本社編

本社で思うこと


★906新聞記者の出世とは何か(2026/06/04掲載)

▽朝日新聞社で長らく調査報道を手がけ、東京本社社会部デスクから名古屋本社社会部長になった人物が、東京本社に戻ってきた時、編集局とは関係ない部局の幹部になった。社内の多くの記者は驚いた。彼が編集から離れるなんて考えられなかったのだ。新聞記者にとって出世とは何か、と考えてしまった。
▽私は北海道新聞で7年、朝日新聞で33年間、新聞記者を続けてきたが、出世とは全く無関係だったので、いわゆる一線でずっと働かせてもらった。
▽朝日新聞の場合、大学卒業の定期採用組の場合は、地方総局で2,3カ所、計5年間働いた後、本社に上がる。本社でしばらく一線の仕事をした後、再び地方総局に出て、「ビッグブラザーズ制度」に乗ってBBと呼ばれるキャップに着くことがある。その後また本社に戻り、本社のキャップを務め、一部の人間は地方総局のデスクになり、そして本社のデスクになる。この辺から出世する人間と出世しない人間に分かれる。本社でデスクとして戻れなかった者は、一線の記者に戻る場合もあるが、編集を離れてしまう場合もある。
▽本社でデスクとして生き残った者たちは、今度は部長競争に入る。部長になれなかった者は、そこで編集から外されるか、一線の記者になることもあれば、編集以外の部局に行くこともある。
▽部長の次は編集局長競争だ。編集局長になれなかった者は、編集を離れるか子会社への出向となる。編集局長の次が役員入りだ。ここでも役員の競争があり、社長は1人だけに限られる。こうしてみると、社長になる以外は、どこかではしごを外されている。
▽あれだけ政治部長になりたいとしていた別の人物が、子会社に出向になった時、相当悔しい思いをしたことを本人が述べていたことを思い出す。出世競争は、記者の初志を崩していく。
▽冒頭で紹介した人物が記者として戻らずに出世を選んだには訳があったらしい。私の知り合いの幹部はこう説明してくれた。
▽社内のライバルや敵が自分より上の人事権を持つポストにいたらどうするのか。いつか飛ばされるかもしれない。そう思うんだったならば、自分も出世して、そのライバルや敵の上にポストに就いた方がいい。こういう論理で出世の道を選んだそうだ。
▽確かに人事異動で飛ばされれば、記者ではなくなる。全く関係ない部局に行ってしまうこともある。これはこれの一つの結論だったのだろう。
▽私の周りでも、出世し損なった人間がかなりいる。それでも記者として一線に残ってるならマシだろう。問題は編集からも外されてしまい、入社時の希望を貫くことが出来なくなることだ。「生涯一記者でありたい」という夢は叶えられなくなる。新聞記者を続けることができなくなるのは悲しいことだ。
▽新聞記者として、社内で生き残るのは、かくして難しい。これが私の実感だ。



★903東京本社時代にやりたくなかった仕事とは(2026/06/01掲載)

▽私が朝日新聞東京本社に勤務していた時、私が所属していた部署ではだれもがやりたくないという仕事があった。高校野球と選挙事務局、そして労働組合の闇専従だった。今回はこれについて書いていこう。
▽新聞社にはいろいろな部署があり、記者として入社しても、花形の部署に行くことができない人間も多い。部署によっても違うが、私が所属していた部署では、事件事故担当や裁判担当、中央省庁の記者クラブ詰めになる記者などがいた。他の部署と共同チームを作り、そのチームに入る人間もいた。そういう人間は通常の取材活動ができるから良い。問題はそれ以外の仕事が本社にはあるのだ。それが嫌だった。高校野球担当と選挙事務局、そして労組の闇専従だった。
▽まずは高校野球担当だ。朝日新聞が主催している夏の高校野球では、担当になると、東京本社管内の地方支局(現総局)の主に2年生の記者を指導する役割がある。試合は7月の県大会から始まって、8月の甲子園大会まで、その2年生記者をずっとしていく指導していく立場だ。5月初めには、支局のその若い担当記者を東京本社に集めて、高校野球の研修会を開く。実際には東京ドームのプロ野球などの野球を見てもらい、スコアをつけて、原稿を書いてもらい、指導するのだ。
▽県大会に向けて、2年生記者は出場する高校へのアンケートを取り、登録した選手の名簿の点検をするなど支局での雑用が多い。これらを全部指導していくのが、本社の高校野球担当記者だ。県大会で優勝すれば、今度は甲子園大会が待っている。これらの記者の指導をするのも本社の高校野球担当者だ。実際に甲子園に行き、デスクとともに若い記者が書いた原稿を全部デスクとして裁くのだ。
▽だから毎年4月から8月までは、高校野球担当者は高校野球だけしか仕事ができないことになる。雑用が多く、他の取材をしたくてもできないのだ。これがだれからも嫌われる高校野球担当だ。私はこの高校野球担当を1回経験していた。休みという休みは全部潰れた。もうこりごりだと思った。
▽二つ目が選挙事務局という仕事だ。東京本社管内のすべての支局管内で行われる選挙を全て本社で管理するための担当だ。市町村の首長選、議員選、県議選、県知事選など、あらゆる選挙の日程と、すべての候補者の管理をする。支局では議員の調査票を集めて、点検をさせるが、本社ですべて点検し、コンピューター管理している。この仕事も大変だ。通常の取材は全くできないまま。取材に出ることも許されず、完全なデスクワークだった。
▽選挙は一つでも間違えると、とんでもないミスを誘発する。候補者の氏名や生年月日、肩書など、十分に点検しながらコンピューター入力していく。
▽このためこの選挙事務局の仕事も、高校野球担当と同じく嫌われていた。幸い、私は選挙事務局に入ることはなかった。同僚は1年間ずっと入ってしまい、デスクとよく大喧嘩をしていた。
▽もう一つ嫌なのは、労働組合の闇専従という仕事だ。組合員の中から一人、事実上の専従として労働組合に入り、組合活動に専念してもらうのだが、会社との協議では、組合専従できるのは本部事務局の一人だけと決められており、他の人間は闇の専従となる。闇専従だから、会社からも時間外賃金がなくなり、労働組合からも代わりとなる賃金が出ない。このため、部署でカンパを募って給料の一部として当てていた。
▽労働組合は労働者を守るための組織ながら、大切な活動だ。しかし、これもやりたがらない人間が多かった。毎年春になり、労組の人事が始まると、だれを組合に送り出すのか、いつも組合分会で揉めていた。やりたくなかったのだ。
▽このようにして、毎年高校野球と選挙事務局、労働組合の闇専従を人選するのに、毎回分会で揉めていた。
▽朝日新聞の場合、会社幹部は労組の活動を嫌っていた。だから、余計に労組の活動に入るのを控えていたようにも思える。
▽以上三つが東京本社では嫌な仕事だった。今はどうなっているのだろうか。


★852一般紙の中のスポーツ担当記者の地位と私の場合(2026/03/18掲載)

▽一般紙の記者は同じ社内でもスポーツ担当記者を、見下している。そんなことを現役時代、時折感じたことがある。私自身、そんな考えを持ったことがある。理由は一般紙の主流部局は政治、経済、社会部で、スポーツ部や文化部は亜流とみていたことだ。今回はその話に触れたい。
▽朝日新聞など一般紙や中央紙に長い間記者として活動を続けていると、事件なら社会部、政治なら政治部、経済事案なら経済部というように、一般新聞の花形は政治部であり、経済部であり、社会部だった。新聞社に入った以上以上、そういう部署を目指すことが当然のように思われた。だから、スポーツ担当や文化担当などは格下に見えていた。
▽こんな先輩のアドバイスもあった。
「スポーツ取材はするな。簡単にストーリーが作ることができるから、安易な取材になってしまう」
▽これは格言だと思った。スポーツにまつわる物語はたくさんあるから、どんな記者でもドラマを作ることができる。安易な取材で終えるなという戒めだ。だから私はスポーツ取材を避けていたように思う。
▽もちろん朝日新聞には例外がある。地方に勤務すると、毎年7月の高校野球県大会は朝日新聞主催故に、県内の記者のほとんどが高校野球取材に駆り出される。しかしそれはあくまでも例外だ。本社に上がれば、社会部などの一部の記者が高校野球担当となるが、それも1年で終わる。あくまでも主流ではなかった。スポーツ部記者は別世界の人間だった。
▽そんな私が朝日新聞でスポーツを担当するになったのは本社に上がって2年目、高校野球担当になったことだった。いやいやながら続けたのを覚えている。しかも取材ではなく、地方支局の高校野球担当の記者のまとめ役だ。県大会の進捗状況や取材の配置などを管理する担当だった。甲子園に行けば、この支局の担当記者の書いた原稿をデスクワークする仕事だった。もう高校野球はこりごりだと思った。
▽さらには月日が経過し、北海道報道部ではサッカーJリーグのコンサドーレ札幌を担当することになり、さらには北海道に移転してきたプロ野球日本ハムファイターズの担当になった。
▽私は朝日新聞には一般職の記者として入社しており、スポーツ記者採用枠で入ったわけではない。希望もしていない。北海道報道部では遊軍担当で、スポーツ担当となっただけだ。それたけでプロスポーツ担当になったため、覚悟を決めた。一番面白い記事を書いてやろう。そう思って、コンサドーレ札幌も日本ハムも取材を続けた。
▽日本ハムには大リーグ帰りの新庄剛志選手が入団し、話題を作っていた。春のキャンプ地、沖縄県名護市にも取材に行き、「新庄語録」も取材した。本社内では全く疎遠だったスポーツ部の記者との交流も出来た。
▽そんな経験が後に生きた。その後の転勤先では、サッカーJリーグ、浦和レッズや大宮アルディージャ、ザスパ草津の取材を続けたし、サッカー天皇杯決勝の取材も出来た。浦和レッズの不祥事では無観客試合という異例の取材も行った。
▽サッカーJリーグでの話があれば、総局長やデスクが私に仕事を振ってくる。昔は内心嫌だったスポーツ取材を楽しむようになっていた。そう、朝日新聞の紙面を飾る大切なコンテンツだと考えれば、スポーツ取材を格下とは思わなくなってきた。
▽心の中の差別は見なくなっていた。


★773だれもがやりたがらなかった本社の仕事(2025/11/21掲載)

▽私が朝日新聞東京本社に勤務していた時、同僚とともに役割担当をしたくない担当が三つあった。その三つとは選挙事務局担当と高校野球、そして労働組合のヤミ専従住だった。これについて書いていきたい。せっかく東京本社に上がったのに、通常の取材は出来なくなり、裏方に回るこの三つの仕事に就くのを、多くの人間が避けた。
▽選挙事務局とは、現在では独立部局になっているが、当時は社会部や地域報道部、内勤勤務の記者などで構成された混合部隊だった。東京本社管内や西3本社管内の地方支局で管轄するあらゆる選挙情報を網羅する部署だった。
▽地方選挙、つまり市長選や市議選、町長選や町議選、村長選や村議選、さらには県議会議員選挙、県知事選挙、国政選挙である衆院選と参院選のすべての選挙を統括コントロールして、事務局として受け持つのだ。
▽今ではかなり省略されてしまっているが、候補者一人ひとりの調査票を地元記者がまとめて本社に送り、これを本社の事務局が点検作業する。コンピューターに入力された事実を確認し、最終的に間違いがないかどうかを点検するのだ。その膨大な事務量は、だれもが避けて通りたいところ。通常の取材は出来ないから、選挙事務局担当などになりたくなかったのだ。
▽私が東京本社に勤務していた時は、同僚の1人がその選挙事務局担当としてデスクに任命されて、かなり気まずい関係になり、かなり喧嘩にもなっていた。辞める、辞めないで喧嘩をしていた。一線の記者にとってそこまで選挙事務局は嫌なのだ。
▽そして高校野球。春と夏に行われる甲子園高校野球大会は、特に夏の大会が膨大な量の仕事となる。夏の都道府県での地方大会を勝ち抜いた代表校が甲子園で戦うのだが、その地方支局での取材結果などを点検するのが、東京本社での高校野球担当者だった。これもかなりの分量になった。隣の部署の運動部と一緒に作業し、地方大会の点検をしていた。
▽そして甲子園だ。甲子園球場に集まった代表校に同行した地方支局の若手記者たちの原稿を、デスクとして点検し、出稿していく。その作業もかなり多い。高校野球が好きな記者は多いのだが、高校野球担当となると嫌がる記者も多かった。私は1年間高校野球担当にさせられて、あまり良い思いはしなかった。
▽そして三つ目が労働組合のヤミ専従だ。これは編集局のそれぞれの部局から1人ずつ労組担当者を出し、委員長や書記長のほか、各部門の責任者を作る。専従の人間は書記長ぐらいで、委員長もそして各担当者もヤミ専従となる。ヤミ専従とは、「闇専従」のことで、自分の仕事を放棄して、労働組合にずっと専従しているから、「ヤミ専従」と呼ばれる。これを会社側も許している。
▽専従の場合、記者としての仕事をしていないから、時間外賃金がもらえない。そのため給料が低くなる。低くなった給料のカバーを、職場の仲間がカンパして本人に渡す。それでも通常の記者生活からすると給料は低い。労働組合のヤミ専従もだれもがやりたがらないのだ。
▽労働組合は労働者の生活水準向上や賃金の維持・向上をなどを求める大切な組織だが、実際は記者生活と離れてしまうので、だれもがやりたがらない実態がある。
▽こうして東京本社では三つの役割を嫌う記者が多かった。私もその1人だった。ただし、上記のように私は高校野球担当だけは1年間させられた。通常取材とは全く関係ない1年間だった。


★753職権の乱用、ならぬ、食券の乱用廃止通達(2025/10/24掲載)

▽私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局に勤務していた時のことだ。こんな通達がメールで届いて、笑ってしまった。東京本社での職権の乱用、ならぬ、食券の乱用廃止通達だった。
▽笑った。東京本社編集局に勤務している記者たちへの通達だった。
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《東京編集局のみなさま

▽▽▽▽▽▽▽▽▽編集局収支改善のために/社費給食の厳格運用を

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽2008年11月28日
▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽東京・編集局長(GM)▽

▽編集局の収支改善対策の一環として、従来、恣意的な運用も指摘されていた社費給食(夜食券と深夜食)の支給対象を社の規定通りに厳格に適用することにします。実際の現場でもルーズとならないよう、編集サポート部、シダックスに協力を要請して運用の徹底を図ります。関係グループ、センターにお願いした対象者数調査が終了したため、12月1日(月)から以下の要領で新しい運用を実施します。収支改善は全社で取り組む急務の課題です。編集局でも無駄をなくすために可能な限りの努力をしたいと思いますので、局内のみなさんもぜひご協力下さい》

▽そして【今後の運用について】というタイトルで、以下のように通知してきた。

▽・「夜食」の支給対象は「勤務体制上、常態として午前0時過ぎまで勤務する者」、「深夜食」の支給対象は「勤務体制上、前日から引き続き午前2時30分過ぎまで勤務する者」と定義されています。「常態として」とは、勤務表によるシフト(=たとえば宿直勤務など)であることに留意して下さい。「仕事でたまたま遅くなるから」などというのは該当しません。「夜食」は「食券または箱弁当またはサンドイッチ類」のことで、支給対象者が食べられるのは、このうち1種類だけです。対象人数は関係グループ、センターの代表に調査を依頼して回答を得た人数です。

・夜食券には大きな日付印(11月24日なら「編集1124」)を押してあります。使用は当日限りとし、余った食券は編集サポート部に返却して下さい。シダックスは当日印以外の食券の利用を認めません。食券配布は今まで通り、編集サポート部が担当します。食券は午後5時から利用可能です。箱弁当は同8時前後に、サンドイッチ類は同10時ごろ配付されます。

▽・食券の利用は1日に1人1枚厳守。複数枚の利用は認めません。
▽・特別な勤務が発生して夜食券が必要になる場合は、事前にエディター、マネジャー名で臨時夜食券を申請して下さい(局長室印が必要になります)。

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▽少し説明が必要だろう。
▽私が本社に勤務していた時、私の部署では泊まり勤務の記者は、デスク席に午後5時に着席し、翌日午前1時半の朝刊最終版の時間まで、拘束されるルールになっていた。その泊まり席に就く記者に、夜食の食券と深夜食の食券が渡されていた。正確にはアルバイトの学生が管理していて、デスクと記者の分を預かり、仕事が一段落した時に、学生が8階食堂に取りに行く段取りになっていた。
▽夜食は弁当が配られた。四角いプラスチックの弁当箱だったので、我々は「箱弁」と呼んでいた。総菜とご飯が入っている、通常のご飯弁当だ。食べる時間帯はその日の忙しさによって違っていたが、午後8~9時ごろが多かったと思う。
▽そして深夜食。午前零時ごろ、サンドイッチとバナナなどの果物が配られた。これも食券が必要だった。
▽つまり泊まりの記者には最低2食が無料で配られていたことになる。
▽しかし、ここで不正が働く。夜食の食券が余っている部署では、泊まりではない記者が、その食券を使って無料の食事をしてしまう、ということが横行していた。特に取材が終わって本社に上がってきた記者にとって、目の前にある食券は無料なので、手に取りやすい。アルバイトの学生も管理などしていないから、そのまま、「食券の乱用」がすっと続いていた。
▽私が本社にいた時ですら、こんなことが続いていたが、それを改善することが出来ないまま、収支が悪化していたことになる。私は東京本社から離れて10年近く経過していたから、10年以上も「食券の乱用」が付いていたことになる。
▽しかし経営の悪化で、無駄をなくす観点から、この食券の問題にも手を着けていった。
▽これがこの通達の意味だ。

▽会社側も食券の管理がルーズだったということだろう。見て見ぬふりをしていただけかもしれない。
▽今さらこんな通達が来ても、私には関係なかったし、私は「食券の乱用」などしていなかった。たかが弁当だが、それでも弁当だ。

★724峠の釜めしを取材した(2025/09/15掲載)

▽かつての在来線、信越線の横川駅ホームで売られていた「峠の釜めし」を、東京本社時代に取材したことがある。長野冬季五輪のために進められていた長野新幹線の完成で、並行在来線の信越線は切り捨てられ、大切な風景がなくなると思ったからだ。
▽旧信越線の特急あさまが急勾配の難所、碓氷峠を越えるため、アプト式の機関車に牽引され、横川・軽井沢間を走った。アプト式とはラックレールの上を歯車で走らせる方式で、特急あさまの先頭車両にこのアプト式機関車を連結させるため、横川駅下りホームでは、しばらくの間停車し、乗客は連結するのを待った。「峠の釜めし」はこの待ち時間を利用して、乗客に売っていた駅弁だ。
▽群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。1958年から販売が開始された。
▽益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともあるという。
▽メニューは昔から変わらず、益子焼の土釜に薄味の茶飯、鶏肉、うずらのたまご、シイタケ、ゴボウ、アンズなど9種類の具が入っている。

▽この乗客に売っていた売り子が、同社の社員で、特急あさまがホームに近づくと深々と最敬礼のお辞儀をして、乗客を迎えた。「峠の釜めし」を売り、特急あさまがホームを離れると、別れのお辞儀をして見送った。
▽これが横川駅で長い間続いてきた風景だった。私は当時、朝日新聞東京本社に勤務しており、長野冬季五輪で消えゆくもの、として企画を提案し、デスクの了承を得て取材に入っていた。長野新幹線開通の喜びの影で、並行在来線の信越線が経営分離されて、横川・軽井沢間の鉄道がなくなり、その影響でこの横川駅での風景もなくなる、というトーンだった。
▽最近のネットには、荻野屋の社長がインタビューに答えている記事が掲載されている。

《—「峠の釜めし」は立ち売りが有名でしたが、売り子さんは何人くらいいたんですか?
見澤:常時20人くらいいました。本社社屋近くに横川駅の1番線ホームと直結した売り子さんの待機室がありました。売り子さんは4代目・みねじの時代からの教えで「声を出す」ことが徹底されていました。そして、目迎目送(頭を下げて列車を迎え、頭を下げて見送る)ですね。横川にはかつて弁当が売れない時代がありましたから、多くの方にお求めいただけるようになっても、(感謝の気持ちを込めて)最敬礼でお迎えしていたんです。
—「峠の釜めし」は、売店でも布をかけているのが私はとても印象的で、他にやっている業者さんをまず見ませんよね?
見澤:これは「峠の釜めし」が、お客様が望まれた“温かい家庭的なお弁当を提供する”というコンセプトで生まれた商品ですので、保温性を高めるという観点から熱が逃げにくいように布をかけています。いまは(販売を委託しているお店もありますので)全部の売場でできるものではありません。一方で衛生面もあるので、温度管理にはとても気を遣います。いまは世界的にもご飯が炊き上がったら急速に温度を下げるのが一般的ですから》

▽まさにこの通りだ。
▽だが、思わぬ横やりが入った。私が取材を進めたところ、突然長野支局のデスクが横やりを入れてきた。
「この話は長野支局が取材する話だろ」
▽横柄にこう私に言ってきた。そして本社デスクに私の取材をやめるように言ってきたのだ。
▽私はエッと思った。
▽企画を提案したのは私であって、長野支局員ではない。横暴にもほどがある。しかし本社デスクは折れてしまって、私の取材は中止になった。
▽だが、この「峠の釜めし」の風景を長野支局が記事にしたことはなかった。横柄な横やりだけが、私の記憶に残った。
▽信越線は長野新幹線の開業に伴い、1997年9月30日に横川・軽井沢間が廃止された。これに伴い、横川駅でのホームの風景はなくなり、現在に至っている。


★692主催者なのになぜか嫌われる朝日新聞高校野球担当

▽夏の高校野球は朝日新聞が高野連とともに主催する一大イベントだ。しかし主催者なのに、この高校野球、多くの朝日新聞記者は担当になることを嫌っている。一般記者で入ったのに、高校野球などできないと思っている記者が多いためだ。
▽都道府県大会の場合、これまでは全国にいる入社2年生の記者が担当するから、あまり問題は起きない。会社への忠誠心もまだ強いし、極端な問題意識もそんなにないためだ。ところが本社に上がると、せっかく社会部に来たのに、高校野球などやりたくないという気持ちが出てくる。だから、高校野球担当者を決めるのも、かなりもめたり苦労することがあった。
▽これは知り合いのデスク経験者から聞いた話だが、本社社会部デスク時代、ある女性記者を高校野球担当記者として指名した。すると、その女性記者は急に涙を流して、泣いてしまったと言う。よほど高校野球担当になるのが嫌だったということだ。しかも指名した場所は、東京本社に近い銀座の高級レストラン街だった。他人から見たら男が女を泣かせたシーンに映ったのだろう。やれやれと思ったと言う。それだけ高校野球担当を指名するのは、荷が重いのだ。
▽実は私も東京本社時代に高校野球担当を経験した。本社の場合、社会部の記者は東京都内の高校野球東京都大会を担当するが、私が在籍していた通信部では、東京本社管内の当時の支局担当者を統括する立場だった。つまり、全国の県大会などの準備や情報交換などを行い、県大会がスムーズに行われるかどうかを指導する立場だった。大会前は本社で研修もした。私の時は東京ドームであった西武対日本ハムの試合を実際に見てもらい、スコアの付け方を研修した。さらには県大会決勝戦で優勝し、甲子園大会が始まれば、そのチームに同行する担当記者を甲子園球場で指導する役目でもあった。直接高校野球を取材するのではなく、指導者側だった。もどかしい日々が続いたことを思い出す。
▽甲子園大会では1日4試合があり、その対戦カードによって担当者を決めていく。試合の戦評を書く担当、試合後の監督と主将の談話を聞く担当、観客席での応援する人の話を聞く担当を毎回決めて、指導していった。取材はないので、結構つまらない仕事だった。しかもその若い者たちの原稿をすべてデスクワークしていたから、仕事の要は多かった。
▽こうした事務的なデスクワーク作業が多いので、朝日新聞記者は高校役担当になるのを嫌っているのだ。
▽だから毎年春になり、人事異動で本社に上がってきたりすると、だれが高校野球担当になるかが関心の的となる。決まってしまえば、犠牲者が出たなとみんな思ってしまうし、自分でなくて良かったと思う。
▽なぜそこまで高校野球担当記者が嫌われるのか。
▽それは朝日新聞の場合、特にそうだと思うのだが、一般記者で入社し、地方を回ってようやく本社に上がったのだから、事件事故、政治、経済などを取材したいと考えており、高校野球は事件事故、政治、経済などとはレベルが下と思っているからに他ならない。スポーツ記者でもないのに、高校野球をやらせられるのか、という不満がある。入社2年生の記者でもできると思っているから、そんなことより、事件事故、政治、経済などをやりたいと願っているのだ。
「私は優秀な記者で高校野球担当などやるレベルではない」
とうぬぼれているから、高校野球をやりたがらないのだ。
▽スポーツ部の記者だったら、積極的に高校野球もやるだろう。しかし社会部だったら、やはり事件事故を追いたい。高校野球などやってられないと思っているのも多いのだ。
▽朝日新聞が主催なのに、実態はこんなものだ。
▽しかし高校野球は朝日新聞にとって大切なコンテンツだ。コンテンツが充実しているからこそ、部数の維持にもつながってきた。つまり、朝日新聞社員の給与のためでもあるのだ。
▽高校野球担当を馬鹿にしてはいけない、と私は思っている。実際、私は本社を出た後の地方勤務の時はずっと高校野球を取材してきた。楽しんで取材をしてきたつもりだ。

★669北海道新聞労組と朝日新聞労組の違い

▽会社の体質の違いなのか、それとも時代の違いなのか。私は北海道新聞に7年勤務した後、朝日新聞に33年5カ月勤めていたが、二つの会社で共通している部分と違う部分があることに気づいた。それは、労働組合の活動方法だった。
▽労働組合の活動は憲法に保障された、大切な労働者の権利だ。社員に対する会社の理不尽な行動を監視し、告発し、給料などの経済闘争を行う。これが労働組合の正しいあり方だ。
▽私が勤務していた時、北海道新聞労組はかなり活発に行動していた。春闘ベアの要求が無視されれば、時限ストを果敢に行っていた。「改版拒否」と言って、新聞の早版を作るが、最終版の紙面を作らない戦術に出たこともある。新聞紙面という商品に欠陥を与えたことになるが、労働者の生活を守る闘いだったし、労組も自分自身の肉を切っていった。そういう中で私は見てきたから、新聞社の労働組合は当然こういう行動があると信じていた。
▽ところが朝日新聞に入ると雰囲気も考えも違っていた。労働組合が賃上げで拒否されても、組合はほとんど動かなかった。
▽私が本社にいた時に、唯一、夕刊の降版時間が終了した段階でわずか1時間の時限ストを行ったが、私にとってはそれが最初で最後のストだった。本社の中庭で組合員が集まって集会を開いて、アピールをした記憶がある。
▽わずか1時間のストだった。私が33年5カ月在籍した朝日新聞の中で、ストはこの1回限りだった。それだけ朝日新聞労組はストをやらなかった。
▽そしてその労働組合のストを、会社幹部は嫌った。毛嫌いしていた。そんな歴史がある。
▽私の大先輩の話ではストを行う場合、将来の出世候補の社員と目された政治部の記者たちは、上司の指示に従って強引に出張に出て行った。そう、ストに参加しなかったという言い訳を作って、会社幹部にかわいがられるのが目的だった。ストに参加しなかったことで、会社からはよく見られる。そんな意図が透けて見えた。
▽労働組合の幹部が、スト破りをやった歴史もある。スト破りをしたため、その人物は転々と出生して最後は社長になった。朝日新聞にはこんな黒い労働組合の歴史があるのだ。
▽そればかりではない。労働組合は本来社員を守るはずなのに、私が在籍した時期に、左遷など不当な人事で組合員からの申告があっても、労働組合は全く無視していった。人事を行う権利は会社の占有だと会社側も労組も暗黙の了解があったようで、労働組合は何も行動を起こさなかった。
▽北海道新聞と朝日新聞の労働組合を比べた場合、こんなに差があるのかと私は今さら驚いている。北海道新聞は労組に対し寛容なのか、それとも朝日新聞は労組に対して厳しいのか。
▽言論の自由をうたう新聞社が、憲法で保障されている労働組合の活動を嫌う。そんな風土が朝日新聞にはあって、北海道新聞にはなかった。
▽ただし北海道新聞も最近はそうではないらしい。北海道新聞旭川支社報道部の女性記者が逮捕された時、北海道新聞労組は何をしたのだろうか。
▽新聞業界の斜陽化とともに、労働組合も本来の活動目的を忘れているのではないか。そんなことを考えてしまっている。


★665校閲記者の原稿の読み方は外勤記者とは違う

▽多くの新聞社には校閲部という部署がある。外勤記者が書いた原稿をチェックし、間違いを指摘する部分だ。今回はその校閲記者について記していこう。
▽例えば、地方勤務の記者である私がある原稿を書いたとする。私の原稿はまず地方支局のデスクが原稿を見る。デスクはデスク好みで原稿を直すこともある。地方版の場合はその地方支局デスクが地方版編集者に原稿を送る。その編集者が紙面を組んでいく。その作業と並行して、校閲記者はデスクがリリースしたその原稿を点検する。そして紙面が組まれると、その校閲記者が紙面全体の点検作業を行う。これが地方版での校閲記者の作業だ。
▽これが本社だと、記者が書いた原稿を本社のデスクが直し、そのデスクが整理部デスクに原稿を出す。整理部記者が紙面を組んでいる間、校閲記者が記事や紙面を点検する。新聞社では細かく降版時間が設定されており、文字通り時間との戦いで校閲記者は原稿や紙面を点検するのだ。
▽例えばパソコンの変換ミス、誤字脱字、意味の違い、時には見出しの間違い、データの間違いなど、校閲記者の行う作業は幅広い。歴史的事実が間違っていて、それを指摘することもある。
▽極端に言えば、校閲記者はミスを許されない。ミスというのは、原稿や紙面の間違いを見逃したことを言う。間違いを間違いとして指摘して、直すのが校閲記者の仕事だ。プロ集団である。だから校閲記者はプラスの点数がつかない。ミスを見逃した場合は、マイナスになるだけだ。非常に悲しい部署でもある。
▽しかしこうしたミスを指摘された外勤の記者は、校閲記者に感謝しなければならない。人間はだれでも間違いが起きる。勘違いや認識違いで間違いが起きる。それを直すのが校閲記者だ。
▽この仕事の内容は、「校閲記者の目」(毎日新聞校閲グループ、毎日新聞)に詳しい。関心がある方はぜひ読んでほしい。
▽以前、毎日新聞の紙面で校閲記者が安倍首相の言葉が変だと指摘し、鋭い問題提起に感心したことがある。安倍首相の言葉遣いがインチキで、ずさんで、論理をすり替えている実態を、言葉の専門家である校閲記者がその分野から批判したものだ。私はへーっと思った。言葉のプロが指摘する安倍首相の正体だった。
▽そんな校閲部も新聞社によっては大きく縮小化させられている。地方版の校閲体制をなくしたり、外勤部門の一部を自主校閲したりしている。大切な部署なのに、新聞社幹部は軽視しようとしてる。それが怖い。


★658遠くなった朝日新聞東京本社

▽朝日新聞記者だった私が60歳の退職辞令をもらったのは、東京本社代表の部屋だった。退職手続きを終えて、経済部記者出身の東京本社代表に会って辞令を受け取り、雑談をして引き揚げた。それ以来、代表室どころか、東京本社に行ったことがない。そればかりか、その辞令の受け取り以前も、本社に上がったことがずっとなかった。本社も遠くなったと思っている。
▽東京本社で最後に勤務していたのは、2010年3月までだ。その後、埼玉県越谷市の朝日新聞東埼玉支局へと転勤になり、新潟県佐渡市の佐渡支局、埼玉県秩父市の秩父支局に勤務し、退社した。だから、退職の辞令以外となると、本社には20年上がっていないことになる。
▽別に本社に恋しいわけではない。本社に戻りたいとも考えていない。新聞記者の現場は地方にあると信じていたし、地方でウォッチすべき現象は山ほどあった。地方こそ取材現場の宝庫だと思っていた。中央は取材現場ではないと感じていた。
▽本社にいた時、社会部や政治部のやや年上の記者や上司を見ていると、人間のドロドロとした社内闘争に明け暮れていて、エネルギーをそんなことに費やしていることに、唾棄したくなっていた。私がライフワークの死刑問題を記事にすれば、
「あいつは好きなことばかり、やっている」
という陰口がついて回った。
▽私の名前で単行本を出せば、さらに悪口が来た。
「目立ちがりやがって」
と言われたこともある。
▽私は休日でも図書館に通い、古本屋街を回り、関係者の取材を続けていてきた。記者は取材力と勉強が大切だとずっと信じてきた。他の人間がゴルフに行ったり、海外旅行などしている時も、自分のテーマを追い続けた。決して社内の人間とは群れなかった。ゴルフにいそしんで、取材を疎かにしているベテラン記者を、私は軽蔑していた。
▽群れは社内派閥を作る。派閥のトップが出世すれば、自分の地位も安泰だ。
▽しかし派閥に入らず、一匹狼となれば、社内の自分の地位は不安定になる。人事異動でどこに飛ばされるか分からない状態になる。
▽だから、私はそんな人事上の力学から逃れるためにも、地方を希望し続けた。
▽朝日新聞の多くの記者は本社が好きだから、地方に行くことを左遷だと思っている。地方勤務を毛嫌いしている記者は多い。だから敢えて私は地方勤務を希望し、左遷の形でもいいから、記者活動を続けてきた。社内の記者として生き残る術だった。
▽これが東京本社から遠くなった理由だ。
▽会社を退職した今、突然私が東京本社に上がったとしたら、会社幹部になっている後輩たちと何人もすれ違うだろう。日本の未来、日本の民主主義のため、朝日新聞を潰してもらいたくないし、生き残ってもらいたいと思う。
▽しかしここ数年の朝日新聞の紙面や業務、人事異動を見ていると、ベクトルがかなり違う方向に向いていると感じるのだ。
▽東京本社はどうなるのか。遠くなった本社を憂う。


★645取材の謝礼を出すべきか否か

▽取材相手に謝礼は必要なのか。現役時代に、そんな疑問にぶつかることが時折あった。結論から言うと、通常の取材に謝礼は出さない。ただし単独のインタビューや、相手の肩書きと名前を入れたコメントには謝礼を出す。これがルールして確立したのは私が朝日新聞東京本社にいた時だ。
▽私が朝日新聞東京本社に勤務していた時、ある政策決定のコメントを取ろうとして、大学教授に電話取材をした時だ。相手からは、
「謝礼の金額はいくらか」
と聞かれて、困ったことがあった。
▽当時はコメントに謝礼を出すルールが社内では徹底されておらず、私もルールすら知らなかったのだ。結局、この教授からのコメントは取れず、取材を見送った。
▽新聞記者をもう何年も続けてきて、取材相手に謝礼を払ったことなど、それまで全くなかった。事件事故での取材で警察や検察、関係者、事件事故の当事者や被害者、遺族の取材で、謝礼を払うことなど全くなかった。街ダネを取材する時でも、取材相手に謝礼を払うという発想はなかったし、そんな社内ルールもなかった。
▽たとえば、朝日新聞総合面に毎日のように掲載されている「ひと」というインタビュー記事も、さらには教育面で扱っている「おやじの背中」でも、謝礼など払ったことはない。これが当たり前だった。
▽それが、コメント取りで相手から、「いくらか」と聞かれて、答えに窮してしまった。
▽相手からすれば、自分の名前と肩書で、新聞にコメントするのだから、その対価を受け取って当然だし、知識を売るのだから、謝礼は当然の権利なのだろう。
▽このころから社内では、コメントやインタビューの対価として、1〜2万円の謝礼を出すようになった。
▽しかし、それでも新聞とテレビでは、取材の謝礼のあり方にかなりの格差がある。
▽それを感じたのは、私が北海道報道部に勤務していた時のことだ。プロ野球の日本ハムが北海道に本拠地を移転し、沖縄県で春のキャンプが始まった。今は監督を務めている新庄剛志選手が大リーグから日本に戻ってきた年だ。キャンプでの選手のインタビューをしていたNHKが選手に謝礼を渡していたことを目撃してしまった。いくらかは分からないが、こんなキャンプの練習中の最中に、謝礼を手渡すことに驚いた。と同時に、プロ野球の選手インタビューで謝礼を手渡す発想が新聞社にはなかったから、さらに驚きは深まった。えーっと言う感じだった。
▽そうか、だから選手たちは、新聞記者には質問にも答えてくれないのだ、と妙に納得してしまった。当時のクリーンナップを打っていたフルスイングの小笠原大道選手は、宿舎から練習場に向かう道で、報道陣に囲まれて歩くが、全くの無口だった。謝礼が出ないと、コメントもしません、という感じだったのだろうか。その点、新庄選手はよくしゃべってくれて、助かった記憶がある。
▽通常の取材に謝礼は必要ない。今でも私はそう思っている。そうでないと、自由な取材が出来なくなる、という観点からも当然のことだと私は思っている。

★631朝日新聞夕刊1面の体裁変更の意味は何だ

▽朝日新聞が新年度(2025年度)から夕刊一面の体裁を変えている。かなり大胆なレイアウト変更だ。1面の右上にあった「朝日新聞」という題字を、1面の一番上に横長く変更された。長い間親しまれてきた題字を、縦型から横型にするという、かなり大胆な紙面変更だ。体裁はまるで読売新聞だ。何があったのか。
▽その疑問を解く鍵となるのが、その題字下に記された本社の住所だ。二つ載っているのだ。一つが朝日新聞東京本社の住所。そしてもう一つが、驚くことなかれ、大阪本社の住所だった。この紙面を見ていた時、私はなぜ東京本社管内で配られる夕刊に、大阪本社の住所が載っているのか分からなかった。東京管内読者には全く必要がない住所だ。なぜと疑問に思った。
▽しかし次第になんとなく分かってきたのだ。そう、夕刊の紙面作りだ。東京本社と大阪本社が夕刊を統一して作るようになったのだ。
▽これまで朝日新聞は東京本社、大阪本社、名古屋本社、西部本社でそれぞれ朝刊と夕刊をそれぞれ作ってきた。それぞれの本社にレイアウトを担当する整理部記者を配置して、政治記事や外報面記事以外はそれぞれ独自に作っていた経緯がある。
▽それが経営の悪化で、名古屋本社や西武本社が縮小されて編集紙面を作る整理部も東京本社に集中した。
▽そして今回の夕刊の改革だ。東京本社と大阪本社で同じ夕刊を作って、小力化してるのだ。
▽だからこそ夕刊の題字下に、東京本社の住所と大阪本社の住所を載せた。そう考えないとこの疑問は解けない。
▽ついに東京本社と大阪本社で夕刊の統一紙面を作るようになった。という事は近い将来、さらに合理化済み、夕刊は完全に一本化してしまうということなのか。
▽朝日新聞は全国各地で夕刊の廃止を進めている。既に夕刊が届かなくなった地域も多い。北海道では夕刊をなくしている。この流れで言うと、夕刊は東京本社の首都圏と大阪を中心とする都市圏だけにしか配られないことになる。
▽新年度の朝日新聞の夕刊改革は、こういう意味を含めた合理化の流れを、さらに加速化した結果であると私は見ている。

★621夕刊がなくなっても、記者の仕事量は減らない

▽北海道新聞が夕刊廃止に踏み切ったのに続いて、朝日新聞も北海道での夕刊廃止を打ち出すなど、ブロック紙や大手紙の夕刊廃止の動きが続いている。これを現場ではどう受けて止めているのか、ちょっと想像してみた。
▽事件記者にとって、夕刊とは事件の第一報を載せる戦場だったはずだ。東京地検特捜部や警視庁、さらには首都圏の県警本部がマスコミに知られないよう極秘で捜査し、早朝から容疑者を任意同行する。その動きをキャッチし、夕刊に「容疑者を任意同行、午後にも逮捕へ」と特ダネを取ることが最大のニュースだと信じていた。だから前夜の夜回りに続いて、早朝の捜査員の動きをマークするのは、事件記者として当然の仕事だったし、その動きが分かって、特ダネを打つことが出来れば、最大の喜びだった。
▽もしその夕刊がなくなったとしたら、どうなるか。
▽そんな特ダネ競争もなくなるのだろうか。
▽否、そんなことはあり得ない。夕刊がなくてもデジタル配信があり、捜査の動きが分かった段階でデジタルで特ダネを打つ必要があるのだ。つまり夕刊がなくなっても、事件記者の仕事は変わらない。それ以上の仕事が増える可能性も高い。
▽事件記者ばかりではない。
▽国会での動きがあれば、政治部記者が夕刊に打っていた記事を、デジタル用に配信する必要があるし、経済記者も経済的な動きがあれば、デジタルに記事を書く必要がある。
▽つまり夕刊がなくなっても、新聞記者の仕事量は全く変わらないということになる。
▽ただし、夕刊制作がなくなるから、整理部の仕事もなくなり、新聞製作を担当する制作部も必要なくなる。朝刊作業だけでいいことになる。
▽全員が朝刊作業だけの勤務になるかと言えば、そうでもない。号外作業も当然あるだろうから、全員が朝刊作業に従事するだけでは済まないのだ。いつ、どんな時に号外を出すかは事前に分からないから、その号外要員も必要になる。
▽こうして見ると、夕刊が廃止されたからと言って、新聞社の仕事量が激減することはあり得ないということになる。つまり人員削減や経費削減という本来の目的が達成されない危険性もある。
▽夕刊廃止で新聞業界の未来が開けることにはならないのだ。斜陽化する新聞業界の象徴的な出来事でしかない。


★608新聞のイラスト画とデザイン部

▽最近の新聞紙面に、イラストを見ることがなくなった。新聞を開く度に、そう思うようになった。時代の流れだろうか。私が現役の記者である時、一時期はよく紙面にイラストが載った。今の時代は紙面にイラストを必要としていないのだろうか。
▽各社名称は違うが、朝日新聞本社編集局にはデザイン部という部署がある。新聞記事につけるイラストや図表などを描く部署だ。
▽新聞記事に付けるイラストの場合は描く時間がかかるので、事前に生原稿をデザイン部に送り、その原稿に合うようなイラストを書いてもらう。これを原稿を書いた記者が点検し、原稿を出稿するのだ。
▽イラストのほか、記事に付ける図表もデザイン部が作った。デザイン部は、こうした発注を受ける仕事がかつて多かった。各社とも、紙面にはデザイン部が手がけたイラストが多数載っていた時期もある。
▽私自身、取材して原稿を出す時には、デスクに「写真はないのか」と質問を受けたし、写真がないなら、「イラストを発注してもいいですか」と逆に質問したこともある。写真もイラストも、記事に添える大切なアクセサリーだった。読者からすると、このアクセサリーに目を引かれて記事を読んでくれる、という制作側の期待もあった。
▽そしてデザイン部の部員は、新聞社では特別な地位にいるイラストレーターだった。特殊技能を持った部員だった。
▽そういえば私が朝日新聞東京本社に勤務していた時のデザイン部には、当時高価なマッキントッシュのパソコンが置かれていた。それがいつの間にか盗難にあり、社内で大問題になったこともある。
▽新聞制作の技術が多様化し、高度化したため、新聞はより見栄えのいい紙面を求めるようになった。デザイン部の仕事の主流が、コンピューターグラフィックに移りつつある。いかに紙面を見栄えのあるものにするかに力を入れており、イラストはそうした昔の紙面製作からは離れているのだろう。簡単にイラストを載せなくなったのはそんな理由からであろう。
▽イラストとは違うが、新聞の1コマ漫画も、最近は掲載が少なくなってきたような気がする。昔から社会風刺の原点だった。戦前から戦後へ時代が変わっても、1コマ漫画は常に社会を批判し風刺してきた。
▽イラストともにこの1コマ漫画も消えていくのだろうか。


★603東京本社の宅送り制度の是非

▽朝日新聞東京本社に勤務している時は、よく宅送りのハイヤーやタクシーを利用した。今回はこの宅送り制度を説明しよう。
▽新聞社の一部部局の仕事は深夜から未明に及ぶことが多い。編集局では出稿部のデスクやサブデスク、その日の内勤記者の他、内勤部門の整理部や校閲部の記者が午前1時半の降版時間に向けて、紙面作りに格闘している。泊まり勤務ではない記者は順次、帰り支度をするが、午後11時半を過ぎると最終電がなくなるため、会社側がハイヤーやタクシーを使った帰宅輸送を用意してくれる。これが「宅送り」と呼ばれる制度だ。
▽同じ時間帯に、同じ方向に数人ずつ乗せて、自宅または近くまで送ってくれる。ただし同じ方向だとしても、住んでいる場所は全く別だし、かなり離れているから、1人ずつ送って、最後の1人は帰宅までかなりの時間を要することになる。私も経験したが、実際に午前2時にハイヤーに乗って、自宅に到着したのが午前4時過ぎだったことも何回もあった。空が明るくなっていた。翌日は昼前に出勤しなければならなかったから、かなりきつかった。これが1人で直帰していれば30分もかからなかったのに、と思った。
▽編集局だけではない。深夜から未明に仕事をしている制作局や印刷局の人間も同じように宅送りで帰宅するから、場合によっては1台のハイヤーに全く別の部局の人間が呉越同舟で乗り込むことになる。この場合、会話が全くないから、車内は静かなままだ。
▽このようにして新聞社がタクシーやハイヤーでの深夜帰宅が認められている。しかし一方で、膨大な金額となるため、その経費を削減する動きもある。早く仕事を終えるよう、勤務シフトを繰り上げるようになっている。ただし新聞は早朝に販売店に届くように制度設計しているから、タクシーやハイヤー代を節約するにも限界がある。行ってみれば、新聞社にタクシーやハイヤーはつきものなのだ。
▽もちろん出稿部門の政治部や社会部、経済部の記者は、記者個人にタクシーチケットを渡していて、それぞれの個人がタクシーを乗って帰るので、宅送りは無縁だし、ハイヤーを使っている記者はそのままそのハイヤーで帰宅するだけだから、宅送りそのものも知らないかもしれない。
▽また早く仕事を終えた社員が近くの居酒屋で飲んで会社に戻り、この宅送りで帰宅する光景を何回も見ている。早く電車で帰ればいいのに、タクシー代をケチるためだ。これも会社は見て見ぬふりをしている。
▽私としては、こんな宅送り制度をやめてしまい、会社で仮眠し、早朝に電車で帰宅した方がもっと楽なのではないかと思ったりもした。
▽ただしそれでは、会社に最後まで束縛されるため、反対意見も出るだろう。深夜から未明まで続く新聞社の業務が実は、タクシーやハイヤー代との戦いでもあるのだ。


★599「出来すぎ君」と言われた新人記者のその後

▽ある地方総局に配属された新人の男性記者が優秀で、デスクの間では、「出来すぎ君」と呼ばれていた。1年生なのに、社会面の記事を書き、入社5、6年製並みの記事を次々と書いていた。将来も優秀な記者になるだろうな、とデスクたちは思っていた。しかし、その後、別の地方総局などを経て本社に上がった「その出来すぎ」記者は、全く記事を書かなくなった。ここ数年間見ても、彼の署名記事は見たことがない。どうしたことだろうか。
▽冒頭でこの「出来すぎ君」について書いたのは、こういう1年生で目立つ記事を書いた記者が、その後何年も経て本社に上がると、あまり原稿を書くことができなくなるケースを私は何人も見てきたことを書きたかったためだ。いくら1年生で優秀だとしても、伸びしろがなかったら、そこで止まってしまう。周囲は期待していても、次第に期待が虚しくなる。1年生の時に目立った記事を書いたとしても、その後、全く書かなくなった記者を私を多く見ている。
▽他にもそんな例を多く見かけてきた。私がある支局長だった時の部下もそうだった。とにかく政治家にアクセスするのがうまい。政治家の懐に入って特ダネを取ることが何回もあった。その後政治部に上がったが、本人の希望で再び地方に戻った。その後、彼の記事をあまり見かけなくなった。あれからも10年以上経つが、何をしているのだろうか。
▽私の経験則で言えば、新聞記者は5、6年経過してから、次第に自分の言葉で記事を書けるようになる。それまでは訓練だと思った方が良い。1年生でもう訓練なしで、優秀な記者になれるって思うのは、おこがましいのだ。
▽それは中堅記者にも言える。新人の時、あまり目立たなかった記者が、5、6年すると驚くような記事を書くケースも多い。本人の努力と環境がものを言うのだ。
▽逆に本社の時に目立った記者が、その後地方に行き、何も出来なくなった記者も多い。
▽私は40年間新聞記者をやってきたが、長い間ずっと記事をコンスタントに書き続ける者は少ない。かつて社内でも有名だったエースの記者が、歳をとり、何もできなくなったケースもある。
▽だから「出来すぎ」と褒めるのもやめたほうがいい。新聞記者はある一定の時期だけ活躍するケースが多い。出世して新聞記者を辞めた例もあるし、人事異動で記者職を外されたケースも多い。商業ジャーナリズムの限界でもある。
▽もちろんこれは新聞業界だけの話ではない。かつて活躍したフリーのルポライターもしばらくして全く原稿を書かなくなった人が多い。だから記者として、ライターとして、一生、何十年も続けるというのは無理なことなのだ。そんな人を私は何人も見てきた。

★575朝日新聞追い出し部屋はまだ存続している

▽私が朝日新聞を退職した後に、社内に「業務連携支援センター」という部署が出来た。かつての国鉄清算事業団に似た組織で、「追い出し部屋」「窓際」という組織だった。その部署がいまだに存続し、消滅してないことに私は驚いている。そしてかつての私の同僚や部下、後輩がその部署に異動していることに、驚きを隠せない。新聞記者の肩書を奪って、会社は何を求めているのだろうか。
▽私はこのホームページの本社編に、「★007追い出し部屋」というタイトルでかつてこんな記事を書いている。
《▽かなりショックを持って聞いた。
▽私が朝日新聞を退職してからの話だが、2021年秋に本社内に「業務連携支援センター」なる組織を作った。ベテラン記者を中心に強引に異動させた部署だ。翌年4月の異動では、さらにベテラン記者を地方から異動させた。
▽会社から説明を受けた人間によると、全国各地のお悔やみの原稿書きや点検、テープ起こしなど、社会部などの取材もサポートする仕事らしいのだが、記者としての取材活動は一切出来ないし、させないとした。記者として名乗ることも許されない。時間外手当も発生させない。給料もかなりの減額になる。
▽要するに、完全な窓際職場だ。私の後輩もその一員になった。
「旧国鉄の国鉄清算事業団ですよ」
と自嘲気味に言った。
「国鉄清算事業団」を知っている世代は、すぐに理解できるだろう。国鉄を解体し、分割・民営化に至る段階で、その方針に反対する国労組合員を中心に異動させて、洗脳教育をした部署だ。人間の尊厳を傷つけて、そして切っていった。朝日新聞が内部に作った「業務連携支援センター」もそれと同じ組織だという。別の後輩は「もう新聞記者は終わりです」とうつむいた。
▽経済部の記者は、かつて東芝が「業務センター」という名の「追い出し部屋」を作って、そこで単純労働をさせたことをなぞらえて、「第2の東芝」と揶揄した。当時の記事を見ると、朝日新聞は東芝に対して、かなり批判的な記事を書き続けていた。その東芝を批判した朝日新聞が東芝と同じ事をやり始めたわけだ。
▽そんな「追い出し部屋」をなぜ朝日新聞は作ったのか。こんな露骨な部署を朝日新聞が作るのは、おそらく初めてだろう》

▽ただし、こんな部署はすぐに消滅すると思っていた。非人間的なことを、会社は続けないだろうと楽観視していた。
▽しかし違った。
▽私がある地方の支局長をしている時の部下は全員この部署に順次入っていた。1人はデスクだから追い出し部屋の意味ではないが、残る2人はともに「記者失格」という楽印をされた。かつての同僚だった人間も何人かこの部署に入っている。上司から「記者失格」の通知を受け取ったのだろう。
▽さらに驚くには、東京本社社会部などで活躍していた女性記者も昨年4月から異動していた。3年間も記事審査室にいたが、記事審査室が消滅したため、追い出し部屋に異動させられた。「朝日新聞記者」の肩書は使えないから、「ジャーナリスト」という肩書を使うようになった。
▽長野の殺人事件で敷地内に入ったとして検挙されたカメラマン、さらには日経記者と不倫した政治部の人間までいるというから驚きだ。そういう部署にしてしまった。
▽この部署は新聞記者ではなく、単なる社員として扱われる。新聞記者の肩書を使ってはいけないという通知も出ていた。
▽朝日新聞は自分の社員である労働者を、こんなに粗末に扱っている。以前では考えられないことだ完全な人権侵害だ。新聞記者の尊厳を奪っている。
▽そこまで朝日新聞は斜陽化してしまった、ということなのだろうか。


★573歴史ある朝日新聞航空部

▽朝日新聞には航空部という部署があり、ヘリコプターやジェット機を所有し、部員としてパイロットがいる。カメラマンが空からの写真を撮影する場合は、このヘリに乗り、空撮をする。そんな写真は紙面に多く登場する。だからカメラマンはヘリに乗る回数が多い。一方で、一般の記者はそんな必要性もないことから、ヘリに乗る機会は少ない。私はわずか1度だけその朝日新聞ヘリに乗った経験がある。
▽1995年3月の東京地下鉄サリン事件の後に、警視庁が山梨県上九一色村(当時)で行ったオウム真理教の教団施設への強制捜査での取材だった。
▽当時、私は本社勤務をしており、現場で仲間の記者と交代で立ち番をしていた。双眼鏡を持って、警視庁が捜索して押収した物資を確認し、朝日新聞前線本部に連絡する役割だった。
▽その際、捜査員の動きが不思議に見えた。横に移動するのではなく上下に移動してた。不審に思い、私は塀の向こうの建物の敷地に、地下室があるのではないかと思った。そのことを前線本部に伝えた。しばらくすると前線本部のデスクからの指示で、「だったらヘリで確認しろ」と言われ、私は初めて朝日新聞のヘリコプターに乗った。
▽まだ山梨県のこの現場は真冬なみの寒さで、富士山を背景に上空からオウムの教団施設を見ていた。確かに地下に通じる階段があった。かなり複雑な構造の施設だった。天候は晴れていて、ヘリも横揺れが少なかった。私は上空で見たことを前線本部のデスクに報告した。ヘリコプターの騒音はうるさくて、ヘッドホンを着けていないと会話はできなかった。
▽約1時間の取材だった。これが私にとって最初で最後のヘリでの取材だった。
▽朝日新聞航空部は、歴史のある部署で、戦前の昭和史でも、数々の記録を残してある。
▽朝日新聞のホームページにはこんな記述がある。
《朝日新聞社航空部は、記者やカメラマンを飛行機やヘリコプターにのせて災害・事故の現場に派遣するなど、朝日新聞の報道の最前線で空からの取材を担っています。また、高校野球開会式でのボール投下でもおなじみです。
▽1923年に大阪―東京間で定期航空輸送を開始するなど、国内の航空業界の草分けでもあります。1937年に「神風」号が東京―ロンドン間を最速記録で飛行しました。
▽戦後、航空部OBが中心になって航空会社「日本ヘリコプター輸送株式会社」を創設。のちに「全日本空輸(全日空)」となりました。
▽海外フライトも手がけ、アラスカ、ヒマラヤ、モンゴル、ソロモン諸島など、世界各地で多くの実績を上げてきました。南極観測に航空機や部員を派遣するなど、学術研究にも貢献しています》
▽後に先輩から聞くと、朝日新聞航空部パイロットはかなり訓練を受けており、かなり安全性は高かったらしい。しかし、もう二度と乗る機会はなかった。


★555「神奈川県警」とあだ名があった上司

▽「神奈川県警」
と陰口を叩かれていた先輩が、同じ職場にいた。その意味をお伝えしよう。
▽横浜支局時代に、この先輩は神奈川県警の担当キャップとして仕事をし、よく特ダネを取った、と後輩に自慢していた。常に「神奈川県警は」「神奈川県警は」と冒頭に付けて話していた。だれも評価しないので、自分で評価したいから、自慢話をしていたのだろう。
▽普通、通常の記者感覚なら、そんな自慢話を後輩にする事はまず無い。私も昔、県警キャップをしていたが、特ダネを取った話を、後輩にしたことはない。むしろ失敗話を話した方が後輩には受けた。失敗話の方が教訓になるのだ。
▽その彼が神奈川県警担当だったと自慢する根拠はこうだ。首都圏の埼玉県警や千葉県警と違って、組織の規模もレベルも警視庁並みに高いこと、そしてその高いレベルの県警を担当していた、というのが、彼の自慢らしい。神奈川県警を担当していた俺は偉いのだ、と言いたかったらしい。我々はへーっと聞いていた。確かに捜査力も高いだろうし、人員も多い。捜査1課、捜査2課の組織力も優れているのだろう。警備公安警察の力も相当だろう。そいう警察を担当していたことが、自慢になるのだから、私には不思議だった。
▽それ以来、その先輩に付けたあだ名が「神奈川県警」だった。
▽その後の人事異動で、彼は支局のデスクを経て、本社のデスクに栄転したが、態度や発言は変わらなかった。相変わらず、「神奈川県警は」と自慢話をする。
▽私はその後転勤で地方支局に行き、時折デスク当番に就くようになった。
▽ここでもその「神奈川県警」デスク殿は、見下したように電話をしてくるから、
「また神奈川県警から電話だ」
「神奈川県警、うるさいな」
などと話すようになった。
▽後輩や部下に、ここまで陰口をたたかれる、というのは、余程人格がない、ということだ。だれも彼のことを尊敬していなかったし、彼の言う指示を、まともに聞き入れていなかった。
▽彼はその後、関連会社に出向し、そして退職した。
▽悲しき神奈川県警だった。


★549よく通った都立中央図書館が移転か

▽東京都立中央図書館が移転するというニュースがあった。この図書館は他の図書館にはない資料があったので、私は朝日新聞東京本社時代によく通ったことがある。地下鉄駅を降り、坂道を上り、公園を通って通った図書館だ。懐かしい思い出を語ってみたい。
▽地下鉄日比谷線広尾駅を降りて、坂道を上がって公園内にある。駅周辺は様々な店舗が建ち並び、歩くのも楽しかった。
▽この図書館にだけあった資料とは、JRの時刻表だった。
▽1992年に開業した山形新幹線について私は取材をしていた。開業そのものは地元山形支局やJRを担当している社会部記者に任せて、私はこの変則ミニ新幹線の開業の意味合いを考える取材をしていた。
▽当時の新幹線問題は、財源を含む整備新幹線問題という政治的課題から、ミニ新幹線、スーパー特急の二つの構想が出されていた。そして結局は、在来線を使って新幹線を通すというミニ新幹線の変形版を山形新幹線で造ることになり、それに合わせて私は取材をしていた。
▽在来線の上を新幹線が通すという事は、レール幅が違うため、在来線のレール幅を新幹線の幅である標準軌に変更することである。これはどういう意味を持つのか、と私は考えていた。そこで調べたのが時刻表で、この山形新幹線がどういう扱いを受けているかだった。
▽いろいろな図書館を行っても、過去の時刻表は置いてなかった。最後にこの東京都立中央図書館に出向いて時刻表があることを知った。
▽調べてみると、当時の時刻表では、山形新幹線はまだ在来線扱いで、新幹線として扱ってはなかった。時刻表の中で新幹線の部類にはなく、山形新幹線はあくまでも在来線扱いだった。
▽私は関係者の取材を続けて、連載記事を書いた。テーマとして挙げたのが「レールの幅」だった。
▽山形新幹線の誕生は、日本のこれまでの鉄道事情を大きく変更し、在来線と新幹線の相互乗り入れを可能にした。画期的な乗り物だった。
▽しかし一方ではその標準軌のレール幅が途切れれば、列車はその先を走ることは出来ない。
▽それは第二次世界大戦でロシアが南下政策を進めた時、中国国境地のレール幅が違ってしまい、南進できなかった歴史的事実と重なる。
▽山形新幹線の誕生は日本の鉄道にとって新たな分断の始まりでもあったのだ、と私は書いた。

▽そのことを教えてくれたのが、時刻表だった。無味乾燥な時刻の羅列だが、読みこなしていくと面白かった。
▽その時刻表を保管している都立中央図書館の存在はうれしかった。

▽そして移転のニュースがあった。以下はそのニュースだ。
《老朽化が進んでいる東京・港区の都立中央図書館について、都は渋谷区の旧「こどもの城」を含む周辺の都有地へ移転する方向性を示しました。 25日、渋谷区の子どもの文化交流施設、旧「こどもの城」や旧青山病院を含む周辺都有地の活用方法について有識者が集まって検討する会がオンラインで開かれました。 この中で、都側からは建設から50年を超えて老朽化が進んでいる港区の有栖川宮記念公園にある都立中央図書館についてこの地区に移転する方向性が示されました。 新たな図書館には、調査や研究といった従来の役割だけでなく、交流や創造活動を生み出す機能を持たせたいとしています。 また、この地区にデジタル技術に対応した1200席規模の新たな劇場を整備し、子どもが、芸術文化に触れる機会を設けたいとしています。 25日の検討会では反対意見はなく、都はこの方向性をさらに具体化させることにしています。》(2024年12月25日NHK)

▽私が連載記事を書けたのも都立中央図書館があったから。図書館に感謝したい。

★541羨望だった朝日新聞東京本社前の築地市場駅

▽私が朝日新聞東京本社に転勤した時は、本社は非常に不便な場所だった。まだ都営地下鉄大江戸線が開通しておらず、最寄りの駅は地下鉄東銀座駅か築地駅、またはJR新橋駅または有楽町駅から歩かなければならなかった。歩いてもそれぞれ8−10分はかかった。
▽東京本社は元々は旧国鉄の有楽町駅前にあった。私は学生時代、この東京本社の中にあった通信社でアルバイトをしていたから、朝日新聞と言えば、有楽町というイメージが強かった。有楽町駅を降りて雑踏の中を進んでたどり着いた。古い建物だったが、どこか堅強なイメージがあった。
▽その東京本社が現在の東京・築地に移転したのは1980年だ。私にとって朝日新聞東京本社は、有楽町駅の目の前にあるというイメージが強く、その古い建物が印象的だった。それが不便な築地地区に移転したから、驚いたことを思い出す。
▽例えば、毎日新聞本社は地下鉄東西線の竹橋駅の上に本社ビルがあり、読売新聞本社も地下鉄大手町駅から近い。それが朝日新聞だけなぜ、あんな場所に移転したのか。いろいろな政治的な水面下での駆け引きもあったことだろうが、その事情は私にはわからない。とにかく私が東京本社に転勤になった時、本社は遠いもんだと思っていた。
▽移転の大きな理由の一つが、新聞製作をコンピューターに切り替えたことだ。これまでは鉛の活字を拾って紙面を組んでいたが、その紙面をコンピューターで作る紙面製作シスタムを開発し、それを築地の新本社で始めた。
▽しかし、だった。こんなエピソードがある。朝日新聞東京本社が移転した直後に、大地震があり、スタートしたばかりの新システムが使えなくなったのだ。

▽その経緯は朝日新聞のホームページでも紹介されている。
《朝日新聞東京本社は以前、有楽町にありました。今は有楽町マリオンがある場所です。
▽現在の築地に移転したのは1980年の9月23日。新聞休刊日だった秋分の日に合わせて編集局が移り、その前後にも少しずつ作業を進めました。これを機に、それまで鉛の活字を使って印刷していた作業を一新、コンピューターを使った新聞製作に切り替えました。
▽ところが新システムがスタートした翌24日、関東地方を中心にマグニチュード6クラスの直下型地震が発生、25日の午前9時半ごろ、新社屋8階の廊下に水があふれているのが見つかると、時を置かず7階にも漏水。そこには導入したばかりのコンピューターがありました……。
▽技術部員を中心に対応にあたりましたが、漏水はなかなか止まらず、ついにコンピューターの電源を切ることになりました。
▽結局、夕刊は大阪本社から紙面を送信してもらい、さらに撤収したばかりの有楽町社屋で活字を組むなどして発行にこぎつけました。午後には一部を除いてシステムを稼働することができましたが、その後1週間、地方版は活字を組んで作らざるを得ませんでした。
▽幸先のよくないスタートではありましたが、災害時の対応やバックアップ体制がいかに重要かという教訓になりました》

▽そんな新システムのスタートを、不便な場所で行っていたのだ。
▽そして私が東京本社を離れて、地方に転勤になってから、待望の都営地下鉄大江戸線が開通した。朝日新聞東京本社の目の前に築地市場駅が完成し、本社に行く社員や、用事がある人たちは、この地下鉄駅を使って本社に上がることができるようになった。地方にいた私は、うらやましかったことを思い出す。
▽取材をして東京本社に上がる時、ハイヤーやタクシーを利用しなかった場合、当然ながら駅から歩くことになる。取材道具を担いで歩くのもやや苦痛だったこともあった。
▽そして、新橋駅東口の再開発が進み、民放の大型ビルなども建ち、新橋駅と朝日新聞東京本社間の間は高層ビルが林立するようになった。その賑やかが増している。その後、私は再度東京本社に戻った時は、賑やかな町並みになっていて、驚いたものだった。

★526地下鉄には乗るなという東京本社社会部のルール

▽その昔、私が朝日新聞東京本社に上がった時、社会部では「地下鉄に乗るな」というルールがあった。今回はその話をしよう。
▽当時はまだ携帯電話やスマートフォンがなかった時代。連絡は、ポケットベルだけだった。ポケットベルは、地下では電波が届かず、連絡が届かないことが多かった。このため、当時の東京本社世界部では、「地下鉄には乗るな」というルールが存在した。
▽このため部員は、移動手段には地上を走る電車かハイヤー、タクシーを使った。細かい移動でもタクシーを使うため、部員には1カ月数万円の裏金が渡されていた。裏金と言っては表現が悪いが、細かいタクシー料金を実費請求しない代わりに、この数万円で賄ってくれ、というルールだった。
▽現在ではそんなルールがあるかどうか分からないが、他の部署から見れば、かなり違和感のあるルールだった。地下鉄で移動するならば、担当キャップに移動することを伝えればいいだけの話だ。ポケットベルもなかった時代は、部下はキャップやデスクに常に居場所を赤電話で伝えていた。それをあえて地下鉄には乗るな。電車やタクシー、ハイヤーで行けと言ったところで、詭弁に見えてしまうのだ。
▽私がこの社会部のルールを知った時、隣の部署にいたから、おかしいと思った。私が担当デスクを通じて同じような申請をしたら、私には当時の地下鉄半年間の定期券が渡された。すべての営団地下鉄(現在・東京メトロ)を全線使える定期だった。これは使い手が良かった。JRと組み合わせで使えば都内にどこでも移動できた。
▽電車や地下鉄を使わないで、タクシーやハイヤーを使い続けると、そうした生活に慣れてしまい、タクシーやハイヤーのない生活ができなくなる。退職すれば、もちろんタクシーやハイヤーを無料で乗ることはできない。早くタクシーやハイヤーから離れた生活を目指したほうが良い。移動は地下鉄と電車で充分だ。
▽そう言えば、福島原発事故の汚染取材で、東京から福島まで毎日新幹線で通っていた女性記者がいた。現地のホテルに泊まった方が全く安いのに、そうしなかった。こうした金銭感覚が東京本社では許された時代でもあった。もうそんな時代ではない、と私は思うのだが。


★524新聞のツッコミ原稿と降版時間の魔術師

▽今回は新聞のツッコミ原稿について話そう。
▽ツッコミ原稿とは、言葉通り原稿を突っ込むことである。新聞社にはそれぞれ新聞原稿の締め切り時間と降版時間がある。締め切り時間とは新聞制作をする整理部に届く時間で、この時間帯に記者はデスクを通じて整理部に原稿を渡さないとならない。降版時間とは整理部が最終的に紙面を形にして、印刷部門に紙面を降ろす時間を言う。その差は通常1時間。この1時間の間に発生する事件事故は、規模が大きいなら、不十分な形でも記事にして入れるのが突っ込み原稿だ。だから不完全な原稿が多い。
▽例えば、火災で4人がなくなった場合、住所や消失面積、4人の犠牲者の名前などはなくても、ツッコミ原稿はできる。私が朝日新聞新潟総局でデスク当番だった時、深夜に新潟市で火災が発生し、4人が犠牲になった時はこんな原稿を私が書いた。
《新潟県警本部に入った連絡によると、新潟市内で午前例時過ぎに住宅で火災が発生し4人が死亡した。県警が詳しい原因や犠牲者の名前を調べている》
▽これがツッコミ原稿である。
▽原稿が不完全なため、デスクが不安になり、嫌がることが多いが、事件事故の規模の大きさを考えると、これを突っ込まないわけにいかないのだ。
▽私がツッコミ原稿を気にするようになったのは訳がある。今から40年以上前、私が北海道新聞記者時代、警察発表より前に事件事故の発生を掴み、降版時間直前に原稿を入れたのだが、事件事故のキャッチに遅れたはずの朝日新聞、毎日新聞で、読売新聞が、きちんと夕刊最終版に記事を入れていたのだ。取材が遅れているのに、なぜ紙面化されたのだろうか。その疑問を解くことが出来たのは私が朝日新聞に転職してからだった。当時の札幌市にある各紙の北海道支社の夕刊最終版降版時間が、北海道新聞よりも40分も遅かったのだ。40分も遅いというのは、取材が遅れても堂々と記事が入ってしまうのだ。しかも全国紙は3紙とも道内の発行部数が少ないので、印刷も早く終わる。逆に北海道新聞は部数が多いので、どうしても降版時間を守らなくてはならない。これが、いくら取材を早くしても、他紙にに追いつかれてしまう理由だった。
▽だから私は降版時間直前のツッコミ原稿にこだわったのだ。
▽その昔、プロ野球巨人軍の外野手に、高田という左翼手がいた。日本シリーズでロッテ戦で戦った時、左翼への大飛球を塀際で大ジャンプして捕球するというファインプレーを見せたことがある。当時、「塀の魔術師」と呼ばれた。
▽この言葉を見習って、私は新聞社に入ってから、「塀の魔術師」ならぬ、「降版の魔術師」になろうと思った。どんなに締め切り時間が過ぎようが、どんなに降版時間が迫っていようが、大きな事故事故なら、降版時間間際に、このツッコミ原稿を作って、紙面化する。これが記者としての記者冥利に尽きることなのだ。
▽ツッコミ原稿は、記者だけでできるものではない。本社の社会部デスクを説得し、さらには社会部デスクから整理部デスクに声をかけて、紙面を開けてもらう必要がある。つまり、ツッコミ原稿を突っ込むには、本社のデスク2人を説得させなくてはならないのだ。連携が必要だ。「降版の魔術師」になろうとするならば、本社のデスクをいかに短時間で説得し、紙面を開けてもらうかが勝負となる。
▽こうしたツッコミ原稿の意味がわからないと、デスクは務まらない。完全原稿を求めたばかりに、ツッコミ原稿が突っ込めなくなるのだ。そんな風景を私は何回も見てきている。馬鹿なデスクだと思ってしまう。
▽ツッコミ原稿こそは、記者とデスクの共同の産物であり、記者冥利に尽きることなのだ。


★522取材相手から要請されても、事前に原稿をみせてはならない

▽取材した相手から、「原稿を事前に見せてください」と言われることが時折ある。しかし、特別な事情がない限り、こういう相手からの申し出は断っている。新聞社は複雑な組織のため、記者が書いた原稿がそのまま記事になることがないためだし、事前検閲ともなるためだ。
▽インタビューなどの取材を通して記者は記事を書く。取材したすべての内容を、Q&Aの形で書いていけば問題はないが、新聞には紙面の制約というものがある。答えてくれた話は、ある程度要約して文章にすることもあれば、その一部の言葉を切り取って記事にすることがある。紙面の制約上、この作業はどうしても避けられない問題だ。
▽その際、相手の主張したいことを正確に伝える努力をしなくてはならないが、実際は微妙に違っていたり、正反対だったりすることも可能性としてはある。その相手の主張を文字通り文章にしていく作業が大切だが、そうならないこともあるだろう。これが取材現場の実感だ。
▽しかし、だからといって相手に対して書いた文章を見せる必要はない。事前検閲になってしまうからだ。事前検閲になれば、記者が書いた記事の趣旨が歪められる可能性が高くなる。それは避けなくてはならない。
▽相手は不満だろうが、取材記者である自分を信じてもらうしかない。
▽さらに言うと、取材記者が書いた原稿を、最初に読むのはデスクで、デスクはその原稿に手を入れる。さらには、そのデスクが出稿した原稿を、さらに整理部の人間がいじることもある。つまり、取材者が書いた原稿はそのまま一字一句、紙面に載るとは限らないのだ。だから、事前に原稿を見せても、その原稿通りに紙面になっているかはわからない。
▽原則として書いた原稿を取材相手に見せてはならないのは、こういうことでもある。最終的に紙面に乗る記事を相手に見せていたら、深夜になってしまう。そんな深夜の時間帯に、直すことなど不可能なのだ。新聞社の製作事情の問題でもあるのだ。
▽さらに言うと、紙面化された記事とは、新聞社の考えでもある。思い通りにならない記事になることも、取材相手にあるだろう。それはそれで仕方ないのだ。
▽ただし例外があると言ったのは、ストレートなQ&Aのインタビューなどだ。この場合は、事前に見せる時もある。
▽ただし、その原稿に取材相手が直しを入れてくるのは、ルール違反だ。あくまでも取材してこういう記事になったのだから、それを押し通すしかない。事実関係が異なっていたり、事実関係が不正確だった場合は、直しを入れるが、それ以外の事には手を入れないのが原則だ。
▽こうした新聞社のルールをもっと知ってもらいたい、と私は思っている。

★514新聞業界内の転職と朝日新聞の場合

▽新聞業界内で転職する記者が結構多い。私もそうだった。しかし、新聞業界に限らず、社会全体の話として、転職がすべて成功するとは限らない。これから転職を考えている記者に、私が経験したことや見たことを伝えたい。
▽私は北海道新聞から朝日新聞に転職した。同じケースは過去にもあったし、私と同じ年に北海道新聞から朝日新聞に転職した記者は私の他に2人いた。北海道新聞のようなブロック紙のほか、地方紙から朝日新聞に転職する記者も多かった。要するに、大卒で最初から朝日新聞入社する人間のほか、転職で朝日新聞に入る記者も多いということだ。
▽他社で見ると、産経新聞から東京新聞に転職する記者も多い。その中には東京新聞で社会部長になった人間もいる。これには驚いた。
▽読売新聞から朝日新聞に転職した記者も数多い。毎日新聞から共同通信に移った記者もいた。NHKから朝日新聞に来た記者もいれば、逆に朝日新聞からNHKに転職した人間もいる。
▽こうしてみると、新聞業界は予想以上に転職している人間が多い。それまでの境遇や環境への不満からの転職もあるし、本人のスキルアップのための転職もある。私自身は自分のスキルアップのための転職だったが、きっかけは、朝日新聞のベテラン編集集員に誘われての転職だった。私自身が求めての転職ではなかった。
▽当時はまだ新聞業界が全体として部数が伸びていて、成長時代だった。新聞社自体も組織も大きくなり、記者数を増やすためには、簡単に転職組を取った方が教育もいらないし、金もかからなかったのだ。こんな背景があった。
▽ただし転職した先が成功するとは、いつの時代もわからない。せっかく転職したのに、思った以上に境遇は悪かったり、思った以上に処遇が悪いというケースもあった。私の職場では、毎日新聞から転職した若者が数年後に東京本社に上がったが、すぐ辞めてしまった。理由はわからないが、住み心地が悪かったのだろう。
▽転職してしばらくの処遇は良かったが、最後は記者職を外された人間もいる。こうした人間は、辞めていくこともあれば、その場に止まるのもいるが、記者を続けることはできないのが通例だ。
▽転職を成功とるか、失敗と見るか、本人次第なので、他人が口を挟む気はないが、転職を希望するのであれば、じっくりと転職先の会社の処遇や境遇を考えた方が良い。特に朝日新聞の場合、激しい人事異動と組織改編があり、上司とケンカすると、処遇が極端に悪くなる。左遷もある。部下を抹殺することなど、朝日新聞幹部は簡単に行ってきている。名前だけに憧れて転職するのは避けたほうが良い。


★512損紙の取材現場に私はいた

▽東京地下鉄サリン事件に絡み、警視庁が山梨県上九一色村(当時)にあったオウム真理教の教団施設を強制捜索を続けていた時のことだ。朝日新聞は夕刊で、「教組の松本智津夫容疑者を逮捕へ」という特ダネを夕刊で打った。しかし、それは誤報だった。夕刊早版で打ったため、その夕刊を販売店に配送する前に夕刊を回収した。いわゆる「損紙」の発生だった。早版は幻の夕刊となった。
▽このように損紙とは、文字通り「紙を損する」ことから名付けられた。新聞で書いた記事が、後に誤ったことに気づいて、販売店に配送する新聞を回収する作業、または販売店に配送した者の、各家庭には配らず、回収してしまう作業のことだ。最終的に回収してしまえば、誤った記事は家庭に配布されない。ただ、販売店に到着する次の版の紙面が届くため、配達時間が遅れる。
▽私はそのオウム真理教に関する記事での損紙を、現場で知った。上九一色村の教団施設前で取材をしていた。現地デスクと警視庁キャップのやり取りの中で、夕刊の記事が誤っていることを分かり、夕刊を回収するために損紙を出したことを目の前で知った。
▽噂には聞いていたが、こんな状態になるとは思っていなかった。
▽新聞記者が記事を書いて、デスクがチェックをし、整理部は紙面化する。その際、誤りに気づいた時は、デスクを閉じて記事を修正する。これを「直し」と言う。日々の通常の作業の一つだ。
▽しかし、降版時間が過ぎた場合は、紙面はもう編集できないため、その直しが効かない。その場合はどうするか。
▽この場合は印刷工場に連絡し、誤った部分を削って、空白にする作業を行う。これを「削り」と言う。削って、紙面と言う商品に穴が開いてしまうのだが、間違った部分が削られているので、紙面上の影響はない。読者も、この削りを見たことがあるかもしれない。直しが出来ない時の究極の作業だ。
▽そして損紙。これは削り以上の究極の手段ということになる。
▽つまり新聞社の現場では、紙面の誤りをさせないため、直し、削り、損紙という三つの作業がある。削りも損紙も、制作過程ではトラブルの一つとなるが、間違いがないことに越した事はない。
▽私が現役時代に目撃した損紙はこの1回だけである。削りは何回も見ていたが。緊張する瞬間だった。

★500政治家になりたがる一部新聞記者

▽私の知り合いが、衆議院議員選挙に出たことがある。当時、その彼は朝日新聞東京本社に勤務していて、突然の立候補騒ぎに、周囲は驚いたものだった。
▽総選挙の季節が近くなり、その彼はずっと出馬の準備をしていたようだ。そんな動きを知った東京本社社会部のデスクラが、彼に電話をかけてその意思を確認した。
▽ちょうどポスターの撮影をしているとこだったらしい。
▽デスクの問い合わせに、彼はこう答えたそうだ。
「もう分かったんですか」
▽彼は秘密裏に選挙の準備をしていた。それが分かってしまったと言うことなのだろう。
▽彼にしてみれば、立候補で当選すればラッキー、落選してもそのまま朝日新聞記者でいることができると思ったらしい。
▽しかしそんなに甘くない。国際選挙に出るような人間が、そのまま朝日新聞記者として残って良いはずがない。デスクたちは、
「とにかく会社を辞めてくれ」
と主張し、依願退職する形で、彼は辞めていった。
▽さらに驚いたことに、当時の週刊誌が、彼の選挙出場を取り上げていたのだ。「エリート記者が政治家へ」というようなタイトルのような記事だった。彼のことを持ち上げていた。
▽この記事を読んだ私は同僚は、
「こいつ気が狂ったのか」
と感想を持った。何を考えていたのか、私は今でも分からない。新聞記者と政治家は全く違う世界の話だ。
▽そして実際の選挙で、彼は当選ラインに届かず落選し、新聞記者の職業も失った。
▽甘いのだ。新聞記者は志のある人間の集団だし、政治家とは異なる。政治家も志の持つ集団だと言っても、権力側の組織だ。そんな権力側の組織に飛び込もうとしている人間が、落選したからと言って、新聞記者のままで良いはずがない。
▽過去にも朝日新聞記者は、何人も政治家を目指し、実際に政治家になった人間もいる。法務大臣なども務めた松島みどりもその1人だ。朝日新聞社内でも評判は悪かった。新聞記者と政治家は全く違うのに、何を考えて政治家になったのだろうか。

★486年休の取り方と使わない理由

▽新聞社における年休の取り方を考えてみたい。
▽まず私の経験から書いていこう。私は北海道新聞に7年間、朝日新聞に33年間ちょっと勤務していた。約40年間の新聞記者生活だったが、年休は一度も取らなかった。忙しかったこともあるし、そもそも通常の勤務で年休を取るという発想はなかったのだ。
▽年休は1年間働くと、計20日間つく。2年間で40日間だ。しかしそれ以降は順次消滅していき、3年目以降は年休を使わなくても常に40日間だけ保持するようになっている。だから、定年になった時の年休も40日間のままだ。
▽朝日新聞記者の場合、夏休みは1週間を2回、計2週間を取ることができる。冬休みは1週間だ。これは年休を使わなくても、通常の休日出勤などで休みが潰れるので、その代休をまとめて取ったようなものだ。年休を使うまでには至らなかったのだ。これをずっと繰り返していた。
▽60歳の定年になっても、年休は全く使わなかったし、その後嘱託のシニア記者になっても、5年間、年休は取らなかった。
▽私の場合は忙しくて取れなかったのだが、多くの記者も同じだった。
▽そして重要なのはここからだ。
▽年休は万一の時のことを考えて、使わず取っておくという考え方がある。
▽そう、病気や交通事故などで長期の休みを強いられた時は、年休が貴重な財産となのだ。朝日新聞の場合、大雑把に言うと、病気や交通事故で仕事ができない場合、最初の2カ月は基本給はもらえるが、時間外手当がなくなる。さらに休み続けると、今度は基本給の2割がカットされる。さらに休むとさらに2割がカットされ、次第に基本給すら減らされていく。基本給がゼロになると、退社させらる。つまり1年間休むと、次第に給料が減り、最後はゼロとなってクビになる。実際に交通事故でこんな辞め方をした女性記者が本社社会部にいた。会社は冷酷だ。
▽一般論でもあるが、こうしたシステムがどの企業でもあることを知っておいた方がいい。
▽だから、こういう時のために40日の年休は貴重なのだ。病気になっても、最初の40日は年休をとれば、時間外のお金も減る事はない。年休はこういうものだ、と私の先輩もよく言っていた。だから新聞記者は年休を取っていないものだと私も勝手に思っていた。
▽今後の問題は今後の働き改革と年休の関係だ。年休が以上の性質を持つものだとすれば、年休は取れなくなる。年休の限度を40日間とするシステムもおかしい。制度設計に問題が出ているのだ。
▽私は既に会社を辞めてしまったので、年休とはもう縁がないが、年休を1日あたり1万円で買い取る制度があれば良いのではないか。私はそう思っている。貴重な年休なのだ。サラリーマンは大切に保管するか使っていきたいと願う。

★482本社でのハイヤー利用のメリットとデメリット

▽私が朝日新聞東京本社にいた時、取材の移動でハイヤーを時折利用した。日々の通常取材はJRや地下鉄だったが、夜回りや、深夜の移動にはハイヤーが便利だった。ただし、メリットとデメリットがあった。
▽メリットは、JRや地下鉄のように、深夜に利用できない時の移動手段として便利だった。ハイヤー会社と東京本社は数十台契約しており、東京本社の車両担当部署に申請しそこを経由してハイヤーの利用をする。夜回りで使うこともあれば、深夜の取材に使うこともある。
▽一番便利だったと感じたのは、深夜に福島県の温泉街で火災が発生し、死傷者が多数出た時だ。その時、私は深夜に東京本社デスクから電話をもらい、そのまま自宅から東北地方にハイヤーで向かった。まだ新幹線の始発も出ていない時間だった。同僚らと現地にハイヤーで到着し、取材を始めた。ハイヤー契約がなかったら、何時間も遅れて、新幹線で現地に到着し、他社より取材が遅れただろう。高額な料金ではあるが、機動力に関して深夜のハイヤーは便利でありメリットがある。
▽同じ事は長野県松本市の松本サリン事件でも感じた。この時は発生時、私は本社でサブデスクを行っており、深夜に同僚をハイヤーで現地に向かわせた。この時松本市長はひどい濃霧に覆われていて、東京本社からヘリコプターでカメラマンが現場に向かったが、ヘリコプターが降りることができず、現地での写真撮影ができなかった。ハイヤーはその濃霧の中をついて同僚が現地取材をした。
▽山梨県上九一色村(当時)のオウム真理教の教団施設に家宅捜索を警視庁が始める時も、本社から現地でハイヤーに向かった。現地近くの民宿を本社が借り切って、記者もハイヤー運転手もそこを拠点に出入りしていた。食事も風呂も同じだった。
▽このように取材移動の手段として、ハイヤーは便利だと痛感している。
▽しかしデメリットもある。渋滞に巻き込まれたら、身動きが取れないということだ。
▽阪神大震災の時、私の上司が数人、東京本社からハイヤーで神戸支局に向かった。しかし大阪を過ぎてからが大渋滞だった。神戸市が陸の孤島になっていた。上司らを乗せたハイヤーが神戸支局に到着したのは、出発から24時間以上が経過した。この時私は新幹線と飛行機、船を乗り継いで、発生日の夜には着いていた。ハイヤーのデミリットだった。
▽またハイヤーを使うことに慣れてしまい、ハイヤーをマイカー代わりに使う輩が出てくるのだ。
▽私の知り合いの一人勤務のベテラン支局長は、マイカーでの取材をするのが嫌だったので、取材のたびに東京本社からハイヤーを呼び出していた。同業他社から見ればなぜハイヤーを使うのか疑問だったが、本人は使えるんだから、と言っていたらしい。
▽しかしこれはルール違反だ。地方ではマイカー取材が原則だ。本社もこのルール違反に気がついて、この支局長を厳重注意し、利用したハイヤー代の返却を要求した。ハイヤーはマイカーではないのだ。
▽このようにハイヤーの利用にはメリットとデメリットがあるが、慣れてしまうと、つい使いたがるのがハイヤーだった。

★479朝日新聞と高校野球と女性記者の涙

▽私の知り合いが本社社会部デスク時代の話だ。朝日新聞と高校野球、さらには朝日新聞記者との関係を考えてしまう出来事があった。今回はそのことについて述べよう。
▽毎年のことだが、本社社会部では夏の高校野球担当者をだれにするかで、迷う。迷った末に、その年は1人の女性記者に決めて、その彼女を本社近くに呼び出した。
▽デスクはその女性記者に言った。
「今年の高校野球の大会はあなたに担当してもらう」
▽言われた女性は、しばらくして急に泣き出した。うれし涙ではない。高校野球担当になるのが嫌だった。そんな涙だった。
▽高校野球夏の大会は、朝日新聞が高野連とともに主催している。朝日新聞は夏の7月の地方大会から大々的なを紙面展開している。地方大会では地方支局の記者を大量に投入し、紙面展開している。地方大会で優勝した高校が甲子園出場すれば、それも扱う。甲子園大会が始まれば、本社スポーツ面や社会面で大きく扱う。同時に地合板でも大きな扱いだ。
▽これが主催する朝日新聞の現実だ。朝日新聞にとって高校野球は大きなコンテンツである。コンテンツである以上、朝日新聞記者が取材するのは当然だ。
▽しかし、だ。新聞記者にとって高校野球地方大会での取材は当然を行うとしても、せっかく東京本社に上がったのに高校野球をやるとは、と思いもしなかった。これが本音だ。本社に上がったのに、なぜ高校野球を担当するんだ、という反発。だからこそ、この女性記者は泣いたのだ。本音は高校野球などやりたくないのだ。
▽デスクがこの女性に言い渡したのは、朝日新聞東京本社に近い東京銀座の飲食店街の近くだ。周囲から見れば、男が女を泣かした、と思われたらしく、このデスクはやりにくかった、と私に言っていた。
▽せっかく本社であっても、花形の部署で取材を続ける、という事はそんなに多くない。本社では雑用も結構多い。高校野球を社業とは言え、高校野球の取材などやりたくないと考えている記者も多い。この女性記者もその1人だった。
▽しかし朝日新聞にとって高校野球が社業なら、指示された担当記者は担当するしかないのだ。嫌だったら、会社を辞めるしかない。
▽この女性はその後本社と地方を行ったり来たり転勤をして、多くの地方で選挙担当を命じられていた。
▽選挙も高校野球と同様で、やりたくないと考えている者が多い。選挙も朝日新聞にとっては生命線の一つで、大切なコンテンツだ。怠るわけにいかないのだ。しかし、やりたがらない記者も多いのも事実だ。
▽新聞社とは華やかな部門だけではないのだ。好きな仕事だけを出来る、と考えない方がいい。それが現実だ。

★465ハイヤー運転手と缶コーヒー、そして社内情報

▽私が朝日新聞東京本社で勤務し、夜回りなどでハイヤーを使っている時、ハイヤーの運転手には、缶コーヒーや軽食などの差し入れをしていた。こんなことを話すのは、意外にこういうことをしていない記者が多いためだ。
▽最初から指摘しておこう。ハイヤーの運転手は会社の人間ではなく、新聞社が契約したハイヤー会社の社員だ。下請けでもない。だから大切に使った方がいい。「使う」という言葉も失礼だ。仲間として意識した方がいい。
▽これまでの経験から、夜回りの取材先が留守だったり、取材を拒否されたりして空振りすることもあった。または、夜回りのハシゴと称して、東京・新宿の歌舞伎町の界隈にハイヤーを止めて、スナックなどに飲みに出ていることもあった。同業他社との情報交換にも使っていた。その間、ハイヤー運転手は、乗客である私を待っているのだから、缶コーヒーなどの差し入れは当然の行為だと思っていた。飲み屋での話が長引くなら、「長くなる」と運転手に言って、1時間ほど自由に使ってもらったことが何回もある。
▽私の大先輩は、運転手に数千円を渡して、「これで夕食でのどうぞ」と常にプレゼントしていたというから、かなりの大物ぶりだ。こうした行為が、運転手からも好かれることになる。
▽実は私の父親も、長らくハイヤーの運転手をしていた。父親の会社は日本経済新聞と契約していて、父親は日経記者の夜回りにかなり付き合わされた、と昔話していたことを思い出す。そして父親の息子である私が新聞記者になった時に、父親は私にこう言ったことがあった。
「ハイヤーの運転手には、缶コーヒーの1本でも差し入れしてやってくれ」
▽日経記者はそんな行為を、ほとんどしなかったという。
▽こうしてハイヤー運転手と仲良くなると、何が起きるか。
▽いろいろな情報をくれるのだが、面白いのは、社内情報が筒抜けになり、私もハイヤー運転手からの社内情報が第一報だったことがあった点だ。
▽具体的に言うと、私の後輩の政治部記者が朝日新聞系列週刊誌の女性記者と付き合っているという話を、ハイヤー運転手から聞いた。
「AさんとBさんは付き合っているんですね」
▽聞けば、2人のそれぞれのマンションをハイヤーで行ったり来たりして、深夜の逢瀬を楽しんでいたらしい。個人の恋愛に、会社のハイヤーを使うとは立派なものだと思った。ハイヤー仲間では有名な深夜の恋愛ごっこだったらしい。2人が結婚することはなかった。
▽この男性記者は次第に出世し、大阪本社の編集幹部を務めたが、セクハラで会社を辞めた。女性は週刊誌の編集長となったが、社内では有数の離婚歴を持つ人間だった。今も情報番組のコメンテーターとしてテレビに出てくるが、私はあまり信用していない。
▽また社内不倫情報もハイヤー運転手からいろいろと聞いたが、これは別の機会に話そう。

★453醜い朝日新聞カースト制度と地方記者

▽朝日新聞社はかつて、新しい記者を採用する際に、大卒の定期採用組のほかに、地方記者を採用する別枠での入社制度があった。定期採用組とは違い、地方をずっと回ることを条件に、給料も安く、本社に上がることもなく、採用される内容で、同業他社からは、「朝日新聞カースト制度」と呼ばれていた。
▽カースト制度はかつてのインドで続いていたヒンドゥー教の身分制度で、制度によって身分が区別されていた。日本で言うと士農工商に似ている。その下に被差別部落があった。
▽私が朝日新聞に入社した時は、この制度が続いていた。定期採用組の記者が県庁所在地の支局を2カ所、計5年間担当すると、自動的に本社に上がった。これに対して地方採用組は、地方をぐるぐると回って、本人が希望しても本社にはなかなか上げてもらうことができなかった。
▽しかも給料の中に能力給という査定があり、その能力給も定期採用組に比較して1−2割低く査定されていた。
▽だから地方記者の中からは、
「いくら一生懸命がんばっても、給料も低いし、地方ばかり回される」
という愚痴がよく出されていた。
▽インターネットもない時代、春や秋の人事異動になると、本社の掲示板には人事異動のペーパーが貼り出されたが、地方記者が本社政治部に上がると「通信部員兼政治部員」という名称を、社会部に上がると「通信部員兼社会部員」という名称が出されていた。この通信部員というのが、地方記者であることを示していて、社内的には露骨に身分制度を表示するものだった。
▽一方の定期採用組は、あまり仕事ができなくても、自動的に本社に上がり、ちやほやされて、本社で仕事を続けてきた。地方に転勤することもほとんどない。
▽定期採用組からすれば、地方記者組があるから優位に立っていることを知ることになるため、会社側から見ても都合良い制度だった。江戸時代の士農工商制度で、その下に被差別部落を置くことで、農民や商人には「もっと下の人間がいるから、我慢せよ」と論じているのと同様だった。
▽この朝日新聞のカースト制度、いつだったか、表面的にはなくなった。人事異動でも「通信部員兼務」という表示はしなくなった。
▽だからといってこの制度が本当になくなったか疑問だ。
▽人事異動では、相変わらず特定の記者だけが地方を回っている。
▽同一職種、同一職場なら、そして同じ仕事の能力なら、本来給料は同じでなければならないのに、今でも給料格差と差別は続いている。まさに朝日新聞は憲法違反をしているのだ。

★433新聞の幽霊見出しと禁じ手

▽新聞を読んでいると、ほんの時折だが、「幽霊見出し」に出会うことがある。今回はその話を記そう。
▽「幽霊見出し」とは、記事の文中にはない言葉を使った見出しのことを言う。新聞づくりでは、決してやってはいけない禁じ手だ。
▽例えばプロ野球で阪神が巨人に勝った、という記事で、巨人が連敗したとしよう。読者も分かっていることだろうが、記事の文中に「巨人が連敗」という表現がなければ、見出しでは「巨人連敗」とはうたえない。見出しでは「阪神、巨人に競り勝つ」という意味の見出ししか付けられないのだ。
▽総選挙の小選挙区にしてもそうだ。小選挙区では1人だけ当選するので、仮にA氏が当選したとしても、B氏が落選とは書けないしも見出しでもうたってはいけないのがルールだ。そのうえ、総選挙では比例区での復活当選があるから、なおさら「B氏落選」と見出しにすることが出来ない。
▽これが幽霊見出しの禁止の論理だ。要するに新聞では禁じ手のルールだ。
▽通常の新聞づくりは、一線の新聞記者が書いた原稿をデスクが手直しをして整理部(編集センター)に出すが、その整理部員がそれぞれの記事に見出しを付けて、レイアウトをして、紙面を組んでいく。
▽幽霊見出しは、この時の降版時間間際のどさくさに紛れて、文中にはない見出しが出来上がり、そのまま紙面化してしまう、というケースが多い。降版時間の直前に出稿部の記者やデスクが頻繁に原稿を手直しして、最初にはあった言葉がなくなっていて、それを知らない整理部員が最初の原稿の言葉に引きずられて、幽霊見出しとなることが多い。見出しの責任は整理部の部員とデスクだが、勝手に原稿を直してくる出稿部デスクの責任も重いと私は思う。
▽新聞の1ページの容量は決まっている。およそ計200〜250行の記事が写真とともに入るが、レイアウトによっては、記事の長さを切る必要も出てくる。記事を切るのは整理部員の専決事項で、たとえば100行の記事を50行に切ったとしても、出稿側の記者やデスクは文句が言えない。文句を言ってはいけないルールがある。そんな中で、降版時間直前の時間帯に、いろいろと原稿を手直しすれば、大混乱となって、禁じ手の幽霊見出しが出来上がってくる。

【再掲載】★048松本サリン事件

▽やはりこれは書いていた方が良いだろう。松本サリン事件のことだ。
▽1994年6月27日から翌日の28日の早朝にかけて、長野県松本市の住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布されて、7人が死亡、数百人が負傷した。当初はサリンだとは分からず、事故か事件なのか分からないまま、長野県警が被疑者不詳のまま、近くの男性宅を家宅捜索し、薬品を押収するなど、男性を容疑者扱いするマスコミ報道が加熱した事件だった。
▽当時、私は東京本社に勤務していて、事件が発生したその日の夜は泊まり勤務だった。朝刊最終版の降版時間を終えて、気持ち的にはのんびりしている時だった。デスクを相手にビールを飲みながら雑談をしていた。そんな時に長野支局から第一報が飛び込んできた。
▽「アパートで集団的なガス中毒が出ている、数人が亡くなっているようだ」
と言う内容だった。
▽既に降版時間が過ぎていて、朝刊には間に合わない。翌日の夕刊に入れる話だった。
▽その内容を聞いて、デスクは私の同僚である部下に電話をして、早朝に松本に向かうよう指示していた。既にハイヤーを確保した。そのハイヤーでそのまま行ってくれ、という内容だった。
▽当然、地元の松本支局も、そして長野支局の記者も現場に向かった。私は早朝からは泊まり明けで、夕刊の内勤に着くため、そのまま、宿泊室で眠りに入った。そして、早朝から長野支局から届いた情報や原稿を断片的に整理して、夕刊用に「松本でガス事故か」という内容の記事を書いて行った。
▽規模が大きいので、さらに応援部隊を東京本社から出すことになり、何人かが指示を受けて現場に向かった。私は泊まり明けの内勤のために、現地から届いた原稿を整理する役目だった。
▽事件なのか事故なのか、原因はわからない。しかし集団で人が亡くなっている。ガス事故なのか、それとも事件性が高いのか、その時は全くわからなかった。
▽夕刊の早版が終わり、その記事を見た編集長役の編集局次長が私のところに来て、もっとおどろおどろしく書け、と言ってきた。通常の事件事故ではないようなので、ミステリー性を入れろ、という指示だった。私は原稿を夕刊最終版に向けて記事を作り直していった。
▽一方で現地では濃霧がひどくて、東京本社からのヘリが降りることができず、地元新聞の写真を共同通信経由で買って、紙面化することにした。現地からの写真が間に合わなかったのだ。
▽夕刊作業が終わったことで、私の初日の松本サリン事件の内勤作業は終わった。そして事件担当者に引き継ぎをして、私はこれ以降、松本サリン事件に取材することはなかった。男性が逮捕された場合に備えて、その予定稿を私の同僚が作り始めていることも知ったが、担当していないので、詳しくは聞かなかった。しかしその後、警察庁情報に大きく左右されて、男性容疑者説に大きく傾いていったことを知ったのは、かなり後になってからだった。


★409自分の子どもを職場に連れてくる記者

▽私が朝日新聞のある地方の支局長を務めている時に、支局員が就学前の自分の子供を連れてきていた。おそらくその日は休みだったはずで、別に子供を連れて仕事をしてきたわけではない。社会見学の意味もあったのだろう。それはそれで悪いことではない。しかし、部下の支局員が自分の子供を連れてくると、職場に緊張感がなくなってしまうのは事実だ。
▽別の支局員も連れてきたことがある。子どもはかわいいが、職場に連れてくると、新聞社としての緊張感がプツンと切れてしまう。これは良くないことだと私は思う。
▽緊張感がなくなる、とは、仕事上の会話で、所属長が支局員のミスや失敗を注意したり、仕事の指示、時にはアドバイスも出来なくなる、ということだ。部下の子供がいる目の前で、部下を叱ることはできないし、注意もできない。つまり、子供がいる限り、緊張感を維持出来なくなり、仕事ができなくなる、ということなのだ。
▽実は私も東北地方に勤務している時に、自分の子どもを支局に連れてきたことがある。その時の支局長の表情が忘れられない。実に嫌な顔をしていた。その表情を見て、もう絶対職場には子どもを連れて行くことはしまいと誓った。この支局長、自分の好きな部下が子どもを連れてきたときは笑顔になっていたから、要するに好き嫌いをしていただけなのだ
▽東京本社ではこんなことがあった。社内結婚した女性社員が、職場に2人の双子の子供を連れてきた。職場の人間たちは、みんなで「かわいい」「いいねぇ」と言って、褒めていた。
▽その女性社員の夫は、本社編集局の幹部だった。この幹部が、ある事件を契機に失脚したら、その妻の職場の人間たちは態度を急変させて、
「なんでこんなところに子供を連れてくるんだ」
と言うようになったというのだ。急に態度が変わったと私の後輩が話していた。つまり夫の威光があったから、職場の人間はその女性社員の子どもを褒めていたのであり、夫がいなくなってしまえば、褒めることをやめて、けなすようになってしまった。
▽なんとサラリーマン的なのだろう、と私は思ってしまった。
▽やはり子供を職場に連れてくるのは危険だし、やってはいけないと私は思った。


★403尊敬する記者がデスクになったその出会い

▽私の尊敬する記者の1人に、Uさんがいた。ロス疑惑事件を覚えているだろうか。疑惑だけで事実が確認出来ないまま、週刊文春に引っ張られて、多くのマスコミが大々的に疑惑を報道した。そして警視庁が逮捕した時に、マスコミはさらに大々的に報じた。そんな中、朝日新聞だけは冷静は紙面展開し、本記は一面トップではなく、1面カタに、そして社会面では冷静な解説記事を書いていた。その記者がUさんだった。朝日新聞にはすごい記者がいるな、と私は思った。
▽ロス疑惑の渦中にいた容疑者三浦和義を、警視庁が逮捕したのは1985年9月11日だった。三浦を殴打事件での殺人未遂容疑での逮捕だった。前年から続くマスコミの過剰な報道の中、マスコミが人権保護という判断を捨てて疑惑報道を先行させて、その疑惑に捜査当局がいつ強制捜査に乗り出すかが焦点になった。
▽そして演出的な逮捕に多くのマスコミが乗って、各紙は1面トップ、社会面見開きの紙面展開をした。
▽そんな中で、朝日新聞だけが違っていた。1面真ん中に本記を置いて、つまり大袈裟な扱いにはせず、社会面では「警察▽威信かける」とした署名記事を載せて、警視庁を批判する冷静な記事を載せたのだった。
「当時、マスコミは三浦フィーバーの中にまっただ中にあった。たとえ別件でも警視庁が強制捜査に乗り出せば、お墨付きをもらった、として『すべてクロ』の大合唱となるのは明らかだ」
「そのあげく本件が立件できずに終わった場合、警視庁は二方向からの批判を受けることが予想された。一つは、『マスコミの魔女狩りに手を貸した』という、人権擁護の立場から。もう一つが『それだけの力しかないのか』という、素朴な勧善懲悪の立場から。警視庁はとくに後者からの批判を恐れた」
「となると、『国民の納得』に対する判断が変わったとしか考えられない」
▽紙面を今読んでも、意地でも大々的には扱わない、警視庁を礼賛しないという意識が伝わってくる紙面だった。
▽その署名記事を書いたのが、U記者だった。
▽当時、私は北海道新聞記者としてこの記事を読んだが、この署名記事の問題意識だけはひしひしと伝わってきた。こんな人と一緒に仕事ができれば良いなと、密かに思っていた。

▽月日は流れて、私は1988年に北海道新聞記者を辞めて、朝日新聞に転職した。そして回り回って、本社に上がった時にこのUさんがデスクとして同じ部の上司となっていた。この偶然性に驚いたものだ。
▽そしてその数カ月後に私がキャップとなって、取材班を作り、死刑制度の問題点をルポした連載記事「死刑執行ゼロの周辺」を書いた。担当はUデスクだった。この連載は後に朝日新聞から本になった。
▽こう考えると、新聞記者もサラリーマン、偶然でもいい上司に当たると、いい連載がを書くことができるということだろう。
▽そういう意味で、偶然だがいいデスクに出会ったこの時の私は幸せだった。

★393地方への転勤を否定する記者の発言にモヤモヤ感

▽朝日新聞ポッドキャストで2人の男女中堅記者が、地方への単身赴任での異動を否定的に話したことが気になった、と私は自分のX(旧ツイッター)に書いた。モヤモヤ感が残るので、問題点を整理したい。
▽この2人の記者が、単身での地方異動を拒否する理由として、家族の問題を挙げていた。子供の成長を見たい。家族と一緒に過ごしたい。こんな思いを持っているのは当然だろう。しかし、それはだれでも思っているのであって、東京本社の人間だけが、思っているものではない。東京本社の人間のこうした願いを叶えれば、一方で地方にいる記者は、そうした家族と一緒にいる生活は絶ち切らねばならない。東京本社のこういう人間が多いことが、地方の記者を苦しめていることに気づかないのだろうか。
▽私自身のことを書くならば、私は朝日新聞に33年勤務していたが、そのうち17年もが単身赴任だった。2人の子供の思春期、青春期に私は自宅におらず、子供の受験などのすべてを親として関与することができなかった。
▽つまり家族問題を理由に地方への転勤を拒否するというのは、一部の地方にいる人間が犠牲になるということに気づいていないということなのだ。私はそう思う。
▽モヤモヤしたのは、こんな家族の問題以上に、本質的なことに感じた。そう、何のために新聞記者になったのか、という原点が忘れられている。
▽新聞記者とはと、そもそも言うならば、権力と対峙し、言論の自由を守る最後の砦であるはずだ。そして取材現場の多くは、地方にある。地方への取材を拒否するという事は、新聞記者の原点そのものを放棄したと言うことになる。
▽このことが一番大事だ。確かに朝日新聞の記者は、東京本社に上がれば、最後まで東京本社にいることが多く、地方に異動する事は少ない。取材現場の多くが地方にあることに気づいていない。新聞記者の原点を忘れるという事は、新聞社にとっては大きなマイナスだ。新聞業界の衰退ということにつながる。
▽アメリカの新聞業界を見ればわかるだろう。地方紙が衰退し、新聞がなくなった地域も多い。そうした地域では汚職事件がはびこり、犯罪が多発している。
▽朝日新聞ポッドキャストで何気ない2人の男女記者がつぶやいた本音は、新聞業界の衰退を浮き彫りにしたエピソードだと私は受け止めてしまった。モヤモヤ感はそんなところから出てきたのだ。
▽朝日新聞は地方取材網を急速に縮小している事実も絡んで、私は朝日新聞の将来を憂う。


★385手を抜く新聞記者の末路

▽「こんな場所で仕事をする気はないです」
▽本社に勤務していた時だ。ある大がかりなプロジェクトのテスト要員として、私も含めた数人が、内勤の部署に人事異動させられた。私の後輩が発した言葉がこれだった。その言葉の持つ意味を、本人すら気づいていないのだろう。危ないなと思った。
▽新聞社とは組織だ。花形職場もあれば、そうではない職場もある。組織はアメーバーのごとく少しずつ動いていく。時の会社幹部の考えや指令によって動かされていく。花形職場に異動になる人間もいれば、そうではない人間も出てくる。それが組織というものだ。
▽だから、人事に不満な人間は必ず出てくる。私の後輩も、その1人なのだろう。
▽しかし、人事に不満があるからと言って、仕事を放棄する、仕事の手を抜く、というのは、大きな間違いだ。仕事の手を抜く、ということは、その部署にとっては、誰かがそのカバーをする必要が出てくる。残った人間の負担が大きくなるのだ。
▽つまり、「仕事をする気がない」人間のために、多くの人間が余計な負担を強いられるのだ。そのことにこの後輩は気づいていない。仲間を裏切ったことになる。これがサラリーマンの宿命だ。
▽さらに言うと、仕事の手を抜く、ということが許されるのは、経営がうまくいっている会社だけだ。今の新聞業界のように斜陽化が進むと、こういう人間ははじき出される。このことは肝に銘じた方がいい。
▽数年前だが、ある有名な記者が内勤に異動になった。世間では左遷だと指摘された。本人も不満だったようで、労組などや外部にも訴えた。しかし、だれも助けようとしなかった。
▽この記者も、唯我独尊のタイプだった。それ故、内勤職場に行っても、手を抜く仕事を続けていた。社内ではだれもフォローする人間はいなくなった。
▽どんな職場に行っても、手を抜いては駄目だ。その職場で働いている人間に失礼な話だ。自分だけはえらいと思っているから、そういう態度に出る。エリート意識が抜けないのだ。
▽エリートを自任する人間の挫折は早いことも知った方がいい。

★374今年度で朝日新聞が廃止した記事審査室(032記事審の続報)

▽朝日新聞社は今年度(2023年度)いっぱいで記事審査室を廃止した。長い歴史がある部署はなくなる。私なりに考えたい。
▽記事審査室とは、過去には記事審査委員という名称になったこともある部署で、ライバル紙と朝日新聞の記事を比較し、その比較した内容をリポートして、編集幹部にそのリポートを送る仕事をする部門だ。同様の部署は他紙にもあり、朝日新聞の各記事が各社の記事に比べてどうなっているかを知るには大切なリポートだった。
▽私も一時期、わずか3カ月だが、この記事審に在籍していたことがある。
▽ライバル紙である読売新聞、毎日新聞、東京新聞、産経新聞、日本経済新聞と朝日新聞を読み比べ、一つ一つの事件や話題もの、政治ものを各社がどのように記事にし、どのように紙面展開したのか、常に朝日新聞の記事と比較しながら読み比べる。そして何が朝日新聞には足りなかったか、逆に朝日新聞は他紙より優位だったかを検証する。
▽具体的に話すと私の場合、朝4時に起きて、新聞各種を全部読み、朝日新聞と比較しながら、メモを取っていた。朝刊を読む時間は実に4時間から5時間かかった。
▽出勤は普通のサラリーマンよりやや遅かったため、満員電車に揺れる事はなかった。
▽部会が始まると、デスクが部員を名指しして、具体的な事件や政治、経済ものを翻刻していく。事件だったら、この部分が読売新聞には載っていたが、朝日新聞にはなかった、などメモをメモを見ながら報告する。こうして一人ずつ名指しされて、報告していくのだ。そしてそれに対して、別の部員が意見を言い羽い、次のテーマに移っていく。
▽会議は約3時間続けられ、最終的には室長がデスクに指示して、記事審としてのレポートをまとめていく。夕刊も同様だった。こうして書かれたレポートは編集幹部に参考として送り届けられる。
▽考えてみたら死体解剖のような仕事で、最前線の記者から見たら、まさしく後出しじゃんけんに過ぎない。書かれた記者にとっては痛い指摘かもしれないし、心地よい評価かもしれない。
▽記事審のメンバーになれば、1日1日が新聞を読む時間に取られて、他の仕事ができなくなる。一般の本を読むことさえ嫌になってしまう。仕事時間も通常から見れば、早く始まり、早く終わるが、新聞を読むのがこんなに苦痛になるとは思ってもいなかった。
▽朝日新聞ではこの記事審を数年前まで編集局に属していたが、広報部門に移動させた。そして今年度つまり2023年度末で廃止が決定された。せっかく長い歴史ある部署なのに、会社は何を考えてこんなことを決断しただろうか、私には理解ができない。
▽気になるのは、これらのメンバーたちが次にどの部署に異動したかということだ。何人かは知り合いがいて、その異動先は知ったが、本人には納得出来ない部署だと聞く。
▽SNSでは、記事審の仕事は定年前のおじさんが行く職場だと書いているが、私はそんな風には思っていない。事実私が在籍した時は、次のデスク世代の人が結構来ていたし、それに活発的な発言が多かった。外部で勝手に窓際と決めつけられたくないなと私は思っていた。

★373取材現場では欠かせない長靴で痛い目に遭った

▽新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務してた時、長靴は生活の必需品だった。毎年1月から2月にかけて、上越地方は大雪の季節となる。北海道と違い、湿った雪が降るので、道路はびしょびしょになる。長靴がないと、ズボンは汚れてしまう。だから、上越の人たちは老若男女とも、長靴を履いて歩いていた。東京などの都会では、「格好悪い」として敬遠されている長靴姿だが、上越では当たり前の風景だった。
▽その長靴は、地方勤務の記者にとっては取材の必需品でもあった。災害現場だけでもなく、海辺や湖、山の取材現場には欠かせない道具の一つだった。取材に使うマイカーのトランクには、必ず長靴を入れてあった。
▽そんな長靴だが、私には苦い経験がある。
▽1995年に東京サリン事件が発生し、警視庁が山梨県上九一色村のオウムの施設を家宅捜索した時だ。その情報のために、多くの記者が東京本社から投入された。私もその1人だった。大がかりな捜索のため、施設周辺に多くの記者を張り番として配置し、目の前で見た情報を前線本部に連絡するという仕事を言い渡された。前線本部として民宿を借りており、前線デスクとして社会部デスクとキャップが張り付いていた。そして前線本部にいるキャップに無線で逐一情報を上げていくという役割をすることになっていた。
▽タオルや手ぬぐいも渡されて、サリンがばらまかれたら、これで口を塞ぐことと指示も出された。今考えると、かなりいい加減な安全対策だった。
▽以下は拙著「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」から引用する。
《私たちは、着の身着のままで現場に行かされたため、会社側が用意した防寒コートと長靴、雨がっぱ、軍手などを着用し、警視庁の家宅捜索の行方を見守り続けた。
▽各マスコミは新聞もテレビも記者やカメラマンを大量に現場周辺に張り付けた。上九一色村にあるオウム真理教の施設すべてが捜索の対象になった。特に、「第二上九」「第三上九」と教団が呼んでいた施設の捜索が連日続いた。第二上九では、ドラム缶に入った大量の化学物質が見つかり、何日も何日も捜索と搬出作業が続いた。
▽我々張り番記者は寒い中を、無線機を片手に、その情報を前線本部に送った。ドラム缶が搬出されるたびに、その種類と量を報告する日々が続いた。
▽寒かった。凍えそうな中で、捜索が続いた。数日前から、雨が降り、雪に変わった。会社が用意したコートや長靴だけでは、寒すぎた。手がかじかみ、ノートを取るどころではなかった。会社から与えられた長靴は経年劣化して、ひび割れがして、溶けた雪が長靴の中に入ってきた。
▽猛毒ガス、サリンがこの現場でばらまかれるかもしれないと、ガスマスクや酸素ボンベを記者たちに配った社も多かった。その時その時の風向きや、風下、風上に注意して、万一逃げ出すには、風上に向かって逃げろ、と注意した社もあった。しかし風が吹く方向は一定ではなかった》

▽そう、会社が貸してくれた長靴が使い物にならなかったのだ。
▽現場は時折雪が降り、寒かった。捜索している警視庁の状況を報告するため、私たちは東京本社からの応援組として無線機で最前線本部に報告していた。その長靴の穴から雪が混じった雨水が浸みてきた。靴下が冷たくなり、次第に足先が冷たくなった。
▽現場は富士山の麓で、半端な寒さではなかった。こんな長靴を用意するなんて、と私は愕然とした記憶がある。
▽こうした取材道具のメンテナンスをするのも、本社の仕事だが、担当部門はそれをしていかなかったのだ。
《この張り番記者を支える後方支援も大切だ。これが十分でないと、取材体制は崩壊する。
▽後方支援とは、張り番記者に対する食料や着替え、生活用具などを手配する担当部署のことだ。弁当が届かない、飯がまずい、たまには野菜も食べたい、風邪をひいたが薬がない、などなど、現場の記者からの注文に効率よく取材する体制を支える部署だ。
▽当時の朝日新聞は編集業務部という部署が対応していたが、ひびが入って水漏れする長靴を点検もしないで持ってくるなど、現場記者の不満は大きかったことを思い出す。他社はガスマスクも用意していたのに、だ。
▽朝日新聞が少なくとも十分な後方支援をしていた、とはお世辞にも言えなかった》
▽長靴は東京では格好悪いと思われるが、大切な大切な取材道具なのだ。
▽◎参考文献→「取材現場は地方に宿る/新聞記者▽封印40年の記憶」


★365朝日新聞のサッカープリンスリーグ主催と撤退

▽全国規模で展開されるサッカーの試合の一つに、プリンスリーグという要綱の試合がある。各都道府県のサッカー協会が主催となって行う試合で、高校サッカー部のチームとプロサッカーのユースチームが、一緒に参加して試合を展開する。このプリンスリーグを、朝日新聞は最初から主催していたが、ある時から突然撤退し、主催しなくなった。ある意味、無責任な主催放棄だった。
▽高校生の場合、サッカーをするならば、高校のサッカー部に所属するか、プロクラブのユースチームに入ってサッカーをする。それぞれの考えにもよるが、強豪の高校サッカー部に入るのも一つの考えだし、クラブチームのユースに入って、力を伸ばすことも一つの手段だろう。
▽ただし、高校サッカー部は高校サッカー部とだけ試合を行い、ユースチームはユースチームだけでの試合を行い、それぞれが領域を分け合っている。毎年年末から年明けにかけて行われる全国高等学校サッカー選手権大会は人気の高い大会だが、この大会にクラブのユースチームは参加できない。これが現実だ。
▽この現実を打破するために出来たのが、プリンスリーグだった。ユースチームも高校サッカー部一つの大会として参加して、本当に強いチームはどこなのかを決める狙いがあった。18歳以下のサッカー振興を目的として、理にかなった大会だったと私は今でも思っている。
▽私が北海道の朝日新聞北海道報道部に勤務していただき、プリンスリーグが始まった。私が遊軍でサッカー担当している時、北海道内でプリンスリーグ北海道地区の戦いがあり、それを取材した。強豪校やユースチームが戦い、それはそれなりに面白い試合だった。
▽こうやって朝日新聞は18歳以下の高校生やユースの選手育成に対しても力を入れていることを示していた。
▽この背景には日韓ワールドカップの開催があったことも大きいと思う。サッカーは新聞社にとって、大きなコンテンツであり、宣伝材料にもなる。こうした考えから朝日新聞はプリンスリーグの試合を主催していたのだ。もちろん社内にはサッカービジネスに長けた人間がいたことも大きい。
▽しかし、だった。朝日新聞の幹部で、このプリンスリーグを主導していた人物が交代になり、プリンスリーグに関心を持つ役員がいなくなった。するとどうだろう、あっという間にプリンスリーグの主催から撤退することが決まってしまい、朝日新聞はプリンスリーグから離脱した。
▽これによって、朝日新聞はプリンスリーグの試合展開を、紙面化することはほとんどなくなり、今もその傾向は続いている。
▽せっかくプリンスリーグを主催し、プリンスリーグの後押ししていたのに、もったいない話である。
▽ちなみに当時の社長はこう発言したという。
「あれMさんがいなくなると、皆さん、サッカーに関心がなくなるんだ」
▽ひとごとのような社長の発言だった。
▽この発言を後に知った時、私はがっかりしてしまった。
▽朝日新聞はあれだけ日韓ワールドカップに力を入れたのに、何だったのだろうか、と私は思ってしまった。

★345新聞社本社での生き方は難しい

▽せっかく新聞記者になったのだから、自分の関心があるテーマを取材をして、新聞記事を書いて、紙面にさせたい。そう思って入社した者は多いだろう。しかし、現実は甘くない。新聞社には多くのルーティンワークがあり、希望しないような仕事も多く、思うようにならないのが現実だ。
▽地方にいると、特にそういうことが多い。新人の場合は、警察周りが担当で、その他、夏の高校野球や他のスポーツイベント、自社の主催するイベントの取材なども回ってくる。それだけで忙しくなる。現実と理想は乖離している。
▽それが本社に上がると、縦割り社会だから、そういう地方の煩わしさもなくなるが、それでもやらなくてはならないことが多い。
▽だからそんなに自分のテーマを実現できる事は多くない。
▽では、どうしたら自分のテーマを取材し、記事にして紙面ができるか。
▽ここからは私の経験を話そう。
▽結論から言うと、他人と同じことをしていては駄目だ。他人と同じように休みを取り、休みで旅行したり、ゴルフをしていては、絶対に実現できない。そういう時間にこそ、自分のしたい取材をして、材料を集めるのだ。
▽例えば私のライフワークである死刑問題について話そう。
▽私が朝日新聞東京本社に上がったのは、1992年4月だった。その際もいろいろなルーティンワークあり、振り回された。しかし、仕事の合間、というか、休みの間にいろいろ、自分のテーマである死刑問題に関する取材を進めていた。本社に上がる前にも、学生時代から取材をして材料を集めていたから、10年以上の蓄積はあった。これに加えて、日曜日とか祭日を利用して取材を続けた。平日はルーティーンワークの取材をしていたから、今考えるとかなりハードディスクワークの取材をしていたことになる。
▽働き改革、という問題ではない。新聞記者になったのだから、という問題意識で進めただけだ。社内の人間が休みに海外旅行に出かけているのを横目に、私は取材していた。
▽そして本社に上がって初めて書いたのが、「死刑執行ゼロ1000日」という記事だった。頻繁に続いていた日本の死刑執行が1年も2年もゼロとなっている状態を取り上げた。
▽その時の法務当局は、現在のように死刑執行を発表することは全くなく、認めようともしなかった。秘密の中で、死刑執行を続けてきたが、それが1000日を越えようとしていた。
▽この記事を高く評価してくれたのが、当時のデスクだった。死刑制度問題を連載記事で紙面化しようしようということになった。デスクが音頭を取って、部署の垣根を越えて、本社社会部、政治部、学芸部の記者を集めて、私との4人のチームを作り、取材を始めた。当時の法務省は政治部が担当したため、その法務省担当者をチームに加えた。学芸部の記者も以前、政治部記者として法務省を担当していた、という計器があった。社会部の記者は司法担当だった。私は法務関係者、拘置所関係者、死刑囚関係者、死刑囚となった加害者によって殺害された被害者の関係者などの取材を続けた。全国各地を回った。取材を始めて数カ月かかったが、その取材結果が連載記事「死刑執行ゼロの周辺」となった。
▽その連載記事は内外の評価が高く、結局1冊の本「死刑執行」にまとまった。
▽今振り返っても、私としては長い間貯めていた取材企画案を、やっと紙面化することが出来たが、実現したのは理解してくれたデスクの存在と、チームとして集まってくれた各記者の力量が大きい。タイミングが問題だと感じた。
▽社内の部外者は、私のことを、「好きなことをやりやがって」と批判をしていたが、そういう準備をして、理解できるデスクがいるからこそ出来たのであって、偶然できたものではない。
▽やりたいテーマがあるんだったなら、苦しくても休みにも取材をし、祭日にも資料集めをするなど徹底した取材をするべきである。
▽なぜ新聞記者になったかという点を自分自身に問い詰めて、行動を起こすべきだ。

★319朝日新聞が「阪神大震災」と「阪神・淡路大震災」を使い分けている理由

▽現役の新聞記者時代、悩ましい言葉遣いがあった。「阪神大震災」なのか、「阪神・淡路大震災」なのか、という言葉の使い方だった。
▽1995年1月17日に発生したこの大震災の現場に、私は発生初日から入っている。東京本社からの応援取材の指示を受けて、現地入りした。東海道新幹線は不通で、大阪と神戸の道路も寸断されていた。私は東京本社から出て、現場にたどり着けるルートを探した。結果として東北新幹線で仙台まで行き、ここから仙台空港から空路、伊丹空港に到着。ここから会社のチャーターしたハイヤーで関西空港の手前の泉佐野市まで移動。その港からチャーターした漁船で神戸市にたどり着いた。
▽それから2カ月、私は現地での震災取材を続けていた。
▽その発生当時からこの大震災を、朝日新聞は「阪神大震災」と称していた。そして東京本社を中心に、この言葉で統一するよう社内で決めていた。新聞各社でも同じような部門があると思うが、社会部や政治部などの出稿部門デスクや校閲部など内勤のデスクが集まって、表現の統一を決める部門が朝日新聞にもあり、朝日新聞は「阪神大震災」で統一することを再確認していた。だから、朝日新聞はしばらく「阪神大震災」という表現を続けてきた。
▽しかしいつのころか、大阪本社社会部を中心に、大坂から出てきた記事は「阪神・淡路大震災」と言うようになった。特に「1月17日」の発生日を中心に作る特集紙面の記事は、大阪本社の記者が原稿を書くため、朝日新聞大阪本社は常に「阪神・淡路大震災」と言うようになった。
▽つまり東京本社は「阪神大震災と」呼び、大阪本社は「阪神・淡路大震災」と表現するようになった。同じ会社で、二つの表現が混在した。
▽確かに、大阪本社の考えも理解できる。被害は神戸市や西宮市などだけではなく、淡路島にも及んでいたからだ。その淡路島の被害者の気持ちを汲んで、「阪神・淡路大震災」としたいのだろう。
▽しかし、東京本社の部門では「阪神大震災」という表記にしていたし、その後、変更したことはなく、少なくとも私の記憶ではない。
▽私は東京本社にいたから、「阪神大震災」をずっと使うようにしていた。転勤になって、地方で仕事をしていても、「阪神大震災」という表記を使い続けた。支局でのデスク当番になっても、部下が使う言葉を「阪神・淡路大震災」ではなく、「阪神大震災」と直した。
▽ある時、あまりにも「阪神・淡路大震災」という表現が多くなったため、私の記憶が間違っているかもしれないと万一を考えて、本社校閲センターに問い合わせた。
▽すると、こういう答えだった。
▽デスクの説明では、発生の時に「阪神大震災」に統一すると決めていたが、途中から大阪社会部が企画で使う場合は最初に「阪神・淡路大震災」として、次に淡路を抜いて「阪神大震災」とする、地域ルールを作ったという。このルールに東京本社が同調する必要はないという。
▽やはり私の記憶は正しかった。表記の統一ルールは必要だ。これからも「阪神大震災」という表現を使って行く。


★308朝日新聞夕刊の「惜別」と「言葉抄」

▽朝日新聞夕刊に1週間に1回、「惜別」というコーナーがある。政財官の人や研究者、スポーツ選手ら亡くなった有名人を追悼する記者のコラムで、人気の紙面だ。
▽このコラム、元々のスタートは1993年2月ごろから始めた「言葉抄」というコラムが前身だった。それが次第にバージョンアップして現在の形になった。実に30年の歴史がある。
▽今回はその「言葉抄」について語りたい。
▽私が東京本社企画報道室(当時)に勤務していた時のことだ。当日の室長が、産経新聞で随時連載しているコラムを私に見せて、こんなコラムの朝日新聞バージョンが作れないかと、指示してきた。
▽その産経新聞のコラムは、亡くなった人を追悼する短いコラムで、通夜で読み上げる弔辞のような内容だった。
▽弔辞はなくなった人に献げる追悼文で、そもそもが格調高い内容だ。これを毎日のようにコラムにするには、かなりの労力が必要になる。
▽一方で弔辞だけではなく、各界の人たちが公の場で表現するスピーチにも、格調高い文章があるはずだ。
▽私は担当のデスクと相談し、弔辞や演説などのスピーチ、会社社長の挨拶などをイメージして、文章を要約するのではなく、それをそのまま文章にするコラムにすることを提案し、早速取材に取りかかった。葬儀会場、入社式、講演会、集会などに足を運んだ。異次元の取材だった。
▽亡くなった有名人に対する弔辞は例外なく面白かった。弔辞を読んでくれた人に取材して、許可をもらい、要約ではなく、一部をそのまま文章にしてコラムにすることを伝えた。
▽大手企業に入社した新入社員に対する社長の挨拶も、そのように要約ではなく、一部をそのまま文章にした。コラムニストやアナウンサー、評論家、研究者のスピーチもそのように、要約ではなく、生のまま使った。テープレコーダーを起こして、発言したことをそのまま文章にする作業を進めていった。
▽こうして、朝日新聞夕刊にコラム「言葉抄」がスタートした。評判はまずまずだったと思う。
▽ただし、難問もあった。
▽そのまま生の声を発言したまま文章にした。これを確認してもらおうと、趣旨を説明してからファクスで送ったのだが、一部の政治家、一部のコラムニストは、趣旨を全く無視して、原稿に手を入れてきたのだ。発言した内容を、訂正する人間が意外と多いことに驚いた。
▽これは、日本人はスピーチが下手だから、そのまま発言すると困った内容になることが多いためだろう。このコラムにはそのスピーチの下手さを、明らかにする狙いもあったのだが、かなりの修正して送られてくることもあり、うんざりしてしまった。
▽本人は見事にそういう発言をしているのに、本人はこんな事はしていない、と言い張っているのだ。呆れてしまった。
▽ある女性政治家は、対応も悪くて、威張っていて、あまりに直しが多くて、私は不愉快になった記憶がある。
▽そして改めて思ったのは、日本人はスピーチが下手だと言うことだ。スピーチの下手さ加減を浮き彫りにしたのが、このコラムだった。
▽だから、週一回の現在のコラム「惜別」を読むと、私は当時の煩わしさと不愉快を常に思い出す。

★307同期入社の男の退職と美談話

▽やはり書いておく。
▽私は2021年8月をもって朝日新聞を退職した。最後の5年間は、いわゆるシニアの契約社員だった。1年ごとの契約で、契約を更新し、最後の5年間を勤めた。
▽朝日新聞は、私が一度定年した翌年の2017年から定年を60歳から65歳に延長しており、その年から5年間は定年退職者は出ない予定だった。しかし、現実には途中で辞めていく人間も多かった。
▽辞めていく理由として、いろいろあった。人事への不満、体力の問題、病気の問題、将来を見越してのもの、などいろいろある。新たな再就職が見つかる場合もあるだろうが、見つからない場合も多いだろう。
▽ここで気になるのは会社の人事に対する不満で辞めていく人間が意外と多いことだった。本社から地方総局へ、本社から1人勤務の支局へ、という人事に対して、不満を持って、途中で辞めていくのだ。本社勤務が長い人間ほど、地方を嫌う。不思議なものだけど、新聞記者の仕事は変わらないのに、本社に長いと、本社の方が上だと見て、地方を軽視する。だから、地方に人事異動の内示があると、辞めていくのだ。
▽私の朝日新聞の同期入社の中では、本社から1人の地方支局に内示が出たら、最後までもめて、辞めてしまった人間がいた。長らく本社で働いていたのだが、地方に行くのが嫌だったらしい。「話が違う」と言っていたらしい。
▽その後、しばらくしてその彼が、朝日新聞紙面に、第二の人生として歩んでいる話が出ていた。かなり美談に仕立てられていた。ちょっと違和感を持った。
▽彼は人事異動の不満で会社を辞めていた。そんな美談ではなかった。
▽地方の総局長として勤務していた時、総局の中で警察周りの記者ばかり増やして、記者の配置バランスを崩す事態を作ってしまった。若い記者が何人も精神的に病んでしまい、病院に入院していた時期もあった。厳しい言い方だが、そんな総局長としての管理能力がなかったから、会社としては評価しなかったのだ。
▽その話は後に会社幹部から聞いた話だ。だから彼が最後、地方に異動になったのは、厳しい言い方だが、管理職としての能力がなかったとみなされたためだ。
▽人事に不満があるなら、やめれば良い。そう考えてのことだろうが、新しい人生で簡単に乗りきることが出来るのだろうか。辞めないで記者活動を続けてもらいたかった。そして地方記者の現場を知ってもらいたかった。
▽一つの企業に長く勤めていると、その企業での見方しかできなくなる。第二の人生は難しいが、それを乗り越えていかなくてはならない。
▽彼はどうやって生きていくのか、ちょっと気になるのだ。

★298他人の情報で取材するな

▽同僚や先輩のつかんだ情報をきっかけに取材すると、とんでもない痛い目に遭うことがある。他人の得た情報をもとに取材するのは、できる限り避けた方が良いということを、今回は記したい。
▽私が東京本社に勤務している時のことだ。「災害と地方分権」をテーマに離島で取材することになった。ある同僚が、東京・三宅島の話なら具体的なことが書ける、と部会で提案し、それを私が取材することになった。それが失敗の始まりだった。
▽私はその三宅島に行く前に、事前リサーチしたが、あまり良い材料がなく、その同僚の情報を信じて、船で三宅島に渡った。役場や民間の関係者、地元の人間らに話を聞いていったが、面白い具体的な話はなかった。2日間滞在して、これ以上情報を取る事はできないと判断し、引き上げた。
▽東京本社へ戻って、具体的な材料がなく、記事ができないことを伝えると、多くの仲間は納得してくれたが、その三宅島の話を最初に言い出した同僚は、後で陰口を叩いていたそうだ。
「信じられない、こんな話が面白いのに」
▽そうやって私のことを批判したらしい。人の悪口を言うのが得意な人間だった。
▽そうやって私に悪口を言うのは構わないが、予想していたような具体的な話が取れない以上、取材は途中で諦めるべきであり、記事にすることはできないはずだ。
▽こうした見極めをすることも、出張では大事なことで、無駄な出張になるが、大切な判断だ。
▽記者が事実を見極めるのは重要なことだ。現場に行って、事実が予想と違った話なら、そこで目的とした出張はやめるべきだ。
▽出張の場合、ある程度のリサーチをして行くが、先入観を持って現場に行くと、都合良い材料しか取材しないことになる。
▽否、出張だけではない。取材全般がそうだろう。都合悪い事実にぶつかったなら、先入観を壊していくのも、記者にとっては大切な作業だ。それが出来るか出来ないかは、記者の能力に密接に結びついている。
▽取材とは先入観をぶち壊していくことといっても過言ではない。
▽他人が提案した取材の材料を、簡単に引き受けるのは危険であることがわかる。自分で取材するなら最初からリサーチして、実際に現場に行くべきだ。他人の簡単な思いつきのような情報で、取材すると痛い目にある。
▽これが私が東京本社で出た教訓だ。


★280新聞記者の出世といじめ

▽新聞記者というイメージからすると、通常のサラリーマンと違い、一生記者として活動をするのかと昔、思っていたが、全く違っていた。ドロドロな出世競争と派閥抗争、人事のいじめなど、あらゆるものが揃った総合デパートだった。
▽朝日新聞には練習生制度というのがあって、一般定期採用組は途中までの順当なコースが用意されている。地方支局(現在は県庁所在地の支局を総局と称している)を2カ所、4〜5年間勤務すれば、本社に上がることが出来る。本社では順当に行けば、キャップになり、総局デスクを経験する。そして本社のデスクになっていく。ここでふるい落としがあり、本社のデスクになり損なった記者は、編集から外されていくか、本社に戻ってもヒラ記者となる。
▽一方で途中採用組は、そんな練習生のコースを取ることが出来ない記者が多い。上司とケンカになれば、地方の通信局に飛ばされるし、内勤に生かされることもよくある話だった。
▽同期でだれが先にデスクになるのか、半年に1回の人事異動を常に気にしていた人間も多いし、早くデスクになった者は、「自分は勝ち組」とほくそ笑んでいた。
▽派閥争いでは、どの上司に着くかで周囲を伺っていたし、上司は上司で、「俺の仲間になれ」と派閥拡張を常としていた。ある上司は「俺の下になれば、すぐにデスクにしてやる」と権力を誇示していた。
▽出世したい人間はそんな上司に取り入ってもらおうと、いろいろ努力をしていた。
▽これは男ばかりの話ではなく、女性記者もそんな上司に取り入ってもらおうと、深い関係になった人間もいた。女性の方が人事には敏感だった、と私は今でも思っている。
▽逆にそうしたことに興味がない私などは、常に白い目で見られていたし、反逆者のような見方をされていた。
▽人事のいじめでよく遭ったのは、人事権をかざす上司だ。権力を誇示して、部下をコントロールする。
▽「君の人事権を持っているのは、僕だということを知っているのか」
▽私にこんなことを言って脅していた上司もいた。まさにパワハラそのもの。権力者が権力をちらつかせて相手を黙らせるのは、核兵器をちらつかせて、外交を遊離にするロシアのプーチンに似ている。
▽私はこのためか、幸いして出世とは無関係だったが、無関係なゆえに、給料の査定も悪かった。
▽悲しいが、朝日新聞の記者は、その給料の査定にも一喜一憂している。


★271二重掲載の大失態とデスクの工程管理能力

▽毎朝届く朝日新聞朝刊の紙面を読んで、驚いたことがある。朝刊の本紙特集面に出ていた記事と、地方版見開きの右ページに出ていた記事が全く同じだったのだ。レイアウトもほぼ同じだった。つまり二重掲載だ。驚くとともに、私は本社編集局の泊まり明け担当記者の席に電話で事の顛末を連絡をした。
▽私が新潟県上越市の朝日新聞上越支局に勤務していた時だ。新潟に届く朝刊は、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も、統合版が届く。統合版とは夕刊が配達されない地域に、前日の夕刊に載せた記事も含めた紙面のことを指す。夕刊に載せた記事を多くの読者に読んでもらいたい時は、「統合版返し」と称して、翌日の統合版朝刊に掲載する。
▽今回は、前日の夕刊3面に載せた「にゅーすらうんじ」という大きな紙面で掲載されたルポの話が、統合版返しに載っているだけではなく、新潟版にも同じ記事が掲載されていた。
▽内容は、朝日新聞佐渡通信局長が書いた中国のトキのルポだった。トキとは、日本では一度全滅してしまった、国の特別天然記念物で野鳥のトキである。私も本社勤務時代に、このトキの絶滅する話を取材して記事にしていた。
▽今回の問題になった記事は、1999年に当時の朝日新聞佐渡通信局長が中国に出張し、日本では絶滅してしまったトキの中国での繁殖状況をルポしたものだ。
▽紙面計画では、夕刊3面の「にゅーすらうんじ」の大型紙面に掲載する予定で、取材を進めていた。
▽そして夕刊だけの掲載にして、統合版返しは行わないことを決めていたという。私もその話を聞いていた。そのため、夕刊に載せた紙面を、そのまま地方版に転載することになったらしい。
▽ところが社内の連絡はうまくいかず、統合版返しをして本紙特集面に掲載したと同時に、朝刊地方版の新潟版などにも載ってしまったのだ。
▽大失態だ。この紙面の工程管理は本社のデスクが行っているから、本社デスクの責任だ。こんな大失態を、なぜ犯してしまったのだろうか。
▽もちろん筆者には責任が全くない。責任を問われなくてならないのは、そう、担当した本社のデスクだ。
▽紙面の工程管理ができないデスクなど、デスクではない。工程管理の責任が問われているのだ。
▽これは、統合版には返らないか返るか、という確認作業をしていれば、重複掲載などあり得ない話だった。読者から見れば。全国版の本紙と地方版に全く同じ記事が掲載されたことになる。
▽雑報では時折ある話だが、こんな紙面1ページ丸ごとダブル掲載ははじめての経験だ。
▽だれの責任か、と言いたくなる。本当に驚いた。
▽せっかく中国まで出張したのに。
▽担当デスクは私からの指摘を聞いて、本社幹部に謝罪し、そして新潟支局まで出張に来て、新潟支局長にも謝罪したという。しかし、その後の責任は全く取らなかった。デスクの仕事は部下からの原稿を直すだけではない。工程管理を把握することも大切な仕事だ。工程管理も出来ない人間が、本社のデスクに座っているのが不思議だった。

★259築地市場と朝日新聞本社

▽近くて遠いところ。行きたいが行くには難しい場所。それが東京都中央区にあった築地市場だった。私にとっては、そんな場所だった。
▽転勤で朝日新聞東京本社に初めて異動になり、近くにある築地市場が気になっていた。未明から人々が集まり、競りが行われる。その関係者や観光客らを相手にいろいろな飲食店があり、未明から開いていた。そして昼過ぎになると多くの店を閉めてしまう。だから、行こうと思っても、店は閉めた後の時間だった。そうした市場を横目に見て、本社に上がる日々が続いていた。
▽新聞社にとって、特に新聞記者にとって、新聞は締め切り時間との戦いだ。朝刊も夕刊も早版から最終版まであり、細かい締め切り時間が設定されている。
▽夕刊の場合、最終版の降版時間は、午後1時半だった。このため、泊まり勤務明けで夕刊作業が終わってから、築地市場に行っても店は開かれていないから、昼食すらありつけなかった。
▽だから私の知り合いは、逆に朝刊の最終版の締め切りが終わった午前1時半過ぎに、会社をこっそりと抜け出して、未明のすし屋に行ったり、飲食店に行ったりして、飲食を楽しんでいた。
▽私はそんな勇気もなかったので、そうした真夜中の築地市場での飲食はできなかった。
▽ただしある時、先輩に誘われて、夕刊作業がない時に、昼間の築地市場の食堂に連れていってもらったことがある。
▽そこでは、私には初めてのメニューがあった。マグロの「尾肉ステーキ」のランチだった。
▽尾肉とはマグロの尻尾を輪切りにしたもので、それをフライパンでステーキに仕立てていた。ソースやタルタルソースをかけて食ったが、うまかった。こんな尾っぽが、ステーキになるなんてと驚いた。こんなうまいものが食えるなんて、築地市場はすごいと感心してしまった。
▽寿司屋にも行ったことがある。確か握り8個(8貫)で、2500円だった記憶がある。値段は高級店だ。
▽考えてみたら、こうして築地市場で昼食を取るなんて、新聞記者時代は数回あっただけ。ほとんど利用しないまま、年月が流れて、築地市場はなくなり、豊洲市場が完成した。
▽あのころの喧噪した築地市場は今だったら懐かしい。あの時、もう少し利用しておけば良かった。


★252朝日新聞労組とスト嫌い

▽私は朝日新聞社に33年間勤めていたが、朝日新聞労働組合が本社と対決し、時限ストに入ったのは、確かわずか1回しかなかった。しかも30分だけだ。それだけ労働組合と本社の間に対立というか軋轢がなかった、と言うことになるのだろうか。
▽本来労働組合は、加入した労働者の権利を守り、不当な場合は、会社と交渉し、不当な対応を改善するよう求めていく。それが本当の労働組合だが、朝日新聞労働組合としてそうした対応は取っていなかった。
▽朝日新聞労働組合は、毎年春の賃上げ交渉や社員の労働環境の改善などを訴え、そこにエネルギーを費やしてきたが、個別社員への不当な人事問題に対して、問題を提起する事はなかった。
▽例えば、私が退社した後にしてすぐできた業務連携支援センター、国鉄が分割・民営化する際にできた国鉄清算事業団に匹敵する不当人事が行われる温床の組織だったが、これに対して労働組合が個別の人事について反対したと言う話は聞いていない。会社の思惑通りに、不当と思える人事が行われた。会社の言いなりになっている。
▽私が本社に勤務している時に一度体験したストは、賃上げ要求に絡むもので、昼間の夕刊最終版締め切りの降版時間が終わり、わずか30分だけ職務から離れるという内容だった。中庭に組合員が集まり、気勢を挙げただけで終わった。夕刊の作業が終わっていたので、仕事にはほとんど影響がなかったが、それでも会社は神経質だった。たかが30分だったが、会社はピリピリしていた。
▽いかに朝日新聞本社幹部は、ストに対して神経質になっているか、よくわかった。
▽私が朝日新聞に入る前、勤務していた北海道新聞社はよくストを決行していた。改版拒否といって、夕刊や朝刊の最終版を作らなかったりして、労働環境改善をアピールしていた。それだけ労働組合が強かった。
▽これに対して朝日新聞は労働組合が弱いから、会社の言いなりだったと思う。
▽社員の中には、労働組合の幹部になることが、出世になると勘違いしている者がいた。確かに、労働組合をうまく抑えれば、会社から見れば労働組合を抑えたとして評価されたのだろう。
▽しかしこれは間違っている。労働組合は、あくまでも労働者の権利を守ることだ。
▽だからこそ、朝日新聞に最近、第2労働組合ができたのだ。この意味を会社は分かっているのだろうか。そして労働組合も理解しているのだろうか。不況の影響で、そして新聞社の斜陽化で、労働組合が弱くなり、労働者の権利がないがしろにされて、搾取が始まろうとしていることに気づかないのだろうか。これが悲しいし、危険な現実だ。

★233朝日ジャーナル編集部員の訃報

▽2022年夏の朝日新聞社内報を見ていたら、訃報に市雄貴さんの名前があった。84歳、4月27日に死去とあった。元朝日ジャーナル編集部とわずか1行の経歴があるだけで、社内での詳しい経歴は書かれていなかった。私との面識はなかったし、恐らく社内でも会っていなかっただろうが、私には記憶に残る人物の1人だった。
▽安倍晋三元首相の銃撃事件で、自民党政治家との癒着が注目される旧統一教会の霊感商法を、徹底追求したのが朝日新聞が当時発行していた週刊誌、朝日ジャーナルだった。私が通っていた早稲田大学にも統一教会の魔の手が入り込み、学生たちを食い物にしていた。宗教という名をかたった反共組織で、自民党政権をバックで支えていた勝共連合と表裏一体の活動をしていた。そんな得体の知れない組織を、朝日ジャーナルは徹底して追求していた。私も学生時代、朝日ジャーナルを徹底して読んでいた。
▽その朝日ジャーナルの部員の1人に、市さんの名があった。統一教会のいかがわしさを追求する記事を、何本も読んでいた。だから記憶に残っていたのだ。
▽後に知ったことだが、統一教会は朝日ジャーナル編集部や本社に組織として電話をかけまくって、業務を妨害し、編集部員の自宅を監視して、部員の行動を見張っていた。家族も脅されていた。そんな暴力的な組織を相手に、当時の朝日ジャーナル編集部は戦い続けてきたのだ。朝日ジャーナルは輝いていた。
▽そんな朝日ジャーナルも、会社側の経営判断で1992年に廃刊に追い込まれ、部員らは散っていった。残ったのは、後輩の中の記憶だけだ。
▽その廃刊から30年後に、安倍元首相銃撃事件が起きたことになる。
▽その朝日ジャーナルが廃刊後、市さんはどう生きていたのか。気になるが、分からないままだ。
▽その市さんに敬意を表したい。

★211デスクと出世

▽サラリーマンにとって出世とは、一つの目標だとしている人間が多いはずだ。新聞記者も、実はそういう考えを持っている人間が、予想外に多い。本社にいると、嫌になるほど、そんな下心を持った人間に出くわす。人の悪口を平気で上司に話し、上司に取り入ろうとする。見ていて情けなくなる場面も多数見てきた。「俺はヒラメではないよな」と部下に言い聞かせようとしていたデスクもいた。ヒラメとは、上しか見ることのできない人間の別称だった。
▽新聞社の場合、第一の出世とは、デスクになることである。デスクとは原稿を点検し、その日の紙面を作る責任者だ。地方支局、地方総局のデスクを経て、本社のデスクになるか、または本社のデスクにいきなりなるかの違いがあるが、出世の第一歩とは、デスクになることである。
▽だから本社を勤務していると、次期のデスクとおぼしき連中は、みんなそわそわしている。そしてそこでデスクになるかならないかの選別が始まる。上司のご機嫌取りが始まるのだ。
▽デスクにならなくてもいい、一兵隊として記者として働けるならいい、と考えている人間も多いが、一記者としてずっと本社にいることなど、あまりない。デスクという出世競争に無理矢理参戦させられて、そして振り分けられていく。これが出世競争というものだ。
▽デスクになれなかった者は、そのまま本社の記者として残ることが出来るなら、うれしいだろうが、編集から外されて、販売や広告局に異動させられる人間も多い。
▽本社のデスクになった人間は、次に部長への出世競争がある。そして部長になった者は、今度は編集局次長という役職に就く競争が待っている。さらには編集局長になるのも競争になる。
▽さらに言うと、編集局長になると今度は役員入りを目指すことになる。役員入りになることが出来なければ、子会社のへの出向が待っている。
▽こうして出世競争に最終的に乗り遅れた人間は、記者になりたいのだったら地方に行くしかないのである。地方の一人勤務支局に行き、記者を続けていることになる。一方では、地方に行きたくない記者は編集局から外され、別の人生を歩むことになる。
▽デスクとは、中間職であるが、実はそんなに偉いものではない。


★203不愉快な自慢言葉

▽長く新聞社でサラリーマン記者を続けていると、時に勘違いした、時には信じてしまっているような中堅記者の聞きたくない言葉を耳にすることがある。不愉快な言葉を紹介しよう。

▽「あいつは私が育てた」
▽これはデスク経験者がよく使う言葉だ。特に地方支局、朝日新聞の場合は県庁所在地の地方総局のデスク経験者が、自慢げに使う。
▽恐らく、自分の部下を厳しく指導し育てて、記者として成長してくれたことを言いたいのだろう。しかし、全国紙の場合、頻繁な人事異動があり、1人のデスクが1人の部下を徹底して教育することなどあり得ない。デスク本人が転勤してしまい、その記者を中途半端にしか育てられないこともあるだろうし、部下自身が転勤し、別の支局に行き、別のデスクに指導されることもある。
▽1人の若い記者が成長するには6〜7年かかると言われているから、その間に記者は何人ものデスクと知り合い、何人ものデスクから指導を受けていく。
▽だから、「あいつは私が育てた」という言葉はおかしいし、そういう考えを持っていること自体が、甚だ馬鹿げていて、不愉快に聞こえてくる。
▽こう言えばいいのだ。
▽「彼は私の指導とは関係なく、成長したな」

▽次の言葉。
▽「彼は優秀だ」
▽これは中堅記者やデスクが部下や若い記者を指して、評価する言葉だ。
▽私が不愉快だと感じてしまうのは、「優秀だ」と評価している基準が自分自身にあることに気づいていないことだ。
▽自分が優秀だから、自分を基準にして評価する。実はその部下を優秀だと話しているようだが、実は暗に自分が優秀だと誇示しているに過ぎない。つまり部下を評価しているようで、実は自分が優秀だと自慢しているだけなのだ。
▽これは朝日新聞で私が30年以上、何回も何回も聞いてきた言葉で、自分が優秀だと自慢している人間がいかに多いかを物語っている。

▽「あの子はあれが限界ね」
▽これは女性デスクが女性の若い記者を評価する時に使う言葉だ。
▽部下の原稿を見る。原稿を直して紙面化する。しかし内容が今ひとつ、深くない。
▽本人にはそう伝えないで、早くも採点してしまう。
▽デスクに採点されるということは、それが人事権者の総局長に伝わり、査定されるということになる。
▽特に女性デスクは女性に対する見極め、否、見限るのが早すぎる。出来ないと判断すると簡単に切ってしまう。簡単に切ってしまうとは、人事異動でそうした対象になるということだ。そういうケースを私は何人も見てきた。
▽女性の敵は女性だとよく言われるが、朝日新聞では真実だ。

★199読み合わせと校閲作業

▽新聞原稿の読み合わせ作業は、新聞社にとって、大切な仕事の一つだ。書いた原稿、特に固有名詞だらけの市町村、県の人事情報、お悔やみ、スポーツ記録や成績は、丁寧に読み合わせをして、入力ミスを防ぐ。
▽読み合わせの原則は、パソコンなどで打った原稿を1人が読んで、1人が元の資料に当たるということ。逆ではない。
▽そして、守られたルールに則って、原稿を読み、読んだ原稿を資料で点検していく。
▽守られたルールとは、「字説き」と呼ばれるものだ。「横浜市」なら通常は、そのまま字説きはしないでも、だれでも分かる唯一無二の固有名詞だが、小さな市の場合、すべてを字説きをして呼んでいく。例えば、「仙北市」だったら、「仙台市」の「仙」、「南北」の「北」、「たていちのいち」と呼んでいく。「たていち」とは、漢数字の「一」と区分けするために、「市」を「たていち」と読み、漢数字の「一」は「よこいち」と呼んでいく。そんな決まり事があり、これを「字説き」と呼んでいる。
▽このルールをある程度、学んでくれないと、読み合わせでつまずく。新人のような若い記者とベテランが読み合わせをすると、新人側に「字説き」のルールが徹底されていないため、思うように進まない。タイミング、リズムが作れない。
▽読み合わせの他にも、記者が1人で校閲作業をすることもある。1人で作業するから、字説きの説明は必要ないので、黙々と進むが、こちらは見逃しも多くなる。読み合わせと1人校閲は、それぞれ一長一短ある。
▽それにしても、新聞はテレビと違い、固有名詞の宝庫だとよく思う。市町村、県、県警、学校教職員の人事は丁寧に掲載するし、合唱、コーラスの大会記録も載せる。高校野球が始まれば、その記録も膨大な量だ。この掲載にも読み合わせをして、ミスを防ぐ。
▽新聞社はかつて、校閲部が大きな部署で、多くの専門の校閲部員がいた。それが合理化に伴って、部員数を削減してきた歴史がある。
▽校閲部は物言わぬ部署で、ミスを防ぐことが当たり前の仕事だ。
▽それは現在も変わらないが、その部署を減らそうとしている会社の姿勢に、何か疑問を感じてきた。
▽人間はミスをする。そのミスを防ぐ部門がなくなれば、どうなるか。


★034アルバイトにいじめられた【再掲載】

▽私が朝日新聞東京本社で高校野球担当をしていた時、嫌な出来事があった。夏の甲子園大会に出張中、アルバイトから陰湿ないじめを受けた。本当に酷かった。今振り返っても不愉快だが、記しておく。
▽夏の高校野球甲子園大会で出張に来ていた。朝日新聞と高野連主催の大会で、全国の都道府県大会を勝ち抜いた代表校と同行してきた全国の担当支局員が甲子園球場に集まっていた。支局員たちは東京、名古屋、大阪、西部の本社ごとに分かれて、チームを組み、取材を続けていた。
▽甲子園球場の中には大会中、そうした支局員たちが原稿を書く朝日新聞専用のブースがあり、そこで支局員は取材メモを片手に原稿を書いていた。
▽当時はまだパソコンなどなく、インターネットもなく、ワープロで原稿を書いて、それをフロッピーで保存し、サブデスクである私にフロッピーを手渡すやり方だった。私はそのフロッピーを自分のワープロで読み込んで、原稿を手直ししていった。
▽そして手直しをした原稿が入ったフロッピーを、ブース内に陣取っていた制作部に手渡し、制作部がそれを本社のホストコンピューターに送信していた。
▽問題は、私が手直しした原稿が入ったフロッピーを、制作部に渡すアルバイトだった。本社では原稿係と呼ばれる学生のアルバイトだった。
▽フロッピーを運ぶだけだから、それ以外は暇そうにしていた。お菓子を食べながら、雑談をしていた。
▽こちらは東京本社管内の支局員の原稿を処理しているのに、フロッピーを運ぼうとしない。仕方ないが、アルバイトに注意した。
「このフロッピー、早く持って行って」
▽怒鳴ったわけではない。注意しただけだ。
▽それが翌日、私の上司であるデスクに注意された。
「原君、アルバイトに怒鳴ったらしいが、良くない」
▽エッと私は思った。あんなことで、怒鳴ったことになるのか。
▽しかし、よくよく聞いてみると、アルバイト学生のすべてが、大阪本社編集幹部の子どもだったことが分かった。僕が注意されたのが気に入らなくて、親に告げ口をして、それを東京から来たデスクに親が文句を言ったのだろう。次第に話が大袈裟になるパターンだった。
▽つまり、こうだ。うちのお父さんは大阪本社の部長をしているんだ、えらいんだぞ、それを東京本社から来た若造に僕がどうして注意されるんだ、と。
▽社宅で部長の奥さんが周囲の部下の奥さんに威張り通しているパターンとよく似ていた。つまり親の威光をバックに、子どものアルバイトまで威張ってしまうパターンだ。トンデモナイ子どもだなと思った。
▽私の上司に文句を言った大阪本社の幹部は、裏を取ってから文句を言ったのだろうか。裏を取るなら、私に直接聞くべきだった。そうしたら、私はこう答えているはずだ。
「あなたの息子さん、ずっとサボっていますよ」
▽こう言い返してやりたかった。
▽それ以来、私は心の中で、大阪本社に対する嫌悪感を持つようになった。同じ朝日新聞でも、東京本社と大阪本社の空気も雰囲気も考え方も全く違う。
▽だからか、ある時の人事異動で大阪本社社会部に行くよう打診された時、私は、
「行きたくありません」
と即座に断った。


★186地下トンネルの秘密

▽日本は戦前、英国ロンドンの地下空間を参考に、防災的な関連から東京を中心に地下空間を造り続けていた。その空間を利用して戦後の高度経済成長時代に造成が進められてきたのが、首都圏を走る地下鉄であり首都高だった。東京にはいかに地下空間が多いかは、一部のジャーナリストや研究者が明らかにしている。
▽東京などの大都市だけではない。地方でも巨大な地下空間がある。
▽2009年8月、私は関東圏の地下空間を調べる取材に出た。うち、3カ所を報告する。
▽最初に向かったのは群馬県だった。新幹線と在来線を乗り継いで、JR上越線・土合駅に着いた。
▽私は原稿の元となるこんなメモを書いた。
《その長い階段は、新潟に向かう群馬県のJR上越線・土合駅下り線ホームから始まっていた。駅ホームは新清水トンネルの中にあり、地上の改札口に出るには、まずはこの462段の階段を上らなくてはならない。やや薄暗い、長さ338メートルのトンネルで、利用者は上っては休み、休んでは上るということを繰り返して、地上に出る。
▽昭和四十年代の登山ブームでは、朝方到着する電車からはき出されるように、谷川岳に向かう登山者の姿がこの階段にあった。日航ジャンボ機墜落事件をモデルにした小説「クライマーズ・ハイ」でも冒頭で出てくるシーンでもある。
▽夏のある日、1日5本しか止まらない同駅で降りた。観光客が数人電車に乗ってきた。夏の暑さとは無関係な、ひんやりとした空気が漂っていた。かつてのにぎわいがうそのような、非日常的な空間だった》
▽次に向かったのは、同じ群馬県南西部だった。
《その土合駅から今度は南西に向かった。同じ群馬県上野村の山奥、地下500メートルの場所に、その巨大要塞はあった。ローカル線、上信電鉄の終着駅、下仁田駅から車で一時間。何カ所かのゲートをくぐり、長い地下トンネルを車で潜っていくと、ようやくたどり着く。東京電力(当時)が「世界級」と誇る揚水型の神流川水力発電所だ。たどり着くまでの道のりは、昔のテレビドラマ「タイムトンネル」や「サイダーバード」をほうふつさせる》
▽隣の長野県南相木村を流れる信濃川系南相木川と、利根川系神流川にそれぞれダムを造り、このダムの落差653メートルを利用して、山中に造った巨大な約6キロの地下パイプに水を流して、水車を回す。2005年に第1号機が稼働。将来的には計6機を完成させる。山の中に発電所があるとは、と改めて驚く。
▽山中に造ったこの空間の広さは、戦艦大和の容量とほぼ同じ。「最新技術を駆使して完成させました。九州からも見学のお客様がきます。地下ファンにはこたえられないのでしょう」と担当者。近未来小説の都市に来たような錯覚に陥る。
▽場所を埼玉県春日部市に移した。江戸川に近い場所に、目指す地下空間はあった。埼玉県春日部市の首都圏外郭放水路だ。地底50メートルを走る世界最大今日の地下放水路だ。
▽地上の入り口から116段の階段を下りる。巨大な柱に支えられ、長さ177メートル、幅78メートル、高さ18メートルにおよぶ巨大な水槽が地下空間に広がる。豪雨時に水が入れられる。空洞はまさにパルテノン神殿だ。
▽国交省が造った首都圏外郭放水路の一部。台風や集中豪雨などで周辺流域の河川からあふれ出した洪水の水を、計5本の竪坑と直径約10メートル、全長6・3キロの地下トンネルで経由させて、この水槽にためる。そして高性能なポンプで江戸川に流す。
《全くの別世界。言葉もないまま立ちつくす》
▽日本の地下空間の開発技術は、世界でもトップ級だという。そのトップ級でも事故は起きる。東京外環道の陥没事故にしてもしかり。地下空間の危険性を侮ってはいけない。

★178勝手な解釈で攻撃する論理《「本社編」の「★075自称読者」を改稿し、新たなコラムとしてアップしました》

▽立憲民主党の衆院議員が沖縄の記者に誤った解釈でツイッターで批判されている問題を見ていて、私の話と似ているなと思った。その話をしたい。
▽私は長い間、日本の死刑制度の問題を取材してきた。
▽ある時、朝日新聞のコラムでこんな趣旨の話を書いた。
▽凶悪な殺人事件で加害者となった死刑確定囚と、被害者の遺族の関係についての論考だ。亡くなった人の人権とは、その人の名誉などであり、その被害者や遺族の救済であり、残っているのは、まだ生きている加害者の人権である、と私は指摘した。加害者にも人権がある、と書いた。極論を言えば、不幸にも亡くなった被害者にあるのは、生きるための人権ではなく、名誉を傷つけないことである。こういう趣旨を書いた。
 ▽それをインターネット上では、わざと間違えた解釈をして、 「原は、被害者に人権はないと言っている」 と強調して、拡散させていた。ネット右翼や自民党がよく使う手だ。
▽そのインターネットに載せたデタラメの解釈の文章を信じた、自称読者から電話がかかってきたのは、もう何年も前のことだ。1人勤務の支局に夜かかってきた。
▽「原を出せ」という。いきなり名指しされた私は、「その原ですが」と答えると、電話の主はこう言ってきた。
▽「事件の被害者に人権はないだと。ふざけるんじゃない」
▽相手は相当酔ってるように思えた。
▽それでも話を聞いた。上記の新聞のコラムで、それを曲解した文章が、インターネット上にあり、それを見て私に電話をしてきたのだ。
▽その読者は、その間違った解釈を見て、酔っ払って、私に電話してきたのだ。
▽私がそのコラムを書いたのは、朝日新聞東京本社時代で、10年も前の記事だ。酔っ払いの読者が電話してきたその時は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局にいた。
▽つまり私をかなり探して、電話をしてきたものだと思われる。その時点で私は3回転勤しているから、よく調べたなと思った。ご苦労様である。まっ、本社に聞けば分かるか。
▽私はこの酔っ払った自称読者に聞いてみた。
▽「私の記事がいつ出ていて、いつ読んだのですか」
▽すると相手はしどろもどろになり、読んでないことがわかった。答えが返ってこなかった。10年も前の記事を、集刷版でもない限り、すぐに読めるはずはないのだ。読んでいたのはインターネットで拡散された嘘の記事だった。
▽私はさらに聞いた。
▽「本当に朝日新聞の読者なんですか」
▽すると相手はこう答えた。
▽「昔、読者だった」
▽これを聞いて私は笑ってしまった。
▽要するに読者のふりをして、抗議をしているだけだった。
▽私は言った。
▽「きちんと朝日新聞の記事を読んでから電話してください。失礼です」
▽こういって私は電話を切った。嘘の情報で踊らされた自称読者だった。自称読者というのがかなり多いことをよくわかってきた。
▽さらに書くと、この嘘の記事を拡散したサーバーを探して、筑波大学からの発信であることも後に分かっている。高学歴の人間の方が、ネット右翼になりやすいということなのだろう。勉強になった。

★177朝日新聞幹部のスト嫌い

▽朝日新聞の幹部は、労働組合が嫌いだ。
▽特にストが大嫌いだ。
▽私が朝日新聞に入社して以来、朝日新聞労組がストを実施したのは、わずか1回。しかも30分だけだった。それも夕刊の降版作業、つまり編集作業が終了してからだから、編集部門での実害が全くない時間帯だった。
▽社内の中庭で気勢を挙げた記憶があるが、単に30分の集会をしたに過ぎない。30分職場を放棄したとしても、記者ならその30分をうまく補てんできるものだ。新聞記者の仕事とはそんなものだ。
▽それでも会社幹部は労組のメンバーに敵意をむき出しにしていたことを思い出す。それだけスト嫌いなのだ。
▽私が入社前にあったエピソードがある。大先輩から聞いた話だ。
▽労組がストを実施しようとした時、将来のエースと言われた政治部の中堅記者を強引に地方出張させたという。出張させたことで、ストに参加できなかった、イコール、ストには加わらなかった、という実績と経歴が残った。つまりある意味でのスト破りをさせたことになる。そのため、本人は出世していったというから、驚きだ。これは私の大先輩から聞いた実際の話だ。
▽スト破りでは有名な話もある。
▽労組幹部だった経済部出身の記者が、実際のストになった時に、あからさまに、ストから外れて、スト破りをやった。労組からも脱退したという。この人物、最後は社長になったのだから、労組脱退とスト破りの実績が評価されたということだろう。ここまでしないと出世できないと言うことか。
▽労組の加入も、ストの実施も労働者の権利である。そう思っているし、朝日新聞の記者は労働問題の取材でもそうした観点で記事を書いてきた。紙面もそうした視点で作ってきた。
▽しかしその新聞社幹部が、肝心の労組嫌いなのだから、どうにもならない。


★161高校野球研修

▽「オイっ、やめろよ」
▽心の中でそう叫んだが、もう遅かった。
▽実務の研修中なのに、ビールを飲んでいる若い記者がいたのだ。怒る気にもなれなかった。
▽東京ドームであったプロ野球、日本ハム対西武戦の観戦席でのことだ。私は当時、朝日新聞東京本社で高校野球を担当していた。
▽高校野球は夏の大会の場合、地方大会から始まり、都道府県の代表校が甲子園球場に参戦する。地方大会はそれぞれの支局が担当し、すべての試合を取材して網羅する。多くの地方の記者が高校野球を担当することになるが、中心記者は2年生記者で、代表校に同行するのもこの2年生記者だ。
▽このため、この東京本社管内の地方支局の2年生記者を対象にした研修を東京本社で開くことになり、この年は実際のプロ野球を見て、スコアブックに記入して、選評を書いてもらう、というスケジュールを立てていた。
▽東京本社に集まってもらい、大型バス2台をチャーターして、東京ドームに行った。
▽試合の流れと結果は忘れてしまったが、当時の西武ライオンズは黄金期の時代で、人気のチームだった。研修中の多くの記者は投手の一球一打ごとにスコアブックに記入しており、研修は順調にいくなと思っていた。
▽そんな時だった。私の座っている観客席のやや遠いところで、ビールを注文している記者がいたのだ。
「エッ、そりゃないよ」
▽そう思ったが、実は2杯目だったのだ。呆れてしまった。
▽研修とは言え、仕事中だ。トンデモナイ2年生がいるものだと思った。
▽後に聞くと、秋田支局員だという。
▽既に時遅し。ビールで酔ってしまい、仕事に支障を来すなら注意しようと思った。
▽試合が終わり、チャーターしたバスで東京本社に戻り、選評の原稿を書くよう指示した。書き上げて、ある程度の内容だったら、その日の研修は終わりにすることにした。試合が終わったのは夜で、そこから原稿を書くわけだから、研修が終わるのは夜中だ。当時はワープロでの原稿打ちで、インターネット回線もない時代だったから、ワープロで書いた原稿をフロッピーでもらった。
▽私は書き上げた2年生の原稿を点検していった。内容に問題がないなら、そのまま帰るよう指示した。
▽そして注目していた「ビール2年生」の原稿だ。
▽これが十分な内容で、何の問題もない、キチンとした原稿だった。
▽私は何も言えずに、ホテルに戻るよう指示した。
▽にしても、朝日新聞では高校野球研修があるが、サッカーにはないのはなぜなのか。時折疑問に思うことがあった。野球はスコアブックに代表されるようにデジタルで記録されるが、サッカーはいわばアナログで、数式化が出来ない。取材も原稿書きもサッカーの方が難しい。
▽主催者ではないからなのかと考えたこともある。


★159業界用語とルール

▽ヤキトリ、マグロ、コロシ、サンズイ、ヤサ、タタキ、マルヒ、ガサなど、新聞業界には独特の業界用語が存在する。
▽ヤキトリは焼死体、マグロは列車事故の轢断された遺体の一部、コロシは殺人事件、ヤサは家、タタキは強盗、マルヒは被疑者、ガサは家宅捜索という具合に、専門用語がかなりある。
▽新聞社に入ったころも、中堅になった時も、ベテランになっても、この言葉を使うことになかなか慣れなかったし、なじめなかった。女児殺人事件の記者会見で、ベテランの他社の記者が「ツッコミはなかったのか」と質問した時は、嫌悪感を持ったことを覚えている。平気でこんな残酷な言葉を使える記者にはなりたくないなと思ったものだ。
▽死者のことを「死人」(しびと)と読んでいたし、お悔やみ欄での記事でも、「死人」を使っていた。「お悔やみ」という言葉を使うようになったのは、ごく最近のことだ。
▽内勤の整理部(現編集センター)でも独特の言葉遣いがある。言葉遣いだけではなく、レイアウト上の厳格なルールも存在する。
▽アタマとはトップ記事のこと。一つの紙面で、一番大きな扱いをする記事をアタマという。カタとは2番目に大きな扱いをする記事のことだ。逆にベタ記事とは、見出しが1段扱いの小さな記事をいう。
▽煙突見出しというものもある。新聞の見出しで、縦に見出しが並んでしまうレイアウトを指す。煙突見出しは日本の新聞では邪道だとされている。
▽見出しは主見出しとそで見出しがあり、主見出しは8文字か9文字、そで見出しは10文字とほぼ決まっている。これは韻を踏むという理由から決まっているルールで、やたらに長い見出しは禁物だ。
▽だから、小説や映画、テレビで出てくる新聞紙面に、ルール破りも見出しが出てくると、この作り手は新聞を知らないなと思ってしまう。
▽では、「ノンズロ」という言葉の意味を知っている読者はいるだろうか。ノンズロとは、紙面下に占める広告を外して、新聞記事だけで紙面を組むことを言う。なぜ「ノンズロ」なのかというと、「ノン・ズロース」から略された言葉で、要するに女性の下着が下まで下がって、「ノーパン」状態から生まれた言葉だ。
「きょうの紙面はノンズロだから、派手に行くぞ」
▽こんな風に社内で使う。品がないといえば、全く品がないこんな言葉が、今でもまかり通っているはずだ。


★143サッカー用語

▽新聞社にはそれぞれ社の決まり事がある。スポーツ面を開いて、サッカーを記事を読むと、それがよく分かる。
▽朝日新聞の場合、フォワードはFW、ミッドフィルダーはMF、ディフェンダーはDFと表記する。ゴールキーパーはGKだ。
▽しかし、センターバックをCBとは書かないし、サイドバックをSBとも表記しない。
▽コーナーキックはCKと略すし、フリーキックはFKと書く。ペナルティーキックはPKと書く。
▽シャドーはシャドーだし、ボランチはボランチのままだ。
▽ボールは球と表記する。
▽これが朝日新聞の決まりだが、他紙はSBもCBも表記している社もある。
▽どこまで略するかは、社の決まり事だから、統一した表記はない。
▽最近はスポーツ新聞やインーネットにアップされた記事には、「ハーフ」とか、いろいろな言葉が出てくるが、朝日新聞では使わない。
▽かつて、古いサッカーでは、「スイーパー」というセンターバックの役割があった。GKを補佐する役割で、かなり古い言葉で、死語だったと思っていた。それが数年前に、ある現役のGKがこの言葉を使っていたので、驚いたことがある。
▽ボランチという言葉は、比較的新しい記述だ。
▽サッカー選手では普通に使われている言葉として、「仕事」という表現がある。「仕事」とは、ピッチ上での選手のプレーのことで、
「きょうの彼の仕事は十分ではなかった」
「彼は仕事をしてくれた」
というような感じで使われる。しかしこれも新聞社としては使わない。サッカーに興味ない方には、違和感を持つ言葉だろう。
▽ロスタイムという言葉はまだ新聞社で使っているが、テレビでは「アディショナルタイム」と表現するようになったのも、時代の変化か。
▽各紙のサッカー記事を比較して読んでいくと、なかなか面白いことに気づかされる。
▽ついでに書くと、他紙の中で日本経済新聞のサッカー記事が一番面白い。表現の引き出しが多くて、見事だと思うことが時折ある。あっぱれだ。

★140銭湯のペンキ絵

▽利用者の減少と後継者不足で店舗数が激減している東京都内の銭湯だが、その銭湯の湯船の壁には、必ずと言っていいほど、富士山のペンキ絵がある。なぜなのか。そんな問題意識を持って、都内の銭湯に一時期通ったことがある。
▽朝日新聞東京本社に勤務していた時、週に1回、「週刊首都圏」というページがあり、その紙面で「銭湯と富士山」というテーマで取材することになった。フィーチャー的な題材を扱うページで、そのまま私の企画が通った。こんな問題意識だった。
《銭湯と言えば、富士山の大きな絵。服を脱ぎ、裸になって湯船の向こうをのぞくと、湯煙にややぼんやりとした、大きな富士山の絵が現れる。利用者は湯船に浸かりながら、この富士山を見て安心し、汗を流し、そして心を癒すものだった。そう、少なくとも関東地方では、かつて銭湯に富士山はつきものだった。それが利用者の減少で各地の銭湯が次第に廃業に追い込まれ、富士山を掲げた銭湯も数少なくなってきた。銭湯と富士山の関係は消えゆく文化なのだろうか》
▽関係者の取材を進めた結果、以下のことが分かってきた。
▽東京都内の銭湯が加盟する都公衆浴場業生活衛生同業組合などによると、ペンキ絵のルーツは、大正時代にさかのぼる。東京・神田にあった銭湯「キカイ湯」のオーナーが、建物を建て替えた際に、子供が楽しめる何かを作ろうとしたのが発端だ。その時、依頼した静岡県掛川市出身の絵師が描いたのが、富士山だった。1912年(大正元年)のことだ。その富士山が好評で、瞬く間に関東近郊の銭湯に広がり、銭湯イコール、富士山の背景画というイメージが定着したという。
▽戦後も銭湯イコール、富士山という構図は続いた。敗戦で焼け野原になった東京の復興で、次々と開業した銭湯は、湯船の壁際に設置されたトタンの壁に、富士山の背景画を絵師に描いてもらった。富士山は銭湯のシンボルだった。風呂に浸かり、湯から上がって脱衣所でお年寄りや若者がああだ、こうだと言いながらコミュニケーションを図ってきたあの昭和30年代、40年代。まさに映画「オルウェーズ夕日の3丁目」のように、古き良き時代の舞台装置でもあった。風呂上がりに飲むのは、これまた定番のコーヒー牛乳だった。
▽では、なぜ富士山なのか。日本人の原点、シンボルだからなのか。取材のテーマに答えてくれる研究者に出会えた。庶民文化研究者だ。
▽この人によれば、背景画の富士山から流れてくる水が、あたかも湯船に注がれる感覚を持ち、それで聖なる水で身を清める気持ちになる。みそぎの意味があるという。富士山は見ていて安心するのだろう。銭湯に浸かったお年寄りが「極楽、極楽」と連発するのもそのためだ、と。
▽ところが、この銭湯イコール、富士山という構図は、実は関西などにはない。関東だけのものだそうだ。研究者さんによると、関東の銭湯の多くは、湯船が壁際にある造りをしているが、関東地方以外の銭湯は、湯船が壁際になく、中央に設置しているケースが多い。だから、関東のように壁際に背景画を描く風習がなかった。関西の銭湯は、機能性を重視して、湯船が風呂の真ん中にあって、背景画を設置しにくい。むしろタイル画が普及していったという。富士山を背景画にした銭湯は、まさに関東だけの文化だった。
▽以上のような内容の原稿を出した。これに社会部の記者が別に取材していたペンキ絵職人の話と合体して、紙面が作られた。普段は取材するようなこともないテーマの取材が出来た。それが収穫だった。

★137箱根駅伝

▽正月恒例の人気スポーツイベント、学生ランナーがタスキを繋いで東京と箱根の往復を走る箱根駅伝のロスタイムについて取材・執筆したことがある。「ロスタイム」という言葉自体、既に過去のものとなったが、取材に苦労した。
▽復路の最後の区間、10区は23.1キロの距離で、選手たちは9区からタスキを受け取って、東京・大手町のゴールに向かって走り続ける。そのコースの途中6キロの地点に踏切であり、無情にも遮断機が下りて、走りがストップを余儀なくされることが時折あった。
▽この踏切は、京浜急行蒲田第1踏切と呼ばれていた踏切で、京急蒲田駅から分岐した京急空港線にある踏切の一つだ。
▽京急側は、空港線で1998年に羽田空港へのアクセスとして羽田空港駅を開業させ、さらには2004年に羽田空港第2ビル駅もオープンさせて、輸送量も増強させた。当時、品川からは10分に1本の間隔で運転していた。道路側の第一京浜はトラック交通も多く、まさに「開かずの踏切」の代名詞と言われるようにまでなっていたが、箱根駅伝対策として、京急側は、箱根駅伝の時間帯に合わせて、数年前から電車の運行ダイヤを変更し、開かずの踏切状態にはならないよう態勢を取り始めた。
▽記録こそロスタイムとして計上されて、待ち時間はマイナス・カウントされるが、通過電車で選手の高速の走りをストップされ、選手はまずは自分のモチベーション低下と戦うことになる。ランナーは一度走りを止めると、再度の走りが出来るか不安になり、その気持ちの低下と戦わなければならない。そして後ろから迫り来るライバル選手の影に脅える。一度止まったことで走りのリズムも狂うこともあり得た。わずか数十秒とはいえ、箱根の難所とは違う戦いが続いていた。
▽私がこのロスタイムの取材をしようと考えたのは、東京都と大田区、京急の3者が始めた京急蒲田駅付近連続立体交差化工事がきっかけだった。この蒲田第1踏切も含めて周辺の計28カ所の踏切を解消する事業を進めていたためだ。ロスタイムそのものがなくなる。その泣き笑いを選手側から捉えてみたいと思った。
▽実際に10区を走った選手の中から、遮断機が下りて、走りをストップされた経験を持つ選手を探し出さないとならなかった。
▽公式記録を見ると、ロスタイムは公式記録に載らないため、予想外に探し出すことに苦労した。本社スポーツ部の担当記者にヒントをもらい、やっと2人の選手に取材することが出来た。
▽1人は大学を卒業後、郷里の秋田県に帰り、消防士になっていた。「貴重な経験でした」と語ってくれた。前方を走っているライバルの選手にあと100メートルと追いついた時に、無情にも遮断機が下りた。リスタートした時には、そのライバル選手の姿は全く見えなくなっていたという。走りのモチベーションにも影響したのだろう。まさに「魔の踏切」だった。
▽当時の写真を掲載しようと、主催者の日本テレビに申請して、数万円の使用料を支払って、記事とともに写真も掲載した。
▽そして立体交差の事業が終わり、「魔の踏切」はなくなった。ロスタイムも過去のものとなった。
▽私のこの記事が出て、1年か2年して、他社が同じような記事を載せていたことに驚いた。この選手の話を載せていたからだ。取材ではこの選手を探し出すのに苦労したというのに。完全なパクリだと思ったものだ。毎日新聞だ。

★125会社側になった気分

▽「あいつは、俺が入社させたんだ」
▽こんな自慢話をする先輩が、東京本社に何人もいた。私は、
「そうですか」
と相づちを打って、適当に流していた。
▽「俺が入社させた」
と言う意味は、こうだ。当時の朝日新聞は定期採用組みの採用試験を筆記テストと面接で行うが、その第一次面接は、中堅記者が数人出ての面談となる。面談で好印象を持てば、採用の成績が良くなる。この総合点で二次面接に進むことになる。
▽その第一次面接で高得点を出した人物が入社したので、
「自分が入社させた」
と自慢したのだろう。このうぬぼれが面白い。
▽まず第一に、この先輩1人の力で査定したのではなく、何人もの中堅記者の査定が良かったから、第一次面接を通過できたのだ。先輩1人の力ではない。
▽そして第二に問題なのは、こういう発言の裏には、私は会社側の大切な人間なのですよ、と暗に強調している節がある。会社と一体となって、私が会社側の人間なのだ、自分は偉いと自分に言い聞かせているのだ。
▽笑ってしまう。
▽そんなに会社にとって大事な人物なら、その後は社会部長に、編集局長に、そして役員になっていただろう。しかし当の本人は、社会部のデスクにもなれず、編集から離れた。こんなものなのだ。
▽採用試験に会社側として絡むと、どうしても、試験を受けた大学生に対して、上目視線になる。「俺は偉いんだぞ」と思ってしまう。これが怖い。
▽以前、どこかのマスコミの人事担当者が、女子大学生と男女関係になって、処分されたことがあったが、これに似ている。
▽「俺が入社させたんだ」
ではなく、
「俺に関係なく、成長してくれている」
と思っていれば、よろしい。


★120死刑制度

▽私が新聞記者として、現在は記録作家として、ライフワークとして取り組んできたのが日本の死刑制度問題である。今回はそのことについて触れてみたい。
▽私が日本の死刑制度に関心を持ったのは、学生時代のころだ。学生時代にフリーライターの真似事を始めており、その取材の一環として、死刑制度問題があった。
▽当時、日本では死刑確定囚の再審・無罪が続いており、その関心の延長に死刑制度問題があった。
▽国会や法務関係の資料、各種書籍、資料を集めて、関係者の取材などを通して、日本がいかに死刑制度を隠密に扱い、隠密に死刑執行を続けてきたかわかってきた。しかしその実態はよくわかっていない。そのため、手探りで各種情報を集めていた。
▽私が北海道新聞記者を経て、朝日新聞社に入社し、朝日新聞記者として死刑制度問題の取材を始めたのは、東京本社に上がってからだ。
▽実はその時、偶然だが、死刑が執行されない年月が1年、2年と続いていて、私はこれを手がかりに「死刑執行ゼロ、1000日」という記事を書いた。法務当局と死刑制度に反対する市民団体、さらには、拘置所関係者や死刑囚の支援者など関係者を回って記事に書いた。
▽日本では1989年11月を最後に死刑執行ゼロが続いていた。頻繁な内閣改造で法務大臣が何人も交代し、さらには歴代の法務大臣が死刑執行命令を拒否したことなどもあり、死刑執行がなかった。法務当局は、死刑執行ゼロの状態を苛立っていた。制度として存在させる以上、毎年1回でも良いから執行させたい、と考えていたはずだ。死刑執行ゼロを歓迎する市民団体と、執行ゼロを危険視する法務当局の水面下でのつばぜり合いが続いていた。
▽そんなことを書いた。
▽関係者の反応は予想以上だった。マスコミで死刑制度問題を正面から扱う記事は当時、ほとんどなかったからだ。
▽そんな時、別のデスクから声がかかり、死刑執行ゼロの連載記事を始めることになった。
▽私と政治部、社会部、学芸部の中堅記者を集めて、4人でチームを作り、それぞれのテーマを取材し、データを交換し、紙面で連載を開始した。
▽その連載は、後にまとめられて1冊の本になった。
▽新聞記者にとって、自分がやりたいテーマと、やることができる部署、それを提供してくれる紙面がうまく組み合わないと、タイミングはなかなか合わないものだ。例えば、死刑制度問題を取材したくても、担当部局が違ってしまえば、できないことが多い。その時の私は、たまたまデスクに恵まれ、取材チームにも恵まれていた。
▽私は北海道から九州まで、取材に回った。これが別の部署だったら、こんな取材も許してくれないだろう。もしかしたら、理解してくれないデスクなら、「そんなものは西部本社に発注すれば良い」と言われることもある。問題意識がない他人に、問題意識のあるテーマを発注するなど無理なことなのだ。
▽そして死刑執行ゼロは3年4カ月も続いた。この記録を切ったのは、当時の後藤田正晴法務大臣だった。死刑執行を再開させたのだ。このときの様子は、別の誌面に述べているが、その衝撃は忘れられない。以降、日本では毎年のように死刑執行があり、毎年のように死刑囚の命が働いている。
▽死刑制度問題は、日本の社会問題であると同時に、日本の政治問題であり、日本の文化問題でもある。
▽今でこそ死刑執行時の日時と死刑囚の名前は公表されるが、細かい事はいまだに公表されていない。しかも再審請求中の執行も増えている。ホーム当局の隠密行政はいまだに続いている。これはおかしくないのだろうか。
◎参考図書→「取材現場は地方に宿る/新聞記者 封印40年の記憶」(原裕司、東京図書出版)、「殺されるために生きるということ」(原裕司、現代人文社)



★110セクハラ

▽私が勤めていた朝日新聞で、最初のセクハラ問題となったのは、東北の盛岡支局の女性記者からの訴えだった。
▽盛岡支局のデスクからセクハラを受けている、とその若い女性記者が、いきなり東京本社の担当部長に訴えてきた。
▽当時、社内にはセクハラとか、パワハラというものがどんなものであり、どんな状態を指すのか、認識は全くなかった。認識はなかったが、会社は問題になると考えて、そのデスクを次の定期人事異動で別の支局の三席に降格した。県庁所在地の支局で、トップが支局長、次席がデスク、その下が三席だ。
▽何がセクハラだったのか。
▽その女性記者によると、耳にピアスをしていることをデスクにとがめられたことを指摘した。
「親に生んで育ててもらった身体に傷つけるなんて」
と言われたそうだ。これがセクハラだというのだ。
▽ただ、それをセクハラだとする環境があったそうだ。このデスク、支局内外で平気で下ネタをしゃべっていた。それが嫌だったらしい。そんな日常生活への不満に、ピアス発言があり、セクハラだと訴えたそうだ。
▽当時、東京本社の担当部長に直訴する行動に出るのも異例だったし、驚きだった。
▽女性の訴えは通ったのだが、悲しいのはその女性記者のその後の処遇だった。
▽次の人事で、女性はその盛岡支局から本社内勤に異動になった。何年も内勤にいた。要するに、そんな訴えをする記者は危険だとして、どの部署も女性を受け入れてくれなかったのだ。危険分子と見なされたわけだ。今だったら、その対応も問題になるところだろう。
▽そのぐらい、当時のセクハラ、パワハラに対する認識は、レベルが低かった。
▽要するに、セクハラ、パワハラは、当事者が受け入れがたい行為や発言を受けたと感じれば、成立する。その認識が朝日新聞幹部に足りなかったし、中間管理職であるデスクにも指導しなかった。
▽私もパワハラを朝日新聞社内で何回も受けてきた。しかし、当時はパワハラという認識すら、会社にはなかった。だから沈黙するしかなかった。
▽朝日新聞が制度としてハラスメント防止の対策を作り始めたのは、かなり時間が経過してからだ。
▽私に対するパワハラは、後にも詳しく記すことにしよう。
◎参照コラム→「本社編」★030「パワハラ」


★104香典

▽現職の記者やデスクが病死すると、東京本社編集局では、香典を兼ねたカンパ要請の回覧板が回ってきた。そこに自分の名前と金額を書くと、次の給料から天引きされるようになっていた。残された家族への支援を込めたもので、2000~5000円と書いて、同僚に回した。強制ではないが、ほぼ全員がカンパしていた。故人とは直接の付き合いがなくても、同じ会社の一員として、家族の支援はしようではないか、という意味合いがあった。
▽ある時のことだ。現職記者の死亡にその回覧板が回ってきた時、私より2歳年上の人間が「500円」と書いているのを見つけた。ほとんどの人間が「3000円」と書いていたし、中間職のデスクは「5000円」、部長は「1万円」と書いている中で、「500円」は目立った。
▽香典の金額は、世間相場というものがある。通常の部下同士なら当時は、「3000円」が相場だったし、知り合いではない人間だったら、「2000円」だ。だから、この「500円」は違和感を放っていた。
▽当初は間違えて書いてしまったのではないか、と思ったが、そうではないのだ。本人は「知り合いではないため」という判断したらしい。
▽強制カンパではないが、上司であるデスクがこの「500円」に気づいて、本人に注意を促した。
「いくら何でも、500円はないぞ。常識というものがある」
▽上司命令と言うより、人生の先輩として促したつもりだった。
▽しかし、本人は納得しなかった。「500円」のまま押し通した。
▽私はその先輩を見ていて、「こういう人間なんだ」と妙に納得してしまった。
▽新聞社は記者としての教育は出来るが、世間一般の常識を教育していない。だから、時折、変な性格の人間が出没する。カネにルーズな記者、時間にルーズな記者、相手をすぐ怒鳴る記者、自分の考えを部下に強制する記者など、社会人としてはかなり不適切な人間がちらほらいる。この先輩記者もその1人なのだろう。
▽こうした人間が朝日新聞を卒業したら、一般社会との付き合いが出来るのだろうか。余計な心配をしてしまう。
▽案の定、この先輩、ある程度出世したと思ったら、系列の民放に出向になったが、その民放幹部に嫌われて、しばらく出社しないで自宅待機のまま幽閉されていたらしい。



【再掲載】★032記事審

▽数年前だが、朝日新聞の女性記者が社会部から記事審査委員会に異動になり、話題になったことがある。話題と言うより、問題になったという方が正しいかもしれない。取材・執筆する部署から、内勤部門の異動で、「いじめではないか」「不当人事だ」という議論がネットでされた。記事審には定年前のベテラン記者が多いことが、その背景にあるのだろう。
▽記事審とは、記事審査委員会とか記事審査室の略称だ。自社の新聞と他社の新聞を読み比べて、自社の新聞に足りなかったこと、報じていなかったこと、誤った認識のある記事などを指摘して、社内リポートを書いていく。
▽私はわずか、2カ月だけその記事審にいたことがある。当時は編集局に属していて、当時の認識では次期デスクになるような40歳前の記者を各部署から集めていた。社会部、科学部、経済部などの中堅記者が集まっていた。だから決して定年前の部署ではなかったし、むしろ次期デスク世代を育てるための人事異動の一環とされていた。
▽記事審のメンバーの朝は早い。自宅に早朝届いた各紙を丁寧に読んでいき、メモをしていく。読み方も通常の読み方ではない。自社の記事を読んだら、次に同じ事件を他紙がどのように扱っていくかを点検していく。そして再び自社の記事を読み返して、自社の記事に足りない部分、足りない論調を指摘するため、メモにしていく。私の場合、新聞販売店に頼んで、遅くても午前4時半までに配達するようにしてもらっていた。4時半に起きて、新聞を読み続けていく。最低でも3~4時間は読んでいた。
▽そして10時半に本社に上がり、記事審の会議が始まる。7~8人のメンバーで記事審委員長かデスクかが司会となってメンバーを指名し、指名されたメンバーはこの日の紙面で気づいたことを発言する。その時にはメモが役立った。
▽提案されたそのテーマを、各自が意見を言い合い、その自社の記事について評価する。
▽そして次に別の記事について議論する。この会議が2~3時間続く。
▽最後にこの日の会議の要点をまとめて、デスクが記事審のリポートを作成し、点検していく。オーケーになった段階で記事審委員長名のリポートが完成する。
▽これを当時は編集局長室に持って行き、記事審リポートとして配布される。現在は社内ネットでメールで記者全員に配布される体制になっているようだ。
▽毎日各紙を丹念に読んでいるせいか、「読売新聞も結構いい記事を載せているな」「毎日新聞のこの記事が面白かった」という感想を持つようになった。一方で新聞漬けだったためか、一般の活字、書籍や新書を読む気力がなくなっていた。
▽だから、当時の私の認識では、不当人事の対象で全くなかった。むしろ、自社の新聞という商品を解体することで、勉強になった。


【再掲載】★030パワハラ

▽「君の人事は俺が握っているんだ。それを知っているのか」
▽ある時、かつての上司にこんなことを怒鳴るように言われたことがある。酒の席だった。
▽当時私は朝日新聞東京本社に勤務していた。その上司は支局長から本社部長になった。
▽支局出身者の飲み会の時だった。いわゆる同窓会。会話の流れで、こう言ってきた。直属の部長ではなかったが、そう脅してきた。目が座っていた。上司が人事権を盾にして、部下を脅す。まさにパワハラだった。
▽当時はまだハラスメントという言葉すらない時代で、新聞業界ではパワハラが横行していた時代だった。上司は部下に怒鳴るのは当たり前。怒鳴り散らすのが美学で、それが新聞社なんだと思っていた。上司は椅子に座って机の上に足を乗せて、今考えればやくざ風だった。吸ったたばこの吸い殻は、灰皿に入れず、ごみかごにポイ捨てしていたから、あわや火事になりそうになることも一度ではなかった。
▽人事というのは、サラリーマンには重い言葉だ。自分の一生が左右される。上司に評価されないと、自分がやりたい仕事もできなくなるし、悪くいえば左遷か窓際に異動される可能性もある。人事権を持っている上司は強いし、部下は弱い。サラリーマン記者にとって怖いのは、記者職から外されることだ。そんな先輩を私は何人も見てきた。
▽それを知って、このかつての上司は発言した。私には脅しと感じた。反論できなかった。それだけサラリーマンは弱い立場なのだ。分かってくれるだろうか。事実、その後この上司は私の直属の部長に、「原を地方に行かせたい」などと人事異動をちらつかせてきた、と後に知った。直属の部長は拒否したという。陰湿な上司だった。
▽権力を持った上司はそれを使って脅す。権力を持った人間は権力を使いたがる。
▽考えてみれば、私のサラリーマン人生は、そんな上司の権力に怯えながら過ごしていたと思う。サラリーマン記者である以上、記者職を奪われないように、うまく生き抜く術を探しながら、生きていたような気がする。
▽しかしその上司も目指した政治部長にはなれなかった。最後は系列のテレビに出向して、最後の最後は市長選に出て落ちた。そして亡くなった。
▽私にパワハラをした人間は多数いるが、ほとんどは編集からいなくなり、亡くなった。私は紆余曲折はあったが、最後まで記者だった。

【再掲載】★036ラブホテル

▽ゼネコン汚職事件が広がりを見せていた。最初の舞台になった仙台市長の逮捕、茨城県知事逮捕、さらには再び仙台市に飛び火して宮城県知事逮捕と、次々と展開する事件の拡大に、各社は振り回されていた。1993年のことだ。脱税事件で元自民党副総裁の金丸信を東京地検が略式起訴で済ませたことに世間から批判を浴びて、金丸本人を逮捕し、そこから飛び火した事件だ。
▽朝日新聞は記者を何人も仙台支局(当時)に投入した。本社からも周辺支局からも記者を集めて、事件舞台となった大手建設会社の関係者に取材を徹底させていた。各社とも仙台市長逮捕というXデーが近いことも分かっていた。ついでに書くと、仙台市長逮捕を産経新聞がスクープを取った事になっているが、これは我々に言わせると、書き得の何物でもなかった。
▽その仙台市は東北では一番の大都市だ。そして研究都市でもある。東北大学があり、数多くの学会が開かれる都市でもある。
▽ここで困ったのが、仙台市に出張で来たのに泊まるホテルがない、ということだった。学会の予定が入っていると、市内の多くのホテルが学会に出席する関係者のため予約でいっぱいになり、急な出張での予約が取れなくなった。安いビジネスホテルから、ややグレードの高いホテルまで、どこも予約が取れなくなるのだ。当時は現在のようなインターネットによる予約サイトがあるわけではなく、電話帳を片手に直接ホテルに電話し、予約を取るシンプルな方法だった。何件も電話して、部屋の空き状況を確認したが、全く予約が取れないままだった。
▽このため、我々が考えたのは、ラブホテルに泊まることだった。早い時間帯からは入れないから、仕事を終えてネオン街である国分町の居酒屋で軽く飲食をしてから、ラブホテル街を歩き、適当なホテルに入った。一杯引っかけないと、ラブホテルに行く勇気は沸かなかった。
▽居酒屋を出て、後輩記者と一緒に歩いたが、夜中に男同士が歩いてラブホテル街をさまよっている姿を勘違いされて見られたくないから、やや離れて歩いた。
「もうちょっと離れようよ」
と私は声をかけた記憶もある。そして、それぞれ別のホテルに入った。
▽その後輩、ラブホテルには結構泊まり歩いていたらしく、
「変なビジネスホテルより、設備がいいですよ」
と自慢げに話していたことを思い出す。
▽しかし、私が入ったラブホテルは、前の利用者の後始末をあまりしていなかったらしく、バスタブは汚れていたし、ベッドも整えていなかった。やはり、私には無理だと思ったものだ。
▽翌朝、早い時間帯にホテルを出て、仕事に就いた。もうこりごりだと思った。
▽そのラブホテル利用の達人であるその後輩、優秀な記者で朝日新聞ではその後、事件担当の編集委員となり、現在は大学教授として学生を指導している。



【再掲載】★007追い出し部屋

▽かなりショックを持って聞いた。
▽私が朝日新聞を退職してからの話だが、2021年秋に本社内に「業務連携支援センター」なる組織を作った。ベテラン記者を中心に強引に異動させた部署だ。翌年4月の異動では、さらにベテラン記者を地方から異動させた。
▽会社から説明を受けた人間によると、全国各地のお悔やみの原稿書きや点検、テープ起こしなど、社会部などの取材もサポートする仕事らしいのだが、記者としての取材活動は一切出来ないし、させないとした。記者として名乗ることも許されない。時間外手当も発生させない。給料もかなりの減額になる。
▽要するに、完全な窓際職場だ。私の後輩もその一員になった。
「旧国鉄の国鉄清算事業団ですよ」
と自嘲気味に言った。
▽「国鉄清算事業団」を知っている世代は、すぐに理解できるだろう。国鉄を解体し、分割・民営化に至る段階で、その方針に反対する国労組合員を中心に異動させて、洗脳教育をした部署だ。人間の尊厳を傷つけて、そして切っていった。朝日新聞が内部に作った「業務連携支援センター」もそれと同じ組織だという。別の後輩は「もう新聞記者は終わりです」とうつむいた。
▽経済部の記者は、かつて東芝が「業務センター」という名の「追い出し部屋」を作って、そこで単純労働をさせたことをなぞらえて、「第2の東芝」と揶揄した。当時の記事を見ると、朝日新聞は東芝に対して、かなり批判的な記事を書き続けていた。その東芝を批判した朝日新聞が東芝と同じ事をやり始めたわけだ。
▽そんな「追い出し部屋」をなぜ朝日新聞は作ったのか。こんな露骨な部署を朝日新聞が作るのは、おそらく初めてだろう。
▽それを説明するには、新聞業界を取り囲む環境を考えないとならない。
▽読者の新聞離れはここ数年で加速化して、部数減に歯止めがかからない。加えてインターネットの普及で、広告収入も激減している。このために人員削減に踏み切ろうとしているのだ。地方支局の記者数を減らして、支局も減らす。さらにはその地方支局で作ってきた紙面である地方版も減らす。減らす対象となったベテラン記者がこの追い出し部屋に強制的に異動させるというわけだ。
▽会社幹部の説明によると、2030年を目標に、朝日新聞デジタルの契約数を一気に増やして、主体を部数減となる紙の媒体からデジタルに移行させるという。念頭にあるのが米ニューヨークタイムズや日経だ。両社ともデジタル紙面の成功例とされていて、朝日新聞もそれに倣うらしい。
▽しかし、問題は米ニューヨークタイムズや日経とも販売店を持っていない、という点だ。朝日新聞も読売新聞も毎日新聞もそれぞれ専有の販売店を持っていて、日本独自の宅配システムを維持してきた。新聞をデジタルに移行させたとしても、その販売店とその販売システムをどう解消させていくのか、という質問には答えていない。
▽仮に販売店を切ることが出来て、朝日新聞がデジタル移行に成功したとしても、地方支局の支局数、記者数は激減するから、地方を監視する役割は出来なくなる。全国紙ではなくなり、単なる東京中心の中央紙に成り下がる。
▽朝日新聞の発行部数が600万部~700万部を維持出来たのは、地方版を拡張した戦略があったことを、会社幹部は知ろうとしない。読者は地方版があるから、契約してくれたのである。地方版を、「グリコのおまけ」と称した編集幹部がいるが、グリコのおまけは、おまけがあるから子どもは買ってくれたし、親は買い与えてくれたのだ。読者はおまけを読みたがっているのだ。
▽地本の取材網をズタズタにして、記者を切っていく。この経営方針は、何か国鉄の分割・民営化に似ている。人間の尊厳を傷つけている。
 

★098中国へ出張

▽私が中国に出張したのは1997年10月のことだ。日中国交正常化25周年を記念して、朝日新聞と外務省が共同で企画した「日中青年交流」事業の同行記者として、北京などを回ってきた。
▽日中国交正常化とは、1972年9月、当時の首相田中角栄が、日本の首相としては初めて中国を訪れて、国交を正常化させた出来事だ。この北京訪問から四半世紀という節目に、日中双方の学生を交互に派遣し、両国の友好を深めようという事業で、国内の学生約10人を募集し、朝日新聞が本社文化企画局長を団長に訪中団を結成し、訪中させた。
▽私はたまたまその同行記者として指名されて、学生らとともに北京やその周辺施設を回った。
▽10人のメンバーは各地で、学生や若手労働者と交流し、熱烈な歓迎を受けた。同時に、懇談と称された論議の場では、日中戦争の責任や歴史認識に対する考え方、そしてしばしば問題となる一部政治家の不用意な発言に話が及んだ。
▽ほとんどの場で、中国から出されたのは、「過去の歴史に対する正しい認識を」「日本側の謝罪を」という言葉だった。執拗に出される言葉に10人のメンバーには、戸惑いもあったのではないだろうか。観光気分は、あっという間に吹き飛んだに違いにない。
▽北京大学では、日中両国の学生たちが討論する場があった。中国の学生たちは、日本の戦争犯罪を指摘し、日本の学生はこれに答えて応酬するという論争がずっと続いた。通訳を通じての議論に飽きたらず、通訳抜きで直接英語で話し合うように中国側が要求。「靖国神社」「侵略」という言葉の砲撃を受けた。
▽別の場で戦争責任に話が及んだ時、「私たちだって、理解する努力をしている」と女子学生が涙ぐむ場面もあった。
▽そして議論が高じて、男子メンバーが反発もしてみせた。「では聞きますが、僕らに何をしろ、と言うのですか」。一同、シーンとしてしまった。
▽大人たちが起こした戦争責任について、それは当然知っているし、七三一部隊が中国大陸で犯した行為に代表される侵略の事実についても分かっていると発言。そして、「みんなは最初から知っていることです。退屈でした」とまでメンバーの1人は言い放った。
▽戦争責任を巡って、最後の最後までそれぞれの主張はかみ合わず、日本と中国との溝が深かったようだが、将来の両国の友好を維持するという立場は変わらなかったように思えた。
▽そう、彼らは大人たちに代わって謝罪のために来たのではない。新しい友好の道を探るために生きているのだ。
▽約1週間の訪中で、帰国時には、今度は中国から学生約10人が同じ全日空機で成田に到着し訪日し、都内を回った。朝日新聞東京本社でも再び討論の場があった。
▽最後は中国の学生に小遣いを与えて、東京・秋葉原の電脳街で買い物を楽しんでもらったことも覚えている。今となっては、中国のIT企業の躍進ぶりに驚かされるが、四半世紀前の当時は、秋葉原の電脳街で買い物をする中国学生の姿が初々しかった。
▽帰国して私は号外の2ページと特集面の見開き2ページの紙面を与えられ、訪中同行記を記事に書いた。議論の中身を紹介し、私の訪中記の最後にこう書いた
《私はこう思うのだ。彼ら彼女ら若い世代が、自分の言葉で話し、そして聞き、本音で話し合った時、初めて真の意味での日中の友好が築かれるのだろう。そしてその芽は今出始めた。新しい架け橋が築かれ始めた。それが今回の相互交流ではなかったのか》
▽社内の反響は結構あり、その紙面をもとに、朝日新聞朝刊のコラム「天声人語」、夕刊の「素粒子」に取り上げてくれたのはうれしかった。
▽たまたま偶然指名された訪中同行記者だったが、反響の大きさに驚いたのが、正直な感想だった。
▽あの時に訪問した中国の学生らは、今何を思っていて、生きているのだろうか。

★085ハイヤーで数百メートル

▽恐れ入ったと思った。
▽私が朝日新聞東京本社に勤務していた時だ。当時、環境庁(現環境省)を担当していた。記者クラブには社会部、政治部、通信部の記者がいて、それぞれ担当を決めて、取材に回っていた。
▽その日、大雨が降っていた。政治部の記者が使っているハイヤー運転手に連絡して、衆院議員会館から参院議員会館に回るよう指示した。
▽エッと私は思った。数百メートルも離れていない場所に、ハイヤーで動くのか。
▽その記者は、平然と答えた。
「雨ですから」
▽確かに雨で濡れたくない気持ちは分かる。しかし、この距離をハイヤーで移動するなんて、と思った。
▽考えれば、政治部も経済部も社会部も頻繁にハイヤーを使う。政治部などは、朝から晩まで1人1台、専有して使う。専用の運転手つき黒塗りハイヤーと考えれば、分かりやすい。
▽この感覚でハイヤー使うから、わずか数百メートルの移動でも、歩かないで、ハイヤーを利用することになる。
▽私も夜回りなどでハイヤーを使っていたが、一日中、1人の運転手を専有したことはない。
▽そういえば、以前、社会部、政治部、学芸部の記者と取材チームを組んで、新聞に連載記事を書いたことがある。その連載を終えて、打ち上げの飲み会を開いた時に、それぞれの記者がそれぞれハイヤーを使って、飲み会の場所に来ていたことがあった。そんなことが、当時はまだ許されていたということだろう。
▽日々の取材活動にハイヤーをずっと使ってしまうと、電車やバス利用がつらくなるということを知った方がいい。駅やバス停まで歩くのがしんどいのだ。私の経験だ。


★082ナンバー2斬り

▽私が朝日新聞浦和支局(当時・現さいたま総局)に勤めた後の話だ。
▽埼玉県知事が交代し、かつての取材対象だった革新県政が保守県政に変わった。その時、やや劇的な人事が行われた。これまでの革新知事の側近だった一人、広報課長が、突然のように埼玉県の第3セクター鉄道に飛ばされた。当時の広報課長は出世コースの一つだった。次の人事異動でどの部長ポストになるかも知っていたはずだ。それを本庁から外すという露骨な人事だった。本人も驚いたことだろう。
▽行政のトップが交代するということは、つまり側近だった人間も斬られるということだ。こういうことなんだ、と私は思ったものだ。
▽考えてみれば、民間企業も同じだ。
▽社長が交代すれば、側近は斬られていく。特にナンバー2の立場にいる人間は狙われていく。社長が独裁政治を長く維持したいのなら、自分の存在を脅す立場のナンバー2を斬るのは自然なことなのだ。権力を維持したいのなら、側近を斬っていくのは常套手段だ。それが独裁政治というものだ。権力のトップは部下を信用しない。それが鉄則だ。
▽朝日新聞もそうだった。私が東京本社にいた時だ。経済部出身の社長は、次期社長と目された政治部出身のナンバー2を斬って、訳の分からない子会社社長に押し込んだ。その人事にみんなが驚いた記憶がある。「彼を斬るとは」。まさかの人事だった。
▽社長という権力を維持するためには、その権力を行使して、人事力を見せつける。恐怖政治そのものだった。
▽その社長時代の朝日新聞は、社員の能力査定を大幅に給料体系に持ち込み、社員は能力査定を点ける中間職に媚を売り始めるようになった。自由な議論ができなくなるようになった。新聞記者の能力査定など、価値観の違いでプラスにもマイナスにもなる。査定に一喜一憂する記者が増えてきた。査定を高くしてもらいたい人間は中間職に反発することはなくなり、上位下達の命令系統ができた。新聞社特有の自由な社風はなくなってきた。社員は無口になった。
▽社長一人が代わるだけで、社風が変わっていくことが身にしみた時代だった。


★077セクハラと福島弁護士

▽「キスをされたんです。されそうになったのではありません」
▽私が初めて、セクハラの取材をした時、担当した弁護士にこう言われた。
▽関東北部のある会社で、上司が部下の女性社員に、セクハラ行為をした。その女性社員が上司を相手取って、裁判を起こした。まだ「セクハラ」という言葉が一般的ではない時代だった。おそらく、このセクハラ裁判は国内初めての訴訟だったはずで、この裁判以降、「セクハラ」という言葉が一般化していった。その時点では、まだ「パワハラ」という言葉もなかった。
▽私はその裁判の取材のため、担当の弁護士から話を聞いた。セクハラの実際の行為と、その問題点などを詳細に聞いていた。
▽私の認識も甘かったが、部下の女性社員に対してキスをしたことを、私は、
「キスをされそうになったんですね」
と再確認の意味で質問をした。
▽その返事が、冒頭の
「キスをされたんです。されそうになったのではありません」
という言葉だった。力強く反論された。
▽確かに、「キスをされそうになった」と「キスをされた」では、意味合いが違う。今では完全なセクハラだと分かるが、その時は、被害女性の被害状況を詳細に書くよりは、ぼかして書いた方がいいと思って、そんな再確認の質問をしたように思う。
▽職場でのセクハラは、職場の上司と部下との関係を背景に強要される行為だ。朝日新聞でも10年以上前から、デスクなどの中間職に赴く人間を対象に、セクハラ防止研修をしている。ただ、セクハラに対する認識は人によって強弱があり、セクハラ防止の講師が出席者に対して出した質問事項でも、「これがなぜセクハラになるのか」を分かっていない出席者も目立っていた。
▽私の取材に対して、「キスをされたんです」と強調してくれた当時の弁護士は、後に政界に進出した福島瑞穂だった。

★075自称読者

▽1人勤務の支局に夜、読者を称する人間から電話がかかってきた。「原を出せ」という。いきなり名指しされた私は、「その原ですが」と答えると、電話の主はこう言ってきた。
▽「事件の被害者に人権はないだと。ふざけるんじゃない」
▽相手は相当酔ってるように思えた。
▽それでも話を聞いた。私がかなり以前に書いた新聞のコラムで、それを曲解した文章が、インターネット上にあり、それを見て私に電話をしてきたのだ。
▽私はコラムで、凶悪な殺人事件で加害者となった死刑囚と、被害者の遺族の関係を書き、亡くなった人の人権とは、その人の名誉などであり、その被害者や遺族の救済であり、残っているのは、まだ生きている加害者の人権である、と私は指摘した。被害者に人権はない、とは全く書いていない。加害者にも人権がある、と書いているのだ。
▽それをインターネット上では、わざと間違えた解釈をして、
「原は、被害者に人権はないと言っている」
と強調して、拡散させていた。ネット右翼や自民党がよく使う手だ。
▽その読者は、その間違った解釈を見て、酔っ払って、私に電話してきたのだ。
▽私はそのコラムを書いたのは、朝日新聞東京本社時代で、10年も前の記事だ。酔っ払いの読者が電話してきたその時は群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局にいた。
▽つまり私をかなり探して、電話をしてきたものだと思われる。その時点で私は3回転勤しているから、よく調べたなと思った。ご苦労様である。まっ、本社に聞けば分かるか。
▽私はこの酔っ払った自称読者に聞いてみた。
▽「私の記事がいつ出ていて、いつ読んだのですか」
▽すると相手はしどろもどろになり、読んでないことがわかった。答えが返ってこなかった。10年も前の記事を、集刷版でもない限り、すぐに読めるはずはないのだ。読んでいたのはインターネットで拡散された嘘の記事だった。
▽私はさらに聞いた。
▽「本当に朝日新聞の読者なんですか」
▽すると相手はこう答えた。
▽「昔、読者だった」
▽これを聞いて私は笑ってしまった。
▽要するに読者のふりをして、抗議をしているだけだった。
▽私は言った。
▽「きちんと朝日新聞の記事を読んでから電話してください。失礼です」
▽こういって私は電話を切った。嘘の情報で踊らされた自称読者だった。自称読者というのがかなり多いことをよくわかってきた。
▽さらに書くと、この嘘の記事を拡散したサーバーを探して、筑波大学からの発信であることも後に分かっている。高学歴の人間の方が、ネット右翼になりやすいということなのだろう。勉強になった。



★070地方在住編集委員

▽朝日新聞では北海道報道部と仙台支局に、地方在住の編集委員を1人ずつ置いたことが過去にあった。地方の通信局をずっと回っていた記者で、地方記者にも希望を与えようという制度だった。
▽このうち仙台支局で抜擢されたのが、あるベテラン記者だった。各地の通信局長は羨望のまなざしで本人を見守っていた。本人もやる気満々だった。
▽しかしこの人は長く編集委員を維持できなかった。本人が原稿を書いても、本社でデスクがボツにしてしまうのだ。
「編集委員だから、地方版には書けない。本紙に書かないと」
という焦りがあった、とあとで本人から聞いたが、原稿はなかなか採用されなかった。この繰り返しが続いて、結局このベテラン記者は通常の通信局に異動になり、仙台支局の地方編集委員の制度は終わった。本人は悔しそうだった。
▽短期間で終わった本当の原因は何か。
▽私なりに解釈すると、それはその記者とデスクとの確執だった。確執と言うより、ひがみだった。
「あんな奴が編集委員になって」
というやっかみだった。それが原稿を簡単にボツにした理由だった。中身もよく見ないで、本紙に売り込むこともしなかったし、アドバイスをして、原稿の書き直しをさせて、売り込むこともしなかった。そのデスク自身も地方を回って本社のデスクになったのだが、同じような環境にいる中で、1人だけ人事で厚遇されるとやっかみが出るという、よくある話だった。デスクとしては失格だ。
▽その後、何年もたって、私が群馬県渋川市の朝日新聞渋川支局(旧渋川通信局)に転勤になった時、この元編集委員のベテラン記者も同じ県の支局にいた。編集委員時代にはまだやる気が見えたが、群馬県で再会した時は単なるベテランのおっさんになっていた。
▽定年を前に、地元の個別選挙で選挙戦になったのに、「無投票当選」という記事を書く失態を犯した。予定稿を最後確認しなかったことが原因だ。前橋総局長にかなり叱責されたらしい。
▽定年の数年後、週刊金曜日や東京新聞の読者投稿欄でその名前を何回か見つけた記憶がある。もう朝日新聞とは縁を切ったということなのだろう。しばらくして亡くなったことを知った。最後は朝日新聞を逆恨みしていたのかもしれない。

★059高校野球選抜大会

▽毎年春に阪神甲子園球場で行われる選抜高校野球大会、いわゆる春のセンバツ大会は、毎日新聞と高校野球連盟(高野連)の主催による大会だが、これに朝日新聞が後援として名前が付くようになったのは、10年近く前のことだ。
▽理由は金銭的支援だ。
▽高校野球開催は膨大なカネがかかる。毎日新聞としては持ちこたえる余裕がなくなり、朝日新聞に支援を持ちかけてきた。それを朝日新聞がオーケーした。こんな構図だ。これは朝日新聞の役員から直接聞いた話だ。毎日新聞と高野連が主催する形式は続くが、後援として朝日新聞の名前を、新聞記事に入れる、という条件で折り合った。だから毎日新聞は忠実に毎日新聞の紙面で、「朝日新聞後援」と入れている。
▽毎日新聞にとっては屈辱的だが、実はこれは読売新聞から乗っ取りされない防護策でもある。
▽夏の高校野球の紙面を、各紙見てもらえば分かるだろう。夏の高校野球は朝日新聞と高野連が主催しているのだが、地方大会でも朝日新聞と読売新聞の紙面はどちらが主催者か分からない作りをしている。地方版紙面の多くを高校野球の記事と写真で占めている。これでもか、これでもか、というほど大きな扱いだ。それだけ読売新聞は高校野球に力を入れている。否、主催者の立場を乗っ取りたい意欲をにじませている。それだけ高校野球は新聞社にとって魅力あるコンテンツなのだ。
▽その夏の紙面の勢いは、センバツでも発揮される。センバツは地方大会がないが、地元出場校の活躍をかなりの紙面を使って扱っている。
▽ただし、こうした高校野球主催者の話は、新聞業界の斜陽化でどこまで持つのかという事に行き着く。かつて朝日新聞がサッカープリンスリーグ大会の主催をしてきたが、途中で主催者を降りてしまった歴史がある。高校サッカー部とプロ配下のユースチームを戦わせる大会で、一時はかなりの紙面を使って、記事にしていた。私も朝日新聞北海道報道部にいた時に、プリンスリーグの取材をした経緯がある。それが運営を支えることが出来なくなったのだ。
▽朝日新聞にとって、高校野球の主催は、高校生の教育的な支援という名において続けてきた。それがいつか出来なくなる日が来ないことを祈りたい。

★054ビールの注ぎ方

▽私の上司に、ビールの注ぎ方にうるさい人がいた。私もその指導で、ビールの注ぎ方はうるさくなった。ビールの注ぎ方を伝授しよう。
▽東京本社に上がった時の部署の上司だ。誘われて、東京駅近くの居酒屋に連れて行かれた。
▽後に知ったことだが、有名な作家が、あの親父のビールが飲みたい、と言っていた店だった。
▽店は普通の居酒屋だった。カウンターとテーブル席があった。
▽ただし、カウンター席が違っていた。ビールの講釈が始まるのだ。
▽私たちがカウンターで生ビールを飲んでいると、カウンター越しの店主が実際にビールをグラスに注いで、うまいビールの注ぎ方を示してくれるのだ。
▽まずはグラスにゆっくりとビールを注いでいく。泡を立てない方法だ。
▽次に別のグラスに、ジャブジャブと注いでいき、グラスの中は泡がいっぱいになる方法。少しずつ泡が消えていき、泡がなくなる寸前に、再びジャブジャブと注いでいく。これを繰り返して、グラスにはビールの本体が5分の4ぐらい、泡が5分の1ぐらいになったもの。
「どちらがうまいか」
▽こう私に問いかける店主。
▽試しに飲んでみると、後者の方が断然うまいことが良かった。ジャブジャブと注いで、泡を立てて、泡がなくなったところでまた注いでいく。この方法だと必要以上の二酸化炭素を放出するので、うまいビールとなるのだ。元々ビールは保管するため、必要以上の二酸化炭素を入れており、それを泡立てて、放出させることでうまいビールが出来るのだという。
▽まさに目にウロコ。
▽グラスもやや大きなグラスの方が、泡を出しやすいし、注ぎやすいという。
▽だから、途中まで飲みかけたビールに継ぎ足すのも良くないという。
▽それ以来、私は居酒屋に入ると、店の人間が注ぐ生ビールは注文しないで、瓶ビールを注文し、グラスにビールをジャブジャブ注いで、泡を出す作業を続けるようになった。これがうまいとずっと思っている。

★048松本サリン事件

▽やはりこれは書いていた方が良いだろう。松本サリン事件のことだ。
▽1994年6月27日から翌日の28日の早朝にかけて、長野県松本市の住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布されて、7人が死亡、数百人が負傷した。当初はサリンだとは分からず、事故か事件なのか分からないまま、長野県警が被疑者不詳のまま、近くの男性宅を家宅捜索し、薬品を押収するなど、男性を容疑者扱いするマスコミ報道が加熱した事件だった。
▽当時、私は東京本社に勤務していて、事件が発生したその日の夜は泊まり勤務だった。朝刊最終版の降版時間を終えて、気持ち的にはのんびりしている時だった。デスクを相手にビールを飲みながら雑談をしていた。そんな時に長野支局から第一報が飛び込んできた。
▽「アパートで集団的なガス中毒が出ている、数人が亡くなっているようだ」
と言う内容だった。
▽既に降版時間が過ぎていて、朝刊には間に合わない。翌日の夕刊に入れる話だった。
▽その内容を聞いて、デスクは私の同僚である部下に電話をして、早朝に松本に向かうよう指示していた。既にハイヤーを確保した。そのハイヤーでそのまま行ってくれ、という内容だった。
▽当然、地元の松本支局も、そして長野支局の記者も現場に向かった。私は早朝からは泊まり明けで、夕刊の内勤に着くため、そのまま、宿泊室で眠りに入った。そして、早朝から長野支局から届いた情報や原稿を断片的に整理して、夕刊用に「松本でガス事故か」という内容の記事を書いて行った。
▽規模が大きいので、さらに応援部隊を東京本社から出すことになり、何人かが指示を受けて現場に向かった。私は泊まり明けの内勤のために、現地から届いた原稿を整理する役目だった。
▽事件なのか事故なのか、原因はわからない。しかし集団で人が亡くなっている。ガス事故なのか、それとも事件性が高いのか、その時は全くわからなかった。
▽夕刊の早版が終わり、その記事を見た編集長役の編集局次長が私のところに来て、もっとおどろおどろしく書け、と言ってきた。通常の事件事故ではないようなので、ミステリー性を入れろ、という指示だった。私は原稿を夕刊最終版に向けて記事を作り直していった。
▽一方で現地では濃霧がひどくて、東京本社からのヘリが降りることができず、地元新聞の写真を共同通信経由で買って、紙面化することにした。現地からの写真が間に合わなかったのだ。
▽夕刊作業が終わったことで、私の初日の松本サリン事件の内勤作業は終わった。そして事件担当者に引き継ぎをして、私はこれ以降、松本サリン事件に取材することはなかった。男性が逮捕された場合に備えて、その予定稿を私の同僚が作り始めていることも知ったが、担当していないので、詳しくは聞かなかった。しかしその後、警察庁情報に大きく左右されて、男性容疑者説に大きく傾いていったことを知ったのは、かなり後になってからだった。


★042ヒラメデスク

▽私が朝日新聞本社に勤務していた時、嫌いなデスクに対して仲間内で呼んでいたあだ名の一つに、「ヒラメデスク」という言葉があった。今回はこの言葉を解説しよう。
▽まず、「デスク」という人物がどういうものかを説明する必要があるだろう。
▽新聞社でデスクというのは、部下の記者から集まった原稿を取捨選択し、その日に組む、つまり翌日の紙面を作る専任者のことだ。どういう原稿を使って、どういう原稿を落としていくか。紙面をどう構成しているかを決める人間だ。使う原稿と使わない原稿を決めて、紙面を作る。本社の社会部だと、社会部長の下に部長代理、そしてデスクである部次長が何人もいる。
▽また地方の県庁所在地の総局ならば、総局長の下にデスクがいる。県内の記者から集まった原稿を取捨選択し、添削し、手を入れて、記事にしていく。デスクとは総局ではナンバー2の立場にある。
▽つまりデスクとは、人事権を持つ総局長や部長に近い立場なのである。
▽逆に言えば、デスクとはサラリーマン新聞社にとって、出世の第一歩となる地位にある。
▽サラリーマン記者にとって、ヒラの記者からキャップ、デスクと出世していくが、デスクは中間職の第一歩である。
▽さらに上を目指すとすれば、デスクの次は本社部長、そして、編集局次長、編集局長、と階段を上っていくことになる。
▽出世を意識すると、常に上を見ることになる。上を見ると言う事は、「ヒラメ」になると言うことだ。
▽ここで、「ヒラメ」という言葉も説明しなくてはいけない。ヒラメとは魚のヒラメだ。あのちょっと変わった体型を思い出してわかるだろう。上しか見ることができない体型なのだ。つまりヒラメとは、部下のことには関心を示さず、上ばっかり見ている人間を指す言葉だ。つまり出世ばっかり気にしてることを「ヒラメ」と言うのである。
▽だから「ヒラメデスク」というのは、上ばっかり見て、出世ばっかり気にしていることを指摘するのである。
▽私が東京本社にいた時、こういうデスクが結構いた。部下の仲間内では、「ヒラメデスク」とあだ名で呼んでいた。
▽そう指摘されたデスクは、本人は「俺はヒラメではない」と開き直っていたことを思い出す。心の中で笑った記憶がある。
▽新聞記者も人の子。出世競争に巻き込まれると、「ヒラメ」となり、部下のあら探しをして、出世したくなるものだということを、何回も何回も体験した。ねっ、Sさん、Tさん、Oさん(本人の名誉のため、本名は今回避けましょう)。

★036ラブホテル

▽ゼネコン汚職事件が広がりを見せていた。最初の舞台になった仙台市長の逮捕、茨城県知事逮捕、さらには再び仙台市に飛び火して宮城県知事逮捕と、次々と展開する事件の拡大に、各社は振り回されていた。1993年のことだ。脱税事件で元自民党副総裁の金丸信を東京地検が略式起訴で済ませたことに世間から批判を浴びて、金丸本人を逮捕し、そこから飛び火した事件だ。
▽朝日新聞は記者を何人も仙台支局(当時)に投入した。本社からも周辺支局からも記者を集めて、事件舞台となった大手建設会社の関係者に取材を徹底させていた。各社とも仙台市長逮捕というXデーが近いことも分かっていた。ついでに書くと、仙台市長逮捕を産経新聞がスクープを取った事になっているが、これは我々に言わせると、書き得の何物でもなかった。
▽その仙台市は東北では一番の大都市だ。そして研究都市でもある。東北大学があり、数多くの学会が開かれる都市でもある。
▽ここで困ったのが、仙台市に出張で来たのに泊まるホテルがない、ということだった。学会の予定が入っていると、市内の多くのホテルが学会に出席する関係者のため予約でいっぱいになり、急な出張での予約が取れなくなった。安いビジネスホテルから、ややグレードの高いホテルまで、どこも予約が取れなくなるのだ。当時は現在のようなインターネットによる予約サイトがあるわけではなく、電話帳を片手に直接ホテルに電話し、予約を取るシンプルな方法だった。何件も電話して、部屋の空き状況を確認したが、全く予約が取れないままだった。
▽このため、我々が考えたのは、ラブホテルに泊まることだった。早い時間帯からは入れないから、仕事を終えてネオン街である国分町の居酒屋で軽く飲食をしてから、ラブホテル街を歩き、適当なホテルに入った。一杯引っかけないと、ラブホテルに行く勇気は沸かなかった。
▽居酒屋を出て、後輩記者と一緒に歩いたが、夜中に男同士が歩いてラブホテル街をさまよっている姿を勘違いされて見られたくないから、やや離れて歩いた。
「もうちょっと離れようよ」
と私は声をかけた記憶もある。そして、それぞれ別のホテルに入った。
▽その後輩、ラブホテルには結構泊まり歩いていたらしく、
「変なビジネスホテルより、設備がいいですよ」
と自慢げに話していたことを思い出す。
▽しかし、私が入ったラブホテルは、前の利用者の後始末をあまりしていなかったらしく、バスタブは汚れていたし、ベッドも整えていなかった。やはり、私には無理だと思ったものだ。
▽翌朝、早い時間帯にホテルを出て、仕事に就いた。もうこりごりだと思った。
▽そのラブホテル利用の達人であるその後輩、優秀な記者で朝日新聞ではその後、事件担当の編集委員となり、現在は大学教授として学生を指導している。


★034アルバイトにいじめられた

▽私が朝日新聞東京本社で高校野球担当をしていた時、嫌な出来事があった。夏の甲子園大会に出張中、アルバイトから陰湿ないじめを受けた。本当に酷かった。今振り返っても不愉快だが、記しておく。
▽夏の高校野球甲子園大会で出張に来ていた。朝日新聞と高野連主催の大会で、全国の都道府県大会を勝ち抜いた代表校と同行してきた全国の担当支局員が甲子園球場に集まっていた。支局員たちは東京、名古屋、大阪、西部の本社ごとに分かれて、チームを組み、取材を続けていた。
▽甲子園球場の中には大会中、そうした支局員たちが原稿を書く朝日新聞専用のブースがあり、そこで支局員は取材メモを片手に原稿を書いていた。
▽当時はまだパソコンなどなく、インターネットもなく、ワープロで原稿を書いて、それをフロッピーで保存し、サブデスクである私にフロッピーを手渡すやり方だった。私はそのフロッピーを自分のワープロで読み込んで、原稿を手直ししていった。
▽そして手直しをした原稿が入ったフロッピーを、ブース内に陣取っていた制作部に手渡し、制作部がそれを本社のホストコンピューターに送信していた。
▽問題は、私が手直しした原稿が入ったフロッピーを、制作部に渡すアルバイトだった。本社では原稿係と呼ばれる学生のアルバイトだった。
▽フロッピーを運ぶだけだから、それ以外は暇そうにしていた。お菓子を食べながら、雑談をしていた。
▽こちらは東京本社管内の支局員の原稿を処理しているのに、フロッピーを運ぼうとしない。仕方ないが、アルバイトに注意した。
「このフロッピー、早く持って行って」
▽怒鳴ったわけではない。注意しただけだ。
▽それが翌日、私の上司であるデスクに注意された。
「原君、アルバイトに怒鳴ったらしいが、良くない」
▽エッと私は思った。あんなことで、怒鳴ったことになるのか。
▽しかし、よくよく聞いてみると、アルバイト学生のすべてが、大阪本社編集幹部の子どもだったことが分かった。僕が注意されたのが気に入らなくて、親に告げ口をして、それを東京から来たデスクに親が文句を言ったのだろう。次第に話が大袈裟になるパターンだった。
▽つまり、こうだ。うちのお父さんは大阪本社の部長をしているんだ、えらいんだぞ、それを東京本社から来た若造に僕がどうして注意されるんだ、と。
▽社宅で部長の奥さんが周囲の部下の奥さんに威張り通しているパターンとよく似ていた。つまり親の威光をバックに、子どものアルバイトまで威張ってしまうパターンだ。トンデモナイ子どもだなと思った。
▽私の上司に文句を言った大阪本社の幹部は、裏を取ってから文句を言ったのだろうか。裏を取るなら、私に直接聞くべきだった。そうしたら、私はこう答えているはずだ。
「あなたの息子さん、ずっとサボっていますよ」
▽こう言い返してやりたかった。
▽それ以来、私は心の中で、大阪本社に対する嫌悪感を持つようになった。同じ朝日新聞でも、東京本社と大阪本社の空気も雰囲気も考え方も全く違う。
▽だからか、ある時の人事異動で大阪本社社会部に行くよう打診された時、私は、
「行きたくありません」
と即座に断った。


★032記事審

▽数年前だが、朝日新聞の女性記者が社会部から記事審査委員会に異動になり、話題になったことがある。話題と言うより、問題になったという方が正しいかもしれない。取材・執筆する部署から、内勤部門の異動で、「いじめではないか」「不当人事だ」という議論がネットでされた。記事審には定年前のベテラン記者が多いことが、その背景にあるのだろう。
▽記事審とは、記事審査委員会とか記事審査室の略称だ。自社の新聞と他社の新聞を読み比べて、自社の新聞に足りなかったこと、報じていなかったこと、誤った認識のある記事などを指摘して、社内リポートを書いていく。
▽私はわずか、2カ月だけその記事審にいたことがある。当時は編集局に属していて、当時の認識では次期デスクになるような40歳前の記者を各部署から集めていた。社会部、科学部、経済部などの中堅記者が集まっていた。だから決して定年前の部署ではなかったし、むしろ次期デスク世代を育てるための人事異動の一環とされていた。
▽記事審のメンバーの朝は早い。自宅に早朝届いた各紙を丁寧に読んでいき、メモをしていく。読み方も通常の読み方ではない。自社の記事を読んだら、次に同じ事件を他紙がどのように扱っていくかを点検していく。そして再び自社の記事を読み返して、自社の記事に足りない部分、足りない論調を指摘するため、メモにしていく。私の場合、新聞販売店に頼んで、遅くても午前4時半までに配達するようにしてもらっていた。4時半に起きて、新聞を読み続けていく。最低でも3~4時間は読んでいた。
▽そして10時半に本社に上がり、記事審の会議が始まる。7~8人のメンバーで記事審委員長かデスクかが司会となってメンバーを指名し、指名されたメンバーはこの日の紙面で気づいたことを発言する。その時にはメモが役立った。
▽提案されたそのテーマを、各自が意見を言い合い、その自社の記事について評価する。
▽そして次に別の記事について議論する。この会議が2~3時間続く。
▽最後にこの日の会議の要点をまとめて、デスクが記事審のリポートを作成し、点検していく。オーケーになった段階で記事審委員長名のリポートが完成する。
▽これを当時は編集局長室に持って行き、記事審リポートとして配布される。現在は社内ネットでメールで記者全員に配布される体制になっているようだ。
▽毎日各紙を丹念に読んでいるせいか、「読売新聞も結構いい記事を載せているな」「毎日新聞のこの記事が面白かった」という感想を持つようになった。一方で新聞漬けだったためか、一般の活字、書籍や新書を読む気力がなくなっていた。
▽だから、当時の私の認識では、不当人事の対象で全くなかった。むしろ、自社の新聞という商品を解体することで、勉強になった。

★030パワハラ

▽「君の人事は俺が握っているんだ。それを知っているのか」
▽ある時、かつての上司にこんなことを怒鳴るように言われたことがある。酒の席だった。
▽当時私は朝日新聞東京本社に勤務していた。その上司は支局長から本社部長になった。
▽支局出身者の飲み会の時だった。いわゆる同窓会。会話の流れで、こう言ってきた。直属の部長ではなかったが、そう脅してきた。目が座っていた。上司が人事権を盾にして、部下を脅す。まさにパワハラだった。
▽当時はまだハラスメントという言葉すらない時代で、新聞業界ではパワハラが横行していた時代だった。上司は部下に怒鳴るのは当たり前。怒鳴り散らすのが美学で、それが新聞社なんだと思っていた。上司は椅子に座って机の上に足を乗せて、今考えればやくざ風だった。吸ったたばこの吸い殻は、灰皿に入れず、ごみかごにポイ捨てしていたから、あわや火事になりそうになることも一度ではなかった。
▽人事というのは、サラリーマンには重い言葉だ。自分の一生が左右される。上司に評価されないと、自分がやりたい仕事もできなくなるし、悪くいえば左遷か窓際に異動される可能性もある。人事権を持っている上司は強いし、部下は弱い。サラリーマン記者にとって怖いのは、記者職から外されることだ。そんな先輩を私は何人も見てきた。
▽それを知って、このかつての上司は発言した。私には脅しと感じた。反論できなかった。それだけサラリーマンは弱い立場なのだ。分かってくれるだろうか。事実、その後この上司は私の直属の部長に、「原を地方に行かせたい」などと人事異動をちらつかせてきた、と後に知った。直属の部長は拒否したという。陰湿な上司だった。
▽権力を持った上司はそれを使って脅す。権力を持った人間は権力を使いたがる。
▽考えてみれば、私のサラリーマン人生は、そんな上司の権力に怯えながら過ごしていたと思う。サラリーマン記者である以上、記者職を奪われないように、うまく生き抜く術を探しながら、生きていたような気がする。
▽しかしその上司も目指した政治部長にはなれなかった。最後は系列のテレビに出向して、最後の最後は市長選に出て落ちた。そして亡くなった。
▽私にパワハラをした人間は多数いるが、ほとんどは編集からいなくなり、亡くなった。私は紆余曲折はあったが、最後まで記者だった。


★027デスクの遅刻

▽「明日までに原稿を書き直してくるように」
▽私は直属のデスクにこう言われた。東京本社に勤務している時だった。私はその場で原稿を書き直してから、深夜に帰宅し、翌朝会社に出てきた。早く原稿を見てもらおうと、思っていた。
▽私はデスク席の横に座り、デスクが来るのを待った。
▽しかし、昼になっても現れない。午後2時になり4時になり、夕方になっても来ない。私はずっと待った。やっと本社に出てきたのは、何と夜の9時だった。そこで初めて私が書き直した原稿を見始めた。
▽信じられるだろうか。朝日新聞の人間は、こうした世間常識では考えられないような時間帯に出勤してくる人間が時折いる。1人だけの仕事なら構わないが、チーム取材なので、誰かが1人、仕事に着手するのが遅れれば、チーム全体に迷惑がかかる。
▽私は朝日新聞に入社した時、朝日新聞の者は夜遅くまで働く、という感想を私は持っていた。夜回りをして、夜回りノートを書き、テスクに報告し、そして引き揚げるから、帰宅するのは深夜の深夜だ。
▽それが普通だと私はずっと思っていた。
▽しかし実は、中堅となってくると夜の仕事は遅くても、次の日に出勤してくる時間が遅いのだ。深夜までいくら遅くまで仕事をしても、翌日会社に出てくるのは昼過ぎ、というのはよくある話だった。つまり夜遅くまで働いていても、翌日、出てこないのだから、労働時間は大して変わりはない。翌日寝坊しているだけに過ぎない。
▽夜遅くまで働いているのは立派だが、朝から夜まで働いているわけではないのだ。
▽これは本社だけではない。国政選挙になると、県庁所在地の総局には選挙事務を担当する事務局長が指名されるが、これも夜遅くまで仕事がつ尽く。深夜まで内勤の仕事が連日続く。大変な作業だ。しかし、翌日は昼過ぎまで出勤してこない。本社の選挙事務局の仕事に合わせて、やりとりをするから、深夜まで仕事が続くが、翌日は本社の人間も総局の人間も寝坊しているだけなのだ。
▽私が選挙報道の問い合わせをしても、午前中に電話に出てくれることは一度もなかった。
▽朝日新聞記者の働き方は、世間とはずれている。


★025社員食堂とタイ米

▽1993年のコメ不足騒動を覚えているだろうか。冷夏の影響で国内のコメ生産が大打撃を受けて、日本が米国、中国、タイからコメを緊急輸入した出来事を指す。かなり深刻な事態だった。
▽影響は朝日新聞東京本社の社員食堂でもあった。問題になったのだ。
▽社員食堂で、夜以降の食事にこっそりとタイ米を使っていたのだ。昼の食事には国内米を使っていたが、何の説明もなく、料金変更もなく、夜以降だけタイ米に変更されていた。
▽国内米とタイ米は似ているようで全く違う、大きさも違う。調理方法も違う。違うのに、同じ調理方法で売り出していたからたまらない。まずいのだ。
▽苦情が出始めた。やがて労働組合も動き出して、会社総務部門に追求する事態になった。
▽しかし、総務部門の担当者はタイ米が使われている事実を否定し、話は平行線になった。
▽何回も何回も追求し、話が平行線になっている原因が分かった。
▽総務部門の担当者は日中の勤務だ。朝に出勤して夕方帰る。夜の勤務はない。だから昼の社員食堂しか使ったことがなかったのだ。
▽当時の社員食堂は、関連会社が経営していた。新聞社は全社的に見ると24時間、どこかの部門で必ず稼働しているから、東京本社の社員食堂も午前中から深夜まで稼働するシステムになっている。関連会社は総務部門の社員が利用する昼の時間帯だけ、国内米を使って、総務部門の社員をごまかしていた。なんとまあ、小ずるいこと。呆れてしまった記憶がある。
▽このことが明らかになって、本社はこの関連会社との契約を打ち切った。数十年も契約していたのに、せこい方法で夜の食事をごまかそうとした結果だった。
▽その後、社員食堂は外部の専門業者の経営に変わり、さらに別会社に移った。
▽別会社経営になった社員食堂で夜、私も何回か利用したが、シチューの中に死んだゴキブリが入っているのを見て、二度と利用しまいと思った。ウエッ。


★017朝日新聞政治部

▽朝日新聞政治部や特別報道部のデスクを務めた人物が書いた著書「朝日新聞政治部」は、朝日新聞OBでもある私にもかなり刺激的な内容だった。私はネットにアップされたものを読んだに過ぎないが、良くも悪くも、悪い意味で参考になった。
▽福島原発に絡む「吉田調書」スクープ問題、過去の韓国慰安婦に絡む「吉田証言」問題、そして池上彰氏のコラム問題の3点セットが朝日新聞を襲い、特に右派マスコミ、政権から攻撃をされ、最終的に当時の社長が辞任する内部の話を綴っていて、3点セット事件の時は地方にいた私は「そうだったのか」と今さらながら、当時の社内事情を思い浮かべた。
▽この著書では、「吉田調書」スクープ問題を誤報だと断じて、社長が記事を取り消すとしたことを問題視している。本質は「吉田証言」と池上コラムであって、これを無視して、「吉田調書」スクープ問題をスケープゴートにしたと強調している。
▽確かに、筆者の主張に納得出来るものはある。
▽しかし当時の紙面で私が感じたのは、原発事故で、「命令に背いて逃げ出した」という所員の証言が全く取れないまま、掲載したことだ。裏付けする証言が、あの記事にはなかった。一方的な検察官調書をそのまま掲載したようなもので、裏を取らないまま、記事にしたことに、当時、私は違和感を覚えた記憶がある。そうであるなら、「吉田調書」そのものをそのまま掲載すれば、問題にはならなかったかもしれないだろう。ストーリーのある作文を作ってしまったことが問題なのだ。
▽その点について、この著者はそうした意識がないように思える。
▽そしてこんなことを、本人が書いていることに違和感を持った。
《私は27歳で政治部に着任し、菅直人、竹中平蔵、古賀誠、与謝野馨、町村信孝ら与野党政治家の番記者を務めた。39歳で政治部デスクになった時は「異例の抜擢」と社内で見られた。その後、調査報道に専従する特別報道部のデスクに転じ、2013年には現場記者たちの努力で福島原発事故後の除染作業の不正を暴いた。この「手抜き除染」キャンペーンの取材班代表として新聞協会賞を受賞した。
朝日新聞の実権を握ってきたのは政治部だ。特別報道部は政治部出身の経営陣が主導して立ち上げた金看板だった。私は政治部の威光を後ろ盾に特別報道部デスクとして編集局内で遠慮なく意見を言える立場となり、紙面だけではなく人事にまで影響力を持っていた。それが一瞬にして奈落の底へ転落したのである》
▽そんなに朝日新聞の中で政治部が偉いのだろうか。
▽こういう感覚を、確かに政治部の一部の記者、一部の幹部は持っていた。政治部が一番偉い、とうぬぼれていた。
▽政治部が朝日新聞の実権を握っているとしても、朝日新聞を支えているのは、すべての記者であり、全社員であり、読者であることを忘れている。
▽この筆者に同情や同感をする人間が、社内にはどれだけいるのだろうか。


★007追い出し部屋

▽かなりショックを持って聞いた。
▽私が朝日新聞を退職してからの話だが、2021年秋に本社内に「業務連携支援センター」なる組織を作った。ベテラン記者を中心に強引に異動させた部署だ。翌年4月の異動では、さらにベテラン記者を地方から異動させた。
▽会社から説明を受けた人間によると、全国各地のお悔やみの原稿書きや点検、テープ起こしなど、社会部などの取材もサポートする仕事らしいのだが、記者としての取材活動は一切出来ないし、させないとした。記者として名乗ることも許されない。時間外手当も発生させない。給料もかなりの減額になる。
▽要するに、完全な窓際職場だ。私の後輩もその一員になった。
「旧国鉄の国鉄清算事業団ですよ」
と自嘲気味に言った。
▽「国鉄清算事業団」を知っている世代は、すぐに理解できるだろう。国鉄を解体し、分割・民営化に至る段階で、その方針に反対する国労組合員を中心に異動させて、洗脳教育をした部署だ。人間の尊厳を傷つけて、そして切っていった。朝日新聞が内部に作った「業務連携支援センター」もそれと同じ組織だという。別の後輩は「もう新聞記者は終わりです」とうつむいた。
▽経済部の記者は、かつて東芝が「業務センター」という名の「追い出し部屋」を作って、そこで単純労働をさせたことをなぞらえて、「第2の東芝」と揶揄した。当時の記事を見ると、朝日新聞は東芝に対して、かなり批判的な記事を書き続けていた。その東芝を批判した朝日新聞が東芝と同じ事をやり始めたわけだ。
▽そんな「追い出し部屋」をなぜ朝日新聞は作ったのか。こんな露骨な部署を朝日新聞が作るのは、おそらく初めてだろう。
▽それを説明するには、新聞業界を取り囲む環境を考えないとならない。
▽読者の新聞離れはここ数年で加速化して、部数減に歯止めがかからない。加えてインターネットの普及で、広告収入も激減している。このために人員削減に踏み切ろうとしているのだ。地方支局の記者数を減らして、支局も減らす。さらにはその地方支局で作ってきた紙面である地方版も減らす。減らす対象となったベテラン記者がこの追い出し部屋に強制的に異動させるというわけだ。
▽会社幹部の説明によると、2030年を目標に、朝日新聞デジタルの契約数を一気に増やして、主体を部数減となる紙の媒体からデジタルに移行させるという。念頭にあるのが米ニューヨークタイムズや日経だ。両社ともデジタル紙面の成功例とされていて、朝日新聞もそれに倣うらしい。
▽しかし、問題は米ニューヨークタイムズや日経とも販売店を持っていない、という点だ。朝日新聞も読売新聞も毎日新聞もそれぞれ専有の販売店を持っていて、日本独自の宅配システムを維持してきた。新聞をデジタルに移行させたとしても、その販売店とその販売システムをどう解消させていくのか、という質問には答えていない。
▽仮に販売店を切ることが出来て、朝日新聞がデジタル移行に成功したとしても、地方支局の支局数、記者数は激減するから、地方を監視する役割は出来なくなる。全国紙ではなくなり、単なる東京中心の中央紙に成り下がる。
▽朝日新聞の発行部数が600万部~700万部を維持出来たのは、地方版を拡張した戦略があったことを、会社幹部は知ろうとしない。読者は地方版があるから、契約してくれたのである。地方版を、「グリコのおまけ」と称した編集幹部がいるが、グリコのおまけは、おまけがあるから子どもは買ってくれたし、親は買い与えてくれたのだ。読者はおまけを読みたがっているのだ。
▽地本の取材網をズタズタにして、記者を切っていく。この経営方針は、何か国鉄の分割・民営化に似ている。人間の尊厳を傷つけている。