した日帰り入浴施設だったり、民間業者が競って建てたリゾートマンションだったり、多くは老朽化し、その施設は利用されないまま、「不動産」ではなく「負動産」と揶揄されるような、迷惑な存在になっているのだ。ここでは私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時の話をしよう。
▽埼玉県小鹿野町が所有する休眠施設「旧バイクの森おがの」は、合併前の旧小鹿野町時代から続く「負の遺産」だった。過去に2度、事業として失敗している。バブル経済時代に日帰りの温泉施設として発案されたが、業績の悪化によって閉館。現在の小鹿野町が誕生した際の目玉施設として今度はオートバイミュージアムとしてオープンさせたが、これもだめになり、町は休眠状態の約10年間、維持管理費を支払いながら、再生活用策を模索してきた。それが2018年度から民間による再生策を募集し、2021年3月、新たな施設としてオープンに至ったのだ。
▽町によると、「旧バイクの森おがの」は元々、合併前の旧小鹿野町がバブル経済崩壊後の1994年にオープンさせた日帰り入浴施設「クアパレスおがの」だった。「長寿のふるさと小鹿野の創生プロジェクト」の中心施設として、バブル経済時代に計画され、3階建て、2633平方メートルの広さがあり、男女別天然温泉浴槽や水着着用の男女共有クアゾーン、レストラン、ゲームコーナー、健康管理室、視聴覚室などを設けた。ピーク時は年間10万人の客で賑わった。
▽しかし次第に業績が悪化し、2004年から指定管理者制度による運営となったが、業績の改善は出来ず、2008年に営業を閉じた。バブル経済時代には全国各地で日帰りの温泉施設が誕生したが、その後利用者の減少で、各地の施設はともに経営は苦しく、経営から撤退したり、閉館したりする事態が相次いでおり、小鹿野町のケースも同様だった。
▽この間、平成の大合併で現在の小鹿野町が2005年に誕生。今度は新しい町の目玉として、この施設を再利用した全国唯一の「オートバイによるまちおこし事業」を展開することを決めて、2009年にオートバイミュージアム「バイクの森おがの」をリニューアルオープンさせた。2、3階をオートバイの展示場にして、1階を温泉施設やレストランとしたが、それでも収益は上がらず、2010年で閉館し、その状態が現在まで続いている。将来性を考えずに事業展開した結果だった、という声もある。
▽2011年の東日本大震災では県の要請で被災者の受け入れの準備をしたが、結果的に利用されることはなかった。
▽町はこの間、年間約155万円の維持管理費を支払い続けており、現在の森真太郎町長体制になってから、再活用策を検討。2018年度から再活用してくれる事業者を募集し始めた。再活用へ諦めなかったことが大きく左右した。
▽そして2021年3月、今度は「小鹿野バイクの森」として、新たに誕生した。そして特筆するのは、安全性の高さに定評ある国内の代表的なヘルメットメーカー、アライヘルメット(本社・さいたま市)の協力で、アライの安全性能を知ることができる場として「アライヘルメットミュージアム」が併設されたことだった。
「負動産」から「不動産」へと再生できた数少ないケースだろう。その後を注視したい。

★372佐渡の大雪と新潟市の少雪→地方支局編「佐渡の大雪」の続報

▽「地方支局編」に「佐渡の大雪」というコラムを掲載したが、続報を書こう。
▽2023年9月22日の朝日新聞夕刊は、「冬の日本海側、新潟市だけ降雪量少ない」「佐渡ブロック存在実証」「筑波大の研究室」という見出しの記事を掲載している。新潟市の降雪が少ないのは、佐渡島の影響だとして、気象予報士や地元の住民が、「佐渡ブロック」と呼んでいる現象を筑波大研究室が解き明かしたという内容の記事だ。
▽日本海に浮かぶ佐渡島の影響で、新潟市の雪が少ない事は以前から指摘されていた。新潟県の中で、上越地方は豪雪地帯だが、下越地方である新潟市は、雪がかなり少ない。そのことについて、新潟市民もあまり気にしてないようだが、私のように上越市や佐渡市で勤務した人間から見ると、不思議な現象だった。これが佐渡の山のおかげで、雪が少なくなっているという実態を、研究室は解明した。
▽これについて、私は以前、朝日新聞佐渡支局に勤務した時に体験している。支局がある佐渡市両津地区は佐渡島の南東部にあり、海を挟んで新潟市に近い。この両津地区は私が勤務している冬の間、豪雪に見舞われた。来る日も来る日も雪かきに追われた。逆に島の正反対側に位置する相川地区は、ほとんど雪がなかった。毎日のように両津地区で雪が降っているのに、NHKなどの気象予報では、雪が少ないと報じていて、実態と予想が違っていた。不思議な体験だった。両津卓は大雪なのに、相川は行きが全くなかったのだ。
▽取材しているうちに、気象庁の観測地点が、両津地区にはなく、相川地区だけにあるのを後に知った。大雪なのに、このため実態とかけ離れているという記事にまとめたことがある。その際、気象庁への取材で、北西の風が佐渡の山に当たって、その分、両津地区に雪を降らすと言うのだ。両津地区に雪が降らすおかげで、海を渡った新潟市では、雪が少なくなる、ということらしい。
▽そう、新潟市にとって佐渡は大雪の防波堤になっているのだ。
「佐渡ブロック」を書いた朝日新聞の記事には、その佐渡の実態にも踏み込んで欲しかった。ちょっと物足りない記事だった。
▽当時の私の取材メモにはこうある。前回のコラムと重複するが、許して欲しい。
《相川は強い風が常時吹く土地柄で元々雪は少ないと言われている。同気象台によると、冬型の北西の風で雪雲が大佐渡の山脈を乗り越えて、両津地区にだけ大雪を降らすという。雪の少ない相川地区で降雪や積雪を計測し、逆に雪が多い両津地区では計測していないのが実態だ。このため、気象庁の観測データを元にした報道は、雪の少ない相川地区の状況だけで、雪が多い両津地区の実態は伝え切れていないのが現実だ》

★370部下への説諭と説教は必要悪か

▽私が若かったころ、つまり入社して1年目から2〜3年生にかけて、上司や先輩によく怒鳴られたり、叱られたりしたことがあり、私は逆に後輩や部下を持った時は、ほとんど怒鳴ったことも叱ったこともない。仕事のミスをいちいち取り上げていたら、キリがないこともある。反発されるケースもある。だから後輩や部下がミスをしても、かなり大目に見ていた。唯一あったのは、部下の支局員に1回だけ説諭したことぐらいだ。今回はその話を聞こう。
▽ある支局長だった時のことだ。本社から当時40歳の男性が支局員として赴任してきた。この男性は、それまで本社製作局のオペレーターとして働いており、新聞記者生活は初めてだった。つまり、職場が合理化されて、行く場がなくなり、新聞記者を希望したという配転者の新人記者だった。
▽本社で2週間ほど、研修を受けており、本人はやる気満々だった。
▽しかし、そのやる気とは裏腹に赴任翌日から寝坊を繰り返し、出勤前にも新聞記事も読んでおらず、記事を書くことそのものが難しいように見えてきた。
▽その都度、私は指導し、
「こうやって書く」
「ここを書き直して」とかなり丁寧に教えたのだが、一向に良くならない。
▽そして次々と起こすトラブル。社会人としてのマナーを学ぶ機会がなかったらしく、電話も満足に取れないし、取材相手を怒らせてしまったり、取材データを間違えたり、原稿の中身を間違えたり、と、毎日のようにトラブルを繰り返していた。
▽1年と4カ月、私は彼と付き合ったが、これ以上彼を新聞記者として育てるのは難しいと判断し、本社の上司に報告し、今後の異動を考えてもらった。
▽彼はその後、東北地方の別の支局に赴任することになり、私は今後のことを考えて、彼の送別会前に、説諭することを決めた。
▽ある知り合いのスナックのママさんに頼んで、夕方前に1時間ほど店を開けてもらい、彼に対して、延々と説諭を始めた。
▽遅刻は絶対ダメ、新聞を読んでこい、取材には礼儀を尽くせ、勝手にサボるな、などとコンコンと説諭した。特別なことは言っていない。新聞記者として当然のマナーを守れ、と説諭した。
▽その説諭が、届いたかどうか知らないが、彼は変わらなかった。
▽その後北海道でも一緒になったが、担当部署も違うし、私は既に私はもう上司ではなかったので、アドバイスするのも避けた。
▽北海道でも仕事を十分にこなすことが出来ず、その後は本社内勤に移り、今までずっと20年近く内勤を続けている。
▽これは経験則で、新聞記者は遅くても30歳までにスタートしないと、新聞社の生活リズムがついていけなくなる。40歳での記者スタートはとても無理だった。いくら説明しても説諭しても、リズムが新聞記者仕様になっていないのだ。
▽悲しいがこんな部下を持ってしまい、唯一の説諭の経験を思い出した。説教も説諭もしたくない私にとって、かなりの勇気が必要だった。
▽新聞社も安易な合理化は考え直した方がいい。本人のためであり、会社のためだ。

★368デスク当番で振る舞ったブリづくし料理

▽朝日新聞新潟総局でブリ料理を作って、みんなで食ったことがある。ブリを市場で1匹買ってさばいてもらい、ブリの刺身、ブリしゃぶ、ブリ大根を作った。今では楽しい思い出。たまにはこんなエピソードを紹介したい。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務してる時だ。月に数回、海を渡って新潟総局にデスク当番に就く日だった。たまたま日本海で鳥の豊漁があったというニュースを聞き、夕刊最終版の降版が終わってから、私が新潟市の魚市場に行き、ブリを1匹買ってきた。その場でさばいてもらい、ブリの刺身とブリのアラ、ブリの煮付けに使う部位を分けて、切ってもらった。
▽新潟総局に戻り、ブリ大根、ブリの煮付けを作り、ブリの刺身を用意した。ブリ大根に関しては、新潟総局の女性記者が「日高の昆布で作って」という要望に応えて、その昆布を別の市場で買ってきて用意した。かなりの時間をかけて仕上げた。
▽私はしばらくして朝刊デスク作業に取りかかり、ブリ大根をコトコトと煮付けて、冷やして、という作業を続けた。
▽朝刊デスク作業に支障がないようにと、合間合間を縫って、料理を続けた。
▽朝刊の新潟地方版の降版が終わって、新潟総局の記者と一緒にこのブリ料理を食べた。ビール、日本酒、刺し身。煮付け、ブリ大根、どれもうまかった。みんなもうまいと言ってくれた。
▽こんなことができるのも、地方総局ならではのことだ。日本海に近いし、魚は豊富だ。こういう料理をみんなで会社で食べるというケースは、都会ではないだろうな、と私は思ってしまった。楽しい1日だった。
▽もちろん夕刊作業も朝刊作業もキチンとこなした上での飲食だ。


★367正直に記入すると怒られた勤務表

▽朝日新聞は、社員が自己申告に基づいて月一回、勤務表を出している。昔は手書きだった。最近はウェブでの入力がある。しかも勤務時間まで入力するようになっている。ただし長い時間働いても、給料は増えない。
▽かつて東北のある1人勤務の通信局に勤務していた時だ。私が自己申告で、正直に土日曜日も取材をしていて、出勤の記録を勤務表につけて提出した。
▽そうすると、当時の支局長が、電話で怒ったように、
「なんで土日に仕事をしてるんだ、俺の管理能力がないと見られるじゃないか」
と言ってきた。
▽地方の通信局にいると、土曜日曜、祭日のイベントがかなり多く、とても休みを取るところではない。平日も日常の取材があり休めないから、結局は土日曜日も仕事で潰れるのだ。
▽私は当初、怒られた時、なぜなのか理由がわからなかった、今のように働き方改革というのがあるなら、理解できるが、1人勤務だと土日のイベント取材を、他人に任せるわけにはいかない。だれか交代で取材に来てくれるのだろうか。そういう指示もなかった。単に管理能力がないと見られることだけで怒ってくる、その意味が理解できなかった。休みを取れ、と言うなら、それが具体的に出来るよう、体制を作るのが支局長の仕事だろうが、そんな事は一切せずに、命令だけする。根性論をたたき込まれているような感じがした。私が休んだのから、だれかがカバーしてくれる、という体制を作ってくれるなら、キチンと休める。それを根性論で休めと言われても、無責任なだけだ。
▽仮に土日曜日に休んだらどうなるだろうか。同業他社の紙面には出ていても、朝日新聞には出ていない、ということになる。その時、この支局長はどういう対応を取るだろうか。「朝日新聞だけ特落ちした」と言ってくるだろうことは、目に見えていた。
▽それに、好きで入ったこの業界だ。休みなど潰れても、何とも思わなかった。好きな仕事をしているのだから、それで幸せだった。
▽最近の働き方改革で、休みを取るように言われ、それに従っているが、やはり大事なイベントは逃せない。取材・出勤となるのだ。特に地方選挙がある場合、休むことはできない。平日に休みを入れるのが難しい時だってある。こういう地方での働き方の実態を、管理職は知ろうとしない。
▽私が土日曜日、祭日に交代で休むことが出来るようになったのは、本社に上がってからだった。本社は人数が多いから、交代で休むことが出来たのだ。
▽もっとも、阪神大震災などの災害や大事件などの応援で、かなりの休みは潰れたが。

★366サッカー天皇杯で伝説のゴールを思い出す

▽サッカーにおける伝説のゴールは、国際試合やJリーグで色々と語り継がれてきているが、今回は天皇杯におけるジャイアントキリングの1ゴールを紹介したい。
▽2004年12月17日夜の天皇杯5回戦、仙台で開かれたザスパ草津(下はザスパクサツグンマ)と横浜マリノス戦を私は見ていた。ザスパ草津のはJFLで3位になったチーム。Jリーグ昇格を目標に1年間を戦ってきたが、目標の優勝には届かなかった。一方の横浜は岡田監督が率いてJ1優勝を果たした王者だった。
▽ザスパ草津の特長は、選手のほとんどが一度はJリーグを解雇されて、群馬県草津町の温泉街で働くアマチュアのチームだったことだ。当時私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤めていて、ザスパ草津の全試合を取材していた。
▽試合は、ザスパ草津の先制で前半を終える。しかし後半、ザスパ草津の選手が2枚目のイエローで退場。その直後に1点を献上し、同点となる。さらにはもう1人、2枚目のイエローとなり、ザスパ草津の選手は9人となり、絶体絶命のピンチとなる。11人を相手に9人だ戦うという絶対的に不利な条件だ。
▽それでも90分を1対1で終えて、延長戦に突入する。
▽ザスパ草津のGK、元日本代表の小島は膝を怪我して、足を引きずりながらのプレーを続行。痛々しさが伝わる。
▽そして延長11分。横浜陣内で得たFKからのクロスで出たこぼれ球にDF依田が反応し、決勝ゴールを奪ったのだ。決勝ゴールで試合は終了した。何という結果だ、と思った。伝説のゴールだと今でも思っている。
▽9対11の闘いで、王者にアマチュアチームが決勝ゴールというとどめで勝ったのだ。
▽この興奮が今でも忘れられない。
▽2023年10月1日、NHK総合で放映された「サッカーの園▽〜究極のワンプレー〜」はジャイアントキング特集を行い、この試合を振り返っていた。

★362取材中に犬に噛まれた

▽ある殺人事件の発生で、現場周辺を聞き込み取材をしていた時の話だ。
▽ある民家の玄関チャイムを押した。すると、どうだろう。敷地内にいた犬が突然、私を襲って来たのだ。私は避ける間もなく、右足太ももをがぶりとかみつかれた。痛みが走った。急な襲撃で、避けることができなかった。履いていたスラックスの布が破れ、犬の牙は私の太ももにまで達していた。出血もした。慌てて避けて、その場を去った。
▽出血で痛みが残っていたので、取材を中止して、そのまま病院に行った。破傷風が怖いので、その注射もした。破れたスラックスは元に戻らないので、一度自宅に帰り、着替えをした。
▽冷静に考えられなかった。そのまま取材現場に戻った。
▽今だったら飼い主の管理責任が問われる事件だった。私がそのまま、警察に届ければ、飼い主の管理責任が問われる事態だった。
▽民家の玄関チャイムを鳴らしただけで、噛み付かれたのだから、これは不法行為である。私は不法侵入もしていなかった。
▽治療代といい、スラックス代金といい、請求すれば良かったなと、今では思っている。飼い主の管理責任が問われていい。
▽犬に噛まれるという体験は、子供時代に一度だけ経験した。社会人になって、新聞記者になって、こんな痛い思いをした事はこれが最初で最後だった。
▽もしかして労災にもなったのではないか、と今では思っている。
▽犬が他人を襲うような飼い方をしている民家は危険だ。痛い警察担当時代の記憶だ。
▽皆さんなら、どう考えますか。
▽親しい県警幹部からは、
「サツの犬が、犬に噛まれた」
と笑われた。

★359発言は正しいのに変な訂正記事を出した地元紙

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時のことだ。支局に届いた地元の新潟日報の記事を見てちょっと驚いた。
▽数日前にあった市長選公開討論会の詳細を昨日の紙面で載せていたのだが、今朝の朝刊でその訂正を出していた。否、「おわび」というべき内容だった。
▽新潟市や上越を結ぶフェリーやジェットフォイルを運航する佐渡汽船の料金値上げ問題で、新顔候補者が、
「訪れる人にはもっと高い料金をかけるように」
という発言をしたのに、訂正記事では、
「高い運賃を改めるように」
と発言内容を訂正した。値下げを主張する中での話だったとした。この訂正を読む限り、要するに、値下げを主張したつもりだったが、間違って値上げをと話してしまった。新潟日報はその話をそのまま記事にいて掲載した。それなのに訂正記事を出したことになる。
▽実は私もその公開討論会の新顔候補者の話を聞いていて、
「変なことを言うなあ」
と感じていた。
▽私はその公開討論会の動画を録画していたので、今一度見ていたら、新顔候補者はその通りの発言をしていた。
▽さらには値下げの趣旨での発言ではなかった。そんな話の展開ではなかった。
▽それなのに、お詫びのような訂正記事を出したのは、相当抗議を受けたからなのかと思った。
▽訂正するなら、候補者本人が自分のメデイアを使って訂正すればいいだけの話だ。朝日新聞も書いていたかも知れないのだ。
▽本来なら新顔候補者本人が新潟日報にお願いをして、その趣旨を告げて、新潟日報は「本人の申し入れがあり、その趣旨を掲載します」とすればいい。お詫びする必要もなかった。
▽公の場で、こうした間違った発言をした場合、マスコミの多くは、「間違った発言」と気づかなければ、そのまま記事にする。もし問題発言だと判断すれば、本人に直接確かめる。確かめて、本人が間違った発言だと認めれば、そのことも含めて記事にする。
▽今回の新潟日報の訂正は、取材は正しく行って、そのまま記事にしたのに、それを新顔候補者が強引に訂正させたことになる。
▽他社から見ても、納得出来ない訂正だった。スピーチが下手な日本人特有の問題なのかもしれない。


★357整理整頓できない記者

▽私が朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)に勤務していたときの話だ。担当の配置替えがあり、私は埼玉県警担当キャップから、埼玉県政キャップになった。
▽その際、県政担当の前任者が、自分の机の上で散らかしていた取材の資料をそのまま乱雑なまま、私の机に放り投げて、放置した。
▽取材から支局に戻って、私の机の上が、資料という名の紙のゴミで乱雑になっている状態に驚いた。しばらくして前任者が犯人であることに気づいた。
▽驚くのは当然だろう。
▽普通、引き継ぎは資料を整理し、必要ないものは捨てて、必要があるものだけ、引き継ぎをして渡せばいいのに、それが全くできなかったのだ。ゴミの山のような状態の資料を、私の机の上にそのまま投げるように置いた。私は驚いて注意すらできなかった。
▽後に次第に分かってきたことだが、朝日新聞にはこのように資料を整理できない人間がかなりいる。「後に資料として使うかもしれない、」という理由を付けてため込むのだ。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時もそうだった。支局内のスペースや本棚にかなりの資料と称する本や冊子などが置かれていた。過去10年以上の歴代支局長がため込んだもので、私はそれを捨てることにした。市役所の発表資料や市議会の資料、警察が発表した事件事故の発表ファックスなど、かなりのものを紐で縛って、トラックでゴミ出しをした。
▽もう10年以上も使っていない資料もたくさんあった。「いつか使うかもしれない」と言ってそのまま大事に取っているだけで、一度も使ったことがない資料が多い。
▽市議会の資料なら、市議会事務局に行けば閲覧できるし、市役所の発表ものなら、広報に行けば見ることができる。限られたスペースを有効に使うという発想は、歴代支局長にはなかったようだ。
▽それは新潟県佐渡市の佐渡支局でも同じだった。10年以上前の市議会資料が支局事務所だけでは収まることが出来ず、支局の居住スペースである居間の押し入れにまで置かれていた。捨てることが出来ない人間がいることを、身にしみて分かった。
▽取材の資料は使ったなら資料だが、使わなかったらゴミでしかない。ゴミは捨てるべし。限られたスペースは狭くなるだけだ。
▽取材の資料をため込むのか、整理して捨てるのか、記者の人生観が如実に現れている。

★354恐るべし支局のタクシーチケットの使い方

▽私が朝日新聞記者時代に、タクシーチケットの使い方で驚いたケースがあるので、それを紹介しよう。
▽私が日本海にある支局に勤務していた時だ。私の上司である支局長が横浜の自宅に帰宅した際、東京駅からタクシーを利用した。約2万円の距離だ。その降車する際に、何を考えたのか、支局管内でしか使えないタクシーチケットを渡して、そのまま通ってしまったという。タクシー会社はそのチケットに書かれた支局に請求書を回してきた。単身赴任者に朝日新聞は単身赴任手当のほか、帰省する旅費を給付しており、本来なら東京駅からは在来線を乗り継いで帰宅しなくてはならない。それを破ってタクシー利用したのだから、支局長はこのタクシー代を自分で支払う必要があった。しかし、それを経理担当者者にもみ消して、タクシー代を支局の経費として処分したというのだ。
▽地方で使えるタクシーチケットは、その地方以外では使えない。そんな当たり前の事を守らない支局長のその行為に驚いた。と同時に、それをもみ消して、会社の経費として計上するその行為は、ある意味、確信犯だと感じた。
▽この支局長、本社勤務も長いので、タクシーは自由に使えるという感覚が残っていたのだろう。こんなずさんな経理が、当時の朝日新聞では行われていた。
▽もう一つ。私が東京近郊の支局長だった時の話だ。
▽古い経理の資料を整理していたら、数年前の使用済みタクシーチケットの束が出てきた。それを一つ一つ見ていたら、驚きの連続だった。
▽支局から本社に行くには、地下鉄直結の私鉄が一番早いのに、支局から本社にタクシーで行っているのだ。それも何枚も何枚も同じような使用済みタクシーチケットが出てきた。しかも、本社から支局に戻る時も、支局管内のタクシーを呼び出して、支局に戻っているのだ。これも何枚も見つかった。
▽電車で往復するのがもったいないかのように、湯水のごとく使っていた。もう感覚がマヒしている使い方。バブル経済の時代だったこともあるだろう。よくこんなことが許されてきたのか、と思った。
▽新聞記者はかなりの割合でタクシーを使う。本社の場合はハイヤーも使う。この感覚に慣れてしまって、タクシーは自由という発想が出ていたのだろう。
▽もう既に、地方ではタクシーチケットは原則として廃止されている。一部幹部や特別な仕事をしている人間にはタクシーチケットが渡されているが、それは一部だけだ。
▽タクシーチケットが自由に使えていたのは、地方に限ると、昔の話だと信じたい。

★347広角レンズで撮影した斜めの背景が理解できないデスク

▽こんなことすら知らないのだな、と私は呆れてしまった。ここまでこのデスクは馬鹿なんだ、と私は思った。
▽ある支局に勤務している時だ。街ダネ取材をして、原稿と写真を出した。
▽そうしたら、しばらくして電話があり、その写真について文句を言ってきた。
「写真が斜めになっている、別の写真を出せ」
▽こう指示してきた。
▽写真は街ダネ原稿につける写真として、居酒屋の中でその店主のポーズ写真を撮影していた。
▽このデスクが言うには、店主のバックに映っている壁や柱が斜めになっていると言うのだ。私の撮影方法が悪いと言ってるように聞こえた。
▽確かにカメラをきちんと構えず、写真が斜めに撮影されてしまう事は時折ある。カメラを水平に構えず、写真を見ると、水平が水平になっていない、という失敗はだれにでもあるだろう。
▽しかし、今のパソコン編集時代、写真など修正すれば良いだけの話である。これを「別の写真を出せ」と言うんだから呆れる。
▽そしてもう一度よく見ると、写真の中の柱や壁が斜めに撮影されたのではなく、広角レンズで撮影したために、写真の四隅が斜めになっているだけの現象だったのだ。通常の一眼レフカメラは28ミリから35ミリのレンズで撮影するから、こういう現象は起きて当然なのだ。
▽35ミリのフィルムレンズなら当然広角になるから、背景は斜めに歪んで移る。今のデジタルカメラ液晶ディスプレーも、フルサイズのカメラなら、同じ写真になる。
▽こんなカメラの常識も知らないで、このデスクは私に必要のない指示をしてきたのだ。
▽確かに最近の地方支局デスクは、写真やカメラに対する知識は低いし、勉強もしていない。
▽本人も記者時代にカメラや写真で苦労したことなどないのだろう。本社に行けばカメラマン任せになっているし、写真を学ぶという機会もなかったのだろう。だから、こんな間違った指示を出すのだ。
▽そのようにして、地方支局のデスクは写真に関しても、知ったかぶりをする人間が多い。知ったかぶりするから、ベクトルが全く違った方向の指示を出してしまうのだ。こんなデスクが朝日新聞には多かった。
▽広角レンズは背景が歪むことを全く知らなかったこのデスク。そのまま九州の地方支局の支局員に降格されていった。二度とデスクになることはなかった。

★344負担が大きい取材でのマイカー経費

▽私が現役を引退してから、少しずつ身の回りの断捨離を進めてきた。その一つにマイカーがあった。現役時代は気にならなかったが、意外にもいろいろな経費がかかることを実感している。これをいつ処分しようか、と悩み続けている。
▽地方勤務の記者にとって、マイカーは必需品だ。マイカーで取材して回る。ほとんどは会社の仕事で使っているため、会社側は毎月、維持費という名目で金を支給する。しかしそれだけでは到底足りない金額だ。
▽まずかかるのがマイカー本体の購入資金だ。会社からは、購入資金として無利子の金を借りることができるが、所詮借金だ。車を新車で買った場合、いろいろなオプションをつけて、250〜300万円ぐらいになるだろう。この代金を用意しないとならない。
▽そして購入して最初にかかるのが、ガソリン代と駐車場料金だ。ガソリン代は会社から補助が出るが、駐車料金の補助は出ない。
▽自動車税も毎年かかる。自動車保険もかかる。
▽このほかにかかるのが、雪国の場合、冬タイヤの料金だ。冬タイヤの料金も、会社の補助があるが、到底足りない。
▽冬タイヤに交換するには、個人で行うこともできるが、安全確保も含めて、私はガソリンスタンドに依頼する。その費用も自分持ちだ。
▽タイヤがパンクした場合も、自腹だ。
▽さらに言うと、バッテリーが上がってしまい、バッテリーを交換する料金もかかる。
▽事故に遭っても、会社の補償は少ない。
▽こうやって考えると、地方勤務の記者にとって、マイカーでの取材は相当な自己負担が大きい。一部の地方紙は、マイカーではなく、会社が所有する車を記者に貸与して、運転させる取材体制を取っている。
▽会社を辞めてから、このマイカーをどうするか、ずっと迷っていた。私が関与している市民運動のイベントなどでも、このマイカーを使っているので、簡単には手放せない。しかし維持費がかかるので、そろそろ真剣に考えないとならないのだ。売却するかそれとも所有していくか、迷っている。
▽この点、本社勤務の記者はタクシーやハイヤーを使うから、こんな悩みもないだろう。

★343業者による地図掲示板更新料のインチキさ

▽地方に行くと、街角の所々に周辺の住宅地図を載せた掲示板が立っている。以前、これは地元の自治体か、地元の町内会が造っていたものだと思ったが、全く違っていた。インチキ業者の掲示板だった。
▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局長として勤務している時だった。
▽いかがわしい住宅地図を載せた掲示板の更新料を要求する業者が、支局に訪問で売り込んできた。住宅街によく立て看板のような形をした、いいかげんな地図だ。住宅地図としてはかなり古いし、更新などしていない。既に更地になっている民家もある。
▽しかしその時、私は外出していて、留守だった。
▽それを我が支局員、勝手に私の机の引き出しから、支局の金を出してしまったのだ。当時は引き出しに数万円を入れた私の財布があり、各種集金が来たら、ここから出すように指示していた。
▽後に知ったが、住宅地図を適当に書いて、掲載更新料と称しているずさんな業者だった。
▽たとえば、朝日新聞上越支局の隣は昔、民間会社だったが、今は民家。それなのに、いまでもその会社名が載っている。これで半年に一回の更新料を取ろうとする。
▽それからしばらくして、近所の掲示板を見に行ったが、更新など全くされていなかった。だまされたのだ。
▽なぜこんなものに払うのか、と思うが後の祭。どうしてこんなことをしてしまうのか。彼に注意しようとしたが、世間知らず、常識知らず、社会適応能力ゼロの彼に言ったところで、無理だと思い、そのままにした。
▽数万円の高い授業料にもならなかった。
▽この話の教訓は、地方にはこうしたインチキな業者がいて、だまされやすい環境にあること。これに勝つには、ある程度の常識が必要なこと。さらに言えば、支局員に財布を触らせてはならないということだった。各種集金のうち、予定されている光熱費やタクシー代などはあらかじめ、その分だけの現金を用意しておけば、想定外の支出は起きない。
▽私の失敗だった。


★341支局員が犯した恥ずかしい念書事件

▽世間知らずを露呈した事件がこれだ。
▽支局管内の市内で小学生が自殺した。警察は事件性がない、として発表していなかった。ある関係者から事実を知った私たちは手分けをして取材を開始した。だが、降版時間が近づいていたため、この日組みで紙面化することを断念した。我が支局員には、「きょうは書かないから、(現場から)引き上げて」と指示した。
▽そうしたら、何を勘違いしたのか、その支局員は取材先のその家族に、「記事にしないので」と言い残して支局に戻ったから、大問題になった。
▽親戚と称するチンピラから何回も支局に電話が入り、相手の言い負けした形になり、何と、相手の言いなりになって、「記事にはしない」という念書をファクスで送ろうとしているではないか。人との交渉が下手、とは以前から感じていたが、こんなところで言い負けしてしまった。
▽私は別の電話で取材中だったのを、あわてて切って、何をしているんだ、と怒鳴って、ファクスをストップさせた。そうすると、またまた相手から電話が入り、途中までしか出ていない、と怒鳴るって来る。こんなものは送れないことが分からないのか、と我が支局員に言うと、我が支局員は呆然としている。
▽念書の意味を理解していないから、こんなことになる。こんな念書が相手に入ったら、やはり記事にした場合、裁判で負けてしまうのが、分からないのだろうか。
▽私は、
「念書は送ることは出来ません」
と相手に電話で言い切った。
▽そして支局員には、
「こんなことしていたら、記者生命も終わりだぞ」
と深夜まで延々説教をした。こんな常識、ふつーの社会人なら分かりそうなものだけどと思った。
▽第一、念書という言葉を使うこと自体、相手は普通の社会人ではない。
▽私は事の顛末を上司の総局長に報告した。すると総局長まで怒り出していた。
▽以来、彼は、支局の防犯カメラが壊れているのを気にして、「恐い」を連発。防犯カメラはすぐに修理した。
▽こういったトラブルがあるたびに彼に、私は同僚として、上司として説諭した。しかし、全く反省していないようだったし、迷惑をかけた、という意思表示は全くなかった。上司として恥ずかしい思い出だった。40歳の支局員を指導するのは難しい。



★339ずさんな地方選挙の立会人と地方取材

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤めていた時のことだ。管内で投開票があった榛東村議選の開票場で、開票作業が夜間続く最中に選挙立会人のうち4人がトイレを理由に多い人で3回も席を離れ、開票作業が遅れたり、中には参観人席の町民と会話したりする様子が見られ、緊張感が欠ける選挙開票となった。
「何だ、この選挙は」
と驚いたが、選挙結果を優先とする紙面体制だったため、翌々日の紙面に、そのずさんさを記事にすることにして、翌日から取材を始めた。総務省に電話取材をして、見解を聞いた。立会人は開票結果が出る前に選挙の大勢を知るうる立場の人間で、選挙のお目付け役。開票作業中に外部と接触する行為について、総務省は「公選法の趣旨に逸脱している」と断言した。
▽同村議選は町公民館で午後8時30分から開票が始まった。町職員が計数機を使って作業を進め、束になった投票用紙を立会人が点検し、最終集計した。同町では候補者陣営から希望があった人間を選挙立会人に決めて委嘱。その立会人が投票用紙の点検をした。
▽2回目の中間発表があった午後10時直後、1人が席を立ち開票作業会場を離れると、今度は3人が離れた。その間、投票用紙の束が次々に机にたまってくるが、立会人は戻ってこない。町職員に呼ばれてようやく点検を始める場面もあった。
▽さらには参観人席にいた町民と話し込む立会人もいた。結局確定票が出る10時30分までに席を離れたのはこの4人で、このうち1人は3回も席を離れた。1人はかなり酔っていたように見えた。トイレに立ったのも、それが理由に思われた。
▽総務省などによると、立会人は票の点検と有効・無効票の意見を申し立てることが出来る存在。公選法では開票の事務作業にあたっては立会人にも秩序ある行為が求められている。席を離れて立会人の義務を怠ることを禁じているが、具体的に禁止規定はない。一般的には許可があれば昼食と排便、排尿だけに限って許される。参観人席にいる人間と接触するのは、「一般論だが、公選法の趣旨に明らかに逸脱している」と指摘する。
▽町選管によれば、県選管が作成した立会人のマニュアル「開票立会人のしおり」に従って、今回の村議選も立会人に説明会を開いた。書記長の総務課長は「トイレに行きたいというので許可した」と説明するが、3回も席を外す人物や外部と接触した者がいたことについては、「知らなかった」と話すだけだ。
▽この日の選挙結果は最下位で当選した候補者と次点の候補者の得票差はわずか3だった。
▽この立会人の不可解な行動に怒ったのが、次点で落選した候補者だった。町選挙管理委員会に異議を申し立てた。これに対して、町選管は異議を棄却した。
▽棄却理由について、選管は立会人が定刻に開票所に入り、開票終了まで立ち会っており、署名するなどして職務を果たした、としている。
▽田舎の選挙、と言えばそれまでだが、こうしたずさんな実態を現場の記者が報じない限り、実態は表面化しない。地方にこそ、現場があることがよく分かる事例だ。

★337スカイツリー開業と東武線の取材

▽東京スカイツリーが2012年に完成した時、私は埼玉県越谷市にある朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。スカイツリーと支局とは一見何の関係もないように思われるが、実はスカイツリーの最寄り駅が支局管内を走る東武伊勢崎線の駅であり、支局はこの東武伊勢崎線の新婚が屋駅に一番近かった。その路線を利用する沿線住民や利用客はスカイツリーをどう見ているのか、という問題意識を持って、取材をしたことがある。
▽東武伊勢崎線は1899年に北千住―久喜間で営業を開始。現在は東京・浅草と群馬県伊勢崎を結ぶ路線で、路線距離は114キロとJRを除けば日本最長路線だ。1962年からは同社の悲願だった営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線との相互乗り入れを実現。2003年には半蔵門線との乗り入れも実現し、計3ルートの運行が出来るようになった。スカイツリーの開業で浅草―東武動物公園駅間と押上―曳舟駅間は「東武スカイツリーライン」の愛称が付けられた。
▽越谷市の団体職員(当時33)は伊勢崎線、日比谷線、都営浅草線を乗り継いで、東京・三田の職場まで通っている。遠くに見えてくるのはスカイツリーだ。建設が進み、昨年から塔の高さが次第に高くなり、「あっ、出来てきたか」と思って、毎日の車窓から眺めていた。
▽伊勢崎線は北越谷以南から北千住までは高架の複々線で、急行は各駅停車の電車を追い越し、揺れも少なく快適に走る。天気の良い冬の間は富士山も拝める。「伊勢崎線の眺めは最高です」と本人は言う。
「2012年春完成というのは、かなり先と思っていたが、アッと言う間の時間でした」
▽予約チケットが取れたため、開業翌日には同居している母親とツリー見学に行く。
「母の日のプレゼントです。ツリーに実際に上ってみて、どれだけ高いか確かめてみたい。海外からの友達も多数来るので、使える観光施設かなと思います」
▽越谷市の女性(42)は、蒲生駅から日比谷線直通の電車を使い八丁堀駅で降り、印刷会社に勤務する毎日だ。
▽1996年に結婚してから、伊勢崎線を使い始めた。当時の蒲生駅は無人駅で駅員がおらず、定期券も見せずに改札口を通った。
▽スカイツリーは電車が大きく右カーブして小菅駅を過ぎるころから大きく見え始める。
「世界一有名になるタワーの名前が、そのまま伊勢崎線に付けられるとは、幸せ。うれしく思っています」
▽杉戸町の男性(44)は同線と東京メトロ日比谷線、都営大江戸線を乗り継いで、東京・文京区にある缶製造会社の東京本社に通う営業マンだ。
▽午前5時半には起床し、東武動物公園駅を6時50分前後に出る急行に乗る。乗り換えの北千住駅で1階から3階に上がり、日比谷線ホームに向かう。日比谷線は、さらに混雑していて、すし詰め状態。「我ながら、よく我慢して通勤を続けていると思っていますよ」
▽大江戸線にさらに乗り換えて、飯田橋駅で降りて8時には会社に到着する。もうクタクタになっている。
▽営業マンゆえ接待も多い。付き合いの飲食で帰りはかなり遅くなる。毎日のように北千住から特急電車「りょうもう」に乗る。北千住を出ると、次の駅は自宅のある東武動物園駅。500円の特急料金が必要だが、同駅からはわずか20分。1分でも早く帰宅でき、何よりも代え難い。同じように特急利用をしている人間も多い。
▽失敗もあった。ウトウト寝入ってしまい、乗り過ごしてしまうのだ。特急だから、次の駅まで遠い。栃木駅まで乗ってしまったこともある。その時はJRで小山駅まで戻り、そこからタクシーに乗った。2万円かかった。痛い出費だった。
「スカイツリーラインですか?▽ピンと来ません。名前に違和感があります」
▽男性には愛称が浸透するのは先のようだ。
▽吉川市から草加市に今年4月出向したばかりの公務員(31)は、その年3月に新設された吉川美南駅から武蔵野線に乗り、南越谷駅から新越谷駅に乗り換えて、伊勢崎線で草加まで来る。
▽社会人になってからはこれまで電車通勤とは縁がなく、学生時代以来9年ぶりの電車利用の日々。「学生時代は片道で2時間半もかかって通学していた時期もあり、長時間の通勤通学には免疫が出来ている。このぐらいの通勤時間は快適です」
▽伊勢崎線に乗ると、必ずスカイツリーの開業を伝えるアナウンスが車内に流れてくる。
「世界的な観光名所。伊勢崎線だと草加からは近くて、こんな場所に完成するんだ、という驚きがある。僕も伊勢崎線を使ってツリー見学に行きます」
▽こんな取材を原稿にして出した。
▽総合前文は以下のように書いた。
《東京スカイツリーの開業まであとわずかに迫った。その世界的な建造物を直接結ぶ鉄道路線が、県内東部を縦断する東武伊勢崎線であることは、意外に知られていない。同線は都心に向かう利用者対策に二つの地下鉄と相互乗り入れし、計三つの行き先の違う電車を走らせて、今では首都圏を代表する大動脈となっている。「東武スカイツリーライン」という愛称を持った同線の利用者たちは、どんな思いで乗り続けているのだろうか》
▽スカイツリーの開業に合わせて、東武伊勢崎線の話をまとめるという私の狙いはうまくいったと思った。

★335東日本大震災による東電の無計画停電

▽2011年3月に発生した東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発事故で行われた計画停電を覚えているだろうか。当時、私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務しており、東京電力が実施した計画停電に違和感と怒りを覚えた1人だ。
▽朝日新聞東埼玉支局は、JR武蔵野線と東武鉄道伊勢崎線が交差する場所に位置する。電力逼迫の状態だから仕方ないと思っていたが、二つの電車の線路沿いは全くその対象になっておらず、夜になってもこうこうと明かりが灯されていた。一方のわが支局は電気が止められ、真っ暗な状態になってしまい、仕事にならなかった。仕方なく支局を出て、電気が止まっていない繁華街に出て、居酒屋で原稿を書いていた記憶がある。
▽それだけではない。東京も官庁街がある中央区などは対象になっておらず、朝日新聞東京本社も停電は免れている。後に知ったのは、電気が止まっていたのは、足立区など、東京でも田舎的な地区だ。だから本社勤務の人間には長時間の停電を味わっていなかった。それゆえ、当時の紙面を見ても、計画停電に対する批判はほとんどなかった。停電で困っている人間が、あれだけいたにもかかわらず、だ。
▽しかも変電所単位の停電であるため、自治体単位の表示とは違っているため、事前に告知しても、どこが停電するのか、分からない状態が続いていた。これはもう計画停電ではなく、「無計画停電」だと私は感じた。要するに弱い物いじめ。東京電力に対する怒りすら持った。
▽まだ寒さが残る季節だったから、それで済んだ。これが真夏だったら、大変になったはずだ。電気が止まり、エアコンも使えず、電気冷蔵庫も使えない。となると食料・食材が腐っていく。こんな状態が続くのかと思うとぞっとする。
▽日本がここまで原発に依存するようになってきたのは、政府自民党と官庁、電力会社の癒着が原因だ。これだけの犠牲と被害を与えているのに、未だに原発に固執するその論理が、私には理解できない。関西電力幹部が原発建設に絡んで福井県高浜町の元助役から多額の金品を受け取っていたことが発覚したが、まさに氷山の一角。原発マネーは、原発建設推進に使われているだけだ。

★334雪道と群馬・渋川のドライバーの怖さ

▽全国各地で大雪警報が出ると、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の光景を思い出す。冬になると、スリップして動かない車がよく見かけた。雪道にこれほどまで無警戒のドライバーがこんなに多いのか、と思ったものだ。
▽渋川市は北関東に位置しており、降雪量こそ少ないが、雪国の街だ。市街地の途中から北側は冬になると、積雪状態となり、ノーマルタイヤの車がよくスリップする。危険なのに、冬タイヤに替えないドライバーが多い。なぜなのかと思っていた。
▽地域的に言うと、渋川市は県庁所在地の前橋市の北側に隣接しており、前橋市には通勤通学の市民も多い。前橋は雪がほとんど降らない街なので、勘違いしているが、渋川市は雪の街なので、降雪の対策が必要なのだ。
▽おまけに渋川市は関東地方の平野部分が終わり、山麓に位置していて、街の大部分が坂道になっている。
▽それ故、降雪があった翌日は深夜から未明にかけて濡れた道路が凍る。アイスバーン状態となる。こんな氷状態の坂道を、夏タイヤの車が走れるはずがない。それを知ってか知らずしてか、渋川市のドライバーは、夏タイヤのまま運転しようとする。無理なのだ。
▽アクセルを踏めば踏むほど、車は横にぶれてスリップしていき、前に進むどころか、後ずさりして横滑りしていく。こんな危険な状態を、私は渋川市で何回も見てきた。チェーンも付けないし、冬タイヤに交換することもしない。無頓着なのか、無警戒なのか。
▽朝日新聞渋川支局は既に廃止されたが、私が勤務していた時は、社内的には寒冷地として位置付けされて、冬タイヤの購入費補助もあった。渋川は雪国なのだ。
▽雪道を軽く見てはならない。冬になったら、冬タイヤの装着が必要だ。夏タイヤのまま運転すれば、当然スリップし、事故につながる可能性も高い。装着できないなら、運転はすべきではない。しかし、この決断がなかなか出来ないのが、悲しいかな、渋川市民だ。車を手放す、という決意が出来ないのだ。冬になったら、運転はしない、ということが出来ない。
▽渋川市民のドライバーは、冬道を甘く考えすぎている。これが5年間勤務した私の感想だ。


★333締め切り時間と降版時間を知らないデスク

▽地方に勤務していると、新聞紙面の締め切り時間と降版時間を勘違いしているデスクが多いことに気づく。勘違いと言うより、新聞製作の工程管理を出来ないデスクと言った方が正しい。
▽降版時間とは文字通り、いろいろな記事で紙面化された版を降ろす時間のことで、編集した紙面を最終的に印刷に回す一歩手前の時間のことを言う。全国紙の東京本社なら、1面と第1社会面が午前1時半と決まっている。
▽新聞には早版や遅版、最終版まで各種版があり、それぞれの紙面の降版時間が決まっている。降版時間になったら、出稿デスクは記事に手をつけることもできなくなり、作った紙面を印刷に回すことになる。これが降版時間の概要だ。
▽これに対して締め切り時間とは何か。締め切り時間とは、出稿デスクが、整理部または編集者などの編成部門に最後の原稿を渡す時間を言う。おおよその場合、降版時間の1時間前だ。
▽仮に午前0時の降版時間の場合、その1時間前の午後11時が締め切り時間となる。原則として、出稿デスクはこの締め切り時間までにすべての原稿をチェックし、出稿しなければならない。これが締め切り時間だ。
▽地方版だともっと早い時間帯に設定されていることが多い。
▽そして地方のデスクは、意外にこのことを知らない。降版時間を締め切り時間だと思ってるのだ。だからいつまでたっても原稿に手直しを入れ、いつまでたっても原稿が整わない。要するに、新聞製作の工程を知らないのだ。
▽第一線の記者が原稿をいくら早く出しても、デスクのデスクさばきが悪くて遅くなり、締め切り時間を過ぎても、だんご状態で原稿を出稿するならば、これは編集作業で大きなトラブルになる。
▽こうした新聞製作上の工程を知らないまま、地方のデスクに赴任する輩が意外に多い。本社の幹部も、もう少し考えた方が良い。
▽締め切り時間と降版時間をごっちゃにしたデスクは、紙面の出稿予定も作ることができない。出稿予定とは、例えばAという原稿を80行で出しますよ、という連絡だ。メモに書き上げて、整理部や編集者に出す。そういう連絡すらできないデスクが過去には多くいた。特に政治部出身のデスクは、工程管理の訓練を受けたことなどない人間が多く、出稿メモすら作ることができなかったことを思い出す。締め切り時間と降版時間の二つは全く違う時間だということを、もっとデスクは知ってもらいたかった。
▽こうした工程管理の訓練ができているデスクならば、降版時間直前に飛び込んできた大事件や大事故のニュースも、フラッシュニュースとして突っ込むことができる。整理部に声をかけて、紙面のスペースを空けてもらうのだ。降版時間直前にギリギリに原稿を突っ込むのだ。フラッシュ原稿である。工程管理が出来ないデスクだと、整理部に声をかけないで、いきなり原稿を直前出す。だからフラッシュ原稿を掲載することも出来ない。
▽これができるかできないかは、工程管理能力の訓練にかかっていると私は思っている。


★331東日本大震災の時のお馬鹿デスクのお馬鹿発言

▽2011年3月の東日本大震災の時、私は埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた。その日は千葉県松戸市に出張で取材に行っていた。突然の激しい揺れとともに、取材は中止になった。携帯電話が通じず、公衆電話がなかったため、私は直属の上司であるさいたま総局デスクへの連絡ができず、帰宅困難者となった。否、正確に言うと、支局への「帰還困難者」となった。
▽電車が全面的にストップし、私は東松戸駅前でどうすべきか考えていたが、答えは出なかった。武蔵野線が走っていれば、電車1本で支局に戻ることが出来るが、再開の見込みはなかった。
▽そしてやっと携帯電話が通じて、さいたま総局デスクとやりとりが出来たが、そのデスクが放った言葉が忘れられない。
▽「今どこにいるの、連絡がないから心配していたが」
という問いに、私が現在位置と帰還困難であることを伝えると、このデスクがこう言ったのだ。
▽「では、江戸川の河川の水位を見てから帰ればいいじゃない。へへへへ」
▽そう薄ら笑いをしたようにして、私の取材とは関係ない指示をしたのだ。近くに江戸川が流れていると思ったのだろう。指示といっても、具体的な話はなく、「どうぞ、ご勝手に」という趣旨と私は受け止めた。第一、江戸川にどうやって行くのか、交通手段もないのだ。部下の安否など心配している様子はなかった。
▽電話を切った後、私は次第に怒りが湧いてきた。部下の心配もしないで笑って、江戸川の水を見ればいい、といい加減なことを言ったことに対して、何なんだと思ったのだ。
▽本来だったら、上司は部下の心配をして、「気をつけて帰れよ」とか、「安全は確保できたか」と言うべきなのに、そんな発想が全くないのだ。帰還困難の部下を放置する発想が理解できなかった。
▽地震発生から2時間ほどすると、東松戸駅からバスが出ることを知り、そのバスで北千住駅に向かった。方角が違うが、都内に出た方が、帰還できる可能性が高いと判断。北千住駅からタクシーに乗ることを考えたのだ。
▽しかし、だった。北千住駅前のタクシー乗り場には、既に約200人のタクシー待ちの列が並んでいた。どうしようか迷ったが、私はその列に加わった。
▽なかなかタクシーは来ない。列は減らないばかりか、私の後ろにも次第に長い列が出来た。1時間たち、2時間たち、3時間が経過しても、私の順番は来なかった。そうしているうちにやっと私の番になった。列に加わってから実に7時間がたっていた。
▽私は周囲に声をかけて、越谷方面に行くので、乗れる人は乗りましょう、と言った。すると春日部に行きたい、と言う中年女性がいたので、彼女を乗せた。タクシーは一般道を走らせて、越谷に向かった。途中では一般道を歩いて帰る人々の列を見ていた。
▽やっと南越谷駅に着いた。ここまでのタクシー代は私が支払い、同乗した女性には、「残りを支払ってくださいよ」と言って別れた。
▽私は支局に寄ってから、支局駐車場に止めたマイカーを運転し、通行量が全くなくなった外環道を走らせて帰宅した。午前2時を過ぎていた。
▽結局、私は安否などを全く気にしてなかったさいたま総局デスクには報告せず、帰宅した。
▽こんなデスクなど必要ない、と私は思っていた。部下の安否を心配しない上司など要らないのだ。
▽翌日から私は朝日新聞東埼玉支局管内での被害状況を取材することを続けた。このデスクとは話もしなかった。
▽案の定、このデスク、次の人事異動で降格し、九州の小さな総局に総局員として飛ばされた。それ以降、デスクに再昇格したという話は聞こえてこない。デスク失格の烙印が押されたのだ。やはり会社も人を見ている、と思った。

★330後任者が決まらないまま作った秩父支局引き継ぎメモ

▽朝日新聞佐渡支局での引き継ぎメモを紹介したので、今回は秩父支局の引き継ぎメモを紹介したい。2022年8月31日に私は退社した際に、後任者が決まらないままの引き継ぎだった。
▽まずは引き継ぎの際の手続きを記した。

《▼郵便物の転送を朝日新聞秩父支局から朝日新聞さいたま総局に転送するように郵便局に届けており、これを解除することをお願いします。
▽▼私宛に届く郵便物は、私のさいたま市の自宅に転送するようになっており、解除する必要はありません。ただし郵便物以外のものが届いた場合は、申し訳ありませんが宣伝物などは廃棄してください。また重要なものだと判断された場合は、自宅に送っていただけるとうれしいです。
▽▼秩父支局への電話とファクスは、さいたま総局に転送設定しますので、これも解除してください。
▽▼ダスキンのモップの羽交換が4週間に1度ありましたが、これも契約解除しています》

▽次に、局舎について書いた。局舎は一軒家に事務所が入った建物だ。
《▽▼安普請の建物のため、暖房も冷房もダダ漏れ状態です。夏は暑く、冬は寒いです。光熱費が異様に高くなります。このため僕の前々任者が本社と交渉して、エアコンの電気代だけを別の系統にして、「低電圧」の系統に切り替えており、この分だけは全額実費請求できます。残りの電気代は6割を実費請求できます。
▽▼光熱費については、私が秩父支局に滞在していた分は、私が本社経由で支払うので問題ありません。水道、ガスを止めていきますので、水道は秩父広域水道に、ガスは秩父支局隣のプロパンガス業者に再開の連絡をしてください。電気代の請求はかなり遅く、8月分の請求書が届くのが10月中旬です。これも郵便物として秩父支局から本社に転送されるので、ここまでは私が支払って実費請求します。
▽▼町内会費は6カ月か3カ月に一度集金に近所の方が訪れます。実費請求で局舎管理の部門から「その他雑費」で請求してください。
▽▼風呂場のカランが1月の寒波で凍って、壊れました。20-30秒に1滴ずつ漏れます。修理作業を業者に依頼したのですが、内部の部品を抜くのに手間がかかり、作業を中止した経緯があります。部品は業者が保管しており、時間がある時に直した方がいいと思います。
▽▼2階リビングの天井に設置されているエアコンも、今年春先に壊れました。コンデンサーユニット部分の新品在庫がなく、中古を取り付けて直しましたが、今度壊れた時は新たなエアコンを設置した方がいいと言われています。その場合は天井ではなく、窓際の設置となるとしています。
▽▼ゴミ出しのカレンダーを貼っておきます。火曜日と金曜日が可燃ごみの日です。ゴミステーションはなぜか秩父支局のコーナーになっています。時折、燃えないゴミなどを出す輩もいて、警告するシールを貼って撤去させるケースもありました。ごみ袋は市指定の有料です》

▽管内の市町村選挙の日程も説明している。
《●市町村や選挙について
▽▼秩父支局管内の担当市町村は以下の1市4町です。首長名も記しました。
▽秩父市▽市長は今年4月の市長選で久喜邦康から北堀篤に交代しました。接戦を制した形ですが、保守陣営が分裂し、市議会と市長の間ではしこりが残っています。
▽長瀞町▽大澤タキ江
▽小鹿野町▽森▽真太郎昭和31年10月13日▽小鹿野町奈倉生まれ(60歳)9月に町長選があるため、念のため生年月日を記しました。
▽横瀬町▽富田能成
▽皆野町▽石木戸道也
▽▼県議選は秩父市単独の選挙区「北1区」と周辺の4町プラス東秩父村の選挙区「北2区」です。定数はともに1で、後者は今年4月に補選がありました。
▽▼衆院選は11区ですが、秩父市と周辺町村のほか、北埼玉支局管内の深谷市や熊谷市の一部、周辺市町が含まれるため、日々の取材対象以外の地区が多く、接戦の場合は票読みがかなり難しくなります。しかも票田の多くが人口が多い深谷市のため、本来なら北支局が当打ちを担当すべきだと私は思います。しかしここ数回の選挙は現職小泉の圧勝で、しかも自民に復帰したため公認候補となり、立憲候補の知名度がないため、ゼロ当打ちが可能です。
▽★なお8月31日には小鹿野町長選と町議選の説明会があるため、各社が協力して調査表の手渡しとその場での回収をするため、出席して作業が不可欠です。
▽▼また4年に1度の統一地方選では、私は県議選とさいたま市議選の応援のため、さいたま総局で当打ちの作業を手伝っていました。また隣の所沢支局の当時のシニアの記者が、選挙作業を放置していたため、選挙システムでの所沢、狭山市議会候補者100人分の候補者入力をデスク経由で全部私に投げてきました。これも警戒した方がいいです》

▽通常の取材業務についても書いた。
《▽▼秩父支局管内ではかつて遭難とヘリの二重遭難、マスコミの三重遭難があり、現場へのルートをキチンと検索する作業が必要です。応援組が現場に入るには、関越道花園インターから国道140号で向かうのがいいのか、それとも飯能経由で299号がいいのか。さらには山梨県から山越えがいいのか、常にルートを考えておいた方がいいです。かつて秩父市荒川で二重、三重遭難があり、現場のルートを確保する必要性を痛感しました。
▽▼記者クラブは市役所2階にあります。各社ともそこで取材・執筆するということはなく、情報交換や雑談をするぐらいです。記者クラブ費は月額1000円で、これも実費請求してください。
▽▼秩父支局管内は祭りが多く、そのすべての祭りを取材する必要はありません。是非ものは秩父夜祭ぐらいです。
▽▼夏の高校野球県大会は、前前任者までは熊谷球場の2-3日の取材で済みましたが、前任者も私もなぜか県営大宮球場に駆り出されています。前任者はカメラマンだったということもありますが、いつの間にか秩父支局長がカメラマン役をやると勘違いされていて、2019年の夏大会は県営大宮球場の全試合をカメラマン役として撮影していました。昨年も今年も準決勝からカメラマン役をしていました。私はカメラいじりが好きだったので苦痛にはなりませんでしたが》

▽通常ここまで詳しく引き継ぎメモを書いている人間は、あまりいない。私が群馬県渋川市の渋川支局に赴任した時、前任者から渡されたメモはわずか10行もなかった。各紙新聞販売店の電話番号などが書かれただけのメモだった。それぞれの記者の性格が出てくるなと思っている。
▽秩父支局はそのまま後任者が不在のまま、閉鎖されてしまった。

★325国の特別天然記念物トキの国際会議

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、佐渡に生息する日本の特別天然記念物のトキについて、日本やトキ保護事業の先進地、中国、そしてトキの放鳥計画を進めている韓国の3カ国がトキの保護の現状について話し合う「日中韓トキ国際会議」が、新潟市の朱鷺メッセであった。日本では初めての開催だ。2016年12月のことだ。各国の関係者ががそれぞれの現状報告と課題を報告した。
▽国際会議は2012年に韓国で初めて開催され、今回が3回目。私はその会議を初めて取材したが、トキは中国側の好意と提供で、絶滅した日本のトキを再生させたことから、パンダと同様、3国の友好の礎になるのではないか、と思ったりもした。日本と中国、日本と韓国、ともにアジアの一員であり、トキを利用した友好外交を展開してもらいたいと感じた。
▽このうち中国側は、中国で行ってきたトキの人工飼育と放鳥について報告。地元の農家の協力を得て、住民とトキが共存する環境作りを続けたことを振り返り、その会議の時点では人工飼育では約800羽、自然界では1800羽が生息するまでに至った現状を説明した。そしてトキは本来渡り鳥だとしてうえで、再生事業として、
「今後は渡り鳥として徐々に移っていくのではないか」
と指摘し、
「その可能性を模索して、日本、韓国と協力していきたい」
と提言をした。
▽韓国側は絶滅危惧種の再生事業について報告。この中で、初めてとなるトキの放鳥計画が進んでいることを明らかにした。韓国のトキも日本と同様、一度絶滅した経緯があり、中国からのつがいを供与されて、人工飼育は順調に進んできた。今回の会議時点で171羽を人工飼育していると説明した。
「人間と共存するため、地域社会と協力したい。春と秋の放鳥ではセミナーも開くので、ぜひ参加していただきたい」
と呼びかけた。
▽日本側は環境省担当者が日本での課題を報告。放鳥したトキの自然界での繁殖率が低いと指摘した。佐渡市を中心に生息するトキは、元々中国からの計5羽から生まれたトキであって、遺伝的に日本のトキは脆弱だとして、
「中国からの国際協力を得たい」
と訴えた。
▽また佐渡でトキのモニタリングを続けている佐渡とき保護会副会長が、身近に見たトキの生態について話した。
「トキは追い風に乗ると一気に飛んでいく。わずか1カ月の間に、佐渡と新潟を4回も往復したトキがいた」
として、中国側が提言した発言を受けて、
「渡り鳥としての検証が必要」
と感想を語った。
▽日本側からは専門家も提言があった。日本のトキが遺伝的多様性が低いことを指摘し、現実的な対策ととして、「新たな個体の導入」という表現で、日中韓でのトキの個体の交換を図ることが重要だと指摘した。
▽平和の象徴となる野鳥となれ、と私は心の中で願った。


★324地方議会取材の大切さと朝日新聞の地方取材網の縮小

▽何回も書いてきたが、地方在住記者にとって、地方議会の取材は必要不可欠だ。このことを何回も強調したい。最近の朝日新聞地方版を見ていると、地方議会の話が全く掲載されていないことが多くなった。他紙には載っているのに、朝日新聞だけ載っていないのだ。がっかりする。こんな方針を朝日新聞は打ち出しているのだろうか。
▽新年度が始まる前には3月の定例議会があり、この定例議会で新年度の当初予算案が行政当局から発表される。報道陣にも記者会見で事前に発表がある。市町村の行政当局にとって、予算案の執行は、行政権力の行使そのものだから、予算案をそのまま議会で通してもらいたいし、そのための議会工作をする。多数派となっている与党派議員を確実に計算し、賛成多数で可決する努力をする。
▽報道する側からすれば、こうした水面下の動きも含めて、ウォッチしていき、予算案が通るかどうか、見極める。
▽本議会のほか、一般委員会、特別委員会など専門議題を扱うものを少人数の委員会に諮っていく。
▽市役所なら、市長が独自色を打ち出して、独自の政策を打ち出す場合も、予算案や条例案を出していく。
▽また任期満了となった副市長の人事案件も、専任案として、多くの場合、議会最終日に提案し、議会の可決を目指す。
▽3月の議会が終われば、6月定例会、9月定例会、12月定例会があるほか、その間にも、臨時議会もあり、議会の動きをフォローしていく必要がある。
▽また4年に一度、首町と議員の選挙があり、地方在住記者にとっては、その選挙の事前準備と実際の選挙、選挙結果を報じていく。暇そうに見えるが、地方記者も結構忙しい。
▽これは国会取材でもそうだし、県議会取材でもそうだろう。国会の場合、東京本社では、政治や社会、経済の記者が担当しているし、県議会では、県庁所在地の総局記者が議会や県庁を持っている。民主主義の砦である議会を担当するのは、記者の務めなのだ。
▽しかしそう簡単に取材ができるものではない。事前に提案される議案を見て、チェックし、何が問題なのかを受け、行政幹部や議員に聞いていくことが大事だ。そして議案が提案され、委員会に付託され、委員会では動きを見ながら、本会議の取材もする。
▽ただし、そう簡単ではない。
▽これが首都圏の支局だと、担当する市役所が5つも6つもあり、ほぼ同じ日程で定例議会があるから、掛け持ちが大変だ。問題になりそうな議会を取材するため、他の議会は事前に取材をして、後から結果を聞くことになる。
▽問題は提案された議案が否決された時だ。日本の地方議会の多くは、提案された議案のほとんどを可決することが多く、逆に否決されたときの方がニュースになる。私が経験したこれまでの議会でも、新年度予算が否決されたり、副市長の選任議案が否決されたり、補正予算が否決されたなど、いろいろあった。そのために取材をして、ニュースにした。
▽だから現在朝日新聞が進めている地方記者の削減は、新聞社として大きな痛手となる。地方に記者がいなくなれば、地方の議会を取材することができなくなる。後から取材で聞けばいい、と発想は安易すぎる。その場で議会を傍聴している記者が必要なのだ。
▽こんなことが、朝日新聞幹部にはわからないのだろうか。議会をウォッチする事は、民主主義を守る上でも大切なことなのだ。地方の記者をなくしてはいけない。

★322新聞社のデスクとその能力とひどさ

▽私は一線記者として100人以上のデスクと付き合ってきた。尊敬するデスクもいたし、逆に酷いデスクもいた。今回はその酷いデスクの話をしようと思う。
▽新聞社にとってデスクとは、日々部下の記者が出してきた原稿を整理し、その日に組む紙面構成をどうするかを決める専任者だ。デスクといっても、本社と地方のデスクは仕事の方法が違うので、まずは地方のデスクについて記していこう。
▽ここでおさらいをすると、県庁所在地がある都市の総局には、トップに総局長が、次席としてデスクが、その下にキャップや一般総局員がいる。また地方には準支局や支局があり、そうした地方の記者もいる。デスクとは、キャップや一般総局員、地方の支局長が書いた原稿を直したり、削ったり、指示したりして、地方版の紙面を作っていく。
▽ここで大切なのは、その紙面感覚だ。つまり、地方版のアタマと呼ばれるトップ記事を何にするか、トップの次にカタと呼ばれる第2項目は何にするか、さらには3項目、ベタ記事には何をするのか。こんな紙面構成をどうやって組み立てていくかというセンスを紙面感覚と言うのだが、その紙面感覚がないデスクが意外と多い。
▽1ページに入る紙面の記事の量は決まっている。写真や見出しも入るので、1ページの記事の行数はせいぜい250−300行ぐらいだ。この紙面の中でどういう紙面構成をするのかが問われるのが、デスクの紙面感覚だ。
▽何が何でも長い行数の原稿を何本も出したり、写真をやたら何枚も出したり、記事を極端に削ったり、紙面感覚が欠如しているデスクが意外に多い。デスク業務のダッチロールが見られる。
▽こんなデスクが業務をしていると、その紙面を実際に組む地域版編集者にとってはたまったものではない。紙面がなかなか決まらないのだ。本人は紙面感覚がないことを自覚していないから、たちが悪い。
▽次にダメなデスクとは、部下に空威張りする人間だ。電話で怒鳴ったり、怒ったり、一見指導しているように見えるが、単なる感情を抑えられないだけだ。怒鳴ることが、指導だと勘違いしている人間は何人もいた。私は何人も、そういうデスクを経験した。
▽さらにひどいデスクとは、部下とのコミュニケーションが取れない人間だ。部下がどんなことを考え、どんな記事を書きたいのか、そういう事は全くわかってないデスクが多かった。要するに会話が成り立たない。会話が成り立たないから、新しい企画に取り組むことも出来ない。えさを待って口を開けている魚のようだ。部下から見ても、何を考えているか分からないのだ。
▽さらに言うと、部下と競争してしまい、部下より俺のが偉いんだ、と言わんばかりに、態度に出すデスクもいた。
▽知ったかぶりをして、誤った指導をするデスクもいた。部下の悪口を総局長に告げ口するデスクもいた。
▽このように見ると、地方では私はあまり良いデスクには出会えなかったかもしれない。


★318上越地方の豪雪と長靴ファッション

▽新潟県上越市は、日本でも有数な豪雪地帯だ。冬になると湿った雪が大量に降り、このため、地元の住民は長靴を履いて暮らす。長靴は生活の必需品だった。この長靴スタイルに慣れるのに、私はしばらく時間かかった。
▽上越市の雪は、湿った雪で、重い。日中になり太陽が出てくると、少し溶けてくる。そのため、道路はビチョビチョとなり、歩きにくい。このため、ビジネスシューズやブーツ、カジュアルシューズなどはズボンが濡れてしまい使えず、長靴に頼るのだ。地元の住民は、男も女もお年寄りも若者も、学生も主婦もみんな長靴を履いていた。
▽上越市の朝日新聞上越支局に赴任して、初めての冬を迎えた時、地元住民がみんな長靴を履いているのに、やや戸惑った。理解は出来るのだが、長靴を日々使う生活などしたことがないからだ。子どもの時、雨の日は長靴だったが、社会人になってから、長靴を日々履いた経験がなかった。
▽寒冷地の北海道だったら、雪が軽くて溶けないので、ブーツやスノートレが主役だった。東北地方も太平洋側は雪が少なく、長靴を日々履くことはなかった。
▽長靴を履くのは、事件事故現場の取材に限定していた。
▽それが上越の人たちは、みんな長靴を履いていた。次第に私も長靴生活になっていた。そうしないと、ズボンの裾が濡れるためだ。長靴の中にズボンの裾を入れるスタイルで。戦前の日本兵のゲートル姿を重ねてしまった。
▽上越の冬を3回過ごしたが、すっかり、この長靴スタイルに慣れてしまった。確かにこのスタイルは、ズボンが汚れない。地元に合ったスタイルなのだ。地元の女性は「上越ではおしゃれなファッションが出来ない」と嘆いていた。確かに長靴ではおしゃれできないなと、変に感心してしまった。
▽ただし、例外があった。新潟市の朝日新聞新潟総局に出張する時だ。同じ県内なのに、140キロも離れた新潟市は雪が少ない土地柄だった。上越市で豪雪になっても、列車で2時間揺られて新潟駅に着くと、雪が全くない光景に出くわすことも多かった。このため新潟総局に出張する場合はブーツを履いた。
▽上越支局を離れて、もう何年にもなる。あの時の長靴スタイルは私の記憶だけになってしまった。長靴を履いた写真を撮影しておけば良かったなと、今では思っている。

★314地方ドライバーの怖さとジョギング

▽市街地でジョギングをしていると、時折怖いドライバーに出会う。メイン道路の脇道から入ってくる車のドライバーが、左右をよく見ないで出てくるのだ。正確に言うと右だけを見て、左を見ないで、車を発進させる。ドライバーから見て左から走ってくる私の姿を見ていない。車を発進してから、ようやく左を見るから、もう少しではねられそうになった。こんな経験が何回もあった。
▽特に新潟県佐渡市と埼玉県秩父市がそうだった。
▽私は朝ジョギングをずっとしる。主に市街地や国道の歩道を走っている。国道の歩道、私から向かって右側の歩道を走っていると、右の脇道から出てこようとする車が危険だ。そのドライバーは早くメイン道路に出たいものだから、右から来る車ばっかりを見ていて、左から来る私の姿を見ていない。右から来る車の列が途切れると、急いで車を発進させようとする。アクセルを踏んで発進させてから、初めて左を見るから、走って近づいてくる私の存在に遅れる。あわや、私とぶつかりそうになる。こんなことが何回も何回もあった。
▽要するに、右を見るが、左を全く見ていないドライバーがかなり多い。朝の忙しい時に、交通量の多いメイン道路に入りたいため、左を見る余裕すらないのだ。
▽小学生が横断歩道を渡る時、大人から教わるのは、「右見て左見て、そして再び右を見てから渡る」ということだ。これはドライバーも一緒。脇道から出るときは、右を見て、左を見て、さらに右を見て、それから安全を確かめてから出るのである。
▽近づいてくる車やジョガーはある程度速度があるため、右を見て、左を見ている間に、その分その車に近づいてきてしまうもののだ。それが理解できないドライバーは右を見ただけで、アクセルを踏んでしまう。距離感がわからないドライバーだと、必ずヒヤヒヤしてメイン道路に入っていく。
▽おそらくこうしたドライバーは、歳を取ってからも、運転については何の改善もされないで、つまり交通マナーをきちんと学ばないでそのままずっと、今の運転スタイルを身につけてしまったのだろう。だから学ぶこともしないで、安全面を考慮しないで、ずっと運転してきたのだろう。これが怖いのだ。
▽先日も、私がジョギングをしている時、マンションの駐車場から出て来たワゴン車が、私をぶつけそうになった。私は危ないと叫んだ。そして初めて、その女性ドライバーは私の存在に気づいた。その女性はやはり右しか見ておらず、左は全く見ないで、車を発進させようとしていた。
▽こんなドライバーが地方に多い。ジョギングをしている人は、気をつけたほうがいい。危険な運転をしているドライバーは結構多いし、意外と身近にいる。たまたま交通事故にならないだけなのだ。

★313前線基地とアクセスルートの確保

▽地方で大事件や事故、大災害が発生した場合に備えて、新聞社などの大手マスコミはその取材の最前線である前線基地をどこに造るかを常に検討している。また、その取材現場に行くルートがどこにあるのかも、現地の記者は常に頭に入れて、行動している。
▽こう書いたのは、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時に、浅間山が噴火し、現地で被害が出た時を思い出したからだ。その時の最前線の前線基地をどこに造るかは、別稿のコラム「浅間山」で書いたので、今回はアクセスルートの話を記そう。
▽渋川支局から浅間山に向かうには、県西部を流れる吾妻川に沿って走る国道を使うのが一番速い。最近は有料道路も出来て、アクセスは楽になった。
▽しかし、当時は片道一車線の狭い道路で、アクセスするには時間がかかった。翌日、朝早くから私は渋川支局からマイカーで現地に向かったが、吾妻川に平行する一本道は、渋滞が続き、噴火による降灰で、順調に進むことができなかった。
▽後に知ったのだが、浅間山方向に向かうには、南側の長野県佐久市から山越えで北上した方が速い時もあるということだった。つまり、東京本社から現地に向かうには、関越道を北上し渋川伊香保インターから渋川経由で向かうのではなく、関越道から枝分かれした上信越道に入り、佐久インターなどで降りて、北上するルートだ。つまり取材班を二つに分けて、この二つのルートからそれぞれアクセスすることで現場に近づくのが最適だった。
▽それは別の勤務地でも言えた。
▽私が転勤で埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に赴任した時は、管内で事件事故や災害が起きた時のルートがどう確保できるか、ずっと検討していた。
▽普通は関越道花園インターから国道を通って秩父館内に行くのだが、ここも時折大渋滞する。このため、所沢市方向から北上するルートと、山梨県から山越をして、秩父関内に入るルートも検討した。何回も何回もマイカーで走らせて、どのルートが一番速く現場に着くかをイミュレーションし検証していた。三つのルートはできると私は確信した。秩父館内で事件事故、災害が発生した場合、取材班を三つに分けて、それぞれのルートでアクセスするのが一番だと思った。幸い、私が勤務している時に、そのような応援をもらう事件事故、災害は発生しなかった。
▽しかしだ。私が勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局では、車のルートが使えない。孤島なので、大型フェリーか高速のジェットフォイルしかないのだ。あとは自社ヘリを飛ばすしかない。幸いにして私が勤務していた3年間は何もなかったが、島にアクセスするルート確保は常に検討する必要がある。
▽残念なことに、朝日新聞は佐渡支局を廃止してしまった。何か起きた時に、アクセスも簡単にできないし、前線本部設置も遅くなる。それが心配だ。

★309転勤と引っ越しの苦労を理解しない本社

▽私は転勤族だったから、各地方へいろいろと転勤した。その転勤で一番困るのが、引っ越しだ。時間も金もかかる。
▽私が新潟県佐渡島の朝日新聞佐渡支局に赴任する時だった。朝日新聞と契約している運送会社からは、引っ越しには1週間かかる、と言われた。自宅から荷物を出し、トラックで輸送し、地元の子会社に荷物を引き渡して、佐渡支局に荷物が届くのが1週間後と言うわけだ。日本海に浮かぶ離島ゆえの引っ越し日程だった。さすがに遠いと思った。
▽その間私は何もできず、引っ越しの荷出しから赴任までの1週間をホテル暮らしするしかないのだ。
▽しかし会社はわずか2日間の宿泊費用しか出さなかった。残りは自腹になった。引っ越しの実態を、本社担当部門は全く知ろうとしなかった。
▽逆に、埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局を最後に退社した日に引き上げる時は、2日かかる引っ越し日程を、会社は半日でやれ、と言ってきた。
▽通常、支局から引っ越しする場合、荷物を出した後、支局内を丁寧に掃除をして、出ていく。引っ越しの荷出しと清掃作業だけで1日かかるから、通常は引っ越し日の夜は、地元のホテルに泊まる。
▽しかし、会社は半日でやれと言い、宿泊代を出そうとしなかった。引っ越し作業をした後の掃除もできなかった。会社はそれでいいと言うのだ。私の後任者が着任した時、掃除もしないで出ていった私のことを恨むだろうな、と思いつつ、会社の指示に従った。
▽このようにして会社は引っ越しの実態も知らないで、いろいろ経費を節約し、文句を言ってくる。経費節減もわかるのだが、引っ越しは時間もかかるし費用もかかることが、なぜ分からないのだろう。
▽本社の担当部門社員たちは、転勤族ではないので、引っ越しの実態がわからない。荷物を出し、清掃をして、気持ちよく引っ越して行きたいのに、全く理解しようとしない。だから、支局内を汚くして出て行っても、担当部門の人間は分からないし、分かろうともしない。赴任してこんなに支局内が汚かったのか、と過去に何回も驚いた経験がある。多く自腹で掃除をしていった。
▽朝日新聞本社の担当部門の社員たちは、もっと支局内の実態を実地調査して、転勤族に対して優しい態度を取ってもらいたいな、といつも思っていた。しかしそれは全くできなかったのだ。

★306水道管凍結の続報(031「佐渡の水道管凍結」の続報)

▽2018年1月末、新潟県佐渡市に寒波が襲い、佐渡島全域の民家で水道管が凍結に見舞われる事態に陥った。私が勤務していた朝日新聞秩父支局も例外ではなかった。水道管が凍ってしまい、水が出なくなった。トイレも風呂も使えず、洗濯も出来なくなった。
▽私は当時のメモにこう記している。
《佐渡市上下水道課によれば、断水が見込まれる世帯数として29日午前8時現在、両津地区で1500、相川500、佐和田1680、金井1952、新穂1477、畑野1523、真野1574という数字を計上した。これを見る限り、国中平野に属する金井、新穂、畑野地区での断水世帯率が目立つ》
▽佐渡市の世帯数は約1万だから、ほとんどの民家で被害に遭った計算だ。
《佐渡島の中心にある国中平野は、高い建物や山地もなく、風が一気に吹き抜ける土地柄だ。24日から26日にかけて発生し通過した寒波が、各民家などの建物を襲い、一気に家庭内の水道管を凍結させた可能性が高い。凍った水道水は水道管の中で膨張し、水道管を破裂させたというわけだ。「過去、例を見ない寒波の影響が出た」と同課は説明する。
▽新潟地方気象台によると、国中平野に比較的近い同市秋津地区のアメダスでは、24日の最低気温がマイナス6.6度、25日がマイナス6.1度、26日もむマイナス4.9度を記録している》
▽加えて、佐渡島特有の建物づくりにも課題を残した。雪国とはいえ、新潟県では比較的穏やかな気候のため、佐渡の家造りでは、水道管の凍結防止策として水道管の栓を止めて水を抜く、という構造になっていない民家が多い。給水管から枝分かれして各家庭に伸びる水道管が、寒さにさらされるままになっている家庭も多い。このため同市は水道管にタオルを巻くなどして、凍結防止を呼びかけてきた。
▽私は転勤族で、雪国に赴任することが多かったから、生活体験として、佐渡島の冬の対策が意外にお粗末だとずっと感じていた。佐渡島には「水を抜く」という発想もなかったし、構造上も出来なかったのだ。
▽そして、市役所では空き家や留守宅の水道管の漏水の有無を確認する訪問点検が本格的に始まった。過疎化の加速で増え続ける市内の空き家で漏水があれば、その地区の給水制限が解除されない事態も想定される。市の担当職員や嘱託の検針員ら約40人が各地に散らばり、1軒ずつ確認して回る「ローラー作戦」に乗り出した。私もそのパトロールに同行した。
《31日午後、同市佐和田地区内にある窪田地区。真野湾からの冷たい風と雪が吹き抜ける住宅街を、市消防本部職員と市職員の2人がペアを組んで、住宅を1軒ずつ訪ねていく。
▽まずは、空き家から水道メーターを探さなければならない。消防職員がスコップで積もった雪を掘り出す。やっと見つけた水道メーターのふたを開ける。メーターの歯車を、市職員がチェックした。「動いていなければ、よし。動いていれば漏水している証拠だから、栓を止める」》
▽水道メーターのふたが腐食し、なかなかふたが開かない場合もある。決してスムーズにこなせる作業とは言えない状況だ。
《別の場所では、別のペアが細長い小路を歩いて進み、雪をスコップでかき分けて空き家のメーターを点検していた。「ここのおばあちゃん、先日亡くなったからね」。メーターを見ると、歯車は止まっていた。職員が「漏水はないですね」と説明した。実際に住民が住んでいる家を訪問した際には、お年寄りの女性に話を聞いて、メーターの点検作業にあたった》
▽この日の作業前。職員たちは同市真野行政サービスセンターに集合し、訪問する各地の地図とリストを渡された。市上下水道課の幹部は「しらみつぶしに漏水した家を探してほしい。ローラー作戦です」と説明。水道メーターの歯車が動いている場合は居住を確認し、人がいない場合は強制的に水道管の栓を閉め、その趣旨を書いた「お知らせ」を郵便ポストに入れることにした。
▽今回の断水問題で浮き彫りになったのは、佐渡市の過疎問題だ。市によると、空き家は年々増え続けて数千軒にのぼるという。空き家の水道管が破裂したまま放置されれば、水道の供給を復旧させることができなくなる地区もあり、水道行政そのものが崩壊する恐れがある。
▽こうした現状は、現場の記者でしか分からない。


★304雪国と冬タイヤ

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。北関東の渋川市は坂道が多く、冬になると雪の上り坂をスリップしてしまい、動かなくなる車をよく見た。冬道に対する警戒がない人たちが時折いた。
▽雪国に、冬タイヤは必要不可欠だ。冬が近づくと、それまでのノーマルの夏タイヤを外して冬用のスタッドレスタイヤに履き替える。そして雪の季節に備える。春になると再び夏タイヤに戻す。この繰り返しを続ける。これが当たり前だと思っているから、北関東の渋川市では、スリップする車を何回も見て、ちょっと驚いたことが多かった。
▽私は転勤族で、転勤先の多くが雪国だった。豪雪地帯の新潟県上越市にいたこともある。転勤する度に、夏には不要な冬タイヤを保管する場所を確認したものだ。
▽私が北海道に勤務していた時、夏タイヤやスタッドレスタイヤのほかに、スパイクタイヤというものがあった。タイヤに金属製のスパイクピンを数十本も埋め込んで、雪道やアイスバーンの道路でブレーキの制動力を良くするタイヤだった。当時の北海道の人は、この3種類のタイヤを持っていた。秋深くなると、夏タイヤからスタッドレスタイヤに履き替え、さらに本格的な冬になるとスパイクタイヤに交換した。そして春先は、スパイクタイヤを外してスタッドレスタイヤにして、春になると、夏タイヤに戻した。この交換にかなりの体力を使ったものだ。
▽確かにスパイクタイヤのブレーキの制動力は抜群だった。アイスバーン状態、つまりツルツルの道路でも、ブレーキが効いた。
▽しかしそんなスパイクタイヤが深刻な粉塵公害をもたらして、批判の対象になってきた。スパイクタイヤがアスファルトの道路を削り、自らが金属スパイクピンもすり減らして、空中に粉塵を撒き散らす。この粉塵公害が大きくなり、マスコミが批判的に報道するようになった。腰の重い行政を動かして、スパイクタイヤの使用禁止に踏み切った。
▽こんな経緯も知ってるから、私は関東地方で冬の雪道を甘く見ているドライバーが多くいることに驚かされる。スタッドレスタイヤを準備し、11月の中旬から下旬にはスタッドレスタイヤに交換するのは鉄則だ。特に渋川市の場合は、関東平野が終わって、山に続く地形で、坂道が多く、道路がアイスバーン状態になったら、坂道を登れない車が続出する。
▽お互いドライバー同士、気をつけたい、と思っている。

★301トキの絶滅と佐渡赴任、そして再生事業

▽一度絶滅した野生の鳥で、国の特別天然記念物、トキが新潟県佐渡市の佐渡島の空を再び舞うようになった。国が進めた再生事業がようやく軌道に乗り始めた、と見てよい。その事業のために県も市も、そして佐渡島の住民の協力があったから、成り立った再生事業だ。
▽トキは体長80センチ、翼開長130センチになる白っぽい野生の鳥だ。明治時代の乱獲で激減し、昭和時代は「森林の伐採による繁殖地の減少、農薬の多用による餌動物の減少、山間部の水田の消失などが要因」(環境省)でさらに激減し、最終的に日本産のトキは全滅した。
▽私は以前、朝日新聞東京本社に勤務していた時に、環境庁(当時・現環境省)を担当していたことがあり、絶滅が想定されていたトキの取材をしたことがある。環境庁が主体となって生存していたトキを捕獲して、人工増殖に期待をしたが、それもかなわず、中国からの個体を受け入れて、その個体による人工繁殖に成功するが、一方で日本産の個体は絶滅する。その予定稿を書いて、トキの死亡を受けて社会面に記事を載せたこともある。
▽そんな私が朝日新聞佐渡支局に赴任したのは、2015年だった。環境省はトキの放鳥を2008年に始めており、野生化で生き延びたトキのペアによるひなが4年後に生まれ、38年ぶりの巣立ちが確認されるなど、再生事業が軌道に乗り始めたころだった。またその影では、トキの再生に半生を捧げた関係者がいることも知った。中国の協力があったからこそ、再生事業も成り立っていることも、再確認した。
▽かつてトキ死亡の予定稿を書いた私が、再びトキの取材をすることになった偶然性に、我ながら驚いたものだ。
▽ペアリング、営巣、抱卵、育雛、ひなの誕生の様子をモニタリングしていて、それによる発表が連日のように地元の環境省の出先機関からあった。もちろん営巣、抱卵、育雛を中止したペアも多く、関係者はその動きに一喜一憂していた。山林で死んでいるトキが見つかったこともある。
▽その後、トキは日本海を100キロも渡って、新潟県の本土などで確認されることもあり、野生化のトキの個体数は自然に増えていった。
▽佐渡島で車を走らせていると、時折、飛翔しているトキの姿を見ることも多くなった。もう絶滅はさせないぞと佐渡島の人間が誓っている。


★299地方市議会の珍事、議案の撤回の撤回

▽いろいろな地方を転勤していると、いろいろな市議会のやりとりに出くわす。市執行部が出した議案に対して質疑する本会議の前に、全員協議会を開いて、市執行部が事前説明をする、という二度手間の市議会もあったし、全員協議会のその前に非公開の特別委員会を開いて、取材を許可しない市議会もあった。地方に記者を置かなくなると、市議会の大切な場面を取材する事がなくなり、行政当局と議会との緊張関係を伝えることが出来なくなる。地方議会の現場で、何が起きているのか、それを伝えることが出来るのは、現地の記者だけだ。
▽地方の取材網を縮小する動きが、朝日新聞にも急速に進んでいるが、これはジャーナリズムの自殺行為だと思っている。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、こんな事案が6月、佐渡市議会であった。
▽当時の市長が市議会全員協議会で、本会議に提案した補正予算の1議案を撤回すると表明した。議案を撤回するのはニュースだが、議員からは、
「一度決まったものを撤回するとは、何事だ」
と反発を受けて、協議会が紛糾した。最終的に、その議案の撤回を撤回するということで、議会側が納得した。どうしてこんなことになったのか。
▽議案は同市病院事業会計補正予算で、「市立両津病院移転新築事業検討委員会設置に伴う予算案」で30万円を計上する内容だった。移転新築に向けて、内部に委員会を設置するという議案だ。関係者によると、この年4月の市長選で、「無駄な支出を省く」などを公約に掲げて初当選した市長は、その議案に「移転新築」という名称が付けられていることを問題視して、撤回をこの日の協議会に諮った。協議会では、
「議会で議論するには、なじまない案件が入っている」
という説明をしたが、最初に「新築」という言葉があったことを問題だとしたという。市側は撤回後に再提案する議案には、「新築」などの言葉は使わないとも説明した。
▽これに対して、地元選出議員らは、
「両津病院は老朽化し、移転新築する方向で決まっている」
「一度提案した議案は市議会で議論するのが筋だ」
と反発。しばし、休憩して調整に入ったが、「撤回の撤回をします」と陳謝した。
「撤回の撤回」はやはりニュースだとして、私は原稿を書いた。
▽これを新市長になった人間への市議会のいじめと見るか、市長の説明不足だと見るかは意見が分かれるが、民主主義の砦とされる議会で、何が起きているか、地元の記者がウォッチしていないとならない案件のはずだ。
▽ちなみに当時の佐渡島では、新聞は地元紙の記者が5人駐在し、朝日新聞が私の1人、読売新聞も1人、毎日新聞はゼロだった。放送はNHKも民放も契約した記者兼カメラマンが1人ずつ駐在していた。
▽当然ながら、毎日新聞はこの「撤回の撤回」は記事にしなかった。否、出来なかった。


★296地方支局のセキュリティーの温度差

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した時、驚いたことが一つある。秩父支局は私だけしか記者がいない1人勤務の支局で、通常の民家と事務所が一体化した2階建ての建物であるが、1階と2階のありとあらゆる窓にセンサーが設置されていて、窓が少しでも動くと、装置が異常を感じて、警備会社に自動で通報されるシステムになっていることだった。そのセンサーは私が数えただけで60個以上もあった。
「何、これ?」
と驚いた記憶がある。
▽出かける時は、この装置に挿していたスティックを抜くと、自動防犯システムが稼働する。稼働すると、支局内のちょっとした動きをセンサーがキャッチする。だから窓の一部が少しでも開いていたり、ドアが半開きになっていて動いたりすると、センサーがキャッチして、警備会社に自動通報する。実際にこんなケースが数回あり、警備会社からの電話でその事実を知ったこともあった。
▽通常の1人勤務の支局だと、こんなにセキュリティーは高くなかった。警備会社と契約はしているが、万一の侵入者がいても、警備会社に自動通報する事はできなかった。
▽佐渡支局でこんなにセキュリティーが高くしていたのは、訳があった。私の前々任者が女性記者だったためだ。佐渡支局では初めての女性記者が赴任したため、会社が女性保護の観点から、セキュリティーを高くしたのだ。私はその女性記者の存在で恩恵を受けたことになる。
▽私には、苦い思いがある。佐渡支局に赴任する10年ほど前、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。私が書いた記事をめぐって、暴力団が私を脅してきた。
「これからお前の所に行くから待っていろ」
などと脅された。いわゆるお礼参りだ。詳しい話は別の機会に詳述するが、裁判も始まり、私は身の危険を感じて、総局長と相談の上、裁判のたびにホテル暮らしを続けた。その暴力団の男が毎回出廷していたためだ。いつ支局を襲ってくるか、分からなかった。
▽その時は渋川支局では防犯対策として、佐渡支局のような警備会社との契約もしていなかったし、セキュリティーの高さは全くなかった。支局の危険性が増しているのに、会社は何の対策も取らなかった。
▽つまり男性記者が赴任する場合は、セキュリティーなどはどうでもよく、女性記者が1人勤務になると、セキュリティーを高くするのだ。これって男女差別ならぬ、男女逆差別ではないのか、と私は思ったりもした。完全な危険性があるのに、会社は何もしてくれなかった。
▽そんなセキュリティーの高い佐渡支局も、セキュリティーが低い秩父支局も、防犯体制が全くなかった渋川支局も、朝日新聞本社はそれらの支局を廃止した。これからの若い記者たちは、セキュリティーが高い支局も、低い支局にも赴任することはないのだろう。
▽これもいずれ、遠い記憶になっていくのだろう。
◎参考図書→「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」(原裕司、東京図書出版)

★294にわか鉄ちゃん、にわか撮り鉄

▽西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)の新型特急Laview(ラビュー)は2019年にデビューした最新型の特急で、西武秩父駅と西武池袋駅を結んでいる。西武特急ラビューがデビューし、私はこの欄のコラム266「西武特急ラビューの斬新性」で次のように書いた。
《▽デビューして翌年には、世界的に権威あるデザイン賞である「iFデザイン賞2020」を受賞した。国内の鉄道車両では13年ぶりの受賞になる。さらには、鉄道友の会のブルーリボン賞にも選ばれた。同社にとっては、同賞に選ばれたのは、1970年の初代特急レッドアロー以来、実に50年ぶりだった》
▽デビュー以来、何回か取材をして記事にしていたが、その記事とともに掲載するラビューの写真を撮影するため、にわか鉄ちゃん、にわか撮り鉄になって、沿線現場を駆け巡ったことがある。ニコンD500とD850に望遠レンズを着けて、マイカーに積み込んで、走り回った。
▽秩父市ばかりではなく、隣の横瀬町、さらには飯能市まで行き、撮影場所を捜した。しかし、なかなか見つからない。
▽走っている電車の全体像を撮影するには、適度なカーブを走行し、電車が曲がっている構図が分かりやすい。西武鉄道の沿線を地図で調べて、カーブの場所、踏切の場所、道路の場所などを歩いて、撮影ポイントを探し歩いたが、結局探し出すのは難しいことを知った。にわか鉄ちゃん、にわか撮り鉄では駄目であることがよく分かった。
▽結局、隣の横瀬町で西武線を渡る陸橋があり、その歩道から撮影するのが、私にとってはベストだった。
▽時刻表とにらめっこして、ラビューズ走り去っていく時間帯を常に頭に入れて、ラビューを待った。望遠レンズを用意し、近づくラビューを連写でシャッターを切っていった。
▽また流し撮りで撮影したこともある。動いている被写体の撮影は難しいと、今さらながら感じた。
▽こうして撮影した写真は、朝日新聞の紙面に掲載されたが、他紙を見てやや驚いたことがある。
▽全部、西武鉄道による提供写真なのだ。ここまで手を抜いているのか、と絶句してしまった。

★292秩父夜祭と撮影場所取り

▽埼玉県秩父市では毎年12月、秩父夜祭が開催される。今年もあった。2日間の日程で、笠鉾2基と屋台4基の山車(国重要有形民俗文化財)が豪快に市内中心部を練り歩き、夜になると打ち上げ花火で夜の街を焦がした。伝統行事の一つで、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭の一つに数えられている。ユネスコ無形文化遺産にも登録された。
▽私が朝日新聞秩父支局に転勤した時、この秩父夜祭の最もハイライトになる写真を撮ろうと考え、過去の記事や写真を見ていた。すると傘鉾や屋台が最終的に集合する市役所隣の秩父神社の敷地で、打ち上げ花火を背景に、その笠鉾や屋台を撮影するのがベストであることに気づいた。
▽そしていろいろ確認すると、近くの小さな公園での撮影が一番の場所であることを知った。
▽しかし、だった。甘かった。
▽その場所には朝から、場所取りを示すカメラ用の三脚が所狭しと置かれていたのだ。腕章なども置いた報道関係者の三脚以外にも、アマ用の三脚も見かけた。こなれている感じがした。その場所でしか、打ち上げ花火を背景にした写真は撮れないのだ。
▽場所取りは諦めるしかなかった。
▽最近はプロもアマも同じような上級用のカメラを使っているから、カメラでは区別できないが、撮影態度を見ると、アマとプロの差は歴然としている。アマチュアの方に悪いが、マナーがなっていない。撮影している目の前を平然として横切るし、撮影の邪魔をする。プロ同士ではあり得ない態度だ。この場所でトラブルを避けるには、諦めるしかないと考えた。
▽結局、日中の傘鉾と屋台の勢いある練り歩きを撮影し、それを記事とともに埼玉県版に載せた。朝日新聞デジタルにも掲載された。
▽翌日、自分が写っているという読者から電話があり、「欲しい」というので、その画像を無償で手渡しした。よほどこの写真の方が、読者には喜んでもらえたと思っている。

★290取材で使うマイカーの事故と自己負担

▽多くの新聞社は地方勤務の記者に対して、マイカーを買わせて、取材の移動に使わせている。昔から続く新聞社の古い業務システムだ。タクシーやハイヤーを使わせず、通常の一般取材ではマイカーを使うことで、会社の経費を軽減させている部分がある。マイカーで取材している記者に対しては、車両維持費とガソリン代の補助がある。
▽困るのは、事故にあった時や、車に不具合があった時だ。事故の場合、車の修理費の補助はあるのだが、ある程度の大きな事故でないと補助はほとんどない。不具合にしても同じだ。つまり自腹で車を維持することになる。これが結構、負担になる場合が多い。
▽私が埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時だった。取材の帰りにマイカーを運転、交差点で急に出てきた相手の車を避けるため、ハンドルを左に切ったら、民家の塀にぶつけてしまった。マイカーのバンパーなどがへこんでしまった。塀はなんともなかった。
▽がっかりした。買ってまだ時間が経過していない車だったためだ。本社で事故申請をして、ディーラーに修理の依頼をした。ここまでは通常の手続きだ。しかし会社に認められた修理費の補助は、わずかなものだった。単独事故なんだから、自己責任だ、と言うわけだ。
▽しかし取材の帰りである。正当な業務である。それなのに修理費の全額が出ないとはおかしくはないか。
▽このようにして新聞社は社員の新聞記者から搾取しようとしている。ちょっとおかしくはないだろうか。少し前までは、カメラすら個人で買わせて、取材に使わせていた。
▽地方新聞社は、地方の記者に対して、会社が車を用意し、その車で記者が取材している。群馬県の上毛新聞、北海道の北海道新聞、新潟県の新潟日報も、私が勤務していた街では、会社の車が用意されて、地元記者はそれを使っていた。
▽マイカー取材は社員を搾取する時代遅れのシステムだと私は思っている。

★289支局の一角がゴミステーションとなる地方の苦悩

▽「まだあるのか」
▽げんなりすることが、地方支局ではよくあった。支局の一角に設けられた地域住民専用のゴミステーションに、指定日以外のごみがたまっているのだ。どうしようにもなかった。
▽地方支局に赴任すると、その支局の敷地内に地区のゴミステーションに指定されていることがある。私が勤務していた朝日新聞佐渡支局も秩父支局も支局敷地内にゴミステーションがあり、地域の家庭ごみが集まっていた。各家庭のごみが支局の一角に集まるので、その場所だけが汚くなり、汚れがこびりついてしまい、あまり良い気はしなかったが、長い歴史と付き合いで、敷地内にゴミステーションが出来たのだろう。仕方ないと思う。
▽ただし、困るのは、指定された日に、指定されたごみを出さない輩がいることだ。燃えるゴミの日に、不燃ごみを出したり、不燃ごみの日に、別のごみを出したり。清掃回収業者はこうしたごみを持って行ってくれないので、ごみはそのままゴミ箱に放置される。つまり支局の一角にはずっとごみがたまったままになるのだ。何の対応も出来ないので、困った経験が何回もあった。
▽ある時は長い竹の棒が放置されたままになっていた。業者も持って行ってくれないままだった。「支局はゴミ捨て場ではない」と心の中で叫んでいたことを思い出す。ある時は可燃ごみの日に、大きな鏡台が出されていて、放置されていた。よく、こんなものを出すなと驚く。怒りもわいてきた。この時はこの鏡台に警告する文書を貼り付けて、ゴミ出しをした匿名の当人に回収してもらうようにした。数日後、なくなっていた。
▽古新聞の回収も、地方だとなかなか行われず、出し方を考えないとならなかった。古新聞は資源ごみだが、地方自治体によっては、回収方法が違う。しかも支局では朝日新聞、毎日新聞、読売新聞のほか地方紙も取っており、古新聞はどんどんたまっていく。紙は重いので、厚さ10~15センチほどの束にして、荷造り用紐で縛っていくが、それが何束もできると、重くて運ぶのも大変だ。佐渡支局では車に積んで市の回収施設に持って行った。秩父支局では定期的に回収する日があって、それに出していた。
▽地方に赴任すると、ごみ問題に悩むことが多い。取材に支障も出てくる。

★287サッカー取材の難しさ

▽「あの得点はだれが放ったシュートなのか」
▽サッカーの試合を取材していると、時折こんな場面に出会う。
▽ゴール前の混戦で、球が行ったり来たりして、だれが打ったか分からないシュートの球が、いつの間にかゴールネットを揺らしている。ゴールしたのは間違いないのだが、だれのシュートなのか、直後には分からないのだ。
▽何となく、直後の雰囲気で、ピッチ上で一番喜んでいる選手がゴールを決めたらしいことは分かるが、詳しい球の流れは分からないまま。最終的には試合が終わって、公式記録が出てくるまで、正確な記事は書けないことになる。試合終了後、同業他社と雑談レベルでだれのシュートだったのか、お互いに確認することも多かった。サッカー取材では以前、こんな経験が多かった。
▽大型のサッカー会場なら、大型ディスプレーでプレーを再現させるサービスを観客に行っているから、だれのシュートかすぐに分かるが、地方のサッカー場などそんなディスプレーなどないから、最後まで分からない。ましてやオウンゴールなど、さらに分からない場合も多かった。今ではインターネットの発達で、タブレット端末でもリプレーを再現できるから、一発で分かるから、技術の進歩はすごいと感じる。
▽サッカーJリーグの拡大で、J2、J3のチームが全国各地で生まれ、それに伴って、地方支局でもサッカー取材をする機会が増えた。
▽私はサッカーJリーグが新聞紙面として大切なコンテンツだと思っていたので、命令もあって、各地のサッカーチームの試合取材はずっと続けてきた。札幌市だったらコンサドーレ札幌、群馬だったらザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)、さいたま市では浦和レッズと大宮アルディージャ、新潟市なら新潟アルビレックスと、転勤する支局で、現地のサッカーチームの取材をしてきた。
▽地元のサッカーチームに対する地元紙の取材の熱量は大きかったし、サポーターの熱さも伝わってきていた。
▽試合後の監督会見でも、地元チームが勝つと、記者たちから拍手が出るのだから、恐れ入る。それだけ地元記者も熱くなっているのだ。
▽会見後に配られた公式記録を見て、やっとだれのシュートかと確認出来たという風景は、もう昔の話なのかもしれない。


★285地方での経理と実費請求の煩わしさ

▽「計算が間違っているので、修正します」
▽こんなメールを本社の経理担当者から何回もらったことだろう。
▽本社に送った経費の請求で、計算が間違っていたのだ。電卓で何回も確認して請求したはずだが、こちらのミスらしい。申し訳ない、と謝るしかない。
▽地方の1人支局に勤務していると、この経費の実費請求が煩わしい。
▽タクシー代や電車賃代、新聞代、光熱費、ガソリン代、記者クラブ費など様々な支払いをして、その領収書をもらう。それを項目ごとに総局経由で本社に請求するのだが、支払いに要する時間や、その請求書の書類づくりなど煩雑な作業で、神経をすり減らすことが多かった。計算を間違えれば、本社から指摘されて、書類づくりをやり直したこともあるし、請求を改めて行ったこともある。
▽インターネットの発達と新型コロナウイルス感染の拡大で、請求方法も変わってきた。
▽以前なら、領収書を添えて、会社専用の請求書に手書きで記入して、項目ごとに請求していた。請求方法は県庁所在地の支局長宛てに送り、支局長が内容を点検してから、本社の経理に送る。
▽これがインターネットの発達で、本社専用のホームページにアクセスし、直接請求を打ち込む。これを印刷して、領収書を添付して送る。手書き請求書はなくなった。
▽また電車賃もJRのSuicaカードを使用していれば、まとまって印字して請求すればよくなった。以前はいちいち手書きで区間ごとの電車賃を請求していたから、こちらも楽になった。
▽高速道もETC利用なら、そのクレジットカードの明細書を送ればよくなった。
▽請求方法は変化してきているのだ。
▽ただ、通常の経費の他、予想外の請求をする時は、相変わらず煩わしいままだ。
▽支局のエアコンが壊れてしまい、修理することになった。現地の業者に修理してもらうのだが、その際、本社経理担当者に連絡して、見積もりを取ってもらう必要がある。寒い時、暑い時にエアコンが壊れてしまえば、早急に修理が必要なのに、いちいちお伺いを立てる必要があるのだ。見積もりを取ってからとなるし、時間がかかる。本社としてはなるべき経費を抑えたいためだが、現場にいる人間がどんな状態に置かれているか、全く理解しようとしない。
▽台所の流しの部分が詰まったことがある。これも清掃業者を呼んで、清掃してもらったが、この時もお伺いを立ててから、作業をしてもらった。
▽雪国の支局で積雪のために、車庫の屋根が潰れそうになった。このため屋根の雪を下ろすための長い雪おろし用の専用スコップをインターネットで注文した。領収書に準じる書類を添付して経費を請求して認められたが、後に本社の経理担当者とこのインターネットの業者で、領収書を出す、出さないでもめたらしい。最近のインターネットショップは領収書を出さない業者が増えていて、税務当局に提出する書類が整わないと担当者も困るらしい。すべては税務当局の監視の目を受けていると言うことだろう。
▽私の後輩の話だが、支局のわずかな庭で雑草が生い茂ってしまい、地元のシルバー人材センターに除草を依頼したこともある。実費請求すると、今は認められないと本社から言われたそうだ。こんな経費すら認められなくなっているなんて、と私は驚いたことがある。


【再掲載】★171サッカーJリーグ埼玉ダービーと抗議の電話

▽本社や支局には、抗議や文句などを言ってくる読者も少なからずいる。紙面の扱いが変だとか、載せないのはおかしいと電話で延々と続けてくる読者もいる。
▽これはサッカーファンからの抗議電話だった。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた2013年4月のことだ。当時は支局長として、さいたま総局に月数回、朝刊や夕刊のデスク当番に交代で入る勤務をしていた。
▽総局デスクとは県内各地の記者から出てきた原稿を整理・点検・修正して、翌日の埼玉版の紙面をどのような構成にするかを決める役割を担っている。
▽その日は、サッカーJリーグ、地元の浦和レッズと大宮アルディージャの試合、いわゆる埼玉ダービーがあり、人気の高いコンテンツであることから、私は当番デスクとしてこれを県版アタマにしようと決めていた。アタマとは業界用語で、トップという意味だ。ちなみにトップの次に来る2番目の記事をカタという。
▽埼玉ダービーは2位と3位の対決であることから、全国的にも注目のカードで、県版でも大きく扱わない手はない。手を挙げてくれた後輩記者が取材してくれた。私も試合中継を見たかったが、契約していないスカパー以外にテレビ中継もなく、防災ラジオで実況中継を聞いていた。サッカーをラジオ実況中継で聞くのは、想像力が膨らむ。試合は大宮が前半ロスタイムに入れた1点を守りきって、大宮が1対0で勝った。レッズ原口も相手GKと接触してけがによる退場もあった。県版用写真は写真を出稿してくれた写真部からもらって、県版に掲載した。リリースして、明暗を分けたサポーターのそれぞれの写真を使った。B版からはけがをした原口の別稿もリリースした。出稿とは記者がデスクに原稿を出すことで、リリースとはデスクが紙面用に記事を出すことを指す。
▽残りの紙面も作って、その日の県版紙面作りは終えた。
▽問題は翌日だった。
▽大宮アルディージャのファンを名乗る読者から、さいたま総局に抗議の電話が入ったのだ。昨日のサッカーJリーグ、埼玉ダービーを扱った埼玉版で、負けた浦和レッズのことしか出ていないのは、一方的だ、というのだ。大宮は、前シーズン終盤から通じて21戦無敗という、当時のJ1リーグ無敗記録を更新した。それを扱わないのは、酷いという内容だった。
「本日の埼玉版紙面を作った担当の原です」と名乗った上で話を聞いた。そして朝日新聞は本紙スポーツ面で宮アルディージャを大々的に扱うため、紙面のバランスを考えて埼玉版では浦和レッズの話を扱いました、と丁寧に説明した。
▽しかし、相手は、大宮のファンだと言い、毎年残留争いをする弱小クラブの大宮が新記録を達成したのに、それを埼玉版では触れていないのはおかしいの一点張り。過去、ずっと現在まで浦和の扱いに比べて大宮は扱いが小さすぎる。バランスを取ったと言うが、過去の記事を見てほしい。大宮の話は出ても小さい。新聞記者は夜打ち朝駆けをして情報を取るものだ。これでは大本営発表と同じだ。こんなひどい新聞はない、とまで言っていた。
▽延々と興奮気味に話し続けていた。プロのスポーツですから、強いチームを大きく扱うのは当然です、と言っても納得した様子はなく、延々と続くので、今後ご参考にさせていただきますと言って、私の方から電話を切らしてもらった。
▽スポーツ面では大宮アルディージャの記録更新を大々的に扱っていた。バランスを考えるなら、県版では負けた浦和レッズを扱うのが妥当だったと今でも考える。
▽この読者は私の話に納得してくれたのだろうか。

【再掲載】★039選挙の最中にゴルフに出たベテラン記者

▽あるベテラン記者が、ゴルフに誘うためのメールを誤って県内の記者全員に出してしまった。
▽そのゴルフを行う日は、統一地方選挙の最初の土曜日で、ベテラン記者が担当しているのは県内でも有数な激戦区だった。選挙が始まっているのに、ゴルフに行こうとしている。しかも自分の仲間を誘って、だ。
▽私は目を疑った。この神経がわからない。
▽ゴルフが好きなのはわかるが、新聞記者である。新聞記者にとって選挙は大切な取材テーマだ。
▽選挙告示日最初の土曜、日曜日は、有権者に候補者がどんなことを訴えるのか、注目される街頭演説がある。取材に行かなければならない。たとえ休みがついたとしても、取材をする必要がある。それをゴルフに誘うのだから、通常の新聞記者としての感覚は完全に麻痺している。
▽このベテラン記者、ゴルフが好きなことで有名だ。休みになればどこかにゴルフに行ってしまう。だから殺人事件があっても、全く連絡が取れなかったことがあった。連絡が取れない記者など、記者ではない。
▽そしてこのベテラン記者の行動に、デスクや支局長が注意することもなかった。新聞社の機能不全だと私は感じた。
▽この記者、ベテランで、すでに一度会社を退職し、シニアでの雇用になっているため、小遣い稼ぎで仕事をしているとしか思えない。
▽このメールを見た若い記者はどう思うだろうか。働き方改革の延長だと思うのだろうか。若い記者を堕落の世界に誘い込まないでほしいと思った。
▽私は若い頃、上司に言われたことがある。
▽「ゴルフは記者を滅ぼす」
▽「ゴルフをするようになると、ゴルフのために時間を取ることになる。このため仕事がおろそかになる。記者が堕落していくパターンだ」
▽私は新聞記者を40年やってきたが、ゴルフで堕落した記者を何人も見ている。次第に仕事をしなくなるのだ。
▽ゴルフは新聞記者を堕落させる。これが私の経験則である。


★281豪雪地帯の支局の雪かきの苦労

▽新潟県上越市は日本でも有数な豪雪地帯である。日本海側の直江津市と内陸側の高田市が合併して誕生したのが上越市だが、私が勤務していた上越支局時代はまさに雪との戦いだった。一軒家タイプの支局で、私が住む居住区と支局の機能がある事務所がある局舎で、狭い住宅街にあったため、雪が降ると機能不全に陥った。
▽一晩に降る雪の量は半端なく多かった。あっと言う間に背丈を追い越してしまう降雪量なのだ。朝起きたら、雪が積もっていて、支局の玄関から出られないこともあった。除雪のためのブルドーザーが午前8時半ごろ通っていくのだが、かいた雪を道路の壁に固めていくだけだから、玄関前の雪をどこかに運ばないと、外出できないどころか、駐車場の車にもたどり着けない。
▽このため、ブルドーザーが通った後、雪かきをするため、スノーダンプを持って、せっせと雪かきをした。日本海の雪は湿った雪のため、重くてつらい。北海道のように極寒で軽い雪ではなかった。重すぎた。わずか30分の作業で、汗ビッショリとなった。これを終えないと、支局駐車場が開かないので、支局員が来られない。支局長の毎日の日課になっていた。
▽雪は断続的に降り続けた。だから、午後にも雪かきが必要になった。
▽やっと雪かきが終わり、汗で濡れた服装を着替えて、取材に出るのだが、湿った雪のため、ビジネスシューズや皮革製品のブーツは使えなかった。この地方の人たちはみんな長靴姿だ。私たちも、スラックスの上に長靴を履いて歩いた。都会の人間には信じられない光景だろう。
▽同じ新潟県でも、100キロ以上も離れた下越地方の新潟市などは雪が少ない。だから、新潟市に在住している人間にとって、上越地方の豪雪のつらさを知らない。知らないから、雪が積もれば、スキー人気、などという記事を出してくる。冗談ではないと私は思った。
▽雪の季節で驚いたのは、吹雪の中で、雷が鳴ることだった。ゴロゴロ、ドカーンと暴風雪の中で、いきなり雷が鳴って響く。同じ雪国でも北海道ではこんなことはなかったから、かなりの恐怖心を持った。首都圏育ちの私には、雷は初夏の風物詩でしかなかった。
▽豪雪地帯の人々は、よく耐えているなと感じた3年間だった。

★279老舗温泉の格

▽朝日新聞のある支局に勤務している時、支局の管内に日本で有名な温泉地があった。その温泉街でも特に有名な老舗旅館の社長とその仲間と、ある時からよく飲みになるようになった。今回はその時の話を紹介しよう。
▽酒の席でその社長が話した言葉が忘れない。娘が連れてきた彼氏の事だった。結婚を前提に付き合っていて、その社長は娘の結婚に反対していた。一人娘なので、父親としては心配したのだろう、と思ったら、そうではなく、もっと別のことが理由だった。
その社長曰く、
「格が違う」
と言い放ったのだ。つまり、娘が連れてきた彼氏は一般のサラリーマンであり、温泉街の有名な老舗旅館を継ぐような地位ではなく、格が下だと言うのだ。
▽確かに、一人娘が結婚すれば、その娘は女将になり、その彼氏は社長業を継ぐ。つまり婿入りすることで、膨大な財産を手にする。いわゆる逆玉だ。
▽江戸時代から続いてきた老舗旅館の財産や地位などを、逆玉になった婿に継がせたくない、というのが本音らしい。
▽そんな正直な話を聞いた私たちは、
「へーっ、そうなんだ」
と驚くだけで、返事もアドバイスも出来なかった。私とは全く別世界があることを知った。金持ちは金があるんだということを、改めて感じた。
▽確かに、温泉街の老舗旅館の社長は、旅館の経営は自分の妻である女将に任せていて、ゴルフをしたり、ハワイに行ったり、名誉職の仕事に打ち込んだり、全く別の世界に生きている。それ故に、格下の彼氏には任せられないと思っていたのだろう。
▽ただし、この結婚話はうまく進み、我々も披露宴に招待された。別世界に一端に触れた気がした。
★277私が勤務した1人勤務の通信局と支局はすべてなくなった

▽私は33年以上の朝日新聞記者生活の中で、1人勤務だった通信局および支局は4カ所あった。朝日新聞は以前、1人勤務の拠点を「通信局」と呼んでいたが、その名前を廃止して、「支局」と言うようになっていた。だから私は通信局長と支局長という経歴を持つ。
▽最初の塩釜通信局。宮城県塩釜市にあり、取材先の一つとして海上保安庁の出先機関である第2管区海上保安本部があった。略して「2管本部」だ。その守備範囲は、東北地方の太平洋側全体であり、広範囲だった。太平洋で海難があった場合、ほとんどはこの2管本部の対応になり、警備救難部が取材窓口になった。
▽私が塩釜通信局に勤務していた時も、何回も海難があり、遭難した漁協などの取材もした。太平洋側の海域を担当しているから、救助にも時間がかかったことを覚えている。毎日朝、昼、夕と警戒電話をかけて、海難の有無を確認した。ここの通信局は既に廃止されてしまった。残念だ。
▽次の渋川支局は、群馬県渋川市内にあった。私が赴任した時には、「通信局」から「支局」に変更になっていて、私は1人勤務の渋川支局長だった。ここは群馬の中央部にあり、関東平野が終わり、坂道が続く街だった。取材管内は当時16もの市町村があり、草津温泉、伊香保温泉、四万温泉などがあり、温泉天国だった。
▽次の1人勤務の支局は、新潟県佐渡市の佐渡島にあった佐渡支局だ。新潟港からフェリーで2時間半もかかる離島で、天候が崩れるとフェリーが止まり、街のスーパーからは食料品が消えた。新聞も都会より2時間半も遅く配達されて、8時を過ぎないと来なかった。フェリーの欠航で新聞が全く配達されないこともあったが、島暮らしは楽しかった。
▽次は秩父支局だ。埼玉県秩父市にあり、西武鉄道と秩父鉄道が走っていた。県内では唯一の雪国とされ、スタッドレスタイヤが欠かせなかった。ホルモン店が賑わっていた。群馬県に隣接しているからか、群馬県民のような振る舞いが多かった。私は密かに、「群馬県秩父市」と呼んでいた。
▽この4カ所の通信局と支局はすべて廃止された。新聞産業の斜陽化で、地方の取材拠点を減らしている結果だ。
▽かつての勤務地がなくなるのは寂しいことだ。


★275特急ラビューの私有地撮影問題

▽これはどこの撮影ポイントなのだろうか。その写真を見て私は、撮影ポイントを探すことにした。
▽写真とは、東京・西武池袋駅と埼玉県秩父市の西武秩父駅を結ぶ西武鉄道特急ラビューを撮影した写真だった。地元の秩父市役所の広報誌の一面に掲載された写真で、市などがコンテストとして公募し、地元の高校生のその写真が選ばれた。見事な写真だった。
▽当時私は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務しており、西武鉄道は鉄道会社として取材対象であった。
▽特急ラビューは西武鉄道が誇る最新鋭の特急列車だ。丸みを帯びた先頭車両と銀色の車両が目を引く。最高速度こそ120キロ前後だが、その斬新なデザインに、多くの鉄道ファンが魅了されていた。
▽保存用データとしても必要だったため、ラビューの撮影をいろいろな場所で行っていた。しかし、「撮り鉄」ではあるまいし、なかなか良い写真は撮れなかった。
▽そんな時に出されたのが、この高校生の写真だった。こんなによい撮影ポイントがあるなんて、と私は驚いた。写真の背景には、埼玉県秩父市と横瀬町にまたがる武甲山がある。地元では有名な名山だ。セメントの材料である石灰岩が掘られることから、山の形が次第に変化していくのも、この山の特徴の一つだ。
▽この写真では特急ラビューはカーブを走っている。
▽探した結果、意外に市街地に近い場所であることが判明した。絶景のポイントだと私は感心した。
▽感心すると同時に、これはルール違反かなとも思った。
▽そこは実は私有地で、勝手に入ってはいけない場所だったのだ。たとえ、地主が許可したとしても、それを写真説明に明記するのはルールだ。
▽しかも、そのルール違反を知らないで、市役所は広報誌に載せていた。私有地に入っての撮影写真を、秩父市の広報に載せた。ちょっと問題となる撮影方法だなと感じた。取材を進めたが、私は取材を途中までしていて、最後に断念した。
▽取材して記事に書けば、この高校生が責められることになる。その高校生はルールを知らなかっただけだ。それは大人が教えてやるべき話だと判断した。
▽意外に、写真コンクールにはルール違反だと後に分かるというような、この手の写真が多い。

★274地方通信局の無責任な削減

▽かなり昔の話だ。私が朝日新聞の東北の、とある県の通信局長時代の話だ。
▽当時の県内には、県庁所在地に支局(現在は総局と改称している)があり、その支局のほか、数カ所の通信局と駐在があった。ともに1人勤務だ。
▽県北の駐在記者が県外に転勤になったことをきっかけに、後任者は置かず、その駐在が廃止された。廃止されたことを、支局長は残されたデスク以下支局員や通信局長、駐在記者にキチンとアナウンスもしなかったし、説明もしなかった。
▽無人になった駐在の管内は、約10の町村があったが、取材にだれも行くことがなくなった。
▽そんな時に、事件が起きた。
▽管内の町議会で議員定数削減条例が可決し、議員が減った。そのことを各紙は報じていたが、朝日新聞だけは見事に特落ちした。それはそうだろう、管内の担当記者がいないのだから。議員定数が減るというのは、地方にとって大きなニュースだ。民主主義の根幹にかかわる問題でもある。
▽支局長が会議で激怒した。
▽「何のためになくしたか、分からないではないか」
▽矛先はデスクに向けられた。デスクは出稿の責任者だから、デスクが部下に取材するよう指示しなかったのがいけない、という理由だった。
▽しかも全員を集めた部会で、デスクをなじった。部下が大勢いる前での叱責。ブライドもズタズタになったはずだ。
▽しかしこの支局長がおかしい。
▽駐在を廃止するのだったら、その後の取材体制をキチンと再構築させる必要があるのに、それを指示していない。だれが引き継ぐのか、だれがカバーするのか指示していない。したことは、ただ駐在記者をなくしただけ。なくしたその分の責任は曖昧にして、部下のデスクを叱る、というその考えはおかしい。駐在記者をなくしたのなら、そのリスクをどうやってフォローしていくのか、支局長には指示する責任がある。無責任だ。そんなことを私は思っていた。
▽あれから30年以上が経過するが、今では強引にかつての通信局(現在は支局に改称)が廃止されていく時代に突入している。新聞の斜陽化が理由だが、地方支局の撤退で、地方を監視する記者がいなくなるのは、これも民主主義の廃退に繋がる恐れがあることを明記しておきたい。米国の新聞社が良い事例だ。


★273ジャイアント馬場の死去

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時の話だ。新潟支局で部会があり、その部会後に朝刊デスク作業を依頼されて、デスク席に就いて、原稿を次々と処理していた。そんな時に入ったのが、プロレスラーのジャイアント馬場が死亡か、という情報だった。本社専用線でデスクが「確認してくれ」と言ってきた。1999年のことだ。
▽実は馬場は新潟県三条市出身で、ちょうど前年春に支局員がインタビューしていたのだ。
▽ところが、この支局員、東京に出張していて、こちらは支局総動員で原稿づくりをすることになった。確認の電話を関係者にして、情報取りを続けた。
▽本社からの注文が滅茶苦茶で、私も本社部員を怒鳴り散らしたり、熱くなっていた。
▽本社のデスクが社会面に故郷の話を載せるから取材しろ、と言ってきて、現地に支局員を向かわせた。しかし社会面にそんな話など載るわけがない。紙面構成を考えても、どうしても地方版のレベルだと思った。案の定、社会面には載らなかった。支局員には申し訳なかった、と思う。
▽たまたまアジ化ナトリウム事件の打ち合わせに来ていたMデスクに、そんな話をしたら、彼いわく、「だって、頭悪いもん」と話していた(笑)。
▽もう一つ、笑えたのが、本社に戻ったH記者のことだ。
▽大のプロレス好きだったので、ジャイアント馬場が死んだことの確認を取るヒントはないか、と電話したら、
「いまから言う電話番号に電話すれば分かるかも」
と。
▽何と何と、この電話番号、東スポの編集局の番号だったのだ。あぜんとした。
▽どうしたかって。支局員に読者を装って電話させた。返事は、
「今、確認を取っています」
といわれたそうだ。
▽さらに言うと、後日談があって、編集委員だったベテラン記者にコラム記事を書いてもらって失敗した。記事の中で、元プロ野球選手のジャイアント馬場と長嶋茂雄が対決する話を書いてきた。しかし、そんな過去のデータは全くなかった。
▽その話を本人に指摘すると、こういう答えが返ってきた。
「俺の中の記憶ではそうなっている」
▽驚いた。原稿は使えなかった。


★272草津温泉のサッカーチーム昇格で湯かけ

▽次から次へと、選手達に温泉の湯がかけられていく。選手達は水浸しになって、寒い空気の中、暗闇の中を喜んでいた。標高1200メートルの寒さの中での「湯かけ」だった。
▽2004年12月の夜、群馬県草津町の温泉街の一角。地元を本拠地としていたアマチュアリーグのチーム、ザスパ草津(当時・現ザスパクサツ群馬)のサッカーJ2への昇格が決まったことが伝えられ、喜びを爆発させた瞬間だった。
▽これがプロ野球の優勝だったら、ビールかけなのだろうが、そこは日本有数の温泉郷だ。温泉の湯をかける「湯かけ」が行われた。選手も監督もコーチも湯を浴びながら、喜びを表していた。
▽草津温泉の湯は2系統あり、1系統は強い酸性の熱い湯が特徴で、これを冷まして温泉として使う。これを湯かけに使った。酸性の湯だからたまらない。湯に浸かってしまった携帯電話はすぐに使えなくなった。
▽ザスパ草津の選手たちの多くは、サッカーJリーグで一度クビを切られた人間だった。これを地元町役場や温泉街の協力で、選手達を温泉街で雇って、練習に参加し、「いつかはJリーグに昇格を」を合言葉にアマチュアリーグで試合を続けてきた。そしてこの年から、アマリーグとしては最高峰の日本フットボールリーグ(JFL)に参戦し、破竹の勢いで勝利を積み重ねていた。
▽草津町は、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時の取材対象管内にあり、車で片道1時間半かかる場所にあった。上司の命令もあり、ザスパ草津の試合はホームもアウエーも全試合取材した。最後はライバルとの試合に負けてしまい、昇格か残留か分からないまま、決定の日を迎えた。
▽「元Jリーガーのリベンジ」というストーリーのため、東京から多くの記者やカメラマンも来ていた。
▽昇格が電話で伝えられると、監督は泣いた。それを見ていた関係者は「おーっ」と声を挙げた。
▽私は取材をして、朝日新聞群馬版に原稿を書いて送った。
▽翌日の紙面を見て、ちょっと驚いた。朝日新聞「ひと」欄に、このザスパ草津のGKを本社運動部の記者が取り上げていたのだ。私に一言も連絡はなかった。美味しいところだけを持っていく本社記者らしい仕事ぶりだった。


★270佐渡で食べたムール貝

▽日本海に浮かぶ孤島、新潟県佐渡市の佐渡島にある加茂湖は、新潟県としては一番大きい湖だ。1周17キロの汽水湖で、両津港との間には水路がある。かつては淡水湖だったが、明治時代に防災対策で水路を造ったという歴史がある。海水が入ってくる湖だ。
▽この加茂湖ではカキの養殖が続けられている。冬になると、佐渡産のカキが市内のスーパーに出回る。ただし大腸菌群最確数などの基準値を超えているため、生食は出来ず、熱を加えて食べることになる。カキ祭りも毎年のように開かれている。
▽面白いのは、カキの養殖で使うイカダに、ムール貝も自然に育っていることだ。イタリア料理などに出てくる、あのムール貝だ。最近では冷凍食品として、全国のスーパーに出回っている。
▽佐渡の人間はムール貝など食べないから、地元スーパーだけに出回る。島外には流通しない食品となっている。カキ養殖の脇役だ。
▽そこで売っているムール貝の安いこと、安いこと。20個で100円とあるのだ。1000円ではない。需要がなければ、こんな値段になってくるのは、ムール貝にとっては悲しいことだが、これが流通の現実だ。
▽私はその佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、そのスーパーでの値段に驚き、何回も買って、ムール貝のワイン蒸しを作って、飲食を楽しんだ。
▽養殖用の紐がムール貝に絡んでいるため、水洗いしながら、その紐を引っ張り、取り除く。水洗いを終えたら、フライパンにオリーブオイルとニンニクを入れて温めて、白ワインとムール貝を入れて蒸すだけだ。貝が開いたら、それで完成だ。
▽わずか100円で20個のムール貝を食べることに、感謝するしかない。ビールや赤ワイン、日本酒などにぴったりだ。佐渡ではこんなリッチな楽しみ方があった。
▽これが首都圏のイタリアン店なら、数個で1000~2000円ぐらいの値段になるはずだ。
▽かつて旅行で訪れたイタリアの地中海寄りの都市のレストランで食べたムール貝は、小型のバケツのような容器に大量に入れてあった。数個をちょっとずつ食うのではなく、たっぷりと食べてくださいという店側の願いなのだろう。
▽あの佐渡のムール貝を、また食べてみたい。

★269昼食と弁当と時間の使い方

▽地方に勤務していて時折思うのは、時間の使い方が下手な記者が結構いるな、ということだった。
▽1日24時間、最低限の睡眠を取るなら、残された時間は制限される。警察担当、省庁担当なら夜討ち朝駆けに時間を取られるし、日中の取材もある。時間を自分なりに有効配分するしかないのに、それが出来ていない記者が多いと感じる。
▽特に感じるのは、昼食の取り方だ。警察担当だというのに、外食に出てしまう記者が結構数いた。新聞社には降板時間という締め切り時間がある。その締め切り時間を終えてから昼食に出ることになるのだが、担当する県警本部を出て、外食に出れば、往復するだけで10~20分かかるし、ファストフード店ならともかく、レストランに入って注文するなら、ランチが出てくるまで10~20分はかかるだろうし、さらに食べる時間もかかる。これだけで1時間以上もかかるのだ。要するに昼食時の外食は無駄な時間の積み重ねでしかない。
▽こういう指摘に対して、人によっては、
「ストレス解消だからいいだろう。いつも遅くまで働いているのだから」
と反論する輩もいるだろう。もちろん1日が長い新聞記者の仕事柄、食事というのは唯一のストレス解消の方法かもしれない。しかし、時間の配分ということを考えると、外食はあまりに無駄な時間が多いと言うことは忘れてはならない。
▽例えば、先にコンビニや弁当屋で弁当を買ってきて、記者クラブや支局で食べることは出来ないのだろうか。昼ならテレビでは民放ニュースに続いてNHKニュースがある。それを見ながら弁当を食えば、無駄な時間は一気に解消される。
▽このことに気づかない記者がいることに、私は不思議に思っていた。時間配分がうまくない記者は、やはり記者としての成長が遅かった。
▽逆に取材から支局に戻った時に、買ってきた弁当を食べながら、取材資料を見ている記者に出くわすと、
「この若い記者は時間配分がうまいな」
と思ってしまう。
▽事実、こうした時間配分がうまい記者は、記者としての成長も早かったし、取材もそつなくこなしていた。書いた原稿も完成度が高かった。これは経験則だった。
▽昼食ばかりではない。
▽休日の使い方にしても、差が出てくる。海外旅行に行ったり、ゴルフに行ったりと、遊びに費やす記者と、逆に図書館に行ったり、古本屋街を歩いたり、休みだが夜回りをしたりする記者もいた。強制するつもりは全くないのだが、本当のプロになるには、どうすればいいのか。時間の使い方で分かってくる。


★267部下の結婚式出席を許した失敗話

▽地方支局時代のことだ。部下の支局員が支局長である私に言ってきた。
「友人が結婚するので、休暇が欲しい」
▽どうぞ、と許したのがいけなかった。
▽冠婚葬祭はだれでも最優先させたい話だ。私もどうぞと言った。
▽しかし、実はこの時点で、地方版に載せる記者リポートものを書くよう指示していた。指示から3カ月たっても原稿すら出てこないので、イライラしながら待っていた時だ。
▽紙面計画には入れたため、「●●日までは原稿を出すように」と最終通告した。それは結婚式に出る1週間前のことだ。
▽だが、実際に原稿を私に出してきたのは、結婚式前日のこと。しかも書き直さないと使えない代物だった。
▽書き直しを命じると、彼は
「困ります」
を連発。
「困ります」と言われても、仕事が完成していないまま、休むなんて、会社としてはもっと困る。第一仕事放棄、という態度ではないか。こんなものはパワハラでもない。仕事を完成させなかった者が悪い。
▽だけど書き直しさせただけでも、彼なら数日かかると思って、親心を見せてしまった。全部書き直してやるから、と。
▽私としては、パソコンの画面で実際に見させながら、原稿を直して、どういう表現が悪くて、どう直すかを見てもらいたかった。
▽私は仕方なく、材料がない原稿を出稿した。
▽そして、原稿を出してから翌日驚いたのだ。
▽何と、結婚式の場所は九州だったのだ。東京とばかり思い込んだ私が馬鹿だった。
▽飛行機に乗ってしまうし、こんなに遠いんじゃ、問い合わせも出来ない。
▽行き先も告げないで、泊まるところすら告げない、なんて。
▽支局長時代の苦い思い出の一つだ。
▽これはパワハラでも何でもない。仕事一つ、満足に出来ないなら、その努力は示して欲しい。そう思った。

★266西武特急ラビューの斬新性

▽西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)の新型特急Laview(ラビュー)は2019年にデビューした最新型の特急で、西武秩父駅と西武池袋駅を結んでいる。車両の先頭は丸みを帯びた独特なデザインで、日本の列車の中でも、かなり特色あるものに仕上がっている。私は朝日新聞秩父支局に勤務していたため、西武鉄道はよく利用したし、このLaviewもよく乗った。秩父っ子にも自慢の特急電車になっている。
▽デビューして翌年には、世界的に権威あるデザイン賞である「iFデザイン賞2020」を受賞した。国内の鉄道車両では13年ぶりの受賞になる。さらには、鉄道友の会のブルーリボン賞にも選ばれた。同社にとっては、同賞に選ばれたのは、1970年の初代特急レッドアロー以来、実に50年ぶりだった。
「iFデザイン賞」は独国を拠点とする工業デザイン組織が主催し、半世紀以上の歴史を持つ世界的に権威のある賞で、全世界の工業製品を対象に選定している。今回は56の国と地域から7298件の応募があり、Laviewは7分野の一つ、プロダクト分野での受賞が決まった。
▽友の会は前年に営業運転した新蔵・改造車両を対象に、そのデザインや画期性、性能などを元に会員投票で最優秀のブルーリボン賞と優秀のローレル賞を毎年決めている。今回の選定について、ラビューは「現代の鉄道車両として完成度が高く、魅力あふれる車両」と評価し、決定したという。これとは別に、ローレル賞はJR四国の2700系車両が選ばれた。
▽ブルーリボン賞は1958年から、ローレル賞は1961年から制定が始まった。西武鉄道では1970年に初代レッドフロー号が受賞して以来だ。
▽Laviewは建築家の妹島和世氏がデザイン監修し、日立製作所が製造した特急だ。運転席のある先頭車両と後部車両が丸みを帯びたデザインで、車窓が大きいのが特徴だ。同鉄道池袋・西武秩父駅間で2019年3月にデビューし、翌年3月14日のダイヤ改定で、同区間のすべての特急がLaviewに入れ替わった。
▽ただ悲しいのは、デビュー翌年、新型コロナウイルスの感染拡大で、利用者が激減したことだ。Laviewを利用した秩父観光がもっと盛んになる日を期待したい。
▽先日訪れた時は、観光客が次第に戻っていた。

★263市役所職員の昼休みの削減

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時、同市でちょっと変わった条例案が提出されたので、それを取材した。職員の昼休み時間を減らすという条例案だった。
▽2007年3月の定例市議会のことだ。同市はこれまで1時間あった職員の昼休みを15分削って45分とする内容の条例案を提案した。民間企業からすると、一見労働強化となる内容だが、取材してみると、外部からは分からない労使協定があったことが分かった。
▽同市職員の昼休みは、休憩45分と、休息の15分を足した計1時間から成り立っていた。窓口業務の職員は交代で1時間取り、それ以外の職員は原則として正午に昼休みとして1時間を使っていた。
▽今回の削除は、国家公務員の休息時間が廃止されたことに伴うもので、休息時間を削除するというもの。休憩時間だけに一本化する。このため規則では午後0時15分から午後1時までの45分が休憩時間として残り、これが昼休みとなる。
▽同市によれば、昼休みをそのまま1時間にして勤務時間を5時15分から同30分に延長する自治体もあるが、職員組合との話し合いで、子育て世代も多く、昼休みは短くなっても退庁時間を遅くするよりは早く帰ることが出来る道を選んだ。
▽原稿にはこんなことも書いた。
《当惑しているのは、職員たちだ。同市役所には食堂がなく、弁当を持参しない場合、民間の弁当業者から購入するか外食するしかない。外食の場合、往復するだけで時間がかかる。「昼休みに、銀行で振り込みをするなどの時間にも使っていた。ちょっとショック」と女性職員。男性職員は「昼休みはゆっくり使いたかったが」と話す》
《公務員にとっても世知辛い時代になりそうだ》
▽実際にこの年の4月から実施され、職員のぼやきも取材した。
《市民課の女性職員は「きょうは弁当を持ってきました。たまに外食していたけど、もう無理ですね」と話し、別の課の職員も「弁当を作ったり、弁当屋の弁当を買ったり。45分では外食する時間が作れません」と説明した。職員の昼休み時間短縮に合わせて、パートの職員も午前中からの勤務時間を15分延ばして午後0時15分まで働く代わりに、午後からの勤務時間を15分繰り上げる措置も取られた。
▽深刻なのは本庁舎から北西に600メートル離れた第2庁舎で働く職員だ。周囲に飲食店はなく、コンビニが1軒あるだけ。曜日によって弁当屋などが来てくれるが、毎日ではない。必然的に弁当を持参する職員が多くなったといい、ある独身の男性職員は「毎週のように同じものばかり食べてしまう。弁当を作るようになりました」と漏らした》
▽ただし私も転勤して、その後はどうなったかは分からない。


★262海沿いや雪国で必要な下半身洗車

▽雪国や海沿いにある支局で勤務していた時は、取材で使うマイカーの下半身を常に気にする生活をしていた。
▽雪国では冬になると融雪剤を道路に敷いて、道路の雪を溶かし、凍結を防ぐ地域が多い。融雪剤の多くは塩化カルシウムで、要するに塩。溶けた雪の上を車で走らせると、その融雪剤が車の下半身部分に付着する。そしてそのまま付着させた状態を続けていくと、車の下半身のボディーの一部が腐食していく。これが下半身を気にしていた理由だ。
▽同じ事は海岸線に近い場所でも起きる。海水の塩分が空気中に漂って、マイカーに付着し、車体を傷めるのだ。
▽融雪剤も海水の塩分でも、車体は腐食していく。かなり前の話だが、北海道根室市に勤務していた私の友人のマイカーの車体に、穴が開いていた事を思い出す。塩分で車体が腐食したためだと友人は言っていた。それだけ、車体は塩分に弱い。
▽だから私は冬になると、洗車場で洗車をする際は、下半身が洗車できる洗車場を選んでいた。オプションで100円か200円を追加して、下半身洗いをして、塩分を除去していた。
▽最近のメーカーの説明だと、下半身の腐食を防ぐため、下半身の露出している部分をポリマーなどを拭きかけて、腐食を防ぐサービスをしているディーラーもあるという。車の下半身は通常、見えないだけに、そのまま放置しているユーザーも多いと聞く。気にした方がいい。
▽数年前の話だが、新潟県下越地方の海岸線をマイカーで走らせていた時だ。天気が悪くて、日本海の荒波が時折、海岸線の道路に飛び込んできた。そしていきなり、大きな波がマイカーを直撃した。運転こそ問題なかったが、もろに海水をかぶったことから、直後に洗車場があるガソリンスタンドに寄って、下半身洗車を依頼した記憶がある。
▽雪国や海沿いに住む生活をしていると、首都圏では予想も出来ない塩分対策をする必要に駆られる。
▽そして余計な出費を強いられる。

★260逆走車への遭遇の恐怖

▽思わず、「えっ?」と我が目を疑った。一方通行の道路を走っているはずなのに、対向車が突然正面から走ってきた。危ないと,とっさにハンドルを切って対向車をよけると同時に、クラクションを鳴らした。バックミラーに映ったその車は次第に小さくなって、視界から消えた。関越道渋川伊香保インターでの出来事だ。逆走車だった。一瞬の恐怖感を味わった。あり得ないことが、実際に群馬で起きる。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時のことだ。いつものようにマイカーを運転し、取材先に向かっていた。渋川市中心街から国道を前橋市に向かって南下し、同国道から枝分かれして渋川伊香保同インターに入る専用の進入路に入ってからだ。先には料金所がある道路幅はそんなに広くない。
▽進入路は国道から分かれて左にカーブし、やがて右カーブになる。逆走の車は、そんな視界の悪い状態で、突然出てきた。
▽高速道を逆走する車が時折出現するのは、ニュースで知っているが、目の前で進入路を逆走するのを目撃するのは初めてだ。速度を上げていなかったからよかったが、避けることが出来たのは偶然かも知れないと思った。後続車は私が鳴らしたクラクションで、逆走車の存在を知り、最初から左に避けていて、大事には至らなかった。
▽料金所前で改めて、道路の構造を見た。関越道をこのインターで降りて料金所をくぐると、計3本の道路がある。左が「渋川・伊香保方面」、真ん中が「前橋方面」。そして一番右が赤地に白の進入禁止の標識がある。料金所を通過すると、右にハンドルを切らない限り、進入禁止の道路に行くことはない。どう考えても、通常では逆走は考えられない。
▽料金所で警戒していた県警高速隊員に数時間後、逆走車があったことを告げると、こんな説明を受けた。
「お互い信頼する原則で交通は成り立っている。しかし時折逆走があるので、我々も料金所で警戒している。全面的に信頼しない方がいいですよ」
▽自分の安全は自分で守れ、ということか。
▽こんな経験を元に、コラム風に原稿を書いた。
▽デスクの食いつきがどうなるか。
▽翌日の朝日新聞群馬版を見て苦笑した。カルガモ親子の道路横断という記事と併せて掲載されていた。

★258抗議への対応にお粗末だった総局長

▽朝日新聞の、とある支局に勤務していた時だ。支局名は出さない。市長選のルポルタージュを記事に書いた。両陣営を丁寧に取材して、裏を取り、描いたルポだった。これに対して自民陣営の関係者が抗議してきた。これを会社は突っぱねれば良かったのに、そうしなかった。今でも悔しい出来事として記憶している。
▽最初から、抗議は私の支局ではなく、私の直属の上司がいる県庁所在地の総局だった。しかも50人ぐらいの大勢の人間が総局にやってきて、抗議をした。総局長は絶えきれず、続報を書いて、事実上修正すると答えてしまい、引き取ってもらった。
▽抗議の内容は記事の中身ではなく、見出しだった。記事は批判的な内容だが、正確で、事実だった。抗議しようにも、抗議する材料がなかった。「見出しが悪い」と連中は怒鳴ってきた。怒鳴りに負けたことになる。
▽この対応は、今考えると、よろしくない。抗議の内容も、記事の内容に間違いがあるわけではなく、見出しが問題だと言ってきただけだ。
▽見出しは、本社の内勤である地方版編集者がつける。筆者とは関係ない。
▽こうしたことを考えると、総局長は抗議に対して突っぱねるべきだった。記事内容も正しくて、問題はなかったのに、一部を謝罪したようになってしまった。こうした対応が、選挙関係者の行動を精鋭化させるのだ。
▽この選挙関係者たちは自民党関係だった。自分の選挙を有利にさせるため、他陣営への攻撃も激しかった。怪文書も流されていた。だから私が書いた批判的な記事は、相手を刺激させたのだろう。反発したようだ。
▽私の記事に間違いがあるなら、私が謝罪し、私が社内の規則に従って、処罰される。しかし、間違いはなく、社内での処罰など全くなかったし、総局長から注意を受けたこともその後、全くなかった。
▽部下の新聞記者が書いた記事を、上司がフォローしてくれないと、社内での信頼関係は成り立たない。新聞記者を40年続けてきた私にとって、こうした抗議に反発できなかったのは、過去数回あった。恥ずかしい、過去の記憶である。


★256浅間山の噴火と最前線本部

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。県西部にある浅間山が噴火した。噴火した情報は当時、人事異動部会後の飲み会の最中に入り、飲み会は中止となり、前橋総局員らはそのまま現場に向かった。私は翌朝支局を出て、現地に近い場所で同僚らと合流し、取材を始めた。
▽噴火の規模はそんなに大きくなかったが、噴火による降灰が各地であり、レタスなど高原野菜を作っていた農家に被害が出ていた。
▽私は自分の支局管内で起きた噴火だったため、その後定期的に、浅間山周辺を見て回った。警戒レベルは上がったり、下がったりしていた。
▽ここで一つ、宿題が出された。万一の噴火に備えて、朝日新聞の前線基地をどこに造るかということだった。
▽大きな災害の場合、新聞社はホテルや旅館を借り切って、前線本部を作る。そこに、電話線や電源を確保し、デスクや記者を置いて、定点観測を行い、取材をして、本社に原稿や写真を送る手はずになる。
▽浅間山の場合、噴火した場合、降灰がどのように散らばっているかが問題となる。前線基地は、そんな降灰が少ない場所に作らなければならない。周辺のホテルや旅館を回って、これだという場所をチェックし、前橋総局長に報告した。
▽実際に泊まってみて、取材体制がきちんと使うところが良いので、私は大きなホテルを申請したが、総局長はもっと遠い別の古い旅館を推してきた。結局ここが朝日新聞の浅間山噴火の時の定点観測の場所となることになった。
▽浅間山はその後、警戒レベルを上げたり下げたりして、周辺住民を不安にしたり、安心させたりしたが、その後は噴火の勢いはなくなったようだ。
▽浅間山が噴火すると、周辺の農家が一番困る。高原野菜を作っており、降灰によって高原野菜が台無しになるのだ。
▽活火山を管内に持つ支局は、いつ噴火するかという不安を持ちながら、取材を続けている。


★254水沢うどんとラブホテル

▽群馬県渋川市水沢地区にある水沢うどんを食べに行こうと、マイカーで現地に向かった。水沢うどんは日本うどん三大地の一つで、コシがあり、透明感のある麺が特徴のうどんだ。かつて私は渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していて、そのうまさにはまったため、食べに行くことにした。
▽地区には十数軒のうどん店があり、東京からだと関越道を走らせるのが一番速い。前橋インターか、その次の吉岡ETCゲートをくぐって、山道を渋川市伊香保地区に向かう途中にある。人気の高さから、日中は観光客でドッとあふれる。観光バスも多い。
▽水沢うどんの各店舗は日中しか開いていない。夜は閉めている。日中のわずか数時間で1日の稼ぎを稼いでしまうのだから、驚くこともあった。
▽そんな賑わいのある店に入った時だ。偶然にもかつての取材で知り合った女性と会ってしまった。しかも、中年男性と一緒。こんな場所にまで来るなんて、と驚いたが、合点がいった。
▽渋川市と前橋市を結ぶ裏道のちょうど中間地域にある水沢地区は、実はうどんの他にも有名な場所だったのだ。
▽そう、水沢うどんの店舗数にも負けない数のラブホテルが点在しているのだ。
▽そんな場所にラブホテルがあるんだからたまらない。観光客は人目を忍んでやってくるアベックを、じっくりと観察することになるのだ。アベックからすれば、監視されていることになる。
▽水沢地区は有名なうどん店とラブホテルというこの奇妙な、不思議な組み合わせが成り立つ地区でもあった。だから観光客の中には、うどんのほかに、このラブホテルを目的とするアベックがいても不思議ではなかった。
▽いつぐらいにこういったコースができたのだろうか、不思議に思っていた。
▽共通項もある。水沢うどんの各店舗も、そしてラブホテルも現金商売である、ということだ。私が渋川支局時代には、うどん店を利用してもクレジットカードは使えなかった。ラブホテルも確か、そうなのだろう。共存している理由が分かるような気がする。

《追記》
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 以上の考察について、外部からこんな指摘がありましたので、掲載します。ご指摘ありがとうございます。 
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あきょのすけ@俺のハニ葱♪ 

@AKYONOSUKE 

FF外より失礼致します。 

水沢は“渋川市伊香保町水沢”  ラブホテル街住所は“吉岡町上野田” です。伊香保町は渋川市編入前の規制で建築許可が降りなかったのでしょう。伊香保温泉の歓楽街温泉としての最盛期をご存知であれば違う考察に至るかもしれませんね。


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★251八ツ場ダム

▽群馬県渋川市で利根川と合流する吾妻川の中流に、巨大な八ツ場ダムがある。「やんばだむ」と読む。そのダムに先日、マイカーで行ってきた。
▽ダム建設構想から数十年経ち、民主党政権で一時工事がストップし、民主党政権の崩壊とともに工事が再開され、完成したダムだった
▽私が朝日渋川支局に勤務していた時、工事がまだ本格的に始まっておらず、吾妻川沿いの景観が佇まいを見せていた。吾妻川を挟んで南北に二つの道路があり、どちらかの道路を通って、草津方向に向かった。風光明媚な場所で、ドライブしていても気持ちが良かった。
▽そんな吾妻川だったが、ダムの建設再開とともに次第に変貌していった。JR吾妻線は、線路の改良工事が行われ、ルートが別になり、駅も新しくなった。また、道路も新たに整備され、途中までは有料道路もできた。ダム建設で周辺が整備された結果だった巨大な税金が使われた。
▽すっかりダム周辺は変わってしまった。
▽こうして完成した巨大ダムは何のために造ったのだろうか、と私は思ってしまった。当初の計画では水害を守るダムとされていて、現在は多目的ダムだと説明されている。数十年に一度の水害から守るため、と言われている。
▽国は工事を急いでいたし、地元も反対の意見があったが、賛成派が多くなり、工事の再開を熱望していた。
▽日本のダム工事は、一見もっともらしい理由をつけて工事が進むが、本当に必要なのかどうか。民主党政権時代のストップは何だったのか。そんなことを考えさせられる八ツ場ダムだった。

★250ゼンリンの住宅地図

▽ゼンリンの住宅地図は、新聞記者の取材活動にとって、欠かせない大切な道具の一つだ。事件や事故、話題ものの出材に行く場合、取材相手の自宅を確認する時に使う。住宅地図で場所を確認し、それをコピーし、持っていった。長い取材生活で、随分助けてもらった記憶がある。
▽住宅地図は、個人情報そのものなので、これを作り上げた会社には敬意を表したい。住宅地図がなければ、日々の取材は困難になっていただろうと思う。
▽ゼンリンのホームページにはこう記されている。
《ゼンリンの住宅地図は、長年にわたって日本のビジネスを支援してきました。全国津々浦々の人々の暮らしを正確に俯瞰した地図情報は、配達・配送や、戸別訪問、行政サービス、信号機や電柱などの社会インフラの保守などの多様な業務・作業に欠かせない情報として活用され、わたしたちの社会や暮らしを支え続けています》
▽社会を支えている、という自負が伝わってくる。
▽最近は、グーグルマップや車のカーナビなどがあり、住宅地図を必要とすることはなくなった、と言う声もあるが、グーグルマップもカーナビも、地図の正確さでは、住宅地図で負けている。住所を入力してカーナビに従ってマイカーを走らせたが、全く違う場所に誘導されたことが何回もある。その点、住宅地図は正確無比だ。
▽ただし、首都圏などでは土地区画事業や道路変更、個人宅の引っ越し、取り壊しなどで、地図が変更になるので、数年に一度は買い換える必要がある。ホームページではこう記されている。
《全国の現地調査スタッフの調査により、都市部では毎年、それ以外の地区でも2~5年に1回は定期的に更新を実施。ゼンリンの住宅地図は、常に最新データの情報をお届けしております》
▽また都市部ではタワーマンションの林立で、住宅地図が対応し切れていないこともあり、そうした対応ができる住宅地図があれば、もっと取材は楽になるだろう。もっとも個人情報保護を理由に、そうした住宅地図は作れないのかもしれない。
▽一方で、田舎地方だと、人の移動もないので、古い地図で充分だ。


★248不愉快なデスク発言メール

▽不愉快だったから、書いておく。
▽仕事をほとんどしないベテラン記者がいることを不満に思った総局デスクが、暗に批判するメールを県内の全員記者に送ってきた。
「あなた方のことをみんな見てますよ」
と。
▽しかし、このデスクのデスクワークぶりを記者みんなが見ているのだ。天つば発言だと私は思ってしまった。
▽当時私が勤務していた県内には、ベテラン勢が何人もいた。そのうち数人は誰が見ても仕事をしなかった。原稿を書いたはいいが、訂正を出し、言い訳をしていた。また別のベテラン記者は、作家気取りになり、雑報らしい雑報を書かなかった。
▽こんなベテラン勢を一緒くたにして、テスクが仕事をしないと決めつけ、県内記者にメールで送ってきたのだ。デスクとしては当然かもしれないが、受け取った人間はどう解釈したのだろうか。
▽このメールを私が読んだ時、実は不愉快な思いをした。仕事をしていないベテラン記者に対して、直接一人ひとりに対して注文をし、文句を言えば良いのだ。具体的な指示をしないで、こんなメールを送ってくることに、私は疑問を持ったし、不愉快にもなった。
▽では肝心のデスクワークはどうだろうか、と私は思ってしまう。
▽ある時、県内ではサッカーで有名な高校が県大会で優勝した。日本代表になった選手が出た高校だ。このときのデスク判断が間違っていた。最初は地方版のトップでも、カタでもなく、3項目扱いだった。トップとは一番扱いの大きい紙面構成で、カタとはトップに準じる扱いだ。3項目目とは、3番目の扱いだ。デスクが整理部に出す出稿予定メモを読んで、私はこれでいいのかと疑問を思った。サッカー強豪校が、全国大会に出るのだ。県版トップで良い、と私は判断し、デスクに電話で苦言を呈した。
▽その時のデスクの答えは曖昧だったが、最終的には地方版のトップにした。私の指摘が正しかったのだ。
▽このようにデスクだって判断は間違える。人の欠点を、全員に長いメールで流すなんてもってのほかだ、と私は思った。こんなデスクがいる限り、朝日新聞の紙面は良くならない。私はそう思っている。


★245幻の佐渡支局引き継ぎメモ(下)

▽朝日新聞佐渡支局を転勤で去る時に、後任者に書いた引き継ぎの後半部分だ。生活面での引き継ぎもしている。支局生活を分かってもらえるだろうか。

《○記者クラブは、事実上記者室が機能しておらず、使えません。朝日新聞のほか読売新聞、新潟日報の記者のほか、各テレビの記者兼カメラマンがいますが、記者室は、投げ込み資料入れになっているだけです。クラブ費もありません。

▽○出張→私はデスク当番、部会、高校野球、曽我さん、トキの取材で日帰り、または泊まりの出張を月に1-3回ほどしていました。佐渡汽船のジェットフォイルは、運航に不安定なことが多く、ぎりぎりの時間を設定した場合は、出航が遅れて取材が遅れることもあるので、注意が必要です。

▽○タクシーは現金払いで自由に使えますが、佐渡の場合、台数も少なく、電話をしても、出てくれないケースも多く、不安定です。必要な時は予約をした方がいいです。また午後11時以降は閉店してしまい、深夜のタクシーでの取材は出来ません。

▽○朝日新聞販売店は両津地区にある川口販売店(0259-27-●●●●)です。

▽○佐渡ドライバーは危険です。狭い2車線を対向車が平気でセンターラインをはみ出して運転します。右カーブを平気でショートカットします。一時停止を無視します。逆走します。気をつけて運転してください。私も2回、事故をもらいました。

▽○ゴミの出し方→朝日新聞佐渡支局敷地内にゴミステーションがあり、ゴミの日のカレンダーに沿って出してください。ゴミ袋は佐渡市指定のゴミ袋で。ゴミ袋代は、実費請求で局舎管理のその他雑費で請求出来ます。

▽○古新聞とチラシは縛って両津クリーンセンターに。古新聞はマメに縛って持って行かないと、トンデモナイ量になります。私は各紙の切り抜き作業を週1回行ってから、その古新聞を縛って持って行きました。

▽○スーパーは地元資本のスーパーキング、スーパーマツヤ、本州資本のスーパーマルイの三社あります。そのほかAコープがあります。スーパーキングは異様に安い魚を入荷しています。地元資本のスーパーはクレジットカードが使えないため、現金が必要です。

▽○コンビニは今年からセーブオンがローソンに衣替えして、光熱費の支払いが出来るようになり、便利になりました》

▽生活面では雪おろしの苦労も書いた。

《○除雪対策と雪下ろし棒→今年2月は大雪で佐渡支局前の歩道と駐車場の雪かき、駐車ポート屋根の雪おろしがかなり苦痛になりました。毎日午前七時半ごろから30-60分ほど、雪かき作業を続けていました。佐渡支局前の国道の除雪も時間帯が一定ではなく、ブルドーザーが両脇の歩道に大量の雪を置いていくだけなので、この雪かきをする作業が大変です。捨てる場所がないため、車道と歩道の間に出来た雪の山の上に捨てるか、佐渡支局駐車場奥のスペースに捨てるしかありません。雪かきにはスノーダンプを玄関の物置に置いています。駐車ポートの屋根は、積雪5センチ以上だと危険だとして、雪おろしをするよう説明があります。この雪おろし用の棒を昨年購入して、事務所玄関内に置いています。この作業も結構重労働でした。時折ビスを外してしまうことがあり、ホームセンターで買い足したことがあります。

▽○佐渡支局敷地の草刈りは先日業者に依頼して終えています。放置すると雑草がかなりの量になります。

▽○佐渡汽船島民割引→住民票が必要です。専用カードが交付され、半額になります。

▽○佐渡汽船欠航→食料買い置きをした方が賢明です。3日間欠航した時は、スーパーやコンビニの食料品がなくなっていました。

▽○町内会費→700円を。集金が来ます。その他雑費で実費請求してください。

▽○七夕祭り協賛金5000円→毎年7月に集金が来ます。協賛金という名前で領収書をもらい、実費請求してください》

▽こんな生活をしていたわけだ。

★244幻の佐渡支局引き継ぎメモ(上)

▽地方の1人勤務の支局から転勤する場合、視察に来た後任者には口頭で引き継ぎ事項を述べたり、メモを残したりして、引き継ぎ作業を行う。以下は私が2018年9月1日付で朝日新聞佐渡支局から秩父支局に転勤するに当たって、後任者に引き継いだメモの一部を2回に分けて紹介する。長いが読んでいただければ、1人勤務の記者の実態が分かってくれるだろう。ただし、佐渡支局は残念ながら2022年6月いっぱいで廃止になったため、この引き継ぎ事項は、どうやって新潟総局に引き継がれたかは不明だ。

《日々の取材先は市役所、市議会、警察、海上保安署、佐渡金銀山関連、環境省出先機関、佐渡汽船、県地方振興局などがありますが、市役所と市議会の取材が一番多く、発表も市役所が一番多いので、まずは広報戦略室の室長高野さんに挨拶してください。市役所本庁2階です。佐渡市には市長と2人の副市長以下、各部に部長がいます。この市役所は市長の決定権が強い組織で、大きな話は最終的には市長に確認した方が早いです。各種取材では課長クラスでオーケーです。市の水面下の情報は、親しい市議から得ることも多く、シンパづくりがカギでした。

▽佐渡市は10市町村が平成の大合併で誕生しましたが、旧市町村の建物を使って支庁や行政サービスセンターを名乗っており、各部局もバラバラな場所にあります。市議会が佐和田、水道局が真野、教育委員会が畑野などと、移動する時間が必要です。市議会には佐渡支局から30分はかかります。

▽なお、我が社の働き方改革を反映して、デスクへの出稿連絡は、まず電話で午後一時までに行っています。その後は、インデックスに出稿予定を出して、実際の出稿になります》

▽以下、具体的なケースに言及した。
《○北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさん→朝日新聞が起こしたトラブルのため、独自取材は出来ず、市の拉致係長を通す合同取材になっています。年に数回署名活動があり、その案内が来るので、カオつなぎも含めてその取材は是非ものです。また東京本社から北朝鮮に関する動きに合わせて、発注が来ます。それも係長に連絡して、取材できるかどうか申請してください。昨年は夫のジェンキンスさんが突然亡くなり、かなりバタバタと取材を続けていました。本社では北朝鮮拉致関係者について、かなりの予定稿があり、そのブラッシュアップのため、今年7月初めに曽我ひとみさんの予定稿を2本、全面的に書き換えました。長行ですので、目を通しておいてください。

▽○佐渡金銀山→市の世界遺産推進課が対応窓口。県にも担当部署があり、県と市が毎年文化庁に自己推薦書を提出し、政府候補になるか7月に決まります。課長らにレクチャーを受けるのがいいと思います。これまでの4回の挑戦は政府候補ならず、背後に安倍官邸の意向があることが何となく分かります。政府候補にならなかったことを県版の受けで書いてきましたが、1年目は浮かれるなと言うトーンの予定稿を書き、2年目は扱いを小さく、昨年の3回目は冷静な市民の見方を書いて、今年は記者会見の様子を雑観記事にして、解説を書きました。毎年7月下旬の発表で、私の場合、高校野球の準々決勝から決勝までの応援が終わったと思ったら、世界遺産政府候補の発表なので、精神的にきつかったです。今年は発表が早まり、予定稿の準備をしている時間がありませんでした。

▽○トキ→環境省佐渡自然保護官事務所(佐渡市新穂正明寺1277、電話0259-22-3372)が対応窓口。首席保護官がマスコミ対応します。毎年3月から7月にかけて、自然界での繁殖が始まります。環境省はニュースのたびに情報提供してくれます。

▽2008年から始まった放鳥は、年に2回あり、今年は2回目を秋に予定しています。連写出来るカメラと望遠レンズが必要です。環境省の掲げたロードマップでは、2020年に220羽の定着を目指す、とありますが、それを今年達成しました。再生事業は順調に進んでいる、というのが同省の見方であり、朝日新聞も、というか私もそうしたトーンで記事を書いてきました。

▽環境省は1年以上生きてきたトキを、「定着したトキ」と、自然界で生まれ育ったトキ同士から生まれたひなを「野生三世」と称していますが、朝日新聞は「野生化」と混同しないため、「自然界2世」と表現してきました。一昨年、その「自然界2世」が初めて生まれて大ニュースになったのは、記憶の新しいところです。今秋には中国からのつがいの提供があり、大きなニュースになります。
▽一度絶滅したトキの歴史については、文庫本にもなっている「朱鷺の遺言」をお読みください。かなり参考になります。

▽ニュースの価値は自然界で育つトキの方が現在は大きいのですが、一方で佐渡トキ保護センター(佐渡市新穂長畝377-4、0259-22-2445)で人工飼育しているトキも時折ニュースになります。県から出向の所長が対応します。トキの生態を見てきた獣医師もここに勤めています。
▽また見学施設としてトキの森公園(新潟県佐渡市新穂長畝383-2)があります。ここも話題ものがニュースになります。

▽○新庁舎建設や新年度予算案否決など市議会と市の対立→市議会事務局は佐和田行政サービスセンターに。現在の市長が初当選した2016年の秋に突然、前任者が計画していた市役所の新庁舎建設案を白紙撤回した時から、市長執行部と市議会の対立が激しくなっています。各種条例案が否決され、今年はついに新年度予算案まで否決されました。流れを事前に知るために、市議会本会議前に全員協議会があるので、その取材が必要です。なお市議会本会議は佐渡支局から遠いので、時間がない場合は、地元のケーブルテレビでの中継を見ることで済ますことも出来ます。その場合はシンパの市議から情報を確認する作業をしていました。全員協議会の中継はありません。

▽○佐渡汽船経営問題→赤泊航路廃止問題があります。佐渡汽船側が航路廃止の方針を打ち出し、地元が反対する構図が続き、結局は先延ばしをして、週末だけ運航しています。市にとっても大きな問題で、廃止か存続か、市議会でも意見は分かれています。経営を圧迫しているため、かつての国鉄問題と同様で、「総論賛成、各論反対」となっており、幹部を取材する県政担当記者と市を取材する私が情報交換しながら、取材をしてきました。

▽○高校野球→原は準々決勝からカメラマン役でした。

▽○総選挙や知事選などの裏票は総務課長に依頼してメールで受信しました。これまでは全く協力が得られず、裏票の山を双眼鏡でのぞいてカウントしてきましたが、今年6月の知事選でやっと協力が得られて、裏票が入るようになりました。担当課長が交代すれば、元に戻ってしまうので、その関係と継続性を行うようにしてください》
▽1人勤務の取材の実態が、多少は分かってもらえただろうか。


★241仕事をしないベテラン記者

▽年齢を重ねて、私もベテラン記者と呼ばれるようになってから、同じような年齢のベテラン記者の仕事ぶりが気になるようになってきた。特に同じ県内にいると、仕事ぶりが分かりやすい。どんな取材をして、どんな原稿を書いて、どんな紙面になるのか、すぐに分かる。仕事をしないで、サボっている記者や、日々原稿をこれでもかこれでもかと書き続ける記者もいて、こういう記者には負けたくない、と思ったものだ。
▽仕事をしない記者、仕事が出来ない記者に共通点があることを分かってきた。
▽その一つが地方選挙の取材準備だ。
▽市町村の首長や議員の選挙取材には時間がかかる。立候補予定者に、調査票と呼ばれる履歴書を渡して書いてもらい、それを回収し、その調査票から候補者のデータをコンピューターに入力する。入力するには、その候補者の経歴や肩書を点検し、関係先に確認取材をしていくのだが、この作業がかなり労力を要する。例えば議員定数が30で、立候補者数が40だとするならば、40人分の調査票を集めて、点検し、入力しなければならない。その調査票1枚1枚、点検する作業があるのだ。これは、地方記者にとっては大切な作業で、手を抜くことが出来ない。
▽しかし、ベテラン記者はこの作業をサボタージュする。回収した調査票を自分では点検しないで、県庁所在地の総局に丸投げしていくのだ。しかもお願いしますとも言わないで、こっそりと郵送で送ってくるから、たまらない。
「私は仕事をしない」
と言っているようなものだ。
▽私が埼玉県で勤務している時、このような仕事をしないベテラン記者が3人いた。
▽ひどかったのは、統一地方選の時だった。そのベテラン記者が総局に調査票を丸投げした後、総局の担当記者が、私のところにその調査票を丸ごと送ってきたことだった。その選挙とは全く関係ない私が調査票点検と入力をやれと言ってきたのだ。だれがそういう指示したのかわからないが、迷惑な話だった。しかし、それでも私はその100人以上ある調査票の入力をした。
▽こうした労力は報われない。そのサボった記者からは、私に何の謝りも礼もなかった。
▽そしてそのベテラン記者は、周囲にこう漏らしていると言うのだ。
「給料が安くなったんだから、その分、仕事なんかできない」
▽確かに給料は半減する。しかし、それを飲んで、記者を続けているのだ。
▽こんなひどいベテラン記者を総局長も総局デスクも注意しない。しわ寄せは、真面目に働いている記者に来る。

★240クマやイノシシ、サルなどの動物出現

▽地方にいると、クマやイノシシ、サル、シカなどの野生動物に出くわすことが時折ある。その中でも、埼玉県秩父市は、野生動物の宝庫だった。私は2021年8月まで朝日新聞秩父支局に勤務していたが、クマ以外は、イノシシもサルもシカもみんな目撃している。マイカーで市街地を出て山林の道路を走らせていると、集団で移動しているこれらの野生動物に遭遇するし、ある時は、サルが道路に数十匹も占拠していて、怖くなったこともある。
▽そんな秩父市では2019年8月に、クマが民家を襲う事件が発生している。たまたま関係者からその話を聞いて、記事にしたことがある。
《埼玉県秩父市で7月下旬、民家に野生のクマが侵入し、冷蔵庫を物色するなど家の中を荒らしていたことが6日分かった。秩父地方では例年春から秋にかけてクマの出没が多いが、民家が襲われたのは、かなり久しぶりだという。同市などは罠を仕掛けて、猟友会に捕獲を依頼するなど、警戒態勢を取っている》
▽同市生活衛生課によると、同市浦山の川俣地区の民家で、一人暮らしの女性宅に7月28日夜から翌日未明にかけて、クマが侵入し、家の中を物色した。家具などが壊されたほか、冷蔵庫の扉を強引に開けた跡があり、冷蔵庫の食料をごっそりと食べていった跡があった。冷凍食品もなくなっており、扉は壊されて、外れていた。玄関から出て行った跡があるが、進入口ははっきりと分かっていない。おそらく窓ではないか、という。クマはツキノワグマとみられている。
《同地区は森林が近く、民家が点在している。付近では、前日からクマの目撃情報があり、クマが家の壁をたたくなどの行動を取ったため、女性は被害を恐れて近くの娘宅に避難して、無事だった。
▽同課によると、浦山地区や大滝地区では今年、クマが民家に接近しているという目撃情報が例年より多く、今回のように、民家を襲ったのは、「もう何年も前にあったという記憶しかない。今年は危機感を持っています」と担当者は説明する。
▽秩父地方の山林はクマの生息地で春から秋にかけて活発に行動するという。県内では昨年、34件の出没件数があり、今年は6月末現在で16件あった。登山やハイキング、渓流釣りなどで入山する場合は、注意が必要だ》
▽怖い話だ。場所は市街地に近く、遠い場所ではない。こんな場所にクマが出没するのだ。シカもクマは冷蔵庫に食料があることを知っているのだ。頭が良い。
▽ただ、勘違いしないで欲しいのは、野生動物が人間の住む場所に近づいてきたのではない。人間が何年もかけて野生動物の住む場所に侵入してきたのだ。野生動物からすれば、人間こそが侵略者なのだ。


★238記者のセンス

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局長だった時、毎週末は新潟総局でデスク当番や記者編集があり、金曜日から月曜日まで3泊4日の出張が続いた。私が週末に上越支局を空けている時は、支局員が1人でカバーすることになるが、この時が実は一番怖かった。
▽ある日、上越市役所の職員が飲酒運転で物損事故を起こして、懲戒免職になった。
▽記者クラブに投げ込み資料があった。
▽各社が書いているのに、我が支局員は、何と何と、原稿にしなかった。
▽つまり、特落ち。
▽上越に戻ってから、こんなことを落とすのは恥だぞと注意すると、その答えには驚く。
「こんなことで辞めさせられて、かわいそうだと思ったので」
▽エーーーーっと私は、想定外の答えに驚いた。
▽かわいそうだと思ったら、書かないのか。かわいそうだと思ったら、行政当局の権力行使は記事にしなくていいのか。
▽逆ではないのか。
▽かわいそうだったら、そのように書けばいいではないか。飲酒運転は犯罪だ。それとともに上越市役所は行政権力を行使しして、懲戒免職にしたのだ。そのことをキチンと伝えるのも新聞記者の役目ではないのか。
▽つまり、記者のセンスの問題だ。
▽市役所という権力が職員に対して、権力を行使したなら、そのように書けばいい。
▽全然、分かってはいない。
▽40歳近くにもなる支局員に注意するのは、かなり疲れた記憶が残っている。


★236なくなった写真取材

▽現在の新聞紙面で、今では全く見かけなくなった記事の一つに、ボーナス写真や子どもの夏休み、新学期登校というものがある。
▽ボーナス写真とは、夏と冬、公務員にボーナスが支給されると、その万札を手にした公務員の写真を撮るのだ。手に万札を広げてもらい、撮影する。もちろん取材相手にお願いをして、写真を撮っているため、いわばやらせだが、年に2回のボーナスの光景は、いわば「絵解き」取材として、半年に1回回ってくる季節取材だった。
▽私が新聞社に入ったころは、必ず紙面に掲載されていたし、私も取材を指示されたことがあり、取材もした。他愛ない話だが、そんな時代だった。
▽それが数年たち、給料もボーナスも銀行振り込みとなり、その取材は出来なくなった。そんな時代があったんだなと、今でも思う。
▽ボーナス写真ばかりではない。小中学校の夏休みが始まる時も、季節ものの取材として行った。夏休み前日の終業式が終わって、子供たちが学校から飛び出す光景は、絵になった。明日から夏休み、という喜びにあふれているような写真を撮ろうとした。また夏休みが明けて、真っ黒になった肌で登校する児童を撮影するには、宿題を持ってきた教室で撮影した。
▽しかし、これらも子供の人権とかプライバシーとかで、撮影できなくなっている。保護者の許可がないと、子供を勝手に撮影することが許されない時代になっているのだ。新聞紙面から消えた風景だ。
▽こんなことがあった。私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時だ。朝日新聞さいたま総局にたまたま上がっていた時、近くの小学校の校長から抗議の電話があった。勝手に児童の投稿写真を撮って、紙面掲載したらしい。その日は降雪で、「雪道を登校する子供たち」というイメージの写真を若い記者が撮影し、紙面化しいた。
▽しかし、これも学校や児童の保護者に許可を取らないと行けない話だった。当のデスクはその意味を全く理解していなかった。デスクなのだから、その意味をキチンと自ら理解し、部下に指導しなくてはいけない立場なのに、それが出来なかったのだ。情けない。
▽自由に撮影が出来なくなった時代になったということなのか。
▽1枚の写真がすべてを語る、と私は信じて新聞記者を続けてきたが、その考えも改めなくてはならない時代になったのかもしれない。
▽ついでに書くと、このデスク、東京新聞では有名な女性記者の亭主だ。このデスクに私はかなり振り回された過去を持っている。


★232記録されない佐渡の大雪

▽新潟県佐渡市の佐渡島は、雪国であるにもかかわらず、降雪量は少ない島だ、と宣伝されてきた。確かに、気象庁のデータを見る限り、豪雪地帯が多い新潟県の中では、雪が少ないことになっている。しかし、それは嘘だった。少なくとも私が朝日新聞佐渡支局に勤務していた3年半、降雪と雪かきに泣かされた冬が続いた。
▽私が勤務していた朝日新聞佐渡支局がある両津地区は、時折、大雪に見舞われた。両津地区は島の東側にあり、両津港は新潟港とフェリーやジェットフォイルで結ぶ航路の発着港でもある。
▽大雪に見舞われたある日の早朝、私は支局周辺を雪かきをして、マイカーを出して、両津地区から島の反対側の西側にある相川地区に行ってみた。予想通り、全く雪はなかった。同じ島なのに、この差は何だったのだろうか。
▽気象庁に問い合わせて、初めて真実を知った。この両津地区での降雪や積雪のデータを、気象庁は計測していない。新潟地方気象台によると、佐渡には両津とは島の反対側になる島西部の相川に測候所があるほか、両津や弾崎など4カ所にアメダスを設置しているが、相川地区以外では積雪計は設置しておらず、降雪、積雪を測る手段がないのだ。これには驚いた。
▽2017年1月に私はこんな取材メモを書いている。
《今月13日から続いている断続的な大雪で、佐渡市両津地区では除排雪が追いつかず、地元住民は「もう限界に近い」と悲鳴を上げている。だが、そうした同地区の大雪のデータを気象庁は取っておらず、日々発表する気象データは、元々雪が多くない相川地区の数字だけだ。ニュースや統計上では、「大雪」とはなっていない不思議な現象が起きている》
▽午前7時半の同市両津福浦2丁目の国道350号。通勤時間のため、道路幅が狭い上下2車線の道路は、ひっきりなしにクルマが通過していく。車道と歩道の間には、除雪車が通ったために、雪の壁が歩道との間に出来て、その高さは数十センチにもなっている。歩道には雪の山が積まれている。
▽国道は除雪はするが、排雪はしないため、歩道の雪はそのまま放置された場所も多く、子どもたちやクルマを持たないお年寄りらは、おぼつかない足取りで、車道に出て歩く人もいる。
▽この雪の壁を崩して、スノーダンプで雪かきをしていた近所の男性は「もう雪を捨てる場所がない。除雪だけではなく、トラックで雪の山を持って行ってもらえないのだろうか」と嘆く。除雪はするが、排雪はしていないのだ。このためマイカーを車庫から出せない。近くにスーパーはなく、雪かきをしないと、買い物すら出来ないのだ。
▽雪かきは1日、朝、昼、夕と3回毎日続けてきたが、雪は断続的に降り続けており、裏庭に捨てた雪の山は、大人の高さにまでなっていた。
《この両津地区での降雪や積雪のデータを、気象庁は計測していない。新潟地方気象台によると、佐渡には両津とは島の反対側になる島西部の相川に測候所があるほか、両津や弾崎など4カ所にアメダスを設置しているが、相川地区以外では積雪計は設置しておらず、降雪、積雪を測る手段がないのだ》
▽そう、両津地区の反対側の西側にある相川地区に、気象庁の測候所があり、計測しているだけなのだ。両津のデータは全く計測できていないのだ。これがデータの真実だった。
《同気象台によると、昨年11月から今月24日までの累計降雪量は相川が40センチで、25日午前9時現在の積雪はわずか5センチ。体感的に見ても、両津地区と比較すると、10倍以上の極端な差がある。相川は強い風が常時吹く土地柄で元々雪は少ない。同気象台によると、冬型の北西の風で雪雲が大佐渡の山脈を乗り越えて、両津地区にだけ大雪を降らすという。雪の少ない相川地区で降雪や積雪を計測し、逆に雪が多い両津地区では計測していないのが実態だ》
▽新潟県は雪国だが、場所に寄って、豪雪地帯とそうではない地域が混在する。東京にいると、日本海側は豪雪地帯だと思ってしまうが、新潟県の県庁所在地である新潟市は降雪量は少なく、比較的暮らしやすい。一方の上越地方は豪雪地帯で、冬になると雪が延々と降り注ぐ。上越地方にも3年半勤務していたが、こんなに暮らしにくいと感じたことはなかった。両津地区も同じだった。
▽データを信用してしまうと、暮らしの実態は見えてこない。そう感じた佐渡での生活だった。


★230トラブル支局員

▽私が、とある支局に勤務していた時、40歳近くになって、初めて新聞記者になるという支局員が私の部下として赴任してきた。新聞記者は遅くても30歳代前半で始めないと、仕事の速度に追いついていけないと考えていたから、ちょっと無理かなと思いつつ、指導することにした。結論から言うと、1年間指導したが、無理だった。新聞記者の生活リズムに追いついていけなかったのだ。
▽ともかく、社会人のルールが全く出来ていなかった。遅刻はするし、連絡はしてこないし、珍道中が続く毎日だった。
▽そんな時間がしばらく経過した時、管内の過疎地の村会議員選挙の取材に1人で行かせることにした。かなり説明はしたし、会社のマニュアル本をよく読むよう指導していた。どこの支局でも、選挙の取材は経験則だから、同行する必要はない。自分で覚えるしかない。それが親心だった。
▽しかしその村議選の投開票で、当選する人間に「当」は打ってみたものの、6人について「当外し」をした。「当外し」とは、結果として落選したため、当選したということが間違ってしまったことが分かり、「当」を削る作業を言う。締め切り時間が早くて、印刷するまで時間があるなら、「当」打ちした紙面を廃棄して、新たに刷り直すことになる。
▽今回の場合は既に印刷を途中まで終えていたから、削りすら出来なくなっていた。このため各家庭には配らないで捨てる「損紙」が発生。要するに店着する新聞を破棄して、後から刷った新聞を販売店に届けるシステムをつかうことにした。数千部を廃棄したと後に知った
▽仕事のミスはつきものだから、これは仕方ないとしても、翌日の反省の弁がなく、そのままの状態だった。私はなぜ当外しになったのか質問したが、答えは要領を得ない。きっと、当てずっぽうで「当」打ちをしたのだろうと思われた。「当」打ちはそんな当てずっぽうではなく、残された残票の数と当選ラインを計算して、各候補者の得票数を計算して、当打ちしていく。このことを説諭した。マニュアルにも書いてあることだ。
▽支局デスクが、編集局長あてに「申し立て書」を書くというので、その原文をファクス。それをもう一度、練り直して、我が支局員に見せた。
▽彼に読ませても、ただぼーっとしているだけ。反省しているのか、していないのか全く分からなかった。
▽支局長は「彼も十分反省するはず」と言ってきたが、甘い甘い。それは翌日になってからだった。
▽翌日の朝は、またまた村議選など、管内で三つの選挙告示日だった。当然、早く出社して選挙の取材態勢に入っているはずだった。
▽だが、いくらたっても支局事務所に来ない。どこか選挙の第一声の写真でも撮りに行っているのか、と思い、2時間経過してから、ポケットベルを鳴らす。
▽今どこ、と聞くと、何と自宅にいるではないか。
▽おいおい。選挙だぞ。告示日だ。
「だって原さんは、選挙中心の体制でいい、と言っていたではないですか」
▽何を勘違いしているのか、と思った。
▽日々の取材はいいから、選挙の告示作業に打ち込んでくれ、と言ったのに、告示日は夕方まで出なくていいと言った覚えはなかった。
▽何事にも都合良く解釈してしまう支局員はその後も延々とトラブルを起こしてくれる問題児になっていった。記憶から消したい支局長時代の支局員だった。

【再掲載】★184レッズの無観客試合

▽サッカーJリーグ、浦和レッズの試合を取材していると、時折、レッズのサポーターの行き過ぎた行為が問題になる。2014年には一部サポーターが「JAPANESE▽ONLY」という差別的横断幕を掲げ、レッズはJリーグ初の1試合無観客試合を強いられた。
▽その無観客試合を取材した。
▽試合開始の2時間前の午後1時過ぎに、レッズの選手たちはバスで埼玉スタジアムに入った。いつもなら多くのサポーターが待ち受けるが、この日はだれもいない。選手たちはそのまま全員がピッチに立ち、だれもいない観客席に向かって、キャプテンの阿部が「差別撲滅宣言」を行った。
▽異様な雰囲気で試合が始まった。
▽キックオフは3時4分過ぎ。引いて守る清水に対して、レッズはややぎこちない。前半にこぼれ球を押し込まれ、先制を許した。当時はまだレッズに在籍していたMF原口元気は、先発でプレーしたが、試合後の囲み取材でこう答えていた。
「いつもと同じメンタルでプレーしようと心がけたが、やはり何かが違っていた」
▽後半はその原口が同点ゴールを放った。右サイドから途中出場のMF関口が相手を2人かわして、クロスを入れ、そのこぼれ球に原口が反応し、豪快にネットを揺らした。普段なら大声援に包まれるピッチには、レッズびいきの一部の報道陣から拍手があっただけ。これには苦笑した。アナウンスすらなかった。
「次の試合はサポーターと喜びたい」
と原口は話していた。
▽今回の差別問題についてツイッターで最初に問題提起をしたのは、これも当時在籍していたDF槙野智章だった。
「サポーターがいるから試合が出来る。試合前に選手同士で声を掛け合ったが、サポーターに勝る声かけは出来なかった」
▽阿部勇樹は、
「忘れられない試合になる。サポーターの声が聞こえるかもしれないと思った」
と話した。
▽相手の清水のゴトビ監督は言い切った。
「だれもいないスタジアムは、魂が欠けている。私は試合を楽しむことが出来なかった。無観客試合はこれが最後になると思いたい」
▽強烈なメッセージをレッズに投げかけた。
▽その試合の取材をしていて思ったのは、無観客だと、選手の声がよく聞こえるということだった。GKやセンターバックの選手が前線の選手にコーチングしている声もよく聞こえるし、選手の息づかいも聞こえてくる。
▽これはこれで貴重な取材だったと、今でも思っている。


★228新潟日報報道部長のツイッター事件

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞聖角に勤務している時の話だ。毎月数回、ジェットフォイルやフェリーに乗って朝日新聞新潟総局に上がり、代理のデスク当番をしていた。ある時、そのデスクとして判断に迷う事柄が起きた。今回はそれを記しておく。
▽2015年11月、地元の新潟日報上越支社報道部長がツイッターで各種団体や組織に対して誹謗中傷を匿名で繰り返し、最後は新潟水俣裁判の弁護士まで罵倒する事件に発展した。社内からの情報で知った。
「水俣裁判の高島章弁護士と新潟日報上越報道部長がツイッターでバトルを展開し、報道部長が謝罪した」
という内容だった。電話を受けた新潟総局記者がネット検索したが、ある、ある、レベルの低い言い争いが。最終的に部長のハンドルネームがばれてしまい、弁護士が新潟日報本社に文句を言い、本人同士で話し合ったと言うが、極めてレベルの低い争いだと思った。
▽ただし、一方は水俣裁判の弁護士。一方は地方紙の幹部。記者がキャップ格のBB記者に報告して、明日以降の取材対応を考えてもらうことにした。BBとはビックブラザーを指す言葉で、総合キャップを担っている。
▽一方、私も自分の人脈で知り合いの新潟日報幹部に電話した。編集総務に報告が上がって来たが、内容が分からないので、ツイッターの中身を精読している最中だとか。
「朝日新聞が取材するなら、私に言ってください」
と言われた。
▽翌日、そのバトル事件を取材しているBBに新潟日報から「調査中」という連絡があり、さらには夜になって新潟日報から「調査中」という、意味のないファクスが送られてきて、この日の記事化は見送った。おそらく他社から「コメントを出せ」と言われて、出したのだろう。
▽BBは記事にするのに、「こんなことを記事にしたら、産経新聞と同じレベルになってしまう」と消極的だった。確かに一理あり。ただし、日報がこの部長を処分したら、それはニュースという点では考えが一致した。いずれにせよ、この弁護士の放ったツイッターの数もものすごい。ツイッターを隠れ蓑にした部長が、ツイッターで負けてしまった、という構図かと受け止めた。
▽知り合いの新潟日報記者に聞くと、
「こんな大事な時に社長が不在で、経営判断が出来ないんだ」
と嘆いていた。
▽またこのバトルがあることを、朝日新聞(原)から聞いたこの記者が報告し初めて知った編集局長は、みるみる表情が変わっていったという。
「あんな顔、見たことがない」
という。相当ショックだったようだ。
▽その日も記事を見送ることにして、10時半にホテルに引き上げた。タクシーでホテルに戻って、買った缶ビールを飲み始めた時だった。夜勤の記者から電話があり、新潟日報上越報道部長のツイッター暴言事件を記事にしろという本社社会部デスクからの要請があったという。
▽私は再びタクシーで新潟総局に行き、その処理をした。嫌がるBBには指示できなかったので、若い記者に記事を書いてもらった。その記事を社会部に送った。
▽この一連の事件で判断に迷ったのは、BBが言う「こんなことを記事にしたら、産経新聞と同じレベルになってしまう」という意思だ。デスクとしてはこの考えを尊重したい気持ちも十分にあった。一方で本社社会部からの命令に背くのも難しい。判断に迷って、若い記者に記事を書かせたのだった。
▽この報道部長、一連のツイッターへの投稿理由は飲酒による診断能力の低下と職場のストレスだったという。最後は諭旨免職になった。
▽報道する立場の人間が、匿名で中傷誹謗をしてはなならい、という戒めだけが残った事件だった。


★227佐渡島のランチ難民とコンビニ空白の1日

▽日本海に浮かぶ新潟県佐渡市の佐渡島は、平成の大合併でそれまであった10市町村が合併して、島全体が佐渡市になった。しかし、それぞれの市町村の名残があり、市町村間の距離も遠く、文化も風俗も違う歴史を育んできた。
▽だから、佐渡市役所だけで取材が終わるということはなく、島の裏側まで行く必要が何回も何回もあった。
▽私は2015年5月から朝日新聞佐渡支局に赴任したが、島を1周するには、車で2時間半から3時間かかる。島の中央は山に阻まれて、島の反対側に行くには、ひたすら海岸線を走らせるしかなかった。
▽旧市町村の市街地はそれなりの町並みを形成しているが、困るのは昼食を摂る店が限られるということだった。両津、相川、小木、佐和田、新穂、金井などの地区には数軒の飲食店があったが、これ以外の集落には食べる場所が全くなかった。
▽要するにランチ難民になるのだ。
▽この対策として、かなり早めの昼食を摂ってから取材に出るか、または我慢して、昼食を摂らないか、どちらかの選択肢しかなかった。
▽そんな中、2018年2月14日、佐渡で大手コンビニ店がすべてなくなり、ゼロになる「空白の1日」が発生した。
▽島内にあるコンビニチェーン店の「セーブオン」が、大手の「ローソン」に店替えするため、その開店準備などに時間がかかるための措置だった。佐渡島から大手コンビニがなくなる「空白の1日」が、地元ではちょっとした話題になっていた。
▽全国でコンビニ店を展開する大手のローソン株式会社と北関東を中心にコンビニを展開する株式会社セーブオンは前年1月に提携したメガフランチャイズ契約に基づいて、新潟県内のセーブオンをローソンに転換させており、今回の話はその延長だった。転換は佐渡市から開始し、市内の8店舗を順次オープンさせていく。そして県内の残りのセーブオンを順次展開させていく。
▽ローソンが佐渡島に出店するのは初めてのことだ。
▽両社によると、市内に8店舗あるセーブオンを閉店させた。このため、1日だけ、市内のセーブオンがすべてなくなり、「空白の1日」が生じることになったのだ。私は面白い現象だと思い、記事に書いた。
▽地元だけで経営する地元資本のコンビニが1軒、両津地区にあるが、弁当やサンドイッチ、飲み物が中心で、品揃え数では比較にならない。
▽同市ではその2年前の10月、全国展開する牛丼店の「吉野家」が初めて出店し、話題になったことがある。人口が毎年約1000人が減少していく同市での採算が取れるのか、という疑問の声に、吉野家担当者は「十分に採算がある」と答えていた。
▽今回は大手コンビニの進出。ある中年男性は、
「ローソンはパスタ系がおいしいと聞く。楽しみだ」
と話す。一方で佐渡産のコメ好きな女性は、
「セーブオンの弁当は佐渡産米ではないので、私も友達も買いに行かなかった。今度は様子見ですね」
と答えていた。

★226中古車は怖い

▽中古車販売大手のビッグモーターの不祥事が明るみになったが、中古車では私も痛い目に遭っている。別に不正な車を買わされたのではないが、メンテナンスの悪い中古車を買うと、その分のメンテナンス費用が異様にかかるのだ。
▽私が東京本社から埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に人事異動になった。突然の人事だったので、取材に使う車を探すため、ある大手の中古車販売店に行き、運転しやすい中古車を探した。
▽金もそんなになかったので、新車を購入することは出来ず、中古車を選択した。
▽自宅近くの販売店に行き、店側が提示する車の中から1台チョイスして、現金払いをした。スバルインプレッサだ。走行距離が既に88000キロもある中古車だったが、カーナビとETC機器が取り付けられていて、これに決めた。
▽しかし、やはり中古車だった。何回も走っているうち、走行中にハンドルが取られることが多くなり、ホイルバランスも悪く、そのたびにこの店と提携しているスバル店に行き、修正してもらった。さらにはファンベルトが緩んだり、とか、オイル漏れがあったり、とか、ワイパーがさびているとか、で半年に1回の割合で修理に出し続けた。そのメンテナンスの料金が次第に膨らんできた。
▽最終的には4年間乗って、15万キロまで走ったが、最後はボロボロな状態だった。メンテナンスや修理費も異様にかかった。これだったら、新車を買った方がよかったと思った。
▽若いころ、担当していた所轄の警察署の刑事に言われたことを思い出した。
▽「警察官は、中古車を絶対に買わない。何があるか分からないからだ」
▽そう、どんな使われ方をしていたのか、どんな事故に遭遇していたのか、シロウトには分からない。だから、中古車を買うことはしない、と言われたのだ。
▽確かに、中古車の走行距離数のメーターを故意に変更して、距離を短くする不正は昔からあったし、ビッグモーターの会社のように悪質な修理を行うこともあるだろう。良心的な会社も多いと思いたいが、中古車は怖いと思った方がいい。中古車には、必ずマイナス面が少なくないのだ。
▽そのことを教訓に、私はその後、地方での取材には新車を無理してでも買うようになった。安全を優先させたいためだ。

★224遅刻魔の支局員

▽ある地方支局で支局長として勤務していた時の話だ。本人の名誉のため、支局名は伏す。支局員として赴任してきた記者が、やたら寝坊して、遅刻するという日々を繰り返していた。新聞記者として行ってはいけないものが、「遅刻」だ。
▽最初の大きな遅刻は、着任2週間目。繁華街で飲ませた時だった。同じ時間まで飲んで、
「明日からもがんばれよ」
と言って別れた。時刻は10時半ごろ。翌朝、私は午前5時に起きて朝刊各紙を読んで新聞記事の点検を始めていたのに、彼がなかなか支局に来ない。ポケットベルを鳴らしても、携帯電話を鳴らしても反応がない。
▽結局、11時まで支局に来なかった。
▽やっと来た彼の髪はぼさぼさ。マンションの自室を出て、1階の郵便ポストから取り出したばかりの各紙を腕に抱えての登場。来た時の言い訳は「バスで来ました」。だから、何なんだ、と思うが呆れて何も言えなかった。
▽以来、この支局への登場スタイルは1年間、ほぼ変化しなかった。寝坊するため、本来なら彼が自宅で読み終えたはずの新聞は、読まないまま、狭い我が支局事務所に持ち込まれ、開かれないまま支局事務所の本棚の隙間に置かれるようになり、次第に新聞の山が築かれてくるようになった。
▽パートの女性が、
「どう処理したらいいのですか」
と私に聞いてくるようになったのは、数カ月後。注意しても、何回も繰り返すようになっていた。要するにだらしないのだ。
▽寝坊して遅刻をする、ということを何回も繰り返した。彼は遅刻魔だ、ということをこの1年間痛いほど知った。
▽職場での信頼感をなくすし、信用できなくなるのに、自分では罪悪感がないようだ。よくこんなことを、以前の職場が許してきた、と思うほどひどかった。実際に見ていると、よくこんな人間が、本社に勤めていた、と思う。
▽私は新聞記者として、やってはいけないことの一つに、遅刻と寝坊があると思っている。私自身、40年間の新聞記者時代、寝坊も遅刻もなかった。否、新聞記者に限らないだろう。サラリーマンとして当然のことだ。
▽寝坊するから、当然、新聞を読んでこない。新聞社に勤める人間が、新聞を読まないで出勤する、という驚くべき事実に私はこの1年間、ショックを受け続けてきた。
▽この新聞を読まない弊害は何度も何度も後に発生した。
▽最初の失敗は、ある有名な温泉街で、女性2人が水死した、というニュースを、地元紙に特ダネとして抜かれたのに、本人は全然気付かず、別の取材にのこのこ出ていった。当然現場に行っていると思いこんだ私もいけなかった。支局デスクの再度の問い合わせで、そうした事実があることを本人も初めて知ったようだ。
▽新聞記者は寝坊と遅刻を絶対にやってはいけない。そう思う。こんな説諭をしても、「パワハラです」という反論が来るのだろうか。だとしたら、注意すら出来ない。
▽本人は1年ちょっとで私の支局を去って、別の支局に異動になった。


★221四重遭難

▽このコラムで以前、埼玉県秩父市で起きた二重遭難を取材した話を書いたが、三重遭難どころか、実は四重遭難だった可能性が高いことを最近知った。
▽私はコラムではこう書いた。
《私は取材で使っているマイカーで、埼玉県を走る外環道内回りを走らせていた。そして大泉ジャンクションから関越道に入り、関越道を北上していた。速度はかなり出ていた。
「とにかく急いでくれ」
と言われ、車のスピードを上げていた。遠くで雷が光っていた》
《埼玉県秩父市の山岳地帯で登山者の遭難者が出て、救助に向かった県庁の防災ヘリがさらに墜落したという二重遭難が発生していた。その搭乗者のうち、負傷した人間を狭山市の病院に、自衛隊機が搬出するので、その現場に行ってくれと言うのだ。当時私は越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していて、その日は管内で発生した殺人事件の地取り取材をしていた。夏の暑い日で、かなりクタクタになって現場を歩き回っていた》
▽しかし後に知るのだが、狭山市を管轄する所沢支局長が無断欠勤で不在だった。
《このため私が東埼玉支局からはかなり遠い狭山市に向かったわけである。マイカーの速度は上がっていた。
▽現場の病院には県内の仲間の記者も着いて、取材が始まった》
▽私は病院に搬送された救助隊員の様子を取材して、さいたま総局に原稿を送った。しかしこの二重遭難が、さらなる遭難を引き起こしたことを知らないまま引き上げた。
▽山岳遭難に詳しい羽根田治の著書「山のリスクとどう向き合うか」によれば、実はこの二重遭難の同じ日に、地上から現場に向かっていた救急隊員が、現場に向かう途中で遭難した男性を救助した。後に搬送先の病院で死亡が確認された。遭難事故などについてネツトで積極的に発信しているブロガーであることが判明。たまたまヘリの墜落を目撃し、現場に向かったところで滑落したのではないかと推定されるというのだ。
▽そしてヘリ墜落から6日後、日本テレビの記者とカメラマンが遭難した。この取材クルーの遭難自体は私も知っていたが、これらを含めると四重遭難であり、「負の連鎖」「前代未聞」と筆者は指摘する。
▽この本を読む限り、山は怖いと感じる。
◎参考→地方支局編「041二重遭難」

★218佐渡汽船と高速フェリー

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した直前に就航したのが、新潟県上越市の直江津港と佐渡市の小木港を結ぶ佐渡汽船の高速フェリー「あかね」だった。未来型のデザインで、この船に乗りたくて、赴任時にはわざわざ上越市までマイカーで回って乗り込んだ記憶がある。そして、この「あかね」がわずか6年で消えてしまった。残念な結果を、私は次の勤務地である埼玉県秩父市の秩父支局時代に知った。
▽佐渡汽船の高速フェリー「あかね」は、北陸新幹線の金沢開業に合わせて、就航させた未来型の高速フェリーで、就航の時は話題になったが、荒天時の欠航が多く、乗り心地の悪さなどが指摘されていた。経営判断が悪かったと言われても仕方ない。
▽新潟県と佐渡市の佐渡島と結ぶ航路は、二つある。一つが新潟港と両津港を結ぶ航路。もう一つが直江津港と小木港を結ぶ航路だ。この後者の航路に2015年4月に就航したのが、双胴型高速カーフェリー「あかね」だった。
▽双胴型とは、二つの船を平行に並べて、甲板で結ぶ形の船で、波の抵抗を受けることなく、高速で推進させることが出来る。「あかね」は白い船体で、船形も従来のフェリーとは違って、未来型のデザインだ。全長約100メートルで、総トン数は5702トン。時速は30ノットになる。就航時は、朝日新聞を含めて各紙は、北陸新幹線金沢開業とこの未来型高速カーフェリーに対する期待の高まりを記事にしていた。
▽私はその年の5月に佐渡支局に赴任したが、ちょうど就航したばかりのこの「あかね」に乗ろうと、直江津までマイカーを走らせて、乗船した。揺れは少なく、新しいフェリーを満喫した。
▽問題は冬だった。冬の日本海は荒天で、波が高くなる。この波の影響で、「あかね」の欠航が相次ぐようになった。新潟港と両津港を結ぶ通常のフェリーは欠航していないのに、「あかね」はよく欠航するようになった。
▽加えて、揺れが激しく、乗り心地が悪いと、不評を買うようになった。
▽そして推進装置の故障があり、その修理費も高いこと、さらには新型コロナウイルス感染の拡大で乗客が減少し、収益が見込めないことなどから、佐渡汽船は「あかね」を手放すことになった。
▽佐渡市の人口は毎年減少し、それに伴って二つの航路の収益も悪化している。私が佐渡支局に勤務している時に、運賃の値上げを表明したが、反対論が相次ぎ、撤回した経緯もあった。
▽経営悪化は続き、最終的に2022年3月、「みちのりホールディングス」という運営会社からの出資を受け、同HD傘下として新たなスタートを切っている。「あかね」が去った航路には、ジェットフォイルが就航している。
▽みちのりホールディングスは東京に本社を持つバス路線を中心とした総合交通運営会社で、2022年3月には佐渡市など5者で協定を結んだ。その協定にはこんな文面がある。
《株式会社みちのりホールディングス(以下「みちのりHD」)及び佐渡汽船株式会社▽(以下「佐渡汽船」)は、本日、新潟県、佐渡市、上越市と五者間で佐渡航路の維持確保及び活性化に向けた協定を締結いたしました。
この協定は、当事者が相互に連携し、佐渡航路の維持確保を図るとともに、産業・観光の振興や交流人口の拡大等の観点から同航路及び地域経済の活性化に取り組むことを目的とするものです。
みちのりHD及び佐渡汽船といたしましては、本協定に則り、関係自治体の協力を得て、生活及び観光の足としての佐渡航路の利便性向上に努め、佐渡航路及び佐渡島の活性化に向けて取り組んでまいります》
▽そう、離島の航路を絶やしてはならない。

★217秩父事件その2

▽埼玉県秩父地方が舞台となり、後に自由民権運動の原点とされる秩父事件(1884年)で、リーダー格だった人物に、飯塚森蔵がいた。その人物が逃亡先で、だれに匿われていたかは、謎だった。その謎を、秩父市の研究家が突き止めた。その話を記事にしたことがある。
「乙大隊長」という肩書だった森蔵は、事件後逃亡し、欠席裁判で重懲役11年の判決を受けたが、行方は分からなかった。北海道の研究者からは白糠アイヌコタンで生涯を終えたという説が出されたが、その後の追跡調査での大分県臼杵市(うすきし)で匿われた後、愛媛県八幡浜市で死亡したことが確認されている。
▽その逃亡先の大分県で匿った人物がだれだったか。
▽その研究家は現地を訪ねて、新たに分かったのは、飯塚森蔵を匿ったのが、佐志生村(当時・現在の臼杵市の一部)で地元の村会議員を務めていた兒玉文治という人物だったことだ。
▽現地での調査で、文治の家に嫁いだ高齢の女性やその長男から話を聞いた。女性は、
「昔、秩父からやってきた人がいた、偉い人が」
「この人は秩父農民一揆をして農民を助けようとして政府ににらまれて逃げてきたのを、爺ちゃんが匿った。その当時、その人を匿えば打ち首か何かだったのに」
と証言した。
▽村史や議事録などから文治の存在を確認した。文治は当時、村の名士だったらしい。長男の話から文治が森蔵を匿ったのは1892年(明治25年)7月から1年4カ月だったと研究家は推定する。
▽また匿った場所は文治の自宅である「佐志生152番」の場所ではなく、そこから北北西に2キロ先の山の奥だったことも分かった。
▽森蔵は逃亡先のこの場所で八橋シマという女性と結婚しており、文治に匿われながらの新婚生活だったらしい。
▽私はこの研究家から独自に話を聞き、裏を取って、取材を続けた。
▽森蔵はその後八幡浜市に移り、40歳で死亡。地元の寺の過去帳には「明治26年12月23日▽行年40歳」と記されていることも確認している。
▽研究家は私にこう断言した。
「どういう人物が森蔵を匿ったのか、興味があった。文治は長い間村議会議員をやっており、実力者だった。肝が据わっていたから、匿ったのだろう。やはり歴史の真実を分かっている人間が匿ったということが分かった」
▽こんな内容を原稿にして出した。
▽細かい話だが、こうして過去の史実を解明するのは、大切な作業だ。それが正確な日本史を作る結果に繋がる。

★215代番デスク

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡市局に勤務していた時、月に数回、新潟総局に出張して代理のデスク当番をしていた。「だいはんデスク」と呼んでいたが、この「だいはん」の文字が広辞苑では見当たらず、「代番」が最も近い言葉のようだ。「だいばん」がなまったのだろう。要するに新潟総局にいる1人のデスクに休日を取ってもらうため、そのデスクに代わって、土日曜日や祭日にデスク当番に就くことだ。私のほか、準支局だった上越支局、長岡支局の支局長や柏崎支局長もデスク当番に交代で入っていた。
▽地方総局のデスク当番は、総局員や県内の支局からの原稿を見て点検し、手直しをして、本社の地域版編集者に送り、翌日の地方版の紙面を作る作業がある。このほか、社会面など全国版に大きな事件事故の原稿を送る本紙用の作業もある。
▽このため、夕刊デスク当番は午前9時に着席する必要があった。夕刊の最終版降版時間は午後1時半だったから、それまでずっとデスク席に座ることになる。
▽夕刊が終われば、昼食を摂ってから、今度は地方版の原稿の処理に当たる。夜9時過ぎまで続く作業だ。
▽私の場合、佐渡支局から新潟総局に上がるには、高速船のジェットフォイルかフェリーに乗っていかねばならない。首都圏の鉄道と違い、早朝や深夜は運行していないから、朝一番のジェットフォイルを利用しても、夕刊着席時間には間に合わない。前日夕方のジェットフォイルで新潟市内に入り、ホテルに泊まり、翌日のデスク当番に着く、ということを繰り返していた。
▽新潟総局では午前9時に夕刊デスク当番として着席し、夕刊の最終版を終えて、一服し、昼食を摂った後、今度は朝刊作業に入った。新潟版の記事を点検し、リリースする。大きな事件がなければ、新潟版を降版して一息をついた。金を出して若い総局員に酒ビールやつまみを買ってきてもらい、新潟総局内で軽く飲食する。そしてホテルに戻った。
▽大きな事件事故が発生した場合は、社会面用の原稿を部下に指示して書いてもらい、それを社会部デスクに転送した。
▽ホテルに戻ってから、4人が焼死する火災が発生したとして新潟総局員から連絡をもらったこともある。この時はタクシーで新潟総局に戻って、社会面最終版にフラッシュ原稿を入れたこともある。なかなか私の手元に原稿が届かないから、そのフラッシュ原稿は私が作った。「新潟県警に入った連絡によると~」というスタイルの原稿だ。
▽翌日も朝刊デスクの就くことが多く、さらにデスク作業を行い、仕事が終わればホテルに戻る。
▽だから2泊3日か3泊4日の出張になった。
▽こんなことを3年間、繰り返していた。おそらく歴代の佐渡支局長でこんなに朝夕刊のデスク作業をした人間はいないだろう。
▽私としてもデスク当番時は、若い新潟総局員と雑談ができるので嬉しかった。総局員のそれぞれの考え方も分かって、勉強になった。


★209平成の大合併の功罪

▽平成の大合併で思い出すのは、市役所に組み込まれた町村の役場のずさんな行政運営だった。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた2006年2月、渋川市は当時の伊香保町、小野上村、子持村、赤城村、北橘村村と合併し、新たな渋川市になった。
▽そしてその年の6月、不祥事が発覚する。旧赤城村環境整備課の男性職員が、合併までの2年間近く、管理する農業集落排水組合の設立準備金の口座から、計6回、数万円を勝手に引き出して、使い込んでいたことが分かった。合併の引き継ぎで不正が判明した。
▽市によると、旧同村環境整備課に同組合事務局があり、その職員が1人で管理していた。市の調べに対して、職員は2004年4月から引き出して、生活費に充てていたことを認めたという。着服した金は全額返済され、辞表も出されたが、市は受理しなかった。
▽2年間の間、村のチェック体制はどうなっていたのか。
▽同じような不祥事はその後も続き、市役所のチェック体制に比べると、町村のチェック体制のずさんさが浮き彫りになっていった。合併によって、市役所レベルのチェック体制になり、ようやく不祥事が発覚するというパターンだった。
▽すべての自治体が、こんなに緩い体制だとは思いたくないが、合併によって、チェック体制が強化され、公務員のずさんな行政運営がなくなるのであれば、納税者にとっては悪くない。
▽平成の合併は、自治体の行政経費と人件費を削減することも大きな目的の一つとされたが、各地の合併協議会では、利害が絡み、うまく行かなかったケースも多い。行政サービスの低下を懸念する声も多かったが、多くは旧町村の建物を、行政支所として使っているケースも多く、行政サービスの低下はある程度防いでいると私は見ている。
▽しかし、地方は高齢化と過疎化の進行で、税収も先細りになっていて、行政の簡素化と人件費の削減は避けられそうにない。平成の大合併はそんな将来を見据えたものだったと私は理解している。
▽各地を転勤していると、やはり大都会や都市、市役所の公務員はキチンと仕事をしているが、町村の公務員はやはり緩いことが分かってしまう。平成の大合併はそんなことを垣間見た瞬間だった。

★208草津温泉の共同浴場

▽群馬県草津町の草津温泉は日本有数の温泉街である。この温泉街には、無料で利用できる共同浴場が数カ所あり、ここを巡って湯を浴びるのも、草津観光の楽しみでもある。
▽私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時、草津町は取材管内の一つだったので、時折取材を兼ねて、温泉街を歩いた。その時に気づいたのが、一部だが利用者の中にマナーの悪さが次第に目立つようになっていたことだ。元々は同町の地域の住民が無料で利用する浴場だったが、観光客にも開放していることで、深夜に場違いな宴会をしたり、備品を盗んだり、浴場で大小便をしたりする行為にまで及んで、地域住民を困らせるようになっていた。町民の間からは、有料化にして管理の徹底を、という声も出ており、豊富な湯量で知られる草津温泉が、ほかならぬ湯で熱くなって揺れていた。
▽温泉街にある無料の共同浴場は、名湯、草津温泉の隠れた観光施設でもある。豊富な湯量を背景に、各地域に開設され、数カ所が無料で開放され、地域住民や観光客が熱い湯につかって強い酸性の温泉の湯を楽しんでいる。
▽取材をすると、こんな問題点が出てきた。以下は私の当時のメモだ。
《一方でここ数年問題になっているのが、マナーの悪さだ。町温泉課に寄せられた苦情は、いくつかの項目に分けられている。
▽同課がまず挙げたのが、タオルを持ち込まず、手足や陰部を洗わないで風呂につかる行為。いくらかけ流しとはいえ、他の利用者には清潔とは映らない。タオルがないため脱衣場の床がぬれてしまうのも問題だ。
▽次に挙げるのが、脱衣場で深夜に飲食する利用者だ。一部を除くと共同浴場は24時間の利用が可能だ。湯船の天井は、湯気を外部に排出させるため、空気の通り道があり、数人で宴会を続けていて大声で騒ぐとそのまま騒音となって、隣接する宿や民家に迷惑をかけている。「宿のお客さんに、浴場のお客さんが迷惑をかけている構図なんです」とある住民。
▽観光課が三つ目に挙げるマナーの悪さは、盗難そのもの。風呂場のマットや体重計、おけ、壁掛け時計など、いつの間にかなくなっている事件が時折発生する。「あんなもの、盗んだって、何の役にも立たないと思うのですが」と関係者は推測する。
▽四つ目は、マナー違反を注意された利用者が逆切れして、注意した利用者に対していたずらをする行為だ。よくあるのは、注意した人の衣類や靴を捨てるケース。衣類を捨てられてしまえば、浴場の外に出ることが出来ない。
▽五つ目のマナーの悪さとして指摘されているのは、女風呂に男女のアベックが入ってしまうケース。これだと地域の女性利用者が女風呂に入ることが出来ない。
▽最後に風呂場での糞尿行為。この問題外の行為を、平気でしていく利用者が時折いるといい、地域住民をがくぜんとさせている。
▽こうしたマナー違反の数々に、区会単位で共同浴場を毎朝交代で清掃を続け、おけがなくなれば買い足しをするなどしてきた。数年前からは町からも助成金が出るようになった。
▽あまりのマナーの悪さに、各地区の区長が集まる会議では、無料化をやめて有料にしようという声が一部出てきた。一方で、地元警察署の指導で防犯上の観点から、2カ所の共同浴場で夜から翌朝まではかぎをかけて利用できないようにした。
▽同温泉課はこう断言した。
「将来的には、残念ですがすべての施設にかぎをかけて管理するしかない。せっかくの観光施設なのですが」》
▽こんな取材結果をした上で、温泉博士という肩書を持つ大学教授に電話取材をして、そのコメントを追加した上で、原稿を出した。原稿は社会面に使われた。


★207ササの花が咲いた

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた2007年7月、取材管内の群馬県草津町で60年に一度しか咲かないというササの花が咲いていると、地元から情報提供があった。草津町の草津温泉に近い森林で、地元で評判になっているという。支局から2時間の距離にある草津町までマイカーで取材に行った。
▽ホテル中沢ヴィレッジの裏山に当たる場所で、そのササは群生して花を咲かせていた。国有林を同ホテルが借り、朝のハイキングコースとして、ホテルの社長らが宿泊客を案内している途中にある。
▽クマイザサと呼ばれるササの一種で、花のイメージより、茶色で稲の穂に近い形だ。10センチ以上あり、ツクシを細くしたような感じだ。それもそのはずで、ササは稲科の植物だ。その年の5月下旬に、社長の知り合いが見つけて連絡してきた。
▽当時72歳の社長は、このササの花を見て、ちょっぴり苦い思い出が重なると私に言った。
▽太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、ササの群生で大量に花が咲いた。ササは花が出来ると8月には実をつけて、枯れていく。その実は米粒よりやや大きくて、食料となる。前橋市の当時の旧制中学の生徒がゲートルをした服装で、実を刈り取りに来ていた。食糧難の時代だった。
「確か、私の記憶では凶作の年だった。だから生徒がこの草津までササの実を取りに来ていたのだろう。63年ぶりに咲いたが、何もなければいいが」
と振り返った。食糧難にササの花が咲いたことがダブって、記憶として残る。それがササの花、イコール凶作のイメージが出来ているようだ。
▽一方で、それを否定する声も多かった。
「凶作は偶然だったかもしれない。せっかく咲いたのだから、ありがたいこと。みんなに見てもらいたい」
と、同ホテルの自然解説員は、宣伝に努めていた。
「何十年に一回しか咲かない。滅多に見ることが出来ないのです。ハイキングコースは、どなたでも入ることが出来ます」
と強調する。
▽実際、現地では、ササの花が咲いていることを知った人たちが訪れて、
「これがササの花か」
と見入る姿が目立つようになった。
▽私はこれらの感想を元に記事を出した。前文にはこう書いた。
《一部の関係者の間では、「ササの花が咲くときは凶作の年だ」と推測する指摘もあるが、「たまたま偶然の出来事。一生に一度しか見ることが出来ない貴重な年だ」と一蹴する声もあり、ササの花の開花がちょっとした話題作りをしている》
▽地方版に載せるには、良い記事だと思った。

★206楳図かずおと佐渡島

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた2018年8月、「漂流教室」などの作品で知られる漫画家楳図かずおにちなんだ作品展が佐渡島で開かれて、取材したことがある。SFものからギャグ、時代劇まで幅広い作品がある漫画家だが、意外にも佐渡島との接点もあったのだ。作品の一つが、人間の意思を持ったロボットが主人公の異色作品で、佐渡島が舞台の一部になったことから、佐渡での展示が決まった。
▽それは長編SF漫画「わたしは真悟」の中で登場する。「わたしは真悟」は漫画雑誌「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に1982年から連載された近未来型の漫画だ。意思を持った手首だけが本体のロボットが、小学生の男女を両親と思い込んで、旅を続けるストーリーだ。この中で佐渡島に渡った小学生の父親を追いかけようとする主人公が描かれている。作品展が開かれた2018年1月には、フランス・アングレームで開催された「第45回アングレーム国際漫画フェスティバル」で遺産部門に選ばれるなど、国際評価も高い作品となった。
▽作品展は、同市の全域で始まった「さどの島銀河芸術祭」の一環として、実行委が企画した。「わたしは真悟」の連載ページのうち、佐渡島のシーンが描かれたシーンを中心に大型のパネルにした15点を展示した。また外部にも敷地の芝に13点を展示した。主人公のロボットのオブジェも展示していた。作品について、実行委の1人は「ただ、これも主人公の妄想というのが、ファンの読者の通説らしい」と説明する。楳図作品を知り尽くしているようにも感じた。
▽改めてこの作品を読むと、昭和時代のロボットが意思を持ち、そして謎めいたメッセージを残していく、という想像外のストーリーが読み手を引き込んでいくことが理解できる。筆者らしいメッセージを織り込んだのだろう。
▽佐渡島のような離島で、こうした展示会が開催される意義は大きい。その意味を込めて記事を出した。


★205支局のゴミ出し

▽1人勤務の支局にいると、厄介だったのは、古新聞のゴミ出しだった。
▽資源ゴミだから、期日が決められた日に、特定の場所に出す。一般家庭なら通常のゴミの出し方だろうが、新聞社の地方1人勤務の支局は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞のほか、日本経済新聞や地元の地方紙も取っているから、その古新聞のゴミの量は半端ではない。ある程度の大きさにまとめて、紐を掛けて束にしていくのだが、その重いこと重いこと。
▽私が勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局には、古新聞を入れる専用の紙の容器もなかったから、古新聞を束にして紐で縛っていった。その古新聞を回収するゴミステーションが近くにはなく、支局から数キロ離れた市営の清掃センターに持って行く必要があった。マイカーにその紐で縛った古新聞の束をいくつも積んで、持って行った。清掃センターの受付で資源ゴミであることを告げるとオーケーが出て、資源ゴミの回収場所に持って行き、そこに古新聞の束を積んでいく。そんなことを毎週行ってきた。
▽この古新聞のゴミ出しをサボタージュすれば、支局の事務所は古新聞の山になっていく。だから定期的に古新聞を縛って、持って行くしかなかった。
▽埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局では、支局長の私のほか、支局員が2人、アシスタントの女性が1人いて、古新聞などのゴミはアシスタントがビル1階のゴミステーションに持って行ってもらったため、楽だった。
▽しかし困ったのは、管内の警察署や市役所からファクスで送られてくる広報文だった。事件事故や行事などのお知らせが毎日何枚も届くのだが、個人名や固有名詞が書かれているため、プライバシー保護のためそのファクスを単なる資源ゴミとして出すことが出来なかった。ファクスはファイルに綴じていったが、その量が次第に膨らんでいった。
▽このため、本社に溶解依頼をして、宅配便で送ることにした。溶解とは、紙ごと薬品で溶かしてしまうことだ。プライバシー保護から必要だった。
▽地方にいると、ゴミ出しは厄介な仕事の一つだった。


★201駐車場トラブル

▽いつものように、自宅から運転してきたマイカーを、朝日新聞が契約して借りている民間駐車場に入れようとした。しかし、私が使おうとした駐車スペースには、全く知らない車が居座っていた。しかも高級車だ。
▽駅前の民間駐車場で、支局が年間契約しているスペースの一つだ。他人が勝手に使うことは、許されない。
▽困ったな、と思った。これから支局に上がって、原稿を書かないとならない。しばらくそこで待っていたが、車の所有者は現れない。
▽仕方ないので110番通報をした。
▽しばらくして、駅前交番の警察署がやってきた。事情を話したところ、警察官は車のナンバープレートを調べて所有者に連絡してくれた。
▽しかし、だった。この所有者、車を置いて電車で都内に出かけてしまったという。しばらくは戻れないらしい。
▽こうなると、勝手に無断駐車した人間の勝ちになる。民間駐車場だから、道交法の適用は受けられず、やった者勝ち。明らかに業務妨害だ。
▽私は別の有料駐車場にマイカーを止めて、支局に上がり原稿を書いた。しばらくして駐車場に戻ると、無断駐車していた高級車はなくなっていた。
▽一般的に言えば、駐車場や道路に勝手に車を止めてはならない。法律やルールを守らない輩が首都圏には多い。高級車に乗っている人間ほど、駐車場代をケチろうとする。これも共通している。

★198頭文字D

▽「頭文字(イニシャル)D」という漫画作品をご存じだろうか。クネクネと曲がる峠道を舞台に、スポーツ車を高速で走行させることを目的とする走り屋の若者たちの青春像を描いた作品だ。「週刊ヤングマガジン」(講談社)で連載され、アニメ化、実写映画化もされ、累計発行部数は5500万部を突破するなど、自動車漫画としては絶大な人気を博した。
▽主人公の使った車が、トヨタのスプリンタートレノというスポーツカーだった。今では街で見かけることはなくなったが、トヨタのスプリンタートレノとスプリンターレビンは当時、若者に人気の車で、憧れのスポーツカーでもあった。私が朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)に勤務していた時に、後輩の記者がマイカーとして乗っていた記憶がある。
▽実は実写映画では、群馬県渋川市の伊香保温泉と榛名湖を結ぶ峠道が舞台となっていた。私はかつて朝日新聞渋川支局に勤めていて、取材管内に伊香保温泉があり、「頭文字D」という作品があることを初めて知った。
▽その実写映画をDVDで何回も見るようになり、その峠道をマイカーで何回も何回も走らせた記憶がある。ドリフト走行など映画のような走りなどは全く出来なかったし、しようとも思わなかったが、主人公の気持ちになろうと努めた。確かにスピードに憧れる若者が好みそうなコースだと感じた。
▽主人公の実家である豆腐店のモデルとなった店が当時、渋川市にあり、そこにも何回か行った記憶がある。
▽その豆腐店はしばらく営業を続けたが、2007年ごろに閉店した。建物も解体されたが、渋川市はファンがアニメや映画の舞台となった場所を訪れるアニメツーリズムを実施しており、ファンの記憶にはこれまでも残りそうだ。渋川市のホームページには、こんな宣言がある。
《渋川市では、アニメや漫画の舞台になった場所をファンが訪れる「アニメツーリズム」を推進しています。渋川市が舞台に描かれる人気漫画「頭文字(イニシャル)D」は国内外で人気が高く、コラボ企画により交流人口・滞在時間・宿泊者の拡大につなげます》
▽ラッピングタクシーも登場し、人気になっているようだ。地元紙の記者が実際に伊香保温泉から榛名湖までそのタクシーに乗ったが、運転手は「ドリフト走行もしないし、出来ません」と記者に話したという。



★193マラソン大会と写真

▽各地のマラソン大会に参加すると、なぜか個人情報が漏れて、頼んでもないのに、走っている私の写真を売り込んでくる業者がいる。気になったが、自分が走っている写真は記念にほしかったので、注文して、買ってしまうことがあった。
▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時だ。群馬と新潟を長野経由で結ぶ高速道の上信越道が開通した。その開通を記念して、開通日の前日、その完成を祝った記念マラソン大会が開催された。せっかくの開通なのだから、実際に走ってみたら、と思い、大会参加を申し込んだ。5キロと10キロ、ハーフなどがあったと記憶している。
▽当初は部下の支局員に、「走ってみたら」と勧めたが、「無理です」と言われたため、私が走ることになった。10キロのコースを申し込んだ。
▽当日は10キロコースに数百人が参加し、アップダウンやトンネルが多い高速道を走った。かなりきつかったことを覚えている。そしてコースを最後間違えてしまい、1分近くのロスタイムが出たことも苦々しく覚えている。
▽問題は、そのレースの数日後だ。私の自宅でもある支局に、私が走っている瞬間を写した小さな写真と、写真を売り込む案内する手紙が写真業者から届いたのだ。数千円とあった。
▽どうして私だと分かったのだろう。確かに走る時に来ていたシャツに、背番号が書かれているゼッケンを貼っていた。しかし、それだけでは私だと特定できない。特定できるのは、大会の主催者である実行委員会が、私の個人情報を業者に漏らしたからに他ならない。
▽ちょっと不愉快になった。個人情報を得た上で、商売をしていたことになる。勝手に個人情報を業者に渡したことに、実行委員会の瑕疵はないのだろうか。
▽ただ、一方でせっかくの記念なのだから、と思ってもいた。
▽結果として業者に数千円を振り込んで、自分の写真を買ったのだが、この手の商売がこんなことで成り立っているのかと思うと、やや腹が立ってきたのも事実だった。
▽大会参加者は記念になると思い、多くの人が写真を注文したそうだ。ボロ儲けだなと思った。
▽この業者とは別に、同業他社が私が走るところを撮影してくれて、その写真は無料でもらった。
▽ここ数年のマラソンブームで、こうした商売はかなり増えているのだろうか。問題は起きていないのだろうか。

★192弁当に気を使う高校野球取材

▽夏の高校野球は高野連と朝日新聞が主催のため、特に県大会の取材では、朝日新聞記者は注意しなければならないことが一つあった。出された弁当を食べる場所だ。
▽球場のバックネット裏の一角に主催者用の部屋が設けられており、この部屋に高野連の役員である高校教諭らと記録を取るアルバイトの高校生、そして朝日新聞の人間とアルバイトのスコアラーが何人も陣取ることになる。他社は別の記者室に入るよう指示される。
▽この主催者用の部屋が、バックスクリーンのテレビカメラから丸見えになっているのだ。地元テレビのほか、NHKは県大会決勝を実況中継するから、バックスクリーンからの放映時間が長い。視聴者も見ている。
▽試合が続く限り、記者は取材の合間を縫って、出された弁当を食べるのだが、テレビの実況中継で記者が食べている姿を中継されてはたまらない。最近のテレビカメラは昔と違って解像度が高く、バックネット裏の部屋の中がよく映ってしまう。試合が続いているのに、弁当を食べているなんて不謹慎だ、という批判もかつては出たほどだ。かつてはかき氷を食っているところを中継されてしまい、注意されたこともあったという。
▽我々朝日新聞記者は陰に隠れて食べるしかなかった。
▽これが隣の記者席だと、バックスクリーンからの撮影はないため、他社の記者は堂々と食事が出来ていた。
▽高校野球取材で楽しみは弁当のはずだったが、取材の合間に食べるから、どうしても早食いになるし、しかも中継されては困るので、隠れて食べたという記憶が私にはある。主催者の一員としてはマナーを守らなくてはならない、ということなのだ。
▽弁当は楽しみだが、こういう細かなことに注意しなければならないというのが、高校野球取材の思い出でもある。


★189イチローズモルト

▽世界的に有名になったウイスキー「イチローズモルト」をご存じだろうか。製造しているのは、埼玉県秩父市のウイスキー会社「ベンチャーウイスキー」だ。私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時も、英国で開催される世界で最も権威のある品評会「ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)2021」の「ブレンデッドウイスキー・リミテッドリリース」部門で4年連続となる世界最高賞を受賞するなど、秩父発のウイスキーが、世界的権威ある賞を受賞して、話題になっていた。
▽その2021年に受けたのは、「イチローズモルト&グレーン▽ジャパニーズブレンデッドウイスキー▽リミテッドエディション2021」という商品名。2017年の「シングルカスク・シングルモルト」部門での受賞から5年連続で「イチローズモルト」が世界最高賞に輝いたことになる。同社が作る「イチローズモルト」が世界的な評価が続いている。埼玉県の小さな街で造られたウイスキーが、世界に認められたのは、勤務当時は秩父市民だった私もうれしい。
▽会社側は、
「原酒の入った樽ごとにテイスティングを繰り返し、レシピをいくつも作って、ウイスキーづくりを続けている。(今回の賞品は)これだったら、ウイスキーの愛好家が気に入ってもらえる味です」
と強調。ウイスキーづくりが順調に行っていることを明らかにしている。
▽受賞したこの商品の1本の値段が税込みで19万8000円。500本製造した。既に市内の飲食店などには出荷を始めているという。バーなどで提供されており、ロックやストレートで飲むのが良い。
▽ただし、秩父市内で当時売っていたのは、「イチローズモルト▽モルト&グレーン▽ホワイトラベル」という標品で、税込み3850円だ。これなら時折、市内のデパートや道の駅、小売店に並ぶこともあり、私も買い求めている。
▽私は秩父支局の前任地が新潟県佐渡市の佐渡支局だった。その土地では地元の日本酒を飲んでいたが、その日本酒の酒造会社社長が、こんなことを言っていたことを思い出す。
「今、日本はちょっとしたウイスキーブームなんです。悔しいけど、いいウイスキーが誕生している」
▽日本酒もウイスキーもうまいなら、私はそれで満足だ。


★180週刊朝日休刊の余波《修正して再掲載します》

▽朝日新聞が発行してきた週刊朝日が休刊したことで、全国の朝日新聞記者たちがホッと安堵したことが一つだけあるはずだ。夏の高校野球地方大会の決勝戦が終わったその日の夜のうちに、甲子園に行くチームの紹介記事を週刊朝日用に出す必要がなくなったことだ。
▽そう、週刊朝日はチーム紹介などを記事にした高校野球特集の臨時増刊号を毎年発行し、かなりの部数を出してきたが、それが休刊でなくなるのだ。このコラム原稿を書いている7月下旬現在で特集号を出す話は入って来ないので、特集号も出さないなら、担当記者の仕事は相当な軽減となるはずだ。
▽と、このコラムをアップしたら、驚く事なかれ、『甲子園2023アエラ増刊』として、週刊朝日ではなく、姉妹誌のアエラ増刊として8月になって出したのだ、その商魂に驚いた。
▽担当記者にとって、それは大変な作業だった。
▽県大会で決勝戦が行われると、担当記者はその決勝戦の記事を書かなくてはならない。「ハイライト」と呼ばれる呼ばれる記事で、注目選手に焦点を当てて書くのだが、原則があって、負けたチームの中から選ばなくてはならない。勝ち続けてきたチームの選手はいつでも取材が出来るが、敗退したチームはそこで夏の高校野球は終わってしまうから、紙面的には出番が1回しかない。だから負けたチームの注目選手を取材することになる。
▽ハイライト記事の他、雑観記事、写真も出す必要があり、本塁打を放った選手がいるなら、これもインタビューして記事を出す。
▽試合後は地方大会を総括する主宰者の談話発表があり、それが終われば、監督と主将の談話取材を手分けして行う。
▽地方版の締め切り時間は早いので、地方版のニュースを先に出す必要があるが、担当記者は一方で週刊朝日用に、甲子園行きを決めた優勝校の紹介記事を書く必要もあり、勝ったチームの取材もしなくてはならない。
▽ちょっと前までは、高校野球担当者は入社2年目の若い記者が担当していたので、スムーズに仕事を進めることもできないから、刻一刻と地方版の締め切り時間と、週刊朝日の締め切り時間が近づいてくる。
▽週刊朝日の編集部は決勝戦のその日のうちに原稿を出すよう、全国の地方総局に要請していて、これがかなりの重荷になっているのだ。
▽だから担当者以外の総局員や支局長は原稿を出して、地方版の締め切りが終われば一服し、打ち上げと称して飲みに出ることもあるだろう。しかし、担当者は週刊朝日様の原稿をその日のうちに出さなくてはならないので、飲みに行くことも出来ない。
▽これに伴って担当デスクもその原稿を待っているから、デスクもその日はずっと遅くなる。イライラしながら原稿を待っている。
▽こんな地方大会決勝戦後の光景を社内でずっと見ていたから、高校野球担当者の苦労は相当なものだった、と私はいつも感じていた。
▽それが突然の週刊朝日の休刊。週刊朝日に記事を出す必要がないので、ずいぶん楽になるはずだ。と思ったら、違っていた。
▽週刊朝日の休刊は残念だが、一方ではホッとしている記者も多いはずだった。それがアエラの増刊として出すとは。予想もしていなかった。


★185アルバイトに自腹ボーナス

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に支局長として勤務していた時だ。中年女性をアルバイトとして雇用していた。当時の上越支局は常勤のアルバイトがおらず、私は本社人事部に申立書を書いて送り、認められれば会社の規定に沿った時給額でアルバイト料を支払っていた。しかも本社は3カ月という短期間の雇用しか認めてくれなかったため、私は3カ月ごとに申立書を書いて、この中年女性の雇用を続けていた。
▽会社で認めていた雇用条件は午前中だけの勤務で、時給は安くなかったが、勤務時間が短いため月額のアルバイト料はそんなに高くなかった。給料日になると、アルバイト料金を私が一度立て替えて支払って、その領収書で本社に実費請求するという方法を取っていた。
▽この女性、独身で、収入もこのアルバイト料しかなかったため、私はボーナス時期に、個人的に自腹を切って、ボーナスを渡していた。10万円だ。人が良いと言えば、それまでだが、なんとなく、アルバイト女性の置かれた立場がかわいそうだと思った。同情したと言えば聞こえは良いが、本社から送られてくる郵便物の中に、本社と労働組合のボーナス闘争のチラシなどもあり、郵便物の開封作業をするこのアルバイト女性が支局長の私や支局員のボーナス額が分かってしまうことも大きかった。
「こんなにもらっているのに、私はこんなに少ない」
と思われるのが嫌だった。このための自腹によるボーナスだった。支局の掃除、新聞の切り抜き、郵便物の開封、電話当番などいろいろ働いてもらっているので、感謝の意味を込めた。
▽ただし、渡した後、感謝された記憶はない。もらって当たり前のような顔をしていた記憶だけがある。
▽この話には後がある。
▽実はこの女性アルバイトの仕事の一つとして、1キロ離れた写真屋に、私たちが取材で撮影したカラーフィルムを持って行ってもらい、現像と焼き付けを依頼することがあった。本来は自転車で行くべきなのに、マイカーで行っていたらしい。このため、ある時、ガソリン代を要求してきたのだ。わずか1キロしか離れていない写真屋に車で行って、ガソリン代を請求するのだから、と私は驚いてしまった。自腹を切ったボーナスは、こんな少額のガソリン代の補てんでもあったのだが、と思ったが、私はガソリン代を支払った。何かモヤモヤ感がずっと残った。
▽本来ならもらえないボーナスをもらっているのに、少額のガソリン代を支払ったというモヤモヤ感は、解消されなかった。
▽仕方なかったが、それ以来、自腹でボーナスを支払うことはやめた。アルバイト女性にとっては、少額のガソリン代を請求したことで、ボーナスを失うことになった。
▽それでも私はこの女性アルバイトを雇用し続けた。
▽上越支局で常勤のアルバイトが認められるようになったのは、その数年後だ。

★184レッズの無観客試合

▽サッカーJリーグ、浦和レッズの試合を取材していると、時折、レッズのサポーターの行き過ぎた行為が問題になる。2014年には一部サポーターが「JAPANESE▽ONLY」という差別的横断幕を掲げ、レッズはJリーグ初の1試合無観客試合を強いられた。
▽その無観客試合を取材した。
▽試合開始の2時間前の午後1時過ぎに、レッズの選手たちはバスで埼玉スタジアムに入った。いつもなら多くのサポーターが待ち受けるが、この日はだれもいない。選手たちはそのまま全員がピッチに立ち、だれもいない観客席に向かって、キャプテンの阿部が「差別撲滅宣言」を行った。
▽異様な雰囲気で試合が始まった。
▽キックオフは3時4分過ぎ。引いて守る清水に対して、レッズはややぎこちない。前半にこぼれ球を押し込まれ、先制を許した。当時はまだレッズに在籍していたMF原口元気は、先発でプレーしたが、試合後の囲み取材でこう答えていた。
「いつもと同じメンタルでプレーしようと心がけたが、やはり何かが違っていた」
▽後半はその原口が同点ゴールを放った。右サイドから途中出場のMF関口が相手を2人かわして、クロスを入れ、そのこぼれ球に原口が反応し、豪快にネットを揺らした。普段なら大声援に包まれるピッチには、レッズびいきの一部の報道陣から拍手があっただけ。これには苦笑した。アナウンスすらなかった。
「次の試合はサポーターと喜びたい」
と原口は話していた。
▽今回の差別問題についてツイッターで最初に問題提起をしたのは、これも当時在籍していたDF槙野智章だった。
「サポーターがいるから試合が出来る。試合前に選手同士で声を掛け合ったが、サポーターに勝る声かけは出来なかった」
▽阿部勇樹は、
「忘れられない試合になる。サポーターの声が聞こえるかもしれないと思った」
と話した。
▽相手の清水のゴトビ監督は言い切った。
「だれもいないスタジアムは、魂が欠けている。私は試合を楽しむことが出来なかった。無観客試合はこれが最後になると思いたい」
▽強烈なメッセージをレッズに投げかけた。
▽その試合の取材をしていて思ったのは、無観客だと、選手の声がよく聞こえるということだった。GKやセンターバックの選手が前線の選手にコーチングしている声もよく聞こえるし、選手の息づかいも聞こえてくる。
▽これはこれで貴重な取材だったと、今でも思っている。

★183マイカー取材の危険性

▽「危ない!」
▽そう心の中で叫んで、急ブレーキをかけたことが何回もある。地方勤務でのマイカー取材の時だ。
▽地方でマイカーを運転していると、時折ウインカーを出さない車に出くわす。車線を変更したり、交差点から出てくる時に、当然出すべきウインカーを出さないで、急に進路変更したり、左折してくる。
▽前を走っている車が、急ブレーキをかけたと思ったら、左ウインカーを出して、道路沿いの店舗の駐車場に入っていたこともしばしばあった。
▽そうかと思えば、前の車で店舗の駐車場に左折して入ろうとした時に、店舗の駐車場から強引に左折して出ようとする車も多い。こちらは直進しているのだから、気をつけないと衝突する。
▽要するにウインカーの出し方を知らないのだ。ブレーキをかけてからウインカーを出すのではなく、ウインカーを出してから、ブレーキをかけるのだ。これがドライバーとして最低限のマナーだ。ウインカーを出せば、後ろの車のドライバーや周囲の歩行者では、この車はどう動くのかがわかる。逆にブレーキを先にかけると、後ろの車のドライバーが、急ブレーキをかけたことに動揺し、慌ててさらに急ブレーキをかけることになる。危険な行為だと思った方がいい。
▽多くの社で地方での取材は通常、マイカーを使うことが多い。タクシーや自社所有の車を使っている社もいるが、マイカーや自社の車を使う場合は、その分、こうした危険な行為の車に出会う確率が高い。
▽その上、地方の場合、道路が整備されていない場所も多く、うねうねのカーブが続く地方道路で、マナー違反の車と出会う可能性は高い。
▽私の経験で言うと、ドライバーのマナー違反が多いのは、群馬、新潟だった。特に群馬のドライバーはせっかちさもあって、急ごうとするあまり、周囲をよく見ていないで運転するから怖かった。


★181映画の宣伝と記事

▽私が書いた記事に、取材相手から訂正しろと後に電話で言われたことがある。記事内容に間違いはないのに、訂正しろと言うのは何事だろうか。要するに、書いてもらいたかったことが書かれておらず、思い通りにならないから、文句を言ってきたのである。今でも不愉快な出来事だと思っている。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務している時のことだった。ある映画監督が、佐渡島を舞台にした映画を作った。その関係で国際的な賞を取ったそうだ。その宣伝のため、市役所などを通じて各マスコミに宣伝のメールが届いた。映画を宣伝してほしい、という内容だった。
▽私は佐渡支局勤務なので、映画の内容のうち、佐渡島に絡む話を中心に紹介記事を書いて、紙面化した。佐渡の話なのだから、当然の執筆活動だ。
▽ところが数日後、その映画会社の担当者から、抗議の電話が来た。有名な女優が出ているのに、その話を書かないのはおかしいという内容だった。
▽興奮しているようで、いきなり、
「訂正しろ」
と言ってきた。
▽私はむムッとした。佐渡の話だから、佐渡の話を中心に紹介記事を書いたのだ。
▽この有名女優の話を宣伝したのではない。宣伝するなら、新聞広告に出せばいい。ただし有料だ。記事に書いてもらうなら、新聞記者はどういうものがニュースになるのか判断して書く。今回は佐渡が舞台だったので、それが話題になるから、私は記事にしたのだ。それが新聞社というものだ。
▽宣伝文を丸ごと、丸写しをして新聞記事にするわけではない。そんなことを電話相手に話した後、ただし相手の言いたいことも少し分かったので、追加記事を書くことにした。
▽にしても、どうして映画関係者は、有名女優や有名俳優、有名監督にこだわるのだろうか。
▽新聞社はその映画宣伝のためにあるのではない。話題ものだったら、話題ものを中心に取材して書く。今回は佐渡が舞台だったので、その話を中心に書いただけなのだ。それがわからないのだろうか。
▽それ以降、この映画会社との付き合いはしたくないと思い、連絡は取らなかった。宣伝があっても、二度と記事にはしないと心に決めた。そんなことを上司の新潟総局長にも報告した。了承してもらった。
▽新聞記事は新聞広告とは違う。新聞の小さなベタ記事のほうが、大きな広告よりは10倍の効果がある。それだけ新聞というものは公平に客観的に書いているつもりだ。宣伝ではないのだ。
▽それがどうしてわからないのだろう。抗議する発想を私は理解できなかった。今でも不愉快に思う電話だった。
▽本人の名誉のために固有名詞は避けた。


★180週刊朝日休刊の余波

▽朝日新聞が発行してきた週刊朝日が休刊したことで、全国の朝日新聞記者たちがホッと安堵したことが一つだけあるはずだ。夏の高校野球地方大会の決勝戦が終わったその日の夜のうちに、甲子園に行くチームの紹介記事を週刊朝日用に出す必要がなくなったことだ。
▽そう、週刊朝日はチーム紹介などを記事にした高校野球特集の臨時増刊号を毎年発行し、かなりの部数を出してきたが、それが休刊でなくなるのだ。このコラム原稿を書いている7月下旬現在で特集号を出す話は入って来ないので、特集号も出さないなら、担当記者の仕事は相当な軽減となるはずだ。
▽と、このコラムをアップしたら、驚く事なかれ、『甲子園2023アエラ増刊』として、週刊朝日ではなく、姉妹誌のアエラ増刊として8月になって出したのだ、その商魂に驚いた。
▽担当記者にとって、それは大変な作業だった。
▽県大会で決勝戦が行われると、担当記者はその決勝戦の記事を書かなくてはならない。「ハイライト」と呼ばれる呼ばれる記事で、注目選手に焦点を当てて書くのだが、原則があって、負けたチームの中から選ばなくてはならない。勝ち続けてきたチームの選手はいつでも取材が出来るが、敗退したチームはそこで夏の高校野球は終わってしまうから、紙面的には出番が1回しかない。だから負けたチームの注目選手を取材することになる。
▽ハイライト記事の他、雑観記事、写真も出す必要があり、本塁打を放った選手がいるなら、これもインタビューして記事を出す。
▽試合後は地方大会を総括する主宰者の談話発表があり、それが終われば、監督と主将の談話取材を手分けして行う。
▽地方版の締め切り時間は早いので、地方版のニュースを先に出す必要があるが、担当記者は一方で週刊朝日用に、甲子園行きを決めた優勝校の紹介記事を書く必要もあり、勝ったチームの取材もしなくてはならない。
▽ちょっと前までは、高校野球担当者は入社2年目の若い記者が担当していたので、スムーズに仕事を進めることもできないから、刻一刻と地方版の締め切り時間と、週刊朝日の締め切り時間が近づいてくる。
▽週刊朝日の編集部は決勝戦のその日のうちに原稿を出すよう、全国の地方総局に要請していて、これがかなりの重荷になっているのだ。
▽だから担当者以外の総局員や支局長は原稿を出して、地方版の締め切りが終われば一服し、打ち上げと称して飲みに出ることもあるだろう。しかし、担当者は週刊朝日様の原稿をその日のうちに出さなくてはならないので、飲みに行くことも出来ない。
▽これに伴って担当デスクもその原稿を待っているから、デスクもその日はずっと遅くなる。イライラしながら原稿を待っている。
▽こんな地方大会決勝戦後の光景を社内でずっと見ていたから、高校野球担当者の苦労は相当なものだった、と私はいつも感じていた。
▽それが突然の週刊朝日の休刊。週刊朝日に記事を出す必要がないので、ずいぶん楽になるはずだ。と思ったら、違っていた。
▽週刊朝日の休刊は残念だが、一方ではホッとしている記者も多いはずだった。それがアエラの増刊として出すとは。予想もしていなかった。

★176野球を知らない中堅記者

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤めていた時、夏の高校野球取材で驚いたことがある。前橋市の野球場で県内の記者が交代で数人ずつ集められて、取材をしていた時だ。私の後輩記者が、野球を知らなかったのだ。野球を知らないで、野球の取材をしているから、見ていてかなり辛いものがあった。
▽野球の試合をイメージしてほしい。
▽投手が球を投げて、打者が球を打つ。野手が捕球して、球を一塁手に投げる。または走者一塁で、打者が内野ゴロを打つ。遊撃手が捕球し球を二塁に送り、二塁から一塁に球が転送される。併殺打。または二塁に捕球した球を投げたが、間に合わなかった。野選だ。
▽こんな基本的なことすら知らないから、横にいるアルバイトのスコアラーに、何でも聞く。これは何だっけとか、これはあーだっけとか。聞いていてなんだか悲しくなった。フィルダーチョイスという言葉すら知らなかったことは、衝撃だった。フィルダーチョイスとは、間に合わない送球をしてアウトを取れなかったことで、新聞では「野選」と表現する。彼は野球を知らないで新聞社を生きてきたんだと、妙に納得してしまった。そんなに年齢差もないのに、そうだったのか、と思った。別に彼を否定しているわけではない。そうした人間が新聞社にいたんだと驚いただけだ。
▽特に朝日新聞は夏の高校野球の主催者だ。だからそれなりの力を入れているし、高校野球の取材にはかなりの紙面を割いている。
▽私の世代は子供のころ、娯楽と言えばテレビでのプロ野球観戦だった。だから必然的に野球のルールは覚えた。遊びも草野球だった。
▽だから中学、高校と、たとえ野球部に入っていなくても、ある程度のルールは覚えていたから、新聞社に入っても、スコアをつけることにも苦にはならなかった。新聞社は新人、2年生はずっと高校野球漬けになるから、野球をある程度知っていることも大事だった。
▽もちろん、高校野球のため本社での研修もある。だから知らなくても、勉強すればいいだけの話だ。彼は朝日新聞の記者として、研修も勉強もしていなかったという事なのか、と感じた。驚いた夏の日だった。
▽その後、いろいろ転勤して、さいたま総局に配属された新人女性記者が、野球を勉強するため録画したプロ野球を何回も見て、スコアを付けている様子を見ることもあった。たかが高校野球だが、勉強すれば良いのだ。




★173夜回りするテレビ記者

▽埼玉県警を担当していた時、夜回りを徹底的にする民放の記者がいるので驚いたことがある。NHKを除くと、多くの民放は関東地方の場合、県警に1人か2人、契約記者兼カメラマンを置いているだけで、人数は少ない。人数が少ない中で、ある民放の記者兼カメラマンが、夜回りを徹底していることを知って、「へーっ、やるじゃないか」という気持ちを持った。
▽新聞社で地方を回っていると、民放の場合、記者数は圧倒的に少ないことが分かる。行政から事件事故までこなすから、いろいろ忙しい。だから警察をきちんと回っているという記者にはそれまで会ったことがなかった。
▽埼玉県ではちょうど世間を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件が進行している時で、私も夜討ち朝駆けの最中だった。人数が少ない中で、県警幹部の夜回りを続けるのは大変な労力だ。見下しているわけではないが、新聞社から見ると、地方の民放記者は取材が雑だし、夜回りなどしていない場合が多かった。それが、いるではないか、と驚いた次第だ。
▽私が回っていた県警幹部も、その民放記者とはかなりの昵懇の仲のようで、昔から県警を回っていたらしい。
▽そのことに気づいてから、その民放のニュース、時に埼玉県警が絡んだ事件事故のニュースは注意して見るようにしていた。
▽県警担当記者の仕事の一つとして、ライバル社の動きを見張る、ということもある。他社の動きを警戒することで、特ダネを取られないようにする、という作業の一つだ。夜回り先で他社とぶつかりそうになったら、情報源のシンパとは分からないよう、その幹部の自宅近くに隠れて、他社が去るのを待つ、というのも、大切な夜回りの取材方法だ。気づかれてはならない。気づかれてしまえば、シンパとしての情報源を潰されることもある。
▽幸い、特ダネを抜かれることはなかったが、取材記者のライバルとして、彼の動きにも注視するのも、大切な夜回りの仕事だった。


★172上越地方の暑さ

▽新潟県上越市は豪雪地帯として知られるが、一方で夏では猛暑が続く土地柄であることをご存じだろうか。私が朝日上越支局に勤務している時、10日間連続で最高温度が38度という日々が続いたことがある。この猛暑で、支局事務所のエアコンが壊れた記憶がある。上越はそんな場所だ。
▽あまりにも暑いから、取材以外で外に出るのは避けた。取材はマイカーで移動した。ただし食料品の買い出しなど、近くのスーパーに歩いて行ったが、暑くて辛かった。人も歩いていなかった。
▽上越市が暑い土地柄であることを、意外にも東京の人間は知らない。日本海に位置しているため、上越は涼しいだろう、と勘違いしている人が多い。これが140キロ離れた新潟市は暑くもなく、豪雪もないので住みやすいが、上越の冬は湿った雪で豪雪となり、夏は猛暑日となる。
▽熱中症や猛暑日などの言葉は、ここ5~10年で定着した言葉で、当時はそんな言葉も使われていなかった。
▽エアコンが猛暑で壊れた際は、急ぎの修理を街の電気店に依頼して、修理してもらった経緯がある。命にかかわるためだ。これが新しいエアコンを取り付けとなると、本社に承認を求める必要があり、見積もりを取ったり値段交渉をしたりする必要が出てくる。大きい組織の地方支局は、こうしたエアコンの故障にすぐには対処できないことを、痛いほど分かった。
▽この暑い夏を狙って海岸線に来るのが長野県からの観光客だ。上越市の直江津海岸では、長野ナンバーの車ばかりが目立つ。長野県には海がないから、海を求めて、越境してくるのだ。夏の海水浴シーズンは、こうした長野県民で賑わう。海の家を利用する海水浴客も多くは長野県民だった。地元の上越市民は、あまり海岸線には行かない。暑いためだ。
▽暑さで言うと、当時の夏の高校野球新潟大会で、地元高田球場の記者室にはエアコンも設置されていなかった。グラウンドのバックネット裏の記者室とグラウンドには、窓もなく、フェンスのネットがあるだけで、記者室には熱風とグラウンドのホコリが否応なく襲った。地元の記者たちは、こんな劣悪な環境で取材を続けていた。

★171埼玉ダービー

▽本社や支局には、抗議や文句などを言ってくる読者も少なからずいる。紙面の扱いが変だとか、載せないのはおかしいと電話で延々と続けてくる読者もいる。
▽これはサッカーファンからの抗議電話だった。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた2013年4月のことだ。当時は支局長として、さいたま総局に月数回、朝刊や夕刊のデスク当番に交代で入る勤務をしていた。
▽総局デスクとは県内各地の記者から出てきた原稿を整理・点検・修正して、翌日の埼玉版の紙面をどのような構成にするかを決める役割を担っている。
▽その日は、サッカーJリーグ、地元の浦和レッズと大宮アルディージャの試合、いわゆる埼玉ダービーがあり、人気の高いコンテンツであることから、私は当番デスクとしてこれを県版アタマにしようと決めていた。アタマとは業界用語で、トップという意味だ。ちなみにトップの次に来る2番目の記事をカタという。
▽埼玉ダービーは2位と3位の対決であることから、全国的にも注目のカードで、県版でも大きく扱わない手はない。手を挙げてくれた後輩記者が取材してくれた。私も試合中継を見たかったが、契約していないスカパー以外にテレビ中継もなく、防災ラジオで実況中継を聞いていた。サッカーをラジオ実況中継で聞くのは、想像力が膨らむ。試合は大宮が前半ロスタイムに入れた1点を守りきって、大宮が1対0で勝った。レッズ原口も相手GKと接触してけがによる退場もあった。県版用写真は写真を出稿してくれた写真部からもらって、県版に掲載した。リリースして、明暗を分けたサポーターのそれぞれの写真を使った。B版からはけがをした原口の別稿もリリースした。出稿とは記者がデスクに原稿を出すことで、リリースとはデスクが紙面用に記事を出すことを指す。
▽残りの紙面も作って、その日の県版紙面作りは終えた。
▽問題は翌日だった。
▽大宮アルディージャのファンを名乗る読者から、さいたま総局に抗議の電話が入ったのだ。昨日のサッカーJリーグ、埼玉ダービーを扱った埼玉版で、負けた浦和レッズのことしか出ていないのは、一方的だ、というのだ。大宮は、前シーズン終盤から通じて21戦無敗という、当時のJ1リーグ無敗記録を更新した。それを扱わないのは、酷いという内容だった。
「本日の埼玉版紙面を作った担当の原です」と名乗った上で話を聞いた。そして朝日新聞は本紙スポーツ面で宮アルディージャを大々的に扱うため、紙面のバランスを考えて埼玉版では浦和レッズの話を扱いました、と丁寧に説明した。
▽しかし、相手は、大宮のファンだと言い、毎年残留争いをする弱小クラブの大宮が新記録を達成したのに、それを埼玉版では触れていないのはおかしいの一点張り。過去、ずっと現在まで浦和の扱いに比べて大宮は扱いが小さすぎる。バランスを取ったと言うが、過去の記事を見てほしい。大宮の話は出ても小さい。新聞記者は夜打ち朝駆けをして情報を取るものだ。これでは大本営発表と同じだ。こんなひどい新聞はない、とまで言っていた。
▽延々と興奮気味に話し続けていた。プロのスポーツですから、強いチームを大きく扱うのは当然です、と言っても納得した様子はなく、延々と続くので、今後ご参考にさせていただきますと言って、私の方から電話を切らしてもらった。
▽スポーツ面では大宮アルディージャの記録更新を大々的に扱っていた。バランスを考えるなら、県版では負けた浦和レッズを扱うのが妥当だったと今でも考える。
▽この読者は私の話に納得してくれたのだろうか。


★168糸魚川大火

▽2016年12月22日に新潟県糸魚川市で発生した、いわゆる「糸魚川大火」は翌日の鎮火まで30時間以上も市街地を燃やし続けた大規模火災だった。類焼面積は4万平方メートルに及び、地域に大きな傷跡を残した災害だった。
▽当時、私は新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していて、その日は新潟総局で部会と忘年会を予定されていて、出席する予定だった。そして翌日からは新潟総局で当番デスクに入る予定だった。
▽佐渡支局を出る前に、佐渡市議会の取材や北朝鮮拉致問題の被害者取材を地元でしていて、その原稿を書き終えて送ってから、両津港から高速船のジェットフォイルに乗ろうとしていた。
▽両津港の待合室で乗船を待っていた。新潟総局デスクと原稿のやりとりをしていた。
▽そんな時だった。待合室のテレビで速報が流れた。糸魚川で火災が発生し、焼失面積が次第に大きくなっているというのだ。
▽ジェットフォイルに乗って、新潟港に向かっている間、新潟総局などのメールが飛び交い、現場には他の総局からも応援に入る事態になっていた。
▽最後には、部会と忘年会を中止するとあった。
▽私は新潟港からその日から止まるホテルに寄ってチェックインしてから、新潟総局に。
▽そのまま内勤に就いて、現地から届いた原稿の点検などをしていた。延焼は続いて、9時にほぼ鎮火した。1面、社会面見開き、県版の大展開になったことを確認し、私は引き上げた。
▽翌日の日曜日は当番デスクで、ホテルを出て、タクシーで新潟総局に着いた。
▽日曜日だから夕刊はないのだが、朝日新聞デジタル用に出稿するため、新潟総局デスクとBBの記者、新潟総局員、社会部記者が来て作業をしていた。現地は新潟総局から200キロ離れた場所にあり、順次総局員が入っていた。
▽長い1日になるなと思った。
▽当時の日記にこんなことを書いていた。
《やっと仕事モードになってきた。僕は県版担当で、本紙は新潟総局デスクに任せた。
▽昨日発生した糸魚川市の大火の県版用雑観原稿が出て来て、リリースをした。
▽また北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんの原稿を以前出していたが、その原稿がパーツになった記事がリリースされて、メールで転送されてきた。
▽新潟版は火災紙面となって降版した。糸魚川市の火災は、約4万平方メートル、150棟の建物が被災した、大規模火災だった》
▽翌日の24日にはこんなことを書いていた。
《タクシーで新潟総局に上がった。きょうもデスクは出て来て糸魚川市の大火対応をしていて、僕はもっぱら県版デスクとなっている。
▽大火の方は今朝の朝刊も一面と社会面で扱っていて、夕刊も続報を出している。
▽幸いなことに、けが人が10人程度で死者は出ていない》
《きょうも僕は県版担当デスクで、糸魚川火災の原稿などをリリースした。
▽新潟版と本紙早版が降版したところで、新潟総局長が持ってきてくれた日本酒と寿司で軽く乾杯した。クリスマスイブなのだ》
▽その後も、糸魚川大火は新潟総局員らが中心となって続報を書き続けていた。200キロも離れた現場に行ったり来たりしていた。
▽私は翌日、ジェットフォイルで佐渡支局に戻った。


★166西武ドームと高校野球

▽プロ野球の西武ライオンズの本拠地である西武ドーム(埼玉県所沢市)で行われた高校野球県大会の準決勝と決勝を撮影取材したことがある。埼玉県の場合、例年なら埼玉県営大宮球場で行われるはずの試合だが、2020年は新型コロナウイルス感染の拡大で、夏の大会は都道府県のそれぞれの高野連が県大会を独自に開催していた。埼玉県も独自開催をして、準決勝と決勝だけ、この西武ドームを使っての試合開催となった。西武側が高野連に申し入れて実現した。ありがたい話だった。
▽私は当時朝日新聞秩父支局に勤務していたが、その前年の夏の県大会で県営大宮球場の全試合を、カメラマン役として駆り出されて撮影した経験があった。ある時はバックスクリーン席で、ある時は一塁側スタンド席で、ある時は三塁側スタンド席でずっとカメラを構えてきた。その経験が買われての撮影取材となった。
▽西武ドームといえば、かつての西武球場だ。最強軍団と言われた西武が常勝軍団と活躍していた球場だ。私は若い時に、日本シリーズで巨人の桑田と西武の清原の対決を観客席から見ていたことがある。そんな記憶もあり、西武ドームにはちょっとした思い出があった。
▽私はカメラマンではないが、撮影は大好きだ。だから県営大宮球場ではなく、西武ドームでの撮影取材の打診があった時、喜んで準備を進めていた。
▽与えられた仕事は、バックスクリーンでの撮影だった。バックスクリーンの傍らに鉄パイプなどで組み立てられた台の上での撮影だった。結構古くさいスタイルの撮影場所だな思った。持ってきた折りたたみの椅子と三脚を用意して、カメラ本体に望遠レンズを付けて、撮影する。焦点は打者がバットを振って球を当てる瞬間にある。連写をして一球一打ごとに撮影を続けた。
▽何回も書いてきたが、私は記者であって、カメラマンではない。だから他のプロ仕様の球場すべてを経験しているのではないのだが、西武ドームはカメラマンにとって、使いにくい球場だと思った。
▽重たい機材をバックスクリーンまで運び、不安定な台の上で撮影する。プロのカメラマンなら、これで大丈夫だが、私は結構ストレスになった。台の上に乗るにも一苦労するし、機材を台の上に移動させるのも、さらに苦労した。プロのカメラマンなら当然の仕事だが、プロではない私にとってはかなりの苦痛だった。これが札幌ドームだったら、新潟球場だったら、東京ドームだったら、どうなっていただろうと想像した。これも仕事のうちだと言い聞かせた。
▽にしても暑かった。西武ドーム特有の暑さだった。内部で空気が滞留してしまい、汗で衣類がかなり濡れた。
▽ファイダー越しに打席に立つ選手を見ていた。この日のために練習を積んできた選手たちの、一番いい写真を撮ろうと、シャッターを切り続けた。
▽試合が終わって、普段は使うことがない西武ドームでのカメラマン役になったことに、最後は感謝した。いい経験になった。

★165ダルマと夜回り

▽ダルマと言えば、かつては夜回りに大切な道具だった。今回はそのダルマについて語ろう。
▽ダルマとは、サントリーウイスキーのオールドのことだ。瓶が黒くて太った形から、「ダルマ」の愛称で、かつては日本人に親しまれていた飲み物だ。最近は店頭に少しだけ並んでいるが、かつてはサラリーマンにとっては、国産ウイスキーの最高峰と位置づけられていた。サラリーマンにとっては、憧れのウイスキーが、ダルマだった。
▽ダルマの当時の値段が店頭で2200円。その格下のサントリー角瓶が確か1800円。さらにもう一つ格下のサントリーホワイトが1000円だった。
▽私が新聞記者になった時の初任給が12万8000円だったから、サントリーオールドがかなりの高値だったことが分かるだろう。サントリーオールドだけは、サラリーマンにとっては憧れのウイスキーだった。
▽当時の街のスナックには、ボトルとしてサントリーオールドがずらりと並んでいたし、ボトルとしてオールドを入れるのは、かなりのステータスだった記憶がある。
▽そのダルマだが、当時の上司が私にこう言っていたことを思い出す。
「警察官はオールドしか飲まない。だから夜回りにはオールドを持って行け」
▽事件事故もない時の警察官に対する夜回りは当時、酒を手土産にして持参するのが鉄則だが、持って行くのはオールドだけと言われたものだ。
▽夜回りで自宅に受け入れてくれた警察官は、そのオールドで水割りを作り、簡単な料理を提供してもらい、捜査の裏話を問わず語りにしてくれたものだ。オールドは大切な武器だった。取材のヒントになる話だったら、トイレを借りて、トイレの中でメモをした。
▽それが今ではそんな風景もないのだろう。後輩や部下が酒を持っていったという話を最近は聞いたことがない。
▽新聞記者にとって警察官と親しくなって、情報を取ると言う手法は、今も昔も変わらないと思うけど、何か変わってしまったような気がする。
▽警察官も我々報道陣を避けるようになっているし、報道側も形だけの夜回りになっているようで、シンパを作ろうというような積極的な夜回りをしている感じが見えないのはなぜだろう。
▽ダルマを手土産にした話は、もう過去のものかもしれない。


★160高校野球とカメラ

▽灼熱の中で、望遠レンズを装着したカメラのシャッターを押し続ける。太陽は容赦なく強い光を注いでくる。
▽高校野球県大会の準決勝、決勝の撮影取材は暑さとの戦いでもあった。
▽新聞社の本社には、多くのカメラマンがいるが、地方にはカメラマンを置いていない。このため記者が1人1人カメラを持って撮影するのが通常の決まり事だ。
▽この中で一番困るのは、スポーツ写真だ。
▽スポーツ写真は、被写体の動きが激しいので、撮影が難しい。シャッター速度や、連射など、ある程度の経験と、性能の良いカメラでないと、撮影が難しい。
▽私の経験では、一番難しいのがサッカーの撮影だった。球の動きに合わせてレンズを動かしていくと、選手の動きが撮影できない。球を追った選手の表情が出ているのが一番良い、と言われる。それを撮るのがなかなか難しい。
▽高校野球の撮影はそんなに苦労しなかった。打者にしても投手にしても、決められた場所に立って動いているから、撮影がしやすい。ただ、走塁やクロスプレーの動きは難しい。
▽その中で、一番苦労するのが、球場のバックスクリーンからの撮影だ。超望遠レンズにテレコンバーターを装着し、三脚を固定して使う。手前に投手を入れて、打者を狙う。投手が投げる球を1球ごと連射し、打者が球を見送って捕手が取れば、連射を一度終える。打者が打てば、その球の方向にレンズを向けるし、内野ゴロになるなら、打者が一塁に向かう姿を撮影する。球が外野に抜けて安打になるなら、その捕球した外野手も撮影する。結構、撮影対象はコロコロ変わっていく。
▽暑い7月の県大会の準決勝と決勝は、このバックスクリーンからの撮影写真をメーンで使う。
▽暑さ対策として帽子をかぶり、アームバンドを着ける。ペットボトルのドリンクは必需品だ。たとえ凍らせていても、次第に溶けてぬるくなっていく。
▽カメラも熱に弱い。あまりにも暑くなると、カメラが正常に動かなくなる。カメラにも白い布をかけるなどして、対策を取る。
▽以前、決勝戦で優勝を決めた瞬間にカメラのシャッターが切れなくなった苦い経験がある。暑さに弱いのは、人間だけではないのだ。
▽1球ごとの撮影コマ数は10~100枚ぐらいなる。
▽これを1試合ずっと続けるから、1試合での撮影コマ数は数千枚になる。仮に1球場での県大会の全試合を撮影したとなると、撮影コマ数はひと夏で数万から10万コマになってしまう。
▽このコマ数がどれだけ多いか。
▽例えばニコンのプロ用カメラの耐久シャッター回数は40万回と言われる。つまりわずか2~3年で寿命になってしまう計算なのだ。
▽夏の高校野球撮影取材は、カメラと肉体の消耗戦でもあった。


★158大相撲と遠藤力士

▽現役の新聞記者時代に、取材対象としてはほとんど縁がなかった大相撲の取材をしたことがある。
▽埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時、取材管内の埼玉県草加市に、相撲部屋があった。追手風部屋に所属していた力士の1人が遠藤聖大力士だった。そう、学生チャンピオンだった遠藤関である。
▽大相撲界の将来の横綱候補と言われ、この世界にデビューした遠藤関は、しなやかな身体の動きを土俵内で見せて、将来の有料株と言われた。解説者の元力士の舞の海秀平が、遠藤関の動きを絶賛していたこともある。
▽いつか優勝するかもしれない、と私は思い、縁がなかった大相撲の勉強を始めるとともに、東京・両国の国技館に通うようになった。何回か足を運んで、大相撲観戦をした。
▽もちろん、本社スポーツ部の大相撲担当記者ではないので、自腹で入場券を買い、遠藤関などの相撲観戦していた。優勝したら、スポーツ面とは別に、埼玉版にも記事を書く必要が出てくる。
▽この年になって、国技館に通うとは思っても見なかった。
▽遠藤関に対する観客の期待は高く、遠藤関が土俵に立つと、観客からは大きな拍手と歓声が出た。いろいろなスポンサーからの賞金が出されていて、期待度が高いことも分かった。
▽こうして何回か通うようになった国技館だが、相撲観戦とサッカー観戦が全く違うスポーツであることも分かってきた。サッカーならハーフタイムを除くと、最後まで試合を集中して見ないとならないが、大相撲の場合、好きな力士の試合だけ見ていればいいのだ。私は遠藤のほか、隠岐の海、白鵬など見たい力士が出てこないなら、酒とつまみを買って、ちびちびと飲みながら観戦するようになっていた。大相撲観戦はこの観戦スタイルが許されるのだ。
▽将来の優勝取材のため、遠藤関の土俵ぶりを見る国技館通いを何回かしたが、怪我もあってなかなか勝ち進んでくれず、そのうち私は転勤になってしまい、両国に通うことができなくなった。
▽それでも遠藤関の優勝は見てみたいな、と今でも思っている。



★157佐渡金山と世界遺産

▽新潟県佐渡市の佐渡島の佐渡金銀山は、江戸時代から続く文化的遺産があるとして、佐渡市と新潟県が世界遺産登録を目指して、その運動を行ってきた。私が朝日新聞佐渡支局に赴任した2015年には、既に国内の候補予定地との競争が始まっていて、毎年7月下旬に文化庁の文化審議会の結果が注目を集めていた。
▽結果として、私が勤務していた時に、国内候補に選ばれることはなかった。取材を続けていくと、純粋な世界遺産候補の競争と言うよりは、政治案件となっていて、政府自民党に対する距離が遠かった当時の2人の県知事に対して、「候補決定」を決めることはなかった。新潟県は当時、中央政権に嫌われ、その影響で佐渡金銀山が世界遺産候補になることは出来なかったのだ。
▽だから、私は毎回、登録推進を進めてきた佐渡市の幹部や関係者のがっかりした様子を取材し、記事に書いてきた。
▽国内候補から見送られたことを受けて、佐渡市は市長や関係団体の幹部らが出席して、毎回会見に臨んできた。
▽2015年7月の会見では、当時の市長は冒頭、こんな発言をしていた。
「大変残念。佐渡の歴史と文化には自信があった。四つの候補の中では一歩リードしていると思っていた。来年以降に向けて、何が課題だったのか、県当局と相談して、改善していきたい。来年は会見でみんなでニコニコ出来るようにしたい」
「佐渡を世界遺産にする会」の会長も、
「残念の一言。我々の力も不足がしていた。再度、来年に向けて運動を強化したい」
と話した。
▽私はこんな原稿を書いていた。
《世界遺産登録に対する市の思いは、強くなる一方だった。観光の島を標榜しながら、佐渡市の観光客は減り続けており、ピークの年間120万人から徐々に落ち込み、60万人まで減っている。島の人口も毎年1000人ずつ減り続けて、当時は5万9000人にまで減った。このまま推移すれば、2040年には3万7000人に、さらには2060年には2万5000人にまでなるという民間シンクタンクの試算もあり、市の危機感は強い。人口の落ち込みは市の税収減に直結する。そんな危機感が、世界遺産登録への思いとなって繋がる。
▽地元関係者によると、市が佐渡金銀山の世界登録を目指して、県の協力を得て本格的な動きを見せ始めたのは、ここ数年だ。金銀山を観光客誘致の最大の資産として訴える一方、国の特別天然記念物トキが生まれ育つ島であることも併せて宣伝してきた。また昨年、観光客数を70万人にまで戻すことを目標に掲げていた》
▽相川地区で「佐渡相川ふれあいガイド」の1人として、ボランティアを続ける男性は、こう話した。
「いい機会をもらったと考えている。これから1年間、官民一体になってきちんと話し合って、今後の運動をどうするか考えるようになればいい」
「佐渡金銀山は、まだ隠されていたり、明らかにされていない歴史がかなりあると思う。世界遺産として登録されるなら、それをきちんと検証していってほしいと思う」
▽気になるのは、佐渡の市民の関心がまだ高くないということ。市民の声が少なく、最近は行政主導で運動が進んできたことに危機感も覚えているという。
▽地元の人間も心配する声もあった。ある関係者は、
「何のための運動だったのか、という原点を忘れはしないかということだ。世界遺産登録の目的は歴史的遺産を守るのであって、これによって、観光客が増えるかもしれないという期待とは、ちょっと別の話だ。それが混同していないか心配だ」
と胸の内を明かした。
▽そして世界遺産登録に向けて、「佐渡金銀山」のうち「銀山」を除外して、「佐渡金山」1本に絞り、国内候補になった。ここまで数年がかかっている。
▽政治案件として、韓国が反発し、これを強引に推薦する自民政権の思惑も重なっている。

★154アニメの聖地

▽埼玉県秩父市は、「アニメの聖地」として宣伝している。新型コロナウイルス感染の拡大で、訪問客は減ったが、それでも聖地を訪れようとする若者は続いている。秩父観光の重要なコンテンツになっている。私は朝日新聞秩父支局に勤務していた時、このアニメの話を何回か取材し、記事に書いてきた。
▽聖地のきっかけとなったのは、2011年のテレビアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(あの花)と2015年のアニメ映画「心が叫びたがってるんだ。」(ここさけ)の2本だ。いずれも秩父市などを舞台にしており、現在でも「アニメの聖地」として多くのファンが、アニメに登場する実在の秩父橋や羊山公園、秩父鉄道御花畑駅近くの踏切などのスポットを訪れるようになった。
▽この2本のアニメは、若者や女の子を主人公にした青春ラブストーリーだが、プラトニックでもなく、冒頭から父親が別の女性と車でラブホテルから出てくるところを、娘の女の子が目撃するなど、かなりハードな場面も登場し、大人でも楽しめる内容だった。
▽この人気をバネに若い観光客をさらに誘致するために組織されたのが「秩父アニメツーリズム実行委員会」だ。同委員会が発足10年目になる2019年には、新たなアニメ「空の青さを知る人よ」が劇場公開されるのを前に、秩父商工会議所、西武鉄道、秩父鉄道の協力を得て、リバイバル上映会も実施した。
▽一般社団法人アニメツーリズム協会が選んだ2020年の「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」では、埼玉県秩父地方の3カ所が選ばれた。
▽秩父地方を舞台にした2本のアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」と「心が叫びたがっているんだ。」がその対象になった。「あの花」は同市が舞台に、「ここさけ」では同市と横瀬町がそれぞれ舞台になったため、3カ所が候補になっていた。
▽「アニメ聖地88」は同協会がインターネットで投票を呼びかけるイベントで、その年で3回目。前年6~9月に投票を呼びかけて、前年を大きく上回る約8万票が集まり、作品権利者などの意向を踏まえるなどして、88作品を選んだ。秩父地方の3カ所は3年連続で選ばれた。根強い人気が続いていることを物語っている。
▽私もこれらのアニメ3本を見たが、実在する建物、実在するコンビニ、実在する高校、実在する神社などがアニメで登場し、見ていて楽しかった記憶がある。


★151赤ちゃん斡旋事件と毎日新聞の特ダネ

▽「原さん、現像に失敗しちゃった。ネガフィルをム貸してくれないかな」
▽こんな電話があり、私は、
「いいよ」
と返事をして、紙面化するために紙焼きに使ったネガをのぞいたフイルムをその毎日新聞のベテラン記者に渡した。
▽私が宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤めていた時の話だ。当時はフィルムカメラを使っていた時で、地方記者は自宅兼通信局(他紙は通信部と称していた)で、撮影したネガを現像し、紙焼きする作業をほぼ毎日続けていた。しかしこの現像作業、真っ暗な暗室で作業するから、わずかな光が入ると失敗する。私にネガを貸してくれと電話してきたベテラン記者も、そんな失敗をしてしまい、ライバル社からネガフィルムを借りることを思い立ったのだろう。地方ではよくある話で、ライバル社は仲間でもあるのだ。
▽そんな仲の良かったライバルのベテラン記者が、実は伝説となった特ダネ記者であるのを知ったのは、しばらくしてからだった。
▽菊田医師事件をご存じだろうか。赤ちゃん斡旋事件と呼んだ方が分かりやすいだろうか。
▽宮城県石巻市で中絶手術を望む女性から赤ちゃんを取り出して、子宝に恵まれない夫婦に無料で斡旋した事件で、医師の名を取って菊田医師事件とも呼ばれた。
▽医師は地元紙に広告を出していた。
▽その広告に関心を持ったのが、私がネガフィルムを貸した毎日新聞のベテラン記者で、当時石巻通信部に勤務していた。1973年4月、毎日新聞のこの記者が菊田医師に取材に行った。
▽ここからは彼の話を聞こう。
▽その毎日新聞記者によれば、
「面白い広告だな」
と思って、当時の朝日新聞石巻通信局の記者を誘って、一緒に取材に行った。話を聞いて、引き揚げた。
▽ここからが毎日新聞と朝日新聞の運命の分かれ道だった。
▽毎日新聞の彼は、こんな話があるとして、電話で仙台支局経由で東京本社に原稿を吹き込んだ。毎日新聞は1面トップで大々的に扱った。原稿を送った彼のセンスと、受け手の仙台支局デスク、本社のデスクのセンスと問題意識が結果を生んだ。
▽一方の朝日新聞はどうしたか。
▽朝日新聞通信局の記者は、当時あったバック便送りで原稿を送っただけで、その日のうちに仙台支局デスクに連絡することはなかった。
▽バック便とはまだファクスが普及していなかった時代に、列車で原稿をバックで送ることから名付けられた原稿送信手段だ。仙台や本社に原稿が着くのが翌日朝だから、1日遅れの原稿になる。
▽つまり毎日新聞が1面トップで菊田医師の行為を紙面化したその日朝、朝日新聞の原稿はバック便でやっと届いたことになる。
▽そう、ちょっとした判断が、特ダネを失ってしまったことになったのだ。
▽1面トップを飾った当の毎日新聞記者は、私に笑いながら、
「たまたま偶然。朝日新聞はかわいそうだったな」
と振り返っていた。
▽この毎日新聞の特ダネを各紙が追いかけて、一大センセーショナルとなり、国会でも取り上げられ、菊田医師も国会で証言し、養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した特別養子縁組制度の法案が可決するなど、大きな流れを作った。
▽まさに伝説の特ダネだった。
▽夜討ち朝駆けの特ダネも大切だが、常に問題意識を持って、物事を見ることの大切さを教えてくれたと私は思っている。
▽地方には特ダネの原石があるのだということも分かる。地方を馬鹿にしてはいけない。


★150 7月の高校野球

▽7月は朝日新聞記者にとっては、高校野球にどっぷりと浸かる季節だ。高校野球は7月に県大会などの地方大会があり、8月には甲子園球場での全国大会がある。主催者であるため、県大会の1回戦から紙面展開をする。記者の動員数も半端ではなく、各球場に記者を張り付け、紙面化する。球場には記録を付けるアルバイトのスコアラーも雇う。バックネット裏の主催者の部屋には、朝日新聞記者とアルバイト、もう一方の主催者である高校野球連盟の教諭、そして高校野球連盟側の高校生のスコアラー、球場のアナウンスを担う高校生もいるから、ちょっとした熱気を帯びている。
▽球場に配置された記者は、試合を見て、写真を撮影し、試合後は両チームの監督と球児にインタビューして、試合の原稿を書く。アルバイトのスコアラーが付けたスコアと記者本人が付けたスコアを点検し、さらには高校野球連盟のスコアラーの公式記録と点検し、原稿の整合性を確認していく。結構、面倒くさい作業が続く。スコアの数字が合わないと、再確認することもある。
▽一方の県庁所在地の総局でも、送られてきたスコアと原稿を点検する記者の内勤班と学生のアルバイトを置いて、作業に当たる。こちらもかなりの人数になっている。
▽私が朝日新聞に入社して地方を回っていた時に、7月の高校野球にかかわらなかったのは、浦和支局(現さいたま総局)で県警担当キャップと県政担当キャップをしていた時と、北海道報道部(現北海道報道センター)に在籍していた時だけだ。宮城県塩釜市の塩釜通信局でも、新潟県上越市の上越支局でも、群馬県渋川市の渋川支局でも、埼玉県越谷市の東埼玉支局でも、新潟県佐渡市の佐渡支局でも、埼玉県秩父市の秩父支局でも毎年かかわってきた。朝日新聞記者の宿命だ。
▽秩父支局に勤務していた時、最初の1年目の高校野球は、埼玉県営大宮球場で全試合を取材した。これも異例だった。もちろん担当記者がいるのだが、私はカメラマン役として、1塁側、3塁側、バックスクリーンからの撮影をずっと行っていた。
▽にしても、暑かった。帽子をかぶり、日焼け防止のアームカバーを着用し、撮影に臨んだが。あまりの暑さに、持って行ったペットボトルの水は生ぬるくなったし、履いていたチノパンのズボンも汗でかなり濡れた。
▽以前、東埼玉支局時代に、確か上尾市の球場で熱中症になったこともある。気分が悪くなり、取材を中断して、球場の駐車場に止めていたマイカーの中で横になっていた。しばらくして回復したが、夏の高校野球の取材は、一方で危険なことでもある。
▽楽しみは昼の弁当だった。高校野球連盟の教諭らと一緒に、球場近くの仕出し屋に注文するのだが、埼玉県で言うなら、どの球場の弁当も総じてうまかったと思っている。群馬県の球場では、ごはんに天ぷら、うどんという組み合わせに驚いたことがある。炭水化物だらけの弁当だった。炭水化物が好きな県民性かなと思ったりもした。

★148勧進帳

▽「勧進帳」という言葉を知っているだろうか。
▽辞書などでは、「歌舞伎の演目」で、弁慶がただの巻物を即興で文面を考えながら読み上げることを指すが、新聞社にとっては、メモを見ながら、即興で電話にそのまま原稿を吹き込むことを言う。歌舞伎のこの演目がそれに似ているために付けられた業界用語の一つだ。電話を受けた別の記者が、そのまま原稿用紙に書いていく。この送り手の即興の原稿作りを、勧進帳という。
▽事件事故現場に行って取材をしたら、まずは第一報の原稿を送ることになる。私が新聞社に入社したころは、今のようにインターネットも携帯電話もなかった時代だ。公衆電話を探して、会社に電話して、電話を受けた記者やデスクが原稿を受け取ってくれる。私はメモを見ながら、勧進帳で原稿を送る。こんな初動操作が必要だった。
▽特に夕刊や朝刊最終版の降版時間直前に発生した事件事故、火災などは現場から勧進帳で原稿を送った。
▽事件事故や火災などの発生直後には、警察や消防などからの広報もないから、現場の取材だけが頼りになる。
▽大型火災の場合、建物の敷地面積や高さなどを推定して、延べ面積のうち全焼なのか、半焼なのか、けが人や死者はいないのか、迅速に取材して、第一報のフラッシュ原稿を勧進帳で送る。公衆電話探しも取材の大きな一つだった。
▽海難の場合は、管区海上保安本部や海上保安部に入った連絡を元に、勧進帳で原稿を送っていく。
▽そんな勧進帳の取材手法も最近は見たことも、来たこともない。
▽現在は、現場に入った記者たちは、現場でパソコンを広げて、自分たちが知った範囲での取材結果を原稿にするなり、メモにするなり送っている。勧進帳は死語になりつつあるのか。
▽第一、支局にいるキャップやデスクが勧進帳での原稿受けを嫌っているようだ。送られてきた原稿を、パソコンで再度入力しなければならず、面倒なのだろう。
▽記者側もフラッシュ原稿を送るという意識が、なくなっているような気がする。
▽昔は「見たまま、聞いたまま、送れ」と指示されたものだが、そんな記者教育も終わってしまったのか、と最近は考える。

★147支局近くに住まない記者

▽最近、地方総局や地方支局の近くに住まない記者が多くなっている。特に首都圏の総局、支局勤務の記者のうち、数人は東京から通ってきている。私はやや違和感を持って、この事象を見ている。
▽新聞記者は何か事件事故があったら、現場にすぐ駆けつけるために、地方総局や支局の近くに家を借りて住んでいた。呼び出す側にも呼び出される側にも、その方が都合良かった。支局近所にいれば、何か事件事故があっても、すぐに駆けつけることが出来た。
▽憲法違反だと言うなかれ。強制ではないが、支局員の居住は支局から近いところと教えられたし、指示された。私も当然だと思っていた。1人勤務の旧通信局はそこで住み込みになるのが当たり前だった。
▽携帯電話どころかポケットベルのなかった時代は、自分の居場所を知らせるため、移動する度に支局デスクに電話していた。それぐらい、管理されていた。
▽それがここ10年、首都圏では東京の自宅から通勤する記者が出てきた。かなり遠いところから通ったりする記者が増えている。会社もそれを許している。えっ、これでいいのか、と思ったりもする。旧通信局ですら、そこに住まない記者も出てきていると言うから、驚く。
▽例えば、私が埼玉県に勤務していた時、東京から通う記者が数人いた。さいたま総局に勤務していて、東京在住の場合、朝起きた時に開く新聞は、埼玉版ではなく都内版のニュースだ。他紙の埼玉版で特ダネが出ていたら、読むこともできないし、キャッチすることも出来ない。取材のスタートがどうしても遅くなる。これがさいたま市に住んでいるなら、特ダネが他紙に出ていても、すぐに電話取材が出来る。この違いは大きい。
▽東京から電車で通って、帰りはタクシーという強者もいた。こんなことが許されるのかと疑問に思ったこともある。
▽どうしてこんなことを許したのか。
▽一度本社の号令で、支局近くに住むよう徹底されたはずだが、次第にまた緩くなってきたという。
▽考えられる理由の一つに、本社から地方への転勤を嫌がる人間が増えていることが挙げられる。特に女性がその傾向にある。地方支局に人事異動が内示されると、あらゆる理由を付けて、転勤を拒否する人間が過去に何人もいた。会社幹部はそうした人間の強い要望を受け入れてきた歴史がある。東京からの通勤はそうした流れの中で出てきた。
▽「働き改革」というが、地方総局、地方支局近くに住まない記者が増えている事実は、新聞社の取材力が低下している大きな要因となっている、と私は思う。

★144警察署との懇親会

▽「現場で必死に這いつくばって仕事をしている皆さんの行為を、全部否定したことになる。こんなことを幹部がやっては駄目だ」
▽ある懇親会の酒の席で、自己紹介の場が回ってきた時、私はこんな発言をした。せっかくの酒の席が、沈んだ雰囲気になったことを覚えている。私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時のことだ。
▽2000年1月に事件は発覚した。10年前に行方不明になっていた当時9歳の少女が新潟県柏崎市の民家で、逮捕監禁されているのが見つかり、大騒ぎになった。そしてその第一報が県警本部刑事部長から報告されたのに、当時の県警本部長は監察に訪れていた警察庁特別監察チームのトップである関東管区警察局長らと懇親会に出て、翌日もハクチョウの飛来地を案内するなど、警察本部のトップとしてあり得ない行動を取り続けて、問題化した。懇親会やハクチョウの案内などの話は、朝日新聞が報じた特ダネで明らかになったものだ。
▽冒頭で発言したのは、この騒ぎから1、2カ月経過した時に開いた当時の上越北署、上越南署の両署幹部と地元記者クラブとの懇親会の時のもので、逮捕監禁事件とは全く関係がない通常の飲み会での話だった。私は自分の意見を吐露したに過ぎない。
▽数日後、この懇親会に欠席していた他社の支局長からこんなことを言われた。
「原さん、かなり思い切った発言をしたそうですね」
▽私の発言がかなり波紋を広げていることを知った。
▽私は転勤族だったから、各地の記者クラブで開かれたいろいろな懇親会に出てきた。担当している警察署幹部、市役所幹部、商工会幹部、海上保安本部幹部など、1年に1、2回、定期的な懇親会や忘年会、新年会などがあり、顔つなぎの目的もあり、私は積極的に参加してきた。他社もそうだった。
▽しかし、ふと振り返ると、いつの間にか警察署との懇親会は各地で全くなくなっていた。いつからだったか、と自問してみると、上記の懇親会が最後だったような気がする。私の発言が核心を突いていたためか、その後、地元記者クラブとの懇親会が開かれることはなくなった。今思えば、正直な気持ちを話したための反動かなと思っている。
▽20年以上も前に、なくなっていたことになる。記者クラブ側が自粛したのではなく、警察署側が自粛したのだろう。
▽警察署との懇親会を批判する意見もあるだろうが、顔つなぎという点では、メリットも大きい。日中の事件事故の発表は通常、副署長や次長が行うが、夕方から翌朝までは、各課の課長が当直長に就いて発表するから、顔と名前を覚えておくことは大切な取材の一歩だ。
▽私が新聞記者になったころは、警察署の刑事部屋や留置所を回るのは日々の大切な取材の一環だったが、最近はそうしたことも出来ないと言い、警察署は取材の締め出しをしているのだろう。懇親会の廃止もその延長ではないかと思っている。


★141患者の秘密暴露

▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務している時のことだ。支局での仕事を終えて、1人で夜遅く、近くの居酒屋で食事をしていた。私はカウンターに座り、ビールを飲んでいた。
▽そんな時、店の奥の座敷部屋から男女数人の会話が聞こえてきた。仕事が終わって、ホッとしていた雰囲気なのだろう。よくよく聞いていると、病院関係者で、患者の悪口を言っているのが聞こえた。患者個人のプライバシーが聞こえてきた。病歴や通院歴なども聞こえてきた。
▽しばらく聞いていたが、次第に不愉快になってきた。こんな居酒屋で、病院関係者がペラペラと患者の個人情報をしゃべるのかと。JR直江津駅近くの総合病院であることは、すぐに分かった。私がその患者だとしたら、こんな居酒屋の場所で私の病歴などが流れていくのだ。会社のプライバシー保護という考えは、全く持ち合わせていなかったことになる。職業の倫理観など皆無なのだろう。
▽私はコップのビールを飲み干してから、勇気を持ってその男女の席に向かって、こう言った。
「患者の個人情報を、ペラペラ居酒屋で喋んないでくれ」
「私だってそういう個人情報を扱う仕事しているから、余計に気になる。患者の秘密はどうなるんだ」
▽もちろん私は新聞記者である事は隠していたが、そう注意すると相手はヤバイと思ったのか、それとも納得しただろうか、その後会話がなくなった。
▽新聞記者も取材で個人情報を扱うが、外部には絶対に流出しないよう、気をつけて日々を過ごしている。それは職業の倫理観からだ。それは社内教育があろうがなかろうが、仕事を続けていくうちに、次第に学んで行くことだ。取材源の秘匿も、同じような考えから来ている。
▽こういう会話を居酒屋でしている、ということは、この男女数人は過去にも同じような会話をしていたということだ。このようにして患者の個人情報は、ペラペラペラペラと夜の居酒屋の席で拡散されていくのだと思った。実に怖い話だと感じた。
▽当時は現在のように、SNSなどのインターネットの武器がなかったから、拡大のペースはそんなに速くはなかっただろうが、こんな会話が個人情報として拡散していくのだろうと思った。
▽恐るべし、病院関係者。

★139原口元気選手

▽サッカー日本代表だった原口元気が、Jリーグの浦和レッズからドイツに移籍が決まってから最後の試合を取材したことがある。2014年6月1日、埼玉スタジアムであったナビスコ杯名古屋グランパス戦で先発出場した。
▽レッズファンにとって、原口は点取り虫のFW選手であるが、一方でピッチ外の言動が問題視されるケースもあり、「まだ子どもだから」と話す関係者も多かった。
▽その原口が、その年変わった。前期までは前線で孤立してしまうと、後方から球を求めるだけで立ち止まってしまう時間帯もあったが、その年は中盤まで下がり、守備もするようになった。運動量が増えたのだ。レッズではエースの称号とされる背番号9を今季から背負い、背番号9を意識し、それに見合うプレーが随所で出ていた。
▽この日の試合は、ラストゲームにふさわしい原口のプレーだった。ゴールこそ出来なかったが、1アシストと相手ゴール手前でのFKで得点に結びつけるプレーを演出し、有終の美を飾った。
▽原口自身もゴールを狙ったが、ゴール枠を捉えきることが出来なかった。2得点した李選手は、
「みんなが(原口)元気を意識していた。チャンスがあれば決めろと言っていた」
と振り返る。
▽その原口は後半で途中交代し、ピッチから出ると、深々と頭を下げた。
▽試合はレッズが5-2で勝った。試合後のセレモニーで、原口はこう言った。
▽「悔しかったこともあったが、チームメート、監督、恋人、そしてサポーターの皆さんに応援してもらった。必ず日本一の選手になって帰ってきます。帰る場所はここしかありません」
とあいさつをした。
▽いい言葉だと思った。
▽私はこんな原稿を書いた。
《ユース育ちの原口が得意とするのは、左サイドからのドリブルでの切り込みとシュートだ。昨年からFWの位置からトップ下、シャドーへと攻撃の位置は変わったが、同僚のFW興梠、李、MF柏木らが作る1トップ、2シャドーの三角形の攻撃システムは、形を保ちながら相手守備陣を切り崩していく、見応えのあるものだった。
▽口には出さないが、W杯日本代表に選出されなかった悔しさ、ロンドン五輪でも選ばれなかった気持ちもあるのだろう。その悔しさを封じて、ドイツに渡る原口を、喜んで送り出したいし、4年後のW杯では日本代表としてプレーできるようになってもらいたいと思う》
▽私の期待通り、4年後のW杯で原口は日本代表に選出されて、右サイドハーフとして得点を挙げた。

★136持病と病院探し

▽転勤族で困るのは、持病を持っている時、赴任先で新たな病院を探すことだ。東京近郊だったらば、休みを取ってかかりつけの病院に行けばよかったが、遠い場所に転勤した場合、かかりつけの病院には行けないので、新たな病院探しが始まる。
▽私は10年以上前に、ジョギングのやり過ぎで、座骨神経通になった。椎間板ヘルニアの影響か、腰付近の骨の軟骨が飛び出して、神経に触った。このため足の付け根部分で時折痛みが発症するようになった。
▽その時は最初、座骨神経痛とはわからず、自分でいろいろ治療を試してみたが、どうにもならないので整形外科病院に行った。レントゲンで撮影し、ようやく座骨神経痛だと分かった。保存治療といって、軟骨を除去する手術は避けて、身体を牽引して、飛び出した軟骨を和らげる、というリハビリ治療法を続けてきた。常に飲む薬としてビタミン12という薬を処方された。神経痛を和らげる働きがある。
▽そんな時に転勤命令があった。その時は朝日新聞東京本社だったので、自宅近所の整形外科病院を選択することができた。
▽しかし朝日新聞佐渡支局に転勤した時は困った。市立総合病院に行っても、若い医者が私の言う事はあまり聞かず、いきなりレントゲンを撮って、常に毎日飲んできた薬も、ないからといって処方もしてくれなかった。
▽こんな病院はもうだめだ、と思い、別の総合病院を探して、そこでもう一度検査を受けて坐骨神経痛の薬をもらうことになった。牽引するのはやめた。佐渡支局に3年4カ月いたが、結局牽引をすることができず、支局を去った。
▽次に赴任した秩父支局も酷かった。市立病院の整形外科は常に混んでいて、緊急手術が入ると、外来患者は診断してくれないという状態が続いていた。別の総合病院には整形外科がなく、結局諦めた。自宅近くの整形外科に1~3カ月に1回行くことにして、薬を処方してもらうことになった。
▽このようにして持病を持つ者が転勤になると、転勤先で病院を探すのは難しい。そのことを会社もきちんと考えてもらいたい。別に地方に転勤することを拒否するのではなく、きちんとした病院がある地方に赴任させて欲しいものだと思った。
▽人間は年を取ると、どこか身体の部位が悪くなってくるものだ。それが整形外科的なものだったり、消化器系だったり、心臓系だったり、歯医者だったり、いろいろと出てくる。病気とうまく付き合うしかない。そのための病院なのだが、地方に入ると、病院探しは本当に難しい。


★135新左翼事件

▽私が朝日新聞のとある支局長として勤務していた時だ。「新左翼事件」が発生した。支局員の名誉のために支局名は出さない。
▽支局管内で日米共同演習があり、市民団体が反対集会を行い、これを支局員に取材させて記事にした。
▽翌日、その団体から、
「うちは共産党系ではありません。どちらかといえば新左翼系だ」
と抗議が電話で来た。
▽我が支局員に、
「抗議が来ている。共産党ではない。新左翼系だと言っている」
と説明すると、
「新左翼って何ですか」
と逆に質問されて、私は唖然とした。
▽えーっ。
▽新左翼という言葉すら知らなかったのだ。
▽あのな、お前、という感じ。
▽新左翼という言葉すら知らない知識で新聞記者を始めているのだ。
▽私は相手と3、4日間、電話で交渉をして、支局員を今後教育しますので、ということで訂正記事を掲載するのを避けた。その時代、訂正記事はなるべく避けたい問題だった。
▽本人になぜ、共産党系、と書いたのか、と問うと、これまた驚く返事だった。
「ビラを配っていたので」
▽おいおい、ビラを配るのは、いつも共産党なのかよ。日本の左翼人、および自称左翼人がびっくりするな。
▽にしても、新左翼という言葉も知らない人間が、朝日新聞記者なんだぞ。大先輩記者が嘆くだろうなあ。こんなレベルなのかと、かなりショックを受けた事件だった。
▽この支局員、最後の最後まで、こんな仕事ぶりだった。ここまで来ると、支局員の教育はもはや手遅れとも思ったりもした。

★134佐渡に吉野家初出店

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時に、地元でちょっと話題になったのは、牛丼チェーンの吉野家が初めて佐渡島にオープンしたことだ。佐渡では初の出店となる佐渡佐和田店(佐渡市長木)だ。2016年10月のことだ。
▽過疎化が進む佐渡島でファストフードの大手外食店がこれまでほとんどなかっただけに、初日から客が並び、その話を私は地元のニュースとして朝日新聞に記事を書いた。
▽東北・北関東地方を中心に吉野家を展開する北日本吉野家(本社・仙台市)によると、県内では12店舗目、全国では1205店舗目のオープンだ。国道350号沿いにあり、周囲は飲食店や弁当店、ホームセンターなどの郊外店が並ぶ場所だ。
▽10時のオープン時には多くの客が並び、店内で食べる人や持ち帰りの客がずらっと並んだ。年配の客も目立つ。客席は30席あり、定番の牛丼並が380円。セットメニューもそろっており、24時間営業だ。本州の吉野家と変わらない。
▽佐渡市では毎年人口が約1000人ずつ減っており、市が昨年発表した2040年度の予想人口は3万7000人まで落ち込む。こうした過疎化の懸念から、大手外食チェーンの佐渡進出は、ほとんどなかったのが現状だ。同社広報担当者は
「マーケット的には十分成り立つ。牛丼チェーンは同業他社も全国各地で店舗を展開しており、未進出地区は限られている。同業他社の中で当社が初めて佐渡へ進出することが決まった時、社内でも話題になりました」
と説明する。吉野家としても、戦略として計画していたということだろう。
▽食材はフェリーで本州から運ぶ。荒天時の欠航がリスクとなるが、
「佐渡は他の離島と違い、便数が多く、リスクは小さいと判断した」
とも付け加える。
▽佐渡ではスーパーも午後8時で閉店する店が多く、
「残業を終えてから利用できるリミットは大きい」
と歓迎する声もあった。
▽過疎化の進行で、佐渡への出店をためらう企業は多い。私が佐渡支局に赴任した時は、大手のコンビニすらなかった。飲食店だけではない。ユニクロもなかったし、映画館もなかった。
▽吉野家の出店は、過疎に悩む佐渡島に明るい話題を提供していた。


★133流鏑馬撮影の醍醐味

▽馬に乗った射手が弓矢の矢を放って的に当てる「流鏑馬(やぶさめ)」の伝統行事を、宮城県塩釜市と埼玉県秩父市で取材した経験がある。前者は塩釜神社で、後者は秩父神社の伝統行事だ。
▽放たれる弓の速度は時速100キロ以上と言われ、その弓矢の矢が放たれた瞬間を撮影しようと考えていた。
▽朝日新聞塩釜通信局(当時)に勤務していたのは、1989年9月から2年間半だった。当時カメラはまだフィルムカメラ時代で、持っていたカメラはニコンFE2という機種だった。フィルムは1本36枚撮りで、使い切ってしまえば、フィルムを交換する時間がかかるため、矢が放たれた瞬間を撮影できるシヤッターチャンスは1、2回しかなかった。モータードライブを装着し、シャッター速度を500分の1秒に設定して、その瞬間を待った。緊張した。失敗したらどうしようかと。やらせは出来ない。ただ一瞬のシャッターチャンスに賭けるしかないのだ。
▽馬が走って近づいてきた。そして射手が身構えして、弓を引く瞬間が来た。その瞬間だと思った時に、シャッターボタンを押した。ガチャガチャガチャ、とモータードライブの乾いた音が響いた。今のデジタルカメラと違い、カメラの本体背後に撮影された画像を確認することも出来ない。
▽成否はフィルムを現像するまで分からない。その瞬間が撮影できていれば、そのトライに満足できるし、失敗なら、翌年に再トライしようと考えていた。
▽通信局に戻り、事務所の暗室でフィルム現像をした。緊張する作業だった。現像に失敗したら、すべてが駄目になる。定着液に浸けて、水洗いをした。まだ濡れたネガを透かして見ると、何となく矢が映っているのが分かった。射手と的の短い距離の間にキチンと止まって写っていた。技術なのか偶然なのか分からないが、ともかく成功したと思った。フィルムを乾かしてから、写真を焼く作業を行った。
▽それから約30年の歳月が流れ、今度は秩父支局での勤務で、秩父神社の流鏑馬取材があった。
▽時代はフィルムカメラからデジタルカメラに移行していた。一度に36枚しか取れないフイルムカメラから、設定や保存メディアによるが、一度に数千枚を撮影できるデジタルカメラの使用で気持ちはかなり楽になり、緊張感もなくなっていた。私は秒コマ12枚というニコンD5で撮影し、弓矢の矢が放たれた瞬間をゲットすることが出来た。カメラの性能向上で、いとも簡単に撮影できたのだ。
▽シャッターチャンスが数秒しかないという点で、流鏑馬撮影取材はスポーツ撮影に似ていると思った。やらせも効かない。
▽昔と違うのは、撮影する緊張感も現像する緊張感もなくなっているという事実だ。

★131納得いかない検挙

▽どう考えても、納得できない検挙だった。
▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時だった。
▽マイカーで脇道から県道に出る交差点を左折した時だった。一時停止をして、そして左折した。その速度がやや速かったせいか、出た途端、突然のように警察官に止められた。
▽理由はよく分からないが、一時停止違反だという。一時停止はしていた。そして左折した。それなのに検挙するというのだ。
▽考えられるのは、左折しようと県道に出た途端、右からトラックが速度を上げて近づいて来た。もう県道に車体を半分以上出していたから、私も速度をやや上げて、避けるように左折した。これが一時停止違反に映ったようだった。
▽交通違反切符を切られて、違反金を後日郵便局で支払った。
▽しかし納得できないので、後日、現場周辺に戻り、何回も違反周辺を見て回った。
▽そこで気づいたのは、私が一時停止した場所を、当の警察官は見えない場所にいた、ということだった。急発進したように見えたため、一時停止違反で検挙したのだろう。そう私は結論づけた。
▽ただし、交通違反検挙も国家権力の行使である。いくら反論しても、権力行使に反抗したら、逮捕されるかもしれないことは、私は十分に理解している。だから検挙時点でも反論はしなかったし、後にも反論をすることはなかった。
▽これで何回目の検挙かなと思った。高速道での速度違反で検挙されたこともあるし、支局前にマイカーを止めただけで、検挙されたこともある。
▽昔は新聞記者と警察は持ちつ持たれつ、という間柄だった。特権ではないのだが、私が新聞記者になったころは、軽微な交通違反は見逃してくれた。古き良き時代だったというわけではない。警察も記者も仲間意識があった。
▽今はそんなことは全くない。警察官の一部は新聞記者を敵だと思っているし、事実そのような態度を取る。
▽だから検挙されても、私は企業名を名乗らない。名乗ったら、警察上司に報告されて、その情報をうまく利用されるだけだ。会社名を名乗る人間もいるが、そんな馬鹿なことはしない方がいい。

★129驚きのハイヤー利用

▽本社の政治部や経済部、社会部記者がよく使うものの一つに、黒塗りのハイヤーがある。本社と契約したハイヤーが常に何台も、記者を乗せて移動する。現在のように携帯電話が普及していなかったころに、自動車電話が付いていたから、取材の移動には便利な車だった。夜討ち朝駆けにも使っていたし、通常の取材の移動でも使っていた。
▽そのハイヤーを勝手に、埼玉県の1人勤務の地方支局に勤務するベテラン支局長が使っていた。
▽地方支局の場合、取材移動はマイカーが原則だ。事件事故でもそうだ。ただし、酒を伴う場合はタクシーの使用が許されている。そんな大原則を無視して、このベテラン支局長はハイヤーを使い続けていた。
▽東京本社に社内ネットで申請すれば、県内の支局に来てもらえる簡単なシステムだったので、これを利用して支局管内の取材移動に頻繁に利用していた。同業他社はマイカーを使っていたので、ハイヤーで移動するそのベテラン支局長を驚きの目で見ていたという。
▽だが、長くは続かなかった。ハイヤー部門を統括する本社の担当窓口から、さいたま総局長に問い合わせが入ったのだ。なぜ一支局長がハイヤーを使うのか。マイカーが無理ならタクシーでもいいではないか、と。第一東京からその支局にハイヤーを呼べば、それだけで移動時間もかかる。ガソリン代もかかる。無駄なハイヤー利用と断定された。
▽さいたま総局長の問い合わせに、このベテラン支局長はこう答えたのだという。
「簡単にハイヤーを呼ぶことが出来るので、呼んだ」
▽つまり自分が悪いのではなく、簡単に呼ぶことが出来るシステムが悪いのだと、開き直った。確かに本社の記者はハイヤーを頻繁に利用する。このベテラン支局長もかつて本社にいた経験から使ったのだろう。しかし本社と地方は違う。地方は地方なりのルールがある。マイカーを使っての取材には、ガソリンの補助や維持費の補助も出ている。こんなことが分からないのだろうか。
▽どうもならない、考えの持ち主だと思った。何を勘違いしていたのだろうか。
▽ハイヤーを使った経費は、100万円以上だといい、会社はこのベテラン支局長にその経費の返却を求めた。当然のことだろう。
▽このベテラン支局長、次の定期異動で本社内勤に異動し、最終的に会社を辞めた。最後の部会での挨拶はなく、ボイコットした。会社への不満があったとしても、それを作ったのは本人だ。

★127特別天然記念物のトキ所有権

▽パンダの話題が出ていたので、関連してトキの話をしよう。
▽新潟県佐渡市の佐渡島で、人工繁殖が続けられている国の特別天然記念物のトキは、元々日本では絶滅し、中国からの提供を受けたトキを元の親として繁殖を続けてきたものだ。日中関係が緊張しなければ、パンダと同様、中国の外交政策の一つの手段として使われてきたもので、ありがたいことに、その人工繁殖と放鳥の繰り返しで、自然界に生息するトキの個体は順調に増えている。中国の態度と英断に感謝するしかない。
▽私が朝日新聞佐渡支局でそのトキの取材をしていた2015年に、再び中国からのトキ2羽を提供する打診があった。
▽その提供で常に取材者側を迷わせるのが、「提供」という言葉の意味するものだ。つまり贈呈なのか、貸与なのかと言うことだ。
▽環境省によると、中国から日本に提供されたトキは、それまで8羽。このうち1998年の友友(ヨウヨウ)と洋洋(ヤンヤン)の2羽は贈呈されたが、残りの6羽のうち3羽が借り受けし、3羽が貸与だった。
▽これまで日本に貸与されたトキ3羽について、生まれた子どもの帰属は日中交互に発生することが、覚え書きで決められている。2000年の雌の美美(メイメイ)も、2007年の雄の華陽ホ(ワヤン)と雌の溢水(イーシュイ)も生まれたこどもについて、偶数子は日本側、奇数子は中国側と決められている。つまり第1子が中国に第2子が日本に、という順番で帰属が決められる。
▽つまり人工繁殖で子どもが増えれば、その分、中国に帰属するトキが増えるわけだ。
▽1985年、中国産雄が来日→貸し出し
▽1994年、中国産ペアが来日→貸し出し
▽1999年、中国産ペアが来日→寄贈
▽2000年、中国産雌(美美)が来日→提供、所有権は日本に帰属
▽2007年、中国産ペアが来日→提供、所有権は日本に帰属

▽私は原稿でこう書いた。
《日本への提供が決まった2羽のトキについて、環境省は「贈呈ではなく、貸与だ」と朝日新聞の取材に対して明言した。ただ貸与であっても、これまでに提供されたトキについては、所有権が日本に帰属するケースもあり、今回の提供されるトキの扱いがどうなるか、関係者は今後の協議結果を見守ることになる。
《2016年3月には中国から提供されたトキ美美など3羽から生まれた個体4羽を返還するため、新潟空港から中国・上海浦東空港に向かう搬送作業を行っている。
▽この搬送作業を担うのが、佐渡でのトキ再生事業を担当している同省佐渡自然保護官事務所だ》

▽トキの所有権をめぐり、読者が混乱しないよう、私は贈呈と貸与という言葉は使わず、「提供」という言葉に置き換えてきた。
▽ただ、ここ数年は日中関係が悪化し、両国間でトキの話は出なくなった。取材現場も混乱することもないのだろう。
▽トキはパンダと同様、両国の緊張緩和をもたらす平和の野鳥であってほしい。

★126秩父事件

▽埼玉県秩父市と言えば、秩父事件が有名だ。秩父地方が舞台となり、1884年に発生した。不況や度重なる税金の値上げ、高利貸しの高金利に苦しむ農民が蜂起した事件で、後に自由民権運動の原点とされる事件だ。私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時も、時間があれば研究者や関係者と接触し、取材をして、関連する記事を時折書いていた。
▽その一つが、民衆が蜂起したその当日の11月1日、酒や米などを強奪された被害者とされる地元の酒造会社が地元の役所に出した被害届の控えの文書が見つかったことを記事にした。2019年11月に取材した。その当時で秩父事件から135年がたつが、事件を裏付ける文書は少なく、蜂起当日の文書が地元で見つかったことに意義がある、貴重な資料だと研究者は指摘していた。
▽埼玉県深谷市の歴史愛好家の男性(当時73)が前橋市の古書店で見つけ、秩父市教委に連絡した。
▽その歴史愛好家の男性宅で取材し、その資料を写して、地元の研究者に見てもらい、解説してもらい、以下のようなことが判明し、原稿に書いた。
▽《文書は「暴徒強迫に付損失御届」と題するもので、地元の名家であり、酒造会社も経営していた肥土家が、当主と推定される「肥土伊與吉」という名前で届けてその印が押されている。
▽文書ではまず、被害日時と被害品、そしてその量が書かれており、具体的な被害内容が分かる。秩父事件が蜂起した11月1日のその日、午前4時から6時まで、「白米2石」、同月同日2時ごろ、「清酒3斗5升」、同月同日4時ごろ、「脇差8本」という品名が記されていた。酒は1升瓶にして35本、米の2石は2000合に相当する。酒も米も相当な量で、「事件蜂起のため、農民らに酒を飲ませて、いわば出陣式を行うためだったのではないか」と研究家は推測する。秩父事件で蜂起した農民らの数は7000人とも1万人言われており、それを裏付ける量の酒と米だ。
▽これに続いて、被害実態を書いている。現代風に訳せば、「暴徒は抜き身刀や槍、鉄砲を持って脅迫し、白米、清酒、脇差しを出せと催促してきた。思い通りしなければ、家に火をつけたり、人を殺すと強迫されたので、生か死かの事情を考慮して、やむを得ず差し出した次第です」「取りあえずこのことをお届けいたします。11月6日」となっている。
▽被害届け先は記されていないが、地元の郡役所か警察分署に出したとみられる》
▽秩父事件は養蚕業が盛んで裕福だった秩父地方の農民が、深刻な不況を受け、度重なる税金の値上げ、高利貸しの高金利に苦しみ、そのために蜂起したとされる。
▽肥土家は古くから酒造会社を営むほか、「萬屋」として総合商店として経営していたが、私が取材をしたその当時から20年ほど前に経営破綻した。これに伴って所有していた古文書も散逸し、この一部、ミカン箱にして10箱の量の古文書を前橋市の古書店主が入手。古書店主は中身を整理し、この中で秩父事件に関する資料として、この被害届の控えを見つけたという。
▽これを歴史愛好家の男性が買い取り、調べた結果、貴重な資料であることが分かったという。本人は、
「古書店主も古くからの知り合いで、古文書のコレクター仲間。この文書は年月が経過し、紙の質感が違う。墨の付き方も違う。知り合いの学芸員に見せたら、日付が入っていること、その日付が秩父事件の蜂起した日であることなどから、肥土家の古文書に間違いない、と言われた」
と説明する。
▽秩父事件に関する文書が少ないことについても、
「秩父事件に関与した農民の各家庭では、事件に関する書類をすべて処分したと言われており、紙の資料が存在すること自体珍しい」
と話した。
▽この資料を見た秩父市の研究者は、
「控えの本物でしょう。まさか事件当日の日付が入った文書があるなんて、驚きです。しかも首謀者の幹部が酒と米を要求している。事件を起こすことの緊張感を和らげるためなのか。出陣式に蜂起する農民らに出したと読み取れる。肥土家も出陣式に合わせて炊き出しをやっていたようだ。ここ数十年間、秩父事件に関する当日の文書は見たことがない。貴重な資料です。肥土家も税金に苦しめられていた農民に同情していたのではないか。このため被害届も一応形だけ出しただけとも考えられる」
と説明した。
▽こうして取材すると、貴重な資料が散在し、それを収集する古書店があり、それをさらに集めるコレクターがいて、後にそれが貴重な資料だと分かる、という図式が分かってくる。日本には歴史を資料として残す発想が欠けているからこうなる。だから時の権力者によって都合良い歴史が作られていく。
▽日本学術会議の会員候補者が政府から拒否されたのも、その発想からだ。政府にとって都合悪い歴史の評価をするような人間を会員にさせたくないことが、透けて見える。

★121市長選の紙面制約

▽新聞社にとって選挙報道は様々な制約がある。今回は市長選に限って、記しておこう。
▽市長選は通常告示から投開票日まで1週間の期間がある。新聞は「あす告示」「告示して、3人が立候補を届けた」「候補者のプロフィール」「あす投開票」「投開票で現職が再選した」など、地方版のニュースとしてこの5本の原稿を用意する。
▽告示の1〜3カ月前には、候補者のプロフィールを載せるため、候補者を個別に記者クラブなどに来てもらい、事前の取材をする。
▽政治信条や過去の実績、選挙公約、家族の事、経歴などを取材するのだが、そのプロフィール記事に使う写真は、3種類が必要になる。正面からのもの、右から斜めに撮影したもの、逆に左から斜めに撮影したものの3枚だ。これは、実際の紙面のレイアウトの制約を受けるためだ。候補者が複数いる時、それぞれの候補者の写真は、顔は新聞の真ん中に向いてなければならない、という制約があり、例えば、候補者が3人いて、レイアウトで県版のトップを縦型に飾る場合、読者から見ると候補者は皆、左向きポーズを使う。候補者は常に紙面の真ん中を向いてなければならないのだ。
▽逆に県版の準トップである左カタにレイアウトとなる場合は逆に、読者から見て候補者は右を向いている写真を使う。取材記者にとって、候補者のポーズ写真は3種類必要になるわけだ。
▽新聞のレイアウトの特性と考えてもらえれば良い。候補者がバラバラに向いてもらっては困るのだ。
▽告示日の写真も同じようなものだ。告示の届け出が終わり、候補者が支援者の前で第一声を伝える写真撮影もそうだ。マイクに向かって支援者に支持を訴える場合、新聞社は正面からの写真と、斜め左側の写真と、斜め右側写真を撮る。
▽しかも、候補者がマイクを握っている時、そのマイクが邪魔をして、顔が隠れないように撮影する。これは結構難しい。事前に候補者に伝えておいて、マイクをあまり顔に近づけないようにお願いしたりする。
▽さらに言うと、宣伝カーの上に立って演説している写真は、見上げる形になるので使わない。遠くから望遠レンズを使うなら構わないが、基本は水平線での撮影をする。候補者には宣伝カーに降りてもらい、地上でマイクを握ってもらう。
▽このように新聞社には、いろいろな制約があって、撮影する我々も気を使う。すべての候補者が紙面上平等になるように、レイアウトやポーズ写真、第一声の写真をチョイスする。
▽新聞社にとってこんな基本が分からないデスクが社内には時折いて、驚くこともあった。


★118老舗温泉の格

▽朝日新聞のある支局に勤務している時、支局の管内に日本で有名な温泉地があった。その温泉街でも特に有名な老舗旅館の社長とその仲間と、ある時からよく飲みになるようになった。今回はその時の話を紹介しよう。
▽酒の席でその社長が話した言葉が忘れない。娘が連れてきた彼氏の事だった。結婚を前提に付き合っていて、その社長は娘の結婚に反対していた。一人娘なので、父親としては心配したのだろう、と思ったら、そうではなく、もっと別のことが理由だった。
▽その社長曰く、
「格が違う」
と言い放ったのだ。つまり、娘が連れてきた彼氏は一般のサラリーマンであり、温泉街の有名な老舗旅館を継ぐような地位ではなく、格が下だと言うのだ。
▽確かに、一人娘が結婚すれば、その娘は女将になり、その彼氏は社長業を継ぐ。つまり婿入りすることで、膨大な財産を手にする。いわゆる逆玉だ。
▽江戸時代から続いてきた老舗旅館の財産や地位などを、逆玉になった婿に継がせたくない、というのが本音らしい。
▽そんな正直な話を聞いた私たちは、
「へーっ、そうなんだ」
と驚くだけで、返事もアドバイスも出来なかった。私とは全く別世界があることを知った。金持ちは金があるんだということを、改めて感じた。
▽確かに、温泉街の老舗旅館の社長は、旅館の経営は自分の妻である女将に任せていて、ゴルフをしたり、ハワイに行ったり、名誉職の仕事に打ち込んだり、全く別の世界に生きている。それ故に、格下の彼氏には任せられないと思っていたのだろう。
▽ただし、この結婚話はうまく進み、我々も披露宴に招待された。別世界の一端に触れた気がした。


★116すり替え詐欺

▽私が勤務していた埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局で、アルバイトの女性がインターネットのオークションで詐欺に出くわした。幸い、直前で気づいて、ストップさせたが、かなり悪質な手口だったことから、これを取材して、記事にしたことがある。
▽インターネットのヤフーオークション「ヤフオク」を利用し、ブランド品「ルィ・ヴィトン」の長財布を出品したのは、3月中旬だった。入札が相次ぎ、最終的に、福岡市の男性が3万7500円で落札した。
▽ヤフオクのルールに基づいて、掲示板でのやり取りを行い、相手が入金したのを確認して、着払いで発送した。
▽異変があったのは、その2日後。いきなり男性を名乗る人間から携帯電話に電話が入り、こう言われた。
「これは粗悪なコピー品だ。生地も金属部分も違うし、(シリアル番号の)刻印の位置も違う。既に返却のため発送したので、返金してほしい」
▽こう言われてそのまま電話が切れた。
▽女性は不安になった。あれが偽物だったとは。質屋で買ったもので、偽物には思えなかった。あれやこれやと思い浮かべたが、返金を考えた。掲示板には、こうも書かれていた。
「実は私たちは業者。偽物があった時は警察に通報することになっている。返金すれば、穏便に済ませる」
などとあった。
▽そして2日後の日曜日。着払いで自宅に送られてきたその商品を見て、驚いた。送った長財布とは似ているが、全く違うもの。手触りが違うし、財布を開けると、しっかりとした作りではなかった。カードスロット部分が必要以上に開いていて、まさに粗悪なコピー品、偽物だと分かった。相手の不自然な言動は、このことだと気づいた。
▽要するにすり替え詐欺。このまま返金すれば、手元に残るのは、送った本物の財布ではなく、偽物の財布で、すり替え詐欺の被害者になってしまう。本物の長財布は、相手側に渡り、3万7500円も相手に渡るだけだ。幸い、ホームページに掲載した写真とは別に、送った本物の長財布をいろいろな角度から写真を撮っていたことから、その事実が分かった。
▽私はその話を聞いて、彼女と地元の県警草加署と草加市消費生活センターに出向き、相談をした。同署では、
「契約トラブルの一つだが、まだ被害に遭ったわけではない。返金も返品もしなくていい」
と言われた。同センターでは、
「まさにすり替え返品被害。国民生活センターに報告します。返金する必要はない」
と指導された。
▽このため、女性はその日のうちに、ヤフオクの掲示板を使って、
「すり替え詐欺ですね。返金も返品もしません」
などと通告した。
▽すると夜になって、相手からは、
「それなら、明日こちらも早速法的に処理をします。こちらは、本当に穏便に済まそうと思いましたが、人を本気で怒らせたらどうなるか思い知ってください」
と返事が届いた。警察と関係があると偽ってだます手口だ。こちらは新聞記者だ。警察のことはこちらの方が詳しい。
▽暴力を受けないか。心配になって、男の住む住所を管轄する福岡中央署にも私が電話して、事のてんまつを相談した。同署の担当者は
「大丈夫ですよ。詐欺の事例として、受け取ります」
と言ってくれた。
▽それから1週間後。男から速達で手紙が届いた。手紙にはこうあった。
「和解して頂けないでしょうか」
「昨日までコピー品だと勘違いを元に準備していた法的処置を取り下げる」
▽しかし、女性は無視した。相手は詐欺のプロかもしれない。
「警察関係だと臭わせて、穏便に済ませるという言葉の使い方は、こなれていると思った。和解しても、本物の長財布は戻ってこない」
▽ギリギリの所で返金を思いとどまったことだけはよいとしても、この約半月の精神的苦痛を考えると、和解で済ませたくはないと彼女は話していた。
▽記事にはこの顛末をそのまま書いた。
▽この男と業者。いまだに福岡市で詐欺をしているのだろうか。


★115市議選の失敗

▽これは部下の支局員によって起こされた痛い目にあったトラブルの代表格の話だ。
▽統一地方選の取材で、ある市議選があった。
▽支局経由で本社から指示された開票状況調査で、開票の大勢が決まる時間を、彼は11時半と答えていた。開票状況調査とは、開票開始時間、中間発表、大勢が固まり、「当打ち」が出来る時間、開票終了時間を選挙管理委員会などに取材して調べて、本社に送り返す調査だ。本社は各地方支局むーから届いたこの調査結果を元に、各紙面の降版時間を設定し、工程管理をする。大手紙の場合、同じ県版でも、何種類もの紙面があるため、当打ち数も刻々と変わっていくから、工程管理は大切な準備だった。
▽投開票日。彼がつかんだ時間が正しいならば、他にもいっぱいある選挙、アルバイトも置かずに大丈夫となった。県庁経由で上がる中間発表で、特別降版時間の県版には十分、「当打ち」は全員に打てる、と判断したのだ。
▽これは数週間後の全県部会でも、告示前の部会でも、私は念押ししたが、彼は「大丈夫です」ときっぱり答えていた。
▽そして、告示一週間前の選挙部会。
▽どうもおかしい、と思った私は、本当に大丈夫なのか、と再度、彼に聞き直し、「大丈夫」と答える彼に向かって、もう一度、選挙管理委員会に電話するよう指示。
▽そこで彼のミスを発見していれば良かったが、後の祭りだった。
▽翌日、支局に戻った時、市選挙管理委員会にどういう質問をしたのか、という私の問いに、彼はこう返事して、私を絶句させた。
▽「9割決まる時間は何時か、と聞きました」
▽えーっ、うそっ、という感じの返事だった。
▽大勢が決まる、というのは、当選者全員に「当」を打って当選者が決まる時間のことだ。9割の開票が終わるのではない。何を思いこんでいるのか。
▽聞き直させる時間もなかったので、直接私が選挙管理委員会に聞いたところ、何と何と午前1時半過ぎになる、というではないか。
▽これでは県全体の選挙取材体制が狂ってしまい大変だ、と判断して、私は毎日のように市役所に行って、担当の総務課長を口説いて、裏票読みの協力を何とか取り付けた。
▽と同時に支局デスクに電話して、我が支局員が今まで言ってきたことはすべてデタラメだ、選挙態勢の練り直しを、と催促した。
▽結局は、私が当日の投開票に出向き、当打ち作業をした。全員の当を特別ダイヤの降版ぎりぎりである午前1時半に、強引に突っ込んだ。胃がキリキリ痛む思いで行った当打ちだった。
▽こんなに苦労したことすら、彼には理解できてはいないようだった。地方取材を完全になめきっているように感じた。注意したが、反省もしてくれなかった。
▽苦い思い出だ。


★114記者編集

▽「記者編集」という言葉をご存じだろうか。地方支局が作る地方版、県版と呼ばれる紙面は通常、東京本社の地方版編集部が編集する。それを地方支局に端末を置いて、支局員が交代して紙面を作ることを意味した。朝日新聞はこの「記者編集」を、「サテライト編集」と呼んで、究極の合理化を目指した時期がある。そうすれば、本社地方版編集部は必要なくなり、数十人が合理化できる。当時の本社幹部が発案した合理化案だった。
▽支局記者編集は「サテライト編集」と称して、「S編集」と呼んでいた。
▽新聞の流れをまずはおさらいする。
▽地方支局の場合、支局員や通信局長(当時・現在は支局長)が書いた原稿を、地方支局のデスクが原稿を点検してリリースし、専用回線を通じて、本社のホストコンピューターに送り込む。本社の地方版編集部の人間が端末を使って、新聞紙面のレイアウトをする。
▽S編集の場合、支局に編集紙面の端末を置いて、デスクがリリースしたものを、別の支局員が紙面を組む。本社地方版編集部の人間は不必要になる。
▽ただ問題なのは、地方版にしろ、本紙の紙面にしろ、紙面の編集作業は簡単なものではない。リリースされた原稿を紙面に組み付ける作業は、レイアウトや見出しの取り方など、かなりのルールがあり、ある程度の技術が必要で、経験者が必要になってくる。
▽このため、そのS編集をする支局に、整理部または地方版編集の経験者を配置する必要になる。
▽今から振り返ると、壮大な実験だった。そして結論から言うと、壮大な失敗だった。支局員が取材をして、途中で夕方から取材を切り上げて、紙面を編集するなど、最初から無理な話だった。
▽S編集を導入することを前提に、外勤記者から地方版編集に異動する人事が発令された。S編集に反対した支局長は飛ばされた。私もS編集を前提として地方版編集部に一時期異動になった。
▽朝日新聞の場合、最初のS編集として、福島支局が選ばれた。そして次に新潟、長野などの支局に導入されていった。強引な導入だった。
▽私は、新潟県・上越支局長に配属され、毎週のように週末になると140キロも離れた新潟支局で、S編集とデスク代理の当番に就くようになっていた。土曜日にS編集をするなら、翌日の日曜日はデスク当番に入り、朝刊最終版を待って、ホテルに泊まり、翌日上越支局に戻るという日々を繰り返していた。週末はほとんどこの作業で潰された。休みを取るどころではなかった。
▽そんな生活が3年ほど続いた時、会社はS編集の打ち切りを突如として言い出してきた。端末を配置するのに、想定外の費用がかかったこと、合理化と言うには、合理化にならなかったこと、支局員の負担が想定外に重かったことを理由に挙げた。
▽おそらく会社としては全国の県庁所在地の支局にS編集の端末を設置して、すべての支局でS編集をしたかったのだろう。しかしその願いは空しく終わった。
▽失敗したことは認めたが、だれも責任は取らないで、壮大な実験は完全に終わった。

★111読売新聞とミニコミ

▽記者クラブで一緒にいた読売新聞通信部のベテラン記者が本社へと突然の異動となり、編集部門とは関係ない部門に飛ばされた。
▽本人は言わなかったが、理由ははっきりしていた。
▽管内の読売新聞販売店で作っているミニコミ紙の記者を、記者クラブから排除したことが理由だった。
▽読売新聞に限らないが、全国紙は各地で地域ごとにミニコミ紙を発行している。地域の催しや小中学校のスポーツ、文化などを取材して、紙面に載せている。読者へのサービスであり、本紙の部数維持のためでもある。多くは販売店が持ち寄って金を出して、編集部を支える構図になっている。
▽私が勤務していた支局の管内は、読売新聞の部数が異様に多く、それに伴って、ミニコミ紙のページ数も記者数も多かった。そして驚くなかれ、記者クラブや通常の市役所定例会見にもそのミニコミ紙記者が出入りしていたのだ。
▽私は各地を転勤してきたが、記者会見は通常、新聞協会に属する社の記者だけが出入りしていて、ミニコミ紙の記者が出入りすることは見たことがなかった。だが、この地域だけはその読売新聞のミニコミ紙の記者が自由に出入りしていて、何か違和感をもったことがある。
▽きっかけは忘れたが、記者クラブの規則がどうなっているか、その読売新聞の通信部勤務の記者が調べた。調べた結果、記者クラブや記者会見にミニコミ紙の記者が出入りするのはおかしい、という結論になった。たまたま記者クラブの幹事社だったその読売新聞記者は、そのことをミニコミ紙に伝えた。
▽怒ったのは、ミニコミ紙だった。そのまま怒りは本社販売局幹部に伝わった。読売新聞の記者が読売新聞関連のミニコミ紙を排除するとは何事か、と。
▽それが突然の異動に繋がったのだ。
▽理由を直接聞かなかったが、本人は相当落ち込んでいた。私に電話をしてきて、すぐに嘘だと分かる転勤理由や転勤後の仕事の話をしていた。新聞記者が記者職を離れるつらさは、よく分かった。
▽さすが、「販売の読売新聞だ」と私は感じた。部数こそ命なのだ。
▽読売新聞記者は地雷を踏んでしまったのだ。恐るべし、読売新聞販売店だ。

★109黒色火薬と秩父地方

▽2022年7月の安倍晋三元首相銃撃事件や2023年4月の岸田文雄首相襲撃事件は、容疑者が用意した火薬を使った犯行だが、火薬そのものは時間をかければ作ることができることを、私は全く別の取材で知った。いくら法律で銃規制しても、抜け穴はあることを我々は知った方がいい。
▽私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時だ。埼玉県秩父市は、秩父夜祭や龍勢祭など、古くから伝わる各種祭りで花火やロケットが打ち上げられる。その花火やロケットに使われる黒色火薬の原料製造を再現する高校生の課外授業が地元長瀞町であり、高校1年生約10人が興味深そうに材料を抽出する作業を続けていた。
▽火薬はなぜ生まれたか、なぜ秩父地方で盛んに作られたかのか。
▽それを探るのが目的で、同地方での火薬づくりを研究している日本薬科大学(伊奈町)の客員教授の自宅庭で授業を進めた。高校教諭が指導にあたった。
▽研究によると、秩父地方は江戸幕府からの要請もあり、さらには祭りには必ず花火が奉納されており、火薬作りが盛んだった。黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)に硫黄、木炭を調合して作るが、日本に硝石の鉱脈はなく、民家の床下の土地から硝石を作る「古土法」という方法が考案され、戦国時代に全国に広まったという。
▽今回の授業では、計3軒の床下から採取した土を高校生が分担してそれぞれ水で溶かし、抽出し、灰を加えて、これを煮詰めていった。煮詰めていき、乾燥させれば、数日後には硝石の結晶が完成する。これとは別に火薬の材料である木炭を溶かした濃縮液も作った。
▽その日の授業はここまでで、後の高校授業で、火薬づくりを終える。
▽客員教授は、
「この作成方法がどこから生まれてきたかは全く分かりません。大陸からなのか、それとも国内で発明されたのか。硝石生産に耐えられる量を作るには、15-20年間の長時間が必要なので、かなりの広範囲で火薬づくりが続けられたはずです」
と説明する。
▽この授業を取材して感じるのは、ある程度の知識があれば、火薬は作れる、ということだ。このことはキチンと知った方がいいと私は感じた。
▽そしていくら法律で銃規制しても、銃も作ることができる、ということを、安倍元首相銃撃事件などで我々国民は新たに学んだ。
▽この事実を踏まえての論議が必要だ。

★107関越道と暴走車

▽東京から新潟に抜ける高速道の関越道を一時期よく利用していた。朝日新聞渋川支局に勤務していた時や秩父支局で働いていた時、土日や祝日で休みを取った時に、マイカーで自宅に往復する時に使っていた。
▽そこで気づくのは、平日と土日曜日、祝祭日のドライバーの運転技術の格差だ。
▽平日とは違い、土日曜日、祝祭日の関越道は交通量も多くなり、下りも上りも運転があまりうまくないドライバーが多い。車線変更がうまく出来ないドライバーや、ウインカーを出さないで車線変更してくるドライバー、追い越し車線を低速で走るドライバー、軽トラックで速度を出しすぎたために中央分離帯にぶつかって回転させて止まったドライバー、車線をはみ出して走っているドライバー、蛇行運転するドライバーなど、交通事故に繋がるリスクが高いドライバーが多い。北陸道で見かけたことがあるが、漫画雑誌を読みながら運転するドライバーは、関越道ではさすがにいなかった。
▽ただ特に群馬ナンバーのドライバーが怖かった。速度を上げてくるし、多くは外車だった。渋川支局に勤務していた時に気づいたが、群馬の人は車が大好きだ。一つの家庭に家族分の車があり、そのうちの1台は必ずと言っていいほどベンツやワーゲン、ポルシェなどの外車だった。そんな群馬ナンバーの外車が猛烈な速度で私の車を追い抜いていった。私は周囲の車に合わせて80-110キロぐらいで走っているから、おそらく150キロ以上は出ていると思った。猛スピードの走りだ。
▽こんな追い越し車線を走る車の前を、100キロ未満の速度で走っていると、これはどうしてもあおり運転の被害者になる。被害者になりたくないなら、追い越し車線を避けるしかない。それだけ土日曜、祝祭日の関越道を怖かった。
▽もちろん埼玉県警高速隊も負けていなかった。覆面パトを随所に配備し、速度違反の車を狙っていた。私が走る関越道では、毎回のように覆面パトに捕まっている群馬ナンバーの車があった。まさに埼玉県警対群馬ナンバーのドライバーの戦いだと感じた。
▽覆面パトに検挙されている場面に遭遇すると、気持ち的にブレーキが掛かり、速度を落とすようになる。交通違反金を支払うのも嫌だし、免許証の違反点数が増えるのも嫌だから、急に安全運転をするようになる。
▽埼玉県警高速隊のお巡りさん、ご苦労様です。

★106団塊の世代

▽私が朝日新聞埼玉版に新年企画として、団塊の世代をテーマにした連載記事を書いたのは、2012年のことだ。私は当時朝日新聞東埼玉支局に勤めていた。
▽その前年の秋にあった部会で、朝日新聞さいたま総局長からの指示で、「団塊の世代」をテーマにした取材チームの一員として指名された。部会の後に開いた企画会議で、あるベテラン記者が提案した企画が今ひとつ、内容が薄い物だったので、私がリサーチする時間を欲しいとして、その提案された企画内容を保留にした。翌日から私は日常の取材の合間を縫って、企画のリサーチを始めた。
▽団塊の世代とは、1947~1949年に生まれた大量ベビーブームの世代の人たちで、作家の堺屋太一が書いた同名の小説から由来している。安保闘争、学園闘争、高度経済成長、バブル経済を経験している世代で、日本の戦後を象徴する世代でもある。
▽つまり戦後の日本の出来事を経験している世代であるなら、それを経験した人たちを探して話を聞いて、人間ドラマにすればいいのではないか。
▽私はそう考えて、集団就職と上京、バブルと銀行、農業と減反政策、進学高校と卒業生、学園闘争と社会党、マンモス公団住宅と住宅政策など、団塊の世代の経験者を探し歩いていった。
▽こうしてリサーチを兼ねた取材を何本も積み重ねてから、1カ月後の企画会議に提案した。その結果、これで行こうということになり、私はそのまま執筆して、撮影した写真とともに原稿を出した。結果として私が書いた原稿はすべて採用されて、新年企画の連載記事として掲載された。
▽面白くなかったのは、最初に企画を提案したベテラン記者だったようだ。
▽私の連載の後に、第2部として自分の取材した話を連載記事にして出したのだ。
▽正直言って、記事の内容はつまらなかった。つまらないどころか、団塊の世代の企画なのに、団塊の世代ではない1946年生まれの人間を登場させていた。単なる爺さん物語になっていた。読者に失礼ではないかと思った。団塊の世代とはあくまでも1947~1949年生まれを指しており、それ以外は団塊の世代ではない。
▽自分の提案した企画が没になったのなら、それはそれで潔く引っ込めればいいのに、そうはしないで、団塊の世代ではない人物まで登場させる内容に私は唖然とした。オーケーしたデスクもデスクだった。
▽私の連載については、いろいろな反響があり、何通も手紙をいただいた。その影響からか、本紙オピニオン面から原稿の発注があり、顔写真つきで私のコラムが掲載されるオマケも付いた。
▽一方で第2部には、ピント外れの連載があったため、私は呆れてしまい、私は後味が悪かった。

★105引っ越し

▽我々サラリーマン記者が数年に一度直面するのが、人事異動に伴う転勤と引っ越しだ。本社から地方へ、地方から本社へ、地方から地方へといろいろなパターンがあるが、私はどれも経験していて、異動が決まると、引っ越しの煩わしさを予想してしまい、気分は重くなる。
▽地方の1人勤務の支局(朝日新聞は昔通信局と称していた)の場合、基本的には会社の社屋である支局に住んで仕事をする。その局舎は一軒家に事務所が設置されていて、その局舎に引っ越しをする。
▽大変なのは前任者がいるから、その前任者が引っ越しして出て行ってくれないと、引っ越し作業が始まらない、ということだった。引っ越しは本社が契約している大手引っ越し業者と具体的な日程を決めて、搬出作業と搬入作業を打ち合わせする。その打ち合わせがずさんだと、前任者は出て行ってくれない。
▽私は搬入作業を午前中と決めていて、前任者に連絡していたが、前任者が出ていったのが、半日遅れだった、という痛い経験もしている。この場合、引っ越しの作業が終わったのは、夜になっていた。
▽しかも翌朝、局舎内を見ると、ごみとホコリだらけ。引っ越しの搬出作業で掃除をしてから出ていくのは当然だと思っていた私がバカだった。汚いまま前任者は出ていった。たばこを吸っていたらしく、窓ガラスはヤニだらけだったし、室内の電灯の傘には1~2センチのホコリがこびりついたままだった。猫を飼っていたらしく、猫の毛が辺り一面に散らばっていた。トイレも汚かった。ずさんな前任者だった。
▽こういう場合、一般的には、東京本社のしかるべき部門が点検し、それを是正してから私に引き継ぐのがルールだと思うが、朝日新聞にはそうしたことをする発想が全くなかった。すべて地方任せ。すべて性善説に基づくものだった。
▽一般常識なら、通常賃貸マンションを借りて出て行く時、不動産業者が点検して、敷金から引いていくだろう。それがルールだ。そのルールが朝日新聞にはなかった。
▽これに比べると、後に知ったことだが、読売新聞は必ず本社から点検に担当者が来るというから、その落差はかなりのものだと感じる。
▽仕方なく、私は3カ月かけて、清掃業者に来てもらい、局舎内の掃除をしてもらった。窓ガラスが透明だったことを知ったのは、掃除後だった。それだけ汚い曇りガラスになっていたのだ。
▽引っ越しで入れる荷物は、事前に購入した新しい家具や家電だ。引っ越し作業をほぼ終えると、今度は市役所に行き、住民票の異動申請をする。そして警察署に赴き、免許証の住所変更をする。地方では取材の移動にマイカーを使うから、必需品だ。
▽朝日新聞にも女性記者の割合がこんなに増えたのに、女性記者が地方の1人勤務の支局に行くことはほとんどない。その分、男性にしわ寄せが行く。
▽その地方支局が少しずつ減らされている。合理化だ。地方取材網の先細りを心配する。


【再掲載】★049金塊盗難騒ぎ

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤めていた時、金塊盗難事件があった。金塊と言っても本物ではなく、レプリカで、犯人はレプリカとは知らずに強引に盗んでいった。しかもそのレプリカと隣には、本物の銀塊が陳列されていて、犯人はそれには無視した。犯人に対して、同情論まで出る始末だった。
▽2017年4月のことだ。世界文化遺産登録を目指していた新潟県佐渡市の佐渡金銀山の一角、同市相川郷土博物館で展示されていた金塊のレプリカ5枚が17日未明に盗まれ、同市が県警佐渡西署に被害届を出した、と支局のファクスに広報連絡があった。支局のファクスはそのまま私のスマホに転送される。「相川郷土博物館で金のレプリカが盗まれた」という内容で、別の取材でマイカーで移動中だった私は、最初はそのニュースの意味はよく飲み込めず、電話取材で済ませようかと思っていた。しかし、写真は必要だと判断し、マイカーを島の反対側である相川に向かわせた。この判断が、結果として良かった。
▽博物館関係者の説明によると、既に被害届を出したという。何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。展示室にあった収納ケースの裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだ。侵入と同時に警備会社が設置したアラームが鳴ったが、同署員が到着した時には、既にレプリカはなくなっていた。
▽ニュースの焦点は、これが本物の金塊ではなく、偽物のレプリカだったことと、さらには広報には書かれていなかったが、同じケースには本物の銀塊3本も展示されていて、こちらは無事だったことだ。このことは博物館の説明で初めて知った。犯人は金塊を本物だと信じて盗んだらしい。しかも、隣の本物の銀塊は目もくれなかったから、笑えた。収納ケースの掲示板には、「佐渡金山から産出された最後の金銀」などと記されており、この表記に犯人がだまされた可能性もある。
▽このレプリカは、金と銀を産出していた佐渡鉱山が閉山した1989年3月、記念として最後の鉱石から抽出した金として展示した。レプリカは何らかの金属に金メッキで加工したインゴットで、長さ118ミリ、横54ミリ、厚さ8ミリの大きさで計5枚が、ガラスの収納ケースに展示されていた。本物の銀塊が無事だったことについて、同市教委の責任者は、
「私も銀塊が本物だとは知らなかった。ホッとしているが、レプリカとは言え、こちらも大切な市民の財産。これからは防犯体制を充実させたい」
と話した。
▽翌日の各紙の記事を見ると、現場に取材に来なかった社は、本物の銀塊が無事だったことは、全く触れていなかった。ニュースとしてはこのことを伝えないと、ニュース性が下がる。電話取材ではこうした「特落ち」が必ず出ることを痛感した。
▽それにしても、用意周到な犯行だった。侵入から立ち去るまでにわずか24分で完了しており、複数犯の可能性も出ていた。
▽同市によると、何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。侵入した倉庫室の隣に展示室があり、犯人は展示室にまっすぐ移動。壁際にあった重い収納ケースを約1メートル移動させて、裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだと見られる。床などには収納ケースを引きずった跡が残っていた。
▽その後の調べで、レプリカの被害額が計5万円であることが分かった。壊された収納ケース(ショーケース)の被害額の方が約45万円と高くなり、計51万2024円の損害だった。
▽その後の市議会全員協議会では、この事件のことが議論されたが、その質疑も笑えた。
▽議員からは、
「レプリカを置いていたのに、展示案内にはレプリカと書いていなかった。これまで観光客は(本物の)金塊だと見てきた。そっちの方が問題なのではないか」
という質問があった。
▽これに対して市教委の担当者は、このレプリカを展示したのは1998年、旧相川町時代で、(2004年に)合併して佐渡市になっても、表記をそのままにしていたと説明し、
「適切ではなかった。見直していきたい」
と釈明した。
▽また別の議員からは、盗難が明らかになった時の市教委の担当者の報道に対するコメントが悪いとして、
「盗まれなかった銀塊が本物で、盗まれた金塊が偽物。泥棒にだってプライドがある」
と犯人に同情するかのような意見も出された。
▽その後、この盗難事件の犯人2人が本州で長野県警に逮捕されて、被告となった2人と同市の間で、和解金86万円を支払うことで合意した。市によると、和解額は86万2024円。事件当初、レプリカの被害額が計5万円、壊された収納ケース(ショーケース)の被害額が約45万円で計51万円が被害額としていたが、双方の弁護士との話し合いで、レプリカの評価額が最終的に1枚5万円相当だとして、損害賠償の慰謝料などを含めてこの和解額になった模様だ。


【再掲載】★039ゴルフ

▽あるベテラン記者が、ゴルフに誘うためのメールを誤って県内の記者全員に出してしまった。
▽そのゴルフを行う日は、統一地方選挙の最初の土曜日で、ベテラン記者が担当しているのは県内でも有数な激戦区だった。選挙が始まっているのに、ゴルフに行こうとしている。しかも自分の仲間を誘って、だ。
▽私は目を疑った。この神経がわからない。
▽ゴルフが好きなのはわかるが、新聞記者である。新聞記者にとって選挙は大切な取材テーマだ。
▽選挙告示日最初の土曜、日曜日は、有権者に候補者がどんなことを訴えるのか、注目される街頭演説がある。取材に行かなければならない。たとえ休みがついたとしても、取材をする必要がある。それをゴルフに誘うのだから、通常の新聞記者としての感覚は完全に麻痺している。
▽このベテラン記者、ゴルフが好きなことで有名だ。休みになればどこかにゴルフに行ってしまう。だから殺人事件があっても、全く連絡が取れなかったことがあった。連絡が取れない記者など、記者ではない。
▽そしてこのベテラン記者の行動に、デスクや支局長が注意することもなかった。新聞社の機能不全だと私は感じた。
▽この記者、ベテランで、すでに一度会社を退職し、シニアでの雇用になっているため、小遣い稼ぎで仕事をしているとしか思えない。
▽このメールを見た若い記者はどう思うだろうか。働き方改革の延長だと思うのだろうか。若い記者を堕落の世界に誘い込まないでほしいと思った。
▽私は若い頃、上司に言われたことがある。
▽「ゴルフは記者を滅ぼす」
▽「ゴルフをするようになると、ゴルフのために時間を取ることになる。このため仕事がおろそかになる。記者が堕落していくパターンだ」
▽私は新聞記者を40年やってきたが、ゴルフで堕落した記者を何人も見ている。次第に仕事をしなくなるのだ。
▽ゴルフは新聞記者を堕落させる。これが私の経験則である。


【再掲載】★058記者の査定に棒グラフ

▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時のことだ。さいたま総局のデスクが、トンデモナイことをしてくれた。県内記者に原稿をもっと出してもらおうとして、県内記者が出稿する原稿の量を比較する棒グラフを作って、メールで送ってきた。かなり驚いた記憶がある。情けないと思った。原稿の行数を個人別に足して、棒グラフにして来たのだ。
▽個人の名前こそ書かれていなかったが、仕事をしていない記者は一目瞭然だった。行数が少ないからだ。
▽しかし、私は心の中で反発した。何なんだと思った。
▽原稿を出す記者と出さない記者の比較、つまり仕事をする記者と仕事をしない記者の比較のつもりだろうが、これだったら特ダネを取ろうとして夜討ち朝駆けをしている記者の原稿量は少なく、お知らせ原稿を書いている記者の原稿の量は多くなる。こんなことをして、何になるのだろうか。
▽そしてこの棒グラフを当時の総局長がそのまま各記者の能力査定に使ったから、一部で大問題になった。新聞記者の仕事をこんな棒グラフで査定する上司の管理能力のなさに私は驚いたものだ。デスクも総局長もやってはいけないことを、やってしまったと私は思ったものだ。
▽数字で記者の能力を測っては駄目だ。駄目なのにやったのが、このデスクだ。当時の私は準支局長で、支局員の駐車場探しやビルの光熱費の交渉で、取材している時間がなかった。それを棒グラフで査定するのだから、デスクも総局長も、何を考えているのかと思った。
▽当然のように私の査定は悪かった。査定が悪いと給料やボーナス、定期昇給に響く。痛い目に遭った。さいたま総局長もお馬鹿さんだった。
▽朝日新聞は記者の査定をするのが大好きな会社で、記者も良い査定をしてもらい、自分が希望する部署に行きたいから、そうした上司にすり寄っていく。査定を気にする記者が多くなった。そうした部下の足下を見て、上司は権力を行使する。所詮、査定など好き嫌いで決まるものだ。
▽パワハラこそ見かけなくなったが、人事権を使った横暴は続いている。
▽その棒グラフを作ったさいたま総局デスクの妻が、東京新聞では有名な女性記者で、映画「新聞記者」にもなった本を書いた人物であることを後に知って、その偶像との落差に後に驚いたことがある。彼女はその自分の本の中で、「夫を記者として尊敬する」という趣旨のことを書いていたからだ。えっと思った。笑えた。
▽私はこの読売新聞から転職してきたというデスクのこの発想が理解できないし、こんな行為を許したくない。読売新聞ではこんな査定方法をしているのだろうか。新聞記者の能力を原稿量で測ってはいけない。


【再掲載】★023「ざまあみろ」

▽「ざまあみろ」
▽そう言われた。「ざまあみろ」とは、「様を見ろ」の進化形の言葉で、失敗した相手に嘲り罵った言葉だ。
▽そう私に言ってきたのは、朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)のデスクだった。私が浦和支局から塩釜通信局(当時)に転勤になった時に浴びせられた言葉だった。客観的に言えば、人事異動で飛ばされたことになるのだが、上司としてここまで言うか、と思うほど、酷い言葉だった、と今でも思う。それだけ私とこのデスクの関係は良くなかった。
▽そのデスクはこうも放った。
▽「俺が飛ばしてやったんだ」
▽さも勝ち誇ったように、私を見下していた。完全なハラスメントだろう。
▽このデスク、今思っても、中間職としてはどうにもならないデスクだった。デスク能力も低かったし、原稿の裁きもヘタだった。浦和支局長からは再三にわたって注意されたこともある。その腹いせに、部下である私に怒りのターゲットが向けられた。原稿は変に直すし、どう見てもおかしな振る舞いが続いていた。
▽ただ、デスクに人事権があるのではない。査定する権利や支局長にサジェスチョンする権利があるだけだ。支局長に私の悪口を徹底的に言って、その結果、私が飛ばされたことを、「飛ばしてやった」と表現したかったのだろう。
▽「ざまあみろ」発言もその延長上に出てきた言葉なのだろう。
▽結果として私は飛ばされたとして、塩釜通信局に赴任したが、その場所での仕事は楽しかったし、多くの上司、先輩、仲間に恵まれた。今でも付き合ってくれている当時のデスクもいる。馬鹿なデスクが、「飛ばした」と思っていても、それは受け手も問題だ。私はその塩釜通信局長時代に出来た仲間とともに、その後本社に上がったし、取材のチャンスも作れた。一時的に飛ばされたとしても、苦痛はなかった。
▽逆に私を「ざまあみろ」と放ったデスクは、その後編集から全く外れてしまい、最後の最後にシニアとなって、秩父通信局に赴任して最後を迎えた。会社を退職後、最近になって亡くなったことを知った。
▽ただしこの人間が死亡したことに対して、私は「ざまあみろ」などとは絶対に言わない。こんなレベルの低い品性の人間と同じレベルだと思われたくないからだ。今思えば、この人間は当時病んでいたのだろう。そう思うしかない。
▽昔、入社した時の先輩が話してくれた言葉を思い出す。
▽「嫌な上司、いつかはいなくなる」
▽確かにいなくなり、亡くなった。

★097滅茶苦茶な命令

▽「県警情報は知事に上がってくるんだ。その情報がなぜ取れないんだ!」
▽朝日新聞浦和支局に勤務していた時、こんな滅茶苦茶な命令を浦和支局長から受けたことがある。命令と言うよりは、叱責。否、ハラスメントだろう。
▽当時、私は県警担当キャップから県政担当キャップに移ったばかりだった。前年に発生した連続幼女誘拐殺人事件は3人目の犠牲者が出た後、しばらく動きはなく、年を越した。私は4月に県政担当になったところで、4人目の犠牲者が出た。しばらく動きを見せていたなかった容疑者が再び動き出した時だった。
▽県警は当時、多くのことを隠していた。隠していたから、マスコミも疑心暗鬼になる。当然、夜討ち朝駆けは続いたが、なかなか情報は取れなかった。
▽県警がつかんだ極秘情報を、県知事が知る立場にあるのだろうか。否、現代の警察機構ならあり得ない。国家警察と地方警察があった戦後間もない日本では、そんなことがあったかもしれないが、県警情報を県知事がつかめるはずがないのだ。
▽こんな滅茶苦茶な命令を、支局長は熱くなって怒鳴った。しかも支局内にはデスクも支局員もいた。こんな滅茶苦茶な命令がおかしいとだれもが思っているのに、デスクも何も言えない。デスクは取材・執筆の責任者であり、部下に具体的な指導をする立場だが、この暴走する支局長に何も止めることはしなかった。
▽今思えば、支局長はこの連続幼女誘拐殺人事件の報道に、異様に熱くなっていたのだろう。正常な冷静な判断が出来なくなっていたのだろう。そう思う。そうでなければ、こんな暴言に近い命令など出せるはずはない。
▽この支局長は本社政治部デスクから異動してきた。後に知ったことだが、政治部では「武闘派」と呼ばれる人物だった。部下を潰して、出世していくタイプだった。
▽「俺は仕事が出来ない奴を、みんな左遷させた」
▽こんなことをよく自慢げに話していた。
▽朝日新聞は政治部も社会部も派閥争いで有名な会社で、人事異動が異様に好きな組織だ。朝日新聞の支局員の人事責任者は支局長だから、だれも反論できない。こんな武闘派の人間に、自分の将来を左右されてはかなわない。
▽こんな暴言に対して、私は心の中で、「最悪」と叫んでいた。
▽この話には続きがあるので、その話をまたしようと思う。

★096渋谷暴動事件

▽「渋谷暴動事件で指名手配された男が逮捕された。被害者の遺族宅に行ってほしい」
▽朝日新聞新潟総局のキャップからの電話連絡で、こう指示されたのは、2017年5月12日朝のことだ。当時私は新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた。ちょうど朝のジョギングを終えて、シャワーを浴びようとしていた。
▽渋谷暴動事件は1971年11月14日、中核派の呼びかけで、沖縄返還協定に反対する学生らが、渋谷に集結。デモ隊が暴徒化し、派出所や機動隊員らが襲撃されたもの。警察官1人が死亡、3人がけがをした事件で、その警察官こそ、佐渡島出身の人間だった。当時、新潟県警の警察官として、警視庁の応援に来ていて、事件に巻き込まれた。
▽その加害者側の1人が逃亡し、長い間潜伏していた。それが大阪府警に広島市内のアジトで身柄を確保されたというのだ。公務執行妨害の容疑だった。後に身柄は警視庁に移されて、警視庁が再逮捕した。
▽渋谷暴動事件は知っていたが、それがなぜ佐渡島と関係があるのか、最初はピンと来なかった。実は被害者となった警察官が佐渡島出身だと知ったのは、そのキャップからの説明で、だった。その遺族の話を聞くため取材に行ってほしい、という指示内容だった。
▽渋谷暴動事件の被害者の1人が佐渡島出身、という情報の引き継ぎは佐渡支局にはなかった。だから住所も分からない。広い島のどこに行けばいいのか。自宅が相川地区らしいというので、私はシャワーも浴びず、そのまま外出着に着替えて、マイカーを運転して出た。相川地区に向かった。朝日新聞佐渡支局がある両津地区とは島の正反対にある場所で、渋滞があれば1時間以上かかる。
▽その間、新潟総局の若い記者が、キャップの指示に従って、電話をかけまくって、家探しをしていた。そして私が相川地区に近づくと、その自宅が特定できたと電話連絡があった。メールで住所を連絡してもらい、これをカーナビに入力して、自宅に向かった。国道とバイパス、七浦海岸を走らせて、被害者の兄宅に着いた。既にテレビ局が2社来ていた。地元のテレビ記者は、地元での契約記者だから、佐渡在住が長い。このため調べなくても住所は分かっていたのだろう。
▽話を聞いて、写真を撮り、マイカーに戻って、貸与パソコンで以下のようにこんな原稿を書いて送った。原稿は実名にしている。
《兄(73、当時)=新潟県佐渡市=は自宅で、朝日新聞の取材に、
「容疑者だとしたら、やっと捕まったかという気持ちです。主義主張は別として、倒れた人間に火炎瓶を投げて、前進を火だるまにさせた。弟は顔が炭化し、上半身はやけどだらけだった」
と振り返った。
▽兄は4人兄弟の長男で、被害者は一番年下。兄によれば、子どもの時はやんちゃで、明るく、人に好かれていたという。「七つ年下だった。優しい子でした」。自宅向かいに新潟県警佐渡西署橘駐在所があり、この駐在所の警察がよく自宅に来てくれたという。「将来は警察官になれよ」と何回も言われて、高校卒業後、県警に入った。警察学校を卒業後機動隊に配属され、そのまま東京に派遣され、事件に遭ったという。
▽事件の知らせを受けて、家族でフェリーと新幹線を乗り継いで病院に向かった。弟の姿を見た時、ショックだったという。
▽兄の元には、警視庁や県警、地元の佐渡西署の幹部らが毎年、事件報告や墓参りに来てくれると言い、この事件に対する警察の執念を感じたという。「警察の威信をかけての捜査をしていると思いました」と話す。
▽今回も警視庁や地元の署長からこの日朝、連絡があったという》
▽取材を終えたころに、NHKの取材クルーや地元紙記者が来たから、私は結構早い時間帯に到着したことになる。
▽上記の原稿はかなり削られて、夕刊に載った。そして翌日の朝刊新潟県版にも載せた。
▽逮捕された容疑者は、デモの警備中だった新潟県警の巡査を、仲間と共に火炎瓶や鉄パイプなどで襲撃し、殺害した他、別の警察官3人にもけがをさせ、派出所に放火したなどとして、殺人、現住建造物等放火、傷害、公務執行妨害、凶器準備集合の五つの罪で起訴された。
▽そして2022年10月に初公判が始まり、無実を主張した。逮捕から初公判まで5年も経過していた。

★095光熱費の踏み倒し

▽これは後輩から聞いた話だ。
▽転勤で1人勤務の支局に赴任した時、前任者が電気代や水道代、ガス代の一部を支払わずに行ってしまった。自分で使った光熱費なのだから、日割り計算で、支払って出て行くべきものなのに、そのまま放置していた。電気会社などからは支払いの催促が来て、その後輩が前任者に注意をすると、
「前の人間もやってんだからいいだろ」
と言い返されたという。
▽通常の引っ越しでも、アパートやマンション、民家を借りた場合、最後に支払う光熱費は、日割り計算をして支払って出ていくのが常識でありルールだ。それは朝日新聞でも同じことだ。しかしこの前任者は、踏み倒そうとしていた。
▽困ったのが後任の後輩だ。本人に言ってもらちがあかないので、本社編集局の担当部長に相談したが、
「本人同士で話し合ってください」
と言われるだけで、何もできなかった。部長も事情がよく理解できなかったらしい。
▽こうして前任者と後任者の話し合いは出来ず、光熱費の一部を踏み倒した前任者は、そのまま支払いを放置したままになった。踏み倒した人間が勝ったことになる。
▽こんなことが許されるのか、と私も驚いた。私もいろいろ地方を転勤してきたが、前任者が光熱費を支払わないで出て行ったというケースは全くなかった。それが当然だった。私も転勤する時は、光熱費を日割り計算して、支払ってきた。こんな常識が出来ない人間が、社内にいるのだ。
▽確かに朝日新聞の中には、時折、こうしてカネにルーズな人間がいる。ルーズというより、確信犯に近い。乗ってもいない電車代を請求したり、遊びに行った電車賃を取材したと称して請求したりする。支局の経費に使う予備費をこっそりと酒飲みに使う。後輩からカネを借りて、返さない。
▽しかし、なかなか表面化しない。表面化した時は、既に処分されていた、ということもあった。
▽朝日新聞の一部社員よ、カネについては慎重な扱いをしてくださいよ。


★093横領したベテラン記者

▽どうしようか、迷ったが、やはり書くことにした。モヤモヤ感が残るからだ。刑事事件としても時効になったことから記すことにした。
▽ある地方都市の支局長だった時の話だ。支局名は伏せる。部下である支局員のベテラン記者の行動があまりにおかしいので、アルバイトのアシスタント嬢に指示して、そのベテラン記者の取材で使った電車の利用状況を見ることにした。
▽JRが発行するSuicaカードは、利用実績を印刷できるため、そのまま印刷したものを会社側に実費請求できる。その実費請求に添付したSuicaカードの利用状況用紙のコピーをアシスタント嬢にしてもらい、その中身を点検することにした。部下の行動を調べることも、中間管理職としては当然の仕事だ。
▽コピーをこっそりと自宅に持ち帰り、帰宅して、ビールを飲みながら、コピーしたカードの明細を見ていた。
▽全部で3枚。直前のものがなくて、見ることが出来なかったが、このうちの1枚は総選挙取材期間での移動だから、この1枚をずっと見ていた。
▽この1枚に総選挙投開票日の移動記録があった。気になったのは、目的が分からない駅で降りていたことだ。確か、この日彼は支局管内の開票所に行っていたはずだから、こんな場所で降りる意味がない。おそらく、その駅で降りて、食事をして、そのままタクシーで開票所に行ったと推測出来る。タクシーで行く意味が分からない。
▽そして残る2枚。
▽これはすべてでたらめの私用での利用だった。
▽都内に行くなどの理由で、つまり取材とは全く言っていないのに、利用した電車代をすべて請求している。年末の休みや休みの日の移動も。
▽仮に取材先と情報交換だとしても、帰省手当は単身赴任の場合、自宅に1カ月間に2回帰って、それを請求するのは、二重請求だ。会社では2カ月に3回の帰省しか認めていない。この2カ月に3回の帰省にかかる電車代は、給料とともに振り込みされる。つまりこれ以上帰るのなら自己負担のはずだが、それをやっていない。
▽物販請求もあった。160円。これはドリンクだろう。
▽さらには、数日前に都内の病院に行った時、この日は休みを取って病院に行ったが、これも電車賃を請求していた。
▽全くでたらめの請求だ。
▽おかしくなってしまい、何回も何回もこのコピーを見て、焼酎に切り替えて、飲んでいた。
▽この不正請求を見逃すか、それとも人事権者である総局長に報告すべきか。
▽私は人事権がない中間職だったので、悩んだ末に、総局長に後日、報告した。
▽しかし結果として、握りつぶされた。
▽理由は分からない。
▽こうした不正を見抜けなかった管理職としての能力を否定されるのが、嫌だったためだと後に思った。
▽本社では確か経済部の記者だったと思うが、自宅に帰るのに、ひと駅遠い駅で降りたことにして、実費請求していた中堅記者がいた。不正が発覚した時、その上司ははっきりと言ったそうだ。
「もう会社を辞めた方が、あなたのためだ」
と。その指示に従って、その中堅記者は辞めていったそうだ。
▽それに比べると、我が総局長はキチンと対処しなかったことになる。
▽ちなみにこの不正をしたベテラン記者は67歳まで働いて、やっと辞めていった。不正の責任は一切取らなかった。私にとって後味悪い不正請求だった。


★091シンパの引き継ぎ

▽読売新聞社会部記者だったノンフィクション作家の清武英利氏が月刊文藝春秋で書いていたが、読売新聞社会部は伝統的に記者の夜回り先、シンパ先を後任者にキチンと引き継ぐ伝統があったという。ヘーっと私は思った。会社の違いかな、とも感じた。
▽私が朝日新聞に入ったころは、警察官のシンパづくりのために、同じ人物に夜回り、朝駆けを100日続けろ、と言われていた。当時の警視庁キャップがそんなことを社内報に書いていた。そうして警察官のシンパを作っていけ、という内容だった。それでダメなら、その警察官をシンパにする努力はやめて、別の警察官をターゲットにしろとも言われた。
▽こうしてシンパを少しずつ作って、警察内部のアンテナを作るのが、サツ回り(警察担当)の仕事だと説かれていた。
▽そのシンパづくりは十人十色の方法があり、引き継げるものではなかった。記者が10人いれば、取材方法もアプローチも違うことと同じで、記者が自分の個性を打ち立てて、シンパ作りに努めるしかなかった。それゆえ、私のシンパになった警察官が、私の後任記者のシンパになることは、ありえなかった。また別の記者が作ったシンパの警察官が私のシンパになることもあり得なかった。
▽かなり古い話だが、私が北海道新聞から朝日新聞に転職し、埼玉県警担当キャップになった時も、前任者からの引き継ぎは全くなかった。それが当然だと思っていたし、夜回り先も、少しずつ私が開拓していった。大きな事件事故がない時こそ、夜回りを続けて、シンパづくりをしていった。
▽こういうシンパづくりが、大きな事件では役立ってくるものだ。事実、連続幼女誘拐殺人事件では、県警がひた隠していた情報をある程度、スムーズに取れていた。ライバル社であった読売新聞は、悲しいが、県警キャップが夜回り先の刑事の自宅を一生懸命に探している姿を何回も目撃している。当時の住宅地の再開発で、区画整理があり、住宅がわかりづらい事情もあるが、お粗末だった。事件が起きてから、シンパを作ろうというのは、かなり無理がある。遅いのだ。家探しをしているということは、読売新聞伝統の引き継ぎがあったからなのだろうか。
▽私が県警担当から外れて、後任者にはシンパの引き継ぎは、幹部の自宅こそ教えたが、それ以外のことは当然ながらしなかった。後任者は自分でシンパを作るしかないのだ。これは冷たいとか、勝手だとかという問題ではない。自分にしか話してくれないシンパを作るしかないのが、警察担当記者なのだ。


★087手打ちそばのウソ

▽埼玉県秩父市はそばの街と言われている。同市とその周辺の町村には多くのそば屋があり、観光客で賑わっている。看板には「手打ち」と書かれており、それに誘われて客が店に入っている。しかし、実は多くの店が手打ちそばではなく、製麺会社から仕入れた蕎麦を使っていたり、製麺機械を導入して、機械で作っている店も多い。そのことを知って、私は驚いたことがある。
▽恐らくこの感覚は、井戸水を沸かして、「天然温泉」という看板を掲げている温泉宿と同じで、客には本物と偽物は見分けが付かない、分からないだろうという経営者の発想があるからなのだろう。
▽朝日新聞秩父支局に勤務していた時、いろいろなそば屋にそばを食べに行った。そして夜には親しくなったそば屋で、ビールや酒を飲むようになり、そこの店の店主と飲みながらそば談義や雑談をするようになった。
▽その話の中で、出てきたのが、「手打ち蕎麦」の真実だった。地元の製麺会社からそば粉を仕入れるにしても、その品種は上中下があり、多くの店は一番下の「下」を購入しているそうだ。経費を浮かすためだ。市内外の多くの店が、既に出来上がっている麺を購入し、そのまま茹でて提供しているだけの店も多いという。それでも手打ちそばと味も食感も全く変わらないという。製麺機械の技術の発達で、手打ちと変わらない食感を出せるようになっているらしい。
▽そして常連客が市内外のそば屋を全部食べ歩いて、ABCの評価をした一覧表を見せてくれた。人気の店と、本物の手打ちそばの店が微妙にずれていて、面白かった。そんなものだなとも感じた。
▽確かにそのような話は、群馬県の水沢うどんを取材した時にも聞いたことがある。私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時のことだ。日本三大うどんの一つとされる水沢うどんは、確かにうまいのだが、ここでも手打ちではなく、機械で作っている店が多いことを、取材後に知ったことがある。機械の技術の向上で、手打ちに負けないコシの強さが出てくるという話も聞いた。地元では公然の秘密だったが、観光客はそんなことを知らないで、「うまい」と言って食べてくれるのだ。
▽秩父のそばも同じだ。手打ちも機械打ちも変わらない食感になっているのに、観光客は「手打ち蕎麦の方がうまい」と、根拠はなくなっているのに、最初から信じて食べているのだ。だから、看板に偽りがあっても、「手打ち」の看板を外すわけには行かない店があるわけだ。
▽秩父市の中心部の国道沿いに大きなそば屋があり、大きな駐車場もあり、毎日のようにマイカーで来る観光客で賑わっていた。ここも手打ちそばではなく、製麺会社から蕎麦を買っている店だった。地元では有名な話だった。それでも観光客はお構いなく、入店していった。
▽しかし、その店が別の場所に移転してしまうと、その店の客は激減した。悲しいかな、中心街にあったからこそ、賑わっていただけの店だった。それまでの観光客はうまいそばを求めて来るのではなかったのだ。
▽もう一つ気づいたことだが、秩父市のそば屋の多くは、日中の昼食時間帯しか店を開いていない。午前11時~午後2時だけが開店時間だ。これだけで1日の稼ぎをしてしまう。逆に言えば、それだけそば1杯の料金単価が高い。天ざるそばだったら、1800~2400円ぐらいか。
▽江戸時代はそば屋も寿司屋も当時のファストフードだったはずなのに、現代は高級店になってしまった。それだけ高くなっているのだ。1000円以上もする昼食って、私にはあり得ない。
▽そして驚くことなかれ。水沢うどんもほとんどの店が秩父の蕎麦屋と同様、開店時間が午前11時~午後2時だけで、夜の営業はしていない。現金商売で、この時間帯だけで稼いでしまうのだ。水沢うどんも安くない。高い。それでも連日のように観光バスが到着し、バスからドッと出てきた観光客で賑わう。
▽恐るべし、ご当地グルメの成功例だろう。


★084レッズの店、力

▽さいたま市の浦和駅西口から繁華街を5分ほど歩くと、居酒屋「力(りき)がある。サッカーJリーグ、浦和レッズのサポーターが集まる場所で、焼き鳥を中心としたメニューが並ぶ。レッズの試合がある時は、ここで試合中継のテレビ画面が映し出されて、サポーターからの歓喜の声が響く。
▽もっとも、新型コロナウイルス感染の影響でその光景は一変しているが、それでもサポーターの客は試合がない日でも、三々五々、飲食に訪れる。
▽今から30年以上前、私が朝日新聞浦和支局(現さいたま総局)に勤務している時、「力」は浦和駅と県庁を結ぶ裏道の商店街に小さな店として構えていた。店外の道路に木箱を椅子代わりに出して、結構早い時間帯から客が飲みに来ていた。たしか、当時の共同通信浦和支局のデスクも常連だったような気がする。小さな、どこにでもあるような焼き鳥屋だった。
▽それがサッカーJリーグの発足で、浦和に浦和レッズが誕生すると、この店はレッズの快進撃とともに大きくなっていった。店舗数も拡大した。
▽かつての浦和市は元々サッカーの街を標榜しているだけに、多くのサッカーファンがこの店に集まるようになった。
▽私が転勤に継ぐ転勤で埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時、たまたまレッズの担当をすることになり、ホームの埼玉スタジアムやアウェーの各地の試合の取材を続けていた。大宮アルディージャがJ1にいた時は、「さいたまダービー」の取材を、会社同僚と続けてきた時もあった。
▽ある時、この「力」の2階を借り切って、関係者が集まる会合があった。目的は忘れたが、レッズのOBらが集まっていた。レッズを代表する、否、日本代表だった「野人」こと岡野雅行や山田暢久ら、そうそうたるかつての選手の顔があった。
▽その中に、「力」の社長がいた。そんなに目立たないが、こうした選手を支えてきたような自負を感じた。この店はレッズとともにあるんだ、という意識を感じた。
▽楽しい一夜だった。
▽その後、社長とは1年に1-2回、電話で話すだけになっていたが、レッズに対する思いはずっと続いていた。私も年に何回もこの店を利用し続けてきた。会社仲間とともに来ているし、1人飲みもしている。
▽それから何年もたって、社長の訃報を知った。娘さんからのはがきで、その死去を知った。そのはがきには、父親に対する熱い思いが綴られていた。愛されていたんだなと感じた。
▽レッズの試合結果に一喜一憂しながら、天国でその動向を見守っているのだろう。

★083降版時間の怖さ

▽東京近郊の支局に赴任して、県警担当になった時の話だ。
▽各社、記者クラブで昼のニュースを見終えると、食事にぞろぞろと出て行くのを不思議に思っていた。
▽私が不思議に思ったのは、本社での夕刊作業はまだ続いており、その作業を無視して食事に出て行くことだった。
▽当時、この地域に届く夕刊3版の降版時間は各社ほぼ同じ午後零時半で、降版時間が過ぎたため、食事に行っても問題はないと判断してのことだろう。
▽しかし夕刊最終版の4版の降版時間は午後1時半であり、この時間帯に大きな事件事故が発生したら、夕刊最終版にニュースを突っ込まなくてはならない。記者クラブから離れて、食事に出て行くのは、無謀な行為だと感じた。この無謀な行為が、前任者を含めて、後輩記者も続けているのを知って、私は驚愕した。
▽新聞には、降版時間という概念がある。文字通り、「版を降ろす」、つまり整理部(もしくは編集センターという名称の社もある)で編集された紙面を印刷に回す時間を指す。
▽新聞には版ごとに降版時間が決められており、印刷所から遠い地方に届ける新聞の降版時間は早い。配送時間、配達時間を逆算して決める。逆に印刷所が近い東京都内では、降版時間が遅い。
▽また各面でも降版時間が違っている。1面や社会面、スポーツ面などは降版時間が遅く、生活面などは早い。
▽この降版時間の概念を少しでも知っているなら、県警担当記者は夕刊作業の段階で、記者クラブを離れることはあり得ない。
▽だから、私は県警本部に売りに来る弁当屋の弁当を買って、昼食を記者クラブで摂っていた。夕刊作業段階で外食は出来なかった。
▽私の食事を見て、ある後輩はこんな事を話していたことを思い出す。
「弁当が好きなんですね」
▽こいつ、何も知らないんだと感じてしまった。好きで弁当を食っているわけではないのだ。
▽そのうち、県内の自治体で汚職事件が発生し、県警が課長から、部長、市長を順次逮捕していく展開になった。私はすべて夕刊最終版に、「きょう逮捕へ」という特ダネを書いていった。
▽するとどうだろう、各社も夕刊作業時間帯に外食に出るのはやめるようになった。
▽夕刊最終版の怖さを知ったためだろう。降版時間の意味を知っただけでも勉強になっただろうと今でも思っている。

★080市議選の煩わしさ

▽新聞記者の地方勤務の中で一番、面倒だったのが統一地方選だった。記事には直接ならないくせに、やたらに仕事の作業量が多い。県議選と市町村の首長選、市町村の議員選挙の取材である。候補者1人1人のデータ入力という作業がある。統一地方選の場合、持ち場の管内で、選挙を実施する市町村数が多ければ多いほど、作業量は多くなる。これが結構つらい作業だった。
▽選挙のある数カ月前には、各自治体の選挙管理委員会が事前説明会を開く。この説明会に記者も出向いて、立候補予定者に調査表を渡して、書いてもらう。調査表とは履歴書の一種で、書いてもらった生年月日、学歴や職業履歴、現在の肩書について、点検作業をする。これはかなり時間がかかる作業だった。
▽第一、調査表を書いてくれない候補者もいて、何回も何位も催促することもあった。
▽以前は出身大学へ電話をかけて確認することも必要だったが、個人情報を理由に大学側が回答してくれないようになってしまい、その学歴を確認することは不可能になった。学歴不正は後に問題になることから、その趣旨を候補者本人に伝えて、書いてもらうようなった。職業履歴も企業側に連絡しても、答えてくれないことも多くなった。調査表に書かれた内容を一つ一つ確認していくのだが、かなりの時間を要する作業だ。
▽こうして点検した経歴は、パソコンを使って、本社の選挙用のホストコンピューターに入力していく。入力されたデータは、選挙の告示日と投開票日の前々日、そして投開票日に組まれる紙面で使われる。
▽もっと以前なら、この調査表に加えて、市議選では候補者全員の顔写真撮影をしていた。まだデジカメなどない時代で、フィルムカメラで候補者1人1人を撮影した。候補者には本人の名前と選挙名、選挙日を書いた紙を持ってもらい、撮影した。後の確認作業のためだ。撮影したフィルムを現像し、そのネガを紙焼きしていくが、写真の枚数が多くて、暗室での水洗いだけでは無理のため、支局の居住用の風呂場を使って水洗いした経験もある。
▽例えば、新潟県上越市の上越支局に勤務していた時には、当時の管内には22市町村もの自治体があった。全部が全部、統一地方選での選挙ではなかったが、その数はかなりのものだった。群馬県渋川市の渋川支局では、私が勤務していた時は16市町村があった。
▽平成の大合併で市町村数は減ったため、調査表の作業量は減ったが、それでも管内の市町村数が多いと、特定の支局だけが忙しくなるのだ。
▽こうした煩雑な作業は、新聞社だけの作業だ。4年の一度の統一地方選は、悩ましい仕事の一つだった。


★078新聞ハラスメント

▽セクハラやパワハラなどの言葉が定着してきたが、私は「新聞ハラスメント」という言葉がもっと使われてもいいと思っている。
▽ある地方で市役所を取材していた時だ。私の上司である支局長が、私に向かって、
「この人間は悪者なんだから、批判しなくてはいけない」
と言ってきた。
▽私はこの市長と何回も何回も接触し、雑談も含めていろいろと話してきたが、悪者ではなく、むしろ正義感の強い市長だった。不正もなく、悪いことは全くしていない。行政の長として、他の市役所の市長よりも、より良い仕事を続けてきた。だから私は嘘を書けなかった。
▽しかし、支局長は、私の態度に納得ができなかったみたいだ。
「なぜ批判記事を書かないのか」
と私に文句を言ってきた。
▽私は抵抗した。批判する事実がない、と反論した。
▽最後はこの市長を批判する勢力を批判し、市長を擁護する記事を書いた。嘘をでっち上げている勢力について、詳細に記事を書いた。その記事を読んだ本社社会部のデスクも編集委員も、さらにはキャップも面白いと絶賛してくれた。だがこの記事を読んだ支局長は、私に喧嘩を売るように、文句を言ってきた記憶がある。記事を書き直せ、とまで言ってきたが、私は無視をした。原稿は直接、本社に送ったため、支局長は自分の権限で直すことは出来なかった。本社のコンピューターに送った私の原稿を直すアクセス権がなかったのだ。
▽要するに市長を批判する勢力側から、一方的な情報を取ってきた支局長が、勝手に「市長は悪者だ」と思い込んでいるだけの話だった。自分の都合良い解釈で、部下を指導するなら、これはハラスメントだ。まさに「新聞ハラスメント」だと今でも思っている。
▽新聞ハラスメントをしたことを、本社編集幹部が認識したためだろう、支局長は編集から外された。
▽こんな私の主張する新聞ハラスメントについて、今は朝日新聞幹部になった人間が、
「そういう考えがあってもいいし、そういうことも社内では実際に起きている」
と私を擁護してくれた。一方的な考えを部下に押しつけるのはおかしいということだ。
▽新聞ハラスメントという言葉を私は今後も使っていきたい。


★073ダコタ事件

▽終戦翌年の1946年1月、新潟県・佐渡島の北西部、高千地区の海岸に英軍機が不時着した。わずか5カ月前までは敵国だった英国人5人が乗っていた。佐渡の島人は敵愾心を捨てて、英軍機の修理が終わり、再び離陸するまでの40日間、誠心誠意でもてなした。最後の日は「蛍の光」を歌い合った。地元では飛行機名を取って「ダコタ事件」と呼ばれている。
▽私が朝日新聞佐渡支局に勤務していた時に取材したのが、この実話を10年以上も前に聞き取り調査して、全体像を洗い出した地元の公民館長の男性(当時・66)だった。当時小学校教諭だった男性は、実家があった高千地区でのこの出来事を子どもたちに教えようと、総合学習の一環として調べ始めた。残された資料は全くなく、不時着を目撃した人、英国人を泊めた旅館関係者、通訳ら数十人から1年かけて聞き取り調査し、2004年に地元の研究誌に書いた。
▽「地元でも竹やりを持たせる軍事訓練があるなど、鬼畜米英を叫んでいた。みんな極度の緊張状態だった。それが終戦からわずか5カ月でそんな感情を見せないんです。確かに佐渡では戦争での被害がなかった。それに佐渡の人は素直で人情があるからなのか、と思いました」
▽英軍機はインドから上海経由で日本を目指したが、目的ははっきりしていない。
「戦後の日本をどうするか、戦勝国同士で話し合うため日本を目指したのではないか」
と男性。派手な服装をしたサングラスの女性が乗っていたことも、島人からの証言で分かった。タイピストだったらしい。政府要人を乗せていたという話もある。終戦直後の歴史の一断面をひも解いたことに、男性は、
「終戦直後には、空襲などの被害がなかった佐渡でもこんな事件があったことを多くの人に知ってもらいたい」
と私に話した。
▽その史実を映画化したのが、2013年に公開された「飛べ!ダコタ」だ。比嘉愛未、柄本明らが出演し、地元住民が協力して完成した。
▽映画を見るとその実話を土台に、戦争の不条理を描く筋立てに仕上げている。高い波が来ることを理由に、大勢の村人が不時着機をロープで移動させ、「佐渡もんは当たり前のことをしただけだ」と誇らしげに言うシーン。けがをした兵士、戦死した兵士の家族との愛憎。最後はけがした兵士が機体に火を点けようとするシーンなどは完全にフィクションのようだ。最後の宴で蛍の光を歌うシーンで泣かせるのは史実。そして石を敷き詰めた臨時滑走路で飛行機が離陸する。みんな、「飛べ」と叫ぶ。最後のシーンだ。だが史実では石を敷き詰めた滑走路では飛ぶことが出来ず、新潟から取り寄せた金網を敷いて滑走路にしているのだ。
▽実話を元に作ったフィクションだが、それでも泣けるシーンはあり、完成度は高かった。


★071デスクの判断劣化

▽私が2021年8月に埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局を最後に退社してからだったが、朝日新聞は極端な合理化を急速に進めるようになった。その一つが地方支局の廃止だ。廃止によって、現場取材に出る記者がいなくなり、その結果、現場の記事が出なくなるという悪循環に陥っている。それと、気になるのが取材を指揮するはずのデスクの判断能力の劣化だ。現場に記者を行かせる判断も出来ないでいるようなのだ。
▽例えば、2022年9月13日に埼玉県秩父市中津川で発生した土砂崩れ。県道が土砂で通行できなくなり、二つの地区の住民が孤立化した。電線などが切断されて、停電が続いた。
▽この土砂崩れの記事について見てみよう。
▽ヤフーに埼玉新聞の記事がアップされて、関東でのアクセスランキングはトップだった。
《13日の午前6時半ごろ、埼玉県秩父市中津川で土砂崩れが発生して県道210号をふさいでいるのを地元住民が発見し、県秩父県土整備事務所に連絡した。県や市などによると、崩落場所から南側の秩父市街方面の県道入り口から12・4キロが通行止めになり、約80軒が停電した。復旧の見通しは立っていない。北側の群馬方面は中双里区に2人、中津川区に14人が住んでいるが、けが人はないという。
▽県災害対策課によると、崩落は山中の県道中津川三峰口停車場線で発生。土砂はトンネル状に道路を覆う全長約30メートルの「大滑ロックシェッド」の約3分の2を覆い、一部が県道をふさいでいる》
《大野元裕知事は同日午後2時ごろに現地に到着。同事務所の職員らと共に、ロックシェッドや中津川流域に流れ込んだ土砂の爪痕を念入りに確認した。視察後、現地で取材に応じた大野知事は「崩落による人的被害は現段階で一件も確認されていないので、その点はほっとしている。孤立状態は免れているが、今後、ライフライン事業者や市と強調しながら、即急な復旧に当たる必要がある」と話した。
▽同市内では3日前に雨が降ったが、土砂崩れとの因果関係は不明だという》
▽記事を読む限り、県道を塞いだことから、県の出先機関である県秩父県土整備事務所が担当部署で、第一報は県庁から県政記者クラブへの発表だった。
▽この土砂崩れについて、毎日新聞も読売新聞も埼玉版でカタで大きく扱っていた。新聞で「カタ」とは、準トップ級の扱いのことで、トップは「アタマ」と読んでいる。毎日新聞も読売新聞も現地の記者が現場に行き、これとは別に本社からはヘリを飛ばして、空撮して、写真を掲載していた。現地の記者を現場に行かせるのも、本社からヘリを飛ばしてもらうのも、さいたま支局(朝日新聞はさいたま総局)のデスクの判断だ。県政担当者からの「土砂崩れ発生」という連絡を受けて、毎日新聞も読売新聞もデスクがキチンと判断した結果だった。大野知事も現地を視察したことも大きいだろう。
▽これに対して、朝日新聞は埼玉版でベタ記事扱いだった。ベタ記事とは見出しが1段と一番小さな扱いで、行数も短い。県の発表だけで書いたとしか思えない内容だった。現地に記者も行かせていない。災害なのに、現場に行かないのはなぜか。
▽朝日新聞は私が退社した後の秩父支局は、記者を空席にしていて、後に廃止した。
▽しかし熊谷市の北埼玉支局や、所沢には記者がいるのだから、さいたま総局のデスクが判断して、現場に行くよう指示すれば良いだけの話だ。多少遠いかもしれないが、災害の現場に向かうのは記者の鉄則だ。それを指示できなかったのは、朝日新聞さいたま総局デスクの判断能力が劣化したためなのだろう。がっかりする。
▽地方支局を廃止すると、このようにデスクの判断も誤るし、そして劣化する。記者も現場には行かなくなる。朝日新聞は合理化で地方取材網を縮小化させているが、それがどんな結果をもたらしているか、考え直した方がいい。


★068県政人事特ダネ合戦

▽全国各地の新聞で最近は見かけなくなった記事の一つに、4月1日付の県庁人事前打ち報道というのがあった。
▽毎年3月中旬ごろ、地元紙が一面で、一部大手紙が地方版で、「企画部長に〇〇氏昇格」「財政部長に〇〇氏内定」と特ダネを報じる。関係者しか関心がない話だが、当の記者から言わせれば、秘密に水面化で進めている人事を特ダネで報じているから、それだけ県政中枢に食い込んでいることを証明する存在証明でもあった。
▽私は全国各地を回ってきたから、どこに行っても、地方紙は必ずこの県政人事の特ダネに躍起になっていたし、全国紙でいうと、読売新聞が地方版でやはり熱心にこの人事を追いかけていた。
▽読売新聞は全国で号令をかけていたと思っていた。そういう方針なのだろう。
▽逆に私が勤めていた朝日新聞や毎日新聞は冷ややかだった。県政人事で特ダネを取れと上司に指示されたこともない。地元紙や読売新聞に特ダネが出ても、追いかける指示もなかった。ある意味、のんびりしていた。
▽私が朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)で県警担当から県政担当になった時も、前年まで地元埼玉新聞と読売新聞が同じように特ダネを繰り返していた。それぞれの担当記者は必死で取材してきたのだろう。
▽こうした慣習を破ったら面白いかもしれない、と感じた。年中行事のように、埼玉県政の人事を埼玉新聞や読売新聞に抜かれているのを、馬鹿らしいと思ったこともあったが、だったら、朝日新聞も率先してこの取材競争に入る。心の中で自分に宣言した。ごめんなさい、埼玉新聞、読売新聞の報道競争に入らせていただきますと思って取材を始めた。
▽過去の記事などを調べた。県庁幹部に取材を続けた。するとある程度、県庁の人事は流れがあることが分かった。そうすると、私にも次の人事が予想できた。
▽後は裏取りだ。人事担当者に確認することが大切だ。しかし、取材していることが漏れてしまうと、逆にその人事情報が潰されることも予想された。
▽そこで究極の取材を行った。知事への直接取材だ。何とか知事にアポを取って、知事公館で対応してもらった。私は既に4月の人事予想を書いたメモを作っていて、知事にそれを見せて確認してもらった。
▽約20人の県庁幹部の予想人事のメモに知事は黙って見ていた。頷いて、2人か3人の名前が違っていることを指摘してくれた。正しい名前も教えてもらった。
▽これで終わった。
▽私は県政記者クラブに戻り、「4月の県政人事固まる」という記事を書いた。
▽翌日、予想通り、地元埼玉新聞と読売新聞にも同じような記事が出た。朝日新聞にも同じ記事が出ていたことに、読売新聞の担当記者は驚いていたようだった。ただ、朝日新聞のデスクの反応は弱くて扱いは小さかったが、慣習を破った、という点で私は満足した。ささやかな抵抗だった。


★066統一地方選のトラブル

▽4年に1度の統一地方選は、新聞社にとって取材をするその事務作業量の多さにうんざりするイベントだ。社内ではその負担を減らそうと、常に課題の一つになっていた。県議、市町村長、市町村議の立候補と届け出、開票と当打ちなど、一連の流れの中で、スムーズに作業をするにはどうすれば良いか、頭を悩まし続けている問題だ。
▽その大きな負担の一つが、調査表集めだ。調査表とは、立候補予定者の履歴や肩書、職業などを本人または家族、秘書に書いてもらうペーパーのことで、この調査表集めが相当な負担になっている。例えば定員30人の市議会選挙に40人が立候補するなら、40人分の調査表を集めなくてはならない。全員がすぐに書いてくれる訳ではなく、何回も何回も催促して、やっと届けられるケースも少なくない。また届いた調査表は、書かれた内容をすべてチェックする作業もある。勤めていた企業や組織に確認する作業も延々と続く。
▽しかも朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も調査表の書式が独自に使っていたから、候補者側から見ると、バラバラで、候補者からしても負担になっていた。
▽このため、ある年の統一地方選から、東京本社管内では朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞、東京新聞が協定を結び、地区を分けて担当社を決め、担当社が責任を持って出馬予定者の調査票を集めることになった。
▽だが、この協定、各社の調査表に対する温度差があり、さらには担当者に対する性善説による信頼をしてしまい、トラブルを誘発するものになる厄介者だった。
▽2007年4月の統一地方では、私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していたが、管外の高崎市議選でトラブルが発生した。協定による担当者は産経新聞だったが、現職の候補者3人が、事前の連絡もなく、告示日に「飛び入り候補」として産経新聞から連絡があった。朝日新聞では、産経から調査票が届いていない場合、出馬予定者としてカウントすることはない、というシステムになっていた。また、当日の「飛び入り」警戒も担当社(産経)が行っていた。
▽つまり、現職候補なのに、担当する朝日新聞高崎支局の記者は、何の疑問も持たず、今回の選挙では立候補しないと信じてしまったことになっていたのだ。産経新聞を信じてしまったという訳だ。産経新聞のずさんな事務処理が問題だったが、産経新聞を完全に信じてしまったところに、うかつさがあったと言えた。お粗末すぎた。3人の候補者の事務作業については、送った産経新聞と、受け取るはずだった朝日新聞高崎支局、そして最終的に事務作業を統括する朝日新聞前橋総局の選挙事務局の担当者の言い分が違っているようだが、協定の問題点が露呈したということだろう。
▽当然、本社の選挙事務局からは、お叱りのメールが全員に届いた。
《他の候補者と同時に届け出が受理されているにもかかわらず、朝日新聞が候補者情報を準備していなかったために、飛び入り候補として処理せざるを得なかったり、届け出締め切り間際まで立候補を把握できなかったりしたケースや、候補者情報の内、氏名、性別、党派、新旧といった基本的で、間違えば致命的な項目の修正が頻発しました。いずれも紙面に傷を付ける事態には至りませんでしたが、一歩間違えば紙面事故につながりかねない事象でした。ほとんどが、事前準備や点検作業をしっかりしていれば、防げたと思われます。(中略)極めて危険な状況下で選挙実務作業が進められていると言わざるを得ません》
▽私が朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時は、毎日新聞がずさんな回収作業をしていたことを思い出す。調査表に対する温度差がかなりあるなと感じた。
▽調査表回収は次第に手続きが変更されて、今では一部がインターネットでの記入をしてもらうようになっている。


★065群馬のドライバー

▽私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に5年間勤務していたが、その時体験したのが、群馬県のドライバーの怖さだった。その体験を元にこんな原稿を書いた。デスクが使うと言っていたが、最終的にボツにされたので、ここで再現させていただく。ボツにされた理由は分からない。
《急に飛び出したり、赤信号なのに発進したり、一方通行を逆走したり。一時停止は守らないし--。群馬県に転入して一番驚くのは、こうしたドライバーのマナーの悪さだ。一度運転席に座ると、善人のような人の人格が急に変わったようになる。群馬に勤務して3年。敢えて書きたい。「群馬県のドライバーよ、ここが変だ」と。
▼せっかち
▽吾妻地方に抜ける一本道で、道路工事による交通規制があった。臨時の信号機が置かれ、相互交通になっていた。信号機には、あと何秒で赤信号から青信号に変わるかを示すデジタルの秒数が表示されていた。赤信号なので車を止めていた。
▽そんな時だった。突然、後ろの車から、「プーッ、プーッ」とクラクションを鳴らされた。最初は何のことか分からなかった。青信号になるまであと10秒以上もある。クラクションが続くので、ようやく理解できた。要するに、対向車がないから、「早く行け」とせかしているのだ。信号にせよ道路標識にしろ、ドライバーにとって守るためにあると思い、動かなかったが、このせっかちさはどうしてなのか。こうした信号機で、後ろからクラクションを鳴らされたことが、県内に来てもう何回も経験した。私がこれまで勤務していた北海道、宮城、新潟、埼玉、東京ではこうした経験は全くなかった。
▽せっかちさと言えば、交差点で赤信号から青信号に変わった瞬間に対向の先頭車がいきなり右折してくるのも、群馬県ではよく見かけるシーンだ。対向車が通り過ぎるのを待てないのだ。こちらがブレーキを掛けないと、ぶつかる。高速で右折して行ってしまうならいいが、速度を上げないで右折するから怖い。
▽もっとせっかちなのは、赤信号すら待てないドライバー。交差点角のコンビニの駐車場のスペースを通って行ってしまう。しかも速度を落とさないから、コンビニの利用者が危険にさらされる。吉岡町の吉岡バイパスでよく見かける光景だ。
▼飛び出し
▽信号機がない脇道からの無理な飛び出しが、異様に多いのも群馬の特徴だ。主要道路を走っていると、数十メートル先の左の脇道から出ようとしている車があった。当然、私が運転する車を見過ごしてから、出てくるのだろうと思っていた。しかし、そうではなかった。急に飛び出してくるのだ。えっと驚く。急ブレーキを掛けて難を逃れる。私の車が時速60キロで走っているとすると、わずか1秒で16.7メートル進む計算だ。つまりわずか数秒で、その脇道を通過する。ブレーキを掛けなければ衝突する。近づいてくる車の距離感が分からないのだ。近づく車にブレーキを掛けさせてはいけないのだ。こんな運転をしていたら、首都高は随所で事故が起きる。
▽店舗の駐車場などから道路に出る際、車の前の部分を道路に突き出して待っている車もおおい。前の部分が道路に出ているから、近づく車は、避けないとぶつかる。避けきれないときは衝突する。渋川から伊香保温泉に通じる駅前通りでは、そうした事故が毎年何回も発生するし、目撃をする。
▼ブレーキとウインカー
▽交差点を曲がる時、ブレーキとウインカーの出し方が逆なのも、群馬のドライバーに多い。新潟でもあったが、群馬が圧倒的に多い。群馬で目立つのは、交差点を曲がる際、ウインカーを出さないでブレーキをまず掛け、そして、曲がり出してからウインカーを出す。これは順番が逆だ。ウインカーを出してからブレーキを掛けないとならない。でないと、ウインカーを出す意味がない。ウインカーは周囲の車や歩行者に知らせるためにあるのに、その意味が分かっていないよう。後続車から見れば、突然ブレーキを掛けるから怖くて仕方ない。
▽ウインカーを出さないとハンドルを切れない車を開発すれば、県内の交通事故は激減すると私は確信する。
▼脱輪
▽関越道の側道を走っていると、対向車が真ん中寄りに走ってくるケースが目立つ。細い、上下二車線の道路で、もっと左に寄ってくれないと、すれ違いが出来ない。すれ違おうとすると、危険を避けるため、こちらの車をさらに左に寄せるか、止めるしかない。側道にある側溝にはフタがないため、脱輪して動けなくなっている車を時折見かけるのは、このためだ。前橋から吉岡、渋川までの関越道側道は脱輪の名所になっているのは、地元では有名な話だ》
▽以上です。この原稿、面白くないだろうか。


★064クレーマー

▽どの産業にも、商品に過剰な文句を言ってくる輩はいる。新聞もそうだ。読者と自称して、文句ばっかりを言い続けるクレーマーが、一定数いる。今回は私が体験したクレーマーの話をしよう。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務している時のことだ。読者と称する男性から電話があった。「いのせ」と名乗った。
▽私の支局の管内である埼玉県草加市の窓口がひどい、なぜ朝日新聞は記事にしないのか、とやや詰問調の電話だった。
▽話はあちこちに飛んで、草加市の松原の松並木保存に私は尽力した、という自慢話が出ると思えば、草加市の窓口の職員の態度がひどい、という話になり、過去の朝日新聞東埼玉支局の歴代支局長は知っている、東武朝日の編集長も顔見知りだ、と自慢話を延々としていた。
▽私は、この時点で名前は名乗らず、今後草加市に取材して、その結果記事になるなら、そういう方向で対処します、という話をして電話を切った。
▽その後、私は草加市で担当者に話を聞くと、同市では有名なクレーマーだと知った。生活保護を受けていて、何かあると窓口に来て怒鳴り散らす、という話も聞いた。その時点で、草加市の窓口業務がひどいとは思えず、記事にはならないと判断した。
▽クレーマーの自称読者から初めての電話があって約半月後、今度は手紙が届いた。いきなりけんか腰で、
「お前みたいなひどい支局長は他にない」
といった内容で、パソコンで面々と書き連ねていた。
▽さらには2通目がその1週間後に届いた。それは草加市の定例会見で、東武伊勢崎線が東武スカイツリーラインに名称が変わるのをきっかけに、市長が草加市の松並木の本数増やして、東京スカイツリーの高さの「634むさし」に合わせた本数にしたい、としゃれた発言をしたため、これを紙面化したのだが、それに対する反発の内容で、そんなことを書いている場合か、という罵倒した内容だった。
▽そして3通目の手紙が届いた。相手は私が支局長だと思っているらしく、私を飛ばす、朝日新聞の人事まで動かせるという内容だった。残念ながらその時点で私は支局長ではなく、支局員だった。支局長になるのは、その1カ月後だった。
▽これは完全なクレーマーだと私は判断し、今後は無視することにした。
▽その後は連絡はなかったが、危機管理の点から、こんなクレーマーがいることを注意喚起するため、経緯を記したメールを、県内の記者全員とさいたま総局長とデスクに流した。
▽そして、かつて勤務していた宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局時代のクレーマー体験を思い出した。
▽それは突然、通信局の局舎に年配の男性が尋ねてきて、
「塩釜市の窓口の対応が酷い、なぜ朝日新聞は記事にしないのか」
と文句を言ってきたことだ。
▽たまたま私の妻が対応したが、この男性は、こう妻に言い放ったという。
「私は朝日新聞の幹部をいっぱい知っている。お前の亭主を飛ばすことなんて、簡単だ」
▽新聞社のクレーマーって、必ず、人事に強いことを誇示して見せるんだと、この時初めて知った。当時の朝日新聞も含めた新聞地方通信局は家族と暮らすのが当たり前の時代だった。来訪者に警戒感はなかった。
▽妻はこう答えた。私は笑ってしまった。
「うれしい、今度はどこに行かせてくれるんですか」
▽相手はぐうの音も出なかったという。


★062消防団

▽献身的に活動している全国の消防団の方には、申し訳ないが、私は消防団に対して良いイメージがない。むしろ、怖いイメージがある。例外かもしれないが、私の体験を記しておく。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。たまたま仕事で利用した伊香保温泉(当時は伊香保町・現渋川市)の温泉旅館での出来事を紹介する。食事を済ませて、テレビを見て、就寝した。と思ったら、部屋の廊下から大騒ぎする声が聞こえてきた。大騒ぎの声はなかなか止まらず、逆に騒ぎが大きくなっていった。
▽眠れない。宿泊客に迷惑だ。
▽しばらく我慢していたが、騒ぎが収まらないので、私は部屋を出て、騒ぎのある部屋に行って、
「うるさいです。静かにしてくれませんか」
と注意した。かなり丁寧に言ったつもりだった。
▽これに対して、数人の酔った男たちが、
「何だと!」
「てめー、殺されたいのか!」
と逆に開き直ってきた。暴力団かと思った。あまりのすさまじさに、恐怖感を感じた私は部屋に戻った。騒ぎはずっと続いていた。
▽仕方ないので、酒を飲んで、何とか寝る努力をした。
▽翌日、チェックアウトの際にフロントに聴くと、栃木県から来た消防団だと知った。消防団の昼と夜の顔の違いに、驚いた。貴重な体験だった。
▽もう一つ。
▽渋川市のある料亭のカウンターで飲食をしていた時だ。隣の個室部屋で騒ぎが続いていた。聞いて見ると、地元の消防団だった。
▽消防団というと、地域の防火活動を続ける貢献者というイメージが強かったが、ここでも昼と夜の顔が正反対だった。
▽おまけに、消防団の連中は必ず、宴会に必ず女を呼ぶという。この時は、出張用のホステスを3人呼んでいた。
「女がいないと酒がまずい」
と、店側に話していたそうだ。
▽消防団の客が引き上げた時に、散らかった宴会の後始末をしていたら、使用済み避妊具が出てきたというから、どうにもならない。料亭の個室でそんなことをしていたのかと思うと、情けなくなる。
▽たまたま群馬県で見聞した話だが、体育会系と言うか、そんな体質が消防団にあるのだろうか。
▽消防団には地元自治体から補助金が出ていて、その一部がカットされて幹部飲み会になっているという話を、時折新聞で賑わす。申し訳ないが、私には未だに、悪いイメージを払拭できていない。


★061ドライバーの県民性

▽各地を転勤したり、出張したりしていると、ドライバーの県民性なるものがあることがわかる。
▽長野県松本市は、一方通行が多いこともあり、対向車の右折が優先となる変な地元ルールがある。最初はかなり戸惑った。
▽群馬県民は信号が赤から青になると同時に右折してくる対抗車がある。これはルールではなく、県民性だと気づいたのは、しばらくしてからだ。
▽埼玉県北部では、信号が青から黄色、赤になっても永遠と右折車が届く。
▽新潟県では、ウインカーを出さないで左折したり、ウインカーを出さないで車線変更したりするドライバーが多い。高速道では漫画雑誌を読みながらトラックを運転しているドライバーを何回も見た。
▽北海道は、高速道感覚で速度を出し過ぎるドライバーが多い。みんな怖い。
▽こんな中でも、特に5年間勤務していた群馬県のドライバーは、せっかちな輩が多かったため、印象が強い。
▽こんな経験が何回もあった。上下2車線道路で道路工事が行われていた。片道1車線で相互交通をしていた。工事現場の端と端では双方に、カウントダウン式のデジタルの信号機が取り付けられていた。1秒ずつカウントダウンしていき、ゼロになると、信号が赤から青になる。私がこの信号機前で車を止めて待っていると、カウントダウンでゼロになるにはまだ20秒以上もあるのに、後ろからクラクションを鳴らしてきたドライバーがいた。もう対向車が来ないのだから、早く行け、という合図だった。しかし信号はまだ赤であり青になっていない。どうするか迷ったが、カウントダウンがゼロになるまで待って、青になってから車を出した。
▽このように、群馬県ではこんな経験を何回もしてきた。群馬の人はせっかちだと強く思った。
▽信号が赤から青になると同時に対向車が急に右折してくるのもよく見る光景だった。急に飛び出して右折してくるから、こちらは前に進むことができない。このせっかちさが、私には理解できなかった。
▽理解できなかったから、イライラしてしまい、最後は十二指腸潰瘍になった。
▽今も群馬の人は、こんな運転をしているのだろうか。


★058記者の査定に棒グラフ

▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた時のことだ。さいたま総局のデスクが、トンデモナイことをしてくれた。県内記者に原稿をもっと出してもらおうとして、県内記者が出稿する原稿の量を比較する棒グラフを作って、メールで送ってきた。かなり驚いた記憶がある。情けないと思った。原稿の行数を個人別に足して、棒グラフにして来たのだ。
▽個人の名前こそ書かれていなかったが、仕事をしていない記者は一目瞭然だった。行数が少ないからだ。
▽しかし、私は心の中で反発した。何なんだと思った。
▽原稿を出す記者と出さない記者の比較、つまり仕事をする記者と仕事をしない記者の比較のつもりだろうが、これだったら特ダネを取ろうとして夜討ち朝駆けをしている記者の原稿量は少なく、お知らせ原稿を書いている記者の原稿の量は多くなる。こんなことをして、何になるのだろうか。
▽そしてこの棒グラフを当時の総局長がそのまま各記者の能力査定に使ったから、一部で大問題になった。新聞記者の仕事をこんな棒グラフで査定する上司の管理能力のなさに私は驚いたものだ。デスクも総局長もやってはいけないことを、やってしまったと私は思ったものだ。
▽数字で記者の能力を測っては駄目だ。駄目なのにやったのが、このデスクだ。当時の私は準支局長で、支局員の駐車場探しやビルの光熱費の交渉で、取材している時間がなかった。それを棒グラフで査定するのだから、デスクも総局長も、何を考えているのかと思った。
▽当然のように私の査定は悪かった。査定が悪いと給料やボーナス、定期昇給に響く。痛い目に遭った。さいたま総局長もお馬鹿さんだった。
▽朝日新聞は記者の査定をするのが大好きな会社で、記者も良い査定をしてもらい、自分が希望する部署に行きたいから、そうした上司にすり寄っていく。査定を気にする記者が多くなった。そうした部下の足下を見て、上司は権力を行使する。所詮、査定など好き嫌いで決まるものだ。
▽パワハラこそ見かけなくなったが、人事権を使った横暴は続いている。
▽その棒グラフを作ったさいたま総局デスクの妻が、東京新聞では有名な女性記者で、映画「新聞記者」にもなった本を書いた人物であることを後に知って、その偶像との落差に後に驚いたことがある。彼女はその自分の本の中で、「夫を記者として尊敬する」という趣旨のことを書いていたからだ。えっと思った。笑えた。
▽私はこの読売新聞から転職してきたというデスクのこの発想が理解できないし、こんな行為を許したくない。読売新聞ではこんな査定方法をしているのだろうか。新聞記者の能力を原稿量で測ってはいけない。


★056「私は県内在住者です」

▽私が朝日新聞佐渡支局から秩父支局に転勤する直前、新しい車に買い換えた。取材用に使うマイカーだ。そのまま新潟ナンバーのまま転勤したため、秩父支局管内では、この新潟ナンバーを着けたマイカーをずっと使っていた。
▽そんな中で、新型コロナウイルスの感染拡大が始まった。県外への移動が自粛され、逆に県外から県内への移動も嫌われた。移動の自粛が強く求められた。
▽そんな時に噂になったのが、県外ナンバーの車が傷つけられる、ということだった。県外ナンバーの車が傷つけられる、という話をあちこちで聞いた。噂ではなかったようだ。話の根底には、勝手に県内に来て、ウイルスを移されてはたまらない。こんな意識が透けて見えた。地元の人間がそんなことをするとは思えないが、都市伝説だと済ますわけにはいかないと思った。
▽秩父市管内は地元の熊谷ナンバーが主流だから、新潟ナンバーは目立つ。新しい車だったから、傷つけられたらたまらない。新潟の人間が埼玉県に来るなんて、とんでもない、と思われるのが嫌だった。
▽私は住民票を秩父市に移しているから、秩父市民だ。それなのに、取材のため一般の駐車場にマイカーを停めていて、傷付けられたらどうしようか。
▽昔の昔、浦和支局時代に、札幌ナンバーのマイカーに、鳥の死骸がワイパーに針金でくくりつけられたいたずらを思い出した。悪質な悪戯だった。
▽新潟ナンバーを熊谷ナンバーに交換するには、かなりの時間と費用がかかるのもネックだった。ディーラーに相談したが、しばらくマイカーも使えなくなると言われた。
▽そんな時にネットで売っていたのが、「私は県内在住者です」と書かれたステッカーだった。
▽これに飛びついた。私はこれを購入し、車のハッチバックに、このステッカーを貼って走ることにした。
▽私のこんな対策に、同業他社の人間も同じようなステッカーを貼るようになった。みんな疑心暗鬼になっていた。
▽その後、新型コロナウイルス感染は、拡大と縮小を繰り返している。
▽退社した私はやっとこのステッカーを外した。何かホッとした。


★052ケネディ大使

▽ケネディ駐日大使を覚えているだろうか。キャロライン・ケネディ、米国第35代大統領、ジョン・F・ケネディの長女だ。私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、そのケネディが佐渡島にやってきたのだ。半分は公職で、半分はお忍びだ。住民は大騒ぎになった。
▽在日米大使館のホームページによると、2013年7月24日、バラク・オバマ大統領から第29代駐日米国大使に指名され、10月16日の米国上院による承認を経て、11月12日にジョン・ケリー国務長官の立会いの下、宣誓を行った。11月19日に天皇陛下に信任状を奉呈し、駐日米国大使に就任したとある。弁護士で作家、外交官という肩書を持つ。日本で言うところの才女、マルチタレントでもある。
▽そんな要職にあるケネディが2016年6月下旬、大使館職員や警備のSPとともに佐渡にやってきた。
▽目的の一つが、佐渡市であったスポーツイベント「SEA▽TO▽SUMMIT」(シー・トゥー・サミット)に選手として参加するためだった。高学歴、高収入の人間ほどスポーツを好むと言われるが、彼女もまさにそうだった。雲が垂れ込める佐渡の大佐渡のコースで、霧の中をペダルをこぎ続けて、力走ぶりを見せていた。
▽同大会はカヌーの一種、カヤックで海を進み、自転車で陸路を横断し、山頂を目指して登る登山の三つの組み合わせで成る、自然を満喫するスポーツだ。各地で開催されており、同市での開催はその年初めてとなる大会で、42組、68人が参加した。
▽午前7時にスタートし、ケネディ大使が先頭になってカヤックに乗り込み、次々と選手が続いた。真野湾内を三角コースで5キロこいで戻り、ここから自転車で佐渡金山を経由して、大佐渡スカイラインを進み、白雲台まで一気に走り抜けた。25キロのコースのほとんどが上り坂で、途中で自転車を押して歩く選手も続出。ケネディ大使は愛用の自転車で軽快に進み、併走した大使館員やSPとともに疲れも見せずにたどり着いた。
▽そしてそこから佐渡最高峰の金北山(1172メートル)を歩いて目指す4.5キロのコース。午後1時半までにゴールに到着する制限時間があったが、ケネディ大使は制限時間の30分前に余裕の到着をした。ケネディ大使は、
「バイクはきつかったが、楽しかった。佐渡はきれいで、米国に帰ったら、みんなに行くよう勧めます」
と笑顔で話した。
▽かわいそうだったのは、一緒に併走した米大使館の職員だった。ただでさえ運動不足のようで、息を切らして併走しているのが印象的だった。
▽翌日には、同市トキの森公園と同市新穂青木の田んぼを視察し、佐渡で進められているトキの再生事業を学んでいった。
▽公園では、トキが人工飼育されているトキふれあいプラザを見て回った。
▽無農薬、有機栽培をしている田んぼでは、ドジョウやゲンゴロウ、カナヘビなど小さな生物が生きていることで、生態系を再生させ、トキと共存できるとの説明を関係者から受けた。ケネディ大使は実際に裸足になり、畦で入り網ですくってドジョウなどを捕ってみるなど、トキへの関心を高めたようだった。
「全世界の種の保存、生物多様性の重要性が分かるモデルケースだ。米国にも国鳥を保存したという誇りを持っているが、トキに取り組む佐渡の人の努力はすばらしいと思う」
と、報道陣に感想を述べた。
▽そしてケネディは佐渡を離れ、新潟市と県庁を訪れた。
▽アッという間に去ったケネディ旋風だった。


★049金塊盗難騒ぎ

▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤めていた時、金塊盗難事件があった。金塊と言っても本物ではなく、レプリカで、犯人はレプリカとは知らずに強引に盗んでいった。しかもそのレプリカと隣には、本物の銀塊が陳列されていて、犯人はそれには無視した。犯人に対して、同情論まで出る始末だった。
▽2017年4月のことだ。世界文化遺産登録を目指していた新潟県佐渡市の佐渡金銀山の一角、同市相川郷土博物館で展示されていた金塊のレプリカ5枚が17日未明に盗まれ、同市が県警佐渡西署に被害届を出した、と支局のファクスに広報連絡があった。支局のファクスはそのまま私のスマホに転送される。「相川郷土博物館で金のレプリカが盗まれた」という内容で、別の取材でマイカーで移動中だった私は、最初はそのニュースの意味はよく飲み込めず、電話取材で済ませようかと思っていた。しかし、写真は必要だと判断し、マイカーを島の反対側である相川に向かわせた。この判断が、結果として良かった。
▽博物館関係者の説明によると、既に被害届を出したという。何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。展示室にあった収納ケースの裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだ。侵入と同時に警備会社が設置したアラームが鳴ったが、同署員が到着した時には、既にレプリカはなくなっていた。
▽ニュースの焦点は、これが本物の金塊ではなく、偽物のレプリカだったことと、さらには広報には書かれていなかったが、同じケースには本物の銀塊3本も展示されていて、こちらは無事だったことだ。このことは博物館の説明で初めて知った。犯人は金塊を本物だと信じて盗んだらしい。しかも、隣の本物の銀塊は目もくれなかったから、笑えた。収納ケースの掲示板には、「佐渡金山から産出された最後の金銀」などと記されており、この表記に犯人がだまされた可能性もある。
▽このレプリカは、金と銀を産出していた佐渡鉱山が閉山した1989年3月、記念として最後の鉱石から抽出した金として展示した。レプリカは何らかの金属に金メッキで加工したインゴットで、長さ118ミリ、横54ミリ、厚さ8ミリの大きさで計5枚が、ガラスの収納ケースに展示されていた。本物の銀塊が無事だったことについて、同市教委の責任者は、
「私も銀塊が本物だとは知らなかった。ホッとしているが、レプリカとは言え、こちらも大切な市民の財産。これからは防犯体制を充実させたい」
と話した。
▽翌日の各紙の記事を見ると、現場に取材に来なかった社は、本物の銀塊が無事だったことは、全く触れていなかった。ニュースとしてはこのことを伝えないと、ニュース性が下がる。電話取材ではこうした「特落ち」が必ず出ることを痛感した。
▽それにしても、用意周到な犯行だった。侵入から立ち去るまでにわずか24分で完了しており、複数犯の可能性も出ていた。
▽同市によると、何者かが17日午前0時35分に博物館倉庫室のドアの窓ガラスを割って侵入。侵入した倉庫室の隣に展示室があり、犯人は展示室にまっすぐ移動。壁際にあった重い収納ケースを約1メートル移動させて、裏側の木製の扉をこじ開けて、開けた穴からレプリカ計5枚を盗んだと見られる。床などには収納ケースを引きずった跡が残っていた。
▽その後の調べで、レプリカの被害額が計5万円であることが分かった。壊された収納ケース(ショーケース)の被害額の方が約45万円と高くなり、計51万2024円の損害だった。
▽その後の市議会全員協議会では、この事件のことが議論されたが、その質疑も笑えた。
▽議員からは、
「レプリカを置いていたのに、展示案内にはレプリカと書いていなかった。これまで観光客は(本物の)金塊だと見てきた。そっちの方が問題なのではないか」
という質問があった。
▽これに対して市教委の担当者は、このレプリカを展示したのは1998年、旧相川町時代で、(2004年に)合併して佐渡市になっても、表記をそのままにしていたと説明し、
「適切ではなかった。見直していきたい」
と釈明した。
▽また別の議員からは、盗難が明らかになった時の市教委の担当者の報道に対するコメントが悪いとして、
「盗まれなかった銀塊が本物で、盗まれた金塊が偽物。泥棒にだってプライドがある」
と犯人に同情するかのような意見も出された。
▽その後、この盗難事件の犯人2人が本州で長野県警に逮捕されて、被告となった2人と同市の間で、和解金86万円を支払うことで合意した。市によると、和解額は86万2024円。事件当初、レプリカの被害額が計5万円、壊された収納ケース(ショーケース)の被害額が約45万円で計51万円が被害額としていたが、双方の弁護士との話し合いで、レプリカの評価額が最終的に1枚5万円相当だとして、損害賠償の慰謝料などを含めてこの和解額になった模様だ。

★046イチゴ

▽「あまりん」「かおりん」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
▽ともに埼玉県が推奨するイチゴの品種だ。県がオリジナル品種として開発し、県内の農家と契約し、県内だけで育成・販売されている。
▽そして県内では秩父市での農家が作り始めた。「あまりん」「かおりん」という名前は、秩父市出身の落語家林家たい平師匠が付けた。
▽私は朝日新聞秩父支局に赴任して、初めてこのイチゴを取材して、そして食べた時の感動を忘れられない。抑えた酸味があり、そして甘いのだ。うまかった。イチゴに対するこれまでのイメージは吹っ飛んでしまった。イチゴは酸っぱくて、子どものころはコンデンスミルクをかけて食べていた昔のイメージがずっと残っていたこともある。
▽秩父市にある県の出先機関で、栽培農家と県、農協による品評会があるのだが、糖度といい、うまさといい、だれもが異口同音に、「おいしい」を連発していた。
▽それ以来、私は土産に自分用にこのイチゴを買うようになった。一般のイチゴより、かなり高額な価格設定だが、それでも買いたくなる食感だ。イチゴをこんなに買うようになったのは、「あまりん」「かおりん」のおかげだ。当初は秩父市内の限定発売だったから、秩父支局を離れた現在でも、秩父市まで買いに行くようになった。秩父支局秩父地方に行けば、「あまりん」「かおりん」と書かれたポスターやのぼりを掲げた農家があるから、そこで買うことが出来る。
▽地元FM放送局が番組で紹介した時は、秩父地方の店頭での商品があっという間になくなった、というエピソードもあった。
▽最近は越谷市などの農家でも栽培・販売するようになった。
▽県外の人たちも、ぜひ埼玉県に来て、このイチゴを食べてみてください。

★044双葉町の移転

▽東日本大震災と津波による原発事故で、埼玉県に移転してきたのが福島県双葉町役場だった。最初はさいたま市のさいたまスーパーアリーナに避難し、そして埼玉県加須市の旧県立騎西高校に移転してきた。当然ながら朝日新聞さいたま総局と管内の支局はこの移転してきた双葉町役場をフォローしなくてはならないのに、実は全くできなかった。定点観測をすることをさいたま総局も支局もしなかったし、出来なかった。当時のさいたま総局デスクも部下や支局長に指示することを全くしなかった。
▽加須市は当時、久喜支局が担当していた。当時はベテランのシニア記者が在勤していたが、全く取材をしなかった。全くの他人事だと決め込んでいた。このため、さいたま総局デスクは新人記者を担当させたが、新人記者は日々の事件事故などに追われたほか、本社のベテラン編集委員が「取材は全部私を通せ」と言い出して、役場取材を仕切っていたため、自由な取材が出来ないでいたことも後に分かった。
▽ことの重大さに気づいたため、さいたま総局デスクはベテラン支局長を排除して、仕切り直しをして、私が支局長をしていた準支局の部下を担当させることになった。当然ながら定点観測をしてもらうためだ。
▽定点観測とは、毎日この役場に行って、その日の動きを観測し、メモを上げることだ。日々の変化ではわからない中でも、何カ月か経過すると、見えてくるものがある。それを取材して記事にしてもらいたかった。これが定点観測だ。中央からの電話取材では絶対にキャッチ出来ない情報が見つかることもある。
▽だが、私の期待は空しかった。その女性記者は全く定点観測をしなかった。何もできなかった。
▽年明けの仕事始めに行われる双葉町長の新年の訓示を取材するよう、福島総局デスクから東京本社社会部、さいたま総局デスクを経由して指示があったが、この女性記者は、何があったのか知らないが、取材に行かなかった。電話で済ませようとした。
▽当然夕刊の締め切り時間帯に原稿は届かず、役場に行っていないことが分かり、女性は上司に叱られた。当然行うべき取材に行かない事実に、私は呆れて何も言えなかった。準支局長は中間職だが、人事権はない。先輩として忠告は出来るが、定点観測すらしていなかったことが分かっていたから、忠告も出来なかった。
▽定点観測は毎日行く必要があるから、時間もかかるし、すぐには記事にならないから、無駄だと考えていたかもしれない。
▽しかし、定点観測は、取材対象の動きを常に見張って、変化を見守ることだ。記者のイロハである。例えば県警を担当していたなら、捜査一課の動きが変だとか、刑事部長が突然いなくなったとか、鑑識課長が急に飛び出していった、とか、定点観測だからこそ分かる事実がある。その動きをキャッチして、取材を進めていくのだ。発表に頼っていたのでは、何も出来ない。私も呆れてしまい、何も言えなかった。
▽そこへ行くと、例えば読売新聞記者は当時、常に双葉町役場を定点観測していた。後に読売新聞が出した文庫本「記者は何を見たのか▽3・11東日本大震災」(中公文庫)を読むと、当時のさいたま支局員が常に定点観測の取材に行っていたことが分かる。当然の取材活動だし、読売新聞デスクも指示をしていたのだろう。朝日新聞は全くできなかった。恥ずかしい限りだった。ベテラン支局長も女性記者も定点観測が出来なかったことが一因だが、それをキチンと指示できなかったデスクも責任は大きい。

★043止まるフェリー、止まる新聞

▽私は3年4カ月、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任して、そこを拠点に取材をしていた。そこでは佐渡支局特有の事情を初めて経験した。
▽新聞が届かないのだ。
▽冬になると、日本海特有の暴風雨や暴風雪の影響で定期航路のフェリーや高速船のジェットフォイル、貨物船が運休する。ただでさえ配達時間が遅い新聞各紙が、届かないのだ。関東地方の人たちに想像できるだろうか。
▽首都圏の各家庭なら、新聞朝刊は午前5時には届いているだろう。私は長い新聞記者生活で、通常は5時に起床してきた。そして起床と同時に新聞受けに新聞各紙を取り出して、新聞各紙を読み始める。これが毎日の習慣になっていた。他紙からまずは斜め読みして、他紙に特ダネが出ていないかどうか点検する。自分が関係する話が特ダネとして載っていると、それを追いかける準備が必要になる。朝起床したら新聞を読むのが、長い間の習慣になっていた。
▽それが佐渡支局に赴任すると、その生活リズムが狂った。そう、新聞の配達時間が遅いのだ。通常だと午前8時半前後だ。首都圏より3時間以上も遅い。貨物船やフェリーで運んでくるのだが、それを販売店経由で配達すると、こんな時間帯になってしまう。取材に出かける時間に重なるから、斜め読みするしかないのだ。じっくりと読むのは、取材を終えてから、ということになる。
▽こんな生活リズムになれ始めたころに、初めて経験したのが、暴風雨、暴風雪でフェリーや貨物船が欠航し、新聞そのものが届かなくなる、という事態だった。
▽しかも1日たち、2日が経過し、3日間連続で欠航して、新聞が丸3日間届かなかった。都会では考えられないだろう。
▽新聞だけではない。食料品も届かないから、地元スーパーの店頭からは、食料品が消えるようになくなる。
▽新聞が届かない事態を初めて経験したわけだが、何か物足りない気分になっていた。新聞を読むという行為が、生活リズムに組み込まれていることを実感した。
▽笑えたのは、新聞の折り込み広告だけを配達する他社があったことだ。折り込み広告も大切な生活情報だと販売店は考えたのだろう。広告主のことをキチンと考慮しての判断だったと思う。
▽沖縄を除くと、離島に支局を置いている全国紙は多くない。朝日新聞東京本社館内では、唯一、新潟県・佐渡島に佐渡支局を置いている。
▽貴重な経験だったが、その佐渡支局も廃止になった。寂しい限りだ。


★041二重遭難

▽私は取材で使っているマイカーで、埼玉県を走る外環道内回りを走らせていた。そして大泉ジャンクションから関越道に入り、関越道を北上していた。速度はかなり出ていた。
「とにかく急いでくれ」
と言われ、車のスピードを上げていた。遠くで雷が光っていた。
▽埼玉県秩父市の山岳地帯で登山者の遭難者が出て、救助に向かった県庁の防災ヘリがさらに墜落したという二重遭難が発生していた。その搭乗者のうち、負傷した人間を狭山市の病院に、自衛隊機が搬出するので、その現場に行ってくれと言うのだ。当時私は越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していて、その日は管内で発生した殺人事件の地取り取材をしていた。夏の暑い日で、かなりクタクタになって現場を歩き回っていた。一方の狭山市は朝日新聞にとっては所沢支局が受け持ちの管内である。本来は所沢支局長が現場に駆けつけるのが速い。現場に近い支局の記者が取材に行くのが一番速いのだ。
▽しかし、だった。後に知るのだが、肝心の所沢支局長はさいたま総局に連絡もせずに、横浜市の自宅に勝手に帰っていた。自分の支局管内を離れる時は、連絡をするというのが新聞社のルールであり、鉄則だ。それを勝手に休みをとって、横浜の自宅に帰っているなんて、後に私も驚いた。デスクが本人に何回も電話をしたが、なかなか出なかった。やっと連絡が付いたところで、横浜にいることが判明し、現場に急行させることも出来なかったのだ。
▽このため私が東埼玉支局からはかなり遠い狭山市に向かったわけである。マイカーの速度は上がっていた。
▽現場の病院には県内の仲間の記者も着いて、取材が始まった。
▽その時は、所沢支局長が不在だとは知らず、どこか別の取材に出ているのかなと思っていた。
▽埼玉県は東西の道路整備が遅れていて、その支局長が不在なのだから、取材が他社より遅れるのは当たり前の事だった。
▽この無断欠勤した支局長、ベテラン記者で以前は週刊誌の記者をしていた。通常の休み以外は支局にいる、支局管内にいるという新聞記者のルールを知らなかったのかなと思ったりもしたが、無断欠勤をすればどうなるかは、想像するだけで分かりそうなことだ。連絡が取れない記者は必要ない。これが新聞社の鉄則だ。休みを取るという「働き方改革」の問題とは全く違う。
▽若手の手本にもならなかったこのベテラン支局長、赴任からわずか1年で異動させられたことも追記しておく。

★040フェアレディーZ

▽何をしているんだろうか、と思った。盛んに自分の所有であろう車の様子をあれこれ見ている。傷でも付けられたのだろうか。
▽ある平日の午後、私が勤務している北関東地方の支局の前にある大型駐車場での出来事だった。この大型駐車場は市役所にマイカーで通う職員が個人契約しており、数十台の車が朝から夕方まで埋まっていた。
▽都会と違い、地方は鉄道が発達していないから、地方の公務員はマイカー勤務になる。都会ではありえないが、これは都会育ちだった私が、サラリーマン記者として地方に転勤した時に、初めて知った事実だった。それから何回も転勤したが、地方鉄道は廃止され、マイカー勤務の公務員は増えているはずだ。
▽その駐車場の数十台の車の中で、目立つ車があった。日産自動車のフェアレディーZだった。そう、日産が誇るスポーツカーだ。他の職員が通常の乗用車や軽乗用車で通っているのに、1台だけ異彩を放って目立っていた。
▽そのフェアレデイーZの様子を盛んに気にして見ていたのが、冒頭の市の職員だった。
▽私が違和感を持ったのは、勤務時間中に職場を離れて、宝物であるフェアレディーZの様子を見ていたことだ。おいおい、勤務中だろう、と。
▽さらに翌日も、同じ光景を見た。さらには翌々日も続いた。
▽私は確信した。
▽この職員、勤務をサボっては、大切なフェアレデイーZを点検している。
▽新聞記者として調べてみると、この職員、「平成の大合併」で隣接の村職員から市職員になっていた。勤務中にマイカーを点検するというサボり癖が付いたのも、緩い村役場で勤務していたためだろう。
▽平成の大合併で役所にとっていろいろな不都合が発覚して、その取材してきたが、基本的に市役所より村役場の方が規律が緩い。そのことが、取材でよく分かった。合併してから、村役場時代のずさんな帳簿が見つかったとか、村職員が横領していたとか、細かな事件が明るみになってきたことを取材してきた。
▽ここは市役所。税金でめしを食っているのに、そのサボり方に私はやや怒りを持った。サボるなと思った。サボっている場面を撮影して新聞記事にしようかなとも考えた。
▽第一、市役所に通うのに、スポーツカーで通うという考えが分からない。例えが悪いが、朝日新聞本社に勤務する女性記者が、銀座の夜に働く女性のような派手な服装をしているようなものだ。自分がどう見られているか、そういう考えがない。スポーツカーを所有するのは構わないが、それを勤務に利用することで、一般市民にどう見られているか、この職員は分かっていない。
▽結果として新聞記事に書くのは断念したが、地方公務員の緩さは気になる。仕事をしていないのだ。
▽ただし、こんなウォッチも新聞社が地方から撤退してしまえば、出来なくなる。地方に記者を配置するから、ウォッチが出来るのだ。出来ないなら、それは民主主義の後退だ。


★039ゴルフ

▽あるベテラン記者が、ゴルフに誘うためのメールを誤って県内の記者全員に出してしまった。
▽そのゴルフを行う日は、統一地方選挙の最初の土曜日で、ベテラン記者が担当しているのは県内でも有数な激戦区だった。選挙が始まっているのに、ゴルフに行こうとしている。しかも自分の仲間を誘って、だ。
▽私は目を疑った。この神経がわからない。
▽ゴルフが好きなのはわかるが、新聞記者である。新聞記者にとって選挙は大切な取材テーマだ。
▽選挙告示日最初の土曜、日曜日は、有権者に候補者がどんなことを訴えるのか、注目される街頭演説がある。取材に行かなければならない。たとえ休みがついたとしても、取材をする必要がある。それをゴルフに誘うのだから、通常の新聞記者としての感覚は完全に麻痺している。
▽このベテラン記者、ゴルフが好きなことで有名だ。休みになればどこかにゴルフに行ってしまう。だから殺人事件があっても、全く連絡が取れなかったことがあった。連絡が取れない記者など、記者ではない。
▽そしてこのベテラン記者の行動に、デスクや支局長が注意することもなかった。新聞社の機能不全だと私は感じた。
▽この記者、ベテランで、すでに一度会社を退職し、シニアでの雇用になっているため、小遣い稼ぎで仕事をしているとしか思えない。
▽このメールを見た若い記者はどう思うだろうか。働き方改革の延長だと思うのだろうか。若い記者を堕落の世界に誘い込まないでほしいと思った。
▽私は若い頃、上司に言われたことがある。
▽「ゴルフは記者を滅ぼす」
▽「ゴルフをするようになると、ゴルフのために時間を取ることになる。このため仕事がおろそかになる。記者が堕落していくパターンだ」
▽私は新聞記者を40年やってきたが、ゴルフで堕落した記者を何人も見ている。次第に仕事をしなくなるのだ。
▽ゴルフは新聞記者を堕落させる。これが私の経験則である。


★035実況中継

▽「打ったあ! 三遊間、抜けた! 三塁線!」
▽こんな類いの高校野球実況中継を、地方にいると聞くことがある。
▽これがどういう意味かを、野球に関心がない読者のために説明すると、「三遊間」とは、野球で守備側の三塁手と遊撃手の間に、打者が打った打球が抜けていくことで、左翼手手前に転がる安打であることを示す。一方の「三塁線」とは守っている三塁手の左横か、三塁手の上の三塁線に打球が抜けていくことで、打球方向が全く違う。
▽つまりこの実況中継の内容は、全く矛盾しているのだ。
▽地方に勤務すると、NHKのローカル局の放送がある意味で面白い。特に面白いのは夏の高校野球県大会で、準決勝や決勝の実況中継するアナウンサーのアナウンスぶりだ。入局2年生か3年生なのだろう。たどたどしい中継で高校野球を伝えてくれる。微笑ましい、というか、未熟というか、とにかく初々しい。
▽元NHKアナウンサーが書いた「スポーツアナウンサー」(山本浩著、岩波新書)が高校野球中継をこう振り返っている。
「高校野球中継は、スポーツアナウンサーの第一の関門として立ちはだかる重要な仕事だ」
「新人で放送局に入っていきなり野球放送の担当が回ってくることもないわけではないが、商品価値のある放送になるまでにはそれなりの時間と経験を必要とする」
「地方の放送局には、新人の不慣れな放送に寛容な視聴者が少なくないが、経験の浅い者ばかり揃うと、地元の野球ファンには不評を託つことがある」
▽冒頭で紹介した実況中継は、私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時、NHK新潟放送局の実況中継をラジオで聞いていたものだ。「えっ」と思ったが、高校野球に未熟だと仕方ないと思う。女性アナウンサーだった。この女性アナウンサー、結構有名な人物らしく、東京に行ってからは、かなり話題になった有名な美人アナウンサーだと知った。最後はさいたま放送局に行った後、ラジオセンターに勤務するようになり、名前が消えてしまったが、懐かしい中継だった。
▽ついでに言うと、その時にNHK新潟放送局にいた男性アナウンサーが、朝日新聞女性記者を居酒屋に誘い、急性アルコール中毒にさせて、救急車で運ばれたというエピソードがある。やたら女好きで、局内で有名だったらしい。その後、転勤して北海道に行き、さらに仙台に転勤してから国会議員になった人物である。こんな男が自民党に擦り寄っていたことを思い出した。アナウンサーもいろいろいる。NHKの体質だとは思いたくないが。


★033雑巾事件

▽「ここは安キャバレーか!」
▽デスク席に着いて、デスク作業をしていた男性デスクが、急に怒り出して、目の前にあった雑巾を壁に投げつけた。周囲の人間は、静かに見守るだけだった。
▽朝日新聞の東北地方のある支局での夜の出来事だ。
▽男性の支局長が女性の支局員を1人だけ誘って夜に街に出て行った。その時、支局長は、その女性記者の名前を呼び捨てにして、
「今日はどこに行くか」
と問いかけて、にやりとして出て行ったのだ。
▽類推するに、この支局長と女性支局員の2人は、頻繁に夜の街に出て行き、食事をしているらしい。
▽一方で私と言えば、この支局長に1回も誘われたことがない。
▽ひがみとか、えこひいきとか、不平等とか、文句を言っている訳ではないが、これは完全に差別だ。人事権を握っている上司が、特定の部下だけを頻繁に誘って夜の街に出る、というのは、どう考えてもおかしい。
▽だから、それを見ていた支局のデスクが、雑巾を支局内の壁に投げつけたのだ。「ここは安キャバレーか」と。
▽それにしても、朝日新聞の一部の女性記者は、こうやって上司に取り込むのがうまい。そして、自分の今後の人事をうまく有利にさせようとする。
▽振り返ってみると、人事に敏感なのは女性だ。差別されるのが嫌だから、自分も不利にならないようにと働きかける。
▽この夜の街に出た女性記者は、その後転々と出世し、最後は朝日新聞の週刊誌の編集長になった。ここまでして偉くなりたいものか、と思ってしまった。離婚歴も数回あり、男性上司を踏み台にして出世するタイプだと、とそのデスクは振り返った。
▽最近は女性支局長が増えてきたが、そんな支局ではどんな態度を支局員に示しているのだろうか。


★031佐渡の水道管凍結

▽出張から支局に戻った時、やられた、と思った。
▽当時勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局の水道管が凍っていたのだ。前々日の寒波の到来で島の多くの民家の水道管が凍ってしまった。凍ってしまい、水道管が破裂し、水道を受けることができない家庭が続出した。
▽私だけが1人で住むわが支局も、水道管が凍っていた。ただ水道管の破裂はなかった。
▽この場合、お湯をかけるなどして水道管を急激に温める事は危険だ。さらに内部の氷が膨張してしまい、水道管が破裂する可能性もあるのだ。
▽支局の建物内部を暖房で温めて、ゆっくりゆっくりと水道管を温めることしかない。
▽そして半日ほど経って、やっと水道が出始めたと思った時だった。
▽出てきたのは透明な水ではなく、どす黒い水だった。驚いた。おそらく水道管の内部が凍結で膨張し、水道管内部のサビなどの汚れを一気に取り去って流れてきたのだろう。
▽どす黒い水道水が流れ終わるまで、風呂やトイレ、台所の水道の蛇口を開いて、透明な水が出るまで流し続けた。水も飲めないし、風呂も入ることが出来ず、しばらくこの状態が続いた。
▽この水道管凍結という事態は、当時かなり深刻で、島の大半の家庭で発生し、水道水を供給できない日々が続いた。地元佐渡市は自衛隊に災害要請を出して、自衛隊に給水のために専用車を派遣してもらい、飲み水などの供給をしてもらった。市役所も水道担当職員を市内の各家庭に派遣して、パトロールを開始し、水道管の水漏れがないかどうか大がかりな点検をして行った。真冬の水道管凍結事件だった。
▽水道業者には、修理を依頼する市民からの要望が殺到していた。
▽にしても、と思った。
▽私は寒冷地の北海道などを勤務しているから、水道管が凍結するという事態を経験しているし、その対策として、一軒家の場合は水道管の元栓を夜には閉めて、水道管の水を抜く、という作業を毎日行うことも知っている。
▽しかし、佐渡島の一軒家の支局には、この元栓がないのだ。元栓がないから、水抜きも出来ない。佐渡は雪国なのに、そんなに気温が下がらないから、水道管が凍結することなど、過去にはなかったのだろう。水道管も外気にさらされてむき出しになっている家庭も多かった。
▽水道管が凍結するという事態を久しぶりに経験した出来事だった。こんなトラブルになっても、本社は何もしてくれない。知らんぷりだ。


★029「旅立ちの日に」

▽埼玉県秩父市と小鹿野町にまたがる複合観光施設「秩父ミューズパーク」の一角に、展望デッキ「旅立ちの丘」がある。ここでは、観光客が訪れると、センサーが感知して、卒業歌として全国的に有名になった「旅立ちの日に」のコーラスが流れる。周囲を山に囲まれた秩父地方の市街地を一望できる場所で、この「旅立ちの日に」を聞いていると、すがすがしい気持ちになる。
▽卒業歌「旅立ちの日に」は、地元の市立影森中で作られた。それが徐々に全国に広まり、全国各地の小中学校卒業式で歌われるようになった。この歌がさらに広く歌い継がれることを祈念して建てたのが、この「旅立ちの丘」だ。
▽「旅立ちの丘」の展望デッキに上がると、橋に設置されたセンサーが感知して、影森中生徒による録音されたコーラスが流れる。観光客は展望デッキに記された「旅立ちの日に」の歌詞を見ながら、コーラスを聴くようになっている。
▽私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時、時折マイカーを運転し、この展望デッキを訪れ、この歌を聴いていた。秩父発祥の歌として、自慢していいコーラスだと思った。
▽このコーラスが一時流れなくなった。センサーの故障で、老朽化したことが原因のようだった。市は業者に修理を依頼して、数日で復活させた。併せて、制御装置の点検と設定作業も行い、回復させた。
▽展望デッキからの夜景も抜群で、幻想的な光景が広がる。
▽新型コロナウイルス感染の拡大で、一時は駐車場も閉鎖を余儀なくされた。残念だが、仕方なかった。
▽秩父観光に行くなら、ぜひこの展望デッキをお勧めしたい。


★026★小野沢さん

▽小野沢保夫さんが亡くなったのは、もう数年前だ。朝日新聞の先輩であり、友人であり、仲間だった。地方の通信局を転々と回る、昔ながらのベテラン通信局長。黙々と仕事をこなし、酒を愛し、不正な行為をする上司を許さなかった。そんな小野沢さんが亡くなった。
▽最初の出会いは、私が宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜通信局に勤務していた時だ。小野沢さんが山梨県から宮城県古川市(現大崎市)の古川通信局に転勤して来た。電話で元気な声で、「よろしく」と挨拶された。
▽着任して以来、小野沢さんが書く記事はどれも魅力的だった。暖かい記事が多かった。小野沢さんに負けてはならないと、私も取材と執筆に力を入れた。切磋琢磨していた。同じ県の別の通信局長は「やる気がしない」と仕事をしていなかったから、その正反対の仕事ぶりがよく分かった。
▽仙台支局での部会後の飲み会で意気投合して以来、時折、仙台で一緒に飲むようになった。ある時はお互いの記事を評価し合ったり、ある時は気に入らない上司の悪口を言ったり、ある時はかわいい後輩の話をしたり、話は尽きなかった。
▽また電話魔でもあったから、朝も夜も、通信局にはよく電話がかかってきた。「この記事の扱いは何なんだ」と怒るように電話してきたこともある。私が書いたその記事は宮城県版にトップ記事として扱いをされたが、この記事は社会面の記事ではないか、というのだ。正義漢の塊のような人だった。
▽仙台で一緒に飲んで、仙台支局に酔って上がったら、電話魔の電話が始まった。「原、これから編集局長に電話しようぜ」と言い出して、実際に編集局長の自宅に電話してしまった。そしてあれこれ文句や注文を言った後、「原に代わるから」と言って、受話器を私に渡すのだった。面食らった。編集局長なんか、雲の上の人。面識もない。代わってしまった以上、挨拶をして、適当に話をして、電話を切った。恐るべし、電話魔、と思ったものだ。
▽それからも付き合いは続きた。
▽小野沢さんは古川通信局長から新潟県・佐渡島の両津通信局長に転勤になった。私はその後、本社に上がり、環境庁(現環境省)担当となり、絶滅寸前の国に特別天然記念物トキの生態を取材するため、佐渡に出張し、小野沢さんの歓迎を受けた。そして追いかけるように、四半世紀後、私は両津通信局から局舎名が佐渡支局に代わった建物に赴任することになった。その際も転勤祝いで小野沢さんらが送る会を東京で開いてくれた。
▽そして私が佐渡支局から埼玉県秩父市の秩父支局に転勤になる時も、小野沢さんらが転勤祝いを東京で開いてくれた。杖をついて、身体が弱っているのが分かった。無理してわざわざ来てくれるなんて、うれしかった。
▽小野沢さんの訃報を聞いたのは、私が秩父支局時代に、夏の高校野球埼玉県大会の取材最中だった。スマホに知り合いの元デスクから電話が入り、亡くなったことを知った。
▽その1カ月後、仙台時代の仲間が東京に集まって、追悼会を開いた。20人ほど集まった。痛飲した。
▽みんな小野沢さんを愛していたんだ、と思った。こんな記者になりたかったな、と私は思った。合掌。

★023「ざまあみろ」

▽「ざまあみろ」
▽そう言われた。「ざまあみろ」とは、「様を見ろ」の進化形の言葉で、失敗した相手に嘲り罵った言葉だ。
▽そう私に言ってきたのは、朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)のデスクだった。私が浦和支局から塩釜通信局(当時)に転勤になった時に浴びせられた言葉だった。客観的に言えば、人事異動で飛ばされたことになるのだが、上司としてここまで言うか、と思うほど、酷い言葉だった、と今でも思う。それだけ私とこのデスクの関係は良くなかった。
▽そのデスクはこうも放った。
▽「俺が飛ばしてやったんだ」
▽さも勝ち誇ったように、私を見下していた。完全なハラスメントだろう。
▽このデスク、今思っても、中間職としてはどうにもならないデスクだった。デスク能力も低かったし、原稿の裁きもヘタだった。浦和支局長からは再三にわたって注意されたこともある。その腹いせに、部下である私に怒りのターゲットが向けられた。原稿は変に直すし、どう見てもおかしな振る舞いが続いていた。
▽ただ、デスクに人事権があるのではない。査定する権利や支局長にサジェスチョンする権利があるだけだ。支局長に私の悪口を徹底的に言って、その結果、私が飛ばされたことを、「飛ばしてやった」と表現したかったのだろう。
▽「ざまあみろ」発言もその延長上に出てきた言葉なのだろう。
▽結果として私は飛ばされたとして、塩釜通信局に赴任したが、その場所での仕事は楽しかったし、多くの上司、先輩、仲間に恵まれた。今でも付き合ってくれている当時のデスクもいる。馬鹿なデスクが、「飛ばした」と思っていても、それは受け手も問題だ。私はその塩釜通信局長時代に出来た仲間とともに、その後本社に上がったし、取材のチャンスも作れた。一時的に飛ばされたとしても、苦痛はなかった。
▽逆に私を「ざまあみろ」と放ったデスクは、その後編集から全く外れてしまい、最後の最後にシニアとなって、秩父通信局に赴任して最後を迎えた。会社を退職後、最近になって亡くなったことを知った。
▽ただしこの人間が死亡したことに対して、私は「ざまあみろ」などとは絶対に言わない。こんなレベルの低い品性の人間と同じレベルだと思われたくないからだ。今思えば、この人間は当時病んでいたのだろう。そう思うしかない。
▽昔、入社した時の先輩が話してくれた言葉を思い出す。
▽「嫌な上司、いつかはいなくなる」
▽確かにいなくなり、亡くなった。

★019懐中電灯

▽日本海に浮かぶ新潟県佐渡市の佐渡島を担当する朝日新聞佐渡支局に勤務していた時、懐中電灯は必需品だった。支局の西側方向に比較的高い山があるため、太陽が沈む時間が早く、夕方になると、かなり暗くなってしまい、しかも市街地なのに街灯が少ないため、危険だったのだ。
▽支局の前は国道が走っていて、フェリーが出入りする両津港からの車と両津港に向かう車の量が多く、しかも歩道が途中で切れていて、スーパーへの買い出しに行くのも危なかった。懐中電灯は必要だった。
▽支局がある両津地区の飲食店街に行くにも、裏道を歩いて行くのだが、国道を避けて裏道を通る車も多く、危険だった。懐中電灯は生命を守るための道具だった。街灯がないため暗い。暗い道を歩きながら、飲食店に通った。
▽地方だから仕方ないと思っている人も多いかもしれないけど、転勤でいろいろな都市に勤務したが、これほど懐中電灯が必要だった街はなかった。それだけ夕方になると、街は暗かった。暗い道の中、懐中電灯を探して歩いていると、心細くなってくる。
▽佐渡島は過疎地で、1年間で人口が1000人ずつ減っている。住宅街でも空き家になっている場所も多く、電気が点灯していない家もあった。
▽こんなに懐中電灯が毎日必要になるなんて、と私は思いもよらなかった。
▽ただし、夜の飲食店には結構、地元の客がいた。そうした客は、歩いて来るが、懐中電灯は持っていない。暗い道に慣れているからだろう。
▽ついでに書くと、地元のタクシー会社は、午後11時で営業を終わる。終わってしまうと、タクシーを呼ぶことも出来ない。これはフェリーの最終便が両津港に到着する時間を計算して、タクシー会社が出したサービス時間だ。だから、飲食店で長居は出来ない。
▽時折、フェリーの事故などで、両津港への到着が遅れると、乗客はタクシーにも乗れなくなる。仕方ないので自宅に電話して、家族の車で迎えに来てもらう、という光景をよく見た。運転代行の会社も多かった。
▽佐渡支局で重宝した懐中電灯だが、その後勤務した秩父支局ではほとんど使わなくなった。今ではその懐中電灯がどこにあるかも、分からなくなっている。

★016専決処分

▽山口県阿武町がコロナ給付金を、誤って1世帯に4630万円を振り込んだ問題で、町は金の返還を求める訴えを起こした。本人も逮捕された。2022年4~5月に明るみになったトンデモナイ問題だった。
▽463世帯に10万円ずつ新型コロナウイルス給付金として振り込むところを、20歳代の男性に4630万円を振り込んでしまい、返却してもらえなかった。町は町議会の同意を得てから、返還訴訟の手続きを行った。最終的に多くは戻った。
▽私は新聞記事で読んだレベルだが、町役場の対応は遅すぎた、と思った。
▽わざわざ町議会にかけなくても、町長は専決処分という手段を使うことができたはずだ。専決処分とは、議会にかけずに町長の権力で決算できる手段だ。「地方公共団体の議会の権限に属する事項を、所定の要件の下で、その地方公共団体の長が議会の議決を経ることなく決することのできる」(地方自治法179条)という内容だ。つまり同意がなくても、訴訟することは出来たのに、しなかった点が気になった。
▽町の説明によると、この男性はすでにこのお金を別の金融機関へ送金、勤め先を退職し、行方不明だといい、カネが戻ってこない可能性もあると当初は説明していた。実にお粗末な、恥ずかしい話だ。
▽私は長い間、地方回りをしていて、多くの地方自治体の新年度予算案、補正予算案などの発表に出てくる専決処分の内容を、よく注意して見ていた。多くが自治体の職員による交通事故などの後始末で、怪我をさせた場合は、被害者の住民への病院代や補償費、物損事故だったら、その修理費を専決処分で決算していることを見てきた。通常は表に出ない専決処分の内容を知っておくと、処分額は小さくても、職員の不始末は結構多いことに気づく。
▽専決処分は首長にとっては、スピーディーに判断できる処理方法なのだ。
▽だから、今回の阿武町で、町役場の対応が遅れたことの要因の一つに、この専決処分をしなかったことが大きいと考えている。

★015越後湯沢駅

▽長いトンネルを抜けると、上越新幹線は越後湯沢駅に到着した。冬から春先にかけては街が雪景色となる温泉街の駅である。と同時に北陸への交通の要衝でもあった。
▽北陸新幹線が開通する前、東京から北陸地方に行くには、上越新幹線でこの越後湯沢駅まで行き、ここから第三セクターのほくほく線を走るスーパー特急はくたかに乗り換えるのが、ベストのコースだった。このコースに私は何回も何回も利用してきた。
▽乗り換えの改札口では、新幹線のチケット、はくたかのチケット、そして乗車券の計3枚を通す必要があったが、慣れないお年寄りが多く、自動改札口をスムーズに通れない客の姿が目立った。3枚のチケットを同時に通す必要があるのに、2枚だけだと、はじかれてしまう。警告音とともに、通過できない客が続出した。このためJR側は大量の職員やアルバイトらを動員して、改札口での案内に力を入れていた。特に帰省シーズンになると、この改札口だけが異様に混雑していた光景を今でも思い出す。ほくほく線に乗り換えるための、まさに風物詩だった。
▽ほくほく線は、第三セクターの北越急行が経営する鉄道で、上越線六日町駅から信越線犀潟駅までを結ぶ単線鉄道だ。沿線の各地は豪雪地帯で知られている場所だった。六日町といい、十日町といい、犀潟駅に続く直江津駅といい、雪が深い地域だ。ほくほく線開業は陸の孤島に苦しむ新潟県民悲願だった。
▽ほくほく線は高速列車を走らせる高規格鉄道として建設されていた。トンネルも多く、ほぼ一直線の単線だ。特急はくたかの開業当初の最高速度は140キロ、最終的には160キロで走り、在来線としては最高速度を保持していた。つまり、200キロ走行の新幹線と極端な速度差はなかったのである。
▽新幹線と特急はくたかはうまく接続できるよう、ダイヤ設定されており、乗り換えて約10分後には越後湯沢駅を出発できた。はくたかは上越線を六日町まで北上し、ここから上越線と分かれてほくほく線に入る。と同時に速度をぐんぐん上げていく。この速度を面白いように上げていく特急はくたかが私は好きだった。在来線でも、高速運転が出来るのだ。新幹線にだけ頼る必要はない。
▽そんな特急はくたかも、北陸新幹線の開業で姿を消した。気になるのは今後の北越急行の経営である。せっかく開業させた鉄道だ。沿線住民に重い負担をさせるような事になって欲しくない。


★013アウェーの違和感

▽「浦和にやっと勝てた」「よかった」
▽記者会見で監督は、言葉を振り絞るように、感激したように話し始めた。
▽さいたま市の埼玉スタジアムであったサッカーJリーグ、浦和レッズとの試合。相手チーム名は敢えて伏す。アウェーで乗り込んできたチームが勝って、そのチームの監督の会見が始まった。会見の後、記者からの質疑に答えて、会見が終わった。
▽サッカーJリーグは試合後に監督会見を設定している。アウェー監督、ホーム監督の順で開く。
▽そして会見が終わったところで、予想しなかった出来事が起きた。拍手が起こったのだ。同行してきた記者からの拍手だった。記者と言っても新聞やテレビだけではなく、専門誌、ミニコミ、ウェブライターなどあらゆる分野の記者がいたが、拍手したのは、アウェーのチームに同行してきた記者たちだった。
▽私は本社スポーツ部の記者ではないが、転勤した各地でサッカーJリーグチームの取材をしてきた。札幌市の朝日新聞北海道報道部(現北海道報道センター)ではコンサドーレ札幌、群馬県渋川市の渋川支局ではザスパ草津(当時・現ザスパクサツ群馬)、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局では浦和レッズと大宮アルジージャなど、サッカー取材歴は、一般記者としてはかなり長い。
▽だからその経験で言うと、アウェーにしろホームにせよ、自分が担当するチームが勝っても、拍手することはなかったし、相手が勝っても、その相手チームに同行した記者が拍手することもなかった。
▽サッカーというスポーツは、相手をリスペクト(尊敬)する事で成り立っているから、自分の取材するチームが勝ったからと言って、拍手するのは相手に失礼だという考えがずっとあった。それが取材上の暗黙のルールになっているはずだった。少なくとも、私はそう信じてきた。
▽だから、この時の拍手は私には異様に映った。アウェーに同行した記者たちが興奮していたのかもしれないが、私には違和感を持つ拍手となった。
▽そして、それがいつの間にか、浦和レッズのホーム戦で、浦和レッズが負けると、相手監督の会見後に拍手が起きるのが当然のようになってしまった。時折同じような光景を経験するようになった。まるで戦争だ。日中戦争で日本軍が進軍して、従軍記者が拍手しているようなものだ。
▽逆に浦和レッズがアウェーで相手に勝ったとしても、我々同行記者は拍手などしない。してはならないと思っている。私もアウェーで浦和レッズが勝っても拍手したことはない。その前のコンサドーレ札幌もザスパ草津もだ。それがルールだと思っている。
▽そんな拍手する光景が、いつまでも続くのか。

★012寒ブリとマグロ

▽日本海に浮かぶ新潟県佐渡市の佐渡島では、11月になると寒ブリ漁が始まる。ブリ漁は佐渡の冬の風物詩だ。
▽日本海を北海道沖から南下してきたブリは佐渡島の両津湾に回遊する。海中に大型定置網を入れて、一網打尽する。両津湾は北側に口を開けたような地形になっているから、南下したブリは、そのままパクリと食べられるようにして、引っかかるのだ。
▽両津港近くの魚市場では、大きいブリで体長1メートル、重さは15キロもあり、セリ値はキロ3000円で取り引きされていく。脂が乗った佐渡産の寒ブリは東京や北陸地方で人気があり、多くが築地市場などに運ばれる。
▽朝日新聞佐渡支局に勤務していた時は、その時期になると、魚市場に行き、所狭しと並べられたブリの写真を撮影するのが恒例だった。
▽それにしても、佐渡の人間はブリが大好きだ、ということを痛切に感じることが多かった。佐渡ではマグロも大量に水揚げされるが、佐渡の人間は「マグロより寒ブリ」と言うほどの土地柄だ。
▽毎年12月になると、島の北部、鷲崎漁港のイベント会場では、「佐渡海府寒ぶり大漁まつり」(実行委員会主催)が開かれる。恒例の寒ブリの無料手づかみ大会は、水揚げされた約20匹のブリを、プールの外側から手でつかみ取る競技。つかみ取り、プールの外側に出せば、無料で持ち帰ることが出来る。子どもたちは、逃げようとするブリの尻尾からつかもうとするが、スルスルと抜け落ち、なかなか捕まえることが出来ない。ブリも必死に逃げ回るから、飛沫で着ていた衣類はびしょ濡れに。周囲の大人も熱くなり、「あっち」「こっち」と声援を送る。
「着替えを持ってきた」
という用意周到の親も多く、この競技にかける意気込みが伝わってくる。手づかみが出来た子どもに対し、親は「よくやった」と褒めるのだ。
▽そして受け取ったブリを、親は地面にたたきつけて失神させて、血抜きまでその場でしてしまう。この光景を初めて見た時は、驚いた。「食」に対する意気込みが違うのだ。
▽寒ブリは店頭で1匹、1万~5万円ほどで売られるとあり、つかみ取りした子どもと家族は、うれしそうな顔をして、戦果を喜んだ。
▽同市では地産地消の商品としてブリカツを宣伝しているが、市場関係者は「刺し身やブリしゃぶがおいしいですね」と話す。私は脂の乗った寒ブリは、やはりしゃぶしゃぶがうまいと思っている。

★010トーチキス騒動

▽2021年の東京五輪・パラリンピックでは、全国各地で聖火リレーが展開され、私が勤務していた埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局管内でも、聖火リレーがあった。さいたま総局からは取材するよう指示があり、総局からの応援記者も加わり、分担して取材を行った。埼玉県が地元市町と協力して、取材体制をかなり綿密に構築しており、取材制限もあり、取材許可証をもらっての取材になった。
▽荒川が流れる長瀞町では、観光名物であるラインくだりによる聖火リレーのトーチキスがあった。上流から専用の舟に聖火ランナーが乗り、数百メートル下ったトーチキスポイントで、聖火をリレーする別の聖火ランナーが乗った舟が横付けになり、聖火を伝える。その瞬間を撮影するのが私の役目になった。
▽撮影現場は川岸の岩場で、足下がおぼつかない場所だった。ここに各報道陣が集まり、舟が下ってくるのを待った。
▽ここ数日、秩父地方は天候が不安定で、断続的に雨が降り続け、荒川の水位が上昇。加えて荒川水系のダムの放水もあり、水位が下がらず、ラインくだりの聖火リレーが出来るかどうか、この日朝まで分からず、関係者をやきもきさせた。
▽私は最初に望遠レンズでカメラを構えて、撮影を開始。近づいて二つの舟が平行状態になったところで、トーチを掲げて、聖火が伝わろうとしていた。舟による聖火リレーが成功した瞬間だと思った。
▽と思ったら、舟に乗っていたカメラマンが立ち上がってトーチキスの撮影をするため、肝心のトーチキスがそのカメラマンの姿に隠れて撮れないのだ。邪魔だった。
▽せっかくの瞬間が撮影できないため、そのカメラマンに向かって、
「邪魔だ! どいてくれ!」
と何回も怒鳴った。そのカメラマンには聞こえなかったらしく、岩場にいた同業他社も怒鳴りだした。カメラマンは自分の存在が撮影の邪魔になっていることに、なかなか気づいてくれなかった。取材体制を構築して、「ここでの撮影のみ許可する」という話が、完全に崩れてしまった。このカメラマンのマナー違反が原因だった。
▽最後は私が、
「馬鹿野郎! どけっ、と言っているんだ」
と怒鳴って、やっと立つのをやめた。
▽トーチキスの2人の聖火ランナーには、もう一度ポーズを取ってもらい、撮影を再トライした。「やらせ」のようなものだ。
▽2人の聖火ランナーはトーチを掲げて、聖火が再び伝わった。舟による聖火リレーの写真をやっと撮影できた瞬間だった。関係者から拍手が上がった。しかし2人とも笑顔を見せてくれたが、やや引きつっていたようにも見えた。
▽このカメラマン、五輪専用の専属カメラマンとして舟に同乗していたことを後に知った。
▽そして驚いたのは、このカメラマン、五輪開催を契機に朝日新聞を辞めたカメラマンだった。呆れてしまった。それを同業他社から教えてもらい、恥ずかしくなった。

★004偽温泉

▽群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時、取材対象管内は群馬県西北部の市町村が実に16もあった。その管内には、国内でも有数な草津温泉を持つ草津町、伊香保温泉を持つ伊香保町、四万温泉を持つ中之条町があり、原稿さえ送ってしまえば、取材の帰りに温泉に寄るのも楽しみの一つにしていた。
▽中でも草津温泉の湯は、主に大きな二つの源泉があり、一つは湯温が98度という高熱の温泉で、湯量も豊富で、これをパイプに通して水道管と接触させて冷まして温泉に使っていた。
▽中心部にある日帰り入浴施設には、湯温が40~45度の数種類の風呂があり、順次湯温が高くなる風呂に入っていき、身体を慣らす入浴方法を勧めていた。また町内には町民用に無料の風呂が点在しており、これを楽しみに回る観光客もいた。
▽草津温泉の湯は、強い酸性の湯で、殺菌力が強く、切り傷や水虫にも効くとして知られていた。
▽渋川支局からは車で最低でも1時間半もかかる場所で、吾妻川沿いの道を西に走らせて、さらに草津町中心街までは1本道の坂道をずっと上って行くルートを走らせていた。標高約1200メートルの位置にあり、夏場も涼しく、冬は雪に埋まる土地柄だった。支局の感覚として言うなら、「遠い温泉街」というイメージだった。
▽一方の伊香保温泉は、支局からわずか15分で行ける近場で、階段が設けられた温泉街では、情緒豊かな風情が楽しめた。「黄金の湯」と「白金の湯」の2種類の源泉がある。ただ残念なことに、「黄金の湯」の湯量がそんなに多くなく、「黄金の湯」を提供している宿は20軒にも満たなかった。湯温もそんなに高くなく、熱い湯が好きな人には勧めることは出来なかった。
▽渋川支局に勤務している時に発生したのが、伊香保温泉の一部の旅館でこっそりと行っていた「偽温泉」問題だった。「黄金の湯」でも「白金の湯」でもなく、ただの井戸水を沸かして、「温泉」と称して提供していた。週刊誌の取材で発覚し、地元の町役場と観光協会は大騒ぎになった。役場では県庁の担当部署にも相談していた。その騒ぎを一部の新聞の県庁担当者が気づいて、週刊誌に出ることを知っていたようだ。恥ずかしいことに、朝日新聞は全く気づかなかった。
▽そこで私も初めて知ったのだが、現在の「温泉法」なるものは、水道水や井戸水で埋めた風呂に、本物の温泉水をスポイドなどを使って、1滴でも2滴でも垂らせば、温泉と称することが出来ることだった。
▽しかしこんなものを温泉とは呼ばないだろう。温泉の一般定義からすると、掛け流しであることが一番の理解方法だ。温泉水を風呂に常に流し続けて、掛け流しをすることで、湯面のごみも流してくれる。これこそが、本物の温泉だ。掛け流しが出来ていないなら、本物の温泉とは言いがたい。ただ掛け流ししているようで、実は循環させているだけの、インチキの風呂もあるから気をつけた方がいい。
▽そんなことも知らないで、伊香保温泉でインチキの温泉宿を利用したこともある私は、大いに恥じた。
▽伊香保温泉の「偽温泉」問題は、私にとって、温泉を学ぶ契機にしてくれた、ありがたい勉強の場だった。

★002佐渡のエース

▽2022年3月4日付朝日新聞夕刊に出ていた記事が気になった。「村田兆治が見込んだ佐渡のエース」というタイトルの長い記事だ。日本海に浮かぶ新潟県の離島、佐渡島出身の選手が大学を経て、巨人の育成ドラフト6位で入団したという内容だ。
▽「マサカリ投法」として知られ、ロッテのエースだった故村田兆治は引退後、離島の中学生を集めて開く「離島甲子園」の発起人として開催に尽力してきた。その際に知り合ったのが、中学生だったその彼だった。「プロを目指してがんばれ」と激励したことを、記事は伝えている。
▽その菊地大稀投手(22)=桐蔭横浜大=を、実は私も彼が高校3年生の時に、佐渡島で取材をしている。
▽当時私は朝日新聞佐渡支局に勤務しており、夏の高校野球県大会には地元高校に大型投手がいることが話題になっていた。離島の野球環境は厳しい。対外練習をしようにも、フェリーに乗って本土に渡る必要がある。時間も手間もかかる環境だ。
▽そんな離島出身者がプロ野球ドラフト会議でどこかの球団に指名されるなら、「佐渡初のプロ野球選手」となる。このためドラフト会議のその日は、その地元高校に行き、各社と結果を待っていた。
▽ただし結果は、「指名なし」だった。このため予定していた記者会見もなくなった。残念だなと思った。
▽実は、その時の地元佐渡市長が菊地投手の高校時代の野球部先輩で、しかも日刊スポーツ記者として長らくプロ野球を担当していた経歴を持つ。野球を見る目はかなりある。最後は社長を経て、市長選に立候補して、当選していた。
▽その市長に、菊地投手の感想を求めると、「投球のセンスがいい。ドラフトで指名がなくても、大学に進学して野球を続ければ、必ずプロ選手になれる」という返事が返ってきた。
▽菊地投手は育成契約のため、今後必要なのは、1軍の試合に出場が可能になる支配下登録だ。チーム内の競争を勝ち抜くことが必要だ。過酷な競争に打ち勝つ努力が必要になる。私もほんの少しだけ、プロ野球を取材したことがあり、プロ野球の新陳代謝の激しさは知っているつもりだ。
▽かつて勤務していた佐渡島の、ちょっと気になる選手の、かなり気になる記事を読んでいた。