社会事象編
退職後の社会事象あれこれ
★921KDDIはすべての利用者に謝罪と損害賠償をせよと言いたい(2026/06/25掲載)
▽実に不愉快な事態だと思った。KDDIが提供しているインターネットのメールサービスが不正アクセスを受けて、ニフティ、ビッグローブなどのメール利用者にその影響が及ぶと報じられたことだ。パスワード変更を推奨している。私はビッグローブのメールサービスをもう30年間も使ってきたが、こんなことは初めてだ。KDDIはすべての利用者に謝罪と損害賠償をせよと言いたい。
▽まずはこの事態を報じた朝日新聞から。
《KDDIは23日、インターネット接続事業者向けに提供するメールシステムが外部からの不正アクセスを受けたと発表した。利用者のメールアドレスやパスワードなど最大1422万件が漏洩(ろうえい)した疑いがあるという。
流出の可能性があるのは、ニフティ、ビッグローブ、JCOM、STNet、中部テレコミュニケーション、KDDIウェブコミュニケーションズの6社が提供するメールサービス利用者のアドレスやパスワード》
▽ほんんどのメールシステムが駄目になったということだ。
《17日に不正アクセスを確認した。システムで使っていた別の会社のソフトウェアに脆弱性があったことを特定し、すでに対策をとったという。さらに影響範囲などを調べている。個人情報保護委員会と総務省に状況を報告した》
《利用者のパスワードが第三者に不正取得される可能性があるとして、パスワードの変更を呼びかけている。ニフティは25日までにパスワードの変更がなければ、安全性の確保のために順次パスワードを無効化すると発表した。ビッグローブも近日中にパスワードを強制リセットするという。
▽過去には、IT大手インターネットイニシアティブ(IIJ)が2025年4月、法人向けメールサービスで不正アクセスを受け、最大約400万件のメールアカウントの記録などが漏洩した可能性があると公表。その後、約30万件で流出を確認した。損害保険ジャパンは25年6月、不正アクセスを受けて保険契約者らの個人情報約1750万件が漏洩した恐れがあると公表した》(2026年6月24日付朝日新聞)
▽私が利用しているビッグローブのホームページには、こんなお知らせが掲載されていた。
《BIGLOBE会員のみなさま
平素よりBIGLOBEをご利用いただき、誠にありがとうございます。
このたび、BIGLOBEのメールサービス「BIGLOBEメール」におきまして、BIGLOBEメールアドレス(各種アドレス追加オプション含む)、BIGLOBE IDおよびパスワードが外部に漏えいした可能性があることが発覚いたしました。 お客さまには多大なるご心配とご不便をおかけしておりますこと、心より深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません。
現在のパスワードを継続してご利用された場合、お客さまの大切な個人情報の漏えいや、身に覚えのないサービスの不正利用など、重大な被害に繋がる恐れがございます。 誠に恐縮ではございますが、被害を未然に防ぐため、至急、BIGLOBEパスワードをご変更いただきますようお願い申し上げます。
パスワードの変更にあたっては、不正アクセスを確実に防ぐため、以下の点に十分ご留意ください。
パスワード変更時の注意事項
* 他のサイトやサービスと同じパスワードの「使い回し」は絶対におやめください。(被害が連鎖・拡大する最大の原因となります)
* 第三者が推測しやすい文字列(ID、氏名、生年月日、電話番号、短い単語など)は設定しないでください。
* 8文字以上、16文字以内で、「半角数字」「半角英字(大文字・小文字)」「半角記号」のいずれか2種類以上を使用し、より複雑なパスワードを設定してください。
* パスワードは第三者の目に触れる場所に書き留めないでください》
▽よほど慌てての対応なのだろう。
▽しかし、ホームページに掲載するだけで、個別に注意を喚起するメールは届いていない。この事態を知らないユーザーは、知らないまま過ごすことになる。
▽メールアドレスに対するパスワードを変更するだけなら、簡単だと思う人がいるかもしれない。しかしそうではないのだ。
▽私の場合、メーンマシンのMacMini、MacBookProなどアップルのパソコンが5台、ウインドウズマシンが1台、iPhoneが2台、iPadProなどが4台あり、このすべてのデバイスでパスワードを変更する必要がある。
▽しかしそれだけではない。最大の関門は自宅のインターネット環境の設定変更を伴ったことだ。NTTの回線をビッグローブが使う契約になっていて、そのためにルーターの設定を変更する必要がある。この設定変更がかなり面倒な作業で、電話のやり取りでやっとインターネットを接続できた過去がある。ビッグローブはパスワード変更を簡単に訴えるが、この変更作業をどうするのかの説明は全くないのだ。
▽ここまで来ると、これはKDDIの責任が大きいと言うしかない。
▽例えば車の欠陥なら、リコール制度がある。メーカーの責任で無償で修理する制度だ。
▽これと同じ考えに立つなら、今回の事態の責任はKDDIにあるのなら、KDDIがすべての責任を負って、ユーザーのパスワード変更をサポートすべきなのだ。これが出来ないなら、ユーザー一人一人に対し、損害賠償をすべきなのだ。そしてその連帯責任はビッグローブなど各社も負うべきだ。
▽何回も言う。私はビッグローブのユーザーとして30年間使ってきた。問題が起きても、個別に連絡はなく、ホームページだけで済ます対応に呆れている。
▽ふざけな、と言いたい。
▽25日付の朝日新聞。
《KDDIがインターネット接続事業者向けに提供するメールシステムが外部から不正アクセスを受けた問題で、総務省は24日、KDDIに発生原因や利用者への対応などについて、電気通信事業法に基づき報告するよう求めた。提出期限は7月6日》
★916意外に悩むサッカーのゴール得点者の特定(2026/06/18掲載)
▽サッカー取材で一番難しいのは、ゴール前の混戦状態で得点を挙げた選手がだれなのか、すぐに分からないことだ。今ではデジタル端末でゴールシーンを何回もリプレイできるが、私が現役時代にサッカーJリーグを取材していた時は、そんなデジタル端末などなかったので、だれがゴールをしたのか、取材者同士で何回も話し合って確認したこともあったほどだ。
▽例えば2026年6月に開幕したサッカーワールドカップ大会(W杯)北中米大会。日本は初戦でオランダと対戦し、2対2で引き分けたが、後半の最後になって同点ゴールを放ったのが、だれかしばらく分からなかった。
▽セットプレーのCKで小川選手がヘディングでゴールを狙った。その弾道の途中に鎌田選手がいて、その鎌田選手の頭に当たり球のコースが変わり、ゴールネットを揺らしたのだ。テレビのリプレイを見ても、ヘディングをした小川のプレーしか映っておらず、私はてっきり小川のゴールだと思ったら、後に記録としては鎌田の記録になっていた。球のコースを変更したのが鎌田だったための得点という判断なのだろう。
▽朝日新聞スポーツ面ではこんな記事を載せている。
《終了間際の劇的な同点ゴールには、3人の好プレーが絡んでいた。
▽布石となったのは、1分前にあった右CKだ。MF伊東の蹴った球は、長身をそろえるオランダに簡単にはね返された。
▽再び右CKのチャンスを得たとき、伊東は「シンプルに上げるだけではダメ。速くて落ちるボールを蹴ろう」と考えた。
▽ゴール前では、FW小川が相手の守備陣と駆け引きをしていた。遠いサイドから弧を描くように走り込む。オランダの主将ファンダイクの背後でフリーになった。相手は世界屈指のDFだが、試合映像を見て「サボるところがある」と分析していた。
▽小川がマークを外せたのには、もう一つ要因がある。MF鎌田がファンダイクに体を当て、出足を鈍らせたのだ。
▽小川のヘディングシュートが自身の頭に当たり、ゴールに吸い込まれたのは幸運にも映る。ただ、そこに至るまでの流れを演出したのも鎌田だった。
▽セットプレーを担当する前田コーチが選手に伝えることはシンプルだ。「フリーの選手をいかにつくるか。あとはそこに正確なボールを蹴る」
▽まさに、その言葉を3人は連係して体現した》(2026年6月16日付朝日新聞)
▽この記事も、何回もリプレイを見て、そして試合後に出た公式記録と選手への取材で書いたものだろう。記者席からはかなり距離があるゴール前の混戦状態を、正確に見て取ることは不可能なのだから。
▽こんな冗談も出てくる。
▽サッカー取材の現場では、だれのゴールか分からない時は、一番喜んでいる選手が得点者のはずだと。
▽確かにゴールが決まって喜んでいる中心人物が、得点者であることが多いが、今回のW杯では、同点後には小川も鎌田も2人とも喜んでいた。どちらが得点者でもおかしくないようなプレーだった。
▽このようにして、ゴール前の混戦状態のプレー、タブレット端末等がない時代はだれがゴールしたのか分からないことが多かった。
▽私は北海道札幌市の朝日新聞北海道報道部ではコンサドーレ札幌を取材していたし、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局では、ザスパ草津(当時)の取材をしていた。
▽さらには埼玉では、浦和レッズの試合取材をしていた。
▽私は一般記者であり、スポーツ記者ではないのだが、サッカーの取材歴は結構長い。取材歴が長くても、記者席から見て、ゴール前の混線では選手が重なって見えるし、球そのものが見えない場合が多い。だからだれが得点したのかわからないことが多く、最終的には試合後に出る公式記録と選手へのインタビューなどで、ゴールの得点者を断定し、記事を書いていくのだ。
▽サッカー取材は意外に難しい。
★915昔のフロッピーなどが呼び込めない時代になった(2026/06/17掲載)
▽デジタル機器の普及で世の中が便利になったが、一方では困っている問題も出ている。パソコンやデジタルカメラでのデータ保存に使ってきたフロッピーなどの記憶媒体の機器がなくなり、保存したデータが読めなくなっているのだ。
▽ワープロからパソコンに移行した時期は、記録媒体はフロッピーが主流だった。それがZIPドライブやMOドライブとなり、並行して外付けハードディスクやメモリースティック、SDカードなどが主流となり発展してきた。
▽私はこの多くの記憶メディアを使ってきたが、それらに保存したデータは、今は全く呼び込めない。ZIPドライブもないし、MOドライブもない。使えるのはハードディスクとUSBメモリー、SDカードぐらいだ。しかしハードディスクとパソコンを繋げるインターフェイスが違うため、古いハードディスクは、今のパソコンに繋げることが簡単にはできない。第一、ハードディスクそのものが劣化し、使えなくなっているのが現状だ。
▽記憶媒体が次第に発達し、昔のものが使えなくなるという事は、昔のデータが呼び込めないと言うことになる。かつて書いていた自分の原稿すら、呼び起こすことができないのだ。
▽現在は、ハードディスクとUSBメモリー、SDカード、SSDでの保存が主流となっている。ただしハードディスクには寿命があるから、数年に一回は買い換えて、そのデータをコピーして移す必要がある。USBメモリーやSDカードにしても劣化するから、定期的にデータを新しいメディアにコピーしていく必要がある。
▽かなり昔使っていたSDカードを今のパソコンで呼び込もうとしても、呼び込めないケースが何回もあった。記憶媒体は劣化するものだと思い、大切なデータは常にコピーし、保管する必要が出てくる。
▽デジタルカメラにしてもそうだろう。現在の主流はSDカードだが、SDカードも消耗品で、劣化することがある。XQDカードやCFexpress▽Type▽Bカードなど新しい規格の記憶カードもあるが、かなりの高価で普及していないのが難点で、お勧めができない。普及しないということは、市場が縮小する可能性があり、これらに記憶したデータも将来はく呼び込めない可能性がある。
▽こうして見ていると、やはり安全策はSSDカードやハードディスクを使うことだろう。定期的に買い換えて、データを継続していくしかないのが現状だ。
★914使われなくなった検挙という言葉(2026/06/16掲載)
▽最近、「検挙」という言葉が、マスコミから消えている。新聞の社会面も、テレビのニュースでもほとんど使われていない。背景には何があるのだろうか。
▽私が新聞業界に入ったころは、多くの新聞やテレビで、「検挙」という言葉が使われていた。最初に入った北海道新聞では、「北海道警小樽署が道交法違反の疑いで容疑者を検挙した」とか、「北海道警札幌南署は暴力団員を暴行の疑いで検挙した」などと使っていた。
▽この「検挙した」という言葉は実に曖昧な言葉だ。逮捕とは区別する意味で使っているのだ。身柄を拘束する逮捕とは別に、身柄を拘束しないで取り調べるという意味で使っている。取り調べるのは、あくまでも任意なので、身柄の拘束はしていない。拘束していないが、容疑者となるので、逮捕と違う意味で検挙という言葉を使っていたのだ。そう、マスコミ用語なのだ。
▽多くの新聞やテレビが検挙という言葉を使う中で、朝日新聞は以前から検挙という言葉使わず、「任意で取り調べた」という表現を使っていた。朝日新聞の方が実態により近づいている使い方だと私は思った。
▽朝日新聞に転職した時、私もこの「任意で取り調べた」という表現を使うようになった。
▽だが、時代がこうした表現の抑制を求めたのだろう。多くの新聞やテレビを使っていたこの「検挙」という言葉が最近はほとんど使われていない。任意を取り調べなのだから、容疑者の人権を配慮したためだろうか。便利なマスコミ用語だったが、そうだとすればそれは正しい方向に進んだと私は思う。ちなみに、朝日新聞が使ってきた「任意で取り調べ」という表現も朝日新聞では使われなくなっている。
▽逮捕もしていないのだから、敢えて「検挙」という言葉も使わず、「任意で取り調べた」という表現も使わないのは、正しいルールだと思う。
▽逆に「検挙」という言葉は使わずに、その代わりに、「書類送検した」という言葉が多くなってるように思う。任意の取り調べであっても、判断を検察庁に委ねるのが書類送検だから、ある意味で「検挙」という言葉が消え、書類送検という言葉が増えたのは、これも正しい流れだろう。
▽考えてみれば、人権意識の高まりで、容疑者の名前を呼び捨てしなくなり、容疑者という言葉が定着するようになったのも、時代の流れなのだろう。
▽かつて盛んに使われていた「検挙」という言葉は、今では死語になった。
★912やはり、アップルはインテルマックを切った(2026/06/12掲載=「★884Appleのインテルマックアプリの切り捨て」の続報)
▽やはり、アップルはインテルマックを切った。2026年6月に開いたアップルの開発者会議(WWDC)で発表された内容で注目されたのは、Apple Intelligenceの機能強化だった。今後のアップルの戦略は、他社に出遅れたAI(人工知能)の進化させることだった。今秋登場させる新しいOS27では、インテルマックは対応外で使えないことなどが改めて判明し、私を含めたユーザーをガッカリさせている。インテルマックはその犠牲になった。
▽アップルの開発者会議(WWDC)とは、毎年6月に開催されるAppleの年次イベントで、iPhone、iPad、Macなどの次世代OSや最新テクノロジーが発表される開発者向けの最大の祭典だ。
▽まずは新聞記事から。
《米国のアップルは8日、音声アシスタント「Siri(シリ)」を新たにし、検索やアプリの操作を自動化すると発表した。AI(人工知能)の出遅れが指摘されてきたアップルだが、ライバルの力を借りて巻き返しを図る。
▽■まず英語で提供
▽この日、カリフォルニア州の本社で開いた開発者会議で明らかにした。年内に英語で提供するが、日本語など他の言語への対応時期は未定だ。
▽シリが発表されたのは2011年。利用者が言葉を投げかけると、ウェブから探した答えを返す機能にとどまっていた。今回の刷新により、OS全体やアプリを横断的に操作する「自律型AI」に進化するという。
▽利用者の問いかけに対し、見ているスマホ画面の内容や過去の会話、メールや写真、カレンダーなどの内容を踏まえて回答するようになる。メール内の情報を探してカレンダーに書き込むという横断的な操作もできる。
▽ただ、こうしたAI機能の多くは2年前にも語られていた構想だ。なかなか実現してこなかったもので、発表は目新しさを欠いた。アップルは競合するグーグルやオープンAIに比べて「AIの出遅れ」が指摘され、AI担当幹部が退社する事態にも見舞われていた。
▽■グーグル頼って
▽立て直しのカギは、競合するグーグルを頼ることだった。グーグルのAIモデル「ジェミニ」を活用することで、「巨大AIモデルをつくる」競争に距離を置いた。代わりに強みである高性能なハード製品と、その操作性の向上に集中する。
▽アップルは、利用者のプライバシー保護を優先し、データを外部クラウドに集めてAIを学習させる手法を避けてきた。巨大なクラウドを生かす競合に対し、スマホ内の限られた処理能力だけでAIを動かす技術を模索したが、確立に時間がかかった。今回は、データが保存されない独自のクラウド技術を使ったという。(サンフランシスコ=奈良部健)》(2026年6月10日付朝日新聞)
▽この記事によれば、アップルはいかにAI対応で出遅れており、その巻き返しを図るために新しいOS27が強化される。Apple Intelligenceが使える、より高性能な処理速度を持ったマシンにターゲットを絞っていることが浮かび上がる。
▽新聞では詳細な事は書かれていないが、パソコンであるMacならば、M3シリコン以降のMacBookProなど、iPadならばM2以降の処理速度を持ったデバイスが要求されているといい、ここ数年に発売されたもの以前のデバイスはきちんと機能しないらしい。
▽新しいOS27のリリースは今年秋に行うとするが、日本語対応はまだ遅れており、不完全な形でのバージョンアップとなりそうだ。
▽そして、問題は新しいOS27で使えなくなるデバイスが、2020年で開発と販売を止めてしまったインテルマックだった。COUにインテル製チップを搭載したMacBookProなどのマシンは、すべてこのOS27の対象外となってしまったのだ。バージョンアップは全くできない。
▽私はこのホームページで以前こんなことを書いている。
《▽想定されていたことだが、Appleはインテリマック時代のアプリを切り捨てて、Mチップシリーズなどのパソコンにだけ対応するアプリに相対する戦略を打ち出している。これまで使えていたインテルマック時代のアプリが急に使えなくなる。私を含めたユーザから不満の声が上がっている。
▽インテルマックとは、今から15年以上前に、Apple社がこれまでのCPUの開発を止めて、インテル社のCPUを使い出したことによる。インテルのCPUを使うことから、「インテルマック」ともてはやされた。ウィンドウズマシンでもインテルCPUを使っているため、Appleのパソコンの上でウィンドウズのソフトも動くといって話題になっていた。インテルマックの最盛期の時代だった。
▽しかし時は流れて2020年前後から、AppleはMシリーズというApple独自のCPUを開発しそれを搭載したパソコンを売り始めた。M1、M2、M3、M4、M5シリーズだ。そしてインテルマックのパソコンは開発を中止して、製造・販売されなくなった。
▽それからここ5−6年間は、Appleユーザーの間では、インテルマックとMチップのパソコンが混在して、使われてきた。
▽そして問題は昨年秋だった。AppleはOSの大幅バージョンアップを行うとともに、その先のバージョンアップからは、インテルマックのパソコンはバージョンアップができないことをアナウンス。それとともに、AppleはMチップのパソコンでも、インテルマックに対応したアプリも使えなくなると、最近になってアナウンスしてきたのだ。
▽これに困ったのがインテルマックを愛用しているユーザたちだった。
▽私はAppleユーザーとなって35年以上が経過するが、その私から見て、今回の問題は2点ある。
▽1点は古いインテルマックのマシンが、今の新しいOS以降の新しいものに使えなくなることだ。もう1点はAppleシリコン、つまりMチップを搭載しているマシンでも、インテルマック時代のアプリが今後使えなくなるということだ。これは非常に重要な話だ》
▽アップルが世に送り出したパソコンは「マック」の愛称で呼ばれ、多くのユーザーに支えられてきた。OSが新しくなっても古いマシンで動くのが特徴だった。この点はウィンドウズマシンとは全く違っていた。より多くのユーザの心をつかんだのだった。
▽しかし、今回は2020年以前のインテルマックはもう使えないと宣言したに等しい。アップルはそこまでAI開発に焦っているということなのだろうか。
▽インテルマックを切り捨てる。インテルマックのユーザはかなり怒っている。私もそうだ。
★909回転寿司と立ち食いそばは日本の文化だ(2026/06/09掲載)
▽私は昼食時に回転寿司と立ち食いそば屋をよく利用する。入店すればすぐ食べることができ、短時間で昼食時間を終えることができる。まさに日本のファストフードの文化であり、サラリーマンにとっては大切な食事処でもある。
▽まずは回転寿司。東京本社に上がってから、出先で時折利用することが多くなった。
▽かつては、ベルトコンベアの上に寿司を乗せた皿がぐるぐる回っていた。本当に回転する寿司屋だった。これを取って食うのだ。
▽白身魚から始まり、イワシなどの光りもの、さらにマグロやサーモンなどを食った。時には穴子焼きやノドグロなどの高級魚もある。店によって平日は、味噌汁が無料になる店があり、これを利用した。
▽転勤族だから、転勤した地方にも回転寿司は至る所にあった。新潟県佐渡市にもあったし、埼玉県秩父市にもあった。群馬県渋川市にもあった。時間がないときはよく利用した。
▽以前立ち寄った回転寿司店での話だ。私よりベルトコンベアの上流に座っている客が、マグロの寿司皿ばかり、5皿も6皿も余分にとって、テーブルに並べて食べようとしている光景を見たことがある。当然マグロの寿司をすべて取ってしまったため、当然私の所にはマグロ皿は回ってこなかった。まさに買い占め。これもある意味、マナー違反ではないかと思っていた。ちょっと引いてしまった記憶がある。
▽朝日新聞を退社しても、時折回転寿司は利用している。最近はいたずらや悪ふざけに対する店の対応もあり、回転する寿司はなくなり、タッチパネルで注文するような仕組みになっている。回転しないけど、回転寿司だ。時折見かけるのが、昼食時にビールを飲んでいる高齢者もいる。羨ましいなと思いつつ、寿司を食っている。
▽若いころは2貫1皿の寿司を10皿食っていたが、年を取ったせいか、せいぜい5皿程度だ。食べる量が減った。
▽次に立ち食いそば。駅構内にある立ち食いそば屋も時折利用する。券売機で注文する。するとすぐ出てくる。天ぷらそばや月見そばなどを食う。これも5分か10分で食べる。この昼食時間を短くしてくれるのが嬉しい。
▽市街地にある蕎麦屋はあまり利用しない。料金が高い上、待たされるためだ。そばの街を宣伝している秩父市や東京・深大寺も店によっては30分以上も待たされる。これは本来の蕎麦屋ではない。
▽考えてみれば、寿司もそばも、江戸時代から日本固有の文化であり、ファストフードであった。
▽それが時代を経て寿司も蕎麦も一方では高級店のイメージになり、そうした店が流行っている。しかし、庶民にとって、寿司もそばも庶民の味であり、安い味方だったはずなのだ。
▽高級な寿司屋やそば屋で食いたかったら、そういう店を使えば良い。しかし私は江戸時代の庶民が好んだ寿司とそばを愛して、明日もまた行こうかと考える。
▽寿司もそばも庶民の味方であって欲しい。
▽ファストフードという言葉はマクドナルドや吉野家の専有特許ではないのだ。
★905ジャーナリストという肩書と私の思い(2026/06/03掲載)
▽今年(2026年)6月1日、昼のテレビ朝日の情報番組を見ていて、唖然としたことがあった。番組ではチョコレートミントを紹介していたが、識者として、「チョコレートジャーナリスト」なる人物を登場させていたのだ。「チョコレートジャーナリストって何だ?」。私は素朴にそう思った。チョコレート業界の権力を批判する仕事なのか。安易な自称ジャーナリストだなと感じた。
▽このホームページでも何回か書いてきたが、「ジャーナリスト」を名乗る人物が、最近多い。昔から「政治ジャーナリスト」や「科学ジャーナリスト」「放送ジャーナリスト」はあった。最近は「料理ジャーナリスト」や「映像ジャーナリスト」を自称する人も増えている。過去には「国際ジャーナリスト」なんてインチキっぽい人間もいた。
▽私の持論だが、ジャーナリズムとは、国家権力を監視する仕事であり、それを実践する人間がジャーナリストだ。だから、「料理ジャーナリスト」とか「チョコレートジャーナリスト」って、何なのかと疑問に思ってしまう。料理業界、食品業界、飲食店業界の権力を監視し、その取材をしているのだろうか。チョコレート業界の権力を監視して、告発している仕事をしているのだろうか。答えは「否」だろう。だったら安易にジャーナリストを名乗らないでほしいと思う。不正を告発して、生命が狙われた経験があるのだろうか。
▽このホームページに、私はこんな記事を書いている。
《★276自称ジャーナリスト ▽にしても、インターネット時代になったためだろうか、ジャーナリストを名乗る人間がいかに多いかということを、最近よく気づくようになった。「放送ジャーナリスト」「政治ジャーナリスト」「フォトジャーナリスト」は昔からあったが、「サッカージャーナリスト」「料理ジャーナリスト」「地方ジャーナリスト」「映像ジャーナリスト」「映画ジャーナリスト」は比較的最近の言葉だろう。 ▽私の持論だが、ジャーナリズムやジャーナリストとは、権力に対する言論の自由を守って、実践する行為者やその行為であって、それが出来ないなら、ジャーナリストもジャーナリズムも名乗るべきではないと思っている。「料理ジャーナリスト」って、料理業界の権力にメスを入れていくのなら分かるけど、おいしい食事の紹介をしたから、ジャーナリストなのかと疑問に思ってしまう。常に権力を意識して活動するなら、それはジャーナリストとしての称号を与えればいいのだ。 ▽ジャーナリズムとかジャーナリストという言葉は、畏敬を持って使うべきものだと信じてきたから、私は現役の新聞記者時代に、ジャーナリストを自称したことがなかった。 ▽これまでも外部に書く時は、「朝日新聞記者」ではなく、「新聞記者」とか、「記録作家」と称してきた。「朝日新聞記者」としなかったのは、私の個人的な考えや意見を、朝日新聞のそれだと思われたくなかったことが大きいし、会社に迷惑をかけたくないと思っていたことも理由の一つだった。 ▽だから私が朝日新聞を退社後、フリーランスの物書きを始めようとした時、肩書をどうしようか、迷ったことがある。「ジャーナリスト」を自称するのも恥ずかしいし、自称するほどの実績もない。第一、ジャーナリストは自称するものではなく、他の人が本人に称号するものだと思っていたから、最初から「ジャーナリスト」の肩書を使うのは避けようと決めていた。「なんちゃってジャーナリスト」か「ジャーナリスト未満」を自称してきた。少しずつジャーナリストを名乗りたいなとは思う。 ▽だれもが、「ジャーナリスト」を名乗るのが可能になった時代だが、本物のジャーナリストは一体どのくらいいるのだろうか》
▽さらにはジャーナリストを自称する2人の具体的な名前を挙げて、別の記事でこう書いている。
《★323権力にヨイショする自称ジャーナリスト ▽テレビを見たり、書籍を読んだりして、時折不愉快にさせてくれるのが、ジャーナリストと称した人間が、国家権力である時の権力を持ち上げて、政治家を絶賛することだ。ジャーナリズムとは、権力の監視であり、民主主義の砦だ。ジャーナリストを名乗るなら、こんなことをしては駄目だ。 ▽今回は元首相で、官房長官だった当時の菅義偉を持ち上げた自称ジャーナリストと、安倍政権を最後まで擁護していたこちらも自称ジャーナリストのそれぞれの著作を紹介する。 ▽まずは『影の権力者▽内閣官房長官菅義偉』(松田賢弥、講談社文庫)。 ▽雪国の貧しい土地の出身者、というだけで、田中角栄と重ねて絶賛しているが、菅は角栄の足下にも及ばない、くだらない政治家の1人だった。その後の政治活動を見れば分かるだろう。よくもジャーナリストを自称する人間が、こんな権力者のヨイショ本を書いたな、というのが正直な感想だ。秋田の豪雪地帯から上京した苦労人という点にだけ焦点を当てて、小沢一郎を斬り、沖縄県知事を斬り、小渕優子を斬り、安倍政権を絶賛する。これがジャーナリストのすることなのか。次第に不愉快になってくる内容だった。 ▽次に『安倍官邸の正体』(田崎史郎、講談社現代新書)。 ▽ここまでひどい政治記者を僕は知らない。完璧な安倍政権のお友達の時事通信記者だった。NHKにいた岩田、産経の安蒜並みというべきか。安倍官邸が正副官房長官らからなる秘密会議ですべてを決めており、それをうまく機能できるようになったのは、第一次安倍内閣での教訓が生きているからだという。ここまではいい。 ▽その後のこの本の展開は安倍がいい首相であり、民主党の歴代首相は馬鹿であり、菅官房長官は苦労人だから、よくやっているという大ちょーちん記事のオンパレード。集団自衛権の容認を成し遂げた、とかいう表現を使って、安倍政権を評価していることに驚くばかり。完全なスポークスマンだ。新聞記者として恥ずかしい。浦和支局に異動になった時に差し止めの訴えを起こしたとか、自分がエリートになったつもりでいるのもおかしい。 ▽なぜ、こんな人間がジャーナリストだと名乗っているのだろう。恥ずかしくないのだろうか。 ▽読んでしまって、損をした気分になった》
▽ジャーナリストを自称する人間が、いかにインチキっぽい人間か、分かるだろうか。
▽「チョコレートジャーナリスト」という言葉を聞いて、私は即座にX(旧ツイッター)ポストを書いてアップした。
《テレビ朝日の昼の情報番組でチョコレートミントを紹介していたが、識者としてチョコレートジャーナリストなる人物を登場させていた。チョコレートジャーナリストって何だ?チョコレート業界の権力を批判する仕事なのか。安易な自称ジャーナリストだな》
▽率先してジャーナリストを自称する人間をあまり信じない方がいい。私も自戒している。
★902いまだに存在する乗車賃不正利用(2026/05/29掲載)
▽いまだに電車の乗車賃を支払おうとしない利用者がいることを知って驚いている。キャッシュレスの時代、JR東日本ならSuicaカードで改札口を通るだけのことで、不正などなくなったと思っていたが、それなりの悪質な輩が存在することを初めて知った。
▽たまたま聞いていた民放ラジオの番組で、リスナーの駅員が匿名で不正乗車問題を投稿していた。聞いていて、えーっと思った。
▽それによると、手口はこうだ。
▽電車からホームに降りた客が改札口の駅員に、
「切符をなくした」
と申告をする。
▽切符をなくした場合、各鉄道会社では、買った切符の料金と同額を支払ってもらい、改札を出てもらう規則だが、こういう利用者に限って、必ず口をそろえて言うのが、
「(最低料金の)隣の駅から乗った」
と自己申告するらしい。
▽どんな遠くから乗ってきても、隣の駅からだと、120~150円だろう。これが遠方からだと数百円から数千円になるから、かなりの節約になる。こうやって、嘘の申告をして、電車賃を不正に安くしようとするらしい。
▽駅員もその事情は分かっているようで、そうしたウソの申告者には、こう質問をするらしい。
「どこの駅のどこの券売機で切符を買いましたか」
「どこの駅の何番改札口を通りましたか」
「何番線のホームから、何時の電車に乗ったのですか」
▽こうして具体的に詰めて、ウソだと分かり、相手が認めた場合は、実際の料金を徴収するらしい。
▽しかし、あまりに強く詰問をすると、後に苦情が鉄道会社に入るため、「客ファースト」という理由で、問い詰める口調は避けているという。
「隣の駅から乗った」
と申告するほとんどが、ウソらしいとこのリスナーは警告していた。
▽このリスナーの投稿を聞いていて、ずる賢い発想をする人間は、いつの世にもいるものだ、と感心してしまった。
▽Suicaカードを使う時代に、手作業でわざわざ切符を購入する手間をすることがあるのか、という素朴な疑問もあるが、こういう悪質な利用者には、通じないらしい。
▽こういう人間は何回も何回も不正を繰り返しているのだろうなと思った。
▽この話を聞いて思い出すのが、高速道路のETC不正だ。前を走っている車にピッタリと着いていき、ETCゲートのバーが開き、閉じる直前に自分の車も通過させてしまう手口だ。各地の高速道路ETCゲートで続発しているようだ。
▽高速料金を支払いたくない、という発想なのだろう。考えることがセコい。
★901気に食わないAIの文章(2026/05/28掲載)
▽どうも気に食わない。不愉快になってしまう。AIによる文章作りやAIによる要約作りだ。文章を書くことを生業としている人間にとって、実に不愉快なことと私は思っている。
▽私は40年間、新聞記者として働いていた。取材をして文章を書いて、キャップやデスクに見せる。キャップやデスクが原稿に手を入れて、整理部がレイアウトをする。こういう役割分担で新聞は成り立っているが、AIはそれを全部壊してしまうのだ。そう思う。
▽文章を書くということは、すなわち書いた文章を人に見せるということである。人にはそれぞれの文体の特徴があり、体言止めを多発したり、ですます調で書いたり、何回も同じことを強調したり、と一つ一つの文章に特徴がある。それは新聞記者でも、フリーライターでも、作家でも同じだろう。文章には個性があり、個性があるということは、能力を使うということである。全身全霊で書いた文章を人に見せる。それが物書きを生業としている人間の生き方だ。
▽さらに言うと文章を書くというのは苦しい作業だ。自分で取材した材料を、言葉にしていくのだ。相当な神経を使う。知識も使う。文章を書くというのは、自分の能力との戦いなのだ。
▽これをAIに頼んで、文章にしてしまったら、その人の個性は全く出てこない。コンピューターが作った文章だけだ。こんなものを読まされていたら、たまらない。信用はできなくなってしまうのだ。
▽それでも世界はAIの進化と連動している。私ももしかしたら既にAIによる文章を読んでいるのかもしれない。しかし、そんなものは信じたくない。
▽日々届く新聞を読んでいても、記者が取材に時間をかけて、文章にも時間をかけて書いていることがわかる。こうした文章こそが人間の手で作られた記事なのだ。紙面にAIが介入してはならないと私は思う。AIで作った文章など、読みたいと思わない。
▽私が使っているパソコンであるアップルのマックでも、Apple▽IntelligenceというAIが搭載されている。ここでも文章を作る機能があるが、私は一度も使っていない。使っているのは校正の機能だけである。
▽幸い、アップルはAIの技術が他社に比べて遅れており、執筆作業で使うことはない。
▽私は自分の文章は自分で書き、自分で発信していく。そこにはAI機能などの助けはいらない。
▽最近はYouTubeでもAIを使ったと見られる文章が点在するが、誤字脱字も多いし、読み方は間違えている場面も多い。AIなど信じたくないと私は思う。
▽AIに頼った文章作りをしている人間が、「作家」と名乗るなら、軽蔑する。
★899最近の車にスペアタイヤがないのはなぜか(2026/05/26)
▽今から11年前の2014年春に私がマイカーとして新車に買い換えた時、唖然としたことがある。車にスペアタイヤがないのだ。あるのはタイヤのパンク修理キットだけだった。なぜないのか。その5年後、さらに別の新車に買い換えた時もスペアタイヤはなかった。不安だった。万一のパンクで車が運転できないことを想像すると、不安のままの運転だった。
▽最近の車にスペアタイヤがないのはなぜなのかと思う。地方回りの新聞記者にとって、マイカーは取材の必需品だ。取材で遠出した時に、万一のパンクを考えるとスペアタイヤがないのは不安だった。メーカーはどうしてなくしてしまったのだろうか。
▽私には苦い経験がある。宮城県に勤務していた時、家族を乗せて気仙沼に向かった。その途中マイカーのタイヤがパンクしてしまった。運転でハンドルが取られて、パンクが分かった。
▽車に積んであったスペアタイヤを取り出し、ジャッキで車を揚げて、タイヤ交換をした。雨の中だったので、作業は時間がかかった。ずぶ濡れになりながら、タイヤを外し、スペアタイヤを取り付けた。そしてジャッキで車を元に戻す。家族には近くの店に入ってもらい、私は一人で作業をした。
▽そして4年前にはこんなトラブルがあった。自宅があるさいたま市から千葉県・房総半島へ車でドライブした時だった。自宅に戻る途中でガソリンスタンドに寄り給油した際に、従業員に指摘された。
「タイヤに釘が刺さっていますよ」
▽房総半島へのドライブでどこかで釘がタイヤに刺さったらしい。しかしパンクはしないで、そのまま走ってきたのだ。ガソリンスタンドでは応急処置をした後、車をディーラー店に持っていき、4本のタイヤすべてを交換をする予約をしてきた。それまで車は乗らないと決めた。いつ空気が抜けてパンクするか分からなかったためだ。こんな時もスペアタイヤがあればよかったのだが、と思ったものだった。
▽こんな経験があるから、スペアタイヤは必需品だった。しかし、車を買い換えると、新車にスペアタイヤがないことを知った。
▽スペアタイヤの代わりにあるのはパンクの応急処理キットだけだった。パンクを直すだけのもので、使い勝手は悪そうだった。
▽なぜスペアタイヤはなくなってしまったのだろうか?
▽おそらくメーカー側の都合と、最近のタイヤ事情が絡んでいるのだろう。スペアタイヤを車に置くということはその分のスペースが必要だ。もちろんジャッキなども入れる場所も必要になる。このスペースがなければ、車の内部の空間も増えるはず。重さも軽量化できる。さらには最近のタイヤは丈夫で、パンクしなくなっていることもあろう。JAFなどのサービスも充実してきている。
▽こうした事情も絡んで、スペアタイヤはなくなってしまったのだろう。しかし私のようにタイヤのパンクを経験した人間にとって、やはり不安は残る。タイヤ交換は苦痛だが、あれば安心できる。
▽雪国のドライバーはほとんどの人が経験しているだろうが、タイヤ交換は冬になると必須だ。北海道に勤務していた時は、昔スパイクタイヤというものがあった。この時は、夏タイヤ→スタッドレスタイヤ→スパイクタイヤ→スタッドレスタイヤ→夏タイヤと一冬に4回もタイヤ交換する必要があった。このためタイヤ交換は私も慣れていた。
▽そんな経験もあるからこそ、車にはスペアタイヤはあったほうがいいと思っている。
★898ぎっくり腰と座骨神経痛(2026/05/25掲載)
▽恥ずかしい話だが、私はここ20年近く、急性腰痛、突発性腰痛、つまりぎっくり腰に悩む日々が時折ある。予兆もなく、突然腰が痛くなり、歩けなくなる時もあった。原因はわからない。病院に行ったり、整骨院に行ったりしたこともあるが、最終的には自然治癒で治すしかなかった。同じ時期に座骨神経痛も発症しており、現在も痛み止めの薬を処方してもらい、飲んでいる。人間は年を取ると、体のあちこちの部品が悪くなることを痛感している。
▽最初のぎっくり腰は、私が50歳になる前、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局時代に発症した。朝のいつものジョギングをしていて、突然腰に痛みが走った。急に走れなくなった。木陰で休んで、痛みが収まるのを待って、自宅兼務の支局に戻り、痛みが消えるのを待った。うまく歩けない。腰を曲げると、痛みが出た。病院に行こうと思い、苦労して車を運転し、隣町の前橋市の専門病院に行った。この病院は地元のサッカーJリーグチームが契約している病院だった。病院に入り、しばらく待たされて後、女医の診察を受けた。レントゲンも撮り、内臓検査もした。「内臓検査をしたのは内臓が原因かもしれないと思ったからだ」と言う。しかし、原因はわからなかった。車で支局に戻り、しばらくジョギングを控えた。10日ほどしてから腰痛の痛みがなくなり、ジョギングを再開した。この間も仕事は続けていた。
▽次のぎっくり腰はその数年後だった。埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務している時だ。自宅で風呂の掃除をしていると、突然ぎっくり腰になった。歩行も困難で、JR武蔵浦和駅近くの接骨院にゆっくりと歩いて行って治療を受けた。マッサージ機などで治療した。これも治るのに1週間以上かかった。
▽さらには大雪でマンション駐車場の雪かきをしている時にもぎっくり腰になった。この時はサッカーJリーグ浦和レッズのイベント取材があり、重いカメラを持って、無理して取材に行った記憶がある。腰痛のためにカメラが重たく感じた。
▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務している時もぎっくり腰に襲われた。この時もジョギングをしている時で、突然腰にズシンという痛みが走り、動けなくなった。歩行も困難で、近くの治療院にタクシーで行き、治療を受けた。歩くなどの動きも困難で、2、3日は、支局兼自宅のベッドに横になっていた。
▽こうしてみると、この20年間、数年おきにぎっくり腰に襲われている。理由はわからない。
▽並行して発症した坐骨神経痛も悩ましい。ぎっくり腰が初めて発症した時とほぼ同時期に坐骨神経痛になっており、ジョギングに支障が出た。走ると右の臀部下の足の付け根に痛みが出るのだ。専門の整形外科病院に行き、坐骨神経痛と判断されて、牽引のリハビリを受けて、痛み止めであるビタミンB12の錠剤を処方してもらい、現在もその薬は飲んでいる。
▽坐骨神経痛のために、先日初めて行った整形外科病院で、レントゲンを受けた際、医師が私にこう言った。
「軟骨がすり減っていて、いつ腰痛になってもおかしくない」
▽気をつけないと。そのためには腰回りの筋トレが一番有効な対策だという。身体の部品を大切にしたいと思う。
★892シャインマスカットにおける農政の犯罪(2026/05/15掲載)
▽シャインマスカットと言えば、高級ブドウの一つで、数年前からは贈答品として扱われていた品種だ。最近は一般スーパーの店頭にも並び、値段が下がっている。ただし、最近は食味が良く商品もあり、品種も落ちているのかもしれない。
▽そのシャインマスカットは、日本で開発された品種だ。それなのに、日本はその品種登録をすることを忘れて、品種を守ることが出来ず、中国と韓国に無断で輸出され、中国では栽培面積が日本の実に50倍になっている。その責任を系統的に批判したのが、「誰が農業を殺すのか」(窪田新之助、山口亮子、新潮新書)だ。日本の農業政策の駄目っぷりを指摘し、減反政策で日本政府は何を守り、何を捨てたか。そして米以外の野菜や花卉類の営農をどう愚弄していったかを解説している。
▽特に本書の中で私が気になったのは、シャインマスカットがなぜ中国に無断で輸出されたかという実態だ。シャインマスカットは、「高温多湿の条件でも果実が割れにくい品種として認めて、育成した後の一つ」で、2006年に品種登録を済ませている。
▽本書は指摘する。
《その大産地が、いまや日本ではなく中国である。農水省は、中国への無断流出による喪失額を推計。2022年7月、年間100億円以上に達していると発表した。品種の育成者である農研機構に本来支払うべき許諾料(ロイヤリティー)を、出荷額の3%として計算すると、この額になるという》
▽同様なことは韓国でも起きていて、中韓で栽培が広がり、タイや香港に果実が輸出されているという。
《したがって、農水相が試算していない、輸出機械の損失に伴う損失額も相当あるとみるのが自然だ》
《中国から許諾料を取るにはもう遅い。農研機構が青果物の輸出を想定しておらず、海外での品種登録を怠っていたからだ。海外での品種登録できる期限は、自国内で譲渡を始めてから6年以内。「シャインマスカット」はこれを過ぎているので、海外での栽培はいまや合法であり、農研機構は許諾料の支払いを求めようがない。中韓で産地化されていることは、農研機構とそれを所管する農水相の手落ちだ。
▽国や地方自治体が税金を投じて育種をしながら、無断流出によって図らずも海外の農業を振興し、日本農業の足を引っ張る。日本の農政がこれまで、そんな悪循環を生み続けてしまった》
▽読むだけで情けなくなってくる。
▽日本の農政のレベルの低さを感じてしまう。
▽シャインマスカットだけではない。減反政策で日本政府は何を守り、何を捨てたか。そして米以外の野菜や花卉類の営農をどう愚弄していったかを解説している。出版されたのが2022年なので、2025年の令和の米騒動のことは書かれていないが、この2人の筆者はこの米騒動の原因をどう分析するのか。
▽こんな農政が減反などで、農家を翻弄しているのだ。
★891遺体の検死官から見えた日本の多死社会の現状(2026/05/14掲載)
▽「検視官の現場 遺体が語る多死社会・日本のリアル」(山形真紀著、中公新書ラクレ)は、検視官経験がある筆者が、検視官の現場から見えた多死社会の現状と今後のあり方を説いた内容の本だ。単なる検死官の捜査報告ではなく、現場で見えた死の現場から、死に直面した関係者の苦悩や大災害の死者の対応のあり方まで提言しており、示唆に富んでいる。
▽この本の筆者は埼玉県県捜査1課の検死官として勤務し、後に退職して、立教大学大学院に社会人入学し、その経験を生かした論文を発表するという、異質な経歴の持ち主だ。
▽書店でたまたま、「検死官の現場」というタイトルに惹かれて購入し、読んだ。単なる現場報告の話ではなく、現場から見えた様々な死体状況と、死者に対する葬儀や関係者の苦悩など日本の現状を考える問題提起の本でもあった。
▽本書の中では、「ドキュメント検視官24時」という章も設けられて検死官の勤務体制や役割分担、現場での検視官の仕事を分かりやすく伝えている。病死と事件事故による死亡の見極めを、専門用語を採り入れながら解説している。入浴のリスクや火災現場での遺体状況、ゴミ屋敷など腐敗遺体など様々な現場を書いた。
▽極めてリアルな描写もあった。鉄道自殺現場での運転士の証言だ。ギョッとする言葉だった。
「最後に死者と目が合いました」
「ホームの柵を乗り越えた瞬間、お辞儀をされて飛び込んできました」
▽さらに驚くのは、中高年男性が自慰行為でそのまま病死するケースも予想外に多いことも知った。中高年にとって自慰行為も危険なことだったのだ。
▽検視現場では具体的な専門的なことも細かく記しており、この本を読んだ時に、私は全国の若い新聞記者に、特に所轄回りの記者に読んでもらいたいと思った。私自身もまたこういう検視や鑑識の専門書をかなり読んでいたが、もっと若い時に出会って読んでいればよかったなと思った。
▽様々な検死官現場の状況報告しているが、本書はそれだけにとどまらなかった。病死や災害死などを通して日本の多死社会という問題を、行政機関も統一されて対応していないことを訴えていた。
▽そして最後にこの本の目的は、三つあるとして、一つが「防げたかもしれない死」を少しでも減らしたいという思いだったと書いた。二つ目に検死官という業務の存在とその重要性を広く知ってもらいたいということがあったとしている。三つ目に、「死を語ることができる社会」を目指したいと強調していた。
▽私の感想から言えば、検死官現場から見えた日本の死と直面する社会が、今後どうあるべきか提起する内容の本だった。
▽最後にこの筆者を紹介した朝日新聞「ひと」の記事の一部を紹介しよう。
《事件性を判断する埼玉県警の検視官として、3年ほどで約1600体と向き合った。その経験を「検視官の現場 遺体が語る多死社会・日本のリアル」にまとめ、昨年12月に出版した。遺体について語ることで、防げる死があるのでは、との思いからだ。
▽防犯などを担当する生活安全部勤務が長かったが、刑事の経験はない。捜査部門希望だったこともあり、2021年に捜査1課に異動したが、配属は検視の専門部署。扱う遺体がそもそも多いと気になった》
《ヒートショックなどで風呂で死ぬ人が多いことに驚き、遺体について学び、語らねばならないとの思いを強くした。
▽検視官になった年、元々入学が決まっていた立教大学大学院に48歳で社会人入学し、県警の3交代の24時間勤務明けにゼミに出ていた。コロナ禍を機に興味を持った災害対策を学ぶためで、東日本大震災での「仮埋葬」を修士論文で取り上げ、社会学修士号を取得した》
《「遺体は社会をうつす鏡」。災害時の多数の遺体はどう管理できるのか、立教大社会デザイン研究所で研究を続ける。災害支援をしようと、NPO法人の難民を助ける会でも働く。遺体から社会の弱点を見つけ、「生」へつなぎたいという》(2026年4月27日付朝日新聞)
★890スマホの外部バッテリー火災の実際の背景とは(2026/05/13掲載)
▽スマホのバッテリーを、外出先で充電するために外部バッテリーを使っている人は多い。私もその一人だ。しかし、その外部バッテリーが火災を起こし、社会問題になっている。その火災の背景となっている原因を私なりに考えてみたい。
▽結論から言うと、スマホのバッテリーが簡単に交換できない仕組みになったからだ。
▽iPhoneは昔から、最近のGoogleスマホも、バッテリーが簡単に交換できない仕様になっている。
▽iPhoneについてはアップル社の経営姿勢が関係している。iPhone内部の機密性を保持したいことと、純正バッテリー以外のものを使うと性能が落ちることを防ぐためだ。このため、簡単にバッテリー交換させない仕組みになっていると思われる。さらには防水性を高めたことから、バッテリー交換は簡単にはできない。
▽Googleスマホも以前はバッテリーが簡単に交換できたが、私が使っていた最近のスマホではできなかった。こちらも防水性を高めるために簡単にバッテリー交換ができない組みになったようだ。
▽以前のガラケーなら、バッテリー交換は簡単だった。このため、予備のバッテリーを持って取材に出ていた。バッテリーが低下すれば、予備のバッテリーと交換すればよかったのだ。
▽こうしてiPhoneもGoogleスマホも、バッテリー交換が簡単にできない仕組みになってしまった。これがサードパーティーの外部バッテリーの需要増加につながったのだ。
▽こうして外部バッテリーが次第に増えていき、安全性のないバッテリーもあり、火災が増えていくのだ。
▽安全ではない外部のバッテリーをそのまま放置して良いのかどうか。アップル社もGoogleスマホを製造しているメーカーも、もうちょっとこの火災の事例の多さに真剣に取り組んでもらいたいと思う。気密性を高くしたために、外部バッテリーの需要が増えて、その結果火災が増えている事実を、もっと直視してもらいたい。
▽実は私も以前使っていたiPhoneの外部バッテリーが、膨張を起こしてるのに気づいて使うのをやめた。バッテリーが膨張するという事は、バッテリー異常があり、これ以上使っていては危険だというシグナルだ。こんな危険なバッテリーと隣り合わせになっていること自体が怖かった。
▽外部バッテリーだから、当然ながらバッテリーを覆うカバーがある。このため重みも増す。単なる予備のバッテリーだけなら、重みもないのにと私は思ってしまう。
▽安全ではないメーカーの外部バッテリーがはびこっている原因は、そうしたアップル社などメーカーの姿勢にもあるのだ。これに気づいてほしいと私は思う。
★887滑舌が良くなくて断念したアナウンサーの道(2026/05/08掲載)
▽私が高校時代のほんの一時期、なりたい職業として、アナウンサーと思っていたことがある。しかし、ほんの一時期だけだった。滑舌が悪くて、とても無理だった。
▽当時の私は娯楽と言えば、プロ野球の巨人戦をテレビ観戦、ラジオ中継を聞くことだった。それだけではなく、実際に東京・後楽園球場にも1人で通い、巨人を応援していた。
▽当時の巨人はこんなオーダーだった。
▽1番センター柴田
▽2番レフト高田
▽3番ファースト王
▽4番サード長島
▽5番ライト末次
▽6番ショート黒江
▽7番キャッチャー森
▽8番ピッチャー堀内
▽9番セカンド土井
▽もちろん日本一の9連覇で、選手はいろいろ変わったが、基本的に私はこの選手たちが好きだった。
▽ラジオ中継は常にTBSの実況中継だった。
▽そしてこんなにプロ野球を見ることができるならば、と考えたのが、プロ野球の実況中継アナウンサーだった。
▽プロ野球を見ながら仕事もできるし、これは面白い仕事だなと思った。目の前で起きているプレーを逐一実況すれば良いのだから、これはお金ももらえて、プロ野球も見ることが出来るとは実に楽しいと思ったのだ。
▽だから、喋り方の練習を、自分なりにしたこともある。
▽こんな実況中継練習だった。
「さぁ、マウント上の江夏、投球2球目です。バッターボックスに長島。
▽第2級を投げた。
▽打ったー!▽三遊間!▽抜けた!▽レフト前ヒット!
▽サードランナー、ホームイン。セカンドランター柴田も三塁を蹴ってホームに向かう。
▽レフトのバレンタイン、バックホームするが、間に合わない、逆転!▽3対2!▽長島、打ちました」
▽阪神ファンにとって、江夏もバレンタインも懐かしいだろう。当時は大活躍していた選手たちだ。
▽だが、こんな個人の練習をしても無理だった。社会人になって知るのだが、本当にアナウンサーを目指したいのなら、専門学校に行かなくてはならない。しゃべり方を訓練する必要があった。
▽しかも私は滑舌が悪かった。「滑舌」という言葉自体、当時は流布されておらず、全く知らなかった。要するに喋りが鮮明ではないのだ。鮮明ではないということはアナウンサーに向かない。
▽インターネットにはこう説明されている。
《滑舌とは、言葉を明瞭に発音する能力のことです。舌や唇、顎などの筋肉をスムーズに動かし、聞き取りやすくはっきりとした話し方を指します。滑舌を良くするためには、舌や表情筋のトレーニング、早口言葉の練習、姿勢の改善などが有効です》
《滑舌の定義
▽言葉をよどみなくはっきりと発音すること
▽発音のテンポが一定で、言い直しがない話し方
▽アナウンサーや俳優が行う発音練習を指す場合もある》
▽だから早い時にアナウンサーを断念してよかったのだ。そう思った。今振り返っても、アナウンサーの世界を全く知らないまま、単に憧れていたに過ぎないことが分かる。恥ずかしい限りだ。
▽そのうちに私は次第にジャーナリストという職業に興味を持つようになった。高校卒業時には既にジャーナリストを目指したいと思っていたほどだ。
▽私はわずかな時期だけアナウンサーになろうとしていた。夢はあっという間に捨ててしまった。これで良かったのだ。
▽最近知ったことだが、例えばNHKのアナウンサーの話を録画して、早回ししても、キチンと聞き取れるが、民放のアナウンサーの多くは聞き取れないという。それだけ訓練されているという事なのだろう。私には無理であることが、さらに分かった。
▽プロ野球はやはりファンとして実況中継を聞くか、テレビ中継を見るか、さらには実際に試合を観戦するしかないのだと思った。
▽これがささやかな私の、短い夢だった。
★884何とかならないか、Appleのインテルマックアプリの切り捨て(2026/05/05掲載)
▽一部のAppleユーザは困惑しているはずだ。Appleのパソコン、MacBookProやMacMiniなど、新しいチップの変更に伴うOSの大幅バージョンアップで、使えなくなるアプリが出てきているためだ。アップルは過去の遺産を切り捨てようとしているのか。
▽想定されていたことだが、Appleはインテリマック時代のアプリを切り捨てて、Mチップシリーズなどのパソコンにだけ対応するアプリに相対する戦略を打ち出している。これまで使えていたインテルマック時代のアプリが急に使えなくなる。私を含めたユーザから不満の声が上がっている。
▽インテルマックとは、今から15年以上前に、Apple社がこれまでのCPUの開発を止めて、インテル社のCPUを使い出したことによる。インテルのCPUを使うことから、「インテルマック」ともてはやされた。ウィンドウズマシンでもインテルCPUを使っているため、Appleのパソコンの上でウィンドウズのソフトも動くといって話題になっていた。インテルマックの最盛期の時代だった。
▽しかし時は流れて2020年前後から、AppleはMシリーズというApple独自のCPUを開発しそれを搭載したパソコンを売り始めた。M1、M2、M3、M4、M5シリーズだ。そしてインテルマックのパソコンは開発を中止して、製造・販売されなくなった。
▽それからここ5−6年間は、Appleユーザーの間では、インテルマックとMチップのパソコンが混在して、使われてきた。
▽そして問題は昨年秋だった。AppleはOSの大幅バージョンアップを行うとともに、その先のバージョンアップからは、インテルマックのパソコンはバージョンアップができないことをアナウンス。それとともに、AppleはMチップのパソコンでも、インテルマックに対応したアプリも使えなくなると、最近になってアナウンスしてきたのだ。
▽これに困ったのがインテルマックを愛用しているユーザたちだった。
▽私はAppleユーザーとなって35年以上が経過するが、その私から見て、今回の問題は2点ある。
▽1点は古いインテルマックのマシンが、今の新しいOS以降の新しいものに使えなくなることだ。もう1点はAppleシリコン、つまりMチップを搭載しているマシンでも、インテルマック時代のアプリが今後使えなくなるということだ。これは非常に重要な話だ。
▽もう少し詳しく書いていこう。私は昨年の夏から、それまで所有してきたAppleのパソコンを徐々にMチップのパソコンに買い換えてきた。最後のインテルマックだったMacMiniも、Mチップ搭載のMacMiniMに切り替え、ノートパソコンであるMacBookProも、MacBookAirもMシリーズに切り替えた。一方で、2015年製という古いMacBookProは万一を考えて、そのまま保有しているだけで、ほんの時折使っている状態だ。
▽Appleの最近のアナウンスで困ってるのは、Wi−Fi経由でパソコン画面で見るテレビチューナーだった。このチューナーのソフトがインテルマック対応で、Mチップシリーズに今後対応しないというのだ。
▽最近のMacMiniM4の画面を開くと、今後の新しいmacOSには、インテルのアプリには対応していないとアナウンスが出るようになった。つまり、新しいバージョンになると、このテレビチューナーすら見ることができないのだ。私は途方に暮れている。
▽ちなみに言うと、2015年製のMacBookProは、内蔵SSDをサードパーティーのSSDに換装しており、ファームウェアのアップデートができず、それに伴ってOSのアップデートはこの5年間全くできない状態が続いている。古いパソコンで古いOSを使っていることが、どのくらい危険なのか私はわかっている。しかし、古いインテルマック対応のアプリを使うとしたら、この古いパソコンしかないのが現状なのだ。それが悲しい。
▽今後もこれからもこうしたインテルマック対応のアプリが使えなくなるというアナウンスがさらに出てくる可能性は高い。
▽Appleはインテルマック時代の資産を潰そうとしているのだろうか。インテルマックのユーザーを切り捨てるということなのだろうか。
▽同じような困惑したユーザはネットでも見られる。たまたまネットで見た意見を紹介したい。長いが読んでもらいたい。
《あらゆる技術的な可能性を試した上で、これを書いています。
私のマシンはMacBook Pro 16インチ 2019(Intel i9、AMD GPU)で、3000ドルのプロ仕様のデバイスです。
ハードウェア診断はクリーンです。変更なし。ハックもなし。OpenCoreもなし。
しかし、macOS 26以降、システムは劣化し、不安定になり、サポートが不十分だと感じます。
はっきりさせておきましょう。
Appleが焦点を変えたというだけで、3000ドルのマシンが陳腐化に向かうのは受け入れられません。
macOS 26(Intel)で何が起きているか:
• スリープ/ウェイクの不安定さ
• アイドル後、audioaccessorydがCPUを100%まで消費
• ウェイク後に電源管理ループが発生
• ワークロードがないのにAMD GPUの温度が急上昇
• 以前のmacOSバージョンよりも高いアイドル温度
• Coreオーディオサービスを手動で再起動する必要がある
• Bluetooth/オーディオスタックの動作が不安定
これらの問題は、アップグレード前には存在しませんでした。
これはハードウェアの故障のようには見えません。
これは、退行レベルの無視のように見えます。
AppleがApple Siliconを優先したいなら、それは彼らの戦略的な選択です。
しかし、Intel Macがまだ公式にサポートされているなら、サポートは安定性を意味するはずです。静かな劣化ではなく。
企業が移行ロードマップを加速させたいからといって、デバイスがe-wasteになるわけではありません。
アップデートがサポートされているハードウェアの安定性を損なう場合、次のいずれかを行います。
1. これらのマシンへのアップデートを停止する
または
2. 適切な最適化と回帰テストを維持する
現在起こっていることは、ソフトウェアの圧力による強制的な陳腐化のように感じます。
多くのIntelユーザーが、macOS 26以降、同様の動作を報告しています。
これは可視化される必要があります。
3000ドルのプロ仕様のマシンが、時期尚早に歴史に押し込まれているように感じるべきではありません。
Intel Macで同様の問題が発生している場合は、モデルと症状を共有してください。
私たちは明確さと説明責任に値します》
▽そう、かなり深刻な問題なのだ。
▽Appleはこうしたインテルマックユーザーを切り捨てようとしているのか。
★881松本清張の原点を解明した図書(2026/04/30掲載)
▽「松本清張の昭和」(酒井信、講談社現代新書)は、国民的大作家の松本清張の生涯を立体構成し、解説した内容の新書だ。清張が書いた作品には、その原点が見え隠れしているといい、関心を持って読んだ。
▽貧しかった幼年期から、青春期、新聞社時代、そして作家になり、死亡するまでの過程を、本人の作品や様々な関係者の証言をもとに組み立てた。
▽貧しかった子供の頃、兵隊として召集されたこと、大阪朝日新聞九州支社に臨時雇用で就職したこと、その中でも差別があったこと、そして作家になっていったこと、さらには大作家として飛躍し、最後は映画作品にも乗り出していったことを書き出した。
▽この筆者が言うように、高等小学校卒の学歴で、給仕の仕事を経て印刷工となり、大阪朝日新聞九州支社に出入りの業者として採用された。5年間の非正規雇用を経て、正社員となり、2等兵として教育招集され、上等兵として帰還した。
▽敗戦後はわらぼうきの仲買などの副業も経験した。その後41歳で文壇デビューし50歳で長者番付で1位となるなど、大作家として活躍した。
▽「砂の器」「ゼロの焦点」「点と線」などは、その後、映画され、ドラマ化され、戦後の日本の昭和を見事に描いた作品だ。戦争体験があったからこそ、社会悪を憎む作品を書き続けてきたということなのだろう。
▽筆者はこの新書の中で、こう語っている。
「松本清張の生い立ちをたどると、想像を絶する貧しさから這い上がったバイタリティに驚かされる」
▽確かにそうなのだろう。この本を読む限り、若いころから読書をたしなみ、本をかなり読んでいたことがわかる。英語も独学で勉強し、自分の様々な経験を原体験として小説に投影していた。「点と線」「砂の器」「ゼロの焦点」など様々な場面が実は松本清張が幼いころに経験した原風景が反映されている、と筆者は強調する。
▽面白かったのは、大量の原稿を書いていたため、ゴーストライター説まで飛び出したらしい。この本を読む限り、速記者が一人いて、口述筆記をしていたことも初めて知ったことだった。
▽2026年2月22日早朝のNHKラジオ「著者からの手紙」でもこの筆者の声を紹介していた。
★880ライターはブログに活路を見いだせるか(2026/04/29掲載)
▽私の知り合いで女医で作家のYさんが最近ブログを始めたという連絡をメールでもらい、彼女のブログを見るようになった。専門知識を駆使して毎日のように原稿を書いている。頑張っているなと私は感心している。
▽彼女によれば、ブログを書くきっかけだったのは、これまで執筆してきた雑誌などの多くが休刊したことだった。タウン誌などのミニコミから総合雑誌まで幅広い分野で執筆していたが、相次ぐ休刊で書く場所がなくなってしまい、ブログを執筆することになった。
▽これは私もここ数年感じていることだ。新聞や週刊誌や月刊誌、さらには書籍、そしてミニコミなど多くの紙の媒体の部数が減り、休刊する雑誌も多い。週刊誌は合併号などとして、発行回数を減らしている。特にミニコミなどは相次ぎて休刊し、そこを拠点に執筆していたライターたちは、執筆する場所を失った。
▽そのことを私もここ数年痛感している。原稿を書いたとしても、掲載する媒体がないのだ。
▽それだったら、と思ったのが、自分でホームページを作り、自分の原稿を書いて掲載することだった。それが私のホームページ作りのきっかけだった。第三の運営者が開設しているホームページにブログを書くのではなく、自分でホームページを作った方が安全だと思ったためだった。
▽そのホームページを始めて、3年になる。土日を除く毎日、自分が書いた原稿をアップしている。新聞記者時代に知った話や社会情勢などを書いている。ライフワークである死刑制度問題やジャーナリズム問題も書いてきた。私の場合は、戦前戦後を通じて反権力を貫いた故正木ひろし弁護士が発行し続けたミニコミ「近きより」をイメージして作っている。
▽これは経験則だが、ホームページにしろブログにしろ、こまめに内容を更新しないと、リピーターは増えない。更新するからリピーターが増えるのだ。
▽単に「喫茶店を開業しました、メニューはこれです」というホームページは一度見ただけで、リピーターは増えない。それが現実だ。
▽そしてブログには危険性もある。第三者の運営で成り立つホームページのブログは、その第三者が運営を打ち切ってしまえば、ホームページとともに、ブログはすべて消滅するのだ。
▽昨年(2025年)9月には、その危険性について、朝日新聞が記事にしている。ブログが閉鎖し、今後どうなるかわからないとブログの将来を心配する内容だ。
《SNSの普及などに伴い、ブログサイトの閉鎖が相次いでいる。閉鎖されたブログの記事は消滅する。保存の動きもあるが、闘病記や被災体験など無数の私的な記録を後世に残すべきなのか、議論は深まっていない。
▽ブログサイト「gooブログ」は4月、サイトを11月で終了させると発表した。21年の歴史に幕を下ろす。運営するNTTドコモは取材に「市場の動向の変化や昨今の状況を鑑みた結果、また当社として経営資源の集中を図るため」と答えた。
▽これまでも、2019年に「Yahoo!ブログ」が、23年には「LINE▽BLOG」がそれぞれサイトを閉じた。ユーザーが自ら他のサービスなどにデータを移す「引っ越し」をしない限り、記事は消える。
▽数年前にブログサイトを閉鎖した運営会社の元担当者は「ブログの時代は終わった」と話す。
▽広告収入でサイトの運営費をまかなう仕組みだが、「アクセス数は最盛期から3分の1程度になり、広告単価も下がっていた」という。「そもそも20代、30代はブログを新たに開設することはほとんどない」》
《ブログの全盛期は00年代前半だ。03年に「はてなダイアリー(はてなブログに統合)」が開始。「ライブドアブログ」などが相次いで参入した。記事の内容も料理や育児、旅行など多岐にわたった。個人が気軽に情報発信ができるようになり、人気に火がついた。
▽だが、05年ごろからmixi、Twitter(現X)やFacebookといったSNSの台頭で、ブログの存在感は急速に薄れていった。現在残るサービスは「はてなブログ」「ライブドアブログ」のほか、「Amebaブログ」「FC2ブログ」などだ》(9月25日付朝日新聞)
▽第三者が運営するホームページにブログを載せるということは、他人任せの運営であり、ある意味危険であるということだ。これは知っておいた方が良い。いつ閉鎖されてもおかしくないし、その場合、自分の書いた原稿が消えてしまう危険性が高い。
▽私が自分のホームページを自分で運営しているのは、そのためだ。
★875残念なマスコミ市民の終焉(2026/04/22掲載)
▽月刊誌「マスコミ市民」が今月(2026年3月)で最終号とあった。今の「マスコミ市民」は私が東京本社時代にペンネームで連載していた時のものと違って、NPO法人が発行していて、全く別物だ。ずさんな経営から発行を休止していたが、有志が新たに発行していたのだろう。これまでご苦労様と言いたい。
▽まずは休刊を知らせるホームページから紹介する。
《マスコミ市民休刊のお知らせ
日頃より、マスコミ市民をご愛読いただき、誠にありがとうございます。 これまで、読者のみなさまのお力に支えられマスコミ市民の発行を続けてまいりましたが、厳しい財政のもと、今後の発行を継続することが難しい状況になりました。この間、多くの皆さまのご寄付や励ましのお言葉をいただきましたが、大変残念ではありますが、時代の流れには逆らえず、本年3月号で休刊することとなりました》
▽この記事を読んだ時、私は残念だなと思った。学生時代から愛読しており、良心的な雑誌の一つだった。新聞記者になってからは一時期、私はこの「マスコミ市民」で連載記事や単発記事を書いており、単なる読者はなく、執筆者としての付き合いもあった。私と付き合いがあった当時の担当者のうち、二人が既に亡くなっている。
▽その後、マスコミ市民の経営に、胡散臭い人物が介入し、経営が悪化し、休刊していた。それが有志によって、復刊した経緯がある。その経緯は後に書くことにして、まずは有志によって復刊させた当事者の声が、ホームページで掲載されているので、これをまず紹介する。創刊の意図から、休刊までの流れを書いており、長いが読んでもらいたい。
『マスコミ市民』休刊に至る59年の歩み―隆盛、苦難、再起の3つの時代 石塚さとし[NPOマスコミ市民フォーラム理事長]
《月刊『マスコミ市民』が産声を上げたのは今から59年前のこと、1967(昭和42)年の2月でした。朝の連ドラは「おはなはん」、紅白歌合戦の視聴率は80%という時代です。当時、NHKの労働組合・日放労(日本放送労働組合)の委員長であった上田哲氏(後の社会党参議院議員、衆議院議員)が音頭を取るかたちで「日本マスコミ市民会議」が発足し、その団体が運動をしていく手がかりとして『マスコミ市民』を創刊しました。いわば「マスコミ市民会議」が発行する機関誌的な存在だったのです。
「マスコミ市民会議」は、市川房枝、中野好夫、松山善三、芥川也寸志、田中寿美子など錚々(そうそう)たる知識人、文化人が発起人に名を連ねていました。1967年に出された「創刊のことば」では、「マスコミに真実を語らせ、優れた文化を生みだすためにはマスコミの中にいる私たちだけが悩んでいるだけではだめなのだ。……一方通行だけではなくて、これを受ける側からの多くの声をマスコミの中に還流させなければならない」と宣言しています。この間、創刊号から686号まで一貫して掲げてきた「ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌」という雑誌のサブスローガンは、この「創刊のことば」に由来するのだと思います》
《『マスコミ市民』の歴史は大きく3つの時代に分けることができると思います。第1期は、創刊期から1970年代まで、主に上田哲氏が前面に立って「マスコミ市民会議」として活動してきた時代です(上田氏は市民会議の代表理事)。第2期は、1980年代から2000年代前半にかけて、上田哲氏の下で編集作業を担っていた安孫子誠人氏が、編集・発行の責任者であった時代です。そして第3期は、2000年代の後半以降今日まで、私自身が編集の責任者を引き受け、川﨑泰資氏(元NHK政治部記者)が中心となって発行を続けてきた時期です》
《この時期の主だった記事や雑誌としての取り組みは、武蔵大学名誉教授の永田浩三氏が「マスコミ市民を読み直す」①(『マスコミ市民』685号)で詳しく記しておりますので是非参考にしてほしいと思います。その中で、一つだけ強調しておきたいのは、マスコミの最前線で働く記者たちが、自分の思いや悩みを表に出しながら現場の状況を市民に向けて発信し、読者、視聴者、市民と一緒になって考える姿勢を積極的に示していたことです。また、それは発信者同士が連帯し、交流していくことにもつながっていました。実名匿名を問わず、現役の記者たちの執筆や対談は多く、ジャーナリストと市民、ジャーナリスト相互の間で、情報交換し合える手助けになったと思います。
当時の『マスコミ市民』が特に力を入れた記事としては、1971年の沖縄返還協定に関する西山事件、1972年の佐藤首相の花道会見の際の新聞批判、1976年のロッキード事件報道とNHK小野吉郎会長の田中邸訪問などがあります。また、水俣病やイタイイタイ病など公害問題に関しても、被害者の人たちに寄り添う記事を発信しています。「マスゴミ」という言葉が言われて久しくなりますが、少なくてもこの時代の『マスコミ市民』を見る限りでは、日本にも真っ当なジャーナリズムがまだ残っていたように思えます》
《川﨑泰資発行人で再出発するも…
『マスコミ市民』の発行を続けるために私財をつぎ込み、様々な工面をしながら尽力してきた安孫子誠人氏は、2004年に二度目の病に倒れ、編集実務がままならない状況になっていきました。私は、その年の秋にある人を介し安孫子氏を紹介され、入院されていた府中の病院へお見舞いに行ったのです。そこで、安孫子氏から『マスコミ市民』の編集をやってほしいと依頼されたのですが、もとより雑誌の編集、出版はまったくの素人である私が、小なりといえども伝統ある雑誌に携わるのは気が引けましたので、とりあえず安孫子氏が元気になるまでのつなぎと考え、自信のないまま引き受けることにしました。》
《最終号(686号)を編集していく中で、多くの読者からねぎらいの言葉を頂きました。「残念」という言葉とともに、「ここまでご苦労様でした」「ありがとう」という感謝の言葉も多数頂きました。私の本心としては、区切りのよい700号までは続けて、若い人にバトンタッチをしたかったのですが、そのための財力が今はありません。自民党の派閥の親分のようなモチ代や氷代は必要ありませんが、一文無しの状態で後世に雑誌を引き継ぐことはできません。》
▽残念な結果だが、この文章の中で語られていない事実がある。上記のように、「その後、マスコミ市民の経営に、胡散臭い人物が介入し、経営が悪化し、休刊していた」という事実だ。
▽私が朝日新聞東京本社時代のことだ。「マスコミ市民」が新たに生まれ変わったとして、出資者を募り、新たな資金を得て、事務所を移した。
▽新たな経営責任者と編集者が加わり、私は依頼された連載記事を書くようになった。「マスコミ現場から」というタイトルで、阪神大震災やオウム取材現場、整備新幹線問題などを書いていった。 しかし、「生まれ変わった」とは見せかけだけだった。
▽最初はもらっていた原稿料もわずか数カ月で滞るようになり、社員への給料も遅配するようになった。
▽さらには新たに加わった経営責任者と名乗る人間が、会社の経費を私的に流用していることが明らかになった。自分のスーツのクリーニング代などを経費として請求するなど、公私混同が目立った。そのことを私は、担当編集者から知って驚いたことがある。「マスコミ市民」は乗っ取られたのではないか、と。
▽最後は社員の編集者が会社への入金を差し押さえる裁判に出て、「マスコミ市民」のずさんな経営が表面化し、休刊を余儀なくされた。
▽こんな経緯があったのだ。
▽私はこの自分のホームページ社会事象編にもこんな記事を書いている。担当編集者だった女性が亡くなったことを追悼する内容だ。
《★748マスコミ市民と西岡利延子さんの死去(2025/10/17掲載) ▽月刊誌「マスコミ市民」という雑誌をご存じだろうか。その編集部にいた編集者の話を今回は綴りたい。 ▽月刊誌「マスコミ市民」の歴史は長い。元々はNHK労組が支援する形で半世紀前に刊行されて、その後独立した。新聞やテレビが権力側とどう対峙して、報道していったかを、現場記者が匿名でリポートする雑誌だった。書店には置いておらず、会員読者に郵送で送っていた。 ▽良心的な雑誌だった。ジャーナリズムの精神を貫いていた。ヒロシマ、ナガサキを原点としていた。 ▽私は学生時代から知り合い、その編集者とも知り合い、何本か原稿を書いていった。ただしその編集者、中奥宏さんは早くに病死してしまった。勉強家で優秀な編集者だった。 ▽その「マスコミ市民」が生まれ変わったとして、出資者を募り、新たな資金を得て、事務所を移したのは、私が朝日新聞東京本社にいる時だった。新たな経営責任者と編集者が加わり、私は依頼された連載記事を書くようになった。「マスコミ現場から」というタイトルで、阪神大震災やオウム取材現場、整備新幹線問題などを書いていった。 ▽だが、「生まれ変わった」とは見せかけだった。最初はもらっていた原稿料も滞るようになり、社員への給料も遅配するようになった。さらには新たに加わった経営責任者と名乗る人間が、会社の経費を私的に流用していることが明らかになった。自分のスーツのクリーニング代などを経費として請求するなど、公私混同が目立った。最後は社員の編集者が会社への入金を差し押さえる裁判に出て、「マスコミ市民」のずさんな経営が表面化し、休刊を余儀なくされた。 ▽その給料遅配に対抗し差し押さえに動いたのが、当時の編集者、西岡利延子さんだった。私の連載原稿を担当し、采配してくれた。見事な編集ぶりだった。 ▽経営責任者の言動がおかしい、という彼女の指摘で、その男の行動をチェックすることを、彼女と一緒にしてみたこともあった。 ▽その後、彼女は雑誌『教育と医学』(慶應義塾大学出版会)の編集者に転職し、仕事を続けた。 ▽同じ早稲田大学出身ということで、意気投合し、高田馬場駅周辺でよく飲んだ。私が本社から上越支局、北海道報道部、渋川支局、本社、東埼玉支局、佐渡支局、秩父支局とめまぐるしく転勤しても、時折東京で会っては酒を飲んでいた。 ▽そして数年前に打ち明けられたのが、乳がんの発症だった。手術をして、成功し、しばらく元気だったが、再発したらしく、電話の声は小さかった。 ▽そしてこの数年、彼女との連絡は途絶えた。 ▽最近知ったのが、ネットで情報だった。彼女を「故西岡利延子さん」と称して、感謝している文章に出会った。直接のニュースではなく、既に「故人」となっていたことを知った。私はしばらく呆然としていた。 ▽そして「マスコミ市民」は新たな有志の力で復刊していた。知り合いの二人の編集者が亡くなった今、私とのかかわりは全くなくなってしまったが、良心あるジャーナリズムの道を進んでもらいたいと思っている》
▽この記事を掲載した半年後に、「マスコミ市民」は休刊してしまった。残念だ。
★874造船疑獄で出された指揮権発動の真意とは(2026/04/21)
▽中央政界の疑獄事件が発覚し、東京地検特捜部が捜査に乗り出すと、必ずと言っていいほど登場する言葉が、「法務大臣の指揮権発動」だ。戦後の最大の汚職事件である造船疑獄事件では、法務大臣が指揮権を発動し、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作(後の首相)の逮捕を阻止したと、マスコミを中心に語り継がれてきた。しかし真相はどうだったのか。捜査がストップされたと言う話は本当だったのかどうか。古い事件であるが、この真実を解明しようとした本を紹介したい。
▽まずは造船疑獄の簡単な概要を、ネットにアップされたグーグルの記事から紹介する。
《造船疑獄は、1954年に発覚した、第二次世界大戦後の日本における計画造船における贈収賄事件です。海運・造船業界が、与党である自由党の有力政治家や政府官僚にリベートを提供し、政官界の有力者がそれを政治資金や工作資金として流用していたことが露見しました。この事件により吉田茂内閣は倒れ、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作(後の首相)の逮捕が法務大臣の指揮権発動によって阻止されるなど、戦後日本の政治と司法に大きな影響を与えた事件として知られています》
▽問題は、この指揮権発動で本当に佐藤栄作の逮捕が阻止されたのかどうかだろう。
▽後のロッキード事件でも、当時の三木内閣の法務大臣が指揮権発動をするのではないか、という噂が盛んに流された。
▽では実際はどうだったのか。まずは『歪んだ正義▽特捜検察の語れざる真相』(宮本雅史、角川文庫)を紹介する。
▽この本では戦後の東京地検特捜部が手がけた造船疑獄や東京佐川事件の歪んだ捜査を検証している。造船疑獄の指揮権発動は東京地検の捜査の行き詰まりが、政治家を動かしてみせたと結論づけている。この本は新聞記者が書いたものだ。
▽内部の人間が書いたのは、「検察の正義」(郷原信郎、ちくま新書)だ。検察官時代の経験を元にした東京地検特捜部の捜査批判は説得力があった。造船疑獄事件で法務大臣が行った指揮権発動を、多くが勘違いしているが、実は捜査に行き詰まった特捜部そのものが指揮権発動を依頼した、というのが、内部では定説になっている、と指摘している。きちんと整理して読ませた。注目されている捜査が行き詰まり、佐藤幹事長の逮捕は無理だと特捜部自身が判断し、政治家に依頼したのが、真実だと結論づけている。
▽さらには「指揮権発動」(渡辺文幸、信山社)では、あの造船疑獄で出された指揮権発動は、一体だれに入れ知恵されて執行されたかをひもといた内容だが、背景説明が長すぎてしまい、東京地検の歴史そのものを書いたようなストーリーになってしまった感がある。このため肝心の指揮権発動の話はわずか一ページ。いきなり最後になって結論を出したが、それまでは背景説明ばかりで、隔靴掻痒という感じもした。
▽以上の3冊を読む限り、指揮権発動は当の特捜部が作りだした自作自演の演出だったことになる。特捜部は政治家に負けたのではなく、自滅したのだ。そういう内容だった。
▽それにしても、最近は特捜部が中央政界に切り込む捜査がないのはなぜか。検察の不祥事が続いているためか。中央政界に忖度しているためか。
▽私はロッキード事件の時、マスコミの報道をわくわくして読んで、見ていたことを思い出す。
★873オールドメディアだと。ちゃんちゃらおかしい(2026/04/20掲載)
▽「オールドメディア」と自嘲気味に言う人間がいる。SNSの発達で新聞や雑誌が読まれなくなり、テレビも見られなくなり、こうしたSNSの膨張する事態に、新聞社などで働いている記者が、「オールドメディア」と自ら表現しているようだ。だったら、対比として「ニューメディア」とは何を指すのだろう。
▽まず、この「オールドメディア」と表現する人の多くが、新聞や雑誌、テレビにいる側の人間だ。決してSNSを駆使している人間たちが放つ言葉ではない。SNSを駆使している人間は新聞や雑誌、テレビなど見ていない。新聞や雑誌、テレビより影響力が強くなったSNSに対して、畏怖と批判も込めて、「オールとメデイア」と自嘲しているに過ぎない。
▽では、対比する言葉として、「ニューメデイア」は何を指すのか。断じて言うが。決してSNSではない。あれはメディアではない。
▽この「ニューメデイア」は実は40年以上前に語られていた言葉だ。
▽ケーブルテレビが普及し始めたころで、日本ではまだインターネットもなかった時代だ。番組を発信する側と番組を受信する側、つまり視聴者の双方向で発信するイメージを、「ニューメディア」を称していたし、議論されていた。しかしなかなか実態がないまま、この「ニューメデイア」の論議は消えていった。
▽もっとそれより前には、「ニュージャーナリズム」という言葉が流行っていた。既存のジャーナリズムに対して、ニュージャーナリズムなのだが、当時の評論家だった立花隆や新しい書き手だった沢木耕太郎がニュージャーリズムの旗手だともてはやされた。
▽沢木耕太郎は通常のルポルタージュではなく、筆者個人の思いや考えも文章の中に入れて書いていく手法で、これを「ニュージャーナリズム」と言われた。朝日新聞にはそういう手法を使った沢木の連載が続いた。しかし、このニュージャーナリズムという言葉も長く続かなかった。ニュージャーナリズムも、オールドジャーナリズムも、所詮は同じジャーナリズムなのだ。
▽ではオールドメディアとは何を指すのだろうか。従来の新聞やテレビの報道を指すのだろうか。新聞にしても、テレビにしても、そして雑誌にしても、取材する手法は変わりはない。変わりがあるとすれば、何を目的に取材をしているかだ。ジャーナリズムは本来権力の監視であり、反権力である。権力に迎合するのはジャーナリズムではない。オールドメディアと呼ばれる新聞などが権力を追求する限り、オールドでもなく、純粋なジャーナリズムだ。
▽これらをオールドメディアと呼ぶのであれば、ニューメディアとは何なのだろうか。
▽SNSに代表されるように、取材もしないで、勝手に他人を非難するのがニューメディアなのだろうか。少なくとも新聞社なら記者が取材をして、デスクや校閲が原稿チェックし、紙面に載せていく。何重もチェックが入って活字化されていく。その何重ものチェックがないSNSのことをニューメディアと呼ぶならば、ニューメディアはメデイアと呼ぶには値しない。ニューメデイアなど存在しないのだ。
▽そう、もうオールドメディアなどと自嘲することなく、堂々と取材し発表していけばいいのだ。
★872国鉄の分割・民営化を分割民営化としか書けない記者たち(2026/04/17掲載)
▽今年(2026年)3月1日の朝日新聞コラム天声人語を読んで、私は愕然とした。国鉄の分割・民営化を、単に「分割民営化」と表現していたからだ。私にとって、否、一部の良識ある記者や関係者にとって、「国鉄の分割・民営化」と「国鉄の分割民営化」とは、意味合いが全く違ってくる問題だからだ。
▽まずはその天声人語から見てみよう。
▽朝日新聞天声人語の筆者は、「青春18きっぷ」を使って北海道を旅した思い出を記した。そしてこう記した。
《▼お世話になったのは、「青春18きっぷ」だ。普通・快速列車に乗り放題で、当時は1日券の5枚セットで1万円だった。前身は1982年のきょう、販売が始まった「青春18のびのびきっぷ」で、翌春から今の名称になった▼値段や利用条件は変わったが、44年も続いているのは驚きだ。この間に国鉄は分割民営化され、高速化と合理化が進んだ。それでも時間をかける楽しさと安さ、気の向くままに途中下車できる自由を選ぶ旅人はいる》
「分割・民営化」ではなく、「分割民営化」とした。この「・」(「なかぽつ」と読む)があるかないかでは、意味が違ってくることに、この筆者は気づいていない。
▽国鉄の分割・民営化は当時の中曽根政権が強行した国労つぶしだった。巨大な赤字を抱えて身動きができなくなった国鉄を、国労員だと言うだけで、切っていった。国鉄清算事業団という、得体の知れない組織を作り、そこに入れて、洗脳教育をしようとした。
▽そして効率化を名目に赤字ローカル線を次々に捨てていった。
▽国鉄を解体し、7社に分割するという、戦後の大掛かりな構造改革を中曽根政権が断行した。目的は明らかに、国労つぶしだった。多くの反対意見を無視し、国労の労働者は国鉄清算事業団に入れられ、虐げられてきた。当時の朝日ジャーナルは戦後の労働運動の終焉だと書いた。
▽国鉄がJRになったとしても、公共輸送機関であることは変わらないのに、JR各社は効率と採算を優先させている。新幹線建設と在来線の経営分離はその最たるものだろう。
▽だからこそ、当時の朝日新聞は「国鉄の分割・民営化」という表現にこだわって書いてきた歴史がある。
▽私は国鉄の「分割・民営化」という言葉にこだわってきたのだ。各地の国労員が闘争団を作って、闘ってきた歴史も取材してきた。
▽私は自著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の中で、北海道・音威子府国労闘争団についてこう書いている。
《北海道北部に位置する音威子府村は、かつて鉄道の街だった。宗谷線と天北線が分岐する音威子府駅を持ち、乗り換え駅として栄えていた。村の人口の半数以上を鉄道関係者で占めた時期もある。
▽時代が昭和から平成に変わろうとした時、この村を襲ったのが、オホーツク沿岸で暮らす人々には大切な赤字長大路線の天北線廃止であり、国鉄の分割・民営化に伴って実施された大合理化だった。鉄道員たちは、「国労員」という肩書だけで選別・解雇された。
▽二〇〇二年秋、冬が訪れようとしていた音威子府村へ私は取材に向かった。取材として選んだのは、現地で闘争団を組みながら生活する国労員の姿だった。国鉄を解雇され、それでも現場復帰を求め、裁判などで闘いながら、アルバイトをして生活する男たちの姿を描きたかった。現代史の負の遺産として忘れさせないためにも、私は記事に書く必要があった。
▽私は事前の取材をかなりしてから、音威子府に行く準備を進めた》
《私が音威子府村を訪れた時期、国労問題は新たな局面を迎えていた。「四党合意」を受け入れるどうか、国労執行部と各地闘争団との闘争方針の違いが鮮明になってきて、国労の組織そのものの存在意義が問われる状態になっていたのだ。
▽東京では近く国労大会が予定されていた。「四党合意」について受け入れか否かという大きな議題があった。
「四党合意」とは国会で二〇〇〇年五月に政府与党の自民、公明、保守の三党と社民党が提案したもので、国労員のJR不採用問題を解決するために、国労側に「JRに法的責任がない」ということを認めさせたうえで、人道的な視点から解決する努力をする、という内容だった。国労は「苦渋の選択」として「四党合意」を前提とした運動方針を採択した。臨時大会でも、あくまでも受け入れる運動方針案を賛成多数で可決した。しかし、四党合意については、いまだに具体的な解決策が示されないままになっている。私が訪れた年の四月には、四党合意を与党三党が離脱する「揺さぶり」の通告を社民党にかけてきた。
▽その議題をどう受け止めているのか、それを知りたいための今回の取材だった》
▽私は帰りの列車でこんな趣旨のメモを、ノートパソコンで書いていった。新聞記事でいう前文にするためのメモだ。
《札幌からJRディーゼル特急で北上し三時間半。人口わずか一千二百人の音威子府村はかつて鉄道の街として栄えた。宗谷線のほか、オホーツク沿岸で暮らす人々には大切な天北線への乗換駅でもあった。村の人口の数割が鉄道関係者で占めた時期もある。時代が昭和から平成に変わろうとした時、この村を襲ったのが、赤字長大路線の天北線廃止であり、国鉄の分割・民営化に伴って実施された大合理化だった。鉄道員たちは、「国労員」という肩書だけで選別・解雇された。この村で彼らは何を夢見て生きてきたのだろうか。国労大会を前に現地を訪れた》
▽そしてそれぞれの労働者の話を、こんなメモにしていった。以下の原稿は当時書いた記事化される前のメモだ。
《音威子府駅から国道を手塩川沿いに北上した。その国道沿いで行われていた落石防止工事現場に、元国労員の男性はいた。降雪期を前にした冷たい雨が降り続け、トラックや乗用車が片道一車線規制の道路を水しぶきを上げて走る。その道路のがけの上で、他の作業員約二十人に混じって、生コンの注入作業を黙々と続けている。午前七時から夕方の五時まで続く工事作業だ。
▽音威子府駅で改札などの営業係として働いていたが、国鉄を解雇され、そして国鉄精算事業団からも解雇された。解雇撤回を求めて国労音威子府闘争団が結成されて、その闘争団のメンバーの一員になった。闘争団は、闘争と生活のため、道北の建設会社数社と契約した。その時その時に派遣され、臨時雇用のアルバイトとして働き続けてきた。とび職も経験した。
「終わったら帰宅して、疲れて眠ってしまう。だけどきょうも頑張れたから、明日も頑張ることが出来る、と信じてここまできた」
▽二人の子供は中学生。親父が鉄道マンだったことは知らない。「そりゃ、元の職場に戻りたいですよ。仲間もいるし。そのために生きてきたのだから」
▽別の元国労員も、工事建設現場で働く一人だ。朝から夕方まで各地の工事現場で土木作業員として働く。もうベテランの域に達して、建設会社からの信頼は厚い。月収は一度闘争団に渡り、その中からもらうのは、わずか五万円。老人介護のケアマネジャーの妻の収入が頼りだ。
▽駅構内で列車を誘導する構内指導係だった。解雇された時を振り返って、「あの時、もしかしたら、という淡い期待もあった。だけどここまで来ると、金よりも労働者として元の仕事をしたいというプライドだけ。だから今の労働で賃金がいくらになるか気にしない」と話す。
▽子供が二人いる。長男は高校野球部の一年生。同校は今年の高校野球選手権大会で北海道北の代表として甲子園に進んだ。レギュラーではないが、憧れの甲子園球場で先輩を応援した。夫婦は、東京の労働者仲間のカンパで甲子園球場の観客席で観戦することが出来た。「子供たちの方が目標をきちんと持っていた。親の僕も頑張らないと、と思う。何の理由もないまま解雇されたのだから、最後まで闘う」》
《闘争団のメンバーは事務局以外の人間は、工事現場などのアルバイト、羊羹や木工品などの物販などに分かれ、それぞれが仕事をし、得た収入を闘争団がプールする。そして自己申告によって、生活費が分配される。だれも文句は言わない。家族を含めて約百四十人は、共同体となって、裁判闘争と生活を続けている。
▽「村や村人にはいろいろお世話になっている。狭い村なんです。みんな運命共同体、と思っている」とメンバーの一人は話した》
▽
▽まさに運命共同体だ。
▽各地の闘争団は、国鉄に解雇された国労員救済のために結成された。地労委などを舞台にした闘争と、生活維持を目的とした。当時、道内各地に闘争団があり、当時うち九つが道北に集中している。
▽各地の地方労働委員会は、JRに対して不当労働行為があったとして、救済命令を次々と出し、中労委も追随した。JR側はこれを不満として、行政訴訟を起こし、東京地裁では、JRの請求を認め、中労委命令を取り消す判決を出し、東京高裁でも国労側の控訴を棄却する流れもあった。「四党合意」はこの流れの中で出された。
▽音威子府闘争団のメンバーは「四党合意そのものが崩壊しているのに執行部はなぜかしがみつこうとしている。このままでは国鉄、国鉄精算団に続いて、今度は国労に解雇されるようなもの。三度目の解雇になってしまう。執行部の中心メンバーが現場の闘争団を見切った」と激しく批判していた》
▽国労の労働者の現状を知っているなら、国鉄の分割・民営化を単に「分割民営化」とは書けないのだ。否、書いてはならないのだ。
▽しかし、この10年間どうだろう。新聞記事でも雑誌レポートでも、「国鉄の分割民営化」と、簡単に書いてしまう記事が目立つようになった。そういう記事を読むために、私は愕然としてしまう。
▽今回の朝日新聞天声人語の筆者もこういう歴史を知らなかったのだろう。
▽記憶は薄れても、記録は常に残しておきたい。私はそう願って、今後も取材を続けるつもりだ。
★869自宅立体駐車場でマイカー自損事故、ドアミラーがもげた(2026/04/14)
▽大失敗だ。マイカーのドアミラーがもげた。立体駐車場の鉄筋部分に引っかかってしまい、壊れてしまい、すっぽりと外れて、部品の一部が落ちてしまった。辛うじて内線のコードでドアに繋がった状態になってしまった。私の失敗だった。
▽マイカーの洗車に行った帰りだった。自宅マンションの立体駐車場に入れる際に、いつものようにドアミラーを閉じるのを忘れたのだ。閉じなくてもバックして入庫できたから、閉じなかったことも気にせず、そのままにしていた。
▽そのわずか1時間後、自宅を出た家族が引き返して、私にこう告げた。
「車が壊れている」
▽私は、
「エッ」
と思った。
▽自宅を出て、立体駐車場に行くと、私の車の運転席側のドアミラーが外れて、ブランブラン状態になっていた。まさに「もげた」状態になっていた。
▽マンション住民が別の車を出すために、スイッチを入れたところ、私の車を乗せた床が移動し、その際に駐車場の鉄筋にぶつかり、ドアミラーがぶつかってしまい、一瞬で壊れて外れたらしい。その住民が管理人室に届けたのだという。
▽部品も床に落ちていて、その住民が届けてくれたという。
▽この「もげた」という言葉は、ネットの国語辞典によると、
「離れ落ちる。ちぎれて取れる」
ということを意味する。
▽私の使っているマイカーは、このマンション立体駐車場のサイズギリギリの大きさで、ドアミラーを閉じることが入庫の前提となっている。ドアミラー部分がかすかにぶつかる、というギリギリの空間だった。
▽今回は、自分なりに言い訳をすると、マンション駐車場の敷地部分に、本来なら止まってはいけない内装業者の車が止まっていたことから、この事故は発生した。この業者の車が入庫に邪魔になったため、いつもとは違って、切り替えしてバックして駐車場に入れる、という、いつもの方法を取ることが出来ず、道路側からバックして、立体駐車場に入れることにした。いつものは180度違う運転方法になった。このため、マイカーを切り返す回数が異様に増えてしまい、その際にドアミラー収納というルールを、すっかり忘れてしまったのだ。
▽ドアミラーが壊れては、車も運転出来ない。しかもこの日はディーラーが定休日だ。仕方なく、近くのイエローハットに運転して、持っていき、修理を依頼した。
▽その際、イエローハットの平面駐車場に入れる際にも、マイカーを切り返す運転をするだけでも、苦労した。運転席側のドアミラーが使えないので、車幅感覚もつかめず、恐る恐る運転をして、やっと車を止めた。いかに車の運転で、ドアミラーが大切な道具なのかを感じた。
▽店の受付で事情を話して、修理を依頼した。
▽店員が車の状態を見て、こう私に言った。
「全取っ替えですね」
▽そう、運転席側のドアミラー一式を全部新しいものに取り替えるしかないと言われた。
▽店員がメーカーの部品を調達する内部での連絡をして、いろいろな部品を発注し、査定額を提示された。
▽68900円。
▽高いなと思った。しかし仕方ない。
▽部品の取り寄せ時間があるため、預かってもらうことにした。3日後に部品が届いて修理するという。全治3泊4日のけがだった。
▽店員によると、車のドアミラー事故は、かなり多いという。突起物だから、ぶつけるドライバーが多いらしい。
▽その話を聞いて、ホッとした。多くのドライバーが経験しているんだと思うと、自分だけではなかったと言い聞かせることにした。
▽ドアミラーのもげた事故。やってしまった1日だった。嗚呼、情けない。
★867青切符制度導入で自転車の交通違反はどうなるか(2026/04/10掲載)
▽新年度(2026年度)4月から自転車の交通違反に青切符制度が導入された。私はその趣旨に賛成したい。危険な自転車運転が多すぎるからだ。しかし、制度の趣旨を徹底しているかどうかも気になる。
▽まずはそれを伝える朝日新聞から。
《自転車の交通違反への交通反則通告制度(青切符)が1日、始まった。交付を受けた自転車利用者は反則金が科されるというもので、違反を減らし事故防止につなげるのが目的だ。初日となったこの日は、危険な運転がないか目を光らせる警察官の姿がみられた》
《青切符の対象となるのは、16歳以上。決められた反則金を納めれば刑事手続きに入らない仕組みだ。
▽比較的軽微な113種類の違反が対象。反則金の額は、スマートフォンなどを手に持って通話したり、画面を注視したりする「ながら運転」が最高の1万2千円、信号無視や歩道通行などが6千円、指定場所一時不停止や周囲の音が聞こえない状態でのイヤホンの使用などが5千円、2人乗りなどが3千円など。
▽警察庁によると、警察官が違反を見つけた場合、指導警告するのが原則。歩行者や他の車両の通行を邪魔するといった悪質・危険なケースや、指導警告を無視して違反を続けるといった場合に青切符を交付する。
▽飲酒運転やあおり運転などの重い違反は青切符でなく、これまで通り「赤切符」が交付され、刑事手続きに乗る》(4月2日付朝日新聞)
▽歩行者として自転車乗りを見た場合、怖いのは平気で歩道を走ってくる自転車だ。狭い歩道を何の前触れもなく、歩行者の後からギリギリで通り過ぎていく。自転車を運転している人からは大丈夫だと思って通り過ぎるのだろうが、歩行者にとってはたまらない。いつ接触するか分からないのだ。
▽実際、私は雑踏の歩道の中で自転車にぶつけられた経験が何回かある。歩行者にとって自転車は凶器でしかないのだ。
▽歩道だけではない。スクランブル交差点で、「自転車から降りてください」という看板があるのに、自転車乗りは平気で突っ込んでくる。危なくて仕方ない。
▽私の自宅の近くには笹目川という小さな川が流れている。この川には何カ所も歩行者専用の橋がかかっていて、看板には「自転車やオートバイから降りて渡ってください」という注意書きがある。しかし、それを無視して、平気で自転車でこの橋を渡ってくるからたまらない。歩道をジョギングしている私は、橋から飛び出した自転車に平気でぶつかりそうになる。何も注意を考えないで運転している自転車乗りが多いのだ。危険で仕方ない。
▽歩行者にとって自転車とは凶器そのものでしかないことを、自転車乗りは知ってもらいたい。
▽歩行者ではなく、車を運転する側から見たらどうか。特に怖いのは、左の脇道から急に飛び出してくる自転車だ。車が近づいてくるのに、何の躊躇もなく、脇道から車道に入ってくるのだ。危なくて仕方ない。何の根拠もないのに、自動車はいないと思って車道に突っ込んでくるから怖い。
▽歩行者から見ても、自動車運転者から見ても、自転車乗りは怖いのだ。だから私は数年前に購入した自転車を、今は全く乗らなくなってしまった。
▽交通違反の自転車への青切符制度導入ということに、私は賛成したいが、どの程度の効果があるのだろうか。私としては自転車も車と同様に免許制度にしたほうがいいと思っている。自転車乗りはあまりにも道路交通法に無知すぎる。
▽こんな記事もあった。
《4月から始まった自転車の交通反則通告制度(青切符)を悪用した詐欺被害があった、と広島県警が9日発表した。自転車に乗った高校生が交通ルールに違反していると言われ、現金2千円をだまし取られたという。
▽広署によると、同県呉市の路上で4日午前8時ごろ、高校生が自転車で道路を横断した際、近くにいた男から「法が変わって、手信号をしないといけんのよ。違反だから2千円を支払う必要がある」と言われ、2千円を手渡した。男は50代ぐらいで、暗い青色の作業服姿だったという。
▽道路交通法は、自転車が右左折などをする際は合図をしなければならないと定め、違反した場合は5万円以下の罰金としている。ただ、青切符の導入で、反則金5千円を納めれば罰金はない。署は、反則金は違反者が納付書を使って金融機関で支払うため、警察官が現金を受け取ることはないと注意喚起している》(2026年4月10日付朝日新聞)
▽自転車を利用する人間はもっと道交法を学んだ方がいい。そういう場を警察も学校も作ってもらいたい。
【再々掲載】★476「紫電改のタカ」はちばてつやの強烈な反戦漫画だ(2026/04/09再々掲載)
▽子どものころに読んだ漫画家ちばてつやの「紫電改のタカ」を改めてコミックで読み返した。そしてこの作品はちばてつやが放った強烈な反戦漫画であることを強く感じた。
▽ネットで購入して読み進めた。零戦と紫電改という日中戦争、太平洋戦争で活躍した戦闘機に乗る少年撃墜王という主人公を設定して、敵の戦闘機を撃ち、味方に裏切られ、そして最大のライバル、米軍戦闘機との戦いを終えて、何のために戦争をするんだ、という自分自身に問いかける主人公のシーンがいい。
▽計6巻のうち、6巻の最後のシーンは私が子どもの時に読んだ記憶と同じだった。それだけ印象的なシーンだった。主人公が特攻隊に出掛けてしまい、面会に行く母と幼なじみの女の子と会えないで物語を終えている。
▽その前のシーンでは、特攻隊に行けと命令を言い渡される主人公が日本が負け戦になるのを感じて、上官に向かって、「死刑執行人」と叫ぶが、その上官も特高に行くことを語り、涙を流しながらその非情を伝えるのだ。このシーンがいい。
「自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを信じようと努力しながら」
と、最後のコマでナレーションは伝えている。
▽昔の作品なのに、そして子ども相手の作品なのに、かなり感動的、そして重い感動である。
▽特攻で多くの日本人の若者が無駄な死に方をして、一方で特攻を命じた軍幹部は、最後まで責任を取らずに生き残ったし、逃げ回った。
▽この史実、真実はいつまでも忘れたくないし、覚えておきたい。
▽ちばさんよ、ありがとう。
★866冬のジョギングで必要な帽子と手袋、そして使い捨てカイロ(2026/04/08掲載)
▽冬のジョギングで必要なのは小道具は何か、と聞かれたら、中高年ジョガーである私は即座にこう答えるだろう。「帽子」「手袋」、そして「使い捨てカイロ」だと。それぞれを解説していきたい。
▽一時期を除いて私は早朝のジョギングを続けてきた。もう半世紀になる。特に社会人になってから、新聞業界に入ってからは、転勤に次ぐ転勤で、多くを雪国、寒冷地で過ごしてきた。その場所での試行錯誤と教訓、経験則として必要な小道具が、この3点だった。
▽まずは帽子。これは特に北海道でのジョギングでは必需品だった。札幌の最低気温が零下10度に達することもある。寒いというより、しばれる。首にはハイネックのシャツを着て、寒さが首の部分に曝されないようにするが、耳の部分を隠すことができない。帽子は耳を隠してくれる。それだけで、寒さ対策は効果が上がる。
▽帽子は寒さ対策だけではない。頭や額に次第に出てくる汗を吸い取ってくれる。汗を帽子が吸い取ってくれれば、汗が首に流れてくることはない。寒気に曝された汗が冷たくなっても、帽子が吸い取ってくれるので、寒さは感じない。
▽札幌市のサイクリングロードでジョギングをしていた時、次第に帽子からの汗がつららとなって、細いつららが帽子に数十本もこびりついていた時は驚いた記憶がある。帽子は寒冷地のジョギングでは必需品だ。
▽以前はジョギング用の帽子を、スポーツ専門店で買っていたが、異様に高価なので、衣料チェーン店で買うようになった。毛糸のようなものでいい。安くても問題にはならない。最近はホームセンターで、現場作業員が着用するような帽子を使っている。これだと500円ほどの料金で済む。スポーツ店の帽子の10分の1の価格だ。スポーツ店に行く必要はない。
▽次に手袋だ。帽子と同様、寒冷地では必要な道具だ。これも寒さから手を守ってくれるだけではなく、汗拭き用として重宝する。額に出た汗を手袋でぬぐうのだ。
▽このためには、汗を吸収できる素材である必要がある。スキー用の手袋ではその条件に合わない。毛糸のような素材で十分だ。
▽これもスポーツ店では高価な道具だ。しかしこれも百円店やホームセンターで安いものが出回っている。汗を拭き取ることができる材質なら、問題はない。
▽私はかつて、軍手を使ってジョギングをしていた。軍手でも十分だと思っていた。最近はホームセンターの200円の手袋を使っている。特に問題はない。
▽そして、使い捨てカイロ。これが必要になるのは、ジョギングをスタートさせて30分以上が経過した時だ。汗を拭った手袋が、次第に汗で濡れてくる。すると外気の冷たい空気に曝されて、手袋そのものが次第に冷たくなってくる。手が冷たくなる。この時に使い捨てカイロを取り出して、走りながら左右の手で握りしめるのだ。冷たくなった手が、じんわりと温かくなってくる。カイロはこういう時に最大の道具となる。
▽この使い捨てカイロ、最近知ったことだが、ジョギングを終えて、それをジップロック出来るビニール袋に入れて保管すると、翌日にも効果があることが分かった。翌々日にも使うことが出来た。
▽それまではそのまま日中の外出などに使ってきたが、ジップロックすると3日間は使えることが分かり、節約することに成功した。
▽以上、冬のジョギングの必要な3点セットの意味が分かってくれただろうか。
★865給料の減額を招いた朝日新聞社の定年延長(2026/04/07掲載)
▽朝日新聞は数年前に定年延長をして、社員の定年を60歳から65歳に引き上げた。私は既に60歳を過ぎていたので、定年延長の対象外だったが、多くの社員は歓迎ムードだった。しかし実際の定年延長の中身は、それまでのシニアの契約とほぼ内容が変わらず、給料もかなり引き下げられていた。形だけの定年延長が続いただけだった。これを定年延長だとは言えないだろう。改善されてもいない。
▽定年延長をする際に、会社側が全社員に出したメールが気に食わなかった。まるでシニアたちは仕事を十分にしないかのような前提で、定年延長してもキチンと仕事をするよう、上からの目線で、注意喚起していたのだ。私としては実に不愉快な注意喚起だった。
▽確かに私の知るシニア記者で、仕事をしない人間が何人もいた。小遣い稼ぎのレベルで、サボっているシニアが目立った。
「給料が低いから仕事をしない」
と言い切るおバカなシニア記者もいた。
▽しかし、一方で現役並みか、現役以上に働くシニア記者も多かった。仕事をしないと決めつける会社の言い分に腹が立った。
▽ここで朝日新聞のシニアと定年延長について、説明しよう。
▽朝日新聞は60歳の定年を境に、1年契約のシニア社員としての雇用を結び、1年ごとの更新で基本的に65歳まで働く体制を取ってきた。社員からシニアになると、給料は大幅に減らされた。人によっては3分の1になる社員もいた。ただし、制度設計として、当時は厚生年金の支給年齢の引き上げも絡み、もらえる給料と、受け取るはずの厚生年金の減額のバランスを考えてのシニア給料だった。つまり受け取るシニアの給料が高くなれば、厚生年金の受給額は大幅に減額される。シニアの給料が低くなれば、厚生年金の減額率は減っていく。この微妙なバランスを、会社側は制度設計として採り入れていたはずだ。
▽実際私も60歳で定年になり、シニアになり、給料が激減した。一方で62歳からの厚生年金の受け取りも、かなり減額されて、合計の受け取った額は、個人年金の支給も含めて、何とか生活ができるレベルだった。これがシニア社員の実態だった。
▽そして定年延長だ。私は対象外だったが、対象となった後輩の社員の話だと、給料は減額されて、ボーナスもかなりの減額となり、個人で積み立てていた年金を崩して受け取ることで、減額分を補てんしているという。つまり、定年延長と言いながら、給料が減っている点では、シニア社員と変わらないのだ。
▽これを定年延長と言って良いのだろうか。
▽多くの企業が定年延長を導入しているが、給料が激減するという企業は一般的なのだろうか。
▽ネットではこんな説明がある。
《 ダイヤモンド・オンラインの調査によれば、大企業の約7割が役職定年などに伴う「シニアの給料激減制」を採用しているとされています。
▽平均的な減少率: パーソル総合研究所の調査では、再雇用者の年収は平均で44.3%減少しており、新入社員以下の給与水準になる事例も少なくありません。
▽一方で、人材確保のために減額を廃止・抑制する企業も出てきています》
▽そう、企業によってはそうした低賃金を改善する動きも出ているのだ。朝日新聞が導入した定年延長に伴う給料の減額は、時代に逆行していると言わざるを得ない。
▽シニア、イコール、仕事をしない、イコール、給料を下げる、という図式では、社員も納得しない。
▽新聞業界の斜陽化で、改善する体力も残っていないということなのか。
★860一日葬にしたのに予想外に高かった母親の葬儀費用(2026/03/31掲載)
▽95歳で亡くなった私の母親の葬儀は、一日葬として実施した。長男の私が喪主となり、出費費用を抑えて出席者の体力の負担もなくすために、通夜と告別式を一緒に行う一日葬にしたのだが、それでも予想外に出費は多くなり、こんな金額になってしまうのかと驚いた次第だ。今回はその話を書く。
▽母親は今年(2026年)2月27日に亡くなった。葬儀が実施されたのは、5日後の3月4日だった。亡くなった翌日に、老人ホームから母親の遺体は葬儀会社に運び込まれ、葬儀までは葬儀会社の保管室に保管されていた。1日につき保管料15000円だと言われた。これは割引サービスで計3万円になった。
▽私は葬儀会社に一日葬で、しかも家族だけで行う家族葬なのでシンプルにしてほしいと申し出た。
▽葬儀会社には母親が会員となって葬儀を行うシステムがあり、そのシステムに従って葬儀の内容を決めていった。
▽棺桶の種類、花の規模、着ている服の着替え、遺体の化粧、葬儀の流れなど事前に打ち合わせをして決めた。しかし、後に請求書を詳細にみると、多くはオプションとなっていた。会員としてそのオプションが組み込まれており、料金に入っていたのだ。
▽枕飾り一式 11000
▽湯濯・納棺式 350000
▽遺影写真 30000
▽音響演出 70000
▽祭壇花 300000
▽焼香花 15000
▽庭飾り 50000
▽霊柩車 35000
▽音響演出など頼んでいないのに、エレクトーンで音楽を演奏するオプションまで入っていた。
▽当日の葬儀には、別料金として、お坊さんのお布施代と車代が入って、26万円を支払い、さらに火葬場の使用料が6000円、出席した人たちへの直の飲食代金などがさらにかかった。
▽後に葬儀会社からの請求書が届き、合計金額135万円を振り込んだ。つまり計165万円がかかった計算だ。
▽さらには重い骨壺や位牌などを私の自宅に運ぶため、葬儀の前日からマイカーで葬儀会社のある千葉県柏市に入っており、その2泊のホテル代2万円もかかっている。
▽私としては葬儀費用が100万円以内で済むと思っていたが、その1.6倍はかかった計算になる。
▽その他四十九日の法要や1周忌の法事もあるので、全体として200万円ぐらいかかっている計算なのだ。
▽結論として、出費を抑えようとして一日葬にしたが、通常の葬儀代とあまり変わらないという結論だった。
▽今の時代、通夜と告別式を別々にやるのを避けて、一日葬を考えている人も多いだろう。しかし、意外に葬儀代金はかかるのだ。お布施には戒名代も含まれており、なぜ戒名代がこんなに高いのだろうかと、私は常に思っていた。
▽幸い、私の母親は会社員としてずっと働いており、厚生年金をもらっていたので、13年間住んでいた老人ホーム代もそれでほぼ賄えたし、少しずつ貯めていた母親の年金の貯金も残っていたので、葬儀代の私の負担はなかったが、それでも葬儀費用というのは、こんなに高くなることを知ったほうがいい。
★859児童文学作家、水谷章三さんの死(2026/03/30掲載)
▽東京在住の児童文学作家、水谷章三さんが今年(2026年)1月、亡くなった。91歳だった。多くの作品を出していた。実は私の遠い親戚で、2年前には都内で、一部の親戚と飲食を共にしていた。
▽ただし遠い親戚ゆえに、会話する機会はほとんどなかった。彼の生き方と作品は、現在アクセスできるネットのインタビューから紹介したい。
▽以下は現在休刊中の「Kanamachi LIVE▽葛飾区金町・水元・新宿のフリーペーパー『かなまちライブ』」から取り上げる。
▽北海道小樽市出身で、苦労して大学を卒業し、上京。
《金町を拠点に活動していた『人形劇団太郎座』から、演出家兼脚本家としてのスカウト話が舞い込んできたのです。劇団の主催者である瀬川拓男さん直々に口説かれ移籍。20~30体の人形を抱えながら学校を回って上演したり、NHKの学校放送では生放送人形劇の台本を書いたりと(理科教室小学校1年生、見てました!)、多忙の日々を送ります。「人形劇団そのものがまだ新しい分野だったから、毎日が試行錯誤の繰り返し。大変だったけど楽しかった。線路沿いの飲み屋にも毎晩のように通いましたよ」》
▽そして運命の出逢いがあった。
《ここで運命を変える出会いを果たします。瀬川さんの奥様で、『龍の子太郎』や『いないいないばあ』などで知られる絵本作家の第一人者、松谷みよ子さんです》
▽松谷さんに師事した水谷さんは、作品作りに取り組んでいく。
《水谷さんの書く絵本や紙芝居には、民話をベースとした作品が数多くあります。これは、松谷みよ子さんの誘いで、民話が伝わる土地に出向いて、その土地の方に、その土地の言葉で民話を伺う“民話採訪”を続けてきたことと、深い繋がりがあるそうです。 例えば水谷さんの『ももたろう』。一般的に知られている品行方正な桃太郎は出てきません。そこにいるのはぐうたらで、動物たちにきびだんごを半分しかあげない、何とも庶民派な桃太郎です。
『ももたろう』作/水谷章三▽絵/スズキコージ▽にっけん教育出版社
それはどうしてか・・・地域によって伝わり方の異なる桃太郎を聞いているうちに、自然と自分の“ももたろう”像が出来上がり、いつしか水谷さんなりの言葉で語る物語になっていたのだそうです。
「同じ話なのに、地域によって伝わり方が微妙に違う。『うりこひめとあまのじゃく』みたいに、西と東で全く違う話もあります。時代や語る人によって変化していくのが、口承文芸としての民話の面白いところなんですね」》
《スペインの民話を題材とした『かたあしのひよこ』は、ひよこのかわいらしさと、出てくるものを次々と飲み込んでしまうという骨太な行動とのギャップが激しい異色作です。心に決めたことは最後までやり抜く芯の強さと、最後は王様を懲らしめるという下剋上的な発想は、スペイン内戦の影響を色濃く映し出しているのだとか。
『かたあしのひよこ』文/水谷章三
絵/いとうひろし
ほるぷ出版
「民話は、言ってみれば庶民の娯楽みたいなもの。えらそうな奴を懲らしめる空想に花を咲かせて、楽しんでいたんじゃないかな。だからこそ、少しずつ形を変えながらも語り継がれているんでしょう。」
声が生み出すリズム
▽それからもう一つ、水谷さんの絵本や紙芝居を読んで感じることが、独特なリズムのある言葉遣いの面白さ。和尚と小僧の軽妙なとんち話を集めた『ふうふうぽんぽんぽん』には、声に出してみると思わず拍子を付けたくなるような、京都弁によるリズミカルな言い回しが随所に出てきます。不思議ですが、目で読むだけではなかなか気付けないのです。
「絵本にしても紙芝居にしても、基本的には読んで聞かせるもの。声に出して面白くなかったら意味がないんです。ちょっとしたリズムや抑揚があるだけで、読む人にとっても子どもにとっても面白い言葉になるんですね」》
《水谷さんの作品の中に『うそっこき』という児童文学があります。戦争をテーマとしているものの、どことなく民話に通じる間の抜けたユーモアがあり、人間味の溢れる作品です。
「難しい話だと子どもは避けてしまいます。だから身近なユーモアを交えながら、気が付いたら怖い話だったという伝え方はできないかと思いました。」
▽確かに、悲惨な体験をそのまま話すだけでは、なかなか伝わりません。恐ろしい事実とは認識できても、あくまで過去の話でリアリティを実感するのは難しいものです。私たち戦争体験のない大人ですらそうなのですから、子どもから見ればなおさらでしょう。昨年大ヒットしたアニメーション映画『この世界の片隅に』でも、戦争を生きた一般庶民の日常がみずみずしい表現で描かれていることが話題となりました。
「戦争の悲惨さを子どもが追体験できるような怖い話というのも、もちろん大切でしょう。でも、普段の生活の延長として戦争を伝えるのも手段の一つではないかと思います。どちらがいいのか分からない、難しい問題ですが…」》
▽このインタビューを後に読んで、もっと本人と会話すれば良かったと、今になって公開している。残念だ。
▽冒頭で書いたように、2年前に彼と飲食した際に、私は出したばかりの自著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」を後に郵送した。
▽するとこんな丁寧な手紙が届いた。作家ならではの感想だった。うれしかった。
《▽とても面白くて、読んでいて、何やら気分が高ぶりました。とりとめのない雑駁な感想になりますけど、勘弁ください。面白くて、ものすごい作品です。平たく言って、ドラマに満ちていました。
▽さすが新聞記者の切り口で 40年のキャリア、東西南北、いくつもの現場支局を体験しての積み上げから醸成された眼力というか、記者のための教科書的な作品であると思いました。
▽「記者のため」だけではなくて、「政治家のための、ヤクザのための、労働組合のための、記者の家族のための、我々民衆のための、ひとつの事件に関わる関わり方の教科書」となり得るでしょう。多くの人に読ませたい本です。
▽それぞれすべて厳選された項目と思われます。そしてそれぞれが切れ味確かな記者の文体で、独特の勢いがあります。
永山則夫の項目には鬼気迫るものがありました。永山の作品をただ1冊、『木の橋』を持っています。少しこだわった時期がありました》
▽合掌。
【再々掲載】★819戦前の日本の暗部を描く映画(2026/01/29掲載・2026/02/26再掲載・2026/03/25再々掲載)
▽すさまじい内容の映画だった。「金子文子 何が私をこうさせたか」。戦前の日本と韓国を舞台に、天皇制社会の批判を続けた金子文子という女性の獄中での戦いを描いた作品だ。出演者の演技力も抜群で、緊迫したシーンが続く。
▽私は日本映画ペンクラブの知り合いの紹介で、この映画を見た。
▽まずは金子文子について、配給元が出しているチラシなどを元に紹介しよう。
《約100年前に日本の国家権力に全力で抗った虚無主義者・無政府主義者の金子文子を主人公に、死刑判決から獄中での自死に至るまでの121日間を描いた伝記ドラマ。「雪子さんの足音」などの女性監督・浜野佐知が、金子文子の生の声を伝える短歌をもとに、彼女の孤独な闘いを描き出す》
《1903年に生まれた金子文子は、父親が出生届を出さなかったため「無籍者」として育ち、9歳の時に朝鮮半島で暮らす祖母と叔母の家に引き取られた。植民地である朝鮮の村人たちを搾取する祖母一家から奴隷同然の虐待を受け、1919年には朝鮮の三・一独立運動を目撃。16歳で山梨の母の実家に戻され、その後東京で苦学した文子は、思想的にはキリスト教から社会主義、無政府主義を経て虚無主義にたどり着いた。やがて彼女は、朝鮮で独立運動に身を投じ日本に逃れて来た朴烈と出会う。同志にして恋人となった2人は、日本の帝国主義・植民地主義を批判する活動に奔走するが、1923年の関東大震災の際に検束され、死刑判決を受ける。その後、恩赦により無期懲役に減刑され栃木女子刑務所へ送られた文子は、たったひとりの獄中闘争を続けるが……》
▽映画はこの金子文子が、皇太子を狙った犯行で反逆罪などの罪に問われて、死刑判決が出たところからスタートする。死刑判決は皇太子の恩赦で減刑され、無期懲役囚となる。死刑判決を受けた人間は死刑が執行されない限り、未決囚扱いだが、無期懲役刑に減刑されたことが、確定囚となり、拘置所から宇都宮刑務所栃木支所に移送されて、ここでの獄中逃闘争が始まる。
▽彼女の主張はシンプルだ。天皇制社会こそ、悪であり、それを打破すること。このため減刑で死刑を逃れたことに対する感謝は全くなく、刑務所側が彼女に要求する転向声明も拒否し続けた。虚無主義、無政府主義など、彼女の獄中闘争は信念の元に続けられた。身柄を拘束され、断食も続けて、国家に抗う闘いを続けた。それでも文子は抵抗を止めなかった。すべてが国家権力の側にあり、それを身体で張って抵抗を続けた。
▽文子の元には、特攻警察の幹部も来て、転向声明を書かせるよう強要するがこれも拒否。刑務所の所長は、受刑者の教育という意味において、この特高警察の態度にも反発を強める。文子に接触する女性刑務官たちも、次第に文子に同情していくのだ。それぞれの出演者の個性が出て面白かった。
▽さらには戦前の代表的なクーデターである二・二六事件の思想的首謀者である北一輝まで登場させて、文子の獄中闘争に政治まで絡んでいくストーリーに仕立てた。
▽最後は文子が獄中で自殺するシーンで終わる。映画ではなぜ自殺したのかを丁寧に追っていく。また文子が獄中で書いたと見られる短歌を、獄中の描写の中で紹介し、彼女の当時も心情を紹介している。
▽監督・浜野佐知は試写会後のトークでこう言い切った。
「文子という爆弾を現代に投げかけた」
▽戦前も今の時代も不安な中で、100年前の彼女の生き方を見てほしいのだろう。
《菜葉菜が主演を務め、最後まで国家権力に反逆した文子の魂の叫びを体現。小林且弥が朴烈を演じ、三浦誠己、洞口依子、吉行和子が共演》
▽今年(2026年)2月28日から、東京・渋谷のユーロスペースなど全国で順次公開する。
▽ぜひ見てほしい映画だ。
★856ホームページ上の文章で半角と全角が混在する違和感(2026/03/24掲載)
▽私が朝日新聞を退職して、このホームページを作り始めて、3年以上たつ。それまでインターネットと言えば、メール利用とウェブによる情報収集だけだったが、自らホームページ作って、インターネットに参加するようになって気づいたのは、ネットの原稿、記事には全角の文字と半角の文字が混在していて、非常に違和感がある、ということだ。なぜ違和感を持っているかを説明したい。
▽私は40年間新聞社に勤務して、新聞原稿を書いてきた。新聞原稿は通常縦書きで、ワープロやパソコンが導入される前は、縦書きの原稿用紙に鉛筆やボールペンで手書きをしていた。
▽その原稿用紙は、一つの四角の枠内、一マスに一文字に書くというもので、パソコンで言う全角の領域に全角の文字を一つ書いていくというルールだった。原稿用紙に半角スペースなどなかった。一マスには一文字しか記入できない。実に当たり前のことを、40年間続けてきた。
▽ただし、最後の5年間ほどは、新聞記事にインターネット上のアドレスを紹介することも多くなったため、特殊な文字コマンドを使って、英語の半角によるアドレスを入力することも多くなった。ただしこれはあくまでも例外である。
▽日本語はあくまでも縦書きであり、例外を除くと、その縦書きに半角文字は不必要だと私は確信している。
▽だから、私のこの自分のホームページで自分の文章を書く際に気をつけているのは、半角は絶対に使わない、ということだった。
▽例えば、「米アップル社」という固有名を書く時は、日本語では「米アップル社」と書くし、英語表記でも「Apple」と全角で表現する。半角での「Apple」とは書かない。アップルインテリジェンスも英語表記では全角で「Apple▽Intelligence」と書いている。
▽ネットにアップされた記事を引用する時は、そのまま半角のままにしているが、自分の原稿では絶対に半角はしない。違和感があるためだ。
▽困っているのは、このホームページを作る際にも起きた。
▽段落の初めや、改行をした場合、日本語は常に全角スペースで一文字空けて書き出すのだが、私が使っているこのホームページの作成会社のシステムでは、全角のスペースがなぜか半角に自動変換されてしまい、全角スペースがなくなってしまうことだった。
▽理由は分からない。
▽段落の冒頭がすべて半角のスペースになってしまい、私が意図しないのに、全角と半角の混在した文章になってしまうのだ。
▽何回も何回もあれこれとトライしたが、この不思議な現象を直すことが出来ず、ある対策を立てた。
▽それは段落の冒頭の全角のスペースを「▽」に変換することで、半角のスペースに変換させないことだった。この作業をすることになって、半角スペースはなくなった。私のこのホームページの原稿のすべての段落初めに、「▽」があるのは、こういう事情による。
▽こういう作業を経験してから、各種ホームページを見ていると、段落の初めてが半角スペースになっているホームページがいかに多いかを再発見している。インターネットは米国の文化だから、半角を中心とした英文中心のルールがあり、ホームページづくりもこれに準拠しているのだろう。
▽半角と全角が混同している文章は排除したいと切に思う。
★853母親は何も話すことができなくなり、死んでいった(「779認知症になった私の母親の看取り体制」の続報・2026/03/19掲載)
▽老人ホームに入居していた私の母親が亡くなった。95歳だった。「いつ亡くなってもおかしくない」と言われて、2年間も生きていた。私と私の妹、そして私の妻の目の前で、静かに息を引き取った。95歳だった。
▽亡くなったのは今年(2026年)2月27日だった。
▽年が明けて、老人ホームから、母親の身体悪化を知らせる回数が多くなった。
「血圧が低下しています」
「血中酸素濃度が低下しています」
▽そのたびに、私や妹が、老人ホームに駆けつけた。
▽そして、亡くなるその1週間前から、容態が悪くなり、その度に、老人ホームから電話が入った。その連絡を受けて、私たちは老人ホームを訪れた。しかし、容態が安定すると、
「今夜は大丈夫だ」
と自己判断して、引き返した。
▽もちろん認知症の母親は何もしゃべらないし、目を閉じたままだった。
▽そんなことを繰り返していた27日午後、老人ホームからまた電話が入り、危ないことを知った。私は電車で老人ホームを訪れた。千葉県柏市にある老人ホームに行くには、1時間に1本しかなくなった巡回バスに乗るか、タクシーで行くしかない。タクシーに乗ったが、渋滞につかまり、なかなか済まない。それでもやっと到着した。
▽ベッドの上の母親に目をつぶっていた。呼吸が時折乱れた。心拍を図る機械では、脈拍が時折乱れていた。老人ホームの職員が慌ただしく、その数値を見ていた。
▽時折、呼吸が止まった。駄目か。そう思ったら、呼吸が再び復活した。その繰り返しだった。
▽間もなく妹が来るので、それまでは待って、と祈るように願った。
▽2時間遅れで妹が到着。母親の呼吸が次第に弱くなり、呼吸が止まり、心臓も止まっていった。静かに亡くなっていった。
▽認知症になって20年近く。老人ホームに入って、13年間が経過した。最後は何もしゃべれなくなっていた。何を考えて、この老人ホームで過ごしたのだろうか。
▽私はこのホームページ社会事象編に昨年(2025年)12月1日付でこんな母親の話をコラムとして書いている。
《★779認知症になった私の母親の看取り体制(2025/12/01掲載)
▽老人ホームにいる私の母の健康状態が悪くなり、看取り体制に入った。担当の医師からは、「いつ死んでもおかしくない」と言われ、その準備に入ったが、どうしてどうして、医師の宣告から1年半以上経ってもまだ生きている。
▽今年95歳になる私の母親は、10年以上前から認知症を患い、特別養護老人ホームに入居している。息子である私のことを全く認識もしない。見舞いで老人ホームを訪問しても、寝ているか少し目を開けるだけで、車椅子から動けない。数カ月に1回見に行くのが、何の反応もない。
▽そんなある日、老人ホームから連絡があった。食事を自分の意思で全く摂ることができなくなり、医師はもうダメだと宣告。「いつ亡くなってもおかしくない」と言われて、看取り体制に入った。
▽看取り体制とは、それまで私たち子供は面会することを制限されていたが、その制限がなくなり、いつでも会うことができ、いつ死んでもおかしくないという状態だ。私は覚悟を決めて時折見舞いに行った。
《▽しかし母親はしぶとく生き続けている。
▽ある時だった。私と妹で母親の部屋で、葬式について話し合った。そうしたら母親が突然、「うーっ、うーっ」とうなり声を言うではないか。まるで葬式の話などまだ先だと言わんばかりに。聞こえてたのかなと私は思わず、苦笑いしてしまった。
▽10年前に認知症の症状が出た時、母親は私に対し、
「どなたか分かりませんが、ありがとうございます」
と言ったことを思い出す。父親が千葉大学附属病院に入院し、その母親の送り迎えを私のマイカーで行った時、母親は私がタクシーの運転手だと思ったのだろうか、財布から2000円を取り出して、私に渡そうとした。これを見て私の妹が、
「お母さん、お兄ちゃんだよ」
と言った。母親はそこから車を降りようとしていたのだ。私のことが全くわからなくなっていた。
▽次第に悪化していくのが認知症だ。止めることはできなかった。認知症による徘徊も始まっていた。
▽そして老人ホームへの入居。時折見舞いに行くのだが、次第に次第に認知症が悪化しているのがわかる。まるで植物人間のようだ。
▽それでも生きている。老人ホームの看護体制には感謝したい。しかし、意識がなくなった状態で生きることが幸せなのかどうか。
▽しかし、こうも思っている。今こそ幸せなのかもしれない。
▽私の母親と私の父親は夫婦間の仲が悪かった。父親は母親を怒鳴る毎日だった。母親は萎縮していた。母親は認知症になることで、父から逃げたのかもしれない。そんな父も9年前に亡くなっている。
▽そう、母親は今こそ自由なのか、と私は思ったりもしている》
▽今は遺品を整理している。
▽母親が働いていた会社の工場内部を写した写真が出てきた。外国人を指導している母親が映っていた。私が知らない母親の別の世界がそこにはあった。
▽私は母親のことを全く知らなかったし、知ろうともしなかった。
★851貯金箱の夢を壊したゆうちょ銀行の罪(2026/03/17掲載)
▽貧乏臭いと思われるかもしれない。せこいと言われるかもしれない。しかしやはりこのことだけは言いたい。ゆうちょ銀行の対応だ。小銭を使うのを有料化した。このため、子供のころの夢だった貯金箱は意味をなくした。貯金箱の夢を郵便局は壊したのだ。この事だけは強調しておきたい。
▽その昔、だれもが子供のころ、貯金箱を手にし、少しずつ小銭を貯めることをしていたはずだ。
▽私もそうだった。手作りの貯金箱で、1円玉や10円玉、時には100円玉も入れて、少しずつ少しずつお金を貯めていた。貯金箱にお金がたまれば、それを郵便局に持っていき、紙幣に変えてもらった。
▽小学校時代、友人宅に遊びに行ったら、その友人がお菓子を買ってくると言って、貯金箱からお金を取り出していた。貯金箱に貯めていたお金で、友人である私をお菓子で接待してくれると言うのだ。今考えてみれば、泣けてくる話だ。だれもが貯金箱に夢を持っていた時代だった。
▽小学生の時も中学生の時も、そして高校生時代もやっていたし、大学時代にも、そして社会人になってからも貯金箱にお金を貯めることを続けていた。高校生から大学生になる時は、貯めたお金を郵便局に持っていき、口座に貯金した。そして、お金が貯まれば趣味だったカメラなどを買った記憶がある。
▽そんな作業は社会人になっても続いた。金銭的に少し余裕ができ、500円玉なども入れることが出来る貯金箱に貯金していった。金属の貯金箱で、貯金箱を開けるには缶切りが必要だった。最後の最後は20万円ほど貯まった記憶がある。
▽これでカメラの購入の一部にしたこともある。
▽そんな貯金箱の夢を、ゆうちょ銀行が壊した。小銭を引き取るのに、有料化されたのだ。
▽ホームページにこんな説明がある。
《ゆうちょ銀行では、2022年1月17日(月)以降、長期安定的なサービス提供を目的として、窓口でのお預け入れや払込み等、各種お手続きの際に硬貨をご利用の場合、枚数に応じていただく硬貨取扱料金を導入いたしました》
▽さらには2024年4月、料金改定を行った。
▽硬貨枚数が1〜50枚が無料。
▽51〜100枚は550円が無料になった。
▽101〜500枚が825円から550円に。
▽501〜1000枚が1100円に据え置くという内容だ。
▽さらにはこんな注釈もあった。
※硬貨枚数算定後に、お手続きを取りやめる場合や、金額を変更される場合も料金をいただきます。
※同時に複数件のお手続きをされる場合、合算した硬貨枚数に応じた料金をいただきます。
※硬貨取扱料金は各種サービスの取扱料金とは別に、現金でお支払いいただきます。
※汚損硬貨および記念硬貨も算定対象です。
※店舗・郵便局の繁忙状況等により、大量の硬貨のお持ち込みをお断りする場合がございます。
※一部の払込みについては、硬貨取扱料金の対象外です。
▽私はショックを受けた。貯金箱の夢が消えるのだ。子供から大人までの貯金箱への思いがなくなるのだ。小銭の扱いが大変だから、人的な問題もあるからという理由なのだろうが、こんなに簡単に夢を壊して良いのだろうか。
▽貯金箱で貯めたお金を寄付する人だっている。寄付を受け取った団体が、口座に移し替えようとしても、手数料が取られるのだ。こんな理不尽な話はない。
▽小銭の扱いが有料化された時、私が知っている限り、新聞もテレビもそんなに扱わなかった。事務手続きが有料に変更になったぐらいの扱いだった。子供から大人までの夢が壊されたという点で報じた新聞もテレビをなかった。感性が鈍くなっているんだろうか、と私は思ったりました。
▽ゆうちょ銀行が小銭の扱いを有料化した時は、新型コロナウィルス感染拡大の時期と重なる。人と人との接触を避けることから、現金のキャッシュレス化が進み、PayPayなど、スマホでの決済が進んだ。これに伴って小銭を扱う回数は激減してきた。一部の病院窓口などでは、いまだに現金決済をしているところもあるが、多くの窓口では、そしてスーパーやコンビニなどでもキャッシュレス化が進み、私自身も持っている小銭の金額は少なくなっている。
▽貯金箱が各家庭からなくなってしまうのか。
▽それでも百均ショップでは、貯金箱が売られているから不思議だ。
▽そういえば、神社のさい銭箱に集まる小銭はどうなるのだろうか。これも有料化してるのだろうか。
★850プロ仕様の一眼レフカメラの普及に驚く(2026/03/16掲載)
▽私が住むさいたま市南区にはプロ野球ロッテの2軍球場がある。試合がある時などには、多くのファンが球場周辺を囲む。そこで驚くのが、若い女性たちが本格的なプロ仕様の一眼レフカメラと望遠レンズを持っていることだ。コンパクトカメラの市場が縮小してるのに対し、本格的なプロ仕様の一眼レフカメラがこんな年代の層にまで普及していることに、かなりの驚きを持って見ている。
▽ロッテの2軍球場は、JR武蔵浦和駅から歩いて10分ほどの住宅街にある。近くには3軒のスーパーもあり、球場周辺は地元住民の生活道路にもなっている。私も買い物や散歩などでこの球場周辺を歩く。
▽試合の日、練習日などに、多くのファンが来ている。練習をしていた球場から出てくる選手の出待ちをしているファンも多い。
▽そして若い女性の手には、高級なプロ仕様の一眼レフカメラと望遠レンズがある。ニコンだったり、キャノンだったり、ソニーだったり。
▽私は新聞記者を40年間続けてきたので分かるが、そのカメラの値段が高いこと、高いこと。本体だけで30〜70万円。望遠レンズを入れると100万円にもなってしまう。これに記録メディアが数万円するから、こんな高価な物を若い女性が持っているなんて、と驚くのだ。
▽確かにスポーツ写真の撮影は難しい。いくらコンパクトカメラにズームレンズが装着されたとしても、カメラ本体の手ぶれがあり、きちんとした写真は撮れない。これに対して一眼レフカメラと望遠レンズを使えば、かなりきれいな写真が撮ることができる。
▽私が新聞社に入社したころは、プロ仕様の一眼レフカメラを持っているのは、プロのカメラマンや我々新聞記者、さらにはセミプロのカメラマンだけだった。趣味でプロ仕様のカメラを持っている人は少なかった。一眼レフカメラの市場はそんなに大きくなかった。
▽そうした狭い市場が一気に広がったのが10年から20年前だろう。定年を迎えたサラリーマンが趣味として一眼レフカメラを購入し、風景写真や野鳥写真、飛行機、列車の写真を撮るようになった。金銭的余裕がある定年後の趣味の世界が広がったのだろう。
▽コンパクトカメラと違って、一眼レフカメラは高価で、すぐに買えるようなものではない。フィルムカメラ時代も、デジタルカメラ時代にも、そしてミラーレスカメラになっても、プロ仕様の一眼レフカメラはかなり高価なものだ。私が今持っているニコンZ9も本体だけで70万円はする代物だ。これに望遠レンズをつければ、アッという間に100万円を越す買い物だ。プロでもない限り、こんなカメラを購入するのはと驚くが、こうして一眼レフカメラの市場は徐々に広がっていった。
▽そして現在は、プロ野球の若い女性ファンがこんな高級カメラを持って撮影しているのだ。メーカーからすれば、縮小しているコンパクトカメラ市場とは対照的に、一眼レフカメラ市場の拡大は歓迎することなのだろう。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任した時、ある景勝地で新聞用の写真を撮影していた。その時持っていた私のカメラを見て、ある旅行者の高齢男性が私を見て、舌打ちしたのを覚えている。
「若造がこんな高いカメラを持っているなんて」
という表情だった。そう。私は新聞記者の身分を隠していて、素人からは、若い奴がこんな高いカメラを持っているなんてと言いたかったのだろう。それだけカメラは金持ちの道具と見られていたのだ。
▽それからわずか10年で、一眼レフ市場は拡大している。高級カメラを手にする若い女性がさらに増えるのだろう。
▽ただし、プロ野球、ロッテはこの2軍施設を千葉県君津市に移転すると発表しており、2028年からの運用を目指すとしている。高級カメラを手にした若い女性ファンを見るのは、あと数年でおしまいとなる。
▽球場もなくなるのは、ちょっと残念だ。
★849吉田拓郎の曲で一番好きな曲はこれだ(2026/03/13掲載)
▽フォーク歌手吉田拓郎の曲で一番好きな曲は何かと聞かれたならば、私は真っ先にこの曲をあ挙げる。「どうしてこんなに悲しいのだろう」だ。大好きな曲だ。もう半世紀前の高校時代に知って、よく歌った曲だった。吉田拓郎は当時まだ20歳代のフォーク歌手。こんな曲を若かった拓郎が作ったことを、半世紀が経過した今、驚きを持っている。
▽拓郎の好きな曲は多くある。
「人間なんて」
「今日までそして明日から」
「祭りのあと」
「せんこう花火」
「たどりついたらいつも雨降り」
「自殺の詩」
「静」
「落葉」
「都万の秋」
「竜飛崎」
「襟裳岬」
「シンシア」
「風の街」
「制服」
「我が良き友よ」
「水無し川」
「明日に向かって走れ」
▽やはり古い歌が多いかな。
▽最近ではこんなステージでの歌も好きだ。
「全部だきしめて」
「永遠の嘘をついてくれ」
「ファイト」
▽それでもやっぱり一番に挙げるとしたら、この曲「どうして悲しいのだろう」なのだ。
《悲しいだろう
みんな同じさ
おんなじ夜を迎えている》
▽こんな歌詞で始まる。
▽当時の若者の心を捉えた曲だった。フォークギターとキーボードというシンプルな楽器の組み合わせで吉田拓郎は歌い続けた。
▽かなり時間が経ってもこの歌は歌い続けられた。
▽YouTubeにもアップされているが、アルフィーのコンサートで招かれた吉田拓郎とアルフィーが歌ったのが、この「どうしてこんなに悲しいだろう」だった。坂崎幸之助が絶妙なリードギターのテクニックを披露し、拓郎が歌っていた。スタジオ録音のこの曲が好きだが、このアルフィーのバックバンドもいいと感じた。アルフィーもこの曲が好きだったのだ。
▽さらに言うと俳優で歌手でもある中村雅俊もこの曲が好きだったと告白していた。
▽もう半年以上にもなるが、NHKラジオ番組で、「好きな曲は」と聞かれて、彼もこの「どうしてこんなに悲しいんだろう」を挙げていた。当時の若者を惹きつける曲だったのだ。
▽当時の若者は、みんなこの曲を聞き入っていたのだ。
▽もしフォークギターを与えられて、みんなの前で何か1曲をと言われたら、私は即座にこの曲を歌ってみせるだろう。
▽吉田拓郎に惹かれて、吉田拓郎の曲を歌った人間として、この曲は永遠だと思っている。
▽どうしてこんなに悲しいんだろう。人間は独りなんだけれども、独りじゃないのだというメッセージが込められている曲だ。
★848閉校していたジャーナリスト専門学校(2026/03/12掲載)
▽「ジャーナリスト専門学校」が閉校していたことを最近知った。「ジャーナリストを養成する専門学校」とうたって開校したが、今から15年も前に閉講していた。この専門学校を出たからと言って、だれでも簡単にジャーナリストになれるわけでもなく、卒業生からジャーナリストになった人間もほとんどいなかった。日本のマスコミ業界の一断面を見た思いが強い。
▽ネットではこんな説明がある。
《日本ジャーナリスト専門学校は、東京都豊島区高田二丁目にかつて存在した作家・ライター・編集者・カメラマン等を養成する専門学校。設置者は学校法人情報学園。1974開校。20103月をもって閉校。閉校まで、日本で唯一、ジャーナリストを養成する専科専門学校であり、通称「ジャナ専」と呼ばれていた》
《多くの専門学校は就職のための技術養成が目的だが、本校では就職活動を行わない学生も多く、専門学校としては珍しく出席率等もあまり考慮されない》
▽通商、「ジャナ専」。この学校の存在を知ったのは、私が学生時代だった。私は新聞記者になる前に学生時代、フリーライターの真似事をしていた。その時に知り合った多くの先輩ライターや編集者たちが、この学校でアルバイトの講師をしているのを聞いて、へーっと思った。当時のマスコミ業界は、雑誌は月刊誌、週刊誌、季刊誌、ミニコミと最盛時で、多くのフリーライターが活躍していたが、一方で原稿料はそんなに高くなく、生活も苦しかった。講師をしているのは、ある意味、生活費のためだった。
▽だから、このジャーナリズムの専門学校があると聞いて、正直驚いた。専門学校で講義を受けたとしても、簡単にジャーナリストになれる訳がない。ジャーナリストを目指して入学するとしたら、若者がかわいそうだと思った。今の日本のマスコミ業界で、一部の人間を除けば、大手のマスコミ、新聞やテレビなどの企業で組織内で訓練されて働くしか、ジャーナリストとして生きる道はない。フリーで生活することなど無理なのだ。
▽このジャーナリスト専門学校に出たらと言って、大手の新聞社やテレビ局に入社できるわけではない。入社試験の予備校でもなかった。
▽かといって、そのままフリージャーナリストとして名乗っていたとしても、どのメディアの媒体に原稿を持ち込んで掲載できるというのだろうか。第一、取材はできるのかどうか。講師と知り合って、そのコネで編集者を紹介してもらえるだろうか。紹介された編集者に原稿の依頼はあるだろうか。
▽さらには実際に原稿を書いて、掲載されたとしても、その原稿料がいかに安いかは分かっていたのだろうか。
▽私がフリーライターの真似事をしていた当時の原稿料は400字詰め原稿用紙1枚につき、1000円から5000円が相場だった。1カ月にたとえ50枚書いたとしても、5万~25万円にしかならない。当然、この中には取材料は含まれていないから、赤字になる。
▽つまり雑誌の最盛期だった当時、フリーライターと称して仕事をすることなど、到底無理だったのだ。よほど有名なジャーナリストにならない限り、原稿料で稼ぐというのは、かなり困難だった。そのことを知りながら、ジャーナリスト専門学校は多数の講師を迎え、そして多数の生徒を募集していた。
▽私はそうしたフリーライターを育てる土壌がない日本のマスコミの現状を知ってから、フリーライターになるのを諦めて、新聞社の入社試験を受験し、新聞記者になった。北海道新聞と朝日新聞に計40年5カ月在籍した。この間フリーライターの土壌は全く変わっていなかったし、原稿料も40年たった今も全く上がっていない。
▽インターネットが発達し自称ジャーナリストが増えたが、インターネット上の原稿料はもっと安く、一文字が0.2円とか0.3円とかになっている。とてもではないが、フリーでは生活ができないのだ。自称フリージャーナリストは多いが、自称だけで、ジャーナリストとして成り立っているわけではない。
▽さらに言うと、このジャーナリスト専門学校の出身者で、マスコミの世界で活躍している人など見たこともないし、聞いたこともない。ある意味、このジャーナリスト専門学校は、時代の寵児だったことになる。
▽インターネットで検索すると、このジャーナリスト専門学校は既に廃校し、今は存在していない。当然の結果だっただろう。やはり学生時代にきちんと勉強し、新聞社やテレビ局に入り、または出版社などに入り、切磋琢磨してジャーナリストとして成長していくしか、道は開けないのだ。甘くはない。
▽ジャーナリスト専門学校は最盛期の日本のマスコミのあだ花だった。
★846段落の初めに1文字下げない日本語はおかしい(2026/03/10掲載)
▽最近の各種ホームページを見ていると気になるのが、日本語の文章の冒頭や段落の改行で1文字下げができない表現だ。日本語としておかしくないのだろうか。パソコンの基本ソフトが米国で作られて、それに合わせて、日本語を埋め込む作業をしているため、1文字下げない英米の文章に無理に合わせている形だ。日本語が崩れていくのではないかと心配している。
▽私はこのホームページを作って3年になるが、一向に解消されていないのが、この問題だ。私が毎日アップしている「封印40年の記憶」のコラム原稿では、事前に原稿を作り、それをアップする作業を続けている。この際、実際の生原稿では日本語で全角スペースを打ったのに、いざホームページにアップすると、全角スペースがなくなって、半角スペースになっているのだ。この問題が解消されないままになっている。
▽以前にも書いているが、日本語の場合、原稿の冒頭に1文字を下げるため、パソコンの全角スペースキーを打って、全角スペースを入れる。1段落を終えて改行する場合、全角スペースの1文字を下げて文章を始める。こうして文章を作っていくのだが、いざ文章が完成し、その原稿をホームページにアップすると、しばらくすると、全角スペースが全部半角スペースになってしまうのだ。
▽これはどうしてなのだろうか。日本語と英文の違いなのだろうか。
▽確かに英文では、文章の冒頭や段落の冒頭に全角スペースというものがなく、半角スペースもない。英数字にしても、半角であって、全角ではない。日本語の文化と英文の文化の違いによるものだろうか。
▽仕方ないので、私は全角が半角になるのを避けるため、「▽」という記号を全角スペースの代わりに使って、半角スペースをが出るのを防いでる。
▽ちょうど朝日新聞天声人語のようなコラムのように、改行をしないで、三角の記号をつないでいくという書き方だ。これによってかろうじて全角が半角スペースになるのを抑えている。
▽いろいろなホームページを見ても、日本語の文章で、文章の冒頭や段落の初めに全角スペースに使っているホームページは意外に少ない。朝日新聞デジタルは、きちんと全角スペースを入れているが、他の多くのホームページを見ても、全角スペースになっておらず、半角スペースすら入っておらない。そのぐらい、日本語のルールが守られていない。
▽これを日本語の文化として捉えた場合、パソコンの普及で日本語のルールが崩れたということにならないのだろうか。
▽私が新聞業界に入った時は、まだ鉛筆やボールペンなどで原稿用紙の紙に原稿を書いていた。原稿の冒頭や段落の最初は必ず1文字を下げて書いていった。これが日本語のルールだった。
▽だから最近のホームページの文章は非常に違和感を持つ。
▽パソコンの登場によって、日本語の文化が、英文の文化に脅されているのではないかとまで私は思ってしまう。
▽どなたか、この全角スペースを半角スペースに勝手に変更にするルールを変更できるよう教えてくれないだろうか。私は困っている。
▽ついでに言うならば、学校教育の現場でも、きちんと教師は、児童生徒たちに原稿用紙で原稿を書く指導をしてほしい。そして必ず冒頭や段落の初めは1文字を下げる訓練をきちんとしてほしい。そうでないと日本語が崩れていく。私はそんな危惧をしているのだ。
★845JR長野新幹線に捨てられた長野県小諸市(2026/03/09掲載)
▽長野県小諸市に行ってきた。長野県東部に位置する地方都市で、かつての城下町だ。小諸駅はかつてJR信濃本線の要衝駅として栄え、小海線への乗り換え駅でもあり、特急列車も全列車が止まった時代もあった。しかし、長野新幹線(現北陸新幹線)の開通で、JRに切り捨てられて、平行在来線として残ったのが、第三セクターのしなの鉄道だった。駅前はかつての賑わいがなくなり、完全な地方ローカル駅となっていた。街は今後どうなっていくのだろうか?
▽まずは小諸市の説明をしておく。以下はネットにアップされた同市の説明だ。
《群馬県境に近く、北関東と信濃国(現在の長野県)と結ぶ北国街道の商都として栄えた。城下町と街道の宿場町を受け継ぐ小諸駅周辺が現在でも中心市街地で、市役所などがある。信越本線時代の小諸駅は特急全便が停車する主要駅であったが、長野新幹線(現在は延伸されて北陸新幹線)は南隣の佐久市にある佐久平駅経由となった。近年は佐久平駅に近い御影地区で住宅が増加している》
《市内の広い範囲から南に蓼科山、北に浅間山が見え、空気の澄んだ日には遠く富士山をも望め「関東の富士見百景」に選定されている。市街地から千曲川までの高低差は100メートル程度ある。
千曲川は市の南部から西部を、流向を北から西へと大きく変えながら貫流する。千曲川は市を旧川辺村域とその他の地域とに分け、前者は洪積台地である御牧ヶ原台地、後者は1万年以上前に遡る浅間山の活動による火砕流台地からなっている。そのため、南東部では火砕流堆積物を河川が侵食した田切地形がみられる。谷底には水田が広がり、台地はモモやリンゴなどの果樹栽培に利用されている》
▽私が小諸市を訪れたのは、今年(2025年)9月上旬で、猛暑がまだ続く時期だった。マイカーで関越道と上信越道を走らせ、小諸インターで降りて、小諸駅近くのホテルに泊まった。
▽その日と翌日、時間がある限り、小諸駅を中心に、市街地や住宅街を歩いた。しなの鉄道沿いに、2本の県道を走っており、東西南北に歩いて行った。
▽県道はやたらと交通量が多かった。歩道が少なく、歩いていて、かなりヒヤリとさせられた。結構スピードを出しているドライバーが多い。長野ナンバーだ。
▽小諸駅に入ると、時刻表があった。しなの鉄道は2時間に2本、JR小海も1時間に1本あるかないかの本数だった。完全な地方ローカル鉄道の駅になっていた。
▽新型コロナウイルス感染の影響で、しなの鉄道の経営も悪く、減便が続いているらしい。赤字に転落したとも言われている。
▽かつては信越本線の要衝駅として、特急列車も全列車が止まった小諸駅だが、その面影はない。
▽私がこの小諸市を訪れようと思ったのは、私が朝新聞東京本社に勤務している時に、この街を取材していたからだ。長野冬季五輪の開催に合わせて開通した長野新幹線を取材していた。これに伴って並行在来線である信越本線は経営分離されて、分断される形で、第三セクターのしなの鉄道が誕生する流れになった。1997年に長野新幹線が開業し、翌年の1998年に長野冬季五輪が開催された。新幹線の開業で、小諸駅は新幹線とは遠い場所となり、小諸駅は新幹線に見捨てられる形となった。それから四半世紀が経過した。
▽かつては特急列車が停車した名残で、小諸駅に架かる跨線橋はやたら長かった。ホーム数もそれなりにあったのだろう。
▽駅前もかつて賑わっていたが、その名残が居酒屋通りにもあった。しかし、駅前は寂しくなった感じがする。人口も徐々に減り続け、現在は約4万人だ。
▽隣の東小諸駅まで歩いた。無人のホームだった。改札すらない。住宅街にぽつんとあった。
▽山の中を開いた街のためか、やたら坂道が多い。その坂道を縫うように、しなの鉄道は高架になったり、地上に降りたりする構造になっていてた。高規格鉄道のような構造なのだ。かつての信越本線が、群馬から長野を抜けて、直江津駅経由で新潟まで進む幹線路線であることを伺わせている。そんな構造の鉄道路線を、わずか2両編成のしなの鉄道が走っている。写真を撮ろうとしたが、わずか2両のため、アッという間に通り過ぎてしまい、撮影は失敗した。
▽新幹線の開業で、捨てられた街は全国各地にあるが、小諸市もその一つなのだろう。鉄道をテーマにいろいろ取材してきた私にとって、何か寂しい気がする。
▽四半世紀前の取材で、「新幹線に捨てられた街」というイメージが、現実味を帯びているのだ。
▽ただし新しい芽も出ている。ワイナリー郊外に開業し、大がかりなチーズ工房もできている。新たな観光産業としてとして生まれ変わっていくのだろうか。小諸市の今後を見つめていきたい。
★844スマホやパソコンの音声入力の世界(2026/03/06掲載)
▽アップルのApple▽Intelligence日本語版サービスが始まり、チャットGPTも普及してきた。キーワードは音声入力だ。問題はどこまで音声入力の精度が上がってくれるかが鍵となりそうだ。
▽パソコンに音声入力ソフトが普及したのは今から20年近く前だ。私はメーンマシンで使っていたパワーマックにインストールにして使ったが、音声の認識率がそんなに高くなく、しばらくしてやめてしまった経緯がある。この20年で音声入力は進歩したのだろうか。
▽パワーマックに入れていたソフトは、「ドラゴンスピーチ」というソフトで、当時のIBMが開発し、販売していた。インストールすると、ディクテーションと言って、パソコン画面に表示された長い日本語の文章をマイクを使って私自身が読み上げる訓練から始まった。パソコンが私の音声の癖を分析し、音声入力の精度を上げる訓練をしてからの利用になった。
▽最初は話し言葉を文章に変換するだけのものだった。
▽このソフトも次第に進化していき、音声を文章にするだけではなく、パソコンに命令をして、各種ソフトを動かすこともしてくれるようになった。
▽今のアップルのパソコンに標準搭載されている音声コマンドでもある「Siri」に近い機能が出来るようになった。
▽しかし、だった。音声の認識率が高くなく、60-70%の精度で、文章にすると誤字脱字類が目立ち、実用化するにはまだ先のことだと思えた。音声入力の精度を進化させるためには、人間が話す言葉自体が、アナウンサーのように正確無比でないと駄目だということが分かった。人間同士の会話なら、多少言葉が間違っても、相手は正しく受け止めてくれるが、パソコン相手だと、曖昧な話し言葉をパソコンはキチンと受け止めてくれないのだ。
▽それがここ数年、iPhoneなどのスマホには音声入力や音声コマンドが標準搭載されて、スマホばかりか、パソコンでもAIやャットGPTが使えるようになった。アップルのApple▽Intelligence日本語版も登場した。
▽ではその精度はどうだろうか。
▽アップルに限定すると、文章を書く際に、iPhoneでは使えるが、やや古いiPadやMacBookProなどでは使えないコマンドがいくつかある。たとえば、「改行」という命令コマンド。iPhoneに向かって、「改行」と話すと、文章のカーソルは改行してくれる。しかし、iPadもMacBookProも、改行のカーソルは全く動いてくれない。これが文章を書くのを生業とする人間にはストレスになってくる。文章を書く上で、段落を改める「改行」が使えないというのは、致命的な欠点だ。
▽ウインドウズマシンでも同様だ。音声入力の精度がかなり悪い。まだまだ発展途上という感じがする。
▽チャットGPTにしても、Apple▽Intelligenceにしても、文章を入力して命令するなら、それなりの答えが返ってくる。その意味では、使える機能なのだろう。しかし文章を書くという作業は、音声入力に比べてかなり時間がかかる。AIを相手にするなら、音声入力のコマンドがしっかり使える精度と機能が欲しい。
★842首都圏の雪は怖いが危機感がないドライバーが多い(2026/03/04掲載)
▽首都圏で雪が少しでも降ると、交通マヒになる。怖いのは少しの雪を過小視し、夏タイヤで運転するドライバーだ。ツルンと滑って車は思わぬ方角に滑っていく。危険なことをもっと首都圏のドライバーは考えてほしいと私は思う。
▽私は転勤族でその転勤先の多くが雪国または寒冷地だった。このため、取材で使うマイカーには必ずスタッドレスタイヤを用意していた。
▽毎年11月になると夏タイヤから冬タイヤに交換し、冬を迎える。そして雪がなくなる4月の終わりごろ、夏タイヤに戻す。この繰り返しだった。
▽スタッドレスタイヤは夏タイヤに比べれば制動力があるため、雪道でもある程度のブレーキが効くが、夏タイヤは全く通用しない。
▽これを知らないため、首都圏のドライバーはちょっとした雪道なら大丈夫と信じ込んで雪道を運転する。これが怖い。
▽私が40年以上前に入社した北海道新聞では、当時流行していたスパイクタイヤの禁止キャンペーンを展開していた。アイスバーン状態でもスパイクタイヤのブレーキの制動力は大きいが、道路のアスファルトを削り取ってしまいい、深刻な粉塵公害が拡大していった。スパイクタイヤをやめてスタッドレスタイヤにというキャンペーンだった。長い年月をかけてスパイクタイヤはなくなり、スタッドレスタイヤになった。そして粉塵公害を消えた。しかしそれでも一部のドライバーは独自のルートでバイクタイヤを入手し使っているという事実も発覚している。それだけ雪道は怖いのだ。
▽私が群馬県に勤務していた時は、雪道の坂道でスリップし、空転している車を何回も見かけた。雪国なのに、スタッドレスタイヤに履き替えていないドライバーが一定数いた。車が坂道で空転すると、車は予期せぬ良き方向に動き出し、滑りだす。歩行者を巻き込む危険もあるのだ。
▽スタッドレスタイヤが無いのならば、運転は控えてもらいたい。そう願っている。
▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局で勤務している時に、車を買い換えた際、当然のごとく売り主のディーラーはスタッドレスタイヤも付けてきた。当然、必需品なので、普通に支払って買った。
★840読書をする場所はどこか(2026/03/02掲載)
▽新聞記者にとって、否、ジャーナリストにとって、取材とともに大切なのが読書だ。大げさに言うと、取材で得た情報を、歴史的にどう位置づけるかを確認するために必要だ。そしてその歴史的位置付けは本人の読書量に左右される。読書をしないために、取材で得た情報がどういう歴史を持っているか、認識できない記者も多い。
▽例えば毎年のように法務当局が行う死刑執行制度。今から四半世紀前には、執行したという事実すら法務当局は発表していなかった。3年4カ月もの死刑執行ゼロが続き、1993年3月に死刑執行が再開された突然の事実を、当時の読売新聞が特ダネとして報じた。この死刑執行再開という歴史的意味を、読売新聞の記者が知らなければ、特ダネにもなっていなかった。死刑執行ゼロという意味を知っていたからこそ、特ダネとして報じた。過去の資料を元に読書などの勉強をしていたからに他ならない。
▽それだけ読書は大切だ。
▽では読書はどこですべきなのか。
▽子供のころは自宅や図書館だっただろう。しかし、社会人だったら、読書する場所は自宅や図書館以外も増えてくる。
▽私の場合、新聞記者だった現役時代は、休みの日に自宅や図書館の他に、喫茶店などのカフェ、電車で移動する中、さらには驚くかもしれないが風呂の中というのもある。
▽風呂のバスタブに浸かって行う読書の条件とは、水滴や湯気に当たっても本が変形しないものに限られる、ということがある。ハードカバーの本はダメ。濡れると本の形が変形するためだ。新書や文庫に限っていた。多少、水滴で濡れたとしても、新書が文庫なら問題ないと思っていた。
▽ついでに言うと、新聞も風呂の中で読むことが多い。昔はビニール袋に新聞を入れて読んでいた。しかし最近はデジタル化されたため、防水ケースに入れたiPadminiで朝日新聞をデジタルで読んでいる。濡れる心配がないから安心だ。
▽こんな風呂での読書をしていることを本社時代、職場の仲間に話したら、意外にも多くの人間が風呂場でのバスタブで読書をしていることがわかった。みんなゆっくりと湯船に浸かり、読書をしているのだと思って共感してしまった。
▽ただし、風呂場での読書というのは制限がある。それは暑い夏では、風呂に入れないということだ。シャワーで済ましてしまう。だから夏場になると、読書量がかなり落ちることがある。
▽風呂場以外でも自宅では、書斎代わりに使っている自室で読むこともあれば、リビングでくつろいで読書することもある。
▽でも一番読書ができるのは、この風呂場のほか、移動する電車の中だ。私の自宅から東京本社までは、約1時間20分かかり、このうち50分前後電車に乗っている。この間の読書は貴重な時間だった。
▽年に1回行う北海道旅行では、飛行機の中も貴重な読書の時間だった。搭乗してから飛行機を離れるまで読書をするならば、1時間以上、2時間近くは読むことができた。
▽最近の新聞記者の中には、読書をしないと公言する人間もいるが、新聞記者にとって読書は必要な取材の一環だ。時間をうまく作って、読書をしてほしい。
【再掲載】★819戦前の日本の暗部を描く映画(2026/01/29掲載・2026/02/26再掲載)
▽すさまじい内容の映画だった。「金子文子 何が私をこうさせたか」。戦前の日本と韓国を舞台に、天皇制社会の批判を続けた金子文子という女性の獄中での戦いを描いた作品だ。出演者の演技力も抜群で、緊迫したシーンが続く。
▽私は日本映画ペンクラブの知り合いの紹介で、この映画を見た。
▽まずは金子文子について、配給元が出しているチラシなどを元に紹介しよう。
《約100年前に日本の国家権力に全力で抗った虚無主義者・無政府主義者の金子文子を主人公に、死刑判決から獄中での自死に至るまでの121日間を描いた伝記ドラマ。「雪子さんの足音」などの女性監督・浜野佐知が、金子文子の生の声を伝える短歌をもとに、彼女の孤独な闘いを描き出す》
《1903年に生まれた金子文子は、父親が出生届を出さなかったため「無籍者」として育ち、9歳の時に朝鮮半島で暮らす祖母と叔母の家に引き取られた。植民地である朝鮮の村人たちを搾取する祖母一家から奴隷同然の虐待を受け、1919年には朝鮮の三・一独立運動を目撃。16歳で山梨の母の実家に戻され、その後東京で苦学した文子は、思想的にはキリスト教から社会主義、無政府主義を経て虚無主義にたどり着いた。やがて彼女は、朝鮮で独立運動に身を投じ日本に逃れて来た朴烈と出会う。同志にして恋人となった2人は、日本の帝国主義・植民地主義を批判する活動に奔走するが、1923年の関東大震災の際に検束され、死刑判決を受ける。その後、恩赦により無期懲役に減刑され栃木女子刑務所へ送られた文子は、たったひとりの獄中闘争を続けるが……》
▽映画はこの金子文子が、皇太子を狙った犯行で反逆罪などの罪に問われて、死刑判決が出たところからスタートする。死刑判決は皇太子の恩赦で減刑され、無期懲役囚となる。死刑判決を受けた人間は死刑が執行されない限り、未決囚扱いだが、無期懲役刑に減刑されたことが、確定囚となり、拘置所から宇都宮刑務所栃木支所に移送されて、ここでの獄中逃闘争が始まる。
▽彼女の主張はシンプルだ。天皇制社会こそ、悪であり、それを打破すること。このため減刑で死刑を逃れたことに対する感謝は全くなく、刑務所側が彼女に要求する転向声明も拒否し続けた。虚無主義、無政府主義など、彼女の獄中闘争は信念の元に続けられた。身柄を拘束され、断食も続けて、国家に抗う闘いを続けた。それでも文子は抵抗を止めなかった。すべてが国家権力の側にあり、それを身体で張って抵抗を続けた。
▽文子の元には、特攻警察の幹部も来て、転向声明を書かせるよう強要するがこれも拒否。刑務所の所長は、受刑者の教育という意味において、この特高警察の態度にも反発を強める。文子に接触する女性刑務官たちも、次第に文子に同情していくのだ。それぞれの出演者の個性が出て面白かった。
▽さらには戦前の代表的なクーデターである二・二六事件の思想的首謀者である北一輝まで登場させて、文子の獄中闘争に政治まで絡んでいくストーリーに仕立てた。
▽最後は文子が獄中で自殺するシーンで終わる。映画ではなぜ自殺したのかを丁寧に追っていく。また文子が獄中で書いたと見られる短歌を、獄中の描写の中で紹介し、彼女の当時も心情を紹介している。
▽監督・浜野佐知は試写会後のトークでこう言い切った。
「文子という爆弾を現代に投げかけた」
▽戦前も今の時代も不安な中で、100年前の彼女の生き方を見てほしいのだろう。
《菜葉菜が主演を務め、最後まで国家権力に反逆した文子の魂の叫びを体現。小林且弥が朴烈を演じ、三浦誠己、洞口依子、吉行和子が共演》
▽今年(2026年)2月28日から、東京・渋谷のユーロスペースなど全国で順次公開する。
▽ぜひ見てほしい映画だ。
★837私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その6・最終回(2026/02/24掲載)
▽私の著書「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)からさらに引用を続ける。▽
▽死刑囚小島が出した秘密通信「足音が近づく」について、さらに書いていく。
▽小島の悲願は、幸子の手で秘密通信を出版させることにあった。市川もそう説明する。
▽確実にやってくる死の恐怖に直面する死刑囚の実態を世に問い、その残虐さを知ってもらうことで死刑制度廃止の世論を作ることにあった。秘密通信はそんな死刑制度に対する非道さの告発に満ちていた。ただ小島が侵した行為の重大さに一言も触れていない。
▽年がたつにつれ、秘密通信の内容も次第に荒れてきた。小島のいらだちが幸子に伝わり、幸子は疲れてくる。自分の存在が小島を苦しめていると感じるようになった幸子は、彼のために来た福岡を去り、東京に戻ることになる。
▽それから二年後、幸子は小島の処刑を新聞で知った。七〇年六月のことだった。彼が処刑されても、秘密通信は残った。年がたつにつれ、そのことが重く彼女の心にのしかかる。
▽彼が処刑されても、秘密通信は残った。年がたつにつれ、そのことが重く彼女の心にのしかかってくる。
▽ちょうどそのころ画塾で知り合ったのが、この本の編著者となる市川悦子だ。知り合って四年、「さっぱりしたタイプ」の市川に、小島の夢を託すようになる。
▽市川は当時を振り返る。
「初めて見せられた時は、正直言って驚きました。好奇心もあったし、恐ろしくもあった。最初から死刑が執行されるシーンがあり、なかなか読み進めなかった。読み始めて二,三カ月後にはジンマシンが出て、一年間ほど直りませんでした」
▽でも読んだ以上は責任があるとして、市川は知り合いを通して、東京都内の出版社に持ち込んだ。立風書房だった。
▽私は、当時の編集者にもインタビューしている。そのベテラン編集者は、こんなことを話していた。
「この秘密通信の本は、他に例がないので、編集者としても大変勉強になりました。全部の秘密通信を読んだわけではないのですが、四十分の一に選択する場合、それを編集する人の考えで、どんな方向にでもなる内容の通信文だと思います。死刑廃止論者だったら、恐らく死刑廃止論の本に、のぞき趣味だったら、セックス描写の本にもなるでしょう」
▽その市川だが、死刑囚の存在に興味など持っていなかった。小学校から高校までカトリック系だったことが、わずかながら死刑はやっていけない、あってはいけないと感じていたに過ぎない、という。
▽市川は当時、私にこんなことを述べていた。
「私自身、死刑に反対ですが、しかしそのためにこの本を出した訳ではありません。死刑囚の実際の苦しみがあるからといって、それだけで死刑問題を考えるのは危険だと思います。彼らの行為の重大さも認識する必要があるのでは。小島が自らの犯罪に言及していないことには、納得出来ません。ちょうどこの本の編集のヤマ場で自宅に閉じこもっていた時ですが、大阪で梅川事件が起きた時、なおさらそう思いました」
▽梅川事件とは、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に一九七九年一月、猟銃を持った男が押し入り、景観や行員を猟銃で射殺。そのまま立てこもった。四十二時間後に警官に撃たれて死亡した、犯罪史に残る特異な事件だった。
▽死刑囚の秘密通信をまとめる、という作業と、現実に起きた大事件が重複する中で、市川が抱いた気持ちは当然の感情だろう、と思う。大きな事件が発生すると、死刑問題というのは必ず揺れるものだ。
▽小島の思惑はともかく、秘密通信が一冊の本になって、市川から幸子に手渡された時、幸子はただ一言、「立派な本ですネ」と語った、という。死刑囚小島と結婚した時二十二歳だった幸子は既に四十歳になっていた。
▽生の死刑囚の実態を描写したいとして、市川の主張通り、プライベートなセックス関係の部分まで活字となった。むろん、小島にとって獄中における性と愛の苦悩を綴った部分まで活字として残されるとは、予想もしなかったことだろう。しかし幸子にとってこの本は大切な人生の一コマに違いない。
▽死刑制度廃止を訴えようとして七年間送り続けられた秘密通信は、小島の意思とは関係なく、市川悦子という人物を通して、閉じ込められても「生きたい」と願う死刑囚の生への執着がにじむ本となって世に問いかけたのだ。
▽幸子は一体どういう人物で現在はどんな生活を送っているのか。この本が出た時、こんな質問を市川にぶつけたことがある。
▽もちろん市川は答えなかった。市川しか知らない幸子の存在。市川にとって、
「一人の庶民が全く特異な世界に飛び込んだことに意義があった」
として映った。
「だから私が幸子だと思っても構わない」
とまで言い切っていた。この本は市川と幸子の共同作業の結果なのだ、と私は思う。
▽そして私は、死刑問題に絡めて、当時こう聞いている。
「最近、財田川事件や赤堀さんなど死刑問題が賑わっていますが」
▽これに対して、市川はこう答えている。
「私は法律的には素人ですが、死刑制度問題よりむしろ、閉じ込まれて、こんなに『生きたい、生きたい』と願う人間への生への執着を知ってもらいたい」
▽生きたい、生きていたい。こう願うのは当然だろう。死刑志願男もいたが、多くは「死にたいない、生きていたい」と願っている。
▽生命を粗末にしすぎる風潮への問いかけでもあるのだろう。
▽こんな市川の感想は、死刑問題に接したことがある人なら、だれもが同じようなことを抱いていた。私はこの二十年間近く、多くの関係者に会ってきたが、だれもが同じだった。
▽死刑囚の取材を続けているルポライターの大塚公子さんも、
「死刑囚って、死にたくないのよね」
と述べている。
「生きたい、殺さないでくれ」
というのは、人間の尊厳を脅かされる最後の言葉なのかもしれない。
▽秘密通信の編集作業の時には、小島を冷血漢と感じた市川も、最後の別れの手紙では読んで涙を流した、という。「人間の悲しさ」を感じた、と述べていた。
▽当時から市川は、死刑問題を考えてもらいたい一心で出版した、と話していた。
▽その市川は言う。
「アクの強かった内容を、随分とソフトなものにしたつもりですが、内容は強烈でした。結局、彼はわがままだったんです。自分の犯した犯罪を反省する文は全くありませんでした。本人は英雄になったと思ったのかもしれません。死刑囚がヒーローになってしまうなんて」
▽そのことは、本のあとがきにも書かれていた。
《もっとも、死刑の問題を死刑囚の苦しみという視点からだけで考えることは危険です。忘れてならないことは、みずからの死をもって償わなければならないほど、彼らの犯罪は恐ろしいものだったということです。単なる同情だけから死刑制度を考えることは、安易なヒューマニズムのそしりを免れないでしょう。死刑の問題は、彼らの行為の重大さについても十分認識したうえで考えなければならないと思います。》
《私は、この手記と手紙を編集しながら、ひとつの疑問にぶつかりました。それは、犯した罪への悔悟の念を、どこにも見出せなかったことです。皆様の中にも、同様の疑問を持たれた方が多いのではないでしょうか。
▽しかし、聞くところによると、死刑囚に限らず受刑者は、刑罰を受けたことでその犯罪に対して代償を支払った、という心理になるのが一般的のようです。死刑囚の烙印を押された小島の心には、死刑制度への憎しみしか残らなかったのは、当然のことだったかもしれません。現在の刑罰のあり方を考えるに当たって、このことは大きな問題であるように思います。》
▽死刑について冷静に考えた結果なのだろう。
▽そして、現在はこう付け加える。
「今でも本を出してよかったと信じています。あの本は、数ある死刑の本の中でも歴史的なものだと思っています。今でも『死刑』というタイトルの本があると、目を奪われてしまいます」
▽後日談だが、同じ福岡刑務所に拘留されていた死刑囚、免田栄は、この本について私にこう語った。
「あれは、刑務官の協力があったからですよ」
▽小島が必死で秘密に送り続けた通信文は、実は刑務官が知っていたにもかかわらず見逃し、協力していたというのだ。それは表向きこそ何も出来ない刑務官が、死刑囚の心情に同情したからにほかならない。刑務官も現場で悩み抜いているのだ。
▽そして免田はこう付け加える。
「あの本が出てからですよ。拘置所内部の管理や締め付けが急に厳しくなったのは」
▽衝撃な内容が暴露されたことに、法務当局の態度が一変したのだろう。小島の本はそれだけ衝撃をもっていたのだった。
▽忘れられない死刑囚の記録である。当の死刑囚が語ったものとしては、例があまりないものだった。市川自身、ものの考え方、人生観が変わった。
▽死刑問題に対しては、いろいろな考えがある。だが日本ではその実態が秘密のベールに包まれている。秘密のまま議論があっても、感情論になってしまう。その現状に一石を投じるものだった。
▽死刑問題を取材する者にとって、この本は強烈な印象を受けた。死刑囚が日々どんな気持ちで生活しているか、当の本人が語っているのだ。
▽これ以上の内容を取材するのは、実に困難な作業だろうと思った。そして死刑囚に直接取材することがほぼ不可能な自分たちの力不足さえ感じてしまうのだ。死刑問題を語る時、常に参考文献として登場するのも納得できる。
▽一人の死刑囚の話だが、この本のような内容に迫る取材を続けたい、と今でも思う。
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★836私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その5(2026/02/23掲載)
▽私の著書「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)から引用を続ける。▽
▽この本「足音が近づく」が出版されたことを知ったのは、前述した毎日新聞の前坂記者からだった。
▽前坂記者も、学生だった私も、当時は時間を見つけては、死刑問題の資料を漁っている最中だった。
「近い将来、死刑問題はジャーナリズムの大きなテーマになる」
と前坂記者は言い続けていた。今振り返れば、記者としての先見性があったのだろう。
▽タイトルの『足音が近づく』とは、死刑囚特有の「お迎え」への恐怖感から取ったものだろう、ということは分かったが、こんな生々しい内容とは思わなかった。朝になると刑務官の足音が近づく。その足音は、自分を「お迎え」に来た刑務官のものかもしれない、いつ処刑されるかも知れないという脅え。確定死刑囚がどれだけ精神的に苦痛か、よく分かるものだった。
▽恐らく、類書はないだろう、と思った。現在でもそう思う。これほど死刑囚が「死ぬ」ことにおびえていることを赤裸々に告白したものはないだろう。
▽編著者となっている市川に連絡し会うことが出来たのは、それから間もなくのことだ。市川は法律事務所に勤めていた。市川をたずねた。
▽本の中で死刑囚の名は、「小島繁夫」となっているが、これは偽名だった。関係者に影響がないよう、配慮した結果だった。
▽市川によれば、「小島」は最後まで死刑に反対し続けた。秘密通信と言いながらも、公表してもらいたかったに違いない、という。
▽本に出ていた小島の経歴によれば、香川県生まれで、教員や銀行員などを経て、一九四六年に結婚するが、五五年に離婚している。
▽長崎県佐世保市に移り住んだが、自棄酒を飲む生活が続いた。ちょうどそのころ知り合った男と金欲しさに強盗殺人を計画。銀行員を誘い出し殺害した。そして現金四万七千九百円、小切手三枚などを奪って逃げた。実際に殺害を実行したのは小島ではなく、もう一人の男だった。一九五六年の事件だ。
▽長崎地裁佐世保支部での判決公判では、相棒の男が無期懲役、小島が死刑判決を受けた。
「実際に犯罪を実行した田中が無期懲役となったの対して、自分は年長者ということで死刑の判決を受けた」
として、福岡高裁に控訴したが棄却。これを不服として最高裁に上告したが、六〇年に棄却され、死刑判決が確定した。
▽小島が秘密通信の作業を開始するのは、確定死刑囚となって本館特別舎に移されて間もなくだった。
▽まず毎日の生活を克明にメモした。それをいつの日か、検問をかいくぐらせて、その死刑囚の実態を知ってもらい、死刑廃止の世論を作ってもらいたい、というのが動機だった。そのことは本でも読み取れるし、市川もそう言う。都合良い話だと言う人がいるかも知れない。だが、それだけ死ぬことに恐怖があったのだろう。
▽福岡刑務所(正確には拘置所扱い)からの手紙類はすべて検閲されるのが通例だ。刑務所にとって都合の悪い部分は全部削られる。小島はどうやって秘密通信を思い付いたのか。
▽小島はキリスト教に関心を持ち、教会新聞などを通し、多数の手紙の友を得るようになった。相手はボランティア活動の女性が多かった。竹内幸子もそんな文通相手の一人だった。
▽当時彼女は東京で一人暮らし。六一年八月に始まった文通は、小島にとって彼女の誠実さと優しさに満ちていた。小島からの手紙にも誠実さが感じられた。二人は次第に引かれ始めた。
▽ある日のこと、小島は秘密通信の方法をふと思い付いた。獄中での唯一の収入源だった点字の製本作成時に、秘密通信の手記を張り付け、その上にクロースをかけた。幸子にその点字書を送った。幸子は、それを一日でも二日でも水に浸けてはがして読む。
▽その通信の所在を知らせるため、聖書を使い、活字の隙間に鉛筆で小さく、「点字書の外箱を水につけ」「紙をはがしてみよ」と書き込む。それを知らせるため、検閲を通す手紙にその部分を読むように書き、別便で聖書を送った。
▽何と手の込んだ方法を思い付いたことだろう。この方法が幸子にも分かって、成功を確信した時の小島の喜びようはなかった。
▽こうして送り続けることに成功した秘密通信は、七年間に一五〇〇枚、段ボール箱にして二箱を埋めた。
(続く)
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★835私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その4(2026/02/20掲載)
▽私の著書「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)から引用を続ける。▽
▽私が出会った死刑問題に関する書物の中で、今でも強烈な思いを持ったのは、一九七九年に出た『足音が近づく』(市川悦子編著、立風書房刊)だ。出会ったのは本という形だが、実際はそれぞれの生きざまだった。
▽この本の特異な点は、外部との連絡を閉ざされた死刑囚が、当局に見つからない方法で、獄中結婚した外部の女性に連絡をし続け、死刑囚の置かれた実態を公にしたことである。
▽死刑囚の本音、死刑囚のエゴ、死刑囚の弱々しさ、死刑囚の孤独さ、死刑囚の無気力さなど、一人の死刑囚が本音で語り続けた。こんな本は初めてだった。
▽福岡刑務所の本館特別舎がこの本の舞台だった。
《突然、廊下に大勢の靴音が高らかに鳴り響いてくる。足音が近づく。お迎えだ。お迎えに違いない!▽地獄の使者のような靴音。その恐ろしさに、瞬間、震えあがる死刑囚たち……》
▽そんな死刑囚の中に、本の主人公である小島繁夫(仮名)もいた。
「お迎え」の足音が近づくにつれ、胸の動悸が全身に激しく伝わる。処刑場に連れ出される自分を一瞬想像する。首筋から背中にかけて、冷たい汗がしたたり落ちる。
《もうダメだ!▽死にたくない。死にたくない。死ぬのはイヤだ!》
▽靴音がいっせいにやむ。急に静けさを取り戻した廊下で、扉をがっちり止めていた鉄のアームが、カタンと下に落とされた音が聞こえた。その音が自分の房でなかったことを言った時、小島は自分が助かったことを確認し、ホッと胸をなでおろす。再び胸が熱くなる。わずかながらも生き延びることができ、ひとときの安堵感を覚えるーー。
▽看守たちの足音が近づくたびに、今度は自分の番かとその恐ろしさに震える。いつ訪れるかも分からない死に直面した日々を送っている死刑囚たち。その恐怖感は、外部からは到底押し測ることの出来ないものだ。この主の本が世に出るのは恐らく初めてのことだろう。
▽こんなシーンがある。私たちが絶対知ることが出来ない光景だ。
《僕は廊下の気配をうかがった。お迎えは三十一房らしい、とわかったとき、すぐに立ち上がった。視察孔に顔をつけないように、扉を一歩離れて廊下を見た。はたして三十一房の前には、多数の役人がつめかけていた。瀬川だ!》
《三十分あまりたった時、瀬川は身仕度を終えて廊下に出て来た。手には新約聖書らしいものを持っていた。各部屋を順番に回って僕のところに来た。別れの挨拶である。食器口を開いて顔を出した。その顔は紅潮していた。『小島さん……』と声がつまって、紅潮した顔がゆがんだ。泣いている。永遠の悔恨と永遠の悲哀をたたえた人間の顔である。瀬川は声もなく、涙もなく泣いていたのだ。僕は食器口から手を出して、瀬川の手をつかんだ。けれども、何と呼びかけていいかわからなかった。ただとっかりと瀬川の手をつかんでいた。》
▽何回も書いて来たが、極悪事件が発生し、死刑が確定してしまえば、私たちは犯人のことも、事件のことさえやがては忘れていく。しかし犯人は死刑囚として何年も処刑の日まで生き続ける。その日々の生活は決して休まるものではないのだ。
▽小島にはシャバに獄中結婚した妻、幸子(仮名)がいた。獄中で文通を通して知り合い、結婚した。いわば処女妻だ。法的には夫婦だが、満足に話したこともなければ、身体に触れることも出来ない。そんな愛と性へのいらだちが秘密通信では次第にエスカレートしてくる。秘密通信の方法については、後述する。
《幸子の蜜がほしいよ!▽それで、早く花を買って、幸子の蜜をたっぷり届けてください。手紙の接吻は、唇を当てるだけでなく、そこにしっかりと幸子の蜜を置いてください。便箋の最後の一枚と、その前の両方にです。ときには君の味がはっきりと感じられることもあり、ときには、よくわからないこともあります。》
《今度差し入れてくれるシャツを、その前夜、君が身につけて一晩過ごしてほしい。》
《そして、もうひとつ、シャツの右袖のところを裏返しにして、そこを幸子の“愛の花弁”にしっかりと押し当てて、幸子の泉をたっぷりとしみ込ませて下さい。》
▽獄中者と外部の人間との恋愛を、擬似愛という人もいるが、果たして小島の場合はどうだったのか。幸子に対する一方的な感情といえるのだろうか。
《君の体臭と、そして、僕だけのものである幸子の汚れを知らない泉の香りを味わいたいのです。》
《幸子、その可愛い表情とやさしい顔は、僕だけのものだよ!▽誰にも見せてはいけない。誰にもあげてはいけない。僕だけの宝だよ!》
《今度、できたら丹前を差し入れてください。泉を十分しみ込ませた脱脂綿を、右袖のタモトの綿の間に入れてください。脱脂綿は、なるべく小さくちぎって、四つか五つ入れること。僕はそれを口に含むのです。》
▽生への願望と、それにもまして性への願望も強くなってくる。こんな秘密通信が出版された意味は大きい。長く閉ざされた実態が初めて公にされた、と言って良かった。
(続く)
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★834私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その3(2026/02/19掲載)
▽私の著書「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)から引用を続ける。
▽
▽当時はゼロからスタートしたこともあるが、戦後の死刑論争は何回かあったことも分かってきた。
▽憲法は残虐な刑罰を禁止している。日本国憲法は第三六条で「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と高らかにうたっている。「絶対にこれを禁ずる」という表現が良い響きを持つ。戦前の特高警察による弾圧など、忌まわしい過去の歴史を教訓にしている。
▽また最高裁大法廷は一九四八年の尊属殺人・遺体遺棄事件についての判決で次のような理由を述べていることも、知った。
「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。死刑は、まさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざるに出する究極の刑罰である。それは言うまでもなく、尊厳な人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去るものだからである」
▽こうしながらも、絞首刑は違憲ではない、死刑が残虐な刑罰には当たらない、と判断した。これが最高裁判例となった。
▽この最高裁判決の論理は、無理に合憲を導き出している点に特徴があった。
▽判決では、
「死刑の制度及びその運用は総ての他のものと同様に常に時代と環境に応じて、遍歴があり、流動があり、進化がとげられてきた」
としたうえで、次のような論理を展開する。
▽簡単に言えば、
▽一、憲法十三条で述べる生命に対する国民の権利は、公共の福祉という基本的原則に反する場合は立法上制限される。
▽二、死刑の威嚇力によって、一般予防をなし、死刑の執行によって、特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会防衛せんとした。
▽三、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに残虐な刑罰に該当するとは考えられない。その執行方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から、一般に残虐性を有すると認められる場合は、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑ごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするなら、憲法三十六条に違反する。
「一人の生命は、全地球よりも重い」としたヒューマニズムあふれた書き出しが、次第に方向転換し、最後は江戸時代の刑罰と比較させて、絞首刑は残虐ではない、としているのである。ナンセンスな思考展開だった。
▽このナンセンスな論理が判例となって以降まかり通り、裁判で死刑を違憲とする主張は、この判例に沿ってことごとく棄却され続けてきた。
▽驚いたのは、死刑廃止法案が国会で論議された一九五六年前後の、当時のマスコミの論調だった。朝日新聞の社説は、「死刑廃止の可否」と題し、はっきりと「死刑廃止」と訴えていたことだ。今でも新鮮に受け取ることができる。詳しくは『死刑執行』(朝日新聞社刊)でも触れているので、ここで改めて説明しないが、当時の私はこの社説を呼んで感動したものだ。
▽これほどはっきりと死刑廃止を訴えていた社説は、その後あまり見掛けない。最近では、法務大臣に後藤田正晴が登場し、死刑執行を再開させることに懸念した朝日新聞の社説ぐらいだろう。
▽ルポライターとして売り出していた長部日出雄の単行本も見つけた。『死刑台への逃走』(立風書房)というタイトルだった。
『死刑台への逃走』は、ある強姦殺人事件を追うことで、犯人の心の奥に潜む劣等感と自意識が、いかに彼を犯罪に追い込んで行くかを描写する。殺人をすれば死刑台へ逃避できると思い込んでしまった犯人は、死刑による威嚇力(つまり犯罪防止のため)とは無意味なものであった。死刑があることで、犯人は強姦殺人などの犯行を重ねて行った。ここでは死刑制度の存在そのものが犯罪を大きくさせている事実がクローズアップさる。
▽私は当時、こんなことをノートに書いていた。
《八月十一日付新聞は社会面で「死刑志願」の男が、母親を刺殺するという事件を伝えている。手首をカミソリで切って自殺しようとしたが、死に切れず、「親を殺せば死刑になる」と思い込み、母親を殺すつもりだった、という。記事を読む限り、この事件から理解できるのは、死刑制度があることが、犯人を殺人事件に走らせた、ということだ。
▽もともと死刑制度とは、治安状態の悪い国家において犯罪防止のための威嚇力を示すことが目的だった。治安状態が良くなり、平和な近代国家では、死刑制度の存置が矛盾を生み出すのは当然と言えよう。今挙げた事件はこのことを証明している。》
(続く)
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★833私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その2(2026/02/18掲載)
▽私の著書「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)から引用を続ける。
▽私が死刑問題に関心を持ったのは、ちょうど死刑囚の冤罪事件が相次いで再審開始の好機を得ようとしようとしていた時期だった。
▽免田事件の免田栄、財田川事件の谷口繁義、松山事件の斎藤幸夫、島田事件の赤堀政夫の各死刑囚たち。次々と再審を開始する動きが広がっていた。
▽「無実なのに」と叫ぶ被告の声が、ようやく裁判所に届いたということだろう。確定した死刑判決に疑義が出され、裁判所がそれを認めていった。それは戦後の裁判史上、画期的なことだった。
▽財田川事件の谷口繁義の場合は、一九五〇年に発生した殺人事件で別件逮捕された。事件からわずか一カ月後だった。最高裁が上告を棄却して死刑が確定したのが五七年。これからが長い闘いだった。
▽谷口さんの無実を確信した当時の裁判長が、故矢野伊吉だった。裁判長という職を辞し、生涯をかけて谷口のために取り組んだ。無実を主張し、ようやくのこと生還させることが出来た。『財田川暗黒裁判』という著書は、執念を込めた彼の生きざまを描いたと言ってよい。
▽谷口が死刑台から生還し、支援者や記者たちの前で行ったあいさつは、今でも覚えている。
▽私はテレビニュースで見ていたのだが、非常にぎこちなかった。政治家が選挙演説しているような口調だった。あいさつ文を獄中でこの日のために練習していたのだという。生きて獄中から出られる、という谷口の気持ちを重ねて、私は熱くなった記憶がある。
▽死刑という、人の生命を奪う絶対的な刑罰を言い渡された事件が、実は冤罪だった、という意味は重い。死刑囚にとって、いつ執行されるか、恐怖におののきながらの獄中生活は、想像に絶する。
▽日本の裁判に誤りがある。そのことを当の裁判所が気付き始めた。それをマスコミも批判的なトーンで報道している。ほかにも同じような誤判があるのではないか。生命と死刑囚。このテーマは避けて通れないもののように思い始めた。
▽判決が誤りだった、ということは、単に「誤りがありました、訂正します」では済まされない。その人の人生そのものを奪っているからだ。
▽そんな人間ドラマを冷静に捉えてみたい、という思いが次第に強くなった。
▽私が生涯、ジャーナリズムの世界で生きようと考えるようになった契機は、前述のように米軍機墜落事件という強烈なインパクトだったが、漠然とし関心を持ち始めたのは、学生時代に日本中を揺るがせたロッキード事件だった。
▽この事件は良くも悪くもマスコミという存在意義を、私なりに考えさせるものだった。その日その日のニュースを読めば、なるほどと思うが、本筋は短期間では見えてこない。読者には分からないことが多かった。灰色政府高官とはだれのことなのか、新聞もテレビも現場記者は知っているのに、人権保護のためか読者には伝えようとしない。
▽その一方で、日本のジャーナリズムが果たした役割は大きかった。
▽現場を知ることの出来る職業、という冒険心が私の中に芽生え始めていた。
▽そのころ読んだ『木村王国の崩壊』(吉田慎一著、朝日新聞社刊)という本の影響も大きかった。福島県庁を舞台とした汚職事件を丹念に追ったドキュメントだった。細部に至る描写を丁寧に入れ、ノンフィクションとして完成されたものだった。こんな取材が出来る記者が羨ましく思えたものだ。
▽死刑囚の再審開始が相次ぐ中で、古くからの知り合いで、毎日新聞の前坂俊之記者は私にこう言った。
「これからジャーナリズムでにぎわすのは、死刑問題だ」
▽その言葉にハッとした。犯罪研究が専門の前坂記者は、勉強熱心な人で、さまざまな犯罪資料を収集していた。
▽当時、私は学生だった。勉強だけは十分にしたい、と思っていた。
▽死刑も、単に感情論で語るのではなく、事実を丹念に追うことが大切と思い始めた。犯罪と人間の生命という二つを結び付けると、どうしても「死刑制度」という言葉を浮かべるようになった。
▽死刑とは何か。自分なりに調べることが始まった。
▽まずはデータ収集だった。
▽周る先は、何カ所かあった。
▽まず私が行ったのは、東京・中野刑務所にあった矯正協会図書館だった。ここは刑罰に関する資料の宝庫だった。矯正施設の関係資料が多数あった。時間があれば何日も通い続けた。
▽国会図書館も通った。日弁連に行き、法曹界関係の資料にも目を通した。
▽東京・神田や早稲田の古本屋街も歩いた。大宅文庫にも何回も行った。
▽前坂記者とは、連絡を取りながら、集めた資料交換を続けた。貧乏学生だった私にはコピー代が高かったことを、今でも思い出す。
▽新聞記者を目指す学生なら、こんな無茶は絶対やらないだろう。学生仲間はリクルートスーツに身を固め、就職運動に励み出そうとしていた。同じ学部の友人は、就職に有利だというゼミに没頭していた。マスコミを目指す者は、一次試験に突破するため、予備校に通い始めていた。
▽もっとも私は、冤罪の運動家になろうとも、個別事件の支援者になろうとも考えたことはなかった。あくまでも記者として、いつかは歴史的な記録を残す作業に参加したいと考えていた。そのための勉強は、無駄にはならないと信じていた。それは今でも正しかったと思う。
(続く)
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★私はなぜジャーナリストを目指したのか▽その1(2026/02/17掲載)
「私はなぜジャーナリストを目指したのか」
▽こう自問自答すると、私が学生時代に起きたある事件が行き着く。人間が生きる、死ぬ、殺す、殺されるという根源的な問題を私に突きつけてきた事件だった。
▽以下、私の著書から引用したい。「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著、現代人文社)だ。
▽私が、ジャーナリズムという職業に強く引かれた事件があった。一九七七年九月、横浜市緑区の住宅街に墜落した米軍機墜落事件のことだ。
▽米軍厚木基地を離陸したファントム偵察機RF4B機がエンジン故障で墜落した。乗組員二人は脱出したが、機体は住宅地に落ち、九人が犠牲になった。救助に来たはずの自衛隊ヘリコプターは、住民を助けずに脱出した米兵のみを乗せて行った。救出されるべき被害者は、全員が取り残された。被災者宅に近づこうとした人たちは、米軍に阻まれて、逆に銃を向けられた。
▽覚えている人も多いだろう。子供二人の死を知らされぬまま、全身火傷の後遺症に耐え続け、死んでいった林和枝という女性のことを。
▽墜落し炎上したファントン機によって、林和枝は全身が火に包まれ、上着が燃えて下着姿だったところを救出された。顔中の皮膚が焼け、真っ赤な血と黒いすすが全身を包んでいた。救出した人が、近くのライトバンに乗せようと足を持ち上げたところ、足の皮が剥けてしまった。救急車で搬送中、和枝は
「子供たちは大丈夫ですか」
と何回も何回もたずねた。そのたびに
「心配するな、子供は大丈夫だ」
と励ました。
▽二人の子供は救急車で搬送され、収容された病院で、三歳の長男は
「お水をちょうだい。ジュース、ジュースをちょうだい」
と叫び、そして静かになっていった。口元を動かして最後に
「バイバイ……」
と言って死んで行った。事故から十一時間後だった。
▽一歳の次男は、
「パパ」「ママ」
とかすかな声で呼んでいたが、明け方近くになって、
「ポッポッポー」
と大好きだった「ハトポッポ」を歌いながら、息を引き取った。
▽和枝は自分の子供が死んだ事実を知らされず、「子供が待っている」という偽りの励ましで、長い闘病生活を続けた。全国から一〇〇〇人を超す皮膚提供によって奇跡的に生命を取りとめたように見えた。
▽力尽きたのは、事故から四年四カ月が経過した一九八二年一月だった。
▽和枝は、こう言っていた。
「生きたい。生きて子供に早く会いたい」
▽生きたくても、和枝は死んで行った。
▽平和とは何なのか。日米安保とは何なのか。人の命とは何なのか。なぜ人間がこんなに簡単に死んでしまうのか。
▽私は一人でノコノコと取材らしきものを続けた。
▽そのころの私はルポライターのような仕事を目指していた。なぜあんなに調べる気になったのだろうか。格好の取材対象だったから調べていたのだろうか。
▽否、それだけではあるまい。
▽怒りというか、日本人としての矛盾というか、どこかこの事件が持つ根源的な問い掛けが私にあったような気がする。だからこそ自分の足を使って調べ、自分の目と耳で事実を確かめたいと思ったのだ。
▽調べれば調べるほど、事件の背景は矛盾だらけだった。米軍主導で進む現場処理。事故機の調査も、日本はほとんどタッチ出来ない現実。国家や日米安保というものに、人間の生命は無力でありすぎた。
▽こんなことがあって良いのだろうか。人間の命が、こんなことで簡単に奪われて良いのか。
▽そんなエモーショナルをバネにしたいと思った。そして、自分が持っていた先入観を排除して、冷静に事実を追うことに心掛けた。これがその後の私の信条となった。
▽そこで知り合った記者たちから受けた影響は強い。一人は現地の支局長だった。もう一人はTBSの記者だった。コツコツ取材して回る記者像に、引かれるようになった。
▽そして、犯罪、事件というものが、追っても追っても結論の出ない大きなテーマのように思えてきた。
▽一切の犯罪とは無関係に暮しているように見える幸せそうな家庭でも、突然事件に巻き込まれる。突然被害者になり得るし、加害者の関係者となるかもしれない。
▽人が死ぬ、生きる、殺す、殺させる。こんなことを考え始めた。
▽そんな問題意識を持ち始めた時に出会ったのが、死刑囚の再審問題だった。
(続く)
◎参考文献「殺されるために生きるということ▽新聞記者と死刑問題」(原裕司著▽現代人文社)
★829改めて分かった三浦瑠麗のインチキさ(2026/02/12掲載)
▽国際政治学者を自称する三浦瑠麗のインチキな言動を、ソフトカバーの書籍「孤闘 三浦瑠麗裁判1345日」(西脇亨輔著、幻冬舎)が改めて浮き彫りにさせてくれた。よくもまあ、こんなインチキな人間を、政府や一部のマスコミがチヤホヤして使っていたのだろうと、改めて思う。
▽本書は三浦に離婚協議中であることをツイートで暴露され、プライバシー侵害であると訴えた裁判の記録だ。初版は2023年だから既に2年以上が経過している。遅ればせながら読んだ次第だ。
▽筆者はテレビ朝日の社員で元アナウンサー。アナウンサー時代に同僚の女性と結婚し、筆者は自ら願い出て、アナウンサー室から法務部に人事異動した。既に司法試験に合格して、司法修習にも参加しているという経歴の持ち主で、弁護士の資格もある。
▽その妻はテレビ朝日の名物番組である「朝までテレビ」の司会として勤めており、出演者の一人として三浦と親しかった。
▽そんな三浦に、筆者が妻と離婚協議中であることをツイート(X・旧ツイッター)で暴露されたのだ。その少し前に週刊ポストがその妻とNHK職員が同棲していることを報じており、ツイートはそれを前提に筆者と離婚協議中であることを暴露した。その週刊ポストの報道で、元妻がその司会を一時的に下ろされたことに反論する形でツイートされた。元妻を擁護したのだろう。それが言論の自由への侵害だという滅茶苦茶な論理を取っていた。
▽筆者はそれがプライバシーの侵害に当たるとして三浦を訴えた。一審東京地裁も、二審東京高裁も筆者の勝訴となり、三浦側は最高裁に上告したが、最高裁は上告を棄却し、筆者が勝訴し、三浦が敗訴した。プライバシー侵害が認められたのだ。
▽この裁判の過程の中で、三浦側は大物弁護士事務所の弁護士の支援を受けた。橋下徹事務所の弁護士だった。筆者は弁護士を付けず一人で孤独に戦い、そうした大物弁護士の支援を受けた三浦との戦いにやっと勝ったと綴っている。
▽三浦の反論の論理は次第に変わっていった。筆者が名前も知れていないアナウンサーであり、暴露されてもプライバシーの侵害に当たらないとした。さらには、筆者の元妻が「朝までテレビ」の司会を下ろされたことが、言論に対する自由への侵害だと筋違いな反論しているのだ。そうすることでプライバシー侵害はなかったという論理にすり替えていた。
▽こうした三浦側の反論に対し、筆者は一つずつ反論していった。弁護士もつけないで1人でコツコツ裁判を闘ってきたのだ。
▽その三浦瑠麗。例えば、統一教会の被害者で財産を失った被害者について、「競馬ですったようなもの」と問題発言をするなど、かなりとんちんかんな発言を続けて、世間から批判を受けるようになった。また夫が東京地検特捜部に逮捕されて、その財産にもタッチしていたというから、共犯者という見方も出ていた。
▽こんなインチキな自称国際政治学者を相手に筆者は戦ってきたのだ。
▽筆者は本書の序章の中でこう書いた。
《この本は、影響力ある人物の発信によって揉みくちゃにされた一人のサラリーマンが、独りきりでただ足掻いた記録だ。普通なら恥ずかしくて、世の中に残さない話だと思う。
▽しかし、いやだからこそ、心ない発信の先に、生身の人間の痛みがあることを書き留めたかった。そして不格好でも最後まで闘い抜いたことの痕跡をこの世に遺したいと思った。本を書いた理由はそれだけだ》
▽自称国際政治学者、三浦瑠麗。自民政権を擁護する言動から、政権に都合よく使われていたのであって、決して政治学者でもなければ、評論家でもない。時流に乗っただけの自称政治学者だった。テレビ局ももうこんな人物を起用することがないようにお願いしたいと思った。
▽胡散臭い人物がもう永久にテレビに出ないことを願いたい。
★826ホームページ立ち上げから間もなく3年(2026/02/09掲載)
▽私が自身のホームページを立ち上げて、今年(2026年)2月17日で3年になる。いつまで続くかとスタート当初から不安のまま作業を続けてきた。心がけたのは、ビジュアルな紙面を作るのではなく、ホームページにはほぼ毎日、新しい記事を追加・更新するということだった。それを3年間近く続けることが出来た。
▽既に掲載した記事は800本を超えた。取りあえずの目標は1000本の記事掲載だ。
▽まずはこのホームページの社会事象編に以前書いたコラムから紹介する。
《★572私のホームページ事始め ▽私が自分のホームページを立ち上げたのは2023年2月17日のことだ。それまで全く興味もなかったホームページについて、使ってみようと考えたのは、その1年前。今回はどうして始めたのかを記していきたい。 ▽私は2021年8月末を持って33年5カ月勤めていた朝日新聞を退社した。それまでは地方支局でも東京本社でも取材し原稿を書き、それが翌日以降の紙面に掲載されるという生活を続けてきた。自分の書いた原稿が、翌日以降の紙面に載るというのが当たり前に思っていた。新聞は商業ジャーナリズムと見られるが、取材費も会社で持ってくれるし、やる気さえあれば、取材はできた。それが新聞社の良いところだった。 ▽しかし退社してみると、そうはいかない。原稿を書いたとしても、扱ってくれる紙媒体がないのだ。 ▽その昔、私が学生時代のころ頃、ルポライターのまねごとをしていた時は、月刊誌や週刊誌などに多くのフリーライターが寄稿していた。そうしたフリーライターの仕事に憧れ、私は一時そうしたフリーライターになることを決意した。しかし原稿料だけでは生活できないことを知り、新聞記者を選んだ経緯がある。 ▽退社した時、そうした昔のイメージを持っていたが、実は昔のような、そんな紙媒体は無いのだ。昔は何十冊もあった月刊誌や週刊誌などが軒並み廃刊になり、フリーライターが発表する紙媒体は激減した。もっぱらウェブを中心とした媒体となり、逆にウェブのフリーライターが増えた。しかも原稿料は極端に安くなっていた。 ▽こんな状況を知って、私はだったら自分でホームページを立ち上げて、自分の発表する場を確保したい。私はそう思い、その準備に取り掛かったのだ。 ▽これが私のホームページ立ち上げの真意だ》
▽心がけたのは、土日予備を除く月〜金曜日は祭日でも、新しい記事を追加し更新していく、ということだ。
▽これには明白な理由があった。
▽いくらホームページを作っても、更新しないとだれも見てくれない、だれもアクセスしてくれないという状況が、インターネットの世界ではある。例えば喫茶店を開店して、その宣伝をホームページで行ったとしても、一度はだれかがアクセスして見てくれるかもしれないが、リピーターは来ない。リピーターを増やすには、常にホームページの内容を更新するしかないのだ。
▽そんなイメージがあり、ホームページで自分の記事を発信していく以上、ほぼ毎日更新する必要がある。そのためにはどうするか考えていた。
▽さらに言うと、他人や組織が作ったホームページを借りることはしなかった。その論理に左右されるためだ。
▽上記で紹介したコラムではこうも書いた。
《▽しかし私はウェブには疎くて、その経験もなかった。いわゆるオールドメディアで、活字媒体での発表しかなかった。 ▽このため、私は自分が執筆中だった本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の作業と並行して、ホームページのイメージを頭の中で作りながら、1年前から準備を始めた。 ▽ホームページのイメージはこうだ。 ▽毎日のように自分の書いたコラムを載せていく。いわゆる毎日更新していく。そんなイメージを作って、ホームページの講座に通い、ホームページに載せる原稿の準備を始めた。毎日更新することを前提に、1年間は続けたいので、約300本の原稿を用意した。そして、ホームページを立ち上げて、毎日毎日、1本ずつコラム原稿をアップしてきた。これが今の私のホームページで、タイトルは「見た、聞いた、感じた、そして考えた▽新聞記者▽封印40年の記憶」とした。もう2年近く続いている。 ▽確かに原稿を書くのは苦痛でもあるのだが、自分の書いた原稿が掲載されるのは嬉しいことだ。 ▽他人のホームページならば、原稿の制約を受ける。原稿が長ければ削られるだろうし、主催者の意見に合わなければ、原稿は修正されることにもなる。自分のホームページで自分の原稿を書いた方が良い。これが私のホームページの始まりだった。 ▽ただ、気をつけているのは、あくまでも客観的に書くことだ。一方的な主張は載せないことにしている》
▽こうして続けてきたホームページは間もなく3年だ。
▽最近は知り合いの弁護士やマスコミ関係者も読んでくれていて、3年間の積み重ねは大きいと思っている。
★822国際ジャーナリストを名乗った落合信彦の胡散臭さ(2026/02/03掲載)
▽国際ジャーナリストポストを自称する落合信彦が亡くなった。もうとっくに表舞台から消えていたのに、いまさら本人の胡散臭さを掘り返しても意味はないかもしれない。しかし、美談だとして済ましたくない。
▽この人物、急に脚光を浴びたのは1987年だ。ビールのスーパーアサヒドライのTV広告に出て、急に名前だけが有名になった。「国際ジャーナリスト、落合信彦」とうたっているTV広告は、商品とともに落合信彦の名前を売った。ジャーナリストを称する人間がビールの広告かよ、と悪い意味で驚いた。
▽私は当時、新聞記者6年生で、新聞業界に入る前の数年はマスコミ界で言うところのフリーライターの真似事をして、取材をして原稿を書いていた。つまりマスコミ歴10年が経過していた私だったが、この「落合信彦」という名前を全く知らなかった。聞いたこともなかった。
▽それだけではない。私の新聞社の先輩も上司も知らなかったし、雑誌社の有名な編集者もTVの人間も彼のことを知る人間はいなかった。国際ジャーナリストならば、特派員を経験している先輩は知っているかもしれないと思い、特派員経験者の何人か聞いたことがあるが、知る人間は一人もいなかった。それだけ落合信彦は、無名の自称ジャーナリストだった。
▽ホームページなどで経歴を見ると、その経歴もウソっぽかったし、著書も集英社や小学館に限られていて、どうもアサヒビールと電通、小学館、集英社が絡んでいるようで、どうも作られた虚像のような気がしてきた。ジャーナリズムの世界では全く実績もない人間を、「国際ジャーナリスト」として作り上げていったと私は思った。
ネットではこんな指摘もあった。
《批判・評価: その活動の独自性や、インテリジェンスに関わる情報ソースの具体性が不透明とみなされるケースがあり、一部の読者やメディアにおいて評価が分かれる傾向にある》
▽その後も、ジャーナリズムの世界で落合の著作が評価されたことは全くなかった。ピューリッツァ賞やボーン上田賞など国内外のジャーナリズムの賞すら取っていない。フィクションをノンフィクションとしてうたっているだけの作品だったのだ。
▽朝日新聞は2026年2月2日の紙面でこう訃報を伝えた。
《落合信彦さん(おちあい・のぶひこ=国際ジャーナリスト、作家)1日、老衰で死去、84歳。葬儀は近親者で営む。長男はメディアアーティストの陽一さん。
▽国際情勢を題材にしたノンフィクションや小説などを多数執筆。代表作に、ケネディ米大統領暗殺事件の真相に迫る「決定版 二〇三九年の真実」などがある。ビールのテレビCMに出演したことでも知られた》
▽この訃報記事を書いた記者は恐らく、落合の著書など読んでいないのだろう。読んでいないのに書くから、こんな提灯記事になる。
▽落合の著書をインチキだと書いた人間も過去にはいた。ゴーストライター説も出ていた。
▽今回の死去では、X(旧ツイッター)でこんな指摘をする作家もいる。
《適菜収(新刊『日本崩壊 百の兆候』ベストセラーズ)》
@tekina_osamu
肩書に「国際」とつくととたんにうさん臭くなる典型でしたね。少し前に、国際政治学者を自称するみょうちくりんな女もいたけど
【訃報】国際ジャーナリスト・落合信彦氏が死去、84歳 独自の視点で国際政治・諜報の世界を活写 (NEWSポストセブン)》
▽このポストに反応して、私もこうポストで評した。
《そう、スーパードライで有名になったけど、ジャーナリズムの世界で実績があったのかどうか。売り込みはすごかったけど。
《この人、スーパドライで出てきた時、私の知り合いのマスコミ関係者は誰一人として、この人物を知らなかった。雑誌もテレビも。私が勤務する新聞社も。国際ジャーナリストって何?という感じだった》
▽日本のマスコミ業界で、「ジャーナリスト」を自称する人間が出てきたのは、このころからだった。「国際」を自称すると胡散臭くなるという指摘は正しい。
★820朝日新聞記者だった彼女はなぜ総選挙に立候補したのか(2026/01/30掲載)
▽嘘つき高市による2026年1月の衆院解散総選挙で、元朝日新聞記者で元テレビコメンテーターの女性が国民民主党から立候補したことを知って驚いた。朝日新聞入社前から私は彼女を知っていたため、政治家になるようなタイプではないと思っていたのだ。ジャーナリストの志もなかったのだろうか。残念だ。
▽東京10区から国民民主党候補として立候補した。比例区でも重複で1位となって掲載されている。
▽私が東京本社にいて、高校野球を担当している時だった。全国各地で始まった高校野球地方大会の試合結果をテレビや関係部局に伝えるため、多数のアルバイトが必要となった。このため、翌年に入社する新人記者をアルバイトとして採用することにした。その中に彼女もいた。
▽彼女は入社後、神戸支局を振り出しに金沢支局、大阪社会部、東京政治部に異動した。阪神大震災の時には、私が神戸支局に出張で行った時に再会したのが最後だった。その後、彼女は本社GLOBE編集部に異動になり、しばらくしてから、報道ステーションのコメンテーターとして登場した。外部から見れば、トントンと出世していった。
▽しかし周囲の評価は芳しくなかった。
「記者としてはせいぜい6年生か7年生というレベルだった」
と、元上司は酷評した。新聞記者として訓練もされず、実績がないままの出世に、実力がついていなかった。
▽テレビコメンテーターとしての発言も内容は曖昧で不正確だった。評判は良くなかった。コメンテーターの仕事は短期間で終わり、その後は朝日新聞記者としては戻れず、朝日新聞デジタルの部門に配属されていた。だからここ数年はほとんど記事を書いていなかった。
▽退職は昨年(2025年)5月だった。もう何年も記事を書かないまま、会社を去ったことになる。
▽彼女を持ち上げて出世させた朝日新聞の当時の編集幹部は、その後テレビ朝日に移り、その幹部の尽力でコメンテーターにもなった。その幹部がいなくなったことで、彼女にかけられていた梯子も外されたことになる。
▽新聞記者としてはここ何年も記事を書いていなかったし、どうしているのだろうかと私は思っていた。それが突然の立候補で私は驚いたのだ。編集現場には戻れないことを悟って、退職したのだろうか。それともかなり以前から、国民民主党との接触があったのだろうか。
▽朝日新聞記者が政治家になることは、過去にも何回もある。しかし、新聞記者が目指すものと政治家が目指すものは全く違う。正反対だ。ジャーナリストはあくまでも反権力がスタンスだ。彼女はジャーナリストの志を捨ててしまったのか。それとも元々志がなかったのだろうか。しかも自民党と親和性が高い国民民主党からの立候補と聞いて驚く。
▽過去ならば、朝日新聞記者が選挙に立候補した場合だと、テレビや週刊誌が飛びついて、色々と話題となるが、今回はその話題にもなっていない。無視された存在になっている。今後、国民民主党が、自民党と連立を組む場合、彼女はどんな政治家を歩むのだろうか。想像してみたいが、怖い気がする。
▽新聞記者だったならば、そして政治部記者だったなら、自民党政治の怖さ、ずるさ、ずさんさを知っていたはずなのに、政治家を目指すというのだろうか。
▽立候補したと聞いて、私はそんな感想を持ってしまった。驚くしかなかった。残念だと思った。それでも政治家になりたいのだろうか。
★819戦前の日本の暗部を描く映画(2026/01/29掲載)
▽すさまじい内容の映画だった。「金子文子 何が私をこうさせたか」。戦前の日本と韓国を舞台に、天皇制社会の批判を続けた金子文子という女性の獄中での戦いを描いた作品だ。出演者の演技力も抜群で、緊迫したシーンが続く。
▽私は日本映画ペンクラブの知り合いの紹介で、この映画を見た。
▽まずは金子文子について、配給元が出しているチラシなどを元に紹介しよう。
《約100年前に日本の国家権力に全力で抗った虚無主義者・無政府主義者の金子文子を主人公に、死刑判決から獄中での自死に至るまでの121日間を描いた伝記ドラマ。「雪子さんの足音」などの女性監督・浜野佐知が、金子文子の生の声を伝える短歌をもとに、彼女の孤独な闘いを描き出す》
《1903年に生まれた金子文子は、父親が出生届を出さなかったため「無籍者」として育ち、9歳の時に朝鮮半島で暮らす祖母と叔母の家に引き取られた。植民地である朝鮮の村人たちを搾取する祖母一家から奴隷同然の虐待を受け、1919年には朝鮮の三・一独立運動を目撃。16歳で山梨の母の実家に戻され、その後東京で苦学した文子は、思想的にはキリスト教から社会主義、無政府主義を経て虚無主義にたどり着いた。やがて彼女は、朝鮮で独立運動に身を投じ日本に逃れて来た朴烈と出会う。同志にして恋人となった2人は、日本の帝国主義・植民地主義を批判する活動に奔走するが、1923年の関東大震災の際に検束され、死刑判決を受ける。その後、恩赦により無期懲役に減刑され栃木女子刑務所へ送られた文子は、たったひとりの獄中闘争を続けるが……》
▽映画はこの金子文子が、皇太子を狙った犯行で反逆罪などの罪に問われて、死刑判決が出たところからスタートする。死刑判決は皇太子の恩赦で減刑され、無期懲役囚となる。死刑判決を受けた人間は死刑が執行されない限り、未決囚扱いだが、無期懲役刑に減刑されたことが、確定囚となり、拘置所から宇都宮刑務所栃木支所に移送されて、ここでの獄中逃闘争が始まる。
▽彼女の主張はシンプルだ。天皇制社会こそ、悪であり、それを打破すること。このため減刑で死刑を逃れたことに対する感謝は全くなく、刑務所側が彼女に要求する転向声明も拒否し続けた。虚無主義、無政府主義など、彼女の獄中闘争は信念の元に続けられた。身柄を拘束され、断食も続けて、国家に抗う闘いを続けた。それでも文子は抵抗を止めなかった。すべてが国家権力の側にあり、それを身体で張って抵抗を続けた。
▽文子の元には、特攻警察の幹部も来て、転向声明を書かせるよう強要するがこれも拒否。刑務所の所長は、受刑者の教育という意味において、この特高警察の態度にも反発を強める。文子に接触する女性刑務官たちも、次第に文子に同情していくのだ。それぞれの出演者の個性が出て面白かった。
▽さらには戦前の代表的なクーデターである二・二六事件の思想的首謀者である北一輝まで登場させて、文子の獄中闘争に政治まで絡んでいくストーリーに仕立てた。
▽最後は文子が獄中で自殺するシーンで終わる。映画ではなぜ自殺したのかを丁寧に追っていく。また文子が獄中で書いたと見られる短歌を、獄中の描写の中で紹介し、彼女の当時も心情を紹介している。
▽監督・浜野佐知は試写会後のトークでこう言い切った。
「文子という爆弾を現代に投げかけた」
▽戦前も今の時代も不安な中で、100年前の彼女の生き方を見てほしいのだろう。
《菜葉菜が主演を務め、最後まで国家権力に反逆した文子の魂の叫びを体現。小林且弥が朴烈を演じ、三浦誠己、洞口依子、吉行和子が共演》
▽今年(2026年)2月28日から、東京・渋谷のユーロスペースなど全国で順次公開する。
▽ぜひ見てほしい映画だ。
★817最後まで生き残ったフリーライターは少ない(2026/01/27掲載)
▽私は学生時代、フリーライターに憧れて、フリーライターの真似事をしていた。そんな時に何人もの先輩と知り合い、色々と教えてもらったが、最後までフリーライターとして生き残った人は少なかった。それだけ日本のマスコミ業界は、フリーライターが生き残るには難しい世界なのだ。
▽Hさん。私が学生時代に知り合ったフリーライターの一人だ。雑誌の下請けプロダクションに入っており、原稿を書き、原稿料をもらい生活していた。しかし、40歳近くになり、フリーライターを辞めて、サラリーマンになった。原稿料だけでは食えないと判断したと言う。
▽Kさん。米軍機墜落事故や濁流で都市が全滅した災害のルポなどを書いた人で、硬派のフリーライターだった。何冊か本も大手出版社から出していた。しかし、ある時を境に、故郷に帰り、中古自動車の経営に関わるようになった。フリーライターは完全にやめてしまった。
▽Mさんもまた30代後半でフリーライターをやめた。フリーライター稼業をやめて、何と僧侶になっていた。やはり原稿料だけでは生活できないと判断したためだ。
▽当時フリーライターは2種類の世界があった。完全に独立して1人で働くライター稼業。雑誌の下請けプロダクションに入り、そこで働く。そのどちらかだった。どちらにせよ原稿料や給料はそんなに高くなかった。
▽原稿料は当時、400字詰め原稿用紙で1枚1000円から数千円と言われた時代だ。例え100枚書いたとしても、数十万円にしかならない。ここから取材費として移動費などを出せば、手元に残る金は少ない。
▽当時、私の親しい朝日新聞のベテラン記者がこんなことを言っていた。
「日本のマスコミでフリーライターとして生きる素地は少ない。フリーとして食べることは出来ない」
▽私が最終的にフリーライターを断念したのは、この指摘による。新聞記者ならば、取材費は会社から出る。給料も出る。しかしフリーライターは不安定だと言うのだ。
▽私が新聞社を選んだのはこうしたフリーライターの世界を知ったためでもある。
▽ではあれから40年以上経った現在はどうだろうか。
▽紙に印刷された紙媒体は少なくなった。週刊誌は減り、月刊誌は亡くなり、書籍の部数も減っている。フリーライターの活躍する場はさらに狭くなっている。
▽さらに言うと、原稿料もほとんど上がっていないのだ。
▽つい最近も、知り合いのライターからこんな話を聞いた。
「出版社もなかなか本を出してくれないし、発行部数も激減した。しかも印税も低くなってしまった」
▽以前なら硬派の書籍なら数千部から1万部を発行していたが、最近は1000部どころかわずか500部に落ちているという。本の流通が出来ていないのだ。
▽しかも印税は10%が3〜5%に落とされているというから、いくら本を出版しても、著者に入る印税はわずか数万円にしかならないのだ。以前より、フリーライターの置かれた環境は悪化していると言っていい。
▽インターネットの出現で、原稿は安く叩かれ、書いても書いても原稿料は増えない仕組みが出来上がってしまった。
▽日本で純粋にフリーライターと称して生きている人が今どのぐらいいるだろうか。なんか寂しくなる現状だ。
★814独り言が多くなった私の運転(2026/01/22掲載)
▽マイカーを運転していると、私は独り言を言うことが多くなった。運転していて、下手くそな運転、マナー運転に遭遇すると、「下手くそ!」とやや怒ったような独り言を言ってしまうのだ。人間性が悪くなったのか、年を取ったためなのか。ここ数年酷くなっている自分に気づく。
▽私の独り言は、市街地やバイパス、高速道を運転していて、他人の下手くそな運転の車に遭遇した時に出る。
▽脇道から一時停止もしないで急に出てきた車に対してはこんなことを言っている。
「危ない!▽一時停止しろよ!▽下手くそ!」
▽まさに危険な車でぶつかりそうになり、ハンドルを切るか、ブレーキをかけるしかないのだ。左右を全然見てないで脇道から出てくる。非常に危険なのだ。
▽前の車が道路左の店の駐車場に入る際、店の駐車場から逆に出てくる車がこちらを確認せずに、急に道路に侵入した時も言う。
「よく見ろよ!▽こっちが走ってんだろ!▽信じられない」
▽右をよく見てないで、後続車の確認もしないで出てくる車だ。特に主婦が多い。
▽狭い一般道で対向車が道路のど真ん中を走っている時もこんなことを言っている。
「ちゃんと左を走れよ!▽ぶつかるだろう!}
▽こういう時は、実は対抗策がある。私も自分の車を真ん中に寄せて走らせるのだ。相手に危険性を知らせることになる。そうすると相手は慌てて車を左に寄せる。「目には目を」という論理の運転だ。ただしこれは危険を伴うこともあるので、他人にはお勧めできない。
▽高速道路では車線変更する際に、ウインカーを出さないドライバーもいる。私が追い越し車線を走っていて、左の通常車線から追い越し車線にウインカーを出さずに急に車線変更する車がある。こういう時も私は独り言をつぶやいている。
「危ないだろ!▽どこを見てるんだ!▽アホ!」
▽高速道路は速度が出ているので、ちょっとした不注意が交通事故を誘う。危険だ。
▽交差点で赤信号が点滅し、一時停止しなければならないのに、一時停止せずに出てきた車に遭遇した時もこんな独り言を言ってる。
「危ない!▽赤信号の点滅信号の意味がわからないのか!」
▽こちらは黄色の信号点滅で、注意しながら進むことができるというのが、道交法の規則で決まっている。赤信号を点滅の意味がわかんないドライバーが時折いるので驚く。
▽先日の首都高ではこんなこともあった。走行車線を走っていて、右後ろからの追い越し車線の黒い外車が追い抜いていった。ラインをはみ出しており、危険だと思ったので、先に行かせた。その車は私の車を追い抜いた直後に、強引に私の走っている通常の左車線に割り込み、そしてインターの出口に出ていった。危険な運転だった。この時も私は独り言を言っていた。
「バカドライバー!▽下手くそ!」
▽首都高は一般の高速道と違って路肩がなく、狭い空間となっているため、危険と隣り合わせだ。こんな車に遭遇したくないと思った。
▽お年寄りの車の運転にも、いらつくことがある。制限速度以下でノロノロと走っていて、後ろの車が数珠つなぎになっている。確かに、安全運転は安全運転だが、これも他人には迷惑な運転だ。この時もつぶやいている。
「もう一般道を走るのはやめて欲しい」
▽このようにして、私はマイカー運転すると、こんな独り言を話すようになってしまった。
▽マイカーに取り付けたドライブレコーダーでは、こうした私のひどい独り言の発言が録音されているのだろう。万が一、私が事故にあったら、こんな録音された私の独り言を、警察は心証を悪くするだけだろうな。
▽独り言をなくしたいが、ついついしゃべってしまう自分がいる。情けない。
★808格安航空券と成田空港と全日空優待券(2026/01/14掲載)
▽私は毎年夏になると北海道小樽市に遊びに行く。小樽市は私が新聞記者のスタートした最初の赴任地だ。第2の故郷でもある。その際利用するのが、LCC、格安航空会社の飛行機だ。なぜこんなに安いのかといつも驚く。
▽以前は羽田空港から新千歳空港まで、全日空や日航を使っていた。往復で6万円近くもかかった。それが格安航空会社の飛行機だと、往復でも1万円で済むのだ。これは驚くしかない。
▽ただし羽田空港からの出発便はなく、成田空港からの出発便だ。私の自宅があるさいたま市からだと、武蔵野線と京成電鉄のアクセス特急を使って成田空港まで行く。1時間半以上かかる。乗車券だけで済むから、料金は高くはないが、やや遠い。
▽以前はこのアクセス特急は利用者が少なく、車内は余裕があってロングシートの座席に座れたのに、最近は来日した外国人らが使うようになって、非常に混むようになった。しかも大きな大型のキャリーバックを持っている客が多いため、乗客とキャリーバッグで車内が埋まっている。満杯状態になっている。特にこの1〜2年はそうした傾向が強い。だから成田空港まで行く車内は座れることが少なくなった。帰りも異様に混んでおり、座れることはなくなった。
▽こんな思いをしながら、格安航空に乗るのだが、成田空港の出発ロビーも遠くにあり、歩く時間も長い。バスもあるが、夏に歩くと、汗だくになってくる。通路にエアコンは入っていない。手荷物検査もうっとうしい。最近はズボンのベルトまで外すよう言われる。手荷物のバッグの重さも7キロまでという制限もある。飲み物の配布など機内サービスもない。それでもチケットの安さもあって、格安航空を利用する客は確実に増えている。
▽成田空港がかつて三里塚闘争の現場であることを知っている人間は少なくなった。成田空港を敢えて使わない、という人間もいることは私も知っている。それでも使ってしまうことで、罪悪感は薄れている。
▽新千歳空港との往復で思い出すのは、朝日新聞が全日空の株主であることを初めて知った時のことだ。株主優待券があり、飛行機代は、優待券があれば半額になった。しかし、社員に周知することもなく、優待券の存在を私が知ったのは、私が朝日新聞を入社してから20年が経った時だった。北海道報道部時代で、経費のために東京への出張はこの株主優待券を使え、という会社からの指示があったためだ。
▽そんな優待券があると私は初めて知った。
▽ではそれまで優待券はだれが使っていたのだろうか。そんな疑問が湧いた。そう、この優待券を入手できる一部の幹部や社員が勝手に使っていたらしい。中にはこの優待券で海外出張をして、全額を実費請求していた人間もいたことが分かった。リクルート事件のリクルート幹部の妻だった。しかし、その処分はなかった。
▽格安航空券での格安飛行機に乗ってしまうと、そうした朝日新聞記者時代の全日空優待券の話を常に思い出してしまう。
【再掲載】774街の声とSNSのコメント、何が違うのか(2025/11/24掲載・2026/01/13日再掲載)
▽社会的に大事件や大問題が発生すると、マスコミの多くはそれを報道するとともに、国内の世間の反応を探ろうとする。新聞やテレビだったら、街の声を拾うが、スポーツ新聞や出版社などはインターネットを通じて、SNSの投稿をピックアップする。同じような作業に見えるが、私から言えば全く違う。一方は労力をかけて取材するのに対して、もう一方は手抜きでこたつ記事を書いているだけなのだ。裏も取れないコメントを紹介することが、報道と言えるのかどうか。私は疑問に思う。
▽私は40年間、新聞社に勤務していた。何か事件や事故、話題物が起きると、街の声を拾うよう、本社や地方支局デスクから指示が飛んできた。
▽例えば総理大臣が突然退陣し、新しい政権が出来ようとする。スポーツ選手が快挙を成し遂げたとする。作家が有名な賞を取ったとする。株価が急落したとする。その時、世間の反応はどうか、私の地方支局管内の街の声を拾う。そのためには支局から出て、街を歩いている人や、駅前の声、公共施設での声を拾うために取材をしてきた。その際、取材相手の本名と住所、生年月日なども聞いて裏付けを取る。相手が嫌がる場合は、本名を聞いた上で、匿名にする。取材拒否されたら、それまでだ。この作業はかなり時間がかかるし、厄介な作業だった。街の声を取材するのは、簡単に思われるが、時間がかかるし、結構しんどい仕事だった。
▽テレビ局は全国各地の駅前での声を拾うが、名前や住所、年齢などは聞いていない。これが新聞とテレビの違いだろう。
▽しかしインターネット用の記事をアップするスポーツ新聞や出版社系列のネットは全く違う。反応を書くのは、SNSで発信されたコメントを紹介しているだけだ。こんなコメントが載っているとだけ書いて、全く取材をしていないし、当然ながら、その発信元の裏付けはしていない。
▽SNSだから、発信した本人が自主的に書いているだけで、しかも匿名だから、いい加減なものも多い。本名も住所も年齢も連絡先も書いていない。こんな匿名のコメントを頼りにインターネット上では、「世間の声」として拾っている。
▽私からすれば、いい加減なコメントしか集めてしかない。こたつ取材、こたつ記事と言えるゆえんだ。
▽つまり新聞社が紙面化する街の声と、インターネット上のSNSのコメントでは、全く質が違うし、発言者の責任の重みが違うのだ。声なき声を拾うのではなく、インターネット上は自主的に発信されたコメントだけに過ぎないのだ。これには様々な意図が隠されているかもしれないので、世間の声とは言えないのではないだろうか。私はこのことに危機感を持っている。
▽こんなものがこたつ記事として紹介されて、「世間の声」として言うんだったら、間違いなく世論を間違った方に誘導していくだけだ。
▽ヤフコメが問題になっているのは、もう何年も前からだ。意図的に大量に作られたコメントが多く、一方的な「政権批判への非難」だ。政権批判をすれば、すぐ「サヨク」と攻撃してくる。政権擁護するコメントばっかり並んでいる。こんなものを、「街の声」とは考えたくない。
▽閲覧数稼ぎのコメントを紹介することを、スポーツ新聞や出版社はもうやめたほうが良い。足で稼ぐコメントを拾ってきてもらいたい。
★806真冬のジョギングで使ってきたユニクロとワークマンの下着(2026/01/09掲載)
▽冬のジョギングで大切なのは、服装だ。寒さ対策で下着も上着であるウインドブレーカーも厚手になりやすいが、逆に厚着になると走りにくくなる。薄着だと寒くて仕方ない。以下は私の経験則から、服装のアドバイスをしたい。
▽まずは私のジョギング歴から。
▽一時期を除いて、社会人になってからも、ほぼ毎朝走っている。1時間ほどのジョギングで、11~15キロぐらいだ。
▽夏は短パンに半袖シャツという服装。夏はウインドブレーカーだ。
▽問題はこの冬の服装だ。冬の関東他方は空っ風が吹く。最低気温が零度から零下5度まで下がる。当然寒い。風も強いので、私はウインドブレーカー上下を着ている。
▽ウインドブレーカーは厚手のものではなく、秋、冬で使えるものでいい。厚手だと走りにくい。
▽問題は、このウインドブレーカーの下に、何を着ていくか、だ。
▽私は群馬県勤務時代に出会ったユニクロの下着、ヒートテックをずっと愛用してきた。それまではスポーツ店で買った専用の下着を使ってきたが、防寒対策はお粗末だった。走っているうちに、次第に身体が寒くなってくるのだ。スポーツメーカーの下着は使わない方がいい。
▽ヒートテックの良さは、汗が出てても、保水力があり、発汗が続いても、その汗が冷たくなることがあまりないのだ。冬でもジョギングをすれば、汗は出てくる。その汗が寒気に触れれば、一気に冷たくなる。それをヒートテックの下着は防いでくれた。冬のジョギングに向いている下着だった。
▽この事実を発見して以来、私はヒートテックの下着を身につけて、ジョギングをするようになった。
▽ヒートテックの下着はその後、やや厚手のものと、厚手のものの3種類が売られるようになり、寒さに対応するようになった。私もこの3種類のヒートテックの下着を何枚も持つようになった。もう何枚も何枚も買った。だから自宅には現在、30枚ほどのヒートテックの下着がある。
▽このヒートテックの上に、ジャージの上着を中敷きとして着込む。さらにウインドブレーカー上下を着る。つまり上半身を見る限り、ヒートテックの下着とウインドブレーカーの間に、ジャージがある。このジャージは、ウインドブレーカー内部の冷たくない空気を保つために必要なもので、私は、中敷きとして使ってきた。
▽この服装で、20年間以上、雪国でも走ってきた。ジョギングとユニクロのヒートテックは相性が良いのだ。
▽そして、数年前。今度はワークマンの下着に出会った。
▽これは埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していた時に知り合ったジョギング仲間から教えてもらったもので、
「ユニクロのヒートテックより、ジョギングに優れている」
と助言された。
▽実際に使ってみると、冬の保温性に優れていて、しかも安い。ユニクロより半額で購入できたのだ。
▽それ以来、私は、冬のジョギングではユニクロの下着とワークマンの下着を交互で使い続けている。
▽ユニクロの下着が劣化していけば、少しずつ数枚ずつ捨てて、ワークマンのシャツに入れ替わることになる。ユニクロの最近のヒートテックはかなり高額になってしまったことも大きい。
▽こんにちは、ユニクロさん。さようならユニクロさん。そしてこんにちは、ワークマンさん、だな。
★805最近の車にはなぜスペアタイヤを積んでいないのだろうか(2026/01/08掲載)
▽最近の車にスペアタイヤが搭載されていないのはなぜか。私が所有しているスバルXVにも、スペアタイヤは積んでいない。万一のパンクの時は、応急修理キットで対応をうたっている。かなり不安だが、そのまま乗り続けている。
▽マイカーでさいたま市の自宅から千葉県木更津市に往復した時のことだ。高速道と一般道、山道を走らせた。さいたま市に戻り、ガソリンスタンドで給油した際に、従業員から、
「タイヤに釘が刺さっていますよ」
と言われた。確かに刺さっており、有料の応急処置をしてもらい、翌日ディーラーに持ち込んでタイヤ交換の注文した。タイヤ4本で約20万円の出費となった。痛いが仕方ないと思った。
▽タイヤは1本でもパンクすると、4本全部を交換する必要がある。1本だけ交換すると、車のバランスが悪くなるため、運転走行が不安委になるのを避ける必要がある。
▽その昔、私が東北地方で勤務していた時のパンク事故を思い出した。宮城県気仙沼市に向かっている時だった。大雨の中でマイカーがパンクした。乗っていた家族を近くの建物に避難させたうえで、パンクタイヤとスペアタイヤの交換作業をした。ジャッキでマイカー本体を上げて、タイヤを交換し、スペアタイヤを装着した。数百メートル、試運転をしてから、運転を再開した。大雨の中の作業で、今でもその作業を覚えている。ちょっと大変な作業だった。
▽スペアタイヤがあつたからこそ、出来たタイヤ交換だった。
▽だから、今のマイカーでタイヤ交換などが出来ないことに不安を持ってしまうのだ。
▽ネットの説明では、こうある。
《最近の車には、スペアタイヤの代わりに、パンク修理キットが搭載されています。パンクした場合は、パンク修理キットで応急処置をすれば、最寄りの修理工場やガソリンスタンドなど、パンク修理やタイヤ交換ができる場所までは走行できます》
《パンク修理キットは、タイヤの中に補修液を注入してパンク穴をふさぎ、電動のエアコンプレッサーで空気を入れるものが一般的です。パンクをしたときは、パンク修理キットを使って作業ができる安全な場所に車を停車させます。くぎやネジなどが刺さっている場合は、抜かないことが重要です》 ▽確かに私のスバルXVにもスペアタイヤはなかっだが、修理キットがあった。でも、この使い方が分からなかった。釘が刺さっているのを私が見つけても、一人で修理キットを使うことは出来ないので、結局はガソリンスタンドかディーラーに持ち込むしかなかっただろう。
▽ではなぜ、最近の車にスペアタイヤがないのだろうか。
▽ネットではこんな答えがあった。
《その理由として第一に挙げられるのは「スペアタイヤは重くてかさ張るから」で、荷室の容積や燃費などのスペックを少しでも良くするためには、スペアタイヤよりパンク修理キットを積むほうが有利となる》
《また、スペアタイヤはそのほとんどが一度も使われることなく廃棄されているため、環境への配慮という観点からもあまりよろしくない。女性や高齢者ドライバーにとっては交換作業の実施がほぼ不可能に近いという現実を鑑みても、現実的にあまり有効な装備ではなくなっている。JAFや保険会社によるロードサービス網の充実や、携帯電話の電波が届くエリアの拡大なども、スペアタイヤが撤廃される方向にある理由のひとつだろう》
《パンク応急修理キットも、サイドウォールなどトレッド面以外の損傷には対応できなかったり、やはり使い方がよくわからなかったり、使用期限切れで買い換える必要があるなどの問題点も多々あるが、先進国の舗装路でのパンクは、釘やネジなどの小さな金属片がトレッド面に刺さることによるものがほとんどなので、多くの場合はパンク応急修理キットで対応できている》
▽道路事情や車やタイヤの性能向上など、時代が変わったということなのだろうか。
★803速記記者と朝ドラ「あんぱん」主人公の妻(2026/01/06掲載)
▽NHK朝の連ドラ「あんぱん」に出てくる主人公の妻となる女性が速記を習い、それを武器に新聞社に入社するシーンが出てくる。新聞社にとって速記記者とはどういう存在なのか。
▽まずは速記者の定義から。
《速記(そっき)とは、速記文字や速記符号とよばれる特殊な記号を用いて、言葉を簡単な符号にして、人の発言などを書き記す方法をいう。主に議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで口述筆記する際に利用されている。この技術の知識体系を速記法、技術を運用する方法を速記術、実際に運用する者を速記者という》
▽新聞社にはかつて、速記記者が多数存在していた。取材のメモを取るのではない。そういう部門が本社にあった。
▽新聞記者が現場から原稿を送る場合、電話を使った。当時はインターネットどころか、パソコンもワープロも、そしてファックスもない時代だった。記者が書いた原稿を記者自身が電話で吹き込んだ。本社で電話を受けるのが速記記者たちだった。電話で受けた原稿を速記記者が特殊な記号で記録し、そしてそれを原稿用紙で日本語の文章に戻していく。そんな作業がずっと新聞社内部では続いていた。これが速記記者だった。
▽しかし時代とともに技術革新が進み、ファクスが登場し、速記記者は必要なくなった。ファクスの登場が、速記記者の居場所を奪った。
▽私が新聞業界に入った時、既に速記部門はなくなり、速記記者は配転転換して新聞社の別の部門に移っていた。だから私は本当の速記記者を相手に原稿を吹き込んだことはない。
▽ただし、入社した当時、私の上司であるデスクが元速記記者だったということもあり、原稿の吹き込みには助けられた。相手が速記記者でなければ、書いた原稿を少しずつ短く吹き込んで、原稿用紙にデスクが原稿にして書いていくのだ、元速速記記者だったため、通常の会話のスピードで吹き込むことができるのだ。これでずいぶん助かった思いがある。
▽そして新聞社では速記部門がなくなり、元速記記者はいなくなった。時代とともに技術革新で、新聞原稿の送り方が徐々に変化している。
▽朝ドラ「あんぱん」の主人公の場面を見て、そんな古い時代の一場面を思い出していた。
▽国会でも速記部門が廃止されたから、速記そのものを知っている人間は次第に少なくなっているのだろう。
★801気持ち悪い高市首相擁護の雑誌と右翼ジャーナリズム(2025/12/31)
▽高市政権発足前後から書店の店頭に、高市を擁護する雑誌が気持ち悪いほど並ぶようになった。よくもここまで、高市を擁護できるのかなと驚いている。
▽こうした雑誌は右派雑誌と呼ばれている。右派雑誌は昔からあったが、安倍政権が発足して以来、急に勢力を伸ばしてきた雑誌だ。安倍政権を批判するマスコミ、主に朝日新聞などを攻撃することを主な目的としている。
▽これは高市政権になってさらに元気が出てきたようで、高市政権を批判するマスコミは敵であり、このためには右派の論壇で朝日新聞と戦わなければならないという論理で言動を続けている。
▽政権を批判する朝日新聞などは左寄りのメディアだと主張し、このためには保守を自称する右派の人間が朝日新聞を批判しなければならないという論理で動いている。
▽笑ってしまうのは、安部は保守のアイドルであるとしていることだ。滅茶苦茶な論理で政権を運営し、数多くの悪法を成立させた安倍をアイドルだとする考え。安倍がアイドルか。驚くべき発想だ。そのアイドルをいじめている朝日新聞はケシカランという論理だ。
▽この論理こそが非常に子供じみている。ジャーナリズムの基本は権力批判だ。権力の暴走を防ぎ、権力を監視するのは当たり前だ。権力を批判するのが左派だとしたら、権力批判はすべて左派になってしまうではないか。保守の中にも安倍政権を批判する人間はいる。これらの人たちが左派のだろうか。
▽このように保守を自称する右派の連中は論理が滅茶苦茶だ。朝日新聞を批判するのが正しいと思い込んでいる。そして高市は安倍の後継者であり、戦前回帰を狙う高市を擁護し続けている。
▽例えば、「゛右翼〟雑誌の舞台裏」(梶原麻衣子、星海社新書)という新書がある。「Hanada」や「WiLL」という右翼雑誌を作ってきた花田紀凱の部下として働いてきた女性編集者が振り返ったのが本書だ。花田の考えや行動を分析しているが、かなり偏っていることがよくわかる内容だ。この女性編集者は自らを超右翼の人間を自称し、読者から編集部に入ったという経歴の持ち主だ。花田の下で働き、右翼雑誌作りをしていた。
▽この中で一番気になったのは、強権を発揮した第一次、第二次安倍政権を批判した朝日新聞などを、「左派ジャーナリズム」と称して、「安倍をいじめている」として、右翼や保守を扇動し、朝日新聞叩きを犬笛のようにやってきたことだ。
▽根本的なところで、誤っている。ジャーナリズムの本来の姿は権力を監視して、権力が暴走するならば批判することだ。これをこの編集者や右翼たちは、「安倍いじめだ」と論じ、その安倍いじめをしている朝日新聞を叩くという論法で雑誌作りをしていたことだ。これが暴走し、例えば日中戦争で大虐殺が行われた南京大虐殺について、「そんな事実はなかった」としたことにしているが、とんでもない事実誤認で、とんでもない発想なのだ。歴史的事実をなかったことにするという右翼と保守の論理。さらにいうなら、花田自身が安倍の応援団になってしまったことに危機感を覚える。
▽花田の雑誌コンセプトは、「面白ければ良いのだ」と。面白くて、雑誌が売れれば良いという論理で右翼を扇動し、論断を提供してきたのだと言う。笑ってしまった。雑誌編集者が政権に近いということに、この編集者は何の疑問も持っていないのだ。呆れてくる。
▽そのアイドルの安倍は統一教会の癒着を批判されて、最後は殺害された。統一教会と安倍、自民の癒着は右翼にとってどう映ったのだろうか。こうした雑誌は、この疑問に全く答えようとしない。安倍を擁護したいばかりに、朝日新聞批判が目的化しているだけだ。
▽私は33年間、朝日新聞に勤務していたが、朝日新聞がサヨクだと思ったことは一度もない。むしろ保守的な思想を持っている人間が多かった。朝日新聞がサヨクだというのは幻想だ。私自身、サヨクでもないし右翼でもない。ただし、権力批判は続けている。これはサヨクではなく、健全なジャーナリズム精神からだ。政権がサヨクになれば、例えば共産党が政権を取れば、当然朝日新聞は時には権力批判をするし、私も批判をするだろう。その時の朝日新聞はウヨクと呼ばれるのだろうか。
▽最近は「右派ジャーナリズム」「右翼ジャーナリズム」などという言葉も使われている。右翼ジャーナリズムという言葉には、相容れない単語がくっついている。ジャーナリズムとは権力批判をすることである。右翼とは権力を擁護する組織だ。相容れない言葉を作っているだけだ。
▽例えば警察官と泥棒がくっついて、泥棒警察官、または警察官泥棒と言っているようなものだ。
▽右翼の代名詞のようになっている自称ジャーナストの櫻井よしこなどはその典型だろう。ジャーナリストは本来権力者を監視するべきであるが、彼女は反対で権力を擁護し、絶賛している。こうした人間をジャーナリストと称して、雑誌に載せている発想が私には分からない。泥棒が警察官を名乗っているようなものだ。
▽その昔、月刊文藝春秋に、「グループ1984」というペンネームで、朝日新聞批判を続ける論文が頻繁に出た。だれが書いたか分からないが、匿名を理由に、サヨクの朝日新聞を批判する内容だった。言論の自由を踏みにじる記事だった。それから半世紀が経過し、同じ論理でサヨクを批判する雑誌が勢いを増している。自由や人権を奪った戦前に回帰させたいのだろうか。
▽最後に先日あった後援会の内容を紹介する。
▽埼玉・市民ジャーナリズム講座が今年(2025年)12月13日、さいたま市で開かれ、ジャーナリストで、元朝日新聞編集員の上丸洋市一氏が、「南京事件と新聞報道 記者たちは何を書き、何を書かなかったか」というテーマで講演した。
▽上丸氏は1937年12月、日本軍が中国。南京に侵攻し、兵士や市民を虐殺し略奪した南京大虐殺が、当時の新聞でどう報じられたかを検証する「南京事件と新聞報道」を出版した。
▽講演ではその内容を紹介。当時の朝日新聞や毎日新聞、地方新聞の記事を検証し、現地の特派員が書いて送った記事を紹介して、いかに大量の虐殺が行われていたかを強調した。
▽その描写が生々しい。武勇伝のように語られた虐殺も数多く、被害者は多数にのぼった。当時の新聞報道からして、検閲は間違いなくあるのだが、大量虐殺は歴史的事実だと強調した。
▽しかし戦後になって、それを否定する雑誌が出てきて、自称ルポライターなどが、否定する記事を載せていた。
▽上丸氏はこうした記事は嘘で固められており、虐殺はあったし、なかったことにはできないというのだ。文芸春秋などは嘘だと強調するが、否定できない事実だと改めて話した。
▽当時の新聞記者は軍隊に従軍し、現地の軍幹部から話を聞く手法で記事にしている。もちろん検閲はあったが、その検閲を通り抜けて虐殺の事実は伝わっているのだ。
▽それでも右派雑誌の人間は南京大虐殺を否定するのだろうか。
★800マックの買い換えには困った(2025/12/30掲載)
▽私が原稿の執筆などに使っているメインマシンであるMacMiniの買い替えを検討していて、困ったことを経験した。ヨドバシカメラに行って驚いた。SSDやメモリーの増設を発注すると、いつ届くか分からないと言うのだ。Apple商法の一端を垣間見た気分だった。
▽私がこれまで原稿の執筆などに使ってきたマシンは、「最後のインテルマック」というマシンで、MacMiniで、2018年製だ。
▽アップルはパソコンの心臓部であるCPUにインテル製の製品を使ってきた経緯があり、ユーザーの間では「インテルマック」と呼んでいた。それが、2020年ごろから、アップルはアップル独自のCPU「Mチップ」を開発し、その「Mチップ」を搭載したシリーズを売り出している。現在はM1から、M2に、そしてM3、最近はM5チップを搭載したマシンを売り出している。
▽私がアップルストアで最後のインテルマックと言われたMacMiniを購入したのは、私が朝日新聞を退社した直後の2021年9月。CPUにインテルチップを使い、インテル最後のインテルマックと言われた。メモリーを32ギガに、SSDを2テラバイト(TB)にして注文した。Mチップのマシンでは動かないアプリケーションも多くあり、インテルマックを選んだのは古いアプリを使いたかったためだ。またメモリーを増設したのは、パソコンの処理をスムーズにするためで、SSDの増設もデータを多く保持するためだ。
▽このMacMiniを使い始めてまもなく4年になる時だった。このホームページ作成もX(旧ツイッター)の作成も、趣味で撮影したカメラの画像もこのMacMiniで保存している。
▽このMacMiniを買い替えようと思ったのは、そろそろ古くなり、インターネットなどのパソコン環境が変わってきたためだ。サブマシンで使っているMacBookProもMチップとなっており、次第に処理速度の遅さが問題になって、買い替えを検討していた。
▽ヨドバシカメラに行ったのは理由がある。ここで購入すればポイントが10%付くと思ったからだ。30万から40万円もするパソコンで、10%のポイントが付くのだから、こうした店で買うのに越した事はない。アップルストアで直接購入しても定価のままだ。
▽しかし、店員に聞いて驚いた。一番新しいM4のMacMiniでメモリを32ギガ、SSDを2TBか4TBに増設した場合、注文してもいつ届くかわからないのと言うのだ。
「1カ月か2カ月先か分かりません」
と店員は言った。
▽さらにはポイントは10%ではなく数パーセントだとも言われた。
▽一方で、アップルはホームページのアップルストアで注文したら翌日には届けられる。
▽つまりアップルは、自社のホームページや直営のアップルストアではすぐに販売できるが、ヨドバシカメラなど直営でもない店では供給をきちんとしてないのだ。だから1カ月か2カ月先になるというのだ。
▽これがApple商法だ。アップルはアップルストアでの値引きは全くしていない。
▽しかもアップル製品は他のパソコンよりかなり高めに設定されている。処理速度が速いのでユーザは歓迎しているが、これでいいのかと思ってしまう。
▽すぐ欲しいなら、定価のままでアップルストアで注文するか、まだ先だと思えば、ずっと待って、ヨドバシカメラ経由で注文し、数パーセントのポイントをもらうか。
▽私はアップルユーザとなって既に30年以上経つが、こうしたアップル商法には時折、嫌気も差す。これが正直な感想だ。
▽さて、どうするか。
★798新聞記者の服装とブルージーン(2025/12/26掲載)
▽新聞記者の服装について改めて考えてみた。地方にいると、私は2021年8月を持って朝日新聞を退職したが、地方にいると、ジーン、特にブルージーンを履く中堅記者が目立つようになった。ちょっと違和感を持ったが、次第にそれも慣れてしまった。私も地方にいる時はジーンを履くことが多かったが、ブルージーンだけは避けていた。どうしても作業衣というイメージが強いためだった。
▽新聞記者の服装に決まり事はない。しかし、取材相手がいるため、取材相手に不快にならないような服装が大事だ。そして目立たないことも大事だと思う。
▽そのため、理想はワイシャツにネクタイ姿だ。しかし夏になるとネクタイは苦しい。ノーネクタイでも清潔感があれば問題はないと思っている。
▽私がネクタイ姿で勤務していたのは、朝日新聞では最初の振り出しである浦和支局(現さいたま総局)で、県警担当や県政担当をしている時だった。当然スーツ姿だった。夏には上着を脱いだが、それでもワイシャツにネクタイ姿だった。
▽しかし夏の暑い日に、地検幹部にこう言われたことがある。
「原君、そろそろネクタイを外してもいいんじゃないのかな」
▽その言葉を聞いて、私の夏の服装は、ノーネクタイとなった。
▽次にネクタイ姿になったのは、東京本社時代である。中央官庁を回っていたこともあって、ネクタイ姿を続けた。いわゆるスーツに革靴姿だった。
▽しかしこれも本社を出て、地方勤務になるとスーツは着用しなくなり、ラフな格好になった。夏はチノパン、秋、冬、春は黒いジーパンとなった。黒のジーパンは目立たないのでいいと思った。
▽何回も書くが、取材をするのだから、相手が不愉快な服装でなければ良いと私は思っている。
▽だからどうしてもブルージーンは私には駄目だった。作業衣のイメージが強すぎて、どうも取材の服装とするには躊躇していた。
▽だから、最後の勤務地である埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局では、同業他社の多くの中堅記者がブルージーンを履いていて、私には馴染めなかった。
▽以上の話は男性の私の服装の考え方である。女性はまた違った考えを持ってるだろう。
▽地方では女性はパンツルックか、ブルージーンの記者が多かったように思う。男性でも女性でも、取材相手が不快にならないような服装だったら良いのだと私は思うのだ。
▽ただし、例外も当然ある。高校野球の取材だ。砂埃が舞う球場の取材では、泥土が服装につきまとう。この場合、スーツでの取材などあり得ない。ブルージーンでいい。ただし私はチノパンで通した。
★795プラットフォームの記事の危険性(2025/12/23掲載)
▽ヤフーに代表されるプラットフォームのホームページに掲載される各種記事。新聞社のように取材して書いた記事もあれば、出所が不明な記事も多い。こたつ記事もある。私はこうしたプラットフォームのあり方にある種、危機感を持っていたが、この危機感を解説してくれる著書に出会った。
▽「新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと」(斉藤友彦、集英社新書)という、長いタイトルの新書を読んだ。筆者は共同通信記者からデスクなどを経て、デジタル担当部長になった人物で、ネット上に配信する長い文章の記事を、どうすればネットの読者に読ませるかを説いた内容だが、最後の最後に大手メディアとインターネット上の記事の違いを述べて、危機感を訴えているのが印象的だ。
《書かれている記事の中身を見ていると「一次情報」がまったくない記事も多い。それが目立つのは、あまり聞いたことがない発信元が出している記事だ》
▽一次情報とは、その発信元が直接取材をして得た情報を指す。新聞やテレビといった既存のメディアが、様々な批判を受けながらも一定の信頼を得ているのは、自社の記者が取材した一次情報を核として記事を作っているからだ。
▽これがないということは、取材をせずに書いた記事、あるいは別の誰かが取材した内容を引用して、つまり二次情報で書いた記事という意味になる。二次情報だけで書かれたこうした記事は、俗に「こたつ記事」とも呼ばれる。この言葉は、筆者がどこにも行かず、こたつに入ったままで作った記事ということから来ているという》
▽安易な閲覧数稼ぎを目的としたこたつ記事をよく見かけるが、危険な兆候なのだ。
▽そして筆者はこう指摘する。
《これが政治や経済、社会には影響を与える、ある程度硬派な内容で、それが二次情報だけで作られた記事だったとしたら、問題が変わってくる。新聞やテレビといった既存のメディアがこのまま衰退して存在しなくなれば、ネットのプラットフォームホーム上に並ぶ記事の多くは、二次情報のものだらけということになるからだ。あるいは、一次情報がなくなることで、二次情報かどうかすら定かでない、どこで誰が言ったかあやふやな内容の記事があふれることになる》
▽さらにこの筆者は続ける。
《あらゆる情報において、それが真実なのかフェイクなのか分からなくなる恐れが以前より格段に大きくなった。フェイクを防ぐ、あるいはフェイクであることを確認するには、一次情報によって発信し続けるメディアの存在が欠かせない》
▽そう、ヤフーに代表されるプラットホーム上の記事は玉成混交というより、偽情報、二次情報で溢れており、これを信じて個人がSNSでさらに発信するという危険な状態に陥っている。そのことを筆者は指摘しているのだ。
▽そして一次情報を元に発信した新聞社などの記事が埋没していくことに、私も危機感を持っている。
▽偽情報で生命が犯される危険と出会っても、ヤフーは責任を取らない偽情報が拡散してもヤフーは責任がないと言い切る。
▽こういう時代だからこそ、一次情報を元に発信するメディアはなくしてはならないのだ。
★793連続幼女誘拐殺人事件で容疑者宮崎勤が乗っていた車種を間違えた埼玉県警(2025/12/19掲載)
▽私のホームページで連載を続けている「沈黙を破る」は1988〜1989年に発生した連続幼女誘拐殺人事件を詳細に振り返ったものだが、デイリー新潮が2024年9月8日に配信した《【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話》は、容疑者の宮﨑勤が乗っていたクルマを最後まで突き止められなかった埼玉県警の内部情報を伝えている。私の著書からも引用して、その理由を検証している。
▽私のペンネームで書いた著書「埼玉県警VS今田勇子」と、私のホームページの連載でも書いているが、最後の最後まで埼玉県警が間違った判断をして、宮崎勤の車にたどり着けなかった話を、デイリー新潮が再度振り返っているので、全文を紹介したい。
▽以下はそのネットに出た記事全文だ。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/8fa0bf2f61c3ac67b09b7c9518576a60f2c5f4e6
【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話
9/8(日)▽11:12配信
紺の日産ラングレー
▽その車は1審判決を控えた1997年4月になっても、かつて捜査本部が置かれていた埼玉県警狭山署の倉庫に保管されたままだった。
「ボクの車を返して欲しい」
▽法廷で何度か言及した自分の車、紺の日産ラングレー。全ての事件でこの車が使用されており、被害者に手を下した現場にもなった。今から35年前の夏、日本列島は、この男の起こした事件の話題でもちきりとなった。
「広域にわたる連続幼女誘拐殺人並びに死体遺棄事件」(警察庁指定117号事件)である。宮崎勤死刑囚(2008年6月17日死刑執行、享年45)は、4人の幼女を誘拐して殺害し、遺体を損壊して遺棄するという、
〈我が国の犯罪史上にも例を見ない、極めて残忍非道で社会的反響の大きい重要凶悪事件であった。その凶悪性、残忍性は、幼い子をもつ家庭はもとより全国民に大きな不安と衝撃を与えた〉(「刑事警察史(事件編)」警察庁の資料より)
▽被害者の遺骨を自宅に送りつけたり、「今田勇子」名で犯行声明文を出したり……異様な犯行に、大捜査を展開した埼玉県警と警視庁だが、宮崎死刑囚の車を巡って、捜査は二転三転してしまう。関係者の証言や資料から、その舞台裏を紐解いてみたい。
八王子ナンバーのツーボックスカー
▽事件経過と被害者を一覧にすると、以下のようになる。事件はまず埼玉県内で起こり、東京へと移っていく。
(1)1988(昭和63)年8月22日。埼玉県入間市の4歳女児。
(2)同年10月3日。埼玉県飯能市の7歳女児。
(3)同年12月9日。埼玉県川越市の4歳女児。
(4)89(平成元)年6月6日。東京都江東区の5歳女児。
▽埼玉県警では、半年の間に県西部で3人の女児が行方不明になるという事態に、本部長直轄の対策本部を設置していたが、88年12月15日、(3)事件の被害者の遺体が埼玉県名栗村の山林で発見された。
「現場検証の結果、県警鑑識課が近くの道路の側溝に車の脱輪痕を発見しました。さらに、事件当日の深夜、その場所で右前輪を側溝に落とした車があり、通りがかった別のドライバーが発見しました。しばらくすると、脱輪車のドライバーが山から下りて来て、動かせないというので、車を動かすのを手伝ったというのです」(当時の埼玉県警捜査員)
▽通りがかった車にはドライバーと友人が乗っており、独りが運転席に、もう一人が車の後部を押して脱輪したタイヤを側溝から出したが、男は礼も言わずに立ち去ったという。
▽宮崎死刑囚は警視庁に提出した上申書の中で〈死体を捨てる場所を探しているうちに車輪の一個がみぞにはまった。死体を捨てて戻ると二人ぐらいの男がいて、一人が車を運転して助けてくれた〉と書いている。この、運転席で車を動かした人は、ディーラー勤務のある自動車修理工だったという。
〈二人の証言から一致したのは、車両の形がツーボックスカーだったことだ。ツーボックスカーは、各メーカーから多くの車種が出ている(略)。目撃した会社員のうち、一人が車に乗って、一人が後ろから押して手助けしたが、車に乗った運転席の感覚から、「トヨタ系の車両に間違いない」と県警捜査員の事情聴取に答えた。その証言を元に、県警はハンドルや計器類、ギアチェンジレバー、サイドブレーキ、ウインカーなどの位置を何回も確認した。そのうえで、「車種はトヨタ・カローラIIか同じトヨタ系のコルサまたはターセル」と断定したのだった〉(大和田徹著『今田勇子vs.警察』三一書房)
▽さらにその後の調べで「紺と銀色のハッチバック車で、カローラIIの可能性が高い」となったが、ナンバーは覚えておらず、「八王子だったかもしれない」とのことだった。だが、有力証言であることは間違いない。同車種の所有者の洗い出しが極秘で始まった。
警視庁の極秘捜査
▽年が明けた89年2月6日、(1)事件の被害者宅に、焼かれた遺骨が送りつけられ(後に被害者の遺骨と断定)、同10、11日には犯行声明文が被害者宅と朝日新聞社に届いた。
▽前出の警察庁資料によると、一連の事件捜査や総合対策のため、警察庁の指導調整により栃木、茨城、群馬、神奈川、警視庁の各警察から、事件の主要舞台になっている埼玉県警へ、三次にわたり応援部隊が派遣されていた。
▽3月に入り、警視庁は立川市にある第4機動隊舎内に「埼玉県警支援捜査班」を極秘で設置した。埼玉県警からの捜査支援要請は、朝日新聞社に送られた犯行声明文の消印が青梅だったので、使用された封筒の販売ルートなどの捜査に加え、重要な目撃情報の裏付けがあった。
▽2月6日未明に被害者宅に遺骨が送りつけられた際、新聞配達員が不審な車を目撃していた。時間は午前3時、車種は黒のホンダ・プレリュード。ヘッドライトを消し、人が歩くくらいの速度で、被害者宅の方向へ走って行ったという。
「この配達員も車が好きで、車種も色もよく覚えていたのです。ナンバーは詳細まで記憶していなかったのですが、3ケタであることは覚えていました。この当時、3ケタのナンバーというと、85年2月に開設された八王子ナンバーの可能性が極めて高い。そこで、八王子ナンバーの黒のプレリュードを洗うことになったのです」(当時の警視庁捜査一課幹部)
▽埼玉県警がカローラIIを水面下で追っていることは、警視庁に提報されることはなかった。双方とも、車の割り出しから「今田勇子」につながると信じていた。その後、一部報道で埼玉県警がカローラIIを追っていることが明るみに出ても、県警から警視庁への説明はなかったという。
▽そして、警視庁管内で(4)の事件が起きる。
6000本のビデオ解析
▽元警視庁捜査四課刑事だった古賀一馬氏は、(4)事件の発生を受けて、警視庁深川署に設置された捜査本部へ応援派遣された。聞き込み要員は50組100人。犯行に使われた車を割り出す要員だけで2、30組はいたという。
〈周辺で動いた車は全部高速道路の入り口などに置かれているカメラ「Nヒット」でナンバーが撮ってあったから、これを一台一台確認していくのである。私が一課に行ったときは、一般職の専門家がやって来て、車のナンバーは全部出されていた。一万台はあっただろう。宮崎が犯行に使った車は紺のラングレーだったが、八百台ぐらいつぶし確認をしたところで、宮崎は別件で八王子で逮捕されている〉(古賀一馬『警察官の掟▽粘る▽怒鳴る▽突っ込む――刑事たちの表とウラ』三笠書房)
▽宮崎死刑囚は89年7月23日、八王子市内で幼女に対する強制わいせつ事件を起こし、警視庁八王子署に逮捕された。犯行手口や生活環境などから警視庁捜査一課は自宅を家宅捜索。8月7日に逮捕容疑で起訴し、9日に(4)事件当日のアリバイなどを追及したところ、犯行を自供。翌10日に供述通り女児の遺体を発見したことから11日、(4)事件の被疑者として逮捕した。
▽その後の調べで分かったことだが、宮崎死刑囚は西多摩郡(当時)の自宅から、江東区の現場まで高速道路を使用せず、ひたすら一般道を走っていた。その理由は、当時、片道で2千数百円だった高速代が「もったいない。ビデオテープを買った方がいい」というものだった。
〈最も大変だったのは、押収した六千本のビデオの分析だった。各所属からビデオデッキとテレビをカキ集めて、日勤(昼間の勤務)の制服組も動員して講堂で見るのである。気が遠くなるような作業だったと思う。連日捜査員たちは真っ赤に充血した目で画像を追い続けた。このなかから事件に関連があるものと思われるものが約二百本。それをさらに直接関連する遺体のビデオと、直接関係のないものなどに分類していくのである〉(前出・同)
▽先に身柄を取った警視庁の捜査はどこまで進んでいるのか。埼玉の事件について何か話していないのか……埼玉県警の捜査員も忸怩たる思いだったに違いない。その最中、埼玉県警から正式に、カローラIIの捜査に関する説明があったという。
▽警視庁と埼玉県警。どちらも威信をかけた捜査は宮崎死刑囚の逮捕まで、3ケタの八王子ナンバーで紺のラングレーにたどり着くことはなかった。(1)事件で目撃されたプレリュードは後に、事件が話題となり、気になって様子を見に来た一般人だったという。
▽宮崎死刑囚が警視庁管内の(4)事件での取り調べを終え、埼玉県警に身柄を移されたのは9月8日だった。
デイリー新潮編集部
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▽あれから36年が経過した。
▽このデイリー新潮の記事は、このホームページでの連載「沈黙を破る」でも同じように紹介しています。
★792沖縄のタクシー運転手にうんざり(2025/12/18掲載)
▽沖縄に出張に行ってうんざりしたことがある。タクシー運転手が運転中に平気で携帯電話を使い、ずっと会話を続けているのだ。運転手が自ら運転中に携帯をかけることもあったし、逆に運転手の携帯電話にかかってきて、延々と私語を続けていた。こちらは乗客だ。携帯電話をしながらの運転は怖かったし、そんなことに気を止めることなく、運転士は会話を続けている。何なんだと思っていた。
▽2004年2月のことだ。私が朝日新聞北海道支社報道部に勤務していた時のこと。その前年にプロ野球日本ハムファイターズが、北海道に移転することになり、大リーグにいた新庄選手が日本ハムに入団した。2月から沖縄・名護市で春のキャンプが始まり、そのキャンプ中に新庄の古巣の阪神との試合があることを知り、その取材に向かっていた。
▽キャンプ中での取材もあり、私は宿泊してるホテルや球場などをタクシーで移動していた。
▽その時に感じたのが沖縄のタクシー運転手はだれもが、運転中に携帯電話を使い、会話しているという驚きの事実だった。これには本当に驚いた。風習なのか、気質なのか。運転中の携帯電話の使用は、危険であることも認識していなかったし、客が乗っているということすら、関係なくはしていた。
▽私は地元紙に投稿しようと思った。そんな驚きを込めて以下のような文章を作った。
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▽にしても、と今回も思った。
▽沖縄県のタクシーの運転手、って、運転中に異様に携帯電話を使う。しかも業務と言うよりも私語が多い。しかもかかってきた電話を切ることなく、延々と話しているし、さら言えば、運転手自ら、運転中に電話を私用でかけている。
▽こんなこと、東京では考えられないし、僕が現在赴任中の札幌市でもあり得ない。
▽運転中の携帯電話使用は、第一危険だ。運転手本人は大丈夫と思っていても、乗客には不安を与える。
▽それに業務でもない私用の会話は、乗客に不愉快な思いを与える。
▽後ろの席で、疲れのため目をつぶってウトウトしてら、突然のようにけたたましい着信メロディーが車内に流れて、目を覚ましてしまったことも何回もある。
▽携帯電話が必需品であることは分かる。
▽しかし、せめてマナーモードにするとか、携帯電話に着信があっても、出ないとか、出たとしても、乗客中ですと言ってすぐに切るとか、そういうマナーがあってもいい。
▽一月の終わりから沖縄に出張に来て、毎日のようにタクシーを何台も乗った。ある時は那覇から名護。名護から恩納村。恩納村から宜野座。宜野座から沖縄市。携帯電話が鳴らなかったのは、唯一、「ゴールド」という証明書を車内に掲載していたお年寄りの運転手だけだったのは、嘆かわしい。
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★791年賀状作成の失敗(2025/12/17掲載)
▽昨年末の年賀状作りに失敗してしまった。プリンターの調子が悪く、黒字で印刷したはずなのに、次第に赤い文字になってしまったのだ。理由は分からない。私から年賀状を受け取った皆さん、すみませんでした。プリンターの不調か、パソコンの設定が悪いのか、未だにわかっていない。
▽私は年賀状をパソコンを使って作る。文面を考えて、年賀状に印刷をする。カラフルな年賀状ではなく、「謹賀新年」とタイトルを書いて、後は自分が考えた文章を書いていく。これを自宅のプリンターを使って黒で印刷するだけだ。
▽住所録はソフトで作った住所録で、タックシールに印刷する。
▽2024月下旬に、いつものようにこの作業していた。タックシールの印刷が終わり、年賀状の文面を印刷している時だった。50枚ほど印刷を続けていたが、60枚目、70枚目になって次第に黒い文字が赤く帯びてきて、最後は赤字になってしまった。印刷を止めて、黒インクのカートリッジを見ても、減ってはいない。それでも新たなカートリッジを取り付けて、印刷を再開したが、赤字の印刷は止まらなかった。
▽パソコンの設定に問題があるかと思い、年賀状ソフトの設定を何回も直したが、赤字印刷は治らなかった。
▽赤字でも文章が読めるのだから、仕方ない、と思い、私はそのまま印刷を続けて、印刷を終えた。
▽その後年賀状に一筆ずつ万年筆で書いて、来る年の新年を祝った。
▽こういうわけで私から赤い文字の年賀状受け取った皆さん、すいませんです。プリンターのミスなのか、パソコンの設定のミスなのかわからないが、ともかく、黒字が途中から赤字になってしまったのでした。参ったなと思っている。
▽原因がわからないが、これから原因を調べたい。
★790成田空港事件も過去のものになったのか(2025/12/16掲載)
▽今から半世紀近く前の1978年3月26日、開港直前の成田空港管制塔が活動家に占拠された事件。当時の事件発生の衝撃は大きかったが、既に過去の事件となっていたらしい。事件発生から27年後、こんな朝日新聞の記事を見て、私はそう思った。
▽なかなか意味が深い記事だと思った。
▽まずは事件の概要から説明しよう。
▽事件は、「三里塚・芝山連合空港反対同盟」の開港阻止闘争に連動し、第4インターなどの活動家が、開港直前の成田空港で、1万4000人の警備のすきをついてマンホールから管制塔に侵入し、鉄パイプや火炎瓶などで機器を破壊した。私は管制塔が占拠されたテレビ映像を見て衝撃を受けた一人だ。開港を強引に推し進めようとする政府に対して続けられた反対闘争は、多くの共感を得ていた。
▽開港は1カ月以上延期された。逮捕者は160人余り。中心メンバーの17人は航空危険罪や凶器準備集合罪などに問われ、懲役4~10年の有罪判決が確定。うち1人は保釈中に自殺した。
▽そしてこの朝日新聞記事だ。2005年11月12日付の記事だ。全文を掲載する。
《78年3月の成田空港管制塔占拠事件にかかわった元活動家16人が11日、国から督促された損害賠償金1億300万円を現金で一括返済した。カンパの呼びかけに、インターネットで支援サイトが生まれ、約2000人が募金し、約4カ月で賠償金が集まった。賠償問題に終止符が打たれた。
▽元活動家らはこの日午前、現金を詰めたバッグ三つを手に国土交通省を訪ねた。
▽国と新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)が損害賠償を求めた民事訴訟では、95年7月の最高裁で約4400万円の賠償が確定。16人は支払わず、今春になって利子を含む約1億300万円の支払い督促の手続きがとられ、給与の差し押さえ命令が本人や雇用主に通知された。
▽退職したり、勤務先から退社を促されたりする人が相次いだため、7月にカンパを求めた。勝手連的な支援サイトが開設され、個人のブログで応援する人も続出。10月末には1億400万円を突破した。
▽カンパの半分強は16人を含めてかかわった組織が出したが、そのほかに事件後に育った若者たちもいた。振込用紙の通信欄やネットの書き込みには、「事件当時は小学生だった」「実力闘争を知らない30代半ばの主婦です」など若い世代からの声もあった。
▽1000円をカンパした東京都内の会社員男性(30)は「活動家と聞いてもピンとこない。他人の物を壊して弁償しないのもおかしいと思うが、映画のような事件や、長く服役しても悔いはないという生き様には共感も覚えた」と話す。
▽元活動家の同僚の男性(35)は「暴力はどうかと思うが、いま明るくまじめに働いている先輩には同情もある」として3万円をカンパした。
▽16人の一人で、東京都内の会社員、中川憲一さん(58)は国交省の前で「これで我々16人は解放されました。みなさんのお陰です」と話した》
▽実力闘争に共感はできないが、政府の実力行使に反発する気持ちは十分に理解出来る。例えば、当時の朝日ジャーナルは反対闘争を続ける農民側に立った報道を続けていた。
▽そしてそれが多くのカンパを生んで、そして闘争のすべてが終わった、ということになる。古い記事を引用したが、なかなか味のある記事だったと思い、紹介した。
★785元朝日ジャーナル部員、木内宏さんの死去(2025/12/09掲載)
▽もう、そろそろ書いてもいいかなと思っている。元朝日ジャーナル編集部員で元週刊アエラののスタッフライターだった故木内宏さんの事だ。もう亡くなって何年にもなる。明快な論理を貫いた文章家で、かつては政治部員時代の経験を元にした権力批判の文章が多かったが、ある時からは旅をテーマにした旅情の文が多くなっていた。尊敬する記者の一人だった。
▽私が木内さんのことを知ったのは学生時代の時だ。1970年代後半、当時の朝日新聞は、文藝春秋を中心とする右翼マスコミから、猛烈な批判と非難を浴びていた。当時の文芸春秋は、月刊誌も週刊誌も含めて、右翼の立場から中道左派の朝日新聞だけを執拗に批判しており、その仕方が異様だった。「グループ1984」という匿名を使い、徹底的に朝日新聞を批判していた。言論を潰そうという魂胆が見えた。
▽そんな時朝、朝日新聞労働組合が発行している機関誌「新聞研究」で、朝日ジャーナル部員だった木内さんが反論していたのだ。
▽反論文では、「グループ1984」の邪推の論理を明確に分析し、言論つぶしの魂胆があると痛烈に批判をした。
▽この明快な論理の文章に私は感動した。こういう記者になりたいと私は学生代を思った。
▽それから間もなくして、私は木内さんと連絡を取り、話を聞いたりし付き合いを持った。酒を飲み、ご自宅にも何回も遊びに行くようになった。家族とのお付き合いも始まった。
▽私が北海道新聞に入社すると、木内さんは偶然にも朝日新聞北海道支社に赴任し、北海道在住編集委員としての活動が始まり、札幌でも家族同士の付き合いが続いた。木内さんの子供3人をマイカーに乗せて室蘭市の地球岬にもドライブしたこともある。札幌駅の地下街で、娘さんと偶然出会って、食事をしたこともある。ずっと付き合った。
▽私が北海道新聞から朝日新聞に転職したのも、木内さんのおかげだ。木内さんに声をかけてもらい、朝日新聞が社業拡張で全国の他社の記者を採用しているという話を持ちかけてきてくれた。私が朝日新聞に入ったのはこうした流れによる。
▽私が朝日新聞に転職したことと時期を合わせるように、木内さんは北海道在住編集委員から、新たに創刊された週刊誌「アエラ」のスタッフライターとして新たな自分の世界を作っていった。全国を旅して、ルポを書いていった。朝日ジャーナル時代とは全く違った世界を作り出していった。私との付き合いはずっと続いていた。
▽そんな木内さんが早期退職をし、作家活動として人生を新たに始めたのは50歳を過ぎてからだった。私はその後いろいろ転勤したが、木内さん宅への通いは続いていた。
▽しかし木内さんは病魔に犯され、最後は帰らぬ人になった。家族には自分の死を周囲に伝えるなと言っており、しばらく私は木内さんの死を知らなかったのだ。死去したのは2013年11月だった。
▽木内さんの朝日新聞の同期入社には、伊藤正孝がいた。アフリカ特派員として名をとどろかせて、最後は朝日ジャーナル編集長として活躍した人物だ。
▽私の自室の本棚には、木内さんの本が何冊かある。古くは、「公明党と創価学会―その軌跡と戦略」「新聞記者」という硬派の内容の本があった。しかし、ある時を境にして、テーマは旅情に変化していった。「北の波濤に唄う―江差追分物語」「賽の河原紀行」「夏至まで」など、旅をテーマにしたものが多くなっていった。政治部員や朝日ジャーナル編集部員だった時は、反権力的な魂を見せていたが、本当はこうした旅を記す旅人だったのかもしれない。
▽私が朝日新聞で最後の勤務地となった埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局時代に朝日新聞埼玉版に書いていた記事を、木内さんの奥さんがずっと切り抜いていたことを後に知った。同じ埼玉県ということで、熱心に読んでくれていた。多少歯がゆかったが、嬉しかった。
▽やっと今回、お礼が言える。
▽木内さん、ありがとうございました。
★784企業爆破事件を続けた東アジア反日武装戦線とは何だったのか(2025/12/08掲載)
▽企業爆破事件を続けた東アジア反日武装戦線とは何だったのか。この問いに答えてくれたのが、「『狼』と『さそり』そして『大地の牙』▽東アジア反日武装戦線が投げかけたもの」(高祐二、花伝社)というソフトカバーの本だ。
▽三菱重工ビル爆破事件に代表される連続爆破事件を繰り返した東アジア反日武装戦線の歴史を振り返り、この運動は何を残したのかと問いかけた。事件の発生と呼応する動きを時系列に並べられて勉強になった。結局、この闘争は中心人物が次第に高齢化し、死亡して、民衆からは全く支持されないまま終焉したことを強調している。
▽本書は冒頭で東アジア反日武装戦線を構成する三つのグループの代表が、東京都内の喫茶店で秘密会談を行っているところから始まっている。その喫茶店の他の客はすべてが公安刑事だった。3人は泳がされていたのだ。
▽警視庁公安部は、彼らを泳がせながら、逮捕の日時を待っていた。大道寺将司が逮捕された時の瞬間は、多くの出版物が扱っていて詳しい。産経新聞の警視庁担当記者が書いたものや、作家松下竜一の本、さらにはノンフィクション作家の本などが、その瞬間を書いている。産経新聞カメラマンは逮捕されて連行された瞬間を撮影している。逮捕は産経新聞の特ダネで、情報漏れを嫌い、「逮捕へ」と伝える特ダネを計算した新聞の配達範囲を限定していた。
▽大道寺は自殺用に携行していたはずの青酸カリを持っていないことに気づいて、顔面が蒼白になったという。
▽大道寺は、ビル爆破事件の被害規模が想定外に全く大きくなったことを反省するも、爆弾闘争を続けた。逮捕され、死刑判決を受けて獄中ではずっと反省をしていたが、東京拘置所で病死した。
▽指名手配されていた桐島聡は、最後の最後になって本名を名乗り、爆弾事件に関与していたことを認めた。そして直後に病死した。
▽東アジア反日武装線戦の爆弾闘争を、重信房子が率いる日本赤軍が評価していた。その重信も行き場を失い、日本に戻ってきたところで逮捕されている。浴田由紀子も逮捕され、獄中生活を経て、世間に戻った。
▽過激化教組と言われた竹本信弘もアジテーターとしてその名前を売ったが、朝霞事件の首謀者だとして指名手配され、逃亡の上逮捕された。その後は活動を控え、2024年7月に亡くなった。
▽この本の筆者は、東アジア反日武装線戦の彼らが在日朝鮮人やアイヌ民族の抑圧された人たちを解放する目的で爆弾闘争したが、想像以上の被害に日本の国民は、そして世界の人たちは彼らを支持することはなかったと結論。このことに、彼らは気づいていなかったと総括した。
▽確かに大道寺は被害者に対しては、しきりに反省をし、謝罪を続けた。
▽この本は、そうした爆弾闘争を繰り返し続けた東アジア反日武装戦線の闘いが失敗だったと結論づけている。
▽こうした本が出版できるのは評価したいと思う。
★782革靴とスニーカー(2025/12/04掲載)
▽私はこの夏(2025年夏)、外出時に使う靴を革靴から、布製のスニーカーに切り替えて使うようになった。私のこれまでのサラリーマン記者としてのポリシーとして、革靴ではないと、取材相手に失礼だと思っていた。それが会社を退職し、そんな必要もないと判断した。
▽私はサラリーマンの新聞記者だったので、服装には気をつけていた。朝日新聞社に入り、県警や県政を担当していた時はスーツにネクタイをして、革靴のビジネスシューズを履いて仕事に出た。まさにサラリーマン、という服装だった。夏になれば、上着は着なかったが、半袖のワイシャツにネクタイ姿を続けた。当然、革靴のビジネスシューズを使っていた。この服装、殺人事件現場の取材では、かなりきつかった。地取り取材で現場周辺を歩き回ると、次第に足に疲労感が出てきた。ビジネスシューズは所詮、長時間の歩行には向かないのだ。それを実感しながらも、この服装と革靴を着用するのをやめなかった。
▽ある夏の日、地方検察庁の幹部が私に言った。
「原さんも暑いんだから、ネクタイをやめたら」
▽私は内心、助かったと思った。
▽こう言われてノーネクタイになったが、基本的にはワイシャツに革靴という格好は同じだった。
▽私のポリシーとして、取材相手に失礼のない服装をするというのがある。そのためには男性だったらスーツに革靴と決めていた。このスタイルをずっと続けてきた。
▽本社を経て、地方に赴任しても、夏はチノパン、冬は黒のジーンいう時期があったが、それでも基本的には革靴は履き続けた。
▽年月が過ぎて、再度私が地方に赴任すると、同業他社の多くの記者がジーパンにスニーカーという服装になっていた。これにはちょっと驚いた。たとえジーパンだとしても、スニーカーではなく、革靴にするべきではないのかな、と私は思ったりもした。
▽退職し、街を歩いてみると、男性も女性も、スニーカー姿の人間が多い事はよくわかる。それでも私はしばらくの間、革靴を履き続けた。ビジネスシューズではないが、カジュアルな革靴だ。
▽しかし、今年の夏、あまりも暑いので、チノパンもジーンもやめて、ついにコットンのハーフパンツを履くようになった。これに伴って、私はついに自分のポリシーを捨てて、布製のスニーカーを履くようになった。周囲もスニーカー姿の人が多いので、違和感はないのだが、それでもなんか私はこんな格好でいいのかな、と思ってしまう。
▽先日、北海道に旅行した時も、このハーフパンツにスニーカーという服装で成田空港に入った。空港でこんな格好をするなんて恥ずかしいと思ったが、日本人も外国人もハーフパンツにスニーカーという服装が多かった。
▽だったら、もうこの服装で今夏は過ごそうと思った。
▽そういえば、「噂の真相」編集長だった故岡留安則さんも、スニーカー派だったな。新宿で一緒に飲んでいる時に、スニーカーの話をしていたことを思い出した。歌手グループのチューリップには、スニーカーについての歌があったな。
▽スニーカー好きの人にとっては、高級ブランドのスニーカーを集めるのも趣味の一つだという話も聞いている。私も少しスニーカーについて学んだほうがいいかもしれない。
★780女優の馬渕晴子をご存じだろうか(2025/12/02掲載)
▽女優の故・馬渕晴子をご存じだろうか。私が学生時代、フリーライターのまねごとをしている時に知り合った一人が、女優の馬渕晴子だった。当時40歳半ばの年齢で、次第に仲良くなって、都内の彼女の自宅によく遊びに行き、酒を飲み、マージャンをして、いろいろ話をしていた。子どもの家庭教師をしたこともある。心情・新左翼の人物で、政府を批判し、保守的なテレビ界や芸能界を批判し、差別に悩む芸能人を庇うなど、型にはまらない芸能人であり、女優だった。
▽私が知り合ったのは、ある出版記念パーティーの席上だった。彼女は女優の中山千夏と一緒だった。パーティーには「噂の真相」編集長の故岡留安則もいて、席で話が盛り上がり、意気投合した。馬渕宅でマージャンをすることになり、私と岡留が参入し、徹マンをしたこともある。
▽息子の家庭教師もするようになり、彼女宅に入り浸りするようになった。
▽そのうち知ったのが、時折彼女宅を訪れて、彼女に相談に来る芸能人が多いことだった。
▽当時の芸能界には、在日朝鮮人の師弟や2世が多く、その出自を隠して芸能活動をしている人間が多かった。本人は出自を話したいのに、芸能会社から強く口止めをされている人間も多かった。馬淵晴子はそんな差別された芸能人の相談に乗っていた。ある有名な歌手も北朝鮮の出身で、出自を隠すことを条件に歌手活動を強いられていた。在日朝鮮人に対する差別や偏見が多かったのだ。それは現在のヘイト発言をする政治家や活動家が多いことと共通している。
「本当に、芸能界は酷い」
▽こんなことを話す馬淵晴子の表情は暗かった。
▽出演していた冤罪事件の映画を、途中でボイコットするなど、自分の意思を通す女優としても有名だった。「闘う女優」だった。
▽岡留安則以外にも、共通の知人もいた。朝日新聞の先輩で、アラビアに精通していた記者だった。彼女が多くの多方面の世界の人たちと知り合いであることを知った。行動する女優でもあった。
▽父親は職業軍人だった。子どもを対等に扱う、厳しくも優しい父親だった、と彼女は回顧している。
▽私は後に朝日新聞記者として、教育面の「おやじの背中」に、馬淵晴子を登場させている。
▽以下はネットに出ている経歴だ。
《馬渕晴子(まぶち・はるこ)、1936年11月2日生まれ。2012年10月3日没。東京都出身。夫は井上孝雄(1994年死別)。次男は陶芸家の井上恵介。 本名は井上明子(いのうえ はるこ)。
▽東京都立明正高等学校(現・東京都立芦花高等学校)在学中に日活にスカウトされ、1954年に『女人の館』でスクリーンデビュー。1957年、NHK専属女優となり、小林千登勢・冨士眞奈美と「NHK3人娘」と呼ばれて人気を博す。
▽俳優の井上孝雄と結婚したことで一時芸能界を離れるが、1966年の『記念樹』で復帰する。
▽日本人女優として初めてヌードグラビアを披露しており、『アサヒカメラ』誌上での見事なヌードは話題を呼んだ》
▽このヌード騒ぎは、夫の浮気がきっかけだった、と本人が話していた。
《居住していた都内のマンションが地上げ屋の被害に遭い、不動産業者と裁判で争う姿がワイドショーで連日報道され、一躍時の人となり、1986年には新語・流行語大賞において地揚げ・底地買いで不快語追放応援賞を受賞(裁判には全面敗北しているが、当時のバブル崩壊による地価の暴落で業者はマンションの地上げを断念した)。これらの行動から「闘う女優」と報道されることもあった。
▽晩年は病を押しながらも女優業をこなしていたが、2012年10月3日、肺癌のため死去。75歳だった》
▽葬儀にも行けなかったが、闘う女優、馬淵晴子を忘れたくない。
★779認知症になった私の母親の看取り体制(2025/12/01掲載)
▽老人ホームにいる私の母の健康状態が悪くなり、看取り体制に入った。担当の医師からは、「いつ死んでもおかしくない」と言われ、その準備に入ったが、どうしてどうして、医師の宣告から1年半以上経ってもまだ生きている。
▽今年95歳になる私の母親は、10年以上前から認知症を患い、特別養護老人ホームに入居している。息子である私のことを全く認識もしない。見舞いで老人ホームを訪問しても、寝ているか少し目を開けるだけで、車椅子から動けない。数カ月に1回見に行くのが、何の反応もない。
▽そんなある日、老人ホームから連絡があった。食事を自分の意思で全く摂ることができなくなり、医師はもうダメだと宣告。「いつ亡くなってもおかしくない」と言われて、看取り体制に入った。
▽看取り体制とは、それまで私たち子供は面会することを制限されていたがが、その制限がなくなり、いつでも会うことができ、いつ死んでもおかしくないという状態だ。私は覚悟を決めて時折見舞いに行った。
▽しかし母親はしぶとく生き続けている。
▽ある時だった。私と妹で母親の部屋で、葬式について話し合った。そうしたら母親が突然、「うーっ、うーっ」とうなり声を言うではないか。まるで葬式の話などまだ先だと言わんばかりに。聞こえてたのかなと私は思わず、苦笑いしてしまった。
▽10年前に認知症の症状が出た時、母親は私に対し、
「どなたか分かりませんが、ありがとうございます」
と言った事を思い出す。父親が千葉大学附属病院に入院し、その母親の送り迎えを私のマイカーで行った時、母親は私がタクシーの運転手だと思ったのだろうか、財布から2000円を取り出して、私に渡そうとした。これを見て私の妹が、
「お母さん、お兄ちゃんだよ」
と言った。母親はそこから車を降りようとしていたのだ。私のことが全くわからなくなっていた。
▽次第に悪化していくのが認知症だ。止めることはできなかった。認知症による徘徊も始まっていた。
▽そして老人ホームへの入居。時折見舞いに行くのだが、次第に次第に認知症が悪化しているのがわかる。まるで植物人間のようだ。
▽それでも生きている。老人ホームの看護体制には感謝したい。しかし、意識がなくなった状態で生きることが幸せなのかどうか。
▽しかし、こうも思っている。今こそ幸せなのかもしれない。
▽私の母親と私の父親は夫婦間の仲が悪かった。父親は母親を怒鳴る毎日だった。母親は萎縮していた。母親は認知症になることで、父から逃げたのかもしれない。そんな父も9年前に亡くなっている。
▽そう、母親は今こそ自由なのか、と私は思ったりもしている。
★777すれ違うジョガーにはこっそりと名前を付けている私(2025/11/27掲載)
▽早朝のジョギングを自宅周辺で行っているが、同じ時間帯に、同じコースを走っていると、やはり同じような顔ぶれのジョガーとすれ違うことが多い。挨拶するジョガーもいれば、挨拶などせず、自分の世界に入って、ひたすら走り続けるジョガーもいる。私は彼らや彼女らに、勝手にニックネームを付けて、ジョギング日記を書き続けている。
▽すれ違うジョガーはいろいろいる。はちまきおじさんジョガー、鉄道ジョガー、タブレットジョガー、ザトペックジョーカー、短パンジョガー、ダッシュジョガー、マスクジョガー、激しい息づかいジョガー、白髪ジョガーら。
▽鉢巻きおじさんジョガーは、すれ違う度に鉢巻きをして走っているから、私が勝手にこう名付けた。私と同じジョギングコースを、同じ時間帯に走っており、1年ほど前に声をかけた。私が彼を追い抜く際に、「よくがんばってますね」と声かけて以来、すれ違うために手を挙げて挨拶するようになった。50歳前後で、時折奥さんとも一緒に走っているのが印象的だ。暑い今年の夏でも走っていた。
▽鉄道ジョガーとは、半年前からすれ違うようになった。道路を渡るたびに、右手で右を差し、左を指し、通過交通がいるかどうか確認しているのだ。JRなどの鉄道員や社員が線路を渡る時に指図する仕草で、私は勝手に鉄道ジョガーと呼んでいる。この人の走りは完璧で、速度も速く、良く追い抜かれている。
▽タブレットジョガーとは、文字通りタブレットの端末を脇に抱えながら走っている女性だ。時折すれ違うが、なぜタブレットを持って走っているのか、意味が分からなかった。ある時、私がジョギングを中断し、公園でストレッチをしていた時に、彼女も入ってきて、ストレッチを始めた。私は声をかけて、「なぜタブレットを持っているんですか」と尋ねた。彼女はこう答えた。「バランスを良くするためです」って。私は納得したような、納得できなかったような思いだった。
▽ザトペックジョガーもいた。ザトペックとはチェコの有名な陸上選手で、人間機関車と呼ばれた。力強い走りで、そんなイメージの走りをする中年男性とよくすれ違う。かつてはプロ野球阪神タイガースの村山投手がザトペック投法と言われた。そんな力強い走りをしているため、私はザトペックジョガーと呼んでいた。この人も速度は速くて追いついていけない。
▽短パンジョガーとは、中年女性のジョガーだ。夏も冬も短パンを履いて走っていた。走りのフォームは良い。40前後の女性だ。彼女も時折すれ違う。
▽ダッシュジョガーとは、私が走るジョギングコースで、短距離のダッシュを繰り返す40歳ぐらいの男性ランナーだ。ものすごい勢いでダッシュする。これを何回も繰り返していた。こんな速度では走れないなと私は常に思ってしまう。
▽マスクジョガーもいる。もう新型コロナウイルス感染の警戒が終わり、マスクをしなくなったジョガーがいるのに、まだマスクをしているからこう呼んでいる。女性だ。マスクをすれば苦しいのに、と思ってしまう。もっとも最近は感染がまた増加しているから、マスクは正しいのだろう。
▽白髪ジョガーもいる。サングラスかけてゆっくりと走っている。フォームはきれいだ。おそらく長い間走り込んでいるのだろう。フォームに乱れは見られない。
▽ジョガーだけではない。
▽銀行女性管理職の自転車、急ぎ足美人、リハビリおじさん、犬連れの美魔女、運動量豊富な犬連れおばさんらがいる。
▽このように私は毎朝の1時間のジョギングで、よくすれ違うジョガーや歩行者に勝手にニックネームをつけて、走り終えてから書く日記にこのニックネームを使っている。すれ違った時間帯などを書いているのだ。書かれた皆さん、勝手にニックネームをつけてごめんなさい。
★774街の声とSNSのコメント、何が違うのか(2025/11/24掲載)
▽社会的に大事件や大問題が発生すると、マスコミの多くはそれを報道するとともに、国内の世間の反応を探ろうとする。新聞やテレビだったら、街の声を拾うが、スポーツ新聞や出版社などはインターネットを通じて、SNSの投稿をピックアップする。同じような作業に見えるが、私から言えば全く違う。一方は労力をかけて取材するのに対して、もう一方は手抜きでこたつ記事を書いているだけなのだ。裏も取れないコメントを紹介することが、報道と言えるのかどうか。私は疑問に思う。
▽私は40年間、新聞社に勤務していた。何か事件や事故、話題物が起きると、街の声を拾うよう、本社や地方支局デスクから指示が飛んできた。
▽例えば総理大臣が突然退陣し、新しい政権が出来ようとする。スポーツ選手が快挙を成し遂げたとする。作家が有名な賞を取ったとする。株価が急落したとする。その時、世間の反応はどうか、私の地方支局管内の街の声を拾う。そのためには支局から出て、街を歩いている人や、駅前の声、公共施設での声を拾うために取材をしてきた。その際、取材相手の本名と住所、生年月日なども聞いて裏付けを取る。相手が嫌がる場合は、本名を聞いた上で、匿名にする。取材拒否されたら、それまでだ。この作業はかなり時間がかかるし、厄介な作業だった。街の声を取材するのは、簡単に思われるが、時間がかかるし、結構しんどい仕事だった。
▽テレビ局は全国各地の駅前での声を拾うが、名前や住所、年齢などは聞いていない。これが新聞とテレビの違いだろう。
▽しかしインターネット用の記事をアップするスポーツ新聞や出版社系列のネットは全く違う。反応を書くのは、SNSで発信されたコメントを紹介しているだけだ。こんなコメントが載っているとだけ書いて、全く取材をしていないし、当然ながら、その発信元の裏付けはしていない。
▽SNSだから、発信した本人が自主的に書いているだけで、しかも匿名だから、いい加減なものも多い。本名も住所も年齢も連絡先も書いていない。こんな匿名のコメントを頼りにインターネット上では、「世間の声」として拾っている。
▽私からすれば、いい加減なコメントしか集めてしかない。こたつ取材、こたつ記事と言えるゆえんだ。
▽つまり新聞社が紙面化する街の声と、インターネット上のSNSのコメントでは、全く質が違うし、発言者の責任の重みが違うのだ。声なき声を拾うのではなく、インターネット上は自主的に発信されたコメントだけに過ぎないのだ。これには様々な意図が隠されているかもしれないので、世間の声とは言えないのではないだろうか。私はこのことに危機感を持っている。
▽こんなものがこたつ記事として紹介されて、「世間の声」として言うんだったら、間違いなく世論を間違った方に誘導していくだけだ。
▽ヤフコメが問題になっているのは、もう何年も前からだ。意図的に大量に作られたコメントが多く、一方的な「政権批判への非難」だ。政権批判をすれば、すぐ「サヨク」と攻撃してくる。政権擁護するコメントばっかり並んでいる。こんなものを、「街の声」とは考えたくない。
▽閲覧数稼ぎのコメントを紹介することを、スポーツ新聞や出版社はもうやめたほうが良い。足で稼ぐコメントを拾ってきてもらいたい。
★772刑事ドラマの時効は間違っている(2025/11/20掲載)
▽午後9時から11時までのゴールデンタイムは、かつて民放各社は競って、刑事ドラマ番組に力を入れて放映していた。「火曜サスペンス劇場」や「土曜ワイド劇場」など、勧善懲悪のストーリーで、私もかつてよく見ていた。しかし一方で気になるストーリーがあった。そう、「時効」の問題だ。時効を正しく理解していたストーリーは全くなかった。
▽刑事事件での時効とは、事件発生、正確には事件認知日時から一定程度の期間が経過しても、容疑者が起訴できない場合、容疑者の刑事責任は問われないという制度だ。
▽「事件発生からあと10日で10年となり、時効になる」というストーリーなら、容疑者を追う刑事たちは焦りながらも1秒1秒を惜しんで、容疑者の足取りを追う。しかし無残にも時計の針は次第に時効成立の日付に向かい、そして時計の針が午前零時に達した時、時効が成立し、容疑者逮捕を断念するという内容だ。刑事たちの悔しい顔とは反対に、容疑者の薄笑いが浮かぶ。こんな感じだろうか。
▽逆に、時計の針が午前零時直前になり、容疑者が逮捕されれば、刑事たちの執念が実った、というトーンのドラマで終わる。
▽仮に時効が10年あるとすれば、事件発生からちょうど10年経ったその日が時効となるとしているのだ。
▽しかし、実際は全く違う。テレビドラマでは多くが時効の期間を間違えている。
▽刑事上の時効とは、公訴時効のことを指す。
▽公訴時効とは、「被疑者を起訴できなくなるタイミング」のことだ。
▽事件発生し、捜査が始まり、逮捕、送検、起訴、公判、判決という一連の刑事訴訟法の流れの中で、公訴とはこの起訴のことを指す。
▽つまり刑事事件で被疑者を罪に問うのが公訴であって、警察官が身柄を送致して、検察官が起訴する必要があり、起訴前に時効を迎えてしまえば、起訴できない、というのが時効の考え方だ。起訴できないなら、被疑者を刑事裁判で刑事責任を問うことが出来ないのだ。
▽つまり、公訴時効を迎えることによって、被疑者を起訴できなくなるため、罪に問うことができなくなるということだ。公訴時効を迎えた時点で、罪に問われることはない。
▽ネットでもこう説明がある。
《時効のカウントが始まるタイミングは「不法行為が行われた時点」です。たとえば時効10年の場合は、不法行為〜起訴まで10年間以内に終わらせなければ罪に問えません。仮に、不法行為から10年経過した時点で逮捕されたとしても、時効は停止せずに公訴時効は成立してしまいます》
▽そう、時効の日までに容疑者を被告として起訴しない限り時効が成立するのだ。
▽刑事訴訟法では警察は容疑者を逮捕し、48時間以内に検察庁に送検する。これを受けて検察庁は24時間以内に起訴する。勾留延長は10日間を2回続けられるから、21日以内に起訴しなければならない。
▽つまり時効を避けるには、警察が逮捕し、検察が起訴するまでの間の23日間までに起訴しないとならない。逆に計算するならば、時効の成立する23日前までに逮捕しなければ、時効は成立してしまうのだ。
▽日本の刑事ドラマの時効をテーマにしたストーリーが、この点を全く無視して、時計の針が午前零時を回れば時効となってしまうとしてるのが、気になる。小説やドラマとしては面白いが、これは全く違う。
▽もう一度言うと、時効とは起訴するまでの時間であり、起訴ができなければ時効となる。逮捕ではないのだ。
▽時効成立直前に逮捕しても、期間内に起訴できないのであれば、これは時効が成立するのだ。この辺を小説やドラマは大きく勘違いしている。
▽こうした勘違い、または知識不足を元に刑事ドラマを作って、視聴者を喜ばせているとすれば、罪作りな話だ。
★771改めて七三一部隊の戦争犯罪を振り返る(2025/11/19掲載)
▽日中戦争で日本軍が行った細菌戦は、どんな背景で行われたのか。「七三一部隊の日中戦争」(広中一成、PHP新書)はアジア太平洋戦争で中国で行われた日本軍の細菌戦について詳細に研究した労作だ。改めて勉強になった。
▽中国で展開した日本軍の細菌戦は、通称七三一部隊、石井部隊だけではなく、他にも四つの部隊があり、中国でその実験と実践を繰り返していた。本書では、その背景となる日中戦争における日本軍の事情や細菌戦の具体的な作戦内容、実際の行動、中国側の被害状況とその対策、そして細菌戦がどのように収束していったかを解明している。
▽七三一部隊の陰湿な細菌戦は、資料や書類、機器類などの証拠を当事者が隠滅してしまった。森村誠一の「悪魔の証明」で七三一部隊の存在は一気に広がったが、それでもこうして戦争を背景に読んでいくと、日本はそこまで追い詰められて、禁じ手の細菌戦に手を出したことが理解できる。
▽本書によれば、細菌戦はそもそも対ソ防衛のために準備されたものだが、なぜ中国で実行されたのかと自問自答してみせる。長期化する日中戦争で戦力を縮小すれば、日本は中国に負ける。線戦を維持するために考えられたのが、細菌戦だった。
▽面白いのは、細菌戦を主導していた石井が、日本軍でも被害が出たため、一度は責任を取って失脚していたことだ。細菌戦を進める日本軍の参謀本部の事情背景もこの本では説明している。
▽太平洋戦争が始まると、細菌戦の対象範囲は中国から太平洋方面へ大きく拡大した。さらには攻撃対象もソ連と中国だけではなく、アメリカなどの連合国までに及んだ。そして最後には、本土決戦で日本国民を巻き込もうとしていたのだ。その残虐な行為をしようとした日本軍参謀の恐ろしい発想に、改めて驚く。この歴史的事実をこれからも伝えていかなければならないと私は思う。
▽アメリカが細菌戦の資料・書類と引き換えに主要な元731部隊の幹部を免責したことは、細菌戦にかかわった人間の戦争責任を不問としてしまったと筆者は書いている。その結果、今月に至っても、日本の一部は731部隊が行っていったことに目を背け、その歴史に蓋をしている、という主張は正しい。
▽筆者はこう結んでいる。
《日本軍がおかした細菌戦という愚かな歴史を、戦後平和の歩みを重ねてきた我々日本人はこの先繰り返すことはないと信じたい》
★769子どものころに憧れたアナウンサーという職業(2025/11/17掲載)
▽私が子供のころ、なりたい職業としてアナウンサーという職業に憧れた時期があった。当時の娯楽と言えば、プロ野球を見ること、聞くこと。そして草野球の少年野球をすることだった。このプロ野球を中継するアナウンサーになりたいと思っていたのだ。
▽当時の私の周囲を見回しても、将来のやりたい職業としてプロ野球選手と言う子どもが多かった。当時はテレビ中継でもラジオ中継でもセ・リーグの巨人選手しか放送しなかった。必然的に巨人が好きになった。
▽王、長島、黒江、土井、柴田、高田、柳田、末次、森ら、だれもが選手の名前も顔も覚えていた。僕は王や長島より、柴田が好きだった。「赤い手袋」の柴田だ。
▽中学生になり、親から与えられたラジオで、夕方からのプロ野球中継をずっと聞いていた。当時のTBSでは名物アナウンサーが中継を担っていた。こんなアナウンサーになれば、ただでプロ野球を見ることが出来るし、給料がもらえるのだ、と思っていた。
▽私は野球そのものが好きだった。選手にはなれなかったが、野球に関わる仕事だったら大丈夫だと思っていた。
▽そしてプロ野球、ミスター巨人の長島を主人公にしたLPを買って何回も聞いていた。長島が極度の不振に陥ったシーズンで、マウンド上の江夏から逆転2点タイムリーを打った試合のラジオ中継が入っていた。左翼手のバレンタインがバックホームしたが、二塁走者の柴田も生還し、逆転する場面を何回も何回も暗唱し、実況中継の練習ごっこをしていた。それだけそのシーンを覚えていた。
▽そして長島の引退。高校生の時だった。授業中にポケットラジオでずっと引退試合を聞いていた。こっそりとみんなに長島の引退を伝えた。「巨人軍は永遠です」という名台詞も聞いた。
▽高校時代は時折、後楽園球場に1人で行き、巨人戦を見ていた。1人で野球を見るのが好きだった。
▽今考えれば純粋な巨人ファンだった。
▽しかし、江川事件が契機となって、私は巨人を嫌いになった。こんなインチキまでして江川という選手を取りたいのかと私は反発した。
▽それからか、プロ野球アナウンサーになりたいという夢は次第に薄れていった。
▽今振り返れば、所詮は無理なアナウンサー希望だった。私は滑舌が良くない。きちんとしゃべることができないのだ。こんな人間がアナウンサーになれない、と最近になって思った。
▽そして読んだ元アナウンサーの「スポーツアナウンサー▽実況の神髄」(山本浩、岩波新書)でいろいろ分かった。
▽NHKの元アナウンサーが綴ったスポーツ実況中継のイロハ。なるほどと思うことが随所にちりばめられていた。地方に勤務すると、NHKのローカル局の放送がある意味で面白い。特に面白いのは夏の高校野球県大会で、準決勝や決勝の実況中継するアナウンサーのアナウンスぶりだ。入局2年生か3年生なのだろう。たどたどしい中継で高校野球を伝えてくれる。微笑ましい、というか、未熟というか、とにかく初々しい。
▽高校野球中継をこう振り返っている。
「高校野球中継は、スポーツアナウンサーの第一の関門として立ちはだかる重要な仕事だ」
「新人で放送局に入っていきなり野球放送の担当が回ってくることもないわけではないが、商品価値のある放送になるまでにはそれなりの時間と経験を必要とする」
「地方の放送局には、新人の不慣れな放送に寛容な視聴者が少なくないが、経験の浅い者ばかり揃うと、地元の野球ファンには不評を託つことがある」
▽やはり私にはアナウンサーは無理だった。
★767総選挙取材で朝日新聞千葉版で読んだ記事が忘れられない(2025/11/13掲載)
▽総選挙における新聞記事で、私が学生時代に読んだ朝日新聞千葉地方版の記事の中身が今でも忘れられない。各候補者に質問をし、候補者から答えを引き出しているのだが、今振り返っても単純に面白いのだ。しかし、こんな質疑はもう出来ないだろうなと思っている。
▽それは、朝日新聞千葉版で衆院選候補者に行った質問で、当時の国鉄の初乗り電車賃を質問しているのだ。4、5人いた候補者のうち、国鉄の初乗り運賃の料金をきちんと答えられたのは1人しかいなかった。残りの候補者は答えられなかったか、答えが間違っていた。
▽既に有権者となっていた私はこの質疑内容から候補者を選ぶことにした。実に単純な質問だが、こういうことに答えられない候補者がいるということに驚いた。庶民の生活とはかけ離れているのだ。
▽当時の国鉄は既に赤字経営に転落し、国鉄の分割・民営化問題が浮上し始めていたころだ。国労問題もあり、国鉄問題はかなり注目を集めていた。それなのに、候補者の半分は初乗り運賃を答えることができなかった。
▽こんな単純な質問に答えられない候補者って何なんだろう、と学生ながら私は思ってしまった。
▽こういう質疑で候補者を選択するなんて間違いだと言う意見もあるかもしれない。しかし、それでも学生の私にとっては充分な選択肢を与えてくれる質疑だった。こんな単純に質問を考えた記者はすごいなと思った。
▽大学を卒業し、新聞社に入った私は40年間新聞記者を続けてきた。ではこんな質問が私には出来たのだろうかと思ってしまった。
▽候補者への質問も、直接の質疑ではなく、事前に書面で質問するようになった。しかも候補者本人が答えるよりも、秘書が答えることが多くなっている。つまり、私が学生時代に読んだ朝日新聞の国鉄の初乗り運賃の質疑のような記事はもう見ることができないようになってるのだ。
▽衆院議員選挙に限らず、参議院選挙も県知事選も市長選も、候補者から何を聞いて、何を読者に提供するかは、新聞社の使命だ。そんな候補者の情報を読んで、有権者は候補者を選択する。その新聞の使命を記者たちは忘れてはならないと思う。
▽これが私が学生時代に読んだ朝日新聞千葉版の記事の教訓だ。
★765犬笛を吹くのは、ネット右翼の武器か(2025/11/11掲載)
▽政権与党となった維新の会共同代表藤田文武と、名誉毀損容疑で逮捕されたN党立花孝志に共通していることがある。それは、自分たちの敵を具体的に挙げて、支持者に攻撃目標を伝える「犬笛」という手法だ。SNSでターゲットを具体的に掲げ、支持者に攻撃を繰り返してもらう。その手法と不気味さが怖い。
▽藤田の犬笛は、疑惑を取材した共産党赤旗記者の名刺を、SNSでアップしたことだ。これで維新の支持者やネット右翼は、ターゲットの敵を、赤旗記者個人に絞り、電話やメールアドレスを攻撃対象に絞り込んだ。あからさまなネット攻撃だ。ネット右翼らしい手法だ。
▽一部で子供じみた話だとする意見もある。しかし、発想は子供じみているかもしれないが、政権与党の代表たる人間がこのような犬笛を行えば、多くの支持者や支援者、さらにはネット右翼の人間が、一気にこの記者を攻撃してくる。政治家としてはやってはならぬ、最低の行為だった。
▽気になるのは、こうした藤田の行為に、各マスコミ、特に政治部の記者が何の批判も起こさなかったことだ。赤旗と一般新聞は違うと思っているのだろうか。そう考えるなら、甘い。いつ、藤田のような嘘つき政治家が牙を剥いてくるか分からない。事態がこれ以上大きくならないよう、政治部の記者はもっと、藤田の言動を抑制して、監視すべきだ。それだけ今回の藤田の言動は危険だ。
▽朝日新聞デジタルに寄稿したジャーナリスト江川紹子のコメントを紹介する。
《ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
2025年11月5日9時45分 投稿
▽赤旗の取材記者の名刺をSNSで「晒す」行為も問題だ。この記者はこれまで、名前や顔を出して自分が取材した事柄について語っており、広く名前が明らかになっても、それだけで私生活や仕事に影響が及ぶことは少ないかもしれない。しかし、こうした行為は自身のフォロワーに憎むべき「敵」を明示し、非難や攻撃を促す号砲にもなる。フォロワーはその意図を察し、「自発的」にアクションを起こす。いわゆる「犬笛」だ。
▽政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表などによるこうした発信で、兵庫県知事に関する内部告発を巡る同県議会の百条委員会のメンバーや報道機関・記者が様々な非難や嫌がらせなどを受けたことはよく知られている。その結果、死者まで出ており、多くのフォロワーを持つ発信者が行った場合、この手法は攻撃の対象者に相当のダメージを与えることも公知の事実と言えよう。
▽記事でかけられた疑惑に反論するのに、記者個人の名刺をSNSにアップする必要性は感じられず、藤田氏の行為は「晒し」によって「犬笛」を吹いたととられても仕方がないのではないか。こうした行為は、「ご指摘やご批判は真摯に受け止める」という記者会見の発言にも矛盾する。赤旗は共産党の機関紙である、という誰もが知っている事実を強調することで、情報が歪められているような印象操作をしたり、「赤旗や共産党の質問には一切答えない」としたりする対応も、いかにも子供っぽい》(11月5日寄稿・朝日新聞デジタル)
▽N党立花も、同じ「犬笛」を採り入れた手法で、敵を作り上げて、攻撃する手法だった。裏も取らない偽情報で、本人を攻撃し、自殺に追いやった。この責任は大きい。
▽ネットでは、元テレビ朝日社員の玉川徹氏が10日のテレビ朝日「羽鳥慎一 モーニングショー」でコメントした話が、的を射ている。
《玉川氏は「政治活動の自由、表現の自由は最大限守られなければならないというのは大前提としてあるんですけども、だからといって、その過程で誰かを傷つけたり、虚偽の犬笛を吹いて多くの人から攻撃をさせることをやった。そういうことがいいはずがない」と持論を展開。「新しい法律が必要じゃないかという声も出ているんですけど難しい。言論の自由もある。作るとなると、われわれもチェックしないと逆に使われる可能性もある。現行法でできることはいっぱいある。今回も現行法に基づいて逮捕されている。現行法でできることはあると思っています」と現在の法律で対応できるのではとの考えを示した。
▽玉川氏は続けて「例えば名誉毀損は法で禁じられている」とし、「立花容疑者だけじゃないです。その犬笛で踊った人たちもいっぱいいて、名誉毀損になっている可能性は相当高い人がいっぱいいる。そういう人たちも立件していくべきと思う」と立件すべき対象を広げるべきではと述べた》
▽藤田といい、立花といい、ターゲットすべき敵を具体的に作り、仲間に知らせて、総攻撃を仕掛ける。こういう手法はネット社会だからできることで、ネット社会だからこそ、生まれた時代の寵児なのだろう。
▽だからといってこうした「犬笛」の手法をこのまま許していたら、トンデモナイ世界がやってくる。杞憂でなければいいが。
★764制服廃止と自由服、そして自由を謳歌した高校時代(2025/11/10掲載)
▽私が通っていた千葉県の県立東葛飾高校(通称・東葛高校)は、県内で唯一の私服高校だった。学園闘争があり、制服が廃止された。その1期生として私たち1年生は入学時から、学生服はなくなり、私服での通学となった。その後、県内でも全国でも制服廃止を決める高校が続くと思われたが、制服廃止を決める高校は全くなく、私たちの高校だけが私服高校として続き、現在に至っている。
▽学生服は軍隊の名残、という指摘もある。アジア太平洋戦争末期には、神宮球場で行われた学徒動員での行進時には、戦場に行かされる学生たちが詰め襟の学生服にゲートルを巻いていた。学生服、イコール、戦争というイメージが強い。それを排除するのが、私たち高校の先輩たちの主張だった。高校生としては、かなりの問題意識を持っていた。
▽ただし、県立高校ゆえ、私服になってもそんな派手な服装ではなかった。「私服」と言わず、「自由服」という言葉を使って、全生徒に周知徹底させていた。だから、学生服を着ていっても、問題はなかった。
▽私は1年生の時だけ、ずっと学生服を着て通学していた。夏になると、詰め襟の制服を脱いで、ワイシャツ姿になった。2年生からは私服となり、スラックスやジーンを履いて登校した。親に買ってもらった高校生用の鞄を全く使わず、スポーツバッグに教科書や体育着を入れて登校した。
▽クラスメートも同じような格好だった。スラックスやジーンが多かった。
▽男女共学だったので、女子生徒は、ミニスカートにハイソックスという服装が多かった。周囲の女子校の連中たちは、私の高校女子の服装を見て、「ダサい」「格好悪い」と批判していたが、制服を強要されている反動の憧憬だと思っていた。「悔しかったら、学園闘争をして、制服廃止を獲得すれば良いのに」と思っていた。自由服獲得は、闘争の勝利だった。
▽夏になると女子生徒は、多くが薄着のブラウスを着て登校した。その分、下着がスケスケで、男子たちは興奮してみていた。
▽学園闘争の名残で、縦割り集会というものがあり、1年、2年、3年の同じクラス、例えばA組なら、1、2、3年生のA組全員が集まり、学校や教育の問題を話し合う時間が設けられた。
▽その縦割り集会が終わると、全校で校庭に集まってダンスが始まる。1年生も2年生も、3年生も乱れて男女がダンスをする。そのダンスの曲は必ずと言っていいほど、坂本九の「レットキス(ジェンカ)」だった。「レッツ、キッス、頬よせて」「レッツ、キッス、目を閉じて」と歌いながら、ダンスをした。参加者が輪を作り、前の人間の肩にかけて、円を描いて踊った。
▽そのダンスで私は恥ずかしい思いもした記憶がある。私が前の3年生の女子生徒の肩に手をかけた際、キチンと手をかけなかったことを、その女子生徒に注意されたのだ。
「君、もっと、手に力を入れて肩にかけて」
▽実は私はこの3年生の女子の肩のブラジャーの紐が気になってしまい、キチンと手をかけられなかったのだ。恥ずかしくて、情けなかった。うぶな1年生だった。我慢して肩に書けた手に力を入れた。そして歌って踊った。そんな記憶が今でも鮮明に残っている。
▽2年生の修学旅行は、山陰地方と瀬戸内海組の二手に分かれて、最後の2泊を京都で合流するスケジュールだった。この修学旅行でも、制服ではなく、自由服だったので、どこに行くにも躊躇しなかった。自由に行動を立てて、自由に歩き回った。高校時代はこの自由服のおかげで、自由を満喫できた。
▽学校内にあった学生食堂が老朽化で廃止されて、昼食は弁当持参か、購買部でパンを買うか、それとも学校外の食堂で食事をすることになったが、外食の場合、これも自由服ゆえに、自由にどこにでも入ることが出来た。
▽学園闘争の結果に得た自由服だったが、その分、授業も自由だった。中間テストは廃止されて、期末テストだけになった。勉強する人間と勉強しない人間に分かれてしまい、勉強しない人間は浪人して、予備校に通う羽目になった。浪人を1年間する「1浪」が当たり前の時代だった。自由を獲得した反動が、浪人生活だった。自由の結果は、苦労が待っていた。
★東武鉄道広報の失敗(「709東武鉄道は利用者が多い埼玉県民を軽視しているのだろうか」の続報・2025/11/06掲載)
▽もう一度書く。関東地方の大規模な鉄道輸送を担っている私鉄の東武鉄道は、東京スカイツリー開業を契機に、営業している二つの路線の名称を変更した。一つが東武伊勢崎線で、「東武スカイツリーライン」と改称し、程なくして、東武野田線を「アーバンパークライン」と名前を変更する発表をした。しかしこの名称変更は利用者や関係者に完全に浸透しておらず、一部のマスコミでは事件事故などに絡み、いまだに旧式の「東武伊勢崎線」「東武野田線」と呼んでいる。この原因は、東武鉄道広報の失敗にあると私は思っている。
▽私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に私が勤務している時のことだ。支局の近くは東武伊勢崎線新越谷駅があり、JR武蔵野線南越谷駅と繋がっている。支局にとって、東武伊勢崎線は取材でも利用する大切な路線だった。
▽東武鉄道は東京スカイツリー開業を前に記者会見を開いた。その中で、東武鉄道はスカイツリーの内部の話を紹介する一方で、東武伊勢崎線をスカイツリーラインと改称することを決めたと発表した。
▽東武伊勢崎線は東京都の浅草駅と群馬県の伊勢崎駅を結ぶ路線で、埼玉県東武の県民にとっては、都内に行く大切な路線だ。東武鉄道はその中で、浅草駅から東武動物公園駅までの間と、押上駅から曳舟駅までの間は、東武スカイツリーラインと呼ぶことにしたと説明した。
▽問題はこの会見のタイミングだった。都内で記者会見をすれば、多くのマスコミは東京本社から来て取材をするが、関心は東京スカイツリーの話ばかりになる。案の定、朝新聞も東京本社社会部の記者が来て、スカイツリーの話だけを書いて、東武伊勢崎線が、「東武スカイツリーライン」となる話など無視した。当然だろう。東京本社の人間は伊勢崎線など、全く関心がないのだから。
▽私も記者会見に出て、朝日新聞埼玉版に東武伊勢崎線が、「東武スカイツリーライン」と名称変更になると書いた。他社には全く掲載されておらず、名称変更の話は、朝日新聞だけが伝えた。
▽これはどういうことか。そう、東武鉄道広報の会見に問題があった。東武鉄道は、東京本社のマスコミばっかり目を向いて、東武伊勢崎線が走る埼玉県や群馬県の読者を無視していたのだ。スカイツリーの話を会見で説明するならば、東京本社の記者が呼べばいいが、東武伊勢崎線のように、埼玉、群馬を長距離走っている鉄道の名称変更をするなら、埼玉県、もしくは群馬県で新たに記者会見をすべきだったのだ。東武鉄道広報は、こういうマスコミの属性、マスコミの体質に全く考えようとしなかった。
▽これは東武野田線を「アーバンバイクライン」と改称とした時も同じだった。野田線は千葉県船橋市から千葉県柏市を経由して埼玉県大宮市まで伸びている近郊鉄道だ。これも千葉県や埼玉県で記者会見し、名称変更したと発表すれば、きちんとマスコミが書いていたのだ。それを東武鉄道広報はしなかった。
▽おそらく東京で発表すれば、全部マスコミが記事を書いてくれるだろうと思ったのだろう。それは大間違いだ。当時の多くのマスコミは東京スカイツリーだけに関心を持ち、埼玉や群馬、千葉などを走る鉄道の名称変更に興味などなかったのだ。
▽だから今でも、事件事故があると、マスコミの多くが「東武スカイツリーライン」とも「東武アーバンパークライン」とは言わず、「東武伊勢崎線」「東武野田線」という書き方になってしまう。これは東武鉄道広報の戦略の失敗だ。
▽読者が何を知りたいか、大手鉄道の広報だったら、もう少し研究し調査して、どうすればきちんとマスコミが伝えてくれるのか調べるべきだった。
▽大動脈たる東武伊勢崎線も東武野田線も、いくら東武鉄道が名称変更したといっても、単なる愛称のレベルでしかないのだった。東武鉄道広報の失敗だ。
★758インターネット被害事始め(2025/10/31掲載)
▽私がインターネットでの被害に初めて気づいたのは、今から四半世紀前の2001年のことだ。私の書いた新聞記事を適当に切り取って、全く違う記事に仕立てて、さも私が書いたようにインターネットにアップされていた。憎悪を煽る内容にすり替えられていた。悪質な手口だった。今回はその「インターネット被害事始め」について書いていこう。
▽最初は週刊誌の取材を受けたことから発覚した。その半年前に私の名前を使って、インターネットのホームページ投稿欄に投稿した人物がいて、その投稿文を読んだ週刊誌が、私の勤める会社に取材に来たことがあった。
▽最初はどこのホームページかは分からなかったが、死刑問題に関して私が新聞に書いた記事を、表現を変えて、少年バスジャック事件を茶化した内容だった。私は本社時代、死刑制度の連載記事を仲間とともに書いていたし、署名記事もコラムで書いていた。
▽その週刊誌は当時、朝日新聞を批判することに夢中になっていた週刊誌で、おそらく「朝日新聞の原裕司記者がトンデモナイことを書いている」という批判をしたかったのでしょう。私はそんな記事を書いていなかったので、取材を断った。
▽時間が経過し、すでに忘れていたのだが、ようやくそのホームページが分かったことと、もっとひどい内容が書かれていたのを見つけたので、仲間に注意喚起することにした。
▽こんな投稿だった。
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日付: Fri Feb 19 22:20:05 1999
訪問者名: STU
コメント: 反社会科学部違法学科助凶呪に推薦したい人物がいるので 紹介いたします。その男の名は、朝日新聞東京本社企画報道室(もと北海道新聞記者)の原裕司。自称死刑問題の専門家とやらで、よく死刑廃止をわめいて左翼雑誌に寄稿してます。(中略)
この男の助凶呪にふさわしいところは、死刑廃止(殺人犯の「人権」保護)を唱える際に用いる「殺人犯に殺された被害者はとっくに死んでいる。死んでいるやつに人権などはない。だから被害者よりも殺人犯のほうが大事である。」というめちゃくちゃな三段論法であります。いくら左に偏っている狂信人件屋でも、ここまでひどい言葉で被害者を侮辱した例を私は見たことはありません。もう開いた口がふさがらないとはこのこと。ぜひとも助凶呪に。い や、犯罪賛美学科の初代主任凶呪に!
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▽私の本当の記事は、被害者との救済とともに死刑囚の人権もあることを強調する内容だった。
▽このホームページのトップページは英語で「アンダーグランド大学」となっていた。だれが作ったかわからないが、筑波大学を匂わせていて、朝日新聞を徹底的に非難しているところを見ると、どんな思想を持っているか推測はできる。
▽笑ってしまうのは、その9年近く前に所属していた「企画報道室」の原裕司となっている点だ。サラリーマンだから、人事異動もあるし、今は全く違う部署にいるのを、いまだに知らないのです。おいおい、もっときちんと取材しろよ、と言いたくもなった。
▽それにしても、うすら寒いのは、匿名で投稿して、人を批判するやり方だ。
▽私は死刑の専門家とは思ってないし、左翼雑誌(こういう表現すらおかしいが)に投稿するばかりか、それこそ右翼の新聞にも投稿したことがある。
▽第一、左とも私は思っていない。
▽死刑に反対すると左になって、賛成すると、右翼なんだろうか。
▽ここまで書かれるとは、気持ち悪いのを通り越して、こうした人物のイライラが見えてくるようだ。
▽つまり死刑廃止という声を聞くだけで、過剰に反応する人種、ということなのだろう。
▽こんな被害に遭った事を、メーリングリストで投稿したら、ある学者からはこんな返信メールが届いた。
《困った被害に遭いましたね。
ネットでは、本当にデタラメがまかり通ります。私はホームページを開いてませんが、一時期、誰かが私の名前でホームページを開いていました。同姓同名ではなく、勤務先、年齢、独身、関心テーマ(日本軍「慰安婦」問題、人種差別問題)という具合に、完全に私の名前を無断使用していました。知人や、学生から「ホームページを見た」という話を聞かされたものです。しばらくして消えましたが。
また、別の掲示板では、私は21世紀を見ることなく、すでに死んでいることになっていました。葬儀の案内が書かれ、戒名までついていました。
こういう投稿をする連中は相手にするつもりもありませんし、相手にしようもありません。名前も何もわかりません。掲示板に抗議しても、主催者・管理者がデタラメだと、何も解決しません。私でさえこんな被害を受けていますから、有名人は、はるかにひどい被害を受けていますね。
いずれにしろ、被害を受けた事実はきちんと明らかにしていかないと、思わぬ二次被害がどんどん膨らんでいく恐れもありますから、本当に困ったものです》
▽こんなメールも届いた。
《ネットワークの掲示板で中傷されている件の最新情報(?)をいま死刑廃止MLにて拝見しました。原さんの主張(。。。というのもおかしい、ごく一般常識的な考え)は至極もっともだと思います。
ただ、私は計算機科学の専門家として、どうしても出典について調べたくなりました。(有り体に言えば、我らの構築した技術を悪用するのは、許せんってとこなのですが)
そこで、もし可能であれば情報の出どころを教えて頂けませんでしょうか。
調査結果を無断で公表することはしませんし、守秘義務を心得て
ご迷惑をおかけするようなことはしません》
▽このメールに対して私はこんな返事を出した。
《メーリングリストに載せた件ですが、Underground Univ.というホームページのGuestbookというところに載っていました。
▽インターネット検索でたどり着くと思います》
▽私は仲間にこんなメールを書いて送った。
《▽死刑問題については、私のこれまでの主張は、一貫しています。
▽単純化していうと、以下のようなことです。
====================================
▽死刑制度廃止を主張すると、決まって出てくるのは、「では被害者の人権はどうなるのか」という反論だ。
▽しかし被害者の人権、という考えには、やや無理がある。
▽被害者が死んでしまっている以上、「被害者の人権」というのは、正確には、亡くなった人間のプライバシーなどの問題であり、さらには被害者の遺族の精神的・金銭的なアフタケアであって、死刑囚を殺すことではない。
▽こうした考えにたって、私は新聞などで、こう主張してきました。
▽被害者の人権という考えには無理がある。被害者や遺族には、痛みを分かち合いたいが、しかしそれと同時に、なくなってしまった人間の人権という以上に、遺族の補償と死刑囚の人権を守れ、と。
=============================
▽今回、私を匿名で誹謗した人物のやり方は、一種、公安警察の手法に似ています。
▽つまり、「被害者に人権はない」と原は言っている、と極論を押し付けて、そのうえで、私の名前を勝手に使って、少年バスジャック事件で、「死んでしまった被害者に人権はない。少年の人権を守れ」とあたかも私が投稿したようにしたのです。
▽私を勝手に「左」ときめつけて、遺族に失礼極まりない、という文章。
▽この人物の手法で書くと、公安警察だって、こんなことはやらない、ということになるのでしょうか。
▽つまり、犯人憎し、という時期に、わざとそう主張して見せて、死刑廃止論の考えは誤っていると世論を誘導させたかったのでしょう。
▽こうなってくると、単なるいたずらではなく、功名に仕組まれた事件のように思いました。
▽しかも驚きなのは、僕が時折使うペンネームまで知っていて、「偽名」としていることでした。
▽僕がペンネームを使うのは、何も隠すためではなくて、職業上のためであって、いろいろ原稿をかき分けるためです。
▽ペンネームを知っているとなると、僕の周囲にいる人物、ということなのでしょうか。
▽相容れない考えを拒絶するために、匿名で誹謗中傷して、事件のときに僕の名前を使って、世論を怒らせる手法。銃口が向けられているような錯覚に陥ります。
▽考えてみたら、死刑廃止、ということが、この人物には一番嫌いなことなのかもしれません。嫌いな思想を持った人間を排除しようとする。まさにファシズムの世界です。
▽このメーリングリストを見ている方の中には、死刑廃止、というより、死刑存置の立場で読んでいる人も多いでしょう。
▽人間にはいろいろな考えがあるものです。死刑反対でも賛成でもいいと思います。
▽僕はそれを押しつけるものではありません。相容れて、議論するのが民主主義だと思います。それが人間社会です。
▽死刑存置の人たちは、なぜ堂々と議論ができないのか。
▽死刑廃止の運動周辺でおきる不気味なものを私は感じます。
▽この人物の住むのは、健全な世界ではないようです。
▽私は逃げも隠れもしません。
▽存置の人たちは、陰湿な公安警察の手法など使わず、堂々と議論すべきではないでしょうか》
▽今から四半世紀前の被害だったが、悪質な手口はインターネットの進歩とともに、さらに悪質になってきたと言える。
★757大相撲の人気力士遠藤の残念な引退(2025/10/30掲載)
▽大相撲の人気力士遠藤の引退をマスコミ各社が伝えていた。学生チャンピオンから大相撲に入り、将来が期待された大型新人だった。土俵で見せる四股では、頭より足が高く上がるその美しさは別格だった。しかし相次ぐけがで思った以上に昇進はなかなかできず、志半ばでの引退となった。非常に残念だ。
▽まずは引退を伝える新聞記事を見てみよう。
《大相撲の元小結で、九州場所で幕下に転落した遠藤(35)が現役を引退することが27日、複数の関係者への取材でわかった。年寄「北陣」を襲名する見通し。不祥事が続いた角界の人気を取り戻した功労者だった。
▽日大で実績を残し、2013年に大相撲へ。幕下10枚目格付け出しのデビューから3場所での幕内昇進は昭和以降最速。髪が伸びるのが出世に追いつかない「ざんばら髪」の力士として注目された。
▽暴力や八百長問題の影響で大相撲人気が低迷していた時期。テレビCMやファッション誌などに起用された遠藤の活躍は、新たなファン層を掘り起こす契機になった。
▽ひざや足首などのけがに苦しみ、期待された大関以上にはなれなかった。それでも高い技術と外連(けれん)のない取り口、勝っても感情を出さない沈着さも支持された。幕内通算480勝482敗。金星7個》(2025年10月28日付朝日新聞)
▽非常に好意的に書いている記事だ。
▽なぜ私が遠藤の引退についてこのコラムを書くのか説明する。
▽私は2010年4月に埼玉県越谷市の朝日埼玉支局に赴任した。支局の取材範囲に埼玉県草加市があり、そこに学生相撲チャンピオンだった遠藤が入った相撲部屋があったのだ。
▽遠藤に対する関係者の期待は大きく、将来は横綱となって優勝することも想定された。
▽その時に備えて私は朝日新聞社会面や地方版の雑観記事を書くために、地元に通い、支援する人たちの話を聞き、東京・両国の国技館にも通って、遠藤の相撲を見ていた。私はスポーツ記者ではなく、相撲担当記者でもないため、もちろん相撲観戦は自腹だ。
▽土俵に立つ遠藤の人気はすごかった。賞金が多くかけられて、遠藤が土俵に立つと場内は拍手で沸いた。
▽私は地元で取材を進め、関係者からも話を聞いてきた。
▽そしてあるイベントがあり、こんな原稿を書いている。2013年12月のことだ。
《まげを結えないざんばら髪。土俵で見せる四股では、頭より足が高く上がるその美しさ。今年の大相撲で、もっとも注目された力士が、草加市に相撲部屋を持つ追手風部屋所属の遠藤聖大だ。わずか所要3場所で幕内昇進を果たした。その遠藤に、同市に本社を置く建設機械会社が化粧まわしを贈呈した。
▽今年の9月場所。遠藤が土俵に上がると、国技館のファンからは毎回、盛大な拍手と声援が送られた。勝ち越しがかかった日、土俵では、191センチの旭天鵬を一気に上手投げで破り、観客席を沸かせた。関係者は「将来の相撲界を背負う」「角界のプリンス」という表現で絶賛する逸材だ。
▽石川県出身。日大4年の時にはアマ横綱のタイトルも獲得した。注目力士の角界入りだった。
▽入門した追手風部屋は、追手風親方(元力士・大翔山)が同郷出身で日大の先輩であることから、選択したという。今年3月の春場所で初土俵。名古屋場所では14勝1敗で十両優勝し、幕内昇進となった。昭和以降、最速の幕内昇進だ。その秋場所は9勝5敗1休の成績を残した。
▽この日、化粧まわしを贈呈したのは日立建機。遠藤の父親が石川県の建設機械販売会社に勤めており、同社の販売に大きく貢献していることから、贈呈を決めたという。東日本大震災でも活躍したという同社の特殊な油圧ショベルをデザインにしたししゅうを縫った化粧まわしだ。遠藤は「予想以上にデザインがよかった。僕の好きなピンク色です。この化粧まわしで来年も元気な姿を見せて、一つ一つ白星を積んでいきたい」と感謝と抱負を語った》
▽相撲には素人な私だが、かなり勉強をして書いた記事だった。
▽この化粧まわしの取材は本来は部下の支局員に行うよう指示していた。元々、注目された力士で、しかも草加市の相撲部屋。支局員にはかなり以前から取材するよう指示していたが、なかなか取材をしないまま、月日が過ぎていき、ついにこの日のイベントになってしまった。肝心の支局員は前日からグアム旅行に行ってしまった。
▽こんな取材をしながら、遠藤の優勝、さらには横綱昇進というものを期待していたが、結局はけがでダメになってしまった。
▽残念な遠藤の相撲人生だった。
★756新聞社のパワハラは昔から続いていた(2025/10/29掲載)
▽今でこそパワハラが社会問題となり、加害者の責任が糾弾されるようになったが、私が新聞業界に入ったころはパワハラは当たり前と言う風潮があった。パワハラは叱咤激励の意味を含めて、指導するという誤った解釈もされていた。今振り返ってみるとひどかったし、私はパワハラの被害をかなり受けていた。
▽私は北海道新聞に7年在籍し、朝日新聞に転職し33年5カ月勤務し、退社した。計40年間の新聞記者生活だったが、若いころ、そして中堅になってもパワハラを受けてきた。
▽北海道新聞社内のパワハラもひどかった。最初の赴任地、小樽支社報道部ではキャップがパワハラをずっと行っていた。気に入らないと怒鳴るし、勘違いしても怒鳴り散らす。特ダネを書いても怒鳴られた。何にムカついているか分からなかった。私の立場そのものが不愉快だったかもしれない。ひどいキャップだった。朝から晩まで怒鳴られた。体調がおかしくなり、5分に1回トイレに駆け込むようになった時期もある。小便も大便も出なかった。
▽3年半後に転勤になった江別支局でもパワハラに遭った。支局長がパワハラそのものだった。朝支局に出ると、挨拶する時に、
「こちらに顔をなんで向けないのか」
と言って怒られた。こっちは原稿用紙に原稿を書いて仕事をしている時だった。まさにパワハラ。今でこそパワハラに認定される事案だが、こんなことが毎日続いた。ひどかった。最後は右足がしびれるようになった。精神的に不安定になった。いじめだ。
▽パワハラは北海道新聞だけではなかった。朝日新聞に転職し、最初の浦和支局でも当時の支局長のパワハラは酷かった。このホームページでも書いているが、ちょうど連続幼女誘拐殺人事件が続いている時で、支局長も熱くなっていた。支局では部会が毎日、深夜まで続き、支局長はことあるごとに、
「抜かれたら飛ばすからな。俺は常にそういう人事をやってきた」
と怒鳴った。人事権を盾にして、部下を怒鳴り散らした。
▽この支局長、本社に上がって、部長になった途端、今度は私に向かって、こう言い放った。
「君の人事権を持っているのは、俺だ。この意味が分かるか」
▽これって、完全なパワハラだ。パワハラを堂々と行う部長。これが朝日新聞の当時の実態だった。
▽要するに職制のある職場で、肩書が上になり、人事権という権力を握ると、使いたがる典型的なケースだった。
▽北海道新聞も朝日新聞も現在、パワハラがなくなったとは、言えるだろうか。答えは「否」だ。
★750iPhoneの機種変更は厄介な作業が待っていた(2025/10/21掲載)
▽やっとiPhoneの機種変更をした。機種変更をすると、厄介な作業が待っているので、延ばしに延ばしをして、4年8カ月使ってきたが、そろそろ限界だと思った。厄介な作業について書いていく。
▽これまで使っていたのは、iPhone11Proという機種だ。auでローンを組み、毎月1万2000円ほどの料金が機種代の割賦と契約料金でかかっていた。それをドコモのアハモ(ahamo)という契約に変更したことで、料金が半分ほどになり、ここまで使ってきた。しかし、通信速度は4Gのままで、そろそろ5Gの通信速度が利用できる機種を、と思っていた時に、ドコモのキャンペーンがあり、一年前に発売されたiPhone14に機種変更したのだ。
▽厄介な作業とは、この機種変更に伴い、インストールした各種アプリを再設定しないとならない、ということだった。各種アプリの再設定の面倒くささだ。再度個人情報を登録し、設定のための暗証番号を入れ直す、という作業を前回、痛い目に遭って続けた経験がある。だから、このiPhone11Proを使い続けてきた。
▽銀行のモバイルバイキングを扱う専用アプリやモバイルSuica、LINE、ApplePayの登録、AppleWatchとの連携アプリなど、各種アプリの再設定が異様に難しかった経験がある。特に銀行のモバイルバンキングのアプリは、二重認証のシステムを使っていてに、登録した自宅の電話に電話がかかり、その暗証番号を登録するという作業で大変な思いをした。当時私は単身赴任をしていて、登録していた電話は自宅の番号だったため、単身赴任先での設定ができなかったのだ。
▽こうした嫌な思い出があったため、機種変更は伸ばすに伸ばすし、結局iPhone11Proは2回もバッテリーを交換し、4年8カ月も使い続けてきたのだ。
▽今回機種変更したのは、ショッピングセンターでドコモがキャンペーンをしており、1年前に発売されたiPhone14ならば、安くなることで心が動いた。
▽私はiPhone11Proのほか、BIGLOBEで契約しているシャープのスマホをサブとして持っており、実際はこのシャープのスマホを機種変更しiPhone14にして、ドコモの契約をした。それと同時にその新しいiPhone14に入れたSIMカードと、iPhone11ProのSIMを交換し、事実上iPhone11ProからiPhone14への機種変更となった。
▽ドコモの契約は、アハモ契約なので、窓口での応対は全くない。だから自分で新しいiPhone14の設定をしなくてはならないのだ。
▽そして各種アプリの再設定だ。古いiPhone11Proと新しいiPhone14を繋げて、データをコピーして、各種アプリの再設定を少しずつ行っていった。
▽モバイルSuicaとPayPayの設定作業は簡単だったが、やはり銀行のアプリには手間取った。
▽また各種ポイントや金額がチャージされる各種ショップの独自のアプリも使えるようになった。セブンイレブンで使うナナコは再設定がやや難しかったが、何とか使えるようになった。nanacoにチャージしていた約1000円の金額も使えるようになった。
▽ただしイオンペイとJAFのアプリは再設定がまだ済んでいない。
▽そして新しく使い始めたiPhone14。テザリングでWi−Fiのポケットルーターとして使っても、それなりの速度が出ている。アハモでも問題はなかった。安いから気に入っている。
★748マスコミ市民と西岡利延子さんの死去(2025/10/17掲載)
▽月刊誌「マスコミ市民」という雑誌をご存じだろうか。その編集部にいた編集者の話を今回は綴りたい。
▽月刊誌「マスコミ市民」の歴史は長い。元々はNHK労組が支援する形で半世紀前に刊行されて、その後独立した。新聞やテレビが権力側とどう対峙して、報道していったかを、現場記者が匿名でリポートする雑誌だった。書店には置いておらず、会員読者に郵送で送っていた。
▽良心的な雑誌だった。ジャーナリズムの精神を貫いていた。ヒロシマ、ナガサキを原点としていた。
▽私は学生時代から知り合い、その編集者とも知り合い、何本か原稿を書いていった。ただしその編集者、中奥宏さんは早くに病死してしまった。勉強家で優秀な編集者だった。
▽その「マスコミ市民」が生まれ変わったとして、出資者を募り、新たな資金を得て、事務所を移したのは、私が朝日新聞東京本社にいる時だった。新たな経営責任者と編集者が加わり、私は依頼された連載記事を書くようになった。「マスコミ現場から」というタイトルで、阪神大震災やオウム取材現場、整備新幹線問題などを書いていった。
▽だが、「生まれ変わった」とは見せかけだった。最初はもらっていた原稿料も滞るようになり、社員への給料も遅配するようになった。さらには新たに加わった経営責任者と名乗る人間が、会社の経費を私的に流用していることが明らかになった。自分のスーツのクリーニング代などを経費として請求するなど、公私混同が目立った。最後は社員の編集者が会社への入金を差し押さえる裁判に出て、「マスコミ市民」のずさんな経営が表面化し、休刊を余儀なくされた。
▽その給料遅配に対抗し差し押さえに動いたのが、当時の編集者、西岡利延子さんだった。私の連載原稿を担当し、采配してくれた。見事な編集ぶりだった。
▽経営責任者の言動がおかしい、という彼女の指摘で、その男の行動をチェックすることを、彼女と一緒にしてみたこともあった。
▽その後、彼女は雑誌『教育と医学』(慶應義塾大学出版会)の編集者に転職し、仕事を続けた。
▽同じ早稲田大学出身ということで、意気投合し、高田馬場駅周辺でよく飲んだ。私が本社から上越支局、北海道報道部、渋川支局、本社、東埼玉支局、佐渡支局、秩父支局とめまぐるしく転勤しても、時折東京で会っては酒を飲んでいた。
▽そして数年前に打ち明けられたのが、乳がんの発症だった。手術をして、成功し、しばらく元気だったが、再発したらしく、電話の声は小さかった。
▽そしてこの数年、彼女との連絡は途絶えた。
▽最近知ったのが、ネットで情報だった。彼女を「故西岡利延子さん」と称して、感謝している文章に出会った。直接のニュースではなく、既に「故人」となっていたことを知った。私はしばらく呆然としていた。
▽そして「マスコミ市民」は新たな有志の力で復刊していた。知り合いの二人の編集者が亡くなった今、私とのかかわりは全くなくなってしまったが、良心あるジャーナリズムの道を進んでもらいたいと思っている。
★746アジア太平洋戦争の現地に当時の新聞社が送った膨大な特派員とその写真(2025/10/15掲載)
▽アジア太平洋戦争の戦場に日本の新聞社から送られた新聞記者やカメラマン、さらには記事や写真を内地に送る技術者たちの実態を、克明に調べたのが、「戦争特派員は見た 知られざる日本軍の現実」(貴志俊彦著、講談社現代新書)だ。毎日新聞の前身、大阪毎日が秘蔵していた写真を元にして、毎日新聞と協力し、どんな写真が新聞に掲載され、どんな写真が掲載されなかったか、軍の検閲はどんなものだったのか、自主規制はあったのか、なかったのかを調べ上げた。貴重な資料だ。
▽交戦する日本軍兵士の写真や、捕虜となった英国軍の行進写真、死の直前に砲弾を受けた写真など、掲載許可がされた写真や、「不許可」となった写真を取り上げて、当時の軍の検閲がどんなものだったかを解説している。中には自主規制で掲載されなかった写真もある。新聞社内で自主規制の部署も作られた結果だ。
▽そして改めて驚くのは、当時の新聞社が多くの記者、カメラマンを陸軍に同行させていた事実だ。戦地が拡大していくと、地元に支局を作り、さらには現地邦人へのサービスの一環として現地での印刷も始めた。さらには現地での子会社も作って、部数拡大に意欲を燃やしていた。戦争で新聞の部数が伸びるというのは、事実だった。
▽本書では、残された写真を1枚1枚検証し、当時の戦地での状況を踏まえながら、写真説明をしている。当然ながら検閲はあるし、自主規制した写真もある。未掲載写真もある。こんな場所にまで多くの記者が現地に行って驚く。残された写真の中には、現地の支局長以下、部下との集合写真もあった。
▽当時の技術では、新聞記事こそ無線を使って内地に送れるが、写真だけはフィルムを現像し、印画紙に写真を焼くことが必要だ。どこで現像し、どこで紙焼きをするのかも大きな課題だった。この本によれば、現地で現像し、紙焼きした写真を船で搬送していた。
▽アジア太平洋戦争と言うと、太平洋ばかり目を向くが、東南アジアに日本が侵略し、新聞社が現地に多数の記者を送っていたことを私は改めて知った。そして戦士した記者たちがいかに多いかもわかっている。
▽筆者はこう書いている。
《新聞社の特派員たちが残した戦中写真を目にしたとき、戦争という極限状態に置かれても、軍の意向に沿ったプロパガンダ写真だけでなく、命をかけても撮影したいという瞬間が存在したことに気づく。特派員たちは日本各地から集められ、その多くが二〇代から三〇代の若者たちだった。彼らが撮影した一枚一枚の写真には、たんなる瞬間を捉えた記録以上の意味や意義が秘められていた》
《検閲にかけられず、それでも公表されなかった写真、たとえば新聞社の忖度や紙面構成上の理由から秘蔵されたままのあるいは個人的な好みによって無視された写真も少なからずあり、その中には、現代的な視点で見ると、価値あるスクープが潜んでいる可能性がある、それをぜひ発見したいという気持ちである》
▽こうした当時の写真の意味が解明されることで、現地で亡くなった特派員らは、無駄死ではなかったことが証明されよう。二度と過ちを繰り返さないために。
★744戦前の治安維持法と特高警察について解明を続ける小樽商大の荻野富士夫名誉教授(2025/10/13掲載)
▽今年(2025年)10月10日、朝日新聞は戦前の治安維持法や特高警察に詳しい小樽商大の荻野富士夫名誉教授のインタビューを載せた。翌日11日には、さいたま市で市民ジャーナリズム講座で荻野氏が講演をしており、私も参加した。偶然だが、私は朝日新聞記者として四半世紀前に荻野氏にインタビューしており、今回はその話を振り返りたい。
▽講演会などで語った荻野さんの主張はこうだ。満州事変から日本のアジア太平洋戦争敗戦までを戦争と定義し、満州事変前はその前夜にあたるとして、戦後の日本に当てはめると、第一次安倍政権から強引に進めてきた特定秘密保護法などの法律成立や日本学術会議への介入などの動きは、治安維持法や特高警察の動きと重なる。今は戦争の前夜だという指摘だ。戦前の治安維持法によって、特高警察がどれだけ民衆を弾圧し、無実の罪で人を殺していったかを、荻野氏はことさら強調している。
▽私は2001年10月、北海道小樽市で荻野氏へのインタビューをしている。当時私は朝日新聞北海道報道部に異動したばかりで、荻野氏とは何回かのメールの交換でインタビューが実現できた。
▽そのインタビューの生原稿を紹介する。
《戦前の日本で人権弾圧に猛威を振るった特高警察。道内では小樽出身のプロレタリア作家小林多喜二が東京・築地署の特高警察に逮捕され、獄死したのは有名な話だ。だが、この特高警察の背景には、検察がエリート官僚として「思想狩り」牛耳っていた史実はあまり知られていない。戦前から戦後に続く思想検察の系譜について、小樽商大の荻野富士夫教授が解き明かした『思想検事』(岩波新書)に注目が集まっている。
▽『思想検事』は、現代史と近代史を研究する荻野教授が昨年秋に出版した新書だ。全体で218ページで、思想検察の誕生と経緯、戦後まで描いている。
▽荻野教授によると、戦前の抑圧統制の担い手は特高警察だけではなく、その両輪をなしたのが、当時の司法部(司法省・裁判所)だった。悪名高い治安維持法の成立と改正で治安諸法令を運用して、「思想司法」と呼ぶべき機能を創出。その実質的な担い手となったのが「思想検事」だった》
《本書でも指摘されているが、小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』で描いた拷問の描写は、特高警察が思想弾圧の最前線にいたことを示唆しているが、それだけでは説明しきれない広がりがあった、と説明。特高警察の解明だけでは、戦前の社会運動や思想、信教がどれだけ弾圧を受けてきたか説明できないことに気づいた、という。
▽「特高警察の弾圧についての研究書や資料の復刻版は多いが、思想検察について体系的に研究したものがこれまでなかった」。以前手がけた資料や現存している文書などを手がかりに、体系化した。治安維持法が公布された2年後の1927年、東京地裁検事局に「思想部」が新たに創設され、翌28年には思想検事が全国に配備されていった経緯から、左翼運動の弾圧と転向、さらには戦後の公安検察までの流れを、日中戦争、対米英開戦、敗戦までの時代背景をふまえて、一般にも理解できるよう執筆した》
《「弾圧の苦い経験者も、背景に思想検察があった、と認識している人は極端に少ないと思う」と荻野教授。本書は結びで「戦前治安体制の主役、特高警察は思想検察があって、はじめてその本領が発揮できた」と指摘したうえで、その流れが断ち切れることなく戦後に続いた、と戦後の公安検察にも言及。オウム事件でも注目された破壊活動防止法(破防法)については、こうした思想検察の中枢人物が戦前のファシズムについて何ら反省もしないまま、制定の当事者となった、と痛烈に批判している。
▽荻野教授は「政治など『戦前と戦後の連続性』というテーマについて今後も研究を進めたい」と抱負を語っている》
▽この原稿で紹介した新書「思想検事」はたまたま私が書店で見つけて購入し読んだもので、売り込まれたものではない。そしてたまたま異動した北海道報道部で取材をした。小樽市には電車で往復した。
▽今読み返しても、良い記事だなと思っている。荻野氏はその後も治安維持法の研究を続けている。今の日本を「戦争前夜」だとして、危険性を訴えているのだ。
★742私が変なのか、若者が変なのか、スマホの電話としての持ち方(2025/10/09掲載)
▽最近、スマホの変な持ち方をして歩きながら通話している若者を見かける。私のような昭和の世代だと、電話の受話器のようにスマホを持って通話をするのが一般的だと思っていたが、若者たちは違っていて、スマホ本体を水平に持ち、スマホの下部にあるマイクに向かって話しかけているのだ。私が変なのか、若者が変なのか。
▽その変なスマホの持ち方で話しながら歩いている若者を見ると、必ず無線のイヤホンを装着していることが分かった。イヤホンで相手の通話を聞き、マイクで相手に話しかけているのだ。しかし、最近の無線イヤホンはマイクを内蔵しており、別にスマホのマイクに話しかけなくても通話できるのに、と私は疑問に思ってしまう。
▽そこで想像するのは、スマホの画面に、相手の顔を映し出してテレビ電話をしているのではないかと言うことだ。しかしそれでも疑問は残る。スマホを水平に持つ必要はないのだ。
▽私は昭和生まれだから、電話は受話器を耳に当てて、マイクのある部分に口を当てて通話していた。これが普通の会話の使い方だった。
▽その後携帯電話が誕生し、今のようなスマホになっても同じような持ち方をしている。これが普通の持ち方だと思っていた。各スマホメーカーも昔ながらの電話の受話器と同じような会話をすることを想定して、スマホのマイクの位置やスピーカーの位置を決めている。こんな若者のような使い方は想定していないはずだった。
▽それともう一つ。こうしたスマホの変な使い方で通話をしている若者に共通するのは、話し声が大きいということだ。よくそんなに大きな声で話ができるのかと驚くこともある。
▽若者よ、もう少し静かに喋ってくれ。通常の電話の受話器のように耳に当てて話しておくれ。私が変なのか、それとも若者が変なのか。疑問は尽きない。
★737高校同窓会に出て感じること(2025/10/02掲載)
▽みんな少し年を取ったな、と時々思うようになった。高校時代の同学年同窓会幹事を引き受けており、時折会合で会う友人の顔を見ていると、そんなことをふと思うようになった。
▽私が卒業した千葉県立東葛飾高校の同学年の生徒は約339人いた。私は高校卒業後、高校時代の友人との付き合いはあまりなく、そのまま大学を卒業して、当時の高校時代の友人との付き合いはなくなっていた。それが還暦を迎えた還暦同窓会があることを知り、誘いに乗って出席した。
▽出席者は150人ぐらいいただろうか。男性の顔は6割から7割分かったが、女性の顔は半分以上分からなかった。私のクラスメートで私が好きだった女の子も顔が丸くなってしまい、最初はだれか分からなかった。そんな中で既に亡くなっている物故者が10人もいたことに驚いた。
▽職業は様々だった。日産自動車の子会社の社長になってる人間もいれば、商社の子会社社長になってた人間もいた。医師も何人かいた。教師も多かった。最高裁に勤めている人間もいた。
▽翌年も同窓会をディズニーランドのホテルで開き、盛り上がった。その後、新型コロナウィルス感染の拡大で予定していた同窓会をなかなか開くことができず、昨年(2024年)、久々に同窓会を開いた時、出席者は100人に減っていた。新たに物故者が出て20人になっていた。その中には、私の親友でその親友の妻になったN子さんもいた。難病だったらしい。
▽先日は野球部のエースだったT君が亡くなったことを知らされた。
▽今年(2025年)11月にも同窓会を計画しているが、出席予定者は90人に減っている。次第に次第に人数が入っていくのが気がかりだ。
▽さらには連絡が取れない人も出てきている。
▽いつまで同窓会が続けられるか分からないが、みんなまだ元気であってほしいと私は思っている。
▽幹事会後の飲み会も楽しい。柏駅近くの居酒屋でビールや日本酒を飲み、昔話に話が咲いた。先日はこんなことを言われた。
「数学しかできなかった原が、なぜ新聞記者がやっていたんだ」
▽確かにそう。私は高校時代、数学しかできなかったのだ。それが40年間も新聞記者をやってるんだからと我ながら思った。
▽東葛飾高校は創立100周年になるという。それなりに歴史のある学校なのだ。自由な校風が好きだった。
★736顔が分からない着用マスクの功罪(2025/10/01掲載)
▽私は2021年8月を持って朝日新聞秩父支局を最後に、朝日新聞を退職した。秩父支局は埼玉県秩父市にあり、県内の取材を統括するさいたま総局はさいたま市にある。私はこのさいたま総局にいる記者の半数以上の顔が分からないまま退職した。そう、マスクが原因だった。
▽2020年に国内でも発生した新型コロナウイルス感染の拡大で、取材にはマスク着用が当たり前となった。私は月に1、2回、秩父支局からさいたま総局に上がって、内勤の夜勤勤務に就いていた。夕方、デスク席に着席し、泊まり勤務の記者とともに内勤業務に当たる勤務に就いていた。朝刊当番デスクの補助と、県内の記者が書いた原稿の校閲チェックが主な仕事だ。
▽当番デスクも含めて、全員の記者がマスクを着けている。総局長もデスクも含め、何人かの記者の顔は知っているが、新型コロナウイルス感染拡大後に着任した記者や新人記者の顔は、マスク着用のため、顔が分からないのだ。男性記者も、女性記者も顔がほとんど分からないまま。分かるのは昔から知っている後輩の顔だけだった。
▽部会でも同様だった。マスクを着けているので、どんな人間かも表情すら見て取れなかった。心の中ではこう叫んでいた。
「頼むから、マスクを取ってほしい」
▽その願いは叶わなかった。
▽退職の直前、最後の最後にさいたま総局内で私の送別会を開いてもらい、そこでビールを飲んだ時、顔が少しわかった程度だった。しかし、わずかの時間だったので、顔は覚えられないまま、私は会社を退職した。おそらく多くの記者も私に対してはそう思ったのだろう。仲間の記者の顔が分からないままだった。
▽もともと私はマスクが嫌いなので、子供の頃からマスクなどした事はなかった。新型コロナウイルス感染拡大で、マスクを着用を余儀なくされた。仲間の記者の顔が分からないまま退職すると思わなかった。
▽安全のためのマスク着用だが、別れらしい別れもできなかったのだ。
▽だから、顔を覚えることが出来なかった後輩たちと町で偶然会ったとしても、分かることはないだろう。そんな退職だった。
★734驚くフィルムカメラの復活(2025/09/29掲載)
▽カメラ量販店の店頭で先日、新しいフィルムカメラが売られていたので、少し驚いた。一部の愛好家やファンが、フィルムカメラをいまだに使っていて、その市場がある事は知っていたが、実際の店頭で新たにフィルムカメラが開発されて売り出されているとは正直思わなかった。開発したメーカーの発想に驚く。
▽私は40年間、新聞記者を続けてきており、取材では写真も撮る作業を続けていた。最初の15年間はフィルムカメラだったが、次第にデジタルカメラに推移し、会社の本社や地方支局でもフィルムカメラを扱う事はなくなった。フィルムの現像に使う暗室もなくなった。
▽40年間を振り返れば、撮影した写真はすべて報道写真だ。報道写真とは、スポーツ写真で分かるように、その一瞬を切り取って写真にする作業だ。その一瞬を撮影するには、カメラに連写機能が欲しいし、写真を写すフィルムも長い方がいい。
▽だからフィルムカメラでの撮影は、連写をしたら、アッと言う間にフィルムはなくなってしまう。連写の速度も今のデジタルカメラのようにそんなに速くなかったから、一瞬を切り取る作業を失敗する可能性も高かった。
▽その点、デジタルカメラはカメラの性能が進化し、連写も速く、記憶媒体であるSDカードやコンパクトフラッシュカード、XQDカード、CFexpressTypeBなど容量が増えて、一瞬の切り取り作業が大幅に向上し、大量に写真を扱うことができるようになった。報道写真撮影に貢献してきたのだ。報道写真にとってはこれは大きな進化だった。
▽例えば野球の場合。フィルムカメラにモータードライブを撮影しても、1秒間に6コマから8コマの撮影が限度だった。これがデジタルカメラや現在のミラーレスカメラだと1秒間に14コマから20コマ撮影出来る。投手が打者に球を投げて、打者がバットを振る瞬間を高速連写できれいに一瞬を撮影できる。フィルムカメラでは到底できない作業なのだ。だから私はこのフィルムカメラからデジタルカメラへの流れは歓迎したし、現在もそう思っている。
▽しかし一方で、フィルムカメラに愛着を持つ愛好家やファンもいることも確かだ。デジタルカメラでは表現できないような撮影技術もあるようで、芸術的な写真を求めてる人が使っている。ヤフオクを見ても、中古のニコンのフィルムカメラがそれなりの値段で売られているし、実際にフィルムカメラで撮影した写真家の作品展にも取材したことがある。デジタルカメラでは表現できないようなことがフィルムカメラではできると言うのだ。
▽おそらくこういう芸術性を求める写真家たちは、1枚1枚を丁寧に撮影して表現しようとするのだろう。報道写真とは全く趣旨が違うのだ。
▽私はフィルムカメラに愛着をそんなに持っていないが、フィルムカメラをかなり使ってきた者としては、懐かしさもある。撮影したフィルムを現像し、写真を焼くという作業は、それなりにプロの世界として面白かったし、この一連の作業ができることが、一人前のプロになると信じていたのだ。
▽デジタルカメラはそうした世界観をすべて変えてしまった。しかし、一方で、フィルムカメラにこだわる人もいるのは事実なのだ。その意味では、フィルムカメラを新たに製造したメーカーに敬意を表したい。
★732強豪校のさいたま市立浦和南高校サッカー部(2025/09/25掲載)
▽私が毎朝のジョギングで使っているコースの一角にあるのが、さいたま市立浦和南高校だ。公立のサッカー強豪校として知られる。土日曜日の同高での練習試合があると、近くの歩道橋から観戦する人も多い。私もその一人だ。
▽さいたま市南区辻6丁目にある高校で、高速道の外環道にも面している。JR埼京線北戸田駅から歩いて10分の距離にある。
▽ネットにアップされた概要によれば、2012年から、ニュージーランド・エレスメアカレッジと姉妹校提携。2年生の時に行われる海外研修旅行(修学旅行)は、全員がオーストラリアへ行く。
▽2013年度入学生から「進学重視型単位制高校」に移行し、55分6時間授業を採用している。1年生で英語・数学などで少人数授業が行われ、2年生から文系・理系の2類型に分かれる。
▽こんな公立高校だ。
▽特筆されるのが、サッカー強豪校として、全国高等学校サッカー選手権大会に3度優勝し、高校サッカーにおいての古豪校として知られている点だ。
▽こんな風に紹介されている。
《・全国高等学校サッカー選手権大会 出場12回・優勝3回
・全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 出場12回・優勝1回
・国民体育大会 優勝2回
▽松本暁司監督の下で1969年度(昭和44年度)に全国高等学校サッカー選手権大会・全国高等学校総合体育大会・国民体育大会(当時は単独チームで出場)の高校サッカー三大タイトルを制覇した(国体は現在、都道府県選抜チームによる競技となっており(単独チームでの出場も可能だが、単独チーム名ではなく、県選抜の扱いになる)、出場資格も、高校2年生までとなっている。)。この頃の活躍が漫画『赤き血のイレブン』のモデルとなった》
▽数多くの日本代表選手を輩出している高校だ。
▽開校は1963年で、浦和市立高校に次ぐ2校目の浦和市立高校として誕生した。当時は合併前で、浦和市立南高校という名称だった。浦和市や大宮市が合併し、さいたま市が誕生したことで、校名を現在の名称に変更している。
▽2017年には、県内の公立校では初めて校庭を芝生化した。
▽この芝生化の事業を私はジョギングやウォーキングなどでずっと見守っていたので、驚いた。公立高校のサッカー場が芝生化にするとは、と。かなり贅沢な環境だと思った。それだけ同高サッカー部に対する期待値が高いということなのだろう。
▽そしてその芝生化の効果があったのだろう。翌年の高校サッカー選手権大会県大会で優勝し、選手権に出場している。私が担当記者だったら、その芝生化と優勝を関連付けて記事にしていただろう。
▽県大会で優勝した時、朝日新聞埼玉版の紙面の扱いが小さかったので、私はベテラン記者としてさいたま総局デスクに注意喚起の電話をして、県版トップ記事に格上げさせたこともあった。
▽同高サッカー部のホームページには、こんな文章を載せている。
《「浦和を制するものは埼玉を制し、埼玉を制するものは全国を制す」》
▽サッカーの街、浦和らしい合言葉だと思う。
▽サッカー強豪校として知られる同高だが、一方で野球部はない。これはちょっと寂しい話だ。
★731AppleWatchとジョギング
▽AppleWatchを初めて使ってからもう何年にもなる。何台も買い換えて使ってきた。いろいろな機能があるから便利だという理由ではない。ジョギングなどで使う場合、ジョギング後にiPhoneと連携してiPhoneに表示される地図を見るのが楽しいのだ。
▽AppleWatchには、「ワークアウト」というエクササイズをするアプリが搭載されている。当初はランニング用の腕時計の機能としてて使ってきたが、それだけではない面白さを知った。iPhoneとブルーツゥースなどで連携すると、走った走行ルートが地図になるのだ。どこをどのように走ったか、市街地の地図で走行ルートが表示される。これが面白い。夏でも冬でも、市街地や河川敷、新幹線高架下などを走り、走り終えた後にiPhoneで表示される地図での走行ルートを見ると、走り終えたという達成感を可視化できるのだ。
▽走行ルートが可視化できるという事は、さらに応用も進む。歩いていてもこのエクササイズのアプリを立ち上げて歩くルートも表示されるのだ。いろいろ歩いていくと、そのルートが幾何学的な模様になることがある。歩いていて芸術的な走行ルートが絵のようになる。これが面白い。
▽私がAppleWatchを愛用してるのはこの点だ。通常の腕時計ではできない機能だ。
▽もちろん、iPhoneにかかってきた電話の通知や、着信したメールの通知なども便利だ。時計としても、電波時計と同様、1秒の狂いもない。ロレックスに代表される高級な腕時計をほしがる人はいるが、多機能という点から見て、AppleWatchは捨てがたい。
▽欠点もある。充電しても1日しか持たないので、夕方から夜に充電し、翌朝起床してから使い始める。この点は通常の腕時計の方がかなり持つ。
▽また、OSのバージョンアップの影響で、ジョギング中のロックボタンがなくなってしまった。これは水滴のボタンを押せば同じ機能になるので、それを使っているが、ちょっと不便だ。
▽これまでの私のジョギング人生では、いろんなジョギング用の腕時計を使ってきたが、単にランニング時間を図る機能しかなかった。その点AppleWatcは全く違う機能を提供してくれている。歩いたり、走ったりしてそのルートが地図になることで、満足度が可視化出来る。たったこんな一つの機能だけでもAppleWatchは楽しくなる。
▽今ではAppleWatchUltra2を使っている。
★729座骨神経痛と通っていた整形外科病院の閉院にショック
▽私がここ数年通っていた整形外科病院が閉院することになり、ショックを受けている。私はかなり前から座骨神経痛を患い、週に1~2回、この病院に通っていた。それが出来なくなるだけではなく、新たな病院探しもしなくてはならない。やや不安になってきている。
▽こんな告知が、この病院のホームページにあった。
《2025/08/21
大変急なご連絡で申し訳ありませんが、諸般の事情により(院長やスタッフの体調不良などの問題にて)、当院は本年9月20日(土)をもちまして閉院致します。また、8月一杯は通常診療ですが、9月1日(月)より、再診の患者さんのみの診療とし、新患や、今までと別の所の痛みに関しての診療は、受け付けられませんので、ご了承ください。今まで当院に通院されていて、紹介状が必要な方には、ご希望があれば作成致します》
▽えーっと私は思った。ずっと通っていた病院がなくなるのだ。通えなくなるのだ。
▽その前に私の座骨神経痛の歴史を説明しよう。
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時だ。日課となっている朝のジョギングで異変を感じ始めた。右臀部に鈍い痛みを感じるようになった。渋川市は関東平野の北限に位置しており、坂道が多く、その坂道を毎日のようにジョギングしていて、疲労感だと最初は考えていた。しかし、休んでも治らなかった。疲労ではないとすると、シューズが足にフィットしないのかとも考えて、ジョギングシューズを買い換えたり、インソールを特注して、痛みを取ろうとした。ふだんの日常の靴も、足の形にフィットするものを選んだ。しかし治らなかった。ジョギングのたびに痛みが出た。
▽そして右臀部のくぼみがある部分を指で押すと、痛みが出た。インターネットなどで調べて、これは座骨神経痛ではないかと疑うようになった。
▽専門の病院に行くことにして、隣町の整形外科に行き、診察してもらった。その結果、座骨神経痛だと診察された。レントゲン撮影で、椎間板の軟骨が飛び出して、神経に触れていて、これが右臀部の付け根に痛みが出ていると医師に言われた。
▽治療は二つあると言われた。一つが保存治療で、椎間板のその患部はそのままにして、定期的に身体全体を牽引して、軟骨の突出を和らげる方法。平行してビタミンB12の錠剤を毎日摂るように言われた。もう一つが外科手術。軟骨を除去する手術で、こちらは痛みがすぐになくなるが、再発も多いと言われた。
▽私は躊躇することなく、保存治療をする道を選び、その病院に週2~3回通い、リハビリの牽引を受けて、ビタミン剤を処方してもらった。
▽この治療が良かったのだろう、数カ月すると、座骨神経痛の痛みはなくなり、ジョギングもふだん通りの走りが出来るようになった。
▽そして待っていたのが転勤だった。東京本社に異動になり、その病院に通うことが、物理的に無理になった。このため自宅周辺で探し当てたのが、今の病院だった。
▽この病院では、私の説明を医師が聞き入れてくれて、同じように牽引のリハビリを定期的に受けて、ビタミン剤を処方してもらった。
▽そして数年後。さらに私は転勤になり、新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に転勤になった。ここでも同じように対応してくれる病院を探した。しかし最初に行った市立病院がひどかった。私の説明も要望も全く聞こうとせず、いきなりレントゲン撮影をしただけで、その結果を私にキチンと説明出来ないままだった。若い医師だったので、レントゲン撮影で座骨神経痛の原因となる椎間板の見分けも出来なかったのだろう。ビタミン剤の処方もしてもらえず、私は引き揚げた。酷い対応だった。この病院で座骨神経痛を治療してもらうことは出来ない。そう私は判断した。市の幹部に抗議だけはしておいた。
▽仕方なく、別の私立病院に行き、事情を説明し、ビタミン剤だけを処方してもらい、佐渡支局の3年間を過ごした。
▽さらに転勤し、今度は埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤になった。ここではまともな整形外科医院がなく、病院選びは難航した。結局、週末に自宅に帰ることを利用して、かつて通っていたさいたま市の整形外科病院に行くことにした。これが現在でも続いている。
▽このように座骨神経痛の治療一つ取っても、対応が出来ない病院があることが分かる。だから私の現在の体調を知っているこの病院が閉院することに私はどうすればいいのか、と思ってしまうのだ。
▽さらにはジョギング中に転倒して右肩の脱臼をした時も最初に行った病院がこの病院だった。駅の階段で転倒した時もこの病院にお世話になった。
▽この病院の医師に、問診の時に話を聞いた。年齢的にきつくなってきたのが閉院の理由だという。
▽私は、「長い間、ありがとうございました」と感謝を述べた。
▽なお椎間板ヘルニアについては、2025年8月24日付朝日新聞でこんな記事を載せている。
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(どうしました)腰のヘルニア、手術の目安▽上田茂雄さん
▽60代女性。20年近く前に腰のヘルニアと診断され、数年おきに痛みが出ます。毎回、注射と服薬で痛みが治まるのを待つ状況。座っても立っても寝ても痛く、通院以外の外出はできません。今後、頻繁に激痛に襲われるかと思うと憂鬱(ゆううつ)です。手術に踏み切った方が良いですか。(広島県・D)
▽■答える人▽上田茂雄(うえだしげお)さん▽信愛会脊椎脊髄(せきついせきずい)センター長=大阪府交野市
▽Q▽腰のヘルニアとは。
▽A▽腰椎(ようつい)の骨と骨の間にある椎間板(ついかんばん)が割れ、クッション機能を持つ髄核が飛び出して、神経を圧迫します。おしりや太ももの裏に痛みが出ることが多いですが、割れた場所や、神経へのあたり方によって変わります。
▽ほとんどは自然に治るので、手術以外の方法で様子をみます。症状に合わせて鎮痛薬を使い、痛みが強いときは、神経の近くに痛み止めをうつブロック注射を行います。痛みのピークを抑え、少しでもしんどくないようにするのが狙いです。
▽Q▽手術を検討する目安は。
▽A▽まれに、神経が圧迫されて脳からの命令が伝わらず、排尿や排便をコントロールできない状態になります。尿が出なかったり、便が漏れたりすると緊急手術が必要です。尿の勢いがない、切れが悪いというのも排尿障害の一つですので、手術は選択肢に入ります。
★728ジャーナリストと新聞記者
▽これだけははっきりと言いたい。インターネットが発達した現代、ジャーナリストを自称する人間が増えて、だれでもジャーナリストになれるような錯覚を持つが、新聞記者は違う。新聞記者を希望すれば、だれでもなれるわけではない。それだけ新聞記者に課せられた条件は大きくて重いのだ。
▽私は北海道新聞記者として7年、朝日新聞記者として33年5カ月、記者生活をしていた。新聞記者になる前は、フリーライターのまねごとをしていたから、もう半世紀近く、マスコミの世界に行き続けてきた。常にジャーナリストになりたいと思い続けてきた。
▽記者生活をしていて、一番大切なことは、自分がどんなベクトルで取材哲学を持っているかだ。取材相手がどんな情報を持ち、どんな情報を隠しているか。それを丹念に取材して情報収集し、データを蓄積して、記事にして行くか。
▽もちろん夜討ち朝駆けの取材は必要だし、キーパーソンへのインタビューも必要だろう。
▽取材した情報をキャップやデスクに上げ、情報を取材仲間と共有し、どんな記事を作り上げていくか。自分が得た情報が、取材仲間に否定されることもある。切磋琢磨して、真実に近づく事実を集めていく。記事が完成しても、社内ではデスクや当番編集長、整理部、校閲部の各記者がチェックをしており、何重ものチェックの上で、新聞紙面に記事が掲載されていく。
▽新聞記者に課せられた条件が大きくて重いと書いたのは、こういう水面下の積み重ねをしたうえで、記事がやっと紙面化されるからだ。決して数年で完成されるものではない。私の経験で言うと、自分の言葉で記事が書けるようになるには、7〜8年かかる。それだけ積み重ねが必要だ。
▽こんなことを書くのは、私がある地方の支局長をしていた時に、部下として赴任してきた支局員が、あまりにも新聞記者とは、遠い存在の資質の持ち主だったことだ。
▽電話が取れない、取材現場には行こうとしない、屁理屈を言う、腰は重い、遅刻はする、勉強はしていない、寝坊する、勝手に休む、等々。とてもではないが、新聞記者の条件を大きく逸脱していた。
▽本人は新聞記者だと簡単になれると思ったのだろう。ところがそれは大きな間違いだった。
▽その後彼は、地方や北海道に転勤した後、本社の内勤に入り、最後は窓際に追い込まれて、先日退職をした。とてもではないが、新聞記者には向かない記者だった。厳しい表現だが、新聞記者に向く人間と、新聞記者には絶対向かない人間の2種類がいることを忘れてはならない。
▽ジャーナリストを自称するのは簡単だが、組織の一員である新聞記者は簡単に新聞記者ではなれないのだ。
▽だから多くの新聞記者はジャーナリストなど自称しない。
▽最近、ジャーナリストを自称する人間がいかに多くなっていることに、かなり違和感を持つ。
▽政治ジャーナリストを自称する人間は以前からいた。スポーツジャーナリストも昔からいた。しばらくして、料理ジャーナリストや警察ジャーナリストなどと自称する人間が増えてきた。「警察ジャーナリスト」って何なんだと思ってしまう。警察、イコール、権力だ。ジャーナリスト、イコール、反権力だ。権力と反権力が一緒になるような、自称ジャーナリストって何なんだと疑問に思う。
▽確かにジャーナリストを自称することに制限は全くない。名乗ればジャーナリストにだれでもなれる。だから安易な自称ジャーナリストが出てくる。
▽私が朝日新聞を退職し、「記録作家」を自称しているのは、そのためだ。恥ずかしくてジャーナリストだと自称できない。私のホームページでは「ジャーナリスト未満」と称している。
▽はっきりと言おう。
▽ジャーナリストとは称号だ。反権力を貫き、歴史的記録を残したものだけに与えられる称号だ。私もそんな人間になりたいと、青臭いことを考えている。
★726死去した映画監督の篠田正浩さんの作品を振り返る
▽半年前に94歳で死去した映画監督の篠田正浩さんの話を書きたい。篠田さんと言えば、「ラストフィルム」と公言していた映画「スパイ・ゾルゲ」が印象に残っている。
▽まずは死去を伝える朝日新聞の記事を紹介する。
《「夜叉ケ池」「瀬戸内少年野球団」などで知られる映画監督の篠田正浩(しのだ・まさひろ)さんが25日、肺炎で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。妻は俳優の岩下志麻さん。
▽1953年に松竹入社。60年に監督デビュー。前衛的な表現で大島渚や吉田喜重とともに「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた。
▽67年に独立プロ「表現社」を設立。近松門左衛門作の「心中天網島」を実験的な様式美で映画化し、高い評価を得た。86年には近松の「鑓(やり)の権三(ごんざ)」でベルリン国際映画祭の銀熊賞を受賞した。
▽坂東玉三郎主演の「夜叉ケ池」や夏目雅子主演の「瀬戸内少年野球団」など大作も手がけ、2003年の「スパイ・ゾルゲ」を最後に監督を引退。著作も多く、10年に「河原者ノススメ」で泉鏡花文学賞を受賞した》(2025年3月28日朝日新聞)
▽多彩な才能の持ち主だった。
▽そして、「スパイ・ゾルゲ」だ。2003年に公開された映画で、3時間の大作だ。篠田さん自身が、「この映画作りが最後」と公言していた作品だ。
▽ゾルゲ事件は、第2次世界大戦の前に、独紙特派員として来日したリヒアルト・ゾルゲと、元朝日新聞記者で当時の近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実らを中心にした対日諜報工作関係者の検挙事件だ。ゾルゲは日本の対ソ戦争の可能性があるかどうかを、政府の中枢に食い込み、ソ連に機密情報を流したスパイとして逮捕、処刑された。
▽映画は、そのゾルゲの行動を丹念に追っていき、その葛藤を描いた。
▽以下はネットの評価だ。
《ナチス党員のジャーナリストを装いながら、実は共産主義者のスパイとして日独の機密をソ連へ流していたドイツ人ゾルゲと、彼に共鳴して協力者となった朝日新聞記者・尾崎の交流と葛藤を綴る。「トゥームレイダー」のI・グレンが軽妙なムードたっぷりにゾルゲ役を演じたほか、本木雅弘、椎名桔平、小雪、そして監督の公私にわたるパートナーでもある岩下志麻など豪華なキャストがそろった。昭和初期の上海や日本を再現した美術も見どころだ》
▽ただし批判的な見方もあった。
《映画監督篠田正浩の十数年にわたる構想を実現させた監督引退作品。HD24Pによる全編デジタル撮影やCGによる大規模な合成などで話題を集めたものの、批評的にも興行的にも成功しなかった。元朝日新聞社員の尾崎秀実が主要な人物として登場することもあり、朝日新聞社が製作に大きく関与している》
▽この映画が公開された2003年、私は朝日新聞北海道報道部員として勤務し、朝日新聞北海道支社が協力して作った試写会とトークショーを見て、取材をしていた。
▽こんなメモを書いている。
《映画「スパイ・ゾルゲ」の試写会とトークショー(朝日新聞北海道支社など主催)が札幌市中央区の共済ホールで開かれ、監督の篠田正浩さんが「ラストフィルム」としているこの映画に対する思いを語った。
▽約300人の招待者を前に語った篠田さんは、1945年8月15日の終戦以前の昭和史として、日本軍の真珠湾攻撃、二・二六事件、そしてこの映画の題材となったゾルゲ事件の3つの事件を挙げ、「このうちの1つを映画にしたいと以前から考えていた」と振り返った。原作から脚本まで1人でこなし、昨年から撮影に入った。網走刑務所での光景がラストシーンで出てくる》
《篠田さんは「ゾルゲと尾崎との出会いは、現代ジャーナリズムの初期の時代に起きた悲劇でした」と締めくくった》
★725故正木ひろし弁護士のミニコミ誌「近きより」にあやかりたい
▽戦前、戦中、戦後を通じて反権力として戦ってきた故正木ひろし弁護士が個人で発行し続けたミニコミ誌「近きより」を知っているだろうか。日中戦争が勃発する1937年から個人として発行を続けて、反権力の言論活動を行ってきた。この「近きより」のエネルギーにあやかりたいと思って私が作ったのが、この自分のホームページだった。
▽まずは正木ひろしの略歴を記す。
▽1896年に東京に生まれた正木は、東京帝国大学法学部を卒業後、弁護士となる。戦前は民事弁護士として活躍し、日本軍国主義が本格化し、日中戦争が始まった1937年(昭和12年)に、個人雑誌の「近きより」を発行。言論統制やファシズムに対し、痛烈な批判を加えた。官憲による拷問死を、病死として葬ろうとした「首なし事件」を告発したことを契機に刑事弁護士として転身。戦後は、プラカード事件、三鷹事件、八海事件、菅生事件、白鳥事件など多くの冤罪事件の弁護を担当した。官憲による人権侵害に対する闘いから、チャタレー裁判の表現の自由の擁護まで行い、戦闘的ヒューマニスト、ジャーナリストとしての生涯を貫いた。1975年(昭和50年)に亡くなった。以上が正木ひろしの略歴である。
▽その「近きより」は、1937年の発刊から戦後の1949年まで、13年にわたり、98冊を出し続けた。そして30年後に旺文社文庫から復刻版が出され、さらには1991年からは教養文庫から新たな復刻版が出されている。
▽例えば発刊した年の6月号。
《二・二六事件直後、広田の組閣の第一次の人選に対し、横槍を入れた軍部の理由は、広田が時局に対する認識が足りないということであった。
▽寺内が広田内閣を潰す時も、政党が時局の認識を誤っているというのであり、宇垣を頓死せしめた時も同様な言葉が繰り返され、此度林も政党が重大なる時局を認識しているかどうかを疑うという理由で解散したのである。
「時局の認識」という言葉が今や魔物のごとく日本の国内を恐怖症状に陥し入れている。
▽一体「時局の認識」とは何を認識したらいいのだろうか》
▽性他党による組閣について軍部が横やりを入れて、組閣干渉したことを批判しているのだ。
▽同じ6月号。
《英米海軍大拡張す。松岡洋右を英雄にしたその代償でもある》
と書いた。
▽1933年年2月、松岡はジュネーブの国際連盟会議に日本首席代表として出席し、対日勧告案である満州撤退決議に抗議して総会を退場。同年3月、日本は国際連盟を脱退した。松岡は連盟脱退の立役者として「ジュネーブの英雄」などと国民的英雄されたが、その反動で英米海軍の軍拡が始まり、正木ひろしはそれを皮肉っているのだ。
▽こんなトーンの文章が「近きより」には溢れている。政局や軍部を批判し続けていたのだ。
▽こり「近きより」を紹介したのは他でもない、私が朝日新聞を退職し、それとともに活字文化、否、紙に印刷された活字媒体である新聞、週刊誌、月刊誌、書籍などが軒並み売れなくなり、インターネットの時代が到来し、この時代にマッチしたミニコミが必要だと感じたためだ。それが私個人のホームページ開設に繋がった。
▽紙媒体の文化は縮小されていく。復活はあり得ない。だったらと作り始めたのが私個人のホームページだった。
▽このためこのホームページでは正木ひろしの「近きより」をかなりを意識した。書き続けることで、己のジャーナリストとしての生き方をしたいと思ったのだ。
▽実はこの「近くより」の旺文社文庫本の復刻版の作業を、私が学生時代に手伝っていたことがある。戦前・戦時中の文章なので、書かれた出来事が分かりにくくなると思い、記事に膨大な注釈を入れる作業を延々と続けていた。
▽今読み返しても、「近きより」はジャーナリズムの姿勢が貫かれている。こんなことを私も続けたいと思って、現在も私はホームページで記事を書き続けている。
【再掲載】★149環境行政と石原親子
▽自民党の石原伸晃環境相(当時)が2014年に、東京電力福島第1原発事故に伴う汚染土の中間貯蔵施設建設に向けた地元住民との調整に関し、「最後は金目でしょ」と発言。地元住民や野党からの激しい反発を受けたことがある。最終的に謝罪に追い込まれたが、似たようなことが、父親である石原慎太郎でもあったことを思い出した。
▽石原伸晃の発言は、東京電力福島第1原発事故の除染で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設を巡り、難航している被災地との交渉について、首相官邸で記者団に「最後は金目でしょ」と述べたことに端を発するもの。福島県知事のほか、福島県大熊、双葉両町長とも相次いで面会し、「(発言は)品位を欠き、不快な思いをさせた」などと謝罪した。
▽これに対して、父親の石原慎太郎の問題は、環境庁(当時)長官だった1977年、
「人のスケジュールを無視して面会に来られても迷惑」
と反公害の市民団体の陳情を拒否してテニスに行ったことだった。
▽かなりの暴言を吐いている。
「(長官などの)特別職には公務員のような服務規定はない。空いていれば、寝ていようとテニスをしていようとかまわない」
と述べた。
▽さらには、熊本に水俣病の視察に訪れたときは、患者らが手渡した抗議文について
「これを書いたのはIQが低い人たちでしょう」
と言い、1999年9月、府中療育センター視察後の記者会見では、
「ああいう人ってのは人格あるのかね」
と述べている。
▽まさに差別そのもの。親子は似ているな、と思った。
▽環境庁から環境省に名称は変更されたが、環境行政の本分は、政治で言うところのブレーキである。旧通産省、現在の経済産業省が原発行政の推進を行うなら、それを監視し、行政の行き過ぎをストップさせることにある。経済産業省が行政のアクセルなら、環境省は行政のブレーキであるべきなのだ。行き過ぎる行政に歯止めを掛ける役割を求められている。
▽私も朝日新聞東京本社時代、環境庁を担当していたから、分かるが、日本の中央省庁の中では、異分子的な存在なのだ。
▽そんな行政のトップが、市民団体などの求めに応じず、無視したり、問題発言をする石原親子をマスコミはもっと監視する必要があった。
★723毎日新聞の大誤報は第二の西山事件にならないか
▽読売新聞とともに「石破首相退陣へ」と大誤報を出した毎日新聞は、その後もお詫びも訂正を出さず、1カ月以上も経過してから、「説明します」という言い訳記事を載せた。しかもその「説明記事」は、完全に開き直って、間違っていないという内容だった。我々報道の世界で、今回の毎日新聞の記事は読売新聞とともに、「世紀の大誤報だ」という受け止め方をしている。それでも毎日新聞がこのまま押し通せば、毎日新聞は第二の西山事件とならないのかと私は危惧している。
▽毎日新聞は今年(2025年)7月の紙面で、「石破首相退陣へ」と報じた。しかし、石破首相は退陣を表明することはなく、1カ月以上も経過して、総裁選の前倒しを要求する麻生元首相やその周辺、旧安倍派の議員の「石破おろし」に抗しきれずに、退陣を表明した。
▽結果として、毎日新聞の記事は読売新聞とともに当たったことになるが、我々報道の世界では、これを特ダネとは言わず、トンデモナイ誤報だと評している。
▽毎日新聞の説明記事によれば、複数の取材結果を踏まえ「総合的に判断した」と振り返る一方、「首相本人が『政治空白』を懸念して報道を否定することは想定していたが、記事の中で説明しておらず、読者を混乱させる結果となってしまった」と記した。
▽7月20日の参院選投開票後、「石破首相、退陣へ」などとした7月23日付夕刊1面と24日付朝刊1面、ニュースサイトの記事にどで、「首相は、自民党が8月にまとめる参院選の総括を踏まえ、同月末までに退陣を表明する意向を固め、周辺に伝えた」などと報じた。
▽しかし、石破首相は退陣をしなかった。
▽石破首相の進退に関する報道をめぐっては読売新聞が9月3日付朝刊で、「退陣へ」などと報じた記事について検証記事を掲載。首相が辞意を周囲に明言したがその後翻意した可能性があり、「結果として誤報となった」として、読者へのおわびのコメントと関係者の処分を発表している。
▽毎日新聞の誤報について、私が思う問題の第一点は、読売新聞も毎日新聞も首相本人に対する裏取りをしていないことだ。各社申し合わせの政治部ルールでは、首相に直接、単独での取材は出来ないことになっており、裏取りはしないまま記事にした。
▽毎日新聞の記事では、石破が主語となって、あくまでも石破本人が周囲に辞意を漏らしたとして記事になっている。首相への直接取材が無理なのに、こうした石橋を主語にして書いていることに問題がある。辞意を漏らしたとされる周囲の人間に裏を取ったと言うのだろうが、主語を無視しての記事なのだ。朝日デジタルで江川紹子さんが指摘していたように、記事のスタイルに無理があるのだ。これは完璧に誤報だ。言い訳はできない。
▽問題の二つ目。政治部特有の気質だ。国家の権力闘いの中に政治部記者が巻き込まれ、自分たちも権力闘争のなかにあると錯覚し、知らず知らずに、政治のゲームに入っていることに、政治部記者たちは気づいていない。だからこそ、こんな記事がまかり通ってしまうのだ。
▽問題の三つ目。最近の毎日新聞の体質も問題だ。新聞産業が斜陽化して、各地方の支局がリストラされ、記者数が少なくなっている。これは朝日新聞も毎日新聞も同じだろうが、毎日新聞はこんな状況の中で、それぞれの記者が勝手なことをやり始めている。紙面の統一性が取れていないのだ。おそらく政治部の記者も権力闘争の現場の中で、面白がってこの記事を書いたのではないかと思われる。それが結果として誤報になった。
▽毎日新聞の一連の記事を紹介した朝日新聞では、大学教授のコメントを載せているが、指摘は甘すぎる。誤報ではないと言い切っているが、完全な誤報だ。報道現場を知らなすぎる。
▽こう書いている。
《駒沢大の逢坂巌教授(メディア論)の話
▽毎日新聞の「退陣へ」の記事は、見出しは読者に誤解をあたえかねないものだったが、記事の内容は「退陣する意向を固め、周辺に伝えた」など幅を持たせた書きぶりで「誤報」とはいえない。
▽今回の「説明」は読者の疑問にこれまでにない形で答えようとするもので、姿勢は評価できる。ただ、SNS上の批判や疑問への説明だとすれば、内容は十分とはいえず、SNS上ではなお「説明不足」といった声がくすぶっている》
▽江川紹子さんのコメントに比べて、甘すぎる。
▽毎日新聞新の今回の大誤報で、第二の西山事件にならないのかと私は心配している。
▽西山事件では沖縄の密約問題をすっぱ抜いた西山記者が、男女問題にすり替えられて権力の介入を許した。このため、毎日新聞はこの事件を契機に、読者離れが深刻化した。
▽今回の大誤報で政府権力が、言論の規制を強めることも懸念される。特に高市のような総務相時代にテレビ局を規制するような言動をした人間が首相になれば、なおさらだ。足をすくわれないか。
▽毎日新聞は今回の大誤報を、もっとキチンと対処してほしかった。
★722新聞記事の「開かれた」と「行われた」と違いとは何か
▽北海道・知床沖のオホーツク海で発生した海難事故で遺族らが運行会社に損害賠償請求を求めている訴訟の第1回口頭弁論が行われたことを、2025年3月14日、各紙が伝えていた。毎日新聞の記事が気になった。「口頭弁論が開かれた」と書いていたのだ。違和感を持って読んでしまった。
▽違和感を持ったのは、口頭弁論は開かれるものではなく、行われるものだからだ。これが毎日新聞の記者には分かっていないのだ。
▽この毎日新聞の記事に象徴されるように、最近の新聞記事で気になるのが、「開かれた」と「行われた」を混同して書いている記事だ。裁判で、「口頭弁論が開かれた」とか、「スポーツ大会で開会式が開かれた」などと誤った表現をしている。最近はこうした細かいな言葉遣いもチェックできなくなっているのだろうか。
▽私が新聞記者になったころ、新人として最初に叩き込まられた表現の一つが、「式は行われた」、「会は開かれた」という表現方法だった。
「オリンピックは開かれた」と言い、「オリンピックが行われた」とは言わない。「オリンピック開会式が開かれた」とは言わない。「開会式が行われた」と言うのだ。
▽これと同様に裁判でも「第1回口頭弁論が行われた」と言うのであって、「第1回口頭が開かれた」とは言わない。弁論は開かれるものではなく、行われたものだからだ。「判決公判が行われた」とは言わないだろう。
▽こういう基礎的な表現ミスが最近毎日新聞などで時折見かけるようになった。
▽朝日新聞では、私の現役時代、今から10〜20年前に、「開かれた」とか「行われた」とかいう表現をやめて、「何何があった」という表現に統一した。「開会式があった」とか「ヒアリングがあった」とか、「開幕式があった」などという表現に社内統一した。
▽これはこれで一つの表現形式だから悪くはないと思う。
▽問題なのは、本来は「行われた」と書かなくてはいけないのに、「開かれた」と書き、「開かれた」と書くべき表現をも「行われた」といまだに書いている新聞だ。この辺のごちゃごちゃが気になっている。
▽地方の市議会でも同様だろう。「市議会は開かれた」のであり、「市議会が行われた」のではない。「新しく開発された電車の見学会が開かれた」とは言うかもしれないが、「見学会が行われた」とは言わない。逆に「見学が行われた」と言うが、「見学が開かれた」とは言わない。些細なことかもしれないが、新人のころにこうした表現の区別を叩き込まれた者にとっては、非常に気になってしまう。
▽最近の若い記者はこうした新聞表現も教わらないのだろうか。否、教わったとしても忘れてしまい、こうした原稿がキャップやデスクでまかり通ってしまうのはなぜだろうか。
▽やはりキャップやデスクの劣化が大きいのだろうか。残念な、ゆゆしき事態だ。
★720通信速度が遅すぎたBIGLOBEのモバイルルーター
▽インターネットプロバイダーのBIGLOBEで契約しているコースのうち、「モバイル」というサービスを先日、やめた。ポケットルーターとして7年以上も使っていたが、ルーターのWi−Fi速度が異様に遅くて、使い物にならなかった。ようやく決心して契約を破棄した。
▽BIGLOBEのモバイル契約は、私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務しているときに行った。3年契約でポケットルーターを割賦で買い、ルーターとしてカフェや喫茶店、マイカーの中などて使ってきた。
▽パソコンを広げて、ネット検索をしたり、原稿を書いたり、メールをダウンロードしたり、ネット接続にはポケットルーターが便利だ。使っているiPhone1でもテザリングをしてネット回線をつなぐことはできるが、これをするとiPhoneのバッテリーが急激に減るため、ポケットルーターはありがたい。
▽ただし、BIGLOBEには自社の通信回線がなく、ドコモかauの回線を借りてサービスを提供している。私は最初ドコモの回線を使っての契約した。しかし、予想していた通りの通信回線速度が得られない。専用のアプリでWi−Fi速度を計測しても、1〜2▽Mbpsの速度しか出ない。iPhoneのテザリングだと、15〜40の速度が出るのに、BIGLOBEのポケットルーターの速度が出ないのだ。完全にアテが外れた。これだと動画がまともに見ることが出来ない。
▽そして埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤しても、その速度は変わらなかった。離島から本州に転勤になったから、速度環境はよくなると期待していたが、そうではなかった。
▽私はこのため、ドコモの回線契約をやめて、auの回戦に切り替えた。しかしそれでも通信速度は向上しなかった。
▽さらにこのポケットルーターの割賦が終わってから、新たにシャープのスマホに切り替えて、テザリングでネット接続をしてみた。それでも通信速度は変化しなかった。
▽やはり自社回線がなく、ドコモやauの回線を借りてのサービスは限度があるなと思った。場所によるだろうが、人口が集中している場所や逆に人口が少なく、中継基地が少ない場所では、速度が遅くなる傾向にある。このBIGLOBEのスマホ契約は失敗だった。
▽こうして私は結論を出し、キャリア変更することにした。
▽BIGLOBEのモバイル契約にやめて、ドコモにキャリア変更した。併せてiPhoneも新しくした。
▽するとどうだろう。このiPhoneのテザリングを使えば、通信速度が一気に20〜40Mbpsの速度が出るのだ。驚いた。
▽なぜもっと早くBIGLOBEの契約を打ち切らなかったのか、と私は反省してしまった。やはり自社回線がなく、回線を借り切っていると通信速度は上がらないと私は思った。7年以上も契約していて実に損する結果だった。
▽だから自社回線を持たない安売りのSIMカードを契約することを私はお勧めしない。
▽これが私の結論だ。
★718読売新聞の大誤報で思い出す連続幼女誘拐殺人事件の大誤報
▽読売新聞が「石破首相退陣へ」と大誤報を流し、さらには維新議員の公設秘書給与横取りの名前を間違えて報じた問題で、私はその昔、連続幼女誘拐殺人事件の一連の報道で、読売新聞がやはり大誤報を打ったことを思い出した。「秘密のアジト」報道だ。そのことを記したい。
▽私はこのホームページで連続幼女誘拐殺人事件について連載を書いてきたが、この中でこう綴っている。
▽連続幼女誘拐殺人事件の4人目の被害者の容疑として宮崎勤が警視庁深川署に再逮捕され、この他にも2人の殺害を認めた、とする上申書の存在が報道されてから、わずか2日後、つまり1989年8月17日、読売新聞は夕刊一面トップで「宮﨑のアジト発見」「3幼女殺害の物証多数押収」「小峰峠の廃屋」「遺体放置場所と断定」という記事を大々的に載せた。
▽夕刊が配られ始めたころら、現場にいた同業他社の記者のポケットベルが鳴り始めた。
「何でもいい、とにかく見つけろ」
という指示が東京本社から飛んできた。
▽宮崎勤の自宅から1.5キロの奥多摩山中の小峰峠付近に、頻繁に出入りしていた秘密アジトがあることを警視庁・埼玉県警捜査本部は突き止めた、という内容だった。記事では、「この小屋は、既に古ぼけているが、かつて宮崎家の使用人だった男性が住んでいた小屋で、この男性を慕っていた宮崎勤が、幼いころから頻繁に訪れていた場所でもあった」と詳細に報じていた。
▽各社は慌てた。事実なら追いかけなくてはならない。現場に記者を何人も投入しているのに、そんな秘密のアジトがあるという情報などなかった。早速捜し出すとともに、警視庁幹部に確認取材をするよう指示が出た。
▽だが警視庁は、この記事の内容を即座に否定する。
▽その日の夜、警視庁幹部はそのような存在は確認されていないと言い切り、それが誤報であることを強調した。
▽一連の連続幼女誘拐殺人事件に関する報道について、埼玉県県警幹部が一切コメントしなかったのとは大きな違いだった。これまでの一連の事件では、県警は各社の報道内容にいちいちコメントしなかった。その分だけ、誤報が拡大・再生産されていた経緯があるが、今回の場合は警視庁が即座に、完全なミスリードであることを断言した。異例だった。
他社を驚かせたのは、それだけではなかった。読売新聞の翌日の朝刊での扱いだった。
▽「山小屋アジト否定」という4段の大きな見出しで捜査本部に否定された記事と、「おわび」を載せ、即座に誤報を認めてしまったのだ。異例の扱いだった。
「警視庁・埼玉県警合同捜査本部は17日夜、記事は事実に反するとの見解を明らかにしました。この記事は捜査関係者、本社独自の聞き込み情報など複数の取材源の話をもとにまとめたものですが、取材、記事作成段階での事実確認の甘さや誤解、記述の行き過ぎがありました。『アジト発見』『物証押収』『遺体放置現場と断定』などは誤りでした。おわびします」
▽容疑者の秘密アジトを発見した、という誤報について、異例とも言えるおわびや関係者の処分に踏み切ったのだが、一連の報道で、こうしたおわびは初めてだったし、しかも処分なんて、普通の事件報道ではあり得ないものだった。
▽私の経験則だが、後になって誤報とわかっていても、事件報道の洪水の中で消されてしまうのが、がほとんどだ。連続幼女誘拐殺人事件の一連の報道では、訂正やおわびをしたケースなど全くない、と言ってよかった。
▽確かにアジトがあればつじつまがあった。だから、アジト探しに行ったとしても不思議ではなかった。
▽しかし特に読売新聞は、これまでの一連の事件のポイント、ポイントで、一番の誤報をしていた。「フライドチキン店に不審者」「口に粘着テープ」に始まって、被害者の自宅に送られた遺骨に入っていたメモの9つの文字も、当初は間違って報じていた。
▽「アジト発見」という誤報は、読売新聞が確認をしないで書いてしまう体質を持っていたということを、たまたまさらけ出したに過ぎない、と話す記者も多かった。
▽この秘密アジト報道だけではない。ことごとく読売新聞は間違った報道をしていた。
▽このころから読売新聞は一連の報道合戦の中でミスが目立つようになる。それが最後は「秘密のアジト発見」という大誤報に繋がっていく。
▽遺体発見の2日後には、「フライドチキン店に不審な男、白いワゴン車」という誤報を流したし、遺体発見状況でも、「口に粘着テープ」という事実ではない記事を載せた。
▽秘密のアジト報道はそのとどめだった。容疑者が逮捕された7日後の1989年8月17日夕刊で「山小屋アジト発見」と大々的に報じたのだ。だが警視庁は完全に否定し、読売新聞は翌日の朝刊で訂正とお詫びを出した。警察庁記者クラブに今でも残る語り草で、「負の歴史」だ。
▽遺体発見から3日後の18日、毎日新聞は手足が縛られていた事実を特ダネとして報じた。確認を求める各社の夜回りに対して、県警幹部の口が固かった。この事実を裏付けとして毎日新聞の特ダネを追いかけることが出来たのは、朝日新聞と共同通信だけだった。それだけ口が固かったのだ。
▽追いかけられなかった読売新聞は、逆に誤報を出した。20日の読売新聞は、「口に粘着テープ」という3段の記事を社会面で掲載した。首を絞められて殺された女児が生きてるうちに口を粘着テープで塞がれたうえで、両手両足をそれぞれ荷造り用の紐でぐるぐる巻きに縛られていることがわかった、という内容だった。
▽読売新聞は両手両足が縛られていたという毎日新聞の記事を追いかけることが出来なかった。裏が取れなかったのだ。今回の記事は特ダネで巻き返す、という意識が見えた。
▽しかしその読売新聞の事実はなかった。粘着テープが貼られていたという事実は、県警幹部に否定されたのだ。
▽実は遺体発見現場付近に、十数センチの粘着テープが落ちていた。これも県警が隠していた事実の一つだった。隠していたのだが、女児の遺体と関連があるかどうかわからなかった。このテープを女児の口に当てた保存写真を捜査員が撮影していた。写真に映った女子は確かに口に粘着テープが貼られていた。事情を知らない捜査員から読売新聞は話を聞き出して、裏付けも取らずに記事にしたのではないか、とある捜査員は私に話した。
▽それだけではなかった。情報漏れを警戒した県警幹部が、ガセネタを流して、県警内部のどこかで情報漏れがあったことを調べていたのではないか、とほのめかす幹部もいた。毎日新聞の今後の特ダネを潰すため、ガセネタを流した結果、読売新聞に行ってしまったと言うのだ。これ以降、読売新聞は、情報を全く取れなくなり、誤報の連続となった。
▽裏を取らずに書いた、と言えば、それまでだが、ダブルチェックも出来なかったということだろう。
▽その昔、読売新聞は大誤報を出して記者が逮捕されるという歴史もある。
▽特ダネと誤報は紙一重なんだという言い訳はしない方がいい。
【再掲載】★195終戦日とは何か
▽毎年8月15日が近づくと、新聞もテレビも終戦日記念の特集を組むが、そもそも8月15日は何の日だったのか。『増補 八月十五日の神話』(佐藤卓己、ちくま学芸文庫)は、無批判のまま「8月15日」を終戦記念日だとするマスコミなどの論調を批判し、政教分離として9月2日を平和の日を制定するよう提唱する内容だ。かなり勉強になった。
▽歴史の流れを簡単に整理すると、こうなる。
▽日本が日中戦争、最近はアジア戦争と称する論調もあるが、この15年戦争を終えて、ポツダム宣言受け入れを表明したのは8月14日だ。
▽翌日の15日は昭和天皇による玉音放送が流れただけである。
▽そして8月16日に武装解除の命令があり、この間、一部の陸軍は徹底抗戦を呼びかけて、降伏を阻止する動きもあった。
▽9月2日に東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印をしている。世界の常識ではこの9月2日こそが、戦争終結の日なのだ。
▽だとするなら、8月15日は何なのかと筆者は読者に問いかける。
▽政府は戦後間もなくして8月15日を戦没者追悼式と決めただけであり、それ以外に何もない。
▽雑誌「世界」が8月15日特集を20年間続けた影響も大きいが、玉音放送を根拠とする終戦の日に意味があるのか、と筆者は訴える。
▽その玉音放送も、漢文調で難解なため、後のアナウンサーが解説しないと国民は意味が分からなかった。
▽この本では、8月15日前後の新聞の「やらせ」から始まり、8月14日、15日、16日、9月2日の意味を国内外の戦勝者、戦敗者の立場から解析し、教科書問題まで取り上げて、その神話を追求した。意味ある本だと思った。
▽なお、玉音放送を巡って抵抗を続けた一部陸軍の動きは、『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文春文庫)に詳しい。終戦時の首相や大臣の動き、陸軍や近衛兵のクーデター、敗戦受け入れの玉音放送、それを阻止する陸軍、近衛兵、鎮圧する軍隊など大変に参考になる本だ。特に最後の最後まで、録音された玉音放送のレコードを隠す側とそれをさせない側の攻防がものすごい。近衛兵のトップを暗殺し、さらにはレコードを奪って徹底抗戦した動きを検証している。戦争の狂気に走った日本帝国陸軍の最後の暴走がよく分かる。
★714インプラント手術は痛かったが、受けてよかった
▽右上奥歯のブリッジにしていた義歯が駄目になり、歯科医院の医師の勧めもあって初めてインプラントの手術をした。結果としてインプラントを入れて良かったと思っているが、その手術は痛みはあり、頬がしばらく腫れていた。その手術の9カ月後にインプラントを土台とした義歯を装着して、やっとインプラント手術を終えたことになる。それから1年余。問題は起きていない。
▽歯科のインプラント治療とは、人工歯根(インプラント体)を顎の骨や顔面の骨に埋め込み、それを土台として義歯を作って装着することを言う。
▽私の場合は右奥上の奥歯でそのインプラント手術を受けた。この部分は10年以上前に別の歯科医院でブリッジの義歯を入れていた。しかし数年前からガタが来て、歯茎に痛みが出てきた。最終的に外れてしまい、自宅の近くの歯科医院に行った。個人病院ではなく、会社経営の医院だった。
▽その医師は僕にこう提案した。
「インプラント手術をしませんか。私はその手術の技術に自信がありますので、心配しなくても大丈夫です」
▽いろいろ説明を受けて、インプラント手術を受けることになった。
▽最初に口内のメンテナンスをしてから、インプラントの手術のための口の中の撮影と、同意書などに記入して終えた。その前にはその奥の歯が使い物にならないとして抜歯していた。
▽ついにインプラントの手術、一次オペが始まった。2003年5月のことだ。
▽麻酔を打たれて、右上奥歯の歯の内部分に穴を開ける手術だ。苦しかった。
▽右上奥の歯がない3本の部分にインプラントを2本埋めた。2時間もかかった。順調に行って、2本のインプラントが挿入されたことを、後のレントゲンで分かった。こんな金属が歯茎の中に入ったのかと驚いた。
▽苦しさしか印象に残らなかった。これで一次オペは完了した。
▽翌日からは頬が次第に腫れていき、顔が変形しているのが分かった。無理な運動は禁止だ。痛み止めの薬も飲んだ。熱も出た。そんな症状が1週間続いた。腫れも痛みはなくなった。顔も元に戻った。
▽インプラントの手術としては半年後に二次オペがあった。セラミックの義歯を取り付けてもらい、インプラントの手術が終わった。9カ月もかかった。
▽保険がきかず、一次オペとして62万7000円をカードで支払った。二次オペは41万円ちょっとだった。
▽高いが今後生きていく必要経費なのだろう。しっかりとした義歯になった。
▽今のところ後遺症は出ていない。
★713最近はあまり聞かれなくなった出版記念パーティー
▽呼ばれることがなくなったから、かもしれないが、昔はよく出版記念パーティーなるものに出席していた。今までは大重鎮の作家や有名な編集長、ルポライターなどが出した本の出版記念に呼ばれて、人脈を作ってきた。最近はそんな催しすら聞かなくなっている。
▽現在のようなインターネットがなかった時代、本を出すというのは、フリーのライター、ルポライター、ジャーナリストにとっては一つの目標だった。月刊誌や週刊誌に連載記事を書いて、それを1冊の本にまとめる、というのが一つのステータスだった。
▽そうして苦労して出した本を宣伝する手段の一つが、出版記念パーティーだった。
▽会費制で、立食パーティー。会費を出して、出したばかりの本を受け取る。関係者の何人かが挨拶し、出版元が話して、本人がしゃべる。ライター側も出版社側も、本が数十冊から百冊単位で一気に売れるから、パーティーは都合が良かった。
▽逆にパーティーに呼ばれて出席した側も、名刺交換したり、情報交換したりして、人脈を作るのに好都合の空間だった。私の場合、新聞業界に入る前、ルポライターのまねごとをしていたから、こうしたパーティーは有意義な場になっていた。
▽もう亡くなってしまったが、「噂の真相」編集長だった岡留安則さん、女優の馬淵晴子さんらもここで交友が始まったり、深まったりした仲だった。岡留さんの場合は、元々私が原稿を売り込んで、使ってくれていた経緯もあり、馬淵さん宅に泊まり込みでマージャンをしたこともある仲間になっていた。
▽こんな思い出が深い出版記念パーティーだが、実は私は一度も開催したことがない。何冊かはペンネームで出したこともあり、パーティーどころの話ではなかった。本名で出した本もあるが、転勤もあって、パーティー開催どころではなかった。
▽つまり、パーティーの名目で本を売ったことは全くなかったことになる。
▽最近は、そんな出版記念パーティーを開催している人がどのくらい、いるのだろうか。有名人ならともかく、書籍に限らず、新聞も週刊誌も月刊誌も、いわゆる紙の印刷媒体自体が縮小している時代に、のんきにパーティーなど開いている余裕はないと言うことなのか。
▽出版記念パーティーは古き良き時代のものになってしまったのだろうか。
【再掲載】★467なぜ高くなる葬儀費用に疑問
▽8年前に父親を亡くした時、私が喪主となって、葬儀を行った。当時私は新潟県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していたから、葬儀会社とのやり取りは、私の妹家族がやってくれたが、今振り返っても、相手の言いなりになってしまい、不要な、そして無駄な出費が異様に多かったと思っている。
▽90歳を超えていた父親は次第に体力が衰えて、入退院を繰り返していた。付き合いをする人間もおらず、最後は私たち家族らが交代で見守っていた。私も休みを取って、病院に足を運んだ。そして大丈夫だと思って、佐渡支局に戻ったら、突然の死亡となった。
▽実際の通夜となった会場に行って驚いたのが、その会場の部屋の広さだった。親類が九州から来てくれたが、それでも私たちも含めて20人も満たない。100人は収容可能なスペースで、後に知ったがその分の使用料金も高かった。
▽事前の打ち合わせで、葬儀会社はこう質問してきたという。
「お父様は、お花が好きでしたね」
「お父様は、音楽が好きでしたね」
「お父様は、お酒が好きでしたね」
▽急な死亡で、遺族が混乱している時に、こういう質問をされても、そうだと答えるしかない。
▽すると葬儀会社が出したものは、無駄な演出だったのだ。
▽「お花が好きだった」という答えの演出は、祭壇に飾る花を目いっぱい飾ったことだったた。これだけで100万円近い支出になった。
▽「音楽が好き」ということの演出は、何と通夜の最中にエレクトーン奏者がエレクトーンを30分弾いていたことだ。これも数十万円かかっていた。
▽さらに「お酒が好き」となると、父親の死体の唇に、日本酒を染みこませた脱脂綿棒を着けて、湿らせた演出があった。これも数万円。
▽今考えても、おかしい演出だ。すべてがこのようなオプションを用意して、遺族に押しつける商法なのだ。
▽急な死去で混乱している遺族に、オプションを押しつけて、金儲けする葬儀会社。おかしくないだろうか。
▽以前読んだ本を紹介したい。
「葬儀という仕事」(小林和登、平凡社新書)
▽葬儀屋に勤めて独立した筆者の、葬儀屋の実にいい加減な、法外な仕事の内容を、冷静に綴った内容だ。好感が持てる。葬儀代が異様に高くなる仕組みから戒名すら金で買うという事実まで、経験からか説得力がある。
★708置き配は危険だ・アマゾンの場合は二度も泣かされた
▽アマゾンの置き配で痛い目に遭った。自宅マンションの宅配ボックスに入れるよう設定し、注文した商品を待った。しばらくしてメールが届いたが、そこには宅配ボックスの番号も、暗証番号も記されておらず、単に配達が完了したという内容だった。私が注文した商品が宅配ボックスのどこにあるのか、全くわからないかった。配達業者もわからず、アマゾンでの問い合わせにも苦労した。
▽深刻化するドライバー不足問題や、再配達の苦労など、宅配業者の過酷な状況は理解しているつもりだ。だから、荷物を受取人に直接手渡すのではなく、宅配ボックスに荷物を入れておく「置き配」も、基本的には賛成だ。アマゾンもデフォルトの設定では「置き配」を設定しているとホームページでは説明している。
▽しかし、対面での受け渡しがない、という置き配のシステムに、欠点がある。宅配業者は「配達した」といい、受取人は「受け取っていない」という、今回のような状態が必ず起きる。
▽今回の商品は、パソコンの周辺機器だった。パソコンに接続して、実際に動作できるのかテストする必要があるので、宅配の到着を待っていた。
▽何回か郵便受けボックスを見に行き、「配達完了」の伝票が入っていないかどうか確認した。そしてしばらくして、「配達完了」という内容のメールが届いた。
▽しかし、そのメールには、宅配ボックスのどのボックスに入れたのか番号も書かれていなかったし、暗証番号も書かれていなかった。
▽恐らく、宅配業種が書き忘れたのだろう。
▽しかし、受け取り側から見れば、のんきなことは言ってられない。受け取っていないのに、「配達完了」したとなっているのだ。
▽どうすればいいかの。
▽アマゾンのホームページを見ると、トラブルになった場合のノウハウが書かれたページがあるが、クリックして進めていっても、行ったり来たりするだけで、らちがあかない。宅配業者に連絡したくても、その業者の電話番号が分からない。通常の宅配なら、不在伝票には宅配業者のドライバーの携帯電話番号も記されているのに、今回はそれすらなかった。伝票なしの置き配の欠陥が、一気に爆発した感じだ。困ったと思った。
▽宅配業者に再配達を伝える番号があった。電話で入力すると、「配達が完了している」ためか、不可能だと出た。
▽ホームページをあちこち探しているうちに、私の電話番号を入力し、電話対応してくれるページが見つかった。これだと思った。私の携帯電話番号を入力すると、ほどなくして、アマゾン担当者から電話があった。事情を話すと、数分後にドライバーから電話させます、と言ってきた。ホッとした。
▽しかし、電話はなかった。
▽3時間後に再度アマゾンに連絡をして、事情を話すと、今度は一度キャンセルして、料金を返金すると言ってきた。これで一件落着するしか亡いのかと思って、承諾した。
▽疲れる一日だった。
▽と思ったら、夜になって、新たなメールがあり、宅配ボックスの番号と暗証番号を通告してきたのだ。既に酒に酔っていた私は、再度1階宅配ボックスに往復し、やっと商品を受け取ったのだった。
▽宅配便の置き配は、以上のように欠陥がある。宅配業者が伝票なども入れないで、置き配すると、「配達した」「受け取っていない」という争いになる。
▽しかも1日がかりだ。
▽たかが「置き配」だが、こんなことに振り回される事態を、今後は避けたいと思った。
▽この話には後日談がある。
▽実はこの1週間後にも、別の商品を注文し、同じように置き配されたが、宅配ボックスの番号も暗証番号も通知しないで、そのまま放置されたままになった。
▽アマゾンに苦情に連絡をしたら、28時間後に、つまり1日以上も経過してからその配達業者が訪ねてきた。
▽そして驚いたのは、その話だった。
▽その業者はどこのボックスに入れたか分からないと言い、「暗証番号は●●●」と言う。その番号をあらゆるボックスで試したが、何も出てこない。
▽再発送するという。
▽要するに、自分が入れたボックス番号も、受取人に知らせないで忘れてしまい、届けることが出来なかった。ずさんな業者だった。
【再掲載】★195終戦日とは何か
▽毎年8月15日が近づくと、新聞もテレビも終戦日記念の特集を組むが、そもそも8月15日は何の日だったのか。『増補 八月十五日の神話』(佐藤卓己、ちくま学芸文庫)は、無批判のまま「8月15日」を終戦記念日だとするマスコミなどの論調を批判し、政教分離として9月2日を平和の日を制定するよう提唱する内容だ。かなり勉強になった。
▽歴史の流れを簡単に整理すると、こうなる。
▽日本が日中戦争、最近はアジア戦争と称する論調もあるが、この15年戦争を終えて、ポツダム宣言受け入れを表明したのは8月14日だ。
▽翌日の15日は昭和天皇による玉音放送が流れただけである。
▽そして8月16日に武装解除の命令があり、この間、一部の陸軍は徹底抗戦を呼びかけて、降伏を阻止する動きもあった。
▽9月2日に東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印をしている。世界の常識ではこの9月2日こそが、戦争終結の日なのだ。
▽だとするなら、8月15日は何なのかと筆者は読者に問いかける。
▽政府は戦後間もなくして8月15日を戦没者追悼式と決めただけであり、それ以外に何もない。
▽雑誌「世界」が8月15日特集を20年間続けた影響も大きいが、玉音放送を根拠とする終戦の日に意味があるのか、と筆者は訴える。
▽その玉音放送も、漢文調で難解なため、後のアナウンサーが解説しないと国民は意味が分からなかった。
▽この本では、8月15日前後の新聞の「やらせ」から始まり、8月14日、15日、16日、9月2日の意味を国内外の戦勝者、戦敗者の立場から解析し、教科書問題まで取り上げて、その神話を追求した。意味ある本だと思った。
▽なお、玉音放送を巡って抵抗を続けた一部陸軍の動きは、『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文春文庫)に詳しい。終戦時の首相や大臣の動き、陸軍や近衛兵のクーデター、敗戦受け入れの玉音放送、それを阻止する陸軍、近衛兵、鎮圧する軍隊など大変に参考になる本だ。特に最後の最後まで、録音された玉音放送のレコードを隠す側とそれをさせない側の攻防がものすごい。近衛兵のトップを暗殺し、さらにはレコードを奪って徹底抗戦した動きを検証している。戦争の狂気に走った日本帝国陸軍の最後の暴走がよく分かる。
【再掲載】★196ジャンボ機墜落の小説とノンフィクション
▽日航ジャンボ機墜落事故で、事故を扱った小説「クライマーズ・ハイ」やそのドラマ、映画を私が推薦するのは、事件の全容を描いたノンフィクションやドキュメンタリーが意外と少ないためだ。「クライマーズ・ハイ」は小説とは言え、地方新聞社を舞台に、事故に関する人間ドラマの全容を描いており、これが私の推薦する理由だ。
▽筆者の横山秀夫は2017年8月の朝日新聞記者のインタビューでこう答えている。
《――520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から今年で32年になります。
▽この時期になると今も気分が沈みます。テレビで特別番組があってもリアルタイムで見る気になれなくて。録画はするんですけどね……。
▽――当時、最も御巣鷹の現場に通った記者だと聞いています。
▽地元紙ですから、事故直後から2カ月近く、ほぼ毎日登りました。記者を辞めたあとになって、出版社の人から「御巣鷹の現場の惨状をノンフィクションで書かないか」と声をかけられたことがありました。引き受けましたよ。当時は作家デビューをしそこね、マンガの原作もうまくいかず、経済的に困窮していました。あさましい話ですが、「これを書けば世の中に出られるかもしれない、チャンスだ」と思ったんですね。
▽――「クライマーズ・ハイ」の前にそんな作品があったなんて、初めて聞きました。
▽いや、書き上げていません。というか、ほとんど書けなかった。一報を聞いて墜落現場に向かい、8時間かけて山を登って到着し……そこで筆がぴたりと止まって。現場を書こうとするたび嘔吐(おうと)して。あの事故を踏み台に世の中に出よう、生活費を得ようなんて考えた自分に押しつぶされたんでしょうね。それで誓いました。金に困っていない時に改めてあの事故と向き合おうと》
▽筆者の鎮魂歌という訳だ。
▽例えば、朝日新聞から出た「日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時」(朝日文庫)。これはこの墜落取材に携わった記者のドキュメントだが、事故発生からのわずかな時間帯のドキュメントであり、4人の生存者をダブルカウントして7人だと多くのマスコミが報道する中、朝日新聞だけはダブルカウントに気づいて、夕刊では「4人生存」だとぎりぎりに報じることが出来たなど、生々しい描写もあるが、その後の被害者の人間ドラマを伝えていない。
▽読売新聞記者が事故調の流れを書いた書籍を出しているが、あくまでも事故原因を追及した内容で、ジャンボ機墜落の全容を描いたわけではない。
▽元客室乗務員が自衛隊機による墜落説を何冊もの本で力説しているが、これも説得力を持たない内容だ。
▽2014年8月には、フジテレビが日航ジャンボ機墜落で「生存者が今明かす“32分間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”」と大々的にうたった番組を放映している。しかし期待はずれの内容だった。世界最大の民間機墜落で、番組は関係者からより鮮明なボイスレコーダーの内容を入手し、それをアメリカの専門機関に依頼し、解析したところ、3回の爆発音があり、それを元にジャンボ機が圧力隔壁から壊れていき、墜落したという航跡を示した。しかし、史実に基づくドキュメントと思ったら、途中からドラマになり、フィクションになってしまい、いい加減な作りの番組になっていて、がっかりした記憶がある。
▽強いて言うなら、「日航機123便墜落 最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)を薦めたい。
▽ジャンボ機墜落から30年以上が経過した時期に共同通信記者が、米国のジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。
▽筆者は話を聞くことが出来る人間は聞き回って、この本は完成度の高いルポルタージュになっている。ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
▽そして私も読んだ元客室乗務員の自説「自衛隊機による墜落説」はおかしいこと、読売新聞の事故調の流れを書いた筆者にも会って取材をしていること、「123便の機影が消えた」という時事通信の第一報が特ダネで、用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであること、川上慶子ら4人が生存している映像を最初に放ったのは、フジテレビのクルーで、原稿を送った人間の両親が2人とも日航客室乗務員だったことなどを盛り込み、その記者として人生まで語らせている。「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
【再掲載】★190ジャンボが消えた
▽「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」
▽1985年8月12日、羽田空港から大阪空港に向かった日航123便、ジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落した大型事故の第一報をこの短いフラッシュ記事として他社に先駆けて打ったのは、時事通信だった。世界最大事故を伝える最初のニュースだった。
▽小説「クライマーズ・ハイ」でも、群馬県警記者クラブで主人公が勤める新聞社の部下が時事通信の第一報を盗み聞きして、デスクの主人公に伝える場面がある。「ジャンボ機が消えた」。ドラマ化された中でも有名なシーンだった。
▽私も第一報が時事通信だとは知っていたが、そのレベルの知識しかなかった。新聞社と通信社は似ているようで、仕事の内容はかなり違っている。通信社はフラッシュに代表される第一報の速報が仕事の中心であり、新聞社は第一報よりは雑観記事や解説に重きを置く仕事が中心だから、時事通信のその第一報も、通信社の通常の仕事として発信したに過ぎないと思っていた。
▽しかし、それは大きな誤解だった。
▽この時事通信の第一報を流した記者は、ジャンボ機に異常が生じ、迷走してダッチロールが続いている状態で早くもその情報をキャッチし、裏を取って第一報を流していたのだ。「日航機123便墜落▽最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)にその取材の詳細が載っている。異常が発生してからわずか15分でその事実をつかんでいるのだ。同書によれば、当時の羽田空港にはNHKと共同通信、時事通信の記者が常勤していたが、NHKも共同通信も不在のことが多く、この日は本人しかいなかったという。そんな中で、羽田、所沢、大坂、周辺の空港の管制体制をすべてチェックして、第一報を打ったというのだ。まさにダブルチェックをした上でのフラッシュ記事だった。用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであることを知った。私は自分の勉強不足を恥じなければならなかった。
▽ついでに書くと、この本はジャンボ機墜落から30年以上が経過した時点で書かれた本だ。米国から見たジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。筆者は共同通信の記者として、話を聞くことが出来る人間は聞き回って、本書は完成度の高いルポルタージュになっている。
▽ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」
と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
★705ジョギングシューズとインソール
▽ジョギングで使うシューズの寿命をかんがえたことがあるだろうか。陸上選手ならいざ知らず、私のようなジョギング愛好家でも、昔は気にしたことがなかった。気になってからは、そんなに値段が高いシューズを購入することはなくなった。
▽ほぼ毎朝行っているジョギングで使うシューズの寿命は、私の場合、50時間前後だ。ほぼ毎日1時間走ったとして、2カ月半で、シューズの外側のかかと部分がすり減ってしまい、シューズとしてのバランスが悪くなる。放っておくと、左右のシューズの外側の底の部分が斜めにすり切れてしまい、両足ががに股状態になってくる。こんな状態で走ると、両足が無理な走りとなり、けがの危険性が高くなる。
▽そのことに気づいたのは、私が札幌市の朝日新聞北海道報道部から、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に転勤し、しばらくしてからだった。坂の多い渋川市の中心街を毎朝のように走っていて、ふと気づいた。シューズのかかと部分のすり減りが早いな、と。
▽そしてどのくらいの時間のジョギングをすると、寿命になるのか、と大雑把に計算した。すると、3カ月以内に1回、シューズを買い換えていたことが分かった。こんなに早いんだと驚いた。
▽考えてみれば、札幌時代はスポーツクラブと併用していて、トレッドミル(ランニングマシンとも言う)を利用する時は、別のシューズを使っていたから、外でのジョギングに使うシューズのすり減りが少なかったということに気づいた。またトレッドミルで使うシューズのすり減りも少なかった。
▽つまり舗装された道路を毎日1時間走ると、シューズは確実にすり減っていき、寿命は50時間だということが分かった。
▽シロウトのジョガーとしては、かなりの出費ということが分かった。それまでは毎回1万円以上もするシューズを使い続けてきたのだ。
▽このため、私はインソールを重視して、シューズは高価なものではなく、比較的安いシューズを選ぶことを考えた。
▽群馬県高崎市にランラング専門のシューズ店があり、ここで特注のインソールを作った。このインソールは私の足の形に合わせて作っており、3万円は高かったが、その分けがから解放されれば、十分に見合うと踏んだ。そのインソールに合わせてシューズ選びをするようになり、シューズは高価なものを選ぶ必要がなくなった。
▽それ以来、このインソールに合わせて、シューズを買い続けて、50時間の寿命を見届けている。
▽さらにはこの店のチェーン店で、新たな特注インソールを別に作り、シューズも2足用意し、交互に使うようになっている。
▽ジョギングを始める人に呼びかけたい。シューズ選びの前に、自分に合ったインソール選びをした方がいい。
★703鍵っ子は豊四季団地の甘酸っぱい思い出
▽千葉県柏市に完成した公団住宅の豊四季団地は、当時関東でも最大規模を誇る公団住宅の団地だった。103棟が完成し、1964年(昭和39年)に入居が始まり、私は家族4人で東京都練馬区のアパートからその団地に引っ越した。当時の国鉄常磐線柏駅から歩いて20分ほどの団地で、新しい団地で、いわゆる鍵っ子生活が始まった。
▽私の父親は東京に本社があるハイヤー会社の運転手として勤務していて。泊まり勤務が多く、午前6時半に自宅を出て、1泊か2泊してから、朝または夕方に帰る生活を繰り返していた。一方の母親もしばらくして会社勤めで働き始めた。母親は自宅を午前7時前に出て、午後8時に帰ってくる会社員生活を続けていた。
▽このため、私と妹の2人は鍵っ子になっていた。朝起きると、間もなくして母親は自宅を出た。用意した朝食を食べてから、自宅に鍵を掛けて学校に行く。帰りはだれもいない自宅に鍵を開けて入る。「鍵っ子」という言葉はそうした生活を指す言葉として、当時から使われ始めていた。
▽この時代に作られた言葉と今でも思う。両親が仕事に出て、自宅を出る時も、学校から帰ってくる時も、鍵を持っていないと、自宅には出入りできない。これが鍵っ子だった。
▽だから朝食は母親が作った簡単なもので済ませたし、夕食、と言うよりは、夜食に近い食事も母親が帰宅をするのを待って、作ってくれたものを食べた。作っている間、腹を空かした私たち兄弟は、母親が買って来たえびせんなどの駄菓子で空腹を癒やして、夜食を待った。夕食の時間は9時近くになっていた。
▽貧しい時代の響きが、この「鍵っ子」という言葉にはある。
▽団地人口の増加で、団地を巡回するバスは5分に1本の割合で走るようになった。大半は東京に向かうサラリーマンだった。巨大団地の風景そのものだった。当時の常磐線は今のような複々線ではなく、上野と取手を結ぶ複線で、柏ら上野まで電車で50分もかかった。
▽大半の団地住民は、このようなそんなに豊かではない生活を過ごしていただろう。しかし、ある程度の裕福な家庭は、一軒家を求めて、この団地から出ていき引っ越しをしていった。一軒家を買う余裕がないサラリーマン家庭はこの団地に最後まで残った。残ったのはそんなに裕福でない人々のだった。
▽団地内には小学校があり、私たちはそこの小学校に通った。そんなに暗い生活ではなかったが、そんなに良い思い出もなかった。鍵っ子生活は、そんなにいいものではない、と今になって思う。家庭内の会話が少なかった。
▽ある時、私が自転車に乗っていて、団地内の交差点でトラックとぶつかってしまい、意識不明となった。気づいた時は病院のベッドの上だった。学校を1週間か2週間、休んだ。それでも鍵っ子生活がずっと続いていた。
▽中学は柏市のマンモス中学で、小学校の同級生、同学年の大半はこの中学に進んだ。鍵っ子生活は続いていた。
▽高校も近くの県立高校に入り、さらに鍵っ子生活は続いた。両親は私の進学に無関心だった。無関心と言うより、大学に行く金がなかった。だから私は高校の終わりぐらいからアルバイトを始めた。
▽大学に入り、アルバイト生活を続けた。大学を卒業後、私は社会人となりこの自宅を離れた。しばらくして、父親は55歳で定年退職し、母親も定年退職し、私の両親はその団地でずっと住み続けた。
▽しかし母親が認知症になり、老人ホームに入った。それと同時にこのマンモス団地で、建て替え工事が始まり、父親は新しく建てられた別の棟に移った。そして数年後病気でなくなった。
▽だから私にとって、豊四季団地の思い出は、小学校からの鍵っ子生活しかない。
▽こんなことを書いたのは、私がこのホームページで地方支局編に261本目として書いたコラム「マンモス公団住宅の再生」を読み返してみたからだ。埼玉県草加市の草加松原団地の話だ。
▽こんなことを書いている。
《★261マンモス公団住宅の再生
▽埼玉県草加市の草加松原団地は全国有数のマンモス団地で、完成当時から注目を集めていた。しかし居住者の高齢化と建物の老朽化で寂れた団地のイメージが定着した。そんな中、都市再生機構(UR)が団地再生事業に取り組み、松原団地はこの数年前に再生事業が完成。全く見違える団地群になった。その歴史を振り返る記念式典が2023年10月27日、地元の獨協大の施設であった。長い時間をかけた栄枯盛衰の物語だった。
▽松原団地は1962年に入居を開始した日本住宅公団(当時、現在は都市再生機構)の賃貸住宅だ。324棟、5926世帯は完成当時、東洋最大規模のマンモス団地として注目を集め、庶民の憧れの建物だった。しかし建物の老朽化が進み、私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に赴任して、この団地の取材を始めた時は、建て替え事業が部分的に進んでいた》
《2018年には、「戻り入居が完了した」と宣言している。再生事業が終了したことを高らかにうたっていた。
▽イベントのために私が訪れた今の団地は、風景が全く変わった別の町並みになっていた。全国に点在するかつての公団住宅で、こんなに再生が進んだのは異例だ。私がかつて住んでいた千葉県柏市の豊四季団地は、草加松原団地とほぼ同じ時期に完成したが、まだ旧団地と新団地が混在していて、再生事業は続いている。草加松原団地は住民の協力もあったからこそ進んだのだろう》
▽この団地でも多くの鍵っ子を生み出したことだろう。
★702自宅の固定電話とウインドウズマシンのインチキさ
▽家庭内の固定電話の役割が次第に終わりつつある。通話の役割がなくなって、インターネットの高速回線に利用しているだけだ。
▽電電公社時代、固定電話は電話の権利書を買ってから、初めて設置できた。黒塗りの電話で、ダイヤル式。アナログの電話だった。電話をかける相手が遠方にいるほど、電話代は高くなる仕組みだった。
▽そんな電話がプッシュ式になり、各家庭にはファクスを兼務する電話機が入るようになった。電話機の進化だった。
▽そして時代は流れ、その電話機はパソコンをインターネットに繋ぐ道具として変化していった。
▽ウィンドウズ95が出る前後、日本のインターネットはまだ黎明期だった。光回線もない時代で、インターネットを繋ぐには、電話回線で、パソコンをモデムを介して繋いでいた。BIGLOBEやニフティーの会員になり、指定されたアクセスポイントに電話をし、インターネットに接続していた。
▽そんな時代からもう30年になる。インターネットの普及が著しく進み、あの時代にインターネット接続に苦労した一人として、驚いている。
▽あの時代、電話回線に繋ぐため、電話代が非常に気になった。1枚の画像をダウンロードするにも20分から30分はかかり、自然と接続時間は長くなった。電話代が高くなった記憶がある。
▽そこでNTTが始めたサービスが、深夜から早朝にかけて、特定の電話番号だけに繋げて料金を一定にする利用方法だった。日中は出来ないため、みんな深夜から未明にかけてインターネットを接続することになった。これで電話代は抑えることができた。
▽ただし通信速度も遅く、ファイルとして資料を添付することができなかった。それでもみんな夢中になり、いろいろ工夫をして、インターネットの接続を試みていた。パソコンのOSがバージョンアップし、電話回線も改良されて、次第に次第に、インターネットの接続速度が速くなっていった。ウィンドウズ2000の登場で、インターネットの環境が次第に整ってきた。
▽しかしそれでも現在のような回線速度は出ていなかった。写真や画像を送るにも時間がかかった。
▽今でも笑ってしまうのは、日本のはパソコンメーカーが売り出したウィンドウズマシンの売り言葉だった。
「ブロードバンド対応」
「大容量メモリー搭載」
▽単にモデムが着いているだけで、「ブロードバンド対応」は大袈裟だった。たいしたメモリーも積んでないのに、大容量メモリだと言ったり、誇大広告だった。
▽ウィンドウズマシンはいつもそのように言い続けて、購買意欲を誘った。アップルユーザの私から見れば、チャンチャラおかしかった。アップルのマックには既にモデムなど全機種に付いていたし、メモリーも容量が大きかった。日本のウィンドウズマシンは騙し合いの商売だったのだ。
▽そんなブロードバンドを担った電話回線だが、最近は光回線となり、電話の本来の姿だった通話の役割はなくなってきたのだ。
★700パソコンの機種変更は時間がかかる・MacMiniの場合
▽執筆作業などに使っている米アップル社のMacMiniの機種変更をした。今年秋に行うとアナウンスされている基本ソフトOSの大幅なバージョンアップが予定されており、私の使っているMacMiniがそれに対応できるか不安になったためだ。いつものことだが、機種変更は金も時間もかかるし作業も大変だった。
▽これまで使ってきたメインマシンはアップルのMacMiniで、2018年の製品だ。アップルがCPUにインテル社製のものを採用し、しばらくの間、いわゆる「インテルマック」の時代が続いていたが、チップをMシリーズに順次搭載するようになり、インテルマックとしてはその最後のマシンだった。メモリーを32ギガまで増設し、内蔵SSDも2テラバイトまで増設したカスタマイズ機種だった。
▽4年間、問題なく使い続けてきた。通常の原稿の執筆やホームページの更新、画像や動画、音楽やテレビの視聴にも使ってきた。iPhoneのバックアップにも使った。問題はなく使い続けた。
▽しかし、アップルがこの秋に行ったアナウンスでは、OSの大幅なバージョンアップを予定しており、私が使ってきたMacMinは、最後のサポートとなるらしい。いつものことだが、OSのバージョンアップを大幅に行うと、マシンの処理能力が追いついていくことが出来ず、レスポンスが遅くなる事は目に見えていた。だからそろそろ替え時だと思っていた。
▽機種変更ではかなり悩んだ。デスクトップマシンなので、同じMacMiniシリーズで、MチップのMacMiniM4を購入すべきか、その一歩手前のMacMiniM2プロにするか、さらにはMacBookProという選択肢もあった。
▽アップル製品は商品をカスタマイズする場合、アップルストアでは簡単にできるが、ヨドバシカメラやビックカメラでは注文してもかなりの時間がかかる。いろいろ悩んだあげく、ネット通販されていたMacMiniM4を購入した。カスタマイズされており、メモリーは32ギガ、SSDも2テラバイトになっている。
▽商品が到着し、いよいよ設定作業が始まった。これまでのMacMiniのデータやシステムはマックのバックアップソフトであるタイムマシンで、外付けハードディスクにバックアップを取ってあり、バックアップデータからデータを転送し、リストアするだけで良い。そんなに難しいことではないと思いつつ、作業を始めた。
▽しかしそのデータやシステムの転送時間が異常にかかった。その日のお昼に作業を始めて、翌日の朝までかかった。時間にして18時間もかかった。
▽データやシステムの設定がすべて転送されて、新しいMacMiniM4が立ち上がった。各種アプリケーションの設定もそのままバックアップからできており、すんなりと新しいマシンでの作業ができるようになった。不安だったが、これでまた新しいマシンでの作業が始まる。ホッとした。
★698昔利用していた偽名宿泊は使えなくなった
▽偽名でホテルや旅館に宿泊していた時代はもう終わったのだろうか?
▽ふと、そう思った。
▽私が新聞記者になりたてのころ、一部の新聞社では出張先のホテルや旅館に偽名で泊まっていた。否、出張ではなくても、通常の旅行でも偽名を使って泊まっていた。ホテルや旅館側には新聞記者であることを隠していたし、周囲の客にも身分を隠していた。これは新聞記者という職業のため、相手に警戒されることを防ぐためだった。
▽新聞記者であることに気づかれないこと。これは大切なことだ。それは昔も今も変わっていないはず。大衆の中に身元を隠し、目立たないようにすること。それは新聞記者の基本だった。だから毎日違うネクタイをつけて出勤しろとも言われた。目立たないための訓練だった。
▽その延長として出張や旅行などでも、ホテルや旅館に泊まる場合、偽名を使った。ホテルや旅館側に新聞記者だと悟られないためだ。周囲の客に対してもそう見られないためだ。私も先輩のやり方を見て偽名で宿泊していた。
▽新聞記者を主人公にしたドキュメンタリーやノンフィクションでも、宿泊時に偽名で泊まっていることが多い。一部かもしれないが、朝日新聞はその辺徹底していたようだ。
▽だが、その偽名を使うこともいつの間にかなくなった。偽名で宿泊したくても偽名が使えなくなっているのだ。
▽そう、宿泊の予約システムがインターネット化によって、クレジットカードなどを使うことにより、偽名の宿泊が難しくなったのだ。楽天トラベルなどの旅行ネットサイトで予約する場合も、カードの決済が必要になる。カード決済はもちろん本名だからそのままホテル側に本名が筒抜けになる。偽名宿泊することなどできないのだ。
▽さらに言うと、ホテル側も最近は多くのホテルがチェックイン時に決済してしまうため、身分を偽ることができなくなっている。昔のホテルならチェックアウト時に決済していたから、偽名で泊まってチェックアウト時に現金払いだったら通過できただろうが、最近はチェックイン時に既にカード決済をしている場合が多く、本名がそのまま通ってしまうのだ。
▽偽名を使った宿泊はもう昔の話なのかもしれない。
▽でも、偽名は使わなくても、身分はなるべく公にしないほうが良い。新聞記者だと知れば、相手は警戒する。警戒されない中で、ひっそりと息をして仕事をするのが新聞記者だ。潜入捜査のように、潜入取材をしているイメージを続けたい。
★695次第に身体の部品が悪くなる
▽年を取ってくると、身体のいろんな部品に故障が出てくる。私はこの10年間、右膝の故障との戦いが続いている。今回はその話を書きたい。
▽私は朝、ジョギングを毎日のように続けている。多い時は1時間、短い時も20−30分走ってきた。若い頃は問題なかったのだが、10年ほど前、右膝に痛みを覚えるようになった。
▽走り出すと、右膝の内側部分に痛みが出てて、満足に走ることができないのだ。しばらく休んだほうがいいと思い、ジョギングは断念し、ウォーキングに切り替えた。3カ月続けた。しかし痛みは回復しなかった。走る事はできず、歩く事は大丈夫だった。走ればやはり痛みが出た。
▽このため総合病院に行き、診断してもらった。若い医師は鵞足炎(がそくえん)だと診断した。
▽ネットではこういう説明がある。
《鵞足炎は、ランニングやジャンプ動作など膝の屈伸による摩擦が繰り返されて、鵞足の腱付着部、あるいは鵞足滑液包が炎症を起こし痛みが生じることです。▽特に、長距離走、バスケットボール、ラケットスポーツなどで起こりやすいと言われています。▽水泳も平泳ぎは膝に負担がかかりやすく、発生しやすい競技の一つです》
▽膝の部分の筋に痛みが出る。主にスポーツ選手が出る故障だ。私の見立てと一致した。
▽しかし、こういう故障は自然治癒に頼るしかなく、医師が処方したのは湿布薬だけで、「痛いのなら、走らないこと」と言われただけだった。施しようがないから、医師としては、お決まりの「走るな」としか言えないのだ。
▽私はその診断だけでは満足できず、別の個人病院に行った。そこでは鵞足炎ではなく、軟骨のすり減り、と診断された。そう、年を取ると出てくる「軟骨のすり減り」。それが痛みとなって出てくるのだ。
▽私は「うーん」と思ってしまった。二つの診断結果が出たわけだ。
▽さらに私は別の整形外科病院に行き、診断を受けた。その結果は鵞足炎と軟骨のすり減りの両方だった。
▽この病院で鵞足炎に効くかもしれないという漢方薬を処方してもらい、それを数年飲み続けた。その結果、鵞足炎の痛みはなくなり、数カ月後にはジョギングを少しずつ出来るようになった。
▽しかし軟骨のすり減りは、変形関節炎となって、歩行中に時折痛みが出てくる。ジョギングの時は何ともないが、歩行だと痛みが出るのだ。膝を曲げずに着地すると痛みが出る。膝を曲げて着地すると痛みは出ない。
▽こうした身体の部品の故障は、付き合っていくしかない。まだジョギングをしたり、歩いたりすることが出来るのは、幸せかもしれない。
★693子どものころは大好きだったプラモデル作りと田宮模型
▽私は子供のころ、プラモデルを作るのが楽しみの一つだった。チャンバラやメンコの世代だ。お小遣いを貯めて、プラモデルを扱っている模型店やおもちゃ屋に行き、あれこれ見定めてプラモデルを買う。自宅に持ち帰り、プラモデルを作り始める。恐らく私の世代の男の子たちは、みんなそうだっただろう。そんな楽しみをを与えてくれたのは、世界的模型メーカーとなったタミヤだった。そのタミヤを世界的に有名にした田宮俊作さんが亡くなった。90歳だった。2025年7月18日の事だった。
▽まずは朝日新聞の訃報記事から。
《田宮俊作さん(たみや・しゅんさく=タミヤ会長)18日死去、90歳。葬儀は近親者のみで行った。後日、お別れの会を開く予定。
▽1958年、木製模型の田宮商事に入社。設計部門の責任者としてプラモデルメーカーへの転換を主導し、77年に前身の「田宮模型」社長就任。「世界のタミヤ」に育てた。2008年に社長職を娘婿の昌行氏に譲り会長となったが、昌行氏が17年に死去し、24年まで社長職を兼務してきた》(2025年7月23日付)
▽この記事では、タミヤの素晴らしさを感じることは出来ない。
▽ネットではテレビ局の記事があった。
《世界的模型メーカー「タミヤ」(本社・静岡市)の田宮俊作・代表取締役会長が7月18日、亡くなったことがわかりました。90歳でした。
昭和9年・1934年、静岡市生まれの田宮俊作氏は、県立静岡高校、早稲田大学を経て、1958年「田宮商事合資会社」に入社、1977年に「田宮模型」代表取締役社長に就任、1984年には現「タミヤ」代表取締役社長に就任、その後、会長職と兼務するなどして会社や業界をリード。スケールモデルや、ラジオコントロールカー、ミニ四駆などの開発と世界的普及に貢献する一方、静岡模型教材協同組合理事長として、「静岡ホビーショー」などのイベント開催し、静岡市を「模型の世界首都」として世界的に認知させるに至りました。
「タミヤ」の発表によりますと、田宮氏の葬儀については、故人の遺志により、すでに近親者で執り行われ、後日、会社による「お別れの会」が開催されるということです》
▽プラモデル作りは、子供にとって夢であり楽しみだった。自宅は貧しかったので、そう簡単には買えなかった。小遣いを一生懸命貯めて、近所のプラモデル屋に行った。何回も何回も眺めては品定めをし、やっと一つのプラモデルを買うのだった。それが戦車だったり、飛行機だったり、戦艦だったりする。多くは戦争の兵器である。こんなものに憧れながら買っていた。子どもの心には、平気という発想はなかった。
▽お金を支払って自宅に持ち帰ると、箱から取り出した部品のプラスチックのパーツを切り離し、組み立てていった。パーツを切り離すのに、カッターや専用のナイフもない時代で、道具は爪切りだった。切り離したパーツをセメダインを使い接着して、部品を組み立てていった。作るのも楽しみだった。
▽戦車の場合はマブチモーターを取り付け、乾電池入れて有線のコントローラーで動かした。戦車の場合、右のモーターと左モーターを逆回転することで、戦車自身を回転させて動かした。それも楽しみだった。友人宅に行き、見せびらかしたことがある。しかも友人宅ではもっと良い戦車があった。こんな楽しみだった。
▽恐らく当時の男の子は、戦車が戦争の道具などと考えることもなく、みんなこんなことに夢中になっていたのだ。
▽そんな子どもから卒業し、すっかりとプラモデル作りの時代を忘れたころに、1冊の本に出会った。「田宮模型の仕事」(田宮俊作、文春文庫)だった。
▽本人の自伝だ。父親の代から手伝って、模型会社を世界一流の会社に築いた男の半生を、自ら語った物語だ。そう、あの田宮模型。男の子だったらだれでも作ったことがある、あのプラモデルの会社だ。父親が興した木製模型から手伝いとしてスタートし、プラモデルを開発し、大ヒット商品を作り出してきた。戦車などの実物を模型のために撮影で海外に何回も行き、精巧な模型を作り続ける。ポルシェを一台購入し、模型のため分解してしまう。戦車は戦争の道具だが、模型は違うと言い切ることに、好感を持てた。
▽この本に触発されたためか、私は朝日新聞東埼玉支局に勤務している時に、当日取材で使っていたマイカーのスバルインプレッサの小型のプラモデルを購入し組み立ててみた。パーツを切り落とし、セメダインで接着し少しずつ仕上げていった。実際乗っているインプレッサXVは中古車で既に10万キロも走っていた。いつかは乗れなくなると思い、思い出としてプラモデルを仕上げたのだ。子供のころのプラモデル作りを思い出してしまった。
▽最期の訃報を伝えたネットの記事に反応したヤフコメを紹介したい。私と同じ気持ちだ。
《ホビーショーで購入した田宮会長サイン入りの伝記本を読むと、木製艦船模型からプラモデルメーカーへの転向、戦車など海外取材の苦労話、小松崎茂氏への箱絵の依頼など興味深い話で飽きる事がありません。それはタミヤのキットも同じでミニ四駆からビッグスケールモデルまでタミヤのポリシーと品質を感じます。最近購入した1970年代初版されたポルシェ934の1/12再販モデル、911の実車を購入分解し作られただけあって半世紀前のキットとは思えない出来でした。幼少期から古希を過ぎた今もタミヤのキットで楽しませて頂き感謝しかありません》
▽合掌
★691名曲「木綿のハンカチーフ」を聴く
▽最近、時折聴くようになったのが、女性歌手太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフだ。名曲だと思う。今まで多くのミュージシャンがカバーしている。
▽松本隆作詞、筒美京平作曲で、1975年12月にCBS・ソニーから発売された。太田裕美にとっては4枚目のシングル。翌1976年12月の「第27回NHK紅白歌合戦」で初出場を果たした際の披露曲でもある。
▽歌詞は4番まであり、恋人の男女2人が対話形式で歌を続けている。
「恋人よ、僕は旅立つ」という台詞から始まり、都会に出た男性が、都会の生活に慣れて、ついには故郷には帰らないというメッセージを込めて歌を続ける。そして最後は恋人を捨てて、その捨てられた女性が、涙を拭くハンカチをください、という言葉で締めくくっている。
▽1番の歌だけがよく知られており、なぜこの曲のタイトルが木綿のハンカチーフのかはわからない。最後の最後になって都会に旅立った男性が故郷には帰らず、恋人に対し一方的に縁を切る話が出て、それを受けた女性が涙を拭く、ハンカチをくださいというのだ。長い曲なので1番しか知らない人も多いが、最後の4番まで聞いてみないと、この歌の真骨頂を理解されないのだ。
▽太田裕美の可愛らしい歌唱力で大ヒットになった曲だが、別のミュージシャンによる歌を聴いていても楽しめる。
▽都会に憧れ、都会に住み、そして都会からもう田舎に戻れないというメッセージであり、故郷に残された恋人は、涙を拭くしかない。そんな小さな恋愛のストーリーが読めて、この曲は楽しいのだ。
▽作詞した松本隆もよくこんな長い歌詞を作ったものだと感心してしまう。
▽ネットではこんなエピソードが紹介されている。
《この楽曲が完成するまでには紆余曲折があった。当時の日本の歌謡曲では、1人の歌手が男性と女性の言葉を交互に切り替えて歌うという構成は例がなく、新しい日本語ポップスを創造しようという松本の試みとされた。しかし松本の歌詞を見た筒美は「こんな詞じゃ曲を付けられないよ」と言い放った。筒美は「詞が長過ぎる」と松本に対して歌詞を短くすることを望んだが、松本や担当ディレクター兼プロデューサーの白川隆三と連絡が取れず、筒美は仕方なくそのまま歌詞に合わせて曲を作った。これについて松本は、筒美から「曲を付けるのは難しい」と連絡があることを予想していたため、締切当日まで連絡の取れない場所に雲隠れしていたという。しかし実際に作曲に取りかかるとすんなりと進み、筒美は「いやー、いい曲が出来たよ」と喜色満面で提出したという。太田によると、例えば「僕は旅立つ」というフレーズでファルセットになるあたりに、太田の歌唱法の良さを引き出そうとする筒美の工夫が見られるという》
▽なるほどと思った。
★688始めてみた関東ローカル線の旅
▽現役の新聞記者時代はほとんど使わなかった関東地方の鉄道によく乗るようになった。時間があれば、ブラリと計画もあまり立てずに乗る。ローカル鉄道の旅も悪くないと思っている。
▽地方に勤務している時は、取材の移動手段はほとんどがマイカーの運転だった。新潟県佐渡市のように鉄道がないところではなおさらだ。鉄道がある地方に行っても、取材移動はほとんどがマイカー。地方だと鉄道の本数も少ないし、乗り換えにも時間がかかる。駅まで行くにも時間がかかる。マイカーの方が便利だったのだ。だから地方に勤務してる時はほとんど鉄道をする事はなかった。
▽会社を辞めてそんな生活とは無関係になり、鉄道に乗るようになった。特に関東地方のローカル鉄道が多い。
▽茨城県を走るJR水戸線、群馬から栃木県を走るJR両毛線、神奈川に向かう京急、日光に向かう東武日光線、千葉県と埼玉県を結ぶ東武野田線、埼玉県を走る秩父鉄道、東京から北上する東武東上線、西武ドームに向かう西武鉄道狭山線など、ブラリと乗ってきた。
▽私は埼玉県に計3回も勤務していたのに、埼玉県の鉄道網には全く無頓着で分からなかった。現役時代に使っていたのは埼京線と武蔵野線、京浜東北線位で、他の鉄道の事はほとんど知らなかった。
▽先日はかつての勤務地である埼玉県秩父市に行こうと思い、いつもとは違うルートを考えた。
▽私は秩父市にあった朝日新聞秩父支局に勤めていたから、自宅があるさいたま市に帰る時は、西武特急で西武秩父駅から西武池袋駅に行き、埼京線に乗り換えて帰宅した。
▽しかし、今回はこれではつまらないと思い、埼京線で逆に北上し終点の川越駅に行き、そこから乗り換えて川越線に乗った。
▽私は全く知らなかったのだが、この川越線は途中から八高線に乗り入れており、八王子行きの電車があるのだ。これだと埼玉県飯能市の東飯能駅に降りることができる。ここから西武鉄道に乗れば、西武秩父駅に行くことができる。そう考えて、この川越線の八王子行きに乗ったのだ。
▽電車はワンマンカーだったが、速い速い。高規格の路盤ではかなりの速度が出ている。これがローカル線なのかとイメージが違ってしまった。東飯能駅に着き、西武線に乗り換えた。こちらも各駅停車の旅。私は文庫本を手にし、時折流れる車窓を見ていた。西部秩父線は山岳列車で、次第に山の中を走っていくことがよくわかる。そんな車窓を見ながら、やっと西武秩父駅についた。
▽以上の行程を総括すると、こうなる。
▽埼京線は大宮駅からは川越線に入り、終点の川越駅に到着する。さらにここで八王子行きの川越線に乗る。川越線は埼玉県日高市の高麗川駅に至る鉄道だが、ここから乗り換えなしで、八高線に入る。八高線は東飯能駅で西武線に乗り換えできる。
▽これは初めて乗って、初めて知ったことだった。
▽ネットでは川越線をこう説明されている。
《埼玉県の県庁所在地であるさいたま市から西へ向かい、川越市を経由して日高市の高麗川駅までを結ぶ路線であるが、早朝時間帯の南古谷駅始発の下り列車を除き、川越駅を境に東西に運転系統が分断されている。川越駅以東(大宮駅▽-▽川越駅)の区間では、埼京線を介した東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅までの直通運転と、相鉄線直通列車として埼京線および相鉄新横浜線を介した相模鉄道本線海老名駅までの直通運転が行われ、車内に掲示してある路線図には、「埼京線・川越線」との表示がなされている。川越駅以西(川越駅▽-▽高麗川駅)の区間では、八高線の八王子駅までの直通運転が行われており、車内に掲示してある路線図には、「川越線・八高線」との表示がなされている》
▽なるほど。
▽こんなミニ旅もよかろう、と私は思った。
▽余談だが、西武秩父駅前にある蕎麦屋に寄った。私が朝日新聞秩父支局に勤務していた時は、毎日寄った店だ。そこで悲しい知らせを知った。そこのマスターが一昨年(2023年)11月に亡くなっていたのだ。そのことを知らなかった。私が秩父支局を最後に退職した際にも何回か寄ったのだが、マスターは大腸がんを患っていて、それでも店の切り盛りをしていた。
▽大相撲の話が好きで川釣りが大好きだったマスターだった。定休日にはよくいろいろと飲みにも行った。私が朝のジョギングをしていると、店に仕込みに行くマスターを何回も見かけたことがある。
▽ビールと日本酒で献杯し、亡きマスターを祈った。合掌。
★687本棚の掃除と断捨離の勧め
▽昨年末に自室の本棚の整理と掃除をやっとの思いで行った。1日数時間ずつ、1週間かけて続けた。この掃除で分かったのは、「定期的に本棚の整理と掃除はすべし」という教訓だった。
▽現在のマンションに住んで30年が経過する。家族から私に与えられた部屋は8畳で、ここが私の自室となり、仕事部屋にもなった。
▽新聞記者を40年間続けてきたから、次第に取材の資料や書籍が増えていく。現在、自室には書籍類が1500〜2000冊ほどある。本棚も買い足していったし、自室だけでは足りなくなり、自宅のリビングにも本棚を設置していき、自宅には現在本棚が10個になった。これ以上はスペースがないため増やせない。このため、レンタルのボックス業者とも契約して、段ボール箱10箱分の書籍を預けている状態だ。
▽本来は怠け癖があるため、書籍の整理整頓はほとんどしてこなかった。ジャンル別には分類しているが、それでも次第にどこに何があるか、次第に分からなくなってきた。本棚には前と後ろに2列にして本を詰め込んでいるため、後ろに置いた書籍のタイトルを見ることは困難で、この状態では後ろの列の書籍タイトルを見ることは出来なくなっていた。
▽そろそろ整理整頓をしないと、と決意したのが、昨年(2024年)12月。本棚から1列ずつ書籍や資料を抜き取って、書籍などに付着していたホコリを掃除機で吸い取り、タオルで乾拭きをした。そして本棚奥にも付着していたホコリを除去した。この作業をずっと繰り返して、1日数時間、計1週間かけて本棚の整理整頓と掃除を終えた。
▽ここで驚いたのは、2年前あれだけ探して見つからなかった書籍が、本棚後ろの列に置いていて、出てきたことだ。
▽例えば私が自著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の原稿を書いている時に、どうしても参考にしたい書籍があった。現役新聞記者が書いた「過激派壊滅作戦」という新書で、部屋中の本棚を探したが見つからなかった。仕方なく、国会図書館に調べに行き、さらには改めてアマゾンで中古本を探して注文した。あるはずなのに、ないためだった。
▽それが今回の整理整頓と掃除で見つかったのだ。本棚の後ろの列に隠れていたのだ。同じ書籍を2冊買ったことになる。
▽同様に、また買ってしまった新書が何冊かあった。
▽自分が買って読んだ本なのに、いざ資料として使おうとすると、見つからない。ずぼらな性格ゆえ、これまで整理整頓しなかった自分が悪いのだが、これからは整理整頓を定期的にするしかないなと思った。
▽なお、今回の整理整頓で雑誌類はかなり捨てた。今年(2024年)1月、休刊が発表された「鉄道ジャーナル」もかなりの冊数を持っていたが、廃品回収に出した。鉄道関係の記事を書く際に、参考にしていた資料の一つだった。雑誌や資料の断捨離も必要なのかなと思っている。
★684奢りは上司の当然の行為か
▽私は昭和生まれのせいか、新聞社で育ったせいか、上司が部下に飲食で奢ることを、当然として育ってきた。若いころは、上司によくご馳走になったし、中間職になってからは、部下によくご馳走してきたつもりだ。要するに奢りだ。しかし、最近この当然の行為が崩れているような気がする。
▽先日、知り合いと飲食をした。そんなに値段が高くなかったので、私が支払った。支払いをしようとして、私がクレジットカードを出して支払った。その時の金額を見たその知り合いが驚くべきことを言ったのだ。
「結構安かったですね」
▽私は
「えっ」と驚いてしまった。
▽ここはまず、
「ごちそうさま」
と言うべきであり、
「安かった」
とは言ってはいけない言葉だ。安かったなら自分で払えと心の中で思ってしまった。
▽こんなケースは過去にもあった。
▽ある支局長の時の話だ。部下を慰労動するために居酒屋に行き、部下にご馳走をした。ビールに酒、総菜各種。当然自腹で金を払い、ご馳走した。奢りだ。
その時にその部下が行った言葉が今でも忘れられない。
「結構安かったですね」
▽同じ言葉だった。
▽普通なら、
「ご馳走までした。ありがとうございました」
と言うのが、礼儀だろう。しかし、その部下は値段を見て、
「結構安かったですね」
と言ったのだ。これが奢ってもらった人間が言うことなのかと思ってしまった。
▽奢られるのが当然だと思ったためなのだろうか。情けなくなった。
▽こんなことが何回も続いたから呆れてしまう。失礼な話だと思った。
▽奢りとは、「自分の金で人にごちそうすること」だ
▽奢ったのに礼が言えない部下を情けなくなった。
▽上司が部下に飲食でご馳走する。それが当然だと思っていたが、もう何年前からそんな上司もいなくなっている。
▽例えば7,8人で飲食した場合、上司だけはやや多めの金額を出すなど当然だと思っていたが、最近は上司すら同じ割り勘なのだ。上司が一番高い給料をもらっているのに、だ。
▽奢る、奢られる、という昭和時代のスタイルは、もはや過去の風景になってしまったのだろうか。そして、奢られることに対する感謝もなくなってしまったのだろうか。
★681危険な喫茶店やカフェでのウェブ会議
▽喫茶店やカフェでパソコンを使ってウェブ会議を行っている人を今でも時折見かけるが、この無防備な行動は即やめてほしいと思う。会話内容がダダ漏れで、会社情報が筒抜けだ。
▽私も時折、コメダ珈琲店やドトール、スタパを利用している。パソコンを広げて、原稿を書く。個人のルーターを利用して、ネットに接続し、ニュースを見たり、メールを点検する。
▽周囲を見ると、同じようにパソコンを広げている人間がいる。
▽困るのは、イヤホンを耳にして、パソコンで会話している人が何人かいることだ。リモート会議でウェブによる発言をしているのだろう。発言内容が嫌でも聞こえてくる。会話内容から会社の仕事、職業が次第に分かってくる。聞き耳を立てている訳ではないのだが、自然に入ってくるのだ。商取引をしている人間もいる。こんなこと、他人には話せないはず、というものまである。時折声を荒げる輩もいる。
▽全くの無防備な状態。こんなことに会社側が気づいたら、こんなことをしている社員を即刻業務停止に命じているだろう。企業秘密がこんな場所で、こんな状態で筒抜けなのだから。
▽ウェブ会議をしたいのなら、不得意多数が集まる喫茶店やカフェではなく、ビジネス用の個室やカラオケ店で行ってほしい。
▽その昔、私が朝日新聞東京本社にいた時、朝日新聞が社内構築をして作り上げたコンピョーターの編集システムで、記事化されたモニターを平気でメモ代わりにして、外部に漏らした記者がいた。モニターには専用のコンピューター用語が書き込まれていて、それが外部に漏れれば、機密だった朝日新聞のコンピューターシステムが外部に曝されることになった。記者の無防備な行動が、会社にとって致命的なダメージになることに、この記者は最後まで気づかなかった。
▽喫茶店で社内情報をペラペラしゃべる会社員は、その危険性に気づいていない。
▽ちなみに、コメダ珈琲店には各テーブルにこんな注意書きのステッカーが貼ってあった。
「貨車の大切な情報、みんなに聞こえていますよ」
「携帯電話やPCなどでの通話やWeb会議はご遠慮ください」
▽もっとも大切な注意とアドバイスだった。
★680留年して大学を卒業した私と静岡県伊東市長
▽私は就職氷河時代に早稲田大学を卒業した。否、卒業しようとした。当時は、新卒しか採用しない企業が多く、就職試験に失敗した私は、わざと大学の担当教授に単位を一つ落としてもらうようお願いし、4年での卒業を諦め、5年で卒業した。だから、卒業するかしないかは、私にとって、今後の人生を決定づける大きな要素だった。
▽当時の新聞社の就職試験は11月2日、もしくは3日に集中しており、多くても2社しか受けられなかった。私の場合、就職試験用の勉強など一切していなかった。しかも新聞社以外に就職の希望はなかった。4年の11月に受けた新聞社は1社で、ものの見事に落ちた。新聞社以外のマスコミや全く別の業者の企業に行く考えはなかった。このため1年間留年することを決めた。
▽当時の就職状況は、多くの企業が新卒しか採用しなかったため、既卒になるのを避けたかったことによる。現在では考えられないだろうが、それだけ新卒と既卒に対する差別があった。
▽では大学で順調に単位を取ってきた人間が、既卒にならないようにするにはどうするか。
▽それは単位を落として、卒業できないような状態にするしかないのだ。
▽このままでは単位を全部取って卒業してしまう私は焦った。
▽そして考えたのが、親しかった教授に頼み込んで、
「この授業の単位を落としてください」
と申し出た。教授は私の説明する意味をすぐに理解してくれたらしく、その授業の単位を落としてくれた。私は見事に卒業出来なくなった。
▽これが私の1年間留年した経緯だ。
▽5年生になり、今度こそ新聞社試験の合格を目指すため、就職試験の勉強を始めた。そして1年後の卒業のため、落としてくれた授業の単位を取るためだけの大学通いを続けた。たった一つの単位取得のためだったから、授業料も安かったことを覚えている。多分、私のように人間がキャンパ委には少なからずいたことだろう。そう思った。
▽そして11月の新聞社就職試験。何とか北海道新聞に合格し、内定をもらった。1次試験も2次試験の面接も、3次試験の面接も札幌だった。冬が近づいている北海道での試験は緊張した。
▽このホームページでも書いているが、内定をもらった北海道新聞東京支社で2〜3月、アルバイトをしていた。
▽3月には大学を卒業出来ることも決まった。
▽4月に北海道新聞に入社し、そこで大学の卒業証書を提出した。
▽その大学の最後の1年間を振り返ると、卒業出来るか出来ないかは、大切な人生の選択肢だった。ずぼらな私でさえ、かなりの神経を使って、「4年での卒業はしない」というコースを選んだのだ。
▽静岡県伊東市の田久保真紀市長の学歴詐欺問題が浮上した時、この市長が大学を卒業できたのか、卒業できなかったのか、という大切な人生の節目の問題を、市長本人がごまかしていた点が気になった。大学に問い合わせをして、「除籍だと知った」と言い訳をしたが、そんなずさんなことがありうるのかと疑問に思った。
▽次第に大学に行かなくなれば、除籍となるだろうし、自らの意思決定で中退することもあるだろう。それをいい加減に「大卒」と履歴にうたうことの責任は、市長自身にある。公選法違反で、辞任しかない。
★678選挙の調査表の確認作業と静岡県伊東市長の学歴詐称
▽選挙報道で一番厄介なのが、候補者の履歴が書かれた調査表の確認作業だ。特に立候補予定者の最終学歴をめぐっては、過去にも現在も経歴詐称などの問題が表面化したことがあり、常に報道機関を悩ます。学歴を巡ってはなかなか確認が取れないのが現状だ。今年(2025年)6月には静岡県伊東市の市長の最終学歴がおかしいと市議会で問題になっており、この調査表問題を記してみたい。
▽まずはネットにアップされた静岡新聞の記事を紹介する。
《5月に投開票された(静岡県)伊東市長選で初当選した田久保真紀氏について、市議の杉本一彦氏が25日の市議会6月定例会の代表質問で、最終学歴を「詐称している疑惑がある」と指摘した。田久保市長は「1992年に東洋大法学部を卒業した」と公表しているが、杉本氏が入手した同年の卒業アルバムには個人名や写真は掲載されていないという。
▽田久保市長の最終学歴を巡っては6月上旬、東洋大卒に疑義を訴える匿名の投書が全19人の市議宛てに郵送で届いていた。中島弘道議長や杉本氏の説明によると、正副議長が市長と面会した際、投書の真偽を尋ねた。市長からは卒業証書だとする文書の提示を受けたという。卒業証書の写しや卒業証明書の提出要請については断られたとされる。》
《市長選を前に報道各社が取材で集めた経歴調査表には「平成4(1992)年3月 東洋大法学部経営法学科」の卒業と記され、広報いとう7月号の経歴欄にも「平成4(1992)年 東洋大法学部卒業」と掲載されている》(6/26(木) 8:19配信・静岡新聞DIGITAL)
▽この記事の中で言う「報道各社が取材で集めた経歴調査表」というのが、朝日新聞でいう「調査表」のことだ。
▽調査表を元に、新聞各社は立候補者本人の肩書を書いていく。例えば、ある候補覇者の場合、「映画監督、元市議、元市職員、早大卒」などと肩書を作っていく。読者にとって新聞に掲載されたこの肩書が重要な情報となる。決して間違いは許されない。各家庭に届く選挙公報では、候補者の言い分をそのまま載せた公報が届くが、新聞はそんないい加減なことを絶対にしない。
▽調査表は基本的には候補者本人に職業などの過去の経歴や学歴を書いてもらい、各社はその経歴や学歴が事実なのかどうかを確認していく。職業の場合は、その企業や組織に電話取材で確認するし、議員の履歴がある場合はそれぞれの市町村や県庁の議会事務局に問い合わせをする。
▽本人が書かないで、秘書や家族が書くこともある。この場合は代筆として認められている。
▽しかし、難しいのは最終学歴の確認作業だ。以前は大学に卒業証明書のコピーを候補者本人に出してもらい、さらには大学に問い合わせもしていたが、10年以上前から大学は個人情報を理由に問い合わせに答えてくれないようになった。特に海外の大学の場合、確認作業はさらに困難だ。
▽このため、卒業証書も出さない場合は、本人の言いなりをそのまま最終学歴として書くようになった。その場合の保険として、候補者本人には「学歴に詐称がある場合は、公選法違反の対象になる」という警告文を添付するようになった。
▽つまり警告があるだけで、学歴詐称は本人が行おうと思えば、出来る状態になっている。最終学歴だけが、確認作業の対象外となっている状態なのだ。
▽今回の静岡県伊東市の市長の学歴詐称疑惑は、その盲点を突いた。確認出来ないことから詐称の疑惑が浮上した。最終的には会見で、「除籍」と訂正した。除籍とは、つまり中退だ。大学卒業は嘘だったことになる。マスコミ各社は調査表を元にして、「大学卒業」と履歴を書いていただけに、明らかに公選法違反だ。辞職すべきだと、私は自分のX(旧ツイッター)ポストに書いた。それだけ候補者の最終履歴は、大切な情報であることを知ってもらいたい。
▽政治の世界、嘘はつきもの、と言えばその通りなのだが、新聞紙面に掲載する候補者の肩書や履歴はキチンと正確な情報でなければならないと私は思っている。
▽最終学歴の確認作業をもっとうまく出来ないのかと思っている。
★675死刑執行再開で法務当局の思惑を読み解く
▽法務省は今年(2025年)6月27日、神奈川県座間市で男女9人を殺害したなどとして死刑が確定していた白石隆浩死刑囚(34)の死刑を執行した。約3年ぶりの死刑執行。今年4月には死刑執行ゼロが1000日となり、このままゼロ行進か続くことが期待されていた中での執行だ。なぜこの時期の執行なのか。法務当局の思惑を読み解いていきたい。
▽白石死刑囚は2017年、SNSで自殺願望をほのめかす若い女性に「一緒に死のう」などとメッセージを送り、自宅アパートに誘い込んで犯行に及び、男女9人を相次いで殺害したなどとして強盗強制性交殺人などの罪に問われ、2020年12月に東京地裁立川支部で死刑判決を受けた。控訴していたが、控訴を取り下げて2021年に死刑が確定していた。
▽被害者は女子高校生を含む10代から20代の若者で、2017年8月からわずか2カ月間で女性8人、男性1人が殺害されるなどした。
▽2008年に「秋葉原連続殺傷事件」を起こした加藤智大元死刑囚が2022年7月に死刑執行されてから約3年ぶりの執行で、鈴木馨祐法相の命令で死刑が執行されたのは初めてだ。
▽この3年間、法務当局は焦っていたはずだ。本来なら毎年、1年に2回は死刑執行を強行し、日本に死刑制度があることを強くアピールする。それが法務当局の本音だった。「犯罪者には死刑執行がありますよ」と世間に見せつけることで、死刑制度維持に努めたかったはずだ。だが、法務大臣の失言や頻繁な内閣改造で、法務大臣が次々と交代し、死刑執行の起案書を作る余裕がなかったことがあるのだろう。さらには夫婦別姓問題など、民法改正作業が進み、法務大臣の負担が増えていたことも要因だろう。
▽だから法務当局は、今夏の参院選を前に国会が閉会したのを狙って、この時期をあえて選んだのだ。閉会中ならば、当局が批判されることもない。こんな狙いが透けて見える。
▽しかも白石死刑囚は控訴を取り下げていた。法務当局にとって、批判が少ない、狙いやすい死刑囚だった。
▽何回も書くが、死刑制度は人間の生命を奪う究極の刑罰だ。戦争と同じ。人を殺したら英雄になる。死刑執行を行えば、日本では法相が賞賛される。ともに権力者が権力を行使する。死刑制度は戦争と同じ論理で成り立っている。だから私は戦争と同様に死刑制度に反対してきた。
▽27日の会見で鈴木法相は「裁判で審理は尽くしている」と説明したが、控訴審もキチンと開かれず、一審の死刑判決で死刑を執行した事実は、審理が尽くされたとは言いがたい。
▽振り返れば1989年11月から3年4カ月続いた死刑執行ゼロの時も法務当局は焦っていた。死刑執行ができない状況を破ったのが、当時の法務大臣後藤田正晴だった。
▽だからこの轍を二度と踏まないと当局は思っていたのだろう。
▽私はこの自分のホームページで死刑執行ゼロが今年4月に1000日に達したことを書いた。書いたことで、朝日新聞も社説でそのことを取り上げてくれた。
▽だから、私は二重の意味で悔しい。死刑執行ゼロが続かなかったこと、そして1000日でもっとアピールしていればよかったのに、と思った。
▽市民団体の仲間には、死刑執行ゼロ1000日で強くアピールすべきだと進言した。しかし、当局を刺激したくないという理由で、市民団体の動きが鈍かった。やっと進めようとしたのが、「死刑執行ゼロ3年」という企画だった。内容は死刑執行ゼロが3年が続いたことで、死刑執行のモラトリアムを作ろうという提案だった。しかし、その企画も今回の死刑執行で目的は果たせないものとなってしまった。
▽私としては死刑執行ゼロ1000日を書いて提言したのに、それを生かせなかったのが悔しい。執行ゼロは1000日となったが、3年は続かなかった。
▽今後憂慮するのは、これから法務当局は毎年、死刑執行を続けていくことだ。人間の生命が簡単に奪われていく。こんな社会でよいのだろうか。
▽最後に今年4月に書いた死刑執行ゼロ1000日のコラムを以下のように再掲載する。
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《★625日本で死刑執行ゼロ1000日に/日本では2回目 ▽先進国の中では、異例にも死刑制度を存続させている日本で2022年7月の執行を最後に、死刑執行ゼロが続いており、今年4月21日、執行ゼロが1000日となる。1000日となるのは、日本の近代行刑史上、2回目となる。前回は1000日達成後に、執行が再開された経緯もあり、死刑制度廃止を求める市民団体は、現在の状況を慎重に見守っている。 ▽最後の死刑執行は、2022年7月26日。古川禎久法相(当時)が、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大(ともひろ)死刑囚(当時39)への執行を命じた。その後、葉梨康弘、斎藤健、小泉龍司ら法相も執行していない。 ▽法相の就任期間が短かったことや、法相の問題発言があったことも一因だろう。多くの要因が重なって、死刑執行ゼロが続いていると、関係者は見ている。死刑が確定した死刑囚の袴田巖さんの無罪確定の判決の影響も考えられる。 ▽このため、2023年と翌2024年の2年間、死刑執行がゼロになった。ゼロの更新が今年も続いており、今年4月21日には執行ゼロが1000日となる。生命を合法的に奪うこの執行のゼロが今後も続くことを、市民団体などは強く願っている。 ▽私はこの状態を歓迎したい。 ▽世界を見ても、死刑制度を存続させている先進国は日本と米国の一部の州に過ぎない。その中で、この今回の執行ゼロは、改めて、死刑とは何かという問題を新たに提起したいと、と思う。 ▽日本では過去にも、死刑施行ゼロが続いていた時期がある。1989年11月を最後に死刑執行ゼロが3年4カ月続いていた。死刑制度の廃止を願う市民団体は当時、この状態を死刑廃止を前提とした「死刑執行ゼロ」であると認識したが、残念なことに後藤田正晴法相(当時)が死刑執行を再開させた経緯がある。「法秩序を守るため」という理由で、執行を再開させた。3年4カ月ぶりの執行だった。以降、日本では毎年のように死刑執行があり、毎年のように死刑囚の命が奪われている。 ▽私は当時勤務していた朝日新聞で、「死刑執行ゼロ1000日達成」という記事を書き、「死刑執行ゼロの周辺」という連載記事を仲間とともに続けた経緯がある。それが後藤田法相の死刑執行再開によって、踏みにじられた思いがある。その後死刑は半年に一度執行され続けてきた。執行ゼロの記録が後藤田法相によって破られたことを、私は忘れられない。 ▽そんな失望を繰り返してはならないためにも、今回の死刑執行ゼロは続けなくてはならないと思っている。 ▽死刑執行を続けても、重大犯罪の抑制にはなっていない。それは京都アニメーション事件でも明らかだ。 ▽死刑は戦争と同じ論理で行われる。戦争も死刑執行も、権力の行使で、人を殺すことが正義とされる。殺人が正当化される。人間の生命を正義という名で奪っていいのか。そんな疑問を常に持ってきた。 ▽日本ではかつて国会で死刑廃止法案が提出され、死刑制度の是非を議論した経緯もある。1956年の国会だ。その法案の提出者に私はかつて取材したこともある。その議員は純粋な気持ちから死刑廃止を願っていた。人が人をあやめてはならないのだ。 ▽私はこのまま死刑執行ゼロが続き、日本から死刑制度がなくなることを切に望む。純粋な気持ちからの願いだ。 ◎参考文献 ▽自署「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」▽「なぜ『死刑』は隠されるのか?」》
★670iPhoneをやはり機種変更をした
▽私はこのホームページ社会事象編にコラム原稿「★587iPhoneのバッテリー交換は純正で」を2025年2月25日付でアップした。サードパーティーのバッテリーは交換しない方がいいという話だ。実体験を記した。当面は機種変更しないと強調したが、しばらくして、やはり機種変更をした。きっかけは、通信速度の5Gの速度確認をしたかったためだ。
▽私は以前のコラムでこう書いた。
《▽前回の機種変更からもう4年半も経っている私のiPhoneのバッテリーが低下したため、先日バッテリー交換を行った。このiPhoneでは1年前にもバッテリーを交換しているので、2回目だ。バッテリー交換は純正のApple製品ではないと、その後の保証は行われないため、注意した方が良いことを知った。 ▽Appleはホームページなどで、iPhoneのバッテリー能力が80%以下になったら交換することを推奨している。私の使っている機種はiPhone11Proというやや古い製品で、80%以下に下がり、夕方になるとバッテリーの容量が20%を切ったので、昨年6月、都内のサードパーティーの店でバッテリーを交換してもらった。 ▽以前はiPhoneを2年ごとに機種交換していたが、機種交換に躊躇するようになったのは、理由がある。機種交換すると、それまでiPhoneに入れている各種アプリの再設定作業が大変だということだ。いくらパソコンでバックアップをしていたとしても、例えば銀行のモバイルアプリはネットバンキングで使うこともあるが、再設定は二重の認証作業が必要で、これが面倒くさい。LINEの再設定も大変だ。前回の機種変更で痛い目に遭っているから、機種変更に躊躇してしまうのだ。だったら、バッテリーだけ交換する方が、手っ取り早いと考えた。 ▽そしてそのサードパーティーのバッテリー交換からわずか1年経ったら、またバッテリーが低下したため、今度はApple系列の「クイックガレージ」という契約店でバッテリーを交換してもらった》
▽そしてこう決意表明した。
《▽それまではサードパーティーのバッテリーだったので、iPhoneの設定からはバッテリー能力をきちんと認識してくれなかった。やはり純正のバッテリー交換をしておけばよかった、と私は思った。今では古くなってしまった私のiPhoneは、まだしばらくは使えそうだ。店員も、こう言ってくれた。 「最新の機種と、そんなに格差はないですよ。使えるうちは使ってください」 ▽円安もあって、アップル製品が高値を続けていて、しばらくは機種変更はしないだろう》
▽この決意は簡単に崩れた。
▽たまたまイオンモールの中を歩いていたら、ドコモのキャンペーンに出会った。
「今だったらば機種変更を無料で変更できる」
と言う。ただし2世代前のiPhone14。それでも無料ならと思って機種変更してしまおうと考えた。これまでのiPhone11ProからiPhone14になる。
▽iPhone16が既に出ていたため、2世代前の機種だが、気になっていたのは、私が使ってきた機種が5Gではなく、4Gの速度で、モバイル通信の速度が遅かったことだ。世間ではもう既に5G速度の機種が出回っており、私はその通信速度が気になった。
▽機種代金が無料なら、機種変更してもいい私はそう思った。それで機種変更したのだ。
▽使ってみて、外出時にモバイル通信速度を、計測アプリで測ってみた。早い場所では、4G速度の10倍近くの速さとなっているのだ。驚いた。世間の多くの人が、5Gの速さを甘受しているのだ。私は乗り遅れるとこだった。こんなに通信速度が速いとは思ってみなかった。
▽この通信速度の格差については、実際に測った速度があるので、別の原稿で記していきたい。
▽機種変更したのは、もう一つ理由があった。私はiPhoneのほかにサードパーティーの通信会社のモバイルルーターを使っていた。BIGLOBEのモバイルルーターだ。しかし、このモバイルルーターの通信速度が異様に遅かったのだ。これも契約を取りやめて、キャリア変更した方が良い。私はそう思っていた。
▽機種変更は、だからこのキャリア変更とともに行った。
▽このBIGLOBEのモバイルルーターについては、以下に遅かったかを原稿に書くことにしたい。
▽と言うわけで、私は5G速度のiPhoneを使い始めた。その結果はさらに別の原稿でお知らせしたい。
★668感動した映画「あんのこと」
▽2024年に製作された映画「あんのこと」は感動的な内容だった。売春と覚醒剤を繰り返す主人公の少女がどうしてここまで追い込まれたのか。2025年4月7日付の朝日新聞に監督インタビューが出ているので、それとともに作品を紹介したい。
▽まずは作品を紹介したい。
▽実の母親の暴力で売春と覚醒剤を繰り返す少女が主人公で、それを更生させようとする刑事、そしてそれをウォッチする週刊誌記者らが登場する。介護施設で働き始めて少女の更生が軌道に乗ろうとした時にトラブルが発生する。刑事が実は更生した女性にセックスを求めていたことが分かり、記者が週刊誌に記事を出して、逮捕される。一方で少女は住んでいたマンションの隣の女に幼児を強引に預けられて、子育てを始める。そんな時に実の母親と偶然に出会ってしまい、再度売春をすることに。そして母親や祖母の住む自宅に戻ると、その幼児は児相に連れられていったことを知り、絶望感に襲われ。やめていた覚醒剤を打ち、刑事との約束で日記に点けていた「覚醒剤なし」の「丸印」をやめて手帳を燃やし、飛び降り自殺をする。そんな悲しいストーリーだ。
▽ネットにはこうある。
《「少女は卒業しない」の河合優実が杏役で主演を務め、杏を救おうとする型破りな刑事・多々羅を佐藤二朗、正義感と友情に揺れるジャーナリスト・桐野を稲垣吾郎が演じた》
《入江悠が監督・脚本を手がけ、ある少女の人生をつづった2020年6月の新聞記事に着想を得て撮りあげた人間ドラマ。売春や麻薬の常習犯である21歳の香川杏は、ホステスの母親と足の悪い祖母と3人で暮らしている。子どもの頃から酔った母親に殴られて育った彼女は、小学4年生から不登校となり、12歳の時に母親の紹介で初めて体を売った。人情味あふれる刑事・多々羅との出会いをきっかけに更生の道を歩み出した杏は、多々羅や彼の友人であるジャーナリスト・桐野の助けを借りながら、新たな仕事や住まいを探し始める。しかし突然のコロナ禍によって3人はすれ違い、それぞれが孤独と不安に直面していく》
▽にしても暴力の母親と子どもを強引に主人公に預ける隣の母親。みんな身勝手。そんな中、少女は生きてきたが、絶望感に押し殺された、ということだ。単なる社会派ドラマというより、こんな人間が社会にいることを強く訴える作品だ。背景には新型コロナウイルス感染の拡大があり、人間関係が薄れていったことがある。
▽インタビュー記事を少し引用する。
《昨年公開された映画「あんのこと」は、若い女性の杏(あん)が緊急事態宣言によって様々な居場所を失い、孤独に陥って自死するまでを描く。監督・脚本の入江悠さんは、コロナが断ち切った人と場所のつながりをどのように見ていたのか。現在もこの社会に残っている「傷痕」をどう見るか。
▽――杏は、新聞記事に登場する女性がモデルです。映画にした経緯を教えてください。
▽2022年のはじめ、プロデューサーに新聞記事などを渡されて、もっと詳しく調べてみないかと誘われたんです。
▽その後、記事を書いた記者に会いに行ったり、社会がどうやって緊急事態宣言に向かったかを時系列順にたどったり。夜間中学に取材に行って一斉休校のときについて尋ね、覚醒剤依存のおそろしさについて当事者グループに聞きました。少しずつ、杏が身近にいる存在に思えました。実際、杏はよく都内の街を歩いていたそうです。道ばたや喫茶店で僕とすれ違っていたかもしれない》
《――杏について調べていくうち、映画にしたいと思い至ったのはどうしてですか。
▽20年に僕の友人が2人亡くなったんです。どちらもウイルスへの感染が原因ではありません。境遇は杏とは違いますが、あの頃の2人の死について、もっと理解したいという思いがありました。また、僕自身の苦しみも杏に重ねていたように思います。僕も緊急事態宣言のとき、すごく孤独を感じていました。それが杏の生涯を見つめてみたい動機になった。
▽脚本の執筆は、自分の抱えていた息苦しさやつらさを、杏を見つめることで客観視させていくような作業でした。やはり杏にとって、薬物更生の自助グループといった他者と集まって接する場がなくなることは大きかった。それは僕にとって、当時休業などを余儀なくされたミニシアターだったんです》
《「あんのこと」の舞台あいさつで全国を回って、観客と話す中で最も驚いたのは、自分や周りの人が杏と似た境遇にあるという話を多く聞いたことです。「薬物に依存している人が家族にいる」「自分もかつて母親に刃物を向けたことがある」……。
▽杏の物語は特殊な事例ではなく、それなりに普遍的なものだということです。ウイルスで亡くなったわけではない彼女は13万分の1でさえありませんが、次のパンデミックでは彼女のような人を追い詰めないよう、みんながよく振る舞えるようになれば、と思います》(2025年4月7日付朝日新聞)
▽こういう社会派的な映画がもっと作られてほしい。
★667iPhoneを拾うとどうなるか
▽iPhoneを拾ったり落としたりした場合、どうすべきか。実際に遭遇して一瞬だが、迷ったことがある。
▽少し以前の話だ。仕事の帰り道で、道端にiPhoneが落ちているのを見つけた。夜遅い時間帯で、交番に届けるのも時間がかかるし、交番そのものが開いていない可能性もあり、そのまま自宅に持ち帰った。翌日、交番に届けようと思った。
▽ここで困るのがiPhoneの機能の一つとして位置情報を持っていることだ。パソコンなどのデバイスで、この拾ったパソコンの位置情報が分かるから、うっかり落としてしまった人は私の自宅を特定してしまう。個人情報を特定されかねない。「探す」のアプリで、サウンドを押されれば、このiPhoneはうるさいサウンドをずっと鳴らし続けることになる。せっかく拾ってあげたのに、そうなればこちらも迷惑だ。盗難容疑で濡れ衣を着る可能性すらある。それほどiPhoneは盗難防止の技術が結集している。
▽このため私はこのiPhoneを開いて、SIMカードを抜き取った。さらには電源をオフにした。通信機能を一時的に解除した。これで位置情報も特定されない。拾ったばかりにこちらに迷惑がかかるのは嫌だったためだ。もちろん悪用しようとしても、できない仕様になっている。
▽翌日私は勤務先の近くの交番にこのiPhoneを届けた。もちろんSIMカードは元に戻した。電源も入れ直した。
▽交番では私の住所と連絡先を記したが、その後、落とし主からの連絡はない。こんなものだと思った。昔だったら、謝礼の電話ぐらいあってもいいいものだが、最近はそれすらなくなっている。交番からもなかった。
▽一方で私もiPhoneを落としたことがある。
▽この際はiPhoneの位置情報で近くの駅構内にあることが分かり、駅の窓口で紛失したことを話し、特徴を言い、元に戻ってきた。
▽位置情報が他人に知られるのは怖いが、逆に紛失した時は助かる。
▽それはiPhoneだけではなく、iPadなどのデバイスもそうだ。電源が入ったいる状態で、位置情報がオンになっているなら、現在の場所が特定できる。便利になったと思った。
▽恐るべし、iPhone。
★666沖縄戦を取材し続けたジャーナリスト森口豁さんの重い証言
▽今年で88歳になったというジャーナリスト森口豁さんの講演を聴く機会を得た。今年(2025年)6月14日、《映画&トーク森口豁「ひめゆりの歴史・いま問う国家と教育」》がさいたま市の浦和コミセンであり、沖縄戦の悲劇を長く取材してきた森口さんの話を聴いていた。そして思ったのは、多くの県民、特にひめゆり部隊の悲劇を作りだした軍の高級将校や学校の幹部は戦後も生き延びて、謝罪しなかったという事実だ。
▽森口さんは長い間、日本テレビ記者やディレクターとして、沖縄戦などを取材してきた。
▽まずは守口勝さんの役を記しておく。
▽守口勝(もりぐち・かつ)さんは1937年、東京生まれ。大学を中退して、1959年に琉球新報社記者として沖縄に移住。1961年から1972年まで日本テレビの沖縄特派員として沖縄取材を続けた。1974年4月に東京転勤後も、社会部記者やディレクターとして沖縄に通い続け、基地問題や離島の抱える問題などを伝え続けた。現在はフリー。ドキュメンタリー「ひめゆりの歴史・いま問う国家と教育」などでテレビ大賞優秀個人賞やJCJ(日本ジャーナリスト会議)奨励賞を受賞している。私にとっては大先輩になる記者だ。
▽今回の講演は、「戦後80年パネル展実行委員会」と市民ジャーナリズム講座の共催で行った。
▽講演では最初に日本テレビ系列NNNで1979年に放映されたドキュメント97「ひめゆりの歴史・いま問う国家と教育」が上映された。森口さんはディレクターとして取材した番組だ。テレビ大賞優秀個人賞やJCJ(日本ジャーナリスト会議)奨励賞を受賞した作品だ。NNNドキュメントは視野の放送枠ながら、高い評価を受けている長寿番組だ。
▽ドキュメントは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等高等女学校の職員や生徒たちが、看護要員として従軍されていった歴史を追うトーンで、証言を得ていく。生存者に対して行われた24年ぶりの女子卒業式で、出席を拒否した女性の話を追いかけていく。辛い体験を思い出したくない、という話を聞き出していく。
▽ナレーターは淡々と話す。
▽米軍からの投降の呼びかけに応じて海に入った住民の背中に、日本軍が容赦なく銃弾を浴びさせた、と。容赦ない事実を我々にを突きつけ行く
▽ひめゆりの女性たちがなぜ死に追い込まれていったかを、執拗にカメラが追いかけていく。その女子師範学校の責任者は、軍の指導に従っただけだと逃げる。
▽ここで分かるのは、彼女たちを死に追いやった責任者は戦後もヌクヌクと生き抜いて来たという事実だ。責任は感じていないし、被害者だと強調していた。
▽ドキュメントの映像を見た後、森口さんがトークでこの番組の裏話を紹介。戦争を思い出したくない、として、取材を拒否する人もいたことを話した。沖縄戦は凄惨な戦争。88歳となった守口さんは、80年後のこの6月、つまり沖縄戦の悲劇があったことを、我が道、自分のこととして、思い馳せてほしい、と締めくくった。
▽私はこのホームページ社会事象編に「★634沖縄・首里城にあった日本軍地下司令室と沖縄人」というコラムで、沖縄戦最後の死闘があった首里城の歴史を紐解いた「首里城と沖縄戦▽最後の日本軍地下司令部」(保坂廣志、集英社新書)を紹介し、こう書いた。
《▽沖縄住民を道具として見なし、地元の軍事指令部は住民を守ることとはしなかった。
▽戦後、こうした司令部幹部は、言い訳をして、住民に謝罪することはしなかった。
▽本書ではこうした具体的な実態を、各種資料を駆使して、浮き彫りにしている。沖縄戦は、日本軍と米軍の最後の戦いだったが、住民は日本軍からも、そして米軍からも命を奪われていたが、特に首里城での実態は生々しい。
▽筆者は、「おわりに」でこう書いている。
《首里高台から戦況を眺め、地下司令部から命令を出し続けた第32軍司令部壕は、敵や味方に関係なく「死」を求めた号令者の壕であった。その精神や指揮命令は、アジアで示した日本軍の振る舞いと同じで、それだけに首里城地下司令部壕は、15年戦争の加害者の実体を示し、さらに住民被害を感得できる重要な戦争の跡地である》
《この場所は、戦闘の心臓部であったが、有線・無線など、情報中枢組織から守られていた。それだけに戦場で血涙を流し、もがき苦しむ兵や住民の姿は、遠い存在だった》
《人が人でなくなり、軍隊は民間人を守らなかったと形容される沖縄戦だが、それもこれも、首里の地下司令部から出された命令によるものであったのは間違いない》
▽ずしりと重く響く言葉だ》
▽沖縄欄は棄民政策そのものだった。
★663インテルマックの終焉とそのショック
▽海の向こうからトンデモナイニュースが入ってきた。今年2025年6月9日、日本時間6月10日、米アップル社がmacOSをこの秋大幅にアップデートし、これに伴って私も使ってきたインテルマックがこのアップデートを最後に、サポート対象外になるというのだ。突然のニュースに驚いている。多くのユーザが驚いているのではないか。
▽まずはそのニュースを見てみよう。以下はネットにアップされたニュースだ。
《Appleは6月9日、WWDC25でmacOS 26 “Tahoe”を発表した。今回のアップデートでは、「Liquid Glass」と呼ばれる新しいデザイン言語を採用し、macOSの見た目を大幅に刷新する。従来のmacOS 15 Sequoiaから一気にバージョン26へと飛んだのは、AppleがすべてのOSのバージョン番号を統一し、2026年に向けた新しい命名規則を採用したためだ。
新しいmacOS Tahoe 26は、透明感のあるLiquid Glassデザイン、Continuity機能の大幅強化、Spotlightの史上最大のアップデート、そしてApple Intelligenceの拡張を主要な特徴としている。開発者向けベータ版は本日から提供開始され、パブリックベータは来月、正式版は今秋にリリース予定だ》
《AppleがWWDC 2025で発表したmacOS Tahoe(macOS 26)が、Intel Macに対する最後のメジャーアップデートとなることが明らかになりました。来年リリース予定のmacOS 27以降は、Apple Siliconを搭載したMacのみがサポート対象となります》
▽インテルマックとは、MacMiniやMacBookProなどのアップルのパソコンに、インテルのCPUを採用した製品を指す。PowerPCの後継機種で2006年から順次、インテルマックの商品が販売されてきた。
▽私はこの四半世紀、ずっとマックユーザーだった。PowerPC時代から使い続けており、インテルマックになってからは既に20年近く使い続けてきた。
▽私が朝日新聞を退社し、「記録作家」を自称して物書きを始めた2021年9月、つまり今から4年前、メーンマシンとして購入したのが、最後のインテルマックだった2018年製のMacMiniだった。
▽購入した時期にアップルは独自のMチップを搭載したマシンを売り出していたが、私は古いソフトも使っていたので、迷うことなく、インテルを購入し使ってきた。インテルマックを使い続けているユーザも少なくない。
▽そのインテルマックが、秋のOSバージョンアップを最後にサポーツは終了し、使えなくなると言うのだから、多くのユーザは驚いたはずだ。アップルとしては、今後展開するAI機能を使えるMチップシリーズで商品展開したいのだろう。インテルマックは、Apple Intelligenceが使えない。
▽朝日新聞は間抜けな記事を書いている。
《米アップルは9日、米カリフォルニア州の本社で開発者会議を開き、スマートフォン「iPhone(アイフォーン)」やタブレット端末「iPad(アイパッド)」に搭載する基本ソフト(OS)の画面デザインや名称を今秋にも一新すると発表した。しかし、巨大IT間で新たな競争軸になっている生成AI(人工知能)では革新的な技術を打ち出せなかった。
▽画面デザインの刷新は2013年以来で、「10年に一度のプロジェクト」(幹部)という。ガラスのような光沢や透明感が特徴の画面デザイン「リキッドグラス」は、アプリのアイコンなどが立体的に見える効果を加える。iPhoneやiPadなどアップルの製品に共通で搭載される。
▽アップルは24年、同社の生成AI「アップルインテリジェンス」をiPhoneなどに導入し、音声アシスタント「Siri」が利用者の質問に答える精度を高めた。この日は、異なる言語の通話をリアルタイムで翻訳できるようになる機能などを発表した。
▽ただ、類似のサービスはすでにあり、新味は薄い。フェデリギ上級副社長は「高い品質基準を満たすには時間が必要。来年には詳細を説明したい」と釈明したが、巨額の投資でAI開発を続けるグーグルやメタなどライバルに後れをとっているとの市場の見方を払拭(ふっしょく)するには至らなかった。(サンフランシスコ=奈良部健)》
▽この記事にはインテルマックの事について全く触れていない。AI開発の競争に負けていることを書いてるだけだ。
▽MacMiniとは別に、私がモバイル用に使っていたインテルマックのMacBookAirを中古品としてパソコン販売店であるソフマップに売りに行った時、意外に高い値段で引き取ってくれたことを思い出す。その時店員は
「Mチップのマックよりインテルマックの方が需要が多いので」
と説明してくれた。そう、インテルマックを愛用しているユーザはまだ多いのだ。それでもAppleはインテルマックを切ろうとしている。
▽私は近い将来、つまりこの数カ月以内には買い換えの結論を出すしかないと考えている。最新チップであるM4を搭載したMacMiniを購入するしかないのだろうか。金がかかる。それしか新しいOSバージョンアップに対応する手段がないのだ。やれやれ、だ。
★660朝日新聞に欠けている鉄道問題の二つの視点
▽最近、朝日新聞を読んで気になっていることがある。朝日新聞が報じる鉄道問題について、二つの視点が欠けているのだ。部署の縦割りが問題なのか、それとも問題意識を持つ記者がいなくなったのか。どうしてこの話を書かないのだろうか、と私は常に不思議に思っていた。
▽こんな記事を見て私は笑ってしまった。2025年4月14日付朝日新聞だ。
《線路や車両の保守作業に多くの人手をかけてきたJR各社が、現場の省力化を急いでいる。広大な線路網を抱える一方で、熟練作業員は高齢化し、労働力不足が顕在化しつつあるからだ。高所、夜間作業にロボットやAI(人工知能)を活用し、「労働集約型産業」からの脱却を図る》
《ヒト型ロボットが、腕に装着したチェーンソーで線路脇に茂る高い樹木の枝を伐採していく。遠隔操作するオペレーターのVRゴーグルにはロボットの視界と同じ映像が映し出され、操縦桿(かん)を通じてロボットの腕にかかる力が伝わってくる。
▽JR西日本がロボットベンチャー企業などと共同開発し、昨年7月から現場作業に導入した「多機能鉄道重機」だ。
▽ロボットは道路と線路の両方を走れるトラックで移動。クレーンを伸ばせば高さ12メートルでの作業が可能で、40キロの荷物を持ち上げる。腕のツールを交換すれば、架線設備の塗装や部品取り換え作業もこなせる。
▽JR西は「人手を3割減らせる。遠隔操作で高所作業ができるので、女性や高齢者も重作業を担える」と期待する。
▽国立社会保障・人口問題研究所によると、3人に1人が65歳以上の高齢者となる2040年、働き手の中心となる現役世代(15~64歳)は今より1200万人ほど減って約8割になる。JR幹部は「鉄道の保守作業は夜間の重労働が多い。深刻化する人手不足への危機感は強い」と話す》
▽人手不足から機械化が進むというトーンの記事だ。どう読んでも、JRの宣伝記事。何の問題意識も伝わらない。この記者、こんな話しか書いていない。
▽私は2021年8月を持って朝日新聞を退職したが、その前後の10年間気になっていることがあった。朝日新聞の鉄道問題報道について、二つの点が欠落しているのだ。どうしてこんな宣伝臭の強い記事を書いてばかりいるのだろうか、と私は常に不思議に思っていた。
▽一つが整備新幹線や新幹線延伸問題で経営が切り捨てられた在来線の問題だ。新幹線の建設によって切り捨てられた在来線は、地元の自治体などの出資などによって、第3セクターとしての道を歩むしかなかった。しかし経営は厳しく、多くが赤字に悩まされている。東北本線の盛岡以北にして然り、北陸本線の直江津以西と直江津以南も然り。上越新幹線越後湯沢駅から直江津や富山を結ぶほくほく線の特急も然り。すべてが廃止され、運行する本数そのものが少なくなった。長野新幹線の並行在来線の信越本線もズタズタだ。
▽しかし、こうした在来線の現在の動きを書く記事を、朝日新聞ではほとんど見たことがない。地元の地方版では書いていたとしても、記事の本数は少ない。
▽新幹線開業で並行在来線が経営分離されて、切り捨てられた現在の話が全く掲載されていない。地元の年寄りや通学生にとって、大切な問題なのに、朝日新聞は無視している。
▽これは読売新聞も毎日新聞も同じなのだろうが、私は33年間朝日新聞の記者だっただけに、そして今でも読者だけに残念で仕方ない。
▽新幹線の問題については、各本社経済部の記者が中止になって書いている。九州新幹線問題も、北陸新幹線問題もそれぞれ経済部の記者が書いている。一方で東京本社社会部の記者は何もしていない。
▽東京本社社会部の鉄道担当記者が書いているのは、JRや首都圏の私鉄の鉄道の宣伝記事だけであり、批判記事など見たことがない。
▽何をしてるのだろうか不思議に思ってしまう。
▽そしてもう一つが、鉄道労働者の問題だ。古くは国鉄の分割・民営化問題があった。国鉄清算事業団やタコ部屋に象徴される国労労働者に対する人権蹂躙問題があった。こうした鉄道労働者の話を朝日新聞は全く取材していないし、知ろうともしない。
▽国労問題は、中曽根内閣の国労つぶしが発端であり、目的であり、それによって国労が解体されていった。国鉄労働者がその後どういう生き方をしてどういう生活をしているか、そして今現在何やってるのか。朝日新聞東京社会部の記者は知ろうとしない。
▽朝日新聞社会部にはかつてこうした国労労働者問題を扱ってきたNという編集委員がいた。そのNさんが辞めて、朝日新聞の紙面から国鉄労働者の話は消えてなくなった。国労集会の時は政治部の記者も来ていた。
▽現在の労働者問題と言えば、正規雇用ができない人々の話を書くのが中心となって、鉄道労働者の話は出てこない。しかし、国労問題が政治的に解決したと言っても、いまだにその労働者と家族は苦難を強いられている。過去の話ではないのだ。こうした話を紙面化できない朝日新聞に対して不満と悲しみを覚えてしまう。
★654東京都電荒川線に乗って歩いた南千住界隈
▽先日の祭日を使って、東京都電荒川線に乗ってきた。早大の学生時代は大塚駅前から最終駅の早稲田まで何回か乗った記憶があるが、反対側の三ノ輪橋まで行くのは初めてだった。
▽JR京浜東北線王子駅を降りると、すぐ隣が都電荒川線王子駅前のホームだ。ホーム上でSuicaカードにタッチして、料金を先払いして、一両の電車に乗り込んだ。休日とあって、昼でもかなり混んでいた。都電荒川線に乗り込むのは、かなり久しぶりで緊張した。
▽電車は走っては止まる、という動作を繰り返していた。下町の一般道路と並行して走り、交差点の信号が赤になれば止まった。交通渋滞に巻き込まれることはないが、かなりゆっくりとした速度だ。道路を走っている自転車の女性を抜いたと思ったら、抜き返された。要するに平均速度は女性の自転車の速度より遅いということだ。祭日のせいか、サラリーマンの姿はなく、親子連れや年寄り、そして私のように街歩きを楽しむ乗客が目立った。
▽車窓を見ると、高層ビルは少なく、青空が広がっていた。下町を走る都電荒川線のイメージ通りだ。
▽やがて終点の三ノ輪橋に着いた。
▽東京・荒川区のホームページではこう紹介されている。
《今から約45年前の都電・三ノ輪橋停留所付近と荒川車庫前停留所です。当時は、三ノ輪橋-王子駅前-赤羽を走る27系統と、荒川車庫前-早稲田を走る32系統がありました。昭和47年に27系統の王子駅前-赤羽が廃止、その後32系統と統合され、現在の三ノ輪橋-早稲田間を走る都電荒川線となりました》
▽駅ホームの先には、「三ノ輪橋おもいで館」という小さな観光案内所があり、建物の中では案内窓口があった。内部ではミニチュアの電車が走っていた。
▽ホームを出て、北側に歩くと、東西に長いアーケード街があった。アジア太平洋戦争の空襲の被害も受けたことはなく、古い建物も残っていた。しかも少子化などの影響もなく、シャッター街になることもなく、店の多くが営業しているから驚きだ。
▽その一角にある珈琲店に入り、コーヒーを注文した。名前も「都電コーヒー」。コーヒーの香りを味わいながら、飲んだ。うまいコーヒーだった。
▽店主によると、このアーケード街は関東大震災で全滅した後に復活した商店街で、アジア太平洋戦争の空襲でも生き残った。だから築100年の建物もあるという。
▽アーケード街では惣菜屋に大勢の客が並び、中華店は満席で混雑していた。菓子屋では桜餅や団子の和菓子が並んでいた。
▽アーケード街を歩いた後、JR常磐線沿いに歩いて、南千住駅に向かった。
▽私は学生時代まで、千葉県柏市に住んでいた。だから都内に出る時は常磐線を必ず使ってきた。常磐線が地下鉄千代田線と乗り入れして、複々線となっても、快速電車は北千住、南千住、三河島各駅に止まっていた。
▽その南千住駅。南側は大きくカーブし、その電車の車窓から見えたのが、プロ野球の球場だった。
▽東京スタジアムだ。「東京球場」という通称でも呼ばれていた。
《プロ野球・千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していた。施設の運営管理は、かつてオリオンズのオーナー企業だった大映の関連子会社である株式会社東京スタジアムが行っていた》
《1062に開場したが、1972限りで閉鎖。その後1977に解体された》(ネットより)
▽そんな子ども時代のかすかな思い出を頼りに、南千住駅を歩いた。
★653延期になったが、高速道ETC料金の大幅変更に驚き
▽今年(2025年)5月29日付朝日新聞でこんな記事があった。
《NEXCO3社(東日本、中日本、西日本)は28日、7月にも実施予定としていた高速道路料金の深夜割引の見直しを延期すると発表した。4月にNEXCO中日本管内で発生した大規模なETC障害の影響で、新たな開始時期は未定。2024年度末としていた当初計画からは2度目の後ろ倒しとなる。
▽現行の深夜割引は、午前0~4時に少しでも走行すれば全区間の料金が3割引きとなるが、見直し後は対象時間を午後10時~午前5時に3時間拡大し、時間内に走った距離に応じて3割引きとするといった内容だ。
▽NEXCOはこれまで料金徴収のシステムを新たに構築してきたが、24年末にシステム整備に時間がかかっているとして、4カ月程度の延期を公表。さらにNEXCO中日本のETCの大規模障害を受け、システム整備を中断して再点検をしており、7月の運用開始は難しいと判断した。(高橋豪、清井聡)》
▽実はこの料金見直しの話は、最近知って驚いた経緯がある。7月ごろから、高速道ETC料金が大幅に変更になるというのだ。知らなかった。一部業者にとっては大幅な値上げともなる。こんな大切なことを、キチンと告知していない高速道路各社の対応にも、疑問に思ってしまう。
▽まずホームページで公表している内容を見よう。
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変更のポイント
1
割引適用時間帯を現在の0時~翌4時から、22時~翌5時に拡大します。
2
割引適用時間帯の走行分のみを割引します。
現在は、適用時間帯に走行すれば全走行分が割引されていますが、見直し後は適用時間帯に走行した分のみが割引されます。
3
割引は「後日還元型」となります。
見直し後は「ETCマイレージサービス」または「ETCコーポレートカード」への後日還元型割引となります。
4
新たに「上限距離」を設けます。
割引対象距離を増大させることを目的とした「速度超過」などの無謀な運転を抑止し、安全・安心に高速道路をご利用いただけるよう、割引適用距離に上限を設けます。
5
激変緩和措置をおこないます。
割引見直しによる長距離利用の通行料金負担増や、新たな交通集中を抑制するために、運用開始後5年程度、激変緩和措置を実施します。
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▽そしてこう説明する。
《1割引適用時間帯が「22:00〜翌朝5:00」に拡大
現在の適用時間帯は0:00〜4:00ですが、見直し後は適用時間が22:00〜翌朝5:00になります。深夜割引適用待ち車両の滞留、それに伴うドライバーの労働環境悪化が問題視されていたため、ドライバーへの負担減を目的に見直しが行われました》
▽深夜の割引料金を利用するため、この時間帯に車が集中することから、ドライバー負担の軽減を理由にするのは分かる。しかしそれだけではないのだ。▽
▽これが2の適用時間帯の走行分のみに割引きするという大幅な変更だ。
《なお、見直し後は適用時間帯に走行した距離のみが割引対象です。現在の深夜割引は、0〜4時の間に少しでも走行があれば全走行分が割引対象になっていましたが、変更後は走行分のみの割引になります》
▽つまりこれまでは、適用時間帯の一部を走るだけで、全行程が割引きになっていたのが、適用時間帯のみに変更される。
▽例えば、東京から新潟まで深夜に走らせるとすると、これまでは0−4時の時間帯の一部を高速道で走れば、全行程が3割引きだったのに、それがなくなる。2200−0500に拡大されたが、この時間帯以外に走ると、通常の料金がかかる。深夜のトラック便にかなりの影響が出ることが予想される。
▽私のように地方勤務が長く、単身赴任で、自宅があるさいたま市にマイカーで帰宅するとなると、これまでは0355というギリギリの時間帯に高速道に乗れば、全行程が3割引きだったのに、今度の改定案だと、もっと早い時間帯に高速道を利用して、2200−0500の時間帯に高速道を降りないと、割引きにならないのだ。かなりの値上げだというのが、私の感想だ。
▽さらに4についてもこう説明する。
《無謀な運転を抑止する「上限距離」の新設
見直し後、なるべく割引適用時間内に距離を稼ごうとするあまり、スピード超過などの無謀な運転をしてしまうドライバーが出てくる懸念があるため、上限距離が新設されます。利用1時間あたりの上限距離は次の通りです。
▽軽自動車や普通自動車などは1時間あたり105キロ
▽大型車などは90キロ》
▽ご親切にも速度違反しないよう、上限距離を設けたのだ。
▽こうして見ると、今回の大幅な改定案は、ユーザーの高速道利用に大きな変更をもたらすと予想されるし、使い方によってはかなりの大幅な値上げになる。
▽反対の声は起きていないのだろうか。
▽ちなみに今年4月に東名高速道で起きたETCのシステム障害事故。この深夜料金のシスタム変更のテストで発生したものだった。
《中日本高速道路(ネクスコ中日本)管内の高速道路で、6日午前0時半ごろからシステム障害が続き、午後1時半現在で、1都6県の料金所92カ所でETC専用レーンが利用できなくなっている。復旧のめどは立っていないという》
《▽システム障害のため利用ができなくなったのは、東京・神奈川・愛知・静岡・岐阜・三重・山梨の7都県にある17路線。係員が対応する一般レーンやサポートレーンは利用できるが、支払いが滞ったり職員が不足していたりしている》
▽システム回復に2日もかかった。トラブルが発生したのに、利用者から後から料金を取ろうとするせこさも見せつけてくれた。
▽料金見直しの延期は、当然の措置だと思う。
★652秀逸だったクルド人問題を取り上げたNHK特集
▽クルド人問題を取り上げたNHK・ETV「フェイクとリアル 川口・クルド人・真相」の再放送は秀逸だった。一度は再放送を延期したことから、クルド人攻撃する側を忖度したとされていたが、再放送は内容がさらに良くなった、とNHK関係者は評価している。
▽NHK・ETV「フェイクとリアル 川口・クルド人・真相」はまず今年(2025年)4月5日に放映された。そして再放送をすることになっていたが、延期され、内容を一部修正して5月1日に再放送された。
▽私は最初の放送分と再放送された分、そして台本をNHK管家社から入手して、観賞した。
▽内容は埼玉県川口市に住むクルド人問題を正面から取り上げたもので、クルド人に対する執拗な嫌がらせ、執拗なデモ、執拗なSNSでの抗議、偽情報の拡散を時系列に、X(旧ツイッター)などの投稿を分析して、調査していった。
▽クルド人に対する攻撃はこの2年間で急増した。きっかけは難民改正法の動きだったという。国外に強制的に退去されることを憂うクルド人の会見に、匿名の抗議が殺到し、川口市に住むクルド人に挑発する動きが始まったと番組は紹介した。
▽そしてツイッターから偽情報が拡散し、川口とは関係ない川崎のヘイトから出張してきたグループがクルド人攻撃を始めたと指摘した。「川口市ではヘイトを禁止する条例が出来たため、そのはけ口を求めて、ヘイト集団が川崎から川口に出張してきた」と弁護士は指摘する。
▽川口では自警団まで登場し、クルド人を見たら、危険視する人間を登場させた。関係ないことで入院したのに、「クルド人許せない」と投稿したら、閲覧数は一気に上昇し、それが楽しくて、偽情報を拡散させたことを説明した。
▽クルド人に異常に高い外国人保護費が支払われていると偽の投稿も検証し、嘘であることも番組では検証。さらには「偽装難民」という言葉が使われていることも、番組では危険な兆候だと指摘した。
▽偽の万引き動画が拡散している事実も取り上げて、偽情報を発信し、それが拡散している実態を追っていった。
▽気になるのは、こうした偽情報を拡散している人間の多くが、匿名であることだ。中には、「ジョーカー議員」を名乗って行動する人間もいるから、恐ろしい。
▽こんな人間は、保守を名乗っているが、本物の保守ではない。実際にこんなヘイトのグループから距離を置いた人間もいた。
▽インターネットという闇の社会で、クルド人非難は続いている。秀逸な番組だった。
▽再放送して、内容がさらに良くなったという評価は当たっている。よくぞ、再放送した。
▽で翻って、我が朝日新聞はどうしている。朝日新聞はこのクルド人問題を正面から一度も取り上げていない。川口担当記者もいるというのに。
★649元朝日新聞デスク鮫島氏の証言とモヤモヤ感
▽もう一度触れておく。
▽やはりモヤモヤ感が消えなかった。朝日新聞が特ダネだとして報じた福島原発の吉田証言の記事撤回を巡り、当時の朝日新聞特別報道部デスク鮫島浩氏が、自身の本やインタビューなどで証言しているが、いくら読んでも朝日新聞記者だった私には、モヤモヤ感がなくならない。それは何だったのか。
▽彼は月刊誌創のインタビューに答えて、こんな回答をしている。
《――退社してから朝日新聞批判を書いた人はこれまで何人もいましたが、ほとんどが右派のスタンスの人ですよね。辞めたのを機に右から朝日を非難する。その意味では鮫島さんの本は、これまでのものとはかなり違います。
鮫島▽今回の本は、前半は主に政治報道の現場について、後半は朝日新聞のガバナンスについて書いています。政治報道批判はいっぱいあるし、朝日バッシングも世の中にはいっぱいありますが、そういうものとは全然違うと思っています。
▽私は記者人生のほとんどを政治報道につぎ込んできたので、政治記者としてはそれなりに実績もあるし、今も政治取材には自信があります。だから朝日新聞の政治取材の内部を知り尽くした立場で、良いところも悪いところも含めて書いた。書かれている人はほぼ実名で、かなり具体的でリアルに書かれている。政治報道の内側を知る者が政治報道の実態をここまで克明に明かした本はこれまでなかったと思います。
▽これまで辞めてから朝日批判をやった人たちともうひとつ違うのは、私が朝日新聞の体制のど真ん中、いわば中枢に近いところにいたということでしょうね。政治報道についても朝日新聞の中枢についても結構知っている立場なので、この本を読んで、見立てとか核心部分についてはあまり文句を言いづらいんじゃないかなと思います》
▽彼は吉田調書を今でも特ダネだと評価しているし、吉田調書の入手そのものは、確かに評価すべき取材だと私も思うが、問題はその吉田調書の裏を取らなかったことにある。あの日の朝刊1面トップの記事を読んで、私は違和感を持ったことを思い出す。吉田証言を裏付ける所員の話が全くないのだ。逃げ出したとする所員の証言を最低でも5人から10人、取材して取っていれば、何の問題にもならなかった。特ダネの裏を取らないで紙面化したことの問題意識が、取材者にもデスクにも欠けているように思える。モヤモヤ感は、鮫島氏がいまだにそのことに気づいていないことだ。
▽さらに言うと、鮫島氏は自分が朝日新聞の中枢にいたと繰り返して強調しているが、中枢にいるというエリート意識が、私のように地方を回ってきた記者からすると、実に不愉快にさせてくれる。モヤモヤ感は倍増する。同じように感じる朝日新聞記者は多い。
▽当時、朝日新聞は慰安婦報道問題、池上彰さんのコラム不掲載問題もあり、想像以上のパッシングが吹き荒れていた。読売新聞は販売店を通じて朝日新聞の不買運動を行っていた。部数は激減していった。
▽私は本社の中枢にいなかったので、読者レベルでこの一連の問題を見ていたが、慰安婦報道問題も、コラム問題も酷いと思っていたし、吉田証言も脚色をする必要がなかったと今でも思っている。
▽別に私は右派でもないが、モヤモヤ感を持ったまま、拭えてはいない。
★648私の本に寄せられた感想を紹介します
▽私が2023年に出した本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」に寄せられた感想を紹介します。皆さん、ありがとうございます。
▽大変興味深い内容で、一気に読み進めてしまいました。 ▽様々な事件の現場に関わった方ならではのお話はとても説得力がありました。 ▽次回作も楽しみにしています。 (青森県・Mさん) ▽著者を拝読しました。とても興味深かったです。病気以来あまり本を読めずにいたのですが、久しぶりに、しっかり読書しました。素晴らしいお仕事だなと思いました。 (宮城県・Aさん) ▽世の中の出来事をまっすぐに向かっての姿勢は、大学生の頃と全く変わらないなと思いました。原さんらしい、というか。 ▽驚いたのは本当に多岐にわたる出来事を取材しているんだ、ということです。世の中、おかしなことにここまで深く関わるのは大変だなと思いました。 ▽私は朝日新聞を取っているので、地方版が縮小というのはよくわかります。でも、デジタルのツールがいろいろに出回る中、私は新聞にかなりの信頼を寄せています。 (甲府市・Fさん) ▽とても面白くて、読んでいて、何やら気分が高ぶりました。とりとめのない雑駁な感想になりますけど、勘弁ください。面白くて、ものすごい作品です。平たく言って、ドラマに満ちていました。 ▽さすが新聞記者の切り口で▽40年のキャリア、東西南北、いくつもの現場支局を体験しての積み上げから醸成された眼力というか、記者のための教科書的な作品であると思いました。 ▽「記者のため」だけではなくて、「政治家のための、ヤクザのための、労働組合のための、記者の家族のための、我々民衆のための、ひとつの事件に関わる関わり方の教科書」となり得るでしょう。多くの人に読ませたい本です。 ▽それぞれすべて厳選された項目と思われます。そしてそれぞれが切れ味確かな記者の文体で、独特の勢いがあります。 永山則夫の項目には鬼気迫るものがありました。永山の作品をただ1冊、『木の橋』を持っています。少しこだわった時期がありました。 (東京・Mさん) ▽「取材現場は地方に宿る」、頂戴しました。早速読ませて頂きます。貴兄の取材にかける熱意は、新潟時代から感心していました。国鉄分割民営化問題は、民営化案を巡って各社の政、経、社が入り乱れて取材合戦をしていた頃の運輸省担当だったこともあり、まず目が行きました。幸い特ダネだったこともあり、ジャーナルから「なんでもいいから書いてくれ」と依頼があり、やや越境感もありましたが「戦後日本の労働運動の終焉」とのタイトルで、執筆したことを思い出しました。清算事業団を介した「首切り」の話は取材もしましたが、運輸省担当はわずか11カ月だったこともあり、前線の現場まで足を運ぶこともなかったので、興味深く目を通しました。(東京・Kさん) ▽「連続幼女誘拐殺人事件やオウム事件など20本の取材エピソードを通じて、記者生活40年を振り返るとともに、『取材現場は地方にこそある』」訴える一冊だ。『官房長官の記者会見を主戦場だと勘違いする人もいるが、あれは現場ではない』との主張に深く頷く。
一方で、新聞社が地方支局を閉鎖して記者数を減らし、地方取材網がズタズタにされている現状を、原裕司さんは『地方から記者を撤退させることは、権力監視という役割の放棄につながる』と危惧する。『新聞記者は現場を取材し確認できた事実だけを書いている。それが新聞の強さであり信頼性でもある。地道な作業があるからこそ権力者を監視できるのだ』『新聞の斜陽化で笑っているのは権力を行使する人間だろう』との言葉がずっしり重い」(神奈川・Iさん)
▽「この本おもしろかったです。最初の章『連続幼女誘拐殺人事件と現場取材』をはじめ、赴任地で1面トップを連日飾るような大事件が起きたとき、地元の記者が現場でどう特ダネを追いかけたかという貴重な記録になっています。徹底的に現場を取材してきたという自負に裏付けられており、原さんのお仕事ぶり(反骨ぶりも含めて)を知っているからこそ面白く読めた」(東京・Hさん)
▽「ご著書、力作ですね。貴重な記録になりますね。しかし、現在の朝日新聞社がご著書の主張とは真逆の方向に進んでいるのが残念でなりません」(大坂・Iさん)
▽「全部面白い。『参院選で山が動いた▽山本コウタローと読売新聞の文句』は読売新聞との闘いが浮き彫りになった。『草加市議会と木下市長▽地方議会の取材とは』も面白かった」(埼玉・Iさん)
▽「『連続幼女誘拐殺人事件』はドラマのようで、読みやすかったです」「今年は運河竣工百年で秋に3ヶ月間のイベントを、若い人中心に企画しています。『小樽運河と横道知事』は町並みゼミで集まってくる若い人達に、この章をコピーして渡そうと思います。新聞記者目線の分かりやすい内容だと思います。あの時の並行線の議論は、今も小樽に残っていると思います。残そうとした本質が理解されていない」(北海道・Oさん)
▽「今の新聞記者の方の奮闘ぶりを毎日のように感じております。今回の原さんの本は、まさに40年間、新聞記者一筋に生きて精一杯の努力を積み重ねて、出来上がった成果品ですね。素晴らしいです」(北海道・Nさん)
▽「『死刑執行再開と死刑囚のインタビュー』▽の中で、有名な死刑囚なら、実名を出してもよかったのではないか。『伊香保温泉とヤクザ』も興味を持って読んだ」(東京・Mさん) ▽「佐渡のジェイキンズさんの記事が目に留まりました。わたしも土産物屋でみかけたことがあり、懐かしく思い出しました。未だに拉致問題が解決していないことに心が痛みます。あの国家と話し合いで解決することは容易いことではないことを改めて思い知らされました」(熊本・Yさん)
▼アマゾンのレビューもありました。 ▽▽かつて「新聞記者」という職業があったことを示す貴重な資料
2023年4月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
新聞メディアの衰退著しく、かつては当たり前のように見られた通勤電車内で新聞を読む人は絶無になった。新聞の部数は著しく減少し、全国に張り巡らされた新聞社の取材網は急速に縮小している。県庁所在地以下の都市にはもう記者が配置されていないほどだ。そうした衰勢をはねのけるのは難しいが、かつてこの国には新聞というメディアがあり、そこには「新聞記者」という職業があったということを示す格好のサンプルが本書である。そしてひとたび新聞社で禄を食んだものはせめて本書のような「我、かく戦えり」を一冊上梓すべきである。
5つ星のうち5.0 空気を読まないことの大切さ
2023年5月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
取材現場で何が起きているのか。「マスコミ」から権力チェックの姿勢が消えつつあるように見える昨今、記者一人一人の取材活動に原点があると、改めて気づかされる一冊だ。
5つ星のうち5.0 ニュースは本や頭の中ではなく、現場にしかない
2023年9月3日に日本でレビュー済み
どんなニュースも頭や本ではなく、現場があって初めて生まれる。記者が現場に行くには手間も暇もかかる。こたつでは書けない。「地方に宿る」という意味は、東京の国会や官庁や企業ではなく、ナマの地域に、ある時はドカンと、ある時はひっそりと埋まっている、ということだ。事件や災害、行政など幅広い取材経験をし、取材相手と格闘した記者にしか書けない内容であり、40年以上の集大成だ。新聞社の経営が苦しくなって現場の記者が減っているが、そのツケはいずれ国民に回ってくるだろう。
★647カメラマンの反射神経に驚いた
▽あるイベントの取材をしてる時だった。上空を自衛隊機が飛んでいた。同業他社のカメラマンが、その自衛隊機に向けてシャッターを切った。これを見て、私はカメラマンの反射神経と条件反射を思い出してしまった。
▽私が若いころの話だ。北海道新聞社に入って2年目か3年目の時だ。千歳市にあった旧千歳空港の近くで、イベントの取材を先輩と一緒にしていた。その時、上空を千歳空港に着陸しようとしている自衛隊機があった。すると先輩が、こう行って、カメラのレンズを自衛隊機に向けたのだ。
「いつもと違うコースだ!」
▽カメラで何回もシャッターを切っていた。
▽これを見て私はすごいなと思った。条件反射的に、コースが少し違うだけで、カメラを向けて撮影するのだ。
▽こうした行動は、常に訓練しないと出来ないものだ。万一、この自衛隊機が着陸に失敗して事故になろうなら、この先輩が撮影した写真は新聞のトップを飾るだろう。こういう撮影は日々の訓練や反射神経がないと出来ない。カメラマンにはそうした努力だなと思ったものだ。
▽何かあったら、カメラのレンズを向ける。こういう反射神経は、新聞記者としても必要だ。
▽その後、北海道・中標津空港で民間機の着陸失敗事故があり、現地の北海道新聞記者がその写真を撮影し、北海道新聞1面を飾ったこともある。常に、カメラを持っているのが大切なのだ。
▽それから30年以上が経過し、上記のようにたまたま同業他社のカメラマンが飛行機を撮っていた。何かあったら、では遅いのだ。好奇心と反射神経、たゆまぬ努力がないと撮影はできない。
▽現在はスマホなどでも写真が撮影できる。しかしやはりカメラを構えてこそ、きちんとした写真が撮れるのだ。
▽入社してきた新人記者たちには、常にカメラを持って行動せよと教えてきたが、その教えている先輩たちがカメラを持たなくなっている。持っていてもコンパクトカメラだ。やはり一眼レフカメラを携行したほうが良い、と私は思ってしまう。
★644日航ジャンボ機墜落事故を巡る書籍に自民党議員の質問は言論の自由侵害か
▽1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故を巡り、産経新聞がネットにアップしていた記事が気になった。墜落原因に自衛隊機が関与していると指摘する元客室乗務員が書いた著書が全国の図書館で選定図書になっていることを、参院で自民議員が問題視したことを報じていた。言論の自由、図書館の自由への侵害ではないのか、と思うのと同時に、この著書の問題点も触れておきたいと感じた。
▽まずは産経新聞の記事を紹介する。2025年5月1日にアップされた記事だ。
《昭和60年の日本航空機墜落事故に自衛隊が関与したという「陰謀説」を巡っては国会でも取り上げられた。4月10日の参院外交防衛委員会で、自衛隊OBの佐藤正久氏(自民党)は自衛隊の関与を指摘する書籍が全国学校図書館協議会による選定図書に指定されているとして、「何も知らない子供たちが推薦図書として図書館で触れることで国土交通省や防衛省が否定する事実を本当のことのように受けてしまう」と述べ、是正を訴えた》
《選定図書に選ばれているのは作家、青山透子氏の著書3冊(いずれも河出書房新社)。選定図書は小中学校などの図書館が蔵書構成する上で参考になり、同団体は「正しい知識や研究成果」「科学的に正確」などの選定基準を設けている。
野中厚文部科学副大臣は、佐藤氏の訴えに対し「図書自体が児童生徒の健全な教養の育成に資する必要がある。懸念について防衛省の動向も踏まえ、団体に伝えていく」と答弁した。
自衛隊の関与を指摘する書籍は、経済アナリストの森永卓郎氏(今年1月死去)らも出版している》
▽記事ではさらにこんな文章で終わらせている。いかにも産経新聞らしい。
《産経新聞は青山氏に対し、中谷元・防衛相が自衛隊の関与は「断じてない」と発言したことへの見解を書面で求めた。これに対し青山氏は河出書房新社を通じて後日取材に応じる意向を示した》
▽選定図書は全国学校図書館協議会が独自の判断で出しているもので、いわば図書館の自由によって行われている。自民議員の質問で、選定図書から外されてはならない。是正を求めたとしても、これは国会議員という国家権力による「言論の自由」侵害、「図書館の自由」の侵害に他ならない。
▽この記事を読んで、映画にもなった小説「皇帝のいない八月」騒動を思い出した。
▽「皇帝のいない八月」は、三無事件をモデルとした小林久三による小説で、それを原作とする1978年公開の松竹製作の映画だ。簡単に言えば、自衛隊の反乱分子がブルートレイン「さくら」を乗っ取り、クーデターを起こすという内容だ。
▽ネットでの映画評にはこうある。
《大物政治家と組み武力クーデターによって右翼政権樹立を一気に目指す自衛隊反乱分子と、それを秘密裏に鎮圧しようとする政府の攻防を描くポリティカル・フィクションであり、クーデター部隊に乗っ取られたブルートレイン「さくら」の車内が舞台の中心となる和製『カサンドラ・クロス』のような趣の列車パニック映画ともなっている》
▽そう、戦前の暗黒時代を象徴する陸軍のクーデター二・二六事件を夢想する自衛隊のクーデター小説と映画だ。
▽これにケチを付けたのが当時の自民党議員だ。「こんなことはあり得ない」と。
▽小説にせよ、映画にせよ、フィクションなのだから、笑い流せばいいのに、自民党はそう受け止めなかったのだ。言論の自由侵害に踏み込んだのだ。
▽今回のジャンボ機墜落の書籍で、自衛隊機が墜落に関与しているという青山の主張はおかしい、と髭の佐藤は言うのだが、これと「皇帝のいない八月」騒動は似ていると私は感じてしまった。図書館の自由に踏み込んでしまったのだ。
▽そして産経新聞は、青山の書籍内容を検証もしないで、質問状を送ったというから、産経新聞らしい取材手法だと感じた。
▽一方で、この青山の書籍内容にも問題があるのは事実だ。
▽ここでは、「日航機123便墜落 最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)を薦めたい。ジャンボ機墜落から30年以上が経過した時期に共同通信記者が、米国のジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。
▽筆者は話を聞くことが出来る人間は聞き回って、この本は完成度の高いルポルタージュになっている。ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
▽そして青山の自説「自衛隊機による墜落説」を検証し、青山本人にもインタビューして、その自衛隊機関与説がおかしいことを指摘。本の軸となっているのは、女性の目撃証言に加え、過去の出版物や群馬県上野村の子供の文章などであると指摘し、墜落や激突の可能性についても、重大な実態を30年以上隠しておけるものなのかと疑問を呈した。そして「自衛隊の誤射だったとした場合、日本側はともかく、米国側が隠蔽に加担する必要性はない。米国側からみれば、墜落や誤射だった方がむしろ、汗水たらして、自分たちで調査する手間が省けて楽だ。修理ミスで非難されることもない」と、青山の説を一蹴している。
▽「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
▽つまり、青山の指摘は荒唐無稽で、間違っているということだ。その点を私も強調したい。
▽佐藤も佐藤なら、青山も青山だと思っている。
★641ひっそりと報道された過激派教組の死
▽2024年7月、京都市内の病院で84歳の男性が誤嚥性肺炎で死亡した。かつては「過激派の教組」として呼ばれた竹本信弘。しかしその死去をすぐに速報するマスコミはなく、人知れず亡くなった。
▽竹本の死去は、死去から約1カ月後、産経新聞が伝えた。
《滝田修のペンネームで暴力革命を主張し、「過激派の教祖」とも呼ばれた元京大助手、竹本信弘さん(84)が、京都市伏見区の病院で7月14日に死亡したことが14日、関係者への取材で分かった。死因は誤嚥性肺炎。昭和46年に陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官が「赤衛軍」を名乗る過激派に襲われ、死亡した事件では、強盗致死の幇助(ほうじょ)罪などで実刑判決を受けた》
《事件は46年8月21日に発生。元日大生らが駐屯地に侵入、パトロール中の自衛官=当時(21)=からライフル銃を奪おうとして包丁で胸を刺し死亡させた。竹本さんは実行犯を指揮したとして強盗致死罪などで起訴されたが、1審浦和地裁(現さいたま地裁)は「資金の援助をしたに過ぎない」として幇助罪を適用。竹本さん側は東京高裁に控訴したが、その後取り下げた》
▽その浦和地裁の判決は、1989年3月にあった。私は当時、朝日新聞の浦和支局に勤務しており、その裁判の担当を命じられていた。「朝日新聞も絡む大切な判決だから、慎重に取材するように」と上司に言われた。
▽朝霞事件が発生したのは、爆弾事件の幕開けと言われた1971年である。この年の8月22日午前2時過ぎ、陸上自衛隊朝霞駐屯地内で、パトロール中の自衛官が殺害され、腕章などが盗まれているのが見つかった。現場には、「赤衛軍」と書かれたヘルメットやビラ、旗が残されていた。実行犯とともに、朝霞事件に絡んで、強盗致死、公務執行妨害、住居侵入罪の共謀共同正犯として、指名手配されたのが、新左翼活動家で元京都大学経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム滝田修)だった。
▽竹本はその朝霞事件の共謀共同正犯の容疑者として指名手配され、逃走を続けていた。
▽翌年1月になって県警は竹本を東京・練馬の米軍グランドハイツ襲撃未遂事件に関して強盗予備の疑いで指名手配する。
▽竹本の元々の指名手配容疑は、朝霞事件に関してのものではなかった。実際に起きた朝霞事件ではなく、その直前に元日大生らが東京・練馬の米軍グランドハイツを襲って銃を奪おうと計画したものの未遂に終わったという「グラントハイツ襲撃未遂事件」で、事件を謀議し、逃走資金を渡した、という容疑だった。元日大生の供述から、県警が発表したもので、朝霞事件との関連は、この未遂事件の時効が成立直前になって県警が出して来た。
▽指名手配されたことから、竹本は地下に潜行する。潜行したことから、県警は怨念に近い捜査を進める。
▽そして竹本の指名手配と同時に、当時の朝日ジャーナル記者川本三郎が逮捕される。事件実行犯グループから腕章を預かったことが証拠隠滅にあたるという内容だ。川本の逮捕だけではない。竹本の知り合いやシンパが次々と逮捕され、家宅捜査され続けた。いわゆる朝霞事件とはこういうものまで含めた総称を言う。朝日ジャーナルの記者が逮捕されたことが、「朝日新聞も絡む大切な判決」ということになる。
▽川本逮捕に衝撃を受けたのは、まさに記者たちだった。朝日新聞社だけではなく、新聞記者全体が衝撃を受けた。
▽社内の当時の先輩らによれば、出版局の人間が「権力の不当介入で、不当な逮捕だ」という受け止め方をしているのに対して、編集局、とりわけサツ周りの人間にとっては、「サツ周りも知らないくせに、事件の取材をしようとするからだ」という否定的な意見が強く出てきた。要するに事件を公安事件と見るか、単なる刑事事件と見るのかの違いである。
▽爆弾時代と言われたその当時、1971年は簡単に列記するだけでも、以下のような事件が連続発生した。
▽2月▽▽真岡猟銃奪取事件
▽6月▽▽明治公園での鉄パイプ爆弾投てき事件
▽8月▽▽東京・目黒機動隊宿舎爆弾事件
▽▽▽▽▽陸上自衛隊朝霞駐屯地殺害事件
▽9月▽▽三里塚強制収容事件
▽▽▽▽▽東京・高円寺駅前交番爆弾事件
▽▽▽▽▽東京第四機動隊宿舎爆弾事件
▽10月▽▽東京・世田谷警視庁寮爆弾事件
▽▽▽▽▽日石ビル地下郵便局小包爆弾事件
▽▽▽▽▽東京都内七カ所の交番爆弾事件
▽12月▽土田邸爆弾事件
▽▽▽▽▽東京・新宿追分交番ツリー爆弾事件
▽目立ったものを列記してもこれだけの事件が起きていた。
▽私がこの裁判の判決担当を命じられた時には、既に裁判は結審しており、私は公判記録を読むことから取材を始めた。
▽これまで計92回の公判で検察、被告・弁護側双方が争ってきたのは、謀議があったかどうか、だった。それを証言しているのは、事件の実行グループの1人、元日大生の供述だけだった。この供述の信用性を認め、謀議があった、と判決が認定してしまえば、竹本被告は有罪になるし、逆に否定されれば、無罪のはずだった。
▽私は関係者の取材を続けた。どう考えても、これは無罪になるしかない内容だった。
▽検察関係者までが「縮小認定される」と予測していたのだ。
▽竹本被告に対する判決は、求刑懲役15年に対して、わずか5年。未決勾留日数を含むとされたため、そのまま釈放された。
▽判決はこの供述の信用性を否定し、さらに謀議はなかった、とした上で、有罪としたのだ。そしてその根拠としたのが、本来なら状況証拠であり、有罪の認定には使ってはならない現金四万円の送金事実だった。
▽最初に有罪という結論があって、それにこじつけた判決と言える。
▽判決は竹本が拘留されていた日数を含む、としたため、裁判長の職権で、同日夕方、釈放された。竹本にとっては、逃走して以来、実に17年ぶりの生還だった。
▽私は事実上の無罪判決だったと解釈している。
▽控訴期限が切れる判決2週間後の16日、無実の訴えが理解されなかったとして、被告・弁護側が判決は不服だとして東京高裁に控訴した。検察側は「事件から17年たち、新たな証言が出てくる可能性がない」として控訴を断念した。竹本も後に控訴を取り下げた。
▽こんな教組の死を、多くのマスコミは沈黙して、報じなかった。
◎参考図書 「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」(原裕司著、東京図書出版)
★640さいたま市で開かれた市民ジャーナリズム講座のレジュメから
▽さいたま市で2025年5月9日に開かれた「市民ジャーナリズム講座」で私が「死刑問題とジャーナリズム」というタイトルで講演したレジュメを紹介します。
▽私が学生時代、財田川事件や免田事件の死刑確定囚に再審・無罪判決が続けて4件出されて、その衝撃から死刑問題に関心を持つようになった。先進国の中で死刑制度を維持している国はアメリカの一部の州と日本だけだ。死刑制度には賛否両論があり、死刑廃止には根強い抵抗感がある。しかし、死刑とは本質的に国家による殺人だ。その意味で戦争と同じだ。命を奪うのに、英雄視される。死刑制度は日本の場合、秘密のベールに包まれている。当時はまだ死刑執行したという発表もなければ、死刑制度や刑場が公表されることもなかった。そんな中でずっと取材を取材をしてきました。偶然だが私が朝日新聞本社に上がった時、日本では1989年11月の執行を最後に、死刑執行ゼロという状態が続いていた。これを取りかかりに、私が取材をして、朝日新聞に「死刑執行ゼロ1000日」という記事を書いた。そして取材チームを組んで、連載を始めた。その裏話をします。
▽以下がそのレジュメだ。
▼死刑制度メモ
・日本の死刑制度の実態は全く公表されていない。
・日本には死刑制度があり、絞首刑と決めている。絞首刑は残忍な刑罰ではないと最高裁が判決を出している。
・死刑執行の刑場は全国に7カ所ある。
心情の安定を理由に死刑確定書については、外部交通権が著しく制限されており、記者が面会する事はできない。一部の家族が会えるだけた。
・1956年に死刑廃止法案で出されて、議論されたが廃案になっている。
・1989年11月から3年4カ月、日本は死刑執行がなかった時期がある。そして2022年7月からも執行ゼロが続き、4月21日に執行ゼロ1000日を達成した。
・死刑が確定し、実際の執行があるまでの期間は6−7年と言われているが、実際には3年で執行されたケースや30年以上獄中で生きている死刑囚もいる。
・国連では死刑廃止国際条約、正式には「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)の第2選択議定書」という名称で、1989年12月に採択され、91年7月に発効しているが、日本は批准していない。
・世界的に見て先進国の中で死刑があるのは、人とアメリカの一部の州だけだ。欧州は廃止している。外交問題に発達することもある。日本で殺人を犯した人間が欧州に逃げた場合、日本には死刑制度があるという理由で、犯人を引き渡さないというケースか出ている。
・死刑を執行するには、法務省刑事局の局付検事が死刑執行起案書を作り、法務大臣に申請し、大臣がハンコを押すことで死刑執行命令書となる。法律でその日から5日以内の執行と定めている。
・死刑執行命令書を受け取った拘置所では、その対象者である死刑囚に、執行日の執行直前まで告知しない。お迎えがあるのは直前だ。半世紀前は執行の前日、または前々日に告知していたケースも多かった。
▼世界の状況(朝日新聞記事から)
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、2024年に世界で執行された死刑が少なくとも1518件あり、前年から32%増えたと8日に公表した。中東3カ国での増加が影響した一方、執行国の数は15カ国で過去最低の水準を維持した。
同団体の年次報告書によると、執行数は上位から中国、イラン、サウジアラビア、イラク、イエメン。「数千件」の中国は依然として「世界最大の執行国」と指摘した。ただ中国や北朝鮮、ベトナムなど、執行数を公表していない国の執行数は推定のため、合計には2件としか反映されていない。そのため、イラン、サウジアラビア、イラクで全体の91%を占めた。
執行した国の数は15カ国だった。23年から1カ国減り、団体の記録上最少を更新した。24年末時点で、死刑を廃止または事実上廃止している国は世界の約4分の3にあたる145カ国に上る。日本は「世論の支持」を理由に制度を維持するが、22年7月を最後に執行していない。
報告書は「世界で最も長く死刑囚として収監された」人物として袴田巌さんにも触れ、「検察が繰り返し異議を申し立てたため、再審開始までに約10年を要した。審理が始まっても、死刑を求刑した」と言及した。24年に再審で無罪が確定し、同団体は「世界は(再審請求などの)支援活動の力を目の当たりにした」と評価した。
▼死刑の実態
・まずは日本の死刑制度の実態について簡単に説明する。これは法務省が全く発表していない内容で、私たち新聞記者が取材努力で明らかになってきた制度の運用だ。
・複数の殺人事件を犯した加害者が警察に逮捕され、起訴されて、裁判となり、検察官が死刑を求刑。一審の死刑判決が不服な場合は控訴し、さらに控訴審で死刑が支持されても、被告は最高裁に上告し、最高裁の判決を待つ。最高裁で死刑判定が確定すれば、それまでの被告は確定死刑囚となって、そのまま拘置所に拘留され続ける。
・死刑から確定してから数年経つと、法務省の刑事局付検察官が確定死刑囚の状態を元に死刑執行書の起案づくりを始める。ここでは確定判決を再度調査し、死刑執行に向けての起案書を完成し、起案書は幹部を通して法務大臣に上がり、これに法務大臣はハンコを押して、死刑命令書となる。命令書ができれば、速やかに拘置所に届けられ、5日間以内の死刑執行の日程が決められる。核拘置所では執行のため入念に準備が進められる。死刑執行を当日に本人に告げ、刑務官が実際に執行する部屋である刑場に連れて行く。刑場では死刑囚が目隠しされ、死刑台の板の上に立った死刑囚の首に縄の紐がかけられて、拘置所職員が三つまたは五つのボタンを同時に複数で押す。そのうちのボタンの一つが、実際に板を外す役割になっていて、板が開くと同時に死刑囚の身体が床から地下に落とされる。ブランブランと死刑囚の死体が揺れ、収まり、しばらくしてから医療刑務官が死亡を確認し、ここで死刑執行が終了する。
・以上が日本の死刑執行の実態だ。こんなことは取材するまで具体的に全く知らなかった。法務省はこの実態は全く公表していない。当時は死刑執行すら発表していなかった。
・偶然だが私が朝日新聞本社に上がった時、日本では1989年11月の執行を最後に、死刑執行ゼロという状態が続いていた。これを取りかかりに、私が取材をして、朝日新聞に「死刑執行ゼロ1000日」という記事を書いた。マスコミの多くは死刑問題に関心がなかったから、この記事はある意味で特ダネになった。そして取材チームを組んで、連載「死刑執行ゼロの周辺」を始めた。社内外の反響は大きかった。しばらくは死刑執行ゼロが続くと思っていた。
▼後藤田法相の死刑執行再開と読売新聞
・問題はその後だ。後藤田正晴法務省の登場だ。執行ゼロを続ける死刑問題について、後藤田がことごとく「法秩序から問題だ」とする発言を続けていた。死刑執行ゼロの記録が破られる危機感を持った。そしてついに死刑執行が再開された。1993年3月27日未明に執行が前日にあったことを知った。3年4カ月ぶりの執行だった。
・経緯も衝撃だ。読売新聞が特ダネとして報じていた。1993年3月27日の朝刊だ。しかも曖昧な内容で、大阪拘置所で1人が執行と早版で報じただけで、最終版で2人となっていた。完全な特ダネではなかった。そして私の取材でその日の夕方、宮城拘置支所でももう一人執行されていた。今度は朝日新聞の特ダネとなった。
・そして半年ごとに読売新聞が計3回も特ダネを報じた。法務当局の幹部との接触がないと取ることが出来ない特ダネだった。私はそのたびに死刑執行の情報の裏取りをした。最後は読売新聞が報じていない別の執行もあっことを報じることが出来たが、その「抜かれた」悔しさは忘れられない。その際、チーム取材班の社会部の司法担当記者がこんなことを言っていた。「これで死刑執行があるなら、僕は会社をやめなくちゃならない」。自信に満ちた言葉だったが、しかし、それでも死刑はあった。それだけ秘密だったのだ。
▼日高夫婦と永田則夫の執行
・再び死刑執行の情報が持たされた。札幌拘置支所で日高夫婦の執行があり、東京拘置所では永山則夫の死刑執行があった。1997年のことだ。
・日高夫婦は、1981年10月の北海道夕張市の北炭夕張新鉱のガス突出ガス爆発事故で90人以上が犠牲になる、その犠牲者の保険金が莫大に入って味を知ってしまい、自分の会社の寮を部下に放火させて、6人を殺害してしまった夫婦の死刑囚だ。時は昭和から平成に変わろうとしている時、多くの死刑囚が頼りにしたのが、政府の恩赦だった。日高夫婦はこれに命をかけた。死刑判決の控訴を取り下げ、自ら死刑囚となり、恩赦を受けて、死刑判決から逃れる道を選んだ。しかし、待てど待てど死刑からの恩赦はなかった。死刑が確定し、そして執行されたのだ。この情報は北海道新聞がいち早く情報キャッチし第一報を流したが、最終的には東京でも永山が死刑執行されて、各社は最終版で4人が死刑執行されたことを報じた。
・永山則夫については獄中作家としても有名だったが、本人自身が死刑執行はないと信じていた。それが突然の死刑執行にかなり反抗を試みたようだ。この事は、連続企業爆破事件の死刑囚大道寺将司が妹に宛てた秘密通信にも記している。永山の遺骨は知り合いの弁護士によって、北海道オホーツクの海に散骨された。この時も私は取材している。
▼ある死刑囚との面会
・死刑が確定した死刑囚に、報道陣は面会することができない。しかしそれを敢えて私は行ったことがある。最高裁で死刑が確定した直後に、あるルートを使って、拘置所に面会に行ったのだ。この時は拘置所側に身分を隠し、支援者として会い、死刑確定の話を与える役目になった。取材であることを隠すために、私は市販のノートとペンを使い、メモを取った。当然ながら相手は私が記者であることを知っての面会だ。獄中結婚した奥さんから情報を得ており、私が新聞記者である事は知っていた。30分ほど面会し引き上げた。しかし、これは原稿を書いたが記事にはならなかった。東京本社デスクの判断で、身分を偽っての取材はよろしくないという結論が出たようだ。。せっかくの取材にと思ってしまった。潜入ルポならば、問題はないはずだが。結局は朝日新聞は当局との関係を重視したということだろう。
▼欧州評議会の来日
・欧州評議会議員会議が日本の死刑制度を視察するために来日したことがある。2002年の時だ。日本の死刑廃止を推進する議員連盟との共催で、司法人権セミナーが開かれた。その時私は日本のマスコミでは唯一のジャーナリストとして日本の死刑制度を証言した。現在は死刑制度を取材する記者やライターも多くなっているが、当時はまだまだ死刑制度を取材する記者は少なかったのだ。私は日本の死刑制度が秘密のベールに包まれており、国民には隠したまま死刑を制度を続行してる日本の実態を証言した。
▼澤地死刑囚
・忘れられない死刑囚として、元警視庁警官の沢地和夫がいる。強盗殺人事件で死刑が判決が出て、控訴している途中で、突然控訴を取り下げるという情報を入手した。私の取材チームが彼に面会し、控訴を取り下げる趣旨を聞いた。澤地はその理由として、控訴を取り下げた方が生き残る確率が高いと奇想天外な発想を説明した。その後澤地と私は弁護士を通じてかなり長い手紙のやりとりをした。澤地なりに死刑制度に反対し、死刑制度を解釈してみせた。そして彼は獄中で病死した。2008年12月、多臓器不全で69歳だった。彼なりの死刑執行阻止だった。
▼道庁爆破事件の大森死刑囚
・1976年発生の北海道庁爆破事件の大森死刑囚にも接触した。極中結婚した女性がいて、彼女は通じて彼の獄中での生活ぶり、考えを聞いていた。最後は離婚し、情報は少なくなったが、大森は今でも獄中で生きている。
▼2018年1月オウムの首謀者への死刑執行
・2018年7月。大量執行。平成から令和への時代変化を意識した法務当局の意思を感じる。私は日刊ゲンダイの電話取材に答えて、こう発言した。
▼世論調査の誘導尋問
・被害者感情と被害者の救済、被害者の人権とは。こんなことを考えてしまう。政府が行う5年に1回の死刑制度の世論調査は設問が恣意的だ。賛成か反対かではなく、「やむを得ないか」か「反対」という質問設定で、正反対の答えを用意していない。これだったら、死刑制度の賛成が多くなる。今年2025年2月に公表された世論調査も全く同じ設問だった。
・そして結論。死刑制度は、戦争と同じと言うことだ。ともに合法的に殺人後ができる。権力者がサインを出してしまえば簡単に人が死ぬと言うことだ。だから私は死刑制度に反対し、死刑問題をこれからも続けていくだろう。
▼そして死刑執行ゼロ1000日に/日本では2回目
▽先進国の中では、異例にも死刑制度を存続させている日本で2022年7月の執行を最後に、死刑執行ゼロが続いており、今年4月21日、執行ゼロが1000日となる。1000日となるのは、日本の近代行刑史上、2回目となる。前回は1000日達成後に、執行が再開された経緯もあり、死刑制度廃止を求める市民団体は、現在の状況を慎重に見守っている。
▽最後の死刑執行は、2022年7月26日。古川禎久法相(当時)が、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大(ともひろ)死刑囚(当時39)への執行を命じた。その後、葉梨康弘、斎藤健、小泉龍司ら法相も執行していない。
▽法相の就任期間が短かったことや、法相の問題発言があったことも一因だろう。多くの要因が重なって、死刑執行ゼロが続いていると、関係者は見ている。死刑が確定した死刑囚の袴田巖さんの無罪確定の判決の影響も考えられる。
▽このため、2023年と翌2024年の2年間、死刑執行がゼロになった。ゼロの更新が今年も続いており、今年4月21日には執行ゼロが1000日となる。生命を合法的に奪うこの執行のゼロが今後も続くことを、市民団体などは強く願っている。
▽私はこの状態を歓迎したい。
▽世界を見ても、死刑制度を存続させている先進国は日本と米国の一部の州に過ぎない。その中で、この今回の執行ゼロは、改めて、死刑とは何かという問題を新たに提起したいと、と思う。
▽日本では過去にも、死刑施行ゼロが続いていた時期がある。1989年11月を最後に死刑執行ゼロが3年4カ月続いていた。死刑制度の廃止を願う市民団体は当時、この状態を死刑廃止を前提とした「死刑執行ゼロ」であると認識したが、残念なことに後藤田正晴法相(当時)が死刑執行を再開させた経緯がある。「法秩序を守るため」という理由で、執行を再開させた。3年4カ月ぶりの執行だった。以降、日本では毎年のように死刑執行があり、毎年のように死刑囚の命が奪われている。
▽私は当時勤務していた朝日新聞で、「死刑執行ゼロ1000日達成」という記事を書き、「死刑執行ゼロの周辺」という連載記事を仲間とともに続けた経緯がある。それが後藤田法相の死刑執行再開によって、踏みにじられた思いがある。その後死刑は半年に一度執行され続けてきた。執行ゼロの記録が後藤田法相によって破られたことを、私は忘れられない。
▽そんな失望を繰り返してはならないためにも、今回の死刑執行ゼロは続けなくてはならないと思っている。
▽死刑執行を続けても、重大犯罪の抑制にはなっていない。それは京都アニメーション事件でも明らかだ。
▽死刑は戦争と同じ論理で行われる。戦争も死刑執行も、権力の行使で、人を殺すことが正義とされる。殺人が正当化される。人間の生命を正義という名で奪っていいのか。そんな疑問を常に持ってきた。
▽日本ではかつて国会で死刑廃止法案が提出され、死刑制度の是非を議論した経緯もある。1956年の国会だ。その法案の提出者に私はかつて取材したこともある。その議員は純粋な気持ちから死刑廃止を願っていた。人が人をあやめてはならないのだ。
▽私はこのまま死刑執行ゼロが続き、日本から死刑制度がなくなることを切に望む。純粋な気持ちからの願いだ。
▽以上が当日のレジュメです。
▽質疑応答も活発な意見が出されました。感謝します。
★637アップル・インテリジェンスを使ってみた
▽Apple Intelligence(以下、「アップル・インテリジェンス」と表記)を使ってみた。今年4月に日本語のサービスが始まったアップル・インテリジェンスについて、私の執筆活動にかかわる機能で気になったことを書いていきたい。
▽私は40年間新聞記者を続けてきた。退社後は自称記録作家として、執筆活動を続けている。使っているパソコンはメーンがインテルマックのMacMini、サブとして、M1チップを搭載したMacBookProと同じくM1を入れたMacBookAirだ。またM1のiPadProなども使っている。
▽アップル・インテリジェンスは、Apple製品のパソコンのうち、主にM1チップ以上の処理能力を持つパソコンやデバイスで使えるように設計されており、私が使えるのはMacBookProやMacBookAir、iPadProだけだ。メーンのMacMiniは使えない。
▽それらのマシンで執筆活動にかかわるのは、アップル・インテリジェンスの写真と文章作成に関する機能だった。
▽その一つ。写真だ。標準搭載されているアプリの「写真」を立ち上げると、「クリーンアップ」という新しい機能が付加され、これをダウンロードする必要がある。この「クリーンアップ」機能が、すごい。撮影した写真から、邪魔な対象物を消してしまう機能があるのだ。
▽デジタルカメラやミラーレスカメラで撮った写真をこの写真アプリにアップする。その写真を構成する風景画や町並み写真の一部に、必要のないものが撮影されていたとしよう。その部分をこのクリーンアップという機能で削除してしまうのだ。まるでそこに人や物がなかったかのようになってしまう。
▽何回か試してみたが、こんなに簡単に削除できるとは思わなかった。
▽ミラーレスカメラの場合だと、センサーにほこりが付着することがあり、それが撮影した写真に不要な影として映ることがある。この場合、このクリーンアップ機能を使って除去できる。これは嬉しい機能だ。
▽かつて撮影した写真をフォトショップなどのアプリで修正することはあっても、ここまで簡単に削除することができるとは思わなかった。
▽しかし、これはある意味で恐ろしい技術だと思った。本来撮影したはずの写真の一部が消去されてしまい、全くの違う別の写真になってしまうのだ。
▽私は新聞記者を40年間続けてきたため、常に報道写真という立場から写真を見てしまう。報道写真は修正してはならない。これが鉄則だ。常に目の前で起きている現実を撮影し、それを読者に伝える。そこに撮影者の意図とは別のものが映ったとしても、それを除去することはしない。これが報道写真の鉄則であり、ルールだ。
▽例えばサッカーの試合を撮影したしよう。ゴールを決めた選手のシュートシーンを撮りたかったが、手前に邪魔な選手が入ってしまい、うまく映らなかった。その場合撮影は失敗したことになる。これをアップル・インテリジェンスのこのクリーンアップ機能を使って邪魔な選手を消して、見事なシュート写真をアップしたらどうだろう。これは全く真実ではない写真になってしまうのだ。
▽デジタルカメラが普及した時、こうした修正できる機能は、常に問題になってきた。警察の鑑識活動で撮影する写真もそうだ。鑑識活動の写真が修正されれば、それは証拠写真の捏造であり、後に大問題に発展する。冤罪事件の発展する可能性がある。写真は修正してはならないのだ。
▽だから今回のアップル・インテリジェンスのクリーンアップ機能は便利な反面、危険とも感じた。
▽もう一つの文章支援。
▽MacBookProで文章を書く場合、例えばアプリの「メモ」を使う場合、「作文ツール」という機能が新たに加わった。
▽いろいろな機能があるが、この機能の中で私が使えるのは「校正」だ。私は物書きなので、校正だけは使ってみた。
▽しかし何回か使っても、あまり良い結果は得られなかった。ある程度、誤字や脱字を発見してくれるが、一方で正しい表現も間違ったと指摘してくるのだ。人工知能がどのように機能しているかわからないが、文章を校正するならば、これは良くない機能だ。
▽このレベルの校正機能だと、ワープロ作成ソフトのワードの校正機能にも負けている。さらには私が勤めていた朝日新聞で使っていた新聞記事作成ソフトよりもかなり機能が低い。まだ発展途上の機能だと思った。
▽鳴り物入りで始まった日本語のアップル・インテリジェンスだが、私の作家活動にはあまり役に立ちそうにない。それが正直なところだ。
▽おそらく文章を書くのを生業としている人には、まだ向いていない機能だと思った。
★634沖縄・首里城にあった日本軍地下司令室と沖縄人
▽火災による修復・再建工事が進む観光施設、沖縄・首里城は、かつてのアジア太平洋戦争では、地下深くに軍司令部のための地下壕が造られ、沖縄戦では日本軍が最後の抵抗を試みた場所であったことは、意外に知られていない。この司令部の命令で、地元住民は日本軍と米軍の犠牲となり、多くの死者を出した。首里城は観光施設であるとともに、呪われた過去を持つ場所でもあった。
▽首里城の歴史を紐解いたのが、「首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部」(保坂廣志、集英社新書)だ。一読して、ここで造られた地下壕が、どんな実態で運営されていたか、そして地元沖縄住民をどんな目で見て、扱っていたかが分かる。筆者は沖縄戦を研究している琉球大学法文学部元教授だ。
▽首里城はかつての沖縄戦で、最後まで日本が抵抗した戦場の跡地だった。日本軍は米軍の上陸を予想して、首里城地下に地下壕を掘り進めて、司令部を造り、第32軍司令部を設置した。
▽この本では、各種資料を駆使して、この司令部が地下壕からあらゆる指令を出して、沖縄戦での徹底抗戦を呼びかけてきたことを浮き彫りにしている。
▽そして沖縄住民を蔑視して、地元方言を禁止、方言を使った住民をスパイと見なして拘束し、虐待した。地下壕には朝鮮人慰安婦を置いて、地元若者を伝令役として使い、犠牲者が増えた。最後は司令部が逃げ出して、地元住民を置き去りにして、犠牲者はさらに増えた。
▽さらには証拠を残さないよう各種命令書を償却し、証拠隠滅を図った。地元県知事も戦争を煽っていた。
▽沖縄住民を道具として見なし、地元の軍事指令部は住民を守ることとはしなかった。
▽戦後、こうした司令部幹部は、言い訳をして、住民に謝罪することはしなかった。
▽本書ではこうした具体的な実態を、各種資料を駆使して、浮き彫りにしている。沖縄戦は、日本軍と米軍の最後の戦いだったが、住民は日本軍からも、そして米軍からも命を奪われていたが、特に首里城での実態は生々しい。
▽筆者は、「おわりに」でこう書いている。
《首里高台から戦況を眺め、地下司令部から命令を出し続けた第32軍司令部壕は、敵や味方に関係なく「死」を求めた号令者の壕であった。その精神や指揮命令は、アジアで示した日本軍の振る舞いと同じで、それだけに首里城地下司令部壕は、15年戦争の加害者の実体を示し、さらに住民被害を感得できる重要な戦争の跡地である》
《この場所は、戦闘の心臓部であったが、有線・無線など、情報中枢組織から守られていた。それだけに戦場で血涙を流し、もがき苦しむ兵や住民の姿は、遠い存在だった》
《人が人でなくなり、軍隊は民間人を守らなかったと形容される沖縄戦だが、それもこれも、首里の地下司令部から出された命令によるものであったのは間違いない》
▽ずしりと重く響く言葉だ。
★633ホッピーは戦う庶民の味方だ
▽最近、居酒屋に一人で入ると、同じようなサラリーマン客が一人でホッピーを注文して、飲んでいる姿を見かけるようになった。ビールではなく、ビール味の飲み物。健康志向もあるだろうが、節約の一環だ。高いビールを我慢して、ホッピーを飲んでいるサラリーマンを見ていると、政府の物価高の無策に怒りを持ってしまうのは私だけだろうか。
▽ホッピーとは、日本の酒造会社が製造しているビール味の清涼飲用水で、麦芽とホップと酵母で造られている。1948年に開発・製造を始めたというから、歴史は古い。戦後の混乱期で、庶民には高価なビールを買う余裕もなく、焼酎にこのホッピーで割って飲む方法が考案された。これがホッピーという飲み物だ。ビール味だが、ビールのような値段はしない。これがずっと庶民に愛されてきた。
▽もう一つは、ホッピーが本物のビールと違って、プリン体がなく、健康志向にマッチしていたこと。これも人気を下支えしてきた。
▽居酒屋にもよるが、生ビールが600〜800円だとすれば、ホッピーのセットは400〜500円と安い。この値段の差が、庶民には大きい。
▽ホッピーのセットを頼むと、大きなジョッキグラスに氷とホッピー単体が注がれていて、これに注文した人間が自分でホッピーを流し込み、ホッピーセットを作る。これをぐいっと飲むわけだ。ホッピーのびんにはまだ半分、ホッピーが残っていて、2杯目は焼酎と氷だけが入ったものを注文する。これを「中」と呼ぶ。「中をもう一杯」と注文すると店員が持ってきて、再度ホッピーを注ぎ込んで、2敗目を作る。もう分かるだろう。ホッピー1本で、ホッピーを2杯飲むことが出来る。生ビールより半分の値段で飲めるのだ。
▽カウンターで座って、ホッピーを飲んでいるサラリーマン姿を見ると、私自身、共感したくなる。
「ホッピーを飲んで、この1日の疲れを癒やして、明日もまた仕事をするぞ」
▽こんなささやかな意気込みを感じるのだ。
▽こんな庶民の生活を、自民の政治家は知らないだろう。永田町界隈や六本木、銀座と、庶民とは全く無関係な空間で飲食をしている人間に、ホッピーの味など分かるまい。
▽この延々と続く物価高、ホッピーは庶民の味方だ。
★630内視鏡検査と大腸ポリープ切除手術とその苦痛
▽会社を退社する前、検便による大腸検査で陽性となり、内視鏡による大腸がん検査を受けた。ポリープ1個が見つかり、切除した。こんなに内視鏡検査が苦しいとは思わなかった。日本人に大腸がんが多く発生していると言われており、ある程度の年齢になったら、多くの人に大腸がん検査をお勧めしたい。ただし内視鏡検査は、私にとって苦痛そのものだった。
▽普段通っている総合病院で検査を受けた。生まれてはじめての内視鏡検査だった。前日から下剤を飲み、胃腸内の汚物を全て排泄し、検査に臨んだ。
▽ベッドに横になって、肛門から細い管がある内視鏡を入れられた。医師はゆっくりと挿入していくが、次第に苦しくなる。ベッド上のテレビカメラには内視鏡による大腸の内部が写っている。まさに実況中継だ。しかし自分の大腸の内部など見たくないと思って、目をつぶっていた。次第に苦しくなる。おならをしたくなるが、我慢せよと言われた。大腸検査がこんなに苦しいとは思わなかった。
▽何分か経ったころ、終わりですと言う医師の宣言があった。10−15分ほど経過していただろうか。ポリープ1カ所を切除したと言われた。たかが検査でも、疲れてしまい、30分横になっていた。麻酔が効いていたらしいが、苦しさは続いていた。
▽それから1週間は酒抜きで食事をした。
▽結果は1週間後で、ポリープ1カ所が見つかり切除されたことを改めて説明された。5年後には悪性腫瘍になる可能性があると言われた。再発防止の対策も薬もないから、その後を待つしかないなと思った。ただ赤身の肉は大腸がんになりやすい食事の一つだと言われた。
▽それから年後、再び内視鏡の検査を受けた。その時はポリープはなかった。
「しばらくは大丈夫です」
▽担当医師にこう言われてホッとした。
▽日本人の大腸がんが増えているという。このためには、ある程度の年齢になったら大腸がん検査をすることが大切だと言われた。
▽ポリープのうち、「腺腫」という種類のポリープが問題で、大腸に100個以上の腺腫ができるのを「大腸腺腫症」といい、放置すれば100%大腸がんを発生するという。
▽最近は、人間ドックで内視鏡検査による大腸がんの検査をするコースも多く、大腸検査をする人は増えているという。
▽歳を取ると、健康維持するには内視鏡検査のこうした痛みも伴うのだと改めて感じた。
★627ロシアを利するトランプの背景にある米ロの恐るべき情報戦
▽トランプ米大統領は、ウクライナを侵攻するロシアをなぜ利するような言動を取り続けるのか。こんな素朴な疑問に答えてくれるのが、「世界を変えたスパイたち ソ連崩壊とプーチン報復の真相」(春名幹男著、朝日選書)だ。長く続く米ロの対決の中で、水面下で動いた双方のスパイたちの情報合戦によって、双方の大国としての戦略が発動され、現在に至っていることを説いた。参考になった。
▽筆者は元共同通信記者。ソ連の崩壊からロシアのウクライナ侵攻までの現代史を、各種の公開資料、非公開資料などを駆使して、情報戦争の視点から綴ったのがこの本書である。ロシアのウクライナ侵攻で、なぜ米国のトランプ大統領がロシアに有利な働きかけをし、ウクライナのNATO加盟を否定し、ロシアに有利な取り計らいをするのか。本社を読めば一目瞭然だ。
▽ソ連の崩壊に米国が深く関わっていたことも、本書は指摘している。ソ連は当時、原油の大量の輸出で外貨を稼いでいたが、米国はレーガン大統領の指示でCIAが石油パイプラインを破壊し、サウジアラビアの協力で原油価格を一気に下げることで、ソ連の経済が崩壊し、ソ連そのものが崩壊したことを説き起こした。
▽これに対して、プーチン大統領は米大統領選にインターネットやSNSを駆使して、ロシアに不利となる米大統領候補のヒラリーを落選させ、トランプを当選させる情報戦を展開。自ら望むトランプを当選し、さらにその延長線でウクライナを侵攻した。
▽そんな歴史の裏舞台を探った。
▽プーチンは、ソ連が崩壊し、本来なら親露国家となるはずだったかつてのソ連の周辺国家が、次々とNATOに加盟して、ソ連の領域を狭められたという意識が強く、その報復として、クリミア半島の強引な合併とウクライナ侵攻があると筆者は指摘する。プーチンは親友だとしているトランプ大統領がいる限り、米国からの介入はないと見ているようだ。
▽つまりトランプもプーチンも同じ穴のムジナなのだ、ということがよく分かる。
▽筆者はこう指摘する。
《ソ連崩壊の1991年から2022年のウクライナ侵攻までの30年余にわたる激動の舞台裏で、全部で四期の秘密工作などを最初にスタートさせるきっかけをつくったのは、「世紀のスパイ」とも言われたソ連国家保安委員会(KGB)の工作員も含めたスパイであることも確認した。
▽ロシアのウクライナ侵攻に向けては、CIAがウクライナの全面的に支援し、ロシアによるゼレンスキー大統領の暗殺を防ぎ、傀儡政権樹立企みも粉砕した》
▽そしてこう指摘した。
《米国はスパイをうまく利用して、ソ連を崩壊させたが、永続的な世界平和を築くことができなかった》
▽プーチンとトランプがいる限り、地球に平和は訪れないことを、この本書は示唆している。
★625日本で死刑執行ゼロ1000日に/日本では2回目
▽先進国の中では、異例にも死刑制度を存続させている日本で2022年7月の執行を最後に、死刑執行ゼロが続いており、今年4月21日、執行ゼロが1000日となる。1000日となるのは、日本の近代行刑史上、2回目となる。前回は1000日達成後に、執行が再開された経緯もあり、死刑制度廃止を求める市民団体は、現在の状況を慎重に見守っている。
▽最後の死刑執行は、2022年7月26日。古川禎久法相(当時)が、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大(ともひろ)死刑囚(当時39)への執行を命じた。その後、葉梨康弘、斎藤健、小泉龍司ら法相も執行していない。
▽法相の就任期間が短かったことや、法相の問題発言があったことも一因だろう。多くの要因が重なって、死刑執行ゼロが続いていると、関係者は見ている。死刑が確定した死刑囚の袴田巖さんの無罪確定の判決の影響も考えられる。
▽このため、2023年と翌2024年の2年間、死刑執行がゼロになった。ゼロの更新が今年も続いており、今年4月21日には執行ゼロが1000日となる。生命を合法的に奪うこの執行のゼロが今後も続くことを、市民団体などは強く願っている。
▽私はこの状態を歓迎したい。
▽世界を見ても、死刑制度を存続させている先進国は日本と米国の一部の州に過ぎない。その中で、この今回の執行ゼロは、改めて、死刑とは何かという問題を新たに提起したいと、と思う。
▽日本では過去にも、死刑施行ゼロが続いていた時期がある。1989年11月を最後に死刑執行ゼロが3年4カ月続いていた。死刑制度の廃止を願う市民団体は当時、この状態を死刑廃止を前提とした「死刑執行ゼロ」であると認識したが、残念なことに後藤田正晴法相(当時)が死刑執行を再開させた経緯がある。「法秩序を守るため」という理由で、執行を再開させた。3年4カ月ぶりの執行だった。以降、日本では毎年のように死刑執行があり、毎年のように死刑囚の命が奪われている。
▽私は当時勤務していた朝日新聞で、「死刑執行ゼロ1000日達成」という記事を書き、「死刑執行ゼロの周辺」という連載記事を仲間とともに続けた経緯がある。それが後藤田法相の死刑執行再開によって、踏みにじられた思いがある。その後死刑は半年に一度執行され続けてきた。執行ゼロの記録が後藤田法相によって破られたことを、私は忘れられない。
▽そんな失望を繰り返してはならないためにも、今回の死刑執行ゼロは続けなくてはならないと思っている。
▽死刑執行を続けても、重大犯罪の抑制にはなっていない。それは京都アニメーション事件でも明らかだ。
▽死刑は戦争と同じ論理で行われる。戦争も死刑執行も、権力の行使で、人を殺すことが正義とされる。殺人が正当化される。人間の生命を正義という名で奪っていいのか。そんな疑問を常に持ってきた。
▽日本ではかつて国会で死刑廃止法案が提出され、死刑制度の是非を議論した経緯もある。1956年の国会だ。その法案の提出者に私はかつて取材したこともある。その議員は純粋な気持ちから死刑廃止を願っていた。人が人をあやめてはならないのだ。
▽私はこのまま死刑執行ゼロが続き、日本から死刑制度がなくなることを切に望む。純粋な気持ちからの願いだ。
◎4月27日の朝日新聞社説も死刑執行ゼロ1000日達成で、「死刑モラトリアム 執行を止め熟議する時」で取り上げていました。ありがとうございます。
◎参考文献 ▽自署「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」▽「なぜ『死刑』は隠されるのか?」
★623スイーパーはサッカー用語の死語なのか
▽サッカーで言うスイーパーという言葉をご存知だろうか。すでに死語になっているが、この言葉、現役の選手がまだ使っていたことに驚いたことがある。死語ではなかったのだ。
▽スイーパーとは、ゴールキーパー(GK)を補佐する役割の選手のことを指す。今で言えばセンターバックに位置する選手が、ゴールキーパーを補佐する役割を担う。ゴールキーパーが少し前に出てきた時は、キーパーの後ろで守備に徹する。これがスイーパーだ。
▽サッカーJリーグはまだ発足していない時期、日本のサッカー黎明期では、このスイーパーということが盛んに使われていた。
▽それが、いつの間にか使わなくなっていた。攻撃的サッカーをする場合、スイーパー役に1人就けた場合、攻撃する選手が減るからだ。4バックのように、両サイドバックの2人の選手が攻撃に参加するような訳にはいかない。
▽しかし、だった。私がある日、サッカーJリーグの取材で試合を終えたゴールキーパーの選手がこう話したのだ。
「今日はスイーパーとの連携がうまくいって、相手にゴールを与えなかった。これが大きい」
▽スイーパーという言葉を、現役のJリーグの選手が使っていたのだ。これには驚いた。取材をしていた若い記者たちは、スイーパーという言葉を知らなかっただろうから、戸惑っただろう。
▽逆に黎明期のサッカー界で使わなかった言葉が、いつの間にか使われるようになった言葉がある。「ボランチ」だ。ブラジルサッカーの用語が採り入れられたためだろう。守備的ミッドフィルダー(MF)として、試合を統制していく。センターバックより1歩前に出ている選手だ。このブランチを通してボールを前線に供給するため、大切な役割の一つだが、昔はボランチという言葉は使われていなかった。チームによっては1ボランチもあるし、2ボランチ、3ボランチのシステムを採用するところもある。比較的新しい言葉だ。
▽このようにサッカー用語も10年間、20年間で使われたり使われなくなったりすることがある。
▽また新聞社ではそれぞれの新聞社独自の言葉のルールがあり、朝日新聞もかたくなにこれを守っている。テレビ中継やスポーツ紙には登場するが、朝日新聞では使わない言葉が多い。「シャドー」という言葉は扱わないし、「ウィング」という言葉も使わない。「アンカー」も使わない。1.5列とか、右サイドのアタッカーなどと言ったりする。「アーリークロス」も使わない。「センタリング」という言葉も使わない。「クロス」という言葉に統一している。
★620出版不況は今後も続くのか
▽出版不況が続いている、と報じられている。雑誌の廃刊や休刊が相次ぎ、週刊朝日の休刊は大きな話題になった。残りの週刊誌も合併号を頻繁に出すなど、部数に陰りが出ている。書籍も返品が相次ぎ、業界全体が不況の中から脱出できないでいる。新聞だけではなく、紙に印刷された紙媒体そのものが淘汰されていく、と私は危機感を持っている。
▽ネットではこんな記事が出ていた。
《全国で書店の減少に歯止めがかからないなか、雑誌や書籍の出版社でも厳しい経営環境が鮮明となっている。2023年度における出版社の業績は「赤字」が36.2%を占め、過去20年で最大となったほか、減益を含めた「業績悪化」の出版社は6割を超えた。出版不況の中で、多くの出版社が苦境に立たされている。
▽2024年は有名雑誌の休刊・廃刊が相次いだ。月刊芸能誌『ポポロ』をはじめ、女性ファッション誌『JELLY』やアニメ声優誌『声優アニメディア』などが休刊を発表。日本の伝統文化や芸能関係の話題を世界に紹介する国内唯一の英文月刊誌『Eye-Ai』を発刊していたリバーフィールド社は、今年4月に破産となった。購読者の高齢化に加え、若者層では電子書籍の普及やネット専業メディアが台頭し、紙の雑誌・書籍の売り上げは1996年をピークに減少が続いている》
《また、「再版制度」で出版物の約4割が売れ残りとして返品されるなど出版社では在庫負担が重い。加えて、物価高の影響で紙代やインク代など印刷コスト、さらには物流コストも上昇が著しく、ますます収益が悪化する悪循環に陥っている。2024年1-8月に発生した出版社の倒産(負債1000万円以上、法的整理)と廃業も、4年ぶりに前年から増加した2023年(65件)と同等のペースで発生し、2024年通年では過去5年間で最多となる可能性がある。
▽足元では、業界大手書店が返本を減らす取り組みを進めるほか、特色あるテーマや編集スタイルで業績を伸ばす雑誌や出版社もある。一方でヒット本や雑誌の発刊は容易ではなく、出版コストの増加で経営体力が疲弊した中小出版社の休廃刊、倒産や廃業といった淘汰が進むとみられる》(2024年9月8日配信)
▽確かに私も実感する。私がかつて中小の出版社から出した本は、初版で数千部から1万部を刷っていたが、今は1000部どころか500部まで落ち込んでいる。そこまで売れなくなっている。印税もかつては、定価掛ける部数の1割だったが、今は3−5%という出版社もあるほどだ。印税など出さないで、筆者に本を100部単位で買い取ってもらい、印税の代わりにする社もある。
▽これではフリーライターは生活が出来なくなる。定価2000円を500部出して、印税を5%もらうとしたら、わずか5万円の印税にしかならない。以前だったら、80-120万ぐらいの印税の収入があったのに、と思ってしまう。ここまで中小の出版社は状況が厳しい。
▽これは新聞業界でも当てはまる現象だ。私が勤めていた朝日新聞はかつて800万部の部数があったというが、現在は400万部を切り、さらに減り続けている。会社幹部は朝日新聞デジタルに移行することを目標とするが、契約数はまだ50万人に届かないといい、戦略は失敗している。
▽単に「活字離れ」と解釈しない方がいい。出版も新聞も紙媒体の活字離れ、という根本的に問題に直面していることを理解した方がいい。150年間続いた印刷による活字の紙媒体が崩壊しつつあると解釈した方が正しい。
▽一方で大手出版社の業績が好調だというのも頷けるのは、大手出版社は漫画の電子書籍化が進み、成功したためだ。つまり大手出版社は紙媒体の活字から、電子書籍へと大きく舵取りをして、成功を収めた。これが中小の出版社は漫画を扱っていないから、電子書籍化が出来ないまま落ち込んでいると言える。
▽かつて中小の出版社は独自の方針で、ジャーナリズムを担っててきた。多くのノンフィクションやルポルタージュの書籍を世に出してきた。名は挙げないが、ジャーナリズムの良心があって、読者の支持を得ていた。それが今は風前の灯火になっているのがつらい。
★618問題コメンテーター田崎史郎の問題点
▽テレビの情報番組に登場するコメンテーター、田崎史郎がいかにひどい人間かを指摘する声は多いが、この人物の正体を知るには、格好の著書がある。私はあまりテレビを見ないのだが、この彼自身が書いた本を読んで驚いた。あまりに自民政権べったりの話だった。
▽「安倍官邸の正体」(田崎史郎、講談社現代新書)だ。
▽ここまでひどい政治記者を私は知らない、と思った。完璧な安倍政権のお友達の時事通信記者という感じだ。NHKの岩田、産経の阿比留並みというべきか。それ以上というべきか。
▽この本によれば、安倍官邸が正副官房長官らからなる秘密会議ですべてを決めており、それをうまく機能できるようになったのは、第一次安倍内閣での教訓が生きているからだという。ここまではいい。その後のこの本の展開は安倍がいい首相であり、民主党の歴代首相は馬鹿であり、菅官房長官は苦労人だから、よくやっているという大ちょーちん記事のオンパレード。集団自衛権の容認を成し遂げた、とかいう表現を使って、安倍政権を評価していることに驚くばかり。完全なスポークスマンだ。
▽よくも、まあ、ヌケヌケと書いたものだと思った。
▽この本を書いた当時の田崎はまだ時事通信の記者だったから、同じ新聞記者として恥ずかしいと思った。
▽安倍がその後、ここまで統一教会と癒着している実態も全く理解しなかっただろうし、まさかその信者の息子に殺害されるとは予想もしなかっただろう。
▽田崎は以前、本社から浦和支局に異動になった時に差し止めの訴えを起こしたとか、自分がエリートになったつもりでいるのもおかしい。第一、時事通信って、行政の宣伝の配信もしているから、本来のジャーナリズムからはほど遠い組織だ。
▽問題はよくこんな人間をテレビ局がコメンテーター使っているかということだ。通常のジャーナリズムの感覚からすると、全く理解できない。
▽テレビ局側からすると、使うことで自民党政権との距離を短くし、放送免許の剥奪を避けようとしているのかもしれない。つまり、自民べったりの評論を田崎がすることで、自民政権のお伺いを立てている、ということなのだろう。
▽こんな人物をコメンテーターとして使い続けるそのことが、テレビの問題点なのだろう。こんなテレビなど要らないと思う。
★616新聞に旧聞の話は掲載してほしくない
▽新聞を読んでいて、時折がっかりすることがある。取材した記者だけがニュースだと思い込んで原稿にしたが、既に旧聞でしかなく、何がニュースなのか分からない記事のことだ。例えば2024年8月30日付朝日新聞に掲載された記事がまさにそうだった。
▽東京・丸の内の三菱重工本社に爆弾が仕掛けられ、8人が死亡した事件から30日で50年になるとして、《当時を知る人が減るなか、自らの体験を書き残した人がいた》と書いた記事だ。
▽記事ではこう書いている。
《事件当時に三菱重工社員で、31歳だった宗像善樹さん。事件で同僚らが命を落とし、けがを負うなか、自身は鼓膜が破れ、右耳の聴力を失った。
▽妻の信子さん(75)によると、宗像さんは事件後、しばらく事件について語りたがらなかった。宗像さん自身も重い後遺症を負ったが、「私は被害が小さい方だから経験を口にする立場にない」との思いだったという。
▽一方で、「あの悲劇を風化させてはいけない」とも語っていた。「被害者の苦しみは共有されていない。記憶や事件に対する思いが薄れる前に書き残さないといけない」と話していたこともあったという。
▽退職後の2010年。事件から36年が経ち、宗像さんは自身の体験を元にした小説を書き上げた。当初はペンネームで「爆風」というタイトルで出版したが、同社OBから「実名でしっかり残すべきだ」と背中を押され、18年に実名で「三菱重工爆破事件」(幻冬舎)を出版した。
▽宗像さんはその3年後の21年12月に78歳で亡くなった。著書は小説だが、自身の体験はそのまま書いており、発生時の状況は生々しく記録されている》
《ドドーンという爆発音と、建物全体が突き上げられるような激しい揺れを感じた。(中略)私は、爆風の直撃を受け、猛烈な勢いで床に叩(たた)きつけられた。(中略)皆、猛烈な爆風と鋭いガラスの破片や割れた蛍光灯の直撃を受けて、いっせいに床の上になぎ倒された。(中略)オフィスの中は、爆風で舞い上がった部屋のほこりで濛々(もうもう)と白くかすんだ。(中略)周囲にはワイシャツ姿の男性社員やノースリーブの女性社員が体から血を吹き出して倒れていた。(中略)右耳から、真っ赤な血がポタポタと床に流れ落ちた》
▽記事を読んでも、6年も前に出した小説を紹介しているだけだ。紹介するなら、出版した直後に記事にすべき内容だ。今さら、という感じを私は持った。
▽恐らく、この記事を書いた記者は、この小説の存在を最近知って、事件から50年が経過したタイミングを狙ったのだろう。しかし50年の節目に紙面化するなら、「東アジア反日武装戦線」を名乗る集団による連続企業爆破事件はその後、どう批判されて、どう影響を受けてきたかをまとめるべきであり、被害者の一人が書いた小説を紹介するだけではおかしいだろう。昨年(2024年)1月には、半世紀近く逃走を続けたメンバーの1人の桐島聡容疑者が入院先で名乗った後に死亡した出来事もあった。50年が経過した事件を検証するなら、小説を紹介するだけでは物足りないし、核心に迫っていない。
▽6年前の出版された本を、今になって新聞で紹介する意味が、この記事からは理解できなかった。ニュースではなかった。
★615謎の言葉を残し、NHK女子アナは去った
▽謎の言葉を残して、NHKラジオの女性アナウンサーは去って行った。何があったのか、私には分からない。
▽いつものように、今年(2025年)4月5日、私は起床してNHKラジオ第1放送を聞き始めた。土曜日の早朝。「ラジオ深夜便」が終わり、5時からは「マイあさ」という情報番組が同8時まで続く。2人の男女アナウンサーと気象予報士の計3人が登場する番組だ。もう10年間聞き続けてきた。
▽その中心人物のキャスターが渡辺ひとみアナウンサーだった。契約アナとして、もうこの時間帯の番組として10年以上、司会者として登場している、早朝の看板キャスターだ。
▽その渡辺アナがこの日いないのだ。いつも聞く渡辺アナの声ではなかった。別人が担当していた。病気かなと思ったが、年度初めなので、気になってネットで検索したら、こんなX(旧ツイッター)のショッキングな投稿が3月30日付であった。
《NHKラジオニュース
《前の前の早朝番組から土日に登板してきた渡辺ひとみは本日をもってキャスターを降板。長い間のご声援、ありがとうございました。来週以降の金・土・日は星川幸が担当します》
▽私はエッと驚いた。10年も続く番組で、10年間も司会のキャスターとして続けてきたのに、と思った。
▽最後の放送は1週間前の3月30日の日曜日。私は途中から日課のジョギングに出てしまい、彼女の最後の挨拶を聞いていなかったし、降板したことも全く知らなかった。
▽かなりショックだった。いい番組だったのに。
▽経歴はこうある。
《渡辺 ひとみ
2014年4月、NHKに復帰。ラジオセンター専属の契約キャスターとなり、『ラジオあさいちばん』の土曜・日曜キャスターを担当した。
2015年4月からは『NHKマイあさラジオ』の土曜・日曜キャスターを担当している。さらに後継番組の「マイあさ!」も担当》
▽土曜日には「サエキけんぞうの素晴らしき20世紀ポップ」ではあれこれと楽しそうに話す彼女が魅力的だった。それだけではない。料理、古典など幅広いジャンルを担当し、独特の語り口で、リスナーを魅了していた。聞いているとホッとする番組作りをしていた。そして相方のアナウンサーからもゲストの人間も、名字の「渡辺さん」ではなく、名前の「ひとみさん」と親しみを込めて話していた。早朝の人気者だった。
▽そして理由を知りたくて、ネット検索すると、彼女のブログにこうあった。
《ありがとう!ばいばーい!
2025-03-30 08:00:00
テーマ:ブログ
未熟な社会にはびこる誹謗中傷行為に抗議して、
そして、それに対抗する手段の限界に絶望して、
本日をもって、
「マイあさ!」の出演を降板いたします。
これは、
私自身の被害を訴えるものではありません。
曲解することはお控えください。
皆様の佳き人生を祈ります。
また、お会いいたしましょう。
私、失敗しないので。絶対に》
▽何なんだと私は思った。抗議と絶望とは何なのかと疑問に思った。
▽詮索はするまい。しかし10年も同じ番組のキャスターを務めてきたのに、抗議と絶望を理由に降板するとは、何があったのか。
▽そしてNHKのアプリで聞き逃し配信として、最後の彼女の挨拶を聞いた。
「それでは、みなさま、お別れです、さようなら」
▽力強い言葉で、意思の強さを感じる挨拶だった。このまま彼女はNHKを去って行くことになるのだろうか。かなり寂しくなる春だ。
★613カメラとカメラマンの違い
▽石川県・能登半島の水害現場をNHKTVが報じていたが、この際、アナウンサーが「現地にカメラが入りました」と伝えていた。この「カメラ」という言葉に私は苦い記憶がある。
▽私が新聞業界に入ったころだから、新人記者か記者歴2年生のころだろう。当時私は北海道新聞小樽支社報道部に勤めており、日々の取材をしていた。もちろん自分で取材し、自分でカメラを使って写真を撮影するのが鉄則だが、支社報道部には、2人のカメラマンがいて、何か大きな事件や話題があった時はそのカメラマンを呼んで、写真を撮影することになっていた。
▽ある時、ちょっとした話題ものがあって、報道部で待機していたカメラマンに電話連絡をした。その時私は何気なく、「カメラを呼んで」とアシスタントの女性に電話をした。すると電話に代わって出た1人のカメラマンが、こう怒鳴ってきた。
「カメラじゃないだろ、カメラマンだろう!」
とまくし立ててきた。
▽自分たちを、「カメラ」と呼ばれることが非常に嫌がっていたようなのだ。
「カメラではなくカメラマンなのだ」
とその時私は意識した。
▽それ以来、私はそのカメラマンのことをカメラとは呼ぶことをせず、本名の苗字で呼ぶようになった。
▽私がカメラと呼んでしまったのは理由もある。報道部のキャップ以下多くの先輩は、「カメラ」と呼んでいたのだ。それに引きずられて私もカメラと呼んでしまった。
▽カメラマンから見れば新人の私に「カメラ」と呼ばれるのは不愉快だったのだろう。だから「カメラ」と言われたことに対して怒ったのだ。
▽カメラマンにはカメラマンのプライドというものがある。だからこそ、カメラと呼ばれたことに対してムッとしたのだろう。
▽だからNHKが「現地にカメラが入った」と呼ぶのはおかしいのだ。カメラマンが入ったのだと言ってもらいたかった。正確にはカメラマンによるカメラが入ったでも良いのだ。
▽新聞社ではどうしても記者はカメラマンも使うことに慣れてしまって、カメラマンを下に向きが多い。要するに下請けのような存在になっている雰囲気がある。だから、若い記者からの発注に、いい顔をしないカメラマンも多い。
▽カメラマンは下請けではない。新聞には大切な職業だ。そのことを意識して仕事をするようになった。そしてカメラマンには頼らないよう、撮影の技術も磨いてきたつもりだ。
▽カメラマンに対する私の意識は次第に変わってきた。
★610全国転勤するNHKラジオアナウンサーへの親和性
▽春は転勤のシーズンだ。この時期になると、NHKラジオアナウンサーに、私は親和性を持ってしまう。その理由を説明しよう。
▽私はラジオでNHK第一放送を午前中、よく聞いている。ニュース番組の他、情報番組などを聞いているが、春の人事異動になると、転勤で担当が交代する、というアナウンサーの説明があり、「そうなんだ」と勝手に親和性を感じてしまうのだ。
▽ある情報番組で担当のアナウンサーが人事異動で交代したとする。そんな挨拶を聞くと、NHKも全国的に人事異動していることがわかる。
▽今回聞いたのは、東京・渋谷のNHK放送センターから四国の地方放送局に異動する男性アナウンサーが最後に挨拶をしていたのだ。「これからはその地域でがんばります」という趣旨の挨拶していた。
▽そうかと思えば、プロ野球の実況中継アナウンサーが番組に登場し、司会をしていたアナウンサーが九州・大分放送局で10年前に職場が一緒だったという話も聞いた。
▽民放ではこんな話は全くない。全国規模の民放がないためだ。東京も地方も含めてすべてローカルで結ばれているだけだから、TBSアナウンサーがHBC北海道放送に転勤した、などいう話は全くないし、テレビ朝日のアナウンサーがHTB北海道放送に異動になったということもない。放送業界ではNHKだけが全国的に転勤をしているのだ。全国規模で人事異動があるから北海道から九州まで異動がある。
▽これは朝日新聞、毎日新聞、読売新聞という全国紙も同じだ。私も朝日新聞で転勤を重ねてきたから、こうした転勤の話を聞くと、ホッとしてしまう。
▽転勤は辛い。新しい場所に行くという期待と不安がある。これまでの友達との付き合いもなくなるから、不安は尽きない。こんな生活を私は40年間続けてきた。
▽こうした思いは、NHKのアナウンサーや記者も当然感じているだろう。転勤をいとわない姿勢に感心する。
▽最近の朝日新聞の一部の記者は、東京本社に上がると地方に行きたがらない記者がいる。一方で、潔く地方に行くという記者もいる。そんな潔さを私は買いたい。
▽NHKを私は国営放送だと思っているが、そうしたアナウンサーや記者の転勤を私は頑張れと後押ししたい。
★606昔からあった記事の盗作とスクラップ帳、インターネット
▽インターネットとパソコンが普及し、新聞や雑誌、テレビ局で急激に増えたのが、インターネット上にアップされた記事の盗用、盗作だった。他社が書いた記事をそのまま記事にし、あたかも自分が書いたように見せかける。いわゆるコピー・アンド・ペーストだった。だが、この盗作問題、インターネットがなかった時代からずっと続いていることだった。
▽新聞記者はかつて、新聞を切り抜いて、スクラップ帳を作っていた。個人的にも作っていたし、職場や記者クラブでも作っていた。取材する際に、取材対象となる相手が過去どんなように報じられ、どのような紙面展開をしていたか、事前に調べていた。
▽しかしこれは誘惑を誘う。同じ取材対象だったのならば、前に書いた古い記事をそのまま丸写しして、書いてしまえば良いわけだ。つまり丸写し。盗用というか、盗作にも値する行為だった。これが昔からは、堂々とまかり通っていた。
▽確かに古い記事を丸呑みして丸写しするのは、楽な行為だ。自分で物事を考えないで済むから、記事は丸写しするだけで良い。表現の一部を変わるだけで、記事は完成してしまう。こんな記事の丸写しが昔からあったのだ。
▽昔は朝日新聞広島支局の記者が、地元紙の記事を真似て原爆に関連する記事を盗用してしまい、発覚後に編集局長が更迭される事件もあった。これはインターネット時代になってからのことだが、よくある話なのだ。そして、危険なのだ。
▽私について言えば、私が書いたフィーチャー記事が、1年後の毎日新聞に丸写しされたこともある。どう考えても、この発想、着想は私の書いた記事を見ていないと書けないものだった。
▽こうした問題を防止するにはどうしたらいいのか。
▽それは、過去記事など事前には見ないことだ。参考にするのは記事を書いてからである。参考しないで取材したこと、自分で考えたことを記事に書いていく。これだけでも盗用、盗作は防げる。
▽現在でも時折新聞や雑誌などで、他人が書いた記事をそのまま丸写してしまう問題が多発している。インターネット時代の欠点が今出ている。こうして行為は今後さらに増えていくに違いない。自分で考えないで記事を書く人間が多くなった、ということなのだろう。危険だ。
★605吉田拓郎とアルフィー
▽YouTubeにアップされている吉田拓郎とアルフィーのコンサートが面白い。吉田拓郎がアルフィーのコンサートに招かれた形で、数曲拓郎の歌を歌うのだが、最後の締めはやはり吉田拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいいのだろう」だった。アルフィーにしても、この名曲をバックバンドとして弾きたかったのだと私は思った。
▽コンサートを見ていて、拓郎とアルフィーのメンバーである桜井賢と坂崎幸之助、高見沢俊彦の3人は本当に仲がいいなと感じた。吉田拓郎の当時の妻である浅田美代子がいる自宅に伺い、カニ料理を食べたことや、六本木のスナックで飲食したことなどが語られていた。カニ料理を食べたアルフィーの高見沢は「カニとじゃんけんをしてました」と吉田拓郎が歌うと、観客は大いに笑っていた。
▽そして最後の締めの曲が、吉田拓郎の「どうしてこんなに悲しいんだろう」だった。この曲は私も高校時代から聞き続けており、名曲の一つだと思っている。原曲ではキーボードから始まるが、今回のコンサートでは坂崎がリードギターをしていて、味のある歌い方になっていた。冬空の下で一人ぼっちになっている自分を歌った曲だ。こんな名曲を、私は50年間も聞き続けてきた。ていた。
▽動画をYouTubeにアップをしてくれたファンには感謝したい。
▽この他、私が好きな吉田拓郎の曲を以下に列記する。
「永遠の嘘をついてくれ」
「全部だきしめて」
「ファイト」
「明日に向かって走れ」
「祭りのあと」
「落葉」
▽このうち、「永遠の嘘をついてくれ」は中島みゆきが吉田拓郎のために作った曲で、つま恋コンサートでは2人が同じステージで歌っていた。名曲となった。「全部だきしめて」は、吉田拓郎がKinKi▽Kidsのために作った曲で、自身もコンサートで披露している。
「明日に向かって走れ」は感動的な曲だった。「祭りのあと」は、祭りの後の悲しみを歌った。これも名曲だった。落陽は旅人の歌だ。苫小牧発仙台行きフェリーの情景を歌っている。
▽私は今でもみんな好きな曲だ。
▽皆さんはどの曲が好きでしたか。
★602全国紙と中央紙の違いとは
▽私が朝日新聞を退社して3年半になる。この3年間半で朝日新聞の地方取材網が激減したことは、このホームページで何回もしてきたが、同時進行の形で毎日新聞も急激に地方取材網を縮小している。もはや、朝日新聞も毎日新聞も全国紙ではなくなっている。東京を中心とした中央紙にすぎないのではないか、と思っている。
▽私の親戚に、とある地方都市の副市長がいる。その彼が私にこう嘆いていた。
▽「毎日新聞はうちの市と付き合いが切れている」
▽市役所の会見にも記者が顔を出さないばかりか、市議会や地元のイベントにも全く顔を出さない状態が続いているというのだ。
▽これは私から言えば、地方行政機関への監視を放棄したということだ。地方自治体や地方議会の取材は時間もかかるし、時間がかかっても記事にならないことが多い。無駄な取材が多いが、それが権力監視というものである。その無駄な、そして大切な取材を毎日新聞は放棄しているということになる。
▽朝日新聞の記者も同様らしい。本社から転勤してきたベテラン記者が担当しているが、着任直後に挨拶に来て以来、全く市役所に来ることをしていない。地方記者の役目を忘れているようだ。地方権力の監視、ということを怠っている。
▽これに対して、読売新聞の若い記者はこまめに副市長のところに顔を出しているという。読売新聞に出来て、毎日新聞と朝日新聞に出来ないのはなぜだろうか。
▽また地元紙の記者もマメに来ているというから、要するに、毎日新聞と朝日新聞は地方権力監視の仕事を放棄している、というしかない。
▽かつて朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も、全国紙だとして、地方の取材網を整備し、全国のニュースを全国に発信してきた。全国紙と言われる所以だ。
▽それが毎日新聞と朝日新聞も脱落した。ここまで地方取材力が落ちるということは、地方権力の腐敗が進むことに繋がる。米国の地方紙の斜陽化で、地方行政の腐敗が増加している事実を見れば、一目瞭然だ。
▽毎日新聞も朝日新聞も全国紙ではなくなり、中央紙に成り下がってしまった。悲しい現実だ。こんな危機感を、本人たちは気付かないのだろうか。
【再掲載】★379死刑執行の直前告知とその是非を訴えた裁判判決
▽私のライフワークの一つとして、日本の死刑制度があるが、その問題点の一つとして、死刑囚に対する告知問題が浮上している。このことを記してみたい。
▽日本の死刑確定囚に対して死刑執行を告知するのは、その執行のわずか1、2時間前だ。法務大臣の死刑執行命令書を元に、検察官が執行するのだが、死刑確定囚側からすると、突然のお迎えが来たように映る。
▽この以前のコラムでも書いたが、「足音が近づく」という手記は、獄中にいた死刑確定囚の小島繁夫が、いつ処刑されるかもしれないという恐怖感に直面している死刑確定囚の本音を綴っていた。タイトルの「足音が近づく」は、死刑執行の刑務官の足音が近づく恐怖感から取ったものだった。
▽そんな今日を和らげようと、大阪地裁では死刑確定囚2人が憲法違反だとして、訴訟を起こした。
▽法務当局は「本人の心情の安定化のため」と説明するが、果たして、それだけで死刑確定囚の人権、防御権は守られるのだろうか。
▽裁判の根拠の一つとして、「玉井テープ」の存在を原告側は挙げている。玉井テープとは、大阪拘置所で死刑確定囚を執行する2日前から、面会に来た姉や職員とやりとりをしたことを記録した録音テープのことで、当時の大阪拘置所所長の玉井策郎が極秘に録音していた。執行の2日前には告知しており、全く現在と状況が違っている。玉井は翌年の国会で論議された死刑廃止法案の時も公述人として証言し、具体的な死刑囚とのやりとりを明らかにした人物だ。
▽死刑廃止運動を続けている市民団体は、その玉井テープを編集し直し、2022年10月のイベントで、そのテープを公開した。告知問題はもっと議論されても良いと私は感じる。
▽また2022年10月29日の朝日新聞社説では、その告知問題を取り上げていた。「死刑当日告知▽見過ごせぬ手続きの闇」というタイトルで掲載された。
▽告知問題が大阪地裁で訴訟になっていることを紹介し、玉井テープの存在も取り上げて、こう結んだ。
《だれもがそうではないかもしれないが、あらかじめ告知することで、静かに来し方を振り返り、自分と向き合うことができるケースもあることを示す。
▽死刑制度には、国家が人命を断つことへの根源的な疑問があり、冤罪(えんざい)だと取り返しがつかない。絞首刑の残虐性については死刑存置派の識者からも見直しを求める意見がある。朝日新聞社説は廃止に向けて歩を踏み出すべきだと主張してきた。ただちに実現しないとしても、改められる運用から変えるべきだ。
▽同時に、突然、理不尽に命を奪われた被害者の遺族を支援し、その負担を少しでも軽くできないか、施策を常に見直し、充実させることもまた、欠かすことのできない営みだ。
▽既に3分の2以上の国々が死刑を法律上または事実上廃止し、先進国での実施は日本と、米国のおよそ半数の州だけだ。米国は30日前には対象者と弁護人に執行を告知する。国連の人権機関は当日告知への懸念を日本政府に重ねて示してきた。
▽目をそらして済ませられない問題である》
▽こうした社説が出るようになったことを、私はうれしく思う、私が現役のころは、死刑制度について書かれた社説はほとんどなかった。
▽そして2024年4月15日、その告知問題の判決が大阪地裁であった。訴えを退ける判決を出した。以下は朝日新聞の記事だ。
《判決は、執行方法をめぐる過去の民事裁判で「実質的に刑事裁判の判決の取り消しを求めるもので許されない」とした、1961年の最高裁判例を踏襲。当日告知の執行を受け入れないことは、「死刑執行を許さないという効果を生じさせる」と指摘した。
▽原告側は「当日告知の是非を争っているだけで、死刑そのものの取り消しまでは求めていない」と主張していたが、「実質は確定した死刑判決の取り消しを求めることになる」と退けた。
▽さらに判決は「原告らは当日告知の運用を甘受する義務がある」とも指摘。事前に告知したことで自殺した例があったとして直前の告知に変えた今の運用は、「本人の心情の安定や円滑な執行の観点から一定の合理性がある」と結論付けた。
▽原告側が主張した憲法13条の人格権に基づく「死の時期を知る権利」などについては、「そうした権利は保障されていない」とした》
▽根拠となる法律はないのに、秘密裏の執行を是認する判決だった。
★597さらに加速化した全国紙の地方撤退
▽全国紙の地方撤退がさらに加速化している。私が朝日新聞の最後の仕事場となった埼玉県秩父市の秩父支局では、私の後任者が決まらないまま撤退し、廃止となったが、今年(2025年)2月いっぱいで東京新聞通信部が撤退し、さらに3月には毎日新聞も撤退するという。つまり秩父市には、読売新聞と地元埼玉新聞しか残らないのだ。驚くべき撤退の加速化だ。
▽私の朝日新聞の振り出しは浦和支局(現さいたま総局)だ。その後に宮城県塩釜市の塩釜通信局、そして本社に上がった。その後再び地方に出て、新潟県上越市の上越支局、そして北海道報道部、さらには群馬県渋川市の渋川支局に異動した。2回目の本社を経て、埼玉県越谷市の東埼玉支局、そして新潟県佐渡市の佐渡支局を経て、最後が埼玉県秩父市の秩父支局となった。
▽振り返ってみると、この地方支局・地方通信局の多くが廃止された。私が勤務していて、今も残ってる支局は浦和支局(現さいたま総局)と本社だけだ。わずか30年でこんなことになるとは思っても見なかった。実に悲しいぐらい、減らされているのだ。
▽特に2度目の本社勤務をした後の地方支局はすべて廃止された。
▽佐渡支局に赴任した時は、既に毎日新聞はなかった。朝日新聞は私の後任者が退職した後、支局は廃止された。さらには上越支局も3年前に朝日新聞は撤退している。毎日新聞も既にない。読売新聞も1人勤務となった。
▽気になるのが、佐渡支局の廃止だ。離島なので、大きな事件事故があったとしても、本土からすぐに渡れない。海が荒れれば船を使って渡ることができない。そんな支局も廃止してしまったのだ。これを不況対策の会社側の英断とは呼ばないだろう。間違った判断だと今でも思っている。
▽こうしてみると、地方撤退の加速化は朝日新聞と毎日新聞で進んでいる。読売新聞はかろうじて地方支局を維持している。これは体力の差ということなのだろうか。それとも将来を見据えてのことなのだろうか。
▽何回も何回も書いてきたが、地方支局を撤退するという事は、それだけ地方の問題を取り扱わないということになる。地方権力の監視ができないことにもつながる。民主主義にとっては危険な兆候だ。
▽朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も、高度経済成長時代に、地方支局や通信局・通信部を増やし、地方版を拡充させてきた。これが部数の増加にもつながった。その部数の増加の最大の貢献度が高かった地方版までを縮小している。本末転倒の地方撤退だ。
▽もはや朝日新聞も毎日新聞も全国紙ではなくなっている。読売新聞以外、全国紙は成り立たないのかもしれない。
【再掲載】★590日本人が見た米爆撃機B−29の美しさと残虐性の乖離
▽アジア太平洋戦争末期に、東京をはじめ日本の主要都市に無差別爆撃した米軍爆撃機B−29を当時の日本人はどう見ていたかを検証したのが、「B−29の昭和史」(若林宣、」ちくま新書)だ。とどめは広島、長崎に投下した原爆を搭載した事実だが、当時の日本人の多くがこの戦略爆撃機を「美しい」と見ており、残虐性と乖離していた。
▽戦争末期に開発されたB−29は、日本軍を制覇した太平洋と中国本土から襲撃を続けた。日本軍は戦闘機と高射砲で受けて立つが、歯が立たず、戦火は拡大していった。
▽筆者は、こういう事態でも、被害に遭っている日本人が意外にも、このB−29の機体を地上から見上げて、美しいと思い、それぞれ日記に記していたことを調べ上げ、この乖離は何なんだと自問自答していく。
▽千葉の整備兵はこう書いた。
《「きれいだ」
▽飛行場のすべての兵隊の目が驚異と感嘆をこめて、その一点を追い続けている。この白く高い青空に描かれていく弧が大きく旋回して、ついに円になり、東京上空につながった》
▽徳川夢声は東京大空襲の夜をこう記した。
《凄観!▽壮観!▽美観!
▽B−29が青光りに見える。いつもより低空を飛んでいるので、いつもの三倍ぐらいの大きく見える。それが炎の色の補色だろう、青く見える。時々、眩いほどに、照空燈の光を全反射する》
▽筆者はこう記した。
《日記や怪旧談には、いま見てきたように、B−29について美しかった、あるいはきれいだったとする記述が、しばしば現れる。実際、東京上空にその姿を初めて見せたときは、晴れた晩秋の空という、飛行機を地上から観賞するためにたたってうってつけの条件があった。太陽光に無塗装ジュラルミンの機体をきらめかせながら、飛行機雲を引きながら高々度を飛んでいく一機のB−29。また、撃ち上げられた高射砲弾が咲き乱れるような弾幕を形づくる。命の危険さえなければ、さぞかし美しい光景だったであろうことは容易に想像できる》
《B−29について、その審美眼的美しさのみならず、音の印象についても記したのは谷崎潤一郎である。中島飛行機武蔵製作所を目標とする空襲が開始された一一月二四日の昼頃、谷崎は熱海の自宅で東京方面に飛んでいくB−29の姿を目撃し、文学的筆致をもって次のように書き記した》
「(前略)一機東京を目指して飛ぶ、高く高く鰯雲の中にあり、爆音に依りて敵機なること判明、日本機のガラガラ云ふ音と異なりて、ブルンブルンと云ふごとき振動音を伴ひたる軟らかき音なり、後部より吐く瓦斯が飛行機雲となりて中天に鮮やかなる尾を曳く、機体もスッキリしていて、美しきことを云わん方なし後略」(現代仮名遣いに一部修正して引用)
▽敵機なのに、日本人はこのアメリカから来襲してきた爆撃機を、技術力の格差から羨望のまなざしで見ていたのだ。
▽これが日本人のB−29に対する多くの思いだと筆者は指摘し、その乖離を指摘するのだ。最後は原爆まで落とされるというのに、なぜ日本人はここまで一種の憧れを持っていたのか、と筆者は読者にも問いかけていく。
▽さらにはB−29が流線型で機能美だったかも検証している。
▽本書ではB−29の開発の歴史や戦略爆撃機の思想などから紐解いて、B−29がどのように日本を攻撃していったかを丁寧に解説して、被害を受け日本人がB−29をどう見ていたか、そして戦後の日本人がどう思っていたかを解いている。発想の面白さを評価したいし、勉強になった。加害者側の爆撃機なのに、日本人は憧れを持っていたというのだ。
▽ネットにはこう本書を紹介している。
《B−29――太平洋戦争を描いた作品には必ずと言っていいほど登場する戦略爆撃機である。一九四〇年代初頭に開発され、当時としては破格の五〇〇〇キロメートル以上の航続距離を誇ったこのアメリカ軍の長距離重爆撃機は、一九四四年六月以降本土空襲を繰り返し、広島と長崎に原子爆弾を落とした。模型や爆音レコードが販売される戦時下の人気コンテンツとなったB−29は、今も『火垂るの墓』などを通して知られている。B−29はいかにして、太平洋戦争そのものを象徴する存在になったのか。豊富な資料から読み解く、B−29と日本人の歴史》
★594山本五十六の最期の15日間を追った優れたノンフィクション
▽「山本五十六、最期の15日間」(池田遼太、光文社新書)は、連合艦隊司令長官、山本五十六が最前線への視察で米軍に攻撃を受けて死亡するまでを描いた作品で、優れたノンフィクションだ。未だに生存している人物から新たな証言を得て、五十六がどんな言動をして、視察に飛び立ったかを再現している。
▽過去の記録や証言では、五十六が搭乗していた1番機と、それに続く2番機が米軍の攻撃を受けて墜落したとなっているが、実はその2機に続く3番機が飛行しており、米軍の攻撃を受けることなく、目的地に着陸していた。
▽そしてこの3番機に搭乗していた人物が1人現存しており、その人物からの証言を元にして、過去の記録や証言などから、立体的なノンフィクションに仕上げた。
▽太平洋戦争での日本軍の進撃が止まり、アメリカが反撃し、敗戦色が濃くなる中での視察。最前線の兵士の慰労と士気を高めるためだった。
▽五十六の最前線視察には反対意見もある中で実行された。最前線の視察計画を部下に作ってもらった。その細かい行動日程を各部局に暗号電報で送っていた。これが米軍の暗号解析チームに解読されて、五十六の行動が把握されて撃墜された。
▽山本が乗っていた1番機は島のジャングルに墜落し、全員が死亡した。しかし、2番機は海面に不時着し、連合艦隊参謀長の宇垣纒は泳いで助かった。
▽今考えても、第一線の最前線への視察は無謀そのものだった。
▽最後の文章が良い。
《太平洋戦争は、もはや「歴史」の一部になった。往時を知る人物が全くいなくなり、全ては過去の蓄積と研究によって評価される時代に変わった。明らかにされないまま闇に葬られた謎も多く残った。しかし、時代の中で生きた人々の記憶は「証言」として、後々の世まで語り伝えられる。それがある限り、戦争の記憶は引き継がれていく、と私は強く感じたのである》
▽まさに強い意思だと思う。
▽ただし、「あとがき」はいただけない。筆者は安倍晋三元首相が殺された事件のニュースを聞いて動揺し、
《「偉大な元総理を喪った日本の未来に対する閉塞感が、しばらくの間拭えなかった」としたうえで、「五十六の死を聞いた国民も、このような気持ちを感じていたのではないか」ということに気づいた》
とまで書いたのだ。
▽安倍元首相はトランプ米大統領と同様、嘘を重ね、国民を騙し、統一教会と組み、独裁政権を作り上げようとした。そして射殺された。五十六の死とは雰囲気が全く違う。せっかくのノンフィクションが、この「あとがき」で台無しになる。もったいないと思った。
★590日本人が見た米爆撃機B−29の美しさと残虐性の乖離
▽アジア太平洋戦争末期に、東京をはじめ日本の主要都市に無差別爆撃した米軍爆撃機B−29を当時の日本人はどう見ていたかを検証したのが、「B−29の昭和史」(若林宣、」ちくま新書)だ。とどめは広島、長崎に投下した原爆を搭載した事実だが、当時の日本人の多くがこの戦略爆撃機を「美しい」と見ており、残虐性と乖離していた。
▽戦争末期に開発されたB−29は、日本軍を制覇した太平洋と中国本土から襲撃を続けた。日本軍は戦闘機と高射砲で受けて立つが、歯が立たず、戦火は拡大していった。
▽筆者は、こういう事態でも、被害に遭っている日本人が意外にも、このB−29の機体を地上から見上げて、美しいと思い、それぞれ日記に記していたことを調べ上げ、この乖離は何なんだと自問自答していく。
▽千葉の整備兵はこう書いた。
《「きれいだ」
▽飛行場のすべての兵隊の目が驚異と感嘆をこめて、その一点を追い続けている。この白く高い青空に描かれていく弧が大きく旋回して、ついに円になり、東京上空につながった》
▽徳川夢声は東京大空襲の夜をこう記した。
《凄観!▽壮観!▽美観!
▽B−29が青光りに見える。いつもより低空を飛んでいるので、いつもの三倍ぐらいの大きく見える。それが炎の色の補色だろう、青く見える。時々、眩いほどに、照空燈の光を全反射する》
▽筆者はこう記した。
《日記や怪旧談には、いま見てきたように、B−29について美しかった、あるいはきれいだったとする記述が、しばしば現れる。実際、東京上空にその姿を初めて見せたときは、晴れた晩秋の空という、飛行機を地上から観賞するためにたたってうってつけの条件があった。太陽光に無塗装ジュラルミンの機体をきらめかせながら、飛行機雲を引きながら高々度を飛んでいく一機のB−29。また、撃ち上げられた高射砲弾が咲き乱れるような弾幕を形づくる。命の危険さえなければ、さぞかし美しい光景だったであろうことは容易に想像できる》
《B−29について、その審美眼的美しさのみならず、音の印象についても記したのは谷崎潤一郎である。中島飛行機武蔵製作所を目標とする空襲が開始された一一月二四日の昼頃、谷崎は熱海の自宅で東京方面に飛んでいくB−29の姿を目撃し、文学的筆致をもって次のように書き記した》
「(前略)一機東京を目指して飛ぶ、高く高く鰯雲の中にあり、爆音に依りて敵機なること判明、日本機のガラガラ云ふ音と異なりて、ブルンブルンと云ふごとき振動音を伴ひたる軟らかき音なり、後部より吐く瓦斯が飛行機雲となりて中天に鮮やかなる尾を曳く、機体もスッキリしていて、美しきことを云わん方なし後略」(現代仮名遣いに一部修正して引用)
▽敵機なのに、日本人はこのアメリカから来襲してきた爆撃機を、技術力の格差から羨望のまなざしで見ていたのだ。
▽これが日本人のB−29に対する多くの思いだと筆者は指摘し、その乖離を指摘するのだ。最後は原爆まで落とされるというのに、なぜ日本人はここまで一種の憧れを持っていたのか、と筆者は読者にも問いかけていく。
▽さらにはB−29が流線型で機能美だったかも検証している。
▽本書ではB−29の開発の歴史や戦略爆撃機の思想などから紐解いて、B−29がどのように日本を攻撃していったかを丁寧に解説して、被害を受け日本人がB−29をどう見ていたか、そして戦後の日本人がどう思っていたかを解いている。発想の面白さを評価したいし、勉強になった。加害者側の爆撃機なのに、日本人は憧れを持っていたというのだ。
▽ネットにはこう本書を紹介している。
《B−29――太平洋戦争を描いた作品には必ずと言っていいほど登場する戦略爆撃機である。一九四〇年代初頭に開発され、当時としては破格の五〇〇〇キロメートル以上の航続距離を誇ったこのアメリカ軍の長距離重爆撃機は、一九四四年六月以降本土空襲を繰り返し、広島と長崎に原子爆弾を落とした。模型や爆音レコードが販売される戦時下の人気コンテンツとなったB−29は、今も『火垂るの墓』などを通して知られている。B−29はいかにして、太平洋戦争そのものを象徴する存在になったのか。豊富な資料から読み解く、B−29と日本人の歴史》
★589イオンモールで時間をつぶすおじさんたちを「イオンモール遊牧民」と呼びたい
▽最近、何かというと、イオンモールに行く。ショッピングセンターのイオンモールだ。近所のイオンモール、車で20〜30分の隣接市のイオンモール。5カ所のイオンモールを2、3日に1回は行っている。食料品の買い物もあれば、書店での立ち読みもある。完全に生活空間の一部になってしまった感じだ。そこで気づいたことがある。私のように、否、私以上にイオンに来ているおじさんが、異様に多いということだ。
▽それは今から2年前、近くのイオンモール内にあるパソコン教室に毎日のように通っていた時に気づいた。パソコン教室ではこの私のホームページを作るため、ホームページ作りの講座に通っていた。
▽1時間の講座が終わると、私はいつものように近くの書店に行くのだが、その書店前のベンチにずっと座って、iPadを使っているおじさんを見かけるようになった。毎日だった。こうやって、時間を過ごしているんだなと、妙に納得した。冬になったばかりで、寒い。自宅にいても飽きるから、イオンで時間を過ごしているのだな、と思った。
▽このiPadおじさんだけではなかった。ずっと文庫本の読書をしているおじさんもいた。
▽さらには軽装で、館内を歩き回っているおじさんいた。
▽イオンでは確かに、館内の散歩を推奨している。天気が悪い時でも、イオンモールなら、天候を気にせずに散歩が出来る。館内は広いから、絶好の散歩コースだと思った。
▽知り合いの話では、イオンモールに散歩に行く時は、着替えを持っていく人間もいるらしい。毎日の日課らしい。
▽つまりイオンモールの中には、買い物とは別にこうして時間つぶしをするおじさんたちで溢れているということらしい。
▽半日、イオンモール管内で時間を潰すのだから、居心地が良い空閑なのだろう。
▽腹が減ればレストラン街やフードコートもある。便意を感じればトイレも完備している。何の不自由はない空間だ。
▽こうなるとこのおじさんたちは、「イオンモール難民」ならぬ、「イオンモール遊牧民」とでも言えようか。
▽確かに一部のイオンモールには、イオンのゴールドカードを示せば、飛行場のカード優待室のような部屋まで用意されている。
▽これでシャワー室があれば、完璧だ。
▽今後はこのおじさんたちを、「イオンモール遊牧民」と呼んできたい。新たな新民族だ。恐るべし、イオンモール。新しい民族を造ってしまった。
★587iPhoneのバッテリー交換は純正で
▽前回の機種変更からもう4年半も経っている私のiPhoneのバッテリーが低下したため、先日バッテリー交換を行った。このiPhoneでは1年前にもバッテリーを交換しているので、2回目だ。バッテリー交換は純正のApple製品ではないと、その後の保証は行われないため、注意した方が良いことを知った。
▽Appleはホームページなどで、iPhoneのバッテリー能力が80%以下になったら交換することを推奨している。私の使っている機種はiPhone11Proというやや古い製品で、80%以下に下がり、夕方になるとバッテリーの容量が20%を切ったので、昨年6月、都内のサードパーティーの店でバッテリーを交換してもらった。
▽以前はiPhoneを2年ごとに機種交換していたが、機種交換に躊躇するようになったのは、理由がある。機種交換すると、それまでiPhoneに入れている各種アプリの再設定作業が大変だということだ。いくらパソコンでバックアップをしていたとしても、例えば銀行のモバイルアプリはネットバンキングで使うこともあるが、再設定は二重の認証作業が必要で、これが面倒くさい。LINEの再設定も大変だ。前回の機種変更で痛い目に遭っているから、機種変更に躊躇してしまうのだ。だったら、バッテリーだけ交換する方が、手っ取り早いと考えた。
▽そしてそのサードパーティーのバッテリー交換からわずか1年経ったら、またバッテリーが低下したため、今度はApple系列の「クイックガレージ」という契約店でバッテリーを交換してもらった。
▽ここで店員からくどくどと説明を受けたのは、サードパーティーのバッテリーが入っているため、修理ができるかわからない、ということだった。それでも修理を進める場合、故障する可能性もあるため、それでもいいか、固執した場合は本体を丸ごと交換するため、有償になると説明を受けた。その場合はかなりの実費がかなりかかることも説明された。
▽iPhoneは私にとって、仕事道具の一つなので、交換してもらうことになった。
▽時間にして約1時間半。交換作業は無事に終わり、iPhoneが戻ってきた。そしてiPhoneの設定を見ると、きちんとバッテリーが100%の表示になっていた。よかったと思った。
▽それまではサードパーティーのバッテリーだったので、iPhoneの設定からはバッテリー能力ををきちんと認識してくれなかった。やはり純正のバッテリー交換をしておけばよかった、と私は思った。今では古くなってしまった私のiPhoneは、まだしばらくは使えそうだ。店員も、こう言ってくれた。
▽「最新の機種と、そんなに格差はないですよ。使えるうちは使ってください」
▽円安もあって、アップル製品が高値を続けていて、しばらくは機種変更はしないだろう。
★586特ダネとスクープ、そして独自取材の違い
▽最近気になるのが、テレビ局のニュース番組などで、「独自」という表題を付けて、流していることだ。「独自」とは、独自取材」のことで、「わが社が独自に取材したニュースですよ」という意味だが、かなり安易に使われてるような気がする。特ダネ、スクープ、独自取材などの意味を考えてみたい。
▽放送番組で気になっているのは、視聴者から投稿があったドライブレコーダーの映像を出して、危険な運転を放映していることだ。これを「独自」として流しているが、いかにも安易な「独自」だと思ってしまう。
▽新聞社で「独自」と言えば、他社の取材はなく、独自に取材し、紙面化された場合、世間にも関係者にも大きな影響が与える価値のある記事のことを言う。
▽さらに言うと、特ダネとかスクープとは、そうした中でも、これを紙面化したら、同業他社が必ず追いかけるものを指す。特ダネとかスクーブと呼ばれるものだ。
▽過去で言えば、リクルート事件で川崎市助役が未公開株を譲渡されたことを朝日新聞が特ダネとして紙面化したが、その1本の記事が広がって、リクルート事件は中央政界に及び、各社は特ダネ競争の渦中に入ることになった。これこそ新聞社でいう特ダネと言っていいだろう。
▽また毎日新聞が過去の遺跡の石器を「神の手スクープ」も、特ダネと言っていい。他社は追いかける必要があった。
▽報道機関にとって、特ダネ、もしくはスクープとは、独自に取材を行い、それを紙面化したことで、各社が追いかけざる得ない内容の記事のことを言う。
▽警察や検察の捜査着手を打っていくのも特ダネだ。「警視庁、きょう逮捕へ」「地検、今夕にも強制捜査へ」も特ダネだ。捜査機関の水面下の動きを追っていく取材手法で、リークでも癒着でもない。打たれたら、他社は追いかけなくてはならない。
▽これに対して独自ダネとは、追いかけるような話でもないが、それなりの価値があるということになる。
▽それが放送番組だと、「独自」と言うのは、単なるドライブレコーダーの映像を提供してもらっただけの話なのだから、呆れてしまう。こんなものを独自ダネだと言っていることに、違和感を覚えてしまう。安易すぎる。
▽それに新聞社の場合、いくら独自ダネだとしても、見出しに「独自」という言葉は入れない。扱いを見て、読者に判断してもらう。特ダネもそうだ。他社には出ていないのが、独自ダネであり、特ダネなのだ。
▽もう一度言う。特ダネとは他社が追いかけるからこそ、特ダネなのであって、それが社会に対して一定の影響力を及ぼす内容のことを言う。新聞記者にとって特ダネとは永遠の課題でもある。
★583ポケモンカードなどの転売ヤーの実態と闇取引
▽転売して利ざやを稼ぐ「転売ヤー」についてルポルタージュした新書「転売ヤー」(奥窪優木、新潮新書)が面白い。私が想像するより大規模で、そして集団で怪しげな商行為が広がっていることに、驚きを持って読んだ。
▽ポケモンカード、PS5、羽生結弦グッズ、デイズニーグッズ転売、デパート外商の転売スキーム、格安スマホ転売など、驚くべき転売の実態をこの本はあぶり出していった。転売は商行為そのもので法律違反ではないが、その転売に至るまでの過程はいずれも危ない、違法すれすれの行為が多い。
▽ディズニーランドシーでは1人で何枚もの入場券を購入し、入場と退場を繰り返す。1人1点限りというディズニーグッズを何回も購入し、それを中国市場に向けて転売する。売る側がいろいろな制限をかけても、それをすり抜ける方法を考案し、スマホを使ってグッズを買い付ける。転売は儲かる商売なのだ。転売そのものに違法は無いのだろうが、その前後の至る手法は、マナー違反であり、ルール違反でもある。
▽この筆者は転売の集団や転売を繰り返す個人に密着し、取材し、その実態をルポした。私自身、ヤフオクで転売と見られる出品があることは何となく分かっていたが、ここまで転売の世界が広がっていることに、驚くとともに、愕然とする。そんな内容だった。
▽転売屋となって儲けたために、国税当局に目をつけられ、起訴された人間がいる。2025年2月16日付朝日新聞にはこうある。
▽《■国税局で悪夢の一年、ネットに今も「脱税容疑者」 経験者が語る
マーケティング企業でエンジニアとして働く会社員だったが、体を壊して転職を考え、選んだ仕事が「転売」だった。
▽通販サイトで仕入れた商品を別のサイトで高く売る。ただそれだけだが、収益性の高い商品を選び、サイトの購買層の違いを利用すれば、利ざやを稼げた。販売規模を拡大し、初年で年商が1億円を超えた。
▽転売で稼ぎたい人向けのコンサルティングも始めた。本来の転売業と合わせると月に数千万円を売り上げるまでになった。
▽所得税と住民税を合わせると、利益の半分以上を税金で持っていかれる事実にがくぜんとした。会社員時代は源泉徴収だったので納税している意識すらなかったが、初めて「お金が取られてしまう痛み」を強く感じた。
▽経費を水増しして利益を減らそうと自分で架空の領収書1枚をつくって顧問税理士に送ってみたところ、気づかれなかった。2枚、3枚……とどんどん数を増やし、利益を消滅させた。
▽領収書に記す取引先には、実在する会社を使った。ただ、インターネットで名前を探してきただけで、実際に取引をしたことはない。裏口座をつくり、売り上げのほとんどをそちらに入れた。
▽その結果、自身にかけられた容疑は、計約2億円に上る所得隠しと、約5千万円の脱税、だった》
《家宅捜索を受ける前に投資していた株が値上がりしたため、脱税額に加えて重加算税や延滞税、住民税などを合わせた追徴税額約1億5千万円を一括して納付することができた。
▽しかし、起訴されて執行猶予付きとはいえ有罪判決を受けた事実は残り、脱税容疑者としてネットに刻まれた自分の名前もさらされたままだ。
▽今でも進んで納税したいかと聞かれれば「ノー」だ。しかし、「日本人として日本でビジネスをする以上、払うしかない」と思う。
▽取り調べを担当した査察官に、なぜ自分を狙ったのかを尋ねたことがあった。多くは語らなかったが、「口座に1億円以上あると目を引くんですよね」と査察官は一言もらした》
▽転売で儲かっても、当局に見つかっては終わりだ。
★581新聞記事の切り抜き作業は取材の第一歩だ
▽新聞記者なのに、新聞の切り抜き作業をしていない人間がいることを知って、驚いている。新聞の切り抜き作業は、新聞記者活動の原点なのに、と残念に思う。
▽インターネット時代になり、データベースの検索作業が格段に速くなったことが大きな要因だろう。社内の記事も社外の記事も、パソコンと通信回線があれば、楽に検索が出来てヒットする。
▽だが、切り抜き作業は膨大な時間がかかる。自分の関心ある記事を自社の紙面、他社の紙面から切り抜いて、スクラップ帳に貼っていく。関心があるテーマを切り抜くだけでも、労力がかかる。
▽切り抜き作業をしなくなったのは、簡単に検索できる環境が整い、切り抜きの労力がもったいないと考えた結果だろう。
▽しかし、パソコンの検索と切り抜き作業は、根本的に決定的な違いがある。切り抜いた記事は、いつも目にすることが出来るということだ。
▽例えば、面白いと思ったコラム、面白いと思った社会面記事、これはいいと感じた政治面記事など、切り抜いて、ノートに貼っておく。時折読み返して、自分が執筆する際の参考にするのだ。
▽私はライフワークの一つとして、死刑制度問題をずっと追及してきた。死刑執行ゼロが3年4カ月続き、執行再開がされた時、読売新聞の特ダネによってその事実を知らされたが、この時の読売新聞や後追いをした朝日新聞、毎日新聞の記事も切り抜いていて、これはどこにニュースソースがあったのか、しばらく、何回も読み続けていたし、追いかけた朝日新聞の情報ルートも示していった。
▽また自分の書いた記事もすべて切り抜いてきたが、その際にはその時の取材方法や執筆に至る動機などを記していった。こういう作業こそが必要なのだ。
▽私が新聞の切り抜きを始めたのは、私が高校時代だ。自宅で読んでいた朝日新聞運動面で掲載されていたプロ野球巨人の記事だった。当時はまだ私も巨人ファンで、記事を切り抜いては、クラスメートに自慢していた。
▽大学時代は面白い記事をスクラップにしていた。これが新聞記者の原点だった。朝日新聞夕刊の特派員コラムが面白かった。南アフリカ特派員の伊藤正孝さんのコラムが抜群に面白かった。
▽ただ、新聞の切り抜きは大切な作業だったことを気づくのは、それから何年も後だった。新聞記者になって数年してからだ。自社だけではなく他社の記事でも気になるものは切り抜いた。そのうちに、この記事はどんな意味を持って記者が書いているのだろうと、深読みをするようになった。すると、記者の考え、動きが分かるようになった。
▽もう一度書く。
▽新聞記者にとって、記事の切り抜き作業は記者活動の原点だ。怠ってはいけない。
★579アマゾンで買っていた薬は市販の実に2倍の価格だった
▽ネット通販のアマゾンで薬を扱っているショップがいかにボロ儲けしていることかを、つい先日知って驚いた。通常の薬局で買う薬の2倍で販売していた。希望小売価格が全く分からなかったので、私はずっと損をしていたことになる。もうアマゾンで薬を買うのはやめようと思った。
▽私はある滋養強壮剤を30年ほど常用している。転勤族だったので、赴任した場所で、その滋養強壮剤を扱っている薬局を探して、購入し続けてきた。
▽そして10年ほど前に新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に赴任してしばらくしてから、アマゾンのネット通販に切り替えた。自宅兼事務所の佐渡支局から、その滋養強壮剤を扱っている薬局が島の反対側にあり、車で1時間もかかることから、ネット通販にした。
▽その滋養強壮剤は、1瓶に240錠入っていて、2瓶で1万5000〜1万6000円ぐらいだった。3カ月に1回、ネット注文するようになっていた。
▽埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に転勤しても、ネット通販で購入が続いた。通販は便利だ。車で買いに行く必要がないためだ。
▽朝日新聞を退職して、自宅のさいたま市に戻っても、そのままアマゾンのショップで買い続けた。
▽しかし、だった。先日、アマゾンでの在庫がなくなり、商品が買うことができなくなった。このため、製薬会社のホームページから扱っている薬局を見つけ、そこで電話注文し買いに行った。
▽値段を聞いて驚いた。耳を疑った。アマゾンのショップで買う2分の1の値段なのだ。7920円。エッと思った。何でこんなに値段が違うのか。
▽私はこの6年間、佐渡支局時代の途中から、この滋養強壮剤をアマゾンで買ってきたから、かなり損をしたことになる。ショップは暴利を得ていたことになる。1回につき8000円の差額だとすると、1年間に32000円損していた。6年間で19万2000円も損をしていた。知らないということは損だと実感した。
▽私は怒りを持ってしまった。メーカーの希望小売価格がわからないと、こういう商売が成り立つのだと私は思ってしまった。
▽アマゾンは便利だったから、ネット注文していた。地方だとネットでしか手に入らないものもあるから仕方ない面もある。しかしさいたま市に戻った今は、状況が違う。
▽もうアマゾンでこの薬を購入するのはやめよう。そう思った。
▽地方だと、こういうことが起きるということを実感した。
★577寝台急行列車、雲仙西海号の思い出
▽雲仙普賢岳の名前を拝借した国鉄時代の寝台急行列車「雲仙西海号」という長距離列車があった。今回はその話を書きたい。
▽私の父親の故郷は、長崎県の離島、対馬だ。この対馬に行くには、東京の自宅を出て、実に1日半の長い旅が必要だった。
▽当時私は家族とともに東京都練馬区に住んでいた。まだ小学校に上がっていなかった子供のころだ。自宅を出て、父親に連れられて妹と西武新宿線と中央線を乗り継いで、東京駅に着く。そして10時台の出発するこの急行寝台列車「雲仙西海号」に乗った。
▽東京駅を出て、東海道線をひたすら西に走る。まだ新幹線がなかった時代。レールの上を走るこの列車の窓際に座って、流れゆく車窓をずっと私は見ていた。子供心にわくわくしていた。
▽途中停車した浜松駅でうなぎの駅弁を買ってみんなで食った。
▽列車はゆっくり走る。大阪駅に着いたころは夕暮れになっていた。姫路駅で再び駅弁を買ってこれを夕食とした。その駅弁は2段弁当になっていて、上段におかず、下段にご飯という豪華弁当で、子供心に実に豪華な弁当だと思って食べた。
▽寝台列車は西へ西へと住み、夜になり、闇に包まれてく。山陽本線を通り、下関駅に着き、そして海底トンネルの関門トンネルに入り、九州に出た。さらに列車は西に進み、やっと博多駅に着く。これが午前8時ごろだったと記憶している。実に20時間以上の列車の旅だった。
▽対馬に向かうには、博多駅で降りて、博多港に向かい、ここから大型船に乗って、博多港から対馬に向かう。途中、壱岐島に寄って、対馬の厳原港に着く。船の旅でも6時間かかった。つまり東京を出てから父親の故郷に着くのに1日半かかったのだ。
▽現在ネットにアップされているデータでは、雲仙西海号の履歴はこうなっている。
【登場時:1950年11月】35・36列車に愛称がつき、急行雲仙号となる。 ・▽●運転区間:東京~長崎▽▽運転本数:1往復▽▽使用車両: 【1961年10月改正】急行雲仙号は急行西海号と併結運転となる。 【1968年10月1日改正】従来の急行雲仙号は廃止、京都~長崎の急行玄海を雲仙に改称。(愛称途切れず) 【1970年10月改正】季節急行ながさき号を新大阪~長崎に短縮し、急行雲仙号に統合。 【1975年3月10日改正】急行雲仙号は急行西海号と併結を開始。14系座席車全車指定のモノクラス編成。 【1976年3月改正】自由席設置。 【1980年10月1日改正】急行西海号と共に廃止。 ******************************* 【1990年12月】新大阪~長崎に20系臨時急行雲仙号を新設。(臨時特急あかつき81・82号の格下げ)。 【1994年12月】臨時急行雲仙、運転終了。
▽つまり2本の急行列車が併結となり、東京から九州に向かい、途中で切り離されて、1本が長崎に向かっていた。
▽しかし1964年の東海道新幹線の影響で東京からの発着はなくなり、大阪・九州を結ぶ列車となって、1994年に運転が終了している。
▽私にとっては、列車の中で食べた昼食と夕食の駅弁の味は、まだ記憶に残っている。列車に揺れながら、カタカタガタガタと列車の音を聞いて、東海道線と山陽線、鹿児島線を乗った旅はもう記憶の中にしかないが、鮮明に覚えている。
▽現在はブルートレインも廃止され、新幹線が全国に網羅されて、ゆっくりと走って旅を楽しむ事はもうできないのかもしれない。札幌と上野駅を結んだ特急寝台列車カシオペアや北斗星なども廃止されて、寂しい気がする。
▽それでも臨時でもいいから、ブルートレインが走ってくれたら、私は乗ってしまうだろう。
★572私のホームページ事始め
▽私が自分のホームページを立ち上げたのは2023年2月17日のことだ。それまで全く興味もなかったホームページについて、使ってみようと考えたのは、その1年前。今回はどうして始めたのかを記していきたい。
▽私は2021年8月末を持って33年5カ月勤めていた朝日新聞を退社した。それまでは地方支局でも東京本社でも取材し原稿を書き、それが翌日以降の紙面に掲載されるという生活を続けてきた。自分の書いた原稿が、翌日以降の紙面に載るというのが当たり前に思っていた。新聞は商業ジャーナリズムと見られるが、取材費も会社で持ってくれるし、やる気さえあれば、取材はできた。それが新聞社の良いとこだった。
▽しかし退社してみると、そうはいかない。原稿を書いたとしても、扱ってくれる紙媒体がないのだ。
▽その昔、私が学生時代のころ頃、ルポライターのまねごとをしていた時は、月刊誌や週刊誌などに多くのフリーライターが寄稿していた。そうしたフリーライターの仕事に憧れ、私は一時そうしたフリーライターになることを決意した。しかし原稿料だけでは生活できないことを知り、新聞記者を選んだ経緯がある。
▽退社した時、そうした昔のイメージを持っていたが、実は昔のような、そんな紙媒体は無いのだ。昔は何十冊もあった。月刊誌や週刊誌などが軒並み廃刊になり、フリーライターが発表する紙媒体は激減した。もっぱらウェブを中心とした媒体となり、逆にウェブのフリーライターが増えた。しかも原稿料は極端に安くなっていた。
▽こんな状況を知って、私はだったら自分でホームページを立ち上げて、自分の発表する場を確保したい。私はそう思い、その準備に取り掛かったのだ。
▽これが私のホームページ立ち上げの真意だ。
▽しかし私はウェブには疎くて、その経験もなかった。いわゆるオールドメディアで、活字媒体での発表しかなかった。
▽このため、私は自分が執筆中だった本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の作業と並行して、ホームページのイメージを頭の中で作りながら、1年前から準備を始めた。
▽ホームページのイメージはこうだ。
▽毎日のように自分の書いたコラムを載せていく。いわゆる毎日更新していく。そんなイメージを作って、ホームページの講座に通い、ホームページに載せる原稿の準備を始めた。毎日更新することを前提に、1年間は続けたいので、約300本の原稿を用意した。そして、ホームページを立ち上げて、毎日毎日、1本ずつコラム原稿をアップしてきた。これが今の私のホームページで、タイトルは「見た、聞いた、感じた、そして考えた▽新聞記者▽封印40年の記憶」とした。もう2年近く続いている。
▽確かに原稿を書くのは苦痛でもあるのだが、自分の書いた原稿が掲載されるのは嬉しいことだ。
▽他人のホームページならば、原稿の制約を受ける。原稿が長ければ削られるだろうし、主催者の意見に合わなければ、原稿は修正されることにもなる。自分のホームページで自分の原稿を書いた方が良い。これが私のホームページ事始めだった。
▽ただ、気をつけているのは、あくまでも客観的に書くことだ。一方的な主張は載せないことにしている。
★570遅刻した記者が記者会見でやらかすNG
▽これは酷い、と思った。記者会見での、ある記者の質問だ。既に質疑が終わっている話を蒸し返したのだ。明文化されているわけではないが、ルール違反だ。幹事社が質問を遮って止めるべきだった。
▽私は転勤族だったから、本社では官公庁の各種会見も出ていたし、地方では県庁や市役所、地元企業のいろいろな記者会見に出てきた。だから時折、「これは酷い」と感じる記者の振る舞いがある。
▽その一つが、質疑が既に完了しているのに、同じ質問を蒸し返す記者がいることだ。会見に遅刻してきた記者がよくやらかすルール違反だ。
▽既に会見が始まっているのに、遅刻してくる記者が既に出された質問を再び出してくるのだ。これは完璧にアウトだ。やってはいけない質問だ。
▽我々からすると、もうすでに質疑が終わった話なので、再び同じことを蒸し返すことになる。我々にとって非常に無駄な時間となる。回答者側はまた同じ答えをする。遅刻してきた記者は、質問するべきではないのだ。幹事社は、これを止めるべきだった。遅刻した記者は、我々の大切な時間をつぶしたことになる。
▽中央官公庁にせよ、県庁にせよ、市役所にせよ、企業にせよ、定例会見なら発表すべき項目がいくつかある。その項目に従って、発表し、記者はそれを質問する。だから、既に質問が終わってる項目などは、同じ質問をすべきではないのだ。聞きたかったら会見が終わって、その担当部局に行って質問し、取材すれば良いだけのことだ。
▽第一、だ。会見の場に遅刻するなんていうことが、記者としては恥ずかしいし、会見が始まる10分や20分前に来なければならないのだ。遅刻した記者なんか、私は信じたくない。
▽さらに言おう。
▽テレビ局の記者がよくやることだが、自分のために質問をしていることがある。質問する自分を自社のテレビカメラに映してもらい、いかにも自分が取材し、質問しているかをTVに放映したいがために質問している。あくまでも自分が主人公だという考えが見え見えだ。放映のための質問だ。これも新聞記者から見るアウトだ。
▽記者会見は記者たちと相手の官公庁や企業との質疑の場である。自分の意見を伝える場ではないし、記者が主人公でもない。これを勘違いして、自分が主人公だとして延々と自分の質問をテレビで中継してもらう。どこか勘違いしてる。
▽記者会見だけが主戦場ではない。質問したかったら、各部局に取材に行けば良いのだ。拒否されるなら、夜討ち朝駆けをすれば良い。それだけのことだ。記者会見だけですべての取材をこなそうとする発想がおかしい。
★568裁判員裁判制度はどうなっていくのか
▽司法改革の一環として始まった裁判員裁判は、どうなっているのか。そんな疑問を持ったのが、「冤罪と裁判」(今村核、講談社現代新書)という本を読んでからだ。裁判員裁判の制度設計には、まだ修正すべき点が多くあると私は思った。
▽多くの冤罪事件を担当してきた弁護士が、冤罪を生む日本の司法制度に言及したのが、本書だ。警察官が立てたストーリーに沿って容疑者の供述が次第にそのストーリーに合わせていくような仕向ける体質が、冤罪を生んでいると筆者は述べる。過去にも大きな冤罪事件があり、警察の見込み捜査、供述を変遷していく取り調べ、職業裁判官も真実を見抜けない体質など、多くの要因が重なって、冤罪が発生している。無罪がやっと確定した袴田事件を見れば、よく分かるだろう。被疑者が無実を主張しても、警察も検察も、そして裁判も認めないのだ。
▽この本の中で私が注目したのは、裁判員裁判の問題点だ。筆者は裁判員裁判が始まり、微増だが、無罪判決が出ていると指摘し、その成果がある一方で、その制度の危険性も指摘している。裁判員裁判は、参加する一般人の裁判員に負担をかけないことを至上の目的としているため、公判前整理手続をして争点を絞ってしまい、審理日程も迅速に組むことが優先されるため、「証拠を厳選するという目的で、捜査側に不都合な部分が隠蔽されることにならないのだろうか」と述べる。
▽またその公判前整理手続きでは、裁判員は参加できず、職業裁判官だけで加わっているため、裁判員と職業裁判官の間では、情報量の格差も問題だと主張している。
▽守秘義務が裁判員にあり、裁判が終わっても何も話せないことも、筆者はおかしいと指摘する。「感想」は述べてもいいが、評議の「内容」は駄目だというのだから、感想と内容の区別はどこにあるのかとも言う。
▽裁判員裁判は司法改革の一環としてスタートしたが、私は素人の裁判員が被害者感情を移入してしまい、被告に厳しい判決が多くなると心配していたが、実際はどうなっているのかも知りたい。死刑判決が多くなったのか、少なくなったのか。
▽司法改革は終わったのではなく、まだ改革を続けるべき途上にいると私は感じる。
★566特急はくたかとほくほく線、そして北陸新幹線
▽北陸新幹線が延伸し、在来線のJR北陸線が平行在来線として経営分離され、北陸線と第3セクターのほくほく線を走っていた特急はくたかがなくなって、まもなく10年になる。新潟県越後湯沢市のJR越後湯沢駅の乗り換えの改札口で溢れていた人々の光景はもはや昔の話だ。
▽私が朝日新聞東京本社から新潟県上越市の朝日新聞上越支局に赴任したのが1998年4月。その直前に第3セクターのほくほく線が開通し、越後湯沢駅と富山駅または金沢駅を結ぶアクセス特急として、特急はくたかが走り始めた。
▽東京から上越市の直江津駅に行くには、上越新幹線で越後湯沢駅まで行き、そこから特急はくたかに乗り換えた。この際、乗り換えとなる改札口は計3枚の切符が必要だった。東京から直江津駅まで行く乗車券と新幹線、そしてはくたかの特急券だ。ところがこのチケット3枚を同時に入れない利用客が多く、自動改札を通過できないトラブルが相次いだ。お年寄りが多く、困った顔をして、改札口の前に立つだけだった。特にお盆休みや年末年始の休みで人がごった返していると、この乗り換え改札口は人の列で渋滞となり、JR側はアルバイトを動員し、案内を続ける事態となっていた。
▽この改札口で溢れる人々の光景が、私には今となっては懐かしい思い出となっている。北陸新幹線の延伸で特急はくたかがなくなり、こうした乗り換えの光景も見ることができなくなったのだ。
▽特急はくたかが廃止される前日、つまり北陸新幹線が開業する前日、私は越後湯沢駅から出発した特急はくたかに乗っていた。はくたかは、在来線の上越線を北上し、六日町から第3セクターのほくほく線に入った。はくたかは速度を上げて山間部のトンネルを抜けて疾走する。在来線最高速度の160キロを維持し、走り抜ける。難工事だったトンネルも多い。途中、十日町駅に停車した後、今度は信越線に合流し、直江津駅に着いた。さらにはくたかは西に進み、富山駅などを経由して、終点の金沢に到着した。
▽翌日の北陸新幹線開業で、この特急はくたかは姿を消す。新幹線開業で並行在来線の経営分離が現実となる「ラストラン」となる瞬間だった。
▽車内放送では車掌が、最終日であることを、異例の長いスピーチで乗客に伝えていた。一九九七年三月開業からわずか十八年。東京から北陸地方のアクセスに貢献してきた特急がなくなることの未練さも、私には伝わってきた。利用者への感謝の言葉も添えていた。
▽2015五年3月13日、私はこの最後のはくたかに乗り、ほくほく線の歴史を振り返っていた。
▽私は自著本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」(東京図書出版)でこう書いた。
《ほくほく線は、第三セクターの北越急行が上越線六日町駅から信越線犀潟駅までを結ぶ単線鉄道だ。六日町といい、十日町といい、犀潟駅に続く直江津駅といい、豪雪地帯を結ぶ新潟県民悲願の鉄道だった。陸の孤島を結ぶ鉄道だった。
▽そのほくほく線の構想は開業より半世紀も前に遡る。太平洋戦争前に構想が持ち上がり、実際の計画案が示されたのはその四半世紀後。国鉄の経営悪化と分割・民営化による影響などで工事もストップするなど、紆余曲折を経て、開業にこぎ着けていた。
▽開業前、建設を続けてきた鉄建公団に取材し、現地の様子を私は見ていた。私を現地で案内してくれた職員は、特急はくたかを「スーパー特急」と表現していた。
▽この「スーパー特急」とは、整備新幹線構想で出てきた「スーパー特急」や「ミニ新幹線」とは違う意味で使っていた。
▽当時、在来線最速の一四〇キロで走ることができる特急という意味で使っていた。
「スーパー特急」や「ミニ新幹線」構想は当時、フル規格の新幹線を造らない代替策として出てきた構想だ。スーパー特急は新幹線の土台の構造物を先に造った上で、速度の速い特急を走らせて、時代の状況に応じて、フル規格の新幹線に代えていこうという計画だった。しかしその後、構想は消えてしまい、フル規格の新幹線ができることになった。ミニ新幹線構想はその後、山形新幹線や秋田新幹線で具現化した。在来線の線路を広げて新幹線サイズの標準軌にして走らせることで決着した》
《一方で国内では整備新幹線構想の推進が、自民党議員を中心に進められており、新幹線を整備する場合、いわゆる並行在来線の経営分離という難題も浮上してきた。赤字ローカル線を地元自治体に押しつけられる、という危機感も地元では出てきた。
▽私は期待と不安が混じるほくほく線の開業、という前打ち原稿を出した。
▽そして偶然にも、開業翌年の一九九八年四月、私はそのほくほく線を走る特急はくたかの停車駅である直江津駅がある新潟県上越市の朝日新聞上越支局に赴任することになった》
▽私はかつて訪れたイタリアの鉄道を例に、こんなコラムを朝日新聞に書いた。当時、ドイツで多数の死傷者を出した特急列車事故があり、その点を触れて、ほくほく線の将来を憂う内容だ。
《新潟県に昨春開業した第三セクター「ほくほく線」を走るJR西日本のスーパー特急「はくたか」は、素晴らしい乗り物だ。直江津駅を出てしばらくすると高架線に入る。どんどん加速して、在来線最高速の一四〇キロ運転が続く。運輸省規則さえ変えれば一八〇キロという新幹線並みの高速運転が可能だろう。揺れは少なく、一時間足らずで越後湯沢駅に到着する。北陸と東京を結ぶための新しいアクセス特急としての面目躍如だ。
▽はくたかのことを書いたのは、ほかでもない。ドイツ鉄道の特急ICE(インターシティー・エクスプレス)の事故で、欧州の鉄道事情を改めて考えたからだ。原因究明はもちろん大切だ。ただ、高速鉄道網を広げる中で、欧州各国が新線建設と既設の鉄道路線をうまく利用している点は評価してよい。イタリアの特急ペンドリーノも、ミラノからフィレンツェまでは既存鉄道網を利用し、そこから高架線でローマまで行く。フランスのTGVにしても、新設された鉄道路線を中心に疾走するが、既存のホームを使っている。
▽日本で悲しいのは、こうした欧州の発想が生かされていない点だ。整備新幹線は長野以北の建設が決まり、二十年後にはここ上越市にも駅ができる。となると、ほくほく線が無用の長物となる可能性も出てきた。あれほど議論されたミニ新幹線構想もスーパー特急構想も消えようとしている。
▽開業前のほくほく線を現地で取材したことがある。鉄建公団の技術者が、ここを走るスーパー特急に耐える路盤の鉄道を造る意気込みを語っていたことを思い出す。そうした努力があってこそ、鉄道は安全な乗り物であり続けるのだ。在来線でも高速運転が可能なことを示すほくほく線のはくたかが、新幹線に駆逐されることを私は恐れる》
(1998年6月8日付『朝日新聞』「ミニ時評」)
▽このコラムから17年後の2015年3月、図らずも、私が危惧したように、特急はくたかは駆逐されてしまった。
▽北陸新幹線が開業し、在来線の経営分離がスタートした。ほくほく線もその一つとして、特急はくたかは廃止され、同鉄道は新潟県の一つのローカル線に格下げされた。はくたかが走ったことで得られた鉄道収入もなくなった。完全な切り捨てだ。
▽北陸新幹線の開業でJR信越線と北陸線も経営分離された。
▽また廃止された在来線特急の「はくたか」の名称は東京・金沢間を運転する停車タイプの新幹線列車に転用された。名前は残ったが、全く違う列車になった。
▽◎参考文献「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」(原裕司、東京図書出版)
★564ヤフオクの恐ろしさ
▽ヤフオクで一眼レフのデジタルカメラ、ニコンD3の中古を購入した際のトラブルを報告しよう。ひどい相手だった。
▽メーンの一眼レフカメラとは別に、ニコンD3を購入しようと、ヤフオクで商品を選んで入札し、落札した。商品説明には「新品同様」と書かれており、その言葉を信じて入札・落札した。
▽ニコンD3はかつてフラッグシップ機と言われたカメラで、連写が出来て、一時はプロが持つカメラだった。それがニコンD4の発売などで、次第に中古商品となっていった経緯がある。私はサブマシンという位置付けで、この中古を探していた。
▽届いた商品を点検して驚いた。「新品同様」といいながら、シャッター回数が何と10万回に達していた。パソコンのMacBookProにあるアプリで確認した。10万回というのは、メーカーが推奨する限度回数にはまだ遠いが、かなり使い込んでいるカメラだ。ボディーも傷やへこみがあり、とてもではないが、「新品同様」ではなかった。
▽相手のプロフィールを見ていると、出品の多くを、「新品同様」とうたっていて、インチキ臭かった。
▽私はトラブルを避けるため、商品購入の手続きをしたうえで、相手の評価を最低の「★1」にした。
▽するとどうだろう。相手も私を「1」とオウム返しをしてきたのだ。完全な報復だった。私が最低評価をしたために、それに反発して、何の根拠もなく、評価を返してきたのだ。
▽私は「やられた」と思った。こういう人間に対処する方法が、今のヤフオクにはない。ヤフオク側は場所を提供しているだけ、という態度を取り続けている。基本的には責任はない、という態度だ。当事者同士で話し合えという立場だ。
▽だから私は泣き寝入りするしかなかった。警察に訴えても、金を支払った以上、返却する手段もなかった。たとえ裁判に訴えても時間がかかるし、金もかかるだろう。
▽こういうインチキ商売をしている人間が、ヤフオクには多数いることを知って、最初は驚いたが、元々こういう商売には、危険な罠があるということなのだろう。以前「すり替え詐欺」について書いたことがあるが、オークションのサイトを利用する際には十分な準備と、そして危険性を知った方がいい、と私は思っている。
★563自民政権に関する3冊の新書を読んだ
▽自民政権について書かれた新書を3冊立て続けに読んだ。なるほどと思ったり、そうだそうだと同感したり、こんなことを考えているんだと驚いたりもした。その3冊を紹介していこう。
▽まずは「検証 政治とカネ」(上脇博之、岩波新書)。
▽ここ1、2年、マスコミ、特に新聞紙面によく登場する憲法学者だ。政治資金規正法が欠陥だらけの法律であると知りながら、政治家を次々と告発し続ける戦う学者が書いたのが、この新書だ。抜け穴だらけの政治資金規正法と政治資金パーティー、政党交付金などの問題点を具体的に指摘している。特に自民党裏金問題では政治資金パーティーの抜け穴がありすぎて、自民党議員が国民のためではなく、議員本人のための金集めをしているのが問題だと批判した。好感が持てる内容だった。
▽次に、「底が抜けた国」(山崎雅弘、朝日新書)。
▽軍備増強を続ける自民政権の詭弁、質問にまともに答えない首相、大企業優遇、自民裏金事件、何も捜査しない検察、何も対峙しない政治部記者など具体的に列挙して、政治の底が抜けていると指摘した。今から50年後の我々子孫はこの2020年の我々をどう見ているかを問うた。日本を破滅に追いやったとみているのではないか、と筆者は問題提起する。おかしいことをおかしいと言える日本人であってほしいと筆者は願う。この本「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」の内容に同感する。
▽そして「自民党の魔力」(蔵前勝久、朝日新書)。
▽筆者は朝日新聞論説委員。自民の強さの源泉を、地方をキーワードに解いて説明した。特定の議員をターゲットになぜ選挙で強いかを解明して見せた。非自民の議員まで飲み込んでしまうアメーバー的な組織こそ、自問の強さだと筆者は強調する。かつては自治労の幹部だった人間が役所を辞めると町内会会長になり、そして自民支持者になっていくこともその強さの一つだという。ただ、自民に対する批判はなく、自民が大好き、というトーンが読み取れるだけに、残念だ。
★562高速通信G5とパケ詰まり
▽iPhoneを買い換えたため、やっと高速通信の5Gの恩恵を受けることが出来るようになった。4Gに比べると劇的な速度になっていたが、一方では場所によっては全く速度が出ないこともある。まだ完成度は高くないと感じている。
▽実際にiPhoneを持って、各地で測ってみた。通信速度を計測するアプリを入れて、駅ターミナル周辺、地方都市の駅前、電車の中、クルマの中、ショッピングモール、カフェなどで計測した。
▽この結果分かったのは、都会や大きな駅ターミナル周辺では速度が高い。田舎の駅周辺などは速度が全く出ないという実態だった。
▽乗り換え駅がある駅ターミナル周辺では、200〜500Mbpsの速度が出るのに、地方の駅周辺だと、わずか2〜10Mbpsしか速度が出ない場所もあった。新しいショッピングモールでは、かなりの速い速度は表示されたが、古いショッピングモールでは2〜10Mbpsの速度しか出ない。電車の中ではゼロとなる場所もあった。これは場所によって5G速度がきちんと供給されてない事実を示すものだ。
▽Mbpsとは、データの転送速度を表す単位で、1秒間に転送できるデータ量を表す。例えば1Mbpsであれば、1秒間に1メガビットのデータを転送出来ることを指す。
▽例えば私の自宅の家庭Wi−Fiの通信速度は30−70Mbpsで、この速度でアマゾンプライムの映画やYouTubeの動画を見るなら十分な速度だ。その速度すら出ない場所があることを、初めて知った。
▽パケ詰まりも気になる。
▽パケ詰まりとは、パケット詰まりのことで、通信が止まる現象のことを言う。アンテナバーが立っているのに通信速度が極端に遅くなる現象で、通信中のパケットロスが原因だとされる。データの送受信のどこかでパケットロスが発生すると、送受信が正常に完了できず、まるで通信が止まっているかのような体感になる。
▽その原因として、ネットでは以下のことを挙げている。
▽電波の強度が弱い場所
▽電車など乗り物での移動中にハンドオーバー(基地局の切り替え)に失敗した場合
▽災害が発生したとき
▽花火大会、野外フェスのように、同じエリアにいる大勢の人が同時にスマホで通信を行うような場合
▽通信が止まれば、買い物で電子決済が出来なくなり、社会インフラが正常に動作していないことになる。日常生活に大きな支障を来す。
▽結論として、やはり5Gは社会インフラとして大切なものとなってきたが、まだまだまだ十分に恩恵を受けていない場所がある。この事実は知った方が良い。
★560阪神大震災から30年、今も脳裏に残る神戸市の惨状
▽阪神大震災から今月17日で発生30年となった。発生初日から神戸市の被災現場に取材で入った私が現地で感じたことは今も変わらない。近代都市の脆弱性とその都市で生活してきた人々の苦しみだ。そのことを改めて強調したい。
▽私は発生時に、現地に行くために、東北新幹線で仙台まで行き、仙台空港から伊丹空港に飛び、そこからハイヤーに乗って泉佐野市に入り、ここからチャーターした漁船で神戸港に着いた。東海道新幹線が止まっており、直通できないため、使える交通を調べての乗り継ぎだった。
▽神戸のあの日の夜は今も忘れられない。メラメラとビルが燃えていた。
▽以下は私が書いた本「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」から一部引用する。
《大震災発生から一日、二日たち、地震被害の状況が次第に分かり始め、避難所を回り始めた時だ。被災者たちと私たち記者は、同じような生活状態に置かれていることに気づいた。そう、この状態を書くべきだと私は思い始めた。
▽避難所にいた身体障害者たちは、配られた弁当を食べようとはしなかった。理由は、トイレにあった。食べたら用を足さなくてはならない。しかし避難所となった体育館のトイレは、身体障害者用には造られていなかった。しゃがめないから、トイレのために食事を取る事はやめていた。汚物が詰まったままの状態のトイレはそのまま放置されていた。
▽新聞一面に行くような大災害の本筋論は別の担当者に任せて、私は現場チームのキャップとして、若い記者たちに、排便やトイレの話をかけと指示した。そして生活の知恵について材料を集めてこいとも話した。
▽震災発生数日後のことだ。今だったら誰もが通常に取材するだろうが、当時の朝日新聞神戸支局に集まった記者やデスクは、そんな発想をする人間はいなかった。私の指示を聞いていた大阪本社のデスクは、何やっているのか笑った。しばらくは避難所と避難者の生活実態を書き続けます、と私は言った。私が意図する意味が、理解できなかったようだ》
《国際都市神戸は、一方で神戸株式会社と表現されるように、開発至上主義を続けてきた。高層ビルを建てて都市化を図り、企業誘致をしていた。バブル経済に乗って、神戸の街づくりは成功した、ともてはやされていた。
▽だがコンクリートの街並みは、崩壊するとたまらない。
▽市民たちは日中、道路のひび割れた場所から漏れて出てくる水道管から水を集めて容器に入れて飲み水などに使った。まだ給水車も来なかった時期だ。夜中になると、示し合わせたようにどこからか繁華街にやってきて、その建物裏で用を足した。おしゃれな神戸を象徴するアーケード街で私が見た光景だった。
▽その中でも、一番深刻だったのは、やはりトイレ問題だった。重いテーマだった、と今でも考える。しかし排泄は汚いと言う考えが先だったから、紙面ではどうしても敬遠されがちだった。
▽戦後の日本の繁栄や都市経営のあり方に、問題提起したのが今回の阪神大震災だったと私は思っている。被災者が見た繁栄の結果がどういうものだったのか、しっかりと見届けるべきだと私は主張した。そのためのトイレ問題だった。
▽私は後輩記者たちに、都市生活で見えなかった都会の危うさが、避難所では見えてくるはずだ。それを記事にしようと呼びかけた。
▽数日すると記者たちは、下水道に通じるマンホールを利用して作った簡易トイレの話や、簡単な椅子を利用して身障者用に作ったトイレの話題などを取ってきた。これを私はどんどん出稿していった。
▽避難者の目で見た都市災害の実態を、原稿で書き続けようと自らに言い聞かせた。
▽もちろん、トイレの問題だけではなく、他のチームの記者たちと同様、避難所の実態とか、高層ビルの崩壊の話、自治体の危機管理の検証とか、様々な角度から取材し、書き続けていった。
▽ただ一つのテーマとして、トイレに絞って被災者の目で一貫して書き続けたのは、私たちのチームだけだった。避難所の中でどんな状況が生まれているか、市役所が発表する数字には、一切出てこない話だった》
▽新聞記者にとって、何が大切かを知らされた取材現場だった。
◎参考文献「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」の「D章 阪神大震災と温度差」より一部抜粋
★558埼玉スタジアムの指定管理者を外された浦和レッズ
▽サッカーJリーグ、浦和レッズのホームグラウンドである埼玉スタジアムで新年度(2025年度)から、レッズが指定管理者から外されたことが分かり、サッカー関係者に大きな衝撃を与えている。同スタジアムでの経営に参加できなくなったのだ。改めて感じるのは、埼玉スタジアムが、浦和レッズの所有物ではないという事実だった。
▽まずは埼玉県のホームページに掲載された告知から見ていこう。埼玉スタジアムの指定管理者を以下の2つの組織に指定したことを伝えた。
「令和6年度埼玉県営公園指定管理者候補者の選定結果について」
《令和6年7月8日から募集を開始した2公園(大宮第二公園及び第三公園、埼玉スタジアム2002公園)の指定管理者については、埼玉県議会12月定例会の議決を経て指定しました。 ▽つきましては、指定管理者候補者の選定に当たっての経緯等について公表いたします》
埼玉スタジアム2002公園マネジメントネットワーク
代表 公益財団法人埼玉県公園緑地協会 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4丁目130番地 代表理事 清水 匠
構成法人 一般社団法人埼玉県造園業協会(さいたま市) 埼玉ビルメンテナンス協同組合(さいたま市)
▽今年度まで指定管理者にはこの二つのグループとともに浦和レッズも入っていたのに、新年度4月からは浦和レッズが入らないことになったのだ。
▽これがレッズにとってどういう意味を持っているのかは、レッズのホームページで表明した内容から分かる。
《浦和レッズは、埼玉スタジアム2002公園(以下、埼玉スタジアム)指定管理者募集(指定期間:令和7年4月1日~令和12年3月31日)に申し込みを行いましたが、埼玉県によります審査の結果、非指名となりましたことをお知らせいたします。
令和2年(2020年)4月から今日まで、浦和レッズは埼玉スタジアムの指定管理者である「埼玉スタジアム2002公園マネジメントネットワーク」の一員として、他の構成団体様との協力のもと、埼玉スタジアムの管理、運営を行ってまいりました。(指定期間:令和2年4月1日~令和7年3月31日)
これまでの指定管理期間では、ご来場者のニーズに適したスタジアムホスピタリティの機能拡充や、美園地区を始めとしたホームタウン活動などを通じ、県民サービス向上に向けた様々な活動に取り組んでまいりました。
具体的な取り組み事例といたしましては、ご来場者へのホスピタリティ向上施策として実施した、「埼スタトイレ向上プロジェクト」と銘打った計38か所のトイレ改修の実現(弊クラブ実施のホームゲームご来場者アンケートから抽出した優先着手施策として、埼玉県と協働)や、事業性向上施策として実施した、バックスタンド壁面へのLEDリボンボード(動画看板)の設置といったハード施策。地産地消推進施策として実施した「埼スタカレープロジェクト」や、埼玉スタジアム飲食売店エリアの価値向上と、埼玉県内に店舗を構える飲食店への送客の同時実現を目的に実施した「埼スタ横丁」の整備。試合日だけでなく、非試合日の埼玉スタジアムおよび周辺の賑わい創出を目的とした「浦和レッズ×パンのフェス」、「埼スタAutumn Festival」「みんなの埼スタクリスマス(もみの木のクリスマスイルミネーション)」などのソフト施策が挙げられます。
しかしながら一方で、2020年以降の約3年間、新型コロナウイルス感染症拡大により試合やイベントの開催に制限が生じるなどし、目標として設定した収益額を確保することができませんでした。また併せて、指定管理者「埼玉スタジアム2002公園マネジメントネットワーク」の一員として、構成4団体の有機的な連携を通じた相乗効果の創出を目指したものの、団体ごとの方針や価値観の隔たりが大きく、最後までその解決に努めたものの、相乗効果という点においては十分な成果を出すことができなかったとも感じております》
▽そして最後に遺憾だと締めくくった。
▽要するに埼玉スタジアムの経営参加に失敗したということになる。
▽地元埼玉新聞はこれを受けて、10日のネット配信でこう報じた。
《サッカーJ1の浦和は8日、埼玉スタジアム2002公園の指定管理者募集(指定期間2025年4月1日~30年3月31日)への申し込みが非指名になったとクラブ公式ホームページで発表し、「このような結果となり大変遺憾」と声明を出した。
▽浦和は現行の期間(20年4月1日~25年3月31日)の指定管理者である「埼玉スタジアム2002公園マネジメントネットワーク」の構成団体の一つとしてスタジアムの管理・運営やホームタウン活動などに取り組んできたものの、新たに選定された同ネットワークから外れることになった。
▽管理期間で浦和は計38カ所のトイレ改修やバックスタンド壁面へのLEDリボンボード(動画看板)の設置といったハード施策のほか、「パンフェス」や「もみの木クリスマスイルミネーション」などソフト施策も行ってきた。一方で、20年以降の約3年間は新型コロナウイルス感染拡大により試合やイベントの開催に制限が生じるなど、目標設定した収益額を確保することができなかった。
▽声明では「団体ごとの方針や価値観の隔たりが大きく、最後までその解決に努めたものの、相乗効果という点においては十分な成果を出すことができなかった」「埼玉スタジアムのさらなる価値向上のため、主体的な立場となり管理、運営に取り組む」などと経緯について言及した》
《浦和とみられる団体に対する選定委員の意見には「管理運営に当たり、使用者・利用者に対して公平な対応が確立されているのか、指定管理者と利用者が明確に区分できているとは言い難い」との指摘があった。浦和は埼玉新聞の取材に対し「発表しているリリースが全てであり、それ以上のコメントはない」としている》
▽サッカーJリーグでレッズが埼玉スタジアムを使うのは2週間に1回だけで、そのために芝のメンテナンスを行うため、同スタジアムの稼働率は予想外に低い。このため、レッズだけを優遇することは出来ないと言う経営判断があったのだろう。
▽このヤフコメが的確な指摘をしている。
《まず埼玉スタジアム2002は埼玉スタジアム2002公園マネジメントネットワークというコンソーシアムが指定管理者となっています。で、指定管理契約は期限があるので、更新するにあたってまた応募しなければならないのですが、浦和レッズがそのコンソーシアムから離脱して単独で応募してあえなく落選したというのが今回のお話です。で、なぜ離脱したのかというと従来通りサッカーだけで使いたい浦和レッズと急に多目的化したくなった他の団体との路線対立ですね。まあ収益性を考えれば多目的化の方が断然有利なんですけど、もっと根本的な話をしてしまうとさいたまスーパーアリーナが2026年1月から改修のため休館になってしまい、最長で18ヶ月かかるかもしれない緊急事態が迫っているからなんですよね。あれに匹敵する箱は近場にはありませんし》
▽改めて言いたい。埼玉スタジアムはレッズの所有物ではない。遺憾であるなら、プロ野球日本ハムのように札幌ドームから離脱し、新たなスタジアムを建設するなどの気概を見せてほしい。殿様商売から脱却すべきだ。
★556昼酒と東京浅草の神谷バー
▽歳を取ったせいか、最近の個人的な飲み会と言うと、昼になることが多い。昼に飲み食いした方が、明るいうちに帰宅できるというのが大きな理由だ。
▽そんな中で、時折利用するのが東京・浅草にある飲食店、神谷バーだ。新型コロナウィルスの拡大も感染も収まり、国内への外国人観光客が戻りつつある中、東京・浅草はごった返すようなにぎわいになっていた。
▽そんな浅草の一等地に神谷バーがある。洋食屋のような建物で、1880年(明治13年)創業の、日本初のバーだ。
▽店に入ると、まずはカウンターで飲食するものを注文する。チケットを受け取り、テーブルに着くと、店員にチケットを手渡して、注文したものが来る。
▽まずはビールだ。しかも私はハーフ&ハーフが好きだ。そう、黒ビールと通常のビールを半々に割って、飲むビールだ。グッと一杯。友人との雑談が始まる。
▽その後の注文方法は変わっている。欲しい総菜などを店員に告げて、そのたびに現金を支払うのだ。カウンターに行く必要はもうない。ウィンナーソーセージ、チーズ、刺身、メンチカツなど、そのたびに現金を支払う方法だ。最近の居酒屋がスマホを利用してバーコードを読み取って注文する方式を採り入れているが、そんな味気ないことは、神谷バーにはない。
▽それにしても昼から店は混雑している。しかもお年寄りが多い。1人客もいればグループ客もいる。大ジョッキを片手に飲んでいる。元気なお年寄りだ。以前たまたま店の中に有名な女優がいたことも思い出した。有名な店だからなのだろう。
▽ビールの次は、「デンキブラン」だ。ウイスキーだと思っていたが、ウイスキーのようなカクテルだ。ストレートでチビチビと飲み、チェイサーで時折水を飲む。ちっょと甘く、どこか優しい。少しピリピリした味だから、「電気→デンキ」となったのだろう。
1882年に現在の「デンキブラン」の製造・販売を始めている。ホームページにはこう説明がある。
《神谷バーにデンキブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ百年の歳月が流れています。その間デンキブランは、浅草の移り変わりを、世の中の移り変わりをじっと見てきました。
ある時は店の片隅で、またある時は手のひらのなかで―▽。
電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。
さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。
それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。
デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。
あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。
大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみでした。もちろん、今も神谷バーは下町の社交場。
仕事帰りの人々が三々五々、なかには若い女性グループも、小さなグラス片手に笑い、喋り、一日の終わりを心ゆくまで楽しんでいます。時の流れを越えた、じつになごやかな光景です。
明治・大正・昭和・平成、時代は移っても人の心に生き続けるデンキブラン。
デンキブランは下町の人生模様そのものです。一口、また一口とグラスを傾けると、時がさかさに動いて、見知らぬ時の見知らぬ人に逢えそうな、そんな気がしてくるのです》
▽こうやってウンチクに傾けながら飲むデンキブランで、少しずつ酔っていく。昼酒は年寄りにはありがたい。
★554朝日新聞の退職と私の決意
▽私は2021年8月を持って朝日新聞を退職した。予定より2年早かった。本来は2023年8月まで勤務するつもりだったが、会社側の都合で辞めた。退職してから、40年間の新聞記者生活を振り返り、本を出す準備をしていた。それが本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」として完成したのは、2023年3月だった。退職してから1年半が経っていた。もし、2年遅く退社していたら、この本を出すことは出来なかったかもしれないと、今は思っている。今ではもっと早く辞めれば良かったと思っている。
▽2023年8月まで働いていたら、この本を出すのはもっと遅れていたはずだ。歳をとれば、執筆意欲もなくなるから、ちょうど良い退社だったのかもしれない。
▽私の大先輩で元朝日新聞の編集委員だった人間が私にこう言ったことがある。
「新しいライター業を始めるなら、早いうちに新聞社を辞めたほうが良い」
▽この人も50歳過ぎで辞めて、作家活動に入っていった。
▽その言い分を私は今実感する。
▽長い間、新聞記者を続けていると、中央当局や地方自治体と同調するような考えが身についてくる。特に警察回りがそうだろう。容疑者がいつ逮捕されるかばかり注視して取材するから、その逮捕が冤罪だとする発想が出来ない。袴田事件では当時の毎日新聞記者が自慢話を書いた本を読んだことがあるが、冤罪だとする考えは全くなかった。
▽企業内ジャーナリスト、つまり朝日新聞記者のように組織に守られている記者は、意外に世間を知らない。朝日新聞記者なら、朝日新聞という組織内の論理でしか物事を見ない。私は会社を辞めてからそれを非常に実感できるようになってきた。物事を批判する考えが戻ってきたような気がするのだ。
▽企業内ジャーナリストは組織が記者を守ってくれるという強い部分があるが、と同時に、弱い部分がある。それは会社での見方しかできないと言うことだ。
▽朝日新聞の一部の記者はエリート意識も強く、自尊心も強い。そして給料も良い。それは当然だと思っているが、そうした権益や領域が破られようとすると、途端にエリート新聞記者は弱くなる。そして一部の人間を攻撃するようになる。
▽本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」でも書いたように、取材現場は地方にある。中央にはない。そのことにエリート記者は気づかない。だから地方への転勤は拒否するし、辞令が出ると簡単に辞めていく人間が後を絶たない。笑ってしまう。
▽些細なことだが、例えば新聞記者ならば、取材経費のほとんどは会社が出してくれる。電車、タクシー、ハイヤーの移動費は最終的に会社負担だ。ある市民集会の取材にハイヤーで来た朝日新聞記者がいた。市民運動のメンバーは地下鉄で移動しているのに、その記者はハイヤーで会社に戻った。こういう風景を、当の記者はどう見られているか、分かっていない。市民運動に寄り添うと言いながら、同じレベルではないことに気づいていない。
▽会社を辞めれば、こうした移動費用は自腹だ。そのことすら、分かっているようで、分かっていなかった。
▽私の場合は北海道新聞を経て朝日新聞に入社したが、退職した当時は、朝日新聞記者の見方をしていた。それが次第になくなり、もう少し冷静な目で社会事象を見ることになった。そして朝日新聞の弱点や、朝日新聞記者の弱いとこも見えるようになった。
▽今後私は記録作家として、社会事象や新聞記事の解説・批判などジャーナリストとしての活動を今後も続けたいと思っている。
▽もう一度言う。2年早く辞めてよかった。ギリギリだった。
★551朝日新聞を退職後に私が決めた三つの目標
▽私は2021年8月を持って、朝日新聞を退職した。北海道新聞に7年間、朝日新聞に33年間務めた。退職にあたって、私は三つの目標を決めた。今回はその三つの目標について記したい。
▽一つは私の40年間に及ぶ新聞記者の総括をすることだった。東京本社勤務よりも地方勤務の方が長かった。事件事故もかなり経験し、地方議会や地方行政のインチキさも目の当たりにした。こうした経験から得たのは、取材現場は地方にあるのであって、中央にはない、ということだった。これを総括するために1年間かけて書いたのが、私の本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」だった。詳しくはこの本を読んでもらいたいが、連続幼女誘拐殺人事件に始まり、朝霞事件判決、死刑囚との対話、国労問題、国鉄の分割・民営化、社会党の躍進と衰退、小樽運河問題など、私の40年間の記者生活の結論が出ている。
▽二つ目が、ホームページを作ることだった。紙媒体の活字文化が衰退する中で、自分の書いた原稿をどこに載せるのか、考えた。
▽昔だったら、フリーライターの記者は、月刊誌や週刊誌に原稿を書き、連載した文章を書籍化し、生活費を稼いでいた。しかし、インターネットが発達すると、こうした紙媒体の活字、つまり、週刊誌や月刊誌、さらには新聞や書籍までが部数を激減させている。つまりかつてのフリーライターが主戦場だった紙媒体の活字の世界が次第に狭まっているのだ。
▽これが私が自分でホームページを作成することを選んだ理由だった。
▽他人のホームページではなく、自分でホームページを作成することで、私が取材した原稿を載せていく。制約はないのだ。
▽さらに言うと、今のインターネットの世界で、フリーライターの原稿料は異様に安いことも理由だった。私が新聞記者の前にフリーライターの真似事をしていた時代、原稿料は400字詰め原稿用紙での原稿料は1000円から1万円だった。20−30枚書いたなら、2万円から3万円、高ければ20万円から30万円になっていた。
▽それがどうだろう、今のインターネット上の原稿料は1文字で0.1円。400字詰め原稿用紙にしてもたった40円にしかならないのだ。とてもではないが、生活できる値段ではない。
▽それにインターネット上での原稿はだれも監修する人間がいないためか、または監修するにしても承認図売りせいか、文章も遂行されていない。下手だし、やたら長いだけ。それだったらば自分でホームページを作っても変わらないのではないか。そう思った。
▽もちろん、自分のホームページに原稿書くのだから、原稿料は無料である。
▽これが私のホームページ作成の理由だ。2カ月ほど地元のパソコン教室に通い、ホームページ作りの勉強した。
▽そして昨年、つまり2023年2月17日から始めた。なぜ2月17日かというと、上記の本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の発行日が3月17日だったので、その1カ月前にスタートと決めていたためだ。土日曜日を除いて、ほぼ毎日、私の新しい原稿を書いて載せている。すでに400本を超えている。
▽三つ目の目標としたのは、インターネット上のSNSでも発信していくことだった。ツイッター(現X)にほぼ毎日、自分の文章をアップすることにした。
▽これは毎日届く朝日新聞を読んで、新聞記事を引用しながら、私の考えを書いていくというトーンの投稿を続けている。これは2023年1月から始めている。
▽インフルエンサーのようなフォロワー数は全くないが、発言を続けることで、時代に「否」をアピールする手段として使っている。
▽以上の三つが、私の退職後に始めた目標だった。これは今でも続いている。
【再掲載】★412改めて感じる安倍晋三という人間の危険性
▽2冊の本を読んで、改めて感じるのが、安倍晋三という詭弁に満ちた人間の正体だった。日本がこの10年で政治的、経済的、国際的危機に陥ったのは、この人間が馬鹿なことをしたためだった。
▽「詭弁社会」(山崎雅弘、祥伝社新書)と「安倍晋三の正体」(適菜収、祥伝社新書)だ。
▽前者は安倍、菅、岸田政権が国民に対して行っているのが、説明責任という名の詭弁である、ということを紐解いた内容だ。それはアジア太平洋戦争末期の東条英機が詭弁を巻き散らかして、国民を戦争に駆り立てた論理と同じだと筆者は断言する。そしてその自民政権の詭弁を見抜けない政治記者も批判している。
▽筆者を知ったのはX(旧ツイッター)の投稿で、数々の詭弁を論破している人物だ。
▽後者は安倍が首相時代に行った言動を具体的に検証し、批判した内容だが、外交も経済も政治観も憲法観も全部がデタラメで、ウソにウソを重ねてきたことがよく分かる。テレビに対する言論弾圧も平気で行い、統一教会にはズブズブの関係でそして射殺された。この男に日本を任せたために、日本は最悪の国になってしまった。権力を私物化し、独裁国家を作ろうとした。安倍を取り巻く人間も酷い。こんな論調の本だ。
《安倍の最大の特徴は、すぐにバレる嘘を平気な顔でつくことだ。嘘がバレても嘘を重ねてごまかすか、現実の方を修正する。その結果、周辺にデマゴーグの類が集まってきた》
▽この指摘に尽きる。歴史も勉強していないし、虚言癖は昔からあった。
▽とどめの指摘は、安倍の教養のなさ、マナーのなさだ。
▽国会答弁で、安倍は「云々」を「うんぬん」を読むことができず、「でんでん」と読んだ。この点も取り上げて、
《要するに日本語に対する愛がない》
と批判した。
《結局安倍は、日本という国と折り合いがつかなかったのだと思う。
▽だから伝統や文化を拒絶する。食事のマナーも幼児レベルだった。
▽箸をきちんと持つことができないし、犬食いで、迎え舌。「犬食い」とは「犬のように食事をする」形態を指す。前屈姿勢で顔のほうを器に近づけていく。「迎え舌」は食事の際、口を開け、舌を出して食べ物を迎えに行くうマナー違反のこと。
▽ネットで「犬食い」「迎え舌」を検索すると、安倍の写真が上のほうに出てくる。つまり、安倍は食事マナーが最悪の人間の代表として、一般に認知されているわけだ。こうした人間が世界中を飛び歩き、食事会に招かれていることを考えると、背筋が凍りつく》
▽そしてやはり気になるのは、こうした詭弁とウソを繰り返す安倍政権を政治部記者がキチンと報道していたかということだ。詭弁とウソを見抜けなかったとしか言いようがない。それが新聞、テレビの政治部記者だ。
【再掲載】★509総選挙報道に見る新聞記者の劣化
▽私は埼玉県に住んでいるので、朝日新聞も毎日新聞もそれぞれ埼玉地方版を読んでいる。ここ1〜2年、感じるのは、地方版での記者の劣化だ。まともに地方をウォッチしていない記者が一定数いるという事実だ。新聞というジャーナリズムに私は危機感を覚えるようになっている。
▽私は記者生活40年のうち、多くの地方支局で取材してきた。その経験からいうと、地方記者の最大の仕事は、地方政治、地方政権の構造の変化をウォッチすることだ。それが朝日新聞も毎日新聞も出来ていない。
▽2024年10月27日に投開票された衆院選の期間中の各紙を読んで、毎日新聞と朝日新聞にはガッカリさせられた。
▽私は選挙終盤戦での紙面の感想をX(旧ツイッター)でこう指摘した。
《総選挙で毎日新聞がひどい。埼玉地方版は各区の情勢を簡単に書いただけで、あとは候補者紹介と選挙の争点をまとめただけ。肝心の選挙区ルポはなかった。区割りが変更し、選挙構図がどう変わったのか読みたいのに。問題意識高い系の記者があっちの方向の取材ばかりして、選挙取材を放棄している》
▽この意味をもう少し説明しよう。
▽例えば埼玉14区。埼玉県選挙区は10増10減の影響で、選挙区が15から16に増えて、選挙区割りが変更になった。これに伴い、それまでの選挙区が越谷市と草加市の両市区が分割されて、越谷市が川口市の3区域と一緒の埼玉3区となり、草加市が周辺の八潮、三郷市とくっついて、新14区となった。
▽この14区に公明新代表の石井啓一が初挑戦し、国民民主の鈴木義弘に大差を付けられ、比例復活もしていないため、落選している。この選挙区は自民が公明との選挙協力で候補者を立てず、公明に投票するよう呼びかけていたが、うまくいかなかった。草加市は県議選選挙区では公明候補の連続当選が続いていて、公明票が期待出来るはずだったのに、落選したのだ。まさに区割り変更で起きた新代表落選のニュースだ。
▽選挙期間中は、朝日新聞は埼玉地方版でこの選挙区のルポを取り上げていた。注目の選挙区だったためだ。
▽しかし、毎日新聞は注目の選挙区のルポなど全く取材していなかったし、紙面化されなかった。紙面で見たのは、計16区の簡単な情勢と、全候補者の紹介記事、そして国政選挙で争点となる一般論の記事だけだった。
▽ここまで毎日新聞は力がなかったのかと私は思った。
▽私の大先輩はこう言ったことがある。
「選挙ルポを書かせれば。その記者の力量が分かる」
▽私も記者になって、そう思うようになった。毎日新聞にはそうした記者がいなかったことになる。
▽そして問題なのは、総選挙の期間中なのに、一部の記者が選挙とは関係ない記事を長々と書いて紙面化していたことだ。選挙とは日々、情勢が変わってくる。それをウオッチするのが地方記者の役目なのに、それを放棄しているのだ。いくら狭山事件の集会が大切だとしても、選挙期間中に自分の担当選挙区から出ていくのはいかがなものかと私は思った。狭山事件の取材はするなと言っているのではない。選挙期間中に自分の与えられた仕事の意味が分からないのか、と指摘しているのだ。お粗末すぎる。
▽例えば、私がかつて勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局で総選挙があったとしよう。そんな選挙の期間中に、私のライフワークの一つである死刑制度問題について死刑廃止集会が東京であったとする。佐渡での選挙取材を放棄して東京に出張し、その死刑廃止集会の取材をして、新潟地方板にその話を記事にすることがあるだろうか。あり得ない。こんなことがサラリーマン記者として許されるのだろうか。デスクもよく許した。
▽こんなあり得ない話を、毎日新聞埼玉版の記者は平気で行っていて、肝心の選挙ルポは全く載せていない。担当している地域とは関係ない取材をしていることが、どういう風に読者に見られてるだろうか。
▽朝日新聞もひどい。県南西部、県南部、県南東部の選挙区に、それぞれのベテラン担当記者がいるのだが、取材した形跡がないのだ。地道な選挙取材を放棄していた。これもがっかりさせられた。
▽最後に総選挙開票で気になったこともあって、Xにこう書いた。
《埼玉五区は枝野が圧勝。法相牧原は比例区復活の可能があるのに、朝日新聞も毎日新聞も速く「選挙区で落選」と打った。朝日新聞の社内ルールでは復活の可能性があるため締切時間が早い時間帯では選挙区での「落選」とは打ってはいけないはずなのに。予定稿を書かせたデスクも記者もだめだな》
《牧原の復活当選がないのは、日付を超えて28日午前2時ごろ。ここで初めて、「落選」と打てるのに。毎日新聞は28日の社会面で速報した「牧原、選挙区で落選」をそのまま載せた。復活当選の可能性がある時間帯なのに。午前2時といえば、降版時間が過ぎている。読者に失礼だ》
《記者としての劣化。復活当選の意味が分かっていない。毎日新聞並みにレベルが落ちた。その点、NHKは「落選」とは打たなかった》
▽地方の記者が劣化している。深刻だ。
★550地方紙は中央紙に負けたか・その3
▽全国紙の新聞の部数が各紙激減している中で、むしろ奮闘しているのは地方紙ではないのか、と最近思うようになっている。全国紙ほど部数減がないのだ。理由ははっきりしている。地方の読者を、しっかりと引き留めているからだ。一方の全国紙、特に朝日新聞は地方の読者離れを加速させている。
▽朝日新聞は2022年ごろから、地方支局の取材網を大幅に縮小し、全国紙というブランドを捨てる戦略に出ている。私がかつて勤務していた埼玉県を見ても、複数の記者を配置していた川越市の西埼玉支局、越谷市の東埼玉支局を廃止した。そのほか一人支局の川口、久喜、秩父なども順次廃止している。
▽その結果、何が起きたか。そう、地方の自治体の不祥事や事件、市議会のおよそ民主主義とは呼べない出来事を紙面にすることはなくなった。
▽私は2021年8月で朝日新聞を退職し、現在は埼玉県に住んでいる。地元で販売される朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、地元の埼玉新聞などを読んでいると、紙面に明確な違いが出ている。朝日新聞は地方の市議会、地方自治体の問題がほとんど載らなくっている。担当者はいるのだろうが、かなりサボタージュをしているとしか思えない紙面作りだ。ある市役所で不祥事が起きたり、市議会で問題が起きても、朝日新聞に載っていないことが多い。これに対し、地元の埼玉新聞は丁寧に追いかけている。
▽つまり朝日新聞だけを読んでいる限り、埼玉県での地方自治の不祥事や市議会の問題は全くわからないという状態になっているのだ。本来なら、地方自治問題を追わなくてはならない担当記者が、それをフォローしていない。そして、それをよしとしているデスクがいる。
▽朝日新聞はなぜこんな紙面作りにする決断をしたのだろうか。お粗末すぎる。地方での不祥事を扱わないという事は、新聞という監視役がいなくなり、自治体の不祥事は拡大していく。監視する新聞が必要なのに、朝日新聞はそれができていない。
▽こうなってくると朝日新聞は地方で、地方紙との戦いに負けたことになる。それと並行して、地方での部数が急激に減っていることを、朝日新聞幹部は考えていない。
▽朝日新聞の現場の記者も編集幹部も、危機感を持った方が良い。
▽逆に言えばこの時代になって、地方紙は全国紙に負けていないのだ。残念だが、地方で生き残るのは地方紙なのかもしれない。
★548毎年寂しくなる年賀状作り
▽今年も何とか年賀状作りを終えた。老人ホームにいる母親の容体が悪いとして、「看取り」の体制に入ったため、年賀状を出すか出さないか迷った末の、年賀状作りだった。母親が万一亡くなれば、年賀状をやめて、お悔やみのはがきを出すことも考えていた。
▽にしても、と思った。
▽今年も寂しい年賀状作りになった。年年、年賀状を交換していた人たちが高齢や病気で亡くなっており、今年もそうなった。次第に出す枚数が減っているのだ。最盛期に比べて半分になっている。
▽今年の正月に年賀状の返事が来なかったかつての上司2人への年賀状はやめたし、元々届いていなかったかつての上司や取材の関係者へも出すのをやめた。乳がんの再発で連絡すら取れなくなっている女友達にも出すのをやめた。
▽こうして次第に、出す年賀状が減っていく。ここ2年はあれだけ頻繁に連絡をしてくれた人間にすら出さなくなっている。次第に忘れ去られていく。次第に完全に付き合いがなくなっていく、という訳だ。
▽ただし、一方で返事をくれない人もも出した。義理というか、生存証明という意味で出し続けている。高校時代の先輩は、自分の娘が数年前に病死したことを理由に、年賀状を出すのをやめたと最近、教えてくれた。
▽年賀状ではなく、クリスマスカード送ってくれる人もいる。
▽昨年の末、私は年賀状を出す代わりに、クリスマスカードの一環として、私の自著「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」を送ってみた。すると感想文を書いた丁寧な手紙を送ってくれたた人もいた。
▽最近はインターネットのメールで年賀状を送る人も増えている。これも時代なのかもしれない。
▽私としては、お互いの生存証明でもある年賀状は、まだ続けていきたいと思っている。もらう楽しみもある。
▽はがきの値上がりで、年賀状が半減しても、支払う郵便代金は同じであるのは皮肉なことだ。
★547毎日新聞の購読契約を解除するしかないのか
▽長らく購読していた毎日新聞の契約を今年いっぱいでやめようと考えている。学生時代からずっと朝日新聞とともに毎日新聞を契約してたので、私にとっては大きな決断となる。
▽学生時代は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞を契約し読んでいた。社会人になってからも変わらず、多い時は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞、日本経済新聞も取っていた。日経流通新聞も取っていた時期がある。地方勤務していた時は、地元紙も取っていた。しかし退社し、金銭的な余裕がなくなり、次第に一部契約を解除して、現在は朝日新聞と毎日新聞だけだ。
▽私は33年間朝日新聞に勤務していて、朝日新聞の契約を解除する考えは今のところない。いろいろこのホームページで苦言を呈したり、批判もするが、日本の新聞の中ではまだ朝日新聞がジャーナリズムとしてはトップを走っていると考えているためだ。また毎日新聞は学生時代から読んでいて、親和性もあり、ずっと契約してきた。特に「記者の目」シリーズは、学生時代から読み応えがあり、好きなページの一つだった。ロッキード事件報道でも、毎日新聞は他社に比べて群を抜いていた。だから私は学生時代、最初に就職試験を受けた新聞社は毎日新聞だった。ただし、入社試験で落ちた。
▽その学生時代から親和性がある毎日新聞の購読契約をやめるのは、かなり慎重になっていたが、やはり最近の毎日新聞を読むとつまらないことが大きい。特に地方版が酷い。
▽私は自分のホームページにこんなコラムをかつて書いている。
《▽私は記者生活40年のうち、多くの地方支局で取材してきた。その経験からいうと、地方記者の最大の仕事は、地方政治、地方政権の構造の変化をウォッチすることだ。それが朝日新聞も毎日新聞も出来ていない。 ▽2024年10月27日に投開票された衆院選の期間中の各紙を読んで、毎日新聞と朝日新聞にはガッカリさせられた。 ▽私は選挙終盤戦での紙面の感想をX(旧ツイッター)でこう指摘した。 《総選挙で毎日新聞がひどい。埼玉地方版は各区の情勢を簡単に書いただけで、あとは候補者紹介と選挙の争点をまとめただけ。肝心の選挙区ルポはなかった。区割りが変更し、選挙構図がどう変わったのか読みたいのに。問題意識高い系の記者があっちの方向の取材ばかりして、選挙取材を放棄している》 ▽この意味をもう少し説明しよう。 ▽例えば埼玉14区。埼玉県選挙区は10増10減の影響で、選挙区が15から16に増えて、選挙区割りが変更になった。これに伴い、それまでの選挙区が越谷市と草加市の両市区が分割されて、越谷市が川口市の3区域と一緒の埼玉3区となり、草加市が周辺の八潮、三郷市とくっついて、新14区となった。 ▽この14区に公明新代表の石井啓一が初挑戦し、国民民主の鈴木義弘に大差を付けられ、比例復活もしていないため、落選している。この選挙区は自民が公明との選挙協力で候補者を立てず、公明に投票するよう呼びかけていたが、うまくいかなかった。草加市は県議選選挙区では公明候補の連続当選が続いていて、公明票が期待出来るはずだったのに、落選したのだ。まさに区割り変更で起きた新代表落選のニュースだ。 ▽選挙期間中は、朝日新聞は埼玉地方版でこの選挙区のルポを取り上げていた。注目の選挙区だったためだ。 ▽しかし、毎日新聞は注目の選挙区のルポなど全く取材していなかったし、紙面化されなかった。紙面で見たのは、計16区の簡単な情勢と、全候補者の紹介記事、そして国政選挙で争点となる一般論の記事だけだった。 ▽ここまで毎日新聞は力がなかったのかと私は思った。 ▽私の大先輩はこう言ったことがある。 「選挙ルポを書かせれば。その記者の力量が分かる」 ▽私も記者になって、そう思うようになった。毎日新聞にはそうした記者がいなかったことになる。 ▽そして問題なのは、総選挙の期間中なのに、一部の記者が選挙とは関係ない記事を長々と書いて紙面化していたことだ。選挙とは日々、情勢が変わってくる。それをウオッチするのが地方記者の役目なのに、それを放棄しているのだ。いくら狭山事件の集会が大切だとしても、選挙期間中に自分の担当選挙区から出ていくのはいかがなものかと私は思った。狭山事件の取材はするなと言っているのではない。選挙期間中に自分の与えられた仕事の意味が分からないのか、と指摘しているのだ。お粗末すぎる。 ▽例えば、私がかつて勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局で総選挙があったとしよう。そんな選挙の期間中に、私のライフワークの一つである死刑制度問題について死刑廃止集会が東京であったとする。佐渡での選挙取材を放棄して東京に出張し、その死刑廃止集会の取材をして、新潟地方板にその話を記事にすることがあるだろうか。あり得ない。こんなことがサラリーマン記者として許されるのだろうか。デスクもよく許した。 ▽こんなあり得ない話を、毎日新聞埼玉版の記者は平気で行っていて、肝心の選挙ルポは全く載せていない。担当している地域とは関係ない取材をしていることが、どういう風に読者に見られてるだろうか》
▽私の周囲を見ても、朝日新聞を退社した途端、朝日新聞は契約しているが、他社は契約を止めているという朝日新聞OBが多かった。そして驚くことに、あれだけ新聞が好きだった私の先輩は、ついに朝日新聞すら契約を解除したという。年を取ると、新聞すら読まなくなっていくのかな、と私は愕然とした。
★544ナベツネ死去と読売新聞の功罪
▽ナベツネが死去した。今年(2024年)年12月19日の各マスコミが伝えていた。渡辺恒雄(わたなべ・つねお)読売新聞本社代表取締役主筆。98歳だった。世間では「ナベツネ」の通称名で通っている。日本の戦後政治、特に自民党政治に強い影響力を持ち、言論界に悪い意味で大きな影響を与えた。
▽まずはその読売新聞が伝えた死去のニュースから見ていこう。
《渡辺氏は東京都出身。東京大学を卒業後、1950年、読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆に就任した。2002年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆を2年近く務めた。その後、同会長・主筆を経て、16年から現職にあった。
全国紙としての基礎を確立し、発行部数を日本一、世界一に押し上げて「販売の神様」と称された故・務台光雄名誉会長の下で経営を学んだ。渡辺氏の社長在任中、読売新聞の発行部数は1994年、初めて1000万部を突破した。2001年1月には、1031万91部の最高部数も達成している。
渡辺氏は、読売新聞の論調として、中庸で現実的な視点に立った自由主義的保守路線を確立し、数々の「提言報道」で、言論機関としての新たな境地を開いた。特に1994年には「憲法改正試案」を発表し、自衛力保持や環境権の新設、憲法裁判所創設などを明記し、それまでタブー視されていた憲法論議に大きな一石を投じた。
99年から2期4年間、日本新聞協会会長を務め、活字文化の振興や、戸別配達維持による健全な販売競争の実現に尽力した。2000年には、54年ぶりに新たな「新聞倫理綱領」を制定。「人権の尊重」を新たに項目に立てるなど、すべての新聞人が守るべき基本精神をうたい、報道界の倫理水準向上に貢献した。また同年、読売新聞の報道・言論活動の方向性を定めた新しい「読売信条」で、世界の平和と繁栄に貢献する「国際主義」などを打ち出した》
《1996年から約8年間、読売巨人軍オーナーを務めた。大相撲の横綱審議委員会委員長や、政府の財政制度審議会委員、有識者会議「情報保全諮問会議」座長などを歴任した。96年から98年までは政府の行政改革会議の委員として、当時の1府21省庁を1府12省庁に再編する報告書のとりまとめに尽力した。
中曽根康弘氏、安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相と親交が深く、政界はもとより各方面に強い影響力を持っていた。
2007年には、言論・新聞事業を通じて社会文化に顕著な功績のあった新聞人に贈られる新聞文化賞を受賞。08年の秋の叙勲では、「多年にわたり新聞事業に携わり、業界の発展に尽力するとともに、報道文化の発展に貢献した」などとして、旭日大綬章を受章した。
また、1996年には、フランス政府から芸術文化勲章最高位の「コマンドゥール」を授与され、2007年には、第54回カンヌ国際広告祭の「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれた。
晩年にはNHKの長時間インタビューに応じ、内容は20年から21年にかけて、「昭和編」「戦争と政治」「平成編」と3回にわたって放送され、大きな反響を呼んだ。今年5月には若き日に執筆した「派閥と多党化時代」が復刊された》
▽ナベツネの新聞だから、思い切りの賞賛をしているのは仕方ない。
▽ナベツネに関しては、「渡辺恒雄 メディアと権力」(魚住昭著)が詳しいので割愛する。また2020年8月にNHKが放映した「NHKスペシャル 渡辺恒雄」も見応えのある番組だった。大越キャスターがインタビューして、戦後の自民党政治と首相、内幕を語らせた。ナベツネも戦争体験を語り、それが歴代の大物政治家との付き合いの原点になっているという。軍隊体験し、共産党入党、自由主義者の首相への取材と接近、岸信介と安保改定、内密があったのに首相になれなかった大野伴睦の涙、日韓秘密協定と特ダネ。NHKキャスターだった磯村も登場させ、さらにはあの毎日新聞西山に証言させた。中曽根を改心させて、角栄の支持を得て首相になったという。角栄と中曽根の戦争体験まで入れた。ふーんと思った。
▽私は北海道新聞に7年間、朝日新聞に33年5カ月在籍していたが、同じ新聞業界の中でも読売新聞は常に対極の論調を続けていた。自民党政治寄り、保守的、そんなイメージが強かった。これもナベツネの影響だろう。一方では昭和30年代、40年代の読売新聞は、社会部が各種キャンペーンを行い、社会部から花形記者が多く生まれていった。本田靖春もその一人だろう。しかしそんなイメージは今は全くない。
▽朝日新聞が吉田証言で訂正とお詫びを出し、その朝日新聞を叩くために、読売新聞は小冊子を販売店に配って朝日新聞批判を徹底に行った。しかし、朝日新聞の部数が微減したと同時に、読売新聞も部数を減らしてしまい、その攻撃をやめた経緯もある。私にとって読売新聞は敵だった。
▽私が朝日新聞浦和支局時代に起きた連続幼女誘拐殺人事件では、読売新聞の誤報が特に目立った。既に「事件に強い読売新聞」は過去の話だった。
▽そんな読売新聞に対して私が抱くイメージは、部数が多く、影響力は大で、自民政治に取り入れられた新聞というイメージだった。その先頭に立っているのがナベツネだった。社内で異論を排除する姿勢にも疑問が多かった。「清武の乱」はその象徴だろう。
▽だから私の読売新聞に対するイメージはナベツネとともに悪い。
★539共同通信の誤報問題と取材分担
▽共同通信の靖国神社参拝にめぐる誤報は、編集幹部の処分が発表されて、一応の終止符を打った。同業他社と協力しての取材で裏取りをしなかったためだというが、こうした取材はよくあることなので、注意が必要だというのが、教訓と言えば教訓になる。
▽まずは経緯を朝日新聞の記事から見ていく。
《共同通信は25日、生稲晃子外務政務官が2022年8月15日に靖国神社に参拝したと報じた記事について、「生稲氏は参拝しておらず、誤った報道となった」と加盟社に訂正記事を配信した。▼国際面=韓国が独自に追悼
▽訂正記事では、「国会議員の出入りを取材する過程で生稲氏が境内に入るのを見たとの報告があったが、本人に直接の確認取材をしないまま記事化した」としている。
▽生稲氏が今月24日、報道各社の取材に対し、参拝を否定したことから当時の取材過程を調べたといい、「当日参拝した複数の自民党議員が共同通信に『生稲氏はいなかった』と述べた」として、本人が否定していることと併せて、報告は見間違えだったと判断したという。
▽生稲氏は、新潟県佐渡市で24日に日本側の主催で開かれた「佐渡島(さど)の金山」の追悼行事に日本政府を代表して出席。全労働者の追悼行事だったが、韓国メディアが生稲氏が過去に靖国神社に参拝していたと報じたことなどから、韓国政府関係者らが参加しない事態になった。今回の報道について、同社は訂正記事で「日韓外交に影響した可能性がある」とした。
▽同社は高橋直人編集局長名で「生稲議員をはじめ、新潟県や佐渡市、追悼式実行委員会などの地元関係者、読者の皆さまにご迷惑をおかけし、深くおわびします。取材の在り方を含めて再発防止策を徹底します」とのコメントを出した。
▽一連の問題で、生稲氏も朝日新聞の取材に対し「私は22年8月15日に靖国参拝はしておりません」と答えていた。
▽25日の共同通信の記事訂正後、外務省幹部は「韓国側も白黒ついて誤解だったことがはっきりわかった。日韓関係全体にはそこまで影響はない」との見方を示した。
▽一方、韓国外交省は共同通信の訂正記事について「承知している」としたうえで、追悼行事への不参加について、日本側の追悼の辞の内容などが「佐渡島の金山」の世界文化遺産登録時の合意の水準を満たしていないことが「重要な考慮事項だった」と説明した。
▽世界遺産への登録を巡り韓国側は、朝鮮半島出身者を含む全労働者の追悼行事を開くことなどで受け入れた経緯がある。外交省は不参加の理由が靖国問題だけでなく、追悼行事のあり方への不満もあったことを示そうとしたとみられる。(山岸玲、里見稔、ソウル=貝瀬秋彦)》(2024年26日)
《生稲晃子外務政務官が2022年8月15日に靖国神社を参拝したと共同通信が誤報した問題で、共同通信の水谷亨社長は28日、生稲外務政務官と面会して謝罪した。生稲氏は「極めて遺憾です。私自身、大変心を痛めています」と述べた。外務省が発表した。
▽また、同日には、共同通信の小渕敏郎専務理事らが新潟県庁を訪れ、花角英世知事に謝罪した。
▽世界文化遺産「佐渡島(さど)の金山」(同県佐渡市)で働いた朝鮮半島出身者を含む全労働者を追悼するため、県や同市、地元団体などでつくる実行委員会が催した24日の式典に、韓国側は当初の予定を変更して出席しなかった。欠席の表明前、共同通信や韓国メディアが生稲氏は靖国を参拝していたと報じ、韓国内では問題視する声が出ていた。
▽会談終了後、取材に応じた杉田雄心政治部長によると、小渕専務理事は「県民のみなさま、知事、佐渡市、(式典の)実行委員会、多くの関係者に多大な迷惑をおかけし、誠に申し訳ない」と謝罪した。(井上充昌、里見稔)
▽■報道なくても「不参加決めた」 韓国外相
▽韓国の趙兌烈(チョテヨル)外相は28日、追悼の辞の内容を含む追悼行事のあり方について日本側と前日まで協議したものの、意見の隔たりが埋まらなかったためと、不参加の理由を国会の委員会で説明した。そのうえで共同通信の報道が後に誤りと判明したことに関し、不参加を決める際に考慮した要因の一つではあったが、この報道がなくても「不参加を決めていただろう」と述べた。(ソウル)(2024年11月29日付)
《自民党の生稲晃子参院議員(現外務政務官)が2022年8月15日に靖国神社を参拝したと共同通信が誤報した問題で、同社は11月30日、経緯を検証した記事を配信した。取材協力していた他社の記者の情報を「裏付けを取らないままうのみにした」としている。
▽生稲氏は誤報以降、訂正を求めていなかったが、24日にあった世界文化遺産「佐渡島(さど)の金山」の労働者追悼式に出席した際、報道陣に「参拝していない」と述べた。共同通信は訂正記事を25日に配信した。
▽検証記事によると、22年8月15日は、靖国神社の3カ所の入り口を複数の報道機関で分担して取材。午前10時過ぎに他社の記者から「稲田朋美、生稲議員入りました」というLINE(ライン)が共有された。取材メモを調べたところ、生稲氏本人に確認取材をした記載はなかったという。
▽検証記事は「2年前の誤報が(日韓)両国関係に一定の影響を与えたことは否めない」と結論づけている。同社の高橋直人編集局長は「再発防止に取り組みます」とコメントした。(後藤遼太)》(2024年12月6日)
▽要するに、各社が取材協力をして、作業を分担し、情報を共有する、という取材方法だ。ライバル会社である他社と共同して作業する事は時々あることだ。
▽古くは教科書検定問題がそうだった。この検定問題の取材作業でも、一部の社がキチンと情報の確認作業をしないため、多くの社が間違った情報を報じて問題になったことがある。右翼からの攻撃が続いた。
▽各社の政治部記者が政治家の囲み取材で、発言内容の確認をすることもよくある話だ。私はプロ野球の取材現場で選手のコメントを確認するために、各社が共同でメモ起こしをしているのを見ている。
▽だからそうした取材を分担するのは悪いと私は思わない。確認のためだ。
▽問題は他社からの情報を、どう確認するかだろう。同業他社からの情報を鵜呑みにしてはいけないということだ。
▽今回はそれが出来なかったのが辛い。大誤報になり、国際問題になってしまったのだから。
▽そしてだからと言って、生稲議員と統一教会の癒着問題が解決されたことにはならないことも、指摘しておきたい。
★538右肩の脱臼事故、その後(「★435ジョギングで転倒し脱臼した痛みと他人の親切」の続報)
▽今年(2024年)7月8日の朝のジョギングで転倒し、右肩を脱臼した。脱臼そのものは治ったが、その後も後遺症が少し続いている。その後日談を書きたい。
▽私は日課としている朝のジョギングで転倒して、右肩を強く打ってしまい、脱臼した。その時の話をこのホームページ社会事象編にコラムとして7月12日にアップした。
《★435ジョギングで転倒し脱臼した痛みと他人の親切
▽いつものようにジョギングをするため自宅を出た。いつものコースを走り、川沿いを北上し、ラップタイム15分で悲劇があった。躓いてしまい、転倒した。右肩と右腕を強く打ち、両手の肘と右膝も打った。痛みでしばらく、立ち上がることが出来ず、そのまま道路にしゃがみ込んでいた》
《▽右腕が全く上がらなかった。宙ぶらりんの状態になった。両腕の肘から血も出てきた。
▽すぐに起きることが出来ず、通勤通学の時間だったため、通りすがりの人たちから、
「大丈夫ですか」
と声をかけられた。私は、
「大丈夫です」
と返事をしたが、なかなか立ち上がれなかった》
▽腕がこんなに重いとは初めて知った。いかに骨が支えているかが分かった。
▽その後、最初の整形外科病院では脱臼が治らず、二つ目の市立病院でやっと治った。しかし右腕を動かすことが出来ず、ずっと三角巾を着けて日々の生活を過ごした。
▽脱臼による影響で、右肩のいくつもの筋肉が損傷を受けたらしく、しばらく右肩を自由に動かすことができなかった。市立病院で2週間に1回リハビリを受け、右肩を動かすトレーニング体操を続けてきた。
▽その後少しずつ右肩の痛みはなくなり、右腕の可動域も少しずつ広がった。ジョギングも再開した。
▽しかし、右腕が完全に自由に動いてはいない。自宅でも毎日リハビリをした。市立病院には行かなくなったが、完全に右肩と右腕が癒えてはいない状態が続いている。パソコンのキーボードを打つのも、やや辛かった。じんわりとして痛みが続いた。
▽日課としていた1日7、80回の腕立て伏せも全くできなくなっている。腕立て伏せをしようとすると、右肩が痛いので、体全体を支えられないのだ。
▽肩の怪我は、完全に治るまで時間がかかる。以前転倒して右肩を打った時も治るまで、3年近くかかったことを思い出す。
▽年を取ると、通常の歩行でも、足をつまずくことが出てくる。それを抑えるためにもキチンとした歩行は大切だ。きちんと足を上げて歩くことが大切だ。もう脱臼などしたくない、と私は思った。
★534被害者は一律に死刑を求めているのではない
▽死刑問題のエピソードを記したい。
▽私が朝日新聞東京本社に勤務してい時の話だ。当時、私は日本の死刑制度問題の取材を続けていた。その中で死刑廃止運動を続けている市民団体が主催した東京・渋谷の集会で、殺人事件の被害者が、加害者に対して、「死刑をしないでくれ」と、訴えていた場面があった。非常に珍しい発言だったので、私はそれを取材し、記事にした。
▽殺人事件の被害者が加害者に対して死刑を求めるのは当然という、非常に主観的な世論がある。しかし被害者でもいろいろな考えを持っており、被害者全員が加害者に死刑を求めているとは限らないと思っていた。だが実際にこうした集会で発言するのは珍しい。その意味を含めて私は記事にしたのだった。
▽しかし記事の扱いは小さかった。おそらくこの発言の重い意味を、担当デスクも整理部デスクも想像できなかったのだろうな、と思った。
▽その後この「死刑をしないで」と訴える被害者は、各地の集会で講演するようになり、信念を持って「死刑廃止」と訴えるようになった。私が北海道に転勤しても、札幌の集会で講演し取材したこともある。別の集会でも何回も私は彼の話を聞いてきた。
▽その彼のことを書いたドキュメントも本として出版されたこともあるし、彼を取り上げる新聞も後に出るようになった。
▽その彼が原田正治さんだ。
▽当時30歳だった弟が交通事故を装った保険金殺人事件で容疑者は保険金2000万円を受け取り、その後逮捕された。その後の裁判で共犯の人間と死刑が死刑が確定した。この間、原田さんはその死刑囚と面接を重ね、「被害者として望むのは加害者の謝罪や償いである」として、死刑の停止を求める上申書を当時の法務大臣に手渡している。しかし死刑は執行された。
▽この原田さんの存在を初めて報じた記者として私は、原田さんの言動を常に気にしていた。
▽そして今回読んだのが、岩波ブックレット「被害者家族と加害者家族▽死刑をめぐる対話」(原田正治、松本麗華、岩波書店)だった。
「被害者家族が死刑を求めていない」という原田正治さんと、オウム事件の首謀者、松本智津夫の三女、松本麗華さんとの対談集だ。前者は弟が殺されても加害者の死刑囚と交流を重ねて、死刑に反対して来た人物。後者はサリン事件の首謀者の三女として生まれ育ち、アーチャリーとして生きてきた人間。ともに話す言葉は重い。第三者が勝手に、「被害者は死刑を望んでいる」と思い込み、「加害者は反省していない」と推測し、被害者側も加害者が傷つく構図が蔓延している。死刑はその究極の刑罰ゆえに、2人の発言は、死刑問題を考える意味で、新たな問題を提起しているように思えた。
▽原田さんはその後、病気で倒れ、さらには離婚も経験して、現在は別府市に住んでいることも初めて知った。金銭的にも困っていることも分かった。
▽もう一度言おう。殺人事件の被害者が被害者に対して死刑を求めている、と言うのは勝手な憶測であり、勝手な世論だ。被害者にもいろいろあり一律に死刑を求めているのはないのだ。その事はきちんとしたほうがいい。この本でもよくわかる。
★533朝日新聞記者だった夫婦が辞めていった
▽将来を嘱望された朝日新聞の記者が、妻とともに会社を辞めた。会社の対応が許せなかった。会社は何もしてくれなかった。そして数年後、彼は新たな活路を見いだして北海道新聞で記者活動を再開した。ささやかだが、私は彼に拍手を送りたい。
▽妻は記者時代、高校野球の取材で県代表の高校生選手によるセクハラで、精神的な苦痛を受けて、それがトラウマになっていた。抗議をしても監督はなにもしなかった。会社の上司に訴えても、会社は何も対応をしなかった。
▽トラウマが酷くなり、次の勤務地で時折休むようになった。
▽その勤務地で、彼と知り合い、結婚した。
▽2人とも、私は職場が一緒だったから、知っている。好青年と実直な女性だ。
▽彼が先に東京本社に上がり、経済部記者として活躍を始めた。一方の妻である彼女は、時折休むことが災いして、なかなか転勤が出来なかった。
▽高校野球のセクハラと会社側の対応に問題があるのに、いつまでも妻をその県庁所在地の地方総局に塩漬けにした。
▽2人は決心した。
▽「この会社は、もう駄目だ」
▽決意して、2人は退職をした。居住は福島に構えて、東日本大震災の災害現場を取材するようになった。2人でホームページを作り、発信して行った。
▽そして彼は北海道新聞記者となって第2の人生を歩み出した。
▽そのことを私が知った時、うれしかった。彼なら、北海道新聞記者としても活躍出来る。そう思った。
▽私は北海道新聞記者を辞めて、朝日新聞に入ったから、逆のコースを歩み出したことになる。
▽彼の記事を時折、北海道新聞紙面で見かけるようになった。新聞記者は、やはり新聞記者なのだ、と感じた。
▽彼にまた会いたくなった。
★532役員報酬削減の違和感
▽企業の成績が悪い時や不祥事が発生すると、社長ら幹部の役員報酬削減が報道される。しかし私はこの報道に、非常に違和感を覚える。30%とか50%削減と言うのが、具体的にいくらの報酬を得ていて、いくら減るのか、具体的な金額は全くないのだ。割合だけが報じられる。あまりに市民感覚とかなり離れているのだ。
▽2024年12月4日の朝日新聞にはこんな記事があった。
《▽野村証券の元社員が強盗殺人未遂などの罪で広島地検に起訴されたことを受けて、同社の奥田健太郎社長は3日、記者会見し、「大切な資産を預かる金融機関として絶対あってはならない事態で、大変重く受け止めている」と謝罪した。経営責任を明確にするため、奥田社長が月額報酬の30%を3カ月自主返上するほか、担当役員ら9人も同20%~30%を3カ月、それぞれ返上する。
▽親会社の野村ホールディングスの社長も務める奥田社長は会見の冒頭、「元社員が逮捕・起訴され、被害者、関係者にご迷惑、ご心配をおかけしたことを深くおわび申し上げます」と頭を下げた。広島支店に勤務していた元社員が7月28日、顧客だった80代女性に薬物を飲ませたうえ、住宅に火をつけて現金約1787万円を奪った強盗殺人未遂の罪などで11月に起訴された》
▽いまさら、と思った。それ以上に、自主返上する報酬の実際の金額が全く出ていない。パーセントだけだ。疑問に思わない記者はいないのだろうか。
▽私が勤めていた朝日新聞もそうだ。新聞の斜陽化が進み、部数が減ってきた。業績が悪いため、社長以下役員の報酬削減を決めたのはもうかなり前のことだ。しかし社長がいくら50%を自主返納したところで、我々社員は社長が年間いくらの報酬をもらっているのか全く知らされていない。我々の年収の何倍ももらっているのだから、いくら50%削減しようが、自主返納しようが、我上社員は具体的な数字が全く分からないままだ。社員とは違いかなりの金額をもらっているのは間違いないのに、それを全く知らせずにパーセントだけで表示する。非常に問題がある発表方法だ。
▽これは朝日新聞に限らず、多くの企業でも同じだ。
▽不祥事が発覚し、社長が記者会見で謝罪に追われる。その後、社長以下役員が報酬を削減したり、自主返納したりするが、金額は一切発表されていない。パーセントだけで、いくらもらっていて、いくら減らされるのか全く具体的な数字がない。我々には具体的な数字が示されない。
▽仮にヒラの社員が50%の給料を減らされたら、生活に大きな影響が出る。しかし社長や役員が50%削減しても、痛くもかゆくもない。それだけ格差があるということだ。
▽例えば、日産自動車のトップだったゴーンはどのぐらいの役員報酬を得ていたのか。我々の年俸の数百倍以上はもらっていたのだろう。そんな報酬を半額削減しようが、本人に痛みは全くない。
▽日本の企業の役員報酬は欧米に比べてかなり低いとは言われているが、社員から見ればかなりの高額だ。社員給料は低く抑えて搾取しし、社長ら役員だけが儲けている。内部保留もある。企業幹部は、絶対損をしない仕組みになっている。
▽もういい加減に、役員報酬削減を言うならば、具体的な金額を発表し、具体的な削減金額を報道してほしいと私は思う。
▽こんなことを考えるようになったのは、ビッグモーター事件からだ。インチキ商法を繰り返し、社員を搾取し、社長と息子だけが儲けた。高額の役員報酬をもらったまま、去って行った。被害者は社長や息子の資産を抑えるべきなのだ。
【再掲載】400ハンセン病の女性の半生を描いた映画「かづゑ的」を見た
▽映画監督の熊谷博子が製作した映画「かづゑ的」は、一人のハンセン病患者の半生を描いた、息の長いドキュメンタリー作品だ。瀬戸内海に浮かぶ島にある国立ハンセン病療養所で10歳の時に入居し、そこで約80年間生きてきた女性の喜怒哀楽が凝縮されている。
▽ドキュメンタリーの手法として、監督自身がこの女性、宮﨑かづゑさんに接して、日常の生活を映しながら、過去を振り返り、現在を生き抜く姿を描いている。国の間違った隔離政策のために、世間と遮断された療養所に閉じ込められ、差別といじめ、そして偏見に泣かされながら、強く生きてきたこの女性をレンズは撮り続けている。
▽ハンセン病のため、両手の指がなく、片足も義足だ。病気のせいで視力も弱い。見ていることが痛々しくなる。
▽冒頭からいきなり入浴シーンが始まり、裸の彼女とそれを支える介護士とのやり取りが映し出される。療養所内では、患者同士の差別やいじめがあり、夫との出会い、そして結婚、優しかった母親との思い出が語られる。
▽そして現在に戻り、夫が好きだったプロ野球ダイヤーホークスの試合観戦、第九のコンサートの鑑賞と団員とのふれあい、亡くなった母親の墓参り、長く寄り添っていた夫の死亡とその号泣シーンを、これでもかこれでもかとレンズは彼女の姿を撮り続ける。そして最後は島の高台に登り、島を一望し、
「この島は不思議な島、天国でもあったし、地獄でもあった」
と述べる。静かに静かにストーリーが進められていく。
▽78歳でパソコンを覚え、84歳になって初の著作となる「長い道」を出版し、多くの共感を得る作品となった。
▽監督の熊谷は言う。
《宮﨑かづゑさんは、私が初めて会ったハンセン病の元患者さん(回復者)でした。
信頼する知人に、会わせたい人がいるからと、半ば強引に長島愛生園に連れていかれました。10歳からハンセン病療養所で生活している、という人に。その日々の暮らしを描いた著書「長い道」を会う前に読み、大変心をうたれました。かづゑさんの部屋で話しながら、この人生を撮って残しておかねばと心に決め、2016年から愛生園に通い始めました。それから8年間、私たちはカメラとマイクを携えて、かづゑさんの人生に伴走することになりました。この映画はハンセン病を背景にしていますが、決してハンセン病だけの映画ではありません。人間にとって普遍的なことを描いたつもりです》
★529今はなき新聞社のがん首競争
▽私が新聞業界に入った時、新聞社の間では「がん首」の競争が続いていた。がん首とは、顔写真のことだ。殺人事件に限らず、交通事故の被害者、火災の犠牲者など、亡くなった人の顔写真を掲載する競争だ。「競争」だというのは、事件事故を捜査する警察が加害者の顔写真を提供することはあっても、被害者の顔写真を提供することはないため、各社がそれぞれ関係者を回って顔写真を入手するしかなく、それが競争となった、という意味だ。それが次第に競争がなくなり、今は多くの新聞が、顔写真を載せていない状況だ。
▽私が新人記者だったころ、真夜中に交通死亡事故があり、デスクからの指示で、車で1時間先の現場まで往復した。その際、犠牲者の運転免許証を交通警察官から見せてもらい、顔写真を接写した。と同時に、運転免許証の記された住所と名前、生年月日を記入した。その時は実は警察発表で犠牲者の名前が間違っていて、免許証から書き写した私の社だけが正しい名前を紙面に載せていた。
▽たかが交通死亡事故だと言うなかれ。このようにして現場に行くこと、顔写真を撮る事は大切な作業なのだ。それは40年以上が経った今でも、そう思っている。古き良き時代とは言わないが、顔写真を載せるのは、取材力の結果でもあるのだ。
▽例えば交通事故なら、死亡した被害者の住所と名前を警察発表で聞き、その自宅や周辺の聞き込みを行い、顔写真を借りてくる。顔写真の入手が目的だが、そうすることによって、犠牲者の家族湯や知り合いからも話を聞くことが出来て、取材の厚みが増える。雑観記事にも使える材料も出てくる。
▽こうした顔写真の入手は、ライバル社との競争であり、ライバル紙には載せないために顔写真を丸ごと借りてしまうということもやった。がん首競争は、新聞社の原動力でもあり、競争社会の手段だった。
▽しかしこうした顔写真の競争が次第に少なくなった。日航ジャンボ機墜落事故では、犠牲者の顔写真を載せる競争があり、朝日新聞は読売新聞に大敗している。新聞の取材力に大きな開きがあった。
▽だが、この事件を最後に、顔写真を大量に載せるという事はほぼなくなった。
▽加えて、こうした犠牲者の名前と住所を最近の警察が発表しないことも大きい。京アニ事件では京都府警が犠牲者の名前も住所も発表しなかった。多くの新聞は犠牲者の名前も顔写真も載せることができなかった。
▽時代の流れなのだろうか。犠牲者が特定できないと、取材の厚みはなくなり、警察発表だけの報道がある。
▽がん首競争に明け暮れた時代の方が、新聞の取材力があったような気がする。否、現代は当局が情報をコントロールし、取材力を弱めているのかもしれない。
★528古き良き時代の社会部を懐かしむ朝日新聞OBの本
▽「朝日新聞の危機と『調査報道』」(谷久光、同時代社)という、10年以上前に出た本を読んだ。言いたいことは分かる。主張したいことも理解できる。しかし、口述筆記のような、書き殴っただけの文章では、読者にその気持ちは伝わらない。誤字脱字も多かった。しかも半分以上が他の本からの引用だ。とても完成させた1冊の本だとは思えなかった。悪い意味で、面白かった。
▽筆者は元朝日新聞の記者で、私の大先輩である。東京本社社会部デスクの後、名古屋社会部長や企画報道室の室長に就いていた。要するに、編集の幹部経験者だ。
▽私が東京本社企画報道室の室員になった時は、既に退職していた。周囲からは社会部長になれなかった社会部長希望の人だったと聞いている。
▽この本は私が朝日新聞東埼玉支局に勤務してるときに、一方的に送り付けられてきた。パラパラとめくった後、いわゆる「積ん読」になっていた。
▽それを今回はキチンと読んでみた。
▽この本の前半は東日本大震災による福島原発のメルトダウンなどの事故で、朝日新聞を含めたマスコミが、大本営発表よろしく、政府や東京電力の発表を鵜呑みにし、垂れ流しにしてたことに対する不満や批判を書き殴ったものだ。なぜ原発に潜伏して実態を調査しないのか、なぜ作業員に潜り込んで原発の本当の事実を調査報道しないのか、と訴えている。その批判そのものは当たっているが、怒りを露わにしているためか、正直、すんなりと頭に入ってこない。
▽そこには40年以上前に、朝日新聞社会部が調査報道でキャンペーンを張った「公費天国」のような、「昔の社会部は頑張った」的な思いがあり、それが今はなぜできないか、という後輩への批判にもなっている。叱咤激励にはなっていない。
▽筆者はその「公費天国」キャンペーンでは、担当の社会部デスクだったこともあり、その思いが強いのだろう。だから朝日新聞の今回の福島原発事故ではがゆいのではないかと思った。しかし書き殴っただけで、文章に誤字もあり、読みにくかった。トーンは昔の社会部は良かった、と言うばかりで、昔を懐かしんでいるようでもある。
▽時代が違うのではないか、と思った。
▽本書の後半はその「公費天国」キャンペーン報道などを記録した他の本をそのまま引用しているだけ。「公費天国」のドキュメントをそのまま引用しているだけだった。「ヤマバク」と呼ばれた山本博記者や田岡記者のことを取り上げ、昔は良かったと嘆いているのだ。いろいろ大先輩の名前が出ていて、懐かしかったが、過去の話だ。
▽最後はその名物記者らとの座談会をしていて、調査報道を振り返るのだが、わずか10年前の時代状況を考えると、こんなに的外れな予想をしているとは、かなりの驚きだった。
▽新聞はネットと共存していくと強調しているのだが、あくまでも紙の朝日新聞を補完するもの、共存していくものとして、出席者が同じ考えを持っていたことだ。紙の新聞は調査報道が出来るが、ネットでは出来ない、取材力が全くない、と見下している。
▽いくら10年前の座談会でも、朝日新聞の部数がこんなに激減するとは思っていなかっただろう。ネットでは取材できないし、ネットでは正しい情報が得られない、と強調するのだが、朝日新聞が猛烈な勢いで地方取材網を縮小し、ネットにかけているという今の現状を、予想できなかったのが笑えてしまう。
▽活字による紙の媒体の歴史はわずか150年間しかない。インターネットの普及で、紙の媒体は次第に崩壊を始めている。新聞がすべてで、新聞だけが真実を与えていると私も信じたかったが、その考えは訂正しないとならない。新聞も衰退していくメディアなのだ。
▽悲しいが古き良き時代の社会部など、今はもうない。
▽さらに言うと、この座談会の発言で笑ってしまったのは、社内に特別報道部ができたことに対しても批判していた。政治部や経済部が社会部の記者と一緒になっても、調査報道などできない、と断言しているんだ。
▽そして経済部も政治部記者も批判の対象になっていた。すべては社会部の記者が正しい、と思っていること自体が、笑ってしまった。
▽そのヤマバクも既に亡くなっている。田岡記者は軍事ジャーナリストとしてその後も活躍しているが、現在の朝日新聞をどう思っているんだろうか。
▽さらに言うと、この本の筆者は、この本を出してから10年が経過した今の朝日新聞をどう考えているのだろうか。古き良き時代は既に終わっているのだ。
★527池袋暴走事故の受刑者死亡で、高齢者ドライバー問題を考えた
▽東京・池袋暴走事故の加害者である飯塚幸三受刑者が老衰のため死亡した、と25日(2024年11月25日)の各マスコミが伝えた。93歳だった。高齢者ドライバーによる痛ましい事故だったが、この事故で何が問題となったのか、改めて課題点を挙げてみた。
▽まずは判断力が遅くなった高齢者ドライバーが、都会でも田舎でも車を運転しているという現実をどう見るかだろう。地方を転勤することが多かった私には、都会以上に酷い現実を見せつけられていた。高齢者ドライバーの運転マナーの悪さ、運転能力の低さだった。取材でマイカーを運転すると、必ずマナー違反の高齢者ドライバーのクルマに出会う。
▽突然、脇道から一時停止をしないで車が出てくる。近づいてくる私のクルマの距離感が分からないから強引にメイン道路に入ってくる。急ブレーキをかけて危うく難を逃れることも多かった。本人は行けると思ったかもしれないが、判断力が遅いため、近づいてくる車の距離感が全くわからないのだ。時速60キロでクルマを走らせているということは、1秒で16−17メートルも進むのだ。わずか1秒の判断の遅れで、事故に遭う。このことが高齢者には分かっていない。
▽よくあるのが、コンビニなどの駐車場で、ブレーキとアクセルを間違えて踏み込んでしまい、店舗に突っ込むケースだ。これも高齢者が多い。いざと言う時に、判断力が遅いため、アクセルとブレーキを間違って踏んでしまうのだ。
▽交差点を右折や左折する場合、ウインカーの出し方も遅い。ブレーキを踏んでからウインカー出すことも多い。操作が逆だ。ウインカーをまず出してから、ブレーキを踏むのが鉄則なのに、高齢者はこれが出来ない。後続車にとっては突然の急ブレーキに戸惑い、慌ててブレーキを踏むことになる。
▽狭い道を左側に走らないで、真ん中を走る。高齢者ドライバーにはこの運転も多い。自分の運転してる車の車体の幅の感覚はわからないため、左に寄せて走ることができないのだ。「キープ・レフト」は守られていない。
▽こうした高齢者ドライバーを規制する手立てが、今の日本の法律ではないのだ。これが問題だ。免許証の更新で認知症テストは行われているが、実際はザル法だ。判断能力の遅い高齢者ドライバーは、問題があっても免許更新を続けていく。規制が緩いために、高齢者ドライバーはへたくそな運転のまま、地方や都会を走っている。
▽こうした現状を、もっと政府は責任を持ってフォローすべきではないのか。一定の運転能力がないのなら、免許を取り上げ、地域にはワンコインタクシーやワンコインバスを走らせ、高齢者などを助けることをしないと、高齢者ドライバーの事故はさらに続く。深刻な社会問題になっていることを政府は認識したほうが良い。
▽そして高齢者ドライバーは、自分の運転能力は低くなっていることをもっと自覚すべきだ。
▽今回の池袋暴走事故では、自動車に欠陥があると被告は主張したが、その意見は通らなかった。自分の運転能力が低下してるのを棚上げし、自動車メーカーの責任にしようとした。これが世間の反発を招いたのだ。
★525もんじゃ焼きの光景
▽店が不親切なのか、客が知らないのか、お節介なことに口は出したくないし。そんなこを思ってしまった。ある地方都市の居酒屋のような店に入って、飲食をした時の体験だ。
▽私の席の後ろ隣の客の家族がもんじゃ焼きを注文していた。もんじゃ焼きと言えば、東京・月島が有名だが、こんな地方都市でももんじゃ焼きを提供するんだ、と思って、チラチラ見ていた。
▽しかし、この家族、もんじゃ焼きの作り方を知らなかったようで、東京地方で作る「お好み焼き」と同じ作り方で鉄板に水分を含んだ具材を一気に広げて焼いていた。
「おいおい、それはないぞ」
▽私はそう思って見ていたが、遅かった。
▽もんじゃ焼きはお好み焼きとは違う。水分を含んだキャベツなどの野菜や生ものを一度、鉄板の上で焼いた後、それをドーナツのように円筒に並べて、土手を作り、この中に水分を含んだ具材をさらに流し込み、少しずつ焼いて、へらで円筒の周囲から丸めるようにして、焼きながら食べていく。
▽ネットにもこんな案内が出ている。
《土手を作って、その中に生地を流し込むときは、一度に入れないようにします。▽こうすることで、土手を超えて生地が外に出てしまうことを防げるのです。▽また、何回かに分けて混ぜて焼けば、うまくとろみがついておいしい仕上がりになります》
▽要するに、お好み焼きとは全く違う作り方なのだ。この客は全く知らなかったのだが、だとしたら、店側が客に対して作り方を教えればいいだけだ。メニューにはそんなことすら書いていなかったのだから、これはどう見ても、店側の問題だ。
▽私自身が口出ししても、お節介だと思われるだろうし。
▽にしても、いろいろなメニューを楽しみたいのなら、客側はある程度は研究すべきということなのだろう。
▽それにしても、最近、私自身、もんじゃ焼きを食っていないな。そう、そんなにうまいものではないのだ。
★521交通事故の後遺症は長くて苦しい
▽子どものころ、交通事故に遭い、意識不明となったことがある。幸い、命を取り留めたが、後遺症は何年も続いた。交通事故は身近で発生し、そして怖い。そのことを訴えたいために、その話を書いていく。
▽小学生2年生の時だ。当時私は千葉県柏市のマンモス公団住宅に住んでいた。団地内にあった個人そろばん塾に通っていた。その日、その塾に行くと先生は不在で、塾は休みになっていた。当時は電話などもなかったから連絡する方法もなく、私は引き返した。その帰り道で小学校の同級生の女の子とすれ違った。彼女も自転車でその塾に向かっていた。すれ違いざまに私は、
「今日は塾が休みなんだって」
と伝えた。
▽その直後だった。目の前の交差点で左から右へ向かう大型トラックが見えた。ブレーキを掛ける余裕もなく、私はそのトラックと出会い頭にぶつかってしまった。
▽ぶつかると気づいた直後から、私の記憶はなくなっていた。ぶつかった瞬間の記憶が全くなかった。気づいたら24時間後、市内の総合病院の病室のベッドで横になっていた。私は頭を強く打ち、意識不明の重体になっていたのだ。
▽頭痛がして、吐き気が時折続いた。寝ているしかなかった。
▽事故の責任は当時、どちらにあるかわからない。その交差点の周囲は石垣が積まれており、見通しが悪かった。マンモス公団住宅内を、多くのトラックが近道だとして運転しており、十分に注意を払う運転していなかったことも原因だし、私も前方不注意ということになる。結果としてトラック運転手の責任は問われなかった。私も自分が悪いんだと両親に言っていた。
▽入院は1週間続き、退院した。学校にも通い出した。
▽しかし後遺症は続いた。頭を強く打ったせいか、1カ月か2カ月の割合で、頭痛に襲われるようになった。頭痛に襲われると、何も集中できなくなる。
▽心配した親は、私を当時の東京大学附属病院に連れて行き、検査を受けた。脳波の検査だった。当時の脳波検査は、頭部に10本か20本の針を刺して、脳波を測る。チクッと痛かったが、私は我慢して、脳波検査を受けていた。
▽こんな検査が半年か1年に1回続き、小学校卒業まで続いた。
▽中学生になり、脳波検査はやらなくなったが、それでも数カ月に1回、頭痛が続いた。
▽頭痛が消えたのは、高校生になってからだ。実に7年間も後遺症が続いたことになる。今振り替えば、交通事故は怖いなと思ってる。外傷性の怪我がなくても、頭を強く打てば、その後遺症がずっと残るのだ。
▽現在の法律では、私がぶつかったトラック運転手の道義的、社会的責任があるし、刑事裁判の被疑者となろう。しかし当時はそんな法律が整備されていなかったから、運転手の責任は不問になった。運転手は1回、入院先の私の病院に見舞いに来ただけで終わっている。
▽私が新聞記者になったころ、全国で交通死亡自己が相次ぎ、特に北海道は交通死亡事故のトップを争っていた。無謀運転が多く、速度も出しやすい道路環境だったので、道警も私が勤務していた北海道新聞も交通安全キャンペーンを続けていた。シートベルト着用や交通安全マナーの徹底など、私も記事に書き続けた。
▽交通死亡事故の現場には必ず行っていた。
▽次第に死亡交通事故が減り、犠牲者は少なくなったが、それでも犠牲者はなくならない。交通事故での後遺症に苦しんでいる人たちを知ると、交通事故は、改めて恐ろしいなと思っている。
▽外傷性の怪我なくても、頭を強く打てば、その後遺症がずっと残るのだ。
▽最近の新聞は交通死亡事故の扱いが小さく、危機感を感じないが、関係者には重く残る話なのだ。
★520夜間運転のハイビームの推奨は危険だ
▽夜間の車の運転は、ヘッドライトのハイビームが原則だとして、一部の県警本部が推奨し、キャンペーンを行っている。しかし、安全向上に役立つのは事実だが、危険運転にもなり得るので、このキャンペーンは間違っていると私は思う。
▽一般的な車両はヘッドライトをハイビームとロービームに切り替えることが出来て、ハイビームでは前方100メートルを照射できて、夜間でも遠くが見通せる。ドライバーでは「遠目」と呼んでいる。ロービームは前方を数十メートル照らす。ドライバーは「近目」と呼んでいる。
▽確かにハイビームでの運転は、安全性が増す。ロービームと違って、遠くまで前方が見えるからだ。しかし、交通量が多い首都圏でハイビームでの走行をすれば、対向車のドライバーの目がくらみ、危険このうえないのだ。
▽例えば、兵庫県警ではホームページでこう推奨している。
《兵庫県警察では、夜間の交通死亡事故の抑止を図るため、ハイビームの活用を推進しています。
▽薄暮・夜間における「人対車両」の交通死亡事故において、多くの当事車両は、ロービームで走行中に歩行者に衝突しています。暗く見とおしの悪い道路では、ハイビームを活用すれば、歩行者を早期に発見でき、事故を回避できる可能性があります。
▽ただいま、県下各警察署では、「ハイビーム活用促進路線」を指定し啓発活動を行っていますので、命を照らすハイビームの活用をお願いします!▽注意してください!!
1.▽道路交通法により、車両等は夜間に走行する際にはハイビームで走行することが定められ、また対向車や先行車等がいて、ハイビームを使用することで対向車等を幻惑させるときには、ロービームで走行することが定められています。▽
2.▽対向車や先行車等がいるときは、ヘッドライトをこまめにロービームに切り替えて下さい》
▽佐賀県警もこんなホームページを掲載している。
《夜間の車の前照灯(ライト)はハイビームが原則です。
照射距離は
*▽ハイビーム(上向き)約100メートル
*▽ロービーム(下向き)約40メートル
であり、ハイビームはロービームより、約2倍以上の距離を照らすことがでるため、横断歩行者や自転車等を早めに発見することができます。
横断歩行者や自転車等を早めに発見できれば、減速して歩行者や自転車の思わぬ動きを回避することができます。
ただし、ハイビームは他の車両等を幻惑させるおそれがありますので、前の車の直後を通行しているときや対向車とすれ違うときは、ロービームに切り替えましょう》
▽よく読めば分かるが、但し書きがあり、交通量が多いところでのハイビーム運転は危険であることを認めているのだ。この
事は警察も分かっているのである。
▽実際私がマイカーで夜間運転をしていて、対向車がハイビームで運転してくる時が時折ある。急にまぶしくなり、前方が見えない。危険な行為なのだ。この際は、目の焦点を前方の左下の方に落とし、対向車のヘッドライトをもろに受けないようにする。それと同時にこちらもヘッドライトを数秒ハイビームにして、ハイビームであることを相手にも知らせるということをする。危険行為を相手に知らせるためだ。
▽警察関連のホームページにはこんな記述がある。
《道路交通法第52条は、夜間の道路や政令で定める暗い場所(トンネルの中など)を進行する車両等に対して「前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない」と点灯義務を定めていますが(同条1項)、ほかの車両とすれ違う場合や他の車両の直後を進行する場合には「灯火を消し、灯火の光度を減ずる等灯火を操作しなければならない」としています(同条2項、道路交通法施行令第20条)。 現在、一般的な自動車の前照灯には、いわゆるロービーム(すれ違い用前照灯)とハイビーム(走行用前照灯)とが設置されており、その個数、取付位置、色、光量、照射範囲等は道路運送車両の保安基準で厳しく定められています。前照灯を点灯させるのは、自車の存在を周囲に知らせるとともに走行する道路の安全を確認するためですから、走行にあたっては原則としてハイビームを使用することが想定されていますが、それにより他の車両等の交通を妨げるおそれがあるときはハイビームを消し、ロービームを使わなければならないのです》
【再掲載】★103原稿料
▽インターネット上で原稿を書くライターの原稿料の値段を聞いて驚いた。1文字につき0.1円から0.2円なのだ。つまり400字詰め原稿用紙に直すと、わずか40円から80円にしかならない。いつからこんなに低い値段に設定されているのだろうか。仮に月に100枚分の原稿を書いても、4000円から8000円。こんな安いなら、原稿を書いても書いても、生活費を稼ぐことが出来ない。お話にならない金額だ。
▽私が新聞記者になる前、フリーライターの真似事をしていた。この時の原稿料は400字詰め原稿用紙1枚で1000円から1万円ぐらいだった。やはり小さな出版社は低かったし、大きな出版社は高かった。大手出版の月刊誌などは1枚につき、1万5000円を出している社もあったほどだ。
▽当然、この原稿料の中には、取材料も含まれていた。だから、当時のルポライターたちは、競って、いろんな雑誌に原稿を書いていた。
▽月に100枚書いたとしても、収入となれば10万円から100万円で、名の売れたライターたちの収入は悪くなかったはずだ。
▽では実際に、1カ月にどのくらいの原稿が書けるのだろうか。取材する時間も必要だから、私の経験則からして、せいぜい100枚が限度だ。取材時間が長引けば、執筆する時間がなくなるから、そう簡単に原稿を出すことは出来ない。当時はまだワープロもパソコンもなかった時代で、原稿用紙に手書きで原稿を書くという作業は、かなり疲れるものだった。
▽こうやって振り返ると、今のインターネット上でライターをしている人の生活が心配になってくる。
▽だれもが自由に書き込める時代だから、逆に安くたたかれるのだろう。ライター希望者が多いから、買い手市場になっていく。
▽考えてみれば、ヤフーやグーグルのようなプラットフォームが、新聞記事を無償で集めてホームページにアップすることが当たり前のようになってしまい、記事は無料だという意識が染みついてしまったように、フリーライターの記事も無料のような意識があるのではないか。
▽文章を書くという知的作業が、安く買いたたかれるのは、どう考えても危険だ。ライター希望者は、このことを肝に銘じてほしい。
★516カメラ売り場に異変が起きている
▽カメラ売り場に異変が起きている。これまで一定の面積を専有していたコンパクトデジタルカメラの陳列が激減しているのだ。
▽東京・池袋のビックカメラ店。最新のニコンやキャノン、ソニーのミラーレス一眼レフカメラが並んでいる。いずれも数十万円はする高級カメラで、写真の画質、使いやすさを宣伝する説明文が添付されている。通常の一眼レフデジタルカメラも、それに続いて並んでいる。
▽しかし、コンパクトカメラ、略称コンデジの商品は少なくなった。ニコン、キャノン、オリンパス、ペンタックス、ソニー、リコーなどのカメラメーカーが出すコンデジの売り場面積が急激に縮小していた。あれだけ多くの商品を陳列していたのに、今では極端に縮小し、数種類のコンデジしか置いていない。姿を消しているのだ。コンデジの商品には、「受注不能」などという名札も付けられていた。メーカーも生産を止めているのが現状だ。
▽それはさいたま新都心のヨドバシカメラでも同じ状況だ。コンデジの売り場面積が激減していることに気づく。
▽私はカメラ小売店のヨドバシカメラやビックカメラによく通う。週に1回は通っている。少し前までは、あれだけ多くの商品を陳列していたのに、今ではわずか数台しか陳列していない。
▽理由は分かる。iPhoneに代表されるスマートフォンが、コンデジと同様の性能か、コンデジ以上の性能を持ったカメラを搭載し、ユーザーがコンデジを必要としなくなったことが大きい。私自身、簡単な風景写真を撮影する場合、iPhoneで済ますようになっている。
▽コンデジの売り場には代わりに、ミラーレスの一眼レフカメラが占めるようになった。市場は急にミラーレスカメラが席巻するようになっている。
▽おそらく、コンデジはもはや過去の代物になるのかもしれない。そんな気がしている。
▽フィルムカメラ時代なら、一眼レフとコンパクトカメラは用途が違っていたので、使い分けされていたが、今はそんな時代も終わったような気がする。
▽コンデジの時代は終わりつつある。
▽一般社団法人カメラ映像機器工業会(CIPA)による2023年の出荷台数は以下のようになっている。レンズ一体型はコンデジを含めたものだが、前年より減少し、さらに拍車がかかっているということだ。
▽▽2023年デジタルカメラ出荷実績(日本国内)
区分 実績 前年比
デジタルカメラ合計 911,658台 98.1%
62,616,150千円 103.7%
レンズ一体型 391,957台 85.6%
11,819,528千円 106.6%
一眼レフ 37,933台 53.3%
2,173,184千円 57.6%
ミラーレス 481,768台 120.4%
48,623,438千円 106.8%
★515「やんちゃ」という言葉が持つ暴力性
▽最近耳にする言葉、「やんちゃ」という言葉が私は嫌いだ。昔は微笑ましい意味合いで使われていたような気がするが、最近では暴力を肯定するような言葉にななっている。いつから、意味合いが変わってきたのだろうか。
▽最近、よく聞くのが、こんな自己紹介だ。
「私は昔やんちゃでしたので」
▽こういう時は、以前は暴力行為をしていたことを示している。暴力を自己容認しているようで、私は好きになれない。
▽昔使っていた「やんちゃ」という意味は、「わんぱくでも元気に育ってほしい」と言うような意味で使われた言葉だと私は思っていた。微笑ましいニュアンスで作っていたような記憶がある。
▽手元にある広辞第4版ではこうある。
「やんちゃ▽子供のわがまま勝手なこと。だだをこねること。また、その子供」
▽この広辞苑第4版は、1991年に出たものだ。つまり30年以上前は、「やんちゃ」とは、子供のわがままという意味で使われていた。
▽しかし、最近の辞書では、この意味のほかに、暴力的な行為も含むようになった。
▽1▽子供がだだをこねたりいたずらしたりすること。また、そのさまやそのような子供。やんちゃん。「—をする」「—な年頃」「—盛り」
▽2▽俗に、若者の素行がよくないこと。不良青少年であること。「若い頃は—で、町でもちょっとした顔だった」
▽30年間で、違う意味が付け加えられるようになった。言葉と言うのは、数十年単位で意味合いが違ってくる。その一つがこの「やんちゃ」という言葉だ。昔では使われていない意味だ。
▽だからやんちゃと自己紹介する時、それを肯定するような意味も含めていて、私は気になって仕方がない。
▽ネットではこんなコラムがあった。
《このところ「やんちゃ」の使われ方が大きく変ってしまいました。
昔は――と言い始めるのは老化現象の典型なのですが、敢えて使います――「やんちゃ」というのは、「子供のわがまま勝手なこと。だだをこねたりいたずらをしてりすること」(広辞苑▽第六版)ですし、大辞林の第三版には、「子供が活発で大人の言うことをきかないこと。いたずらやわがままをすること。また、そのさま。また、そのような人をもいう。」という定義が載せられていて、例としては▽「やんちゃをする」▽「やんちゃな子」▽「やんちゃ坊主」▽「やんちゃ盛り」が挙げられています。
「良い子」と比べて、奨励されているのではなくても、先ず犯罪性はありませんし、「困った子だよ」というレベルの親のため息があっても、特に周りの人に飛んでもない迷惑を掛けるまでは行かない、男の子の性質を表していたような気がします》
《しかし、最近での使われ方では、昔は「やんちゃ」だったと言えば、昔は不良少年だった、ぐれていた、犯罪行為に手を染めた、といったレベルのかなり問題のある行動をしていたことを示しているようです》
▽やはり、気になっているのは、私だけではなかったようだ。「やんちゃ」は今、犯罪行為に走ったという意味合いで、自己紹介で肯定する危険な言葉になっている。
★513どうして朝日新聞記者は地方勤務を拒否するのだろうか
▽どうして朝日新聞記者は地方勤務を拒否するのだろうか。そんな疑問をよく持つ。地方にこそ取材現場はあると言うのに、朝日新聞記者は、地方を軽視し、見下して、地方の取材現場を無視する。やはり中央志向が強すぎる。
▽朝日新聞が配信している朝日新聞ポッドキャストというインターネット番組で、出席していた2人の朝日新聞男女の記者が、
「地方には行きたくない」
と発言していた。ともに家族のことを理由にしていた。
▽確かに地方では家族の生活が不安になる事は分かる。教育の問題、学校の問題、病院の問題、食生活の問題、居住の問題など考えると、地方勤務は不安になる。一度東京本社に上がってしまえば、地方には行きたくないのだろう。それは本音なのだろう。
▽しかし入社時には、
「地方で頑張って良い記事をたくさん書きたい」
などと、のたまう新人記者が多かったのに、そうした記者が一度出も中央に上がると、もはや地方には行きたくないと抜かすのだ。驚くべき本音と建前の使い方だ。
▽しかし中央にそんな取材現場があるのだろうか、と私は思ってしまう。ここで中央とは、中央官庁のことを指すが、高級官僚の話を聞いたって現場の実際の事は全く分からないし見えてこない。
▽それに官僚は平気で嘘をつく。地方の現場に出て初めて、中央官僚の嘘が分かる。それが私の経験則だ。
▽例えば国鉄分割・民営化に伴って全国各地で進むローカル線廃止問題。並行在来線問題を、中央で取材した結果と、実際の地方の現場で取材した現状は、雲泥の差がある。地方こそ取材現場の教科書になるのだ。
▽東京本社に残った記者が地方への転勤を拒否するという事は、一方では、一部の人間だけが地方回りを強要されているということになる。私もそうだ。特定の人間だけが、犠牲を知られているのだ。
▽朝日新聞記者はエリート意識が強いから、中央志向が強い。エリート意識を持っているから、地方など関係ないと考えているのだろう。こういう考えが怖い。
▽取材現場は地方にある。地方で何かが起きている。それを常に監視するのは新聞記者だ。朝日新聞記者はいつの間にか、地方の監視するという取材活動を怠って着た。
▽今、朝日新聞は強引なほどに地方取材網を縮小している。それゆえ、地方に出る記者はさらに少なくなってくるだろう。朝日新聞は「中央紙」という名のブランドを保持して、逆に「全国紙」というブランドもプライドも捨てている。残念でならない。
★510地下鉄サリン事件で初めて知ったオウムと科捜研の水面下の闘い
▽2024年10月26日に放映されたNHK新プロジェットX「地下鉄サリン事件、オウムVS科捜研」は、1995年に発生した地下鉄サリン事件で、科学捜査でオウムのサリン製造を解明した科学者の物語だった。サリン製造を否定するオウム真理教のサリン製造過程を、当時の警視庁科学捜査研究所の若手チームが解明し、最終的に松本智津夫ら幹部を逮捕につながる活躍をしていた。 まずはホームページでの紹介を記す。
《1995年、国家転覆をたくらむ化学者集団でもあったオウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」。教祖の麻原彰晃は当初、犯行を否定。逮捕までには57日間に及ぶ攻防戦があった。その陰にいたのが科捜研の若手研究員で緊急結成された「科学班」。今回、オウムの実験ノートや化学工場の映像などテレビ初公開の新資料が発掘。研究者たちは、科学の力を駆使し、どのように麻原たちを追い詰めていったのか、頭脳と執念のドラマ》
▽地下鉄サリン事件の首謀者はオウム真理教であることは疑いのない事実だが、科学的にそれを立証する必要があった。警視庁は刑事部長の命令で科捜研の若手を科学班として結成し、事件の全容解明を進めていった。化学方程式を何回も書き、毒物の解明を進めていった。そして最後に毒物研究の若手が現場の教団施設に捜査員と入り、サリンの製造工場を見て回り、残留物を発見する。さらには首謀者の取り調べにも入り、首謀者と無言の攻防の駆け引きをして、サリン製造の実態を引き出そうとする。そして自供にを導き出す。
▽これが今回の「新プロジェクトX」のテーマだ。
▽実はこのサリン事件の発生直後から私は朝日新聞東京本社の仲間とともに、山梨県上九一色村(当時)にあったオウム真理教の教団施設、サティアンで警視庁が続けている家宅捜索の張り番記者を続けていた。次々と押収されるドラム缶などの物証を前線基地のデスクやキャップに無線報告するのが仕事だった。双眼鏡で覗き、現場で何が行われているか、立ちっぱなしで報告していた。寒い中、ずっと我慢して無線連絡していた。
▽そんな厳戒態勢のなかで、水面下でこんなドラマがあったことを29年後に初めて知った。
▽その若手科学者が、番組に中でこう言うのだ。
「科学は嘘をつかない」
「科学は多数決で決まらない」
▽実に重い言葉だ。
▽見応えある番組だったし、私自身、あの現場の張り番で何が出来たか。今一度、考えしまった。
▽話は脱線するが、この原点がテレビ朝日系の人気番組「科捜研の女」にも繋がっているような気がする。
「科学は嘘をつかない」
▽主演の沢口靖子は主人公として常にこう話す。いい言葉だと思った。
★509総選挙報道に見る新聞記者の劣化
▽私は埼玉県に住んでいるので、朝日新聞も毎日新聞もそれぞれ埼玉地方版を読んでいる。ここ1〜2年、感じるのは、地方版での記者の劣化だ。まともに地方をウォッチしていない記者が一定数いるという事実だ。新聞というジャーナリズムに私は危機感を覚えるようになっている。
▽私は記者生活40年のうち、多くの地方支局で取材してきた。その経験からいうと、地方記者の最大の仕事は、地方政治、地方政権の構造の変化をウォッチすることだ。それが朝日新聞も毎日新聞も出来ていない。
▽2024年10月27日に投開票された衆院選の期間中の各紙を読んで、毎日新聞と朝日新聞にはガッカリさせられた。
▽私は選挙終盤戦での紙面の感想をX(旧ツイッター)でこう指摘した。
《総選挙で毎日新聞がひどい。埼玉地方版は各区の情勢を簡単に書いただけで、あとは候補者紹介と選挙の争点をまとめただけ。肝心の選挙区ルポはなかった。区割りが変更し、選挙構図がどう変わったのか読みたいのに。問題意識高い系の記者があっちの方向の取材ばかりして、選挙取材を放棄している》
▽この意味をもう少し説明しよう。
▽例えば埼玉14区。埼玉県選挙区は10増10減の影響で、選挙区が15から16に増えて、選挙区割りが変更になった。これに伴い、それまでの選挙区が越谷市と草加市の両市区が分割されて、越谷市が川口市の3区域と一緒の埼玉3区となり、草加市が周辺の八潮、三郷市とくっついて、新14区となった。
▽この14区に公明新代表の石井啓一が初挑戦し、国民民主の鈴木義弘に大差を付けられ、比例復活もしていないため、落選している。この選挙区は自民が公明との選挙協力で候補者を立てず、公明に投票するよう呼びかけていたが、うまくいかなかった。草加市は県議選選挙区では公明候補の連続当選が続いていて、公明票が期待出来るはずだったのに、落選したのだ。まさに区割り変更で起きた新代表落選のニュースだ。
▽選挙期間中は、朝日新聞は埼玉地方版でこの選挙区のルポを取り上げていた。注目の選挙区だったためだ。
▽しかし、毎日新聞は注目の選挙区のルポなど全く取材していなかったし、紙面化されなかった。紙面で見たのは、計16区の簡単な情勢と、全候補者の紹介記事、そして国政選挙で争点となる一般論の記事だけだった。
▽ここまで毎日新聞は力がなかったのかと私は思った。
▽私の大先輩はこう言ったことがある。
「選挙ルポを書かせれば。その記者の力量が分かる」
▽私も記者になって、そう思うようになった。毎日新聞にはそうした記者がいなかったことになる。
▽そして問題なのは、総選挙の期間中なのに、一部の記者が選挙とは関係ない記事を長々と書いて紙面化していたことだ。選挙とは日々、情勢が変わってくる。それをウオッチするのが地方記者の役目なのに、それを放棄しているのだ。いくら狭山事件の集会が大切だとしても、選挙期間中に自分の担当選挙区から出ていくのはいかがなものかと私は思った。狭山事件の取材はするなと言っているのではない。選挙期間中に自分の与えられた仕事の意味が分からないのか、と指摘しているのだ。お粗末すぎる。
▽例えば、私がかつて勤務していた新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局で総選挙があったとしよう。そんな選挙の期間中に、私のライフワークの一つである死刑制度問題について死刑廃止集会が東京であったとする。佐渡での選挙取材を放棄して東京に出張し、その死刑廃止集会の取材をして、新潟地方板にその話を記事にすることがあるだろうか。あり得ない。こんなことがサラリーマン記者として許されるのだろうか。デスクもよく許した。
▽こんなあり得ない話を、毎日新聞埼玉版の記者は平気で行っていて、肝心の選挙ルポは全く載せていない。担当している地域とは関係ない取材をしていることが、どういう風に読者に見られてるだろうか。
▽朝日新聞もひどい。県南西部、県南部、県南東部の選挙区に、それぞれのベテラン担当記者がいるのだが、取材した形跡がないのだ。地道な選挙取材を放棄していた。これもがっかりさせられた。
▽最後に総選挙開票で気になったこともあって、Xにこう書いた。
《埼玉五区は枝野が圧勝。法相牧原は比例区復活の可能があるのに、朝日新聞も毎日新聞も速く「選挙区で落選」と打った。朝日新聞の社内ルールでは復活の可能性があるため締切時間が早い時間帯では選挙区での「落選」とは打ってはいけないはずなのに。予定稿を書かせたデスクも記者もだめだな》
《牧原の復活当選がないのは、日付を超えて28日午前2時ごろ。ここで初めて、「落選」と打てるのに。毎日新聞は28日の社会面で速報した「牧原、選挙区で落選」をそのまま載せた。復活当選の可能性がある時間帯なのに。午前2時といえば、降版時間が過ぎている。読者に失礼だ》
《記者としての劣化。復活当選の意味が分かっていない。毎日新聞並みにレベルが落ちた。その点、NHKは「落選」とは打たなかった》
▽地方の記者が劣化している。深刻だ。
【再掲載】★476「紫電改のタカ」はちばてつやの強烈な反戦漫画だ
▽子どものころに読んだ漫画家ちばてつやの「紫電改のタカ」を改めてコミックで読み返した。そしてこの作品はちばてつやが放った強烈な反戦漫画であることを強く感じた。
▽ネットで購入して読み進めた。零戦と紫電改という日中戦争、太平洋戦争で活躍した戦闘機に乗る少年撃墜王という主人公を設定して、敵の戦闘機を撃ち、味方に裏切られ、そして最大のライバル、米軍戦闘機との戦いを終えて、何のために戦争をするんだ、という自分自身に問いかける主人公のシーンがいい。
▽計6巻のうち、6巻の最後のシーンは私が子どもの時に読んだ記憶と同じだった。それだけ印象的なシーンだった。主人公が特攻隊に出掛けてしまい、面会に行く母と幼なじみの女の子と会えないで物語を終えている。
▽その前のシーンでは、特攻隊に行けと命令を言い渡される主人公が日本が負け戦になるのを感じて、上官に向かって、「死刑執行人」と叫ぶが、その上官も特高に行くことを語り、涙を流しながらその非情を伝えるのだ。このシーンがいい。
「自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを信じようと努力しながら」
と、最後のコマでナレーションは伝えている。
▽昔の作品なのに、そして子ども相手の作品なのに、かなり感動的、そして重い感動である。
▽特攻で多くの日本人の若者が無駄な死に方をして、一方で特攻を命じた軍幹部は、最後まで責任を取らずに生き残ったし、逃げ回った。
▽この史実、真実はいつまでも忘れたくないし、覚えておきたい。
▽ちばさんよ、ありがとう。
★506中越地震の悲劇と救出劇、あれから20年
▽20年前の2004年10月に発生した中越地震では、奇跡の救出劇があった。全国がその救出劇を見守って、土砂崩れで埋もれた車から2歳の男児を東京消防庁のハイパーレスキュー隊が奇跡の救出をした。私もその感動劇を忘れられない。
▽中越地震は中山間地で最大震度7を記録し、68人が犠牲になった。
▽当時の救出劇を振り返るコラムがネットにあった。生々しい証言だ。そのまま紹介する。
《「新潟県中越地震」の奇跡
時見 青風
東京消防庁のハイパーレスキュー隊が現場に入ったのは10月27日午後1時半過ぎであった。地震発生から4日後の事である。地表に顔を出した車前部のナンバープレートがのぞいて見える。車から約50センチのところに半径30センチ程の穴があいている。穴から地中に向かって,隊員が代わる代わる声を掛けて見た。穴の中を照らす田端隊員のヘッドライトが小さな石の上におかれた。そして,優太くんの左手をとらえた,「ウー」,かすかな,息をするような声がした。無線の音を止め,全隊員耳を澄ますとかすかに息遣いが聞こえてきた,「絶対に助けるんだ」。現場で巻田隊長の指示が飛んだ,一握りの砂も車の近くに落とさないよう細心の注意を払えと,車は土砂や岩石で幅約1メートルに押しつぶされていた。「優太くん,おじさんが今行くからな,頑張れよ」田端隊員が穴の中に入り込んだ,「よく頑張ったね」と声を掛けながら優太くんを穴の中から地表へと押し上げた。田端隊員は救出中,八か月になる自分の娘の顔が頭に浮かんだのである。その時「優太くんは絶対助ける。そして自分も生きて家族の元へ帰る」,この隊員自身も余震が続いて起こる地震の危機感を受けとめていた》
《優太くんを地上で引き受けたのは斉藤隊員であった。「寒さを必死にこらえている」そう思った斉藤隊員は強く抱きしめると,それに応えるように,しっかり腕に抱きついて来たと,その時の様子を語る。確かにテレビで見るかぎり下半身はハダカのようだったが,引出す時にぬげたのであろうか。奇跡の救出の瞬間である。一緒に作業に当たった長野県緊急消防援助隊の西沢隊長は優太くんが無事だったことについて新聞記事から,「子供の身体の柔軟性が一因かもしれない,穴の上に杉の葉や土砂が覆いかぶさり,風も吹き込まず,雨もしのげた,車のエンジンの余熱も生き延びたことと関係があるかも知れない」と話したと言う》
▽男児は助かったが、母親は助からなかった。悲劇でもあった。
▽この救出劇で、東京消防庁ハイパーレスキュー隊は全国から絶賛された。「当たり前の事をしただけ」と言うが、幼い命を助けた功績は評価されていい。
▽その家族を20年後、新潟日報が取材して、紙面化している。
《「この悲しみを一日も忘れたことはない」。新潟県中越地震で長岡市妙見町の土砂崩れに巻き込まれ、娘の貴子さん=当時(39)=と孫娘の真優ちゃん=同(3)=を亡くした魚沼市の皆川敏雄さん(88)が、新潟日報社のインタビューに応じた。地震では、もう一人の孫の男児(22)=当時(2)=が約92時間後に救助された。「3人とも助からなかったら、今ごろ生きてはいない。あの子が俺の支えだ」。希望と悲しみを胸に抱えてきた20年を振り返った》
《男児は3歳の時、ミハルさんに「僕も我慢しているから、ばあちゃんも泣かないで」と励まし、周囲を驚かせた。貴子さんと真優ちゃんの話を嫌がる時期もあったが、いつしか「心配させたくない。安心させてあげたい」と思うようになっていった》
▽拠出された男児は時折、各紙の紙面に成長する姿が登場していたが、最近は見かけなくなった。
▽その男児も22歳になった。たくましく生きているのだろうと思う。
▽一方、朝日新聞は24日の紙面(2024年10月24日付)でこう報じた。
《新潟県中越地震発生翌日の2004年10月24日未明、被災地で一つの命が生まれた。それから20年。復旧した長岡市山古志地区(旧山古志村)で育ち、大人になった子はいま、地元への思いとともに生きている。
長岡市の専門学校生樺沢あいらさん(20)。中越地震の発生から約9時間後、余震が続く近隣の町の病院で生まれた。父の地元が山古志で、自宅もそこに構えていた。
樺沢さんに被災の記憶はない。全村避難で入居した長岡市の仮設住宅の公園で、滑り台で遊んだことをうっすらと覚えているくらいだ。山古志の自宅は傾いたが、2年半後、全村避難の解除に合わせて修繕した。がれきや土砂などはすっかり片付き、復旧した山古志が樺沢さんの知る地元だ》
《山の暮らしが好きで戻ったお年寄りたちは子どもを大切にしてくれた。学校帰りには「お帰り」と声をかけられ、樺沢さんは震災のさなかに生まれて当時の住民を勇気づけたこともあり「地震の時の子」とかわいがられた。「我が子のように見守ってもらった」。樺沢さんにはそんな思いが、いまも強い》
★502日本はどこまで貧しくなるのか、東海林記者の著書から考える
▽現代日本の貧困とは具体的には何か。それを具体的にルポルタージュの手法で解いたのが、毎日新聞の東海林智記者の著書「ルポ低賃金」(地平社)だ。ここまで日本が労働者を貧困に追い詰めていく実態を改めて知った。
▽毎日新聞の東海林記者は、労働者の立場から一貫して取材する姿勢を貫いている。
▽この本では政府自民党が財界と組んで、新自由主義を徹底させたために、貧困層がさらに拡大していることを具体的に解いている。
▽特殊詐欺の受け子の話、労働者としての契約ではなく、個人請負を続ける母子家庭の話、シェアハウスで生活を続ける若者のの話、アマゾン宅配を請け負う労災の話、アルバイトから無期転換した労働者の話、ストを決行したデパート労組の話、非正規公務員話など、すべてが深刻な事例が紹介されて、そして筆者は怒りを持って記している。
▽アマゾンの宅配業者は、請負業者となっており、社員ではない。社員ではないから、労災が効かなかったり、時給が切り詰められたりする。若者は住むところがないから、ネット喫茶に住み家を求めている。住民票も取ることができない。公務員の非正規採用も多くなっていて、これも搾取される側になっている。
▽こんなに日本が貧困層を産んでいるのはだれだろうか。新自由主義を掲げて、労働者を搾取していったのは、だれなのだろうか。
▽私の家族もフードパントリーでボランティアをしているが、食料を求めて来るのは、母子家庭ばかりだ。明日の食事も困っている。
▽正規採用をどんどん切り捨てていき、労働者の大半が非正規雇用となっている。政府自民党の政策の実態がこれなのだ。大企業だけで儲かり、内部保留をため込んで、労働者を好きなように搾取していく。こんな仕組みにしてしまった責任は重い。
▽日本を代表するジャーダリストに、ルポライターの鎌田慧がいる。私が尊敬住めライターでもある。彼は労働者現場の話をずっと以前から書き続けてきた。その時の労働者の環境と、現代の貧困層の違いは何なのか。経営者が労働者を搾取するのは同じでも、貧困はさらに深刻になったと言えるのではないだろうか。
▽東海林記者は今年(2024年)8月にさいたま市であったジャーナリズム講演会で、ジャーナリズムとは何かと問われて、こう答えている。
「闇を照らす」
▽労働問題を追い続けてきた記者の重みを感じた。
▽ちなみに私が朝日新聞浦和支局で県警担当キャップをしていた時に、彼は毎日新聞新人記者としてやってきた。また共通の大先輩の知り合いでもある。その意味では古くからの仲間の一人だ。
★501鉄道写真家、中井精也さんの写真の魅力
▽鉄道写真家、中井精也さんの写真展「ゆる鉄絶景100」 ~中井精也が捉えた100の鉄道名景~が茨城県筑西市のしもだて美術館で開かれている。四季折々の風景を、鉄道というキーワードで撮影してみせる不思議な魅力がある。写真展は12月1日まで。
▽北海道の離島、利尻島にそびえる利尻富士。それをバックに北海道を走る宗谷線の列車を撮影してみせた写真に私は魅せられた。見事な写真構図。北海道宗谷地区で、海峡を挟んで、宗谷線と利尻富士をこんなに近くに描写してみせた。私はこの1枚に釘付けになった。
▽タイトルは「勇壮な利尻富士とラッセル車」。
▽かなり線密に撮影計画をたてて、かなり大胆に撮影場所を特定しないと、こんな見事な写真は撮影できない。
▽中井さんは、私の質問にこう答えた。
「東の風が吹いていないと、この写真は撮れなかった」
▽写真に添えているデータでは、500ミリの望遠レンズでの撮影だった。
▽残りの99枚の写真について、「流氷のオホーツク海と知床連山」「めがね橋に花開く銀河鉄道の夜」「千曲川雪国慕情」などタイトルだけでもイメージがわいてきそうな写真が並ぶが、その説明は割愛して、中井さんの写真の魅力を記したい。
▽鉄道写真家と言いながら、撮影する写真は、1枚の構図の中でごく一部だ。全国の四季の風景写真に、さりげなく列車だったり、ホームだったり、レールだったり、小さく入れる手法だ。日本全国の原風景が鉄道というキーワードで撮影している。これが魅力だ。
▽10月13、14日には本人の講演があり、大勢の人で賑わっていた。
▽中井さんはこう強調した。
「写真1枚のうち、鉄道が写っているのはごく一部。小さくして、四季の風景を入れている」
▽中井流の極意なのだろう。
▽しもだて美術館のホームページでは、こう案内している。
展覧会情報
しもだて美術館では、筑西市誕生と中井精也氏の人気ブログ「1日1鉄!」が20周年を迎えることを記念した<中井精也写真展「ゆる鉄絶景100」~中井精也が捉えた100の鉄道名景~>を開催します。
鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道にかかわる全てのものを被写体として独自の視点で撮影し、「1日1鉄!」や「ゆる鉄」など新しい鉄道写真のジャンルを生み出した中井精也氏。
本展では、中井氏のライフワークであり、鉄道が持つ旅情やローカル線で感じるゆるい空気感をテーマとした「ゆる鉄」作品から、誰もが息を飲むような鉄道絶景まで、宝物のような100の名景を紹介します。四季折々美しく変化する日本の自然の美しさ、そして、皆が忘れがちな日本の広さを感じていただけたら幸いです。
作家プロフィール
1967年、東京生まれ。鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道にかかわるすべてのものを被写体として独自の視点で鉄道を撮影し、毎日、その日に撮影した鉄道写真をブログで公開する「1日1鉄!」や、鉄道で感じる旅情やゆる~い雰囲気を作品にした「ゆる鉄」など新しい鉄道写真のジャンルを生み出した。2004年春から始めた「1日1鉄!」は2024年4月で20周年を迎えた。
また、2021年9月から日本全国を回りながら自らの作品を販売するギャラリー&ショップ「ゆる鉄画廊NOMAD」を展開中。広告雑誌のほか、講演やテレビ出演など幅広く活動している。株式会社フォート・ナカイ代表。2015年、講談社出版文化賞・写真賞、日本写真協会賞新人賞受賞。著書・写真集に「ミラーレスカメラと写真の教科書」(インプレス・ジャパン)、「カメラは魔法の小箱です」(玄光社)などがある。
○公式ブログ 「1日1鉄!」https://ameblo.jp/seiya-nakai/
○TVレギュラー 「中井精也の絶景!てつたび」/NHK BS・BSP4K 中井精也の「にっぽん鉄道写真の旅」/BS-TBS
★498スターバックスの利用と昔の喫茶店
▽久しぶりにスタバを利用した。チェーン店のスターバックスである。昔の喫茶店と違って、利用者の光景が全く違っていた。これでは昔のように、取材では使えないなと思った。
▽店内は多くの客で賑わっていた。私は決して安くないカフェラテを注文し、その飲み物を受け取って、空いている席を探した。ようやく見つけた席に座り、パソコンを取り出して、原稿を打ち始めた。
▽周囲を見るとおしゃべりを続けるママさんたち、パソコンを打ち続ける会社員たち、さらには辞書を開いて調べ物をしていて、タブレットでリポートを書いている学生たちがいた。
▽店内に席を仕切る壁や仕切る板などはないから、両隣の人間の会話や仕草は、もろに見えてしまうし聞こえてしまう。
▽しかし客の一人ひとりは、みんな夢中になっていて、他人の言動を気にする様子はない。
▽そしてかなりの時間、ずっと座っている。時折、スマホを取り出して、店外に行き、また戻ってくる人もいた。さらにはパソコンをそのまま置いて、外に出て衣類の買い物をして戻ってきた客もいた。つまりスタバの席を拠点にして、行動している客だった。
▽1人の店内利用時間が長いな、私は思ってしまった。1人で平気で2時間も3時間も店内にいるのだ。店からすると、客の回転率は非常に悪い。スタバの飲み物がかなり高いというのもうなずける。
▽私が新聞業界に入ったころは、喫茶店がまだ全盛期であり、対面取材をする場合によく利用していた。役所や企業の取材と違い、民間人を対面次第する場合は、喫茶店は便利だった。テーブルと座席は仕切られていて、周囲にも取材内容は聞こえない。極秘取材をしている場合、喫茶店は絶好の取材場所だった。
▽しかし、時代の推移とともに喫茶店が次第に減ってきて、スタバのようなセルフサービスの店が増えるようになった。取材場所としては適さない店が多くなった。
▽スタバの店内は、客同士の間に壁も仕切る板もないので、取材に使うには不向きだ。取材した話が周囲に筒抜けになってしまう。
▽では、昔の喫茶店に代わる取材場所はあるか。
▽そう、カラオケ店が使えるのだ。ここ数年、私はカラオケ店での取材をするようになった。ここだったら個室で、取材内容は漏れない。
▽喫茶店が全盛だったころが懐かしい。取材場所に困らなかったのだ。
★497袴田事件で初の女性検事総長談話にガッカリ
▽袴田事件再審判決で無罪が確定する際に検察庁が出した検事総長の談話には愕然とした。謝罪がないのだ。歴史的な談話として、永久に語り継ぐ必要がある。
▽以下はNHKがホームページで公開した談話の全文だ。
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検事総長談話 令和6年10月8日
◇結論
検察は、袴田巌さんを被告人とする令和6年9月26日付け静岡地方裁判所の判決に対し、控訴しないこととしました。
◇令和5年の東京高裁決定を踏まえた対応
本件について再審開始を決定した令和5年3月の東京高裁決定には、重大な事実誤認があると考えましたが、憲法違反等刑事訴訟法が定める上告理由が見当たらない以上、特別抗告を行うことは相当ではないと判断しました。 他方、改めて関係証拠を精査した結果、被告人が犯人であることの立証は可能であり、にもかかわらず4名もの尊い命が犠牲となった重大事犯につき、立証活動を行わないことは、検察の責務を放棄することになりかねないとの判断の下、静岡地裁における再審公判では、有罪立証を行うこととしました。 そして、袴田さんが相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも配意し、迅速な訴訟遂行に努めるとともに、客観性の高い証拠を中心に据え、主張立証を尽くしてまいりました。
◇静岡地裁判決に対する評価
本判決では、いわゆる「5点の衣類」として発見された白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型が袴田さんのものと一致するか、袴田さんは事件当時鉄紺色のズボンを着用することができたかといった多くの争点について、弁護人の主張が排斥されています。 しかしながら、1年以上みそ漬けにされた着衣の血痕の赤みは消失するか、との争点について、多くの科学者による「『赤み』が必ず消失することは科学的に説明できない」という見解やその根拠に十分な検討を加えないまま、醸造について専門性のない科学者の一見解に依拠し、「5点の衣類を1号タンク内で1年以上みそ漬けした場合には、その血痕は赤みを失って黒褐色化するものと認められる」と断定したことについては大きな疑念を抱かざるを得ません。 加えて、本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。 それどころか、理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている上、推論の過程には、論理則・経験則に反する部分が多々あり、本判決が「5点の衣類」を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません。
◇控訴の要否
このように、本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。 しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました。
◇所感と今後の方針
先にも述べたとおり、袴田さんは、結果として相当な長期間にわたり、その法的地位が不安定な状況に置かれてしまうこととなりました。 この点につき、刑事司法の一翼を担う検察としても申し訳なく思っております。 最高検察庁としては、本件の再審請求手続がこのような長期間に及んだことなどにつき、所要の検証を行いたいと思っております。
▽よく読んでほしい。要するに反省など全くしていないし、謝罪すら形だけ。人の人生の大半を国家権力として弄ぶことをしながら、何も考えていない。死刑判決が執行されたら、国家権力が無実の人間を殺したことになる。その意味が分かっているのだろうか。否、分かっていないから、検事総長になったとも受け取れる。
▽女性初の検事総長になったのだから、袴田さんに直接会って謝罪してはどうだろう。それこそ女性初の検事総長の意気込みだ。
▽これだったら、「初の女性検事総長」という肩書は必要ない。
▽参考に静岡県警のコメントも併せて紹介する。
《静岡県警 談話【全文】》
静岡県警察本部が発表したコメントの全文です。
袴田さんに対する無罪判決が確定することとなったことについて
(1)令和6年9月26日付け静岡地方裁判所の判決に対し、このほど、静岡地方検察庁が控訴しないとの方針を明らかにするとともに、その理由について、判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴すべき内容である一方で、袴田さんが、長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことを考慮した結果、控訴してその状況が継続することは相当でないとの判断に至ったとする検事総長談話が公表されたと承知しています。 (2)これにより、袴田さんに対する無罪判決が確定することとなりましたが、当時捜査を担当した静岡県警察としても、袴田さんが長きにわたって法的地位が不安定な状況に置かれてきたことについて、申し訳なく思っております。 (3)今後、最高検察庁において、本件の再審請求手続が長期間に及んだことなどについて所用の検証を行う予定であると承知していますが、静岡県警察においても、可能な範囲で改めて事実確認を行い、今後の教訓とする事項があればしっかりと受け止め、より一層緻密かつ適正な捜査を推進してまいります。
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▽袴田さんを完全に犯人として見ており、全くの反省がない。
▽今回のコラムはほとんどが談話のコピーばかりの原稿だが、記録して残したいと考えてこういう形にした。
★495宇都宮の路面電車ライトラインに乗ってみた
▽宇都宮市のJR宇都宮駅東口と芳賀町の芳賀・高根沢工業団地を結ぶ路面電車「ライトライン」(LRT)に遅ればせながら乗りに行った。マイカー中心となる交通利用者が多い北関東の地方都市で、こうした公共交通が根付くのか、大きな試金石となるだろうと私は思った。
▽2023年8月26日に路面電車としては75年ぶり、全線新設LRTとしては国内初となる開業にこぎ着けた。
▽全長14.6キロの複線。自動車交通との道路併用区間が9.4キロ。LRTのみが走行する専用区間が5.1キロとなっている。つまり全長のうち5.1キロは道路の上ではなく、専用のレールの上を走っていることになる。
▽平日のある日、私は大宮から宇都宮線快速電車で宇都宮駅に到着。駅東口デッキを歩いて、この新しい路面電車のホームに立った。案内板を見ると、交通系ICカードが使えるとなっており、私は持っていたiPhoneのモバイルSuicaで電車に入った。入る時と出る時のタッチセンサーは別々にあり、まずは入る時のタッチセンサーにiPhoneをタッチし、車内に入った。
▽電車はゆっくりと走り出し、直進区間では、やや速度を上げて走っていった。運転はワンマンカーで、3両編成。運転士が丁寧に車内アナウンスをして、料金の支払い方法を説明していた。宇都宮駅東口からの乗客はかなり多く、半分以上が観光客のようだった。カメラを持つ人、スマホを手にする人ら、珍しげに車外や車内の風景を撮影していた。
▽私はこの電車に乗ることが目的だったので、目的地はなく、最終益まで行った。片道約45分で、料金は400円だった。帰りも同じルートで乗った。年配の客が多い。止まる駅では、大型商業施設や観光施設などあり、観光客が乗り込んできた。
▽騒音もなく、揺れもなかった。車体のスタイルも流線型が格好いい。
▽この宇都宮の路面電車ライトラインで乗って思い出したのは、富山市の路面電車だ。富山市の路面電車はJR富山駅に接続することで利便性が高まった。市内の観光地を回っているので、観光客にも便利な存在となっている。その富山市もマイカー利用の交通利用者が多い。その点は宇都宮市と同じで、この公共交通機関が今後どういう経営の舵取りをするのかは、今後の利用者の推移によるだろう。今はまだ珍しげもあって、観光客や鉄道ファンが訪れているが、今後、利用客が増えるのか減るのか注視していきたい。
▽また札幌市の路面電車はすすきの駅と大通駅を直結したことで、利便性が高まり、市民の足としてさらに定着している。
▽これに比べると、私が住んでいるさいたま市では、もう何年も前から埼玉高速鉄道の延伸問題が浮上しているが、なかなか実現しそうにないのだ。地下鉄南北線と乗り入れし、サッカー会場である埼玉スタジアムがある浦和美園駅までで止まっていて、その後の延伸の見通しは立っていない。金もかかるし、土地買収の問題もあるだろう。それに比べると宇都宮市のこの路面電車ライトラインは成功すると言えるのではないだろうか。
▽乗車を終えて、私は宇都宮駅近くの餃子店に入り、餃子とビールを注文した事は言うまでもない。
★494「子持ち様」という言葉に共感と反論
「子持ち様」という言葉を知っているだろうか。私は2024年4月30日に放送されたNHKラジオの解説番組でその言葉を初めて知った。要するに、子育てをしている親や子供を持ってる人間に対し、迷惑だと揶揄する意味で使っている言葉なのだ。ラジオ番組では、リスナーの賛否両論の声を紹介していたが、これは日本の企業の構造的な問題だと私は思っている。
▽子持ち様とは、例えば子育てで会社を早退したり、会社を休んだりして、残された同僚に仕事が振り分けられ、同僚が不満を持ちながら仕事をしている時に使われる。または居酒屋で、子供がうるさく泣いたり、騒いだりしているのに、注意をしない親に対しての批判もこの言葉には含まれている。
▽このコラムでは、前者の、同僚に迷惑がかかる問題を取り上げたい。
▽私自身の経験から話そう。地方のある小さな支局で勤務している時だった。同僚の女性記者が子育てで、会社にほとんど出社しなかった、今で言うリモートワークをしていた。在宅勤務だった。支局での雑務はすべて私が引き受け、土日曜日の各種イベント取材は、私がすべて引き受けていた。子育てが忙しいのは当然だし、子供は人類の宝だ、という考えから見れば、当然のことだと思っていたが、一方では、私の仕事がその分かなり増えて、土日曜日も休みがなくなり、今思えば、かなりのただ働きをしていた。
▽その一方で当の女性記者は、会社ではまだ認められていない在宅勤務を続けており、本来なら時短給勤務なので給料を半減すべきなのに、フルタイムと偽って働いていて、給料はフル給料をもらっていた。
▽このアンバランスと不公平な勤務実態。今ではそう感じる。本来ならこの女性記者は私に感謝すべきなのに、感謝の一言もなかった。これが時短休で給料が半分になるなら、その分を私に回してもらいたかった、と今は思う。
▽NHKのラジオ番組では、この点に触れて、中小企業にはこうして同僚に負担が増える分の残業代を補助する仕組みがあることを紹介していた。それならいっそう、大手企業にも拡大してもらい、子育て中の、労働時間が短い人の給料は減らして、逆にその分は残された同僚の残業代をさらに積み上げるなどの制度があれば良いなと私は思った。
▽確かに子育ては大変なのは分かる。子どもは人類の宝という言葉も分かる。しかし、その人の子供のためだけに同僚は働いてるのではない。同僚に負荷がかかるなら、その分の残業代の積み上げないと、不満は残るままになる。
▽男性社員にも育児休暇が認められ、休みをとれば、当然ながら給料が減らされる。その減らされた分を、残った同僚に回していけば、不満もなくなるだろう。
▽日本型の終身雇用制は長く働けば働くほど給料が上がっていくシステムで、減らされるというシステムはない。同一職場、同一賃金のシステムが長い間続いていた。
▽その一方で、こうした子持ち様が増えれば増えるほど、そのシステムが崩壊していく。子持ち様が増えていく状況を、企業がどう対応していくか。
▽子持ち様は、日本の終身雇用制度が崩壊し、男女が平等になってきたことの裏返しでもある。労働に見合った対価を支払うべき時代に入ったのだ。
★492裁判員裁判とその批判記事掲載に文句が来た
▽裁判員制度を批判した記事を載せようとしたら、総局長が文句を言ってきた。せっかくの司法改革なのに、何なんだ、という理屈だが、この理屈こそおかしい。
▽私がある地方総局でデスク当番をしていた時だ。当時、裁判員裁判がスタートした直後で、その制度に賛否があった。地元弁護士グループが開催した集会で、裁判員裁判を批判した。若い記者がその集会の話を原稿にした。私はその原稿を見て、手直しをして使った。
▽すると間もなく、総局長から電話があって、
「扱いが大きい。もっと小さくしろ」
と言ってきた。
▽理由はこうだ。裁判員裁判は司法改革の一つで、裁判の判決に市民感覚を採り入れる、という重要な案件だ。それを批判するのはおかしい。
▽こんなやり取りだった。
▽確かに司法改革の一環として、裁判員裁判があるのは分かるが、シロウトの市民が、法律という厳格な解釈と運用を求められる場で何ができるのか、と私自身も考えていた。例えば凶悪な事件が発生し、被害者の立場に感情移入してしまえば、死刑判決が一気に増加するのではないか、と懸念している。
▽私はムッとしたが、その書いた記者に行数を少し削るよ、と言って、原稿を削った。しかし、趣旨は変えなかった。
▽新聞は司法改革に賛成する立場でも、反対する立場でもない。そのはずなのに、この総局長は賛成する立場から、我々に指示してきたのだ。
▽この総局長は本社でも司法担当を長く続けてきた人間で、司法改革の会議にも参加していた。つまり国側の人間になっていたのだ。
▽ミイラ取りがミイラになる、というこういうことなのか、と私は思ってしまった。
▽その後、裁判員制度はずっと続いているが、それは成功したのか、していないのか。私としてはまだ結論は出ていない。
★490新聞記者を主人公にした台湾映画を見た
▽アマゾンプライムで配信された映画「目撃者▽闇の中の瞳」を見た。2017年に製作された、完成度の高い台湾映画だった。地方新聞の若い記者が主人公の映画。偶然と必然が重なり、最後まで謎解きが必要で、ストーリーも面白かった。
▽私は40年間、新聞記者生活を続けてきたためか、新聞記者が主人公となる書籍やテレビ、映画を積極的に見てきた。テレビや映画になった「クライマーズ・ハイ」はもはや古典的な作品と言われているが、新聞社らしい舞台を再現し、それでも完成度の高い作品になっている。
▽そして今回の台湾映画だ。
▽冒頭は豪雨の中の車内で目撃したクルマの衝突事故。新聞記者の研修中だった若き主人公が目撃する。
▽それから9年。新聞記者として活躍する主人公が載っているクルマで事故に遭う。そのクルマが、9年前の事故の当事者の車であることを知る。そこからが一歩一歩、なぜこのクルマが事故を起こしたのか、新たな事実を知ろうと取材を始める。
▽まずは9年前の事故の加害者は、実は自分の上司の編集局長で、不倫相手とドライブをして事故に遭った。事故を隠蔽するため、知り合いの修理屋に依頼し、ナンバーをすり替える。また被害者の車にも男女が乗っており、女性は病院に入院するが、行方不明になる。主人公はこの女性を探し出すが、女性は取材を拒否。そして謎の男が女性を監禁する。次第に分かる真相。
▽被害者の男女は実は誘拐殺人事件で身代金を持って運転中だった。その事件の首謀者が、病院から抜け出し、いなくなった女を捜し出して監禁した。主人公はその女を追って近づくが、逆に殺されそうになる。その最後の決闘シーンを映画は伏せたまま、事件が終わり、編集局長は国の大臣になり、主人公は新聞記者を辞めて国の広報主任となって登場。そこで殺人事件の首謀者と主人公のやり取りがあり、逆に首謀者を殺害したことが、思い出話として振り返られる。さらには主人公もまたその交通事故の目撃で、200万の金を盗んでいたことを、自分の回顧シーンとして映し出すのだ。まさに最後の最後まで見ないと真実が分からない映画。完成度は高いストーリーだった。
▽ネットでの紹介ではこうあった。
《中古で買った車がかつて目撃した交通事故に関わった車であったことから、主人公が思いがけない事態へと陥っていくさまを描いた台湾製サスペンススリラー。ある嵐の夜、新聞社の実習生シャオチーは、郊外の山道で当て逃げ事故を目撃する。被害者の男性は死亡し、助手席の女性もひん死の状態という重大な事故で、シャオチーは現場から逃走する車を撮影する。しかし事故が記事になることはなく、犯人も捕まることはなかった。それから9年後、敏腕記者となったシャオチーは、買ったばかりの中古車の元の持ち主が9年前の事故の被害者だったと知り、事故の真相究明に乗り出すが、その最中に不可思議な事件が巻き起こる。台湾のアカデミー賞といえる第54回金馬奨で主演男優賞ほか5部門にノミネートされるなど、高い評価を得た》
▽地方新聞を舞台にした、こうした映画をもっと見たいと思った。日本の作品では、新聞社の舞台ではないが、新聞記者が殺された「朽ちないサクラ」が面白かった。公安警察の存在を嫌というほど描き切っていた。
★489ネトウヨの論理と弱者攻撃の構図
▽ネトウヨの攻撃とそれに反発する言論に対して、ネトウヨが新たな反論をしないで、言論陣が守ろうとする弱者に攻撃を加える、という図式を今の日本で成り立っている状況を解説してくれるのが、「炎上社会を考える」(伊藤昌亮、中公新書ラクレ)という本だ。あれだけの差別発言を続ける自民党の杉田水脈議員をこの構図に当てはめると、杉田議員が何をしたいのか分かってくる。
《一部の右派の攻撃は、マイノリティを弱者認定している社会的強者としてのリベラル派よりも、もしくはそれと並行して、むしろ弱者認定されているマイノリティそのものへと向かう。その結果、エスニックマイノリティや女性など、社会的弱者への差別があえて強調され、ヘイトスピーチが繰り広げられることになる
▽まさに杉田議員の論理と一緒だ。杉田も自分の言動がリベラル派に批判されても、その批判には全く答えず、リベラル派に保護された少数派をターゲットにして攻撃しているからだ》
▽さらに本書では、そのために右派がやったのは、偽情報をひねり出すことだったとして、こう指摘する。
《すなわち、フェイクニュースや陰謀論などだが、そこにもやはり彼らなりの戦略がある。それはいわば、知識の点では歯が立たない相手である。(中略)知的特権階級とやり合おうとするとき、相手の土俵、つまり知的な論争という場で戦ってしまっては、彼らに勝ち目がない。そこで彼らはそうした場そのものを無効化し、相手が力を出せないようにしてしまおうとする。そのためにはそうした場のルール、つまり実証という手続きを踏まえて相手と論争しなければならないというルールそのものを無化してしまえばよい。そこでフェイクニュースや陰謀論など、ルール無視の言論があえて持ち出されることになる》
▽杉田議員がこれまでの差別言動を取り続け、批判されてもやまないのは、こうした構図があるからだろう。
▽否、杉田議員だけではない。自民党や維新の議員が切り返す差別の言動は、こうした構図から出ていることを知った方がいい。
▽では対策はどうするか。
▽同じ土俵に引っ張り出し、言論で戦うしかないだろう。そしてこんな議員は選挙で落とす。それしかないだろう。
★488安易に朝日新聞記者を名乗るな
▽これは私の知り合いの女性が就職した銀行支店で実際にあった出来事だ。こんな場所で、朝日新聞記者を名乗るのはやめてほしい、という話だ。
▽就職した銀行支店の窓口である日、ある女性がその窓口に来るなり、いきなり、
「私は朝日新聞の記者です。○○さんを出してください。私は妊娠しています」
と怒鳴ってきたのだ。
▽支店内は騒然としたという。
▽以前付き合ってた男性の子供を妊娠したが、男性はこの女性から逃げたようで、付き合いがなくなり、その男性を探していたのだろう。
▽男が逃げたと判断したこの女性は、朝日新聞記者を名乗ることで、逃しはしまい、と判断したのかもしれないが、こんな銀行員や利用者がいる支店で、朝日新聞記者を名乗って、付き合っていた男を出せと言うのはよろしくない。
▽どの業界でも、自分の会社名を誇らしげに言う人間はいるが、新聞記者は自分の社名など言うものではない。隠密に行動し、自分が新聞記者とは悟られないように動くのは鉄則だ。
▽この女性者は、朝日新聞記者と名乗ることで、この銀行で働いている過去の恋人の男性を差し出してくれるとでも思ったのだろうか。
▽この話を聞いた時、私は恥ずかしくなってしまった。
▽私は外部で新聞記者であることを名乗る事はないし、ましてや朝日新聞記者であることを見知らぬ人間に話したこともない。取材では当然ながら身分を名乗るが、知らぬ場所で、新聞記者と名乗ることは絶対にない。
▽この女性は妊娠していて、差し迫った気持ちになったのだろうが、銀行に勤める男性は、この女性記者から逃げていたのだ。男女関係に口を挟むものはではないが、一度外に出て、見知らぬ人間が多くいる場所で朝日新聞を名乗るのはやめた方がいい。
▽私的な旅行をする場合に、宿泊するホテルや旅館では実名ではなく偽名を使っていた時代もあった。それだけ新聞記者は隠密行動を取ってきた歴史がある。
▽朝日新聞の大先輩である本多勝一は、かつて右翼からの襲撃に備えて、カツラをかぶってサングラスを掛けて変装していたことがある。世間一般に顔を知られないための措置だった。それだけ新聞記者は慎重に行動する必要があるのは昔も現在も同じだ。
★487新聞と民放の「独自」ニュースの違い
▽最近、「独自」とうたって放映する民放の番組が多い。しかしその「独自」とうたっているものはドライブレコーダーから得た交通事故の動画だったなど、その独自の意味が低下している。こんなものを「独自」とうたっている民放の報道番組は悲しい。「独自」とは、本来は特ダネであり、他社も追いかけるはずの内容だが、最近はこんなつまらないものに「独自」とうたっているのだ。
▽そもそもなのだが、新聞社の場合、「独自」という言葉は社内だけで使ってきた言葉である。「独自」とは独自ダネのことで、特ダネとは言わないまでも、独自に取材した結果、ニュース価値が大きいと判断し、紙面で大きく扱う内容のニュースだ。調査報道の結果など、社会的にも影響が大きいものを、独自ダネとしてきた。
▽ただし、社内での社内用語のため、紙面に「独自」とは書かないし、独自という言葉、読者には分からないようになっている。社外に言うべき言葉ではない。
▽だからこそテレビが、特に民放が「独自」と画面にテロップで出して、それが視聴者から得たドライブレコーダーの映像を流しているのを見て、私はがっかりしてしまう。
「こんなものが独自なのか」
と驚くのだ。そして笑ってしまう。「独自」という言葉のレベルが低すぎる。
▽民放の報道番組と称する中では、こういう「独自」という言葉を多用し、読者を誤解させているニュースが多すぎる。
▽これでは視聴者のテレビ離れがさらに進むかもしれない。若者たちがテレビを見ないのは、インターネットの普及によるものが多いとされているが、テレビではこんな番組しか放映しないんだから、当然テレビ離れが起きるのだ。
▽民放の「独自」は、視聴者を馬鹿にしているだけだ。そのことに気づいていないのが悲しい。
★484ウインカーが先かブレーキが先か、それは民度の問題だ
▽乗用車を運転し、交差点で左に曲がる。その際、ウィンカーを出してハンドルを切るが、同時にブレーキもかける。このウィンカーを出すことと、ブレーキをかけることの順番をめぐって、私はその地域の民度が反映されていると思うようになっている。何回も書くが、危険な行為はやめてほしい。
▽通常、乗用車を運転していて交差点を曲がる場合、ウインカーを出し、曲がりやすいように減速するためブレーキをかけて、同時にハンドルを切る。これが通常の運転の仕方だが、逆になるドライバーも結構多い。つまり、ブレーキを踏んでから減速し、次にウインカーを出して、ハンドルを切るのだ。些細な違いのように見えるが、全く違う運転方法だ。
▽通常はウインカーを出す。そうすることで継続の車や周囲のドライバー、周囲の歩行者に対して、自分のこの車が交差点を曲がるんだ、と知らせる意味がある。そうすることで周囲も、気づく。
▽逆にブレーキを先に出すと、後続車は急ブレーキをかけたと思い、次々と急ブレーキをかけてしまうのだ。それからウインカーを出しても、もうすでに遅い。周囲のドライバーや歩行者は、この運転手は何をやりたいのかわからないのだ。そう、非常に危険な行為なのだ。
▽こんなマナー違反なドライバーが地方には結構多い。地方への転勤が多い私が見た限り、新潟県では全体の7割がそうだった。群馬県でも8割ぐらいがそうだった。要するに、まともな運転ができていないのだ。
▽最近は首都圏でもそういうドライバーが多い。多くは年寄りや女性ドライバーだ。
▽ここに私は民度を感じてしまう。都会ではこんな運転をしたら、クラクションを真っ先に鳴らされて警告を受ける。危険な行為のためだ。ところが田舎では、こうした行為に対してみんな注意もしない。だから、当然の事として、こんなマナーが身に着いてしまい、危険な運転を続けるのだ。
▽民度とはこういうものだと私は思う。地方を馬鹿にするわけではないのだが、民度さえ高ければ、これが危険な行為だとわかるだろう。危険な行為だと認識できないから、こんな運転を続けるのだ。
▽このコラムを読んで我が身に心当たりがあるなら、明日からでもきちんとした運転をしてほしい、と私は思っている。
★480情けなくなる朝日新聞と毎日新聞の埼玉地方版の紙面
▽最近の朝日新聞と毎日新聞の地方版を見ると愕然とする。要するに記者が担当の地元自治体や議会を取材していないことがよく分かる紙面作りなのだ。かなり手を抜いて取材していることが、紙面から分かる。情けなくなってくる。
▽私は新聞記者を40年間続けてきたから分かるが、朝日新聞はベテランと称する記者たちが、与えられた仕事を全く仕事をしておらず、地方自治体や議会を全く回ってないことが紙面からわかる。そんな記事が出てこない。一方の毎日新聞は問題意識の強い記者がいるゆえ、地元の実態や議会などを取材せず好きなことを書いている。どちらも読者を無視した紙面作りだ。
▽まずは朝日新聞から見ていこう。私はさいたま市に在住しているので、自宅に届く朝日新聞も毎日新聞も、地方版は埼玉版だ。
▽何回か書いているが、朝日新聞は地方の取材網を縮小しており、私がかつて勤務していた埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局も秩父支局も現在は廃止している。さらには川越市にあった西埼玉支局も、県南の川口支局も廃止していて、それぞれの地元に記者は置いていない。一方で、県庁所在地のさいたま総局に記者を集約してており、それぞれ越谷にも川口にも、県南西部の朝霞、和光などの各市の担当記者がいる。
▽しかし、この半年、越谷や草加市などの地元の記事はほとんど見かけない。県南の川口市や戸田市などの原稿も全く見かけない。県西南部の朝霞市や和光市の議会の話や自治体の話、地元の話題も全く掲載されていない。
▽これはなぜか。
▽要するに担当記者がいるのに、地元を回っていないのだ。新聞記者にとって地元を回るとは、地元の役場や議会、地元の人間を取材することであり、ふだんから定期的に回らないと、いい取材は出来ないし、書けない。
▽担当記者が地元の地方自治体を全く回っていない。だから記事が全く出てこない。それゆえに記事が出てこないのだ。ここまで酷いのかと思う。
▽簡単に言うが、地元を回るというのは、時間がかかる。どんな話があるか分からないから、無駄と思える取材時間も長い。それを無駄と考えないで、自治体や議会を回るのが、取材の鉄則だ。
▽その鉄則を守らないから、原稿が出てこない。好きなことばっかりやっているから、地方自治体を無視してる。朝日新聞の取材網が縮小されて、記者も全くやる気がないように思う。
▽これは大きな意味で、朝日新聞の危機だ。
▽取材するには回る努力と能力がいる。そういうことを全く放棄している。それが今の朝日新聞のベテラン記者の現状だ。がっかりする。
▽一方の毎日新聞はどうか。こちらは問題意識の高い記者が何人かいて、逆に好き勝手な紙面を作っている。埼玉とは全く関係ない記事が多すぎる。東京で開催された狭山事件の集会を延々と記事にしても、それを埼玉版に掲載する必要があるのかどうか。市民運動の主催者から見れば良い記者であり、良い毎日新聞であるかもしれないが、こんな紙面は新聞ではなく、市民運動の機関誌の紙面だ。新聞ではない。いくら問題意識が高くても、頻繁にそういう記事を埋める必要はない。記者はどこか勘違いしているとしか思えない。紙面を作って、自己満足しているようで、こちらも愕然とする。もっと地方自治体や議会を回って、今地方で何が起きているかを取材してもらいたいと思うが、そうにはなっていない。
▽これがここ半年の朝日新聞と毎日新聞の埼玉版の現状だ。読者が減っていくのは無理もない。OBとしては嘆かわしい。
★478死刑と戦争の論理を一場面に据えた映画「ロストケア」
「僕が人殺しなら、あんたも人殺しだ。僕を死刑にさせようとしている」
▽地方検察庁で被疑者を取り調べている女性検事に、被疑者はこう主張する。
▽これに対して、女性検事はこう反論する。
「法システムの死刑と殺人は違う」
▽この反論に、被疑者はつぶやくように言う。
「戦争と同じだな」
▽映画「ロストケア」で流された一場面だ。女性検事と殺人犯の被疑者のやり取りの中で、まさに死刑問題と殺人事件というテーマの深い問題を問いかけているのだ。
▽まずは映画そのものを紹介しよう。ホームページにはこうある。
《松山ケンイチと長澤まさみが初共演を果たし、連続殺人犯として逮捕された介護士と検事の対峙を描いた社会派サスペンス。ある早朝、民家で老人と訪問介護センター所長の死体が発見された。死んだ所長が勤める介護センターの介護士・斯波宗典が犯人として浮上するが、彼は介護家族からも慕われる心優しい青年だった。検事の大友秀美は、斯波が働く介護センターで老人の死亡率が異様に高いことを突き止める。取調室で斯波は多くの老人の命を奪ったことを認めるが、自分がした行為は「殺人」ではなく「救い」であると主張。大友は事件の真相に迫る中で、心を激しく揺さぶられる》
《斯波を松山、大友を長澤が演じ、鈴鹿央士、坂井真紀、柄本明が共演。作家・葉真中顕の小説「ロスト・ケア」をもとに、「そして、バトンは渡された」の前田哲が監督、「四月は君の嘘」の龍居由佳里が前田監督と共同で脚本を手がけた》
▽映画そのものは、死刑制度を扱ったものではないが、大量殺人と死刑制度を背景に、死刑を求刑しようとする女性検事と被疑者とのこのやり取りは、まさに見ものだ。
▽そして判決を前に、被告人席で被告は検事に訴える。僕は正しかった、と。介護問題に絡めて、完成度の高い映画になっていた。死刑映画週間のイベントに入れてもいい作品だ。
▽私は死刑問題をライフワークとして取り組んできたが、今一度、死刑問題を整理しよう。
▽日本は先進国の中で、米国の一部州とともに、死刑制度を存置する数少ない国家だ。
▽日本の死刑手段は絞首刑だ。死刑制度は野蛮だとして、過去には死刑制度の廃止法案の上程も検討され、死刑廃止運動も続けられてきたが、日本政府、法務当局は死刑制度を多くの国民が支持しているとして、制度変更の態度は示していない。
▽死刑制度は、国家の名前で被告人の生命を奪う。合法的な殺人だ。合法的という意味では戦争と同じだ。戦争も国家の名前で、相手国の国民を合法的に殺す。
▽この映画の、女性検事と被疑者のやりとりは、まさにこれを指している。この脚本を手がけた両監督の問題意識の高さに感心する。
★476「紫電改のタカ」はちばてつやの強烈な反戦漫画だ
▽子どものころに読んだ漫画家ちばてつやの「紫電改のタカ」を改めてコミックで読み返した。そしてこの作品はちばてつやが放った強烈な反戦漫画であることを強く感じた。
▽ネットで購入して読み進めた。零戦と紫電改という日中戦争、太平洋戦争で活躍した戦闘機に乗る少年撃墜王という主人公を設定して、敵の戦闘機を撃ち、味方に裏切られ、そして最大のライバル、米軍戦闘機との戦いを終えて、何のために戦争をするんだ、という自分自身に問いかける主人公のシーンがいい。
▽計6巻のうち、6巻の最後のシーンは私が子どもの時に読んだ記憶と同じだった。それだけ印象的なシーンだった。主人公が特攻隊に出掛けてしまい、面会に行く母と幼なじみの女の子と会えないで物語を終えている。
▽その前のシーンでは、特攻隊に行けと命令を言い渡される主人公が日本が負け戦になるのを感じて、上官に向かって、「死刑執行人」と叫ぶが、その上官も特高に行くことを語り、涙を流しながらその非情を伝えるのだ。このシーンがいい。
「自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを信じようと努力しながら」
と、最後のコマでナレーションは伝えている。
▽昔の作品なのに、そして子ども相手の作品なのに、かなり感動的、そして重い感動である。
▽特攻で多くの日本人の若者が無駄な死に方をして、一方で特攻を命じた軍幹部は、最後まで責任を取らずに生き残ったし、逃げ回った。
▽この史実、真実はいつまでも忘れたくないし、覚えておきたい。
▽ちばさんよ、ありがとう。
★474高級化と庶民化の二極化したそば屋
▽087本目のコラムとして「手打ちそばのウソ」を地方支局編に掲載し、高級化路線を取った埼玉県秩父地方のそば屋の話を書いたが、今回は庶民化路線を続ける立ち食いそばのことを記したい。
▽ここ10〜20年で国内のそば屋は、二極化が進んでいる。コラム「手打ちそばのウソ」では、高級化路線を取ったために看板である「手打ち」が実はウソであるのに、そのまま偽って続けている店が多くなっていることを取り上げた。「手打ち」と銘打つことで、高級化路線に見せかけようとしたが、実は手打ちなどは行っておらず、製麺会社から取り寄せてそのまま提供するか、機械で手打ちのように見せかけて、売っているだけだった。そういう店が多いのに愕然とした記憶がある。
▽しかも昼だけの営業で、夜に開く店はほとんどなかった。ビールを1杯飲んで、そして最後にそばで締めるという私のスタイルは、秩父地方ではついに出来なかった。こんなのそば屋ではない、と思ったものだ。
▽一方で庶民化家路線の象徴である立ち食いそばも、私は好きだ。
▽鉄道の駅では立ち食いそばの店があり、仕事に急ぐサラリーマンやOLが立ち寄ってズルズルと蕎麦を食う。ときには卵を入れたり、天ぷらをトッピングしたりして、庶民っぽい高級感を出そうとするが、立ち食いそばは、所詮そばだ。そんなに高くない。500〜800円が相場だろう。
▽私はこういう立ち食いそばが好きだ。時間がない時は移動中の駅の立ち食いそば屋により、フーフーとそばを食う。これで充分だ。高級そばと何が変わるのだろうか、と私を思ったりする。
▽日本海に面した新潟県上越市のJR直江津駅での立ち食いそばもうまかった。微妙なつゆの濃さと生卵の甘さ。そして麺が絡み合ってうまいのだ。高級蕎麦などいらなかった。反面、JR長野駅での立ち食いそばはまずかった。麺とつゆがマッチしなかったのだ。長野出身の友人にその話をすると、そんな場所で食うのがいけないのだ、と逆に言われてしまった。違うだろうと思った。そんな場所でもまずくない、否、料金に似合った立ち食いそばを食いたいだけなのだ。私はちょっと驚いた。信州そばに対する誇りがあるのだろうが、立ち食いそばでもうまくなくてはいけないのだ。
▽九州。鳥栖駅で食った立ち食いそばもうまかった。ゴボウの天ぷらが載っていた。シャキシャキと食感がよかった。
▽関越道花園インターから降りると、秩父方向に向かう道の駅の隣に、大きな蕎麦屋「花園蕎麦」がある。大根蕎麦が売りの蕎麦屋だ。この店で私がいつも食べるのは、トマトカレーそばだ。埼玉県北本市が売り出しているそばで、これまたうまい。麺は機械式で出しているのがわかる。手打ちではない。食べ方もセルフサービス方式で、讃岐うどんの店舗に似ている。そばを注文し、天ぷらや野菜などを自分でチョイスして会計で支払う。これまたうまいのだ。値段も高くない。
▽そばはこれでいいのだ。
▽寿司と一緒で、江戸時代からあったファストフードなのだ。高級化を取っても固定客が毎日来るわけではあるまい。そば屋は所詮そば屋。安くて早くて、すぐに食べるのが嬉しい。
▽そういえば、東京本社に勤務していた時、山手線各駅で立ち食いそばをずっと続けてきたことを思い出した。取材で忙しい時は立ち食いそばで充分なのだ。
★469愕然とする現役の朝日新聞記者のコメント
▽朝日新聞の現役記者である編集委員が、朝日新聞デジタルにトンデモナイ意見をコメントとして掲載していた。「今の新聞記者は夜打ち朝駆けなどしていない」と言い切るコメントだった。本社に限らず、地方記者に限らず、夜討ち朝駆けをしない記者など、新聞記者ではないだろう。驚く認識に、私は愕然とした。
▽この記者は、転職経験者のうち、元の会社に戻りたいと思っている人間が3割もいるという記事について、自分の経験を踏まえてコメントを語ったものだ。
▽こう書いている。
《【視点】▽「戻りたい」という気持ち、とても分かります。私は1999年に報知新聞社に入社し、2006年に朝日新聞社に移ってきたのですが、最初の数年間は本当に何百回も「戻りたい」「前の会社を辞めなければよかった」と思っていました。
▽その理由は、あまりにも色んな文化や価値観が違いすぎたことや、当時はじめて配属された総局での生え抜きの人たちの中途採用者に対する扱いへの戸惑いや違和感・不信感(いまの会社では、そういう「文化」は感じません。また、当時??な対応をしていた人が年々私に対する態度を変えました)、芸能をメインにしていた仕事から事件担当になって刑法・刑訴法の勉強をしなければいけなかったことに加えて平日はもちろん土日祝日を含む夜回り・朝駆けが当たり前だった当時の勤務に疲弊したからです(もちろん現在は一般紙でも、そんな働き方はありえません)》(2024年9月2日朝日新聞デジタル配信)
▽問題はここだ。
《平日はもちろん土日祝日を含む夜回り・朝駆けが当たり前だった当時の勤務に疲弊したからです(もちろん現在は一般紙でも、そんな働き方はありえません)》
▽夜討ち朝駆けの手法について、一般紙でもそんな働きはあり得ないと書いているのだ。地方総局で、夜討ち朝駆けをして、大変な目にあったことを書いている。そして今の新聞記者は働き方改革もあって、夜討ち朝駆けなどをしてない、と一般論を述べていた。
▽驚くべき認識だと思った。今の朝日新聞社会部も、政治部も、経済部もそれぞれの記者は、夜打ち朝駆けをしていないと言い切っているのだ。
▽そんなことがあるだろうか。それだったら、東京地検特捜部の特ダネも取れないし、警視庁も特ダネなど出ないだろう。政治部や経済部の記者の特ダネもないだろう。
▽定時に始まって定時で終わるような仕事では、とても情報など取れない。権力の情報を取るためには、権力の懐に飛び込んでいくしかないのが現実なのだ。それをこの編集委員は完全に知らないでいる。そのことに驚く。朝日新聞にこんな記者がいるということに驚く。地道に夜討ち朝駆けをしている記者に失礼だ。
▽記者会見に限らず、当局の発表をそのまま書いていたのだったら、単なる広報であり、新聞記者ではない。その広報の裏側に隠されたもの、または権力が隠しているものを暴露するのが、記者の仕事だ。その手法の一つが夜討ち朝駆けだ。それをこの記者は否定していた。否、知ろうとしていないだけだ。ここまで朝日新聞記者は堕落してしまっているのかと私は思ってしまった。
▽もう一度言う。夜討ち朝駆けを否定する記者など、記者ではない。記者会見だけを聞いて取材してるのならば、それは記者の堕落でしかない。
★467なぜ高くなる葬儀費用に疑問
▽8年前に父親を亡くした時、私が喪主となって、葬儀を行った。当時私は新潟県秩父市の朝日新聞秩父支局に勤務していたから、葬儀会社とのやり取りは、私の妹家族がやってくれたが、今振り返っても、相手の言いなりになってしまい、不要な、そして無駄な出費が異様に多かったと思っている。
▽90歳を超えていた父親は次第に体力が衰えて、入退院を繰り返していた。付き合いをする人間もおらず、最後は私たち家族らが交代で見守っていた。私も休みを取って、病院に足を運んだ。そして大丈夫だと思って、佐渡支局に戻ったら、突然の死亡となった。
▽実際の通夜となった会場に行って驚いたのが、その会場の部屋の広さだった。親類が九州から来てくれたが、それでも私たちも含めて20人も満たない。100人は収容可能なスペースで、後に知ったがその分の使用料金も高かった。
▽事前の打ち合わせで、葬儀会社はこう質問してきたという。
「お父様は、お花が好きでしたね」
「お父様は、音楽が好きでしたね」
「お父様は、お酒が好きでしたね」
▽急な死亡で、遺族が混乱している時に、こういう質問をされても、そうだと答えるしかない。
▽すると葬儀会社が出したものは、無駄な演出だったのだ。
▽「お花が好きだった」という答えの演出は、祭壇に飾る花を目いっぱい飾ったことだったた。これだけで100万円近い支出になった。
▽「音楽が好き」ということの演出は、何と通夜の最中にエレクトーン奏者がエレクトーンを30分弾いていたことだ。これも数十万円かかっていた。
▽さらに「お酒が好き」となると、父親の死体の唇に、日本酒を染みこませた脱脂綿棒を着けて、湿らせた演出があった。これも数万円。
▽今考えても、おかしい演出だ。すべてがこのようなオプションを用意して、遺族に押しつける商法なのだ。
▽急な死去で混乱している遺族に、オプションを押しつけて、金儲けする葬儀会社。おかしくないだろうか。
▽以前読んだ本を紹介したい。
「葬儀という仕事」(小林和登、平凡社新書)
▽葬儀屋に勤めて独立した筆者の、葬儀屋の実にいい加減な、法外な仕事の内容を、冷静に綴った内容だ。好感が持てる。葬儀代が異様に高くなる仕組みから戒名すら金で買うという事実まで、経験からか説得力がある。
★463我が母校出身者になぜかマスコミ関係者が少ない
▽私は千葉県立東葛飾高校という地方の進学校の出身者だ。地元では「葛飾高校」と略称した名前で呼んでいる。その東葛高校の出身者で私の学年で同窓会を開くことになり、幹事作業を引き受けている。ここで感じるのは、私の高校出身者で、マスコミ関係者が意外に少ないということだった。伝統高校なのに、とちょっと驚いている。
▽60歳の還暦同窓会で、私は42年ぶりに会う同学年の同窓会の連中を見てそう思った。医者や裁判官、学校教諭、自営業が多い中で、マスコミ関係者がいないのだ。新聞や出版、放送局の人間はいなかった。大手企業の子会社の社長になっている人間もいた。しかしマスコミの人間はいなかった。
▽我が母校と同じように比較されて並べられる県内の進学校には、千葉校と船橋高校があるが、この二つの高校の出身者で、マスコミ関係者はかなり多い。NHKの元記者岩田明子記者も千葉高校出身だし、朝日新聞でもこの二つの千葉高校、船橋高校の出身者は多い。
▽東葛高校は在野精神をー重んじる高校と言われ、マスコミ関係者が多くいても不思議はないのに、なぜいないのだろうか。
▽ふとこんなことを考えると、思い当たるのは、自由な高校だった、ということだろう。高校としては珍しく学園闘争があり、千葉県では唯一の私服高校になり、自由だった。授業もよくサボっていたし、中間テストはなく、期末テストだけだった。一部の人間を除いて、多くの人間が部活やスポーツ、音楽に励んでいた。それ故、多くの人間が現役で大学には行かず、浪人していた。この影響だろうか、マスコミを目指す人間もいなかったのだろう。新聞記者を40年間務めた私が確信して言えるのは、勉強をしないとジャーナリストにはなれないということだ。本を読まないとならないのだ。これが出来なかったのかなと思ったりもする。
▽マスコミ関係者がいれば、同窓会に出席しても、その方面の話が自由にできるのに、と残念に思うのだ。
▽逆にクラスメイトだった女性からは、僕が新聞記者になっていることを知ると、「原君は昔から変わっていたから」と言われたぐらいだ。
▽私がジャーナリストを目指したのは高校3年の時で、それまでは勉強と言えば、数学しかできなかった。数学の成績だったら、多分学年で1番だっただろう。しかし、そんな数学を捨て、ジャーナリストになろうと思ったのは、そのカタカナの職業に憧れたからだ。ジャーナリストになりたいと思い始めて高校を卒業した。当然大学は落ち、浪人生になったけど。
▽ただし政治家はいる。五輪担当相になったパソコンを使えない衆院議員桜田義孝だ。情けない。
★458不漁続きのサンマの刺し身を食いたい
▽秋の味覚、サンマの刺し身を初めて食ったのは、1985年ごろだった。当時、札幌市に住んでいて、北海道根室市に勤務していた友人が、土産として持ってきてくれた。
▽根室で水揚げされたばかりのサンマを真空パックにして、車で8時間もかけて持ってきてくれたのだ。初めて食ったサンマの刺し身がこんなにうまいとは、思ってもみなかった。
▽そんなサンマの刺し身が、流通の進化によって、全国で食べられるようになった。寿司屋はもちろん、スーパーでも売っている。流通の進化の恩恵を受けている訳だ。
▽ただし、ここ数年、漁獲量が減ってしまい、サンマが高級魚になってしまった。スーパーではかつて1匹100円だったが、最近は200−250円もする。大きさも小さくなっている。値段を見てがっかりしてしまう。庶民の食い物だったのに。
▽サンマには、いろいろ思い出もある。
▽勤務していた朝日新聞塩釜通信局時代には、当時の松島水族館でサンマの飼育実験を行っていて、その取材をしたことがある。あの時は10日間生存した記憶がある。サンマよ、頑張れという意味合いを込めて記事に書いた。
▽朝日新聞上越支局時代は、よく通っていた魚料理専門の居酒屋で、わがままな客がサンマを食いたいと注文してきた。季節は真冬。サンマなど捕れるはずがない。店主は店員に言って、スーパーに冷凍サンマを買ってきてもらい、そのサンマを焼いて提供したそうだ。客は「うまい、うまい」と言って食ったらしい。季節感が分からない客がいることを、サンマの無理な注文で分かった。
▽嗚呼、サンマよ。庶民の台所に戻ってくれ、と私は叫びたい。
▽そしてサンマの刺し身を食ってビールを飲みたい。
▽幸い、今年(2024年)夏、根室港にはサンマの豊漁を伝えるニュースがあった。
【再掲載】★195終戦日とは何か
▽毎年8月15日が近づくと、新聞もテレビも終戦日記念の特集を組むが、そもそも8月15日は何の日だったのか。『増補 八月十五日の神話』(佐藤卓己、ちくま学芸文庫)は、無批判のまま「8月15日」を終戦記念日だとするマスコミなどの論調を批判し、政教分離として9月2日を平和の日を制定するよう提唱する内容だ。かなり勉強になった。
▽歴史の流れを簡単に整理すると、こうなる。
▽日本が日中戦争、最近はアジア戦争と称する論調もあるが、この15年戦争を終えて、ポツダム宣言受け入れを表明したのは8月14日だ。
▽翌日の15日は昭和天皇による玉音放送が流れただけである。
▽そして8月16日に武装解除の命令があり、この間、一部の陸軍は徹底抗戦を呼びかけて、降伏を阻止する動きもあった。
▽9月2日に東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印をしている。世界の常識ではこの9月2日こそが、戦争終結の日なのだ。
▽だとするなら、8月15日は何なのかと筆者は読者に問いかける。
▽政府は戦後間もなくして8月15日を戦没者追悼式と決めただけであり、それ以外に何もない。
▽雑誌「世界」が8月15日特集を20年間続けた影響も大きいが、玉音放送を根拠とする終戦の日に意味があるのか、と筆者は訴える。
▽その玉音放送も、漢文調で難解なため、後のアナウンサーが解説しないと国民は意味が分からなかった。
▽この本では、8月15日前後の新聞の「やらせ」から始まり、8月14日、15日、16日、9月2日の意味を国内外の戦勝者、戦敗者の立場から解析し、教科書問題まで取り上げて、その神話を追求した。意味ある本だと思った。
▽なお、玉音放送を巡って抵抗を続けた一部陸軍の動きは、『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文春文庫)に詳しい。終戦時の首相や大臣の動き、陸軍や近衛兵のクーデター、敗戦受け入れの玉音放送、それを阻止する陸軍、近衛兵、鎮圧する軍隊など大変に参考になる本だ。特に最後の最後まで、録音された玉音放送のレコードを隠す側とそれをさせない側の攻防がものすごい。近衛兵のトップを暗殺し、さらにはレコードを奪って徹底抗戦した動きを検証している。戦争の狂気に走った日本帝国陸軍の最後の暴走がよく分かる。
★455JRのダイヤ変更は「改正」ではなく「改定」だろう
▽JR東日本京葉線のダイヤが変更され、快速が少なくなり、地元住民から不満の声が来ていることを一部のマスコミが取り上げていた。気になったのは、テレビ局がいずれも「改定」という言葉ではなく、「改正」という言葉を使っていたことだ。朝日新聞はダイヤが変わることを、「ダイヤの改正」ではなく、「ダイヤの改定」という言葉を使ってきている。改正とは正しく改められることだが、改定は改悪の意味も含めて使っている。
▽今回のダイヤ改定は、自分地元の住民からすれば改正ではなく改悪である。だから朝日新聞は改定という言葉を使っていた。
《JR京葉線のダイヤ改定の余波が収まらない。JRは通勤時間の上り2本の快速を残す異例の修正を決めたが、東京直行の通勤快速の廃止は変えなかった。沿線の不動産開発にとって利便性の変化は死活問題。通勤快速を利用できることが売りだった蘇我駅(千葉市中央区)周辺では、すでに営業に影響が出ている》
《蘇我駅からひと駅の外房線鎌取駅(千葉市緑区)近くで販売中の住宅団地。広告には朝夕各2本の通勤快速の利用を前提にした、「東京駅まで電車(直通)44分」の文字と路線図が3分の1以上を占め、東京への利便性の良さが大きくアピールされている。
▽「お客さんに説明するときに通勤快速の存在は大きかったが、変えないといけなくなる」。不動産会社の営業担当者は苦笑いする。
▽通勤快速は蘇我駅と新木場駅(東京都江東区)をノンストップで結ぶ。各駅停車化で、東京―蘇我間の所要時間は朝で平均14分、夕夜間帯は19分ほど増える見込み。「所要時間が60分近くなればセールスポイントにはならない」という。
▽販売面の柱の一つになっている注文住宅でも影響が懸念されている。この会社の営業力の強い内房線、外房線沿線では、都内に通勤する人のほとんどが通勤快速の利用を前提に購入を決めているためだ。「駅近の立地や建物のデザインなど住宅としての魅力は変わらないのに、本当に困ったことになった」
▽蘇我駅東口では新築マンションの建設が急増している。2月にも販売開始予定という大規模マンションを建設中の大手不動産会社は、マンションのホームページで都内への通勤モデルケースに通勤快速を用いたままだ。この会社の担当者は「情報が流動的」としてコメントを避けた。》(2024年1月19日朝日新聞デジタル)
▽いかに影響があるかを伝えている。
▽その昔、国鉄時代、ダイヤを改定し、乗り継ぎが悪くなったり不便になったりすることがたびたびニュースで取り上げられてきた。国鉄当局は改正と発表していたが、朝日新聞などは、改悪の意味を含めて、「改正」という言葉を使わず、「改定」と表現してきた。
▽つまり改正と改定では意味合いが全く違うのだ。意味が違うからこそ、朝日新聞は「改正」という言葉を使わない。
▽一方のテレビ局はこんな当局発表の言葉をそのまま垂れ流ししているだけ。そこには、今回のダイヤ改定で沿線住民が困っている、という発想がない。
▽通勤電車は、地域住民にとっては大切な足だ。その電車1本なくなることで、住民は不便を強いられる。そのことに気づけば、当確発表の「改正」とは言えないし、「改定」と呼ぶしかないのだ。
▽放送局が扱う言葉はこんなに軽いのか、と私は思ってしまう。
★451地方ローカル鉄道問題を取材してきた
▽国鉄の分割・民営化に伴い、地方交通線が切り捨てられた現実を私は新聞記者としてずっと見てきた。第3セクターで運営されたり、地元の民間企業による経営になったりしたが、最終的に廃止された鉄道は多い。地元の民間企業が経営していた鉄道も廃止に追い込まれている。交通弱者の足として必要だったはずの鉄道が切り捨てられていく現実をどう伝えていくか。
▽その一つが、和歌山県を走っていた野上電気鉄道だ。この鉄道は国鉄から派生したローカル鉄道ではなく、地元企業が運営してきたものだ。1916年に日方−野上間が開業している。
▽1992年に国の地方鉄道への欠損補助金見直しにより栗原電鉄とともに支援打ち切り対象に指定されて、この時改めて全線廃止、会社解散の方針を打ち出した経緯がある。私は現地和歌山に行き、その取材をして、1993年5月に朝日新聞夕刊に現地ルポを掲載している。
▽野上電気鉄道は、宮城県の栗原電鉄とともに、「平行道路が整備されている」という理由で、欠損補助金の見直し対象となった。沿線住民の反対運動があったが、施設の老朽化、利用者の減少などを理由に、1994年に廃止された。取材から1年しか経過していなかった。実際にこの鉄道に乗って往復したが、列車も駅も老朽化していて、無理矢理運転している感じが否めなかった。
《単年度で2億4千万円もの赤字を出し、1992年当時の借入金は11億円、1992年度決算での累積赤字は7億円にも上り、合理化のため人員を削減しようにも退職金の資金源がないため、それすらもままならない状態だった。自力再建は到底無理な話であった》
▽栗原電鉄は私の同僚が取材して、二つの鉄道ルポとして紙面化された。
▽こうした地方の現実を、本社の人間はなかなか取材しない。本社社会部には鉄道担当の記者がいるが、首都圏のJRや私鉄の話を書くだけで、ローカル鉄道の現実をキチンと取材する記者はいなかった。ましてや、国労問題を鉄道担当記者が取材することはなかった。
▽その地方ローカル線問題を書いてから、30年が経過した。たまたま読んだ新書「日本鉄道廃線史」(小牟田哲彦、中公新書)に、私のその記事が紹介されていた。
《欠損補助の打ち切り通告を受けた栗原電鉄と野上電気鉄道を取材した当時の新聞記事(「存続の危機 民営ローカル鉄道 国が補助金見直し」1993年5月27日付夕刊)には、野上電気鉄道が20年前にも経営危機から廃止申請を出したことがあり、欠損補助を受け入れることで存続してきた経緯が紹介されている。そのうえで、その後も経営状況が改善していないことについて、「近代化も合理化もせず、補助金に甘え、経営努力を怠った」と手厳しく指摘する関係者の証言を報じている。もっと早い時期から施設の近代化を進めるべきだったのに、それをせず、受け取った欠損補助金を運転資金に回すだけでまともな策をほとんど講じてこなかったこと、あるいは、大手私鉄にバックアップを仰いだり鉄道以外の事業部門を拡大して、収益を安定化させたりといった中長期的な経営改善をしなかったことへの批判である》
▽日本の鉄道網が広がる一方で、廃止された路線も多い。その歴史を紐解いたのが、本書だ。専従の軍需輸送優先のために廃止された路線や、国鉄時代の赤字線廃止、災害時による廃線、平成・令和の経営不振路線などを現地訪問を繰り返して、その意味と問題点を問いただした。
▽鉄道は地方公共施設だ、という考えからすれば、野上電気鉄道などはあっけない廃止になったが、沿線住民からすれば、悲しい現実だった。こうして新書に紹介されたことは、新聞記事が歴史の記録となっていることを、改めて痛感する。そのことを肝に銘じて取材してきたつもりだ。
★449報道機関が報じる街の声とネットの投稿を拾うコタツ記事の違い
▽X(旧ツイッター)などのSNSで投稿された意見などをまとめて、さもこれが世論の反応だというネット上のニュースを見るが、私は非常に違和感を覚えている。新聞記者の経験からすると、こんなものは世論でもないし、世間の反応でもない。
▽以下の記事を読んで欲しい。
《三原じゅん子氏、「桜を見る会」問題での逆ギレ恫喝指摘に「意味不明」…玉川徹氏に「許しがたい侮辱発言」
2019年11月13日 1時38分スポーツ報知 # 社会
▽自民党の三原じゅん子参院議員が12日、同議員の母や叔母が「桜を見る会」に参加したことをテレビ朝日・玉川徹氏(56)やジャーナリストの青木理氏(53)が「どういう功労があるんだろう」と指摘したことに「許しがたい侮辱発言」「厳重に抗議します」と自身のツイッターで発信した。
▽きっかけは12日放送のテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜・前8時)で、三原氏の2014年4月18日付のブログに「『桜を見る会』に出席してまいりました。今年は母や叔母たちも参加し喜んでおりました」などと記されていること紹介されたことだった。三原氏の母や叔母が参加したことに、青木氏が「それはどういう功労があるんだろう」と疑問を投げかけると、玉川も「三原じゅん子さんのお母さんにどういう功労があるの」と首をかしげた。
▽このことに対し三原氏は「この件は内閣府のルールに則って、招待された人が出席したまでです。しかしながら番組での二人の母への発言は許しがたい侮辱発言だと思います。厳重に抗議します」とツイートした。
▽すると、ユーザーからはリプライ(返信)が相次ぎ「一般人の私は普通に知りたいと思いましたけれど? 家族枠、役職枠や議員枠などが有るのならそう言えばいいのに。普通に有りそうと思うし。もちろん功績が有るのなら隠す事も無いでしょう」と質問されると「そうですね。招待されたから出席したということ。それは私が決めた事でもなく内閣府がお決めになった事でしょう」と説明した。
▽さらに「招待された正当な理由があれば、反論されれば良いだけの事で、それが無くこう言う反論の仕方をされるなら、それは只の『逆ギレ』だし、公権力を盾に恫喝しているだけの、みっともない行為にすぎませんよ」とのユーザーの指摘には「意味不明」と反論していた》
▽会計が不明朗な「桜の会」に出席した三原じゅん子に対して、本人が反論したことを取り上げているが、すべてはネット上だけの意見でまとめられている。いわゆる、「コタツ記事」だ。取材をまともにしていない。本人にも話を直接聞いていないし、三原の言い分だけを一方的に取り上げている。返信した人間にも直接取材していない。
▽こんなものを記事として取り上げること自体がおかしい。
▽事件や事故、政治、はたまた芸能界の話題ものに関して、スポーツ新聞社や雑誌の名前を冠したネット上のニュースがアップされる。この際に紹介されるのが、SNSでアップされた意見だ。さも世論の声のようにして紹介される。さも世論かのような錯覚に陥る。新聞記者だった私からするとこれは大きな間違いだ。
▽ヤフコメでもそうだが、SNSで発信された投稿は、パソコンやスマホなどを扱える人に限られる。いわば積極的に投稿している人なのだ。これを世論とは言わない。
▽新聞社の場合だったら、街の声を拾うのに、いろいろな場所に行き、道行く人に趣旨を説明し、意見をもらう。拒否されることもある。バランスよく街の声を通って拾い集めて紙面化する。
▽テレビ局も同じだろう。取材に応じてくれた人の意見を取り上げる。つまり街に出て行って取材する。
ン各これに対して、こたつ記事はそうしたことをせず、積極的に投稿しただけの意見を集めるのだ。これを世論ではない。なぜこんなに安易な取材ができてしまったのだろうか。
▽一つは楽だからだ。投稿されたものを集めて、紹介するだけでも世論が反応しているとアピールする。嘘くさい世論がこうして出来上がる。さらにいうと、プレビュー稼ぎだ。テレビの視聴率と同じだ。プレビューが多いと課金しやすくなる。安易な発想で、ウソっぽい世論が作られていく。信じない方がいい。
★440毎日新聞の富山県への配送中止の衝撃
▽毎日新聞が2024年7月17日付北陸版で富山県への新聞配送を9月末で休止することを発表し、関係者に衝撃が広がっている。夕刊の廃止ではなく、朝刊の事実上の廃止。もちろんセット販売ではなく、元々夕刊もない地域なので、富山県には事実上、毎日新聞が配達されないのだ。全国紙の牙城が崩れることになる。ここまで来たか、と私は思った。新聞の衰退に拍車がかかっている。
▽まずはこれを報じた朝日新聞かせ紹介しよう。
《毎日新聞社は富山県内に配送した17日付の北陸版で、同県内での新聞配送を9月末で休止すると発表した。
▽同社社長室広報担当によると、同社が全国の都道府県で配送を休止するのは初めて。同県内での発行部数の減少傾向や、印刷や輸送コストの増大で、「配送体制を維持することが難しくなりました」としている。10月以降も富山支局は残し、取材体制は維持するという》
▽NHKはもっと詳しくウェブで流している。
《毎日新聞社は印刷費と輸送費の増大や富山県内での発行部数の減少により、富山県内での新聞の配送をことし9月末で休止すると発表しました。配送を休止するのは富山県が全国で初めてだということです。
これは毎日新聞社が17日の朝刊の北陸版で発表したもので、ことし9月末で富山県内での配送を休止するとしています。 毎日新聞社によりますと、全国の都道府県で配送を休止するのは富山県が初めてだということです。 富山県内では大阪の工場で印刷した新聞を輸送してきて、販売店を通じ、各家庭や店頭などに配送していますが、印刷費や輸送費の負担が増していることに加え、県内での発行部数が減少傾向にあることから休止を決めたとしています。 これにより富山県内では毎日新聞は販売されなくなりますが、申し込めば郵送で翌日以降に購読することが可能だということです。 一方、富山県内での取材体制は維持するとしていて、毎日新聞社は「これからも富山のニュースをデジタルや本紙全国版などで発信し、全国紙としての役割を果たしていきます」としています》
▽どちらの記事も触れていないのが、毎日新聞の地方版である富山版が存続するのか、しないのか、という点だ。富山支局を残したとしても、富山県には新聞が配達されない以上、地方版を維持する意味がないだろう。推測だが、富山版はなくなる。この意味は大きい。地方行政や地方自治体の監視、という新聞の役割を放棄することになるのだから。もはや全国紙とは呼べなくなる。
▽朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も、全国紙として売り続けていたのは、全国各地に網羅した取材網と、その地方版という紙面があるからこそだ。いくら富山県でのの発行部数が少ないからと言って、富山県への配送を休止するのは、相当の覚悟と、相当の危機感があったからなのだろう。
▽朝日新聞では現在、各地での夕刊の廃止が進んでいる。夕刊そのものが日本人の生活リズムに合っていないのだから、夕刊体制の縮小や廃止はやむを得ないと思っている。しかし、朝刊を一部とは言え、なくすとしたら、それは全国紙としてのブランドが崩壊することを意味している。
▽明日は我が身か、朝日新聞か読売新聞か。
★438新聞記者を主人公にした二つの米映画が面白かった
▽新聞記者を主人公にした二つの米製作映画を見た。ともに丁寧な取材活動を再現していて、面白かった。こうしてみると、ジャーナリストととして新聞記者の取材活動をキチンと理解して、米国が製作する映画は記者活動を再現できるのに、なぜ日本の映画は出来ないのかと疑問に思ってしまう。ともにアマゾンプライム配信の映画として見た。
▽まずは2022年製作の「シー・セッド その名を暴け」(2022年米製作)だ。
▽大物映画プロジューサーの性暴力事件を、ニューヨーク・タイムズの女性記者2人が追及していくストーリーで、実際に起きた実話を元にしている。2人の女性記者が子育てに手を焼きながらも、性的暴行を受けた女性から証言を得るために東奔西走し、夜回り、昼回りをして、証言を集めていく。決して「権力犯罪」に立ち向かったとは言えるものではないが、取材手法は「大統領の陰謀」を思い出した。最後は新聞の降版ボタンとウェブ版のボタンをコンピューターで押すシーンだった。この最後のシーンが良かった。
▽ネットの紹介記事ではこうある。
《映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタインによる性的暴行を告発した2人の女性記者による回顧録を基に映画化した社会派ドラマ。ニューヨーク・タイムズ紙の記者ミーガン・トゥーイーとジョディ・カンターは、大物映画プロデューサーのワインスタインが数十年にわたって続けてきた性的暴行について取材を始めるが、ワインスタインがこれまで何度も記事をもみ消してきたことを知る。被害女性の多くは示談に応じており、証言すれば訴えられるという恐怖や当時のトラウマによって声を上げられずにいた。問題の本質が業界の隠蔽体質にあると気づいた記者たちは、取材対象から拒否され、ワインスタイン側からの妨害を受けながらも、真実を追い求めて奔走する》
▽次は2015年製作の「スポットライト 世紀のスクープ」だ。
▽米ボストンの地元紙「ボストングローブ」の新聞記者たちが、地元のカトリック教会神父らによる性犯罪を取材で追及する物語だ。性犯罪を黙認した教会側の隠蔽体質を、記者が特別報道グループ「スポットライト」で取材を続けて暴いていくストーリー。被害者たちを次々と取材を重ねて、裏を取っていく姿はまさに新聞記者活動そのもの。編集局長、担当部長による指示や、現場の記者の動きが現実に即していて、分かりやすい。最終的にその特ダネをスクープとするまで、関係者の裏を取り、証言を求めて行く。
▽最後に編集局長が部下に言う。
▽「これは我々ジャーナリストがすべき仕事だ」
▽そして特ダネを掲載した紙面を運ぶ輪転機が回る。この場面がいい。実話を元にしたストーリーで、249人の神父が告発されて、被害者は1000人以上だという。
▽世界貿易センタービル事件が発生したことを場面の一部として取り組んでおり、2001年ごろを舞台にしていることが分かる。まだインターネットの普及はなく、データベースもいわゆる新聞の切り抜きで、四半世紀前の新聞社だが、取材の裏取りはキチンとしているし、取材手法に違和感はなかった。完成度の高い地方新聞記者物語だ。
▽ネツトではこう紹介されている。
《新聞記者たちがカトリック教会のスキャンダルを暴いた実話を、「扉をたたく人」のトム・マッカーシー監督が映画化し、第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した実録ドラマ。2002年、アメリカの新聞「ボストン・グローブ」が、「SPOTLIGHT」と名の付いた新聞一面に、神父による性的虐待と、カトリック教会がその事実を看過していたというスキャンダルを白日の下に晒す記事を掲載した。社会で大きな権力を握る人物たちを失脚へと追い込むことになる、記者生命をかけた戦いに挑む人々の姿を、緊迫感たっぷりに描き出した》
▽これに比較すると、日本が作る望月衣塑子原作の「新聞記者」などは、映画に出てくる記者の取材手法が甘いし現実離れしていて、作り手が新聞記者というものを全く理解していないことが改めて浮き彫りにしていた。原作とは全く違っていたが、見ていてがっかりしたことを思い出す。
★436欠陥品だったアディダスとナイキのシューズの対応の違い
▽わずか1カ月もたたないうちに、ジョギング用シューズが4足も駄目になった。しかしメーカー対応は全く違っていていた。謝罪しないアディダス、キチンと対応したナイキ。今回はその話を報告する。
▽ジョギング用のシューズを買い替えて、新しいシューズでジョギングを終えた時のことだ。右シューズの外側の底の部分の部位が剥がれてしまった。たった1時間ぐらいのジョギングで、シューズの部位が剥がれるのは初めてで、製造元のメーカー、アディダス本社に新しいものと交換してもらった。しかし、その新たに届いたシューズもまた同じように部位が剥がれてしまった。もう二度とアディダスのシューズは使いたくないな、と思った。
▽初日で剥がれてしまったシューズをどうしようかと思って、アディダスホームページを見たら、相談窓口があった。その相談窓口とメールのやりとりをして、実際に部位が剥がれてしまったシューズを送り、新しいものと交換してもらった。
▽ここまではメーカー側の対応も丁寧だったと思う。
▽ただし、写真を送れとか、買い物をしたレシートを添付しろ、と言われたが、レシートなど捨ててしまったし、面倒だった。
▽しかし、新たに届いたシューズもまた、わずか1時間のジョギングで、同じように、底の部位の部分が剥がれてしまったのだ。
▽再度、窓口にそのシューズを送ったら、今度は返金すると言ってきた。しかもその入金は3週間も先だった。
▽情けなくなった。
▽もういいやと思った。
▽私は雨の日以外は、ほぼ毎日のようにジョギングをしている。シューズもいろいろ使ってきた、アディダス、アシックス、ナイキなど、いろいろなメーカーのシューズを使ってきた。
▽おおよそシューズは計50時間ぐらいのジョギングで、底の部分が約1センチ以上、すり減ってくる。これが交換時の目安。だから、シューズは2、3足持っていて、交互に使い回している。
▽シューズは特に底の外側が減ることが多い。これは体重移動の影響らしい。だからシューズの底が減るのは自然な現象だから、減ることに問題は無い。
▽問題なのは今回のアディダスのシューズのように、初日から底の部位が剥がれてしまったことなのだ。もう何十年もジョギングをしているが、こんなに早く壊れてしまうのは初めてだった。
▽同じシューズのトラブルは、ナイキでも続いた。
▽同じようにかかとの部分の部位が剥がれてしまった。
▽ナイキのホームページを見ると、購入した店舗で対応するとあった。このため店舗に電話すると、着払いで現物を送れ、と言われた。
▽そのようにして店舗に返却すると、電話があった。届いたという。同じ物を送らせてもらうとあった。何回も電話があり、店の対応に好感を持った。アディダスがメールだけのやり取りなのに、ナイキは店員が電話でキチンと対応してくれた。
▽新しいものをすぐに送ってもらった。こちらのシューズは3回使ったが、また同じ場所の部位が剥がれてしまった。今度は店に直接持っていき、返金になった。
▽つまりわずか1カ月で、計4足のシューズが駄目になり、交換を重ねたことになる。
▽このアディダスとナイキの対応の格差は何だろうと思った。アディダスはすべてメールのみ。最後は返金でお終いになった。謝罪はなかった。ナイキは店員が何回も電話をかけてきて、丁寧に対応してくれた。
▽企業の不誠実さと誠実さを感じるジョギング用シューズのトラブルだった。
★435ジョギングで転倒し脱臼した痛みと他人の親切
▽いつものようにジョギングをするため自宅を出た。いつものコースを走り、川沿いを北上し、ラップタイム15分で悲劇があった。躓いてしまい、転倒した。右肩と右腕を強く打ち、両手の肘と右膝も打った。痛みでしばらく、立ち上がることが出来ず、そのまま道路にしゃがみ込んでいた。今回はその転倒事故について語りたい。
▽ジョギングで転倒したのは、15年前に一度遭ったが、こんなに酷くはなかった。今回は後に右腕の脱臼と判明した。右腕が全く上がらなかった。宙ぶらりんの状態になった。両腕の肘から血も出てきた。
▽すぐに起きることが出来ず、通勤通学の時間だったため、通りすがりの人たちから、
「大丈夫ですか」
と声をかけられた。私は、
「大丈夫です」
と返事をしたが、なかなか立ち上がれなかった。
▽最後は学生風の若い男性に手を引いてもらい、起こしてもらった。親切な行為に礼を言って、私はゆっくりと歩き出した。
▽とにかく、両肘の血を洗う必要があると思い、ジョギングコースにあった公園を目指した。もうジョギングは出来ず、ゆっくりと歩いて、水道が使える公園を目指した。
▽痛みと脱臼のため、右腕が上がらず、右手は宙ぶらりんの状態で歩いた。そして公園に着いて、両肘の血を流して洗った。
▽自宅に戻り、汗と血で濡れた衣類を何とか脱ぎ、風呂場で水シャワー浴びてから、服を着替えた。そして家族が運転する車で、かかりつけの整形外科の個人病院に行った。レントゲンを撮って、医師に言われた。
「脱臼してますね」
▽そしてその医師と助手によって脱臼を復元する施術を受けた。腕を引っ張られたが、痛いだけで元に戻らない。
▽医師は諦めて私にこう言った。
「紹介状を書きますので、市内の総合病院行ってください」
▽私は指示に従って、また車に乗りその市立総合病院に行った。
▽待たされること3時間。混んでいた。右手が脱臼で外れているから、腕の重み骨で支えることが出来ず、ものすごく重みを感じて、鈍い痛みが続いた。
▽やっと診察が始まり、若い医師に問診され、麻酔を打たれ、脱臼した右腕を元にする施術を医師2人で受けた。痛かったが、やっと治った。
▽再びレントゲンを撮られた。医師は言った。
「やはり、脱臼していましたね」
「今後はまた再発する可能性が高いので、腕を固定していてください」
▽三角巾を着けて、右手をぶら下げる状態で病院を出た。出されて処方箋で痛み止めの薬を買った。
▽痛い一日だった。脱臼すると、右腕がこんなに重いのかと思ってしまった。ずっとだるい痛みが続いていた。
▽元に戻ってからはその痛みもなくなった。
▽翌日のX(旧ツイッター)に感謝の言葉を書いた。
《【個人的なお礼】昨日のジョギングで転倒し、右肩などを強く打ちました。脱臼でした。痛みでしばらく立ち上がることが出来ませんでした。その際何人か心配して声をかけてくれる人がいました。その一人の若者が近づいてきて、私を手で引っ張り上げてくれました。痛みは残っていますが感謝で一杯です》
★431殺人事件での記者会見のNG質問
▽私が埼玉県浦和市(当時・現さいたま市)の朝日新聞浦和支局(現さいたま総局)に勤務していた時の話だ。大宮市(当時・現さいたま市大宮区)で殺人事件があり、埼玉県警担当のキャップをしていた私は、部下の後輩記者とともに現場取材を始めていた。現場周辺を聞き込みする地取り取材だ。現場で得た情報を、県警幹部に当てて、その情報が事件に繋がるものなのか、違うものなのかを判断する取材方法だ。
▽殺人事件の場合、1日に3回の記者会見がある。その事件は容疑者が特定できず、地取りの取材が続いていた。
▽記者会見では新たな情報がないまま過ぎていった。
▽ある時だった。共同通信の若い記者が、現場で得た情報を記者会見で、県警幹部にぶつけてきた。
▽私は「へーっ」と思った。そんな情報を、朝日新聞は持っていなかったためだ。「そうなんだ」とも思った。
▽会見後、その共同通信の若い記者が、先輩の記者に注意されていた。
▽「こんな場所でそんな話をするんじゃない」
▽そうなのだ。独自取材で得た生情報を、各社が出ている記者会見でぶつけてはならないのが原則だ。ぶつけてしまえば、独自情報ではなくなる。他社に知られる。
▽記者会見とは、他社の動きを見極めるためにも必要であり、そのためには、大切な情報はその場では質問しないのが鉄則なのだ。
▽独自で得た情報は、夜回りで、つまり他社がいない場所で、県警幹部にぶつけるというのが、原則だ。
▽記者会見を言論と権力の闘いの場、という考え方だけで見ると、どうしても話がずれてくる。殺人事件の会見では戦う必要はないのだ。記者にとっては、会見は主戦場ではない。あくまでも手段の一つに過ぎない。
▽私は40年間の記者生活で、いろいろな会見に出たが、本質的な質問をしたことがない。他社が持っていない情報を、会見でぶつけたことは絶対しなかった。ぶつけるならば、1対1での取材が可能になった時だけだ。会見で愚問を出す社も多く見てきたが、質問と言うよりは、自分の意見を言っているだけの社も多かった。時間の無駄だった。
★430時系列が気になった連続幼女誘拐殺人事件での宝島文庫の記述
▽やはり気になったので、指摘しておきたい。正しい事実を時系列で伝えたいためだ。気になった事実の時系列を記したい。
▽『死刑囚200人 最後の言葉』(別冊宝島編集部、宝島文庫)という文庫本を読んだ。この本は個別の死刑囚を約50人取り上げて、事件の概略、裁判の推移、拘置所での出来事を紹介したものだ。帝銀事件の平沢、吉展ちゃん事件の小原、袴田事件の袴田、永山則夫、大久保清、道庁爆破事件の大森、宮﨑知子、澤地和夫、毒カレーの林真須美、附属池田小事件の宅間、秋葉原無差別殺人の加藤、木嶋早苗ら有名人を取り上げている。だれが書いたか分からない。
▽この中で誤った記述ではないが、時系列としては流れが違う話なので、そこだけを指摘しておきたい。
▽この本の中で、この連載で取り上げている連続幼女誘拐殺人事件(1988−1989年)の宮﨑勤の話を掲載している。この事件では、最終的に4人の幼女が誘拐・殺害された。1人目がいなくなり、2人目が不明になり、そして3人目がいなくなった。そして最初に遺体として発見されたのは、3人目の幼女だった。
▽容疑者の宮崎勤は、最初に遺体として発見された3人目の幼女の事件後、しばらく動きを見せていなかったが、年が明けた1989年2月に最初に行方不明になった幼女の自宅に段ボールを送りつけたことが明らかになり、マスコミも県警もパニックになった。この中身こそが、この事件の特異性を物語っていた。
▽段ボール箱は父親が発見し、自宅内に持ち入り開けた。中には、土に混じって無数の人骨、歯、そしてメモのようなものが書かれた1枚の紙が入っていた。メモには、女児の本名と「焼」「遺骨」「鑑定」「証明」と文字が並べられていた。県警も、そしてマスコミもパニックに陥る事件の始まりだった。 詳しくは私がこのホームページでの連載して来た「32年間の沈黙を破る」で詳細に書いてきたが、この『死刑囚200人 最後の言葉』では、3人目の幼女の自宅にもはがきでメモを送っていた事実を紹介し、最初の不明者となった幼女の自宅に届けられた事実は、「別の被害者宅」という表現で簡単に記しただけで済ませている。
▽これでは、この事件の特異性が全く伝わらないし、時系列が逆になっている。
▽何回か書いてきたが、私はこの連続幼女誘拐殺人事件では朝日新聞浦和支局で埼玉県警担当キャップとして取材を続けていた。そしてこの事件が宮﨑逮捕で一応の節目が着いたところで、私は『今田勇子vs警察 連続幼女誘拐殺人事件』(三一書房)という本を出版した。幼女たちが次々と行方不明になり、連続幼女誘拐殺人事件として容疑者の宮﨑勤が逮捕され、一審が始まるまでの事件展開を、私がペンネーム「大和田徹」を使って書いたドキュメントだ。
▽私の本では当時の県警、警視庁、マスコミの動きを丁寧に追ったもので、マスコミの多くが作文を書いて、誤報の連続だったことも取り上げた。
▽この私の本を丁寧に読んでいただければ、最初に発覚し、県警もマスコミも世間もパニックになったのは、宮﨑勤が段ボール箱を送った相手が、3人目の幼女宅ではく、最初の幼女宅であることが分かるだろう。
▽3人目の幼女宅に送った事が分かったのは、宮﨑勤が逮捕されてからのことで、それまで県警は事件とは無関係だとして、その事実も無視していたし、公表もしていなかった。あくまでも逮捕されてから、「そう言えば」という程度のものだった。
▽だからこの文庫本の書き方は、時系列を無視した「じゃんけんの後出し」に過ぎないのだ。
▽こういう時系列の誤りをそのままにすると、この事件の記録は正確に伝わらない。それが怖い。事件の異様性も、報道のいい加減さも知ってもらいたいと私は切に願う。
▽そのことだけを指摘しておきたいと思う。
【再々々掲載】★204安倍政権の守護神失脚問題
▽安倍政権時代の「黒の歴史」として挙げられる、いわゆる「モリ、カケ、サクラ」問題とは別に、もう一つ挙げなくてはならないのが、安倍政権にとって都合が良かった「官邸の守護神」黒川弘務の定年延長・検事総長就任画策問題だろう。これは歴史として、キチンと記録していかないとならない。
▽この問題は簡単に言えば、政権に都合良い検事総長を就任させることで、政権への捜査をストップさせることが出来ると安倍政権が踏んで、検察人事を動かそうとした水面下の事件だ。
▽「桜を見る会事件」などを抱えていた安倍政権は捜査をさせないため、「官邸の守護神」と呼ばれていた東京高検検事長黒川氏を検事総長に就けようと画策した。その処理を辻裕教法務事務次官に任せた。辻事務次官が行った解釈と手法が、「国家公務員法の勤務延長制度を検察官に適用する」というものだった。つまり黒川を定年延長させて、検事総長に就任させるという人事方針を作ったのだ。
▽検事長の定年は63歳であり、黒川は誕生日前日の2020年2月7日に退官する予定だった。一方で、検事総長は約2年で退官となる慣例から稲田伸夫検事総長が慣例通り2020年8月までに勇退すれば、黒川の半年の定年延長によって黒川を後任に充てる人事が可能になる。トンデモナイ奇策だった。
▽この官邸主導人事に検察OBが反発、国民を巻き込んでSNSなどで反対運動を起こした。関係者には大問題として広がった。
▽ただし黒川氏は賭け麻雀で失脚してしまう。
▽この水面下のストーリーは、『安倍・菅政権VS検察庁 暗躍のクロニクル』(村山治著、文藝春秋)に詳しい。
▽内容は、安倍政権が強引に進めようとした黒川検事総長実現のための水面下の戦いを描いたドキュメントだ。筆者は元朝日新聞編集員委員だ。
▽定年延長という、一見何のことか分からない東京高検検事長の人事問題が、実は安倍政権にとっての守護神にさせたい思惑を秘めた指揮権発動事件であることを暴いている。かなり露骨に検察庁への人事介入をしていることが分かり、安倍政権の強引さが読み取れる。
▽最後は黒川本人が産経新聞記者らと賭け麻雀をしているのが暴露されて辞任したが、そこまで安倍が恐れていたのは、「桜を見る会」疑惑で検察が動き始めるのを警戒し、それをストップさせてくれるのが黒川検事総長というという魂胆だったことが分かる。
▽それ以外にも河井夫婦事件でも検察側の動きに安倍は敏感になっていたと言い、水面下の戦いはずっと続いていたことが述べられている。
▽筆者は後書きで、マスコミ社会部の反応が鈍かったと書いているが、確かに新聞を読んでいても、定年延長問題がどういう意味だったか、当初は私も分からなかった。こういう意味だったのか、と本書で詳しく知った。
▽安倍政権がやりたい放題、権力を駆使して、自分を守ろうとしていたことが分かる事件だった。
▽この問題では、神戸学院大学の上脇博之教授が「延長のために作成した文書を開示せよ」という訴訟を起こした。国は「文書は作成していない」として不開示した。このため現在は仙台高検検事長を務める辻氏の証人尋問を求め、裁判所が応じた。証人尋問は12月1日(2023年)に実施された。この際、正直に真実を話してほしいと思ったが、真実は語らなかった。
▽以下は12月1日の朝日新聞デジタルから引用する。
《 辻氏は国側の証人として出廷し、始めに国側代理人が質問した。定年延長をめぐる省内の検討の経緯を問われると、法務省刑事局から20年1月、「社会情勢の変化に伴い犯罪も複雑化し、担当者の交代は業務の継続性に障害があるとして(定年延長の)必要性が示され、了承した」と述べた。当時の森雅子法相にも了解を得たと説明した》
《辻氏は尋問で、法解釈を変更した理由を「検察の業務の継続性に障害があり、定年延長の必要性があった」と説明した上で、「特定の検察官を目的とはしていない」と強調。徳地淳裁判長も「第三者からみると、黒川さんの退職に合わせるように準備したように見えるが」と問うと、「事実ではない」と否定した》
★427元朝日新聞女性記者の手記と幹部の地方軽視
▽朝日新聞を途中退職した女性記者の会社批判の記事が話題になっている。少しだけ、紹介したい。
《人手不足に残業の過少申告、支局の閉鎖…
地方総局はだいたい、単身赴任のおじさん、妻子同伴できるおじさん、本社未経験の若手、そして定年間近のおじいさんばかり。とてもじゃないが働き方の多様性やジェンダー平等などはない。だから、子連れで地方赴任をと言われたときには使命感を持って受け入れた。2017年のことだ。
子育てしながらの地方勤務は想像以上に過酷だった。西日本豪雨、河井夫妻の選挙買収事件、選挙、そして毎年の高校野球、原爆の日……。本社のように潤沢な人員がおらず、残業時間は月100時間を余裕で超える。
子どもを置いて夜遅くまで会社にいられないわたしの場合は持ち帰り残業が常態化した。すると、所属長は記者に無断で勤務表を書き換えた。本社から転勤してきて「地方版なんて誰も読んでねえ」と豪語した男性だ。告発した記者は会社を辞めた。
地方からは加速度的に人員が剝がされていく。この4年で、約200人が地方総局・支局から消えたという。わたしが暮らす広島でも、最初の赴任となった2005年当時は、広島、福山、呉、東広島、三次、三原、尾道に取材拠点があったが、今となっては広島と福山だけだ。
全国紙を掲げながら、地方を軽んじる
朝日での19年間、神戸総局を皮切りに、広島総局、大阪本社社会部、大阪本社生活文化部に所属してきた。19年間一貫して地方勤務だった。それは自分が望んだことだった。
記者として、小さい声に耳を澄ましていたいと思うわたしにとって、地方こそが、この国のさまざまな課題や矛盾が見える現場だと感じてきたからだ。何もかもが東京の理屈で決められていくこの国。歪ゆがみは地方で起きる。朝日で取材生活を続ける中で、とかく地方を下請け扱いする本社に対しても常に反発心があった。
例えば、被爆者援護行政。被爆者援護に関する検討会が厚労省で開かれる。厚労省担当記者が忙しくて手が回らないから取材するならどうぞ、という指示が本社から降りてくる。広島から出張して取材して記事にする。
だが、その記事は社会面には載らない。地方の記者が取材した記事だからだ。本社の記者が書いた記事なら社会面に載る。そんなことが普通に起きてきた。一方、地方から特定の取材先に取材すると、勝手に取材するなと記者クラブ所属の記者から怒られる。こういう類いのことが19年間何度あっただろうか》
▽ここで指摘したこの上司の広島総局長の言葉を重視したい。
《「地方版なんて誰も読んでねえ」と豪語した》
▽全国版こそニュースだと主張する人間は確かに、朝日新聞東京本社でも多かった。地方版などどうでもいいと、本当に信じている。
▽しかし、どうだろう。戦後のノンフィクションの最高峰となった吉田慎一著「木村王国の崩壊」は、朝日新聞福島版に延々と連載された記事だ。事件の動きに合わせて、特ダネを全国版に打ってきたが、連載そのものは地方版のものであり、全国版には出ていない。
▽この「木村王国の崩壊」を故原寿雄さんは、今後の新聞ジャーナリズムの可能性を開くものと絶賛していたことがある。吉田慎一はその後、朝日新聞幹部になった。それでも地方版はだれも読まないのか。
▽夏の高校野球地方大会は、朝日新聞も読売新聞も毎日新聞も力を入れて地方版で展開している。その読者を知っていながら、「地方版は読まれない」というのだろうか。
▽さら言おう。
▽元々、全国紙の地方版は部数獲得のために拡張してきた、長い歴史がある。部数を増やすことで、新聞経営の安定化が図れたのである。そんな地方版を馬鹿にしてはいけない。
▽こういう「地方版なんて読まない」という発想は、要するに、「私は中央のエリートである」ということを自慢したいために、豪語したのだろう。悲しい人間だ。この幹部、その後、本社に戻って栄転したのだろうか。否、していない。地方を馬鹿にして、地方に馬鹿にされたのだった。
▽私はこういう人間が大嫌いだ。
★425地方紙は中央紙に負けたか・その2
▽先のコラム「地方紙は中央紙に負けたか・その1」では、最終的な勝負所で、地方紙が中央紙に負けたケースがあることを伝えたが、逆に日々の紙面では当然ながら、地方紙の方が強いことが多い。
▽理由はそれぞれの人事政策にある。中央紙の場合、県庁所在地の支局に配属される記者は入社1−5年目の若い記者だ。朝日新聞だと、入社して最初に配属される場所は、地方の県庁所在地の地方支局だ。2−3年して別の県庁所在地の支局に移る。そして5年で本社に上がるシステムを取る。朝日新聞のこれまでの半世紀、こんなずっと人事を続けてきた。つまりどの県庁担当記者も入社履歴はわずか5年しかない。これに県庁所在地ではない準支局にも若手記者を、1人勤務の支局(かつて通信局と呼んできた)には中堅やベテラン記者を置いてきた。
▽これに対して地方紙の県庁担当記者は、入社10年から20年という中堅からベテランになる記者だ。しかも何年も県庁を担当していることも多いから、これでは若い記者が立ち向かうのは無理だろう。だから地方紙対中央紙として考える場合、日々の取材は地方紙に負ける。中央紙の若い記者は、記事の質においても、量においても勝つことはできない。これは現実だ。
▽私のように地方紙を経て中央紙に勤務した経験があると、そのことを強く実感する。地方にいると、断然、地方紙が質も量も圧倒してきた、と思ったものだ。逆に中央紙の移ると、地方紙がかなり無理して紙面を作っているのがよく分かるようになる。これも現実だ。
▽ただし、ここ数年の新聞の斜陽化に伴って、入社する新人が少なくなり、県庁所在地の地方支局にはベテランも配置されるようになり、その構図もやや崩れてきている気がする。
▽特に朝日新聞がそうだが、地方版の紙面が少なくなっており、地方からの支局と記者の撤退が相次いでいるから、地方の問題をきちんと扱えないケースが出てきている。地方紙にとっては生き残るチャンスかもしれない。
★424地方紙は中央紙に負けたか・その1
▽中央紙は地方紙に勝ったのか。時折そんなテーマを考えてしまう場面に出くわす。
▽1980年10月、北海道夕張市の北炭夕張新鉱夕張でガス突出・ガス爆発事故があり、93人が犠牲になった。その時私は北海道新聞記者入社1年目の新人だった。当時の北海道新聞は現場で総力取材をしていて、事故発生からの1〜2カ月は物量作戦で紙面を飾っていた。不確かな情報が多く、情報量では飛び抜けていた、と思っていた。
▽しかし1カ月がたち、2カ月が過ぎると、次第に情勢が変わって来て、特に朝日新聞がが突出した紙面を作っていた。北炭夕張新鉱夕張の特殊な企業の生い立ちと、労働者の置かれた立場、元請けや下請け、孫請けの二重構造、三重構造、四重構造の構図を描くルボが紙面を飾るようになった。資本対労働者の構図を描き切っていたのだ。この朝日新聞を読んでいて、完全に北海道新聞は負けた、と私は思った。
▽後に知るのだが、この朝日新聞で中心的な取材をしていたのが、炭鉱記者として有名だったMさんだった。九州の炭鉱事故現場でもこういった取材をしていて、手練れの取材だった。こういう記事を書かなくちゃいけないなと私は思うようになった。
▽それから何年も経ち、私は北海道新聞を辞めて朝日新聞に入り、そして地方を回って東京本社に上がった。その時の部署にMさんがいた。Mさんとは本社8階の社員食堂で何回かビールを飲んだ。最後は文章論に行き着いた。どういう文章がルポとして最高なのか、とよくMさんは強調していた。
▽新聞社はチームワークの取材が大切だが、時には突出した記者の取材能力が発揮されることがある。そんな記事を書いていきたいと思ったものだ。中央紙が地方紙に負けてはいけないのは、情報量ではなく、「質」だと考えるようになった。
▽同じような話は、小説にも出てくる。
▽日航ジャンボ機墜落事故でその事件を報じる地元新聞の記者の動きを追ったのが、小説「クライマーズ・ハイ」だ。映画やドラマにもされた。その中で、主人公の全権デスクが会社近くの居酒屋で、会社編集幹部と議論する場面がある。地元の群馬県で発生した連合赤軍事件と大久保清誘拐殺人事件を取り上げて、主人公はその上司たちにいつまでその影を追ってるんだ、という言い方をする。その発言に同席していた仲間が、「俺たちは結構やったじゃないか」と反論するが、主人公は止まらない。「最初は良かったが、中央紙にどんどんと抜かれていった」と振り返る。
▽地元紙は中央紙に負けた、と言いたかったのだ。こうした考えを持っていることが素晴らしい。いつまでも勘違いして、「勝った」と自己陶酔している記者も多いからだ。
▽もっとも、自己陶酔している記者は朝日新聞も多いが。
★423いいかげんな政府の世論調査
▽朝日新聞は2022年8月22日付の紙面で、夫婦別姓問題を巡る政府の世論調査で、自民議員に配慮して法務省が質問内容を変更することに対して、内閣府が修正するよう求めたが拒否されたことを報じた。この結果、世論調査では「賛成」が過去最低となったことを伝えている。水面下の話で、分かりにくいが、要するに、世論を誘導する質問設定をして、「賛成」が多くならないよう、法務当局が配慮したことを浮き彫りにする、深刻な話だと私は思った。
▽ここで私が思い出すのは、政府がこれまで行ってきた各種の世論調査で、死刑制度に関する恣意的な質問設定だ。簡単に言えば、誘導尋問。凶悪犯罪を前提に、「死刑はどんな場合も廃止か」「場合によってはやむを得ない」という答えしか用意せず、ほかに選択肢を用意しない設定を繰り返してきた。
▽私は自分の著書でこう指摘したことがある。
《総理府が一九八九年に実施した世論調査の内容を、具体的に見てみよう。
▽総理府によれば、調査対象は二〇歳以上の三〇〇〇人。有効回収数は二二九三人、七六・四%だった。「層化二段無作為抽出」で選び、調査員による面接調査だ。
▽設問は最初に、自分や配偶者の親、祖父母に対して犯罪を犯した場合、刑が通常より重くなる「尊属加重規定」が刑法にあるかどうかを聞いている。その「尊属加重規定」について何回か尋ねた後に、死刑制度の設問が続く。
▽設問の最初は、こうだ。
「凶悪な犯罪は、増えているか」
▽質問に対する答えは、「増えている」「減っている」「同じようなものである」「分からない」から選択する。
▽前回や前前回の調査に比べると、「増えている」と答えた人の割合が高くなっている。
▽そして、初めて死刑問題についての具体的な質問に入っていく。
「死刑をなくすと悪質な犯罪が増えるか」
▽やや誘導的な質問だ。
▽答えは「増えると思う」「増えるとは思わない」「一概にいえない」「わからない」の四項目を選択させている。
▽その結果は、「増えると思う」六七%、「増えるとは思わない」一二・四%、「一概にいえない」一六・二%、「わからない」四・四%となっている。
▽そして核心の質問はこうだ。
「今の日本で、どんな場合でも死刑を廃止しようという意見に賛成か反対か」
「どんな場合でも」と最初に付けたうえで、「死刑に反対か、賛成か」ではなく、「死刑を廃止しようという意見に賛成か反対か」とわざと聞いているのである。
▽繰り返すが、この世論調査では、最初の質問で、凶悪犯罪と聞いている。つまり質問された人間は、最初から「凶悪犯罪」という言葉が頭の中に刷り込まれていく。そして「死刑をなくすと犯罪が増えるか」と、わざと死刑制度と犯罪抑止を絡めて質問している。
▽こうした誘導をしておいて、「死刑廃止は賛成か、反対か」と尋ねているのだ。
▽その答えは、死刑廃止に「賛成」は一五・七%、「反対」は六六・五%、「わからない」が一七・八%となって出た。
▽こんな質問なら、死刑存置論が多くなるのは当然の結果だと私は思う。質問が誘導尋問なのだ》(「なぜ『死刑』は隠されるのか」、原裕司、宝島社新書)
▽これが例えば、死刑の実態をキチンと公表して、そのうえで純粋な質問をしたら、結果は大幅に変わっていくだろう。法務当局も、それを知っているから、質問設定を変更することが出来ないのだ。
▽政府の世論調査ほどいい加減で、恣意的なものはない。
★419新聞社の時間外手当と打ち切り手当
▽私が新聞業界に入った時、多くの新聞社は労働時間の時間外手当を、打ち切り手当にし、いくら働こうが、いくらサボろうが、一定額を時間外手当として支払っていた。一方で、一部の新聞社は、青天井の時間外手当で、働けば働くほど、時間外手当が増えていった。私はどちらとも経験しているので、それぞれ欠点がある制度だと思っている。
▽私が最初に入った北海道新聞は時間外手当が青天井だった。事件事故などに追われて忙しい月の月給は、時間外手当が多くなっていった。それはそれで、給料が増えるのだから、うれしかった。
▽ただしこの青天井の時間外手当は、自己申告ではなく、上司であるデスクに委ねられていた。かなり恣意的に付けられていた。新人などは低く付けられていた一方で、キャップクラスは、かなり多めに付けられていた。もともとも時間外手当の単価が高いキャップに、より多くの時間外手当が支給されるから、それだけ給料もらっていたわけだ。不公平な制度だと思う。このキャップ、翌月の時間外が少ないと知ると、デスクに文句を言っていたことを思い出す。口のうるさい方が給料を多くもらう結果になっていた。
▽北海道新聞を辞めて、次に入った朝日新聞は、時間外手当が打ち切り手当で、働いても働かなくても、一定額の時間外手当がもらえた。こう言うと、外部の人間は「いいな」と言うかもしれないが、夜討ち朝駆けが続いた浦和支局時代は、深夜に帰宅し、早朝に自宅を出るという生活なのに、給料など全く増えなかったから、ある意味、労働搾取のシステムだと思った。
▽このようにして打ち切り手当の会社は意外にも労働時間の割に給料が少ないと私を持っている。
▽給料に一喜一憂したくないが、労働の対価だと考えると、大切な問題だとも言える。
▽私が朝日新聞に転職した時に、共同通信はまだ青天井の時間外手当だった。連続幼女誘拐殺人事件の容疑者が逮捕されて、事件の動きがなくなった時に、共同通信キャップは悠々と海外旅行に出かけたことを思い出す。恐るべし、青天井の時間外手当だった。
★414鹿児島県警の不祥事と内部告発問題
▽鹿児島県警の前生活安全部長が守秘義務違反で逮捕された事件は、一方で記者が内部告発者を守れなかったのではないか、という疑問がある。現時点で話を総合すると、内部告発として記者に県警の不祥事を送ったのに、その情報を受けた記者は紙面、もしくはニュースで事件を報じることができなかったのではないか。正面取材をして、結果として逮捕されたことになったのではないか。取材に問題はなかったのか。
▽まずは朝日新聞の記事を紹介する。
《国家公務員法違反(守秘義務違反)の疑いで逮捕された鹿児島県警本部の前生活安全部長、本田尚志容疑者(60)の勾留理由開示手続きが5日、鹿児島簡裁であった。前部長は意見陳述で「(県警内の)不祥事をまとめた文書」を「ある記者」に送ったことを認め、「県警職員の犯罪行為を(県警の)本部長が隠蔽(いんぺい)しようとしたことがあり、どうしても許せなかった」と理由を述べた。
▽県警によると、前部長は警察官らの個人情報が記された文書を退職後の3月下旬に第三者に漏らしたとして、5月31日に逮捕された。
▽前部長は意見陳述で、昨年12月に県警の現役警察官による盗撮事件があったが、野川明輝本部長が捜査に消極的だったと主張。別の不祥事についても「本部長指揮の事件」となったが公表されず、「不都合な真実を隠蔽しようとする県警の姿勢に失望した」「マスコミが記事にしてくれることで、不祥事を明らかにしてもらえると思った」と訴えた。
▽県警は取材に「捜査中の事件の被疑者の供述内容についてのコメントは差し控える」としている》(2024/06/06付朝日新聞)
《前部長は6月5日に鹿児島簡裁であった勾留理由開示手続きで、「不祥事をまとめた文書」を「ある記者」に送ったと認め、その理由について「県警職員が行った犯罪行為を本部長が隠蔽しようとしたことがあり、どうしても許せなかった」と述べた。前部長の弁護人は、漏洩(ろうえい)は義憤に駆られて行ったもので、「内部通報のようなもの」と主張した。簡裁への勾留取り消し請求は却下され、6日に準抗告したという。
▽前部長によると、昨年12月にあった盗撮容疑事件をめぐり、署員の捜査を進めようとしたが、本部長は「泳がせよう」などと言って着手しなかったと主張。「本部長が不祥事を隠蔽しようとする姿にがく然とし、失望した」と批判した。
▽鹿児島県警によると、前部長は、1987年4月に県警に採用された。鹿児島西署長などを経て、22年3月に県警最高幹部の一人である生安部長に就任し、今年3月25日付で退職した。
▽5日の法廷で、前部長の送り先として名前が挙がった札幌市在住のライターの男性によると、4月初旬に、匿名で内部告発とみられる書類が入った郵便物が届いたという。男性は前部長と面識がなく、開示手続きで自身の名前が挙がったことを伝え聞き、前部長が送り主とわかったという》(2024/06/07朝日新聞)
▽さらには地元放送局がインターネットでアップしている。長いが、本人の証言も一部紹介する。
《本田容疑者は「逮捕・送検され、勾留されているのは不当」とし釈放するよう求めていて、鹿児島簡易裁判所で5日、勾留理由開示請求の手続きがありました。
意見陳述で本田容疑者は「警察情報をある記者に送ったことは間違いありません」と認めたうえで、「不祥事を明らかにし、警察によい組織になってもらいたかった」と述べました。
本田容疑者によると、当時、枕崎警察署の巡査部長が女子トイレで盗撮した事案について、生活安全部長として野川本部長に指揮伺いをしたところ、本部長は隠蔽しようとしたということです。そして、退職後も不祥事が公表されることがなかったことから、北海道の記者にほかの不祥事をまとめた文書を送ったということです。
本田容疑者の弁護側は、5日の勾留理由開示請求で裁判所に対し、「本田容疑者の行為は、警察官による犯罪行為の隠蔽を明らかにしようとした内部告発であって、守秘義務違反にはあたらない」と主張し、釈放するよう求めました》
《■【前生活安全部長法廷での意見陳述内容(抜粋)】
「今回、職務上知り得た情報が書かれた書面を、とある記者の方にお送りしたことは間違いありません。
私がこのような行動をしたのは、鹿児島県警職員が行った犯罪行為を野川明輝本部長が隠蔽しようとしたことがあり、そのことが、いち警察官としてどうしても許せなかったからです。
野川本部長は独断ですべてを決められる方で、我々の考えを本部長に提案しても本部長の一存で否定されることが多く、多くの職員が疲弊し、考えても無駄だという雰囲気が広がっていきました。
そんな中、令和5年12月中旬、枕崎のトイレでの盗撮事件が発生しました。
この事件の容疑者は枕崎署の捜査車両を使っており、枕崎署の署員が容疑者であると聞きました。
我々としては、当然、早期に捜査に着手し、事案の解明をしようと思いました。しかし、野川本部長は「最後のチャンスをやろう」「泳がせよう」と言って、本部長指揮の印鑑を押しませんでした。
この時期は警察の不祥事が相次いでいた時期だったため、本部長としては新たな不祥事が出ることを恐れたのだと思います。
私は、本部長が警察による不祥事を隠蔽しようとする姿にがく然とし、また失望しました。私は、いち警察官として、目の前に犯罪があり、容疑者も分かっているのに、その事実を黙殺しようとする姿勢が理解できず、心底腹が立ちました。
県民の皆様の安全より、自己保身を図る組織に絶望しました。
そんな中、現職警察官による別の不祥事が起こりました。しかし、この事件も明らかにされることはありませんでした。
私は、不都合な真実を隠蔽しようとする県警の姿勢に、更に失望しました。
私は退職後、この不祥事をまとめた文書を、とある記者に送ることにしました。マスコミが記事にしてくれることで、明るみに出なかった不祥事を明らかにしてもらえると思っていました。》(南日本放送)
▽これによれば、北海道の記者にその部長は情報提供している。記者としているが、フリーライターのようだ。結果として記事になっていないようだ。
▽内部告発を県警から受けた場合、記者はどうすれば良いのか。
▽受け取った情報をそのまま県警幹部にぶつけても否定されるのは当然だろう。今回は否定された後に、前部長が逮捕されたのなら、取材手法に問題があったということになる。
▽また県警にぶつけないで、そのまま情報を握りつぶしたのなら、記者としては失格だ。
▽県警にぶつけるのなら、正面取材はしないで、ここは一つ、県警監察室を使うことだ。県警からは独立した組織なので、まともな監察室ならば、取材に対応してくれるはずだ。
「こんな情報があるので、うちは明日の朝刊で記事を書く。コメントを取りたい」
と監察室に通報するのだ。これによって監察室が県警内部の不祥事を調べて、それが事実なら朝刊で報じる。こうすることで隠蔽は暴かれる。監察室と二人三脚になるイメージだ。
▽この監察室を使うという方法は、過去にも私が取材で使っている。ある。県警の不祥事でも情報を知った段階で、監察室に通報し、取材をしていることを伝えている。監察室の動きは早く、情報が正しかったことを伝えてくれて、私は記事にしている。
▽今回の鹿児島県警の不祥事を知ったライターは、こうした取材手法を知らなかったのではないか。取材は経験が生きる。どういう取材ができるのか分からなければ、先輩や上司に相談することだ。1人、悶々としても何も記事にはならない。
★413難病と戦った記者の記録「左がきかない『左翼記者』」
▽病気や事故が理由で、新聞記者活動を断念した人間は意外に多い。私の知り合いでも、何人もいた。そんな中、「左がきかない『左翼記者』」(惠村順一郎、小学館)という本を読んだ。難病を患いながら、悲観せず、コラム記事を書き続けた記者の記録だ。この欄で紹介したい。
▽筆者は、朝日新聞東京本社政治部の記者を長く務めた後、2005年から論説委員を担当していた。2013年からはテレビ朝日系の報道ステーションに出演し、コメンテーターとして発言を続けてきた。論説副主幹になった翌年、体調の悪さに気付き、病院でパーキンソン病と診断され、薬による治療が始まった。ヒラの論説委員に戻り、朝日新聞夕刊のクラム「素粒子」の筆者として活躍した。そして60歳で退職した。
▽本では体調の変化と発病、その診断、治療の経緯を綴っている。発病で歩行が困難になり、歩行どころか椅子に座ることもかなりの苦痛となって、病気が進行。通勤も困難になり、会社に近いマンションを借りて、そこから通勤するようになったことなどを、淡々と綴っている。
▽読んでいて気づくのは、文章に極端な深刻さを書いていないことだ。本人は深刻な状況なのに、前向きに前向きに日常をこなそうとしており、その分、余計に痛々しくも感じた。
▽病気の進行で、左手が使えなくなり、パソコンのキーボードを打つのは、もっぱら右手になったことから、本のタイトルが「左がきかない」としたこと、さらには書いた社説が右翼から攻撃され、「左翼」批判が続いたことから、敢えてタイトルに「左翼記者」を入れたということらしい。
▽右翼や自民政権からの攻撃でテレビも萎縮した時代も振り返ってる。
▽苦痛の中で、コラムを書き続けてきたことは賞賛したい。しかし一方で、こんな難病を地方の記者が罹患したらどうなるか。コラムなど書く場所も時間も与えられず、記者職も外されるだろう。それが現実だ。その意味ではこの記者は幸せだったのかもしれない。
★412改めて感じる安倍晋三という人間の危険性
▽2冊の本を読んで、改めて感じるのが、安倍晋三という詭弁に満ちた人間の正体だった。日本がこの10年で政治的、経済的、国際的危機に陥ったのは、この人間が馬鹿なことをしたためだった。
▽「詭弁社会」(山崎雅弘、祥伝社新書)と「安倍晋三の正体」(適菜収、祥伝社新書)だ。
▽前者は安倍、菅、岸田政権が国民に対して行っているのが、説明責任という名の詭弁である、ということを紐解いた内容だ。それはアジア太平洋戦争末期の東条英機が詭弁を巻き散らかして、国民を戦争に駆り立てた論理と同じだと筆者は断言する。そしてその自民政権の詭弁を見抜けない政治記者も批判している。
▽筆者を知ったのはX(旧ツイッター)の投稿で、数々の詭弁を論破している人物だ。
▽後者は安倍が首相時代に行った言動を具体的に検証し、批判した内容だが、外交も経済も政治観も憲法観も全部がデタラメで、ウソにウソを重ねてきたことがよく分かる。テレビに対する言論弾圧も平気で行い、統一教会にはズブズブの関係でそして射殺された。この男に日本を任せたために、日本は最悪の国になってしまった。権力を私物化し、独裁国家を作ろうとした。安倍を取り巻く人間も酷い。こんな論調の本だ。
《安倍の最大の特徴は、すぐにバレる嘘を平気な顔でつくことだ。嘘がバレても嘘を重ねてごまかすか、現実の方を修正する。その結果、周辺にデマゴーグの類が集まってきた》
▽この指摘に尽きる。歴史も勉強していないし、虚言癖は昔からあった。
▽とどめの指摘は、安倍の教養のなさ、マナーのなさだ。
▽国会答弁で、安倍は「云々」を「うんぬん」を読むことができず、「でんでん」と読んだ。この点も取り上げて、
《要するに日本語に対する愛がない》
と批判した。
《結局安倍は、日本という国と折り合いがつかなかったのだと思う。
▽だから伝統や文化を拒絶する。食事のマナーも幼児レベルだった。
▽箸をきちんと持つことができないし、犬食いで、迎え舌。「犬食い」とは「犬のように食事をする」形態を指す。前屈姿勢で顔のほうを器に近づけていく。「迎え舌」は食事の際、口を開け、舌を出して食べ物を迎えに行くうマナー違反のこと。
▽ネットで「犬食い」「迎え舌」を検索すると、安倍の写真が上のほうに出てくる。つまり、安倍は食事マナーが最悪の人間の代表として、一般に認知されているわけだ。こうした人間が世界中を飛び歩き、食事会に招かれていることを考えると、背筋が凍りつく》
▽そしてやはり気になるのは、こうした詭弁とウソを繰り返す安倍政権を政治部記者がキチンと報道していたかということだ。詭弁とウソを見抜けなかったとしか言いようがない。それが新聞、テレビの政治部記者だ。
★410映画「ゲバルトの杜」とドキュメント「彼は早稲田で死んだ」
▽とりあえず、原作は忘れた方がいい。そんな内容だった。早稲田大学の川口君殺害事件を元に描いた映画「ゲバルトの杜」。東京・渋谷のユーロスペースで見た。
▽原作は樋田毅の「彼は早稲田で死んだ」。原作とは全く別物だと思った。
▽川口君事件を契機に早稲田大学文学部を中心に繰り広げられた革マルと新自治会、中核などとの悲惨な、壮絶な暴力と殺し合いを、何人もの関係者へのインタビューと、川口君リンチの再現シーン、映画撮影の舞台裏を時折明かした構成で映画を作っている。原作とは全く違っている。
▽冒頭はリンチの再現。悲惨な現場を描く。革命を主張する革マル派の学生たちが、中核派と接点を持ったと川口君を「スパイだ」と決めつけて、リンチを続ける。そして文学部を中心にした革マルと新自治会が次第に対立が精鋭化していく様子を時系列に、当時の新聞記事と当時の関係者へのインタビューで振り返る。原作「彼は早稲田で死んだ」の作者樋田毅もその一人という位置付けだ。
▽だから原作は、私が読んだ限り、筆者の早稲田への思いがストレートに伝わるが、映画では内ゲバの悲惨な歴史を淡々と綴る。そこには革マルへの憎しみ、批判も伝わる。作り手のメッセージが伝わってくる。あの時代とは何だったのか、と。
▽悲惨な歴史と内容だが、ただホッとするのは、リンチの再現シーンの合間に、出演した若い俳優の雑談の舞台裏を入れて、悲惨さを和らげてくれたことだ。出演した若い役者の笑い声が聞こえたことで、過去の事件だと示唆しているようだ。
【再掲載】★018早稲田の川口君事件
▽第53回大宅壮一ノンフィクション賞(日本文学振興会主催)に選ばれた樋田毅著「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋)は、ノンフィクションというのには、その範疇にはとどまらない、筆者の深い怨念と執念を感じさせる作品だ。
▽1972年に早大で起きた川口君殺害事件。当時の早大は文学部などの自治会を革マル派が抑えており、その敵対関係にある中核との戦いの中に、ノンセクトの学生が巻き込まれていくという荒れたキャンパスになっていた。筆者はノンセクトの学生として、革マルに殺された早大生、川口大三郎君の死を悼んで、次第に文学部自治会を舞台に革マル派と対立するようになり、最後は襲撃も受けるようになる。「なぜ川口君は殺されたのか」と問い続けるまま、大学を卒業後、朝日新聞に入社。事件記者として活躍し、朝日新聞阪神支局を赤報隊に襲撃された「116号事件」の担当キャップとして取材することになる。そんな経験を持つ筆者が朝日新聞を退職後に取り組んだのが、この川口君殺害事件だった。
▽この本では、早大文学部のノンセクトの新自治会委員長に就任して、川口君を殺害した革マル派と対決していたという自己の履歴を紹介しながら、当時の関係者に取材をしていく。「なぜ殺されたのか」と。本人も革マル派に襲われた過去を思い出し、そのことも記述しながら、これでもか、これでもかと革マル派の強引な武装闘争に疑問を突きつけていく。その執念は、革マルの暴力は許さないという一心で進んでいく。
▽最後はその革マルの当事者で現在は別名で研究家となっている人間との対談を行い、その当事者が暴力を行ったことを認めさせつつも、本人が自己肯定していることを引き出した。言い訳をしているように思える内容だった。
▽ノンセクト時代の仲間の女性から話を聞こうと連絡を取ったが、末期がんであることを告げられる場面は妙に痛々しかった。
「樋田君。ちょっと遅かった。ガンの末期で、入院準備中なんだ」
と打ち明けられたシーンは泣けてくる。
▽授業料に自治会費を上乗せして、早大は授業料を徴収して、その自治会費を自治会に渡していたし、それが革マル派の資金となっていた。また学園祭である早稲田祭もパンフレット料を取って、それが自治会に収入となっていたことを筆者もおかしいと記していた。当時早大執行部は、毅然とした態度を見せることも、革マル派と縁を切ることが出来なかったのだ。
▽私は筆者と学部も学年も違うが、大学入学時にはまだ革マル派が自治会を牛耳っていたし、授業が始まる時間になると、必ず自治会の人間が出てきて、革マル派側の視点に立った講義を10分ほどしていた記憶がある。
▽川口君事件から半世紀がたつ。あの事件を語るべき人間が次第に亡くなっている。
★404後藤田裁判の意見陳述書を提出
▽「カミソリ後藤田」と異名を取った故後藤田正晴が法務大臣時代の1993年3月に死刑執行を再開させて、これが引き金となって現在の日本での死刑執行が続いていることを、私は自著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」や週刊誌、月刊誌などでずっと指摘してきた。
▽そして後藤田本人は、その死刑執行再開の理由として、世論調査を間違った解釈をしてみせて、自著に書いている。
▽その本の内容について損害賠償と記述の削除・訂正を求めた裁判があり、私も意見を求められて、意見陳述書を提出した過去がある。裁判は一審が住民の全面敗訴だったが、意味ある裁判だった。
▽以下はその私の陳述書の全文だ。死刑執行を考える意味で、参考になると思う。
▽■陳述書
▽原▽裕司
▽▽
▽私は東京に本社を置く朝日新聞社に勤める新聞記者です。
▽今回の控訴審で陳述書を出すことにしたのは、歴史を正しく記す意味をきちんと知ってもらいたい、という思いにかられたからです。政治家が引退後に自分の歩んだ道を一冊の本として記すのはよくあることですが、今回の裁判の焦点となっているこの本『情と理▽後藤田正晴回顧録』は、政治家として行った行為を正当化させるために、正しい歴史を正反対に解釈し、記述している点で、非常に大きな問題を含んでいます。あまりにひどい、悪意に満ちたものです。表現者として、これは許されない、と私は考えています。
▽私は新聞記者として、歴史を正しく綴る記録者として、言いたいのです。被告は素直に謝罪し、本を回収しなさい。それが政治家後藤田の取るべき道だろうと思います。
▽■
▽1992年4月から1998年3月まで東京本社に勤務しており、その時経験したことを述べます。
▽この裁判の焦点である死刑制度について簡単に振り返ります。
▽戦後の民主主義において、死刑の歴史はここ20年間に限って見ると、3つの時期にはっきり分類できると思います。死刑執行数が毎年1人か2人で推移していた時期と、その執行数が全くなく、ゼロ行進が続いた時期、そのゼロ行進が破られ、最近続く半年に1回、しかも同時処刑という現在です。この傾向は変わっていません。
▽過去の法務省統計を見ても分かるように、1975年と翌76年に2けたの執行数があったが、翌77年からは、1人か2人という数字の年が多くなっています。この時期というのは、死刑が執行されてもマスコミ報道もほとんどなかったし、執行がニュースになることもありませんでした。法務当局は国民に監視されることなく厚い秘密の壁を作って、極秘に細々と死刑執行を行ってきたし、我々マスコミも関心を示しませんでした。
▽だが法務当局にとっては、予想もしなかった時期がやってきました。1989年11月の死刑執行を最後に、3年4カ月もの間、死刑執行がありませんでした。刑事訴訟法によれば、死刑執行は、死刑確定囚に対して、法務大臣が執行命令書にサインして5日以内に行うと規定されていますが、その期間、法務大臣になった四人が、サインできなかったことによります。いろいろな要因が類推されますが、中には、サインを拒否した法務大臣もいました。
▽かなり前から死刑問題を取材テーマの一つにしていた私は、死刑執行ゼロという記録が、1年になり、2年になり、3年近くになった1992年夏前、私の勤務する新聞の紙面で、「間もなく1000日、死刑執行ゼロ」と題する署名記事を書きました。
▽さらには、上司に命じられて、本社編集局の中で取材チームを作り、3カ月の期間をかけて死刑問題を取材し続けて、その年の秋には、「死刑執行ゼロの周辺」と題する連載記事を掲載しました。ちなみにこの連載記事は非常に反響があり、後に朝日新聞社から『死刑執行』という一冊の本として出版されています。
▽■
▽さて、こうした取材経験を踏まえたうえで、その年十二月の宮沢内閣改造で、警察庁出身の政治家、後藤田正晴が法務大臣に就任したのです。
▽後藤田は就任時の会見で、
「裁判で確定している以上は、法務の仕事に携わる者として尊重しないと、法秩序そのものがおかしくなる」
▽などと述べています。
▽これは死刑問題について触れた発言で、近く死刑執行があることをにおわせるものでした。事実、被告の政治行動から見て、いつ死刑執行を再開してもおかしくない、と私は思いました。
▽翌年の1993年です。死刑執行ゼロが3年4カ月になった矢先でした。
▽そうです。死刑執行が再開されました。一九九三年三月末でした。突然のように三人の死刑囚に対して刑を執行したのです。その当時の新聞報道を今一度読めば分かるように、後藤田法務大臣による死刑執行再開でした。
▽私は非常にショックでした。しばらく執行ゼロが続くと予想していたからです。
▽なぜ、今さら、と思ったものです。
▽前述したように、死刑執行は、法務大臣一人に委ねられた権力行使ですから、政治家である法務大臣が一人で考えることです。ということは、その法務大臣の死生観で、サインをしたり、サインを拒否したりとなります。ですから、後藤田は自分の信念で死刑執行命令書のサインをしたのでしょう。
▽そして後藤田の次に法務大臣になった民間出身の法務大臣、三ケ月章も4人の死刑囚に対する命令書にサインをし、さらに翌94年12月、社会党政権の法務大臣、前田勲男が2人に対して死刑執行命令書にサインしました。それ以来、ほぼ半年に1回、複数の死刑囚を同じ日に処刑するようになっています。半年に1度、しかも複数の人間を処刑するのが日常化していると言っていいでしょう。
▽要するに、現在の死刑執行状況をつくったのは、法務官僚と法務大臣、後藤田正晴なのです。
▽■
▽『情と理▽後藤田正晴回顧録』は上下二巻からなる本で、インタビューに後藤田本人が答える形式を取っています。上巻では幼少時代から始まり、警察庁長官を経て政界入りした経緯を語っています。下巻では第二次大平内閣で自治大臣になったことから始まり、橋本内閣のことまで触れて終えています。「カミソリ後藤田」と言われた本人が語る半生を、自ら振り返ったものだと私は受け止めています。
▽問題はこの下巻の「第二十章▽自衛隊派遣、死刑制度、検察人事に物申す」に出てくる記述です。下巻の268ページに、死刑問題について触れてこんな表現があるのです。
《僕はいまでも考えは変わっていない。その理由は、一つは法秩序というものはどうすれば守られるのかということが基本にある。同時に僕は、それだけでもいかんだろうと、世論調査ではどうなっているか調べたんです。そうしますと、政府の世論調査では七割ぐらいが死刑賛成論者ですね。死刑執行反対は少ないんです。しかしこういうものはそうした結果が出ることが多いんですね。だから僕は、これだけではいかんと思っていたところ、たまたまその前年か前々年ぐらいに、四国四県の県庁所在地、高松、松山、高知、徳島の街なかの繁華街で、通行人に何の選択もなしに世論調査をやっている結果があったんです。それがまた同じなんだ。死刑廃止に反対なんだ。これは政府がやった世論調査ではなくて、民間がやったんじゃないですかね、ちょっとはっきりしないんですけど。それでも、そういう結果だから、これではまだ、日本では死刑廃止は早過ぎるという気がしたんですね》
▽後藤田が法務大臣時代に行った最大の執事が、死刑執行再開のサインをしたことだと私は思っていますが、この部分の記述はその時を思い出して、振り返っているのだ。
▽実はここに大きな誤りがあるのです。民間が行った調査結果を反対に解釈しているのです。
▽世論調査というのは、そう度々行われるものではありません。この調査というのは、調べる限り、市民運動グループである「死刑廃止条約の批准を求める四国フォーラム92」が行った街頭アンケートしかありませんでした。市民運動が独自に調べた結果の感想を、後藤田がもらしたのでしょう。
▽その時の調査結果は、一九五五人のうち、「死刑が必要」は三五%の六百八十七人、「死刑は不要」が三九%の七百五十九人、「わからない」が二六%の五百九人という結果でした。
▽数字をよく注目してもらいたい、と思います。死刑不要が死刑必要論者を上回っています。もちろん、調査方法がどうような方法で行われたか実際は分かりませんが、政府がこれまで誘導尋問的な質問で作り上げた世論調査の結果と正反対の内容なのです。
▽後藤田は、この結果を正反対に解釈してみせて、民間調査でも、死刑賛成が反対を上回っていた、と本の中で言い切っていたのです。そして死刑執行を正当化させてしまっているのです。
▽私は新聞記者として、正直驚きました。後藤田たる政治家が、こんないい加減な回顧録を出版するなんて。こうしたいい加減な記述が、将来の歴史家によって引用されると、歴史は歪まれていくのです。
▽歴史を正しく記録する意識が、全く欠如している、と言わざるをえないのです。
▽■
▽この本には時代の背景説明が全くありません。だから、ここだけを読めば、単に後藤田が死刑賛成論を持った人間だったとしか読めません。しかし問題の根は深い、と私は考えています。
▽どういう時代背景が、後藤田法相の時にあったのか。問題の本質はここにある、と考えています。
▽前述しましたが、一九九二年十二月の宮沢改造内閣で後藤田が法務大臣として登場した時、一九八九年十一月を最後に、死刑執行がない、という記録が続いていました。それまでは年に一、二回、死刑執行が細々とあったが、三年以上も死刑がない異例の状態でした。法務当局の思惑はともあれ、死刑制度廃止を願う市民団体は、「死刑廃止前の停止状態」と受け止めていました。
▽後藤田はこういう状態で法相に就任し、このゼロ行進を破ったのです。つまり一九九三年三月、法務官僚から上がった死刑執行命令書にサインして、同じ日に計三人の死刑囚に対して、刑を執行させたのです。
▽それだけではありません。この執行再開を契機に、ほぼ半年に一度、しかも同時処刑という機械的な慣例が続いています。
▽制度として死刑制度が日本にはあるのは分かるが、だからと言って、今日のように乱用していいものなのかどうか。日本の死刑制度は、国民が監視できません。密室の中で決められ、密室の中で死刑執行がされるのです。国家権力の行使なのに、国民の監視できない死刑執行を、そのまま肯定する。これが後藤田の考えなのでしょう。
▽後藤田の考えははっきりしていると思います。法がある以上、それを守るのは政治家の役目だ、だから死刑執行のサインをしたのだ、と。
▽この考えはおかしいと思います。政治家は役人ではありません。国家を正しい道に導くのであって、役人が出した死刑執行命令書にサインするだけではあるまいと考えています。
▽後藤田の経歴には「警察庁の中枢を歩み、安保闘争や過激派爆弾テロ行動の対策に力を注いだ」という表現があります。この政治手法は、政治家になっても、治安維持という本質は変わっていなかったわけです。そして、自らの政治行為を正当化させるために、四国の街頭アンケート結果を曲解してみせて、それを堂々とインタビューで語って見せた。これが今回の問題の本質だと思います。
▽
▽
▽■
▽最初に提訴した訴状ではこう言っています。実に当たり前の主張だ、と私は思います。
《原告らは、死刑制度の廃止を願って四国フォーラムに参加し、本件アンケートを行って、死刑制度存置の理由とされてきた政府の世論調査が決して民意を反映したものではないことを明らかにし、死刑執行が再開されないように求めてきた。ところが、本件記述によって、あろうことか、本件アンケートが誤って逆に執行再開を正当化するものとされた上に、原告らの意に反して、本件書籍の読者をして死刑制度や執行再開が正当であるかのように誤解させるための材料として用いられている。これは、四国フォーラムに参加し、本件アンケートを行った原告らの死刑廃止や執行停止の願いを踏みにじるものであって、到底看過できるものではない》
▽新聞報道によれば、後藤田の代理人は「私どもは誠心誠意対応してきた。今回提訴されたことは残念な結果で心外だ」と話した、という。どこが誠心誠意の対応だったのか、当事者だったら大笑いしてしまうものでした。
▽もうお分かりでしょう。死刑執行の再開と、現在の状況を作った本人が、まったく嘘のアンケート結果を紹介し、死刑制度を肯定したのです。この罪は重いと思います。「政界のお目付番」と言われた被告の本質はここによく出ていると感じます。
▽
▽以上。
★400ハンセン病の女性の半生を描いた映画「かづゑ的」を見た
▽映画監督の熊谷博子が製作した映画「かづゑ的」は、一人のハンセン病患者の半生を描いた、息の長いドキュメンタリー作品だ。瀬戸内海に浮かぶ島にある国立ハンセン病療養所で10歳の時に入居し、そこで約80年間生きてきた女性の喜怒哀楽が凝縮されている。
▽ドキュメンタリーの手法として、監督自身がこの女性、宮﨑かづゑさんに接して、日常の生活を映しながら、過去を振り返り、現在を生き抜く姿を描いている。国の間違った隔離政策のために、世間と遮断された療養所に閉じ込められ、差別といじめ、そして偏見に泣かされながら、強く生きてきたこの女性をレンズは撮り続けている。
▽ハンセン病のため、両手の指がなく、片足も義足だ。病気のせいで視力も弱い。見ていることが痛々しくなる。
▽冒頭からいきなり入浴シーンが始まり、裸の彼女とそれを支える介護士とのやり取りが映し出される。療養所内では、患者同士の差別やいじめがあり、夫との出会い、そして結婚、優しかった母親との思い出が語られる。
▽そして現在に戻り、夫が好きだったプロ野球ダイヤーホークスの試合観戦、第九のコンサートの鑑賞と団員とのふれあい、亡くなった母親の墓参り、長く寄り添っていた夫の死亡とその号泣シーンを、これでもかこれでもかとレンズは彼女の姿を撮り続ける。そして最後は島の高台に登り、島を一望し、
「この島は不思議な島、天国でもあったし、地獄でもあった」
と述べる。静かに静かにストーリーが進められていく。
▽78歳でパソコンを覚え、84歳になって初の著作となる「長い道」を出版し、多くの共感を得る作品となった。
▽監督の熊谷は言う。
《宮﨑かづゑさんは、私が初めて会ったハンセン病の元患者さん(回復者)でした。
信頼する知人に、会わせたい人がいるからと、半ば強引に長島愛生園に連れていかれました。10歳からハンセン病療養所で生活している、という人に。その日々の暮らしを描いた著書「長い道」を会う前に読み、大変心をうたれました。かづゑさんの部屋で話しながら、この人生を撮って残しておかねばと心に決め、2016年から愛生園に通い始めました。それから8年間、私たちはカメラとマイクを携えて、かづゑさんの人生に伴走することになりました。この映画はハンセン病を背景にしていますが、決してハンセン病だけの映画ではありません。人間にとって普遍的なことを描いたつもりです》
★397漫画「紫電改のタカ」は反戦作品だ
▽漫画家ちばてつやが描いた「紫電改のタカ」は、強烈なメッセージを最後に訴えた反戦漫画だと、私は思っている。
▽紫電改とは、太平洋戦争中に日本が開発した戦闘機「紫電」の改良機で、零戦の能力を上回るとされた。「紫電改のタカ」は台湾南部にある高雄基地、名機「紫電」で編成された七〇一飛行隊に、少年飛行兵である主人公、滝城太郎がやってきたところから始まる。さまざまな戦闘シーンを繰り広げ、最後は特攻隊に加わり、空に飛び立つシーンで終わる。
▽最後の場面だけ紹介したい。
▽特攻隊員に指名された主人公は、指名した上官にこう刃向かう。
「部下に死刑の宣告をくだしておいて、さっさと引き上げるんですか」
「あなたの役目は、ただそれだけですか?」
▽これに対して、上官は言う。
「なにかいいたいことがあるのか」
▽主人公は言う。
「なぜ自分たちが死ななきゃならなないんです」
「いったいなんのために死ぬんです?」
▽上司はこう答える。
「お国のためだ。日本の国を守るために命を捨てるんだ」
▽主人公は食い下がる。
「もう日本は守りようがありませんよ。日本が負けるのは時間の問題です」
▽こういう主人公を上官は殴るが、主人公はさらに食い下がる。
「中佐がどうした! 一皮向けばただの死刑執行人にすぎんじゃないかっ」
▽上司はこう自虐的に答える。
「死刑執行人だと? ふふふ 死刑執行人が自分から進んで死刑にされると思うか?」
▽主人公は、
「え⋯⋯?」
と答えるだけだが、上官は続けて言う。衝撃的な告白だった。
「名簿にこそ書いていないが、このわしも第一陣に加わって出撃するつもりだ」
▽この言葉に主人公も仲間も声が出ない。
▽上官は言う。
「日本は間もなく負けるだろう。だがそれまで⋯ひとりでも多くの日本国民を空襲から守ってやりたい」
「どうかわらって散ってほしい」
▽最後の最後は主人公が特攻隊員として、大空に旅立つシーンだ。
▽この「紫電改のタカ」は私が子どものころに連載していた漫画で、この最後のシーン、私が子供心ながら泣いてしまった。悲しすぎるのだ。
▽作者のちばてつやは、このシーンに全てのメッセージを伝えたかったのだろう。戦争末期に生み出された自爆テロにも似た特攻隊員として次々と死んでいった若者を、こうして描くことで、戦争の愚かさを訴えていた。
▽若者を特攻隊員として命を奪った日本帝国軍幹部の責任は問われないまま、戦後は処理された。
▽半世紀ぶりに読み返したが、古さは全く感じない。この作品は、ちばてつやの反戦作品だと言っていい。後世に残したい漫画だと私は思っている。
★389iMacの衝撃(「クソパソコン」と読んでいたウインドウズマシンの続報)
▽1998年にアップルが発売したiMacは、衝撃的だった。それまでのパソコンの概念を根底から変えた。丸い曲面で本体にディスプレーを内蔵した一体型コンピューターで、それまでビジネス向きだとされたパソコンのイメージを一新させて、大ヒット商品になった。
▽デザインも、そしてスケルトンというボディー、そしてカラフルなデザインは、関係者にショックを与えた。
▽パソコンは道具だという、それまでの概念から、パソコンを生活の一部として使う必需品のような商品となったのだ。
▽当時、私は新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤めており、このiMacを部下に勧めたものだ。
「こんなコンピューターは見たことがない。買って損はしないぞ」
▽そんな私の話に乗って、我が部下はiMacを買ったのだった。
▽他にも、いろいろな知人に勧めて、買ってもらった。iMacの先導者になった。
▽そして、こういうヒット商品にはつきものの、「ものまね」が出回る。そう、iMacに似せたウインドウズマシンが登場したのだ。
▽安易にヒットに乗って、造ってしまったメーカーのずさんな対応だった。
▽以下はネットに出ていた記事から紹介する。
《このようなiMacのブームに乗っかろうと、デザインを真似たWindowsコンピューターも登場した。特に有名なのが、eMachinesが販売した「eOne」だろう。そのスケルトンボディとブルーのカラーリングは、まさにWindowsを搭載したiMacといえる。
▽このような製品の登場に対し、アップルは訴訟を起こす。また日本でもeOneを販売していたソーテックに対して訴訟が起こされ、販売が停止された後に和解が成立した。
▽コンピューターのデザインに革命を起こした、アップルのiMac。さらに最新モデルではアップルの独自開発プロセッサを搭載するなど、その進化はとどまるところを知らない》
▽アップルが先行して開発した商品を、他のメーカーがものまねをして造る、という歴史はさらに繰り返されている。
▽iPhoneしかり。グーグルフォンがまさに、まねごとだった。
▽Apple▽Watchしかり。似たような腕時計が次々と出てくる。
▽AirPodsしかり。似たようなブルーツウース接続のイヤホンが、次々と発売されているが、元々はアップルが開発したAirPodsが元祖だ。
▽このようにアップルの商品開発は、常に世界先端を歩み続けてきた。このことに、私は崇拝している。そしてまねするメーカーを軽蔑している。
▽クソパソコンならぬ、クソウインドウズ、クソフォン、クソイヤホン、クソウォッチだ。
★388「クソパソコン」と読んでいたウインドウズマシン
▽「ブロードバンド対応」
▽「大容量メモリ搭載」
▽大型家電店のパソコンコーナーで、NECや東芝など日本のメーカーがかつて、ウィンドウズマシンを発売するために使ってきた歌い文句がこれだった。マックユーザーの私から見れば、これは全くのインチキな宣伝だった。ここに日本のメーカーとウィンドウズマシンのいびつさがあったと私は思っている。
▽「ブロードバンド対応」とは、今のようにWi−Fiがなかった時代、有線LANに繋いでインターネットができるインターフェイス(端子)を持っているという意味だ。つまり、インターネットの環境があり、有線LANコードがあれば、インターネットに繋がるというだけであって、何も大げさにブロードバンド対応と言う必要はなかった。大袈裟だなと私は当時思ったものだ。
▽ブロードバンド対応と言うのは、単にそのマシンにインターフェイスが加えられているだけであって、装置としては、数千円にもならない安物だ。これをいちいちブロードバンド対応と大げさに歌うのだから、消費者を騙していたと言われても仕方ない。
▽「大容量メモリー搭載」もインチキだった。大容量と言っても、128MBぐらいの低容量だ。既に当時のアップルの製品はその5−10倍のメモリーを搭載していた。ちなみに1GBが1024MBだから、昔のウインドウズマシンのメモリーの少なさは際立っていた。
▽机に例えるなら、メモリーは机の広さを表すから、その作業スペースがいかに小さいか分かる。小さいと作業の効率化が悪く、処理速度が低下する。こんなマシンを当時のメーカーは「大容量」だと偽って売っていた。だから私はウインドウズマシンを使う場合、個人でメモリーを増設して使っていた。そうしないと、ウインドウズマシンがまともな動きをしてくれないためだ。
▽こんな訳で、マックユーザーからすると、ウインドウマシンは「クソパソコン」として映った。
▽最近はメモリー増設をしたマシンも出ているが、一概に店頭で並ぶウインドズマシンは、メモリーの搭載量が少なく、昔と変わっていないことを実感する。ウインドウズマシンを購入する際、搭載メモリーの容量は気にした方がいい。「クソパソコン」にだまされてはならない。
▽そう言えば、アップルが初代iMacを発売した時、これを真似て作ったクソパソコンがあったな。次回はこの話を書いてみよう。
★386読売新聞の捏造記事の教訓
▽読売新聞が小林製薬の薬害事故で捏造記事を載せたことを18日の朝日新聞が伝えた(2024年4月18日付)。悪質なのは一度関連会社社長のコメントを削減しているのに、それだけでは終わらず、さらに捏造だとした点だ。支局の記事を大阪本社で直したのだが、都合良く直したのが原因だ。結論ありきの記事の書き方をしたためで、支局から届いた原稿の意味を丁寧に考えていない。朝日新聞もそうだが、デスクが最初から結論を決めつけて原稿を直すと、必ず訂正になる。
▽まずは読売新聞の寝相記事の流れを、朝日新聞の記事から紹介したい。
《小林製薬の製品による健康被害に関する報道をめぐり、読売新聞は17日夕刊で、小林製薬の取引先企業の談話を捏造(ねつぞう)していたと報じた。読売新聞は「重大な記者倫理違反」として、関係する記者を処分する方針を明らかにした。
▽問題の記事は6日夕刊に掲載されたもので、小林製薬の紅麹(こうじ)を原料に使った企業の社長の発言として「突然、『危険性がある』と言われて驚いた」「補償について小林製薬から明確な連絡はなく、早く説明してほしい」と報じた。
▽読売新聞によると、これらの発言は、原稿のとりまとめをした大阪本社社会部主任(48)が捏造したものだったという。取材にあたった岡山支局記者(53)は、社長の発言内容と異なることを認識しながら、修正や削除を求めなかった。主任は捏造した理由について「岡山支局から届いた原稿のトーンが、自分がイメージしていたものと違った」と説明。支局記者は「社会部が求めるトーンに合わせたいと思った」と話しているという。
▽読売新聞は17日夕刊で読者に謝罪。主任ら関係する記者を処分し、上司の監督責任も問う方針を明らかにした。読売新聞は当初、8日夕刊で社長の発言を削除する訂正記事を掲載し、「確認が不十分でした」と説明していたが、発言していなかった事実が示されておらず、この訂正記事にも問題があったとしている。
▽読売新聞は「信頼回復のため、記者教育をさらに徹底し再発防止に取り組みます」とした》
▽地方から出てきた原稿を東京本社のキャップやデスクがアンカーとして原稿を作る。原稿を関連取材をしている地方支局に発注し、支局員は発注を受けて、取材し、原稿を作って本社に送る。
▽この段階で、一番怖いのは、支局から出てきた原稿を原稿として使わず、原稿に出てきた単語や固有名詞、話し言葉を抽出して、データとしてしか使わず、原稿の趣旨を全く見ずに勝手にストーリーを作ることだ。これが怖い。
▽集まったあらゆるデータを、アンカーが自分のストーリーに当てはめていくから、趣旨が正反対になることがある。
▽私は朝日新聞に入って33年間、そうした原稿の使われ方を何回も経験してきたし、危ない時は支局デスクを通じて本社に何回もアピールしたこともある。都合良いデータだけを使われた事は何回もあった。
▽これはキャップやデスクの能力の問題だと思う。支局から上がってきたデータを、原稿の材料としてデータとしか見ないから、都合良いストーリーに当てはめてしまうのだ。今回の読売新聞の捏造記事問題はそれを物語っている。
▽これを防ぐにはどうするか。
▽アンカー役が原稿をキチンと読んで、その趣旨を理解するしかない。データとして読めば、同じような間違いは必ず起きる。
▽今回の問題は読売新聞だけの問題ではない。朝日新聞も同様なケースは常に起こりうる。わかっているだろうか?
★384故久和ひとみさんへ幻の追悼文と死刑問題
▽感謝を込めた追悼文を書き、どこかに掲載してもらおうとしたが、結局幻になってしまった原稿がある。売り込みをする余裕も時間もなかったのだ。2001年3月に亡くなったTBSキャスター久和ひとみさんのことだ。以下は当時の幻の追悼文を一部修正して、紹介したい。
▽その日、私はスポーツ新聞にそんな記事が出ているとはつゆ知らず、のんびり過ごそうとしていました。3月3日の土曜日でした。
▽午後になって、私が務めている新聞社の東京本社社会部の知り合いから、手書きで「ご参考」と書かれた3日付のスポーツニッポン(スポニチ)の芸能・社会面記事のコピーが、私が勤務する地方支局の事務所ファクスで送られてきました。地方勤務の私は、こんな記事など読んでいないだろう、と気を使ってくれたのでしょう。
▽子宮ガンで亡くなったニュースキャスター久和ひとみさんについての続報でした。彼女が急死した、というのは、新聞でも報じていたし、芸能ニュースでも何回か見ていました。しかし、私と久和ひとみとは面識もありません。なぜ私のところに、と思いつつ、その記事を見ていました。
▽彼女の最後の仕事が雑誌の書評執筆だった、として、その記事にはこうありました。
「久和ひとみ、最後の仕事は書評執筆」
▽こんな見出しで、記事は、実業之日本社が発行している「週刊小説」に久和ひとみさんが書いた原稿が最後の仕事となった、とあります。
▽よく読むと、なぜ私のところにファクスを送ったか、理解できました。
▽その原稿とは、私が今年一月に宝島社から出版した新書『なぜ「死刑」は隠されるのか?』について書いた書評でした。
▽以下が、そのスポニチの記事です。
《事務所関係者によると、久和さんの死は、本人も予期しない急なものだっただけに遺言や遺書などは残っていない。遺稿は「週刊小説」(実業之日本社)に連載していた書評。最後の原稿は、同誌3月9日号に掲載された原裕司氏著「なぜ“死刑”は隠されるのか?」についての評。「人間が罪をつぐなうことはどういうことか、死刑の実態を踏まえて冷静に考え直さなければならない」などと論じている。次号については、容態が急変した2月23日が締め切りだったため、未完成に終わった》
▽本を出版した人間にとって、新聞や雑誌の書評は気になるものです。評判がいいとか悪い、ということもありますが、本の売り上げに多少ではあるかもむ知れないが、影響するからです。
▽地方の書店では扱っていなかったので、私はこの「週刊小説」を出版している実業之日本社から取り寄せて読みました。読み終えて、この人は単なるテレビキャスターではない、きちんと問題意識を持っているジャーナリストだと思いました。
▽実に死刑問題の本質を指摘しているのです。読んでみて私は感動しました。
▽以下は、その久和さんが書いた書評の一部を紹介します。
▽タイトルは「極刑の向こうに横たわる真実」で、こんな表現をしています。
《死刑についてその本当の姿を知ることは、日本ではタブーである。死刑の状況や、刑の執行を恐れつつ何年も待つ死刑囚の生活は、私たちの目から隠されている。その一方、オウム事件や凶悪犯罪報道に際し、我々は「極刑」という言葉を安易に口にするようになっている。ここに潜む、何か全体主義的な危うさの告発が、この著書の底流にある。
▽冤罪の問題、刑の執行が法務大臣の思惑ひとつに委ねられていること、国家権力を誇示するかのような三人もの同時処刑、無いに等しい死刑情報の公開など、この国の死刑制度の矛盾が具体的に指摘される》
《「死刑問題の是非を問うことは、その人の生き方を究極的に問うことでもある」と著者は述べている。「国家と個人の距離感の問題」とも言っている。だからこそ、これを語るにはたいへん勇気が要り、タブー怠識は深まるのだ》
▽実に死刑問題の本質を、久和さん自身が見事に指摘しているのでした。
▽それにしても、私は思ってました。
▽彼女はどんな状態で、つまり子宮ガンに侵された体で、この書評を書いてたのだろう。病魔に冒された体で、どう書き続けたのだろうか、と。
▽死刑問題は、奥が深いものです。法律だけではなく、その国の文化、哲学、宗教、政治などが絡み合います。私の本は解説入門書と銘打ってはいますが、単なる法律問題にとどまらず、この国に生きるすべての人に対する問いかけでもあるのです。このことを、病に冒された体で、久和ひとみさんはきちんと汲み取ってくれていたのです。
▽私にとっては、亡くなった久和ひとみさんの最後の原稿が、私の本の書評だったことに、新鮮な思いを持つと同時に、ちょっとしたドラマを感じ取りました。
▽そしてこうも考えました。死刑廃止を願う人々にとって、よき理解者を失ったことにもなるのではないでしょうか。
▽同じマスコミ人でありながら、およそ縁がないだろうと思っていたテレビ局のニュースキャスターに対して、ある意味でその存在に気づかなかった私もうかつだったし、ある意味で親近感を持つことができたのです。
▽ジャーナリスト、という言葉を使うのは私は嫌いなのですが、久和ひとみさんには捧げます。
▽あなたは立派なジャーナリストだった。
▽享年40歳。
▽合掌。
★379死刑執行の直前告知とその是非を訴えた裁判判決
▽私のライフワークの一つとして、日本の死刑制度があるが、その問題点の一つとして、死刑囚に対する告知問題が浮上している。このことを記してみたい。
▽日本の死刑確定囚に対して死刑執行を告知するのは、その執行のわずか1、2時間前だ。法務大臣の死刑執行命令書を元に、検察官が執行するのだが、死刑確定囚側からすると、突然のお迎えが来たように映る。
▽この以前のコラムでも書いたが、「足音が近づく」という手記は、獄中にいた死刑確定囚の小島繁夫が、いつ処刑されるかもしれないという恐怖感に直面している死刑確定囚の本音を綴っていた。タイトルの「足音が近づく」は、死刑執行の刑務官の足音が近づく恐怖感から取ったものだった。
▽そんな今日を和らげようと、大阪地裁では死刑確定囚2人が憲法違反だとして、訴訟を起こした。
▽法務当局は「本人の心情の安定化のため」と説明するが、果たして、それだけで死刑確定囚の人権、防御権は守られるのだろうか。
▽裁判の根拠の一つとして、「玉井テープ」の存在を原告側は挙げている。玉井テープとは、大阪拘置所で死刑確定囚を執行する2日前から、面会に来た姉や職員とやりとりをしたことを記録した録音テープのことで、当時の大阪拘置所所長の玉井策郎が極秘に録音していた。執行の2日前には告知しており、全く現在と状況が違っている。玉井は翌年の国会で論議された死刑廃止法案の時も公述人として証言し、具体的な死刑囚とのやりとりを明らかにした人物だ。
▽死刑廃止運動を続けている市民団体は、その玉井テープを編集し直し、2022年10月のイベントで、そのテープを公開した。告知問題はもっと議論されても良いと私は感じる。
▽また2022年10月29日の朝日新聞社説では、その告知問題を取り上げていた。「死刑当日告知▽見過ごせぬ手続きの闇」というタイトルで掲載された。
▽告知問題が大阪地裁で訴訟になっていることを紹介し、玉井テープの存在も取り上げて、こう結んだ。
《だれもがそうではないかもしれないが、あらかじめ告知することで、静かに来し方を振り返り、自分と向き合うことができるケースもあることを示す。
▽死刑制度には、国家が人命を断つことへの根源的な疑問があり、冤罪(えんざい)だと取り返しがつかない。絞首刑の残虐性については死刑存置派の識者からも見直しを求める意見がある。朝日新聞社説は廃止に向けて歩を踏み出すべきだと主張してきた。ただちに実現しないとしても、改められる運用から変えるべきだ。
▽同時に、突然、理不尽に命を奪われた被害者の遺族を支援し、その負担を少しでも軽くできないか、施策を常に見直し、充実させることもまた、欠かすことのできない営みだ。
▽既に3分の2以上の国々が死刑を法律上または事実上廃止し、先進国での実施は日本と、米国のおよそ半数の州だけだ。米国は30日前には対象者と弁護人に執行を告知する。国連の人権機関は当日告知への懸念を日本政府に重ねて示してきた。
▽目をそらして済ませられない問題である》
▽こうした社説が出るようになったことを、私はうれしく思う、私が現役のころは、死刑制度について書かれた社説はほとんどなかった。
▽そして2024年4月15日、その告知問題の判決が大阪地裁であった。訴えを退ける判決を出した。以下は朝日新聞の記事だ。
《判決は、執行方法をめぐる過去の民事裁判で「実質的に刑事裁判の判決の取り消しを求めるもので許されない」とした、1961年の最高裁判例を踏襲。当日告知の執行を受け入れないことは、「死刑執行を許さないという効果を生じさせる」と指摘した。
▽原告側は「当日告知の是非を争っているだけで、死刑そのものの取り消しまでは求めていない」と主張していたが、「実質は確定した死刑判決の取り消しを求めることになる」と退けた。
▽さらに判決は「原告らは当日告知の運用を甘受する義務がある」とも指摘。事前に告知したことで自殺した例があったとして直前の告知に変えた今の運用は、「本人の心情の安定や円滑な執行の観点から一定の合理性がある」と結論付けた。
▽原告側が主張した憲法13条の人格権に基づく「死の時期を知る権利」などについては、「そうした権利は保障されていない」とした》
▽根拠となる法律はないのに、秘密裏の執行を是認する判決だった。
★376部数減を見越した新聞販売店が手がける商売
▽私の自宅で契約している朝日新聞販売店から届く朝日新聞の折り込み広告の中に、販売店が独自で手がける商品広告が入るようになった。新聞とは全く関係ない北海道産の米や野菜、果物、魚、菓子、缶詰などを宣伝するチラシだ。朝日新聞だけではない。毎日新聞、読売新聞も新聞契約だけではなく、食料品や菓子などの物産を扱う販売店が多くなった。これはどういうことかわかるだろうか。
▽朝日新聞はこの2、3年で、急速に地方支局の要員を減らしている。新聞の斜陽化と読者離れなどで部数が急激に減っていき、紙の媒体からの脱却を進めようとして、朝日新聞は急速にデジタル化を進めようとしている。地方を軽視し、中央重視の路線で、究極はiPhoneなどのスマートフォンで紙面を見てもらう作戦を取り始めている。
▽ここで重要なのは、販売店の存在だ。新聞がデジタル化を進めたら、紙の媒体は不必要になり、従って販売店も必要なくなる。
▽販売店にとって、販売店の将来像が全く見えてこない。そのため、販売店は新聞の販売だけではなく、物品の販売に踏み切っているわけだ。
▽新聞社と販売店の関係は、契約である。朝日新聞販売店と名乗っていても、販売店の店主は朝日新聞の社員ではなく、契約上販売をしているだけだ。
▽だから販売する新聞の取り扱い量が減れば、販売店の経営は苦しくなる。急速に進むデジタル化の影で、販売店は将来を見通せなくなり、こうした物販の宣伝が始まっているのだ。
▽朝日新聞に33年勤務していた私にとって、こうした販売店の将来が辛い。チラシを見るたびに、販売店はどうなってしまうんだろうか、と私は考えてしまう。
★375記者会見の意味を勘違いする質問者の資質
▽2023年に世間を大きく賑わすようになったジャニーズの性加害者問題で、ジャニーズ側が9月に2回行った会見が酷かったと、ネットで批判で出ていた。自分の意見を延々と話し続ける記者がいて、その批判がネットで出ていた。これに対して、ジャニーズ側がこんな発言をしていて、拍手が出たというのだ。
▽以下はネットにアップされた記事から見てみる。
《一部の記者がマイク無しで質問したり、一社一問ルールを守らず荒れる一幕も。井ノ原快彦が「会見は全国に生放送で伝わっており、小さな子どもたち、自分にも子どもがいます。ジャニーズJr.の子たちもいます。それこそ被害者の方々が、自分たちのことでこんなに揉めているのかって、僕は見せたくないので。できる限りルールを守っていく大人たちの姿を見ていただきたいと思っていますので、どうかどうか落ち着いてお願いいたします」と要請すると、会場から拍手が起きた》
▽拍手が起きたのは、ルールを守らない一部の記者がいたためだ。拍手はその記者への批判となっていることが分かる。
《東京新聞の記者でArcTimesのキャスターも務める望月衣塑子記者がルールを破るマイク無しで2連続質問を実施し、順番を守っていた他の記者からは白い目が向けられた。その後も“一社一問”というルールを無視して強引に質問しようとし、司会から「最初に申し上げております。一社一問でお願いします。お願いします。ご協力ください」と静止され、井ノ原快彦も「落ち着いていきましょ。じっくりいきましょ」と暴走する望月記者をなだめていた》
▽もうこれは、会見という名の劇場だ。一部の記者が主人公になっているだけで、会見ではない。一社一問が駄目というなら、事前にルールを決めれば良い。
▽私もいろいろな会見に出てきたから分かるが、一部の記者が酷い。
▽事件の捜査本部の会見、県庁の知事会見、大臣会見、官房長会見、自治体首庁の会見、企業の会見、サッカーなどのスポーツの会見、不祥事の会見など。いろいろ出たが、場違いな質問に出会すことがある。
▽自分の主張を延々としゃべっているだけで、質問になっていない話が続いて辟易することもしばしばだ。
▽勉強不足で、もっと勉強してから質問しろよと言いたくなるケースもあった。
▽逆にこんな会見の場所で、自社の独自情報をバラす記者もいた。
▽酷いのは、記者会見を主戦場と間違いして、延々と質問を続ける記者だ。今回のジャニーズの会見で問題なのは、これだ。記者会見で自分が質問したことを売りに出しているだけだ。
▽民放の記者で、自分が主人公になっていると勘違いしているケースも多い。この場合、取材している自分をテレビカメラに撮影してもらいたいだけなので、既に出た質問を繰り返している場合が多い。
▽会見はあくまでも記者にとっては取材の一環であって、すべてではない。勘違いしない方がいい。会見はあくまでも取材の材料だ。主戦場ではない。
★371横断歩道と歩行者を守らないドライバー
▽ジョギングや散歩をしている時に最近目に付くのが、横断歩道を渡ろうとする歩行者がいるのに、止まらないドライバーが結構多い、ということだ。特に、朝の通勤通学時間帯で目立つ。みんな、急いでいるのは分かるが、これは道交法違反だ。
▽ジョギングをする時は、私は交通量の多いコースは避けている。それでも道路を渡らなくてはならない時、通過交通が多い場合は、横断歩道を利用する。その際、一瞬立ち止まって左右を見るのだが、多くのドライバーは止まってくれない。感覚的に言うと、10台のうち6−7台は止まってくれない。まるで歩行者を全く見ていないか、横断歩道そのものを見ていないかと思うぐらい酷い。私だけでなく、通学や通勤の人々もいて待っているが、止まってくれない。逆に止まってくれるのは大型トラックなどの一部ドライバーだ。
▽どうしてこんなに、歩行者や自転車を無視するのだろうか。
▽おそらく朝の通勤帯で、急いでいるためなのだろう。歩行者など眼中にないのだろう。
▽法律では、横断歩道で人が渡ろうとしている時は、車は止まらなくてはならない、と決められている。下は道交法の条文だ。
▽
《○▽道路交通法の条文 ▽▽(横断歩道等における歩行者等の優先) 第三十八条▽車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。》
《○▽罰則等 ▽▽・横断歩道等における歩行者等の優先 ▽▽▽罰▽▽則▽3月以下の懲役又は5万円以下の罰金 ▽▽▽反 則▽金▽大型車1万2千円、普通車9千円、二輪車7千円、原付車6千円 ▽▽▽基礎点数▽2点》
▽この法律の規定により、横断歩道を渡ろうとした歩行者をドライバーは守る義務がある。横断歩道では歩行者がいたら止まらなくてはならないのだ。歩行者保護義務違反だ。
▽YouTubeの動画でも、横断歩道渡ろうとしている歩行者を投稿者の車が止めたのに、後ろから右側に出て追い抜いて行き、危うく歩行者を跳ねそうなったシーンが結構出ている。最近では右側ではなく、左側から追い抜いていき、危うく歩行者は跳ねるところだったという動画もあった。
▽私は転勤族だったので、各地方では取材のためにマイカーを運転していた。その経験則からしても、横断歩道を渡ろうとする歩行者を守るという強い意識がないと、横断歩道を通過してしまう、ということが多かったように思う。もっと横断歩道での安全対策を意識すべきだった、と私も反省している。
▽私がジョギングで朝見かける多くのドライバーは、歩行者を守ると言う発想を欠けている。それが横断歩道での歩行者保護義務違反に繋がっている。
▽横断歩道で一時停止しなかったために、検挙された場面を私は何回か目撃している。行政も警察ももっと徹底して横断歩道に対する安全意識をキャンペーンしてもらいたい、と私は思っている。
★364大誤報を出した現代ビジネスと朝日新聞社員X
▽講談社のネットメディアである「現代ビジネス」が今年(2024年)3月18日に配信したニュースは、ある意味、衝撃だった。朝日新聞東京本社にハラスメントで東京労働局から行政指導が入ったというのだ。しかし朝日新聞はすぐに事実無根であることを表明。その配信ニュースは、朝日新聞のコメントを後に載せて一部修正したが、最終的にニュースそのものを取り消した。要するに誤報だったことを認めるものだった。なんか釈然としない。
▽こんなお粗末の背景を、朝日新聞記者だった私なりに考えたい。
▽そのニュースではこうある。
《今日3月18日午前、朝日新聞東京本社に東京労働局から行政指導が入った。
朝日の社員に対して処分や制裁をちらつかせ、過剰に社外活動を制限するなどの行為が、優越的な地位を濫用したハラスメントにあたると判断した模様だ》
《東京労働局に「紛争解決援助」で申し立てたのは、朝日新聞社員のXさんである。10年ほど前に地方紙から朝日新聞に転職した。数々のスクープをものにするなど、敏腕記者として知られる存在だ。
しかし数年前から、自ら希望していないにもかかわらず、人事異動により記者職を剥奪され、別部門での勤務を余儀なくされた。その間もXさんは、休日などを利用して執筆や講演活動を行っていた》
▽要するにXさんの社外活動を制限したことが、ハラスメントに当たると言うのだ。
▽確かに朝日新聞社内では、このXさんに対する問題の根は深かった。記者職を解かれても社外執筆を続ける本人に対して、様々な制限をして来たことは事実だ。会社上層部との話し合いもこじれて、最終的には見切り発車の形で新書を出版し、会社との溝は深まった。
▽問題は、これがハラスメントなのかということだ。本人が東京労働局に訴えて、それを当局が朝日新聞に対してヒヤリングをして、ハラスメントかどうかを判断し、行政指導したのなら分かる。「現代ビジネス」が【独自】と打ったのも理解できる。
▽しかし、当局はそんな判断を下していないし、行政指導も行っていない。
▽つまり、「現代ビジネス」は当局への裏取りもしないで、ニュースを配信したことになる。お粗末すぎる。仮に後にハラスメントだと認定し、行政指導したのなら、その時点でニュースを書けばいい話だ。裏取りをして、「行政指導へ」と書いてもいいだろう。要するに取材のイロハを全くしていなかったことになる。
▽恐らく、Xさんの言い分をそのまま受け入れて、そのままニュースを書いて配信してしまったのだろう。
▽問題はこの大誤報の結果、Xさんの立場がさらに不利になったことだ。情報源がXさんだと分かってしまったのだから。これを会社側から見たらどうなるか。朝日新聞の品位を社員が貶めた、と受け止めるだろう。
▽ニュースではこんな個所もある。
《Xさんはこの春の人事異動でも、記者職以外の部署への異動内示があったという。
「記者に戻りたいと希望していたのですが……。内示を受けた部署はあるメディアが『朝日新聞の追い出し部屋』と報じたところです。個人的に文書を書いたり発言することにまで『事前相談をせよ』と監視され、職場外での発言にも圧力をかけられるような日々。ショックでますます体調が悪くなるばかりです」
パワハラで行政指導を受けたのが、日本を代表するメディア・朝日新聞という前代未聞の事態。現役記者のAさんはこう語る。
「朝日新聞はメディアの中の北朝鮮です。それほど厳しい監視では、とても報道の自由を実践できるメディアではありません」
行政指導に対して、朝日はどう動くのか》
▽この個所はXさんの言い分をそのまま載せているだけだ。確かに置かれた環境に同情する声は多い。記者職を外された気持ちも分かる。
▽しかし、民間企業である以上、独りよがりの行動と判断されれば、サラリーマンとしての居場所はなくなる。集団社会で生きていく以上、我慢も大切だ。私は朝日新聞に33年間在籍していたが、集団行動、チームワークを取れない記者が、記者職を外されるケースを何回も見てきた。
▽4月の人事異動で「追い出し部屋」に異動になるとニュースは書いているが、その部署で働いている社員がいる人間がいることも忘れてはならないと思う。そんな社員たちは、Xさんのことをどう受け止めているか想像してほしい。
▽今回の大誤報で、Xさんの立場はかなりまずくなったことだけは間違いない。
▽こんなトラブルにエネルギーを使わないで、できるだけ執筆に専念する環境を自ら作った方がいいと思う。
★361明日は我が身のゴミ屋敷問題
▽明日は我が身かな、と思った。『潜入・ゴミ屋敷』(笠井恵里子、中公新書ラクレ)を読んでの感想だ。
▽タイトルこそ、「潜入」と大袈裟だが、ゴミ屋敷に入り、ゴミの山を片付ける仕事をしながら書いた作品である。
▽単なる物見遊山の見物ではなく、生前・遺品整理会社の社員としてゴミ屋敷の後片付けの仕事をして実体験したルポで、説得力があった。
▽読んでいる最中から、心苦しくなる。
▽異臭とゴミの山、ゴキブリ、ハエ、尿が入った数百本のペットボトル、排便が入った大量のビニール袋などで埋まった部屋を片付ける仕事の苦労もにじみ出ている。締め切った部屋にあるゴミの山から出てくる大量のゴキブリやハエの描写は、生々しい。
▽尿が入ったペットボトルは「ションペット」と呼び、大便が入ったビニール袋は「大爆弾」と言うそうだ。
▽ゴミ屋敷にしてしまう老若男女の一人ひとりにその人の人生があり、何をきっかけにその人生が狂ってしまい、ものをため込んでしまう生活になっていくかを想像していく文章は、「明日は我が身」とも読むことができる、ちょっと怖い中身でもあった。
▽筆者は専門家の話もキチンと聞いて、ゴミ屋敷の当人の心理状態を分析し、精神的な分析もしている。
▽これを読んでいると、私自身、「ゴミ屋敷の予備軍」かも知りないという恐怖感を持ってしまった。
★360死刑執行ゼロ行進600日を達成
▽先進国としては数少ない死刑制度存置国である日本で、昨年1年間は死刑執行ゼロとなり、今年(2024年)3月13日に執行ゼロ600日を達成した。画期的なことと捉えたい。
▽市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求める フォーラム90」はアピール文を出した。以下はその全文だ。
2024/03/14
先進国の中では、異例にも死刑制度を存続させている日本では昨年の2023年の1年間、死刑執行がゼロになった。ゼロの更新が今年も続いており、3月13日には執行ゼロが600日となった。生命を合法的に奪うこの執行のゼロが今後も続くことを、私たちは強く願う。
最後の死刑執行は、2022年7月26日。古川禎久法相(当時)が、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大(ともひろ)死刑囚(当時39)への執行を命じた。その後、葉梨康弘元法相、斎藤健元法相はいずれも執行せず、昨年9月に就任した小泉龍司法相も現在は執行していない。 法相の就任期間が短かったことや、法相の問題発言があったことも一因だろう。多くの要因が重なって、死刑執行ゼロが続いていると、私たちは見ている。 私たちはこの状態を歓迎したい。 世界を見ても、死刑制度を存続させている先進国は日本と米国の一部の州に過ぎない。その中で、この今回の執行ゼロは、改めて、死刑とは何かという問題を新たに提起したいと、と私たちは願っている。 日本では過去にも、死刑施行ゼロが続いていた時期がある。1989年11月を最後に死刑執行ゼロが3年4カ月続いていた。死刑制度の廃止を願う私たちは、この状態を死刑廃止を前提とした「死刑執行ゼロ」であると認識したが、残念なことに後藤田正晴法相(当時)が死刑執行を再開させた経緯がある。以降、日本では毎年のように死刑執行があり、毎年のように死刑囚の命が奪われている。 そんな失望を繰り返してはならないためにも、今回の死刑執行ゼロは続けなくてはならないと思っている。 死刑執行を続けても、重大犯罪の抑制にはなっていない。それは京都アニメーション事件でも明らかだ。 私たちはこのまま死刑執行ゼロが続き、日本から死刑制度がなくなることを切に望んでいる。
▽私は1989年11月から3年4カ月続いた執行ゼロを捉えて、「死刑執行ゼロ 1000日」という原稿をかつて朝日新聞に書いたことがある。そして連載記事「死刑執行ゼロの周辺」という連載記事を仲間とともに書いた。最期は後藤田正晴法相の死刑執行サインで破られた。
▽今回はどうなるか。不安と期待が交錯する。
★358薄っぺらかった日本テレビの「テレビ報道記者」
▽日本テレビのテレビ記者をドラマに仕立てた「テレビ報道記者」(2024年3月5日、日本テレビ放映)を見た。日本テレビ開局70年記念の3時間ドラマで、過去の大きな事件を日本テレビの女性記者たちがどう接してきたかをドラマに仕立てた。ドラマとしては楽しめたが、報道現場としては緊迫感はないし、事実を積み重ねて報じる手法も全くなく、報道現場としては軽さが目立った。権力に何の疑問も持たないのかと思ったりもした。
▽確かに女性進出の第一世代の記者が、現場に食い込もうとした話は分かる。しかし、これが報道現場なのか、というと、あまりにお粗末だった。こんなものが取材なのか、と思った。
▽これだったら、日航ジャンボ機墜落事件を扱った「クライマーズ・ハイ」の方が断然面白い。現実に即している。それとも新聞社とテレビ局はこんなに違うものなのか。
▽女性デスクが、
「将来、社会部長になる」
と焼き肉屋で豪語する場面は笑ってしまった。自分で言い出せば社会部長になれるんだ、ということなのか。
▽このドラマを見終えた時、過去に読んだ本を思い出した。
「テレビ報道記者」(下川美奈、ワック)
▽日本テレビの社会部デスクでキャスターだという人間の自分の記者歴を振り返ったエッセーだった。こんなにお気軽な人間が、テレビでは社会部デスクになれるんだと、かなりの驚きを持って読んだ。逆に言うと、このぐらいの低レベルの問題意識ではないと、日本のテレビ業界では生きていけないということが分かって、教訓的な内容だった。
▽各種事件を振り返っているが、何の問題意識もなく、泣いたり笑ったりしているだけ。
出版元の会社が分からなくてネットで検索するとあった。曰く付きの会社ではないか。花田紀凱が編集長の総合誌「月刊WiLL」の創刊だった。
▽私の友人がネットでこんなことを書いている。
《3月9日(土曜日) 続・日テレドラマ「テレビ報道記者」の薄っぺらさ
▽大事なことなので、何度でも言う。3月5日に放送された日本テレビ開局70年スペシャルドラマ「テレビ報道記者」は、「セクシー田中さん」の問題があってもなくても、表層的で薄っぺらい内容の駄作だったことに変わりはない。報道記者、社会部記者と言いながら警察主体の事件記者が主体で、警察の捜査や冤罪に対する批判精神や反省、権力監視の視点は全くどこにもない。取材活動の上っ面をなぞっただけの残念な3時間だった。構成力や見せ方などのテクニックの上手さと俳優陣の演技力、女性の地位向上に焦点を当てたこと。評価できるのはそれだけだ》
▽日本テレビが自画自賛する番組だったが、内容は薄っぺらかった。
【再掲載】★229災害時の駅の役割とは
▽今から100年前の関東大震災が発生した当時の列車の運行状況や各駅の対応などをつぶさに検証した『関東大震災と鉄道』(内田宗治著、ちくま文庫)は参考になる文献だと思った。
▽多くの列車や路線が被害を受けた。火災も迫り来るこの中で鎌倉駅では大久保駅長が強いリーダーシップを発揮していた。この文庫本によれば、駅長は構内を避難者に開放し、貨物ホームや貨車の荷の中にある食料を避難者に分配する決断をした。
《まず応急策として駅前広場に大釜を運び出し、貨物ホームにあった粳(うるち)玄米と糯(もちごめ)白米を持ち出して混ぜ、避難者へ炊き出しを行った。その夜駅員は一睡もせず、搬出した重要品や駅にある荷の警戒に当たった》
《記録を見る限り、非常時における大久保駅長のリーダーシップはみごとだった。被害状況に応じての各職員の役割の指示、駅構内の開放、駅にあった食料の提供など、中央との連絡が途絶えた中、すべて独断で迅速に行ったようだ。駅とは、その町のシンボルのような場所であり、そこを開放し、貨物は略奪されるのを守るという発想ではなく、逆に積極的に人々へ分け与えた。そのため、各地で発生した略奪などもここでは起きなかった》
▽そう駅とは、街のシンボルであり、集合場所であり、それを知っているから、この駅長は避難民を受け入れたのだ。
▽では、2011年3月の東日本大震災はどうだったか。
▽発生したその日、首都圏のJRは、利用者をすべて締め出した。帰宅難民を締め出した。およそ、公共交通の組織として、やってはいけないことを、やってしまった、と私は今でも思っている。
▽あの日、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた私は、取材で千葉県・東松戸駅近くの取材先の建物にいた。確か首都圏の鉄道の将来図を描くような取材の一環だったと思う。
▽突然の激しい揺れに、「みんな建物から出ろ」という叫び声で、建物に出た。駐車場に止めていた車数台が、激しい揺れで、飛び上がっていた。
▽取材はそこで中断した。
▽やはり、東埼玉支局に戻るしかない。近くの東松戸駅に戻ってみた。東松戸駅はJR武蔵野線と北総鉄道の乗り換え駅だ。私は武蔵野線で直接来たため、そのまま武蔵野線に乗ろうとした。しかし、改札口は早くも閉められ、武蔵野線は不通になっていた。再開の予定は立っていなかった。利用者を閉め出す、というJRの強い意思をもっと感じ取っていれば、帰宅困難になることもなかったかもしれない。
▽私の考えは甘かったのだ。JRはすぐに復旧すると思い込んでいたのだ。しかし1時間たち、2時間たっても、復旧のめどは立っていなかった。
▽ここにいても仕方ないか、と思い始めた。ちょうど駅前には東京・北千住駅行きのバスが来たので、遠回りになるが、これに乗って、北千住からJR利用で戻ろうと思った。
▽北千住駅前に夕方の5時ごろ着いて、やや驚いた。ここでもJRは利用客を閉め出して、常磐線などが不通になっていると掲示板にアナウンスされていた。こういう非常事態にこそ、駅や列車を開放するのが公共交通ではないのか、と私は思った。
▽鉄道が使えないとなると、駅前ホテルに泊まるか、タクシーしかない。
▽仕方なく、タクシー待ちの列に並ぶことにした。5時過ぎから並んだ。1時間たち、2時間たち、3時間たっても、なかなか乗車口まで進まない。私の後方にも次第にタクシー待ちの客の列が出来てきた。
▽そして私がタクシーに乗ったのは、何と日付が変わる午前零時だった。
▽あの日のJRの態度を、私は忘れられない。絶対に忘れない。我々利用者を敵だと排除したのだ。
★356作家の印税、収支とノンフィクション
▽小説家の収支。つまり原稿料や印税などの収入と、小説を書くという必要経費の支出について、成功例と、失敗例をそれぞれの告白する2人の作家の新書をそれぞれ読んだ。ノンフィクションライター、フリージャーナリストを目指す人間にも参考になるので紹介したい。
▽まずは成功例から。
▽『作家の収支』(森博嗣、幻冬舎新書)という新書だ。私は小説をあまり読まないので、この作家のことは知らなかったが、あけすけに出版業界のルールと作家の収入や経費を丁寧に書いて参考になった。大学工学部の教官の傍らエンターテイメント作家としてデビューし、90冊以上の本を出しているという。本によれば、かなりの収入があったと記していて、小説家がこんなに稼いでいることに驚きを持って読んだ。ノンフィクションライターからすれば、驚愕する収入だった。印税が1冊の売り上げにつき10%入るし、映画化やアニメになれば、その収入もあり、驚くほどの収入となっていた。もちろんこの作家の本が売れて、成功したからこそだが、驚きを禁じ得なかった。
▽これを小説家ではなく、ノンフィクションライターやフリージャーナリストの立場からするとどうだろう。
▽売れているライターは一部しか存在しない。ノンフィクションの本が極端に売れている、とは最近聞かない。せいぜい発行部数は数万部ぐらいだろう。
▽私の経験でも、ノンフィクションの書籍を出しても初版部数は数千部どまりで、1万部を印刷してくれるところは、大手出版社ぐらいだった。
▽印税で10%を受け取ったとしてもせいぜい100−150万円だ。
▽これが小さな出版社だと、数千部の部数だし、最近は印税も10%ではなく、5%にまで落ちているところも多い。つまり、ノンフィクションライターやジャーナリストは、書籍の発行だけでは、収入が少なく、食べていけないことになる。
▽出版不況という状態は今も続いており、この傾向は今後も続くだろう。つまり、ノンフィクションの書籍は多くは売れないままになる状態が続く。例外を除けば、書籍を1冊出しても、印税だけでは、生活できない。ましてやノンフィクションライターやジャーナリストは取材する費用や時間もかかる。小説家とは全く違う世界だ。
▽ここでこの筆者は面白いことを示唆している。出版社を通さないで、自分のホームページで自分の描いた作品をアップし、有料でダウンロードするのだ。そうすれば、印税は100%になる。つまり発行部数が10分の1になっても、収入は同じになる。こういう時代が今後くるのかな、と私は期待と不安を持ってこの本を読んだ。
▽そして失敗例。
▽『エンタメ小説家の失敗学』(平山瑞穂、平凡社新書)。こちらの筆者は20冊以上の小説本を出したのに、「売れない作家」となってしまったことをこの本で嘆いてみせた。出版元の会社・編集者とライターの関係を具体的に見事なまでに浮き彫りにした。初版の部数が次第に少なくなっていくという現実と、文庫化に向けた会社の思惑などが伝わってくる。出版界は売れない作家を冷遇し、売れる作家だけを厚遇している。日本の出版界が次第に縮小している現実が分かってくる内容だ。
▽どちらかというと、この小説家の方が、ノンフィクションライターやジャーナリストの状態に近い。
▽かつては総合月刊誌が多くあり、フリーのノンフィクションライターやジャーナリストはその雑誌に原稿を書いていた。しかしそんな雑誌が次々となくなり、発表する場が縮小されていった。
▽今後、ノンフィクションの世界はどうなるのだろう。
★352朝日新聞は夕刊はいつ廃止にするか★「219北海道新聞夕刊廃止の衝撃」の続報
▽朝日新聞はこの30年間、夕刊の紙面改革を何回も何回も続けてきた。特に夕刊一面トップに、どんな記事入れるのかという点について、社内では議論を続けてきた。しかし、その改革を続けることも難しくなってきている、というのが、業界の見方だ。そう、夕刊廃止という大きな改革が現実味を帯びてきているのだ。
▽昔の昔、夕刊は朝刊と一緒で、生ニュースを扱っていた。しかし、夕刊が部数が減ってきたため、夕刊対策という理由で、夕刊一面トップにフィーチャーものの記事を入れるようになった。だから、今の朝日新聞夕刊では一面にはほとんど生ニュースが全く入っていない。これが今の夕刊だ。その後何回改良しても、部数は増えることはなく、逆に減ってきているのが現実だ。朝刊は取るが、夕刊は必要ないという読者が多くなった。いわゆる「セット離れ」だ
▽こんな時に追い打ちを掛けたのが、北海道新聞が2023年9月いっぱいを持って、夕刊廃止に踏み切るというニュースだ。これまで全国紙の一部や地方紙の一部で夕刊廃止を行った社があるが、北海道新聞のようなブロック紙の夕刊廃止は、関係者にも波紋を投げかけた。
▽北海道新聞の社告にはこんな理由が書かれていた。
《新聞用紙をはじめとする原材料費の高騰や輸送コストの上昇などから、これまで通り夕刊を発行し続けることが難しくなりました。読者の皆さまのライフスタイルの変化、デジタル社会の進展などを踏まえ、紙面のお届けは朝刊のみにさせていただきます。これまで夕刊をご愛読いただいた皆さまには、何とぞご理解をいただきますようお願いいたします》
▽私は以前、「北海道新聞夕刊廃止」というコラムで、こう指摘した。
《▽紙媒体の読者離れは、全国紙もブロック紙も地方紙も同じように起きている。その読者離れの激しいのが、朝日新聞であったり、北海道新聞であったりしていて、特に夕刊を読む読者が激減し、朝刊と夕刊をセットで契約する読者が激減していた。いわゆる「セット率」の激減だ。つまり夕刊発行は次第に重荷になっていたのだ。
▽日本の新聞社は新聞を自宅に届ける宅配システムを抱えており、総合産業だ。記者が取材をして、デスクが原稿を直し、管理して、整理部が紙面編集をする。これとは別に広告の編集も入り、紙面が出来上がる。編集された紙面は4ページずつ印刷されて、その印刷も新聞社が管理する。そして販売店への発送もトラックなどを使う。販売店に着いた新聞は、アルバイトらの新聞配達によって各家庭に配られる。
▽この一連の流れを、すべてそれぞれの新聞社が管理・監督をしていた。
▽夕刊も朝刊も同じような流れだ。
▽その夕刊部数がセット割れから激減しているため、経営的には「夕刊の廃止」という問題が浮上する。もう何年も前から、浮上していた。
▽しかし、そうした廃止論に対して、広告を担当してきた部署からは、夕刊広告の収入を理由に反対論が出てきて、夕刊の廃止と存続は常に揺れてきたのだ。
▽北海道新聞がこうした論議の中で、夕刊廃止に踏み切ったのは、そこまで経営が厳しくなってきた、と受け止めて良いだろう》
▽つまり、夕刊を切り捨てることで、経営の立ち直りを求めた、というのが正しいだろう。
▽それでは、と私は問いかけたくなる。
▽朝日新聞はいつ夕刊を廃止するのか、と。
▽外勤記者は夕刊の締め切り時間を気にする必要はなくなるし、整理部も校閲も人が減らせる。制作部のオペレーターも人が減る。印刷の人間も少なくなる。夕刊を配っていたトラックの便数も減る。販売店の従業員も少なくなる。
▽こんな決断を、朝日新聞幹部はいつ行うのだろうか。その時が新聞の大きな転換期になるのではないか、と私は思っている。
▽2024年4月には北海道での夕刊が廃止された。
★350私は昔からマックユーザーです
▽私がマックユーザーになって、もう何年もたつ。今回はマックのことを語ろうと思う。
▽マックとは、アップル社のコンピューターの名称だ。リンゴマークを付けている商品を出している。
▽私が最初にマックを使ったのは、パフォーマー6410というマシンだった。デスクトップのマシンで、最初慣れるのに苦労した。
▽ウィンドウズマシンなら、マウスに左右のボタンがあるのに、マックにはボタンが1つしかない。クリックし、マウスポインターを画面で移動させることも、最初はちょっと慣れなかった。
▽何とかこなせるようになった時に、転勤の話があった。新潟県上越市の朝日上越支局に赴任することが決まった。この際持っていくものとして、当時のノートブック、パワーブック3400というマシンを中古で購入し持っていった。このマシン、中古でも30万円以上した記憶がある。マックでも上位機だった。上越支局ではこのマシンをずっと使うようになった。
▽現地ではさらにG3という高速チップのデスクトップのパワーマックも購入した。さらにはシェル型のiBookやノートブックのパワーブック2400なども使い続けた。
▽さらに転勤して札幌市の朝日新聞北海道報道部に転勤になった際には、新しいパワーブックとやパワーマックを購入した。キューブというマシンも使ったことがある。
▽さらに転勤し、群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に行った時も、地元の電器店で新しいパワーマックを購入し使い続けた。
▽このように私はマックのマシンを数十台使い続けてきた。
▽並行して会社ではウィンドウズマシンを使っていたが、マックに慣れてしまうと、ウィンドウズマシンの処理速度が異様に遅く、ストレスが溜まるだけだった。
▽会社ではウィンドウズマシンが貸与されて、仕方なく使うが、自宅で原稿を書くときは、マックを使い続けている。マックで原稿を書く場合は、テキストエディタを使い、それをUSBメモリーなどにコピーし、ウィンドウズマシンに貼り付けて、朝日新聞記者専用のワープロソフトに書き出すのだ。
▽会社を退社した際には、新しいマックミニを購入し使い続けている。これとは別にM1シリーズの新しいチップのマックブックプロも使い続けている。使いやすいのだ。
▽もうウィンドウズマシンをメインにする事はないだろうな、と私は思う。
▽マックユーザーにはこういう言葉がある。
▽「クソウィンドウズ」
★348ビニ本も売った学生時代の書店アルバイトの話
▽今から数十年前の話だ。私が大学生時代、夏休みを使って、東京・上野駅前の書店でアルバイトをした。その時のことを記したい。
▽当時の上野駅は新幹線などまだなく、東北地方に行く東北線や常磐線の発着地で、夏休みは特に帰省客らで賑わっていた。夜行列車や寝台特急などもあり、帰省客は明るい笑顔でホームから旅立とうとしていた。
▽そんな状況だから、アルバイトしていた書店も混んでいた。列車の中で雑誌や本を読もうと、旅客はその書店で何冊も購入していってくれた。
▽こんな中で私が一番記憶に残っているのは、段ボールを持ってきて、「この中に何でもいいから、本や雑誌を入れてくれ、ビニール本でもいい」と言ってきた男性客だ。聞けば、これからアフリカに赴任することになり、現地で日本の雑誌や書籍、エロ本など読んで過ごしたい、という希望だった。私はその客の希望に沿って、書籍や文庫本、雑誌、ビニール本などを全部見繕って詰めていった。客は、うれしそうに何万円かの金を出して引き上げて行った。
▽こんな客がいるんだな、と今でも時折思い出す。
▽こんな思い出を書いたのは、その時代、紙に印刷された活字がまだ信頼されていた時代だったことを強調したかったからだ。印刷された活字こそが、文化の中心だった。かつては、信頼されていた。
▽学生だった当時、月刊誌はいろいろな種類もあり、多くのフリーライターが記事を書いていた。みんな記事を書き、それで原稿料を稼いでいた。わたしもそんなライターに憧れて、見よう見まねでライターのまねごとをするようになった。そんな時代に、ジャーナリストだと自称する人間はいなかった。
▽あれから数十年。月刊誌は減り続け、新聞部数も減り続け、週刊誌も少なくなり、次第に淘汰されようとしている。
▽印刷された活字文化の歴史はわずか150年ぐらいしかないのだから、いつかは衰退することは一部の関係者が指摘していたが、それが現代のように急速に進むと、私も不安になってくる。
▽インターネットによる伝達方法は、これからもますます広がるが、一方で、紙に印刷された活字は信頼もなくなっていくんだろうか。私はそれを心配している。
▽あの時、本や雑誌、ビニール本などをいっぱい買ってくれたあの男性客は今何をしているのだろうか。
★342新聞社内の個人名の名前の呼び方、呼ばれ方
▽新聞社を退職してから、私はこれまで呼び捨てにしたしていた会社の後輩や部下の多くを、「さん」をつけて呼ぶ努力をするようになった。「鈴木さん」「斉藤さん」「佐藤さん」「松本さん」。これは一つの礼儀だと思って、敢えて変更するようになった。まだすべての人間にではないが、社会儀礼だと思っての変更だ。
▽これまでの40年間の新聞記者の中で、後輩や部下、同僚なら同じ入社年次なら、全部呼び捨てにしていた。「鈴木」「斉藤」「佐藤」「松本」。これはさういう環境にあったからだと思っている。
▽私が新聞業界に入った時から、周囲の先輩や上司は私を「原」と呼び捨てにしていた。これが当然だと思って育ってきたから、私は自分の後輩などにも呼び捨てにしていた。先輩には「鈴木さん」「斉藤さん」「佐藤さん」「松本さん」と呼ぶようにしていた。肩書があるデスクには「鈴木デスク」「斉藤デスク」、部長なら「佐藤部長」「松本部長」と呼んでいた。これが自然だと思っていた。
▽しかし、北海道新聞から朝日新聞に転職した時に、朝日新聞は違う呼び方をしていた。肩書のあるデスクにも「鈴木さん」「斉藤さん」「佐藤さん」「松本さん」と呼んでいたのだ。要するに役職がある人間にも「さん」を付けて呼ぶ文化があったのだ。新鮮な驚きだった。
以来、これがずっと続いていた。
▽これが本社となると、人事権を持って部長らは、私を「原くん」と呼ぶようになり、仕事で常に付き合うデスクらは、私のことを「原ちゃん」と呼ぶようになった。親しみを込めての名前なのだろう。
▽同僚では、私の事を「原坊」と言うこともあった。サザンオールスターズのキーボード奏者のあだ名から取った名前で、前後して私は取材先でも「原坊」と呼ばれるようになった。
▽あだ名は親しみを込めての話なので、私は否定しない。
▽ただし、もう会社という組織を離れたので、みんな対等の立場だ。「さん」を付けて、リスペクトする年齢になったということだ。
▽あだ名と言えば、私が子供のころは、「ペコ」、または「ペコちゃん」と呼ばれていた。クラスメイトの1人が、私のことを「はらぺこ忍者」と呼んで以来、「ペコ」になった。不二家のペコちゃんから取ったのだろう。
▽笑い話だが、大学生のころは、親しい大先輩記者の子供さんに、「モモカズ」というあだ名で呼ばれていた。人気俳優の三浦友和と人気歌手山口百恵が結婚したころ頃で、「世の中で一番嫌いな人間はだれだ?」と子供たちに冗談で問い、「それは『モモカズ』というんだよ」と教えたら、次の日からその子供たちは私のことを、「モモカズ」と言うようになった。
▽恐るべし、あだ名だ。
▽朝日新聞のコラム天声人語はこう書いている(2024/02/17付)。
《最初に呼ばれたのは「記者さん」だった。初任地で警察署を担当したころの話である。新人だから名無しでも仕方ないか。めげずに毎日通っていると「朝日さん」になった。どの社の記者なのかが認識されたわけだ。ようやく名前を覚えられると、名字に「ちゃん」がついた》
《▼35年前を思い出したのは、法務省が一昨日、受刑者らの新たな処遇を公表したからだ。刑務所や拘置所などに収容されているすべての人が、4月から「名字+さん」で呼ばれるという。一昨年に発覚した、名古屋刑務所の刑務官による暴行事件を受けた改革の一環だ▼事件後に設置された第三者委員会の調査によると、かつて番号で呼ばれた受刑者は戦後、呼び捨てが多くなった。名古屋刑務所では、職員同士の雑談で「懲役」や「やつら」などと呼んでいたという》
《▼相手をどう呼ぶかとは、その人とどう向き合うかだ。人権を無視した名古屋の職員の態度は「ストレス発散のための動機もあった」という。人間の更生を担う組織の深い闇を見た思いがする▼今回の改革では受刑者が刑務官を「先生」と呼ぶのも改め、「職員さん」や「担当さん」などになる》
▽名前の呼び方にも人格や本人の生き方が出るということだ。
★340カメラの高価格化路線にため息
▽新しいカメラを買い替えたいのだが、カメラ店に行ってもため息が出てしまう。高いのだ。高すぎる。いつもそう感じながら、あきらめ顔になっている。
▽私が新聞記者になった時に使ったカメラは、ニコマートというカメラだった。それをしばらく使った後、ニコンFE2、FM2、F3を使ってきた。
▽デジカメ時代になり、ニコンD100を使い、続けてニコンD2Hs、ニコンD3、ニコンD5などを使用してきた。
▽そして時代はミラーレスカメラに移りつつある。ミラーレスカメラの開発に遅れたニコンは、Zシリーズで巻き返しを図ろうと、Z6、Z7を開発し、そしてプロが使えるカメラとしてZ9を世に出した。さらにはその改良版としてZ8も発売している。
▽ここに来て、やっとニコンらしいカメラが出てきたという評価が出始めている。
▽しかしそのカメラ単体の価格が高いこと。ニコンZ9なら70万円はする。これにZシリーズのレンズを買えば、ゆうに100万円は越える。これはもうプロと呼ばれる人しか使わないカメラになってしまった。
▽カメラ大国と言われる日本のカメラメーカーもここ10年で大きな戦略変更を強いられてきた。カメラを搭載したスマートフォンの普及で、コンパクトカメラなど一般的な廉価なカメラが売れない。売れないなら開発の余力を高級なミラーレスカメラ開発に回す。こんな背景があり、ニコンもZシリーズのカメラ価格が高騰したのだろう。ユーザーにはたまったものではない。
▽ニコンは太平洋戦争で伸びた会社だ。カメラ黎明期にあった当時の日本の技術史を戦争との繫がりから綴った『国産カメラ開発物語―カメラ大国を築いた技術者たち』(小倉磐夫、朝日選書)が詳しい。戦中の軍事技術の要請から高度なレンズ技術が開発されていった、という記述は勉強になる。
▽そんな技術開発が今のニコンを支えているわけだ。
▽将来、ニコンはどんな会社になっていくのだろう。
★338安倍政権が犯した罪は大きい
▽夕刊紙「日刊ゲンダイ」の編集幹部が書いた新書「安倍晋三VS.日刊ゲンダイ」(小塚かおる、朝日新書)が面白い。安倍政権の犯した政策を検証したものだ。読んでみて、改めて安倍政権が国民を敵視して、時代を逆行させてきたかがよく分かる内容だ。読んでいて、安倍元首相に腹が立ってきた。この人、仲間以外はすべて左翼として、国民を敵視していたのだ。
▽いかに安倍政権がひどかったかは、今になってみんなが理解できるだろう。アベノミクスに代表されるインチキな経済政策は、金持ち優遇、大企業優遇で、一般国民は物価上昇に苦しんでいるだけで終わった。戦争を行うことが出来るよう、憲法九条の改悪が出来ないと判断した安倍政権は国会を無視して、閣議決定しただけで、各種の解釈を変更し、強引に戦争へと進める方向に走った。NHKや民放には圧力を掛けて、政権批判を出来ないよう、政権批判をするコメンテーターを次々と番組から降ろさせた。
▽モリカケ問題も曖昧に、検事総長を政権寄りの人間にさせようとした、ある意味、独裁政権を続けてきた。
▽安倍政権が行ったのは、「日本を取り戻す」として、戦前への回帰である。こんな危険な政権を、大手マスコミは批判できないまま時が流れている。
▽仲間以外はみんな左翼、という考えが安倍首相にはあるといい、その正体はネトウヨが首相になった、という指摘には共感する。その暴走を止められなかったマスコミの責任は重い。
▽岸田政権は安倍政権の踏襲をしてはならないのに、全く同じことをしている。原発回帰、防衛費増大。おかしくはないだろうか。だまされてはならない。
★336忘れてはならないNHK記者の政権指南書事件とその体質
▽NHKの政治部記者が、時の自民政権を忖度する行動に出た話を今回は取り上げたい。いかにNHKが政権と癒着しているかを示す格好のケースだ。
▽今から20年以上前の話だ。当時の森喜朗首相が2000年5月、神道政治連盟国会議員懇談会結成30周年記念祝賀会に出て、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と発言し、大問題になった。いわゆる「神の国発言」だ。戦前の国体を思わせる発言が報じられ、その年の4月に発足したばかりの政権が早くも窮地に立った。
▽こんな時に発生したのが、NHK記者による指南書事件だった。
▽森首相が釈明の記者会見を行う前日、NHK記者が森首相に宛てて、記者会見に臨む態度や発言について指南するメモを書いて渡していたのだ。経緯は、ジャーナリスト立岩陽一郎氏のネット上での記事から見ていく。
「指南書」には「明日の記者会見についての私見」というタイトルで、こう書かれていた。
《▼今回、記者会見を行うことによって、「党首討論はやらなかったが、森総理は、この問題で逃げていない」という印象を与えることはできると思います。ただ、今回の会見は大変、リスキーで、これまでと同じ説明に終始していると、結局、民放も含め各マスコミとも、「森首相“神の国発言”撤回せず▽弁明に終始」といった見出しを付けられることは、間違いないと思ってください。官邸クラブの雰囲気をみますと、朝日新聞は「この問題で、森内閣を潰す」という明確な方針のもと、徹底して攻めることを宣言していますし、他の各マスコミとも依然として「この際、徹底的に叩くしかない」という雰囲気です。
▼「間違ったことは言っていないし、これまでの国会答弁などとの整合性を考えると、発言の撤回はできない」という意見は、よく判ります。また官房長官も昨日、会見で「撤回は考えていない」と言っているので、官房長官発言との整合性もあるでしょう。しかし、会見する以上、総理の口から「撤回」と言わないまでも、「事実上の撤回」とマスコミが報道するような発言が、必要だと思います。そうすれば、マスコミも野党もこの問題をこれまでのような調子で追及することはできなくなります。その場合、「なぜ、これまでの発言と変えたのか?」と質問されると思いますが、その時は、「真意を分かってもらえば、誤解は解けると思ってきたが、その後も現実に、多くの方に誤解を与え、迷惑をかけたので」と言えばよいと思います》
▽要するに、政治部記者が首相に対して、記者会見場でのアドバイスをしていたのだ。通常の記者なら、信じられない行動だ。
▽この指南書の存在を指摘したのが、西日本新聞だった。
▽西日本新聞記者は、コラムでこう書いた。
《森首相が「神の国」発言の釈明記者会見を開く前日の朝、首相官邸記者室の共同利用コピー機のそばに「明日の記者会見についての私見」と題した文書が落ちているのを見つけた。ワープロ打ちされた感熱紙。一読して、首相周辺にあてた翌日の記者会見対策用の指南書と分かった》
《「取材現場で、政治家との距離感をどう保つか、悩むことは多いが、そこにはおのずと越えてはならぬ一線がある。この文書の筆者はそれを大きく踏み越え、報道人として背信行為を犯したと言わざるを得ない。国民が注視し、報道の力量が問われた記者会見だったことを思えばなおさらだ」》
▽当時はまだインターネットもメールもない時代で、各社ではワープロで使っていた。ワープロは感熱紙に文字を打つため、しばらくすると文字が消えてしまう。そのため、その撃たれた感熱紙をコピーするのが、保存方法だった。指南書を書いたNHKが記者室のコピー機でコピーして、その際に感熱紙を持って行くのを忘れたらしい。それをたまたま西日本記者が見つけた。
▽西日本新聞はこの指南書が問題だとして、ワープロの機種がNHKのものだと特定したうえで、NHK官邸キャップと対峙して、相手に指南書の存在を認めさせた。
▽そのやりとりがすごい。以下も立岩陽一郎氏のネット上での記事から引用する。長谷川とは西日本新聞記者のキャップだ。
《「記者室内で、こんなものを見つけたんですよ」
紙に目を走らせた後、NHKのキャップは言った。
「いやぁ、実は、うちに森派に刺さっている記者がいるんです」
「刺さっている」とは取材現場では「情報源を持つ」という意味で使われるが、この場合は、「取材先に通じている」といった意味だろう。長谷川氏は畳みかけた。
「読まれて、どう思われますか?」
表情が一変したNHK官邸キャップ
NHKキャップは居住まいを正して言った。
「いやぁ、まぁ・・・長谷川さん、お気遣いありがとうございます。これは、こういうことをしでかすような者が出ないよう、しっかり管理監督しろとご忠告を頂いたのですね。本当に感謝します」
その瞬間、長谷川氏は「認めた」と受け止めた。そして、間髪入れずに発した。
「そういう話じゃなくて、こういう行動を取ること自体、記者の倫理として問題だとは思いませんか?」
「えっ」とNHKのキャップが発して、その表情が一変したのを長谷川氏は今も覚えている。NHKのキャップはこう発した。
「長谷川さん、ひょっとして、これ、記事としてお書きになるということですか?」
長谷川氏は努めて冷静に、大事な一言を伝えた。
「はい、そのつもりでここにおります」
NHKキャップは次の様に言ったという。
「・・・長谷川さん、そちらがそのおつもりならどうぞ。ただし、そういうことでしたら、こちらは事実関係の有無も含めて、徹底して戦います」》
▽そしてそれがコラムになったという。ストレートニュースにはしないで、コラムにしたのが、ミソだ。
▽しかし、NHKは最後までこの指南書の存在を認めていない。「徹底して戦います」とはどういう意味なのか。
▽これを民放が取り上げ、話が次第に大きくなったが、最終的にはうやむやにされた。
▽この指南書事件は今でも語り継がれるNHKの体質問題だ。困っている首相に対し、助け舟を出したという、およそ記者としては、考えられない行動に出たことだ。
▽私がNHKを信用しないのは、こういうことをNHK記者が通常の取材活動だとして、行っていたからだ。
▽公共放送だと言い換えをしても、国営放送と本質は変わらない。
【再掲載】★213北海道新聞夕刊廃止の衝撃
▽北海道新聞が2023年9月いっぱいを持って、夕刊廃止に踏み切る。これまで全国紙の一部や地方紙の一部で夕刊廃止を行った社があるが、北海道新聞のようなブロック紙の夕刊廃止は、関係者にも波紋を投げかけそうだ。
▽まず、当の道新の社告を見よう。
▽《北海道新聞社は9月末で夕刊を休刊し、10月から朝刊とニュースサイト「北海道新聞デジタル」を拡充します。地域に密着した最新のニュース、暮らしに役立つ確かな情報を、新朝刊と道新デジタルを通じて「より速く、より深く」お伝えします。購読料は月ぎめ3800円(消費税込み)です。1部売りは150円(同)です。朝夕刊セットでご購読いただいている方は月ぎめ4400円(消費税込み)から3800円(同)になります。
▽新聞用紙をはじめとする原材料費の高騰や輸送コストの上昇などから、これまで通り夕刊を発行し続けることが難しくなりました。読者の皆さまのライフスタイルの変化、デジタル社会の進展などを踏まえ、紙面のお届けは朝刊のみにさせていただきます。これまで夕刊をご愛読いただいた皆さまには、何とぞご理解をいただきますようお願いいたします》
▽夕刊廃止と道新デジタルの拡充を同時にアナウンスしているが、この二つは全く別物だ。夕刊は紙の媒体であるのに対して、デジタルは夕刊とは全く関係のないデジタル媒体だ。ここに今回の問題が含まれている。
▽紙媒体の読者離れは、全国紙もブロック紙も地方紙も同じように起きている。その読者離れの激しいのが、朝日新聞であったり、北海道新聞であったりしていて、特に夕刊を読む読者が激減し、朝刊と夕刊をセットで契約する読者が激減していた。いわゆる「セット率」の激減だ。つまり夕刊発行は次第に重荷になっていたのだ。
▽日本の新聞社は新聞を自宅に届ける宅配システムを抱えており、総合産業だ。記者が取材をして、デスクが原稿を直し、管理して、整理部が紙面編集をする。これとは別に広告の編集も入り、紙面が出来上がる。編集された紙面は4ページずつ印刷されて、その印刷も新聞社が管理する。そして販売店への発送もトラックなどを使う。販売店に着いた新聞は、アルバイトらの新聞配達によって各家庭に配られる。
▽この一連の流れを、すべてそれぞれの新聞社が管理・監督をしていた。
▽夕刊も朝刊も同じような流れだ。
▽その夕刊部数がセット割れから激減しているため、経営的には「夕刊の廃止」という問題が浮上する。もう何年も前から、浮上していた。
▽しかし、そうした廃止論に対して、広告を担当してきた部署からは、夕刊広告の収入を理由に反対論が出てきて、夕刊の廃止と存続は常に揺れてきたのだ。
▽北海道新聞がこうした論議の中で、夕刊廃止に踏み切ったのは、そこまで経営が厳しくなってきた、と受け止めて良いだろう。私が40年前に北海道新聞に入社した時の部数が110万部で、一時は120万部ほど膨れたというが、現在は80万部も切っているから、かなり深刻な状況だ。夕刊は23万部にまで落ちたとしている。
▽しかも北海道新聞は本社の他、釧路、旭川、函館に発行支社を抱えており、夕刊印刷には人手も金もかけているから、相当な負担になっていたはずだ。
▽つまり、夕刊を切り捨てることで、経営の立ち直りを求めた、というのが正しいだろう。
▽これに対して、道新デジタルの拡充を歌うのは、問題のすり替えだ。夕刊をなくす代わりに、デジタルを拡充するというのは、話が違う。朝日新聞が現在、地方の縮小を猛烈な勢いで進めて、朝日新聞デジタルに力を入れているのは、紙媒体はもう生き残れない、という意思の表れであり、生きる道は朝日新聞デジタルだと経営陣が信じているからだ。紙もデジタルも生き残る、という発想はない。そこが北海道新聞とは違う。
▽いずれにせよ、北海道新聞が夕刊に踏み切ったことで、全国各地の地方紙や全国紙も、その流れを加速することは間違いない。
【追記】朝日新聞は2024年2月7日の紙面で、4月1日から北海道で夕刊の発行を休止するとした記事を載せた。《新聞用紙などの原材料が高騰し、輸送コストが上昇する中で、北海道では朝刊だけの購読希望者や本社のデジタルサービス利用者が増えているため》
▽夕刊廃止の動きは今後も広がるはずだ。
★332最近は見なくなった地方のサンズイ事件と特ダネ競争
▽最近各紙で見かけなくなったのが、サンズイの前打ち記事だ。どうしてだろうか。
▽「サンズイ」とは汚職事件のことだ。汚職の「汚」のサンズイを取って、新聞業界では汚職事件を「サンズイ」と呼ぶ。前打ち記事とは、汚職事件を摘発する水面下の捜査の動きを追って、容疑者を逮捕する日を割り出して、「今日逮捕へ」と打つ特ダネのことである。
▽殺人事件など通常の事件捜査と違って、汚職事件は現場も隠されており、当事者である贈賄側も収賄側も秘密にしている。捜査の動きを当事者に知られたくないから、捜査側も、水面下で隠密に動く。
▽この水面下の捜査の極秘の動きをキャッチし、特定するのが、新聞記者の宿題であり、使命であり、競争でもあった。殺人事件と違い、現場が特定できない場合が多く、その取材が難しいのは、昔も現在も変わらないはずだ。だから事件記者にとって、サンズイを抜く、つまり汚職事件摘発を特ダネとして報じるのは、特ダネの中の特ダネであり、これを取ることが出来れば、一人前と見なされたし、胸を張ってもいいとされていた。
▽しかし、ここ何年もこのサンズイの特ダネを見たことがない。特に地方自治体の首長逮捕へ、という記事を、最近は全く見ていない。どうしてなんだろうか。
▽私がある地方で県警を担当していた時だ。
▽ある市役所の中間管理職である課長が贈収賄事件で逮捕された。捜査は上層部に及び、部長が逮捕され、最後は市長も逮捕された。
▽この時、私はその県警の捜査の水面下の動きをキャッチしていて、課長、部長、市長のそれぞれの逮捕をすべて前打ち記事で打った。いわゆる特ダネだ。
▽これに対して、ライバル社の読売新聞は驚くべき取材に出た。
▽市長逮捕の動きを想定して、数日前から市長の自宅前や、県警捜査員幹部の自宅前、県警本部の捜査部屋前などに記者を張り付けて、人海戦術で特ダネを取ろうとしたのだ。確か6人か7人の記者を使っていた。
▽そして実際の市長逮捕の日、市長が自宅前で捜査員に任意同行を求められて、県警の車に乗せられたことを確認し、読売新聞はこの一連の事件で初めて特ダネを取ったのだ。私からすれば読売新聞の人海戦術の勝利だった。朝日新聞は私1人で取材をして記事を書いていたので、読売新聞の7人に対して私は1人で対抗したのだった。もちろん私もこの市長逮捕は特ダネと報じている。同時の特ダネとして並んだわけだ。
▽こんな過去のことを書くのも、最近は汚職事件で首長が逮捕されることもないし、マスコミが特ダネを取ることもないのが、不思議で仕方ないためだ。
▽それだけ時代が変わったのだろうか。
▽推測するだけだが、今でも全国で贈収賄事件は起きている。河合克行元法相の大規模選挙買収事件の記憶も新しい。
▽それを都道府県の警察が情報をキャッチできないでいるためだろう、と私は思っている。それだけ贈賄側も増収側も隠密に動いているのだろう。
▽今でも国会議員による贈収賄事件などは、東京地検特捜部が摘発しているし、全国各地でも、こうした贈収賄事件が起きていることは間違いないのだ。各都道府県の警察本部の捜査に期待したいし、そうした捜査の前打ち記事を、各地の記者にもっと書いてもらいたいと私は思っている。
★329出版不況ではなく、紙媒体全体の衰退だ
▽ここ四半世紀、出版不況を訴える関係者が多いが、もしかすると単なる「出版不況」ではなく、構造的な「出版縮小」か「出版斜陽化」、否、紙を媒体とした活字文化の衰退ではないかと、私は最近思うようになった。そう、書籍だけではなく、週刊誌も月刊誌も、そして新聞も含めて紙の媒体全体が縮小しているのだ。活字を主体に活動してきた私にとっては、かなりの危機感を持つが、抗しきれない流れなのかもしれない。
▽出版のプロである幻冬舎社長の見城徹氏が2023年11月1日付朝日新聞でインタビューにこんなことを答えている。現在の出版状況を端的に語っている。少し長いが引証する。
▽見城氏は自分の体感として本の部数が激減したことを嘆いて、こう発言した。
《ネット書店や電子書籍が伸びているといっても、紙の本の落ち込みをカバーするには程遠い。特に小説やエッセーが主体の文庫本は壊滅的です。これまで、文芸作品が人を救い、癒やしてきたはずなんですが、その役割がものすごく小さくなっている。人間が生きていく上で必要不可欠なものではなくなったんじゃないかという気さえします。
▽出版流通の仕組みを改革しようという動きがありますけど、ある程度、返品などのリスクは減らせるとは思います。でも、根本にあるのは、もう紙の書籍が売れないということです。流通改革は、リスクの軽減にはなるかもしれませんが、根本的な問題の解決にはならないでしょう。
▽本にしろ雑誌にしろ、紙の媒体だけでは、もう出版社の経営が成り立たない。生き残るには、総合コンテンツ企業になっていくしかないんです。この4年でそれがはっきり見えました》
▽これはベストセラーとなる書籍の話を中心に語っているが、地味な出版物も同じ傾向にある。要するに本が売れないのだ。これを出版不況と称しているが、私の知り合いの出版関係者によると、数年前からではなく、阪神大震災を契機に本が売れなくなったという。不況という言葉では表現できない状況に陥っているらしい。
▽書籍だけではない。週刊誌や月刊誌も売れなくなっている。週刊朝日の休刊はその象徴だ。合併号と称して、発行回数を減らす週刊誌も出てきた。この四半世紀で月刊誌も少なくなった。知り合いの中堅出版社も数年前に潰れてしまった。
▽これを本を書く側、つまり作家やライター、ジャーナリスト側から見ると、どういうことになるのか。
▽私は過去、何冊か本を書いて出して来たが、次第に初版の部数が減ってきていることを実感している。筆者に入る印税もかつては10%だったが、最近は4−5%に下がっている話をよく耳にする。そう、本を出しても、売れないし、印税も少なくなっているのだ。だから、ライター側は本を出しても売れないし、本を出すことも出来なくなっている。出版を躊躇する出版社も多くなってきた。つまり本を書いて生活できるライターは少なくなっているのだ。
▽単なる「出版不況」ではない。構造的な問題だと見た方がいい。本を購入する人間も激減している事実は直視した方がいいのだ。
▽これは新聞も同じ事が言える。新聞を読む読者層が限定されている。このことは各紙の経営陣も気づいていて、必死にデジタルに移行する経営を進めている。しかし、「デジタルは無料」だという意識が浸透してしまい、デジタルの有料読者は増加しない。
▽私は40年間以上新聞記者を続けてきたが、幸いなことに、新聞の部数が増加している時期に入社し、そのまま業界が好調な時期に最前線で取材をしていたので、新聞がこれほど衰退するとは思ったことがなかった。
▽そして新聞社を退社して、フリーランスの物書きを始めようとすると、初めて出版の現在の状況がわかるようになった。
▽私は新聞記者を目指す前に、フリーライターの仕事を真似事でやっていたが、その時代は多くのフリーライターが取材して月刊誌などに記事を書き、それを書籍にしていった。フリーライターはある程度成り立つ職業だった。
▽しかし、40年も経ち、月刊誌の数が少なくなり、週刊誌も少なくなり、書籍も売れなくなった。フリーライターと称する職業が、成り立たなくなっているのだ。紙の媒体だけに頼るフリーライターは、もう生活などできない状況なのだろう。
▽紙媒体の文化はわずか150年だ。今後はどういう媒体が伸びていくのだろうか。動画に期待するしかないのかもしれない。紙媒体に頼ってきたフリーライターは、過去の遺物になってしまうのだろうか。
★328こたつ記事とコメント紹介、そしてテレビの街頭インタビュー
▽インターネットに掲載・紹介された各社の記事を読んで、不思議に思うことが一つある。政治家や有名人の各種発言を紹介する際に、インターネットのSNSにアップされた匿名のコメントをそのまま紹介していることだ。新聞社の取材では絶対あり得ない、安易なコメント紹介だ。
▽「こたつ記事」という言葉がある。インターネットに出ていた資料を元に、現地での取材をしないで、記事を作ってしまうことを指す、とされる。
▽インターネットではこんな定義がされている。
《コタツ記事(コタツきじ)は、ジャーナリスト、ライターが現地に赴いて調査を行ったり取材対象者に直接取材したりすることなく、インターネットのウェブサイト、ブログ、掲示板、SNS、テレビ番組などのメディアで知り得た情報のみを基に作成される記事である》
▽この定義をそのまま使うなら、SNSにアップされた匿名コメントをそのまま垂れ流しするのは、まさにこたつ記事の最たる物、と言える。
▽例えば、衆院の解散・総選挙が突然あったとする。新聞なら、この解散と総選挙をどう受け止めるのか、識者とは別に街頭の声を掲載する。
▽その場合、社会面なら本社社会部からの指示で、地方の総局・支局の記者が街頭に行って、有権者の声を取材する。有権者の声を紹介する際は、原則として実名で、職業と生年月日を聞き、これを了承してもらい、記事にして本社に送る。
▽有権者の声が一方的に偏りがないよう、職業では会社役員、会社員、主婦、学生など、細かい指示を加える場合もある。
▽だから、新聞では有権者のコメント取りが、意外に難しい。実名を拒否するケースもあるし、正直な意見を言ってくれない場合も多い。
▽こういう取材から生まれるのが、有権者のコメントだ。
▽これに対して、SNSのコメントは、匿名で無責任で、取材に応じた発言ではない。しかもSNSを使える人間に限られる。要するに一方的なコメントなのだ。
▽この一方的なコメントを、こたつ記事は安易に使っていることになる。これを世論だと見せかけるのは、インチキで詐欺だ。
▽もう分かるだろう。インターネットで紹介された、世論と称するコメントは世論ではない。まともな新聞では絶対に使わない。
▽これがこたつ記事の正体だ。
▽もう一つ。テレビでの街頭のインタービューコメントも、それに近い。
▽現場でよく見かけるが、テレビの街頭取材で、インタビューをした相手の住所も名前も職業も聞くことはしない。画像は実名だが、実際は匿名の取材だ。テレビのカメラマンと記者がマイクを向けて、
「解散・総選挙をどう思うか」
と質問しても、実名を聞いたりすることはしない。そんな場面を見たことがない。実に安易な取材方法だと思っている。
▽有権者のコメント取材では、こたつ記事やテレビの街頭取材はいい加減なものだと思った方がいい。
★326感動した合唱と語りの舞台イベント「花地蔵物語」
▽合唱と語りの舞台イベント「花地蔵物語」を鑑賞した。感動的な舞台だった。満蒙開拓移民が敗戦により日本軍部に棄民され、逃避行を続けて日本に帰国。新たな入植地として福島県浪江町津島地区で生活をし、その子どもたちが今度は原発事故で棄民扱いされたことを歌にした。合唱と演劇を組み合わせた舞台で、感動的だった。
▽2024年1月19日夜、東京・武蔵小金井駅前のホールであった。
▽日本が日中戦争の最中に傀儡政権の満州国を造り、そこへの移民を国民に勧めた。だが日本の敗戦によって、ソ連軍が攻め、傀儡政権を作った関東軍はその開拓民を守ることなく放棄していった。
▽ソ連侵攻に開拓民の人たちは多くが死亡し、戦果を逃れてやっと日本に帰国した人たちが新たな生活場所として選んだのが、福島県津島村(現浪江町)だった。
▽そしてその子孫が直面したのが、東日本大震災の福島原発事故だった。避難を余儀なくされ、親子代々に渡って続く棄民政策の犠牲者となった。
▽この棄民政策の犠牲者となったことを、歌と語りにして出来たのが、この舞台イベント「花地蔵物語」だ。
▽大門貴高子作詞、安藤由布樹作曲で計14曲からなり、「序曲 今この村から」から「終曲 ノーモア棄民 ふるさと返せ 明日を返せ」まで、戦火の恐怖、満州の国づくり。集団自決と逃避行、引き揚げと戦後の開拓、東日本大震災、そしてノーモア棄民と訴える内容だ。
▽今回の舞台では、市民コーラスグループが出演して、披露した。舞台に立った合唱団は約40人のグループで、驚くなかれ、ほとんどが60−80歳代の人たち。声は出ているし、動きもいい。恐るべし、高齢者の合唱団だと思った。
▽残念なのは、たった一度の舞台で終わってしまい、全国的な広がりが出来ないことだ。
▽こんな舞台を全国各地コーラスグループで演出して広げてほしい。せっかくの作品がもったいない。高校生も独自にこの舞台をやってほしいと思った。
★323権力にヨイショする自称ジャーナリスト
▽テレビを見たり、書籍を読んだりして、時折不愉快にさせてくれるのが、ジャーナリストと称した人間が、国家権力である時の権力を持ち上げて、政治家を絶賛することだ。ジャーナリズムとは、権力の監視であり、民主主義の砦だ。ジャーナリストを名乗るなら、こんなことをしては駄目だ。
▽今回は元首相で、官房長官だった当時の菅義偉を持ち上げた自称ジャーナリストと、安倍政権を最後まで擁護していたこちらも自称ジャーナリストのそれぞれの著作を紹介する。
▽まずは『影の権力者▽内閣官房長官菅義偉』(松田賢弥、講談社文庫)。
▽雪国の貧しい土地の出身者、というだけで、田中角栄と重ねて絶賛しているが、菅は角栄の足下にも及ばない、くだらない政治家の1人だった。その後の政治活動を見れば分かるだろう。よくもジャーナリストを自称する人間が、こんな権力者のヨイショ本を書いたな、というのが正直な感想だ。秋田の豪雪地帯から上京した苦労人という点にだけ焦点を当てて、小沢一郎を斬り、沖縄県知事を斬り、小渕優子を斬り、安倍政権を絶賛する。これがジャーナリストのすることなのか。次第に不愉快になってくる内容だった。
▽次に『安倍官邸の正体』(田崎史郎、講談社現代新書)。
▽ここまでひどい政治記者を僕は知らない。完璧な安倍政権のお友達の時事通信記者だった。NHKにいた岩田、産経の安蒜並みというべきか。安倍官邸が正副官房長官らからなる秘密会議ですべてを決めており、それをうまく機能できるようになったのは、第一次安倍内閣での教訓が生きているからだという。ここまではいい。
▽その後のこの本の展開は安倍がいい首相であり、民主党の歴代首相は馬鹿であり、菅官房長官は苦労人だから、よくやっているという大ちょーちん記事のオンパレード。集団自衛権の容認を成し遂げた、とかいう表現を使って、安倍政権を評価していることに驚くばかり。完全なスポークスマンだ。新聞記者として恥ずかしい。浦和支局に異動になった時に差し止めの訴えを起こしたとか、自分がエリートになったつもりでいるのもおかしい。
▽なぜ、こんな人間がジャーナリストだと名乗っているのだろう。恥ずかしくないのだろうか。
▽読んでしまって、損をした気分になった。
★321阪神大震災の初日の神戸へ
▽都市災害として、戦後最大の犠牲者を出した阪神大震災の第一報を私が知ったのは、その日の早朝のテレビニュースだった。上空を飛ばした民放ヘリからの実況中継で、大地震が発生したことを知った。チャンネルをいろいろ変えたが、NHKは出足が遅く、リポーターもしどろもどろになっていて、よく分からなかった。牲者数もゼロとしていたが、民放は既に数人の死者数を報じていた。
▽当時私は東京本社に勤務していた。私は直属の上司である東京本社デスクに電話し、現場に行きましょう、と申し出たのだが、上司には「まだいい、とりあえず東京本社に上がってこい」と言われた。このデスクの判断が、その後の私の行動に影響を及ばした。
▽私は通常の勤務として、スーツにコート姿で、通常の取材道具を持って東京本社に上がった。阪神大震災の第一報を伝える夕刊の作業を手伝い、夕刊最終版の降版時間が終わってからだった。私は神戸への出張を命じられた。その時は、通常の東京本社への勤務の格好で、出張道具を何も持っていなかった。
▽私は自宅に寄って出張道具を取りに行くのは時間の無駄だと判断し、そのまま着の身着のままで神戸に向かうことにした。
▽東京駅に着いてみると、東海道新幹線は全面ストップしていた。まだ携帯電話が普及しておらず、私は東京駅から公衆電話を使って神戸に行けるルートを探した。すると、仙台空港から伊丹空港に出ている飛行機便があり、さらには東北新幹線は動いていたため、東京駅から仙台駅に向かった。そして仙台駅から仙台空港に移動し、そこから飛行機で伊丹空港に向かった。
▽ここでは大阪本社が用意してくれたハイヤーに乗り、大阪本社を経由して、泉佐野市の港に着いた。ここからチャーターした漁船を乗って神戸市に向かった。すでに日が沈み、夜になっていた。神戸市が近づくと、メラメラした火災が発生していて、街は赤く光っていた。目の前にあるのは、火災が続く神戸市の街だった。
▽神戸港に着岸して、歩いて、当時の朝日新聞神戸支局に向かった。当時の朝日新聞神戸支局は、高層ビルの中にあり、エレベーターが動いておらず、階段を何段も上って支局に着いた。
▽全国から多くの記者が集まっていた。しかし、市内のホテルは全く使えない状態で、我々は女性記者を除き、この神戸支局の床に新聞紙を敷いて寝泊まりすることになった。支局の窓は地震で壊れており、冷たい風が支局内に入ってきた。まだ1月中旬で、冬だ。エアコンも壊れていたから使えない。私は東京本社デスクの判断で、一度東京本社に寄ったため、出張道具を持っていなかった。着替えもなかった。コートのままで新聞紙を敷いて支局の床で寝た。しかしなかなか寝付けなかった。こうして阪神大震災の初日の夜を迎えた。
▽これが初日の私の記憶である。
◎参考図書→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印した40年の記憶」(東京図書出版)
★320朝日新聞の社外執筆と社内検閲について
▽話題になった新書「なぜ日本は原発を止められないか?」(青木美希、文春新書)を読んだ。この本について、私なりの考えを以下のように述べたい。
▽読む限りに、普通の原発関連の解説書だ。東日本大震災による福島県発の事故で、現在も苦しむ現地の避難者の話、日本の原発建設の歴史、原発ムラと言われる利権と朝日新聞の原発推進路線、安全神話などを解説した。これがどうして、朝日新聞内部で問題になったのか。そして社外執筆についてまで制限する内部通達が出たのか。私なりに考えた。そしてこうも思う。社内の非難など気にしない方がいい。評価は時間の経過とともに逆転していく。
▽まずは総論として、筆者が朝日新聞記者ではなくなっているのに、原発の本を書いたこと自体に、社内からの反発があったのではないか、と思った。原発は政治部、社会部、科学部の記者が絡む。それを正面から記者から外された社員が書くことに対する反発があった。記者ではないのに、書きやがってという反発だ。
▽そしてもう一つ。朝日新聞の闇の部分にまで突っ込んだことで、朝日新聞から反発があったのではないかと思った。
▽その闇とは、朝日新聞のOBたちだ。朝日新聞は過去、原発に対しては「イエス・バッド」として対応し、容認路線を続けてきた。特に科学部が推進派だった。今回のこの新書も、朝日新聞と原発の報道姿勢について追及している。大熊由紀子ら原発推進記者を批判する内容だ。朝日新聞のOBたちは私が知らないほど結束していて、一つのムラを作っている。このムラが会社幹部に圧力を掛けて、この本の筆者である青木を批判したのではないか。
▽つまり過去の朝日新聞の推進路線を批判する今回の青木の本は、これに反発するOBらが現役の経営陣や編集幹部らに圧力を掛けた、ということはないだろうか。
▽もう20−30年前、具体的には忘れてしまったが、朝日新聞労組か社会面で、朝日新聞の戦争責任を追及する記事が出た。この時、OBたちの反論が異様だった。そんなに深く戦争責任に言及していなかった記事だったが、異様な反論があり、執筆した記者たちに、かなりの圧力があったことを、後に知った。
▽そう、青木の本は、朝日新聞の地雷を踏んでしまったのではないか、と私は推測している。
▽昔の話だが、スリーマイル島での事故で、筑紫哲也が司会を務めたテレビ番組「こちらデスク」で当時の科学部長の木村と、ニューヨーク特派員の石さんが中継で論争になった。科学部長は最後まで推進路線を崩さなかった。そのことも思い出した。
▽もう一度記すと、何の問題もない内容の新書だが、一部の朝日新聞の人間とOBが激しく反発して見せた。これが問題となったように私は思った。
▽私自身のことも記したい。
▽自分自身のこのホームページで紹介しているように、私は連続幼女誘拐殺人事件の本「今田勇子VS警察 ドキュメント連続幼女誘拐殺人事件」をペンネームで出して、内部非難を受けた。「勝手に書きやがって」と。しかしそれから30年以上が経ち、逆に評価してくれる記事も出ている。フリージャーナリストの青木理氏は月刊雑誌「世界」2021年2月号で、「読書の要諦 ノンフィクション」で、この私の本を取り上げてくれた。
▽捜査権力と記者はどう対峙してきたか、という問題意識を前提に、記憶に残るジャーナリズムの本として何冊かを列挙して批評し、ペーンネームで書いた私の本について、青木氏はこう書いてくれた。
《1980年代後半、首都圏で起きた連続幼女誘拐殺人事件を捜査する警察と取材する記者たちの実態を驚くほど赤裸々に描いたルポルタージュである》
《筆者は大手紙の記者で、大和田徹はペーンネーム。おそらくは共同通信の編集局長を務めた原寿雄が書いた『デスク日記』を綴った際のペーンネーム・小和田次郎をもじったのだろう。本書は読み物として抜群に面白く、警察と担当記者の関係がどのようなものであり、警察取材に奔走する記者の日常がいかなるものなりか、ここまで遠慮なく描いた書は以後も記憶にない。どこかの出版社が文庫本にしなのかと、なかば真剣にいまも思うのだが》
▽目を疑った。
これは、間もなく務めていた新聞社を退社することが決まっていた私へのメッセージだと感じた。迷った。青木氏からの叱咤激励のようにも見えた。ぬるま湯の新聞社で、何をしているのかと。
▽もう、そろそろ沈黙を破ってもいいだろう。そんな考えを持つようになった。実際、私は2021年8月で勤めていた新聞社を退社し、会社への義理立てもなくなった。迷惑をかけることもない。忖度する必要はなくなった。
▽大袈裟だが、ジャーナリズムの神様がいるとしたら、そろそろ新聞社にしがみつくのはやめなさいと、諭された気分になった。
▽それが今私のホームページで続けている連続幼女誘拐殺人事件の連載「沈黙を破る」だ。
★316笑える新聞の見出しと遊び心
▽「日航さん、何をするんですか」
▽詳しい日時も正確な表現も忘れてしまったが、北海道で発行していた朝日新聞の社会面記事の見出しに、こんな内容の言葉が載った。乗員乗客のうち24人が死亡し、149人がけがをした1982年2月の日航機羽田沖墜落事故で、日航機の利用者が激減し、当時の北海道・千歳空港で日航社員による客引きが行われ、問題となった。その記事に付いた見出しが、上記のような内容だった。見事な見出しだった。
▽これには少し説明が要るかもしれない。
▽この墜落事故は、機長が逆噴射のスイッチボタンを押したのが原因とされた。機長が操縦桿を押して、副操縦士が操縦桿を引く構図となり、副操縦士が、機長に叫んでいたことが明らかになっていた。
「キャプテン、やめてください」
▽こんな言葉を発して、機長の異常行動を止めようとした。当時の報道では、
「何をするんですか」
という言葉もあった。
▽この言葉が当時流行して、冒頭の朝日新聞の見出しが作られたのだ。
▽この見出しを見て、私は笑ってしまった。こんな秀逸な見出しがあるのだろうか、と思った。
▽特に社会面の記事の場合、世間の森羅万象を扱うことが多く、見出しは読者を引きつける第一歩だ。
▽その後、遊び心ある見出しは次第に見ることが出来なくなった。取材相手を茶化したことに対する法的問題もあるのだろう。
▽しかし、新聞の風刺画と同様、もっと遊び心を取り入れてもいいのではないか、と私は思っている。
★311国鉄の分割・民営化の目的とその後
▽国民の財産である国鉄を分割し民営化した結果、何が残ったのだろうか。こんな問いかけを私は常に自分自身にしている。
▽中曽根康弘内閣による国鉄内最大労組の国労つぶし、総評つぶし、さらには社会党をつぶしてやるという目的は明確だった。国鉄自身にも自浄能力が欠けていて、そこに国家権力が強引に入っていった。国労系の鉄道マンは現場から追い出され、労働者のプライドをズタズタにされて、現在に至っている。最近は国鉄の分割・民営化は成功だという権力側の話が吹聴されるようになったが、「負の歴史」は消えていない。
『日本の闇と怪物たち』(平凡社新書)という新書の中で、評論家の佐髙信とノンフィクションライターの森功の対談で指摘する話が当を得ている。
▽対談では、国鉄の分割・民営化の三羽烏と言われた井出正敬、松田昌士、葛西敬之のうちの葛西を取り上げた。葛西が国労と動労に対してストによる損害賠償請求裁判をやる構えを見せて、動労に松崎明によるコペルニクス的転向をさせて、労組の分断に成功させた史実を引き出した。葛西は後にJR東海の社長になる。
▽佐髙は言う。
「葛西というのはエリート集団のなかでそういうエグい攻撃をやってきた。普通は、そこまで悪どいことはやらないのがエリート集団だけれども」
「日本の会社の実態を嫌というほど見ている者からみると、会社にすれば良くなるというのは当たらない現実認識と、国鉄という国民の財産である『公』の存在を切り売りすることへの危機感です」
▽さらには中曽根内閣による国労つぶし、社会党つぶしという明らかな権力の意図があったとして、中曽根がはこう明言したと紹介している。
「国労は総評の中心であるから、これは崩壊させなくてはならない。首相になって国鉄の分割民営化を真剣にやった。みなさんの協力で成し遂げられた。最も反対していた国労は崩壊した。そうして総評が崩壊し、社会党が崩壊した。それは当初から意図してやったのだ」
▽まさに権力の介入を、首相自ら語っている。
▽これに対して森は別の幹部の話だとして、民営化の発想は瀬島龍三の発想、入れ知恵だと指摘する。瀬島龍三とは太平洋戦争の日本陸軍作戦参謀で、戦後の日本の闇を知っている人間の1人。中曽根の顧問にも就いていた。
「分割によって労働運動を解体するというのは、なるほど瀬島という作戦参謀らしい発想だという気がしますね。そこに葛西が乗っかる形で進められたのが国鉄分割民営化だ、と」
▽北海道音威子府村と言う小さな村がある。北海道北部に位置する音威子府村は、かつて鉄道の街だった。宗谷線と天北線が分岐する音威子府駅を持ち、乗換駅として栄えていた。村の人口の半数以上を鉄道関係者で占めた時期もある。
▽時代が昭和から平成に変わろうとした時、この村を襲ったのが、オホーツク沿岸で暮らす人々には大切な赤字長大路線の天北線廃止であり、国鉄の分割・民営化に伴って実施された大合理化だった。鉄道員たちは、「国労員」という肩書だけで選別・解雇された。
▽現地では闘争団を組みながら生活する国労員の姿があった。国鉄を解雇され、それでも現場復帰を求め、裁判などで闘いながら、アルバイトをして生活する男たちだった。
▽現代史の負の遺産として忘れさせないためにも、私は取材を進めた経緯がある。
▽労働者のこういう現実を見ていると、国鉄の分割・民営化と言うのは、戦後最大の権力介入ではなかったのか、と私は思ってしまう。
◎参考文献→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」(東京図書出版)
【再掲載】★069アクセスランキング
▽戦前の新聞の話を記したい。
▽朝日新聞は戦前、満州事変を契機に、それまでの戦争に対する反対の論陣を改め、戦争遂行へとシフトを切り替えた。在郷軍人らによる不買運動で、部数が削減し、経営危機を心配した朝日新聞幹部が世論に迎合するような形で、戦争遂行へのプロパガンダと大きく舵取りをした。ジャーナリズムの精神を放棄したと言って良い。共同通信の故原寿雄さんによれば、「パンよりペン」ではなく、「ペンよりパンを選んだ」のである。
▽それに伴って、中国などの戦地には特派員を多く派遣し、戦意を高揚する記事を載せて、プロパガンダに一役買い、アジア太平洋戦争に突き進んでいった。朝日新聞は一時期だが、この方針の大転換で部数を取り戻していった。戦意を煽る紙面作りをして、世論に迎合していったのだ。
▽この経緯は、「帝国日本のプロパガンダ」(貴志俊彦著、中公新書)などに詳しい。朝日新聞は戦争遂行に協力したのだった。
▽なぜこんなことを書くかと言うと、最近の朝日新聞デジタルで、アクセスランキングの多い記事を紹介していることに違和感を持つようになったからだ。アクセス数だけで、記事に対する評価をしているようで、何か違うと感じるようになった。
▽確かにアクセス数が多いほど、それだけ読まれているのだろうが、新聞というのは、多くの人にアクセスされるのが、良い記事なのだろうか。朝日新聞が過去に報じた様々な調査報道による特ダネが、アクセスランキングでトップになっているのだろうか。実態がよくわからない世論に迎合した紙面作りをしているのではないか、と思ってしまう。
▽朝日新聞ではないが、「危機の新聞▽瀬戸際の記者」(坂夏樹著、さくら社)でも、同様の指摘がされている。毎日新聞の論説委員経験者である筆者が、自己の経験則から、新聞の衰退する自分史を記した内容だが、アクセス数を気にする会社の編集方針を暴露している。
▽私が新聞社にいたころ、視聴率を気にするテレビ局を冷ややかに見ていた。視聴率に左右されるテレビ局とは違い、新聞はそんな視聴者には左右されないジャーナリズムを作ってきたと思っていた。そう、実態の分からない世論に迎合しないで、取材をして記事は作っていく、という気概があった。
▽それが今ではどの社も読者のアクセスランキングを気にするようになっているのである。本末転倒だと思う。
▽アクセスランキングの多い記事を評価するようになると、世論に迎合して、戦意高揚に繋がる紙面が出来てくるのではないか、と私は危惧する。
★305漫画「ジパング」の面白さ
▽「その話はしないで」
▽北海道小樽市の居酒屋のカウンターで友人と酒を飲んでいた時のことだ。いろいろ雑談をしていた時、カウンター隣の若い客が突然こう私に言ってきた。
▽私たちは、講談社の漫画雑誌モーニングでずっと続いている連載漫画「ジパング」の話で盛り上がっていたのだ。その話をしないで、と隣の客が私に言ってきたのは、「ネタバレ」をされたくないためだった。
▽「ジパング」は2000年から2009年にかけて、講談社の漫画雑誌モーニングで十年近くの続いた連載漫画でかわぐちかいじの原作だ。
▽私が新潟県上越支局時代から、札幌の北海道報道部、群馬県渋川市の渋川支局、そして本社にいた時まで続いた、
▽自衛艦のイージス艦みらいが太平洋戦争時にワープして、日本帝国軍でも米国でもなく、アイデンティティを持とうとして、専守防衛を元に動くが、一方で日本の将来を知ってしまった日本帝国の情報幹部が満州に飛び、そしてドイツでヒトラー暗殺を企て、さらには原爆を作って、米国との講和に持ち込もうとする壮絶な戦いを、イージス艦みらいの主人公が歴史を変更してならないとして止めようというストーリーだ。引き込まれてしまった。価値ある連載だったと思っている。毎週木曜日のモーニングの発売日を待って、コンビニに買いに行ったことを思い出す。
▽しかし、記憶とは忘れるものだ。連載の半分ぐらいまでしか覚えていなかった。ストーリーの後半に入り、戦艦大和に原爆を積んで、米国艦隊と壮絶な戦いを繰り広げるストーリーは完全に忘れていた。そして自衛艦のイージス艦みらいが力果てて最後に米艦隊に降伏を申し出た直後に被弾して沈没し、主人公だけが最後に生き延び、日本が違う戦後を辿っていくのも、悲しい最後になったことはややおぼろげに記憶にあった。
▽ヤフオクで中古コミック全43巻を買い、1カ月以上かけて読み終えた。記憶を取り戻したが、やはり面白かった。壮大な歴史の実験だと感じる内容だった。
▽大人が漫画を読むなんて、という一部批判があるが、こんな面白い漫画を読まない方がもったいない。
★303安倍政権と岸田政権と検察の関係
▽自民党の裏金問題で2023年12月18日付毎日新聞に気になるコラムが載った。「安倍政権と司法の攻防史」というタイトルで、特別編集委員が書いている。東京地検特捜部が翌日の19日に安倍派の事務所などを家宅捜索するなど強制捜査に入っていて、その前日に書かれたコラムだ。
▽そのコラムではこう書いてある。
《捜査の背景には政官関係の変質がある。安倍長期政権時代、政治主導が金看板の官邸は、官僚の言いなりになるまいとして争った。
勝者はたいてい安倍晋三首相(当時)だった。いまも安倍政権が続いていれば、検察は安倍派に手を出せなかっただろう。岸田政権にはコワモテの官房長官も副長官もいない》
▽こうしてコラムは検事総長に安倍派に評価されていた黒川弘務を就けようと画策し、定年延長をする閣議決定が行われた。安倍派の守護神が誕生し、安倍政権の犯罪は摘発されることがないようになったはずだった。
▽ところが黒川は賭けマージャンが発覚し失脚してしまう。
▽そして安倍本人は暗殺された。
コラムはこうも書く。
《岸田文雄首相には検察を制御しようという執念がない。その政権の下で権力中枢への捜査が迫る》
▽このコラムで言いたいのは、安倍首相は検察を制御できたが、岸田首相は制御できなかった、ということだろう。
▽これが事実なら、安倍政権はトンデモナイ独裁政権を作り上げようとしていた、ということになる。検察も安倍政権の言いなりだった、ということでもある。
▽自称、政治ジャーナリストがテレビで話していたようだが、政権側と法務省側がうまく話をつないで、政権に捜査が及ばないように安倍政権がしていた、というのは事実なのだろう。
▽今回の強制捜査は、それが過去のものだったことを示してほしいと願う。
★302安倍晋三外交の失敗
▽安倍晋三元首相の国葬が、反対意見が多数ある中で行われた。安倍首相の功罪は今後の歴史に委ねられるだろうが、ここでは外交の失敗を取り上げたい。
▽他でもない、対ロシア外交だ。安倍首相はプーチン・ロシア大統領に計27回も会談し、北方領土返還交渉を行っている。当時のマスコミは新聞もテレビも含めて、北方4島がすぐに返還されるのではないか、という壮大な観測報道をしていた。当時の紙面を振り返ってほしい。2島、もしくは4島の返還もあり得る、という妄想を続けていた。
▽しかし、何の進展もなかった。安倍首相は北方領土返還に政治生命をかけていたはずだが、何の実現もなかった。あの27回の会談は何だったのか。一部マスコミは「外交の安倍」と持ち上げたが、ロシアからは何も引き出せなかった。交渉は失敗したのだ。これが現実だ。
▽ロシアに、北方領土を返還する意思など全くなかった。意思がないのに、それを見誤った。幻想を抱かせた安倍外交の責任は重い。それを増幅させたマスコミ報道も、同罪だ。
「国際報道を問いなおす」(杉田弘毅著、ちくま新書)によると、プーチンはソ連崩壊を、「地政学上の最大の破局」と捉えており、「栄光ある大国としてのロシア復活を使命とした」と説明。この上で、「民族主義を求心力とするプーチンに、そもそも島を返還する気持ちがあったのだろうか」と疑問を呈している。
▽そう、プーチンの考え方をキチンと分析しないで、楽観的に北方領土返還を考えてきた安倍外交の失敗だった。これを歴史としてキチンと記されなくてはならないのだ。
▽歴史は為政者によって、都合良く解釈され、記されてきた。あと何年もたてば、この外交の失敗は、闇に葬られる可能性もある。だから今こそ、歴史として記していかないとならない。
▽安倍政権を引き継いだ菅義偉政権は、日本学術会議の会員の一部を外すよう仕向けた。政権に都合悪い歴史を掘り返されることを嫌ったためだ。
▽もう一度書く。北方領土返還の外交は失敗だった。
▽それでも国葬だったのか、と私は疑問に思う。
★300拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」の「まえがき」と「あとがき」から
▽私が出した本「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」の「まえがき」と「あとがき」の一部を紹介して、本の趣旨を改めて伝えたい。
《私は二〇二一年八月をもって、四十年五カ月続けてきた新聞記者生活に終わりを告げた。七年間勤めた北海道新聞時代は夕張炭鉱ガス突出事故、夕張保険金殺人事件、大韓航空機撃墜事件、小樽運河保存運動などを取材し、朝日新聞に入ってからは連続幼女誘拐殺人事件、阪神大震災、オウム事件、地下鉄サリン事件、奥尻島災害、永山死刑囚の執行など事件事故、災害、死刑問題や、国鉄の分割・民営化問題、拉致問題、地方行政問題、街づくり問題などの取材を続けてきた。もちろん地方での国政選挙や各種地方選挙、自治体、議会などのニュースも追いかけた。ミニニュースもかなり書いた。転勤が伴う新聞記者では当たり前の仕事だ》
《現場の多くは地方にあるのであって、中央にはないということだ。ここで言う中央とは、東京という意味ではなく、巨大組織である中央官僚組織を言う。その中央官僚組織や国会なども取材してきたが、中央に現場はない、地方にこそ現場と真実があると強く思うようになってきた。そして地方にいると中央がよく見えてくるようになった。だからこそ地方にこだわった。転勤族だったことも幸いした。東京も地方の一つに過ぎない》
《この本の中で紹介しているリポートで、私が取材した連続幼女誘拐殺人事件は主に埼玉の事件だ。私が常にテーマにしてきた夕張は北海道だ。阪神大震災も中央ではない。オウム事件の主戦場は長野県と山梨県だ。国鉄の分割・民営化の現場も地方だ。戦後の高度経済成長で道路行政の意味が問われた北海道小樽市の小樽運河埋め立て問題も、地方行政の問題だ。官房長官の記者会見を主戦場だと勘違いする人もいるが、あれは現場ではない。
▽連続幼女誘拐殺人事件については、そのドキュメントを一冊の本にまとめて、ペンネームで書いた経緯があるが、その後、私なりの考えもあって、この事件についての発言を一切封印してきた。今回はその長い沈黙を破って発信することになる。犯人探しもこれで終わりにしたい》(「まえがき」から)
《この本は四十年間の現場取材で接した事件事故、災害、自治体、議会などのうち、二十本に絞って再検証し、取材現場とは何かを考えるドキュメントにしたものだ。この二十本以外にも、まだ書きたいテーマが多数ある。それらは別の機会に譲るとして、改めて感じるのは、全国各地に事件事故はあり、議会と当局との不自然な対立も数多いという事実だ。取材を徹底すると、当局が隠してきた失態が明らかになることがある。どこにでも取材対象となる事例はあるということを、改めて感じる。現場は地方にあるし、地方は取材現場の宝庫だと強く思う》
《私が朝日新聞記者時代、東北部にある地方に在籍した時、当時の上司は私のことを、「所詮あいつは田舎記者だ」と親しい部下にこう言い切った。地方をテーマにした取材をしている記者を馬鹿にした言葉だった。中央政治取材こそ王道であり、自称中央エリートだったのだろう。
▽悲しいなと思った。この人は中央がすべてなんだな。新潟出身なのに、田舎は嫌いなんだな。田舎記者で結構だと私は思った。現場は地方にある。現場を知っているのは、地道に取材を続けている地方の記者なのだ。私は心の中で反発した。かわいそうだなとも感じた。
▽地方で取材を続けている記者を「田舎記者」と断じてはいけない。現場を地道に回っている記者に失礼だ。
▽この本はそんな意味を込めて書いた。現場ではまだ、事実を追い求めている記者が多数いることを知ってほしいと思った。
▽新聞の将来がどうなるか、予測はつかないが、現場を取材し、真実に近づく手法を変わらない。それだけが新聞の生命だと思っている》(「あとがき」から)
▽地方現場を軽視してはならないのだ。そんなことを意識して書き上げた。
★295朝日新聞が新聞レイアウトの禁じ手犯す
▽朝日新聞が朝刊1面で妙なレイアウトの紙面を作っていた。自民党パーティー券還流問題で安倍派の6人の幹部にも裏金が渡っていた、という報じた2023年12月9日の紙面だ。新聞業界で言うところの「両流れ」という禁じ手を行っていたのだ。今回はその禁じ手を朝日新聞1面トップが犯したケースを見ていこうと思う。
▽1面のその紙面はトップが「安倍派6幹部裏金か」という特ダネを、前文と本記に分けて載せていた。トップに次ぐカタの記事(第2項目目という意味)は「松野氏の交代不可避」で埋めた。
▽紙面をよく見てほしい。トップの記事とカタの記事が5段目で「両流れ」という禁じ手を犯している。両流れとは、二つの記事を組む場合、同じ段落で1本の記事に合流してしまう現象を指す。新聞製作では、絶対に犯してはならない禁じ手だ。
▽「松野氏の交代不可避」の記事を読者は読み始める。4段落目から5段落目に行こうとすると、新聞の段を区切る「段けい」(けいとはレイアウト上の線を意味する)に沿って目を移すので、本来の松野の記事ではなく、右方向にあるトップの本記の記事に合流してしまう。これが「両流れ」という禁じ手だ。
▽ネットでもこんな説明がされている。
《両流れとは、新聞記事のレイアウトにおいてタブーだとされる状態のひとつ。新聞紙面において、同じ段(同じ高さの場所)から始まった2つの記事が、写真やイラストなどを挟んで分流し、やがて合流した状態が「両流れ」。写真やイラストを挟み両方で川が流れるように文章が配置されることからこう呼ばれており、記事文章を読む上で、どの段がどの段につながっているかが分かりにくくなり、読みにくくなってしまうことから避ける。間に入った写真・イラストなどの配置を変えるか、記事の優先度にしたがって並び替えるかなどの修正が必要。新聞記事のレイアウトには、このようにタブーだとされる配置例があり、紙面を構成する上では避けられながら配置される。長年の新聞発行により培った知恵のひとつである》
▽これを阻止したいなら、トップの記事とカタの記事は違うことを区別するため、「縦けい」と呼ばれる線を縦に敷いて、段けいに流れることを止めなくてはならない。
▽朝日新聞整理部がこの紙面のレイアウトについて、いくらトップの記事では前文と本記が別れていて、両流れにならないと抗弁しても、これは両流れであり、禁じ手であることは変わらない。
▽新聞の紙面をレイアウトする場合、いろいろなルールに従って、整理部記者が紙面を作っていく。いろいろなルールがあるということは、そのルールを破ると、禁じ手ということになることは知っていた方がいい。。
▽この話は、一般紙だけではなく、学級新聞もPTA新聞も家庭新聞も新聞と呼ばれるものすべてに適応されるルールだから、作り手は学んだ方がいいと思う。
▽かつての私の上司で朝日新聞元整理部長は今回の紙面について、こう断言した。
▽「こんなおかしいことを平気で行っているのは、新聞の衰退だ」
▽朝日新聞を愛しているからこそ、この批判を正面から受け止めてもらいたい。
★293有給休暇と朝日新聞
▽私は朝日新聞に33年5カ月勤めていたが、年休を取ったことがほとんどないまま、サラリーマン生活を終えた。同僚や先輩、後輩などはちんと年休を取る人間もいたが、私は休むぐらいだったら、仕事をしたいと思っていたので取らなかったし、取れなかった。
▽退社した現在、朝日新聞の年休システムがどうなっているか分からないが、少なくとも、入社2年目になると、年休は1年間20日間与えられたが、2年間分の計40日間しか貯金出来ないシステムになっていた。つまり、これ以上の年休は繰り越しが出来ず、毎年の年休はずっと40日間のままだった。
▽新聞は毎日発行されるため、土日は交替で休むから、月ごとでも休みをそんなに消費できない。おまけに事件事故で追われてしまうと、休みどころではないのだ。そんな生活を続けていたから、年休消化などあり得なかった。
▽これは私だけに限った話ではなく、多くの記者が当時同じような状況にあったと思う。事件事故だけに限らず、夏の高校野球となると、5−6月ごろから地方大会の準備が始まるので、休むような状況ではなかった。
▽そんな記者生活を60歳の定年まで続けてきた。年休のほか、「永年休」なるものも追加されていたが、一度も使うことなく、60歳を迎えた。
▽そしてその後は、1年ごとに契約する「シニア記者」待遇となったが、永年休も取り消され、40日の年休もなくなり、シリア記者としての年休が与えられたが、65歳の退社まで使うことはなかった。
▽60歳の定年を迎えるに当たって、年休をすべて使う人間もいたが、私には無理だった。当時、新潟県佐渡市の佐渡支局に勤務していて、1人支局ゆえに、私が休んでしまえば、だれもフォローすることは出来ない状態だった。
▽そして埼玉県秩父市の秩父支局に勤務して65歳を迎えて退社したが、最後の最後に1週間ほど休んで、退社の準備をしただけだった。
▽だから私にとって、年休はあってないようなものだった。後輩に言わせると、「ただ働き」だ。
▽確かに「働き改革」が社内で叫ばれ、休暇取得向上が言われるようになって、私のような人間は希少動物か危惧種なのだろう。
▽しかし好きで入った新聞社で、最後まで記者として働くことが出来たことの方が大きかった。年休取得など、全く考えもしないで退社した。
▽これが私の人生だった。
★291なぜZARDなのか・その1
▽一時期ZARDの曲をよく聴いていた。歌詞が飯田拓郎の曲と似ていて、気に入っていた。亡くなった今でも時折聴いている。
▽朝日新聞北海道報道部に勤務してる時は、ついにこんなコラム記事を書いたことがある。今読み返しても、なかなか面白いコラムだと我ながら思った。北海道版だけに掲載されたから、全国の読者は読んでいない。もったいないので、このコラムに再掲載する。ただし生原稿だ。
《「くつろぎ空間▽白石サイクリングロード」
▽ひんやりした朝もやの中、僕はいつものようにゆっくりと走り出した。一般道路を横切って、歩道からこの専用道路に入っていく。日課としている朝のジョギングだ。道央自動車道の下をくぐって厚別川を渡り、立体交差する様々な道路をくぐり抜けて、ひたすら走る。次第に高くなる朝日のまばゆい光を体いっぱい受け止めていく。
▽通学通勤前の時間帯。すれ違うのは、僕と同じジョガーのほかに、ウオーキングしている人や犬の散歩をしている人たちなど。道路は緩やかなアップダウンが続いて変化に富んでいる。道路沿いには木々が植えられていて、周辺はマンションが立ち並ぶ。
▽通称、白石サイクリングロード。札幌市の東札幌から北広島市の上野幌までの約20キロの専用道路だ。何よりいいのは、この専用道路は一般道路と平面交差する場所がほとんどなく、一般車両も進入禁止で安心して走ることができる、という点だ。ジョガーも多くて、走ることに気恥ずかしさは感じない。僕自身、街の風景に溶け込んでいるような錯覚に陥る。
▽残暑が残っていた9月にはTシャツに短パン姿だったが、次第に涼しくなり、ジャージーの上下を着て、そして寒くなり出した今では、ウインドーブレーカーを着てのジョギングだ。いつの間にか樹木が赤く紅葉に染まり、季節を感じながら走る。次第に汗が出てくる。いろいろな場所で走ってきたが、ジョギングが楽しくなる場所に僕は初めて出会った。
▽■なぜ走るのか
▽なぜ走るのか、僕は自問自答する。走るのは苦しい。何よりも疲れる。日々走っていることを知ると、だれもがそう質問する。
▽確かに不思議に映るのだろう。息切れしている僕を見ると、みんな「なぜ」と思うのだろう。他のスポーツと違って走るのは苦しいだけだ。
▽僕はこう答えてきた。「苦しいと、すべてを忘れることができる。だから楽しいのだ」と。
▽走ることで街の風景が変化し、街の再発見ができる。いつもは通り過ぎるだけの場所が新鮮に映る。
▽走るときはリズムに乗りたい、と思う。こういう時に口ずさむのはカラオケで歌うサザンオールスターズやハウンドドックなんかより、ZARDの方がよっぽど似合っている。あの女性ボーカリストだ。
▽「街」「風景」「笑顔」
▽こういった言葉をキーワードにして吉田拓郎はフォークギターでフォークを歌い続けてきた。僕は吉田拓郎が好きだったが、最近になってZARDの歌詞が吉田拓郎の曲に似ていることに気づいた。否、歌詞のキーワードが同じなのだ。違うのは曲のテンポだけ。リズムカルなのだ。有名な「負けないで」はもちろん、「きっと忘れない」「マイフレンド」「息もできない」などなぜか吉田拓郎の歌と重なってしまう。
▽ドラマやアニメーションの主題歌に使われることの多いZARDの曲をあれこれ言うと、笑われるかもしれないが、僕はZARDの歌を口ずさみながら走り続けている。ZARDは吉田拓郎の生まれ変わりなのだ、と僕は固く信じて走っている。
▽■旧鉄道
▽このサイクリングロード。ただ走っているだけで知らなかったのだが、旧国鉄千歳線の跡地だった。鉄道輸送の効率化を狙って、ルートが現在のルートに変更されて、現在に至っている。
▽札幌は冬季五輪を経て膨張を続けてきた。人口が増え、街が繁栄し、街の風景が少しずつ変化してきた。
▽このサイクリングロードはこうした街の成長の証だ。先人たちが築いた歴史ある道だったのだ。
▽だから僕はこのサッポロの街の息吹を感じ取ってきょうもひたすら走る。走り続ける》
▽サイクリングロードの名称は変更されたが、私のZARD愛は分かっていただけただろうか(笑)。
★288テレビの裁判報道にだまされてはいけない
▽注目された事件の裁判の初公判があると、裁判を傍聴しようという希望者が、傍聴券を求めて裁判所前に並ぶ。傍聴席は裁判所にもよるが数十席しかなく、傍聴券は抽選で決められるから、だれもが傍聴券をゲット出来るわけではない。そんな列を成す傍聴券希望者の長い列を、テレビが中継し、「競争率は20倍。事件への関心の高さを示しています」などと報じる。その並ぶ人から話を聞いて放映している。しかしこれは半分は本当だが、半分は嘘だ。騙されてはいけない。
▽新聞社やテレビには取材用に、傍聴席とは別に記者席が用意されていて、1社に1席割り当てられている。裁判所にある記者クラブとの協定で決められたルールだ。
▽しかし、速報を狙ったり、傍聴の取材を手分けして作業をする時は、1社1席では足りない。このため一般用の傍聴席も確保する必要がある。このため各社は記者だけではなく、本社の一般社員や販売店従業員、さらには親族を使って並ばせている。中には学生アルバイトを使っているのだ。こんなことまでして、各社は必死に傍聴券を取ろうとしている。まさに水面下の闘いだ。
▽だからテレビが報じる「傍聴席を求める人々」という人間の多くは、実はこうしたマスコミ関係者やアルバイトの学生なのだ。純粋に裁判を傍聴したくて来ているのではない人が多い。
▽テレビが傍聴希望者だとして取ったコメントも信用しない方がいい。さもこの事件に関心があるようなコメントを話しているが、一般論をしゃべっている場合が多い。それが本音なのか、本心なのか、私は常に疑問に思ってしまう。
▽私自身も裁判取材の経験もあるし、さらには後輩記者の裁判取材のために、傍聴券を求めて並んだこともある。婚活で中高年男性を次々と殺したとして殺人罪に問われた女性被告の初公判も、さいたま地裁前で早朝から傍聴券取りに並んだが、列を作った人間のほとんどが関係者で、内輪で雑談している姿が目に付いた。
▽こうした経験から言うと、傍聴席を求めて並ぶ人々の半分以上は関係者であり、純粋に裁判の傍聴する人ではないのだ。騙されてはならない。
▽純粋に傍聴したくても、大きな事件ほど傍聴券を取るのは困難なのだ。これが現実だ。
【再々掲載】★204安倍政権の守護神失脚問題
▽安倍政権時代の「黒の歴史」として挙げられる、いわゆる「モリ、カケ、サクラ」問題とは別に、もう一つ挙げなくてはならないのが、安倍政権にとって都合が良かった「官邸の守護神」黒川弘務の定年延長・検事総長就任画策問題だろう。これは歴史として、キチンと記録していかないとならない。
▽この問題は簡単に言えば、政権に都合良い検事総長を就任させることで、政権への捜査をストップさせることが出来ると安倍政権が踏んで、検察人事を動かそうとした水面下の事件だ。
▽「桜を見る会事件」などを抱えていた安倍政権は捜査をさせないため、「官邸の守護神」と呼ばれていた東京高検検事長黒川氏を検事総長に就けようと画策した。その処理を辻裕教法務事務次官に任せた。辻事務次官が行った解釈と手法が、「国家公務員法の勤務延長制度を検察官に適用する」というものだった。つまり黒川を定年延長させて、検事総長に就任させるという人事方針を作ったのだ。
▽検事長の定年は63歳であり、黒川は誕生日前日の2020年2月7日に退官する予定だった。一方で、検事総長は約2年で退官となる慣例から稲田伸夫検事総長が慣例通り2020年8月までに勇退すれば、黒川の半年の定年延長によって黒川を後任に充てる人事が可能になる。トンデモナイ奇策だった。
▽この官邸主導人事に検察OBが反発、国民を巻き込んでSNSなどで反対運動を起こした。関係者には大問題として広がった。
▽ただし黒川氏は賭け麻雀で失脚してしまう。
▽この水面下のストーリーは、『安倍・菅政権VS検察庁 暗躍のクロニクル』(村山治著、文藝春秋)に詳しい。
▽内容は、安倍政権が強引に進めようとした黒川検事総長実現のための水面下の戦いを描いたドキュメントだ。筆者は元朝日新聞編集員委員だ。
▽定年延長という、一見何のことか分からない東京高検検事長の人事問題が、実は安倍政権にとっての守護神にさせたい思惑を秘めた指揮権発動事件であることを暴いている。かなり露骨に検察庁への人事介入をしていることが分かり、安倍政権の強引さが読み取れる。
▽最後は黒川本人が産経新聞記者らと賭け麻雀をしているのが暴露されて辞任したが、そこまで安倍が恐れていたのは、「桜を見る会」疑惑で検察が動き始めるのを警戒し、それをストップさせてくれるのが黒川検事総長というという魂胆だったことが分かる。
▽それ以外にも河井夫婦事件でも検察側の動きに安倍は敏感になっていたと言い、水面下の戦いはずっと続いていたことが述べられている。
▽筆者は後書きで、マスコミ社会部の反応が鈍かったと書いているが、確かに新聞を読んでいても、定年延長問題がどういう意味だったか、当初は私も分からなかった。こういう意味だったのか、と本書で詳しく知った。
▽安倍政権がやりたい放題、権力を駆使して、自分を守ろうとしていたことが分かる事件だった。
▽この問題では、神戸学院大学の上脇博之教授が「延長のために作成した文書を開示せよ」という訴訟を起こした。国は「文書は作成していない」として不開示した。このため現在は仙台高検検事長を務める辻氏の証人尋問を求め、裁判所が応じた。証人尋問は12月1日(2023年)に実施された。この際、正直に真実を話してほしいと思ったが、真実は語らなかった。
▽以下は12月1日の朝日新聞デジタルから引用する。
《 辻氏は国側の証人として出廷し、始めに国側代理人が質問した。定年延長をめぐる省内の検討の経緯を問われると、法務省刑事局から20年1月、「社会情勢の変化に伴い犯罪も複雑化し、担当者の交代は業務の継続性に障害があるとして(定年延長の)必要性が示され、了承した」と述べた。当時の森雅子法相にも了解を得たと説明した》
《辻氏は尋問で、法解釈を変更した理由を「検察の業務の継続性に障害があり、定年延長の必要性があった」と説明した上で、「特定の検察官を目的とはしていない」と強調。徳地淳裁判長も「第三者からみると、黒川さんの退職に合わせるように準備したように見えるが」と問うと、「事実ではない」と否定した》
★286損害賠償請求訴訟なのに金額がない欠陥原稿
▽たまたま読んだ朝日新聞朝刊の記事で、最後まで分からない記事があった。こんな短い記事でも、消化不良になってしまう。
《埼玉県熊谷市で2015年、民家3軒で住民計6人が殺害された事件で、妻と娘2人が犠牲になったのは警察の注意喚起が不十分だったためだとして、遺族の加藤裕希さん(49)が県に損害賠償を求めた訴訟の判決が15日、さいたま地裁であった。石垣陽介裁判長は「(県警の対応に)違法があるとは認められない」として、訴えを退けた。加藤さんは控訴する方針。
▽判決によると、事件は15年9月14~16日に発生した。14日に50代の夫婦が殺害された後、県警は捜索や警戒活動を実施。15日朝には市と市教委に通学路の見守りや保護者への通知を依頼した。しかし15日以降、80代の女性が殺害されたほか、16日には加藤さんの妻(当時41)と長女(同10)、次女(同7)が殺害された。ペルー国籍の男が強盗殺人などの罪に問われ、無期懲役が確定している。
▽加藤さんは、1件目の事件後に防災無線などで犯人について住民に直接知らせるほか、外出を控えるよう警告すべきで、十分な情報提供があれば事件は防げたと主張していた。判決は、15日正午時点で犯人を特定できる情報はなく、「県警はできる範囲の情報提供を行っていた」と判断した》(朝日新聞2022年4月16日付第2社会面)
▽分かるだろうか。連続殺害事件で、県警の防犯体制に不備があったから、被害に遭ったという主張で、損害賠償請求を裁判所に起こして、迎えた判決だが、損害賠償請求訴訟なのに、その請求額が記事には全く載っていないのだ。えっ、なぜと思った。
▽しかも前日には、朝日新聞埼玉版で前打ち記事を紙面で展開し、この日はこの社会面記事の受けである雑観記事を再び埼玉版に載せていたが、ここにも請求額が出ていない。カネの請求なのに、金額が載っていないのだ。
▽他紙を見ると、6400万円とある。
▽朝日新聞は担当記者が、請求額を書き忘れたのか、その原稿を見たデスクも見落としたのだろうか。
▽損害賠償請求訴訟は、要するにカネを要求する裁判だ。その金額の大きさに原告の怒りが表現される。その金額が全く書かれていない裁判原稿を、私は初めて読んだ気がする。要するに欠陥原稿。イロハも分からないで、遺族に感情移入されたような原稿で、かなりお粗末な感じがした。
★283課長島耕作が佐賀県副知事に
▽人気漫画「島耕作」シリーズの主人公、島耕作が今度はウェブ版で佐賀県副知事に就任した、という話を毎日新聞夕刊が伝えていた(2023年11月20日付)。課長から始まった「島耕作」シリーズは、主人公が次第に出世し、社長、会長まで務めるという息の長い漫画だが、ついに副知事になってしまう想定外の出来事に、私はへーっと思ってしまった。こんなに一人の主人公の半生を物語に出来る漫画は、他にはないだろう。
▽新聞によれば、佐賀県の情報発信プロジェクトの一環で、島耕作副知事は特設ウェブサイドを通じて、県が力を入れているスポーツ振興策や半導体産業について情報発信する役目となっている。「副知事島耕作」の登場だ。
▽最初のシリーズ「課長島耕作」は、大手電気メーカーで働く団塊世代の主人公が派閥闘争に巻き込まれながらも、様々な困難を乗り越えて、上司と戦っていくストーリーだ。何故か女にモテるし、上司の愛人にまで手を出してしまうという愛嬌もある。正義感が強く、同僚の悪事にも目をつぶらずに戦っていく。そんな島耕作が私は好きだった。こんなサラリーマンになりたいと思っていた。
▽そんな大ヒットした課長島耕作だが、私にとっては失敗だと思った関連作品もある。それはこの漫画が映画化されたことだ。主人公の島に俳優の田原俊彦が抜擢されたことに、私は非常に違和感を持った。課長島耕作の面白さは、困難な中でも戦っていく姿勢を主人公が持っていたことだと私は思っているが、およそ田原俊彦とのイメージには合わない。合わないと言うより、正反対のタイプだ。田原は後に、「俺はビッグだ」と言って、世間の反発を買うが、およそお馬鹿なキャラだ。島耕作のイメージを壊してしまうと思った。こんなにミスマッチな抜擢もなかっただろう。
▽ウェブ上ではあるが、ついに島耕作は特別公務員にもなってしまったけれど、こんなに1人の主人公を長く続ける物語は他にはないだろう。そしてこんなにモテる男もいないのではないか、と思ってしまったりした。羨望のまなざしで、この漫画を読んできた気もする。
★282特高警察と小樽商大の荻野富士夫教授
▽戦前の特高警察の詳細な動きを検証し続けている元小樽商大教授の荻野富士夫さんが新たに、『治安維持法の歴史』」を出した。2023年11月23日付朝日新聞1面下の書籍広告が出ていた。私が東京本社と北海道報道部時代に、やはり治安維持法の関連本を紹介する取材をしたことがある。荻野さんのライフワークだ。日本の暗部を後世に伝える作業に脱帽する。
▽北海道報道部時代に書いた原稿の素案をまず紹介する。
▽《戦前の日本で人権弾圧に猛威を振るった特高警察。道内では小樽出身のプロレタリア作家小林多喜二が東京・築地署の特高警察に逮捕され、獄死したのは有名な話だ。だが、この特高警察の背景には、検察がエリート官僚として「思想狩り」牛耳っていた史実はあまり知られていない。戦前から戦後に続く思想検察の系譜について、小樽商大の荻野富士夫教授が解き明かした『思想検事』(岩波新書)に注目が集まっている。
▽『思想検事』は、現代史と近代史を研究する荻野教授が昨年秋に出版した新書だ。全体で218ページで、思想検察の誕生と経緯、戦後まで描いている。
▽荻野教授によると、戦前の抑圧統制の担い手は特高警察だけではなく、その両輪をなしたのが、当時の司法部(司法省・裁判所)だった。悪名高い治安維持法の成立と改正で治安諸法令を運用して、「思想司法」と呼ぶべき機能を創出。その実質的な担い手となったのが「思想検事」だった。
▽本書でも指摘されているが、小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』で描いた拷問の描写は、特高警察が思想弾圧の最前線にいたことを示唆しているが、それだけでは説明しきれない広がりがあった、と説明。特高警察の解明だけでは、戦前の社会運動や思想、信教がどれだけ弾圧を受けてきたか説明できないことに気づいた、という。
▽「特高警察の弾圧についての研究書や資料の復刻版は多いが、思想検察について体系的に研究したものがこれまでなかった」。以前手がけた資料や現存している文書などを手がかりに、体系化した。治安維持法が公布された2年後の1927年、東京地裁検事局に「思想部」が新たに創設され、翌28年には思想検事が全国に配備されていった経緯から、左翼運動の弾圧と転向、さらには戦後の公安検察までの流れを、日中戦争、対米英開戦、敗戦までの時代背景をふまえて、一般にも理解できるよう執筆した。
▽「弾圧の苦い経験者も、背景に思想検察があった、と認識している人は極端に少ないと思う」と荻野教授。本書は結びで「戦前治安体制の主役、特高警察は思想検察があって、はじめてその本領が発揮できた」と指摘したうえで、その流れが断ち切れることなく戦後に続いた、と戦後の公安検察にも言及。オウム事件でも注目された破壊活動防止法(破防法)については、こうした思想検察の中枢人物が戦前のファシズムについて何ら反省もしないまま、制定の当事者となった、と痛烈に批判している。
▽荻野教授は「政治など『戦前と戦後の連続性』というテーマについて今後も研究を進めたい」と抱負を語っている》
▽この原稿を読んでいただければ、荻野教授の充実した研究ぶりが分かるだろう。
▽この取材の際には、荻野さんにこんな取材依頼のメールを出している。
《こんにちは。
▽私は以前、六年ほど前、荻野先生の自宅におじゃまして取材したことがある朝日新聞記者の原裕司といいます。
▽実は九月一日付の人事異動で札幌の北海道支社報道部に転勤してきました。
▽つきましては、先生に再度お会いして、ご挨拶したいと思ってメールを今回送った次第です。
▽昨年発刊された新書の反響や、その後の研究成果など、お話できる範囲でかまいませんので、お時間を取っていただけないでしょうか。
▽何回か電話したのですが、留守だったためメールにしました》
▽荻野さんはその後も精力的な研究を続け、多くの著書を出して来た。
▽『特高警察』」(岩波新書)は、戦前の特高警察を分析したものだ。ドイツのゲシュタポと比較してもいるが、敗戦でどうやって特高警察を延命させて行くかも記されていて、興味深い。秘密保護法案が強行採決されたその日に、私は読み終えた。
▽『よみがえる戦時体制』(集英社新書)は、安倍政権で進める強引な戦時体制を、戦前の小林多喜二の作品から時代性と当時の政治状況を読み取り、俯瞰してみせた内容だ。他国に対する戦時体制の強化と一体となって治安維持法などを強化し、反戦の声を潰していくのは、戦前も現代も同じだと指摘する。
▽『証言 治安維持法』(NHKETV特集取材班、NHK出版新書)は、治安維持法研究の第一人者である荻野さんの協力と監修によって放映したものを新書として執筆したものだ。検挙者数の推移から、共産党関係者を対象にした同法がいかに拡大解釈していったかを裏付ける証言を得て、その危険性を指摘した。そのターゲットは植民地化した朝鮮でも激しく行われて、それを裏付ける証言も取った。敗戦後に治安維持法は廃止されたが、思想検事はは生き続けており、その流れで自白中心の捜査がいまだに続いている、と説く。安倍政権で強引に成立させたテロ等準備罪の動きを重ねて、NHKにしては珍しく反権力的な内容だった。
▽荻野さんはその後、名誉教授となり、小樽を離れたが、今後も精力的な研究を続けてほしいし、ジャーナリストを名乗る人間は戦前の特高警察、思想検察への逆戻りする行為に反論を続けてほしいと願う。
★278ドラマ「事件記者」の面白さ
▽NHKが半世紀以上も前に放映していたドラマ「事件記者」が、YouTubeにアップされていることを知り、第1話から見始めている。警視庁記者クラブの各社の記者たちが事件を追い、警視庁幹部から情報を取り、現場取材をし、記事にしていくドラマだ。実に面白い。40年間新聞記者を続けてきた私が見ても、その当時の取材手法や取材活動が今も変わっていないことに気づく。実にリアルで面白い。
▽ネットではこう解説されている。
▽《『事件記者』は、NHKが製作し、1958年から1966年まで放映されたテレビドラマである。日活と東京映画によって映画化された。警視庁詰めの新聞記者が所属する「警視庁桜田クラブ」と「居酒屋ひさご」を舞台に、激しい取材合戦を続ける事件記者たちの活躍を描いた群像劇である。作者である島田一男が、NHKから警視庁を舞台とした脚本の依頼を受けた時、すでに警察内部を題材にした脚本を数本書いていた。そのため、残っている題材は警視庁詰め記者くらいしかなかった。しかし、自身が新聞記者出身である事から、記者時代の経験を生かした形で、知っている記者や事件を思い出しながら書くことができたと島田自身が語った。数多くのレギュラー記者には、それぞれモデルがいるという。新聞記者という、当時花形の職業を題材にしたドラマは大ヒットし、1966年まで8年続く人気ドラマとなった。少年期にこのドラマを見ていたジャーナリストの池上彰は、ドラマに感激してNHKの事件記者になった》
▽私にとっても、物心がつく前に時代に放映された、幻の、そして憧れのドラマである。
▽第1話は暴力団親分の傷害事件とそれで派生した暴力団の縄張り争い、そして特ダネを追いかける記者たちの群像だ。
「第3話 仮面の強迫」は面白いストーリーだった。たまたま偶然見かけた映画館の痴漢男を、一部の社が特ダネだと称して記事にするが、冤罪だった。その男の勤める病院事務長が警視庁記者クラブに怒鳴り込んで、お詫びを出せと主張する。対応に困る新聞社だったが、一方で事務長はその冤罪男を匿うかのように見せて、実は病院内部で犯罪を繰り返し、病院の薬を盗み、外部業者に売却し、その犯行に気づいていた冤罪男を抹殺しようとしていたのだ。つまり痴漢に見せかけた犯罪を犯していて、最終的にこの冤罪男を毒殺してしまう。警視庁の各社はここでようやくおかしいことに気づいて、病院長を探し出そうとする。そして冤罪男の恋人まで殺害しようとして、最後はその痴漢を訴えた女に撃たれる。警視庁と記者クラブがその背後の犯罪を見抜いたストーリー。こんなドラマを60年以上前に作っていたことに感激する。
▽「第6話 深夜の目撃者」はクリスマスイブに毒殺事件が起きたストーリーだ。男からケーキを渡された郵便局勤務の女性が、そのケーキをバス停に置き忘れてしまい、それを見つけたタクシー運転手が食べたばかりに死んでしまった。ケーキに毒薬が入っていたのだ。そんなことを知らない男2人組がその郵便局に深夜入り込み、寝ている隙にと金庫から金品を奪おうとして、郵便局に寝泊まりをしていた男を殺害した。警視庁は二つの捜査本部を設置するが、次第に二つが結びつく。女性は死んでおらず、犯人は仲間割れをする。殺害犯の男は深夜の臨時急行で逃亡しようと上野を発つが、警視庁が追いかけた挙げ句、男は赤羽で列車から逃走し、貨物列車で轢かれて事件は終わる。ストーリーの完成度は高い。最後は警視庁記者クラブに泊まりで残った若い記者2人が、「来年も頑張ろう」と言い合って乾杯する。新聞記者らしい風景だ。こういう記者になりたかったんだ。
▽昔と今は違う、という批判もあろう。携帯電話がなかったり、電話も黒電話だったり、走ってる列車もSLだったり、車も古いものだったり。そういう時代背景は違うが、取材手法は同じだった。
▽事件が発生し、警視庁がまだ発表しない時点で、事件をキャッチし、現場に向かう。その現場に捜査員と同時に到着し、地取り取材を行っている。そして公衆電話から警視庁担当キャップに電話を入れて情報上げていく。キャップは本社のデスクに専用線で出稿連絡をして行く。各社みんな競争で、抜いたり抜いたりしている。
▽こんな日々の風景を追ったのがこのドラマで、まさに新聞社はこんな生活をしていた。
▽これに対して、最近の新聞記者を主人公にした映画やドラマは、情けないほど内容がない。ファックスで情報が取れたとか、単なるタレコミで記事を書いたり、新聞記者の実態を知らなすぎる。だから、新聞記者だった私が見てもつまらないものが多い。
▽新聞記者は現場主義であって、単に情報を警視庁からもらっただけでの記事は書いていない。
▽記者会見で質問することも取材の一環であるが、記者会見は主戦場ではない。
▽このYouTubeにアップされたドラマ「事件記者」を関係者にはもっと見てもらいたい、と私は思った。
★276自称ジャーナリスト
▽にしても、インターネット時代になったためだろうか、ジャーナリストを名乗る人間がいかに多いかということを、最近よく気づくようになった。「放送ジャーナリスト」「政治ジャーナリスト」「フォトジャーナリスト」は昔からあったが、「サッカージャーナリスト」「料理ジャーナリスト」「地方ジャーナリスト」「映像ジャーナリスト」「映画ジャーナリスト」は比較的最近の言葉だろう。
▽私の持論だが、ジャーナリズムやジャーナリストとは、権力に対する言論の自由を守って、実践する行為者やその行為であって、それが出来ないなら、ジャーナリストもジャーナリズムも名乗るべきではないと思っている。「料理ジャーナリスト」って、料理業界の権力にメスを入れていくのなら分かるけど、おいしい食事の紹介をしたから、ジャーナリストなのかと疑問に思ってしまう。常に権力を意識して活動するなら、それはジャーナリストとしての称号を与えればいいのだ。
▽ジャーナリズムとかジャーナリストという言葉は、畏敬を持って使うべきものだと信じてきたから、私は現役の新聞記者時代に、ジャーナリストを自称したことがなかった。
▽これまでも外部に書く時は、「朝日新聞記者」ではなく、「新聞記者」とか、「記録作家」と称してきた。「朝日新聞記者」としなかったのは、私の個人的な考えや意見を、朝日新聞のそれだと思われたくなかったことが大きいし、会社に迷惑をかけたくないと思っていたことも理由の一つだった。
▽だから私が朝日新聞を退社後、フリーランスの物書きを始めようとした時、肩書をどうしようか、迷ったことがある。「ジャーナリスト」を自称するのも恥ずかしいし、自称するほどの実績もない。第一、ジャーナリストは自称するものではなく、他の人が本人に称号するものだと思っていたから、最初から「ジャーナリスト」の肩書を使うのは避けようと決めていた。「なんちゃってジャーナリスト」か「ジャーナリスト未満」を自称してきた。少しずつジャーナリストを名乗りたいなとは思う。
▽だれもが、「ジャーナリスト」を名乗るのが可能になった時代だが、本物のジャーナリストは一体どのくらいいるのだろうか。
★268フィルムカメラとローン
▽私が新聞業界に入って初めて使ったカメラは、ニコンのフィルムカメラだった。
▽当時の新聞業界でカメラと言えば、ニコンかキャノンだった。ニコンは耐久性に優れ、キャノンは画像が良かった。私は新聞社に入る前、アメリカの通信社写真部でアルバイトをしていたが、その通信社のカメラマンは、ニコン派とキャノン派に分かれていた。
▽ニコン派のカメラマンは、
「ニコンは耐久性が優れている。猛暑の取材場所から極寒の取材場所に移ってもニコンは動作する。すばらしい」
と言っていた。
▽キャノン派のカメラマンは、
「レンズが素晴らしい。カラー写真は格別だ」
と話していた。
▽私が使っていたのは、ニコンの「ニコマート」という種類だった。重いカメラだった。
▽これに単焦点の35ミリレンズを付けて、モノクロフィルムを装着し、日々の取材をしていた。フィルムは市販の36枚撮りフィルムを使っていた。枚数に限りがあるから、現在のデジタルカメラとは違い、何枚も何枚も連写して使うわけには行かなかった。
▽フィルムを節約するため、暗室作業ではカメラからフィルムを取り出して、撮影した部分だけハサミで切り取って現像するという作業もやった。そうしないと撮影していない部分のフィルムが無駄になってしまうためだ。
▽その後、カメラを買い足して、ニコンFE2やニコンFMを使うようになった。憧れのモータードライブを付けて、撮影することもあったが、フィルムを一気に使ってしまうため、スポーツ写真以外は使う事はなかった。
▽多くの新聞社がそうだったように、会社は新入社員に対して、カメラをローンで購入するよう強要されていた。カメラは個人所有という考えからだ。
▽地方だと取材の移動に使う車もマイカーだから、カメラも車もローンを組むことになり、新人記者は数年はローンから逃げられなくなっていた。
▽デジタルカメラの時代になり、カメラは会社が貸与するようになった。しかし性能の良いカメラではなく、アマチュアが使うレベルの機種で、良い写真を撮りたい記者は、やはり個人で揃えることになる。私もそうだった。取材道具は金がかかるのだ。
★264川本三郎さんのコラムと朝霞事件
▽評論家の川本三郎さんが書いた朝日新聞のコラムが気になった。2022年12月21日のオピニオン面に載った長いコラム「思い出して生きること▽評論家・川本三郎」だ。読みやすい、説得力あるコラムだった。
▽年取った自分の老いの話と妻との別れ、そして今後の自分のあり方を書いている。その中で気になったのは、50年前に朝日新聞に在籍した時に、逮捕された公安事件の話を少しだけしか扱っていないことだった。もっと言いたいことがあっただろうに、と私は思ってしまった。
《今年2022年は沖縄返還、あさま山荘事件、日中国交正常化など、大きな出来事から50年の節目になる。
▽個人的な話で恐縮だが、私がある公安事件で逮捕され、勤務していた朝日新聞社を辞めさせられたのも1972年の1月。
▽あれからもう50年たったのかと、感慨深い。会社勤めをやめてから物書きになり、50年ほぼ筆一本で生きてきたが、いま振り返ってみると、物書きという自由業は性に合っていたなと思う。
▽朝日新聞社の入社試験のとき、「どこの部を希望するか」と聞かれ、普通は社会部か政治部と答えるのに学芸部と答えたからか、1年目は失敗。1年就職浪人してやっと合格した人間にとっては自由業になって、好きな映画や文学について書いて暮らしてゆけるというのはありがたいことだった》
▽川本さんは、1971年に起きた朝霞事件に関連して、逮捕された。当時は朝日ジャーナルの記者で、捜査当局は、川本さんを事件関係者として逮捕したのだった。公安事件の関係者である。
▽朝霞事件が発生したのは、爆弾事件の幕開けと言われた一九七一年である。この年の八月二十二日午前二時過ぎ、陸上自衛隊朝霞駐屯地内で、パトロール中の自衛官が殺害され、腕章などが盗まれているのが見つかった。現場には、「赤衛軍」と書かれたヘルメットやビラ、旗が残されていた。実行犯とともに、朝霞事件に絡んで、強盗致死、公務執行妨害、住居侵入罪の共謀共同正犯として、指名手配されたのが、新左翼活動家で元京都大学経済学部助手の竹本信弘被告(ペンネーム滝田修)だった。
▽爆弾時代と言われたその当時、一九七一年は簡単に列記するだけでも、以下のような事件が連続発生した。
▽二月▽▽真岡猟銃奪取事件
▽六月▽▽明治公園での鉄パイプ爆弾投てき事件
▽八月▽▽東京・目黒機動隊宿舎爆弾事件
▽▽▽▽▽陸上自衛隊朝霞駐屯地殺害事件
▽九月▽▽三里塚強制収容事件
▽▽▽▽▽東京・高円寺駅前交番爆弾事件
▽▽▽▽▽東京第四機動隊宿舎爆弾事件
▽十月▽▽東京・世田谷警視庁寮爆弾事件
▽▽▽▽▽日石ビル地下郵便局小包爆弾事件
▽▽▽▽▽東京都内七カ所の交番爆弾事件
▽十二月▽土田邸爆弾事件
▽▽▽▽▽東京・新宿追分交番ツリー爆弾事件
▽目立ったものを列記してもこれだけの事件が起きていた。
▽翌年一月になって県警は竹本を東京・練馬の米軍グランドハイツ襲撃未遂事件に関して強盗予備の疑いで指名手配する。
▽竹本の元々の指名手配容疑は、朝霞事件に関してのものではなかった。実際に起きた朝霞事件ではなく、その直前に元日大生らが東京・練馬の米軍グランドハイツを襲って銃を奪おうと計画したものの未遂に終わったという「グラントハイツ襲撃未遂事件」で、事件を謀議し、逃走資金を渡した、という容疑だった。元日大生の供述から、県警が発表したもので、朝霞事件との関連は、この未遂事件の時効が成立直前になって県警が出して来た。
▽指名手配されたことから、竹本は地下に潜行する。潜行したことから、県警は怨念に近い捜査を進める。
▽そして竹本の指名手配と同時に、当時の朝日ジャーナル記者川本さんが逮捕される。事件実行犯グループから腕章を預かったことが証拠隠滅にあたるという内容だ。川本さんの逮捕だけではない。竹本の知り合いやシンパが次々と逮捕され、家宅捜査され続けた。いわゆる朝霞事件とはこういうものまで含めた総称を言う。
▽川本逮捕に衝撃を受けたのは、まさに記者たちだった。朝日新聞社だけではなく、新聞記者全体が衝撃を受けた。
▽社内の当時の先輩らによれば、出版局の人間が「権力の不当介入で、不当な逮捕だ」という受け止め方をしているのに対して、編集局、とりわけサツ周りの人間にとっては、「サツ周りも知らないくせに、事件の取材をしようとするからだ」という否定的な意見が強く出てきた。要するに事件を公安事件と見るか、単なる刑事事件と見るのかの違いである。
▽竹本被告に対する判決は、求刑懲役15年に対して、わずか5年。未決勾留日数を含むとされたため、そのまま釈放された。
▽私は事実上の無罪判決だったと解釈している。
▽だとしたら、判決が確定してしまった今、川本さんは当時の状況を、今一度書いても良いのではないか。このコラムを読み、私はそう思った。
◎参考文献→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印した40年の記憶」
★261マンモス公団住宅の再生
▽埼玉県草加市の草加松原団地は全国有数のマンモス団地で、完成当時から注目を集めていた。しかし居住者の高齢化と建物の老朽化で寂れた団地のイメージが定着した。そんな中、都市再生機構(UR)が団地再生事業に取り組み、松原団地はこの数年前に再生事業が完成。全く見違える団地群になった。その歴史を振り返る記念式典「自治会設立60周年」が2023年10月27日、地元の獨協大の施設であった。長い時間をかけた栄枯盛衰の物語だった。
▽松原団地は1962年に入居を開始した日本住宅公団(当時、現在は都市再生機構)の賃貸住宅だ。324棟、5926世帯は完成当時、東洋最大規模のマンモス団地として注目を集め、庶民の憧れの建物だった。しかし建物の老朽化が進み、私が埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に赴任して、この団地の取材を始めた時は、建て替え事業が部分的に進んでいた。
▽私は2014年11月にこんな原稿を書いていた。
《「たった1回の建て替えで、人間関係がなくなる。それまで住んでいた場所は1棟16軒でほとんどが顔見知り。それが全く知らない場所に来てしまった」
▽新しい団地の建て替えが進む草加市の草加松原団地。その一角の「コンフォール松原」13号棟12階に住む男性(67)は、2年前にここに引っ越してきた当時のことを思い出す。
▽川口市からこの団地に転居してきたのは11年前。1階の2DKに妻と二人暮らしを始めた。東武線で東京・六本木に通うサラリーマンだった。まだ建て替えの話は出ていなかった》
《しかし建物の老朽化が進み、建て替え事業が部分的に進み、男性も引っ越しを余儀なくされた。「それまで地べたが見えた生活から、いきなり12階でしょ。しかも知り合いが全くいない。戸惑いましたよ」と男性は振り返る。
▽しかも家賃が倍になった。生活のため、サラリーマン生活を終えた後、再び東京で働き始めた。
草加市で人口に占める65歳以上の高齢者の割合は、約21%。松原団地では40%に達する。男性が暮らす13号棟は108世帯入居しているが、「若い40~50代は1割ぐらい」(小林さん)という高齢者が多く住む建物だ。一人暮らしも多い。
▽松原団地では2005年、13人もの人間がひっそりと亡くなった。ほとんどが高齢者で、いわゆる孤独死の走りだった。孤独死はその後も続き、その対策として団地に住む人たちが3年前に立ち上げたのが、「見守りネットワーク」だった。安否確認のための定期訪問に加えて、部屋の掃除や病院への付き添いなど様々な要望をボランティアスタッフが請け負う。
▽高齢化、孤独死、孤立、生活苦。友達もいない高層団地。行政はそこまで面倒を見てくれない》
《高齢者が高齢者を助け合う。行政は手伝ってくれない。住んでいる人間が生きていかないといけない。そんな目的のコミュニティーづくりはまだ始まったばかりだ》
▽その取材から5年後の2018年には、「戻り入居が完了した」と宣言している。再生事業が終了したことを高らかにうたった。
▽獨協大のイベントのために私が訪れた今の団地は、風景が全く変わった別の町並みになっていた。全国に点在するかつての公団住宅で、こんなに再生が進んだのは異例だ。私がかつて住んでいた千葉県柏市の豊四季団地は、草加松原団地とほぼ同じ時期に完成したが、まだ旧団地と新団地が混在していて、再生事業は続いている。草加松原団地は住民の協力もあったからこそ進んだのだろう。
▽その60年間の歴史のうち、特筆すべきは水害との闘いだったことだ。団地は水田のど真ん中に造ったため、排水能力が低く、団地はしばしば水害に遭った。
▽1974年7月には台風8号で団地全体が浸水した。1979年10月には台風20号で周辺の川が氾濫し、団地の90%は浸水。さらには1981年10月、台風24号で団地全体が2日間水没するなど、水害は続いた。
▽まさに松原団地は水害との戦いでもあったのだ。
▽ 記念式典で自治体会長を務めた男性はこう振り返った。
▽「水に始まり、水で終わった」
★257書類送検と追送検は意味が違う
▽新聞を読んだりテレビニュースを見ていると、時折首をかしげたくなるよう表現に出くわす。間違っていないとしても、新聞表現としては間違っている例を、警察用語で見てみよう。
▽今回は、「書類送検と追送検」を考えてみる。
▽2023年10月24日昼に流された朝日新聞デジタルを見てみよう。
《大手中学受験塾「四谷大塚」の元講師の男2人が教え子2人への盗撮容疑で逮捕された事件で、警視庁はこのうち森崇翔(そうしょう)容疑者(24)について、別の教え子の小学生3人を盗撮した疑いで、24日にも東京都迷惑防止条例違反容疑で書類送検する方針を固めた。捜査関係者への取材でわかった。
警視庁は他にも4人前後の教え子を盗撮した疑いがあるとみており、同条例違反や性的姿態撮影等処罰法違反の疑いで書類送検する方針。被害者は当時7~12歳の9人程度になる可能性がある。
捜査関係者によると、森容疑者は5月以降、当時講師を務めていた四谷大塚の都内の教室の教え子だった女子児童3人を盗撮した疑いがある。
森容疑者が、教え子以外の少女の性的な画像データなど1万点以上を所持していた疑いも判明。鑑定の結果、画像のうち少なくとも3人は18歳未満と判断し、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑でも書類送検する。森容疑者がネットなどで入手したとみている。
森容疑者は、当時9歳の女子児童を盗撮した容疑などで8月に逮捕され、この児童への強制わいせつ容疑などで再逮捕された。同僚の元講師の男(27)と共謀し、当時7歳の女子児童を盗撮した性的姿態撮影等処罰法違反容疑でも逮捕された。
森容疑者は教え子数人の写真や住所などをSNSへ投稿しており、警視庁は10月、森容疑者を個人情報保護法違反容疑で、法人としての四谷大塚も情報管理が不十分だったとして、同法違反容疑で書類送検した》
▽昼のニュースでも民放やNHKも同様に報じていた。
▽このニュースの何がおかしいのか。
▽そう、「書類送検」としたことだ。
▽書類送検とは身柄送検とは違い、書類を検察庁に送り、最終処分を検察庁に委ねる手段だ。身柄は在宅で、在宅起訴になったり、不起訴になったり、起訴猶予になったりする。
▽一方の身柄送検とは、警察が逮捕し、48時間内に身柄を検察庁に送る手続きだ。
▽話がややこしくなるのは、事件が広がりを見せて、警察が同じ容疑者を何回も逮捕する場合だ。逮捕と身柄送検を繰り返すと、法律上の身柄は警察から検察庁に何回も行ったり来たりする。「警察が再逮捕」「警察が再々逮捕」と報じるのは、こんな状態を指す。
▽一方で再逮捕しない捜査手法もある。身柄は検察庁に置いたまま、その後の警察の取り調べや捜査の結果、新たな容疑が見つかった場合、容疑の書類を追加して送る。手続き上は書類を送るだけだから、「書類送検」なのだが、身柄は検察庁にあるため、つまり在宅ではないため、これを「書類送検」とは言わない。新聞では「追送検」という言葉を使う。
▽こんなことを私は若いころ、徹底してたたき込まれた経験があるから▽今回の朝日新聞記事のように間近って使われると、非常に気になる。厳しい表現だが、勉強不足以外、何物でもない。
▽今回のニュースでは、民放のニュースでも「書類送検」という言葉を使っていて気になったが、朝日新聞までが使っていることに、さらに驚いた次第だ。
▽私は24日のツイッターにこう指摘した。
《大手塾四谷大塚の講師に新たな容疑があったとして、警視庁が書類送検したと民放が伝えていたが、これは「追送検」だ。既に身柄が検察にあり、釈放されていないので、書類送検ではない。NHKは正しく「追送検」と報じていた》
《我が朝日新聞も情けないことに「書類送検」だった。勉強不足だな》
▽警察の発表したリリースをそのまま検証しないで報じると、こんな誤りが出てくる。「書類送検」と「追送検」は全く違う意味があるのだ。このことを知らないデスクがいて驚いた経験もある。
★249新聞のサッカー用語とシステム
▽朝日新聞に勤務していた時、サッカーの「システム」という言葉が使えなかった。使ってはいけない、というルールがあるのだ。このため、システムと言う言葉は、「布陣」という言葉に書き換えられた。
▽新聞社には、それぞれの独特のルールがある。朝日新聞の場合、サッカーの記事で省略が許されるのは次の文字だ。
▽フォワードならFW、ミッドフィルダーならMF、ディフェンダーがDF、ゴールキーパーはGKだ。また、コーナーキックはCK、フリーキックはFKと略していた。一方では使ってはいけない省略もあった。他社では使っているが、センターバックをCBとは書けなかった。サイドバックをSBとも略せなかった。
▽センタリングとは書けず、クロスで統一していた。
▽朝日新聞には以上のようなルールがあった。
▽そこでシステムという言葉だ。システムとは、1トップとか2トップ、4バック、3バックなどの選手の配置に使う言葉だ。例えば「きょうのシステムは4バック、1トップとなった」などと解説する時に使うのだが、朝日新聞はしばらく、このシステムという言葉は使ってはならないというルールがあった。システムの変更を行ったとは書けず、布陣の変更を行った、と書き改めた。おそらくカタカナの多用を避けるためだったと思われる。
▽またボールのことを「球」と表記していたし、原稿を直された。
▽だけど、こうしたルールは時折破られる。私が紙面を見ていても、システムという事は時折登場していたし、クロスという言葉ではなく、センタリングと言う言葉を使ったりする。
▽所詮ルールなんて破られていくものだと変に感心してしまった。
★246裁判判決の予定稿
▽新聞記者にとって、予定稿とは締め切り時間との闘いで必要となる作業の一つだ。取材を終えてから原稿を書き始めては遅いための手段だ。ただ予定稿と言っても、選挙記事と裁判記事では全く異質な内容だ。今回は裁判予定稿について、書いてみよう。
▽1971年8月、埼玉県和光市の陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官が殺害された朝霞事件に絡んで、強盗致死、公務執行妨害、住居侵入罪の共謀共同正犯に間われた新左翼活動家で元京都大学経済学部助手の竹本信弘被告(ペンネーム滝田修)に対する判決公判が1989年3月2日の浦和地裁(当時・現さいたま地裁)刑事1部301号法廷であった。
▽この時の判決は午後1時からで、夕刊最終版、当時の朝日新聞は夕刊4版の降版時間が午後1時半だった。つまりわずか30分の余裕もなかった。降版時間とは、言葉通り、「版を降ろす」という意味で、記者が書いた原稿を支局デスクが見て、本社デスクが手を入れて、さらに整理部に届けられて、その記事を紙面に組み、紙面が完成し、この紙面で印刷しますよ、という文字通り、編集作業の最後の時間だ。判決を聞いて、そこで原稿を書いていても、間に合わないのだ。
▽判決が午後1時になったことに対して、私が勤務していた朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)のデスクは怒っていた。
「なぜこんな時間に判決を出すんだ」
▽その矛先を私にもぶつけてきた。八つ当たりに近かった。降版時間直前の判決では、紙面展開が難しいと考えたのだろう。裁判所の判決は裁判所が決めるのであって、我々報道陣が決めるのではない。
▽私は予定稿を書く取材を進めていた。
▽これまで計92回の公判で検察、被告・弁護側双方が争ってきたのは、謀議があったかどうか、だった。それを証言しているのは、事件の実行グループの一人、元日大生の供述だけだった。この供述の信用性を認め、謀議があった、と判決が認定してしまえば、竹本被告は有罪になるし、逆に否定されれば、無罪のはずだった。
▽私は関係者の取材を続けた。どう考えても、これは無罪になるしかない内容だった。検察関係者までが「縮小認定される」と予測していたのだ。
▽私が事前の取材を元に書いた予定稿は3本だった。有罪と無罪、そして事実上の無罪だ。事実上の無罪とは、実際に逮捕されて、それまで拘置所に拘束されていた拘束時間より短い懲役刑なら、そのまま未決勾留日数がカウントされて、そのまま釈放される、という意味だ。
▽判決はこうだった。
「被告人に懲役5年を処す」
▽杉山忠雄裁判長(当時)は、落ち着いた声で判決の主文を言い渡した。実刑だった。しかし求刑15年に対して、わずか5年。
▽判決の骨子はこうだ。
「検察側が主張してきた謀議の存在は、なかった。それを証言する元日大生の供述は信用性がない」
「しかし、第三者を通して電信為替で送った現金四万円は、ほう助と認められる。よって被告人はほう助にあたる」
▽縮小認定とは、起訴された内容のうち一部だけ事実を認めるというものだ。訴因変更はしないが、ある意味で起訴事実の多くを否定したことにもなる。懲役刑を下したが、未決勾留日数をカウントすることで、釈放される。予測通りの判決だったのだ。
▽朝霞事件が発生したのは、爆弾事件の幕開けと言われた1971年である。この年の8月22日午前2時過ぎ、陸上自衛隊朝霞駐屯地内で、パトロール中の自衛官が殺害され、腕章などが盗まれているのが見つかった。現場には、「赤衛軍」と書かれたヘルメットやビラ、旗が残されていた。
▽県警は事件の実行グループ主犯格として本日大生ら3人を強盗殺人容疑で逮捕するとともに、事件背後に、当時マスコミで有名だった竹本がいた、としてターゲットを絞っていくのである。朝霞事件の実行犯の供述からか、この元日大生が竹本としばしば会っていたことから、県警の照準は竹本に向けられていった。
▽翌年1月になって県警は竹本を東京・練馬の米軍グランドハイツ襲撃未遂事件に関して強盗予備の疑いで指名手配する。
▽竹本の元々の指名手配容疑は、朝霞事件に関してのものではなかった。実際に起きた朝霞事件ではなく、その直前に元日大生らが東京・練馬の米軍グランドハイツを襲って銃を奪おうと計画したものの未遂に終わったという「グラントハイツ未遂事件」で、事件を謀議し、逃走資金を渡した、という容疑だった。元日大生の供述から、県警が発表したもので、朝霞事件との関連は、この未遂事件の時効が成立直前になって県警が出して来た。
▽指名手配されたことから、竹本は地下に潜行する。潜行したことから、県警は怨念に近い捜査を進める。
▽竹本はこうした県警の必須の捜査をかいくぐって10に及ぶ逃亡生活を続けるのである。この間支援者に支えられて論文を発表したり、『ただいま潜行中』という本を出版したりして、捜査当局をいらだたせていた。
▽予定稿はこうした事件の背景を元に、3本書いていった。そして「事実上の無罪」という予定稿が使われた。
▽朝日新聞のその日の夕刊の判決記事を読んだ同業他社の記者が、私にこう聞いてきた。
「朝日新聞は大幅な降版延長をしたのか」
▽私はとぼけたが、降版延長など全くしていなかった。それでもほぼ完璧な予定稿が完成できたことを、他社が認めてくれたことになる。
▽裁判予定稿を勘違いしている記者も多い。形だけ原稿を書いて、判決部分だけ下駄字(〓〓〓)にすればいい、と思い込んでいるデスクが本社にもいた。そうではないのだ。予定稿を書くには、かなりの取材が必要だし、何本も用意する必要があるのだ。
◎参考文献→『取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶』(原裕司、東京図書出版)
★243新聞記者の財布の中身
▽新聞記者になってしばらくしてから、「財布の中にはいくら入れてますか」と後輩に聞かれたことがある。私は確か数万円かな、と答えた。まだクレジットカードも普及してない時代、ある程度の現金を持つ事は必要だった。しかしこの数万円というのは少ないことだと、後になって知った。
▽業界は全く違うが、商社マンは現金をいくら財布に入れるべきか、と聞かれて、ある大先輩がこう答えたのだそうだ。
「10万円プラス、自分の年齢掛ける1000円」
▽つまり30歳だったらば、13万円、40歳だったら14万円を持つようにということだった。
▽こんなに持ち歩くのか、と私は当初は思ったが、確かに必要な金額だ、と思い直したことがある。急な出張や急な接待、偶然、すれ違った仕事先の関係者と飲みに誘う時、ある程度の現金は必要だったからだ。
▽私もこんな経験がある。ある支局に勤務している時、1人で飲みに出ようとして、飲食店街を歩いていたら、知り合いの所轄の刑事と偶然すれ違った。せっかくだから飲みにいきましょうよ、と言って誘った。
▽そんな時、当然、金は私が持つ。飲食をしてカラオケを誘えば、それで数万円になってしまう。現金は必要なのだ。会社には請求出来ないが、取材の個人的な必要経費でもある。刑事と飲み歩く、というこんな時代もあった。
▽一時期は、スナックなどでツケというのが流行っていた。その場で現金は支払わず、金は全てボーナス払いという時代もあった。ツケがいいのは、その場の支払い額を相手に知られることなく、ごちそうできる点だ。相手が額を気にしていたら、楽しい席が台無しになる。
▽もっともボーナス日になると、スナックのママさんたちが、大挙会社に来て、現金を請求するから、ボーナス日が怖い、という先輩も多かった。
▽今はそんな時代ではないのだろう。ツケなど聞いたこともない。
▽そんなわけで、私もある時から財布にはある程度大きな金額を入れるようになった。
▽そしてクレジットカードが普及するようになってからは、少しずつ持って歩く現金が減った。
▽さらに言うと、東日本大震災以来、被災地ではクレジットカードが全く使えなくなったことなどから、また現金を多めに持つようになった。通信回線やインターネットが使えなくなれば、クレジットカードやキャッシュレス決済が全くできなくなるためだ。
▽この数十年で新聞記者が持ち歩く現金は多くなったり、少なくなったりする。
★242「スマホで新聞」は無理
▽ちょっと衝撃的だった。『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史、光文社新書)を読んで、そう思った。
▽かつては映画館で上映される映画を、映画館に行って観ていた映画が、レンタルビデオになり、レンタルDVDになり、そしてネット配信されるようになった。これに伴って、自分の好きなシーンだけを見る利用者が増えてきたことを、やや憂いながら、その理由と時代背景を紐解いていったのが、この本だ。
▽この現象を批判する人間と受け入れる人間がいて、作り手の意図が伝わらないと批判すれば、つまらないからいけない、など擁護する意見もある。どうも作り手と見る側の考えがどうにもならないほど、乖離してしまったいるようにも思えた。
▽映画も最近は説明する言葉が多くなり、早送りする人間は結論を早く知りたいとまでいう。
▽私が衝撃だと言ったのは、これを新聞読者に例えたらどうなるのか、ということだった。
▽最近の読者離れの加速化は激しいが、こういう早送りする人間に、現在の新聞の作り手は全く対応していないのだ。
▽新聞はじっくりと読むのを原則に作っていて、早送り人間には向かない。
▽つまり新聞など読まないのだ。
▽だとすれば、朝日新聞が進めている朝日新聞デジタルはどうか。朝日新聞は現在、異様に映るほど合理化を加速して、地方取材網を縮小して、人員削減に力を入れている。部数は激減している。そこで志向している戦略は、スマホで朝日新聞ニュースをみてもらう将来図だ。
▽しかし、だ。
▽スマホで朝日新聞デジタルをじっくりと読むのだろうか。映画を早送りする世代など、スマホでじっくりと新聞を読むことなどないのだ。この本が証明している。
▽じっくりと読んでくれる読者がいるなら、ここまで部数は激減しない。
となると、やはり朝日新聞幹部は今後の新聞の未来像のベクトルを見誤っているとしか、言いようがない。そんなことを感じてしまう新書だった。
★237朝日新聞の原発路線
▽朝日新聞はかつて原発を推進する立場を取っていた。本社科学部の部長や記者が中心として、キャンペーンも実施し、無批判に推進路線を取り続けていた。
▽それに「否」を行ったのが、朝日新聞から発刊していた朝日ジャーナルだった。原発の危険性をずっと指摘し、批判していた。
▽朝日新聞の本紙が推進し、週刊誌の朝日ジャーナルが否定するのだから、よくいえば言論の多様性を保っていたと言うべきだろうか。
▽面白かったのは、そうした朝日ジャーナルに、原発を擁護する投書が多く寄せられるようになったことだ。原発を無批判に擁護する女性記者の名前を持ちだして、原発は安全だと主張する投稿だった。
▽今考えると、組織だった投書なのだろう。原発推進派が組織として投書を繰り返して、「安全」「安全」だと繰り返す。当時はインターネットやSNSなどない時代だから、マメに投書で繰り返すしかなかったのだろう。
▽しかし、米国ではスリーマイル島の原発事故が発生し、その投書のウソがあっという間に分かってしまった。
▽その時も原発推進路線を続ける朝日新聞科学部長と、ニューヨーク特派員だった記者が、テレビの番組で対立する意見を言い争ったことがある。故筑紫哲也が外報部デスク時代に司会を務めた「こちらデスク」という番組だった。
▽その時のニューヨーク特派員だった記者がたまたま私が勤めていた支局に遊びに来たことがあり、その時のテレビでの話を聞いたことがある。当時の科学部がガチガチで、周囲の意見を聞き入れなかったと話していた。原発は安全だと信じていたようだ。しかし実際に事故は起きた。
▽その後、ソ連のチェルノブイリ原発事故(当時)でもそして日本でも東電悪福島原発でも事故があり、その深刻さは人類の歴史史上、群を抜いている。原発は危険なのだ。
▽日本政府は、その事故の教訓を踏まえないで、間違った選択をした。
▽朝日新聞は原発推進路線から、否定路線に転換した。これは正しい判断だった。このベクトルを維持してもらいたい。
★235新聞社の取材経費
▽こんなニュースがあったので、新聞社の必要経費とは何かを考えてしまった。2023年9月27日付朝日新聞だ。
《NHKは26日、報道局の30代記者が私的な飲食代を不正に経費請求していた疑いがあると発表した。不正請求は複数件に上るとみられ、外部の弁護士などでつくる第三者委員会を設置して調査する方針。
▽NHKによると、7月に不正請求があるとの情報が寄せられ、調査。昨年知人と飲食した代金数万円を経費申請した疑いがあることがわかった。本人が認めているかどうかについては「調査中のため、回答は差し控える」としている》
▽新聞社と言っても、立場で必要経費の種類が違ってくる。ここでは、あくまでも私のように、地方や本社で一線の記者として働いてきた人間の立場から話をしたい。
▽新聞記者にとって、必要経費は何種類かある。取材に関係するものとしては、タクシーや駐車場料金、取材の移動費用、記事を執筆する道具や環境などの執筆経費、取材相手との交際費、取材するための文献や書籍の資料代、一人支局勤務なら、インターネットや町内会費、ゴミ出し代、光熱費、新聞各紙の代金など支局の経費などだ。
▽一つ一つ見ていく。
▽まずは移動費用。地方勤務ならマイカーが必需品だ。そのマイカーは、個人で購入する。会社にもローンの無利子の融資があるが、あくまでも借金だ。ただし、毎月わずかな車両維持費という補てんとガソリン代の補助がある。マイカー購入費を考えると、かなりの必要経費を個人負担していることになる。また取材に行く際に臨時に駐車場を借りる場合がある。これは後に実費請求する。タクシーは使えるが、地方はもうかなり前からタクシーチケットがない。乗車ごとに現金を支払って領収書で請求する。チケットについては別稿のコラムで書く。
▽本社だとマイカーはない。タクシー、ハイヤー、電車、地下鉄、バスなど移動に伴う経費は、実費請求できる。地方と本社はかなりの格差がある。
▽次に執筆経費だ。取材ノートは会社から支給される大学ノートを使ったが、ボールペンは個人のシャーボを使っていた。これも個人負担だ。パソコンは会社から貸与されたものを使うが、これとは別に私はMacBookProやiPadを使っていたので、これも個人負担だ。
▽取材相手との交際費は自己負担だ。飲みに出た時は、多めに支払ってきた。ただし、記者クラブと官公庁相手の懇親会は、必要経費として時折認めてもらった。限度があった。毎日新聞記者が毎回のように領収書を請求していたのを見て驚いたことがある。
▽取材に必要な資料や書籍は個人負担だった。ただし、本社の社会部などはかなり実費請求が通った記憶があり、やや驚いたこてがある。記者が本を読むのは当然たから、個人負担は当たり前だと思っている。
▽一人支局の経費はほとんど認められていた。光熱費は半額。新聞各紙代金は全額だ。
▽以上のように列記すると、個人負担はかなりあるなと思う。これが新聞業界の実態だ。
★234三菱パジェロイオの故障
▽新聞記者が地方に赴任すると、取材の移動にはマイカーを使う社が多い。そのマイカーで痛い目にあったのが、私が群馬県渋川市の朝日渋川支局に勤務していた時のことだ。三菱自動車の車には二度と乗りたくないと思った。
▽千葉県に住んでいる私の父親が急病になり、入院した。そのため私はマイカーである三菱パジェロイオを運転し見舞いに行くことにした。
▽渋川市から関越道に乗り、千葉に向かおうとした。しかし、車のエンジンがおかしく、アクセルを踏んでも速度が出ない。ガタガタ、という異音もした。危険だと思い、高速道路を降りた。そして近くのガソリンスタンドに寄って事情を説明すると、ノッキング状態だと言われ、三菱系列店に持っていったほうがいいと言われた。地図で探すと、そこから数キロ先にディーラーの店があり、そこで急遽修理を依頼した。
▽ノッキングとは、エンジンの調子が急に悪くなり、速度が出ない、揺れがある、異音があるなどの症状で、ガソリンエンジンが異常燃焼している状態を指す。
▽点火プラグが原因だった。点火プラグを交換してもらい、約1万円の金を払って、店を後にした。その後車の調子が良くなり、再び高速道を走らせて見舞いに行った。
▽しかしノッキングはその数カ月後にも2回も起き、点火プラグを交換するだけで、きちんとした説明はなかった。そのたびに1万円の料金を支払って修理したが、ディーラーに理由を説明し、きちんと直すようお願いした。しかし対応は全くなかった。
▽このため私は三菱自動車に不信感を持ってしまい、その後車を買い替えても一切、三菱の自動車に乗る事はなかった。
▽その後三菱自動車はリコール隠しや不正が相次ぎ、大きな社会問題になったことは多くの人が覚えているだろう。三菱自動車とは、ユーザを大事にしないメーカーだったのだ。
▽あの時きちんと私に対応していれば、私も三菱自動車に対する考えは変わってきただろう。しかし三菱自動車に誠意は全くなかった。
▽あまり文句を言い過ぎると、クレーマーと認定されて、相手にしてくれなくなることもあるから、私はクレーマーにならないようにしていたが、今でも不愉快に思ってる。
▽新聞記者として地方に赴任すると、移動の手段はマイカーである。そのマイカーが故障してしまえば、取材もできなくなる。だからメーカー選びは大切だ。
▽私がこの三菱パジェロイオを購入したのは、新潟県上越市の朝日新聞上越支局時代だ。友人から勧められて、トヨタ車から買い換えた。
「戦闘機から車まで造っているグループ会社だから」
と勧められた。しかし実際にユーザーになって、痛い目に遭った。私は二度と三菱自動車の車には乗りたくない。
▽ついでに書くと、会社はマイカー取材に対して維持費の補助とガソリン代の補助を出す。しかしそれだけでは到底足りない額だ。交通事故に遭っても、修理費補助は安い。本社でハイヤー取材をしている連中がうらやましい。
★231新聞記者と腕章
▽取材現場で新聞記者やテレビ記者が腕に着ける腕章が、腕章ではなくなったのは、いつのころか。若い記者たちは、腕章を腕に着けないようになった。首から下げているのだ。腕に着けている記者はほとんどいない。昔の光景はなくなった。
▽腕章は会社から貸与され、事件事故現場では必ず装着するよう指示された。腕章は腕に着けるから、腕章なのであって、私はずっと最近まで腕章は腕に着ける習慣から外れることはなかった。常にズボンの尻ポケットに入れていて、いつ事件事故が発生しても対応できるようにしていた。
▽それがいつのころか、腕章は首からつるしたネックストライプに着けて、あたかも記者証や許可証のように下げる記者が目立つようになった。それだけではない。地方の若い記者はカメラのストライプに、腕章を着けるようになった。腕章が腕章ではなくなっているのだ。
▽何か変だなと思いつつ、流行なのか、そういう時代なのか分からぬまま、私も最後は腕章を首から下げるようになっていた。かなり頑なに腕に着けていたが、周囲が着けていないから、それに合わせた。
▽記者の腕章を巡っては、過去にいろいろ問題が発生している。千葉県では事件現場で県警の求めに応じて、警察官に記者腕章を渡した社があり、問題視されたこともある。都内ではパソコンとともに腕章をなくした記者がいて、大慌てした経緯もある。もっと以前の話なら、三里塚闘争で「報道」と「社章」の腕章が着けた記者たちに、私服刑事が区別して襲いかかったという歴史もある。
▽腕章は記者の存在を周囲に示す存在証明のようなものだから、勝手に他人に貸したり、なくしたりしないよう、十分な注意が必要だ。悪用される危険性もある。否、悪用されるだけでなく、攻撃の対象にもなりうる。
▽私が勤めていた朝日新聞では、腕章の管理が途中から厳しくなった。なくしたら、始末書を書かされるようになったし、腕章には社員番号を書いて、管理していた。
▽退社とともに返却した。
▽腕章の歴史も、実は民主主義の歴史でもある。
★229災害時の駅の役割とは
▽今から100年前の関東大震災が発生した当時の列車の運行状況や各駅の対応などをつぶさに検証した『関東大震災と鉄道』(内田宗治著、ちくま文庫)は参考になる文献だと思った。
▽多くの列車や路線が被害を受けた。火災も迫り来るこの中で鎌倉駅では大久保駅長が強いリーダーシップを発揮していた。この文庫本によれば、駅長は構内を避難者に開放し、貨物ホームや貨車の荷の中にある食料を避難者に分配する決断をした。
《まず応急策として駅前広場に大釜を運び出し、貨物ホームにあった粳(うるち)玄米と糯(もちごめ)白米を持ち出して混ぜ、避難者へ炊き出しを行った。その夜駅員は一睡もせず、搬出した重要品や駅にある荷の警戒に当たった》
《記録を見る限り、非常時における大久保駅長のリーダーシップはみごとだった。被害状況に応じての各職員の役割の指示、駅構内の開放、駅にあった食料の提供など、中央との連絡が途絶えた中、すべて独断で迅速に行ったようだ。駅とは、その町のシンボルのような場所であり、そこを開放し、貨物は略奪されるのを守るという発想ではなく、逆に積極的に人々へ分け与えた。そのため、各地で発生した略奪などもここでは起きなかった》
▽そう駅とは、街のシンボルであり、集合場所であり、それを知っているから、この駅長は避難民を受け入れたのだ。
▽では、2011年3月の東日本大震災はどうだったか。
▽発生したその日、首都圏のJRは、利用者をすべて締め出した。帰宅難民を締め出した。およそ、公共交通の組織として、やってはいけないことを、やってしまった、と私は今でも思っている。
▽あの日、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局に勤務していた私は、取材で千葉県・東松戸駅近くの取材先の建物にいた。確か首都圏の鉄道の将来図を描くような取材の一環だったと思う。
▽突然の激しい揺れに、「みんな建物から出ろ」という叫び声で、建物に出た。駐車場に止めていた車数台が、激しい揺れで、飛び上がっていた。
▽取材はそこで中断した。
▽やはり、東埼玉支局に戻るしかない。近くの東松戸駅に戻ってみた。東松戸駅はJR武蔵野線と北総鉄道の乗り換え駅だ。私は武蔵野線で直接来たため、そのまま武蔵野線に乗ろうとした。しかし、改札口は早くも閉められ、武蔵野線は不通になっていた。再開の予定は立っていなかった。利用者を閉め出す、というJRの強い意思をもっと感じ取っていれば、帰宅困難になることもなかったかもしれない。
▽私の考えは甘かったのだ。JRはすぐに復旧すると思い込んでいたのだ。しかし1時間たち、2時間たっても、復旧のめどは立っていなかった。
▽ここにいても仕方ないか、と思い始めた。ちょうど駅前には東京・北千住駅行きのバスが来たので、遠回りになるが、これに乗って、北千住からJR利用で戻ろうと思った。
▽北千住駅前に夕方の5時ごろ着いて、やや驚いた。ここでもJRは利用客を閉め出して、常磐線などが不通になっていると掲示板にアナウンスされていた。こういう非常事態にこそ、駅や列車を開放するのが公共交通ではないのか、と私は思った。
▽鉄道が使えないとなると、駅前ホテルに泊まるか、タクシーしかない。
▽仕方なく、タクシー待ちの列に並ぶことにした。5時過ぎから並んだ。1時間たち、2時間たち、3時間たっても、なかなか乗車口まで進まない。私の後方にも次第にタクシー待ちの客の列が出来てきた。
▽そして私がタクシーに乗ったのは、何と日付が変わる午前零時だった。
▽あの日のJRの態度を、私は忘れられない。絶対に忘れない。我々利用者を敵だと排除したのだ。
★225安倍政権の守護神失脚問題《204》の続報・陳述書提出
▽安倍政権時代の「黒の歴史」の一つとして挙げられる「官邸の守護神」黒川弘務の定年延長・検事総長就任画策問題について、私はこのホームページの社会事象編で「204安倍政権の守護神失脚問題」を取り上げた。今回はその続報を書いておこう。
▽この問題を簡単におさらいしたい。簡単に言えば、政権に都合良い検事総長を就任させることで、政権への捜査をストップさせることが出来ると安倍政権が踏んで、検察人事を動かそうとした水面下の事件だ。
▽「桜を見る会事件」などを抱えていた安倍政権は捜査をさせないため、「官邸の守護神」と呼ばれていた東京高検検事長黒川氏を検事総長に就けようと画策した。その処理を当時の辻裕教法務事務次官に任せた。辻事務次官が行った解釈と手法が、「国家公務員法の勤務延長制度を検察官に適用する」というものだった。つまり黒川を定年延長させて、検事総長に就任させるという人事方針を作ったのだ。
▽検事長の定年は63歳であり、黒川は誕生日前日の2020年2月7日に退官する予定だった。一方で、検事総長は約2年で退官となる慣例から稲田伸夫検事総長が慣例通り2020年8月までに勇退すれば、黒川の半年の定年延長によって黒川を後任に充てる人事が可能になる。トンデモナイ奇策だった。定年延長という、一見何のことか分からない東京高検検事長の人事問題が、実は安倍政権にとっての守護神にさせたい思惑を秘めた指揮権発動事件であることを暴いている。かなり露骨に検察庁への人事介入をしていることが分かり、安倍政権の強引さが読み取れる。この水面下のストーリーは、『安倍・菅政権VS検察庁 暗躍のクロニクル』(村山治著、文藝春秋)に詳しいことも前回のコラムで記した。
▽この官邸主導人事に検察OBが反発、国民を巻き込んでSNSなどで反対運動を起こした。関係者には大問題として広がった。
▽ただし黒川氏は賭け麻雀で失脚してしまう。
▽この問題では、神戸学院大学の上脇博之教授が「延長のために作成した文書を開示せよ」という訴訟を起こした。国は「文書は作成していない」として不開示した。このため現在は仙台高検検事長を務める辻氏の証人尋問を求め、裁判所が応じた。
▽続報はここからだ。
▽その証人尋問することになった当時の辻法務事務次官が、大阪地裁に陳述書を提出していた。日付は8月31日付だった。その中で辻氏は「黒川氏の勤務延長を目的としたものとは認識していない」と意見を述べている。
▽こんな重要な話を、朝日新聞東京本社の紙面では伝えていない。私は毎日新聞を読んで知った。
▽その記事によると事務次官だった辻氏は、法務省刑事局から「社会情勢の変化に伴って、犯罪の性質も複雑困難化しており、検察官にも勤務延長の必要性が認められる」との報告を受けた。辻氏本人も「検察官は職務の特異性を有しているものの、国家公務員である」と考え、法解釈の変更はできると判断した、と主張したらしい。
▽毎日新聞は、陳述書の提出を伝えているだけで、その背景にどんなものがあったかは開設していない。しかしこの証言は重要な話だ。12月1日に大阪地裁で証人尋問を行える予定で、この検事総長定年問題は大きな節目を迎えるのだ。
▽日本の司法制度について、権力が露骨に介入した、かなり深刻な問題であることを私は指摘したい。
【再掲載】★204安倍政権の守護神失脚問題
▽安倍政権時代の「黒の歴史」として挙げられる、いわゆる「モリ、カケ、サクラ」問題とは別に、もう一つ挙げなくてはならないのが、安倍政権にとって都合が良かった「官邸の守護神」黒川弘務の定年延長・検事総長就任画策問題だろう。これは歴史として、キチンと記録していかないとならない。
▽この問題は簡単に言えば、政権に都合良い検事総長を就任させることで、政権への捜査をストップさせることが出来ると安倍政権が踏んで、検察人事を動かそうとした水面下の事件だ。
▽「桜を見る会事件」などを抱えていた安倍政権は捜査をさせないため、「官邸の守護神」と呼ばれていた東京高検検事長黒川氏を検事総長に就けようと画策した。その処理を辻裕教法務事務次官に任せた。辻事務次官が行った解釈と手法が、「国家公務員法の勤務延長制度を検察官に適用する」というものだった。つまり黒川を定年延長させて、検事総長に就任させるという人事方針を作ったのだ。
▽検事長の定年は63歳であり、黒川は誕生日前日の2020年2月7日に退官する予定だった。一方で、検事総長は約2年で退官となる慣例から稲田伸夫検事総長が慣例通り2020年8月までに勇退すれば、黒川の半年の定年延長によって黒川を後任に充てる人事が可能になる。トンデモナイ奇策だった。
▽この官邸主導人事に検察OBが反発、国民を巻き込んでSNSなどで反対運動を起こした。関係者には大問題として広がった。
▽ただし黒川氏は賭け麻雀で失脚してしまう。
▽この水面下のストーリーは、『安倍・菅政権VS検察庁 暗躍のクロニクル』(村山治著、文藝春秋)に詳しい。
▽内容は、安倍政権が強引に進めようとした黒川検事総長実現のための水面下の戦いを描いたドキュメントだ。筆者は元朝日新聞編集員委員だ。
▽定年延長という、一見何のことか分からない東京高検検事長の人事問題が、実は安倍政権にとっての守護神にさせたい思惑を秘めた指揮権発動事件であることを暴いている。かなり露骨に検察庁への人事介入をしていることが分かり、安倍政権の強引さが読み取れる。
▽最後は黒川本人が産経新聞記者らと賭け麻雀をしているのが暴露されて辞任したが、そこまで安倍が恐れていたのは、「桜を見る会」疑惑で検察が動き始めるのを警戒し、それをストップさせてくれるのが黒川検事総長というという魂胆だったことが分かる。
▽それ以外にも河井夫婦事件でも検察側の動きに安倍は敏感になっていたと言い、水面下の戦いはずっと続いていたことが述べられている。
▽筆者は後書きで、マスコミ社会部の反応が鈍かったと書いているが、確かに新聞を読んでいても、定年延長問題がどういう意味だったか、当初は私も分からなかった。こういう意味だったのか、と本書で詳しく知った。
▽安倍政権がやりたい放題、権力を駆使して、自分を守ろうとしていたことが分かる事件だった。
▽この問題では、神戸学院大学の上脇博之教授が「延長のために作成した文書を開示せよ」という訴訟を起こした。国は「文書は作成していない」として不開示した。このため現在は仙台高検検事長を務める辻氏の証人尋問を求め、裁判所が応じた。証人尋問は9月にも実施される。この際、正直に真実を話してほしい。
★223取材に家族を同行させてはならぬ
▽東京本社では考えられない驚くべき話をしよう。
▽自分の妻を取材現場に連れていくという人間が、地方にはいることを知って驚いたことがある。取材とは相手も取材者を見ている。そんな事は絶対やめたほうがいい。
▽そんなケースを私は、何回か見てきた。
▽その一つが、ある地方支局の私の前任者だった。
▽再婚したためか、妻を手放したくなかったのだろう。あらゆる取材現場に車で連れて行き、取材中は車内で待たせていた。取材管内が広かったため、車での移動は時間がかかる。妻を1人、支局兼自宅に残しておくことが出来なかったのだろうか。地方町幹部の会見やイベント取材、スポーツ取材、議会など、あらゆる場所に同行させていた、と他社は口をそろえて証言した。
▽取材された方は、たまったものではない、あれはだれなんだ、ということになる。妻だと説明すれば、相手も驚く。何のために来ているのか、といぶかるだろう。
▽地方で取材はほとんどが1人での取材になる。相手から見れば、朝日新聞を代表して取材に来た、と思う。そんな取材者と取材相手には、当然ながら緊張感を生み出す。緊張感の中での取材となる。
▽それが妻がいれば、緊張感はなくなる。相手は遊びに来たとでも思ったかもしれない。
▽ある時だ。支局管内の、日本でも有数な温泉街の観光協会幹部との懇親会になった。車で2時間もかかる場所だから、観光絵協会側がホテルを用意してくれた。その時、私の前任者は妻の宿泊分も要求していた、というから驚く。記者ではない、単なる記者の妻にまで宿泊を用意する義務など、観光協会にはない。しかし、この無理な要求を受け入れた、という。要求する記者の、マナー違反というか、常識外れな行為を、同業他社から後に聞いた時、私は驚愕した。そして恥ずかしいと思った。
▽この前任者、その後は本社の内勤に異動になり、最後は自己破産して会社を辞めた。いい加減な行為がそのまま続いていたのだろう、と私は思った。
▽私の前任者ばかりではない。
▽ある地方のNHK記者も妻を取材現場に連れ出していた。こちらは助手を装った。
▽ある時の話だ。大きな遊具施設が完成し、地元市長や地元の記者クラブの記者が招待され、体験することになった。この記者は妻を自主だと遊具施設側に紹介し、堂々とこの遊具施設を体験していた。
▽相手にウソをついたことになる。
▽万一、事故が発生したら、この助手の存在をどう説明するのだろうか。妻は記者ではないし、第一記者の訓練を積んでいない。相手は記者だと信じ込ませているが、これは詐欺だ。
▽何回も言うが、取材とは記者が行うものであり、そこには妻などの家族を同行させてはいけない。妻が手伝うものではない。
▽そう言えば、私の後輩がイベント取材に子どもを連れて行ったこともあった。これもやっては行けない行為だと私思う。
▽緊張感を持って取材すべし、なのだ。
▽また職場に家族を連れてくるのも、避けた方がいい。
▽以前、社内結婚した女性記者が本社に子どもを連れてきた。夫は社会部長。職場の人間はこの子どもを「かわいい」とちやほやした。
▽しかし夫が失脚すると、職場の人間はこう言い放った。
「職場に子どもなんか連れてくるんじゃないよ」
▽本音が出た、ということだろう。
★222銭湯の値上げと特ダネ
▽共同通信の故原寿雄さんが、かつてこんなことを書いていた。一般庶民が利用していた銭湯の値上げを、ある時、産経新聞が特ダネで書いたことについて、「なぜ他紙は書けなかったのか」と。ちょっとした問題提起だった。
▽当時、また経済成長が始まっていなかった時の話だ。朝日、毎日、読売新聞の記者は、公団の住宅を借りていて、家庭には風呂があったが、給料が安い産経新聞の記者はアパートを借りていて、風呂もなかった。たまたま立ち寄った銭湯の入り口に、料金を値上げする張り紙が貼ってあった。これを受けて、産経新聞が特ダネを取った、と言うのだ。
▽原さんが言いたかったのは、新聞記者も一般庶民と同じような生活感覚を持ち、同じような生活、庶民と同じような目線で物事を見ないと、社会状況は見えてこない。こんなことを言いたかったのだろう。
▽確かに私も新聞業界に入ると、一般社会とは一部でかけ離れた生活を送っていたことがある。
▽例えば、タクシーやハイヤーの利用。取材に行くために、新聞社の東京本社だとタクシーやハイヤーを使う。地下鉄やJRなどは使わない。時間が深夜になり、電車もなくなってしまうこともあり、多くの記者がタクシー、ハイヤーを使っていた。一部では通勤にも利用していた。夜討ち朝駆けがあるから、仕方ない部分もある。
▽これが一般市民だったらそういうわけにはいかないだろう。ハイヤーやタクシーは高くて使えないのだ。
▽だから新聞記者は、時間が許すなら、電車を使うべきなのだ。そして、庶民が何を考えるか知るべきなのだ。
▽ある評論家の自宅に取材に行った時に私が電車を乗り継いで着いたことを伝えると、私の会社の別の記者はハイヤーで来ていたと言われたことがある。ハイヤーに乗ってしまうと、見えてこない部分があるので、と返答した記憶がある。
▽これはスーパーなどの買い物にも使える。庶民の生活実態を知りたいなら、スーパーで売っている肉や魚、野菜などの値段の変動を、目で確かめるのだ。そして何が高くて、何が安くなっているのかを知るのだ。取材の原点だ。
▽新聞社員の給料が一般社員より高くなり、新聞社員でも、都心のタワーマンションに住む人間が多くなってきた。そんな家庭状況で、庶民の生活感覚はわかるのだろうか。
▽銭湯の値上げを産経が特ダネにしたことの意味合いは、今でも教訓になるはずだ。
★220特攻隊の真実
▽毎年夏になると8月15日を終戦日だとして、戦争の特集を新聞やテレビなどが特集を組むが、今回は美化されやすい特攻隊について考えてみたい。選択肢がないのに、志願兵だとして特攻隊を強要し、そのまま戦後も嘘をついてきた当時の責任者の話も知りたいのだ。
▽2冊の本を紹介したい。
▽一つが『不死身の特攻兵』(鴻上尚史、講談社現代新書)だ。
▽9回の出撃命令を受けて、9回とも帰還した特攻兵をインタビューし、ドキュメントとして仕上げた労作だ。特攻を開発した幹部と、特攻を命令した人間、そして命令を受けた人間。開発した幹部も命令した幹部も自分は死ぬことがないのに、死ねと言って突撃させた不毛の戦争論理。そして戦後も嘘をついて特攻精神を発言する元幹部たち。さらには特攻の実際の戦果はあまりにも低くかったのに、数字をごまかして特攻を賛美してきた元軍人たち。悲しいほど、日本の当時の軍人の馬鹿らしさを感じる本だった。
▽特攻兵については、「特攻の母」に関する本などを読んだが、特攻問題をこれほどまでに完膚なきまでに批判できた本は、これまで読んだことがなかった。
▽もう1冊が、『特攻隊振武寮』(大貫健一郎、渡辺考、朝日文庫)だ。
▽上記の『不死身の特攻兵』に触発されて読んだものだが、攻隊の生き残り、つまり突撃できなかった隊員たちが福岡の女子寮に監禁されていた事実を、特攻隊という暗い歴史の中で位置づけるために、特攻隊員の生き残り兵を主人公にしたドキュメントとNHK記者の解説を交互に載せて構成した文庫本だ。本書は2009年に出しており、文庫本は2018年に改題されて出された。
▽特攻隊が自発的に出撃した、と特攻隊を生み出した幹部は嘘を最後まで貫き通したが、多くはそれが嘘であること、特攻の生き残りをその寮で殴り、罵倒した人間が戦後もずっと生きていること、自己肯定していることなどを暴き出した良書だ。感動した。
▽この生き残り兵は巡礼の旅に出て、遺族に真実を告げることまでしていた。
▽この2冊の本で共通するのは、こういうことだ。
▽太平洋戦争末期、日本軍部は兵隊の生命を粗末に扱いながら、選択肢のない志願兵として特攻隊を強要し、無理強いをさせて、殺していったこと、さらにはその特攻隊も失敗続きが多くて、成功例は少なかったこと、幹部は最後の最後までウソを通して、シラを切り、責任を取らなかったことなど、おぞましい事例が列挙されている。
▽太平洋戦争の末期に軍部は馬鹿げたことを平気で行っている事実を忘れてはならない。
▽そしてこの戦争を反省することなく、軍部増強を続けようとしている自公民政権の暴挙を許してはなならいと私は思う。
★219統一教会と地方支局
▽私がかつて勤務していた朝日新聞支局で知り合った議員から電話があった。所属している市議会議員のうち2人が統一教会と関係を持っていた、と言うのだ。統一教会が地方にまでその勢力を延ばしていることに驚く。
▽統一教会は宗教を名乗ったオカルト集団で、信者を食い物にしてきた。表裏一体の関係である勝共連合は、「反共産党」を掲げた政治団体だ。その統一教会と自民党は数十年も、持ちつ持たれつの関係を築いてきた。その矢先に起きたのが、安倍元首相銃撃事件だ。事件の背景を解明し、統一教会と自民党の関係を清算しないと、同じような事件はまた起きる。
▽議員によると、選挙の応援をしてもらったらしい。議員の1人は、
「支援者の1人だ」
と開き直っているという。
▽市議会で調査しようと提案したが、自民党出身の議長に拒否されたという。多くの議員は、統一教会に対する関心を示してくれないとも言う。地方でも統一教会と自民党議員との関係が問われているが、ここまで地方にも統一教会の影が忍び寄っているということだろう。
▽しかし、マスコミの取材は無いようだ。すでに朝日新聞支局は撤退しており、毎日新聞も記者を置いていない。かろうじて地元紙の記者が人いるだけだ。これでは統一教会と議員との関係を追求しようとしてもできない。
▽朝日新聞は次々と地方支局の撤退を進めており、地方に記者を置いていない場所が多くなった。このため地方議会の動きをキャッチできない。地方に記者がいないということは、監視役がいないのだから、地方の民主主義は崩壊が始まる。
▽アメリカでは既に地方から記者が撤退し、地方議会や地方自治体が汚職まみれになっている事例が相次いでいる。新聞社が地方から撤退すれば、地方の民主主義は次第に崩壊していく。これは現実なのだ。
▽こういう事態を、朝日新聞幹部は見抜けないのだろうか。中央政治だけではなく、地方を監視する事は、新聞記者の役目なのに。
▽地方に忍び寄る統一教会の影。私は危機感を覚える。
★216ベンチャーズとジェリーマギー
▽たまには音楽の話を書こう。
▽ベンチャーズのリードギタリスト、ジェリーマギーが亡くなったのは、2019年10月のことだ。その死去を伝える朝日新聞の記事はベタ記事だった。ベタ記事とは、新聞に1段の見出しが立つだけの、小さな記事を言う。私はがっかりした。ベンチャーズと言えば、ビートルズと並んで、日本の音楽界を席巻したグループだ。そのグループで長い間、リードギタリストとして活動したジェリーマギーの功績を伝えない紙面を残念に思った。
▽その後、朝日新聞などの文化面にも注意したが、関連記事はなかった。おそらく音楽担当記者の中に、ベンチャーズの歴史と評価を記事として書く記者がいなかったのだろう。残念に思う。
▽ここでは担当記者ではない私が、追悼記事を書こう。
▽ジェリーマギーと言えば、それまでのリードギターリストのノーキー・エドワースに代わって長い間、ベンチャーズのリードギターとしてグループを牽引してきた人物だ。最後はベンチャーズを離れて、ソロ活動をしていたが、日本のファンにとっては、ノーキー・エドワースとともに人気のギタリストだった。
▽私が好きだった曲は、「十番街の殺人」「テルスター」「京都慕情」など。フィンガーピックで弾くジェリーマギーの音楽には、独特の響きがあった。
▽また「京都慕情」は、「京都の恋」などとともに日本を舞台にした音楽で、ベンチャーズの新しい境地を開いたものとして注目された。
▽ベンチャーズのメンバーは離合集散を繰り返してきたユニットだが、日本のファンにとって、ベースギターのボブ・ボーグル、リズムギターのドン・ウィルソン、ドラムのメル・テーラー、そしてリードギターのノーキー・エドワースの4人が固定されたメンバーであるという印象が強い。私が高校時代に聴いたコンサートでもこのメンバーだった。「ダイヤモンドヘット」「パイブライン」はテケテケ音楽の神髄だった。「クルエルシー」「さすらいのギター」なども好きな曲だ。
▽その後、ジェリーマギーが参加し、長い間、メンバーは固定されていた。
▽悲しいことだが、私が現役の新聞記者時代は忙しかったためか、音楽を満足に聴く環境ではなく、コンサートにも行くことが出来なかった。そんな時間を取ることも出来なかった。
▽このため現役を退いた現在は、YouTubeを中心に、ジェリーマギーの過去のコンサートを見るようになった。やはり、彼の音楽は私を魅了する。サザンオールスターズの「愛しのエリー」「チャコの海岸物語」など日本で人気の曲をインストゥルメンタルで奏でる曲も良い。
▽ところで気になったのは、彼が当初使っていたギターはレスポールだったが、いつの間にかフェンダーのテレキャスターになっていたことだ。音質が違うのかなと思っている。
▽ジェリーマギーが亡くなったのは、ソロ活動として来日していた時だった、と後に知った。葬儀も日本で行い、東京都内に荼毘に付されたといい、日本で眠っている。
▽合掌。
【再掲載】★101「ヤマツル」さん
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた2007年秋の話だ。政界を引退していた「ヤマツル」さんこと、旧社会党の山口鶴男さんが管内の群馬県草津町で健在であることを知り、インタビューをしたことがある。2015年に89歳で亡くなったが、今でも取材内容を鮮明に覚えている。
▽旧社会党衆院議員で、土井たか子委員長時代の書記長。村山連立内閣時代には総務庁長官として初入閣もした。特記すべきは、自民党の福田赳夫(故人)、中曽根康弘(同)、小渕恵三(同)という歴代首相が戦った激戦区、衆院旧群馬三区で11回の当選を果たしたことだろう。政界引退後も、時の政府に対する気持ちは熱かった。その「ヤマツル」さんに、発足したばかりの当時の福田康夫政権などを語ってもらった。以下は当時の取材メモからの抜粋だ。物を見立ててストレートに発言するその様は、まさに健在そのものだった。
▽今回の福田政権誕生で、親子二代にわたって、首相を経験することになりました。康夫さんをどう見ますか。
「2年前の小泉内閣時代に、康夫さんには会っているんだ。ポスト小泉は、康夫さんしかないと思っていた。政権に就いた安倍さんは、予想通り、ブッシュという米国タカ派政権の言いなりで、対日要求をのむだけの外交でしかなかった。そして新保守主義。政権も幼稚園内閣というか、お友達内閣というか、世代交代だけ進めたい連中ばかりだった。だから、アジアを重視した外交政策をしないと、期待を込めて、頑張れと言ってやったんだ。今でもその気持ちでいるよ」
▽お父さんの赳夫さんとは似ているのですか。
「お父さんは戦前からのエリート官僚。旧高崎中学時代でも、『秀才の福田、ガリ勉の中曽根』と言われていたらしい。大蔵官僚出身の政治家らしく、『経済大国にはなっても、軍事大国にはならない』と言っていた。米国一辺倒ではなく、アジアも重視した全方位外交を続けたのも、そうした政治信念があったからでしょう。康夫さんは、そのお父さんの良いところを継いでいるように思えるね。官房長官時代の話し方を見ていると、父親にそっくりだねえ。日米安保も大切だが、アジアを重視して、アジア全域を非核地帯にするような外交も期待したい」
▽父親の赳夫政権はわずか2年と短命でした。
「当時の自民党の派閥闘争の影響だな。首相を退陣した田中角栄が、派閥の力を誇示して、闇の将軍として君臨していた。このため2年で終わった。天の声は変な声もある、と言って、赳夫さんは退陣していったが、上州人というのは、みんな淡泊なんだ。あっさりしている。中曽根さんは違ったが。やはり赳夫さんとは親しかったな。政治信念が、社会党の進める護憲とも通じるものがあった。国会議事堂にある天井の高い床屋で、時折席を並べて髪を切ってもらいながら雑談していたもんだ。赳夫さんが、ヤマツルを呼べと言われて、と床屋のおばちゃんがよく連絡してきたな。2人が親しそうに雑談しているのを見ていた自民党の議員が驚いていた」
▽中曽根さんについては、どう思っていますか。
「政治的なスタンスの違いが、中曽根さんとはあったから、かなりやりとりはした。中曽根さんは、自民党の中でもタカ派で、憲法改正を高々と掲げていた。これに対して私は護憲主義者。戦うしかないと思っていた」
▽中曽根時代には、国鉄の分割・民営化という今でも政治問題として長引いている政策がありましたが。
「あれは、阻止できなかったのは、僕ら社会党の最大の失敗。野党も共闘できず、反対闘争ができなかった。中曽根さんは、当時の総評つぶしに躍起になっていた。その総評の中心が国労だった。国鉄の分割・民営化の本当の狙いが、国労つぶしだったことは、分かっていたが」
▽今でも中曽根さんは、その国鉄分割・民営化の断行を功績としているようですが。
「当時、国鉄を切られて、そして清算事業団にも切られて、いまだにJRに就職できない国労員がいることは、僕も十分に承知している。数年前に、いわゆる4党合意案が出た時、僕は何回も上京して関係者にお願いしてきた。しかし、事態は変わらなかった」
▽当時の売上税でも相当戦いましたね。
「中曽根政権時代に導入しようとしていたのに、直前の衆参ダブル選でも一切触れず、そして所信表明でも触れなかった。この時は野党と共闘して徹底抗戦して廃案に持ち込んだ」
▽故小渕恵三さんについても話してください。
「素直な人だったなあ。八ツ場ダムの建設が動き出した時だった。当時の政治スタンスは、福田が推進。中曽根が必要と言ったり、反対と言ったり。私自身は反対だった。小渕さんが、『福田、中曽根両先生の合意を取り付けて、私に一任すると言われました』と言ってきた。『ちょっと待て』と僕は言ったよ。こんな大きな国家事業を、政治家が簡単に一任するのは思えない。その後、どうなったか分からないが、小渕さんはこんな性格の人だった」
▽「彼に衆院議長就任の話が舞い込んできて、相談を受けたことがありますよ。首相を目指したいなら、断った方がいいよ、とアドバイスした。議長経験者が首相になることは、それまでもないから、そうしたことを話した。彼が首相になれたのは、このアドバイスがあったからかな(笑)」
▽その小渕さんも亡くなり、父親を継いだ2女の優子さんには男の子が誕生しました。
「当時、既に政界を僕自身引退していた。亡くなったのは、残念でしたね。優子さんもご本人が望んで政界に入ったのかどうか。自民党は、後援会がその利権を守るために存在しているから、本人の意思にかかわらず、後援会が政界入りを求めるんだよな。男の子誕生の話はめでたいが、大変だと思うよ」
▽最後に再び、福田政権について語ってください。
「社会党議員だったから期待を込めて言うが、社会民主主義的な政治姿勢を期待したい。野党と対話の努力をして国会運営をしていただきたい」
▽今読み返しても、含蓄した言葉が並んで、一連の政治の流れを読み込むことが出来る。良いインタビューをしたと今でも思っている。
★213北海道新聞夕刊廃止の衝撃
▽北海道新聞が2023年9月いっぱいを持って、夕刊廃止に踏み切る。これまで全国紙の一部や地方紙の一部で夕刊廃止を行った社があるが、北海道新聞のようなブロック紙の夕刊廃止は、関係者にも波紋を投げかけそうだ。
▽まず、当の道新の社告を見よう。
▽《北海道新聞社は9月末で夕刊を休刊し、10月から朝刊とニュースサイト「北海道新聞デジタル」を拡充します。地域に密着した最新のニュース、暮らしに役立つ確かな情報を、新朝刊と道新デジタルを通じて「より速く、より深く」お伝えします。購読料は月ぎめ3800円(消費税込み)です。1部売りは150円(同)です。朝夕刊セットでご購読いただいている方は月ぎめ4400円(消費税込み)から3800円(同)になります。
▽新聞用紙をはじめとする原材料費の高騰や輸送コストの上昇などから、これまで通り夕刊を発行し続けることが難しくなりました。読者の皆さまのライフスタイルの変化、デジタル社会の進展などを踏まえ、紙面のお届けは朝刊のみにさせていただきます。これまで夕刊をご愛読いただいた皆さまには、何とぞご理解をいただきますようお願いいたします》
▽夕刊廃止と道新デジタルの拡充を同時にアナウンスしているが、この二つは全く別物だ。夕刊は紙の媒体であるのに対して、デジタルは夕刊とは全く関係のないデジタル媒体だ。ここに今回の問題が含まれている。
▽紙媒体の読者離れは、全国紙もブロック紙も地方紙も同じように起きている。その読者離れの激しいのが、朝日新聞であったり、北海道新聞であったりしていて、特に夕刊を読む読者が激減し、朝刊と夕刊をセットで契約する読者が激減していた。いわゆる「セット率」の激減だ。つまり夕刊発行は次第に重荷になっていたのだ。
▽日本の新聞社は新聞を自宅に届ける宅配システムを抱えており、総合産業だ。記者が取材をして、デスクが原稿を直し、管理して、整理部が紙面編集をする。これとは別に広告の編集も入り、紙面が出来上がる。編集された紙面は4ページずつ印刷されて、その印刷も新聞社が管理する。そして販売店への発送もトラックなどを使う。販売店に着いた新聞は、アルバイトらの新聞配達によって各家庭に配られる。
▽この一連の流れを、すべてそれぞれの新聞社が管理・監督をしていた。
▽夕刊も朝刊も同じような流れだ。
▽その夕刊部数がセット割れから激減しているため、経営的には「夕刊の廃止」という問題が浮上する。もう何年も前から、浮上していた。
▽しかし、そうした廃止論に対して、広告を担当してきた部署からは、夕刊広告の収入を理由に反対論が出てきて、夕刊の廃止と存続は常に揺れてきたのだ。
▽北海道新聞がこうした論議の中で、夕刊廃止に踏み切ったのは、そこまで経営が厳しくなってきた、と受け止めて良いだろう。私が40年前に北海道新聞に入社した時の部数が110万部で、一時は120万部ほど膨れたというが、現在は80万部も切っているから、かなり深刻な状況だ。夕刊は23万部にまで落ちたとしている。
▽しかも北海道新聞は本社の他、釧路、旭川、函館に発行支社を抱えており、夕刊印刷には人手も金もかけているから、相当な負担になっていたはずだ。
▽つまり、夕刊を切り捨てることで、経営の立ち直りを求めた、というのが正しいだろう。
▽これに対して、道新デジタルの拡充を歌うのは、問題のすり替えだ。夕刊をなくす代わりに、デジタルを拡充するというのは、話が違う。朝日新聞が現在、地方の縮小を猛烈な勢いで進めて、朝日新聞デジタルに力を入れているのは、紙媒体はもう生き残れない、という意思の表れであり、生きる道は朝日新聞デジタルだと経営陣が信じているからだ。紙もデジタルも生き残る、という発想はない。そこが北海道新聞とは違う。
▽いずれにせよ、北海道新聞が夕刊に踏み切ったことで、全国各地の地方紙や全国紙も、その流れを加速することは間違いない。
★212レンズのタムロンと社長の不祥事
▽日刊ゲンダイのネット版にこんな記事が2023年8月31日にアップされた。
▽《東証プライム上場の光学レンズ大手、タムロンは先週22日、鰺坂司郎社長が経費の不正使用の疑いで辞任したと発表した。会社側によると、今年7月9日、同社の内部通報制度の外部窓口に鯵坂社長と社外の知人女性との「同伴出張」を告発する“タレ込み”があり、監査役と社外取締役らで調査したところ不正が発覚したという。
▽「魔が差した」わけではない。鰺坂前社長は「少なくとも過去5年間、この知人女性が関与する店で毎月複数回飲食を重ね、会社から経費を引き出していた」(関係者)とされているからだ。要するに「確信犯」というわけだ》
▽何か情けないというべきか。
▽タムロンは、カメラユーザーなら一度は使ったことがあるかもしれないサードパーティーのカメラレンズ会社だ。ニコンならニコン用のマウントを採用し、広角から望遠レンズまで供給している。純正のニコンレンズに比べて、2−3割は安く、この値段に飛びつくユーザーも多い。
▽最近だと、18−400ミリという、トンデモナイ規格のズームレンズを開発するなど、ユーザーを驚かす商品も出していて、ユニークな会社だと思っていた。
▽私も、純正のニコンレンズが高くて、タムロンのレンズを持っていた時期もある。評価は賛否両面だ。オートフォーカスのピント調整速度が遅い、とか、望遠レンズだとオートフォーカスが合わない、描写が硬い、など。しかし、ニコンの高価なレンズを買うより、安いタムロンのレンズを選択した記憶がある。
▽ヨドバシカメラやビックカメラの店頭に行っても、タムロンを含めたサードパーティーのレンズ会社のレンズはキチンと並べられているし、極端に遜色があるとは店側はアピールしていない。
▽ただ、オートフォーカスなど、カメラの電子化やミラーレスカメラの進化などもあり、ニコンなどのメーカーはその相性も理由にして、サードパーティーのレンズは勧めていない。動かない可能性もあるとしている。
▽ここ何年もタムロンのレンズは使っていないないが、こうした社長の問題行動を知ってしまうと、「もうタムロンもいいかな」と思ってしまう。
▽社長の問題行動に、ユーザーがどのくらい減るのだろうか。ちょっと心配になる。
★210カメラの断捨離
▽40年間の新聞記者生活で、取材で使ってきたカメラを整理するため、過去に2回、数台のカメラを中古店に売りに出したことがある。
▽1回目はフィルムカメラからデジタルカメラへの移行で、朝日新聞の写真システムがフィルムに対応しなくなった時だ。当時私は北海道報道部にいて、デジタルカメラで記録した画像の出稿が当たり前になり、会社の出稿システムもそうなっていた。
▽迷った末に、通常の取材では使えなくなったニコンFE2、ニコンFM2、ニコンF3の3台のカメラと望遠レンズ、ズームレンズを中古店に売った。売ったと言っても、二束三文の値段にしかならなかった。愛着あるカメラで、特にF3はニコンのフラッグシップとされた機種だった。レンズもオートフォーカス時代に入っていて、古いレンズも使えなくなってきていた。苦楽を共にしたカメラだったが、保管する場所もなかったので、手放した。
▽そして2回目は、朝日新聞を退社した時だ。ニコンD100、ニコンD2Hsを2台、ニコンD2Xs、ニコンD3も2台、ニコンD7200を売った。いずれもニコンのデジタル一眼レフカメラで、一世を風靡した機種だ。特にニコンD2Hsは高校野球、サッカー取材で活躍してくれた機種だ。連射のシャッター音が金属的で、頼もしかった。
▽こうして振り返ると、私は会社が貸与してくれたカメラはほとんど使わなかった。会社はフィルムカメラ時代には、自己負担でカメラを買わせていたが、デジタルカメラ時代になってからは、無償で記者全員に貸与していた。しかし、貸与された機種はショボイ機種で、連射は遅いし、画素数も高くなく、私の取材には適していなかった。特に高校野球での撮影には向かなかった。連射が追いつかないのだ。
▽だから個人負担でカメラを買い足して使ってきた。カメラマンだったらいざ知らず、ここまでカメラを買ってきた記者はあまりいないだろうと思う。それだけいい写真を撮影したいと思っていたためだ。いい写真を撮影するには、それなりの機能を備えた機種が必要になってくる。画素数も、シャッター速度も、感度も高性能なものがいい。ニコンD2Hsを初めて手にした時の重さ、ニコンD5を初めて使ったときの質感。その時の感動をいまでも覚えている。カメラマンではないが、これでより良い写真が撮れると確信した。漫画の「ゴルゴ13」ではないが、スナイパーの主人公は自分が使うライフル銃を徹底して使いこなしている。それと同様、道具を選ぶのだ。
▽こう振り返ると、カメラの購入にかなり出費したことになる。ただし無駄だとは思ってはいない。
▽ニコンD5、ニコンD500、ニコンD850はまだ現役のカメラなので手元に残している。ただし出番は激減した。
★204安倍政権の守護神失脚問題
▽安倍政権時代の「黒の歴史」として挙げられる、いわゆる「モリ、カケ、サクラ」問題とは別に、もう一つ挙げなくてはならないのが、安倍政権にとって都合が良かった「官邸の守護神」黒川弘務の定年延長・検事総長就任画策問題だろう。これは歴史として、キチンと記録していかないとならない。
▽この問題は簡単に言えば、政権に都合良い検事総長を就任させることで、政権への捜査をストップさせることが出来ると安倍政権が踏んで、検察人事を動かそうとした水面下の事件だ。
▽「桜を見る会事件」などを抱えていた安倍政権は捜査をさせないため、「官邸の守護神」と呼ばれていた東京高検検事長黒川氏を検事総長に就けようと画策した。その処理を辻裕教法務事務次官に任せた。辻事務次官が行った解釈と手法が、「国家公務員法の勤務延長制度を検察官に適用する」というものだった。つまり黒川を定年延長させて、検事総長に就任させるという人事方針を作ったのだ。
▽検事長の定年は63歳であり、黒川は誕生日前日の2020年2月7日に退官する予定だった。一方で、検事総長は約2年で退官となる慣例から稲田伸夫検事総長が慣例通り2020年8月までに勇退すれば、黒川の半年の定年延長によって黒川を後任に充てる人事が可能になる。トンデモナイ奇策だった。
▽この官邸主導人事に検察OBが反発、国民を巻き込んでSNSなどで反対運動を起こした。関係者には大問題として広がった。
▽ただし黒川氏は賭け麻雀で失脚してしまう。
▽この水面下のストーリーは、『安倍・菅政権VS検察庁 暗躍のクロニクル』(村山治著、文藝春秋)に詳しい。
▽内容は、安倍政権が強引に進めようとした黒川検事総長実現のための水面下の戦いを描いたドキュメントだ。筆者は元朝日新聞編集員委員だ。
▽定年延長という、一見何のことか分からない東京高検検事長の人事問題が、実は安倍政権にとっての守護神にさせたい思惑を秘めた指揮権発動事件であることを暴いている。かなり露骨に検察庁への人事介入をしていることが分かり、安倍政権の強引さが読み取れる。
▽最後は黒川本人が産経新聞記者らと賭け麻雀をしているのが暴露されて辞任したが、そこまで安倍が恐れていたのは、「桜を見る会」疑惑で検察が動き始めるのを警戒し、それをストップさせてくれるのが黒川検事総長というという魂胆だったことが分かる。
▽それ以外にも河井夫婦事件でも検察側の動きに安倍は敏感になっていたと言い、水面下の戦いはずっと続いていたことが述べられている。
▽筆者は後書きで、マスコミ社会部の反応が鈍かったと書いているが、確かに新聞を読んでいても、定年延長問題がどういう意味だったか、当初は私も分からなかった。こういう意味だったのか、と本書で詳しく知った。
▽安倍政権がやりたい放題、権力を駆使して、自分を守ろうとしていたことが分かる事件だった。
▽この問題では、神戸学院大学の上脇博之教授が「延長のために作成した文書を開示せよ」という訴訟を起こした。国は「文書は作成していない」として不開示した。このため現在は仙台高検検事長を務める辻氏の証人尋問を求め、裁判所が応じた。証人尋問は9月にも実施される。この際、正直に真実を話してほしい。
★202「死刑囚の秘密通信『足音が近づく』」
▽死刑囚からの大量の秘密通信を掲載した本『足音が近づく』が立風書房から出版されたのは1979年だった。拘置所の検閲をかいくぐり、大量に残された手記と手紙を編集し、1冊の本にまとめたもので、死刑問題に関心を持つ人間には衝撃的な内容だった。
▽その年の前後は、戦後の死刑問題を考える上で、非常に多くの話題が提供された時期だった。獄中にいた死刑確定囚のうち4人が実は冤罪だったことが、裁判で認定され、次々とその死刑確定囚たちが再犯請求をして無罪を勝ち取り、数十年ぶりに獄中から出てきた。免田事件の免田栄さん、財田川事件の谷口繁義さん、松山事件の斉藤幸夫さん、島田事件の赤堀政夫さんが無実となって、生還した。死刑確定囚が冤罪だったという衝撃は大きかった。逮捕当時には犯人扱いしていたマスコミは、今度はヒーローとして取り上げ、一転して逮捕した警察官、起訴した検察官、そして判決を出した裁判官に批判の矛先を向けた。
▽この『足音が近づく』はそんな死刑問題の矛盾が吹き出した時に出されたものだった。獄中にいた死刑確定囚の小島繁夫が、外部交流していた女性に充てた手紙と手記を、その女性の知り合いである人間が編集したもので、いつ処刑されるかもしれないという恐怖感に直面している死刑確定囚の本音が凝縮されていた。タイトルの『足音が近づく』は、死刑執行の刑務官の足音が近づく恐怖感から取ったものだった。
▽当時、私は新聞業界に入る前で、フリーライターのまねごとをしていた。本を編集した市川悦子さんに連絡し、話を聞くことが出来たのは、出版から間もなくのころだった。
▽市川さんは当時を振り返っている。
「初めて見せられた時は、正直って驚きました。好奇心もあったし恐ろしくもあった。最初から死刑が執行されていくシーンがあり、なかなか読み進めなかった。読み始めて2,3カ月はジンマシンが出て、1年ほどは治りませんでした」
▽でも読んだ以上は責任があるとして、市川さんは知り合いを通じて東京都内の出版社に持ち込んだ。それが立風書房だった。
▽私は同社の編集者にも話を聞いて、この本を紹介しようと、「噂の真相」(当時)に売り込んだ。岡留安則編集長が快諾してくれて、記事を掲載してもらった経緯がある。死刑問題に関心がある研究者やジャーナリストから、この本は注目されていた。
▽そして歳月が流れた。死刑囚の問題は未だに多くが隠されて、法務当局は死刑囚の実態を一切公開していない。そしてこの本が絶版になったと知ったのは、かなりの歳月が流れていた。私は朝日新聞記者として、死刑問題の記事を書くようになっていた。仲間と連載記事も掲載した。
▽貴重な証言をそのまま眠らせたくない、と私は考えた。再び市川さんと連絡を取り、市川さんの気持ちを確認した上で、復刻出版する道を探った。インパクト出版の深田卓社長が引き受けてくれて、1997年に新たに出版された。
▽初出版から40年以上が経過するが、死刑確定囚の置かれた状況は当時と全く変わっていないことが、気になる。
★200安い原稿料【再掲載】
▽インターネット上で原稿を書くライターの原稿料の値段を聞いて驚いた。1文字につき0.1円から0.2円なのだ。つまり400字詰め原稿用紙に直すと、わずか40円から80円にしかならない。いつからこんなに低い値段に設定されているのだろうか。仮に月に100枚分の原稿を書いても、4000円から8000円。こんな安いなら、原稿を書いても書いても、生活費を稼ぐことが出来ない。お話にならない金額だ。
▽私が新聞記者になる前、フリーライターの真似事をしていた。この時の原稿料は400字詰め原稿用紙1枚で1000円から1万円ぐらいだった。やはり小さな出版社は低かったし、大きな出版社は高かった。大手出版の月刊誌などは1枚につき、1万5000円を出している社もあったほどだ。
▽当然、この原稿料の中には、取材料も含まれていた。だから、当時のルポライターたちは、競って、いろんな雑誌に原稿を書いていた。
▽月に100枚書いたとしても、収入となれば10万円から100万円で、名の売れたライターたちの収入は悪くなかったはずだ。
▽では実際に、1カ月にどのくらいの原稿が書けるのだろうか。取材する時間も必要だから、私の経験則からして、せいぜい100枚が限度だ。取材時間が長引けば、執筆する時間がなくなるから、そう簡単に原稿を出すことは出来ない。当時はまだワープロもパソコンもなかった時代で、原稿用紙に手書きで原稿を書くという作業は、かなり疲れるものだった。
▽こうやって振り返ると、今のインターネット上でライターをしている人の生活が心配になってくる。
▽だれもが自由に書き込める時代だから、逆に安くたたかれるのだろう。ライター希望者が多いから、買い手市場になっていく。
▽考えてみれば、ヤフーやグーグルのようなプラットフォームが、新聞記事を無償で集めてホームページにアップすることが当たり前のようになってしまい、記事は無料だという意識が染みついてしまったように、フリーライターの記事も無料のような意識があるのではないか。
▽文章を書くという知的作業が、安く買いたたかれるのは、どう考えても危険だ。ライター希望者は、このことを肝に銘じてほしい。
★197S君との付き合い
▽私が新聞業界に入り、いろいろな人と出会った。しかしこんなに長い付き合いはない、という人間を紹介したい。
▽朝日新聞を数年前に退職したS君だ。40年以上も付き合った。こんな長い付き合いする人間もいなかった。
▽私が学生時代、フリーライターという職業を目指していたが、それが難しいことであることを知り、改めて新聞記者になろうと思って試験を受けて合格したのが、北海道新聞だった。
▽入社は1981年4月1日で、その前年秋に内定をもらい、年明けの2〜3月に北海道新聞東京支社でアルバイトをすることになった。
▽アルバイト内容は、都内の私立大学受験生の合格者名簿を共同通信社で閲覧して、北海道分だけ抽出して、書き写し、それを東京支社で原稿として出すことだった。アルバイトは私1人だけだった。
▽東京・銀座に当時あった北海道新聞東京支社に寄って、アルバイトの説明を受けた後、翌日から当時の共同通信社があるビルに行き、大学合格者の名簿を閲覧し、それを北海道分だけ抽出する作業が始まった。
▽毎日のように通うようになると、私だけではなく、同じように北海道分を抽出している学生がいた。S君だった。彼は、当時まだあった北海タイムズ社に入社内定が決まっており、私と同じようにアルバイトをしていた。
▽毎日のように顔を合わせてアルバイトをしていたため、少しずつ話をするようになった。そして、最後のアルバイトが終わり、また北海道で会おう、と言い合って別れた記憶がある。
▽そして4月1日からの札幌市の北海道新聞本社研修があった時、そのS君はー同じ札幌市で北海タイムス記者の研修を受けていた。研修の一環として、当時あった北海道拓殖銀行(通称・拓銀)などで、記者会見に出るなどして、札幌市での再会を喜んだ。
▽そして研修が終わって、私は北海道新聞小樽支社報道部に配属が決まり、それ以来、彼との付き合いはなくなった。後に聞くと彼は帯広支社に転勤になったという。
▽そして7年後、私は北海道新聞を辞めて朝日新聞社に移り、振り出しが当時の浦和市(現さいたま市)の浦和支局となった。浦和支局に1年半勤めた後、今度は宮城県塩釜市の朝日新聞塩釜支局に赴任することになった。
▽赴任に伴う引っ越しで、仙台市のデパートで買い物に出かけた時だ。
▽何とそこにS君が買い物客でいるではないか。偶然再会したのだ。最後に会って以来8年半が経過していた。聞くと、何と彼も朝日新聞に転職しており、しかも同じ宮城県の迫町の朝日新聞迫駐在記者として仕事をしているというのだ。こんな偶然があるのか、と私は思った。同じ県内で仕事をするなんてと驚いてしまった記憶がある。
▽その後月日は流れ、私は東京本社で彼と同じ部署になり、そして新潟県上越市の上越支局を経て、北海道報道部に転勤になった。するとどうだろう、S君はしばらくして北海道報道部デスクとして転勤してきたのだ。また付き合いが始まった。
▽当時、私は報道部で遊軍記者としてスポーツ担当もしていた。
▽そんな時、北海道に移転してきたのがプロ野球の日本ハムファイターズだった。担当デスクはS君だった。
▽日本ハムの移転を記念して、正月の新年号は特集紙面を8ページ作り、私は当時のプロ野球ご意見番の大沢親分こと、大沢啓二(故人)、札幌ドームを舞台にした漫画を描いていた漫画家の水島新司(同)、旭川出身でスローカーブを勝負球として投げてきた阪急ブレーブス投手、星野伸之らを登場させるインタビューを行い、紙面化した。みんな有名人でアポを取ることすら難航した。
▽さらには最終的には大リーグからの出戻りである新庄剛志が新加入し、その新庄の話を中心に連載記事も書いた。担当はS君だった。
▽その後、彼は私より早く退職して、札幌市に永住することを決めた。
▽今年夏も、私は北海道旅行に行き、彼と会い、旧交を温めた。
▽そんな彼が日本ハムの正月紙面作りを振り返って私にこう言った。
▽「気難しい原ちゃんに取材要請してよかった。腰は軽いし。若い記者には出来なかっただろう。感謝している」
▽褒められたのか、けなされたのか。
★196ジャンボ機墜落の小説とノンフィクション
▽日航ジャンボ機墜落事故で、事故を扱った小説「クライマーズ・ハイ」やそのドラマ、映画を私が推薦するのは、事件の全容を描いたノンフィクションやドキュメンタリーが意外と少ないためだ。「クライマーズ・ハイ」は小説とは言え、地方新聞社を舞台に、事故に関する人間ドラマの全容を描いており、これが私の推薦する理由だ。
▽筆者の横山秀夫は2017年8月の朝日新聞記者のインタビューでこう答えている。
《――520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から今年で32年になります。
▽この時期になると今も気分が沈みます。テレビで特別番組があってもリアルタイムで見る気になれなくて。録画はするんですけどね……。
▽――当時、最も御巣鷹の現場に通った記者だと聞いています。
▽地元紙ですから、事故直後から2カ月近く、ほぼ毎日登りました。記者を辞めたあとになって、出版社の人から「御巣鷹の現場の惨状をノンフィクションで書かないか」と声をかけられたことがありました。引き受けましたよ。当時は作家デビューをしそこね、マンガの原作もうまくいかず、経済的に困窮していました。あさましい話ですが、「これを書けば世の中に出られるかもしれない、チャンスだ」と思ったんですね。
▽――「クライマーズ・ハイ」の前にそんな作品があったなんて、初めて聞きました。
▽いや、書き上げていません。というか、ほとんど書けなかった。一報を聞いて墜落現場に向かい、8時間かけて山を登って到着し……そこで筆がぴたりと止まって。現場を書こうとするたび嘔吐(おうと)して。あの事故を踏み台に世の中に出よう、生活費を得ようなんて考えた自分に押しつぶされたんでしょうね。それで誓いました。金に困っていない時に改めてあの事故と向き合おうと》
▽筆者の鎮魂歌という訳だ。
▽例えば、朝日新聞から出た「日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時」(朝日文庫)。これはこの墜落取材に携わった記者のドキュメントだが、事故発生からのわずかな時間帯のドキュメントであり、4人の生存者をダブルカウントして7人だと多くのマスコミが報道する中、朝日新聞だけはダブルカウントに気づいて、夕刊では「4人生存」だとぎりぎりに報じることが出来たなど、生々しい描写もあるが、その後の被害者の人間ドラマを伝えていない。
▽読売新聞記者が事故調の流れを書いた書籍を出しているが、あくまでも事故原因を追及した内容で、ジャンボ機墜落の全容を描いたわけではない。
▽元客室乗務員が自衛隊機による墜落説を何冊もの本で力説しているが、これも説得力を持たない内容だ。
▽2014年8月には、フジテレビが日航ジャンボ機墜落で「生存者が今明かす“32分間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”」と大々的にうたった番組を放映している。しかし期待はずれの内容だった。世界最大の民間機墜落で、番組は関係者からより鮮明なボイスレコーダーの内容を入手し、それをアメリカの専門機関に依頼し、解析したところ、3回の爆発音があり、それを元にジャンボ機が圧力隔壁から壊れていき、墜落したという航跡を示した。しかし、史実に基づくドキュメントと思ったら、途中からドラマになり、フィクションになってしまい、いい加減な作りの番組になっていて、がっかりした記憶がある。
▽強いて言うなら、「日航機123便墜落 最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)を薦めたい。
▽ジャンボ機墜落から30年以上が経過した時期に共同通信記者が、米国のジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。
▽筆者は話を聞くことが出来る人間は聞き回って、この本は完成度の高いルポルタージュになっている。ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
▽そして私も読んだ元客室乗務員の自説「自衛隊機による墜落説」はおかしいこと、読売新聞の事故調の流れを書いた筆者にも会って取材をしていること、「123便の機影が消えた」という時事通信の第一報が特ダネで、用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであること、川上慶子ら4人が生存している映像を最初に放ったのは、フジテレビのクルーで、原稿を送った人間の両親が2人とも日航客室乗務員だったことなどを盛り込み、その記者として人生まで語らせている。「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
★195終戦日とは何か
▽毎年8月15日が近づくと、新聞もテレビも終戦日記念の特集を組むが、そもそも8月15日は何の日だったのか。『増補 八月十五日の神話』(佐藤卓己、ちくま学芸文庫)は、無批判のまま「8月15日」を終戦記念日だとするマスコミなどの論調を批判し、政教分離として9月2日を平和の日を制定するよう提唱する内容だ。かなり勉強になった。
▽歴史の流れを簡単に整理すると、こうなる。
▽日本が日中戦争、最近はアジア戦争と称する論調もあるが、この15年戦争を終えて、ポツダム宣言受け入れを表明したのは8月14日だ。
▽翌日の15日は昭和天皇による玉音放送が流れただけである。
▽そして8月16日に武装解除の命令があり、この間、一部の陸軍は徹底抗戦を呼びかけて、降伏を阻止する動きもあった。
▽9月2日に東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印をしている。世界の常識ではこの9月2日こそが、戦争終結の日なのだ。
▽だとするなら、8月15日は何なのかと筆者は読者に問いかける。
▽政府は戦後間もなくして8月15日を戦没者追悼式と決めただけであり、それ以外に何もない。
▽雑誌「世界」が8月15日特集を20年間続けた影響も大きいが、玉音放送を根拠とする終戦の日に意味があるのか、と筆者は訴える。
▽その玉音放送も、漢文調で難解なため、後のアナウンサーが解説しないと国民は意味が分からなかった。
▽この本では、8月15日前後の新聞の「やらせ」から始まり、8月14日、15日、16日、9月2日の意味を国内外の戦勝者、戦敗者の立場から解析し、教科書問題まで取り上げて、その神話を追求した。意味ある本だと思った。
▽なお、玉音放送を巡って抵抗を続けた一部陸軍の動きは、『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文春文庫)に詳しい。終戦時の首相や大臣の動き、陸軍や近衛兵のクーデター、敗戦受け入れの玉音放送、それを阻止する陸軍、近衛兵、鎮圧する軍隊など大変に参考になる本だ。特に最後の最後まで、録音された玉音放送のレコードを隠す側とそれをさせない側の攻防がものすごい。近衛兵のトップを暗殺し、さらにはレコードを奪って徹底抗戦した動きを検証している。戦争の狂気に走った日本帝国陸軍の最後の暴走がよく分かる。
★194デジカメと記録メデイア
▽スマートメディアやメモリースティック、コンパクトフラッシュカード、SDカード、XQDカード等々。デジタルカメラの進化とともに、画像を記録する記録用メディアも進化してきた。現在はSDカードが主流だが、プロ仕様のカメラなどでは、XQDカードなどシロウトには馴染みがあまりない全く別のメディアも登場し、追いつかないのが現状だ。利用者が混乱している現状を、メーカーはもっと是正してほしいと私は思っている。
▽カメラメーカーは、カメラ本体のシャッター速度や連射速度を上げるために、本体の改良のほか、記録メディアの書き込み速度を向上させる技術開発を進めてきた。ゼロコンマ何秒の速度を上げるために、記録メディアもどんどん新しいものにさせてきた。ここで言う「メディア」とは、記録用メモリーのことだ。マスコミを指すメデイアではない。
▽こうした技術の向上は、プロカメラマンには嬉しいが、プロではない単なるカメラ愛好家にとっては、非常に困っているのが現状だ。記録メディアが次々と新しくなり、しかも高価で、大量に購入できないのだ。
▽それゆえ、普及することが出来ないため、単価が安くならない。ニコンやキャノンがプロ仕様のカメラで使っているXQDカードなどは、それを使うカメラの普及が出来ないから、一般的に広がりもない。単価は1−3万円と高いまま推移している。
▽どうしてこんな状態になってしまったのか。
▽私が思うのは、カメラメーカーの戦略の結果なのだろう。カメラ付きスマートフォンの普及で、一般のカメラの出荷台数が激減していて、カメラメーカーは、プロ仕様の高価なカメラを主力商品として位置づけているのだろう。だから、プロ仕様のカメラ本体も次第に高価となり、メディアも高くなってきている。プロにとっては、商売道具なので、ある程度の出費は仕方ないと思わせているのだろう。
▽しかし、これではカメラ愛好家やシロウトはたまらない。あまりに高額すぎて、手を出せないのだ。
▽しかもだ、撮影した画像をパソコンにコピーする場合、この記憶メデイアに対応したアダプターが必要になる。今のパソコンはウインドウズマシンもアップルのマシンも、SDカードのスロットを備えていることが多いが、それ以外の記憶メディアからのコピーには、アダプターを用意しないとならない。
▽私が高校野球取材で、バックスクリーンから打席ボックスの打者を撮影した際に、撮影画像を後輩に渡して、号外新聞を作る作業があったが、その後輩のパソコンはSDカードのスロットしかなかった。作業効率を考えると、書き込み速度が速いXQDカードを使いたかったが、SDカードを使った経験がある。
▽それほど、XQDカードの普及はしていないのだ。この現状をメーカーはどう考えるのだろうか。
▽SDカードは記憶メディアの中では、一番普及が進んだ。単価も非常に安くなってきている。しかも高速の書き込み、読み込みも出来るようになったSDカードもある。このSDカードを使うことが出来るカメラがもっと出てほしい。
★190ジャンボが消えた【再掲載】
▽「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」
▽1985年8月12日、羽田空港から大阪空港に向かった日航123便、ジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落した大型事故の第一報をこの短いフラッシュ記事として他社に先駆けて打ったのは、時事通信だった。世界最大事故を伝える最初のニュースだった。
▽小説「クライマーズ・ハイ」でも、群馬県警記者クラブで主人公が勤める新聞社の部下が時事通信の第一報を盗み聞きして、デスクの主人公に伝える場面がある。「ジャンボ機が消えた」。ドラマ化された中でも有名なシーンだった。
▽私も第一報が時事通信だとは知っていたが、そのレベルの知識しかなかった。新聞社と通信社は似ているようで、仕事の内容はかなり違っている。通信社はフラッシュに代表される第一報の速報が仕事の中心であり、新聞社は第一報よりは雑観記事や解説に重きを置く仕事が中心だから、時事通信のその第一報も、通信社の通常の仕事として発信したに過ぎないと思っていた。
▽しかし、それは大きな誤解だった。
▽この時事通信の第一報を流した記者は、ジャンボ機に異常が生じ、迷走してダッチロールが続いている状態で早くもその情報をキャッチし、裏を取って第一報を流していたのだ。「日航機123便墜落▽最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)にその取材の詳細が載っている。異常が発生してからわずか15分でその事実をつかんでいるのだ。同書によれば、当時の羽田空港にはNHKと共同通信、時事通信の記者が常勤していたが、NHKも共同通信も不在のことが多く、この日は本人しかいなかったという。そんな中で、羽田、所沢、大坂、周辺の空港の管制体制をすべてチェックして、第一報を打ったというのだ。まさにダブルチェックをした上でのフラッシュ記事だった。用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであることを知った。私は自分の勉強不足を恥じなければならなかった。
▽ついでに書くと、この本はジャンボ機墜落から30年以上が経過した時点で書かれた本だ。米国から見たジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。筆者は共同通信の記者として、話を聞くことが出来る人間は聞き回って、本書は完成度の高いルポルタージュになっている。
▽ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」
と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
★188ニッカウヰスキー
▽北海道余市町のニッカウヰスキー工場に見学に行ってきた。NHKの朝ドラ「マッサン」の舞台にも登場したウイスキー工場だ。正確には「ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所」という。ニッカウヰスキーの歴史と伝統が分かる施設になっていた。昔行った時に比べて、全く違う施設になっていた。
▽ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所は、日本人で初めてスコットランドでウィスキーの製造技術を身につけた竹鶴政孝が1934年(昭和9年)に建設した。以来、伝統的な製法でモルト原酒を作り続けている。ニッカウヰスキーの歴史の紹介や、有料試飲コーナーのある「ニッカミュージアム」もある。建物は重要文化財に指定されている。
▽ドラマでもあったように、単身でスコットランドに渡った竹鶴が、理想の建設地を求めて余市の土地を見つけて、第一の蒸溜所建設の地とした。
▽ホームページではこう説明する。
《学んだウイスキーづくりを一切の妥協なく再現するため、スコットランドに似た気候と自然環境を求めた竹鶴が数多くの候補地の中から選んだのが、北の大地。小樽の西、積丹半島の付根に位置する余市だったのです》
▽私が新聞業界に入った時、ウイスキーと言えばサントリーだった。ダルマと呼ばれたサントリーオールドや角瓶、サントリーレッドがウイスキーの全てだった。途中からホワイトというウイスキーも出てきた。
▽これに対してニッカウヰスキーは影が薄かった。札幌ススキノのネオン街の店に入っても、店に並んでいるウイスキーのほとんどがダルマだった。ニッカウヰスキーなど見かけなかった。
▽それが何年も経過したころから、ニッカのモルトウイスキーが並ぶようになった。次第にダルマが放逐されていった。
▽なぜあれだけダルマが並んでいたのだろうか。そしてなぜニッカウヰスキーが脚光を浴びたのだろうか。
▽やはりそれはウイスキーの独特な香りを、ニッカウヰスキーが追求した結果だろう。オールドなどは水割りで飲むウイスキーであるのに対して、ニッカウヰスキーは香りを楽しんで飲む。これが次第に日本人にも受け入れられたのだろう。
▽現在、スーパーに行っても、オールドや角瓶は並んでいるが、日本の各地で生産されたウイスキーも並んでおり、さらには海外から輸入されたウイスキーも並び、好きな人は好きなものを買っていく。オールドや角瓶だけがウイスキーではないのだ。そんな時代になった感じがする。
▽オールドが盛んに売れた時代、さらに高級なウイスキーと言えば、オールドパーやジョニ黒があったが、庶民には手が届かなかった。そんなにうまいものでもなかったような気がする。
▽ここ数年は、ウイスキーを飲み方としてロックのほか、ハイボールという飲み方もある。炭酸で割ってしまうから、ウイスキーの香りもなくなり、そんなに高級ではないウイスキーで良いのだ。
▽そんなわけで、今日も私は少し酔っている。
★187閲覧数と乖離するルポ
▽『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣、毎日新聞)というソフトカバーの本を読んだ。高齢で身元不明のまま死亡した女性が大金を残していた事実に注目して、共同通信記者2人が、その女性の身元を調べて、ルポしたものだ。ネットでは配信した記事がヒットしたらしく、書籍化に伴って、宣伝文句も「話題の記事」となっていたが、正直言ってつまらない内容だった。
▽「行旅死亡人」とは「こうりょしぼうにん」と読む。引き取り手が存在しない死者を指す言葉で、身元が不明のまま行き倒れている人のことをいう。
▽筆者の記者2人は、この女性の名前が本物なのか、大金をなぜこんなに持ち合わせていたのか、契約したアパートの契約者が男性になっていたが、同居していたのか、結婚していたのか、残された写真に写っていた男性は何者なのか、残されたペンダントに暗号のような数字は何なのか、と自問して取材を進めていく。北朝鮮とか、高級車とか、大金などのキーワードをちらつかせるが、結局何も出てこなかった。分かったのは、本人の名前が本物で、親戚がいた事実で、身元が分かった、というだけ。単なる身元不明の身元探し。完成度は低いルポだった。
▽ネットで閲覧数を稼いだからといって、それが完成度の高いルポになるとは限らない好例だ。
▽この本を読んでいて、私の記者仲間がこんなことを話していたことを思い出した。
▽「今の出版業界は、SNSで話題になったものを優先的に出版する。編集者の力が落ちている」
▽確かにそう感じる。
▽こうしたネットでのプレビューを稼いだものを本にしてしまう、というのが、今の出版業界の問題点だろう。
▽しかしネットでヒットしたり話題になったからといって、それはネットを積極的に見ている人間に受けただけであって、思わせぶりなことだからヒットしたに過ぎない。こうして1冊の本としてまとめると、完成度が低くなってしまったのは、ネットでの話題がそのまま完成されたルポにはならないと言うことなのだろう。お手軽なものが本になっていくという現実を見てしまった感じがする。
▽ちょっと残念な傾向だ、と私は思ってしまう。編集者も売れるかどうか読めない時代になっているということか。
▽最後にアマゾンでのプレビューを引用する。この話に私も同感する。
《「行旅死亡人」というからホームレスの行き倒れを想像したが、独居老人の孤独死である。
▽住民登録がなく身元が不明だが多額の現金が残されていたので、相続財産管理人に弁護士が選任されているが、それ以上の事件性は何もない。
▽にもかかわらず、著者ら共同通信の記者が興味関心を持って死者の身元を粘り強く追跡する。「沖宗」という変わった姓のハンコから身元を割り出していくその調査と労力は大変なもので、ベテラン記者の調査活動の実態とそのプロ意識はよくわかる。
▽しかし、事件性の全くない個人のプライバシーをここまで暴き、実名と写真を多数掲載することには大きな疑問を感じる。
▽一応事件性らしきものとしては、北朝鮮のスパイとの関わりがわずかな可能性として示されているが、結局、たんなる憶測の域を出ていない。
▽この独居老人の孤独死を追跡して報道することに、どのような社会的意義があったのか?
▽身元判明後に警察は取材に全く協力しなかったというが、個人情報の扱いという観点で警察の対応が正当である》
★182なぜ新聞記者を目指したのか
▽若い人に、なぜ新聞記者を目指したのか、と質問されることがある。私はそのたびに、
「日本のマスコミ、日本のジャーナリズムの中で、新聞記者が一番ジャーナリストらしい仕事をしているからだ」
と答えている。
▽私は学生時代、新聞記者ではなく、フリーライターを目指していた。目指したというか、フリーライターの真似事をしていた。取材して書いた原稿を雑誌社に持ち込んで、記事にした。その報酬として原稿料をもらったのだが、その原稿料だけで生活ができるとは思えなかった。やはり大手のマスコミに行かないと、ジャーナリズムという職業を続けることはできないんだ、と思った。
▽当時の朝日新聞の大先輩からは、
「フリーランス、フリーライターなんか絶対生活できない。新聞記者を目指した方が良い」
とアドバイスされたことも大きい。例えば当時の雑誌の原稿料は400字詰め原稿用紙1枚で1000円から3000円ほど。仮に20枚書いたって2万円から6万円にしかならない。この中には移動費用などの取材費も含まれるから、実際の収入はもっと少ない。
▽それに比べると、新聞記者は会社の肩書で取材をして、その移動費用の経費は会社持ちだ。これは大きいと思った。フリーライターと新聞記者の違いはここにある。
▽また私はテレビ局も選択しなかった。テレビ局は入社しても、報道だけではなく営業や広告など、人事異動ですぐ回されてる組織で、希望通りずっと記者を続けることができない。また視聴率を気にするあまり、まともな取材活動ができるとは思えなかった。
▽出版社の雑誌編集部で働くことも考えたが、雑誌の方向性と、私が目指すジャーナリズムには大きな格差があり、雑誌記者という選択肢も入れなかった。
▽そういうわけで私は新聞記者を目指し、新聞記者になり、新聞記者を続けてきた。
▽その選択に間違いはなかった、と私は思っている。
▽その新聞社が衰退の道を歩んでいくのが私には悲しい。
★179地方版の題字下
▽改めて朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の地方版を見比べた。題字下を読むだけで、朝日新聞が県内の取材網を強引に縮小させたことが分かる。私はさいたま市に住んでいるため、埼玉版を比較する。
▽朝日新聞埼玉版の題字下からは、さいたま総局以外の支局の連絡先が消えていた。かつて通信局と称していた1人勤務の支局も、複数の記者がいた準支局も、電話番号もファクス番号もなくなった。あるのは支局名だけで、廃止した所沢支局の名前はなくなっていた。
▽読者には不親切な変更だと思う。西埼玉支局(川越市)は廃止し、駐在記者を置く事になったし、所沢も支局をなくした。このことを全く伝えていない。取材体制が縮小することを、何か後ろめたさを持って行ったように感じる。こっそりと、かつ強引に行ったことが分かる。
▽連絡先が書かれていないと、読者は地元の記者に情報の提供も出来ないし、問い合わせも出来ない。販売店関連の連絡も出来ない。すべてさいたま総局が受け持つとしたら、それは相当の負担になるはずだ。
▽さらに言うと、西埼玉支局長、東埼玉支局(越谷市)の支局長、廃止された所沢支局長の人事異動も伝える記事を載せていない。極めて不自然な紙面だと思った。支局長人事はこれまで朝日新聞地方版で必ず掲載していたのに、掲載しない理由も説明していない。対外的に大事な話なのに、だ。
▽おそらく、本社幹部の指示で行ったのだろう。一部の批判を承知の上で、実行したのだろう。ここまでやるのか、と私は朝日新聞OBとして驚く。
▽これに対して、読売新聞も毎日新聞も題字下の県内の取材網をキチンと掲載を続けている。朝日新聞のように取材網の強引な縮小はしていない。毎日新聞は県内の記者の人事異動を伝える記事を載せている。極めて親切な扱いだ。
▽朝日新聞はこんな急激な取材体制の縮小で、何を目指すのか。
▽かつての上司がこんなことを言ったことを思い出す。
「地方版ニュースは外注に出せばいい」
▽この上司は地方支局の位置付けを勘違いしている。外注に出したり、地方支局を縮小したりすれば、地方を監視する力は確実に弱まる。政官財の汚職まみれを暴露したリクルート事件の発端は、朝日新聞横浜支局のスクーブから始まったことはご存じだろう。現場は地方にこそあるのだ。地方取材は捨てろと言うことなのだろうか。
★175原稿用紙とインターネット
▽最近のインターネットのホームページにアップされる文章やメールを見ると、違和感を覚えることがある。
▽日本語の文章なのに、英数字だけが半角文字の羅列だ。漢字と平仮名を全角で打っているのに、英数字だけ半角になる。数字は洋数字だからという理由だろうか。
▽私が新聞社に入った時は、まだ原稿用紙に原稿を書いていた時代で、ますに1文字ずつ書いていた。数字も漢数字だったから、全角の文字を使っていた。縦書きの原稿だったから、半角の数字などあり得ない。原稿用紙は1行15文字で、ペンや濃い鉛筆で新聞原稿を書いてきた。
▽そんな習慣が身についているので、横書きの半角文字が非常に気になる。
▽気になるのはまだある。
▽原稿の冒頭や改行後の段落の初めに、全角のスペース文字をいれてないケースが時折目に付く。例えばヤフージャパンにアップされた新聞やテレビ局の記事を見ると、一部のテレビ局の記事は、全角のスペースを全く入れていないまま文章が続く。段落の冒頭は常に1文字開けるのが日本語のルールだが、それが出来ていない。
▽おそらく、インターネットの普及で、横書きが多くなり、本来は縦書きの日本語が歪められてきているということなのだろう。またホームページの仕様で、原稿がすべて左寄せになってしまい、全角のスペースを自動的に削除されてしまうか、半角のスペースが入ってしまうのかもしれない。
▽私は今年2月から自分のこのホームページ「新聞記者▽封印40年の記憶」を立ち上げて、ほぼ毎日新しいコラムをアップしてきたが、その原稿をテキストエディターで作ってアップすると、なぜか全角のスペースキーを入れたはずなのに、潰れてしまい、半角にもならないスペースに変換されていく現象に驚いた。ホームページがそういう仕様になっていて、これを止める方法は見つからなかった。
▽このため対策として、全角スペースを「▽」に置換して、アップするようになった。了解してほしい。全角スペースを全角スペースとして掲載することをだれか教えてほしい。
▽ワープロソフトも、かつての「一太郎」から「ワード」に切り替える出版社も多いと聞く。「ワード」はマイクロソフトが開発したソフトで、元々は英語を元に作られたソフトだ。1行の文字を15文字とか20文字とか設定する発想はなかった。1行15文字と決まっている日本の新聞社の原稿用紙とは相容れない発想だった。
▽パソコンとインターネットの普及で、新聞社からは原稿用紙がなくなった。各社は市販のものではなく、それぞれ独自の原稿用紙を使っていた。なくなったことで、日本語のルールが守れなくなるとすれば、悲しいことだ。
★174創価学会と統一教会
▽私が小学生だったころ、母親が創価学会に入会した。信者とみられる創価学会側の人間が夕方、定期的に自宅の団地の一室に来ては、お経のようなものを読んでいたことを思い出す。創価学会の新聞である聖教新聞を10部取れと言われ、10部代の新聞代金を支払っていた。実際には1部しか配達されず、残りの9部の代金は創価学会に取られたことになる。あこぎな商法だったと今でも思う。
▽そのころの私の母親は、精神的に不安定だったようだと、今は思う。夫婦げんかが絶えなかったし、生活も不安定で、母親は朝から晩まで働いていた。不安定な精神状態に、創価学会はつけ込んで、「新聞をいっぱい取らないと、不幸になる」とそそのかしたのだろう。
▽だから私は今でも創価学会のお経を途中まで唱えることが出来る。自慢ではないが、それだけ子供心に入ってきたのだろう。宗教は怖いと思う。
▽なぜ今そんなことを話すかと言うと、安倍元首相襲撃事件の容疑者が、犯罪の動機として統一教会に恨みを抱いたことを供述していることが、私の記憶と重なったためだ。母親から多額なカネを巻き上げて、家庭がどん底に落ちていた事実を語っている。統一教会も昔から信者を不安にして、カネを巻き上げることを得意としていた。襲撃事件の容疑者が、統一教会で恨みを抱いていた理由を、私にはすぐ理解できた。統一教会とその表裏一体となった勝共連合は、「反共」を掲げており、それを自民が利用し、利用された。容疑者が元首相に恨みを抱いていたのも納得出来る。
▽もちろん容疑者の取った行動は犯罪である。これは許してはならない。しかし統一教会と自民党の政治家が「反共」でつながっている点では注目しなければならない。そして自民の補完勢力となっている公明党と創価学会の関係も再度注目する必要がある。
▽一方で気になったのは、容疑者が逮捕された時、警察は「特定の宗教団体」と言うだけで、多くのマスコミは当初、統一教会の名前を出そうとしなかった。不思議に思った。それだけ統一教会の反発を恐れていただろう。
▽ここで思い出されるのは、統一教会の霊感商法をかつてキャンペーンした朝日新聞社の朝日ジャーナルだ。徹底したキャンペーンは1年以上続き、その反動で、朝日新聞本社の代表電話や編集部の電話に統一教会からの抗議が殺到し、電話が使えなかったことだ。業務妨害も度を超していた。それでも朝日ジャーナルはジャーナリズムとして戦い続けた。
▽正面からの批判が出来ない、という点で、NHKはもどかしい。自民党は逃げている。マスコミは今後、統一教会をどう追求していくのだろうか、期待と不安が重なる。
★170維新議員の当選無効
▽2023年春の統一地方選で、埼玉県議選南1区で初当選した維新の女性議員が当選無効になったと7月14日の毎日新聞埼玉版が伝えた。特ダネのようだ。記事によれば、居住実態がなかったという。情けないというか、やはりというか。さすが維新と言うべきか。
▽元々は当選無効だとする有権者からの申し立てがあった。
《申出の趣旨
▽令和5年4月9日執行の埼玉県議会議員一般選挙(南第1区 草加市)における当選人である中村 美香氏の当選無効を求める。
▽申出の理由
▽本件選挙の当選人である中村美香氏は被選挙権(住所要件)を有していないとして、同人の当選無効を求めるもの。本件選挙における被選挙権に係る住所要件は、埼玉県の区域内の一の市町村の区域内に引き続き3か月以上住所を有していたことがあり、かつ、その後も引き続き埼玉県の区域内に住所を有していなければならないが、同氏に係る住所要件には疑義があるため》
▽これに対して、県選管は居住実態をつぶさに調べた。住民票の推移、光熱費の使用量、銀行口座の出金記録などを調査し、「当選無効」だと結論づけた。
▽県選管の決定書では、中村氏の生活の本拠が、前年12月26日から1月31日までの37日間は埼玉県三郷市内に、2月1日から選挙期日の4月9日までの68日間は草加市内にあったとし、県内の同じ市町村に3カ月以上続けて住んでいなければならないとする規定を満たしていないと断定した。
▽決定を受けて、地元埼玉新聞はこう書いた。
《中村氏の主張では、実母および妹と居住していた東京都内から、昨年10月2日に実父とその妻が住む三郷市内に生活の本拠を移した後、新たな居住先が決まったことから、12月26日に同市内の別の住宅に転居。実父の家に居住実態があったかどうかが争点だったが、県選管の担当者は「電気・水道・ガスの使用量や銀行口座の出金記録などから総合的に判断した」と当選無効に至った経緯を説明した》
《中村氏は14日、自身の交流サイト(SNS)に「県選管による当選無効決定の件、ご心配おかけして申し訳ない。私に議席を与えて下さった有権者の方々の気持ちを考えると心苦しい。日本維新の会の党本部とも協議し、来週以降に本件の説明や今後の対応をご報告させていただく」と投稿した》
▽当選無効の決定は7月18日付の官報に掲載され、不服がある場合は30日以内に限り高裁に提訴できる。当選無効が確定すれば、次点で立憲民主党公認の小森克己氏が当選者となる見通しだ。
▽今回の決定を受け、日本維新の会県総支部(高橋英明代表)は「有権者および関係者の皆さまにご心配をおかけし、心よりおわび申し上げる。決定内容を精査し、本人および党本部とも協議して迅速に対応方針について検討する」とコメントを発表した。
▽維新は初議席を失うことになる。
▽そもそも、この南1区という選挙区は、難しい政治状況にある。埼玉県草加市が選挙市区だが、市議選、市長選、衆院選を巡って、自民と立憲との複雑な思惑と駆け引きがあり、その隙間を縫って今回の維新女性候補が立候補したようだ。
▽県議選で言えば、元々は自民、公明、立憲の3人が議席を守ってきたが、当時の市長不信任案を巡る駆け引きで市長が失職。前後して立憲の女性県議が衆院選に転戦。県議選では立憲が別の女性候補を立てて議席を守ったが、元市長が県議選に出たため、自民が議席を取ることが出来ない状態が続いた。こんな状況に維新が入ってきたのだ。
▽そして衆院に鞍替えした立憲の女性が今度は市長選に出て、攻守が逆転した。市長の夫(故人)が維新だったことも、さらに話を複雑にさせた。
▽おそらく維新は、埼玉県の選挙区をかなり分析して、南1区だったらば、当選する可能性が高いと踏んだのだろうと思われる。そのため急いで住民票を移すなどしたのだろう。野党第一党を狙う維新とすれば、チャンスと見たのだろう。
▽お粗末な立候補で、維新のずさんさが露呈された事件だった。
★169「噂の真相」と岡留さん
▽月刊誌「噂の真相」は1979年3月に創刊され、2004年4月まで発行された雑誌だ。「タブーなき雑誌」を標榜し、政治から右翼・左翼、皇室、文壇までたたき切った雑誌で、マスコミ関係者には注目された人気の月刊誌だった。
▽その編集発行人の岡留安則さんと私が知り合ったのは、私が学生時代で、その時はフリーライターの真似事をしていた時期だった。
▽当時岡留さんは、月刊誌「マスコミ評論」編集長を務めていたが、内部対立からその会社を離れ、雑誌「噂の真相」の創刊準備をしていたころだ。当時、事務所は東京・渋谷にあり、その事務所に訪れたこともある。岡留さんは当時30歳ぐらいだったと思う。
▽岡留さんとの付き合いが始まり、「噂の真相」に原稿を書くようになったが、フリーライターとして食べていくのは難しいことを実感し、フリーライターの道は諦めて、新聞業界に入った。新聞記者になっても、私は岡留さんと時折付き合いをするようになっていた。
▽ある出版記念パーティーで知り合った大物女優の自宅に、岡留さんと2人で遊びに行き、徹夜麻雀をしたことも記憶にある。それが縁で、その女優の息子たちを私が家庭教師をしたこともある。
▽その後も「噂の真相」は、いろいろな記事を掲載し、精力的な活動を私は見てきた。右翼団体に襲撃されたこともある。検察幹部のスキャンダルを掲載し、朝日新聞がそれを報じて、辞任に追い込んだことも、衝撃的なニュースだった。
▽事務所は東京・新宿に移ったが、岡留さんとは新宿・歌舞伎町で何回か飲むこともあり、カラオケにも行ったことがある。
▽その歌舞伎町で、朝日新聞阪神支局を襲撃した赤報隊の関係者だとみられる人間が、あるバーに出没しているの知り、岡留さんがずっとその店を警戒していたことも、後に知らされた。
▽雑誌の性格のためか、かなりの人脈を持っていた。
▽私が朝日新聞上越支局に転勤になった時は、
「(東京都知事になった)石原慎太郎の私生児が新潟県内に住んでいるらしい。調べてくれ」
と言われたこともあった。それが事実だと分かると、当の石原慎太郎は「若気の至りで」と事実を認めてしまったことも記憶に残っている。
▽岡留さんは常にサングラスをかけていて、その素顔を私は見ていない。
▽その後、「噂の真相」2004年4月で休刊し、岡留さんは沖縄に永住した。2019年1月、那覇市内の病院で死去した。71歳だった。私は岡留さんの素顔を見ないまま逝ってしまった。
★167デスクとのケンカは馬鹿らしい
▽「ああ、またか」
▽私はやや絶望的な気持ちになっていた。私が書いて出した原稿を、全く趣旨が違った原稿に手直しをされたのだ。ムッとしたが、落ち着いて電話をかけて、趣旨が違っていることを担当デスクに伝えた。
▽取材現場を受け持つ記者にとって、デスクとの日々のやりとりは戦いでもある。
▽新聞社にとって、デスクは日々の原稿を出す出稿の責任者である。地方総局なら、トップの総局長の下のナンバー2であり、部下であるキャップ以下の総局員の原稿を裁く。また県内の1人勤務の支局(旧通信局)から出して来た原稿を手直しして、出稿していく。これが地方総局のデスクの仕事だ。
▽私は転勤が多かったから、何人ものデスクと相対した。原稿を的確に手直ししてくれるデスクもいたし、私の書こうとした趣旨とは全く違う原稿に直してしまうデスクもいた。それどころか、私の原稿を全く見ようとしないデスクもいた。
▽またえさを待っている魚、よろしく、原稿を単に待っているだけのデスクがいたと思えば、部下に指示して、原稿を集めるデスクもいた。知ったかぶりをして、デスクぶる人間もいた。
▽いろいろなタイプのデスクがいるから、新聞社は面白いと言えるかもしれない。相性の合うデスクもいれば、相性が全く合わないデスクもいる。これは人間関係なのだから仕方ないが、原稿を出す身としては、相性の悪いデスクに、趣旨が違う原稿に手直しされるのはたまったものではない。
▽だから若いころは、デスクに食ってかかったこともあったし、けんかもした。
▽しかしベテランと呼ばれるようになってからは、原稿の扱いについてデスクにケンカしたことも、抗議したこともない。ケンカする労力が無駄だと気づいたためだ。こんな奴のためにエネルギーを使うのは、もったいない、と思った。
▽このコラムを読んでくれている若い記者の人たちよ、ケンカは無駄だよ、と言いたいね。
【再掲載】★102トイレ
▽担当していた市役所の男性トイレに、排便用の便器がなくて、困った経験がある。今回はその下の話を書こう。
▽北海道小樽市の市役所だ。正面の庁舎の市役所は立派な建物だったが、男性用トイレに、排便用の便器がなかった。立って小便するだけのトイレだけだった。
▽当時の新聞業界は徒弟制の社会で、上司や先輩は部下や後輩に、かなり激しい指導をしてくれたものだった。怒鳴るのは当たり前で、私は毎日のように毎時間のごとく、怒鳴られた。
▽このためか、私は精神的にちょっと病んでしまい、過敏性で常に便意を催した。
▽そのたびにトイレに行くのだが、男子トイレに、排便用便器がない。排便ができないのだ。なぜ男性トイレに、排便の便器を造らなかったのだろうか。不思議な建物だった。
▽このため、隣の女子トイレに、誰もいないことが見計らって、駆け込んだ。見つかったらごめんなさいと、心の中で謝って入った。今なら、痴漢だと叫ばれてしまうだろうな。
▽ただし排便はなかった。精神的に病んで過敏性のものだったと今では思っている。こんなことがしばらく続いた。
▽今でこそ過去の話だが、私が新聞業界に入社した時の社内は、完璧に先輩、上司が絶対的だった。たとえ間違った命令でも、鵜呑みにして聞くしかなかった。だから、その我慢の末に、過敏性の便意を感じたのだろう。
▽あのころの光景を思い出す。会社では、上司が机の上に土足で両足を上げて、たばこを吸い、部下に指示を出していた。今考えれば、ヤクザのような世界。上司は絶対的な存在だった。反論すれば、逆に怒鳴り散らされた。こんな状態だったから、体調がすぐれなかった日々が続いた。確かに新聞記者はわずか1年でも違うと、仕事の量も質も違ってくる。先輩や上司は絶対的な存在だった。
▽だから当時、新人の新聞記者は3日で辞めるか、3週間で辞めるか、3カ月持つかと言われた。
▽よくこんな世界を生きてきたのだろうと我ながら思ってしまう。
▽にしても、小樽市役所のトイレ、今どうなっているか、知りたいものだ。
★163クレジットカードの不正使用被害
▽自分が所有するクレジットカードで、不正利用される被害に遭ったことはないだろうか。現役時代は出張族だったこともあり、クレジットカードをよく使っていたこともあり、実は私は3回も経験した。しかしカード会社に対応の違いがあり、不正に気づくことも、その連絡もない会社もあった。こうしたカード会社のカードは、使わなくなった。
▽最初に不正が発覚したのは、アメックスのカードだった。ノルウェーだったか、地球の裏側の飛行場で、私のカードで飛行機の搭乗券が購入され、2回も搭乗したことになっていた。これはアメックスのカード会社の担当者から、私に電話が入り、その利用の確認をしてきた。私は地球の裏側など旅行に行っていないので、即座に使っていませんと言い、不正は未然に防止された。そのカードは処分にしてもらったが、新たなカードを作ることで、その手数料を取られてしまった。
▽もう一つはヤフーのカードだった。偽のホームページに引っかかってしまい、個人情報やクレジットカードの番号を入れたため、不正利用された。翌日、ヤフーカードの担当者から電話が入り、そのカードの利用の有無が問うてきた。私は使ってないので、その旨を伝えたところ、カードは停止された。その不正使用も被害はなかった。
▽こうしてみると、アメックスやヤフーのカードは、利用者に対して親切だし、不正を発券するような担当チームがあることも知った。やはりカードはこうでなくちゃいけないと思った。
▽これに対してJRのスイカビューカードはずさんだった。ある時、私がカードの明細書を何気なく見ていると、意味不明な使用があった。1カ月に数千円程度で使われていて、同じ名前で数カ月続いていた。
▽これは不正ではないか、とカード会社に問い合わせをした。すると、1週間後だった。回答があり、不正使用だと言いそのための手続きをすると行うことになった、と言う。それから、数カ月後、不正使用された金が戻ってきた。
▽ここで問題なのは、私が不正利用されたことを申告しなければ、ずっとこの不正が続いていたということだ。スイカビューカードには不正チェックをする部門は無いのだろうか。アメックスやヤフーカードの対応に比べて、非常にずさんだと思った。
▽それ以来スイカビューカードのクレジットは使わないようになった。
▽だれでもカードの不正被害に遭うものだ。そのためにも、カード会社の不正防止部門の拡充を望みたい。
★162子どもの写真撮影の煩わしさ
▽サッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会でのことだった。私が勤めていた朝日新聞東埼玉支局(埼玉県越谷市)の管内の小学校で、南アフリカの食事を模した給食が、小学校で出た。その取材に行って来た。
▽話を聞いて、子どもたちが楽しそうに給食を食べている様子を取材して、話を聞いて、写真を撮影していた。できるだけ笑顔が映っている写真を撮影するよう心がけた。
▽問題は、支局に戻って、何枚も撮影した写真の中から、新聞に載せる写真を1枚ヒックアップしてからだった。その写真には子どもたちが5人写っていて、楽しそうに給食を食べている学級風景だった。
▽その写真を載せることを、保護者に連絡し、オーケーをもらう必要があるのだ。子どもたちの名前をすべて把握しているわけではないので、校長に電話で依頼して、メールで写真を送り、校長から保護者に連絡してもらい、オーケーの連絡を待った。1人でも駄目なら、その子どもが写っていない写真を別にチョイスしなくてはならない。
▽それだけ、今は写真におけるプライバシーに神経質になっているためだった。勝手に載せてはならないというルールだ。
▽新聞社は時間が勝負の紙面作りだ。オーケーが遅いと、地方版の締め切りが間に合わなくなる。幸いなことに、この時のやりとりは校長が迅速に対応してくれて、保護者全員からオーケーをもらってくれた。
▽たかが、地方版の給食写真と言うなかれ。かなり神経を使う取材になっているのだ。
▽このように、ここ10年間、新聞社の取材で制限がかかっているのが、子どもの写真を撮影することだ。
▽給食取材に限らない。例えば春の入学式に臨む子どもたち。夏休みに入り、ワーッと学校を飛び出す子どもたち。冬に入り、初雪の道を通学する子どもたち。プール開きの喜ぶ子どもたち。
▽以前だったら、こんな季節折々の風景を通常のカメラで撮影し、新聞の紙面に載せていた。
▽それが、プライバシーの保護をうたうようになってから、勝手に撮影するのは良くないという判断が働くようになり、社内ではルールを作るようになった。
▽撮影した場合は、必ず保護者の許可を取る、ということだ。それが出来ない時は、子どもの後ろ姿を撮影するようにもなった。だから最近の紙面は後ろ姿の子どもの写真が多いのだ。読者は気づいていただろうか。
▽私が新聞社に入ったころは、こんなルールなど存在しなかった。新聞社として、写真を撮影するのは何の問題もなかった。私の先輩が祭り写真を撮影し、写真説明で「祭りを楽しむ親子」と書いたら、「これは不倫している私の夫と相手です」と抗議が来たこともあったが、昔の話だ。
▽プライバシー保護の高まりから、勝手に撮影が出来ない時代になっていることを実感する。
★156路線価の表現
▽まずは以下の朝日新聞の記事を読んでもらおう。昨年の記事だ。
《国税庁は1日、2022年1月1日時点の路線価を発表した。全国平均は前年比0・5%増で、2年ぶりに上昇。新型コロナの影響が後退し、経済活発化の兆しが見られたが、訪日客の急増などを背景に5年連続上昇となった20年のコロナ前の水準には戻っていない。
▽都道府県別では、20都道府県で平均路線価が上昇し、前年の7道県から大幅に増えた。12月にプロ野球の新球場が完成する北海道(4・0%増)、大型複合ビルの建設が進む福岡(3・6%増)など、再開発事業が活発な大都市を抱える地域の上昇が目立った。都心で複数の再開発が進む東京は1・1%増で、前年の1・1%減から上昇に転じた。都心のマンション需要の高まりや、国内観光客の回復が背景にある。
▽一方、平均路線価が下落したのは27県で、前年の39都府県から減った。下落率でみると、うち23県が前年より改善した》(2022年7月2日付朝刊)
▽この記事で何か、おかしいと思う方はいるだろうか。
「上昇」
「下落」
▽この路線価という言葉の意味を考えると、これは不正確であり、ある意味で間違った表現だと言わざるを得ない。
▽路線価とは、毎年1月1日を評価時点として、毎年7月1日に発表される価格で、専門家による評価を経て、税務署(国税庁)が決めるもので、国家が決める評価額だ。相続税や贈与税にかかわる土地の評価額を出す際に使われる。国家権力が決めるから、これは「上昇」や「下落」という曖昧な言葉ではなく、「引き上げ」「引き下げ」を使わなくてはならないのだ。
▽多くの記者が勘違いしているが、この路線価と似たものに、「地価公示」がある。これは土地の標準価値を都道府県知事が公示する、いわゆる土地の価格だ。こちらは、「価格が急騰した」「下落した」を使って問題はない。
▽私は転勤族だったから、いろいろな地方でこの路線価の記事を、朝日新聞のほか、読売新聞、毎日新聞、地元紙で見てきたが、キチンと路線価の意味を勉強して書いている記事をほとんど見たことがない。記者がそれだけ知ったかぶりをして、記事にしているだけだと思っている。
▽実はこの間違った表現を直そうと、かなり昔、朝日新聞社会部の記者が、全国の地方版を点検して、それを是正する指導をしていた。そのことを私の上司のデスクから聞いたことがある。
▽しかしそうした伝統は続かない。
▽私は現役時代、地方版に出る路線価の記事の間違いを何回も指摘してきたが、うるさいと思われただろうな。
★155所轄警察署の庁内回り
▽私が新聞記者を始めたころ、所轄の警察署の庁内回りはまだ許されていた時代だった。刑事部屋、交通課、防犯課などの部屋を回って、刑事、交通課員、防犯課員と直接雑談した。最後に広報官である副署長や次長のところに行き、雑談をしながら取材のヒントを作っていった。それが現在は全くそんな庁内回りが許されていないらしい。驚きの変化だ。大切な取材活動なのに、それが出来る時代ではないのだ。
▽庁内回りだけではない。夜回りも難しくなってきているという。私が若かったころは、警察幹部だけではなく、ヒラの刑事の自宅も回っていた。現場を回っている刑事の話を聞くのが、一番生々しい情報が得られると思っていた。そのためありとあらゆる手を使って、現場の刑事と仲良くなろうとした。
▽それが現在は出来なくなっていると聞く。
▽若手記者から話を聞くと、今の若い記者は、「夜回り」と称して行く取材は、実は所轄の警察署当直長に行くだけのことだ。当直長とは警察署が夕方から翌日朝まで交代で署内の指揮と広報官を務める幹部のことだ。私からすれば、若い記者が行っているのは、「玄関取材」に過ぎない。玄関取材とは、自宅や所轄の中に入る込む取材が出来ず、表向きの、表面的な取材をしていることを指す。当然ながら、真の情報は取れない。形は回っているとしても、形だけなのだ。警察幹部が簡単に情報をくれることなど、まずはない。外部からは分からないだろうが、警察幹部は口が硬いし、核心情報になると、平気で嘘をつく。よく「リーク」だと批判する意見もあるが、そんな簡単にリークなどあり得ない。
▽夜回りも出来ないということは、警察当局から見ると、情報の管理と情報漏れを防ぐための手段なのだろう。広報官である副署長、次長、当直態勢に入ったら、当直長だけに取材させて、他の所員には接触させない。そうすれば、情報漏れはない。情報は次第に管理されている、というのが、実態なのだろう。
▽所轄だけではない。殺人事件などで所轄に捜査本部ができると、捜査員たちは自宅に帰らず、警察署が用意した体育館などの部屋で寝泊まりをする。いつの間にかそうなってきたが、自宅に夜回りすることができない。これも情報を統制している一つの手段のなのだろう。
▽そういえば、最近、各都道府県の事件で、捜査筋の特ダネをあまり見たことがないのも、そうした背景があるためだろうか。警察の情報管理が進んでいるのだろう。
▽それともう一つ、指摘したいのは、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞などの大手紙は、地方の所轄回りは新人記者に任せている事実も大きい。しかも県庁所在地の所轄警察署だけに限られていて、所轄署を熱心に回っているのは、地元紙の記者だけ、というのが実情のようだ。もっともっと所轄回りもキチンとした方がいい、と私は思ってしまう。
▽全国紙の地方撤退が進んでいるが、警察の情報管理とともに、警察からの情報を取れなくなることに私は危惧する。
★153新聞記者の服装
▽新聞記者の服装も時代とともに変わってきたなと思う。
▽私が朝日新聞に入社した時は、最初の赴任地が浦和支局(現さいたま総局)で担当が埼玉県警と浦和地検(現さいたま地検)だったため、ずっとネクタイ姿だった。スーツかジャケット姿で、ネクタイは必需品だった。大先輩からはネクタイは毎日交換しろと言われたことも思い出す。キチンと毎日帰宅して、ネクタイ交換することで、相手の印象を良くするためだったのだろう。ネクタイ姿で県警と地検を回っていた。庁舎回りや会見の時も、事件現場の時も、夜回りの時もネクタイ姿だった。夏は暑さのためか、苦しかったことを今でも思い出す。
▽そんな時、ある地検幹部が、私にこう話しかけてきた。
▽「原さん、そろそろネクタイ姿なんかやめてもいいんじゃないの」
▽こう言ってくれたおかげで、私はネクタイ姿をやめたノーネクタイ姿になった。
▽だが、埼玉県庁の担当になった時は、またネクタイ姿に戻った。県知事や県幹部、県議会議員と常に接触する仕事であったため、相手に失礼だと思い、ネクタイ姿に戻したのだ。
▽それ以降、地方ではノーネクタイになり、本社勤務ではネクタイ姿になったが、次第にノーネクタイが多くなってきた。
▽振り返ると、私が新聞業界に入る前、朝日新聞本社では社会部記者がノーネクタイ、政治部記者がネクタイ姿だったと記憶している。それが国会での取材に社会部記者が行うことになり、社会部記者もネクタイ姿になったと、当時の新聞記事にはある。それまでは国会取材は政治部だけに限られていたのだ。
▽それ以来、記者の多くがネクタイ姿になったようだ。
▽最近の中堅記者を見ると、地方だとネクタイ姿どころか、ジーパンを履いている記者も多い。それどころか、革靴ではなく、布製のスニーカーを着用している記者も多い。
▽男性のネクタイ、ノーネクタイ姿とは対照的に、女性の服装は変わっていないような気がする。地方での服装はジーパンが多いような気がする。いわゆるパンツルックだ。
▽服装というのは、相手に不愉快な印象を与えないために、大事なシチュエーションだ、と私は思っている。
▽取材相手や周囲に不愉快な思い、不自然な印象を与えなければ、ノーネクタイでも良いと私は考える。
★152週刊朝日の休刊
▽101年の歴史を閉じた週刊朝日の最終号(2023年5月30日発売)がまだ書店の店頭に並んでいることに驚いた。何回か増刷を繰り返しており、名残惜しい読者への配慮もあるだろうし、貴重な最終号ということで売れているのだろう。
▽その休刊前の最後の10日間の編集部の光景を追ったのが、NHKの人気番組「サラメシ」だった(2023年6月15日放映)。中井貴一のナレーターで、様々な職場でのランチを紹介する番組だが、単にランチ風景を映し出すだけではなく、その職場の仕事内容を分かりやすく紹介していて、「いろいろな職業があるもんだ」と結構参考になる。
▽今回の番組では、長く週刊朝日の仕事を続けてきた外部のベテランデザイナー、若手編集部員、女性編集長を登場させて、それぞれの思いと昼メシを紹介していた。ベテランデザイナーは、いつかこの日が来ると予感していたといい、若手編集部員は、取材するということはなくならないと強調して見せた。
▽休刊を止める努力がどのくらいあったのかは、番組で分からなかったが、部数が激減して週刊誌の時代が終焉に向かっているということなのか。
▽週刊朝日に限らず、アエラも部数減に悩んでいるし、出版社系の週刊文春、週刊新潮、週刊ポスト、週刊現代なども軒並み部数を減らしている。
▽この番組で初めて知ったのが、週刊朝日の編集部員のうち、正社員はわずか3人しかいないという事実だった。朝日新聞OBである私も驚いた。
▽それだけ、外注化しているということなのだろう。休刊しても正社員は新聞社本体に戻ることも可能だが、契約社員の再就職先はどうなってしまうのだろう。番組そのものは面白かったが、その裏では、この編集部で働いていた人間はどうなるのか、心配になってきた。
▽それにしても、朝日新聞のOBとして思うのは、同じような部数だったアエラは存続させて、一方の週刊朝日はなぜ休刊させることになったのか、ということだ。
▽朝日新聞経営陣が、どういう判断で一方の週刊誌を休刊し、一方の週刊誌を存続させるのか、その理由を知りたいと思った。
▽そして休刊させた責任をどうやっと取っていくのか。そんなことを思いながら、最終号を手にした。
★149環境行政と石原親子
▽自民党の石原伸晃環境相(当時)が2014年に、東京電力福島第1原発事故に伴う汚染土の中間貯蔵施設建設に向けた地元住民との調整に関し、「最後は金目でしょ」と発言。地元住民や野党からの激しい反発を受けたことがある。最終的に謝罪に追い込まれたが、似たようなことが、父親である石原慎太郎でもあったことを思い出した。
▽石原伸晃の発言は、東京電力福島第1原発事故の除染で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設を巡り、難航している被災地との交渉について、首相官邸で記者団に「最後は金目でしょ」と述べたことに端を発するもの。福島県知事のほか、福島県大熊、双葉両町長とも相次いで面会し、「(発言は)品位を欠き、不快な思いをさせた」などと謝罪した。
▽これに対して、父親の石原慎太郎の問題は、環境庁(当時)長官だった1977年、
「人のスケジュールを無視して面会に来られても迷惑」
と反公害の市民団体の陳情を拒否してテニスに行ったことだった。
▽かなりの暴言を吐いている。
「(長官などの)特別職には公務員のような服務規定はない。空いていれば、寝ていようとテニスをしていようとかまわない」
と述べた。
▽さらには、熊本に水俣病の視察に訪れたときは、患者らが手渡した抗議文について
「これを書いたのはIQが低い人たちでしょう」
と言い、1999年9月、府中療育センター視察後の記者会見では、
「ああいう人ってのは人格あるのかね」
と述べている。
▽まさに差別そのもの。親子は似ているな、と思った。
▽環境庁から環境省に名称は変更されたが、環境行政の本分は、政治で言うところのブレーキである。旧通産省、現在の経済産業省が原発行政の推進を行うなら、それを監視し、行政の行き過ぎをストップさせることにある。経済産業省が行政のアクセルなら、環境省は行政のブレーキであるべきなのだ。行き過ぎる行政に歯止めを掛ける役割を求められている。
▽私も朝日新聞東京本社時代、環境庁を担当していたから、分かるが、日本の中央省庁の中では、異分子的な存在なのだ。
▽そんな行政のトップが、市民団体などの求めに応じず、無視したり、問題発言をする石原親子をマスコミはもっと監視する必要があった。
★146タイムトンネルとタイタニック号の悲劇
▽豪華客船タイタニック号の残骸を見に行くツアーに向かった米潜水艇が2023年6月、行方不明になり、米沿岸警備隊が潜水艇のパーツを海中で発見した、と公表した。朝日新聞デジタルなどによると、同警備隊は専門家らと相談した上で、潜水艇は水圧で押しつぶされたとみており、乗船していた5人は死亡した可能性が高いという。
▽タイタニック号の悲劇から111年目の潜水艇の悲劇だなと思った。
▽私は昔の米ドラマ「タイムトンネル」の第1回目を重ねてしまった。
▽地球アメリカの砂漠の地下に造られた巨大システム「タイムトンネル」が完成間近になっていた。上院議員が視察する中、予算を止めるかどうかというやりとりの中で、主人公の1人がタイムマシンを作動させて、過去に行ってしまう。到着したのが、タイタニック号だった。氷山にぶつかって沈没することを船長に訴えるが、聞いてもらえず、監禁される。
▽このため彼を救おうともう1人の主人公がタイムマシンに乗って、タイタニック号に乗り、船長に再び訴えるが無視された。そんな時に氷山と衝突し、船が沈没を始めて、乗客が逃げようとする。そして主人公2人も海に投げ出される。そんな瞬間でタイムマシンが作動して、別の次元にタイムスリップする。時空の旅が始まった。
▽こんな内容だった。
▽ネットではこんな説明があった。
《1968年、莫大な国家予算を投入した極秘の時間航行プロジェクト「チックタック計画」は、転送装置であるタイム・トンネルの完成目処が立たないために計画打ち切りが検討されていた。時間航行が可能な段階まで装置の開発は進んでいたのだが、時間旅行者を転送する年代や回収の制御が困難で、実用まではまだ先が見えない状態なのだ。計画の存続を願って自ら装置で時間航行をして機能を証明しようと時の流れの中へ旅立った若き科学者トニー・ニューマン。彼が降り立ったのは、氷山と接触して沈没することになる豪華客船「タイタニック号」の船上であった。トニーが危機に陥ったことを、所長以下タイム・トンネルのスタッフたちが察知し、救助のため同僚の科学者ダグ・フィリップスも後を追うところから二人を主人公とする果てし無い時間旅行のドラマが始まる》
▽少年の科学心を大いに刺激したテレビドラマだった。私は、史実に基づく歴史的な場面にタイムスリップしていく、という世界に魅了された1人だった。
▽そして最近になってDVDとして発売されていて、それを購入して、やっと見ることが出来た。
▽2回目は、「タイムトンネル第2話 月への道」というタイトルで、タイタニックの沈没直前にワープした2人の主人公が次に着陸した場所は、火星探査船の内部だったという内容だった。
★145デジタル保存
▽取材で使った資料を呼び込もうと、10年前にCDRで保存していた資料を、ドライブに入れて、読み込もうとしたが、出来なかったことがある。別のドライブを使ってもだめだった。別のパソコンを利用しても、出来なかった。CDRが劣化していたらしい。愕然とした記憶がある。
▽そう、こうしたパソコンのメデイアと呼ばれる記憶媒体は、壊れることを前提に保存した方がいいことに、私もやっと気づいた。そのためには、ある程度、投資をする必要がある。
▽私が新聞記者をスタートさせた時、取材したノートや資料は、コピーも含めて、整理してファイルに閉じていた。そして自分が書いた記事はすべて切り抜いて、スクラップ帳に貼っていた。取材ノートもファイルも記事の切り抜きも次第にたまるから、これらは段ボール箱に入れるようになった。そしてこの段ボールも次第に増えていった。この段ボール群が部屋を専有するから、その整理や処分に、常に悩んできた。捨ててしまうのは簡単だが、こうした資料は「自分史」でもあるから、なかなか捨てられなかった。
▽何年か経過すると、ワープロの普及が始まり、原稿や資料の一部は、フロッピーに保存するようになった。
▽そしてパソコン時代に入ると、原稿や資料の保続方法は徐々に変化して、フロッピーからマイクロドライブ、MOディスク、CD、ハードディスク、コンパクトフラッシュカード、SDカード、USBメモリーなどに代わっていった。デジカメの世界ではSDカードが普及しているが、XQDカードなど、一部しか普及していないメディアも残っている。
▽この変化で困るのは、こうしたメディアと呼ばれる記憶媒体の変化で、紙の資料と違い、こうしたメディアを読み込む装置がないと、読み込むことが出来ないのだ。装置があったとしても原稿のフォーマットが違えば、簡単に読むことはできない。またメディアの劣化もあるし、ハードディスクも数年で使えなくなることも多かった。
▽新聞記事や雑誌の記事、そしてその資料を今後も使うなら、その時代に普及したメディアを使って保存し、そして次の世代に使うメディアにコピーして行くしかない。
▽原稿の保存はテキストエディターを使ってテキストで保存し、資料はデジカメを使った写真保存かPDFでの保存が一番安全だと考えるようになった。これをハードディスクで保存し、さらにクラウドサービスでバックアップも取ることが大切だと気づいた。そしてハードディスクもいつかは壊れることを前提に、数年に一度、買い換えることも大切だと分かってきた。
▽だから、数年前だったか、フロッピー、マイクロドライブ、MOディスクのメディアは全部捨てた。ドライブがないから、読むことができないためだ。たとえあったとしても、パソコンと接続するインターフェイスが違うから、簡単に接続ができない。かつてのソニーのビデオ、ベーターとVHSとの戦いで、ソニーが敗北した歴史を思い出す。
▽かつて雑誌や書籍に書いた原稿のデジタル化は出来ないまま、コピーだけが段ボール箱に眠ったままになっている。何かもったいない気がしている。
★142麻雀
▽かつて新聞記者に麻雀はつきものだった。特に県警記者クラブでは日中、事件事故の発表ものが多く、記者クラブから抜け出すわけには行かないため、発表の合間を縫って、麻雀をしていた。私が若いころは、記者クラブに麻雀台があるのは当たり前の光景だった。
▽ただしルールも決めていた。麻雀は各社のキャップ同士だけで行い、新人や若い記者には絶対やらせなかった。県警担当として学ばなくてはならない仕事も多く、麻雀にうつつを抜かすことなどさせては駄目だ、というのが、各社キャップ間の共通認識だった。
▽キャップだった私も時折付き合った。ヘタだったが、社交場として必要だと割り切っていた。
▽メンツが足りないと、広報課の課長に声をかけて、入ってもらった。課長も仕事だと割り切って、麻雀をしていた。そんな時代だった。
▽こう書くと、県警担当キャップは楽な仕事だと思われるかもしれないが、それは全く違う。
▽各社にはそうやって油断させて、夜になると必死に県警幹部に夜回りをかけて、情報を取ろうとする。特ダネ競争ゆえの戦いだった。日中はのんびりするように見せて、夜は必死になっていた。
▽その麻雀をする光景が、県警記者クラブから徐々に消えていった。県警本部ばかりではなく、所轄の警察署の記者クラブからも消えていった。
▽理由の一つに、市民からの苦情があったことが挙げられる。警察で麻雀をやっている人間がいる、おかしい、というような苦情だった。これを受けて警察側が記者クラブに麻雀禁止の要請を出した所もある。
▽会社からも麻雀台が消えていった。以前は支局に麻雀台が必ずあった。私が夜回りをしていると、ポケットベルが鳴って、
「何もないなら、支局に引き揚げてこい」
とデスク命令があった。麻雀のメンツに入れさせられたこともある。こんな時代だった。東北のある支局では支局長が電動式の麻雀台を買ったことが話題になっていた。当時はまだ電動式は最新鋭だった。
▽今は県警記者クラブでも支局でも麻雀をする光景は見られない。遠い過去の記憶になってしまった。
【再掲載】★090米映画の新聞記者
▽「大統領の陰謀」は、ウオーターゲート事件で米ニクソン大統領を辞任に追い込んだワシントンポスト記者2人の活躍を描いたドキュメントで、文庫本にもなり、映画化もされた。ドラマではないが、ここで活躍する実在の2人の記者は、ディープストローなる人物に接し、取材の方向性を確認し、夜回りと電話取材を続けてきた。
▽私はこの映画を学生時代に見ていたが、改めて中堅・ベテラン記者になってDVDで観賞した。今の今、何がヒントになるのかと思って見た。やはり情報源を守り、そして取材を続けていくことが大切なことだと思った。同時に、それを守ってくれる幹部がいないと、ニュースにはならないことを改めて感じた。
▽2018年に日本で公開された映画「ペンタゴン・ペーパーズ」は、ペンタゴンペーパーを巡る新聞社の戦いを描いている。ペンタゴンペーパーといえば、私の記憶ではベトナム戦争を巡る機密文書の報道を巡るニューヨークタイムズと権力の闘いであり、言論の自由を勝ち取った事件だ。
▽今回の映画はそうではなくて、その機密文書を後追いせざる得ないワシントンポストを舞台にしたドラマだった。だから、評論家はかなり勘違いしている書き方をしていた。同じ情報源から得た情報を報道しようとする舞台裏では、家族経営の地方紙に過ぎないワシントンポストの経営拡大を巡って株式公開という経営判断を任されていた女性社主が、報道することで政府による訴追が行われ、会社が潰れるという忠告を受け、報道するか否か迷った。その上で、報道に踏み切る。古い輪転機が回り、提携紙も報道した。
▽訴追は評議の上、ワシントンポストもニューヨークタイムズも勝った、というストーリー。情報源からの取材シーンが、現実的ではなく、ただもらっただけなので、ちょっと首をかしげたが、最後はウオーターゲート事件を臭わせるシーンが登場し、いかにワイントンポストが優秀であるかを主張した映画だった。
▽こうしてみると、日本では新聞記者が活躍する映画が少ないと感じる。あったとしても、実際の新聞記者の取材活動を全く考慮していない映画が目立つ。ちょっと残念だ。
★138新聞を読まない記者
▽夏休みとか冬休み、黄金週間の休み中はぎりぎりまで休む人間がいるが、新聞記者としてはおかしいとずっと思っていた。ぎりぎりまで休むとは、休みの最終日の夜にやっと旅行先から自宅に戻って、休み中にたまった新聞各紙を読まないまま、翌日出勤してくることになる。「働き方改革」とは、意味が違う。
▽休んだ期間のライバル紙の紙面は読んでいないから、仕事のリスタートがちぐはぐになる。ライバル紙に出ていた特ダネの処理がどうなっているかも分からないままになっているから、取材のリスタートのベクトルが全く違ってくるのだ。
▽各社の夏休みはどこも似ていると思うが、朝日新聞の場合、夏休みは1週間を2回、交代で休む。冬休みは1週間、黄金週間も5日~1週間の休みだ。
▽休みは当然の権利だと思うが、休みの最終日は翌日リスタートする仕事の準備が必要だ。だから、休みの最終日は昼過ぎに旅行先から帰宅するか、最終日の前日に旅行を切り上げて、たまった新聞を読むのが当然のことだと私は考えていた。
▽それがいつごろか、新聞を1週間も読まないで出勤する後輩や部下がいることに気づいて愕然としたことがある。私がある支局で支局長をしていた時、部下の支局員がやはり読んでこなかった。1週間、地元紙が特ダネを書いているのも全く知らなかった。その特ダネは私が取材して後追いしたが、そのことすら知ろうとしなかった。
▽休みのことについて、あれこれ言うべきではないと思って、ずっと黙っていたが、今になって振り返れば、先輩として説諭すべきだったのかなと思っている。「働き方改革」とは言うが、好きで希望した新聞記者という職業は、ある意味、ライバル紙との競争でもある。新聞記者の心構えという点から、注意してもよかったと反省している。
▽新聞記者なのだから、朝起きたら、新聞を読むのは当たり前、という生活を私はずっと続けてきた。新聞を読むことが新聞記者活動の第一歩だと思ってきた。朝日新聞だけではなく、毎日新聞も読売新聞も地元紙もだ。もちろんこの新聞代は自腹だ。特ダネを抜かれていないかのチェックもあるし、独自の切り込み方で扱ったフィーチャー記事を読んで参考にすることもある。他紙の記事でも面白い連載もある。朝起きたら、新聞を読むのは当たり前のことと思っていた。
▽これは夏休みとか冬休み、黄金週間の休み中も同じだろう。自宅にいるなら、同じ生活を続けているだろう。休みを利用して旅行に行った場合、帰宅してからまとめ読みするとか、デジタルで読むとかすればいいだけの話だ。
▽新聞を読まない新聞記者が増えているのではないかと危惧している。
★132デジタルのアクセス数
▽新聞各社がデジタル紙面を開発し、紙面提供を紙だけではなく、インターネットによるデジタルでの紙面提供を本格的に始めてから10年ぐらいになる。
▽新聞業界の斜陽化で、デジタル紙面に将来の生き残りの道を賭けようとしているのは分かるが、日本国内で見る限り、デジタルで成功しているのは日本経済新聞社ぐらいだろう。朝日新聞も毎日新聞、読売新聞も思った以上に契約者が増えていない。
▽私が気になるのは、デジタル紙面を意識しすぎて、記事のアクセス数をいちいち表示させて、一喜一憂していることだ。トップ5の記事を掲載し、アクセス数が伸びた記事を評価していることに、私は違和感を持つ。
▽記事の善し悪しは、アクセス数の多さではないはずだ。調査報道でも特ダネでも、地味な取材を続けて、やっと記事にする。その努力と成果を評価しなくてはいけないのに、アクセス数が多い記事を評価していることに、何か変だと思っている。
▽NHKや民放が視聴率を気にするのと同じ構図だ。
▽確かに視聴率が取れなければ、スポンサーは付いてこないだろうから、視聴率は大切な要素かもしれないが、ニュースに限って言うなら、視聴率を気にしてニュースを報じる記者がどれだけいるのだろうか。記者の生命線であるニュースについて、視聴率の論理を持ち込めば、ニュース現場は崩壊する。
▽新聞も同じ。デジタルのアクセス数を気にして取材をして執筆する記者がどのくらいいるのだろうか。こうすれば、アクセス数が増えると考えて、取材する記者がいるのだろうか。現場取材でそんなことを考える記者がいるとは思えない。現場では何が起こるか分からない。先入観を捨てて、現場を直視する作業をしている時に、記事のアクセス数を気にする余裕などない。現場とはそういうものだ。
▽テレビ局が視聴率に一喜一憂する姿を、新聞は冷ややかに見てきた。私もそうだった。
▽それが、今度は新聞社がアクセス数に一喜一憂するのは、漫画に思えてくる。
▽アクセス数の多い記事は、一般的に同じような傾向があるらしい。「危機の新聞▽瀬戸際の記者」(坂夏樹、さくら舎)によれば、事件事故の速報やワイドショー的なニュース、芸能人、有名人の不祥事などだ。地道な調査報道や特ダネなどは入らないのだ。
▽新聞社の編集幹部は、何がニュースとして必要なのか、もう一度考え直す必要がある。
★130木村王国の崩壊
▽昔勤めていた支局での出来事だ。
▽読者からの問い合わせに、「木村王国の崩壊」を知らなかった支局員がいた。これには私もやや驚いた。
▽「木村王国の崩壊」は、朝日新聞記者だった吉田慎一が福島支局時代に福島版に長期連載したドキュメントで、後に朝日新聞から出版された。
▽福島県の地方から始まった汚職事件が次第に広がりを見せて、県庁トップである木村守江県知事に捜査のターゲットが絞られていく。福島地検が独自捜査に乗り出し、最終的に木村知事を摘発した事件を詳細に検証したノンフィクションで、戦後のジャーナリズムの金字塔とも言われた。圧倒的なディテールにこだわり、伝聞記事を排除したスタイルで、新聞報道の新たな道を開いたと言われた。
▽私自身、この本を読んで感動し、新聞記者を目指したこともあり、忘れられないノンフィクションだ。「小和田次郎」のペンネームで「デスク日記」を書いていた共同通信の原寿雄も絶賛していたこともある。
▽その本を知らないとは。私とそんなに年齢差がないのに、こんなに有名な本を知らないことに愕然とした。
▽そしてこの本を知らないとは、損をしたなとも同情した。
▽確かに、この新聞業界、本を読む記者と全く読まない記者の2種類がいる。後者の場合、読まないのではなく、読む時間が取れないこともある。事件事故や政界取材など夜討ち朝駆け取材で、読書する時間がないことは事実だ。これは仕方ない。
▽しかし読書は記者の知識を豊かにする作業だ。取材した事実を歴史的座標軸に落とすためにも必要な作業である。
▽記者よ、本を読め、と言いたくなる。
★128呑み助
▽最近、居酒屋に入ると言葉が通じない。店に入って着席し、注文を取りに来た店員に向かって、
「日本酒の冷やを」
と注文したら、店員が持ってきたのは、日本酒の冷酒だった。
▽冷やだから、冷やしてある、と勘違いしているが、これは全く違う。
▽日本酒で冷やと言えば、常温の日本酒のことだ。最近はこれが通じない店が多くなっている。
▽日本酒で一番うまい飲み方は、冷やだと私は思っている。常温で飲むのだ。
▽これは私がこれまで取材してきた日本酒の蔵元たちが言う言葉だ。冷やしすぎては味が分からないし、燗酒にするとアルコールが抜けてしまう。火を点けて飲む骨酒などは、アルコールが飛んでしまう。常温で飲むのが一番うまい。
▽最近の居酒屋は、日本酒を常温保存しないで、冷やして保管している店も多く、冷や酒を楽しむ店が徐々に減っている気がする。ちょっと悲しい。
▽では蕎麦屋ではどうだろう。ビールを飲み、
「天抜きを」
と注文したら何が来るだろう。分かってくれる店は、天ぷら蕎麦から、蕎麦の麺がないものを出してくる。これが、「天抜き」だ。天ぷら蕎麦の天ぷらを食いたいから、「天抜き」となる。これが分かってくれないと、本当の蕎麦屋ではない。酒のつまみになるものを食いたいのだ。
▽蕎麦屋と言えばに、蕎麦屋の3点セットである板わさ、焼き海苔、蕎麦味噌は常に置いてもらいたい。この3点セットがない蕎麦屋は、呑み助にとっては蕎麦屋ではない。
▽最後は蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを飲みたい。
▽そして締めに蕎麦をさらっと食って引き揚げたい。
▽呑み助とは、変にこだわる人種なのだ。
★122写真の保存方法
▽「やってしまった」
▽そう思った。個人で使ってきた外付けハードディスクが壊れたのだ。パソコンからは全く認識できなくなっていた。保存していた膨大な写真データは一瞬にして失った。がっかりした。
▽地方に勤務していると、万が一の事件事故を考えて、時間がある時に、取材管内の各地に出向いて、あらゆる場所での写真撮影をしてきた。何かの取材や紙面などで使えるかもしれないと考えたためだ。
▽私が新潟県佐渡市の朝日新聞佐渡支局に勤務していた時は、時間があれば、新潟港と両津港を結ぶ大型フェリーや高速船ジェットフォイルの写真を取りに出て、何枚も何枚も撮影した。ジェットフォイルの写真は、後に発生した海難事故で、紙面で使われたこともある。
▽さらには、両津港の風景や、各地の海岸風景、佐渡金銀山や田園風景、市街地の風景、交通量の多い道路の風景、島の反対側に続く光景など多数の撮影をしてきた。
▽転勤して埼玉県秩父市の朝日新聞秩父支局に赴任してからも、同じように、いろいろ写真を撮った。西武鉄道特急や秩父鉄道の蒸気機関車、列車、駅舎、秩父神社、ロープウェー、登山道、市役所局舎、市場、飲食店街、地方の風景など、マメに撮影してきた。
▽これらは撮影したカメラの記録メディアから、パソコンを使って、外付けハードディスクにコピーして保管していた。ファイル名は、日付とタイトルを記して、保存した。デジタルカメラなので、同じような写真が何十枚もあるが、それも全てコピーして保存した。
▽しかしだった。考えが甘かった。ハードディスクというのは、寿命があるのだ。ある程度使っていたら、急に動作しなくなった。電源スイッチを入れたり、切ったりしたが、動かない。これで保存したものは全て駄目になってしまった。
▽復旧してくれる専門業者もいるのだが、その料金がかなり高い。その料金に見合うような写真データではなかった。
▽がっかりした。諦めるしかなかった。
▽このための対策はどうすればいいのか。
▽おそらくDVDなどに焼きなおして、保管するしかないのだろう。しかし、そのDVDさえ、劣化することがあるのだから、保存写真はハードディスクとDVD、SSDなど種類が違う記憶装置に、同時に同じ物を保存するしかないのだろう。
▽それとは別にクラウドサービスを使って、保存することも一つの手だ。
★117神戸児童殺傷事件
▽「記者がひもとく『少年』事件史」(川名壮志、岩波新書)は、毎日新聞記者である筆者が、戦後の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞で扱った少年事件を検証し、永山事件や神戸児童殺傷事件などを契機に、少年事件の紙面の扱いが変化していることを説いた解説書だ。ある時は少年事件なのに実名を出し、ある時は扱いが小さくなり、少年法の改正で報道にも変化が出てくると結んだ。
▽この中で筆者が指摘していたのが、神戸幼児殺傷事件の発生から数カ月後に死刑囚の永山則夫に死刑が執行されたという点だ。偶然性を指摘しているようだが、偶然ではないとも読めた。
▽永山は獄中で作家活動に目覚め、その作品は世界的な評価を得ていた。一方で彼の裁判判決は少年法とも絡んで、死刑と無期判決で揺れた。
▽東京や京都などで警備員やタクシー運転手4人を次々と殺害した事件の被告として、永山に対して1979年の東京地裁は死刑判決を出すが、81年の東京高裁では逆に無期懲役の判決を出した。裁判長の名をとって「船田判決」と後に呼ばれるようになる。船田判決について、検察官、裁判官の衝撃は大きかった。検察当局は最高裁に上告した。
▽最高裁は83年、船田判決を破棄して、東京高裁に審理を差し戻した。この時の最高裁判決は、死刑の適用について一定の基準を示した点で、その後の死刑判決に決まって引用される重要な判決となった。そして差し戻し控訴審で東京高裁は87年に死刑判決を、さらには最高裁が90年、上告を棄却して、死刑が確定した。
▽これに対して、神戸児童殺傷事件では酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗っていた少年Aが逮捕されたが、神戸家裁は医療少年院送りとなり、全く別の道を歩んだ。2015年には「少年A」というペンネームで、「絶歌▽神戸連続児童殺傷事件」という手記を発表し、世間を驚かせた。
▽二つの事件を結びつける具体的な証言も資料もないのだが、世間を驚かせる事件が発生した時に、法務当局が死刑執行を連発するのは、これまでもあった。決して偶然ではないのだ。
◎関連図書→『極刑を恐れし汝の名は』(原裕司、洋泉社)、『取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶』(原裕司、東京図書出版)
★113「光る風」の衝撃
▽「少年チャンピオン」に連載された漫画「がきデカ」は大ヒットした作品だ。「少年チャンピオン」の発行部数が200万部を超えたことに貢献した作品でもあるという。しかし、主人公がいきなり「死刑」と言って叫ぶ場面が何回も登場するストーリーに、私は違和感を覚えていた。こんな簡単に「死刑」という言葉は使ってほしくないと当時、思ったものだ。だから、この筆者には違和感を持った。
▽しかし、だ。この筆者が「がきデカ」の前に描いた「光る風」という作品は、「がきデカ」からは想像できない重いテーマの漫画だった。日本で戒厳令が敷かれ、次第に戦争に向かう。主人公が逮捕され、刑務所の便所から脱出するシーンは、リアリティーを感じさせる。そんな日本でどうやって生きていくのかという戦いのストーリーだ。日本の将来を予言し、警告しているような作品に思えた。子供心に感動したことを覚えている。
▽こんな優れた作品を書く筆者が、後に「死刑」を連発する作品を描くなんてと思った。二つの作品は対極にあったような気がする。「がきデカ」の、「死刑」を連発する内容は今でも好きになれなかった。確かに「がきデカ」が連載されていた当時、日本は死刑制度の実態を隠していたし、発表もしていなかった。「死刑」という言葉だけがはやっていたのだろう。
▽最近になって私はその「光る風」を再び読みたくなって、復刻されたコミックを買って再び読んだ。確かに優れた作品だ、と今でも思う。戦争に向かう日本を告発しているようで、そのベクトルは正しいし、感動してしまう。
▽どういう発想で、こんな作品を作り上げることが出来たのか、筆者に尋ねてみたいと思った。
▽対極のような作品を描いた筆者の原点を知りたい。
★112カラ出張
▽以前、ある支局のベテラン記者が不正な請求を、電子マネーの一つであるスイカで行なっていることを書いたが、いろいろ考えると、こうした不正は昔からやっていたのではないか、と思うようになった。だから、本人は罪悪感もなく、不正を続けてきたと今は思うようになった。
▽私の部下だったベテラン記者の不正の手口はこうだ。JRのスイカを使って、本来なら取材現場ではない場所に行って、実費請求をしていたことだ。経路を見ると、ゴルフや映画鑑賞に行ったとしか思えない場所にも行っていることが分かった。そればかりか飲み物を買って、それまで請求していた。
▽新聞記者の取材は、取材記者本人の自主的な行動で行うことを建前にしているから、どこに行こうと、「取材だ」と称すれば、「行くな」とは言えない。自由な活動こそ、いい記事が生まれる、という性善説に立っている。
▽逆に言うと、この性善説を利用すれば、いつでもどこでも、サボタージュが出来る。我がベテラン記者はこれを利用していた。
▽恐らく、昔からこんなことを繰り返していたのだろう。たまたま私がおかしいことに気づいて、チェックして分かった。月に数千円程度の不正だったが、これが何年も続いたとすると、かなりの金額になる。
▽どうして、こんなことを続けてきたのか。自問自答すると、朝日新聞の社内体質にあるかもしれないことに気づいた。不正を大目に見る体質。否、多くの社員が罪悪感もなく、繰り返す不正といった方がいいかもしれない。
▽私が昔、東北の通信局に赴任した時、当時の支局長にこう言われたことがある。
「文具類や取材道具の実費請求は、経理が面倒なので、カラ出張で処理してくれ」
▽本来なら、日々使う文具類や取材道具は当時、現地で購入して、その領収書を添付して実費請求することになっていた。私はちょっと驚いたが、そういうものなのか、と納得してしまった。当時の朝日新聞は出張に新幹線などの電車代の領収書も、ホテルの領収書も必要なく、申請すれば、所属長の承認でカネが入ってきた。所属長がオーケーすれば、それでカネが出る打ち出の小槌だった。
▽しかし、このカラ出張は大阪本社社会部でかなりの規模で横行しており、社内問題になり、禁止の通達が来た。不正は不正なのだ、と思った。そのうち、電車の領収書もホテルの領収書も添付することを求められるようになり、カラ出張はなくなった。
▽おそらく、こんな会社の体質が身についてしまって、私の部下だったベテラン記者は、何の罪悪感もなく、不正経理を続けてきたのだろう。朝日新聞の体質だったのかもしれない。
▽大手企業ではよくある話なのかもしれない。
◎地方支局編の★093「横領したベテラン記者」参照
★108NHK記者
▽「安倍官邸vs.NHK」(相澤冬樹、文藝春秋)は面白い本だった。副題に「森友事件をスクープした私が辞めた理由」とある通り、森友事件をスクープしたNHK記者が、東京の報道局長からの指示で記事をボツられて、そして記者を外され、辞めていく話を書いた。さすがNHK、国家権力に忖度し、国営放送を演じている組織。そういう組織になぜこの筆者は入社したのか不思議だ。就職時にNHKに対する正確な情報もあっただろうに、国営放送の本質を見誤ったのだろうか。
▽本には気になった記述がある。朝日新聞が公文書改ざんの疑いがある、というスクープを放ったのに、この筆者はその日昼近くまで知らなかったと記していた。本によれば、泊まり担当のデスクが各紙を点検し、抜かれた記事がある場合は担当者に連絡することになっているのに、そのデスクが気づかずに連絡をくれなかったという。
▽気になったのは、この筆者は日々の新聞各紙を読んでいない、ということだった。気になったというか、驚きだった。毎日朝、新聞各紙を読んでいないで、報道現場にいるのか、と。
▽新聞記者の場合、通常だと、事件を担当する社会部の記者も、政治を国会を担当する政治部記者も、経済を担当する記者も、各紙を必ず読んでいる。自宅で朝読んでから出る。朝駆けがある時は、新聞を小脇に抱えて、読みながら、朝駆けをしていく。これが通常の新聞記者だ。正確に言うと、朝日新聞では当然、毎日朝の習慣だった。私が昔、事件担当をしていた時、当然の習慣だった。
▽これとは別に泊まりの記者が、泊まり明けに各紙を点検し、抜かれた記事を点検し、担当者に連絡していくこともしている。各紙とも当然の作業だろう。
▽多くのNHKの記者が、この筆者のように各紙の新聞記事を読んでいないとするなら、私はNHK記者像を見直さないとならない。
▽記者のスタートの一歩は、新聞を朝読むところから始まる。それは多くの先輩が言い続けてきたことだし、私もそう思ってきた。新聞を読むことから、朝一日の取材が始まるのだ。それはNHKに限らず、民放の記者にも言える。新聞が扱う情報量は、テレビの情報量より、圧倒的に多い。
▽新聞を読まない記者は、ライバルでも何でもない。せっかく内部告発をしたのに、そんなことを感じてしまう本の内容だった。残念だ。
★103原稿料
▽インターネット上で原稿を書くライターの原稿料の値段を聞いて驚いた。1文字につき0.1円から0.2円なのだ。つまり400字詰め原稿用紙に直すと、わずか40円から80円にしかならない。いつからこんなに低い値段に設定されているのだろうか。仮に月に100枚分の原稿を書いても、4000円から8000円。こんな安いなら、原稿を書いても書いても、生活費を稼ぐことが出来ない。お話にならない金額だ。
▽私が新聞記者になる前、フリーライターの真似事をしていた。この時の原稿料は400字詰め原稿用紙1枚で1000円から1万円ぐらいだった。やはり小さな出版社は低かったし、大きな出版社は高かった。大手出版の月刊誌などは1枚につき、1万5000円を出している社もあったほどだ。
▽当然、この原稿料の中には、取材料も含まれていた。だから、当時のルポライターたちは、競って、いろんな雑誌に原稿を書いていた。
▽月に100枚書いたとしても、収入となれば10万円から100万円で、名の売れたライターたちの収入は悪くなかったはずだ。
▽では実際に、1カ月にどのくらいの原稿が書けるのだろうか。取材する時間も必要だから、私の経験則からして、せいぜい100枚が限度だ。取材時間が長引けば、執筆する時間がなくなるから、そう簡単に原稿を出すことは出来ない。当時はまだワープロもパソコンもなかった時代で、原稿用紙に手書きで原稿を書くという作業は、かなり疲れるものだった。
▽こうやって振り返ると、今のインターネット上でライターをしている人の生活が心配になってくる。
▽だれもが自由に書き込める時代だから、逆に安くたたかれるのだろう。ライター希望者が多いから、買い手市場になっていく。
▽考えてみれば、ヤフーやグーグルのようなプラットフォームが、新聞記事を無償で集めてホームページにアップすることが当たり前のようになってしまい、記事は無料だという意識が染みついてしまったように、フリーライターの記事も無料のような意識があるのではないか。
▽文章を書くという知的作業が、安く買いたたかれるのは、どう考えても危険だ。ライター希望者は、このことを肝に銘じてほしい。
★101「ヤマツル」さん
▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた2007年秋の話だ。政界を引退していた「ヤマツル」さんこと、旧社会党の山口鶴男さんが管内の群馬県草津町で健在であることを知り、インタビューをしたことがある。2015年に89歳で亡くなったが、今でも取材内容を鮮明に覚えている。
▽旧社会党衆院議員で、土井たか子委員長時代の書記長。村山連立内閣時代には総務庁長官として初入閣もした。特記すべきは、自民党の福田赳夫(故人)、中曽根康弘(同)、小渕恵三(同)という歴代首相が戦った激戦区、衆院旧群馬三区で11回の当選を果たしたことだろう。政界引退後も、時の政府に対する気持ちは熱かった。その「ヤマツル」さんに、発足したばかりの当時の福田康夫政権などを語ってもらった。以下は当時の取材メモからの抜粋だ。物を見立ててストレートに発言するその様は、まさに健在そのものだった。
▽今回の福田政権誕生で、親子二代にわたって、首相を経験することになりました。康夫さんをどう見ますか。
「2年前の小泉内閣時代に、康夫さんには会っているんだ。ポスト小泉は、康夫さんしかないと思っていた。政権に就いた安倍さんは、予想通り、ブッシュという米国タカ派政権の言いなりで、対日要求をのむだけの外交でしかなかった。そして新保守主義。政権も幼稚園内閣というか、お友達内閣というか、世代交代だけ進めたい連中ばかりだった。だから、アジアを重視した外交政策をしないと、期待を込めて、頑張れと言ってやったんだ。今でもその気持ちでいるよ」
▽お父さんの赳夫さんとは似ているのですか。
「お父さんは戦前からのエリート官僚。旧高崎中学時代でも、『秀才の福田、ガリ勉の中曽根』と言われていたらしい。大蔵官僚出身の政治家らしく、『経済大国にはなっても、軍事大国にはならない』と言っていた。米国一辺倒ではなく、アジアも重視した全方位外交を続けたのも、そうした政治信念があったからでしょう。康夫さんは、そのお父さんの良いところを継いでいるように思えるね。官房長官時代の話し方を見ていると、父親にそっくりだねえ。日米安保も大切だが、アジアを重視して、アジア全域を非核地帯にするような外交も期待したい」
▽父親の赳夫政権はわずか2年と短命でした。
「当時の自民党の派閥闘争の影響だな。首相を退陣した田中角栄が、派閥の力を誇示して、闇の将軍として君臨していた。このため2年で終わった。天の声は変な声もある、と言って、赳夫さんは退陣していったが、上州人というのは、みんな淡泊なんだ。あっさりしている。中曽根さんは違ったが。やはり赳夫さんとは親しかったな。政治信念が、社会党の進める護憲とも通じるものがあった。国会議事堂にある天井の高い床屋で、時折席を並べて髪を切ってもらいながら雑談していたもんだ。赳夫さんが、ヤマツルを呼べと言われて、と床屋のおばちゃんがよく連絡してきたな。2人が親しそうに雑談しているのを見ていた自民党の議員が驚いていた」
▽中曽根さんについては、どう思っていますか。
「政治的なスタンスの違いが、中曽根さんとはあったから、かなりやりとりはした。中曽根さんは、自民党の中でもタカ派で、憲法改正を高々と掲げていた。これに対して私は護憲主義者。戦うしかないと思っていた」
▽中曽根時代には、国鉄の分割・民営化という今でも政治問題として長引いている政策がありましたが。
「あれは、阻止できなかったのは、僕ら社会党の最大の失敗。野党も共闘できず、反対闘争ができなかった。中曽根さんは、当時の総評つぶしに躍起になっていた。その総評の中心が国労だった。国鉄の分割・民営化の本当の狙いが、国労つぶしだったことは、分かっていたが」
▽今でも中曽根さんは、その国鉄分割・民営化の断行を功績としているようですが。
「当時、国鉄を切られて、そして清算事業団にも切られて、いまだにJRに就職できない国労員がいることは、僕も十分に承知している。数年前に、いわゆる4党合意案が出た時、僕は何回も上京して関係者にお願いしてきた。しかし、事態は変わらなかった」
▽当時の売上税でも相当戦いましたね。
「中曽根政権時代に導入しようとしていたのに、直前の衆参ダブル選でも一切触れず、そして所信表明でも触れなかった。この時は野党と共闘して徹底抗戦して廃案に持ち込んだ」
▽故小渕恵三さんについても話してください。
「素直な人だったなあ。八ツ場ダムの建設が動き出した時だった。当時の政治スタンスは、福田が推進。中曽根が必要と言ったり、反対と言ったり。私自身は反対だった。小渕さんが、『福田、中曽根両先生の合意を取り付けて、私に一任すると言われました』と言ってきた。『ちょっと待て』と僕は言ったよ。こんな大きな国家事業を、政治家が簡単に一任するのは思えない。その後、どうなったか分からないが、小渕さんはこんな性格の人だった」
▽「彼に衆院議長就任の話が舞い込んできて、相談を受けたことがありますよ。首相を目指したいなら、断った方がいいよ、とアドバイスした。議長経験者が首相になることは、それまでもないから、そうしたことを話した。彼が首相になれたのは、このアドバイスがあったからかな(笑)」
▽その小渕さんも亡くなり、父親を継いだ2女の優子さんには男の子が誕生しました。
「当時、既に政界を僕自身引退していた。亡くなったのは、残念でしたね。優子さんもご本人が望んで政界に入ったのかどうか。自民党は、後援会がその利権を守るために存在しているから、本人の意思にかかわらず、後援会が政界入りを求めるんだよな。男の子誕生の話はめでたいが、大変だと思うよ」
▽最後に再び、福田政権について語ってください。
「社会党議員だったから期待を込めて言うが、社会民主主義的な政治姿勢を期待したい。野党と対話の努力をして国会運営をしていただきたい」
▽今読み返しても、含蓄した言葉が並んで、一連の政治の流れを読み込むことが出来る。良いインタビューをしたと今でも思っている。
【再掲載】★076インテリジェンス
▽警視庁公安部や内閣情報調査室、防衛省、外務省など、日本政府の情報分析、諜報活動を司るインテリジェンス機関の戦後の変遷をまとめたのが、「日本インテリジェンス史」(小谷賢、中公新書)という本だ。戦後、どういった変遷を経て、現在の組織がどうなっていったかを、具体例を多数挙げて解説した戦後史だ。良くも悪くも参考になった。相当、組織が肥大化しているなと思った。そして安倍政権でそのインテリジェンスは完成形を見たと筆者は言い切っているようだ。
▽著書の中で私が気になったのは、1983年9月1日の大韓機撃墜事件の日米の情報の動きだった。筆者はこんな事を書いている。
《米国は、傍受した電波情報をもとに、各情報機関の情報を集約して、分析を進め、事件発生から12時間後に同航空機がソ連軍によって撃墜された事実を導き出した。他方、日本側も決定的な電波情報を入手してはいたが、それを分析するところまでは行わず、あっさりと米国側に情報提供して終わっている》
▽つまり、情報は入手しても、日本側は何も出来なかったのだ。
▽実はこの事件を私も取材していた。
▽私が北海道新聞記者として北海道小樽市で、海上保安庁の出先機関である第1管区海上保安本部にその日早朝、警戒電話を入れて、その第一報を知った。しかし、その情報は、迷走していた。
▽最初はこういう内容だった。
「サハリン沖で、航空機が不明」
▽次に、こう変わった。
「釧路空港に強制着陸」
▽そして墜落情報。
▽第1管区海上保安本部は、その情報をどこから入手したのだろう。防衛省からか。だとしたら、釧路空港に強制着陸したという情報は何だったのか。
▽この「日本インテリジェンス史」にはこうある。
▽当時、北海道・稚内で米軍側が傍受作業をしていて、その1人がソ連軍パイロットの「目標を撃破」と交信しているのを直接確認した。同じころ日本側も陸自が東千歳通信所に勤務する自衛官が識別不明機に対するスクランブル状況の報告を受けて傍受班に対して緊急強化配備を要求。ミサイル発射と目標撃墜のやりとりを録音したことに成功したという。
▽この情報は筆者によると、運輸省に届けられず、極秘に官房長官の後藤田正晴に「韓国の民間機が不明」だと報告され、午後1時に内閣調査室が首相の中曽根康弘に上げた。
▽日米が極秘にソ連の通信を傍受していたことを暴露されたくない日本は、何も出来なかったらしい。米国側に情報を提供するだけで終わった。
▽私が当時取材した事件と、インテリジェンスから見える世界は、同じ事件でも全く違って見えてくる。そんなことが今になって分かった。
【再掲載】★018早稲田の川口君事件
▽第53回大宅壮一ノンフィクション賞(日本文学振興会主催)に選ばれた樋田毅著「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋)は、ノンフィクションというのには、その範疇にはとどまらない、筆者の深い怨念と執念を感じさせる作品だ。
▽1972年に早大で起きた川口君殺害事件。当時の早大は文学部などの自治会を革マル派が抑えており、その敵対関係にある中核との戦いの中に、ノンセクトの学生が巻き込まれていくという荒れたキャンパスになっていた。筆者はノンセクトの学生として、革マルに殺された早大生、川口大三郎君の死を悼んで、次第に文学部自治会を舞台に革マル派と対立するようになり、最後は襲撃も受けるようになる。「なぜ川口君は殺されたのか」と問い続けるまま、大学を卒業後、朝日新聞に入社。事件記者として活躍し、朝日新聞阪神支局を赤報隊に襲撃された「116号事件」の担当キャップとして取材することになる。そんな経験を持つ筆者が朝日新聞を退職後に取り組んだのが、この川口君殺害事件だった。
▽この本では、早大文学部のノンセクトの新自治会委員長に就任して、川口君を殺害した革マル派と対決していたという自己の履歴を紹介しながら、当時の関係者に取材をしていく。「なぜ殺されたのか」と。本人も革マル派に襲われた過去を思い出し、そのことも記述しながら、これでもか、これでもかと革マル派の強引な武装闘争に疑問を突きつけていく。その執念は、革マルの暴力は許さないという一心で進んでいく。
▽最後はその革マルの当事者で現在は別名で研究家となっている人間との対談を行い、その当事者が暴力を行ったことを認めさせつつも、本人が自己肯定していることを引き出した。言い訳をしているように思える内容だった。
▽ノンセクト時代の仲間の女性から話を聞こうと連絡を取ったが、末期がんであることを告げられる場面は妙に痛々しかった。
「樋田君。ちょっと遅かった。ガンの末期で、入院準備中なんだ」
と打ち明けられたシーンは泣けてくる。
▽授業料に自治会費を上乗せして、早大は授業料を徴収して、その自治会費を自治会に渡していたし、それが革マル派の資金となっていた。また学園祭である早稲田祭もパンフレット料を取って、それが自治会に収入となっていたことを筆者もおかしいと記していた。当時早大執行部は、毅然とした態度を見せることも、革マル派と縁を切ることが出来なかったのだ。
▽私は筆者と学部も学年も違うが、大学入学時にはまだ革マル派が自治会を牛耳っていたし、授業が始まる時間になると、必ず自治会の人間が出てきて、革マル派側の視点に立った講義を10分ほどしていた記憶がある。
▽川口君事件から半世紀がたつ。あの事件を語るべき人間が次第に亡くなっている。
【再掲載】★079「清六の戦争」
▽「清六の戦争」(伊藤絵理子著、毎日新聞出版)という書籍を読んだ。毎日新聞で連載した戦争シリーズをまとめたもので、好感が持てる内容だった。
▽毎日新聞情報調査部という内勤にいた女性記者が、たまたま曾祖父の兄弟が毎日新聞で従軍記者であることの記録があったことを社内で知って、その足跡をたどった一人称のルポだ。その遠い親戚である記者は毎日新聞に嘱託で採用されて、本社勤務となり、正社員として戦時特派員、従軍記者としてフィリピンに赴任するが、敗戦濃い中で戦意高揚を図るために洞窟でもガリ版刷り新聞を作ったという、その歴史をたどった。どんな思いで原稿を書いていったのか、追憶をたどる旅にも出る。
▽戦時中の国内の新聞は言論統制を受けて、「大本営発表」を繰り返していたが、一方で各社はこぞって進撃した外地に記者を送り出して、社屋まで造って新聞を出していたのだ。参考になる。国威発揚を煽る新聞社にとって戦争は部数を伸ばす道具でもあった。筆者はその状況も冷静に見据えて筆を進める。
▽毎年夏になるとマスコミ各社は戦争シリーズを企画として出してくるが、この作品は自分の親戚であった先輩記者の足取りをたどるルポとして、異色の企画となった。
▽内容もさることながら、やや驚いたのは、毎日新聞内部では毎年夏の戦争企画を公募しており、今回の書籍の元となった企画を筆者が提案し、採用されたことだ。内勤の記者がここまで出来るというのは毎日新聞の強みであり、朝日新聞には出来ないだろう。外勤ではない記者が書くルポを、キチンと掲載する毎日新聞の度量がすごい。朝日新聞では絶対にあり得ない企画だ。朝日新聞だったら、トップダウンの企画を、トップダウンで取材チームの人選を決めてしまう。そうしたケースを私は何回も見てきた。議論もしないで行うトップダウンの企画が、どれだけ空虚なものになっていたか。
▽また敗戦後には毎日新聞は戦争で死んだ社員を徹底して調査していたことも驚く。朝日新聞にはそんな記録があったのだろうか。あったとしたら、キチンと読んでみたい気がする。
【再掲載】★053ジャンボが消えた
▽「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」
▽1985年8月12日、羽田空港から大阪空港に向かった日航123便、ジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落した大型事故の第一報をこの短いフラッシュ記事として他社に先駆けて打ったのは、時事通信だった。世界最大事故を伝える最初のニュースだった。
▽小説「クライマーズ・ハイ」でも、群馬県警記者クラブで主人公が勤める新聞社の部下が時事通信の第一報を盗み聞きして、デスクの主人公に伝える場面がある。「ジャンボ機が消えた」。ドラマ化された中でも有名なシーンだった。
▽私も第一報が時事通信だとは知っていたが、そのレベルの知識しかなかった。新聞社と通信社は似ているようで、仕事の内容はかなり違っている。通信社はフラッシュに代表される第一報の速報が仕事の中心であり、新聞社は第一報よりは雑観記事や解説に重きを置く仕事が中心だから、時事通信のその第一報も、通信社の通常の仕事として発信したに過ぎないと思っていた。
▽しかし、それは大きな誤解だった。
▽この時事通信の第一報を流した記者は、ジャンボ機に異常が生じ、迷走してダッチロールが続いている状態で早くもその情報をキャッチし、裏を取って第一報を流していたのだ。「日航機123便墜落▽最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)にその取材の詳細が載っている。異常が発生してからわずか15分でその事実をつかんでいるのだ。同書によれば、当時の羽田空港にはNHKと共同通信、時事通信の記者が常勤していたが、NHKも共同通信も不在のことが多く、この日は本人しかいなかったという。そんな中で、羽田、所沢、大坂、周辺の空港の管制体制をすべてチェックして、第一報を打ったというのだ。まさにダブルチェックをした上でのフラッシュ記事だった。用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであることを知った。私は自分の勉強不足を恥じなければならなかった。
▽ついでに書くと、この本はジャンボ機墜落から30年以上が経過した時点で書かれた本だ。米国から見たジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。筆者は共同通信の記者として、話を聞くことが出来る人間は聞き回って、本書は完成度の高いルポルタージュになっている。
▽ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」
と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
★100新聞の地方撤退と攻勢
▽私が勤務していた朝日新聞社が、経営悪化を理由に次々と地方支局を撤退させていることに対して、ライバル社である読売新聞が、その撤退した支局の地域に、次々と販売攻勢をかけている。実際に関係者から聞いた話だが、朝日新聞は地方支局を撤退させことで、部数はさらに減少する。朝日新聞は自らの首を絞めているかのようだ。経営判断を誤っているとして思えない。
▽2023年4月現在、例えば埼玉県内で言えば、川越市にあった西埼玉支局、越谷市にあった東埼玉支局、秩父市にあった秩父支局、所沢市にあった所沢支局、川口市にあった川口支局、久喜市にあった久喜支局がなくなっている。駐在記者を置いて、補充はしているが、櫛の歯が抜けような状態になっている。
▽おこがましい言い方だが、こんな状態だと、新聞社としての機能である地方監視をするようなことは出来ない。事件事故の現場にも、すぐに行くことは出来なくなる。新聞社としての機動力が完全に落ちている。
▽朝日新聞は私が退職した後、急速な合理化を推し進めている。地方支局の撤退とともに、50歳前後の中堅、ベテラン記者を早期退職させるプログラムを導入し、配置転換やキャリア面接で事実上の強制退職を進めようとしている。管理職には、そうした指令が出ていることも知った。
▽こんな状態を知った読売新聞は、地方の販売店に号令をかけて、朝日新聞から読売新聞に契約を変更する攻勢に出ている。このチェンジ作戦はかなり有効なようで、
「地域ニュースが載っていない朝日新聞ではなく、地域ニュースをフォローしている読売新聞を」
というキャンペーンを続けて、部数を奪う作品に出ている。
▽以前にも、不祥事が続いた朝日新聞を批判する冊子を読売新聞が作成し、販売店経由でばらまいていたことがあったが、その時はあまり効果がなかったようだが、今回はそれ以上に、効果的のようだ。
▽私が勤務していた朝日新聞秩父支局でも、その前の佐渡支局でも朝日新聞は支局を撤退し、そうした地域には、読売新聞が地域のニュースを多く載せて、販売店が朝日新聞にはこうした記事が出ていないと、と販売攻勢をかけているのである。そんな話を読売新聞の記者が話していた。朝日新聞は、徐々に地域での販売部数を減らし、それを読売新聞が食っている形になっているのだ。
▽まさに負の連鎖。地方記者と中堅記者を次々と減らし、それが経営の効率化になっているならいいが、実際は逆であって、部数が徐々に減り、ますます自分の首を絞めているのだ。
▽朝日新聞の経営幹部は、この状態に気づかないのだろうか。否、気づいていても、目をつぶっているんだろうか。
▽恐らく、朝日新聞経営幹部がイメージしているのは、ニューヨークタイムズや日経新聞のデジタル戦略だろう。パソコンやスマートフォンで記事を有料で読んでもらうことが出来るなら、紙の媒体が減っても良いと考えているのだろう。デジタル契約者が増えれば、問題ないと思っているのだろう。
▽しかしこれには無理がある。日本の多くの新聞はデジタルにニュースをアップした際に、ほとんどを無料で読めるようにしてしまった経緯がある。インターネットの記事はすべて無料だと思わせてしまった。その状態を抜け出して、有料にするには相当無理がある。インターネットの読者は無料が当たり前だと思っている。世界ではグーグルなどが新聞社にカネを出す取り組みが始まっているが、日本ではそうした取り組みが出来るのだろうか。
▽また日本の新聞は販売店に頼る宅配制度によって、成り立っている。宅配制度で成り立ってきた新聞を一気にデジタル化するには相当の無理がある。販売店を一気に切り捨てることが出来るのかどうか。ニューヨークタイムズも日経新聞も販売店はないのだ。
▽朝日新聞が進める急速な合理化の先に、何が待っているのだろうか。
★099働かないおじさん
▽「働かないおじさん」という言葉が最近流行っている。大企業の社員の若者が、年配の社員に対して言う言葉だ。しかしこの言葉に私は違和感を持ってしまう。
▽私が勤めていた朝日新聞にも、確かに働かないおじさんはやはりいた。ある部署に100人の記者がいるとすると、10人は仕事ができる人間で、10人が仕事を全くしない人間だった。その中に働かないおじさんもいたし、できない若者もいた。そうした記者は、人事異動という手段によって淘汰されていくが、かといって残りがみんな働く者とはならない。新たに働かないおじさんや、できない若い記者ができるだけの話だ。つまり果実のみかんと一緒だ。段ボールにみかんを一緒に入れておくと、一部のみかんが腐り始める。腐ったみかんは次第に他のみかんに腐ることを伝授する。これと同じで、組織というものは、必ず仕事が出来ないおじさんを生んでいく。これが仕事をしないおじさん、と言うことなのだろうか。
▽違和感を持つのは、そうした働かないおじさんに対する批判・非難というのが、会社が仕向けていることだ。会社は効率の良い社員を作ろうとしているし、効率の悪い人間を排除しようとする。働かないおじさんという事は、排除する会社の論理に合わせて作られた言葉のような気がする。
▽私が見た限り、仕事はできないのに、さぼっている人間は確かにいる。私がある支局の支局長だった時、適当にサボっているベテランが何人かいた。夕方になると遊びに行ってしまうし、日曜日の選挙取材もサボってゴルフに行ってしまう。こんな人間、新聞記者ではないと思った。いくら注意しても、治らない。
▽だがこうした働かないおじさんは、もともとは会社が作り出してきた産物なのだ。いくらサボっても、組織は全体として動いているから、働かないおじさんも存在していたわけだ。働かないおじさんとは、組織が作り上げ出した産物に過ぎない。いくらこうした人間を排除しようとしても、必ず同じような人間が出てくるから不思議だ。
▽2022年8月4日付朝日新聞オピニオン面で、ジャーナリストの斎藤貴男氏はこう語っている。
《派遣労働が原則自由化され、正社員にも「高度プロフェッショナル制度」や「ホワイトカラーエグゼンプション」など給料を払わないための仕組みが次々に提案されていきます。そして今は、定年のはるか前の人たちも、できるだけ切りたい。「45歳定年論」なんてワルノリまで登場しました。
▽一方で政府は、社会保障費を増やしたくないからずっと働かせたい。雇いたくない企業と政府のせめぎ合いの中で、「働かない中年」は「人民の敵」になった。
▽そういう、支配者層に都合のいい言葉が多すぎます。「新陳代謝」もその一つです。コロナ禍での中小企業支援について、「ゾンビ企業を生きながらえさせるな」という自称エリートがたくさんいます。「新陳代謝をよくするため、この機に生産性の低い中小なんか潰しちまえ」という独善を、カッコよさげな言葉で言っている。社会はゲーム盤じゃないんです。SDGsもそうですよ。ジェンダー平等の必要性について、ある経済学者は「男だけの稼ぎで家庭が成り立つようだったら、企業が持ちませんから」と話していました。
▽「成果主義」にとりつかれ、働く人の誇りやセーフティーネットを「結果の悪平等」「既得権益」と言い換えてぶちこわしてきたのがこの20年です。これ以上、何を奪うのでしょう。中高年が多すぎるとしたら採用当時の経営者の責任であり、社員個人を糾弾するのは筋違いです》
▽見事な指摘だ。
▽働かないおじさんとは、その組織の隠れた影の部分である。私はそう思っている。
★094名刺にジャーナリスト
▽私の部下にベテラン記者がいた。あまり仕事を積極的にするタイプではなかったし、よくサボっている人間だった。
▽そのベテランが自分の名刺を会社に発注した時に、やや驚いたのは、名刺の裏書きに、「ジャーナリスト」と書いてあったことだ。
「えっ、こんな人間までジャーナリストなのかい。恥ずかしくないのか」
と思った。新聞記者がジャーナリスト、と名乗るのは、あまり例がない。新聞記者はあくまでも新聞記者である。それをジャーナリストと名乗るのだから、よほどこの言葉に良い響きを持っているのだろう。カタカナの職業って、格好いいかもと。
「恥ずかしくないのか」
と思ったのは、このベテラン記者の仕事ぶりにあった。
▽最近はジャーナリストだとだれもが自由に名乗る時代になった。政治ジャーナリスト、事件ジャーナリスト、軍事ジャーナリストは昔から使われてきたが、サッカージャーナリスト、料理ジャーナリスト、スポーツジャーナリスト、交通ジャーナリスト、映画ジャーナリスト、テレビジャーナリスト、犯罪ジャーナリスト、農業ジャーナリスト、芸能ジャーナリストなどいろいろな言葉を冠して使われるようになった。ジャーナリストの大安売り状態だ。
▽そのうち維新の会ジャーナリスト、永田町ジャーナリスト、NHKジャーナリストを名乗る人間も出てくるかもしれない。
▽しかし、ジャーナリズムの仕事を遂行する人、と定義するならば、言論の自由、反権力を標榜する人たちを指すのだろう。料理ジャーナリストって、料理業界を切って戦う人とは思えない。芸能ジャーナリストなら芸能界の暗部を浮き彫りにしてくれるのだろか。ジャニーズを批判したのだろうか。サッカージャーナリストなら電通との暗部を批判したのだろうか。
▽だから、私は「ジャーナリスト」を名乗る人を、一部を除くとあまり信用していない。田原総一朗、江川紹子、青木理ら尊敬する人は多いが、一方でジャーナリストとは思えないような政権の太鼓持ちをする人間は、むしろ軽蔑している。安倍政権、菅政権を擁護した人たちをジャーナリストとは呼びたくない。反ジャーナリストだ。
▽名刺裏に、「ジャーナリスト」と書いたこのベテラン記者、何を持ってジャーナリストと思い込んでいるのだろう。恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。
▽そう自称する前に、キチンと仕事をしてもらいたかったし、サボらないで欲しかった。選挙取材もキチンとして欲しかった。「病院に行く」と連絡して、そのまま夜までサボって欲しくなかった。殺人事件があったのに、ゴルフに行っていたため何時間も連絡が取れず、現場に行かせることも出来なかった。連絡が取れない新聞記者など、記者ではない。
▽そんなのがジャーナリストか、と今でも疑問に思っている。
★092割り勘と上司
▽上司が部下にご馳走する。私は新聞業界に40年いたが、それがずっと当たり前の習慣だと思ってきた。しかし、いつのころからか、そんな不文律は破られるようになった。上司も割り勘になった。平等なのか、はたまたケチになったのだろうか。
▽若いころ、仕事が一段落して、取材資料を整理していると、上司に誘われて食事に行くことがあった。居酒屋だったり、料理屋だったり、スナックだったり、その上司の行きつけの店だ。ビールや燗酒を飲み、惣菜を食う。明日も頑張れと言われる。勘定はその上司が全額支払う。
▽この光景が当たり前のように続いてきた。
▽だから、私が中間職になって部下を持った時には、当たり前のように私がカネを出した。昔の若い時にご馳走になったのだから、今度は自分がカネを出す番だと思っていた。
▽また複数人で飲食する場合には、半額以上を出すのが、マナーだと思っていた。
▽それがどうだろう。最近の上司の多くは、カネも割り勘だし、多めに出すことをしない。多少の傾斜配分があるだけだ。
▽地方総局の総局長やデスクも部下にご馳走する発想がなくなったようだ。
▽本社デスクも夜勤や泊まりの記者に、朝刊業務が終われば、万札を出して、ビールや惣菜を買いに行かせていたのに、今は割り勘だ。なんか、情けなくなってくる。本社のデスクは高給なのだから、ご馳走しても、懐は痛まないはずだが。時代は変わったのか。
▽私が朝日新聞上越支局長や東埼玉支局長、佐渡支局長時代は、土日に交代で県庁所在地の総局で代理のデスク当番に就いて、デスク業務をしていたが、朝刊作業が終われば、泊まりの記者にカネを出して、ビールや総菜を買ってきてもらい、何人かで飲食をしていたが、割り勘にさせたことは一度もない。「最近の若い人は、酒を飲まない」と言われるが、私は一度も断られたことがない。飲んで説教をすることはしないし、自慢話もしない。するとしたら、失敗話に花を咲かせていたぐらいだ。そのうち総局長も話の輪に加わって、珍しい日本酒を出してくれたこともある。いい総局長だったなあ。
▽ちなみに私が最後に勤務した朝日新聞秩父支局時代に、個人的に酒を付き合ってくれた上司は、わずか2人だけだった。年下の上司には嫌われていたかな。
★090米映画の新聞記者
▽「大統領の陰謀」は、ウオーターゲート事件で米ニクソン大統領を辞任に追い込んだワシントンポスト記者2人の活躍を描いたドキュメントで、文庫本にもなり、映画化もされた。ドラマではないが、ここで活躍する実在の2人の記者は、ディープストローなる人物に接し、取材の方向性を確認し、夜回りと電話取材を続けてきた。
▽私はこの映画を学生時代に見ていたが、改めて中堅・ベテラン記者になってDVDで観賞した。今の今、何がヒントになるのかと思って見た。やはり情報源を守り、そして取材を続けていくことが大切なことだと思った。同時に、それを守ってくれる幹部がいないと、ニュースにはならないことを改めて感じた。
▽2018年に日本で公開された映画「ペンタゴン・ペーパーズ」は、ペンタゴンペーパーを巡る新聞社の戦いを描いている。ペンタゴンペーパーといえば、私の記憶ではベトナム戦争を巡る機密文書の報道を巡るニューヨークタイムズと権力の闘いであり、言論の自由を勝ち取った事件だ。
▽今回の映画はそうではなくて、その機密文書を後追いせざる得ないワシントンポストを舞台にしたドラマだった。だから、評論家はかなり勘違いしている書き方をしていた。同じ情報源から得た情報を報道しようとする舞台裏では、家族経営の地方紙に過ぎないワシントンポストの経営拡大を巡って株式公開という経営判断を任されていた女性社主が、報道することで政府による訴追が行われ、会社が潰れるという忠告を受け、報道するか否か迷った。その上で、報道に踏み切る。古い輪転機が回り、提携紙も報道した。
▽訴追は評議の上、ワシントンポストもニューヨークタイムズも勝った、というストーリー。情報源からの取材シーンが、現実的ではなく、ただもらっただけなので、ちょっと首をかしげたが、最後はウオーターゲート事件を臭わせるシーンが登場し、いかにワイントンポストが優秀であるかを主張した映画だった。
▽こうしてみると、日本では新聞記者が活躍する映画が少ないと感じる。あったとしても、実際の新聞記者の取材活動を全く考慮していない映画が目立つ。ちょっと残念だ。
★088新聞の風刺漫画
▽新聞各紙の紙面から、政治風刺漫画がなくなって久しい。朝日新聞ではかつてサトウサンペイの4コマ漫画が、スルドイ風刺をしていたし、山田紳も一コマ漫画で時の政権をからかってきた。つい最近まで掲載されていた新聞の風刺漫画は、政権運営に不満を持つ民衆のはけ口だったはずだが、その精神はどこに行ってしまったのだろう。新聞に掲載される漫画の多くが、「脱政治」になっている。
▽今でも記憶に残る4コマ漫画がある。40年前のサトウサンペイの漫画「フジ三太郎」だった。掲載日は忘れたが、朝日新聞に掲載された。ロッキード事件が発生し、その余波で日韓の政官財が癒着していると取り沙汰された。いわゆる「日韓癒着問題」だ。国会で取り上げられた。そんな時期だった。
▽その4コマ漫画は、野党が証人喚問で証人を追求し、その政治家の名前を言えと正した。漫画の主人公は耳を立てて、テレビ中継を見ていた。漫画で証人の顔がクローズアップされ、さらにクローズアップされて口元まで見える。そこで歯ぎしりをするのだ。キシっという歯ぎしりだった。
▽お分かりだろうか。キシとは、岸信介元首相のことだ。戦後の政界を牛耳ってきたこの男が、日韓癒着の中でも顔を出しているのは、有名な話だ。国会の証人喚問で証人が歯ぎしりしただけで、名前が出てしまった。痛烈な風刺漫画だった。笑えた。こんなに面白い漫画はない、と私は思った。
▽サトウサンペイは1965年に朝日新聞夕刊で4コマ漫画「フジ三太郎」の連載を開始し、のちに朝刊に移り、1991年まで長期連載となった。文字通り、朝日新聞の目玉商品だった。2021年7月に死去した。91歳。
▽スルドイ風刺漫画をもう一度読みたい。
★086作家気取り
▽地方に転勤になると、時折変わった記者に出くわす。作家気取りで、通常の記者活動をしない人がいるのだ。それも私が勤務していた朝日新聞だったり、毎日新聞だったり。何か開き直っているような記者がいる。
▽地方での通常の記者活動とは、警察への事件事故警戒や、市議会の動き、選挙の取材、街ダネ、話題もの、行事ものなど幅広い。多分、「浅く、広く」というイメージが強いだろう。この中から取捨選択して取材をして、原稿を書くわけだ。ただし、「深く、狭く」という場合も時折ある。特ダネを追っている場合は、そうなる。基本的には、その地方の行政や事件事故、街ダネなどをウォッチして行くのが通常の取材だ。
▽しかし作家気取りの記者は、そんな事は一切しない。通常の取材を無視して、自分の好きなことだけを、何カ月もかけて取材し、記事にしている。だから紙面上、しばらくこの記者の記事は見かけない。本人は作家気取りで取材をしているから、仕事をしていると思い込んでいるが、これは仲間から見ても、上司から見ても困る存在なのだ。
▽こんなことをしていたら、第一、地方版の紙面が埋まらない。仲間への悪影響もある。示しが付かないのだ。
▽地方にいる新聞記者は、警察や行政への定点観測が大事だ。それを無視して、作家気取りになっていると、みんなに迷惑がかかる。困った存在なのだ。
▽私にも、痛い記憶がある。選挙取材もしないでサボっているベテラン記者がいた。目の前で起きた管内の殺人事件も行かずに、ゴルフに出ていた。呆れて何も言えなかった。
▽この「作家気取り」と表現したのは、私が勤務していたある地方支局で、同業他社の毎日新聞ベテラン記者が、我が朝日新聞ベテラン記者を指して、表現した言葉だった。かつて、静岡県で同じ勤務になったことがあるという。
「相変わらず、作家気取りでいるんだ」
と言われた。つまりかなり前から、若い時からそんな記者活動をしていたということになる。同業他社にまでこんな批判を受けて、私も恥ずかしくなった。仕事をしていない、と言われたことに等しい。
▽新聞記者は作家ではない。特に地方記者の場合、毎日毎日、取材をして原稿を書くことを求められている。瞬発力の問題だ。作家など必要ではない。
▽こういう活動を許してしまった朝日新聞という会社の風土が悪いのかもしれないが、こういう記者をかつては置いておくことが出来たのは、古き良き時代だったのだろう。今はそんなことは許されないはずだ。
★081佐渡支局廃止に怒り
▽私は怒っている。朝日新聞が佐渡支局を廃止したことだ。
▽日本海の離島、新潟県佐渡市の佐渡島は新潟港からフェリーで2時間半かかる。高速のジェットフォイルに乗っても1時間ちょっとかかる。冬の荒天だと、フェリーもジェットフォイルも欠航する。
▽私が2015年5月に朝日新聞佐渡支局に赴任した時、こんな離島に、マスコミは朝日新聞のほか、読売新聞、NHK、民放各社の記者が常駐していた。
▽北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんも佐渡に暮らしていて、私が赴任していた時に、夫のジェンキースさんが亡くなった。曽我さんの母親は北朝鮮に拉致され、不明になったままだ。曽我さんは「母親はまだ生きている」と信じて、救出活動の署名運動を地元で続けている。その署名活動を取材するのは、佐渡にいる記者たちだ。
▽国の特別天然記念物トキの再生事業も続けられている。一度全滅した野鳥のトキを、中国の協力で再生させたものだ。長い年月が必要で、環境省や県、佐渡市、地元の関係者の協力で大空にトキが舞うようになってきたのだ。年に2回の放鳥などの取材も地元記者がずっと続けてきた。
▽外交上の問題になった佐渡金山の世界遺産登録問題もある。これは長い年月をかけて、佐渡市や関係者が熱心に取り組んできたものだ。その熱意を、地元記者が取材してきた。
▽警察官が過激派組織、中核派に殺された東京・渋谷事件では、その警察官の出身地が佐渡だった。容疑者が逮捕された時に、その雑観取材を東京本社から新潟総局経由で指示されたこともある。
▽真冬の寒さで全島の半分の家庭で水道管が凍結し、自衛隊が災害救助に来た災害もあった。
▽北朝鮮の漁船が漂流し、佐渡に流されてきたことが続いたこともある。
▽私は2018年8月まで佐渡支局にいたが、取材は忙しかったが、楽しかった。都会的な娯楽施設は全くなかったが、島暮らしを堪能できた。
▽その佐渡支局を2022年3月いっぱいで廃止することを知った時、驚いた。何を持って、廃止することを決めたのか。
▽新聞業界の斜陽化で、地方支局を順次廃止していくというのが、会社の方針らしい。
▽しかし、全国の1人勤務支局を廃止したところで、経費の削減などたかが知れている。経費節減を言うなら、本社の部署を削った方がてっとり早い。それをしないで、地方支局廃止を進めるのは、地方支局に対する情熱や社内の声が弱いためだ。
▽朝日新聞は曽我ひとみさんの母親の生還を見ることなく、佐渡支局を廃止することが、私には悲しい。
◎参考文献→拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」
★079「清六の戦争」
▽「清六の戦争」(伊藤絵理子著、毎日新聞出版)という書籍を読んだ。毎日新聞で連載した戦争シリーズをまとめたもので、好感が持てる内容だった。
▽毎日新聞情報調査部という内勤にいた女性記者が、たまたま曾祖父の兄弟が毎日新聞で従軍記者であることの記録があったことを社内で知って、その足跡をたどった一人称のルポだ。その遠い親戚である記者は毎日新聞に嘱託で採用されて、本社勤務となり、正社員として戦時特派員、従軍記者としてフィリピンに赴任するが、敗戦濃い中で戦意高揚を図るために洞窟でもガリ版刷り新聞を作ったという、その歴史をたどった。どんな思いで原稿を書いていったのか、追憶をたどる旅にも出る。
▽戦時中の国内の新聞は言論統制を受けて、「大本営発表」を繰り返していたが、一方で各社はこぞって進撃した外地に記者を送り出して、社屋まで造って新聞を出していたのだ。参考になる。国威発揚を煽る新聞社にとって戦争は部数を伸ばす道具でもあった。筆者はその状況も冷静に見据えて筆を進める。
▽毎年夏になるとマスコミ各社は戦争シリーズを企画として出してくるが、この作品は自分の親戚であった先輩記者の足取りをたどるルポとして、異色の企画となった。
▽内容もさることながら、やや驚いたのは、毎日新聞内部では毎年夏の戦争企画を公募しており、今回の書籍の元となった企画を筆者が提案し、採用されたことだ。内勤の記者がここまで出来るというのは毎日新聞の強みであり、朝日新聞には出来ないだろう。外勤ではない記者が書くルポを、キチンと掲載する毎日新聞の度量がすごい。朝日新聞では絶対にあり得ない企画だ。朝日新聞だったら、トップダウンの企画を、トップダウンで取材チームの人選を決めてしまう。そうしたケースを私は何回も見てきた。議論もしないで行うトップダウンの企画が、どれだけ空虚なものになっていたか。
▽また敗戦後には毎日新聞は戦争で死んだ社員を徹底して調査していたことも驚く。朝日新聞にはそんな記録があったのだろうか。あったとしたら、キチンと読んでみたい気がする。
★076インテリジェンス
▽警視庁公安部や内閣情報調査室、防衛省、外務省など、日本政府の情報分析、諜報活動を司るインテリジェンス機関の戦後の変遷をまとめたのが、「日本インテリジェンス史」(小谷賢、中公新書)という本だ。戦後、どういった変遷を経て、現在の組織がどうなっていったかを、具体例を多数挙げて解説した戦後史だ。良くも悪くも参考になった。相当、組織が肥大化しているなと思った。そして安倍政権でそのインテリジェンスは完成形を見たと筆者は言い切っているようだ。
▽著書の中で私が気になったのは、1983年9月1日の大韓機撃墜事件の日米の情報の動きだった。筆者はこんな事を書いている。
《米国は、傍受した電波情報をもとに、各情報機関の情報を集約して、分析を進め、事件発生から12時間後に同航空機がソ連軍によって撃墜された事実を導き出した。他方、日本側も決定的な電波情報を入手してはいたが、それを分析するところまでは行わず、あっさりと米国側に情報提供して終わっている》
▽つまり、情報は入手しても、日本側は何も出来なかったのだ。
▽実はこの事件を私も取材していた。
▽私が北海道新聞記者として北海道小樽市で、海上保安庁の出先機関である第1管区海上保安本部にその日早朝、警戒電話を入れて、その第一報を知った。しかし、その情報は、迷走していた。
▽最初はこういう内容だった。
「サハリン沖で、航空機が不明」
▽次に、こう変わった。
「釧路空港に強制着陸」
▽そして墜落情報。
▽第1管区海上保安本部は、その情報をどこから入手したのだろう。防衛省からか。だとしたら、釧路空港に強制着陸したという情報は何だったのか。
▽この「日本インテリジェンス史」にはこうある。
▽当時、北海道・稚内で米軍側が傍受作業をしていて、その1人がソ連軍パイロットの「目標を撃破」と交信しているのを直接確認した。同じころ日本側も陸自が東千歳通信所に勤務する自衛官が識別不明機に対するスクランブル状況の報告を受けて傍受班に対して緊急強化配備を要求。ミサイル発射と目標撃墜のやりとりを録音したことに成功したという。
▽この情報は筆者によると、運輸省に届けられず、極秘に官房長官の後藤田正晴に「韓国の民間機が不明」だと報告され、午後1時に内閣調査室が首相の中曽根康弘に上げた。
▽日米が極秘にソ連の通信を傍受していたことを暴露されたくない日本は、何も出来なかったらしい。米国側に情報を提供するだけで終わった。
▽私が当時取材した事件と、インテリジェンスから見える世界は、同じ事件でも全く違って見えてくる。そんなことが今になって分かった。
★072上越新幹線と上越の勘違い
▽何年か前だったが、上越新幹線開業特集を紙面化するため、何人かで手分けをして取材をして原稿を書いた。しばらくして本社から中刷りが送られてきた。「中刷り」とは、1ページの紙面が組み込まれる途中に、一度印刷して、記者に紙面点検してもらう作業だ。
▽その中で、上野駅を出る上越新幹線の車両の過去の写真が掲載され、その写真説明に「上越に向かう上越新幹線」とあった。
▽オッと思った。
▽この写真説明が明らかに間違っていることに気づいた人間が、どれだけいるだろうか。
▽上越新幹線は、言うまでもなく東京駅または上野駅から新潟駅に向かう新幹線だ。しかし上越と言う地域名は、新潟県ではその新潟市を中心とする地域名ではなく、100キロ以上も南西に離れた上越市を中心とする地域名である。だから、上越新幹線は、上越に向かうのではなく、「新潟に向かう」「下越に向かう」が正しい。上越には行かないのだ。そう、上越に行かないのが、上越新幹線なのだ。
▽新潟県の地元の人間には当たり前のことだが、新潟県は京都に近い地域から、上越、中越、下越という地域名に分かれており、地元のテレビ局の天気予報もこの地域を分けて報じている。地域的にも文化的にも違いがあり、地元の人間によれば、方言も微妙に違っている。かつての参院選で田中角栄の娘、田中真紀子が、夫の直紀の新潟選挙区での出馬応援で、上越、中越、下越の方言を使い分けて応援演説をしていたことを後に知って驚いたことがある。
▽ややこしいが、開業時に新潟市に向かうのに、なぜ、「新潟新幹線」とはせず、「上越新幹線」にしたのだろうか。おそらく政治的な絡みがあるのだろう。
▽一方で長野新幹線が延伸して、金沢まで開業し、「北陸新幹線」として走り出したが、北陸新幹線は新潟県上越地方を通過する。上越新幹線とするなら、この北陸新幹線こそが、正当な上越新幹線なのだ。
▽「上越に向かう上越新幹線」という表現に誤りがあることを、私はデスクに指摘したが、そのデスクは何を言われているのか、しばらく理解できなかったようだ。
▽気付かずにそのまま原稿がデスクを通ってしまった。新聞社の人間ですら、きちんと理解できないのが、上越新幹線の行き先である。
★069アクセスランキング
▽戦前の新聞の話を記したい。
▽朝日新聞は戦前、満州事変を契機に、それまでの戦争に対する反対の論陣を改め、戦争遂行へとシフトを切り替えた。在郷軍人らによる不買運動で、部数が削減し、経営危機を心配した朝日新聞幹部が世論に迎合するような形で、戦争遂行へのプロパガンダと大きく舵取りをした。ジャーナリズムの精神を放棄したと言って良い。共同通信の故原寿雄さんによれば、「パンよりペン」ではなく、「ペンよりパンを選んだ」のである。
▽それに伴って、中国などの戦地には特派員を多く派遣し、戦意を高揚する記事を載せて、プロパガンダに一役買い、アジア太平洋戦争に突き進んでいった。朝日新聞は一時期だが、この方針の大転換で部数を取り戻していった。戦意を煽る紙面作りをして、世論に迎合していったのだ。
▽この経緯は、「帝国日本のプロパガンダ」(貴志俊彦著、中公新書)などに詳しい。朝日新聞は戦争遂行に協力したのだった。
▽なぜこんなことを書くかと言うと、最近の朝日新聞デジタルで、アクセスランキングの多い記事を紹介していることに違和感を持つようになったからだ。アクセス数だけで、記事に対する評価をしているようで、何か違うと感じるようになった。
▽確かにアクセス数が多いほど、それだけ読まれているのだろうが、新聞というのは、多くの人にアクセスされるのが、良い記事なのだろうか。朝日新聞が過去に報じた様々な調査報道による特ダネが、アクセスランキングでトップになっているのだろうか。実態がよくわからない世論に迎合した紙面作りをしているのではないか、と思ってしまう。
▽朝日新聞ではないが、「危機の新聞▽瀬戸際の記者」(坂夏樹著、さくら社)でも、同様の指摘がされている。毎日新聞の論説委員経験者である筆者が、自己の経験則から、新聞の衰退する自分史を記した内容だが、アクセス数を気にする会社の編集方針を暴露している。
▽私が新聞社にいたころ、視聴率を気にするテレビ局を冷ややかに見ていた。視聴率に左右されるテレビ局とは違い、新聞はそんな視聴者には左右されないジャーナリズムを作ってきたと思っていた。そう、実態の分からない世論に迎合しないで、取材をして記事は作っていく、という気概があった。
▽それが今ではどの社も読者のアクセスランキングを気にするようになっているのである。本末転倒だと思う。
▽アクセスランキングの多い記事を評価するようになると、世論に迎合して、戦意高揚に繋がる紙面が出来てくるのではないか、と私は危惧する。
★067縮小する地方支局
▽「あそこも廃止か」
▽朝日新聞の後輩や先輩らと酒を飲むと、こんな会話を最近するようになった。
▽朝日新聞の地方支局が次第に縮小している。1人勤務の支局や駐在、複数勤務の準支局の廃止が相次いでいるのだ。かつては地方に取材記者を配置し、拡大していった時代があるが、今はその逆になっている。
▽例えば私が1988年4月に赴任した浦和支局(現さいたま総局)。県内には多くの地方通信局、準支局があった。浦和支局のほか上尾駐在、川口通信局があった。川越市の川越支局(現西埼玉支局)には支局長以外に記者が2人いたほか、所沢通信局、新座駐在、狭山駐在があった。熊谷支局(現北埼玉支局)にも支局長以下3人の記者がいた。県内東部には、越谷通信局、春日部駐在、草加駐在の記者がいた。
▽その後、越谷通信局、春日部駐在、草加駐在が統合して東埼玉支局を作って、さらには久喜にも通信局が新たに出来た。しばらくはこの体制が維持された。私は後に東埼玉支局長に赴任したが、同支局は私のほか2人の支局員がいて、この人数は維持されてきた。通信局は名称を支局となったが、同じ体制は続いていた。
▽その取材網の縮小が始まったのは、2020年ごろからだ。いつしか西埼玉支局、北埼玉支局の記者数が減り始めた。久喜支局が廃止され、2022年4月にはついに西埼玉支局が廃止され、駐在を置くだけになる。所沢支局も廃止される。秩父支局も空席のままだ。
▽その4月1日付朝日新聞埼玉版の題字下からは、順次、支局の連絡先が消え始めた。東、西、北の各支局も電話番号はなく名前だけ残っていた。しかも県版には出していた1日付人事も出していない。本来なら、異動した東埼玉支局長、西埼玉支局長、所沢支局長の人事は出すべきなのに。
▽朝日新聞にとって、埼玉県は神奈川県と同様、首都圏である程度の部数が維持されてきた場所であり、ちょっと前までは、地方支局の削減などは対象外だった。部数が少ない東北の地方支局は元々削減対象になっていたが、埼玉を削減することはあり得なかった。そのあり得ないことが、始まっているのだ。
▽新聞業界の斜陽化で、予想以上に速い部数減で、経営幹部は危機感を持っているのだろう。経費節減どころか、どこかを切っていくしかない。そのターゲットが地方であり、そのための地方支局の廃止なのだろう。地方の記者数を減らせば、人件費が減ると考えているのだろう。
▽しかし地方支局の廃止は、両刃の剣だということに経営陣は気づいていない。元々部数が拡大していった半世紀前は、地方版を増やすことで、読者を増やしていった歴史がある。地方版を読みたいという読者の要望に応えて、地方支局を拡張していったのだ。
▽このまま朝日新聞がさらに地方支局を削減すると、さらに部数は減っていく。そんな危惧を私は持っている。
★063地方嫌い
▽私が2021年8月に朝日新聞を退職した前後から、定年にもなっていない記者が何人か辞めている。その多くは地方支局に赴任の辞令が出たのに、地方には行きたくないと言って辞めていった人間たちだ。そこまで地方取材が嫌なのか、と私は疑問に思ってしまう。
▽いちいち名前を挙げないが、東京本社で長く取材をしていると、中央取材をしている自分はエリートで、地方にいる記者はそうではない、と思い込んでいる記者が少なからずいる。特に朝日新聞がそうだ。中央から地方を見下してるから、地方には行きたくないと思っているし、エリートの自分が地方に行くのはあり得ないと信じ切っている。
▽それなのに、地方への人事が内示されると、
「話が違う」
と怒って、会社を辞めてしまうのだ。
▽地方に行くのをごねて、本社にとどまった記者もいたが、結局記者職を解かれた人間もいた。
▽朝日新聞の本社の人間は、地方が嫌いな人間がかなりいるのは紛れもない事実だ。
▽朝日新聞のいびつな人事制度も大きく影響している。
▽朝日新聞は記者採用に当たって長い間、中央エリート記者を担う新人記者と、地方を主に回る地方記者を別枠で採用してきた。中央エリートを担う若手記者を、朝日新聞内部では「練習生」と呼んでいた。練習生は地方採用記者より給料も高く、出世も早い。そんないびつな人事政策をずっと実施してきた。
▽だから本社に上がった練習生にとって、地方に行くことなどあり得ない話なのだ。
▽しかし、だ。部数の激減、広告収入の激減などで、どこの新聞社も経営が苦しくなり、朝日新聞も急速に大合理化を始めている。地方支局の数を減少し、一方では国鉄清算事業団のような部署を本社に作ったり、中央エリート記者をいつまでも記者職として本社に配置する体力はなくなっているのだ。
▽考えてみてほしい。
▽地方の記者として生きている方が、ずっと現場にいることが出来るではないか。地方こそ現場取材の宝庫なのだ。
▽福島県知事の汚職事件である「木村王国の崩壊」のように、またはリクルート事件の発端となった川崎市助役へのリクルート株譲渡のように、事件はすべて地方で起きている。常に地方の記者が取材をして発掘したものだ。地方をなめてはいけない。地方にこそ現場の取材ネタが転がっていることを知って欲しい。
▽しかしエリートを自認する記者たちは、それが分からないのだろう。悲しいことだ。
★060死刑執行の告知
▽私のライフワークの一つとして、日本の死刑制度の是非を考えるというテーマがあるが、その問題点の一つとして、死刑囚に対する告知問題が浮上している。このことを記してみたい。
▽日本の死刑確定囚に対して死刑執行を告知するのは、その執行のわずか1、2時間前だ。法務大臣の死刑執行命令書を元に、検察官が執行するのだが、死刑確定囚側からすると、突然のお迎えが来たように映る。
▽「足音が近づく」という手記は、獄中にいた死刑確定囚の小島繁夫が、いつ処刑されるかもしれないという恐怖感に直面している死刑確定囚の本音を綴っていた。タイトルの「足音が近づく」は、死刑執行の刑務官の足音が近づく恐怖感から取ったものだった。
▽そんな恐怖を和らげようと、大阪地裁では死刑確定囚2人が憲法違反だとして、訴訟を起こしている。
▽法務当局は「本人の心情の安定化のため」と説明するが、果たして、それだけで死刑確定囚の人権、防御権は守られるのだろうか。
▽裁判には根拠の一つとして、「玉井テープ」の存在を原告側は挙げている。玉井テープとは、大阪拘置所で死刑確定囚を執行する2日前から、面会に来た姉や職員とやりとりをしたことを記録した録音テープのことで、当時の大阪拘置所所長の玉井策郎が極秘に録音していた。執行の2日前には告知しており、現在と状況が全く違っている。玉井は翌年の国会で論議された死刑廃止法案の時も公述人として証言し、具体的な死刑囚とのやりとりを明らかにした人物だ。
▽死刑廃止運動を続けている市民団体は、その玉井テープを編集し直し、2022年10月のイベントで、そのテープを公開した。告知問題はもっと議論されても良いと私は感じる。
▽また2022年10月29日の朝日新聞社説では、その告知問題を取り上げていた。「死刑当日告知▽見過ごせぬ手続きの闇」というタイトルで掲載された。
▽告知問題が大阪地裁で訴訟になっていることを紹介し、玉井テープの存在も取り上げて、こう結んだ。
《だれもがそうではないかもしれないが、あらかじめ告知することで、静かに来し方を振り返り、自分と向き合うことができるケースもあることを示す。
▽死刑制度には、国家が人命を断つことへの根源的な疑問があり、冤罪(えんざい)だと取り返しがつかない。絞首刑の残虐性については死刑存置派の識者からも見直しを求める意見がある。朝日新聞社説は廃止に向けて歩を踏み出すべきだと主張してきた。ただちに実現しないとしても、改められる運用から変えるべきだ。
▽同時に、突然、理不尽に命を奪われた被害者の遺族を支援し、その負担を少しでも軽くできないか、施策を常に見直し、充実させることもまた、欠かすことのできない営みだ。
▽既に3分の2以上の国々が死刑を法律上または事実上廃止し、先進国での実施は日本と、米国のおよそ半数の州だけだ。米国は30日前には対象者と弁護人に執行を告知する。国連の人権機関は当日告知への懸念を日本政府に重ねて示してきた。
▽目をそらして済ませられない問題である》
▽こうした社説が出るようになったことを、私はうれしく思う。私が現役のころは、死刑制度について書かれた社説はほとんどなかった。
★057タイトル
▽このコラムを載せているホームページ「新聞記者▽封印40年の記憶」と、ホームページで紹介している拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」は、ともにタイトルを付けるのに苦労した。
▽当初考えていたタイトルは「新聞記者▽記憶の断捨離」だった。当初考えた時は、とても良いタイトルだと思った。しかし、「断捨離」という言葉が、なんと商標登録されており、使うことができなくなった。知り合いに指摘された。使ってしまえば、金を取られるか、訴えられる可能性があった。こんな造語までが商標登録されているなんて、と私は驚いた。
▽このため、あれこれ考えて、決めたのが上記のタイトルだった。ホームページのタイトルも変更した。
▽一般にタイトルを付けるのは筆者だが、ストレートに付けたり、言い回して付けたり、いろいろと考える。「新聞記者」とストレートに付ければ、新聞記者について書かれた本だと分かるが、これが言い回しで「取材現場は地方に宿る」だと、新聞記者なのかテレビ記者なのか、雑誌記者なのか、はたまたフリージャーナリストなのか分からないだろう。そこでサブタイトルとして、「新聞記者▽封印40年の記憶」を考えついた。
▽絶妙な言い回しのタイトルもある。名著である「日本のいちばん長い日」は、評論家の故半藤一利さんが日本の太平洋戦争敗戦の舞台裏を描いたものだが、タイトルだけでは内容は分からないだろう。しかし、この言い回しが秀逸なタイトルになっている。
▽タイトルを考えるのは難しい。ストレートにつけたり、言い回しにしたり、いろいろあるのだが、どういった言葉がいいのだろうか、試行錯誤は今後も続くに違いない。
★053ジャンボが消えた
▽「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」
▽1985年8月12日、羽田空港から大阪空港に向かった日航123便、ジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落した大型事故の第一報をこの短いフラッシュ記事として他社に先駆けて打ったのは、時事通信だった。世界最大事故を伝える最初のニュースだった。
▽小説「クライマーズ・ハイ」でも、群馬県警記者クラブで主人公が勤める新聞社の部下が時事通信の第一報を盗み聞きして、デスクの主人公に伝える場面がある。「ジャンボ機が消えた」。ドラマ化された中でも有名なシーンだった。
▽私も第一報が時事通信だとは知っていたが、そのレベルの知識しかなかった。新聞社と通信社は似ているようで、仕事の内容はかなり違っている。通信社はフラッシュに代表される第一報の速報が仕事の中心であり、新聞社は第一報よりは雑観記事や解説に重きを置く仕事が中心だから、時事通信のその第一報も、通信社の通常の仕事として発信したに過ぎないと思っていた。
▽しかし、それは大きな誤解だった。
▽この時事通信の第一報を流した記者は、ジャンボ機に異常が生じ、迷走してダッチロールが続いている状態で早くもその情報をキャッチし、裏を取って第一報を流していたのだ。「日航機123便墜落▽最後の証言」(堀越豊裕、平凡社新書)にその取材の詳細が載っている。異常が発生してからわずか15分でその事実をつかんでいるのだ。同書によれば、当時の羽田空港にはNHKと共同通信、時事通信の記者が常勤していたが、NHKも共同通信も不在のことが多く、この日は本人しかいなかったという。そんな中で、羽田、所沢、大坂、周辺の空港の管制体制をすべてチェックして、第一報を打ったというのだ。まさにダブルチェックをした上でのフラッシュ記事だった。用意周到な取材体制を作ったからこそ出来た特ダネであることを知った。私は自分の勉強不足を恥じなければならなかった。
▽ついでに書くと、この本はジャンボ機墜落から30年以上が経過した時点で書かれた本だ。米国から見たジャンボ機墜落の証言者に取材を続けて、様々出た意見や諸説を検証し、圧力隔壁の修理ミスが原因であることは揺るがない、という結論を見いだした濃厚な労作だ。筆者は共同通信の記者として、話を聞くことが出来る人間は聞き回って、本書は完成度の高いルポルタージュになっている。
▽ボーイング側は事故機が修理ミスを犯したことをいち早く突き止めて、日本側に通告しているが、日本側はそれを受け入れず、中間報告でも圧力隔壁の破壊の原因を先延ばしにしたことなどの流れを明らかにしていく。日本では業務上過失致死という捜査が主流だが、アメリカでは責任が免責されて、事故原因を突き止める手法が確立されている、という国家の違いも触れながら、日本側がなかなか事故原因を発表しないことから、米側が修理ミスをニューヨークタイムスにリークしたのは、そうした事情からという話も聞き出した。
「墜落・誤射説までもが浮上する現状に終止符を」
と訴えた結論には説得力があった。過去にはなかったジャンボ機墜落検証ルポとなっている。
★051 iPhone
▽2022年7月に入り、携帯電話大手のKDDIで大規模な通信障害が発生し、データ通信も通話も出来ない事態が60時間以上も続いたのは、記憶に新しい。社会的インフラと言われるようになった通信会社大手の今回のトラブルは広範囲に及び、その脆弱性も浮き彫りになった。
▽私はKDDIのauでiPhoneを使っており、その影響をもろに受けた。通話ばかりではなく、電話番号を使ったショートメールも使えなくなり、インターネット上で使われる二段階認証が出来なくなった。このため、アクセスしたいホームページにもアクセスできない状態が続いた。
▽KDDIのアナウンスはずさんだった。事態は改善されていないのに、解消したと強調し、マスコミの多くも大本営よろしく、そのまま垂れ流した。私のiPhoneで何回も通話を試みたが、出来ていなかったにもかかわらず、KDDIは嘘をアナウンスしていた。非常に不愉快だった。
▽こうなったら、KDDI側に「否」と意思表示するしかない。
▽そう思った私は、たまたま通りかがったショッピングモールの一角で開いていたドコモショップで、キャリアをauからドコモに変更する手続きをした。以前と違って、本体はそのままにして、今は簡単にキャリアを変更出来る時代だ。しかも料金が安くなる。キャッシュバックもあった。店員はこんなことを私に言った。
▽「今は利用者の争奪戦なので、少しでも有利なコースを紹介しています」
▽手続き後、このiPhoneですぐに通話が出来るようになったし、メールの送受信も出来るようになった。各種アプリも問題なく使えた。
▽振り返ってみれば、アップル社のiPhoneが日本で発売されたのは、2008年6月だ。もう10年以上も前の話だ。当初はソフトバンクから発売され、次にau、最後にドコモから発売された経緯がある。
▽私は当時、ドコモのガラケーを使っていたが、これとは別に物珍しさから、ソフトバンクと契約して、iPhoneを使い出した。そのうち、ドコモからiPhoneが発売されれば、キャリア変更して使うことを決めていたが、なかなかドコモからは発売されない。そしてとどめが、朝日新聞の記事だった。ドコモは当面、iPhoneを発売しない、と報じていた。自分が勤めていた会社の記事だから、それを信用するしかなかった。
▽それだったらと、ドコモのiPhoneは出ないと諦めて、ソフトバンクとの2年縛りの契約を終えて、ここで初めてauと契約し、新しいiPhoneを使うようになった。2012年9月のことだ。
▽そしてその数週間後だった。突如として、ドコモがiPhoneを発売するという記事を読んだ。愕然とした。朝日新聞を信用した私が馬鹿だった。ドコモの嘘を見抜けなかった朝日新聞記者はもっと馬鹿だった。
▽それ以来、約10年間にわたって、auと契約を続けて、機種変更しながら、auのiPhoneを使い続けてきた。契約には利用者のキャリア変更を阻止するため、4年縛りもあったし、3年縛りもあった。
▽私がドコモユーザーになるのは、10年ぶり。長期間利用のユーザーに対するサービスが欠けていたドコモはその後、ユーザーに対するサービス向上を努めているのだろうか。じっくりと見ていきたい。
★050二人の政治家
▽私が朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)に勤務し、埼玉県政を担当していた時のことだ。衆院の解散が近いという情報で、担当の旧埼玉1区(当時)の候補者の動きを探っていた。当時はまだ中間選挙区制度で、小選挙区制ではなく、定数は3。実質的な有力候補は自民の2人と社会党の1人に絞られていた。この自民2人がかなり仲が悪かったことを今でも思い出す。
▽浜田卓二郎と松永光の2人だ。
▽浜田は旧大蔵省を経て、80年の総選挙で初当選した。浜田の名を我々報道陣の中で賑わしたのは、当時拡大していたリクルート事件の中でだった。リクルート事件は就職・住宅の大手リクルート社が政官財やマスコミに値上がり確実な未公開株を派手にばらまき、東京地検特捜部が政治家や公務員などを次々と逮捕、起訴した事件だ。その渦中の疑惑政治家の中に、「はまたく」こと、浜田卓二郎もいた。疑惑の政治家の1人だった。
▽しかし、彼はマスコミの取材から逃げていた。コメントすら出さなかった。そして驚いたことに、疑惑の拡大を防ごうとして取ったのが、本人の妻が元客室乗務員だという宣伝の元で始まった、夫婦の派手なマスコミへの露出だった。テレビ局はこの夫婦を面白がって取り上げて、浜田のリクルート疑惑はかすんでいった。
▽それに伴って、浜田は総選挙用にマスコミが配る調査表も受け取り、顔写真撮影も受けるようになった。私が訪れた浦和市(現さいたま市)の自宅は、「はまたく御殿」と呼ばれるほど、大きな瀟洒な造りの建物で、本人はニコニコしながら写真撮影に応じていた。そして最後に、内容は忘れたが、松永の悪口を付け加えるのを忘れなかった。
▽一方の松永は1969年に初当選している。自宅は浦和駅近くのビルの中にあった。検察官出身で、冷静な口調で話すのだが、夜回りで訪れた私に対して、浜田の行った違法行為を延々としゃべるのだった。選挙情勢を聞きたい私に対して、浜田批判は止まらなかった。
▽もうあれから30年以上が経過している。突出した浜田夫婦のマスコミ登場も、全くなくなった。
▽そして2022年には、2人が相次いで亡くなった。
▽以下は朝日新聞からお悔やみの記事を紹介しよう。
《浜田卓二郎さん(はまだ・たくじろう=元衆院議員、元参院議員)16日、慢性心不全で死去、80歳。葬儀は家族のみで営んだ。喪主は妻麻記子(まきこ)さん。後日、しのぶ会を開く。
▽旧大蔵省を経て、80年の衆院選(旧埼玉1区)で初当選し、連続4期務めた。98年には参院埼玉選挙区で当選した。自民党や新進党などに属し、衆院法務委員長などを務めた》(5月25日付)
《松永光さん(まつなが・ひかる=元蔵相)11日、老衰で死去、93歳。通夜は16日午後4時30分、葬儀は17日午前10時30分から、さいたま市南区本太1の42の2の延命寺で。喪主は長男明(あきら)さん。
▽検事、弁護士を経て1969年の衆院選(旧埼玉1区)で初当選。自民党に所属し、文相、通産相などを歴任した。当選10回》(10月13日付)
▽合掌。
★045つま恋コンサート
▽「かっちょいい」
▽そう思った。「かっちょいい」とは、「格好良い」の言葉をもじったものだが、それもいろいろ定説があるらしいが、ここでは論じない。
▽2006年9月、静岡県・つま恋コンサートでの出来事だった。この日、吉田拓郎とかぐや姫による合同コンサートが開かれていた。ステージを交代で行い、吉田拓郎にとってはこの日3回目のステージだった。吉田拓郎が生ギターを使って、歌い出した。
▽「なのに、永遠の嘘を聞きたくて、きょうもまだこの街で酔っている♫」
▽「永遠の嘘を聞きたくて、今はまだ2人とも度の途中だと♪」
▽「永遠の嘘をついてくれ」という曲だった。
▽歌手の中島みゆきが吉田拓郎のために作詞作曲した曲だった。
▽生ギターが終わると、バックバンドの瀬尾バンドが、演奏を始めた。音楽プロジューサーの瀬尾一三が率いるバンドで、まるで生きものが動くように、イントロを始めた。ギタリストの古川望のリードギターが会場に響く。だれかの登壇を待っているかのようだった。
▽そして登場したのが、驚くなかれ。サプライズの中島みゆき本人だった。彼女が先に歌いだした。
▽「一度は夢を見せてくれた君じゃないか♩」
▽そして拓郎が次に続いた。
▽「人はみな、望む答えだけを聞けるまで尋ね続けてしまうものだから♪」
▽最後は2人で歌った。
▽「永遠の嘘をついてくれ▽出会わなければ良かった人などないと笑ってくれ♫」
▽名曲だと思った。
▽「たねあかしをするな」
▽「出会わなければ良かった人などない」
▽胸に何とグサリとくる言葉だった。
▽しかも、大物アーティストが、同じステージでうたうとは。吉田拓郎も中島みゆきにしてもそうだ。これはみゆきが拓郎に贈ったラブレターだという人もいた。拓郎に続いて私も頑張るから、というメッセージが込められていると感じた。
▽瀬尾バンドとともに入ったバックコーラスも素晴らしかった。古川のリードギターも素晴らしかった。
▽そして悔やんだ。
▽実はこのコンサート、私は当日見ていない。実際に見たのは、後に購入したDVDだった。このコンサート時、私は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤めており、コンサートの開催すら知らなかったのだ。仕事で忙しかったこともある。知っていたら、チケットを取る努力をしていただろうか。
▽地方にいると、こうしたコンサートの開催の有無すらわからないことが多い。よほどチェックしてないと分からない。このコンサートを後に聞いて、やはり行ければよかったなと思った。
▽その吉田拓郎はその後、音楽活動を事実上、休止すると話した。ファンには衝撃が走った。新型コロナウイルス感染の影響で、中島みゆきもコンサートを中断している。
▽2人は今後どういうメッセージを、私たちに示してくれるのだろうか。
★038国税当局
▽国税当局のマスコミ対策の一つに、新聞社員に配られていた新聞購読料というものがあった。その新聞購読料を標的に、税を取ろうというセコい時期があった。不愉快な行政指導を受け入れたことに、今でも不満に思っている。今回はそのことを振り返りたい。
▽私は新聞社に計40年間勤めていたが、新聞社の社員には、自社の新聞購読料金を無料にして、給料とは別にその購読券を社員全員に手渡し、社員はその購読券を自宅近くの新聞販売店に渡して、新聞を配達してもらっていた。だから、現役社員でいた時代は、自社の新聞を無料で購読して読むことができた。ずっと、そうだった。だから、「自社の新聞はただ」という意識がずっと染みついていた。
▽こうした自社製品を無料にしたり、安くしたりして、社員に提供するのは新聞業界だけではなく、多くの産業で行っている社員サービスだろう。
▽それが今から15年以上前だろうか、国税局の指導で、その無料購読券の配布が中止になった。給料の中に新聞代金を入れるように指導された。こうすれば、国税当局にとっては、社員の給料が新聞代分増えるため、課税額が大きくなるのだ。国税当局にとっては、税収が伸びる。一方で我々新聞社の社員にとっては、形だけ給料が増えるだけから、課税額が多くなり、結果として手取りが少なくなる。こんなせこいこと、国税当局は生み出し、そして今でも遂行している。新聞記者にとっては必要経費である新聞代すら、認められなくなっているのだ。どこかおかしくないだろうか。
▽新聞記者は、自社の新聞だけではなく、他社の新聞も自宅で取っている。すべて自腹だ。私の場合、一時期は朝日新聞のほか、毎日新聞、読売新聞、東京新聞、産経新聞、日本経済新聞も取っていた。これだけで相当な出費だった。
▽新聞購読料だけではなかった。
▽JRなどの通勤定期券の代金も、同じように給料に含まれるようになった。以前なら、通勤定期代は給料とは別に支給されていた。一般サラリーマンも同様だろう。通勤定期代は給料とは別に支給されるか、現物を支給されていたはずだ。それがいつの間にか、給料に入れるようになった。国税当局は別途支給や現物支給するのをやめさせて、給料に入れるよう指導した。こうすれば、会社員にとって給料は見かけ上多くなるが、その分税金が課税され、手取りが少なくなる。国税当局にとっては税収が大きくなる。定期代金はサラリーマンにとって必要経費なのに、こんなせこいやり方を国税当局が続けている。おかしくないのだろうか。
▽大富豪の税金逃れを見逃し、庶民からはセコい方法で税金を取る、というのは、庶民の敵でしかない。
▽大富豪の税金逃れについては、多くのライターが指摘している。参考にしていただきたい。
★028神戸児童殺傷事件
▽神戸児童殺傷事件から25年が経過した2022年5月26日付朝日新聞夕刊第1社会面に、「神戸児童殺傷25年 当時の捜査1課長」と題する記事が掲載された。事件を担当した当時の兵庫県警捜査1課長が事件を振り返るインタビューを載せていた。キチンとインタビューしていて、それなりの答えを引き出していて、知らない読者なら、「ふーん、そうか」と感想を持ったことだろう。
▽だが、この記事、その捜査1課長本人が出版した「二本の棘 兵庫県警捜査費録」(山下征士、角川書店)と内容が完全に同じで、完全なパクリだった。たまたま私はその本を読んでいて、内容が同じであることに気づいた。
▽本の中では、県警本部の宿直捜査員から筆者宅に早朝、電話があり、行方不明となっている少年の首が見つかったという場面から書き出して、長い捜査が始まったことを振り返る内容で、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗っていた少年Aの逮捕までを本では記していた。
▽記事ではその1課長が出した著書についても、出版社名も出しておらず、本を読んでいる人間なら、この記事が単なる本の紹介であることはすぐ分かる内容だった。そうであるなら、記事はインタビューという形にはせず、著書の紹介という形で出せば、良かったはずだ。
▽これは完全なルール違反だ。本を読んでいただければ分かるが、インタビューと思われた新聞記事は、単なる本の紹介であり、記者がインタビューで引き出した言葉ではない。愕然とした。
▽この本はこの神戸児童殺傷事件のほか、朝日新聞阪神支局が赤報隊を名乗る人間に襲撃された116号事件なども振り返っていて、筆者は朝日新聞の記者がかなりの取材力を持っていることにも賞賛していた。116号事件は捜査より、朝日新聞の取材の方が犯人に速くたどり着くのではないか、とまで思っていたと言い切っている。朝日新聞OBとしてこそばゆいが、そうした取材力を県警幹部が認めてくれるところに、朝日新聞のチーム力があったということだろう。
▽それに比べて、この夕刊の記事は何と、お粗末な、お手軽な記事なのだろう。ルール違反をして、インタビューの形で仕上げるとは。情けない。
★024「クライマーズ・ハイ」と「新聞記者」
▽もう40年間も新聞記者をしていたから、新聞記者を主人公にしたドラマや映画が気になっている。
▽古くは「事件記者」が有名だが、私の現役世代ではない。もう20年か30年前にもNHKで女性新聞記者を主人公にしたドラマ「帰ってきちゃった」があった。酒井法子が主人公で確か新潟支局を舞台にしていた。
▽最近では東京新聞記者、望月衣塑子が原作の「新聞記者」が公開されたが、内容的にはちょっと現実味が足りなかった。こんなに簡単な取材で特ダネが取れるなんて、この映画監督は現実の新聞記者の仕事を何も分かっていないと感じた。
▽その点、やはり新聞記者を主人公にしたドラマや映画では、「クライマーズ・ハイ」が最高峰だろう。
▽群馬県の地元紙上毛新聞記者出身の作家横山秀夫が描いた「クライマーズ・ハイ」は、NHKドラマや、映画になった。群馬県・御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落した大型事故をめぐって書かれた新聞記者のドラマである。地元紙の北関東新聞を舞台にして、一匹狼的な存在の主人公の記者が、日航機事故の全権デスクを命じられる。御巣鷹山の墜落現場に行かせた部下からの原稿は、掲載することが出来ず、その部下とのやりとり、上司や社長とのやりとりをしながら、紙面を作っていくストーリーだ。ジャンボ機墜落の原因を、圧力隔壁にあるという情報をつかんだ時も、ダブルチェックを指示している。悩みながら新聞社デスクを続ける話である。
▽そしてやはり面白いのは、新聞記者も人事に弱いと言うことである。上司は部下に人事権を振りかざす。部下は抵抗する。しかし結局飛ばされるのだ。ドラマの方は、私が群馬県に勤務している時に放映されたが、同業他社と、「結局は飛ばされたねえ」と雑談していたことを思い出す。
▽これぐらい、泥臭くないと、新聞社と言えない。新聞記者もサラリーマンで、人事異動におびえる。そんな組織の面白さが伝わってくる。
▽刑事ドラマなどでは、新聞記者や週刊誌記者、フリーライターが軽い存在として登場することが多いが、実際の記者たちは、情報を取るためアンテナを張り、夜討ち朝駆けを続けて、さらにダブルチェックをして記事にしていく。そんな簡単な作業ではない。
▽新聞記者を主人公にした見応えのあるドラマを、まただれか作ってくれないかな。
★018早稲田の川口君事件
▽第53回大宅壮一ノンフィクション賞(日本文学振興会主催)に選ばれた樋田毅著「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋)は、ノンフィクションというのには、その範疇にはとどまらない、筆者の深い怨念と執念を感じさせる作品だ。
▽1972年に早大で起きた川口君殺害事件。当時の早大は文学部などの自治会を革マル派が抑えており、その敵対関係にある中核との戦いの中に、ノンセクトの学生が巻き込まれていくという荒れたキャンパスになっていた。筆者はノンセクトの学生として、革マルに殺された早大生、川口大三郎君の死を悼んで、次第に文学部自治会を舞台に革マル派と対立するようになり、最後は襲撃も受けるようになる。「なぜ川口君は殺されたのか」と問い続けるまま、大学を卒業後、朝日新聞に入社。事件記者として活躍し、朝日新聞阪神支局を赤報隊に襲撃された「116号事件」の担当キャップとして取材することになる。そんな経験を持つ筆者が朝日新聞を退職後に取り組んだのが、この川口君殺害事件だった。
▽この本では、早大文学部のノンセクトの新自治会委員長に就任して、川口君を殺害した革マル派と対決していたという自己の履歴を紹介しながら、当時の関係者に取材をしていく。「なぜ殺されたのか」と。本人も革マル派に襲われた過去を思い出し、そのことも記述しながら、これでもか、これでもかと革マル派の強引な武装闘争に疑問を突きつけていく。その執念は、革マルの暴力は許さないという一心で進んでいく。
▽最後はその革マルの当事者で現在は別名で研究家となっている人間との対談を行い、その当事者が暴力を行ったことを認めさせつつも、本人が自己肯定していることを引き出した。言い訳をしているように思える内容だった。
▽ノンセクト時代の仲間の女性から話を聞こうと連絡を取ったが、末期がんであることを告げられる場面は妙に痛々しかった。
「樋田君。ちょっと遅かった。ガンの末期で、入院準備中なんだ」
と打ち明けられたシーンは泣けてくる。
▽授業料に自治会費を上乗せして、早大は授業料を徴収して、その自治会費を自治会に渡していたし、それが革マル派の資金となっていた。また学園祭である早稲田祭もパンフレット料を取って、それが自治会に収入となっていたことを筆者もおかしいと記していた。当時早大執行部は、毅然とした態度を見せることも、革マル派と縁を切ることが出来なかったのだ。
▽私は筆者と学部も学年も違うが、大学入学時にはまだ革マル派が自治会を牛耳っていたし、授業が始まる時間になると、必ず自治会の人間が出てきて、革マル派側の視点に立った講義を10分ほどしていた記憶がある。
▽川口君事件から半世紀がたつ。あの事件を語るべき人間が次第に亡くなっている。
★014地震と作文
▽東日本大震災大震災から11年後の2022年3月16日深夜、福島県沖を震源地とする大きな地震が起きた。私が住んでいる埼玉県でもかなりの揺れを観測し、停電が2時間にわたって続いた。東日本大震災を思い出した方も多いだろう。
▽この大地震の被害の一つとして、東京発仙台行きの東北新幹線が脱線した事故がある。
▽高速運転中で、あの大きな揺れで、よくぞ脱線だけで済んだなと妙に感心してしまった。
▽当初の地元紙、河北新報のネットでの速報は、
「超特急の高速運転中に地震が起きて、恐怖だった」
というトーンの記事を出していた。「超特急」という言葉も古いが、超高速運転中の地震だったことを強調したいのだろう。
▽しかし、この速報記事は、まるっきりの嘘だった。作文だった。
▽東北新幹線の車両が脱線したが、後に分かってきたのは、地震は停車する直前か直後だったらしい。
《国の運輸安全委員会の調査官は走行中ではなく停止する前後に脱線したとの見方を示しており、17日の調査の結果、走行中に脱線した場合にできる痕跡は見つからなかった。運輸安全委員会・鉄道事故調査官は「列車が脱線する時、走行中であると、この辺から脱線したという『脱線痕』があるが、列車が進行してきた方向に『脱線痕』が手前まで見つからなかった。止まる瞬間、もしくは止まってから脱線した」と話す》(テレビ朝日ニュースから要約)
▽停電で新幹線は減速し急停車した。そしてその前後に激しい揺れがあった。要するにかなりの低速か停車状態で地震を受けたということになる。だから、この程度の脱線だけで済んだのだ。高速運転中だったら、もっと車両がレールから振り切れてしまい、それこそ高架橋から脱落してしまっていただろう。そう思うとぞっとする。
▽河北新報の速報は、なぜこんな誤った作文を記事にしたのだろうか。
▽想像するには、新幹線、イコール、超特急、それゆえの地震直撃、というイメージを作ってしまい、何の確認もしないまま、記事に仕立てたのだろう。新幹線が地震発生を検知するシステムで減速していた事実を、確認していれば、こんな嘘を書く必要はなかった。
▽こんな記事がまかり通ってしまうところに、ネットでのニュース速報の怖さがある。速報だろうが、裏取りは新聞記者の取材のイロハだ。
★011海保
▽2022年4月23日に北海道・知床半島沖で観光船が行方不明となった海難事故では、乗員・乗客26人が絶望視された。マスコミが大きく報じていたが、気になる表現が朝日新聞にあった。
▽「海保」という略称だ。
▽記事を読んでいると、海上保安庁を「海保」と略し、朝日新聞デジタルでも出先機関の第1管区海上保安本部を「1管区海保」と見出しにしていた。
▽これはすべて誤りだ。
▽「海保」とは海上保安部の略称であり、根室海上保安部なら「根室海保」、「小樽海上保安部」なら「小樽海保」と略す。新聞の決まり事だ。つまり前線基地である海上保安部の略称だ。
▽また組織が小さい海上保安署を「海保」とは略さない。「海保」とはあくまでも、「海上保安部」の略称だ。
▽さらに言うと海上保安庁を「海保」とは呼ばない。海上保安庁の略称はない。記事の中で同じく使い続けるなら、「同庁」だ。
▽北海道小樽市にある「第1管区海上保安本部」の略称は、「1管本部」だ。朝日新聞デジタルの見出しで「1管区海保」となっていたから、笑ってしまった。「何だ、それは」と思った。
▽見出しを付けた人間は「1管本部」という略し方が分からないのだ。ここまで朝日新聞は劣化したかと思った。北海道の過去の海難事故を新聞で調べれば分かることだ。勉強不足だ。
▽新聞原稿を書く時、記者は原稿に仮見出しを付ける。整理部の記者はこの仮見出しを参考に見出しを考えていく。「1管区海保」という誤った見出しは、原稿を書いた記者も、見出しを付けた整理部の記者も何も分かっていなかったことになる。
▽同様に宮城県塩釜市にある「第2管区海上保安本部」は「2管本部」であり、横浜市にある「第3管区海上保安本部」は「3管本部」と略す。新聞の決まり事が分かっていないと感じた。
▽海難事故は、陸上では起きないから、海のない県で記者生活を送ると、取材経験がないままになる。海上保安部の取材をしたこともない記者が増えているのが原因だろう。漁船にせよ遊覧船にせよ大型フェリーにせよ、遭難すれば大きなニュースになる。そのためにも普段から海上保安部や管区海上保安本部の取材は丁寧にしておいた方がいい。
★008道新記者逮捕
▽北海道旭川市の国立大学法人旭川医科大学で2021年6月、立ち入り禁止の場所に侵入したとして、建造物侵入容疑で書類送検された北海道新聞の20代の女性記者と、当時の現場責任者「キャップ」だった40代の女性記者について旭川区検は翌年3月31日、いずれも不起訴処分とした。
▽これを受けて北海道新聞は4月12日、編集局長の役員報酬を減額するとしたほか、責任者ら4人を厳重注意、書類送検された20代記者を口頭指導とした。
▽なんと不可解な北海道新聞の対応なのだろう、と私は思った。
▽取材である。旭川医大では不祥事が続いていた。国民の税金で経営が成り立っている大学だ。いくら取材を拒否されても、取材するのは新聞記者として当然だ。法律で決められたからといって、それを守っていたら真実がわからないこともある。大学の発表だけを書いていては、およそ真実には至らないこともあるはずだ。この女性記者は大学職員に常人逮捕され、警察官に引き渡された。
▽北海道新聞は、自分の記者が逮捕されても、北海道警に抗議もしなかった。何を考えているのか。不思議でしょうがない。
▽しかも逮捕時は多くの社が匿名で報じたのに、自社だけが実名で報じた。軽微な犯罪事実なのに、実名で報じる意味はあったのだろうか。2日間も身柄を拘束した事実にも抗議をしなかった。報道機関として不可思議な対応だ。
▽逮捕された記者は1年生記者。まだ取材のイロハが身につかないまま、指示に従って取材をしていただけである。7月7日の紙面で調査報告書を載せたが、女性記者の自己責任論を展開したため、批判が内外から集まった。そして最終的にはその記者をかばわないで、「口頭指導」とは何の意味があるのだろうか。単なる切り捨てをしたとしか思えない態度だった。記者逮捕と書類送検、不起訴に対して、言論機関として抗議しないのは不可解な話だと思う。
▽もちろん法律を守るべきだ、取材の自由などない、というネトウヨのような批判はあるだろう。しかし取材とは言論を守る戦いなのである。この前提が崩れるなら、民主主義はおしまいだ。政府などの広報をそのまま垂れ流していればいい。
▽なぜこうなってしまったのか。
▽かつて北海道新聞は、安保報道をめぐって共同宣言を拒否したり、田中角栄を批判したり、そのスルドイ切り口で読者を魅了させた新聞だ。取材源拒否問題もあった。
▽そればかりではない。私が北海道新聞に入社したころは、「市民と警察」というキャンペーンを展開し、道警(北海道警察本部)の体質まで批判するキャンペーンをしていた。私が辞めてからは道警裏金問題のキャンペーンもあった。
▽それがいつの間にか、道警の存在を忖度するようになった。沈黙を守るのは、その延長なのだろう。道警と仲良くしないと、情報が取れなくなる、と思っているのだろう。
▽道新記者が逮捕・書類送検された時の朝日新聞の反応も弱かった。記者が取材中に逮捕される意味をキチンと理解できないためか、他人事のような記事を作って、終わっていた。取材現場に危機感はないのだろうか。